第 35輯 2010年 度 國學 院 大學博物館 学研 究 室 Bulletin of IIIuseologyKokugakuin University HAKUBUTUKANGAKU… KIY0 CONTENTS Practice and process of the High Education program on MuseoloCy:AN Adoption Subject of the Programfor EnhancingSystematicEducation in GraduateSchools by Ministry of Education,Culture,Spots,Science and T e c h n o l o g yi n 2 0 0 9 Promotionand current state of established museun p l a n i n C h i b aP r e f e c t u r e ....A0KI yutaka ...... 1 .....MAEKAW M aAs a h i d e . . . . .1. 9 YamatakaNobuakira and his Work - SamuraibecameMuseum Director KODERA Akihiro...... 39 K E I T A RM 0 I Y A M 0 Ta0n d M u s e o l o s .y. . . . . . . . . T r a d i t i o n a l p r e s e r v a t i o nm e t h o do f m a t e r i a l . . . . . . . . . . . . . . . . . 0 C H I AT I o m o k o . . . . 6. .3 . . O H T A NAI y u m .i . . . . . T L An introduction to scroll display KAWAINanase...... 83 The Activities for SpereadingEducation at museum and the Trial of Raising particular Volunteers - Especially throughMatchlock GunParty and SamuraiParade- ....K0NISHI Masanori...... gT The reconsideration of an open air museum. - Makinga clear distinction ,,An between openair museum of remains"and"An openair museum .......SAIT0UChiaki ......12J of private house,,. A study of the barrier-free desisn for Open Air Museum A cOnsideratiOn Of COncert in Museum… BUNGAKUKAN in tOwn promOtiOn・ Museum law in Korea・ NAKAMURA Chie......133 …・ …・ ¨・ ……・ ……・ ・ …・ ・ …・ …・ ・ 、 L4TSUBAYASHI Yuki・ ・ ・ ・ ・ ・ 145 ・ ………・ ……….………….……・ ………………・ ¨…・ ……・wATANABE Mai… …・ ・ 157 …・ ・ ・ ・ ………・ ……・ …・ ・ ・ ・ …・ …・ ・ ¨…………………………………………。 L E E M 0 0 n 」 a ・……・ 167 │ 組 織 的 な大 学 院教 育 平成 21年 度 文 部 科 学省 「 改革推 進 プ ロ グ ラ ム 」採 択 に よる高度博物館 学 教 育 に至 る経 緯 と実践 Practice and process of the High Education Program on Museology:AN Adoption Subject of the Program for Enhancing Systematic Education in Graduate Schools by Ministry of Education,Culture,Spots,Science and Technology in 2009 山皇 青木 AOKI Yutaka は じめ に 我 が 国 の 博 物 館 の 現 状 は 、 低 迷 す る 日本 経 済 の 中 で 、 指 定 管 理 者 制 度 の 導 入 や 団 塊 の 世 代 の 集 団 と も 言 え る 定 年 退 職 者 に 対 す る補 充 問 題 、 更 に は 市 町 村 合 併 に よ る混 乱 、 私 立 博 物 館 に あ つ て は 公 益 法 人 改 革 に よ る 一 般 社 団 法 人 。一 般 財 団 法 人 へ の 移 行 等 々 で 混 迷 を 来 た して い る の が 現 状 で あ る 。 しか し 、 こ の 博 物 館 の 混 迷 は 社 会 の 変 革 に の み 原 因 と す る の で は な く、 次 の 二 点 が 抜 本 的 原 因 で あ る と考 え られ る の で あ る 。 1、 博 物 館 法 及 び 関係 法 規 の不 整 備 な 点 2、 博 物 館 運 営 者 の博 物 館 学 意 識 が脆 弱 で あ る点 博 物 館 法 及 び 関 係 法 規 の 不 整 備 な 点 は 、 社 会 教 育 法 の 精 神 に 基 づ く社 会 教 育 機 関 で あ る 博 物 館 に 、 費 用 対 効 果 の 判 断 基 準 が 採 り入 れ られ る 唯 一 最 大 の 原 因 で あ る博 物 館 館 法 第 2 3 条 ( 入館 料 等 ) や 、 第 2 点 の 根 幹 に 関 与 す る 問 題 で 別 稿 許1 で 記 した 無 資 格 者 の 博 物 館 へ の 配 置 を 可 能 と して い る館 法 第 6 条 の 不 適 切 さ は 基 よ り、 最 大 の 原 因 は 昭 和 4 8 年 の 文 部 省 告 知 の 「公 立 博 物 館 の 設 置 及 び 運 営 に 関 す る基 準 」 ( 通称 4 8 基 準 ) が 平 成 1 5 年 6 月 に廃 止 され た こ と に 起 因 して い る も の と考 え られ る の で あ る 。 つ ま り、 改 正 され た 「公 立 博 物 館 の 設 置 及 び 運 営 上 の 望 ま し い 基 準 」 の 内 容 の 空 洞 化 が 直 裁 的 な原 因 とな って い ると看 取 され るので ある。 1 、博 物 館 法 及 び 関 係 法 規 の 不 整 備 な点 不 具 合 を代 表 す る条 文 として 博 物 館 法 第 2 3 条 ( 入館 料 等 ) が 、先 ず 挙 げ られ る。公 立 博 物 館 の 入 館 料 等 の 施 設 の 利 用 に つ いて は 、博 物 館 法 第 2 3 条 の 条 文 で 記 され ているこ とは周 知 の 通 りであるが再 度 確 認 す ると下 記 の 如 くである。 ( 入館 料 等 ) 第 2 3 条 公 立 博 物 館 は 、入 館 料 そ の 他 博 物 館 資 料 の 利 用 に対 す る対 価 を徴 収 し て はな らな い 。但 し、博 物 館 の 維 持 運 営 のため にや む を得 な い 事 情 の ある場 - 1 - 平成 21年度文部科学省 「 組織的な大学院教育改革推進プログラム」採択による高度博物館学教育に至る経緯と実践 合 は 、必 要 な対 価 を徴 収 す ることができる。 当該 条 文 の 構 成 は 、法 学 で 言 う「 原 則 と例 外 」の 両 面 を合 わせ 持 った条 文 である点 を 最 大 の 特 徴 とす る。この 意 味 で共 に社 会 教 育 法 を親 法 とす る図 書 館 法 の 第 1 7 条 ( 入館 料 等 ) とは基 本 的 に 異 なる思 想 によるものと判 断 され るので ある。当 然 のことながら、例 外 を容 認 す るには客 観 的 合 理 性 に基 づ く社 会 的 相 当性 による許 容 が必 要 であることは確 認 す るまでもな い 。 しか し、これ らの 検 証 が無 い まま例 外 が 一 般 化 し、社 会 通 念 化 しているのが 現 状 である。 社 会 教 育 施 設 として の 公 立 博 物 館 の 有 料 化 に 関 して は 、古 くか ら数 々 の 反 対 論 文 があり、 有 料 化 に伴 う不 具 合 に つ いても多 々 議 論 され てきた 論 題 であるところか ら、本 論 で は仔 細 に つ い ては省 略 す るが 、基 本 的 要 件 は 以 下 の 2 点 に集 約 され るもの と考 えられ る。 一、 物館入館料の 収 は 博 徴 、博 物 館 利 用 者 にとつて は 最 大 の バ リアである。 二 、博 物 館 入 館 料 の 徴 収 は、生 涯 学 習 機 関 としての 博 物 館 を 自ら否 定 す るもの であり、そ の 結 果 利 潤 を 目的 とす る法 人 と同 様 に 費 用 対 効 果 の 判 断 基 準 が 適 用 さ れ ることとなり、結 果 として博 物 館 廃 上 にい たる原 因 を醸 成 す るものが 入 館 料 な ので ある。 以 上 か らも明 確 であるように博 物 館 法 2 3 条 は、博 物 館 の 根 幹 に係 わる条 文 であるにも拘 これ か らの 博 物 館 の 在 り方 に関 す る検 討 協 わらず 博 物 館 法 改 正 をたか らか に謳 つた 「 力 者 会 議 J では 、歯 牙 にもか けられ なか っ た の は極 めて残 念 である。 2、 博 物 館 法 第 4条 の 不 具 合 次 い で 不 具 合 な 条 文 と して 挙 げ ね ば 成 らな い の は 「博 物 館 法 J 第 4 条 3 項 で あ り、 当 条 文 に は 、 「博 物 館 に 専 門 的 職 員 と して 学 芸 員 を 置 く。」 と 明 示 され て い る こ とは 周 知 の 通 りで あ る。 しか し 、 現 実 に 学 芸 員 に 相 当 す る 専 門 職 員 と して 現 実 に 従 事 して い る 人 物 が 、 学 芸 員 資 格 を 持 た な い 無 資 格 者 で あ る 専 門 職 を 多 々 目に す る。 た だ 、 具 体 的 な 統 計 は 持 ち合 わ せ て い な い の で 、 以 下 の 記 述 に 於 い て 適 確 で な い 部 分 が あ れ ば 容 赦 を願 う も の で あ る 。 例 え ば 、 県 立 博 物 館 ・美 術 館 。自然 博 物 館 の 年 報 等 の 組 織 表 を 見 る 限 り、 学 芸 員 資 格 無 資 格 者 の 学 芸 員 に 相 当 す る職 員 が 多 く存 在 して い る こ とは 事 実 で あ る。 この 原 因 は 、 県 立 博 物 館 に於 い て は そ の 採 用 が 学 芸 員 採 用 で は な く、 教 員 採 用 し た 教 育 職 員 等 の 配 置 転 換 が 常 套 化 して い る 結 果 と看 取 され る。 そ して 、 博 物 館 学 芸 員 相 当職 へ 配 置 転 換 され た 元 教 育 職 員 の 多 く は 有 資 格 者 で な い 職 員 で あ る が 故 に 、 当 然 な が ら 「学 芸 員 」 の 職 名 は 使 用 で き ず 、 研 究 員 。主 事 等 々 の 職 名 を 冠 し て い る の が 常 で あ る。 しか し 、 そ の 職 務 内 容 は 正 に 学 芸 に 関 す る 仕 事 で あ ろ う と こ ろ か ら も 、 極 言 す れ ば 無 資 格 者 の 任 命 と実 務 へ の 従 事 と言 う こ と に な る 。 こ の 不 法 と も表 現 で き る 行 為 は 「博 物 館 法 J 第 4 条 5 項 に 記 され た 「博 物 館 に 、 館 長 及 び 学 芸 員 の ほ か 、 学 芸 員 補 そ の 他 の 職 員 を 置 く こ とが で き る 。」 ( 傍線 筆 者 ) と 明 記 され て い る 学 芸 員 補 そ の 他 の 職 員 に 相 当 させ る こ と に よ り、 合 法 と して い る の で あ ろ う が 、 如 何 な も の で あ ろ う か 。 な ら ば 、 職 名 を 学 芸 員 補 とす べ き で あ る が 、 組 織 内 で の 所 謂 配 慮 で あ ろ うか 、 学 芸 員 補 の 職 名 を使 用 して い な い の も事 実 で あ る。 ま た 、教 育 職 員 か ら の 配 転 と は 別 途 に 、博 物 館 自体 が 採 用 す る 場 合 に 於 い て も 、 そ の 採 用 条 件 は 要 学 芸 員 資 格 ( 学 芸 員 資 格 取 得 見 込 み ) が 加 え られ て い な い ケ ー ス も決 して 珍 し く は な い の で あ る 。 学 芸 員 無 資 格 者 を 良 し とす る 考 え 方 は 、 是 非 -2- 組織的な大学院教育改革推進 プ ログラムJ採 択 による高度博物館学教育 に至 る経緯 と実践 平成 21年 度文部科学省 「 博 物 館 側 に ご 賢 察 戴 き 是 正 願 わ ね ば な ら な い 点 で あ り、 抜 本 的 に は 、 県 立 博 物 館 を 始 め と す る公 立 博 物 館 の 専 門 職 の 採 用 及 び 配 置 は 、 学 芸 員 資 格 有 資 格 者 に 限 定 す る 旨 の 厳 格 な 指 導 を 文 科 省 に切 望 す る 次 第 で あ る。 3 、学 芸 員 有 資 格 者 採 用 の 要 望 に基 づ く博 物 館 法 第 6 条 の 改 正 案 我 が 国 の 成 熟 した 社 会 で は 、 車 の 運 転 は 勿 論 の 事 、 医 師 、 教 師 、 美 容 師 等 々 の い ず れ に 於 い て も 無 免 許 、 無 資 格 は 許 され な い 社 会 情 勢 下 に あ つ て 、 生 涯 教 育 ・ 文 化 の 拠 点 で あ る博 物 館 に 無 法 が 存 在 す る こ と 自体 が ゆ ゆ し き 問 題 な の で あ る 。 拠 つ て 、 法 の 遵 守 か ら して も有 資 格 者 の 配 置 を 徹 底 して 戴 か ね ば な ら な い 事 は 前 述 の 通 りで あ る。 そ れ が 何 故 、 か か る 不 具 合 な 事 態 が 出 現 した の か を 考 え る と 、 具 体 的 に は 下 記 の 博 物 館 法 第 6 条 ( 学 芸 員 補 の 資 格 ) が 無 資 格 者 の 博 物 館 専 門 職 と して の 採 用 を 許 す 法 的 根 拠 と な っ て い る と見 倣 せ る の で あ る。 ( 学芸 員 補 の 資 格 ) 第 6条 学 校 教 育 法 (昭和 22年 法 律 第 26号 )第 56号 1項 の規 定 に よ り 大 学 に 入 学 す る こ と の で き る者 は 、 学 芸 員 補 と な る 資 格 を 有 す る 。 ( 傍線 筆 者 ) と明 記 され て お り 、 「大 学 に 入 学 す る こ と の で き る者 」、 換 言 す れ ば 即 ち 高 等 学 校 を 卒 業 した 者 や 大 検 に 合 格 した 者 は 学 芸 員 補 に 就 く こ と が 出 来 る の で あ る 。 昭 和 2 6 年 の 博 物 館 法 制 定 時 か ら昭 和 4 0 年 頃 ま で な ら兎 も角 と して 、 今 日 の 社 会 で は 高 校 卒 業 者 が 学 芸 員 補 と して 採 用 され る こ と は 、 現 実 的 で は な い と い つ て も過 言 で は な い で あ ろ う。 現 在 は 、 学 芸 員 有 資 格 者 の 少 な か つ た 時 代 と は 異 な り、 年 間 約 1 万 人 の 有 資 格 者 を 養 成 して い る 現 状 で は 不 必 要 な 条 文 で あ る こ と は 自 明 の 通 りで あ り、 本 条 文 の 存 在 が 前 述 した 無 資 格 者 採 用 の 温 床 で あ る と指 摘 で き る の で あ る。 拠 つ て 、 当 該 条 文 の 内 容 は 今 日 の 社 会 情 勢 に鑑 み て も 早 急 に 撤 廃 しな け れ ば な ら な い 条 文 で あ る と考 え られ る も の で あ る。 更 に 、 短 期 大 学 で の 学 芸 員 養 成 に 意 義 を 持 た せ る為 に も 、 下 記 の 如 く に 第 六 条 の 改 正 を 提 案 す る も の で あ る 。 現 行 (学 芸 員 補 の資格 ) 第 6 条 学 校 教 育 法 ( 昭和 2 2 年 法 律 2 6 号 ) 第 5 6 条 第 1 項 の 規 定 に よ り大 学 に 入 学 す る こ と の で き る者 は 、 学 芸 員 補 の 資 格 を 有 す る。 改 正 案 ( 学芸 員 補 の 資 格 ) 第 6 条 短 期 大 学 を 卒 業 し 、博 物 館 に 関 す る所 定 の 科 目 の 単 位 を 取 得 した 者 は 、 学 芸 員 補 と な る 資 格 を 有 す る。 以 上 例 示 した よ うに 改 正 す る こ と に よ り、 無 資 格 者 の 採 用 及 び 配 置 に 歯 止 め を か け る こ と と 、 短 期 大 学 で の 学 芸 員 養 成 を 明 確 で き る も の と考 え る も の で あ る 。 4 、「公 立 博 物 館 の 設 置 及 び運 営 に 関 す る基 準 」廃 上 による博 物 館 の 混 迷 当 該 基 準 に 関 して は 、 昭 和 4 8 年 1 1 月 3 0 日 付 で 、 各 都 道 府 県 教 育 委 員 会 教 育 長 宛 に 出 され た 文 部 省 社 会 教 育 局 通 達 ( 平成 1 5 年 6 月 廃 止 ) に よ -3- 平成 21年 度文部科学省 「 組織的な大学院教育改革推進プ ログラムJ採 択 による高度博物館学教育に至 る経緯 と実践 48基準 ( 職員 ) 第 1 2 条 都 道 府 県 及 び 指 定都 市の設 置 す る博 物館 には、1 7 人以 上 の 学 芸 員 又 は学 芸員 補 を置 くものとし、市 ( 指定 都 市 を除 く。) 町村 の 設 置 す る博 物 館 には、6 人 以 上 の 学 芸 員又 は学 芸 員補 を置 くもの とす る。 1 0 第 1 2 条関 係 本 条 第 1 項の 1 7 人及 び6 人の 職 務 内容 別 の 内 訳 は 、左 の 表 に掲 げるとお りである。 区 同上 別 記 都道府 県立 ・ 指定都 市立 分 市町村立 ア 第 8 条 の 教 育 活 動 及 び 資 料 に 関 す る研 究 を担 当 す る者 8人 3ンヽ イ 1次資料の収集、保管、展示等を担当する者 8人 3ン ヽ ウ 2次資料の収集、保管等を担当する者 1人 ( 職員 ) 第 9 条 博 物 館 に、館 長 を置 くとともに 、事 業 を実 施 す るため に必 要 な数 の 学 芸 員 を置 くもの とす る。 現行 ( 施設 の 面 積 ) 第 5 条 博 物 館 ( 動物 園 、植 物 園及 び 水 族 館 を除 く。) の建 物 の述 べ 面積 、都 道 府 県 及 び 指 定 都 市の 設 置 す る博 物 館 にあっては6 , 0 0 0 平方 メー トル を、市 ( 指定都 市を除 く。) 町村 の 設 置 す る博物 館 にあつては 、2 , 0 0 0 平方 メー トル をそれ ぞれ 標 準 とす る。 2 動 物 園 、植 物 園及 び 水 族 館 の 施 設 の面 積 は 、左 の 表 に掲 げる面積 を標 準 とす る。 48基準 博 物 館 の種 類 施 設 の 面 積 動物園 建物の延べ 面積 2 0 平 方メー トルに平均同時利用者を乗じて得た面積 植物園 敷地面積 2 0 万 平方メー トル 水 族館 敷地面積 4 , 0 0 0 平方メー トル 5 第 5 条 関係 ( 1 ) 本条 第 1 項の 6 , 0 0 0 平 方 メー トル 及 び 2 , 0 0 0 平方 メー トル の 及び 輌呻 ¨ は 、左 の 表 │こ掲げるとおりである。 市 田T 村 同上 別 記 民示 ・ 教 育活動 関係 呆管 ・研 究 関 係 ・ 旨理 そ の 他 2.500市 2,500 ″ 1000 ″ 立 (2)総合博物館 にあつては、その性格にかんがみ 、本条第 1項に定める面積のおよそ15倍 程度を確保することが望ましい な し 現行 48基 準 ( 資料) 一次資料」 第6 条 博物館 ( 動物園、植物園及び水族館を除く。) は、実物又は現象に関する資料 ( 以下 「 という。) について、当該資料に関する学 問分野、地域における当該資料の所在状況及び当該資料の展 示上の効果を考慮して、必要な数を収集し、保管し、及び展示するものとする。 2動 物園、植物園及び水族館 は、おおむね 、左の表 に掲 げる数の 一次資料を収集 し、育成 し、及び展 示す の と 園 園 館 同 上 別記 物 物 権 動 植 永 博物館 の種類 資 料 数 6研 重325点 ないし165種 825点 1,500種 6,000樹 木 150種 2.500点 第6 条関係 本条第 2 項の 表に掲 げる動物園 、植物園及び水族館 に示す 「 種 」の収集 に当つては 、広 い範囲にわたっ て比較 展示 ができるように生物分類学上における複 数 の 「 綱 」及び 「目」にわたることが 望ましい。 3 第 3 条 関係 ( 資料 ) 現 行 ( 1 ) 動 物園 、植物 園及び水族館を含め博物館 は、各館 園の創意 工 夫により、当該資料 に関する学 問 分野 、地域 における当該資料 の所在 状況及び当該資料 の展 示上 の効 果を考慮 して必要な数 の資料の 収集、保管及び展 示に努めるものとすること。 4 8 基 準 と現 行 の 比 較 表 に至る経緯 と実践 組織的な大学院教育改革推進プログラム」採択による高度博物館学教育 平成 21年度文訂`科学省 「 る 基 準 J の 取 り扱 い に つ い て で 、 る、 (別記 )「 公 立博 物 館 の 設 置及 び 運 営 に 関 す 下 記 の 通 り記 さ れ て い る 。 1、 第 11条 関係 の 規 定 に 基 づ き 、公 立 博 物 館 ( 以 下 ( 1 ) こ の 基 準 は 、博 物 館 法 第 人 条 「博 物 館 」 と い う。) の 健 全 な 発 達 を 図 る た め に 博 物 館 の 設 置 及 び 運 営 上 の 望 ま し い 基 準 と して 定 め た も の で あ る 。 に 係 る 審 査 基 準 で も 、補 ( 2 ) こ の 基 準 は 、博 物 館 法 に 定 め る 登 録 要 件 助 金 の交付 基 準 で もない。 した も の で は な く 、 あ く ま で 博 と 明 記 され て い る よ うに 、 何 ら の 規 制 を 目的 と 基 準 で あ つ た に t ) 拘 わ らず 、 世 を あ げ 物 館 の 健 全 な 発 達 を 図 る 目的 で 定 め られ た が 国 の博 物館 に とつて 基 本 的示 準 て の 規 制 緩 和 の 名 の も と に解 体 され た こ とは 我 を 無 く した も の と な つ た 。 つ て も過 言 で は な か つ ま り、 博 物 館 の 混 迷 の ほ こ ろ び は こ こ か ら始 ま っ た と 言 の 「別 記 取 り扱 い に つ い て 」 で ろ う。『公 立 博 物 館 の 設 置 及 び 運 営 に 関 す る 基 準 』 "に “ 一 関す る モ ノ 。人 ・場 は 、 具 体 的 に は 、 博 物 館 の 構 成 要 素 と 般 に 称 され る と して 博 物 館 界 は 混 迷 期 に 示 準 が 「規 制 緩 和 」 の 号 令 の も と に 消 滅 し去 り、 結 果 突 入 した も の と看 取 され る の で あ る。 め て 重 大 で あ る。 した が っ て 、当 基 準 の 改 訂 に 関 与 した 博 物 館 関 係 者 の 責 任 は 極 21年 の秋 に 出 か か る状 況 の 中 で 、 更 に 博 物 館 界 に 追 い 打 ち を か け た の は 平 成 12条 及 び 第 され た 「地 方 分 権 推 進 委 員 会 に よ る第 二 次 勧 告 案 J で 、 博 物 館 法 第 21条 は 、 い 2 1 条 の 廃 止 ま た は 条 例 委 任 が 勧 告 され た こ と は 未 だ 記 憶 に 新 し 。第 12条 の廃 止 ま た 博 物 館 協 議 会 の 委 員 に 関 す る 内 容 で あ る か ら兎 も角 と して 、 第 は 条 例 委 任 の 対 象 とな つ た 条 文 は 下 記 の 通 りで あ る。 一 . 第 2 条 第 1 項 に 規 定 す る 目的 を 達 成 す る た め に 必 要 な 博 物 館 資 料 が あ る こ と。 一 、第 2 条 第 1 項 に 規 定 す る 目的 を 達 成 す る た め に 必 要 な 学 芸 員 そ の 他 の 職 員 を 有 す る こ と。 一 、第 2 条 第 一 項 に 規 定 す る 目的 を 達 成 す る た め に 必 要 な 建 物 及 び 土 地 が あ る こ と。 述 し 当 該 3 項 は 、 第 1 2 条 の 登 録 要 件 の 審 査 の 要 件 を 明 示 した 条 文 で あ り、 前 " を “ 明 示 した も の で あ る。、 当 該 部 分 の 廃 止 は 世 界 に 類 を 見 な い た モ ノ 。人 。場 ので あ 博 物 館 の 浮 薄 軽 桃 化 を も た らす で あ ろ う し 、 先 ず 存 続 に 関 わ る基 本 的 な も っ た。 仝 日本 博 物 館 学 会 , 全 国 大 学 博 物 館 学 講 座 協 議 会 を は じ め とす る 各 種 の 学 術 団 たよ 体 か ら の 反 対 に よ り幸 い に 、 朝 日新 聞 ( 平 成 2 2 年 4 月 9 日 ) で も報 じ られ して と 、 う に 博 物 館 法 に 関 す る勧 告 案 は 撤 廃 され た 。 撤 廃 は 幸 か 当 然 か は 兎 も 角 とす が か か る機 運 が 社 会 に 発 生 して 来 た 事 を博 物 館 界 は 真 摯 に 受 け 取 り社 会 必 要 る博 物 館 を 構 築 しな け れ ば な ら な い の で あ る。 直 載 に そ の 為 に は 、 結 果 と して 原 因 の 2 で あ る博 物 館 学 意 識 を 有 した 熱 心 な 学 芸 員 を養 成 す る 事 が 必 要 な の で あ る -5- 平成 21年 度文部科学省 「 組織的な大学瞳教育改革推進プログラム」採択 による高度博物館学教育に至 る経 緯 と実践 ■驚 島. 5、 博 物館 運 営者 の 博 物館 学 意 識 が 脆 弱 で あ る点 。 この 博 物 館 運 営 者 の 博 物 館 学 意 識 の 希 薄 な点 は 、熱 心 で博 物 館 学 意 識 の あ る 学 芸 員 を 養 成 で き な か っ た こ とが 直 接 的 な 原 因 で あ っ た と 看 取 され る 。 そ の 理 由 と して は 、 下 記 の 二 点 が あ げ られ る 。 1 、学 芸 員 養 成 科 目の 不 足 2、 博 物館 学 の体 系 的教 授 で はなか った 先 ず 最 初 の 学 芸 員 の 養 成 科 日の 不 足 に つ い て は 、 昭 和 3 0 年 よ り現 行 の 改 正 に あ た る平成 8年 ま で の 40余 年 間 博 物 館 学 の 専 門 科 目 と して は 「博 物 館 学 J 4 単 位 と 「博 物 館 実 習 」 3 単 位 で あ つ た 。 余 りに 少 な く 1 9 5 1 年 の博 物 館 法 制 定 以 来 、 今 日ま で の 6 0 年 の うち の 4 2 年 間 も 占 め る 厳 然 た る事 実 が 、 現 在 博 物 館 の 実 相 の 形 成 とな っ た の で 有 ろ う と考 え られ る 。 平 成 9 年 か らは 従 来 の 「博 物 館 学 」 4 単 位 を 2 単 位 増 加 させ て 6 単 位 と し 、 「博 物 館 経 営 論 」。「博 物 館 資 料 論 J 。 「博 物 館 情 報 論 」 の 3 科 目増 と な り 全 で 、 体 従来 の 5 科 目 1 0 単 位 か ら 8 科 目 1 2 単 位 に 引 き 上 げ られ た が ま だ ま だ不 充 分 で 、博 物 館 学 の 体 系 の教 授 に は 程 遠 い 改 正 で あ っ た こ とは 明 白で あ っ た 。 例 え ば 、 博 物 館 を 特 徴 づ け る機 能 で あ り 、 博 物 館 最 大 の 機 能 で あ る 「展 示 論 」 で す ら こ の 時 点 で も欠 如 して い た の で あ っ た 。 当 該 科 目 の 必 要 性 に つ い て は 別稿 註2 で 記 した 通 りで あ る が 、展 示 論 が 養 成 科 目 に 含 ま れ て い な か っ た 事 は 、博 物 館 学 意 識 形 成 の 上 で の 大 き な 欠 如 で あ り 、 明 治 五 年 に 始 ま る我 が 国 の 博 物 館 展 示 が 何 の 改 良 も な く 、 社 会 情 勢 に 呼 応 す る こ と な く今 日ま で 引 き継 が れ 、 博 物 館 の 低 迷 の 要 因 と な っ た も の と看 取 され る の で あ る 。 つ ま り 、 展 示 は 展 示 業 者 が 行 う も の で あ っ て 、 学 芸 員 が 行 うべ き職 務 内 容 で は な い と す る 考 え 方 が 従 来 よ り根 強 く存 在 して い る の は 事 実 で あ ろ う。 6 、博 物 館 学 の 存 否 この博 物 館 運 営 者 の博 物 館 学 意 識 の希 薄 な 点 は 、 博 物 館 学 を否 定 す る学 芸 が 員 博 物 館 に 存 在 す る 事 か ら は じま る。 ま た 、 否 定 ま で も行 か な く と も 無 関 心 で あ る 学 芸 員 が 一 般 的 で あ る と 言 っ て も過 言 で は な か ろ う。 例 え ば 、 日本 考 古 学 協 会 や 地 方 史 研 究 会 等 々 の 学 会 へ の 参 加 者 に は圧 倒 的 に 学 芸 員 が 多 い こ とは 間 違 い の な い 事 実 で あ る 。 こ れ に 対 し博 物 館 学 会 に は 何 人 の 学 芸 員 が 会 員 と な っ て い る だ ろ うか 。 -6- 組織的な大学院教育改革推進 プ ログラムJ採 択 による高度博物館学教育 に至 る経緯 と実践 平成 21年 度文部科学省 「 〈昭和 30年 改 正時科 目〉 く現行科 目〉 〈平 成 2 4 年 4 月 施 行 〉 社会教育概論 視聴 覚教育 メディア論 ( 5 科 目1 0 単 位 ) ( 8 科目1 2 単位 ) 博物館情報 ・ メディア論 ( 9 科 目1 9 単 位 ) 法 定 科 目の 推 移 表 博 物 館 学 の 確 立 期 は 、明 治 時 代 3 0 年 代 で あ ろ う こ と は 別 稿 註3 で 指 摘 した 通 りで あ る。 博 物 館 学 の 存 否 に つ い て は 、 確 認 す る ま で も な く厳 然 と 存 在 して い る の で あ る。 例 え ば 基 盤 と な る 学 会 に して も 「全 日本 博 物 館 学 会 」 を は じ め 「日本 ミ ュ ー ジ ア ム ・マ ネ ー ジ メ ン ト学 会 J 「 日本 展 示 学 会 」 等 々 が 存 在 し 、 基 本 文 献 に して も新 旧 2 版 の 『博 物 館 学 講 座 』 が あ り、 事 典 ・基 本 文 献 目録 な ど の 学 術 面 で の イ ン フ ラ も確 立 され て い る 。 何 と 言 つ て も博 物 館 学 2008年 を 専 門 とす る 単 行 本 が 四 百 冊 を 凌 駕 し 、 2 0 0 7 ・ 度 の両 年 の み を と っ て も 、 こ の 2 年 間 に 博 物 館 に 関 す る論 文 が 6 , 5 0 0 余 編 を 数 え る 事 実 を博 物 館 学 否 定 者 は 直 視 しな け れ ば な ら な い の で あ る 。 ま た 、 平 成 1 9 年 度 よ り時 限 付 き で あ っ た 科 学 研 究 費 も 2 0 1 1 年 よ り 「博 物 館 学 」 と して 恒 常 化 され た こ とか ら も 、 博 物 館 学 の 存 在 を も は や 疑 う余 地 な ど は 全 く な い の で あ る。 しか し 、博 物 館 学 の 体 系 と して の 不 足 す る 要 件 は 、 「博 物 館 学 史 」 と 日本 博 物 館 史 。欧 米 博 物 館 史 を 合 わ せ た 「博 物 館 史 」 を 基 軸 に 据 え 、 従 前 よ り の 科 目や 新 設 科 目 に あ つ て も 、先 ず そ れ ら の 歴 史 を確 認 す る事 が 必 要 な の で あ る 。 中 で も 、 「博 物 館 展 示 論 J や 「博 物 館 資 料 論 J は 、博 物 館 の 発 生 に 関 与 した 分 野 で あ る が 故 に 、 そ の 必 要 性 は 大 き い と 考 え られ る。 温 故 知 新 の 格 言 が 明 示 す る とお り、 い ず れ の 学 術 分 野 で も先 行 研 究 。先 行 事 例 を確 認 の 上 で の 批 判 と踏 襲 が あ っ て 学 問 は 成 立 す る の で あ ろ う。 博 物 館 学 が 学 と して 不 明 瞭 で あ つ た の は 、 そ の 場 そ の 場 の 事 例 報 告 的 研 究 が 一 般 的 で 学 史 に 至 ら な か っ た 点 が 、 軽 薄 感 を 有 す る原 因 と な っ た も の と 考 え られ る 。 -7- 組織的な大学院教育改革推進プログラムJ採 択による高度博物館学教育に至る経緯と実践 平成 21年度文部科学省 「 7 、養 成 学 芸 員 の 資 質 の 向 上 学 芸 員 養 成 の 基 本 理 念 は 、 博 物 館 学 の 体 系 的 教 授 に よ る理 解 が 目標 で あ る こ と 一 は 述 べ た 通 りで あ り、 そ れ は 同 時 に 博 物 館 学 研 究 者 の 育 成 を 第 義 とす る の で あ る。 学 芸 員 は 、 資 料 さ え 扱 え れ ば 良 い と い つ た 職 人 的 職 性 に 決 して 留 ま る も の で は な い 事 を 、 再 度 確 認 しな け れ ば な ら な い の で あ る 。 そ れ に は 博 物 館 学 意 識 の 涵 養 が 重 要 な の で あ る。 平 成 1 9 年 6 月 1 5 日 付 で 、 こ れ か ら の 博 物 館 の 在 り方 に 関 す る 検 討 協 力 者 会 議 よ り、 「新 しい 時 代 の 博 物 館 制 度 の 在 り方 に つ い て ( 報 告 ) J が 出 され た こ と は 周 知 の 通 りで あ る。当 該 報 告 の 中 の 別 紙 に 、「今 後 早 期 に 検 討 す る 必 要 が あ る 事 項 に つ い て 」 の ( 二 . ) 学 芸 員 制 度 関 係 が 記 され て い る。 そ の 中 の ( 一 ) 学 芸 員 養 成 科 目 の 見 直 し に つ い て で は 、 学 芸 員 養 成 科 目 の 充 実 と博 物 館 実 習 の 見 直 しの 二 点 が 明 記 され て お り、 詳 細 に つ い て は 下 記 の 通 りで あ る。 二 学 芸 員制 度 関係 1 、 学 芸 員 養 成 科 目 の 見 直 しに つ い て 大 学 の 博 物 館 に 関 す る 科 目は 、従 来 か ら取 得 が 求 め られ て い た 資 料 の 芸 員 に求 取 り扱 い 等 に つ い て 基 本 的 な 技 術 に加 え 、 「第 4 章 2 ( 1 ) 学 。 め られ る 専 門 性 J で 述 べ られ て い る新 た に 求 め られ る 知 識 技 術 の 習 得 を加 え る必 要 が あ る。 こ の た め 、現 行 の 科 目 に つ い て は 、社 会 の 変 化 に 利 用 者 の ニ ー ズ 、学 芸 員 養 成 科 目 の 体 系 化 に 則 して 内 容 を 見 直 し 、新 た な 科 目 の 追 加 、 単 位 数 の 拡 充 等 を 早 急 に 検 討 す る 必 要 が あ る。 ① 学 芸 員 養 成 科 目の 充 実 科 目編 成 や 単 位 数 に つ い て 見 直 し 、学 芸 業 務 を 遂 行 す る た め に 最 低 限 必 要 と され る 知 識 ・技 術 を 明 確 に す る と と も に 、新 た な 科 目編 成 。内 容 とす る 場 合 は 、 各 科 目 に 含 ま れ る べ き 内 容 ・要 素 の 例 示 が 必 要 で あ り、 ま た 、大 学 関 係 者 に よ る モ デ ル 的 な カ リ キ ュ ラ ム 作 成 の 支 援 が 必 要 で あ る。 ②博物館実習の見直 し ・ 博 物 館 実 習 に つ い て も 、 こ れ ま で 以 上 に 大 学 と博 物 館 の 連 携 協 力 を 緊 密 に し 、 そ の 内 容 を 精 査 す る こ とが 求 め られ る 。 特 に 、実 習 の 実 態 に つ い て は 、そ の 扱 い が 大 学 や 受 け 入 れ 先 の 博 物 館 に よ りか な り差 が あ り、 参 考 に な る 実 習 内 容 を 例 示 す る 必 要 が あ る。 た だ し 、 見 直 しの 際 に は 、 年 間 約 1 万 人 の 学 生 が 実 習 を 行 う こ と を 考 慮 し 、受 け 入 れ 側 で あ る博 物 館 に 過 度 の 負 担 が か か る こ と の な い よ うに 、配 慮 しな が ら検 討 す る こ と が 必 要 で あ る。 以 上 ① 学 芸 員 養 成 科 目 の 充 実 に 記 され た 骨 子 に 基 づ い て 、養 成 学 芸 員 の 資 質 向 上 を 目指 す べ く現 行 の 8 科 目 1 2 単 位 か ら 9 科 目 1 9 単 位 へ と 、科 目数 と 単 位 数 の 引 き 上 げ が 決 定 され た 。科 目数 に 於 い て は 1 科 目 の 増 力日で あ る が 、 従 来 の 「視 聴 覚 教 育 メ デ ィ ア 論 J 「 教 育 学 概 論 J を 、 前 者 は 「博 物 館 情 報 メ 一 デ ィ ア 論 」 へ 、後 者 を 新 し く設 け た 「博 物 館 教 育 論 」 の 科 目内 容 の 部 へ 組 み 込 む こ と に よ り 2 科 目削 除 し 、新 た に 「博 物 館 資 料 保 存 論 J 「博 物 館 展 示 」 「博 物 館 教 育 論 」 の 3 科 目 6 単 位 が 新 た に 増 設 され た 。 こ の こ と は 、 博 物 館 学 の 体 系 の 上 か ら も不 可避 で あ つ た こ と は 事 実 で あ り、 当 該 入 科 目 の 新 設 に よ り養 成 学 芸 員 の 学 術 的 資 質 向 上 は 大 き く推 進 され た も の と 期 -8- 組織的な大学院教育改革推進プログラム」採択による高度博物館学教育に至る経緯と実践 平成 21年度文部科学省 「 待 で き る の で あ る。 し か し 、 残 念 な が ら 大 局 的 に は 博 物 館 学 を 構 成 す る 科 目群 に は 至 っ て い な い と 考 え られ る。 註4 で 「学 内 実 習 」 の ま た 、 博 物 館 実 習 に 於 い て も 『博 物 館 実 習 ガ イ ドラ イ ン 』 必 要 性 が 明 記 され た こ と は 、 曖 味 模 糊 と した 博 物 館 実 習 に 於 い て 大 き な 進 展 とい へ よ う。 つ ま り、 歴 史 系 博 物 館 に 於 い て は 、 ま だ ま だ 資 料 の 取 り扱 い 及 び 作 法 と して の 展 示 が 間 違 っ て い る 場 面 も 多 々 日 に す る。 こ の こ と は 、 学 内 で の 実 習 の 不 十 分 さ が 蒼 した 所 産 で あ ろ う し 、 した が つ て 逆 に か か る博 物 館 で 館 外 実 習 を 受 講 した 場 合 は 、 過 ち を 踏 襲 す る こ と に な る の で あ る。 8 、養 成 学 芸 員 の 資 質 向 上 の 為 の 大 学 養 成 過 程 の 改 革 先 ず 、 博 物 館 学 芸 員 に 要 求 され る 高 度 な 学 識 は 、 そ れ ぞ れ の 学 術 分 野 の 専 門 知 識 と博 物 館 学 知 識 の 二 者 で あ る こ と を 忘 れ て は ら な い 。 前 者 の 各 学 術 分 野 に 於 け る 専 門 知 識 は 、最 高 学 府 で あ る 大 学 卒 業 と 同 時 に 確 立 され て い る も の と見 倣 せ る。 ま た そ うで な け れ ば な らな い の で あ る。 こ の 点 は 、 学 芸 員 の 採 用 に あ た つ て も博 一 物 館 側 が 専 門 性 を 重 視 して い る 点 か ら も 明 白 で あ り、且 つ ま た 般 的 で あ る 。 確 か に 、 博 物 館 は 研 究 機 関 で あ り、 あ らね ば な ら な い 点 に 異 論 を 差 し挟 む 余 地 は 無 い が 、 しか し今 日 の 社 会 情 勢 下 に 置 か れ た 博 物 館 を 観 た 場 合 、 博 物 館 展 示 や 教 育 諸 活 動 が そ の 重 要 さ を 増 して 居 る と こ ろ か ら t ) 博物 館 経 営 の _ L で よ り必 要 と な る の は 、 後 者 の 博 物 館 学 知 識 と熱 心 な 博 物 館 意 識 な の で あ る。 尚 、 人 文 系 博 物 館 、 中 で t ) 考古 。歴 史 。民 俗 等 で は 、 そ こ に 介 在 す る 資 料 は 過 一 去 の 遺 産 で あ り、 未 来 へ 伝 え る保 存 行 為 こ そ が 、 歴 史 ・民 俗 系 博 物 館 の 第 義 で ∫避 な の で あ る。 こ の 博 物 館 知 識 の 脆 弱 、 意 あ る と こ ろか らも 博物 館 学 意 識 は 不 百 識 の 希 薄 な 点 が 今 日 の 社 会 下 で の 博 物 館 経 営 に 影 を 落 と して い る も の と 看 取 され る と こ ろ か ら、 博 物 館 学 の 研 究 者 の 養 成 、 学 芸 員 の 博 物 館 学 知 識 ・意 識 の 向 上 に 直 結 す べ き養 成 制 度 と 体 制 が 必 要 で 有 る と考 え ね ば な らな い 。 そ れ に は 、 ド 記 の 3 点 が 必 要 要 件 と考 え られ る の で あ る。 一 博 物 館 学 を 専 門 とす る 専 任 教 員 の 配 置 一 大 学附属博 物館 の設置 一 法 定 課 日 ・単 位 数 の 拡 充 に 基 づ く カ リ キ ュ ラ ム の 充 実 一 博 物 館 学 を専 門 とす る専 任 教 員 の配 置 養 成 学 芸 員 の 資 質 向 上 に は 、 博 物 館 学 の 体 系 の 教 授 と理 解 に よ る博 物 館 学 意 識 の 涵 養 は 述 べ た 通 りで あ る が 、 そ れ に は 先 ず 筆 者 を 含 め た 大 学 教 員 の 資 質 の 向 上 が 必 定 で あ る こ とは 明 記 す る ま で もな い 。 こ の 件 に 関 して は 、 山 種 美 術 館 の 学 芸 課 長 か ら北 海 道 立 近 代 美 術 館 館 長 へ 転 じた 註5 後 、 明 治 大 学 教 授 とな り博 物 館 学 を講 じ られ た 倉 田公 裕 は 、 そ の 著 『博 物 館 学 』 で 次 の 如 く記 して い る。 -9- 平成 21年 度文部科学省 「 組織的な大学院教育改革推進 プ ログラムJ採 択 による高度博物館学教育に至 る経緯 と実践 実 際 に 博 物 館 で 観 られ る 不 具 合 な 資 料 展 示 例 組織的な大学院教育改革推進プログラムJ採 択による高度博物館学教育に至る経緯と実践 平成 21年度文部科学省 「 そ の 教 授 或 い は 講 師 に 、過 去 博 物 館 に 勤 務 して い た と い う人 な ど を 迎 え 、そ の 人 の 過 去 の 博 物 館 で の 体 験 を博 物 館 学 とか 、博 物 館 概 論 と称 し て い る の で は な い か 、 ( 略 ) こ れ で 果 た して 良 い も の で あ ろ う か 。 勿 論 、 中 に は 優 れ た 探 究 と業 績 を あ げ られ て い る 人 も少 な く な い が 、 そ れ に して も 博 物 館 学 に 関 す る研 究 発 表 の 少 な い こ と を ど う説 明 す る の で あ ろ うか 。 博 物 館 学 とは そ ん な 狭 い 体 験 や ほ ん の 片 手 間 に で き る浅 薄 な も の で あ ろ うか 。 倉 田 は博 物 館 学 を講 ず る大 学 教 員 の 資 質 に 疑 間 を投 げ か け た もの で あ つ た 。1 979年 、 昭 和 5 4 年 の 事 で あ る。 そ れ か ら 3 0 余 年 、 改 善 され た 気 配 は 全 く認 め難 い。 更 に ま た 、 博 物 館 学 界 で は 最 大 の 学 会 で あ る 「全 日本 博 物 館 学 会 」 は 、 約 四 百 名 の 会 員 を 擁 して い る が 、 こ の うち 大 学 に 籍 を 置 く者 は 5 0 余 名 で あ る 。 全 国 大 日盟 大 学 の 1 8 3 大 学 を 始 め と し、 非 加 盟 大 学 1 学 博 物 館 協 議 会 ( 以下 、 全 博 協 ) 力 学 の 多 き を数 え るの 5 2 大 学 を合 わせ た 博 物 館 学 課 程 開 講 大 学 は 全 国 で 3 3 5 大 一 が 現 状 で あ る。 全 博 協 は 加 盟 大 学 は 勿 論 、 非 加 盟 大 学 を も含 め 約 5 年 に 度 の 割 3 月 刊 行 の 『全 国 大 学 博 物 館 合 で 開 講 講 座 実 態 調 査 を 実 施 して お り、 2 0 0 6 年 学 で 、そ こ で 博 物 館 学 講 座 実 態 調 査 報 告 書 ( 第 十 回 ) 』 に よれ ば 回 答 大 学 2 1 7 大 の 学 専 門 科 目の 教 鞭 を 執 る 非 常 勤 講 師 を 含 め た 教 員 数 は 雑 駁 に 数 え て 約 7 0 0 人 ー ト 多 き を 数 え る の で あ る。 大 半 の 旧 国 立 大 学 は 全 博 協 に 非 加 盟 で あ り、 ア ン ケ 調 査 に も 無 回 答 で あ る か ら教 員 実 数 は 更 に加 算 され る 事 と な る。諄 い 用 で あ る が 、 全 日本 博 物 館 学 会 員 数 は こ の 中 に あ つ て 5 0 名 を 数 え る の み な の で あ る 。 一 更 に ま た 、 全 博 協 が 2 0 0 7 年 に 創 立 5 0 周 年 事 業 の 環 と して 刊 行 した 『博 物 館 学 文 献 目録 』 に よ る と 、 各 大 学 で 博 物 館 学 に 関 す る 科 目 を 担 当 す る 教 員 で 博 物 館 学 に 関 す る 著 書 ・論 文 を 記 して い る 人 数 は 驚 く ほ ど少 な い の も 現 状 で あ る。 か か る 現 実 を鑑 み る と 、 先 ず 博 物 館 学 を 専 門 分 野 に 置 く専 任 教 員 の 配 置 が 必 須 要 件 で あ り、 急 務 な の で あ る。 た だ 単 に 、 博 物 館 で の 館 長 経 験 や 勤 務 経 験 、 教 育 委 員 一 会 で の 文 化 財 担 当 ・生 涯 学 習 担 当 経 験 者 と い っ た 要 件 の み で は な く、 そ の 上 に 整 合 性 の あ る論 文 審 査 に よ る 教 育 資 格 審 査 を 実 施 す る こ とが 直 接 に 受 講 生 の 資 質 の 向 上 に 結 び つ く も の で あ る と考 え られ る 。 二 大 学 付 属 博 物 館 の設 置 推 進 一 文 部 科 学 省 が 今 回 の 博 物 館 法 改 正 の 中 で 重 要 視 す る要 件 の つ で あ る学 芸 員 の 一 資 質 向 上 の 基 本 は 、 実 務 経 験 で あ る こ と は 貫 して 明 示 され て き た 。 実 務 経 験 、 即 ち養 成 大 学 で は 博 物 館 実 習 の 充 実 と高 度 化 に 他 な ら な い 。 博 物 館 実 習 の 単 位 と 具 体 的 授 業 内 容 等 の 詳 細 に つ い て は 後 述 す る が 、 実 習 の 場 と して の 博 物 館 が 必 要 で あ る こ と は 多 く の 博 物 館 研 究 者 に よ つ て 従 来 よ り指 摘 され て 来 た 通 りで あ り、 至 極 当 然 の 事 で あ る。 こ の 点 に 関 し 岡 田茂 弘 註6 は 、 「学 内 に 実 習 で き る博 物 館 を 持 た な い 大 学 の 学 芸 員 資 格 取 得 課 程 は 、警 え て 言 え ば 附 属 病 院 を も た な い 大 学 医 学 部 の よ うな も の で 、 - 1 1 - 平成 21年 度文部科学省 「 組織的な大学院教育改革推進 プ ログラムJ採 択による高度博物館学教育に至 る経緯 と実践 だが 6縦 炉 翌 メ 6 軽ス ´妥 紆 ヽいヽ口ゝ一極一 熙漣 轟訃一暇翠鮭一 ・ ・ ldだ邸 離曰 訃 留製 ︶= 塾 訃轟鵬 ・ 訃概 算 ・ ■準 “ ・ ■メ ロ 訃 貿 圏 ︶= 筆 ︵ 細脚メ儒 一 卜簗 騨 騰 = 撃 一 掻 母 メ籠 = 攣 一 罐 朴編“ 岬 鰹 軽 eⅨ . 一 製跳重 E日 剛Ⅸぶ弊朴地゛ 笙 眠 使 ゛長 響 ′安卜・ F い︱ ♪ルК ︱ コ ⋮′ ′ 轟憔・ 朴興薫 ・ 訃準 ビ ロ 訃 ハーもハヽ ヽ全、 ′ 胸μ密詈訃堰ヾ軍 , 日 ヽ 一 一 椰 奪 瑯 諷 ﹂拌 褻 警 釈 鯉゛筆 縄最選響串e朴堰S筆側傾 一 響瑚 - 12 - 国 優 雲 く 心筆 口ゝ 証 轟 経 機 麟 撃 鰹 傾 バ ー もハ ヽ 壼回 顎魃ンや ︲ ︲ ︰ ■薇繊″筵︲ ︲ ′ 榊駅´慈彩簸 畢撃 ' 1鞣 ︱ 怪椰 e肛=訃い 引判押駅市朴製 尽壇製沢樫掏翠輝判鯖 最終E鰈せ 1 ″_ 口 麒‐ 栽総籍 ). 組織的な大学院教育改革推進 プ ログラム」採択 による高度博物館学教育に至 る経緯 と実践 平成 21年 度文部科学省 「 大 学 院 の コ ー ス と学 部 の 学 芸 員 過 程 との 科 目比 較 表 論文指導演習 特殊研究 資料保存展 示論研究 ・ 地域博物館論研究 :特殊研究 博 物館 史特 論 博物館学史特論 欧米博物館史特論 博物館関係法規特論 博 物館 資 料 論特 論AI(金 工 ) 博 物館 資 料 論 特論AI(有 職 ) 博物館資料論特論 BI(民 俗 ) 博物館資料論特論 BI(絵 画) 博物館経営特論 博 物館 教 育活 動 特 論 展 示 工学 特 論 口 博物館学専F 号 実習‐ ■│ ■ 特 殊実習 卒 業 生 が 医 師 の 国 家 試 験 に 合 格 して い て も危 な く て 治 療 を 任 せ る わ け に は い き ま せ ん 。 そ の 前 に そ の よ うな 大 学 医 学 部 は 許 可 され な い で し ょ う が 、 学 芸 員 資 格 取 得 課 程 の 場 合 に は ま か り通 つ て い ま す 。」と制 度 の 不 整 備 を 指 摘 して い る通 りで あ る。 医 学 部 を例 に 持 ち 出 す ま で も な く広 く教 育 と い う意 味 で 同 類 で あ る教 育 学 部 に は 附 属 小 学 校 が 必 要 で あ る 事 は 論 を 待 た な い の と 同 様 で あ る。 大 学 直 属 施 設 、 学 部 ・学 科 付 属 施 設 を 含 め 、 我 が 国 の 大 学 附 属 博 物 館 数 は 、 伊 の 学 260館 ( 平成 1 5 年 ) と 報 告 され て 居 り 、 能 秀 明 ら 註7 報 告 に よ る と 1 7 2 大 あ る か ら概 ね 2 2 % の 設 置 率 で あ る。 博 物 館 講 座 開 設 大 学 今 日大 学 総 数 7 3 4 で で の 大 学 附 属 博 物 館 の 設 置 数 は 、前 述 の 『全 博 協 開 講 実 態 調 査 報 告 書 』 註8 に よれ ば、 回答 大 学 217大 学 で 、 そ の 中 で も相 当 施 設 は 5 学 の 内設 置 大 学 は 110大 3 大 学 で あ り、 ま だ ま だ 学 内 実 習 に 供 す る に 足 る ユ ニ バ ー シ テ ィ ・ ミ ュ ー ジ ア ム の 設 置 率 は 少 な い よ う で あ る。 大 学 附 属 博 物 館 の 必 要 性 と特 質 は 、 博 物 館 学 講 座 開 講 大 学 に と つ て は 先 ず 本 稿 の 主 旨 で あ る博 物 館 実 務 の 基 礎 を 修 得 す る博 物 館 実 習 施 設 の 確 保 を 第 一 義 とす る。 当 然 ま た 、 地 域 研 究 の 拠 点 と し 、 地 域 に 於 け る生 涯 学 習 の 場 と して の 役 割 を 担 う も の で あ り 、 そ の 多 く は 郷 土 博 物 館 的 総 合 博 物 館 と は 異 な り大 学 。学 部 。学 科 の 特 質 に 基 づ く専 門 領 域 を 限 定 した 単 科 博 物 館 で あ る こ と も 、 地 域 に 於 い て は 更 な -13- 平成 21年度文部科学省 「 組織的な大学院教育改革推進プログラム」採択による高度博物館学教育に至る経緯と実践 る特 徴 を 有 す る も の で あ る。 ま た 、 そ の 専 門 性 が 大 学 ・学 部 ・学 科 そ の も の の 具 現 的 展 示 で あ り 、 即 ち 大 学 の 象 徴 で あ り広 告 塔 と な る の で あ る 。 大 学 博 物 館 は 、 こ れ ほ ど 多 岐 に 亙 りそ の 存 在 を 発 揮 し 、 利 用 価 値 の 高 い 施 設 で あ る こ と を 再 確 認 し 、 少 な く と も 学 芸 員 養 成 課 程 を 開 講 して い る 大 学 に 於 て は 、 学 術 審 議 会 に よ る 『ユ ニ バ ー シ テ ィ ・ ミ ュ ー ジ ア ム の 設 置 に つ い て 』 註9 の 報 告 、 『博 物 館 実 習 ガ イ ドライ ン 』 ( 2 0 0 9 年 4 月 ) の に 鋭 意 推 進 させ る べ き で あ る と考 え る。 「3 、 実 習 施 設 」 に も明 記 され て い る よ う 9 、高 度 博 物 館 学 教 育 プ ログラム 國 學 院 大 學 大 学 院 文 学 研 究 科 史 学 専 攻 の 中 に 、 平 成 2 1 年 1 0 月 よ り博 物 館 学 ー コ ス が 新 設 され た の と時 を 同 じ く して 、「高 度 博 物 館 学 教 育 J は 文 部 科 学 省 の 大 学 院 教 育 改 革 推 進 プ ロ グ ラ ム に 採 択 ( 平成 2 1 ・ 2 2 ・ 2 3 年 度 の 3 ヶ 年 ) さ れ た。 目的 は 、 前 述 して 来 た 博 物 館 及 び 学 芸 員 養 成 を 踏 ま え た 上 で 、 博 物 館 学 に 関 す る 大 学 教 育 に 携 わ る こ と の で き る研 究 教 育 者 、 な らび に 高 度 博 物 館 学 知 識 ・技 能 を 有 す る 上 級 学 芸 員 の 養 成 を 目的 と す る も の で あ る 。 特 質 は 、 博 物 館 学 の 体 系 を 意 図 した 科 目 の 充 実 で 、本 学 学 部 の 科 日 との 大 き な 違 い は 「博 物 館 学 史 特 論 J 。「博 物 館 史 特 論 」。「欧 米 博 物 館 史 特 論 」の 学 史 ・館 史 に 関 す る 科 目 を 設 定 す る 一 方 で 、 「資 料 保 存 展 示 論 研 究 ・特 殊 研 究 」。「地 域 博 物 館 論 研 究 ・特 殊 研 究 J の 二 つ の 演 習 科 日、更 に は 「博 物 館 専 門 実 習 ・特 殊 実 習 」・半 講 義 半 実 習 タ イ プ の 「展 示 工 学 特 論 」の 設 定 を 特 質 とす る も の で あ る。「博 物 館 専 門 実 習 は 」通 年 科 目 の 四 単 位 で 、 海 外 イ ン タ ー ン シ ッ プ ( 約 3 0 日 間 ) 。学 内 外 の イ ン タ ー ン シ ッ プ ( 1 5 日 ∼ 3 0 日) を 1 単 位 、 夏 期 の 学 外 調 査 ( 1 週 間 ) 1 単 位 を 含 め て の 4 単 位 で あ る 。 第 二 の 特 質 は 、 複 専 修 制 度 の 設 置 で あ り、 目的 は 、 文 学 研 究 科 の 中 で の 他 専 攻 ( 文 学 専 攻 。神 道 。宗 教 学 専 攻 ) 及 び 他 コ ー ス ( 日本 史 学 ・外 国 史 学 。考 古 学 ・ 美 学 / 美術 史 ) 生 へ の 博 物 館 学 知 識 の 涵 養 で あ り、従 来 の 学 芸 員 養 成 か ら の 離 脱 を 目的 とす る。 国 家 資 格 の 学 芸 員 資 格 は 学 部 卒 業 の 資 格 で あ る 事 は 十 分 承 知 して い る 。 しか し 、 学 芸 員 採 用 要 件 を 見 た 場 合 、 修 士 終 了 が 一 般 的 と な っ て い る 現 在 、 修 士 終 了 者 に 博 物 館 学 意 識 を 涵 養 す る こ とが 重 要 で あ る とす る 考 え か ら で あ る 。 当 該 プ ロ グ ラ ム の 修 了 者 に は 、 國 學 院 大 學 独 自 の 資 格 を 授 与 す る。 博 士 課 程 前 期 修 了 者 に は 國 學 院 大 學 ミ ュ ー ジ ア ム ・ア ドミ ニ ス ト レ ー タ ー を 、 本 資 格 を 取 得 し た 上 で 博 士 課 程 後 期 を 修 了 した 者 に は 博 士 号 の 取 得 の 有 無 に 限 らず 國 學 院 大 學 ミ ュ ー ジ ア ム ・キ ュ レ ー タ ー を 授 与 す る 。 1 0 、実 施 の 具 体 と現 時 点 での 成 果 本 プ ロ グ ラ ム の 遂 行 に 当 た っ て は 、 学 校 法 人 國 學 院 大 學 ・國 學 院 大 學 大 学 院 ・ 國 學 院 大 學 研 究 開 発 推 進 機 構 ・國 學 院 大 學 文 学 部 と い っ た 全 学 的 な 支 援 体 制 の 下 で 取 り組 ん で い る。 取 り組 み 実 施 担 当者 は 、 下 表 で 記 した 1 1 名 -14- よ り成 り立 ち 、 組織 的な大学院教育改革推進プ ログラムJ採 択 による高度博物館学教育 に至 る経緯 と実践 平成 21年 度文部科学省 「 取 組 実 施 担 当者 氏 所 属 部 局 名 ・ 職 名 現在 の専 門 学位 役割分担 文 学 研 究 科 。史 学 専 攻 ・教 授 博物館 学 博 士 ( 歴史 学 ) 代表者 近現代史 博 士 副代表者 岡 田荘 司 文 学 研 究 科 ・史 学 専 攻 ・教 授 文学研究科 ・神道学/ 宗教学専攻 ・教授 神道学 博 上 (歴史 学 ) 神 社 との 教 育 連 携 小 川 直 之 文 学 研 究 科 。文 学 専 攻 ・教 授 民俗 学 博 士 ( 文学 ) 地 域 との 連 携 辰 巳正 明 文 学 研 究 科 ・文 学 専 攻 ・教 授 上代 文 学 博 士 ( 文学 ) 自立 的 教 育 支 援 谷 川 文 学 研 究 科 ・史 学 専 攻 ・教 授 美 学 ・美 術 史 博 士 ( 文学 ) 欧 米 との 教 育 交 流 生 文 学 研 究 科 ・史 学 専 攻 ・教 授 歴 史地理学 ・ 文学修士 地域研 究支援 吉 田恵 二 文 学 研 究 科 ・史 学 専 攻 ・教 授 歴 史 。中 国 考 古 学 文学士 中 国 との教 育 交 流 小 池 寿 子 文 学 研 究 科 ・史 学 専 攻 ・教 授 比較文化 史 修 士 ( 文学 ) 国際広報 谷 口康 浩 文 学 研 究 科 ・史 学 専 攻 ・准 教 授 先 史 考 占学 博 士 (歴 史 学 ) 広報 落 合 知 子 文 学 研 究 科 ・史 学 専 攻 ・准 教 授 博 物 館 学 博 士 ( 学術 ) イ ンター ンシ ップ 青 木 豊 上 山 不日雄 林 和 渥 (文 学 ) 地域 研 究 (中国) 資格授 与支援 そ れ ぞ れ を 分 担 して い る。実 務 の 担 当 は 、國 學 院 大 學 大 学 院 構 成 員 ( 文 学 部 教 授 ) 1 名 、 文 学 部 准 教 授 1 名 ・助 手 1 名 、 國 學 院 大 學 研 究 開 発 推 進 機 構 博 物 館 教 育 研 ・T A 2 名 と大 学 院 事 務 課 〃長 ・課 員 1 名 で あ る 。 究 セ ン タ ー 助 教 1 名 。R A 2 名 以 F 実 施 の 内 容 と現 在 ま で の 成 果 に つ い て 報 告 す る。 一 、 大 学 院 で の 高 度 博 物 館 教 育 と従 来 の 過 程 との 違 い 別 表 で 明 示 した 様 に 、 博 物 館 学 の 体 系 の 理 解 を 目的 とす る科 目群 の 構 成 を 意 図 した も の で あ る。 中 で の 特 質 は 「博 物 館 学 史 」 「博 物 館 史 J と 「博 物 館 専 門 実 習 J で あ る。 本 構 成 で 十 分 で あ る と は 決 して 考 え て い な い が 、 博 士 課 程 前 期 修 了 の 単 位 数 は 「論 文 指 導 J が 2 年 間 で 8 単 位 を 含 め て 3 0 単 位 で あ る と こ ろ か ら 1 5 科 目 3 8 単 位 が 適 当 で あ る と考 え た 次 第 で あ る。 平 成 2 2 年 度 は 、 設 定 科 目す べ て を 開 講 した 。 二 、複 専 修 制 度 設 置 の 目的 と履 修 複 状 況 先 ず 、 本 学 大 学 院 文 学 研 究 科 は 、 文 学 専 攻 ・神 道 / 宗 教 学 専 攻 。史 学 専 攻 の 3 ー ス 、神 道 /宗 教 学 専攻 は 2コ ー ス 、 専 攻 か ら成 る 。 コ ー ス 構 成 は 文 学 専 攻 3 コ ースか 史 学 専 攻 は 日本 史 学 ・外 国 史 学 。考 古 学 ・美 学 / 美 術 史 ・博 物 館 学 の 5 コ ら な る。 複 専 修 制 度 は 、 こ の 博 物 館 学 を 除 く他 コ ー ス 及 び 他 専 攻 生 が 博 物 館 学 を 複 専 修 す る こ とが で き る シ ス テ ム で 、 所 謂 ダ ブ ル メ ジ ャ ー で あ る。 当 該 制 度 の 目 的 は 、 大 学 院 教 育 受 講 生 の 博 物 館 知 識 の 涵 養 を 直 接 に 目的 とす る も の で 、 こ れ は ま た 従 来 の 学 芸 員 養 成 制 度 か ら の 離 脱 を 意 図 した も の で も あ る。 履 修 の 具 体 は 、 先 ず 博 士 課 程 前 期 で は 2 年 間 で 「資 料 保 存 展 示 論 研 究 ・特 殊 研 究 」 ( 演 習 通 年 4 単 位 ) を 含 む 博 物 館 学 専 門 科 目 1 6 単 位 の 取 得 で あ る。 尚 、 1 6 単 位 の 内 、8 単 位 は そ れ ぞ れ の 専 攻 コ ー ス に 於 け る 要 終 了 単 位 と して 認 め られ る。 博 士 課 程 後 期 で は 、 前 期 と同 様 で あ り 3 年 間 で 1 2 単 位 の 博 物 館 学 専 門 科 目の 取 得 を 必 要 とす る。 そ れ ぞ れ の 修 了 者 に は 、 國 學 院 大 學 ア ド ミ ニ ス ト レ タ ー ・國 學 -15- 平成 21年 度文部科学省 「 組織的な大学院教育改革推進 プ ログラムJ採 択 による高度博物館学教育に至 る経緯 と実践 1秋期受 験 1者 博 1士課 程前 1期 ‐ 者 春期 受験 ‐ 71般 11名 合 格 者 │●名 社 会 1人‐ 2名 合‐ 格‐ 者 2名 13‐ 名 合格 1 者1 4 名 社1会人 1名 合格 1者 1名 τ搬 4ヽ1計 博 士 課 程 1後期 27名 ‐ 春期 1受1験1者 一般 4名 12名 合格 者0名 留 学1 生1 名 合 格 者 1名 4ヽ1計 5名 4名 孵31言 十 32名 │ 16名 成 2 2 年 度 陣 物 館 学 コー ス 受 験 状 況 院 大 學 ミ ュ ー ジ ア ム ・キ 三 レ ー タ ー を授 与 す る こ と は 前 述 した 通 りで あ る。 尚 、 國 學 院 大 學 ア ド ミニ ス ト レ ー タ ー の 資 格 は 、 学 部 で の 国 家 資 格 で あ る 学 芸 員 資 格 の 上 に 、 国 學 院 大 學 ミ ュ ー ジ ア ム 。キ ュ ー レ タ ー は 國 學 院 大 學 ア ド ミ ニ ス ト レ ー タ ー の _ L に 重 な る 資 格 で あ る。 平 成 2 2 年 度 の 履 修 生 は 、 日本 史 学 コ ー ス か ら 2 名 、 考 古 学 コ ー ス か ら 1 名 、 美 学 / 美 術 史 コー ス か ら 1 名 の 都 合 4 名 で あ っ た 。 平 成 2 2 年 度 の 博 物 館 学 コー ス ヘ の 入 学 状 況 平 成 2 2 年 度 博 物 館 学 コ ー ス ヘ の 人 学 者 は 、 博 士 課 程 前 期 1 2 名 。博 士 課 程 後 期 4 名 で あ り、 詳 細 は 表 の 通 りで あ る。 3、 プ ログ ラム の 具 体 海 外 の 博 物 館 との 博 連携 の実績 だ ゲ ス ト講 師 物 館 学 の 共 同 研 究 とイ ン タ ー ン シ ッ プ を 受 け 人 れ て い た く 目的 で 、 中 国 西 安 市 に 所 在 す る 予 右 任 記 念 館 と韓 国 釜 山 広 域 市 立 博 物 館 と 協 定 を 締 結 した 。 十 右 任 記 念 館 か ら は 千 大 方 館 長 を 、釜 山 広 域 市 立 博 物 館 か ら は 白 承 工 学 芸 研 究 室 長 と全 前 学 芸 研 究 室 長 の お 2 人 を ゲ ス ト講 師 と し て 招 聘 し た 。 イ ン ター ン シ ップ 中 国 西 安 十 右 任 記 念 館 で は 、博 士 課 程 後 期 1 年 生 1 名 が 平 成 22年 7 月 2 9 日 ∼ 8 月 2 7 日 ま で の l ヶ 月 間 従 事 し た 。韓 国 釜 山広 域 市 立 博 物 館 で は 国 釜 山広 域 市 立 博 物 館 で は 、 7月 2 8 日 ∼ 8 月 2 6 日 ま で の l ヶ 月 間 、博 士 課 程 2 年 生 1 名 が 就 業 体 験 に 参 加 した 。 講演会 ・ 特別講演会 大 英 博 物 館 ア ジ ア 部 日本 セ ク シ ョ ン 長 テ ィ モ シ ー ・ク ラ ー ク 氏 を 招 聘 し 、講 演 会 を 開 催 し た 。聴 講 者 は 、 2 5 0 名 以 上 を 数 え た 。特 別 講 演 会 で は 、仁 済 大 学 教 授 李 永 植 先 生 を お 招 き し -16- 組織的な大学院教育改革推進プログラムJ採 択による高度博物館学教育に至る経緯 と実践 平成 21年度文部科学省 「 「韓 国 仁 済 大 学 校 博 物 館 の 運 営 と社 会 教 育 プ ロ グ ラ ム J と 題 す る ご講 演 を 戴 い た 。 聴 講 者 約 60名 。 学 内機 関 で の イ ン タ ー ン シ ップ 学外機 関で の イ ン タ ー ン シ ップ 國 學 院 大 學 研 究 推 進 機 構 学 術 資 料 館 で 、同 資 料 館 の 内 川 隆 志 准 教 授 の指 導 の 下 で 、博 士 課 程 前 期 2年 生 3名 が通 年 の イ ン タ ー ン シ ッ プ に 従 事 した 。 ・ 東 京 国 立 博 物 館 ・千 葉 市 科 学 館 廣 池 千 九 郎 記 念 館 ( 麗澤 大 学 付 属 博 物 館 ) ・ 丹 青 総 合 研 究 所 ( 展示 業 界 最 大 の 丹 青 株 式 会 社 の シ ン ク タ ン ク) の 以 上 4 機 関 で 受 け入 れ て 戴 い た。 学 外 機 関 との 協 力 ・連 携 大 学 と の 協 力 上 記 の 麗 澤 大 学 ( イ ン タ ー ン シ ッ プ の 受 け 入 れ ) 、 お 茶 の 水 。 日 白大 女 子 大 学 。明 治 大 学 ( 大 学 院 教 員 来 校 ) 、 明 治 大 学 学 ( 大学 院 へ 出校 ) 共 同研 究 山梨 県 立 博 物 館 魔 鏡 の 展 示 を含 め た 総 合 的 研 究 ー 株 式 会 社 パ ス コ との バ チ ャル 3 次 元 映 像 展 示 の 研 究 展示 の協力 加古川市博物館 資料調査 長 野 県 木 島 平 村 。熊 本 県 市 房 山 神 宮 で の 夏 期 調 査 実 習 。 。特 殊 夏 期 調 査 実 習 は 、 前 述 し た よ う に 「博 物 館 学 専 門 実 習 実 習 4単 位 Jの 中 の 1単 位 に位 置 づ け て い る授 業 で 、 野 外 で の 博 物 館 学 調 査 の 実 践 を 経 験 す る こ と を 目的 と して い る 。 長 野県木 島平村 の 調査 19日 ∼ 25日 間 で の 7日 間 に 亙 り 実 施 し 、 木 島 平 村 が 打 ち 出 す 「農 村 文 明 J の 具 現 化 と し て の 展 示 の 構 成 を 最 終 目的 に 今 回 は 基 礎 調 査 と な る 、 村 内 の 3 小 調 査 は 、 平 成 22年 7月 学 校 で 保 存 され て い た 民 俗 資 料 の 整 理 を 実 施 し、 資 料 台 帳 の 作 成 に努 め た 。 熊 本 県 市 房 山神 官 の調 査 1 日 ∼ 7 日 ま で の 7 日 間 に 互 り実 ・懸 仏 ・掛 け 軸 等 を 施 し た 。 奉 納 絵 馬 。奉 納 鳥 居 。木 製 高 杯 。実 測 ・ は じ め とす る 歴 史 資 料 の 目録 作 成 の た め の 写 真 撮 影 拓 本 に よ る記 録 を行 つ た 。 調 査 は 、 平 成 22年 9月 学 生 の研 究能 力 を 高 め る事 業 本 事 業 で は 、 4名 が 海 外 の博 物 館 調 査 をお こ な つ た 。 行 き先 は 、 U K 。 フ ラ ン ス ・ トル コ 。韓 国 で あ つ た 。 国 内 博 物 館 調 が 後 述 す る 『神 社 博 物 館 事 典 』 編 纂 を 目 的 の 1 つ と し て 、神 社 博 物 館 を 加 え 得 て 全 国 各 地 の 博 物 館 査 は 、15名 を 各 人 の 意 図 で 調 査 した 。 -17- 平成 21年度文部科学省 「 組織的な大学院教育改革推進プログラム」採択による高度博物館学教育に至る経緯と実践 博 物館 学教 育研 究 情報 セ ン ター の事 業 セ ン タ ー で は 、 上 記 事 業 の 全 て の 準 備 。調 整 を 担 う と 同 時 本 に 、『神 社 博 物 館 事 典 』 『高 度 博 物 館 学 教 育 プ ロ グ ラ ム ニ ュ ー ス レター 2010』 及 び リー フ レ ッ トの 成 作 。刊 行 を 行 な っ た。 結語 以 上 述 べ て き た 本 大 学 院 教 育 プ ロ グ ラ ム は 、 平 成 2 3 年 度 の 入 学 生 よ り適 用 さ れ る 学 芸 員 の 資 質 向 上 を 目的 と した 新 た な 科 目 の 新 設 と 単 位 増 に よ る 「博 物 館 法 施 行 規 則 」 の 改 正 に 伴 う 。博 物 館 学 大 学 教 員 の 需 要 と 団 塊 の 世 代 の 退 職 も相 侯 っ て 博 物 館 学 芸 員 の 需 要 と 言 つ た 世 の 中 の ニ ー ズ に 呼 応 す る も の と 考 え て い る。 ま た 、 基 本 的 に は そ れ は 我 が 国 の 博 物 館 の 改 善 に 直 結 す る も の と考 え て い る 。 従 つ て 、 基 本 目的 を 完 遂 す る に は 博 物 館 意 識 を 持 っ た 学 芸 員 の 雇 用 が 先 ず な け れ ば な ら な い 事 は 確 認 す る ま で も な い 。 そ れ に は 、 先 ず 学 芸 員 有 資 格 者 の 採 用 と配 置 が 基 本 で あ る こ と は 繰 り返 す ま で も な い 。 是 に は 、 文 部 科 学 省 か ら各 都 道 府 県 教 育 委 員 会 へ 「学 芸 員 有 資 格 者 の 採 用 と配 置 に 関 す る 通 達 J ( 仮 称 ) 等 に よ る 積 極 的 な 指 導 を お 願 い す る も の で あ る。 註 1 青 木 豊 2 009 「 学 芸 員 有 資 格 者 の 採 用 を 求 め て 」『全 博 協 研 究 紀 要 』 全 国大学博 物館 学講座 協議 会 第 11号 註 2 青 木 豊 2 007 「 註 3 青 木豊 博 物 館 法 改 正 に 伴 な う資 質 向 上 を 目的 とす る学 芸 員 養 成 に 関 す る考 察 」『博 物 館 学 雑 誌 』 第 3 3 巻 第 1号 2010「 博 物 館 学 史 序 論 J 『國學 院 大 學 博 物 館 学 紀 要 』第 3 4 輯 『博 物 館 実 習 ガ イ ドライ ン 』 文 部 科 学 省 1979『 田公 裕 博 物 館 学 』 東 京 堂 出版 2003 「 田茂 弘 大 学 博 物 館 の す す め 」『学 芸 員 』 7 学 習 院 大 学 学 註 4 2009 註 5 倉 註 6 岡 註 7 伊 能秀 明監修 註 8 2006 註 9 1996 芸 員 資 格 取 得 に 関す る委 員 会 2007『 大 学 博物 館 事 典 』 日外 ア ソ シ エ ー ツ 『全 国 大 学 博 物 館 学 講 座 開 講 実 態 調 査 報 告 書 』 ( 第 1 0 回 ) 全 国大 学博 物館 学講座 協議 会 ー シ テ ィ ー ・ミ ュ ー ジ ア ム の ユ ニ バ 『 設 置 につ い て』 学術 審 議 会 学術 情 報 資料 分科 会 -18- 構想 の推 進 と現状 千葉県 の博 物館 state of established Chiba Prefecture Promotion and a museum 前川 公 秀 MAEKAWA Masahide l は じめ に 一 千葉 県 の 博 物館 は、ご く 部 の 例 外 を除 き 9 0 % 以 上 が 、戦後 に な つて 設 立 され た も ので あ る。 県 立博 しか も、昭和 4 0 年 代 に入 つて 急 速 に増 力日してい る。 それ を背 景 と して 、昭和 4 3 年 に 「 一 物館 設 置構 想 」が立 案 され 、昭和 4 8 年 に 部 手 直 しが加 え られ構想 と して策 定 され た 。それ は、 「 千葉 方 式 J と 呼 ばれ 、 全 国 で も類 例 の な い 博 物館 網 の整 備 推 進 をめ ざ した も の で 、 当時画期 的 な構 想 と して注 目され た が 、そ の 実現 に長 い 歳 月 を要 したた め 、現在 で は 当初 の 計 画 か ら大 幅 な変 更 が加 え られ るに至 って い る: この 稿 で は 、千葉 県 内 の博 物館 史 の概 要 を振 り返 り、 そ の 流 れ の 中 か ら生 み 出 され た県 立 博 物館 の 設置構想 の 推 進 の 経過 と当初 の構 想 か ら変 更 され た現 状 に つ い て 紹介 した い 。 2 県 内博 物館 の歴 史 的推移 は じめ に、 県内 の博 物館 の 推 移 に つ い て 、述 べ てお きた い 。 今 回取 り上 げ よ う とす る設 置構 ー 想 が策 定 され た昭和 4 8 年 の 3 月 3 1 同 時点 で の デ ー タ に よれ ば 、明治年 間 で は 2 館 、大 正 年 間 に 2 館 。昭和 1 ∼9 年 間 に 1 館 。昭和 1 0 年 代 に 1 館 ・昭和 2 0 年 代 に 6 館 。昭和 3 0 年 代 に 1 1 館 が設 置 され 、昭和 4 0 年 代 は 3 9 館 で あ り、合 計 6 3 館 を数 え る こ とが で き る ( 設立 年 不 明 1 館 ) 。 また 、 昭和 を戦 前 、戦後 に別 けて設 置状 況 をみ る と、戦 前設 立 6 館 立 56館 (90.5%)と ( 9 . 5 % ) 。 戦 後設 な る。 以 上 をふ ま え 、歴 史 的 に概観 してみ た い 。 ( 1 ) 明 治期 千葉 具 にお け る最 初 の 博物館 的施 設 は 、 明治 3 6 年 の 千葉 県物 産 陳列館 で あ った と思 われ る。 しか しこの館 は、勧 業 政 策 の 一 環 と して 県 内 の 産 業 の 改 良 と発 達 を め ざ した も の で 、厳 密 に は 1 〕そ の 意 味 で 、 前述 した 明治年 間 2 館 の 中 博 物館 施 設 と して位 置 づ け る こ とは困 難 で あ る。 〔 には含 まれ てい な い 。 この 2 館 は、誕 生 寺霊 宝 館 と神 野 寺 宝物 拝観 所 で あ る。 双 方 と{ ) 日蓮 に ゆ か りの あ る寺 院 と して の 什 物保 存施 設 で あ る。 この よ うな寺 院 の宝 物館 と して の博 物館 の 出発 は、 日本全 体 の 流 れ に則 した も の と言 え るで あ ろ う。 この 他 に 、明治 2 7 年 に東 京 帝 国大 学 の 附属施 設 と して 演 習林 が設 置 され てい るが、一 般公 開 を 目的 と した も ので は な く、博 物館 施 設 とは 考 え難 い 。 (2)大 正期 大 正 期 に も 2 館 の 設 置 が あ つた 。 そ のひ とつ は 、鏡 忍寺宝物館 で 、 明治期 と同様 寺院 の 什 物 -19- 千葉県の博物館設置構想の推進と現状 保存施設 である。他 のひ とつ は 、大 正 14年 4月 に 開園 した谷津海岸遊 園地である。 これ は 、 開園時は単 なる遊 興施設 であったが 、昭和 26年 か ら 28年 にかけ動物 園 が整 備 され 、翌 29年 には博物館相 当施設 としての指定 を受 けて い る。 (3)昭 和初期 昭和期 に入 り、10年 代 まで博物館 は 2館 の設置 が あ っ た。す なわ ち、昭和 7年 東京水産大学 の小湊 実験場 に附属 の水族館 が設 け られ 、一般 に も公 開 され た。千葉 県 にお ける最 初 の水族館 であつた。 また昭和 10年 には宗吾霊宝館 が 開館 してい る。 これ は、木 内惣 五 郎 (佐倉宗 五 郎) の遺 品や 関係 資料 を公 開す る 目的で投 置 され たが 、同時に郷 土 資料 を集 めて展示 してお り、 こ れ まで県 内にはなか つた博物館施設 として注 目す べ き もので ある。因み に 、この宗吾霊宝館 は 、 昭和 30年 に博物館相 当施設 としての指定 を うけてい る。 (4)日 召不口20Z手イ t 昭和 20年 代 には、6館 の設置が確認 で きる。 この 頃 において も、寺続 の什物保存施設 として 成 田山霊光館 (昭和 22年 )、清澄寺宝物館 (昭和 24年 )の 2館 が設 立 され てい る。 しか し、 特徴 的な の はt観光施設 としての博物館 が建 設 され は じめた ことで あ る と思われ る。た とえば 、 昭和 10年 の銚子水族館や 、 や は り銚子 のアシカ島付近 に開設 された私立 の思号庵美術館 な どで あ り、 これ を契機 として観 光地 での博物館 に注 目され る こととなる。 しか しこれ らの施設 の 中で 、成 田山霊光館 は単 な る寺院 の宝 物館 とい う目的だ けではな く、 下総地方 を中心 とす る考 古、民俗 、近世文書 な どについ て積極 的な調査 ・収集 ・展示 を行 い先 駆 的な役割 を果 た した。 これ に よ り、県 内にお いて本来 の博物館 の使命 が示 され る こ ととなっ た。 (5)昭 和 30年 代 昭和 30年 代 の博物館 の設置 は 11館 である。 この 頃 になる と、首都 圏 に近い とい う地理的条 件 に よ り地域 開発 が急 速 に進 め られ 、全 国有数 の埋 蔵文化財 を保有す る地 として 、発掘 に よ り 出土 した文化財 を保存 。公 開す る施設 の整備 が急 務 とな つた。 そ の結果 、博物館 として設 置 さ れ 、そ の代表 的な もの として芝 山はにわ博物館や金鈴塚保 存館 な どがあ る。 さらに地 域 開発 に 伴 う自然保護施設 として 、野猿 の保 育 を 目的 とした愛宕 山 自然動物 園な どの設置 もあ る。 また人 口の増 加 に よる県民構成 の 多様化 も進 み、郷土 の歴史 と伝統 へ の認識 が希薄化す る傾 向 が顕著 にな って きた。そ の ため郷 土 に根 ざ した博物館 が検討 され 、昭和 34年 野 田市郷 土博物 館 が 開設 され たのをは じめ、郷 上 の偉人 を顕彰す る伊能忠敬記念館や 大原 幽学遺物保存館 な ど か設 立 され てい る。 この他 、観 光的施設 として も、行川 アイ ラ ン ドや勝浦市猿 ケ城遊 園地 な どもある。 しか し、この 30年 代 で最 も注 目す べ き こ とは 、は じめての 県 立博物館 としての県 立 富津海洋 資料館 が 開設 された こ とであろ う。 これ は、 「 海洋 に 関す る歴 史、民俗 、産業及 び 自然科学 に 関 す る資料」を対象 とす る専 門館 的性質 の総合館 で 、規模 は敷地面積 3743.5ぽ 、資料館 の建坪 は 455.05ど を有 し、 3棟 か らな る施設 であつた。 この 専門館 と しての発想 は 、後 の県 立博物 館設置構想 の基 にな るもので あ り、 ここで収集 され た資料 は、そ の基礎 となってい る。 この よ うな博物館 の設置 を受 け、昭和 37年 6月 には 「 千葉県博物館協会Jが 組織 され るに 2〕 至 った。 出み に 、設 立 当時 の加盟館数 は 10館 であった。 〔 ― ー ー (6)昭 和 40年 代 博物館設置 ブ ム 昭和 40年 代 は、県 内にお い て博物館 の設置 が数 多 くな され た時期 である。前 述 した よ -20- 千葉県の博物館設置構想の推進と現状 昭和 48年 3月 の統計 に よれ ば県内 の博物館総数 は 63館 で あ り、そ の うち この 40年 代 に 39館 設置 され、半数以 上の数 とな つてい る。全体的な傾 向 か らみれ ば、30年 代 と同様 、地域 開発 と 点が 置 かれ 、そ の結果 市町村 立の博物館 が急 増 して い るの 人 口増加 に よる郷 土資料 の保護 に重′ が特徴 であ る。 これ について は、昭和 45年 度 か ら 2年 間 の推移 (表 1)を 見 て も、種別 では歴 史系博物館 が 20館 増力日し、設置者別 で も市町村 立博物館 が 19館 増 えて い る こ とか らも裏付 け す る ことがで きる。 あま りの数 が 多 いため 、 ひ とつ ひ とつ館名 をあげ記載す るこ とはで きな いが 、 この よ うな背 景 が 、県 立博物館 の設置 に大 きな影響 を与 えて行 く。 3 博 物館分布 の傾 向 総合博物館 5館 (8%)。人文系 39館 (62%)。 昭和 48年 3月 時点 での博物館 を種類別 にみ る と、 自然 系 19館 (30%)に 分類す るこ とができる。 この場合 、総合博物館 とは、2つ 以 上の分野 に 郷 土史的Jな 傾 向 が強 く、人文 かかわ った内容 を有 してい る とい う意味 であるが 、全体的 に 「 系 に入れ て もよい よ うに思われ る。全体的 に人文系 とくに歴史博物館 的 な t)のが 、34館 (54%) を 占めて い るのに対 し、 自然系 では動物 園、植 物 園、水族館 が主で 自然 史や理 工 学 関係 を専 門 にあつ か う博物館 は皆無 であ り、極 めてア ンバ ラ ンス な様相 を呈 してい る。 また、種類別分布状況 をみ る と、そ の 当時急速 な都市化 を遂 げ、地域 開発 の著 しか つた市川 ・ 船橋 。千葉等京葉 工業地帯 を中心 に、市立 の歴 史博物館 の設置 が認 め られ る。 さ らに成 田市周 辺や水郷 を中心 とした北 総 地域 では 、 とくに歴 史的 な市町村 にお ける歴 史博物館 が設 置 され て い る。 一 方、県南では、安房 地方 を中心 と して 日蓮 関係 の 寺院 の宝 物館や観 光的 目的 で役 立 さ れ た館 園 が多 く、首都 圏 の行楽地 と結び つい た施設 が特徴 的であ る。全体的 に歴 史系博物館 は 、 県下全 般 に広 く分布 し、動物 園 ・植 物 園 ・水族館等 の 自然 系博物館 は、観 光 の 中心で ある県南 部 に設置 され てい る。 昭和 40年 代 の急速 な博物館 の設置 は、全 国各 地で起 こっていた。各県 では博物館 が連携す る た めの方 策 が求 め られ ていた。 この よ うな課題 を背景 として、千葉県 では県立の博物館 を設 置 す るに際 して 、市町村 の博物館 との連携 をめ ざ し、県下 の博物館綱 の成 立 を 目標 とした県立博 物館設置構想 が策定 され る 千葉方式」と呼 ばれ 、全 国的 に注 目された県 立博物館 の設置構想 について述 べ るこ と 次 に、 「 とす る。 4 県 立 博物館 の設置 県 立博物館 の設置 にあた って は、昭和 43年 教育委員会社会教育課 に博物館準備 室が設 け られ 、 設置構想 の作成 が始 め られ た。 同準備 室では 、 当時 の 県 内にお け る博物館 の設置状況、人 口分布 、観 光客 の動態 、交通網 、 文化財 の分布状況 な どのデ ー ター を分析検討 して 、昭和 43年 11月 に 「 県 立博物館設 置構想 (案)」 (以下、 「 第 1次 構想 」 と記す )を 作成 した。 この構想 は、それ までに類例 の な い視 点 に立 った もので 、まず 県内数 力所 に専門館 を設 置 し、 相 互 に関連 を持 たせ なが ら運営 しつ っ、最後 に総合 館 を設 置 して 、県下全 域 に博物館 の網 を張 りめ ぐらす とい うもので あ った。 そ の基本 的な コ ンセプ トは、次の とお りであ る。 -21- 千葉県の博物館設置構想の推進と現状 1 県 立 博物館 を博物館法 に基 づ き設 置 し、県 内にお ける文化財 資源 の 開発 に よつ て た 得 自 然 科学お よび 人文科学 に関す る各 種資料 を収 集 、保管 、展示 して 県民 の利用 に供 し、その教養 、 調 査研 究、。レク リエ ー シ ョン等 に資す るた めに必 要な事業 を行 な い 、実 生 活 の 向上 に資す る とともに文化財保 護 を図 る。 (1)県 都 には歴 史 中央総合博物館 と科学博物 館 、美術博物館 を設 置 し、県内博物館施設 の総合 セ ン ター とす る。 (2)県 内数 ケ所 の地 域 に本 県 の豊富な埋 蔵 文化財や 民俗 資料等 を保 管展示す る考 古館 、民俗 資 料館等 の専 門館 を設 置 し、郷 土 の理 解 と県民意識 の 高揚 に役 立て る。 2 各 市町村毎 に郷 上の歴 史的、美術 的、科学的資料等 を展示す る郷土資 料 室の設置 を奨励促進 し、地域住民 の利用 に供 し、地域文化 に眼 を開かせ るこ とに努 める。 3 工 業地帯 に進 出す る企業 を中心 とした生 産的な各種 の産業専門館 の設置 を奨励 し、自然科学、 産業資料 両面 につい ての県民へ の サ ー ビス を考 える。 4 そ の他 、私 立の観 光施設 に併設 され た水 族館 、動物 園、植 物 園等 も充実 させ 、博物館 め ぐ り 等 に よる教育活動 を盛 ん にす る。・ 〇以上 の設置計画 を立案す るに際 しては 、次 の よ うな基本 的 な性格 に留意す る。 ア)博物館 を単な る建造物 としてのみ 考 えるのでな く機能 的に とらえ、社会教育施設 として 、 また 、資料 な らび に情報 。学術及 び文化 、研 究 のセ ン ター としての役割 と使 命 を考 え、県 内にお ける奉仕網 の確 立 を図 り、博物館相 互 の連絡提携 に よつ て 県民 に対す る奉 仕 体制 を 整備す るこ とを充分考慮す る。 イ)近 代 の博物館 を事業 セ ン ター として考 えるな らば 、積極 的な もので あ り動 的な もの とし て 、教育的配慮 の も とに展示 計画 を密 に して 一般公衆 な らび に児童、 生 徒 、学生 の利用 の 便 を考慮 した拠点 とす る。 ウ)県 民 の 実生活 な らび に一般教養 の 向上 に資 し、 あわせ て 専門的、技術 的な調査研 究 を助 長す るために必要 な施設お よび事 業 を考慮す る こ と。 工 )教 育 ・学術 。文化 または産業振 興等 に関す る各種機 関団体 と協 力 し、そ の活動 を援助す るために必要な事業または運営 を考慮す る こと。 オ )資 料 の展示 内容 ・方法 な らび に環境整備等 につい ては本 県 の文化 的遺産等 に特色 を もた せ るよ うに配慮す る こ と。 ▲ ▲ この 第 1次 構 想 にお い て の 設 置す べ き博物 館 と して 掲示 され た の は、表 2の とお りで あ る。 こ こで は、県都 に歴 史 中央 総合博 物館 、科 学博 物館 、美 術博 物館 を設 置 し、県 内数 ヶ所 に考 古 、 民俗 な どの 専 門館 を配 置 す る こ とが提 示 され た 。 県 内 にい くつ か の 専 門館 を置 く こ とに よ り、 博 物館 を社 会 教 育施設 と して 、 また 、資料 な らび に 情報 。学術 及 び文 化 、研 究 のセ ン タ ー と し て の役 割 と使 命 を持 たせ よ うと してい る。 以 上 の よ うな基本 的な コ ンセプ トを基 に、 い よい よ本格 的な構想作 りに入 ることとな った。 そ の結果 、昭和 4 8 年 3 月 に 『千葉県 の博物館設置構想』 ( 以下、第 2 次 構想 と記す) と して 、 4〕 構想 が策 定 され た。 〔 ここで 、第 1 次 構想 との比較 をす るために、第 2 次 構想 の基本 的 コ ンセプ トについ て記 して お く。 ( アンダー ライ ンは 、第 1 次 構想 と表現が変 わ った部分) -22- 千葉県の博物館設置構想 の推進 と現状 つて 得 た 自 1 県 立 博 物館 を博 物館 法 に基 づ き設 置 し、県 内 に所 在す る文 化財 、また は 開発 に よ し そ の 教養 、 の 然科 学 お よび 人文科 学 に関す る各種 資料 を収集 、保 管 、展 示 して県 民 利 用 に供 、 の 内容 を豊 ー い 調 査研 究 、 レ ク リエ シ ヨン等 に資す るた め に必 要 な事 業 を行 な 、文化 的 な生活 か に し、本 県 に対す る理 解 と県 民意 識 の 高揚 に役 立 て る と ともに文化 財 保護 を図 る。 の 中央 に 中央総合 博物館 と科 学博 物館 、美 術博 物館 を設 置 し、県 内博 物館 施 設 の 総合 セ ン タ ー とす る。 ・ (2)県 内数 ケ所 に、地域博 物館 を設 置 し、 そ の 地域 の 特 色 あ る資料 を収集 し、 これ を保 管 一 展示 す る と ともに、 部 専 門性 を もた せ 、地域 住 民 の利 用 に供 す る。 2 県 立 博 物館 以外 の博 物館 、同相 当施 設 及 び類 似 施設 に つ い て は 、そ の 新設 を奨励 促 進 し、ま (1)県 た 既設 の も の を さ らに充 実 強化 して 、 地域 住 民 の利 用 に供 し、 そ の 文化 的 向 上 に資す る。 ・ ・ (1)各 市 町村 に所在 す る歴 史 的資 料 を収集 保 管 展示 す る施 設 の 増設 と活 動 の 活 発 化 を図 る。 (2)県 内企 業 の公共 的 サ ー ビスの 一 環 と して 、特 に産 業 資料 に重 点 をお く博 物 館 等 の 新設 と そ の 充 実 を促 す。 (3)既 設 の 私 立 博物館 の 充 実 、水族館 、動 物 園、植 物 園等 の 教 育活 動 を強化 す る。 ▲ ▲ 以 上 の よ うに 、第 2次 構想 にお け る基 本 的 コ ンセ プ トは、大筋 で は 第 1次 構 想 を引 き継 い だ 地域 博 物館 を設 置 し」 も の で あ るが 、 さ らに進 んで 第 1次 構 想 で の 専 門館 は 、第 2次 構 想 で は 「 一 とあ る よ うに地域性 が強 調 され 、 部 専 門性 も残 した性 格 付 け とな つた 。 また地域 の 市 町村 立 博物館 との連 携 も指 摘 され 、強 固 な博 物館 網 の 成 立をめ ざ し、県 立博 物館 を 中 心 とす る県 主 導 型 の構 想 で あ つた 。 5 「 千葉 方 式 」 に よ る設 置構 想 の 成 立 第 2次 構 想 で は、博 物館 が よ り多 くの 地域住 民 と結 び つ き、 よ り効 率 的 に定 着 して い くた め には、県 立 博 物館 は 1館 の み で は な く、地域博 物館 と して県 下 に 分散 して設 置す る (博物館 分 散 方 式)こ とが最適 で あ る と強 調 され て い る。 そ の 要 因 と具体 的 な推 進 に つ い て 、第 2次 構 想 の 中 で 次 の よ うに記 して い る。 ▼ ▼ (略)本 県 で は、 (略)博 物館 が よ り多 くの 地域住 民 と結 び つ き効 率 よ く定着 す るに は 、県 の 中 央 に 1館 の み で な く、分散 方 式 が 最 良 の 方 法 で あ る と判 断 した 。 分 散 方 式 とは、県 内数 力 所 に地 域 博 物館 と、県 の 中央 に総合 博 物館 、美 術館 とを設 置 し、 そ ー れ ぞれ を拠 点 と して全 県 下 に広 く博 物館 施設 の ネ ッ トワ クを確 立 す る こ とにあ る。 この シス 一 テ ム を通 して 、県 民 が手 近 に博 物館 を活 用 で き る よ うに配 慮 す る 方 、各 地域 の 特色 を もつ 各 種 資料 をそれ ぞれ の 博 物館 で 収集 ・保 管 。展示 して い こ う とす る考 えで あ り、 この よ うに資料 の 保 存 な らび に活 用 の二 面対 策 に意 義 を もつ も の で あ る。 この た め地 域博 物館 を設 置 す るに あ 。 た って は適 正 な配 慮 を考慮 しな けれ ばな らな い 。 本 県 は大別 して北 か ら南 へ 下総 ・上 総 安 房 の 3国 か らな つてい た が 、 これ らの 各 地域 の 交通 。人 口 ・観 光 客 。文化財 等 の 資料 。既 設 の 博 物館施設等 の実情を分析 し、各地域 に 1館 も しくは 2館 設 置す ることとした。地域博物館は各 地域 の文化 。自然を物語 る展示館 の色彩 を出す とともに専門館 としての要素をもたせ る。 (略) 千葉県の博物館設置構想の推進 と現状 県 立博物館 の分散方式 をめ ざす理 由 として 、県民が手近 に博物館 を活用 す るこ とがで きる と と もに 、各地域 の特色 を もつ 各種資料 を収 集 、保管 、展示 で きるこ とをあ げて い る 。 そ して 、 地域 博物館 の設 置場所 につい ては 、① 千葉県が 古代 よ り下総 。上 総 。安房 の三 国 か ら成 り立 っ ていた こ と。②県下 の交通、人 口、観光客、文 化財 等 の調査結果。 ③既設 の博物館 の 設置状況 な どの分析 によ り、三 国 の それ ぞれ に 1館 も しくは 2館 を設 置す る としてい る。 これ に よ り設 置す べ き博物館 は表 3の とお りとされた。 それ らを地 図上 で示 す と 1図 とな 第 り、地域博物館 の配置 に よ り、県下 の どの地 域 に住 んでいて も、至便 な交通機 関によ り短 時間 で到達 し、気軽 に活用で きる とい う考 えである。 この考 え方 は、それ まで全 国的 に実施 され て い た県都 1館 方式 とは大 き く異 な り新 たな方 策 として 、 い わゅる 「 千葉方式 」 として全 国 か ら 注 目され るこ ととなった。 「 千葉方式 」 の推進 にあたっては 、県民 の利便性 を考慮 して地域博物館 か ら整 備 し、最終的 に 中央総合博物館 を設 置す る とい う方法 が取 られ るこ とになった。 そ のた めに 中央総合博物 館 は人文 系 。自然系資料 をあわせ持 ち集 中管理す る収蔵 な機 能 と、全 県的な情報 セ ン ター として の機 能 を兼 ね備 えた総合博物館 とす る必要がある。 ここで収蔵 され 、整備 され た資料 は各地 域 博物館 において活用す るよ うに し、資料 の流通 の 円滑化 をはか るこ とを特 徴 とした。 「 千葉方式」 による博物館 の役割 と機 能 を整理すれ ば、次の よ うになる と思われ る。 〔 中央総合博物館〕 (1)全 県的な人文系 。自然系資料 を対象 とした県 内博物 館 の総合 セ ンター と しての役割 を果 たす 。 (2)資 料 の科学保存 の研 究 セ ン ター としての役割 と機 能 をもたせ る。 (3)全 県下 の資料総 目録 を作成す る。 また各地 域博物館 、市町村 立の博物館等 と資料 の相 互 貸借 の 円滑化 を図 る。 一 方資料 カー ドの統 一 に よ り、 コ ン ピュー ター を導入 し、資料 の分 類 ・整理 の 中心的役割 を果 たす とともに、資料 の情報 セ ン ター とす る。 (4)本 館 、または地 域博物館 で企 画 した特別展 を他 の地域博物 館等 で巡 画展示 を行 な う場合 、 そ の企画 の 中心的役割 を果 たす 。 (5)展 示 に 関す る専門的な研 究部 門を確 立 し、展示 の技術 的な開発 を行 な い 、そ の技術 を地 域博物館 に も役 立て る。 (6)県 博物館協会等 の各種機 関 ・団体 との相 互 協力 を図 る。 地 域博物館〕 〔 (1)各 地域 の人文系 。自然系資料 の収集 ・保管 ・調 査研 究 し、展示す る。 (2)地 域性 のほか 、一 部 に専門性 を もたせ た展示 をす る。 (3)展 示活動 のほか 、学級 。講座 。講演会 。講習会等 を行 な い地域 住 民 の知的教養 を高 め る とともに 、文化財愛護 。自然保護等 の思想 を啓蒙す る。 (4)中 央総合博物館 、 または他 の地域博物館 で企 画 した特別展 の巡 回展示 をす る。 (5)教 育普及活動 の一 環 として 「 博物館友 の会Jを 組織す る。 以 上の役割 と機能 に よ り、 中央総合博物館 と地 域博物館 との 関係 には 、 中央総合博物館 に、 地 域博物館 を統括す る総合 的なセ ンター としての機 能 のほか 、研 究、情報 、展示企画 、展示技 を持 たせ ることにな つた (センター機能)。ま た各 々地域博物館 は 、 術 のセ ンター としての役害」 地域性 のほか人文系 あるい は 自然系 の 専 門性 を兼 ね備 えた博物館 として 、展示室 を中心 に必 要 最小 限 の博物館機能 を果す施設 として設 置 され るこ とにな った。 これ は、 中央総合博物館 のセ -24- 千葉県の博物館設置構想の推進 と現状 ンター機能 に よ り補填 され る とともに、各館相 互 に機能 を分担 し、緊密 な連携 を図 り、同等 な 機能 を持 つ博物館 のネ ッ トを張 りめ ぐら して 、県民 が等 しく、博物館 を活用 で きる こ とをめ ざ した。 さらに、各 々市町村 立 。私 立の博物館 と連絡 を密 に して 、各館 園 の 向上 をめ ざす こ とに よ り、県下 の博物館 の活動 を活発化す る こ とがで きる として い る。 この構想 は、従来 にはない 画期 的な計画 であ り、そ の 実現 に よ り特色 の ある博物館活動 が期 待 され る ところであつた。 6 設 置構想 の推進 と検討 この構想 に基 づ き、昭和 46年 1月 県 立博物館 の第 1号 館 として、木更津市 に県 立上 総博物 館 が設置 され た。 同館 は、第 1次 構想 での考古専門館 が 、地域博物館 として変更 され 、古代 三 日 の上総 国に開館 した もので ある。 そ して昭和 48年 には県 立安房博物館 (館山市)、昭和 50 年 に県立総南博物館 (大多喜町)、昭和 51年 に県立房総風上記 の丘 (栄町)、昭和 54年 に県立 大利根博物館 (佐原市、現香 取市)と 計画 に従 い設置が推進 され 、残す ところ中央総合博物館 の設置 の み とな った。 (この 間、昭和 49年 に千葉市 に県立美術館 が設置 されて い る。) しか し、 ここに多少 の 問題 が生 じて きた。す なわち、第 1号 館 が設置 され た昭和 46年 か ら 県 立 大利根博物館 の設置 まで、約 10年 が経過 して い たた め 、地域博物館 は、各地域 の 文化 、自 然 を物語 る展示館 の色彩 を出す こ とを性格 づ け られて い たが、必然的 に未設置 の地域 も対象 と す る こととなつた。 特 に、県 立 第 1号 館 であ った上総 博物館 は、西 上総地方 の地域博物館 とそ の信仰 、学芸 、古 美術資料 を対象 とす る専門館 として設 置 され たが、次 第 に県 内全域 を対象 とした総合 的な歴 史 博物館 として の性格 を有 して きた。 ところが 、開館 以来 10年 を経過 し、そ の 間に 5館 の県 立 博物館 が設置 され 、新 たな各館 は、上総博物館 な どの既設 の 博物館 との地 域 の重複 を避 け、地 域 の総合 的な博物館 ではな く、地域 の特色 を生か した よ り専 門館 的 な性格 を強調 し、全県下 を 対象 に活動 を行 う専門館 となって い つた。 この背景 には、地域住 民 の博物館 に対す る専門的要求 が 高ま り、 さらに市町村 にお いて も博 物館 の建 設 が促進 され て きた とい う点 が要因 とな つてい ることが指摘 で きる。 た とえば、館 山 市 にお いて 市 立博物館 の建設 が計画 され たため 、同地域 に設 置 され ていた安房 博物館 では 、地 域性 は避 け、海洋民俗 をテ ー マ とした全県的な専門館 として の性格付 けがな された。 この よ うな県 立博物館 の 専門館 的位 置付 けは、各地 か ら新 たな県立博物館誘致 の要望 が 出 さ れ る要因 とな り、構想 にはなか つた地域 へ の博物館設置 が検 討 され るこ とにな り、 中央総合博 千葉県 の博物館設置構想検 物館 の設置 は次第 に遅れ気 味 とな っ て行 つた。そ こで 昭和 55年 に 「 討委員会」 が設 置 され 、県 立博物館設置構想 の 再検討 がな され た。 そ の結果 、現状 では 中央総 合博物館 の設置 に見通 しが立たず 、設置 され た として も資料 の収蔵機 能や展示 企画機能 な どは 、 既設 の 県 立博 物館 の活動 を制 限す る との危 惧 が述 べ られ 、既設博物館 の専 門性 を尊重 し、地域 性 を さらに弱 くして、全県 を対象 とした専門館 として位 置付 け され るこ ととな つ た。 それ に よ り新 たに検討 された各博物館 の専 門性 は、表 4の とお りであ る。 この 専門性 の強調 に よ り、地域 に 1館 あるい は 2館 を設置す る とした 当初 の構想 に とらわれ る こ とな く、新 たな県立博物館 につい て検討 が可 能 とな り、設置構想 の 改訂 がな され た。 ここ では 、第 2次 構想 での 中央館 と地域館 に よる博物館網 ではな く、複数 の 専門館 でひ とつ の総合 県 立 博物館 ネ ッ トワー ク構想 」 博物館 として活動す る博物館網 (ネッ トワー ク)と な るため、 「 -25- 千葉県の博物館設置構想の推進と現状 と呼ばれ てい る (以下、第 3次 構想 と記す)。この結果 、第 2次 構想 で述 べ た よ うな中央総 合博 物館 が 、地域博物 館 を総 合的 に統括 して 中心 的役割 を果 たす とい う図式 ではな く、 中央総合 博 物館 も地域博物 館 と同一 円周上 に位 置す るここになったが 、様 々 なセ ン ター 的な機 能 は 、そ の まま 中央総合博物館 に残 され るこ とに な った。 (第 2図 ) フ 県 立 博物館網の整備 第 3次 構想 では 、中央総合博物館 の設置促進 を め ざす とともに、新 たに 「 房総 のむ ら」 「 現代 「 産業科学館 」 関宿城博物館 」 の設置 につい て検討 され た。 この結果 、 中央総合博物 館 は 、 「 中 央博物館 」 としてセ ン ター機 能 の役割 を担 うとともに、既設 館 に欠 けて い た 自然誌 の 専門性 を 強調 し、一 部人文系 (歴史)を 加 えた総合博物館 として 、県都 の 千葉市 に平成元年 に 開館 した。 また 、房総 の む らは、江戸 後期 か ら明治 初期 の農家 。商家 な どを再 現 した博物館 で 、房総 の伝 統 的生活様式や 風俗 ・習慣 ・儀礼等 を保 存 、継承 し、昔 の生活 を体験す る体験 博物館 として 、 昭和 61年 に開館 した。 この博物館 は 、地域住 民 の 多様 な要望 に答 えるた め、従来 の博物館 には なか った体 験 を主体 とした博物館 として 、国際空港 を有す る成 田市 に隣接す る栄町 に設置 され 、 注 目を浴 びてい る。 次 に現代産業科学館 は 、京葉 工 業地帯 を抱 える立地 条件 を生 か し、産業 に 応 用 され た科 学技術や科学 の原 理 を、子 どもか ら大人 まで を対象 に、体験 を適 して 学 ぶ ことが で きる理 工 系 の 専門博物館 として 、平成 6年 に開館 した。 同館 は、第 2次 構想 の基本 的 コ ンセ プ トに述 べ られ ていた科学博物館 が実現 され た もの と言 うことがで きる。 さらに平成 7年 度 に は、 「 河り││と それ にかかわ る産業」 をテ ー マ にく千葉 県 の北端 で ある関宿 町 (現、野 田市)に 、 関宿城博物館 が 開設 され た。 そ の結果 、表 5の とお り 10館 の 県 立博物館 が設置 され 、全 国に 誇 り得 る博物館ネ ッ トワー クが整 備 され るに至 った。 さらに中央 博物館 の分館 として海 の博物 館 が 、「 房総 の海 の 自然誌」をテ ー マ に平成 11年 に勝浦市 に開館 し、 「 山の分館」も フ ィール ド ミュー ジアム として展 開 してい る。 (表 5、 第 3図 ) 8 博 物館設置構想の現状 県 立博物館 は 、昭和 46年 に上 総博物館 が設置 され てか ら 18年 近 くが経過 し、平成元年 に 中 央博物館 が設置 され 、さらに 11年 を経 て平成 11年 に中央 博物館分館海 の博物館 が 開設 され た。 しか し、海 の博物館 の 開設 か らわず か 3年 で設置構想 は終局 に向か つ て進む こ ととな る。 そ の 最大 の要 因は、県 の財政状況 の悪化 にある。 千葉県 は、バ ブル 崩壊 とそ の後 の長期 不況 が影響 し、県税収入 が激減 し、財政 が極度 に悪 化 していた。そ のため、平成 14年 3月 『千葉 県行財政 システム改革指針』が 出 され 、「 行政 システム を転換 させ るこ とに遅れ を とつて きた ことも今 日 の財政危機 を招 い た大 きな要因」とし、組織構造 の 改革 が重 要施策 のひ とつ と して掲 げ られ た。 同年 10月 、そ の行動計画 の なかに 「 県 内 10か 所 ある博物館及 び美術館 につい て 、市町村 との 役割分担 を明確 に し、県内博物館ネ ッ トワー クの再整 備 の観 点か ら、統廃合や市町村 へ の移譲 を進 める とともに、運営方法 の 見直 しを行 い ます (平成 16年 度 か ら順 次)J〔5〕 と指摘 され 、 す べ ての県 立博物館 の統廃合 あるい は市 町村 へ の移譲 が 明文化 された。 これ によ り、今 まで推 進 して きた県 立博物館 のネ ッ トワー クの整 備や県 主 導 での 市町村 立の博物館 との連携 に よる博 物館網 の推進 を図 る とい う姿勢 は、県立 と市町村 立の 博物館 が協働 して連 携 を図 り推進す る と い う方 向に変化 し、県は 主 導的な役割 を放棄す るこ とにな つた。確 かに、県下 には市町村 立の 博物館 が 多 く設 置 され(第4図 )、それ ぞれ が地 域 の拠点 として活動 す るよ うにな っ てお り、県 - 26 - 千葉県の博物館設置構想の推進と現状 一 主導で行 う状況 ではな くな つていた。それ は、第 次構想 が立案 された昭和 40年 代 には予沢1さ れ な い ことで あ り、地方分権 の意識 の高 ま りか らも、市町村 立博物館 の主 導型 、 あるい は協働 型 が期待 され る ところであつた。 しか し、それ まで に至 る博物館 の整備 は、県 の主導型 で行 っ 県 立博物館設置 構想 」 て きた もので あ り、県 立博物館 の統廃合や市町村 へ の移譲 は、ま さに 「 が終局 に向 つて歩み は じめた としか思 えない。それ は、平成 16年 に、房総 のむ らが隣接す る風 原始古代 か ら近代 まで の衣食住技 の移 り変 わ りを体験す るこ とがで き 土記 の丘 を吸収統合 し、「 る参加 体験型博物館 J〔6〕 とい う新 たな専門性 がつ くられ 、 さらに翌 17年 には指定管理者制 へ 度 が導入 され 、人員 の 削減 と予 算 の減少 がな され た ことな どが終局 の歩み を端 的 に物語 つて い る。 また県 立博物館 の 市町村 へ の移譲 は、博物館 が所在す る市町村 との協議 が進 め られ 、市 町村 へ の移譲 の可能性 がない大利根博物館 と総南博 物館 は、 中央博物館 の分館 として再編成 さ へ れ 、大利根分館 、大多喜城 分館 とな つた。また、平成 20年 には、上総博物館 が木 更津市 移譲 され 、 「 木更津市郷 土博物館 金 のすず 」 として平成 20年 10月 に再 出発 し、21年 には安房博物 館 の館 山市 へ 移譲 され 、観 光施設 として利用 され る ことになつた。 これ に よ り、 中央博物館 に は、 当初 のネ ッ トワー クの地域博物館構想 を残 しなが らも、 自然誌 重視 の 中央館 に歴 史系 の分 館 が ある とい う奇妙 な博物館網 として残 され るこ とにな つた。 (第5図 ) 9 お わ りにか えて 千葉県 にお ける県 立博物館 の設置構想 は、何度 かの内容変更 を行 い推進 され て きた。 この構 千葉方式」と称 され 、地方 自治体 の博物館設置 の画期的 な計画 として注 目され た。 想 は 、当初 「 しか し、最初 に設 置 され た博物館 か ら完成 まで、約 30年 近 い年数 が経過 し、そ の 間に設置 され た博物館 は、それ ぞれ独 自の活動 を展 開 して い く ことになった。それ は、 中央博物館 の設 置 が 遅れ た ことが 、最大 の要因で あ つ た と思われ る。 い み じくもこの構想 につい て 、 い ち早 く紹介 された加藤有次 は、「 博物館 が存在すれ ばそれ で 目的が達せ られた訳 ではな い。博物館 は、社会 教育機 関 として、よ り有効 な活動 と普及 に努力 しなけれ ばな らない。 (略)そ れ らのために、博 物館相 互の緻 密な連携 が必 要 とな る。 そ して 、 さらにそれ らの小規模群 を統括す る中央館 とい うべ き施設 の必要性 が 問われ るべ きではな か ろ うかJと 博物館 学的 立場 か ら中央館 の重要性 を 7〕この 中央館 として 、県 立 中央博物館 が 平成元年 に よ うや く設置 され たが 、 指摘 され ていた。〔 一 当初 の構想 どお り総合館 と して設置 され た ものの 、 自然誌 を重視 し、人文系 は機構 の ご く 部 として とどま っ た。 そ のた め、それ まで人文系 に重点 をお いて活動 して きた地域博物館 に対 し て 、セ ンター 的な機 能 を果す こ とは不可能 な状況 となった。 それ で も全 県下 に博物館 が配置 さ れ た こ とは 、「このシステ ム を通 して 、県民 が 手近 に博物館 を活用 で きるよ うに配慮す る」とい う考 えは達成 され た と言えな くもな い。 しか し、そ の後 の行財政 システ ム改革 で 県 立博物館 の ー 統廃合 がな され 、ま た 市町村 へ の移譲 な どに よ り整理 され た結果 、構想 でのネ ッ トワ クの拠 点 とな る地域博物館 の役害1が難 しくなつた こ とは言 うまで もない。 この構想 には、実 に長 い年月 を要す ることとな った。 そ の 間に県 下には市町村 立の博物館 を は じめ 、多 くの 博物館施設 が設置 され た。 また社会 は急速 に変 貌 を遂 げ、社会 にお ける博物館 の役害1、あるい は博物館 に対す る人 々 の要望 も変化 して行 つた。博物館 は 、そ の よ うな時流 の 変化 を受 け とめなが ら、人 々の身近 に存在 して 日々 の活動 を行 わね ばな らな い。 それ は 、特 に 公 立の博物館 に課せ られ た使命 であ る。確 かに 、県 立博物館 が主導 して県下 の博物館 の連携 を 図 る時代 は終 つてい る。 また公 立の博物館 が 、 当該 白治体 の財 政状況 に よ り運営 が影響 され る -27- 千葉県の博物館設置構想の推進 と現状 こ とは 、ある意 味仕方 がない こ とか も しれ な い。 しか し、財 政的な理 由で 、博物館 が設置 され た 目的や運 営方針 まで変更 され るこ とは 、本 当に悲 しい ことで ある。少 な くとも、 千葉県行財 『 ー 政 システ ム改革指針 』 の 中で 「 県 内博物館ネ ッ トワ クの再整 備 の観 点」 と述 べ てい る以上 、 ー たな 新 ネ ッ トワ クの構想 を提示 した上で 、統廃合や移譲 が行 われ るべ きであ り、 さらに 「 市 町村 との役割分担 を明確 」 にす るた めに も、今後 の 県 立博物館 の果 たす役割 と新 たなネ ッ トワ ー クのあ り方 が 提示 され ることを期待 してい る。 それ によって 、博物館設置構想 は新 しい次 の ー ヘ ステ ジ と歩み出す こ とがで きるもの と思 われ る6 この設置構想 は 、今 日か ら思 えば ドリー ム プ ラ ンで あ っ たか も しれ な い。 しか し、 当時 の多 くの 博物館 関係者 に夢 を提示 して くれ た。最後 に、 この先駆 的で、かつ雄 大 な構想 の策定 に 関 わ られた方 々 に敬 意 を表す るもの であ る。 (佐倉市 立美術館館長) 〔 註〕 1 拙 稿 「 物産陳列館 の 一事例 一 千葉 県 にお ける場合 ―J(「博物館 学紀要」5、國學 院大学博物 館 学研 究室、昭和 56年 ) 2「 千葉県博物館 協会 の あゆみJ(「MUSEUMち ば」 13、千葉県博物館協会 、昭和 57年 ) 3『 県 立博物館設置構想 (案)』千葉 県教育庁社会教育課 博物館 準備 室 、昭和 43年 11月 4『 千葉県 の博物館設置構想』千葉県教育庁文 化課 、昭和 48年 3月 5「 千葉県行財政 システム改革行動計画J千 葉 県、平成 14年 10月 28日 6「 千葉県行財政 システム改革行動計画 フォ ロー ア ップJ千 葉県、平成 17年 6月 14日 7 は じめ 『 博物館講座』第 3巻 、雄 山閣、昭和 55年 で紹介 され 、そ の後 『博物館学総論』雄 山閣、平成 8年 で も論 じられ てい る。 ※なお 、文 中の 引用箇所 にはその前行 に▼▼ を、 さらに終了の次行 には ▲▲ を付 し、著者 の文 と区男りした。 - 28 - 千葉 県 の博物館 設置構想 の推進 と現状 詈覇え 年度 から2 年 間の博物館設 置 の推移 増加 数 公立 私立 0 =→ 0 3 =) 3 1 =) 2 歴史 0 =→ 0 8 =) 24 6 ⇒ 美術 0 =→ 0 0 =→ 0 2 =) 5 2 =) 5 3 科学 0 =→ 0 0 =→ 0 0 =→ 0 0 =→ 0 0 動物 0 =⇒ 0 2⇒ 2 1⇒ 2 3⇒ 4 1 2 1⇒ 4 3⇒ 4 6 =)10 種別 国立 総合 人文 2⇒ 自然 植 物 0 =→ 0 0 =) 0 動植 物 水族 1 う 3=→ 1 3 1 =→ 1 2 =) 2 15⇒ 34 16⇒ 4 ⇒ 10 5 14 =→ 34 1 26 1 20 4 1 =→ 1 C 4 ⇒ 4 0 34 ⇒ Qυ rυ 計 二 1 =→ 計 29 注〕博 物館 の設 置 の推移 を昭和 46年3月 31日の時点 と昭和 48年3月 31日の 〔 時点 との2年 間 で比 較 したもので ある。 - 29 - 千葉県 の博物館設 置構想 の推進 と現状 〔 表 2〕 1次 構 想 による県立博 分類 総 合館 専 門館 ( 考古館 ) 専 門館 (考古館 ) 専 門館 ( 海洋 自然 会 官) 性 構想 格 候 ネ 甫 地 歴 史 を中心 と した 総 合博 物館 と し歴 史 、民俗 、産 業 、 自然 科 学 等 の 各 部 門 よ り構 成 し、保 存機 能 と教 育機 能 をあ わせ 有 す る も の とす る。 千葉 市 また 、本 県 にお け る博 物館 行 政 の 総 合 セ ン タ ー と して研 究部 門 を も併せ もつ も の とす る。 ・県都 で本 県 の 文 化 の 中心 で あ る。 ・交通 事 情 と利 用 す る県民 の行 動 圏 か らも最 適 地 で あ る。 考 古 を中心 と した 専 門館 と し、総合館 の 歴 史部 門 とダブル ニ ア レン ジ メ ン ト 木 更津 市 の 関係 にた ち 、考 古 資料 を保 管展示 し 上 総 研 究機 能 を あわせ 有 す る。 ・歴 史 、考古 学 的 に も由緒 が あ る。 ( 資料 が 多 い ) ・周 辺 の 土 地利 用 計 画 も発 ゛ 展 す る見込 あ る。 ( 人 口 ナ 曽) 同上 。人 口増加 が 著 しい 。 特 に 流入 人 口に対 す る郷 上 の 理 解 と県 民意識 の 高揚 を図 る。 。重 要遺跡 の 分布 も濃 い 地 域 で あ る。 ( 資料 も多 い ) ・観 光 客 の 人 込 が 多 い 西 下総 植 物 園 ・歴 史 園 な ど海 浜 自然 をそ の ま ま利 用 し、敷 地 内 に海 洋 民俗 資料 を保 管展 示 す る施 設 を設 けた海 浜 自然 庭 園 安 房 風 の 専 門館 とす る。 。海 浜 自然 をそ の ま ま利 用 す る こ とが 可能 で あ る。 。来館 の み の 目的 で な くて も、 つ い で に利 用 す る者 も 多 い こ とが予想 され る。 千葉 県 の博物館設置 構想 の推進 と現状 d 卜き ⊃社 ば ニカpC便饂 E位轟 掏S埋 総C瑯堂 咲K H 2身 C照 癒 騨d Cヾ ′ 。 紐 ゛竺岱 製 姜選 檸 ■C択製 禦ト 。 紐 臣冊 や卜 側相 出 C朧 引唾 ﹂国≪ 奏 釈 ⊃瓢 継D却OI C認螺 C ﹁ α国 ″ 掏計案 瓢拒撫 。 。 ρ利測Ю卜 社 駄掏騨期 CS p卜き 星黙 C照郡 Cや J一 国 国゛埋 。 ま・ 国に燕 。 国∬、 和拠掏帥 国憮邸 覆くヽ 。 埋 総 C迎 く咲K ′ ⊃颯 継︶⊃測OI C認 釈 C農姜C條 Cば Ц 撫椰 K 皿︶⊃匈継釈 嶼菫 ′ 。 卜 駆 翠 Ю卜押ポ磨 塩錮 R 匈纏熙 つト ロ2怒 椰ゆ Ⅸ薬 瓢 C盤 ゛箪 Ю 脚 。 避 ゛箪贅 製 や O懸掏黙刑 g婆檬 C国 黒 。 Ю卜 匈lヽヽや聯 理ヽ じ 鶏や軍、 倒 星踵曇 星ρ利句K 曜製0製せ馴 曜E咲 К枢く C50 L咲 畑 ζ 氏︶堰 ゛筆ぐ 禦 っ卜 測癒 鞍掏臣琉噸 帳梃 皿・ く 鯉 黛 駅象 ピニ 興C曇q 卜咲 肛冊 Ю卜 匈ヽ鞍押薬 瓢 ミ宣 ♯興 K ミ単 蒸 ′ 。 選 ぶ箪贅 製 CR 製禦卜R ︵ 終挙︶ 鯉 黛 瓢 Щ C朧 引 唾 認製 ︵ 縫挙 ︶ 回位 驀 κ 皿 刑 駆 米 ︵ 終挙︶ 盤 ゛世K 皿 赴 仰 噸C量 任赴 瀬 ︵ 縫怒 ︶ 盤 ゛崚 ぐ 紹 ≪ ■ 骰聖 Nエー ハヽヽ日経 さ 旨 任駅十 釈 ヽ o∞oH円 エー ︵ヽヽ日経 さ ヽ oooo日長 殿 型 ∞エー バヘヽ 日経 さ ︵ 終邸 ︶ 盤 ゛壇 騨 烹K ゝ ooo∞毅 釈 ヽ oЮoH円 択製 禦 卜К 骰 迎 ∞エー バヽヽ同騒 ぶ 仁 駅十 ︵ 縫怒 ︶ 紐 ゛壇 眠ヽ ︵ 縫怒︶ 蛾 起 釈 縫挙︶ ︵ 鰻 ゛筆 緩 ﹁R 讐 ■鯉 α ヽ ∞︻o∞円 骰 迦 Hニー バヘヽ 日経 さ S卜Ю∞H日Ⅸ ︸ 毅 迎 ∞エー ハヽヽ同軽 さ 。 迎 H型 製 ︶ C 計熟 植 ご掛祭 C50 卜 氏 憫 ヽRヾ寸H毅︵ 萩 薫 駅 留 国 Ю 卜 ヽ 掏 肛 冊 掏 堰 旨 抑 ヽK 。 柵 ゛箪贅 製 C択製準﹁民 H 骰聖 ∞エー ハヽヽ日経 さ 。 Ю和︶ミ柩ζ 価理単 羅篠ば任 ︾ 姜︶で C楓黙 C岨K 畔 。 製 肛出に 麻 C雄 回ヒ Ж く咲 。 駅 曇 や卜 却相枷起 ЖゼH 製⊃雄駆せ咲く 騨送 ・ K曜 ・ 。 夜 や 卜 枷像 ば二 誕 C50 卜 氏 臣 冊 判 檬 堰 。 紐 ゛崚 贅製 C状ヨ眠 ヽ ︵ 縫怒 ︶ 蝦 念 興R 選 ぶ笙 ぐ 禦≪ ■ 縫 ヾ 盤 ゛世 禦↓ 撫, ︲︶ ヽ卜∞ヾH慟緊和旨瑠崚 讐 ミ撻 製聖 ∝エー ハヽヽ同蛭 さ く 任 址 口く さ O ∞ せヽ ⑬ Ю ヾ 0つ 零 騰︺ 回在酬認壇尽筆 倒 蝶 Юヽ二距埋 ヽ 劇∬ ヽ ∞マトHⅢ叔 骰聖 ∞エー バヘヽ日経 さ 堅 0こ 憫 ∞ 銀 H ∝ ‖ HR∞ ∞ 漏 出 ∝ ∞ H∝ 。 鞍 蕪 瓢 担 や C送 肛ぶ ЩC贅畑 卜 氏 Ю 卜 掏 肛 冊 匈 朦 鯉 。 紐 ゛壇督 製 C状製禦﹁ 目 ヾ 卜 継さ せ鯉 ゛箪 ミ仁樹任 畳ヽ 郷 。 拒。 ミ鯉 C50 卜 咲 鞍 掏 套 瓢 ζ Ж 相朴 ・ Ю 卜 肛 冊 匈 朦 鯉 。 堰 ゛ 箪椰 製 C択製禦川 目 連 千葉 県 の博物館設置構想 の推進 と現状 第 ¬図 轍 記め壼1難館│て 疲森, 県窯大和機博物鑢│て 披縁, 市立策計簿物館 県立上総博物館 1彙珈耗鰺辮勁麟 (優称) 県立自然碑購刻鍍く薇燿ゆ‐ 1県 立安房博物館(顔 称) 千葉 県 の博物館設置構 想 の推進 と現状 地域博物館 の専門性 館 名 美 術 館 設 置 当 初 県内唯一 の美術館 検 討 結 果 近代 ∼現代美術資料 を中心とする美 術館 ・ 風土記 の丘」の 史跡公 園 「 考 歴 史公 園 的性 格 を持 つ 考 古 資料 を 施設 の一 つ として、歴史 ・ 房 総 風 土記 の丘 中心 とす る専 門施 設 を主と する専門館 古資料等 ・ 下総地方 の地域博物館 大利根博物館 総 南博 物館 安房博物館 上 総博 物館 ・ 県下全域 の農村民俗資 料、利根川水運等河川資料 利根川 と農業資料 を中心とする専門 館 を対象とする専門館 。 東下総 の地域博物館 ・ 県下全域 の城郭、武家等 の歴史資料を対象とする博 武 士 と城 郭 資 料 を中心す る専 門館 物館 。 東 上総 地方 の地域博物館 ・ 県下全域 の漁村民俗を対 海洋民俗を中心とする専門館 象とする専門館 ・ 安房地方 の地域博物館 ・ 県下全域を対象する信 仰、学芸、古美術資料を対 くらしと技術 の資料を中心とする歴史 象 とする専門館 博物館 ・ 西上総地方 の地域博物館 堰 尽堆 e ⊃﹀ゆ 睡十K Ю卜判● ■掏菓 瓢赫 曇 判=橿 堰 S壇恒韓 堰 畢筆 や卜判● ■掏菓 瓢報鵬型 ミ騨 雇 堰 尽 壇 騨 冨K 堰 ヾ壇 Ю榊p饉 ≦ 枷= 捏輝 喫 州♀ 精 曇 興 川 E黎 嘔 ゛● e 鍵 鵬 堰 S壇 佃 鍵 Ю卜倅掏製 瞭畷 蕉廊 5 堅 側 掏儒 策 皿 堰ぎ器Ю卜測 ● ■枷菓 瓢ぎ器 Cゼ邸bRざ製 堰捏器 経≦掏こ蝉訃誌 製く拘暖悛里器側 堰 訃 凛 器側 ギ 畷 堰 畢箪 後 朴 里選 堰 尽 壇 Qト 却● ■掏菓 瓢 ︵ 澄こⅨ一 判⊃゛﹀ 堰 畢筆鍵 引 K畷 匝米 ・ 性雌 ・ 畑 眠薦匝≪ 馬・ 0さ ・ ・ 聯恒 ・ 騨理ヽ 器 傘 ︱ もハや 堰尽 壇や卜判● ■掏 菓 則準ビ壮捜 選 挙筆鵬部 堰尽 軍 Ю卜拠 掏響 聾選 国 ぐ 留 興 劇e 朧 引喧 鍵 鵬 堰 尽 攣 Ю卜却● 岳押器 製 Юミ 条 条 里某 ψ型 ミ瞑 堰 畢筆曇 理 田 図 劇紙 千葉 県 の 博 物 館 設 置 構 想 の 推 進 と現 状 県立博物館 設置状 況 施設名 設置 地 美術館 千葉 市 中央博物館 千葉 市 期間設 置年 月 日 開館 年 月 日 剪d也 33,058ぷ 建 4勿 10,664ぽ R C 造 平屋 一 部 2 階 日 召和 49年 4月 1日 日 召禾日49年■0月 23日 敷地 1 3 , 1 7 8 ぷ 建4 勿 1 5 , 2 5 4 “ 平成 元年 1月 11日 S R C 造 地上 2 階地下1 階 平成 元年 2月 7日 自然誌 に重点を置 いた 歴 史も加 えた総合博 物 館 平 成 11年3月 12日 平成 11年 3月 12日 海 と海 辺 の 自然誌 平成 6 年4 月 1 日 平成 6年 6月 15日 産業 に応 用 された科 学 技術 平成 7年 11月 10日 平成 7年 11月10日 河川 とそれ にかかわる 産業 昭 和 50年9月 1日 日 召禾口51年 6月 24日 考古 日 召不日61年 4月 1日 昭 禾口61年 4月 1日 生態園 中央博物館 分 館 海 の博 物館 勝浦 市 現代産業科学鮮 市川 市 関宿城博物館 東葛飾 郡 関宿 町 房総風 土記 の丘 印藩郡 栄町 房総 のむ ら 印播郡 栄町 大利根博 物館 佐原市 総南博 物館 夷隅郡 大多喜 町 安房博 物館 館 山市 木更津 市 6,6ha 敷地 7 , 1 6 1 ぷ 建物 3 , 9 1 9 ピ R C 造 地上 3 階地 下 1 階 敷地 1 8 , 1 8 2 ポ 建4 勿 8 , 4 9 3 ピ S R C 造 地上 2 階地 下 1 階 敷地 11,135ぷ 建物 2 , 1 7 2 髯 R C 造 平屋 一 部 3 層4 階 敷地 建物 315,242ぷ 3,929ポ 近。 現代美術 RC造 2階 力υ也 3 1 5 , 2 4 2 ポ 建物 3,929ポ 商家 、武 家屋敷 、農 家 、農 村 、歌舞伎舞 台、水 車小屋 等 敷地 13,195耐 建物 1,769ぷ R C 造 平屋 一 部 2 階 敷地 建物 5,673だ 2,001だ RC造 4階 敷地 1 0 , 3 2 1 髯 建4勿 4,999ぷ RC造 3階 地物 敷建 上総博 物館 専 F電 性 模 規 2,639“ 2,032ピ RC造 3階 昭和 54年4月 1日 生活様 式 伝統 的技術 ・ の実演 ・ 体験 昭和 5 4 年 1 1 月2 1 日 利根 川 の 自然 と歴 史 昭和 50年4月 1日 昭 和 5 0 年9 月 1 0 日 房 総 の城 と城 下町 昭 和 48年 7月 5日 日 召不口48年■1月22日 房 総 の海 と生活 昭和 45年 4月 1日 昭和 46年 1月 14日 くらしのなか の技術 千葉県 の博物館設置構想 の推進 と現 状 第3図 1駐 黎 県立風土記の丘 鰤 1暴 罐騨 繭 県立中央博物館 県立上総博物館 県立総南博靱館│ 県菫申央博物館崚の分館 県立資舞博物館 千葉 県 の博 物館 設 置 構 想 の推 進 と現 状 第 4図 癬11 1‐ 1111 卜11卜 │: ■J I ■│ :lll 、 Ю 一 一〓 │ヽ │ ││'・ ■│ l i l l , │ ■ │ ■│ ‐ │ ■ │ │ │‐│ l t ‐1 1 ■ : │ │ ││ │ ■ ■ 1 ■ ■ 1 1 ・│ ・ │ │11111111 ■ ‐ `■ │■ ││_│■ │■ │, 一 ・ 一 一 一 一. . . 一 一 一 一 一一 一 一一 一・ 一・ 一 一 一 一 一 一 一 一 一 ●■●一 一●一一一. 櫨 一 一 . . ・ 一 一 一 r ・一 一 一 ・ 一 一 一 一 ・ ・ 一 一 一 一 一 一 ・ 一・ ●●一一一一一一 畿・ ■一 一 ‐ ‐ 鬱■ │■ │■ 10■ │ ‐・ △ │ │ △ ‐ ■博物鱚 ■ ■ 0美 術館 ■ ■ │‐ ‐ _■ │ 011資 料館 ‐ ■ ※動■植物園、1本族館を除 く -37- 堰 訃 車 報 側 ギ隅 ︷ 榊脚 榔 投理 ︸ “● e鍵 階 堰 尽筆 e腱 堰畢壇縣 理 肛 く トハー 可” ・ 2ミ ー 、ヽe ■ 堰 象 騨 雇K く 儡 ヨ堰 く儡最田K 繁 伸 哺蝦 K煮 山高信離 とそ の仕 事 一 博 物館長 にな つ た旗 本 一 Yamataka Nobuakira and his Work ― Samurai became MuseunL I)irecto― 小寺 瑛 広 KODERAAkihiro は じめに 山高信離 は明治期 の博 覧会行政 、 お よび博物館行政 に携 わ り、初代奈 良 ・京都 帝室博物館長 一 となった人物 であ るc彼 の業績 を端 的 に説 明す る とすれ ば、この よ うな説 明 が 般 的だ ろ うか。 しか し、彼 が行 つて きた仕事 は、多岐 にわた る。 た とえば、近年 、彼 が明治時代 の美術行政 に これ らの研 究 では 、彼 が博 つい て重要 な役害1を果 た して きた こ とが次 々 と指摘 され て い る(1)。 物館行政 ・美術行政 に関わ り、政府 として 工 芸制作や古物保存 ・活用 を推進 した 中心 人物 で あ った と指摘 され てい る。 また 、龍池会 (のち、 日本美術 協会)の 設 立 に関わ り、観 古美術会 を 。)。 開催す るな ど、 日本 の伝 統的な美術 を保護 し、推 進 して きた こ とも知 られ てい る ここ数年 の研 究では山高 の仕事 の うち、美術行政 に ウェイ トがおかれ て注 目が集 ま ってい る よ うに思 える。 しか し彼 の仕事 ③は博 覧会 ・博物館行政 に も及 んでい る。博 覧会 につ いて は、 一 國雄行氏や角 山幸洋 氏 、伊藤真 実 子氏 らの 連 の研 究 があ るのが 、 山高 につい ては万 国博覧会 の経験者 ・担 当者 として名前 が挙 が つて くるものの 、彼 がそのなかで どの よ うな位 置付 けにあ った のか は明確 ではな い 印象 を受 ける。博物館 史 につい ては 、椎名仙 卓氏や 関秀夫 氏 の業績 が あ り⑤、関氏 は 博物館 の 官 内省移管 へ の 引 き継 ぎ役 を果 た した との指摘 を してい る。 この よ うに見 てい くと、各分野 の研 究 にお いて 山高信離 の名 は挙 がって くるものの 、それぞ れ が緊密 に結 び つ いて 、分析 され てい る とは言 い難 い。 それ は 、山高信離 とい う人物 につ いて の 専論 が存在 せ ず 、そ の実像 が 見 えて きて い ない ためではな いだ ろ うか。彼 が どの よ うな職歴 を経 て 、 どの よ うな仕事 に携 って きた のか 、それ を見ず しては 山高信離 とい う人物 の位 置付 け がで きな いので はな いか。本稿 では 、 山高信離 が具体的に どの よ うな役職 を歴任 し、 どの よ う な仕 事 に 関 わ つて きた のか を 「 山高信離 関係 文書」 ⑥を も とに して検証 。整理 しなが ら、そ の 上で各分野 との 関わ りを考 えてい きた い。 1 山 高信離 、そ の前半 生 ∼旗本 時代 か ら官僚 とな るまで ∼ (1)生 い立 ち と名前 6代 当主堀利 堅 の 8男 0と して天保 13年 2月 21日 (西 山高信離 は 2500石 取 りの旗本堀家 に 、 -39- 山高信離とその仕事 暦 1842年 3月 23日 )に 生 まれ ③、幼名 を堀蘭之助 ⑨ とい った。母 は側 室の長谷川 い ほ (1の であ る。安政 3年 12月 25日 (1857年 1月 20日 )、15歳 で旗本 山高家 の養子 とな り(11)、 同家 26代 っ 当主 とな た。山高家 は 1800石 取 りの旗本 で 、甲斐武 田氏 と同族 の源氏 の名 門 で あ っ た。養 父 となった信厚 は 、蘭之助 の異母兄 (堀利 堅 5男 )で あ り、彼 が養 子 に入 る前 の 8月 22日 に死去 してい る (10。山高蘭之助 は、 の ちに詳 を信 徳 (1め 、官職名 を山高 弾 正 と名乗 つた (10。 彼 は元治元 年 3月 16日 (1864年 4月 21日 )に 官職名 を弾正 か ら主計 へ と改名 してい る(lD。 パ リ万国博 覧会 に 出発す る直前 の慶応 2年 12月 26日 (西暦 1867年 1月 31日 )に は、従五位 下石 見守 に叙任 され 、山高石見等 と改 めてい る (10。帰国後 、明治元年 12月 28日 (1868年 2 月 9日 )ま でには 山高人郎 と改名 してい る(1つ 。そ の後 、明治 2年 7月 までに山高慣 人郎 と改名 (l① してい る。明治 5年 10月 には詳 であった 山高 信l諮(1の を戸 籍名 とし、以後 この名 前で通 した。 なお、本稿 ではでの表記 は、彼 が戸籍名 とした 山高信離 で通 す こ とにす る。 (2)旗 本 か ら官僚 へ の道 の り 山高信 離 は安政 3年 12月 25日 に旗 本 山高家 の 26代 当主 となった ことで 、小普請組 (無役 の旗本 が入 る制度)仙 石右近 の支配 に編入 され た 。の。万延 元年 12月 11日 (1861年 1月 21日 ) には小 普請組岩瀬 内記支配 よ り中奥番 に昇進 してい る 鬱1)。 文久 3年 正 月 22日 (1863年 3月 11 日)に は将軍 の身 の 回 りの諸事 を行 う小納戸 に任 じられ ② 、同年 2月 2日 (3月 20日 )に は六 位相 当の布衣 の格式 となってい る の 。翌元治元年 3月 16日 (1864年 4月 21日 )に は旗本 。御 家人 の監察や勤務状況 の検 査 をす る 日付 となった 。→ものの 、2か 月後 の 5月 15日 (6月 18日 ) には病気 を理 由に辞職 してい る 。D。 山高は慶応 2年 8月 18日 (1866年 9月 26日 )、日付 に復帰 し。0、 同年 10月 、第 二 次長州征 伐 の戦後処理 のため、小倉 (現在 の福 岡県)へ 派遣 を命 じられ た 。つ。 慶応 2年 12月 26日 (1867年 1月 31日 )、山高は出張先 の小倉 か ら、幕府 の 出先機 関 であら た京 都 の若狭屋敷 に呼び 出 され 。①、将軍慶喜 の弟徳川 昭武 に随行 して 、パ リ万国博 覧会 の参加 と ヨー ロ ッパ 各 国巡歴 をす るよ うに、 との内命 を受 けた 。"。 彼 は この とき、御小姓頭取 (将軍 の身 の 回 りの 世話 をす る)に 任 じられ 、諸大夫 (従五位 の 官位 )。作事奉行格 (作事奉行 と同 じ 役 高 を賜 る)に 昇 進 し、石 見守 の官職名 を賜 つ た。 この 日、彼 は昭武 の博役 (教育掛)に 任 じ られ た 。の。 こ うして山高 は昭武 とともに慶応 3年 正 月 11日 (西暦 1867年 2月 15日 )、 フ ラ ンス にむ け て横浜 を出発 し、2月 29日 (4月 3日 )に フ ラ ンスのマ ルセ イ ユ に到 着 した 。1)。この後 、慶応 4年 9月 4日 (1868年 10月 19日 )に マ ルセ イ ユ を出発す るまで の 間、 山高は ヨー ロ ッパ に滞 在 し、パ リ万国博 覧会 の参加 や各 国巡歴 を行 ってい るが ●2)、この 間、山高 は昭武 の博役 を解任 され 、留学 生取締 に任 じられ て い る(3の 。 ョ_ロ ッパ 滞在 中 の 山高 の行動 には幕府や清水家 の職 制 、幕府 の終焉 の様子 をめ ぐって興 味深 い点が多 々見受 け られ るが 、本論 の主題 か らは逸れ る ので 、別 の機会 に譲 りた い。 明治元年 11月 3日 (1868年 12月 16日 )に 帰国 した 山高は、 「 前様付小姓頭取」 として 、70 万石 の静 岡藩 主 とな つた徳川宗家 (旧将軍家)に 仕 えた 。→。彼 は明治 2(1869)年 、徳川家 が -40- 山高信離 とその仕事 の 支配 を担 当す る 領 地支 配 のた め に 置 い た 1 1 か 所 の 奉 行 所 の うち、現在 の 静 岡県牧 之原 市相 良 。う に組 み込 まれ 、山高 相 良奉 行 に任 じ られ て い る 。 や が て 版 籍奉 還 に よ り、静 岡藩 は太 政 官制 °° の が は明治 3 ( 1 8 7 0 ) 年 間 1 0 月 に改 めて太 政 官 よ り静 岡藩 権少 参 事 の 辞令 を受 けた 。 ちに彼 い この時 か ら、彼 は明治 作成 した履歴 書 には、 この時 任 じられ た役 職 か ら職 歴 が記 され て る。 政府 に仕 え る官僚 ・山高信 離 とな つた ので あ る。 つ の にわ け 次 章 以 降 で は、官 僚 山高信 離 が どの よ うな仕 事 に携 って きた のか を、 い く か 時代 て 分析 してみ た い 。 2 . 博 覧会事 務 局 時代 ∼ 万 国博 覧会 へ の参 加 ∼ ー ∼ (1)ウ ィー ン万国博 覧会 (1873年 5月 1日 11月 2日 )と 仏 国船 ニ ル 号沈没事件 明治 4年 7月 14日 に廃藩置県 が行 わ る と、 山高 は明治 5年 2月 10日 (1873年 3月 18日 )、 ●つ 大蔵省 に出仕 し、大蔵省 七 等 出仕 。博 覧会御用掛 を拝命 した 。同年 10月 28日 には博覧会書 0"、 同月 22日 に O。 記官 とな つてい る 。 明治 6(1873)年 1月 7日 に大蔵省 六 等 出仕 に昇 進 し 。の ー は嗅 国博覧会 一級 書記官 とな り、ウィ ンヘ 派遣 された 。彼 は博 覧会副総 裁 で あ る佐 野常民 がオ ー ス トリアに到着す るまで の 間、そ の代 理 を任 され て い る。 山高信離 関係 文書 90「辞令 」 (佐野 の澳 国到着 まで代理 心得 とす る件 につ き) ー 拙者澳 国 へ 到着迄 之 間 ハ 代理 之心得 ヲ以テ 級事務 官 井翻訳課長 と協議 之上諸 事 可被 取扱 一 候事 、 明 治 六年 月十八 日 佐 野冨1総裁 山 高信離殿 佐野 も 1867年 のパ リ万国博 覧会 の 際 には佐 賀藩 全権 として参加 して い る人物 で あ る。 ウィ ー ン万国博 覧会 では 田中芳男 が 一級事務官 として活躍 して い ることは従来指摘 され て きた が 、 。1)。 ここで注 目す べ き点 は佐野 は 副総裁 であつた佐 野常民 につい て も評価 がな され て きてい る 田中ではな く、 山高 を 自身 の代 理 心得 として い る ことで ある。 そ の 具体的理 由は、残念 なが ら 追 うこ とはで きな いが 、彼 のパ リ万国博 覧会 の経験 が評 価 され た もの と考 え られ る。 山高 はオ ー ス トリア皇帝 フ ラ ンツ ・ヨゼ フ 1世 か らリッテ ル ク ロイ ツ勲章 と賞牌 を賜 り、8月 に帰 国 し た 。"。 ー 山高 はそ の後 もウィ ン万国博 覧会 の残務整理 を行 い 、明治 8(1875)年 3月 30日 、博 覧会 “い 事務 局 の業務 を引 き継 い だ内務省 か ら嗅 国博覧会残務取調掛 を命 じられた 。 明治 10(1877) “り 年 1月 15日 、彼 は内務省 よ り再度嗅 国博 覧会残務取扱 を命 じられ 、同年 12月 6日 に免 官 と な ってい る“⇒。 明治 8(1875)年 4月 14日 、山高 は内務省 か ら伊 豆国妻 良村 へ 出張 を命 じられ てい るが、 こ れ は前年 3月 20日 に ウィー ン万国博 覧会 出品物 を積載 した仏 国船 ニ ー ル 号 の沈没 事件 に関係 す “つ るもの と思われ る●0。 そ の後 、7月 に彼 は内務省 よ リニー ル 号沈没船取扱 を命 じられ 、翌明 ω 治 9(1876)年 1月 13日 に免 官 とな るまで 、そ の事務 を行 ってい る 。なお、彼 は明治 10(1877) 。ω ー 年 10月 4日 、再 び 内務省 よ り仏 国沈没船 ニ ル 号事件 取扱兼務 を命 じられ て い る 。 明治 11(1878)年 1月 24日 、 山高 は元澳 国博覧会総裁 大隈重信 ・副総裁佐 野常民 よ り翌 25 -41- 山高信離とその仕事 日に芝 離宮 へ の 出頭 を命 じられ てい る Cの。それ は 、ウィー ン博覧会 関係者 に 慰 労 として酒餃 を 下賜す る一席 へ の招待 であった。 ィラデ ル フ ィア万 国博覧会 (1876年 5月 10日 ∼ 11月 10日 ) 一 博 覧会 等書記官職 が廃 止 となった後 、明治 8(1875)年 1月 10日 、山高は従来 の大蔵 省 六 (2)フ 等 出仕 に加 えて 、内務省所管 の勧 業寮 六 等 出仕 の兼 勤 を命 じられ た 。1)。つ い で 、2月 8日 には 米 国博 覧会事務局長町 田久成 よ り米 国博覧会事務取扱 に任 じられ てい る“幼。 同年 3月 30日 、博覧会事務局 の博物館 改称 。内務省 移管 とともに 山高は大蔵省 を離れ 、勧業 寮 六 等 出仕 に専念す るこ ととな り“⇒、同 国内務省 よ り米 国博覧会御用掛 ・博物館掛 、お よび 前 述 の嗅 国博覧会残務取調掛 を命 じられ た 6→。 さらに同年 5月 13日 、太政官 よ り山高は米国博 覧会事務 官 に任 じられ 6め、12月 28日 には万 国博覧会 に 出品す る茶 の件 で内務省 の命 に よ り横浜 へ 出張 してい る 60。なお、 彼 は明治 9(1876) 0。 年 3月 10日 に も内務省 よ り横浜 出張 を命 じられ てい る 山高は フ ィラデ ル フ ィア万 国博覧会 の 際には渡米す ることはなかった。 しか し、明治 9年 6 月 10日 、彼 はアメ リカ合衆 国独 立 百周年記念式 典 の招待状 を受 けて い る 60。 そ して 、 ウィー ン万博 の とき と同様 に、内務卿大久保利 通 よ り米 国博覧会委員 に酒 儀 を下賜す る場 に呼ばれ て い る 。9)。 3 内 国勧 業博覧会時代 ∼ 内務省 と大 蔵省のは ざまで ∼ (1)第 1国 内国勧業博覧会 (1877年 8月 21日 ∼ 11月 30日 ) 話 は前 後す るが 、 山高は万国博 覧会 だ けでな く、内国勧業博覧会 に も関わ るよ うにな る。 明 8月 1日 、山高は内務省 よ り内国勧業博覧会事務兼勤 を命 じられた “O。 同年 12 月 7日 には大 政官 よ り内務少 丞 に任 じられ たが “1)、翌 10(1877)年 1月 11日 の 大少 丞廃 上に よ り、12日 には内務省 よ り内務省御用掛 を命 じられ 、月俸 100円 、 准奏任待遇 とな つてい る “"。 治 9(1876)年 同 じ日に 山高 は内務省 よ り内国博覧会事務取扱 を命 じられ てい る “⇒。 山高は この 時期 、万国博 覧会 の業務 に携 つてい たため もあ つてか 、第 1国 内国勧業博 覧会 に 関す る これ以上 の動 きは 「 山高信離 関係 文書」 か ら見 出す ことはで きな い。 (2)パ リ万国博 覧会 (1878年 5月 1日 ∼ 11月 10日 ) 2月 12「1、 山高は内務省 よ り仏 国博 覧会事務取調 を命 じられ “り、つい で 6月 25日 には内務省 よ り仏 国博 覧会事務官 に任 じられた “D。彼 は この 時 も渡仏 は してい ないが 、 明治 10(1877)年 明治 11(1878)年 10月 21日 、博 覧会 の 賞牌授与式 において 、仏 国 シハ リエ ー 勲章 (五等勲章) を受章 してい る●0。 さらに、明治 12(1879)年 5月 12日 には仏 国万国博覧会 よ り銅 賞 を授与 され た こ とが確認 できる“つ。 (3)地 方勧業博 覧会 (1878年) 山高は明治 11(1878)年 1月 7日 、内務省 よ り勧 商局事務兼勤 を命 じられ た “0。 つい で 2 -42- 山高信離 とその仕事 ・ “の 月 7 日 に は内務省 よ り博 覧会 掛 兼 勤 を命 じられ て い る 。 この 他 、3 月 2 8 日 6 月 6 日 に は 内 。① 務 省 の命 に よ り横 浜 へ 出張 してい る こ とが知 られ る 。6 月 2 8 日 には勲 五 等 に叙 せ られ て い る (71) “" 、翌 2 1 日 には 同年 9 月 2 0 国 内務省 よ り愛知県博 覧会列 品審査 のた め、愛知県 へ の 出張 を ・ 。 。 へ ・ 愛知県 出張 のついでに二重 県 ・岐阜県 石川 県 京都府 大阪府 兵庫県 の 出張 を同様 に命 。つ じられて い る 。の。 これ は地方勧業博 覧会 の業務 と考 え られ る 。彼 は この後 、さま ざまな審査 員 を務 め るこ とにな るが、列 品審 査 を山高が務 めて い た こ とがわか る最初 の事例 であ る。 (4)シ ドニ ー 万国博 覧会 ( 1 8 7 9 年) ー 明治 1 2 ( 1 8 7 9 ) 年 5 月 2 2 日 、 山高 は内務省 よ リシ ドニ 万国博 覧会事務官 に任 じられ たが 。つ翌 1 3 ( 1 8 8 0 ) 年1 0 月 2 1 日 には内務省 よ リシ ドニ ー 万国博覧会事務官 を免 じられ てい るの 。 シ ドニー 万博 につい ては 、 この後 、明治 1 4 ( 1 8 8 1 ) 年 1 月 2 3 日 、 シ ドニ ー 万国博 覧会 よ り銀 。つ 賞 を贈与 され てい るこ とが確認 で きるの み で ある 。 (5)メ ル ボル ン万国博 覧会 (1880年) 明治 13(1880)年 2月 24日 、 山高 は内務省 よ リメル ボル ン万国博 覧会事務官 を命 じられ 、 “。翌 14(1881)年 5月 20日 に、メル ボル ン万国博 覧会 よ り銀 メダル を授 与 され た こ とが知 ら れ るの 。農 商務省 よ リメル ボル ン府博 覧会事務官 を免 じられ た の は、同年 11月 9日 の ことで あ つた 。の。 (6)第 2回 内国勧業博 覧会 (1881年 3月 1日 ∼ 6月 30日 ) 明治 12(1879)年 1月 15日 、 山高は大蔵省准奏任御用掛兼務 とな り01)、大蔵卿 大隈重信 よ り商務局勤務 を命 じられ た “"。 同年 4月 23日 には太政官 よ り内国勧業博 覧会事務勉励 の褒 賞 として、 日録 を ド賜 され て い る 0。 翌明治 13(1880)年 4月 6日 には太政官 よ り内務少書記官 に もり、同月 14日 には内国勧業博 5)。 覧会事務官 に任 じられ てい る ● さらに同月 20日 には 、太政官 よ り大蔵少書記官兼任 を命 じ られ m、 大蔵卿佐野常民 よ り商務局勤務 を命 じられ てい る。つ。 同年 5月 12日 、 山高 は大蔵省 よ り京 都 。奈 良出張 を命 じられ “め、5月 14日 には大蔵省 に命 じられ た出張のつ いで に、内務卿松方正義 よ り正倉院 の仮封鎖 を命 じられて い る ⑩ 。この 時期 、 勧 業政策 は大蔵省 と内務省 に分離 していた こ とが指摘 され て い るが ①の、山高 の職歴 はそ の状態 を如実 に物語 つてい る。 山高 は 一貫 して博覧会行政 に携 ってい るに もかかわ らず 、指示 を出す べ き管轄官庁 が複雑化 してい る ことがわか る。 さて、 この京都 。奈 良へ の 出張 につい て 、5月 21日 付 で大蔵卿佐 野常民 が 山高に指示 を出 し てい る。少 し長 くな るが、史料 を引用 して みた い。 lll高 信離 関係 文書 156「命令書J(京 都奈 良出張 につ き) 今般京都及奈 良へ 出張 甲付候 二付テ ハ 、左 之 条款篤 卜相 心得取調 可 中事 、 -43- 山高信離 とその仕事 一 条 東 大寺 ・正 倉院御物井法隆寺其他京都 ・奈 良両博物館 等 ノ蔵 品中、製 品画 図 ノ模 範 トナル ヘ キモ ノ及 ヒエ芸 ノ沿革 ヲ徴 スヘ キモ ノハ 精粗見計、図取可致事 、 第 第 二条 輸 入 品製造家 ノ実況視 察可致事 、 第 二 条 輸 入代用 品製産 ノ数 量及実地景況 取調 可致事 、 第 四条 輸 入 品見本 買上 代及 写図料 トシテ用 意金 百円携 帯可致事、 第 五 条 随 行 ノ画エ ニ テ手不足 ノ節 ハ 臨機賃写取計、帰京 ノ上 精算 可致事 、 右 之通及 命令候也 、 明治十 三年 五 月廿 一 日 大 蔵卿佐 野常民 (印) 大蔵少 書記官 山高信離殿 佐野 が命 じた業務 は内 国勧業博覧会 に関す るもの と思 われ るが ωl)、 この指示 か らは山高が美 一 術や 工芸事業 に従事 していた こ とが推察で きる。 また 、第 条 か らは 、山高 が奈 良 。京都 の 古 美術調査 に従事 し、多 くの作 品を 目にす る機 会 があった ことがわか る。 また 、 山高が森川社 園 の 『正 倉院御物 写』の制作 に 関わ つてい た こ とを稲 田奈津子氏 が既 に指摘 してい るが ω2)、 その 制作 の き つか け となったのは、 この 出張調査 と大蔵卿佐野常民 の指示 であつたのだ ろ う。 そ の後 、 山高は明治 13(1880)年 5月 25日 、内国勧 業博 覧会事務局総裁 北 白川 宮能久親 王 よ り内国勧 業博 覧会 出品課長 ・編輯課長 を命 じられ た ⑬⊃。業務 に 関 わ る こ とでは 、同年 7月 29 日には内国勧 業博覧会事務局 よ り千川 上水 引用 の件 で神奈川 県 へ の 出張 を命 じられ てい る こ と がわか る ①の。 山高は この 間、6月 8日 に従 六位 に叙 せ られ てい る⑬5)。 明治 14(1881)年 6月 10日 、 山高は第 2回 内国勧業博 覧会 に室内什具図案 を出品 し、褒 賞 を受 けた 19bl。 博覧会終了後 の 8月 31日 には太 政官 よ り第 2回 内国勧業博 覧会事務勉励 の慰 労 金 100円お よび銀 牌 1個 が 下賜 され てい るωつ。 4 農 商務省 時代 明治 14(1881)年 4月 7日 、博物館 は農 商務省 の所管 となった。 山高 は 2日 後 の 4月 9日 、 農 商務少書記官 に任 じられ た ωめ。つ いで 13日 に博物局事務兼勤 を ωω、15日 には書記局事務取 O。 扱 を命 じられ てい る (Ю 同月 22日 には博覧会 同年 7月 4日 、 山高は農 商務省 よ り博 覧会掛事務 取扱 を命 じられ (101)、 (100。 掛長 を命 じられ た (1)共 進会 農 商務省 時代 に山高が関わ つた仕事 としては 、万国博 覧会 ・博物館 のほか に、共進会事業 が 挙 げ られ る。 明治 14(1881)年 9月 12日 、 山高 は開拓使外 四県米繭連合共進会褒賞授 与 の た "。 この 時 は褒 賞授 与 のた めの出張で あ り、 め 、農 商務省 よ り北海道 へ の 出張 を命 じられ た (1° 彼 が審 査 に関わ るこ とはなか つ たが 、 この後 山高は徐 々 に 関与 の度合 い を強 めてい く ことにな る。 翌 15(1882)年1月 19日 、山高 は農 商務省 よ り農務 山林 両部編輯庶務科長 を命 じられ た (100。 - 44 - 山高信離 とその仕事 ・ つ よ り慰 ・ 。 同年 4月 20日 には、米 麦 大豆 姻草菜種及 山林共進会 の事務勉励 に き、農 商務省 (10Dこ とか ら、共進会事業 の事務 に関与 して いた こ とが推 察 労 金 として 20円 を下賜 され て い る で きる。同年 12月 13日 に も、内国絵画共進会事務勉励 の慰 労金 として 50円 を下賜 され てい る (10つ (100。 、明治 16(1883)年 2月 同月 27日 、 山高 は太政官 よ り農商務権大書記官 に任 じられ (10° 。 3日 、山高 は正 六位 に叙任 され てい る (100、 3月 3日 には埼 玉 県 出 この後 の動 向 としては、2月 21日 には農商務省 よ り横浜 出張 を (111)こ とが確認 で きる。 張 を (11の 、6月 13日 には再度横浜 出張 を命 じられ た 。 。 。 へ 。 同年 9月 28日 、 山高 は農商務省 よ り大阪 兵庫 鹿児 島 長崎 佐賀 の 出張 を命 じられ (110 た (112)。 翌 日には農 商務省 よ り畑草砂糖麻苧繭 生糸織物聯合共進会審 査長 を命 じられ て い る が 、 これ は鹿児 島県外 7県 聯合共進会 の審 査長 と して の 出張 であつた。 そ の 出張 にあた つて 、 10月 1日 、農 商務卿 西郷従道 は山高 に以下 の よ うな指示 を出 した。 命令書」(鹿児 島県外 七 県連合煙 草以下共進会審査長 として派 出につ き) 山高信離 関係 文書 196「 農 商務権 大書記官 山高信離 鹿児 島県外 七 県連合煙 草以下 共進会審査長 トシテ 派 出 申付候 二付 テ ハ 左 ノ件 二 可相 心得事 一 明治十 六年十月 日 農 商務卿西郷従 道 (印) 一 ヘ 第 条 地 方官 卜謀 り、審査員 ヲ撰挙 シ 、該会 ノ規則 二 準 シ 、審 査例則 ヲ選定 ス キ事 、 第 二条 審 査官 ノ褒 賞薦告 ヲ審按 シ、 至 当 卜認 ル トキハ 、各県令協議 ノ上、褒賞金給与 内記 二照 シ、差等及 ヒ人員 ヲ定 メ、卿 ノ裁決 ヲ仰 ヘ キ事 、 第 二 条 若 シ審 査 官 ノ薦告不穏 当 卜認 ル トキハ 再議 セ シムル 事 、 第 四条 該 会 出品 二付 、功労等 アル モ ノニハ 、各県令 協議 ノ上 、相 当ノ褒賞及 ヒ追賞 ヲ擬按 シ、卿 ノ裁決 ヲ仰 ヘ キ事 、 第 五 条 審 査官 ヨ リ差 出 ス所 ノ報告書 ヲ熟閲 シテ主催 地方官 へ 附与 スヘ シ 、 第 六条 帰 京 ノ上 、該会 ノ景況 ヲ報告 スル 事 、 右 、命令 スル 条款 ヲ領 シ 、総 テ不都合無 之様 可取計事 、 この 史料 か らは、取 りま とめ役 として の審 査長 の性格 が浮 かび上 がって くる。共進会審査 に お いて 、山高 はあ くま で も農 商務卿 と地方 官 との 間 とをつ な ぐ役割 が強か つ た とい えるだ ろ う。 しか し、そ の よ うな中で も審査員 の推薦 が適 切 でな い と判 断 した 際には再議 させ るこ とがで き る権 限 を山高が持 っていた ことが読み取れ る。 この後 、山高 は明治 17(1884)年 2月 19日 農 商務省 よ り第 二 回内国絵画共進会幹事 を命 じ られ (11つ 、 10月 9日 には大阪府絵画 品評会審査長 として出張 を命 じられ 、同様 に農 商務卿西郷 この 時 に も山高 は、審査員 の推薦 が適 切 でな い と判 断 した 際 従道 よ り指示 を受 けて い る (1lD。 には再議 させ る ことがで きる権 限 を有 していた。 これ は明治 18(1885)年 9月 12日 に農商務 省 よ り佐 賀県外 七 県聯合綿茶砂糖賜 繭生糸織物共進会 出品審 査 長 として佐 賀県 へ 出張 を命 じら 。 れ た際 (110に 、農 商務卿 西郷従道 よ り受 けた指示 で も同様 で あ った (11つ なお、山高は明治 18(1885)年 10月 19日 、勲 四等 に叙 せ られ てい る(110。 -45- 山高信 離 とその仕事 (2)ア ムス テル ダ ム万国博 覧会 (1883年)・ ニ ュル ンベ ル ク金 工 万 国博 覧会 明治 15(1882)年 られ た (11の 。 6月 24日 、 山高は農 商務省 よ リア ムステル ダ ム 万国博 覧会事務官 を命 じ さらに 、明治 17(1884)年 10月 6日 、農 商務省 よ リ ドイ ツ帝 国バ イ エル ン王 国 ニ ュル ンベ ル ク金 工 万国博覧会 出品取調 として京都 。大坂 ・石川 ・富 山 。兵庫 ・愛知 の巡 回 を命 じられ (120、 翌 7日 には、 同 じ く横浜 へ の 出張 を命 じられ てい る (121)。 同年 12月 24日 に も農 商務省 よ リ ド へ ツ 工 イ 金 万国博 覧会 の件 で横 浜 出張 を命 じられ てはい るが (122)、 これ以上 の彼 の動 向は追 う こ とがで きな い。 パ リ万 国博 覧会以降、 山高は 日本 にい なが ら賞牌 を授与 され ていたが 、メル ボル ン万国博 覧会以降は賞牌授与 の こと もな くな って きて い る。 山高 の業務 の ウェイ トが内 国 勧 業博覧会 へ と移 って きて い ることも関連 があ るのか も しれ な い。 (3)亜 細亜大博 覧会計画 このほか 、 農 商務省 時代 に山高が 関わ つ た仕事 としては 、亜細亜大 博覧会計画 が挙 げ られ る。 この亜細亜大 博覧会構想 は大蔵卿佐 野常民 の計画 に よるものであるが (12め 、明治 16(1883)年 5月 29日 に農 商務卿 西郷従道 の上 申に よつて延期 され た こ とが指摘 され てい る(12つ 。西郷 は改 めて 明治 18(1885)年 6月 5日 に開催 の建議 を し、それ を受 けて 7月 27日 に亜細亜大 博覧会 組織取調委 員会 が設置 され た (12つ 。 山高は同 日、太政 官 よ り亜細亜大博 覧会組織取調委員 を命 じられ た ものの (120翌19(1886) 年 10月 8日 に この計画 は頓挫 し (12つ 、同月 16日 、内閣 よ り亜細亜大 博覧会組織取調委員 を免 (128)。 じられ た (4)皇 居造営事務局 山高は明治 18(1885)年 6月 9日 、皇居御造営事務局 へ 出仕 してい る (12"。 山高 が 明治宮殿 (13の の造営や 内部装飾 に関わ つた ことは既 に指 摘 され てい るの で 、 詳細 は省 略す るが、明治 21 (1888)年 10月 31日 、皇居御 造営 中の負担事務格別 につ き、官殿 の竣功 を迎 えるにあたつて 、 宮 内省 よ り目録 を下賜 され てい る (131)。 5 博 物館 ∼ 宮内省博物館 か ら帝室博物館 まで ∼ (1)前 史 ∼ 内務 省 ・農 商務省 時代 ∼ 明治 8(1875)年 3月 30日 、博 覧会事務局 は博物館 に改称 し、内務省 の所管 となった。同 日、 これ以 降、彼 は従来 の博 覧会行政 だ けでな く、 山高は内務省 よ り博物館 掛 を命 じられ た (13"。 博物館 (後に博物局 と改称 し、展示施設 としての博物館 と組織名 を分離す る)の 所管 である博 物館行政 に も携 わ ってい くよ うにな る。明治 10(1877)年 8月 4日 、山高 は内務 省 よ り博物局 事務 取扱兼勤 を命 じられ た (133)。 明治 14(1881)年 4月 7日 、前述 した よ うに博物館 が内務省 よ り農 商務省 に管 轄 が変 わ つて も、 彼 は同月 13日 に博物局事務兼勤 を命 じられ て い る。さらに 、 8月 20日 には博物 局 よ り工 芸課長 兼芸術課長 を命 じられた (134)。 -46- 山高信離 とその仕事 ( 1 3、 め 明治 1 9 ( 1 8 8 6 ) 明治 1 8 ( 1 8 8 5 ) 年1 2 月 2 8 日 、山高 は農 商務省 よ り博 物 局長 心 得 に任 じ られ (130。 年 3 月 2 日 に は農 商務省 よ り博 物館 長 心 得 を命 じられ て い る (2)官 内省博物館 4月 1 明治 19(1886)年 3月 24日 、博物館 の管轄省 庁 が農 商務省 か ら宮 内省 に変 わ る と、 (13つ 。明治 21(1888)年 1月 18日 、博物館 が官 内省 図書 日に山高 は博物館長 心得 を命 じられ た (13め 。 この 日よ り彼 は奏任官 二 等 とな り、 寮 に管轄 が変 わ る と、 山高 は博物館 長 に任 じられ た 年俸 2400円 を給与 され る立場 とな つたのであ る (13"。 この時 期 に山高が関わ つた仕事 としては、次 に述 べ る第 3国 内国勧 業博 覧会 の ほか 、明治 21 (14の 。 (1888)年 9月 27日 に宮 内省 よ り任 じられた臨時全 国宝物取調掛 が挙 げ られ る (3)第 3回 内国勧業博 覧会 (1890年 4月 1日 ∼ 7月 31日 ) 山高 は官 内省博物館長 とな つていた 明治 21(1888)年 3月 10日 、再 び 内国勧業博 覧会 に関 わ る こ ととな つた。 この 日、彼 は内閣 よ り第二回内国勧業博 覧会事務官 を命 じられ た のであ る (14" (141)。 同月 29日 には出品課長 を命 じられ てい る (14つ 、同様 に 6月 3日 に ところが、山高は明治 22(1889)年 5月 29日 に も事務官 を命 じられ は出品課長 を命 じられ てい る (144)。 (14つ 、同月 18日 には第 同年 12月 11日 、彼 は第 二 回内国勧業博覧会審 査官 を命 じられ てか ら ょび 第 二 回 内国勧業博 覧会審 査幹事心得 と、立 て続 けに 二 国内国勧 業博 覧会第 二 部勤務 (140ぉ 。 さらに、明治 23(1890)年 3月 5日 には第 二 回内国勧 業博 覧 内閣 よ り役職 を命 じられ た (14つ 会審 査 幹事 を命 じられて い る (14め 。 へ 博 覧会終了後 の 10月 15日 、山高 には第 二 回内国勧業博覧会事務局 よ り、職務 の褒賞 と し て 、金 500円 を下賜 され た (14"。 ここで も山高は審 査官や 、それ を取 りま とめ る審 査 幹事 な どの役職 を担 うこととなったので ある。 (4)帝 国博物館 理事 明治 22(1889)年 5月 16口 、図書寮附属博物館 が廃 止 とな り、帝 国博物館 が誕 生す る と、 (150、 翌 17日 には美術 工 芸部 山高は帝 国博物館 理事 (奏任 官 二等 ・年俸 2400円 )に 任 じられ 兼 工芸部長 を命 じられ てい る る (152)。 (151)。 さらに、 18日 には旧博物館 の残務取扱 も命 じられ たので あ 8月 15日 には米 国 つい で 、山高 は 7月 18日 に官 内省 よ り技芸員選択委員 を命 じられ た (150。 一 全 権 公使 を兼任 したままであ つた帝 国博物館総長 九 鬼隆 の不在 中に代理 を務 めるよ う、宮 内 理事 4人 の うち、専任 であつたのが山高 のみ で あ つた こともあ る 省 か ら命 じられ て い る (154)。 九 鬼 の次席 として の 山高 の立場 が うかが える。 が (155)、 O。 12月 22日 に この後 、明治 23(1890)年 11月 1日 、山高 は勲 二 等瑞 宝章 に叙 せ られ る (1お (15,。 明治 24(1891)年 12月 給 与 され るよ うにな つ た は奏任官 一 等 とな り(15つ 、年俸 2600 FJを -47- 山高信 離 とその仕事 7日 には従 五位 に叙 せ られ てい る 。50。 なお官制 改革 によ り、明治 24(1891)年 日には二 等官 となってい る (16の 。 12月 22日 に四等官 、明治 25(1892)年 11月 19 業務 と しては 、明治 25(1892)年 10月 22日 に宮 内省 よ り臨時全 国 宝物 取調掛 として神奈り││ 県 へ の 出張 を命 じられ てい ることが知 られ る (161) (5)シ カ ゴ万国博 覧会 (1893年 5月 1日 ∼ 10月 30日 ) 明治 24(1891)年 7月 7日 、帝 国博物館職 員 となっていた 山高は しば らく振 りに万 国博覧会 に 関わ るこ とになった。 この 日、内 閣 よ り臨時博覧会事務官 を命 じられ たのであ る (16の 。 翌 25 (160。 5月 19日 には 、内閣 よ り臨時博覧会事務局鑑査官 の兼務 を命 じられ てい る 年 同年 7月 9 日には米 国大博覧会 日本婦人 会委員長 毛利 安子 よ り、同会 の事務補助 員 を依嘱 され た (160。 実務 面では、明治 26(1893)年 4月 13日 、 山高 は臨時博覧会事務 局 よ り京 都府 へ 出張 を命 じられ た こ とが確認 で きる (16D。 さらに、同年 6月 9日 には内 閣 よ り臨時博 覧会事務 の ため米 国出張 を命 じられ 、同月 14日 には米 国出張 につ き、明治天皇 に拝謁 してい る (160。 山高は渡米 中 の 12月 19日 、内閣 よ り臨時博覧会事務 局鑑査官 の兼務 を免 じられ (16つ 、翌 27 (160。 (1894)年 2月 16日 、帰 国 してい る 彼 の帰 国を待 たず して 、す でに 2月 9日 付 で帝国京 都博物館長兼帝 国奈 良博物館長 の座 が用意 され ていた。 翌 28年 8月 28日 、彼 はシカ ゴ万国博 覧会 に 関 し米 国大統領名 の感 謝状 を受領 してい る (16の 。 (6)第 4回 内国勧業博 覧会 (1895年 4月 1日 ∼ 7月 31日 ) 明治 26(1893)年 4月 7日 、山高はまた も内閣 よ り第 4国 内国勧業博 覧会事務官 に任命 され (17の 6月 15日 に彼 は二 旦 出品課長 、同月 15日 には事務 局 よ り出品課 長 を命 じられ てい る (171)。 を免 じられ てい るが (17の 、翌 27(1894)年 3月 16日 に再度事 務局 よ り出品課長 に任 じられてい る (17め これ で 山高 の 内国勧業 博覧会業務 は 。 6月 には再び事務 局 よ り出品課 長 を免 じられ (170、 終 わ ったか と思われ た。 ところが彼 は 7月 27日 に、事務局 よ り勤務地の京 都 よ り上京 を命 じられ (17め 、8月 6日 には 三たび 出品課長 を命 じられ た ので あ る (170。 この他 、10月 15日 にも事 務局 よ り上京 を命 じられ (17つ た ことが確認 できる 。 この後 の動 向 としては 、会期 中の 明治 28(1895)年 7月 16日 に事務 局 よ り神 戸市 へ 出張 を命 じられてい るこ とがわか る(170。 11月 12日 に事務 局 よ り上京 を命 じられ (17の 、同月 15日 に賞 与 として金 1000円 を給与 され た (180。 さらに、翌 29(1896)年 3月 2日 には銀 牌 を 授 与 され (181)、 同月 26日 には第 四国内国勧業博 覧会 にお ける功績 に よ り、藍綬褒 章 を授与 され 山高は博 覧会終了後 の 明治 28(1895)年 てい る(180。 (7)帝 国奈 良博物館長 ・帝 国京都博物館長 明治 27(1894)年 2月 9日 、山高は宮 内大 臣よ り帝国京 都博物館長 ・帝 国奈 良博物館長兼任 っぃ で 5月 1日 には帝国博物館総長 九 鬼隆 一 よ り兼官 を命 じられ 、 二 等官 に叙 せ られ た (180。 -48- 山高信 離 とそ の 仕 事 (18り 、同月 11日 の事務 専務 を命 じられ 、帝 国博物館 の美術 工 芸部長井 工芸 部長 を当分免 じられ (180。 ここに 山高 が帝 国京都 ・奈 良博 物館 長 には九鬼 よ り京都 を勤務 地 とす るよ う命 じられ た (180。 として、両博物館 の体制 を整備す るよ うにな つたのである 一 山高 が 両博物館 の館長 を兼任す る体制 は、明治 28(1895)年 4月 29日 に 旦彼 が 帝国奈 良 (18つ 、帝 国奈 良博物館評議員 を命 じられた こ とで終 わ るか に思 われ 博物館長 の兼官 を免 ぜ られ (180、 帝 国奈 良博物館 しか し、 10月 10日 には再び帝 国奈 良博物館長 の兼任 を命 じられ た (180。 (190。 同年 12月 10日 、山高 は正五位 に叙せ 評議員 を免 じられた こ とで復活す る こ とにな つた られた (191)。 業務面 では 、明治 2 9 ( 1 8 9 6 ) 年 2 月 1 7 日 、 宮内省 よ り滋 賀 県 出張 を命 じられ てい る こ とが °また、明治 3 1 ( 1 8 9 8 ) 年 2 月 1 2 日 、山高 は官 内省 よ り帝 国博物館 鑑 査委員 を 確認 で きる( 1 9。 めこの業務 は明治 3 3 ( 1 9 0 0 ) 年 6 月 3 0 日 、つ ま り帝室博物館 に改称 され る前 命 じられ たが ( 1 9、 日まで行 われ てい る( 1 9 0 。 この後 、彼 は明治 31年 6月 30日 には年俸 2800円 に昇給 し、明治 32(1899)年 。 には旭 日中綬 章 を受章 して い る(19め 明治 33(1900)年 12月 27日 3月 24日 に山高 は内務省 よ り帝 国京都 博物館 国 宝監守兼帝 国奈 良博物館 国 宝監守 を命 じられ、帝室博物館発 足直前 の 同年 6月 27日 には 、帝 国博物館評議員 (勅任待遇) に任 じられ てい る (190。 。 展覧会 に関わ る業務 では 、明治 31(1898)年 4月 1日 、山高 は個人 の資格 で豊太 閤墳墓修築 、これ は帝 国京都博 300年 祭挙行 に尽力 した こ とに よ り、豊 国会第 二 等章 を贈 られ てい るが (19つ 豊 臣時代 品展J(190との 関係 によるもの と考 え られ る。 物館 の特別展 覧会 「 また、山高 は帝 国京都 博物館 。帝 国奈 良博物館 以外 の仕 事 も依頼 され てい る。明治 31(1898) (19り 、6月 17日 に 年 4月 13日 、農 商務省 よ り全国漆器漆生産府 県聯合共進会審 査長 を嘱託 され 00。 はそ の手 当 として農 商務省 よ り金 100円 が給与 され てい る 。 明治 32(1899)年 3月 3日 、絵画 を揮 竃 した ことに よ り、羽織地 ・袴 地 を皇太子嘉仁親 王 (の 01)。 同年 8月 31日 には宮 内省 調度局 よ り巴里万国大博 覧会 出 ち の大 正天皇 )よ り賜 つてい る 。 いの 品鑑 査委員 を命 じられ てい る 。 この他 、二 条離官 の 張付画 の工事監督 を依頼 され てい る。 Fll治32(1899)年 12月 20日 には 工事監督 として尽 力 したた め、 100円 を内匠寮 よ り下賜 され た こ とがわか る 。0"。翌 33(1900) い。。 年 12月 21日 に も同様 に 100円 を内匠寮 よ り下賜 され てい る (8)古 社 寺保存会 0つ 明治 29(1896)年 5月 7日 、山高は内閣 よ り古社 寺保 存会委員 を命 じられた 。 。同年 11月 21日 には、帝 国博物館総長 で古社 寺保存会会頭 であ った九鬼隆 一よ り古社 寺保存会委員 として 年 12月 23日 には内務省 よ り明治 29年 度 の 占社寺保存会手 当金 の支給 を受 召集 を受 け、 006)同 けてい る -0つ 。 翌 30(1897)年 12月 23日 には古社寺保 存会事務勉励 として 、 内務 大 臣 よ り白 一 明治 31(1898)年 12月 27日 に も内務省 よ り古社 縮緬 疋 を贈 られ て い る こ とがわか る(200。 寺保存会 の 明治 31年 度分手 当金 として 100円 の給 与を受 けて い る 。00。 -49- 山高信離 とその仕事 明治 32(1899)年 2月 27日 に は内 務省 よ り古 社 寺保 存 計画 の 調 査 を嘱 託 され 。1の 、同 国内務 省 よ り古社 寺保 存 会 の 委員 と して京 都 府 ・奈 良 へ の 出張 を命 じられ た のD。 3月 2日 には 、古 界 社 寺保 存 会京 都 奈 良調 査 の 人 選 に つ い て 、 内務 属稲 垣 宗 正 よ り書 状 を受 け、現 地 で の 人選 が 彼 いの に任 され てい る 。 明治 34(1901)年 3月 27日 、古社 寺保 存 会委員 と して尽 力 した こ とに よ り、 内務 大 臣 よ り 自羽 二 重 一 疋 を賜 つ た 。10。翌 35(1902)年 4月 1日 に も、 同様 に内務 大 臣 よ り白縮 緬 一 疋 を 贈 られ てい る 。1の 。 (9)臨 時博覧会 明治 27(1894)年 3月 8日 、山高はアメ リカ 帰国 か ら程 な く臨時博 覧会事務局 よ り京都府 ヘ 出張 を命 じられ た 。10。この後、同年 6月 18日 、事務局 よ り事 務官手 当 として金 375円 が 下賜 され 。1の 、12月 10日 に も事務官手 当 300円 が 。1つ 、同月 17日 に も金 600円 が事務局 よ り 「 事務 10。 。 官 山高信離 」 に給付 され てい る この こ とか ら、彼 はシカ ゴ万博 以 降 も臨時博 覧会事務 局 の仕 事 を行 つ ていた ことがわか る。 明治 29(1896)年 11月 14日 には内 閣 よ り臨時博覧会評議員 を命 じられ てい る 。10。12月 14 日には評 議員事務格別 と して 、事務局 よ り金 100円 が給与 された 。2の 。 明治 34(1901)年 5月 31日 には再び事 務局 よ り、職 務格別勉励 として金 100円が贈 られ て い る 。21)。 (10)帝 室 博物館 明治 33(1900)年 7月 1日 に博物館 官制 が 改 正 とな り、帝 国博物館 は帝室博物館 と改称 され た。 山高 は 引 き続 き京都帝室博物 館長 を本 官 とな し、奈 良帝室博物館長 を兼務す ることとな り _級 022)、 俸 を給与 され てい る°20。明治 34年 1月 21日 には従 四位 に叙 せ られ た ゆ2→ 。 明治 35(1902)年 3月 19日 、 山高 は前年 よ り患 った膀洸 出血が 回復 せ ず 、京都帝室博物館 長 ・奈 良帝室博物館長 の辞職願 を宮 内大 臣に提 出 した 。2つ 。5月 2日 、辞職願 が受理 され 、京都 20。 。 ・ 帝室博物館長 奈 良帝室博物館長 を依願免 官 とな った 特 旨をもつて 、位 一級昇進 とな り。2つ 、 20。 。 2の 正 四位 に叙 せ られ た 明治天皇 か らは この 日、菊紋付 七宝 花瓶 1対 が下賜 され てい る 。 。 ここに 、官僚 山高信離 の仕事 は終 わ りを迎 えたのであ る。 6「 個人」山高信離 と しての仕事 前章 までは官僚 山高信離 としての仕 事、 い わば公 的な立場 で行 つた業務 につい て概観 して き た。最後 に 「 個人」 山高信離 として行 って きた業績 をみ てい きた い。 (1)博 物館 へ の資料寄贈 山高 の個人 としての業績 では 、博物館 へ 資料 の 寄贈 を多 く行 つてい ることが挙 げ られ る。彼 は明治 5年 5月 か ら明治 11年 5月 の 間に所蔵 品数種 ・雀 1羽 を博物館 へ 献納 してお り、明治 12月 25日 に太政 官 よ り感 謝状 を受 けて い る。3の 。 同年 9月 6日 には博物館 に琵 琶 (僧満 面葡萄揆 面青皮)1面 。筆集 (太田道灌所持 卜云)1面 を献納 してい る。31)。 15(1882)年 - 50 - の に顕著 で あ り、明治 17(1884)年 1月 31 この 「 寄贈 ラ ッシ ユJは 明治 17年 か ら 20年 間 二掘採 シモ ノ)1塊 と、仙巌 別館江 南 二 日には銀破 (自然 銀 ヲ付 スルモ ノ、大和 国産、 十年前 いの。 同年 6月 20日 には遅羅 国人所 用針 口権衡 1具 ・同国 へ 竹記摺 本 1枚 を博物館 納 めて い る い⇒。 人所用機 を献納 して い る 。 1疋 ・鼈 (但活 物肥前 産)1疋 を また明治 18(1885)年 12月 28日 には赤鬼蟹 1疋 松葉蟹 °30、3月 よ り 12月 の 間 に次 々 と 10品 (加州 金沢 夕顔 亭起 シ 図 1組 ほか)を 博物 献納 した ほか 輸30。 され て い る 館 に献納 し、明治 23(1890)年 7月 1日 に木盃 1箇 を下賜 い0、 同月 13日 には下野国足利学校額 ついで 明治 19(1886)年 12月 11日 には金 明竹 1株 を 30。そ いつ、22日 には蝦夷風俗彙 纂 20冊 を博物館 に献納 して い る 。 摺本 1枚 をそれぞ れ献納 し 。3の 。 の結果 、 山高 は明治 23年 7月 1日 に感謝状 を受 けてい る 。 を献納 さらに明治 20(1887)年 2月 4日 には筑後地誌 略 (梅野多喜蔵 三 谷有信 合著)1冊 ことに よ り、 しの4ω、7月 7日 には秩鶏 (但活物)2羽 を、同月 8日 には物 品 40種 を献納 した 。41)。 本盃 1組 が下賜 され てい る 23 この よ うな彼 の行 動 は帝 国博 物館 や 帝 室博 物館 長 とな つて も変 わ る こ とはな く、 明治 が 与 され (1890)年 7月 1日 には再び秩鶏活動 2羽 を帝 国博物館 に献納 した ことで 、感謝状 授 へ 1個 が て い る ゆ4"。明治 25(1892)年 11月 21日 には鉄鍔外 24種 を帝 国博物館 献納 し、木杯 °4"。 下賜 され てい る 。 また、退職後 の 明治 35(1902)年 5月 10日 に も聖教序摺本 お よび僧 雪舟 僧周耕書 を京都 。4つ 、明治 39(1906)年 6月 15日 には東京帝室博物館 に樽仏像 (大和国 山 帝 室博物館 に寄付 し 。4D。 田寺 旧跡発掘)1個 を寄贈 して い る (2)龍 池会 0日 本美術協会 山高は明治 18(1885)年 40。龍池会 (のち 日本 10月 18日 に龍池会通常会員 とな ってい る。 美術協会)と の 関 わ りはす でに指摘 され てい るため、詳細 は省略す るが、明治 20(1887)年 12 )委 員長 月 15日 に龍池会 が 日本美術協会 と改称す る と、山高 は 日本美術協会第 二 部 (建築 F 5治 4つ に任 じられて い る 。 。 山高は 自らも出品 を行 い 、明治 23(1890)年 1月 18日 には 日本美術 協 。40。 会 に出品 した 園庭用 屋根塀 が優等 と査 定 され 、褒 賞 として木盃 を贈 られ て い る (3)そ の他 山高は明治 29(1896)年 7月 19日 、南禅 寺事務本部 よ り、本 堂再建寄附金割納証 を受 け取 ってお り。40、南禅寺 の本 堂再建 のた めに寄付 金 を支払 つた ことが確認 で きる。 おわ りに 山高信離は明治 4 0 ( 1 9 0 7 ) 年3 月 1 6 日、東京市本郷龍岡町の 自宅で亡 くなつた。享年 6 6 歳。 3 月 2 3 日 、侍従北條氏恭子爵が勅使 として山高を訪れ、白絹二匹を下賜 している。彼 の死につ いて、『明治天皇紀』 は このよ うに記 している。 -51- ■■■■■︱︱︱︱︱︱︱︱︱IIllllllllllllllllllllll 山高信 離 とそ の 仕 事 ■■ ■ ■ ■ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ 目 目 I 日 l l l l l l l l l l l l l l l l l l l 山高信離 とその仕事 『明治天皇紀』二十一 日 (中略)帝 室博物館評議員正四位勲二等山高信離 せ 卒 るを以て、多年博覧会の事務に尽力 し、 且帝室博物館 の事業 に執掌 し、勤労砂 か らざりし を追思 し、是 の 日祭資金五百円を賜ひ、尋 いで二十三 日侍従北條氏恭を勅使 として の 其 第に遣は し、 白絹二匹を賜ふ。 この記事 は 山高 の仕事 を端 的 に表 してい る 。 明治天皇 に とって 、 山高 の数多 くの仕事 の うち で 、まず思い 出 され たのは 「 多年博 覧会 の事務 に尽 力」 した 姿 と、 「 帝室博物 館 の事業J で あ っ たのだ ろ う。 以 上 、長 くな っ た が 山高信 離 の 職歴 と携 っ て きた仕 事 を 「山高信 離 関係 文 書」 か らみ て きた が 、浮 かび上 が っ て きた の は彼 の 仕 事 の 骨格 の み で あ る こ 。 れ は 明治期 の 「山高信 離 関係 文 書 」 が 辞令 な どの 行 政 文 書 が 大 多数 で あ り、具 体 的 な 内容 は知 る こ とが で きな い た めで あ る。 しか し、 た とえ骨 格 だ けで あ っ て も、以 下 の よ うな こ とが 読 み 取れ るだ ろ う。 彼 の職 歴 と仕 事 で 特徴 的 なの は 、管轄省 庁 の 変化 に左 右 され る こ とな く ( もち ろん しい 新 仕 事 も して い るが ) 、一 貫 して 博 覧 会 ・博 物館 に関 わ り続 けて い る点 で あ る。なか で も、博 物館 の 管轄省 庁 が 宮 内省 に変 わ り、 博 覧会 の 管轄省 庁 と分 か れ て か らも、 山高 が 博 覧会 の 際 に 呼 ばれ てい る こ とは 、彼 の 役害J を考 え る上で示 唆 的 に思 われ る。つ ま り、単 な る 「 そ の立 場 に あ る者 J で はな く、何 らか の役 害J が彼 に期 待 され てい た と評 価 す る こ とが で き る の で は な い か 。 ま た 、 これ ま で 指 摘 され て い た 山高 の 美 術 工 芸 分 野 にお け る役 割 は 、 「山高信 離 関係 文 書」 か らは浮 かび 上 が っ て は こ な い。 これ まで の よ うに特化 して 考 え るの で は な く、 山高 の 多彩 な 仕 事 の うち の ひ とつ と して 捉 えて み る こ とで 、 ま だ 見 出 され てい な い 多 くの役 割 が あ っ た可 能 性 を想 起す る こ とが で き るの で はない だ ろ うか。 これ らの 問 い へ の 答 えは 、今 後 の 課題 と したい 。 註 ( 1 ) 先駆的な もの として 、開千代氏 1 9 6 9 「 皇居杉戸絵 につい て」 『 美術研 究』2 6 4 号 お よび同 氏 1 9 9 1 「皇居 杉戸絵 につい て 」 博物館 明治村 『明治宮殿 の杉戸絵』所収 、東京 国立 博物館編 1 9 9 7 『明治デザイ ンの誕生』 国 書刊行会 、があ る。近年 では 、恵美千鶴子氏 2 0 0 8 . 1 2 「明治宮殿 常御 殿襖 画 の 考案 ―正 倉院鳴毛屏風模 造 。平家納経模本 の 引用 と山高信離」 『 M u s e u m 』6 1 7 号 、稲 田 奈津子氏 2 0 0 9 . 4 「杜園 と模 写 をめ ぐる人 々 ―森川社 園 『正 倉院御物写』の世界 ( 4 ) 」 『 東京大学 史料編纂所 附属画像 史料解析 セ ン ター 通信』 4 5 号 、お よび 同氏 2 0 0 9 . 3 『 森川杜 園 「 正 倉院御物 。 写」 の世界』東京 大学大学 院 工学系研 究科建築学専攻 東京大学 史料編纂所 附属画像 史料解析 セ ン ター 、小沢朝江氏 2 0 0 8 『 明治 の 皇室建 築 国 家 が 求 めた < 和 風 > 像 』吉川 弘文館 、な どがある。 ( 2 ) 博物館 史では椎名仙卓氏 1 9 8 9 『 明治博物館事始 め』 思 文 閣 P 2 0 6 ∼2 1 2 。美術史では、佐藤道 信氏 1 9 9 9 . 4 ( 初 出 1 9 9 1 . 3 ) 「 明治美術 と美術行政J 『 明治 国家 と近 代美術』所収 占 川 弘文館 、 お よび 同氏 1 9 9 1 . 1 0 「日本画画壇 の再編成 と明治官殿 J 博 物館 明治村 『明治宮殿 の杉戸絵』所収 、 な どの研 究で言及 され てい る。 -52- 山高信離 とその仕事 の の (3)史料 としては社団法人 日本博物館協会編 1963『わが国 の近代博物館施設発 達資料 集成 とそ 勅仕奏任准奏任 履歴 山 高信離J、お よび社団法人 日本博物館 研究 明 治編 1』P349∼355所収 の 「 314 協会編 1964『わが国の近代博物館施設発 達資料 の集成 とそ の研究 明 治編 2・補遺』 P306∼ 山高信離履歴書」 がある。 また、史料 をもとに作成 されたもの としては松戸市戸定歴史館 所収 の 「 編 1992「山高信離略年譜」 『 戸定論叢』2号 P87∼ 94所 収、が現在読 めるもの としては最 も詳 認 め られ た。 山高信離 関係 文書」 をも とに検証 した結果 、数 か所 の異 l p l が 細 で ある。 ただ し今 回 「 ( 4 ) 國雄行 氏 2 0 0 5 『 博 覧会 の 時代』 岩 E E 書院、お よび 同氏 2 0 1 0 『 博 覧会 と明治 の 日本』吉川 弘 。 ー 文館 、角 山幸洋 氏 1 9 9 9 . 3 『 ウィ ン万国博 の研 究』 関 西大学経済 政治研 究所 、 伊藤真 実子氏 2 0 0 8 『 明治 日本 と万国博 覧会』 吉 川 弘文館 、な ど。 ( 5 ) 椎名仙卓 氏 2 0 0 5 『 日本博物館成 立 史』 雄 山閣、関秀夫 氏 2 0 0 5 『 博物館 の誕 生 』 ( 岩波新書 953)岩 波書店。 ( 6 ) 山高信離 関係 文書 ( 山高登 氏所蔵 、松戸市戸 定歴史館 寄託) 。 日録 は 松 戸 市戸定歴史館編 一 山高信離 関係 文書解説」 1 9 9 2 『戸定論叢』 2 号 に所収。概 略 について は同書所収 の 柏木 朗 氏 「 を参照 の こ と。 ( 7 ) 堀利 堅墓碑銘 ・堀喜之助 ( 文政 7 年 9 月 1 6 日死去 ) 墓 碑銘 ・堀 陽次郎 ( 天保 3 年 1 2 月 9 日 死去) 墓碑銘 ・堀利 熙墓碑銘 ・堀 六二郎 ( 天保 5 年 7 月 2 9 日 死去) 墓 碑銘 ・堀氏女麗 ( 文政 5 年 1 2 月 7 日死去) 墓 碑銘 。堀氏女 ( 天保 1 2 年 8 月 7 日 死去) 墓 碑銘 ( すべ て東京 都文京 区源 覚寺所在) お よ び市橋 長賢夫人 山高為 ( 弘化 4 年 6 月 2 9 日 死去、享年 2 7 歳 ) 墓 碑銘 ( 東京都 台東 区瑞輪寺所在) に よる。 実父堀利 堅 の墓碑銘 か ら、9 男 6 女 の子女 が確認 できる。 また、信離 の兄弟姉妹 の墓碑銘 の検証 か ら、信離 の 出生順序 は 8 男 と考 え られ る。 ( 8 ) 山高信離 関係 文書 3 6 7 「恩給請求書写」 ( 付山高信離履歴書) に記載 の生年月 日に よる。 ( 9 ) 山高信離 関係 文書 3 8 6 「山高信離墓誌案」 ( 1 0 ) 前掲 註 ( 7 ) 堀利堅墓碑銘 には長谷川 氏 とのみ あ り、詳細 は不 明であ つた。 しか し、山高信離 関係 文書 2 5 4 「約 定証書」 ( 長谷川 いほ墓所 、供養等 につ き) か ら、実母 の名 前 がいほ ( 明治 2 2 年 1 2 月 2 6 日 死去) 、そ の父 の名 が長谷川 丑松 ( 明治 1 7 年 3 月 1 7 日 死去 ) と 判 明 した。 なお、本文書 に よ れ ば生 家墓 地である吸江寺 ( 現在 の渋谷 区東 4 1 0 3 3 所 在) に 供養 のた め石碑 を建 立 した ことが知 られ る。筆者 が訪れ た ところ、現在 もそ の石碑 は現存す る こ とがわか っ た。 ご教示頂 い た吸江寺 ご 住職 に この場 を借 りてお礼 を申 し上 げた い。 ( 1 1 ) 小西 四郎監修 1 9 9 0 『 江戸幕府 人名事典』 4 新 人物往 来社 P 2 2 9 ( 1 2 ) 武川村誌編纂委員会編 1 9 8 9 『 武川村誌』資料編 P 3 7 3 ∼ 3 7 4 ( 1 3 ) 前掲註 ( 7 ) 堀利 堅墓碑銘 では信 徳 と記 され てお り、少 な くとも実父 の墓碑 が建立 された時 までは 諄 が信徳 であった とい うこ とがい えるだ ろ う。諄 が信離 となった時期 について は註 ( 1 5 ) 参照。 (14)『 柳 営補任 』2 ( 大 日本近世史料) 東 京大学 出版会 P 2 9 4 。 本史料 には山高蘭之助 の脇 に弾正 の傍注 があ り、 この 時 に改名 した可能性 がある。 ( 1 5 ) 山高信離 関係文書 2 8 「改名伺 」 ( 弾正 改 め主計) お よび 『 柳 営補任』3 P 1 2 9 。なお 、『柳営補任』 には信 離 との傍注があ り、 この 時か ら諄 が信 離 とな った 、 あるい はな つてい た こ とが考 え られ る。 ただ し、原本 を確認 していないため 、後筆 の 可能性 も否 定で きな い。諄 が信離 とな つ た時期 につい - 53 - 山高信離 とその仕事 て は後 の 課題 と した い 。 ( 1 6 ) 山高信 離 関係 文 書 4 0 「渉涛 日誌 」慶応 2 年 1 2 月 2 7 日 条。 ( 1 7 ) 山高信 離 関係 文 書 5 9 。この 改名 に は 官位 は慶応 4 年 6 月 の 時 点 で旗 本 の 官位 は 総 督府 か ら下 さ れ る との 指示 が あ り ( 山高信 離 関係 文 書 5 7 ) 、今 まで の 官職名 を名 乗 れ な くな っ た こ とが 考 え られ る。 ( 1 8 ) 山高信 離 関係 文 書 7 3 「預 証 書 」 ( 預 り金 に つ き) 。 (19)山高信離関係文書 86「辞令」(博覧会書記 官長被仰付候事)。公文書での 「 信離」の初見 となる。 ただ し、これ以前の明治 2年 2月 6日 に山高は養曾祖母の富 (山高家 22代 当主信求夫人)の 墓碑銘 を書 いてい る (山高信離関係文書 63)が 、その文面には 「 曽孫山高人郎信離識」 と記 してお り、明 治 2年 2月 時点で諄 としての使用実態はあった ことがわか る。 また、彼 の名前 の読みについては、 のぶつ ら」 とされ 、それ が近年 に至 るまで踏襲 されてい る例が見受け られ る。 しか し、前掲 従来 「 のぶ あきらJで あることが判明 している。彼 は明治 5年 10月 28日 註 (6)柏 本 一朗論文によ り、 「 以降、戸籍名 を講 として用いていた 「 のぶ あきら」と読まれていた 信離」としてお り、「 信離」が 「 ことはほぼ確実 と思われ る。 (20)『江戸幕府人名事典』4 P229 (21)『柳営補任』2 P294お よび 『江戸幕府人名事典』4 P229 (22)『柳営補任』 2 P294お よび 『 柳営補任』 6 P213、 『 続徳川実紀』4 P516 (23)『江戸幕府人名事典』4 P229 (24)『柳営補任』3 P129、 『 続徳川実紀』4 P630、 『江戸幕府人名事典』4 P229 (25)山高信離関係文書 29「辞職願」、『 柳営補任』3 P129、 『江戸幕府人名事典』4 P229 (26)『柳営補任』3 P134、 山高信離関係文書 15「渉涛 日誌」慶応 2年 8月 18日 条 (27)『柳営補任』3 P134、 『 続徳川実紀』5 P44、 (28)山高信離関係文書 41「達書」 (御旅館 へ の 出頭命令)、山高信離関係文書 15「渉涛 日誌J慶 応 2 年 12月 26日 条 (29)山高信離関係 文書 15「渉涛 日誌J慶 応 2年 12月 26日 条 (30)山高信離関係文書 15「渉涛 日誌」慶応 2年 12月 27日 条、『 柳営補任』3 P134、 『 続徳川実紀』 5 P128 (31)官地正人監修 1997『 徳川 昭武幕末滞欧 日記』 松 戸市戸定歴 史館。 (32)史料集 としては 日本 史籍 協会編 『 徳川 昭武滞欧記録』 1∼3 東 京 大学 出版会、お よび 同会編 一 『澁澤榮 滞仏 日記 』 東京大学 出版会、文章 として読 めるものでは 、須 見裕 氏 1984『 徳川 昭武』 (中公新書 750) 中 央公論社 、 がある。 (33)山高は皇帝ナ ポ レオ ン 3世 か ら昭武 の博役 (教育責任者)と して任命 され た レオポル ト ・ヴィ レ ッ ト中佐 との折 り合 いが悪 く、 どち らが上位 かを巡 って争 いが絶 えなか った。史料 には 「 極不和 外 にて 日々議論不絶 、始終 い ぢ り合又 は愚弄致J「戦争Jと まで記 され る状態 で、駐仏公使栗本鯉 は 「 国交際 が不 慣 れ のため頑 固 に私見 を押 し通 すJと して 、 山高 の解任 を幕府 に進言 した。 そ の結果 、 幕府 は慶応 3年 12月 18日 付 で 山高 の博役 を解任 し、留学 生取締 に任 じた。辞令 がパ リに届 いたの は翌年 2月 13日 であつた。 - 54 - 山高信離 とその仕事 へ (34)山高信離 関係 文書 59「達 書」 (御殿 の 出頭命令) (35)山高信離 関係 文書 66「達 書」 0日良奉行 に任命 につ き) (36)山高信離 関係 文書 79「宣 旨」 (任静 岡藩権 少参事 右 宣下候事) 85「辞令 」 (博覧会 (37)山高信離 関係文書 84「辞令」 (大蔵省 七 等 出仕被仰 付候事)、 お よび 同文書 御 用掛被仰付候 事) (38)山高信離 関係 文書 86「辞令 J(博 覧会書記官長被仰 付候事) ヘ キ事) (39)山高信離 関係 文書 88「辞令 」 (六等 出仕被仰付候 事但博 覧会書記官 是迄通 タル 一 (40)山高信離 関係 文書 89「辞令J(博 覧会 級書記官兼勤澳 国被差遣候 事) ・ ー (41)角山幸 洋氏 1999「 佐 野常民 と田中芳男」 『 ウィ ン万国博 の研 究』所収 関 西大学経済 政治研究所。 (42)山高信離 関係 文書 92「 リッテ ル ク ロイ ツ (Ritterkreuz)勲章勲記J (43)山高信離 関係 文書 98「辞令」 (澳国維納博 覧会残務 取調掛被仰付候 事) (44)山高信離 関係 文書 120「辞令J(澳 国博 覧会残務取扱 申付候事) (45)山高信離 関係 文書 129「辞令 」 (澳国博 覧会残務 取調掛差免候事) ニー ル 号沈没事件 (46)山高信離 関係 文書 100「命令書J(伊 豆国妻 良村江 出張被仰付候 事)。 なお、 ー ー につい ては、角 山幸洋 氏 1999「 仏 国船 ニ ル 号 の沈没 J 『 ウイ ン万国博 の研 究』所収 関 西 大学経済 。政治研 究所 、に詳 しい。 ー (47)山高信離 関係 文書 103「辞令J(ニ ュ ル 号沈没船取扱被仰付候 事) ー (48)山高信離 関係 文書 106「辞令J(仏 国 ニ ル 号沈没船御用取扱被差 免候事)。 なお、同文書 105 「 明治八年 十二 月十 八 日Jに 免 じられ た 辞令 J(仏 国 ニ ュール 号沈没船御用取扱被 差免候事)で は 「 とあ り、 1か 月違 いで 司様 の辞令 が 2通 出 され てい る ことになる。 ー (49)山高信離 関係 文書 126「辞令 」 (仏国沈没船 ニ ル 号事件取扱兼務 申付候 事) (50)山高信離 関係文書 133「出頭命令書」 (澳国博覧会 関係 者 に酒儀 を下賜 につ き) (51)山高信離 関係 文書 94「辞令 J(兼 補勧 業寮 六等 出仕) (52)山高信離 関係文書 95「辞令」 (米国博 覧会事務取扱 申付候事) (53)山高家文書 96「辞令J(免 出仕専補勧業寮 六等 出仕) (54)山高信離 関係文書 97「辞令J(博 物館掛被仰付候事)お よび 同文書 99「辞令」 (米国費拉特費府 博 覧会御 用掛被仰付候事) (55)山高信離 関係 文書 102「辞令 J(米 国博覧会事務官被仰 付候事) (56)山高信離 関係文書 104「命令書」 (米国博 覧会 出品茶 之儀 二付横 浜 出張被仰付候事) (57)山高信離 関係 文書 107「命令書J(横 浜 出張 申付候事) (58)山高信離 関係 文書 108「招待状J(ア メ リカ合衆国独 立 百周年記念式典 出席 につ き)[英 文] (59)山高信離 関係 文書 124「出頭命令書」 (米国博 覧会 出張官員等 へ 酒骰 下賜 につ き)。同文書 125 「 通知書」 (米国博 覧会委員 に酒 餞 下賜 につ き) (60)山高信離 関係 文書 112「辞令J(内 国勧業博 覧会事務兼勤 申付候事) (61)山高信離 関係 文書 115「辞令 」 (任内務少 丞) (62)山高信離 関係 文書 118「辞令」 (内務省御用掛 申付 月俸 百 円給与侯事 、但取扱准奏任候 事) - 55 - 山高信離とその仕事 (63)山高信離 関係 文 書 119「辞令」 (内国博覧会事務 取扱 申付候事) (64)山高信離 関係文書 121「辞令」 (仏国博覧会事務 取調 申付候事 ) (65)山高信離 関係文書 122「辞令 」 (仏国博 覧会事務 官 申付候事) (66)山高信離 関係文書 139「仏 国 シハ リ平 ― 勲章証書J(フ ラ ンス語) (67)山高信離 関係 文 書 367「恩給請求 書写」 (付山高信 離履歴書) (68)山高信離 関係 文書 132「辞令」 (勧商局事 務兼勤 申付候事) (69)山高信離 関係文書 134「辞令」 (博覧会掛 兼勤 申付候事) (70)山高信離 関係 文書 135「命令 書」 (横浜 出張 申付候事)、同文 書 136「命令書」 (横浜 出張 申付候 事) (71)山高信離 関係 文書 367「恩給請求 書写」 (付山高信離履歴 書) (72)山高信離 関係 文書 137「命令書」 (愛知県博 覧会列 品審査 の ため 出張 につ き) (73)山高信離 関係文書 138「命令 書」 (愛知県 出張 ノ序 ヲ以左 之府 県江出張 申付候事) (74)國雄行氏 2005「 第 二 国内国勧業 博覧会J 『 博 覧会 の 時代』所収 岩 田書院 (75)山高信離 関係 文書 146「辞令 J(濠 州 シ トニー府博覧会事務官 中付候事) (76)山高信離 関係 文書 161「辞令 J(濠 州 シ ドニ ー府博覧会事務官差免候 事) (77)山高信離 関係 文書 367「恩給請求書写J(付 山高信離履歴 書) (78)山高信離 関係 文書 147「辞令J(豪 州 メル ボル ン府博覧会事務官 申付候事) (79)山高信離 関係 文書 168「通知書」 (メル ボル ン万国博 覧会 よ り銀 メダル授 与 につ き)[英 文] (80)山高信離 関係 文書 176「辞令J(免 豪洲 メル ボル ン府博 覧会事務官) (81)山高信離 関係文書 141「辞令J(准 奏任御用掛兼務 申付候事) (82)山高信離 関係 文書 142「辞令」 (商務局勤務 申付候事) (83)山高信離 関係文書 144「通知書J(内 国勧業博 覧会事務勉励 につ き) (84)山高信離 関係 文書 149「辞令 J(任 内務少 書記官) (85)山高信離 関係 文書 150「辞令」 (内国勧業博 覧会事務官被仰付候事) (86)山高信離 関係 文書 152「辞令J(兼 任大蔵少書記官) (87)山高信離 関係 文書 153「辞令」 (商務局勤務 申付侯事) (88)山高信離 関係 文書 154「命令書J(御 用有之京都及奈 良出張 中付侯事) (89)山高信離 関係 文書 155「命令書」 (正倉院宝庫仮封鎖可取計右命令候也) (90)御 厨貴氏 1981「大久保没後体制 ―統治機構改革 と財政転換」 近 代 日本研究会編 『幕末 ・維 新 の 日本』 山 川 出版社。 (91)註(74)國雄行氏論文によれば、大蔵卿佐野常民は内国勧業博覧会事務局副総裁であった。 (92)註(1)稲田奈津子氏論文。 ( 9 3 ) 山高信離 関係 文書 1 5 8 「辞令J ( 出 品 ・編輯課長 申付候 事) 。また、同文書 1 5 8 「辞令」 ( 出品 。 編輯課長 中付候事) では、内国勧業博覧会事務 局名 で辞令 が別 に発給 され てい る。 ( 9 4 ) 山高信離 関係文書 1 6 0 「命令書」 ( 千り│ 1 上 水 引用之義 二付神奈川 県へ 出張 申付候事) ( 9 5 ) 山高信離 関係文 書 1 5 7 「辞令」 ( 叙従 六位) ( 9 6 ) 山高信離 関係文書 3 6 7 「恩給請求書写」 ( 付山高信離履歴 書) - 56 - 山高信離 とその仕事 二付為慰 労金 百 円下賜候 (97)山高信 離 関係 文書 172「通知書J(第 二 回内国勧業博 覧会 事務勉励候 一 二 文書 173「通知書」 (第二 国内国勧業博 覧会 事務勉励候 付其賞銀牌 個 下賜候事) 事)。 1司 (98)山高信離 関係 文書 164「辞令」 (任農商務 少書記官) (99)山高信離 関係 文書 165「辞令J(博 物局 事務兼勤 申付候事) (100)山高信離 関係 文書 166「辞令」 (書記局事務 取扱 申付候事) (101)山高信離 関係 文書 169「辞令 」 (博覧会掛 事務 取扱 申付候事) (102)山高信離 関係 文書 170「辞令 」 (博覧会掛長 申付候事) 二 (103)山高信離 関係 文書 174「命令 書」 (開拓使外 四県米繭連合 共進会褒賞授 与 付北海道 出張 申付 候事) (104)山高信離 関係 文書 178「辞令 」 (任農務 山林 両部編輯 庶務科長) ・麦 。大豆 ・畑草菜種 及 山林共進会事務勉励候 二付慰 労 (105)山高信離 関係文書 180「通知 書J(米 金 トシテ ニ 拾 円下賜候事) (106)山高信離 関係 文書 183「通知 書」 (内国絵画 共進会事務勉励候 二付慰 労金 トシテ 五 拾 円下賜候 事) (107)山高信離 関係文書 187「辞令 」 (任農商務権 大書記官) (108)山高信離 関係 文書 189「辞令」 (叙正六位) 用有之横浜 出張 中付候事) (109)山高信離 関係 文書 190「命令書」 鮨「 用有 之埼 玉 県出張 中付候事) (110)山高信離 関係 文書 191「命令書J飾 「 (111)山高信離 関係 文書 193「命令書J(御 用有 之横浜 出張 申付候事) 。 ・ ・ ・ (112)山高信離 関係 文書 194「命令書J(大 坂 兵庫 鹿児 島 長崎 佐賀巡回 につ き) (113)山高信離 関係 文書 195「辞令 」 (任姻草砂糖麻苧繭 生糸織物聯合共進会審査長) (114)山高信離 関係 文書 198「辞令」 (第二 国内国絵画共進会幹事 申付候事) (115)山高信離 関係文書 202「命令書」 (大阪府絵画 品評会審査長 として派 出 につ き) (116)山高信離 関係 文書 207「辞令 」 (佐賀県外 七 県聯合綿茶砂糖賜 繭生糸織物共進会 出品審 査 長 と して佐 賀県 へ 出張 につ き) (117)山高信離 関係 文書 208「命令書」 (佐賀県外 七 県実綿 以下共進 会審査長 として派 出につ き) (118)山高信離 関係 文書 367「恩給請求書写」 (付山高信離履 歴 書) (H9)山 高信離 関係文書 181「辞令 」 (任和蘭国安特堤府 万国博 覧会事務官) ー (120)山高信離 関係 文書 200「辞令 」 (独逸聯邦 バ ウア リヤ国 ノ レンバ ル ク府金 工 万国博 覧会 出品 取調 として京都 。大坂 。石川 ・富 山 ・兵庫 。愛知 を巡回につ き) (121)山高信離 関係 文書 201「命令書J(独 逸聯邦 ハ ウア リヤ国 ニ ュ ウ レンハ ル ク府金 工万 国博 覧会 御 用 二付横浜 出張 中付候事) (122)山高信離 関係 文書 203「命令書」 (独逸金 工 万国博覧会御 用 二付横 浜 出張 申付候事) (123)國雄行 氏 2005「 第 二 国内国勧 業博 覧会」 『 博覧会 の 時代』所収 岩 田書院 (124)註(123)國 雄行 氏論文 (125)註(123)國 雄行 氏論文 (126)山高信離 関係 文書 206「辞令」 (任亜細亜大博覧会組織 取調委員) - 57 - 山高信離 とその仕事 (127)註(123)國 雄行氏論文 (128)山高信離 関係文書 215「辞令J(亜 細亜大博覧会組織取 調委員被免) (129)山高信離 関係 文書 367「恩給請求 書写」 (付山高信 離履歴 書) (130)註 (1)恵美 千鶴子氏 論文お よび 小沢朝江氏 著書な どがあ る。 (131)山高信離 関係 文書 226「通知書 」 (皇居御造 営 中負担事務格別 勉励今般竣功 候段奇特 二付別紙 目録 ノ通 り下賜候 事) (132)山高信離 関係 文書 97「辞令」 (博物館掛 被仰付候 事) (133)山高信離 関係 文書 123「辞令J(博 物局事務 取扱兼勤 申付候事) (134)山高信離 関係文書 171「辞令 」 (任工 芸課 兼芸術課長) (135)山高信離 関係文書 210「辞令J(任 博物局長心得)。なお 、 山高信離 関係 文書 367「恩給請求 書 写 」 (付山高信離履歴 書)には、明治 18(1885)年 12月 28日 頃 に 「 博物局 フ廃 、更 二博物局 ヲ被置」 と記 載 され、その直後 にF・ l 日の こ ととして 「 博物局長被仰付候 事」 と記 され てい る。 (136)山高信離 関係文書 211「辞令」 (博物館長心 得被仰付) (137)山高信離 関係 文書 213「辞令J(博 物館長 心得被仰付候事) (138)山高信離 関係 文書 221「辞令」 (任博物館長) (139)山高信離 関係文書 222「辞令J(奏 任 二 等年俸 弐千 四百 円下賜) (140)山高信離 関係 文書 225「辞令 J(臨 時全 国宝物取調掛被 仰付候事) (141)山高信離 関係 文書 223「辞令」 (第二 回内国勧業博覧会事務官被仰付) (142)山高信 離 関係 文書 224「辞令」 (出品課長 ヲ命 ス) (143)山高信離 関係 文書 232「辞令 」 (第二 国内国勧業博覧会事務官被仰付) (144)山高信離 関係 文書 234「辞令J(出 品課長 ヲ命 ス) (145)山高信離 関係 文書 240「辞令 J(第 二 国内国勧業博 覧会審査官被仰付) (146)山高信離 関係 文書 241「辞令J(第 二 部勤務 ヲ命 ス) (147)山高信離 関係文書 242「辞令」 (第二 回内国勧業 博覧会審査幹事心得 ヲ命 ス) (148)山高信離 関係 文書 244「辞令 」 (第二 回内国勧業博 覧会審査幹事 ヲ命 ス) (149)山高信離 関係 文書 251「通知書J(格 別勉励 二付其 賞 トシテ金五百 円下賜) (150)山高信離 関係 文書 228「辞令 」(任帝 国博物館理事)。同文書 229「辞令」 (叙奏任 官 二等年俸弐 千四百 円下賜) (151)山高信離 関係 文書 230「辞令J(美 術 工芸部 兼 工 芸部長 ヲ命 ス) (152)山高信離 関係 文書 231「辞令」 (旧博物館残務取扱 ヲ命 ス) (153)山高信離 関係文書 238「辞令J(技 芸員選択委 員 ヲ命 ス) (154)山高信離 関係文書 239「辞令」 (帝国博物館総長九鬼隆 一 不在 中代理 ヲ命 ス) (155)東京 国 立博物館編 1973『 東京 国 立博物館 百年史』 東 京 国 立博物館 P258 (156)山高信離 関係 文書 367「恩給請求書写J(付 山高信離履歴 書) (157)山高信離 関係 文書 252「辞令J(叙 奏任 官 一 等) (158)山高信離 関係 文書 253「辞令」 (年俸弐千六 百円下賜) (159)山高信離 関係 文書 256「辞令J(叙 従 五位) -58- 山高信離 とその仕事 ( 1 6 0 ) 山高信離 関係 文書 3 6 7 「恩 給請求書 写J ( 付 山高信離履 歴書) 下 へ 出張 ヲ命 ス) ( 1 6 1 ) 山高信離 関係 文書 2 6 3 「命令書」 ( 神奈り│ 1 県 ゴ ・コロ ンブ ス ( 1 6 2 ) 山高信離 関係 文書 2 5 5 「辞令J ( 臨 時博覧会事務官被仰 付) 。なお、1 8 9 3 年シカ ゴ・ 世界博 覧会 について は、東京 国立博物館編 1 9 9 7 『 海 を渡 った明治 の美術 再 見 ! 1 8 9 3 年 シカ コロ ンブス 世界博 覧会』 東 京 国 立博物館 、 の研 究 がある。 このなかで 古 田亮氏 は事務 局 の依頼 し た 「 御用 品」 に関 しては事務 局 の最高権威 であ っ た 山高信離 の意 向 が色 濃 く反映 され て い た と指摘 してい る。 ( 同書所収 「 閣龍世界博覧会独案 内J P 9 0 ∼9 4 ) ( 1 6 3 ) 山高信離 関係 文書 2 6 0 「辞令 J ( 臨 時博 覧会事務 局鑑査官兼務被仰付) ( 1 6 4 ) 山高信離 関係文書 2 6 2 「依頼状」 ( 米国大博覧会 日本婦 人会設 立 二付 同会事務補助員依嘱 につ き) ( 1 6 5 ) 山高信離 関係 文書 2 6 7 「命令書」 ( 京都府 へ 出張 ヲ命 ス) ( 1 6 6 ) 山高信離 関係 文書 2 7 0 「命令 書」 ( 御用有之米 国へ 被差遣) 。『明治天皇紀』 8 P 2 6 0 ( 1 6 7 ) 山高信離 関係 文書 2 7 5 「辞令J ( 免 臨時博覧会事務局鑑 査官兼務) ( 1 6 8 ) 山高信離 関係 文書 3 6 7 「恩給請求書写」 ( 付山高信離履 歴書) ( 1 6 9 ) 山高信離 関係 文書 3 0 2 「通知書J ( シ カ ゴ万博 よ り送付 の感謝状 につ き) ( 1 7 0 ) 山高信離 関係 文書 2 6 6 「辞令 J ( 第 四回内国勧業 博覧会事務官被仰付) ( 1 7 1 ) 山高信離 関係 文書 2 6 8 「辞令J ( 任 出品課長) ( 1 7 2 ) 山高信離 関係 文書 2 7 1 「辞令 」 ( 出品課長 ヲ免 ス) ( 1 7 3 ) 山高信離 関係 文書 2 7 9 「辞令 J ( 任 出品課長) ( 1 7 4 ) 山高信離 関係 文書 3 6 7 「恩給請求書写J ( 付 山高信離履歴書) ( 1 7 5 ) 山高信離 関係 文書 2 8 7 「命令書」 ( 上京 ヲ命 ス) ( 1 7 6 ) 山高信離 関係文書 2 8 8 「辞令」 ( 任出品課長) ( 1 7 7 ) 山高信離 関係文書 2 9 1 「命令書J ( 上 京 ヲ命 ス) 申戸 市へ 出張 ヲ命 ス) ( 1 7 8 ) 山高信離 関係文書 2 9 9 「命令書」 ( ネ ( 1 7 9 ) 山高信離 関係 文書 3 0 7 「命令書J ( 上 京 ヲ命 ス) ( 1 8 0 ) 山高信離 関係文書 3 0 8 「通知書」 ( 事務格別勉励 二付金 千円賞与 ス) ( 1 8 1 ) 山高信離 関係 文書 3 1 3 「受領 書写」 ( 第四回内国勧業博覧会 にお け る銀牌授 与につ き) ( 1 8 2 ) 山高信離 関係 文書 3 1 4 「御届写J ( 藍 綬褒章受章 につ き) ( 1 8 3 ) 山高信離 関係 文書 2 7 6 「辞令J ( 兼 任帝 国京都博物館長帝 国奈 良博物館長叙 二 等) ( 1 8 4 ) 山高信離 関係 文書 2 8 3 「辞令」 ( 兼官 ノ事 務専務 ヲ命 ス 、依 テ 当分美術 工 芸部長 井 工 芸部長 ヲ 免 ス) ( 1 8 5 ) 山高信離 関係 文書 2 8 4 「命令書」 ( 京都 ヲ以テ在勤 ノ地 卜心得 ヘ シ) ( 1 8 6 ) 京都 国 立博物館編 1 9 9 7 『 京都 国 立博物館 百年 史』 京 都 国 立博物館 P 1 2 0 ∼1 2 1 ( 1 8 7 ) 山高信離 関係 文書 2 9 7 「辞令」 ( 免兼官) ( 1 8 8 ) 山高信離 関係 文書 2 9 8 「辞令J ( 帝 国奈 良博物館評議員 ヲ命 ス) ( 1 8 9 ) 山高信離 関係 文書 3 0 5 「辞令J ( 兼 任帝 国奈 良博物館長) ( 1 9 0 ) 山高信離 関係文書 3 0 6 「辞令」 ( 帝国奈 良博物館評議員被免) -59- 山高信離 とその仕事 ( 1 9 1 ) 山高信離 関係文書 3 0 9 「辞令」 ( 叙正五位) ( 1 9 2 ) 山高信離 関係 文書 3 1 2 「命令書」 ( 滋賀県 へ 出張 ヲ命 ス) ( 1 9 3 ) 山高信離 関係文書 3 2 5 「辞令J ( 帝 国博物館鑑査委 員被仰付) ( 1 9 4 ) 山高信離 関係文書 3 6 7 「恩給請求書写 」 ( 付山高信離履歴 書) ( 1 9 5 ) 山高信離 関係 文書 3 2 9 「通知書」 ( 賜年俸弐千人百 円) 。同文書 3 6 7 「恩給請求書写 」 ( 付山高信 離履歴 書) ( 1 9 6 ) 山高信離 関係文書 3 4 2 「辞令」 ( 帝国京 都博物館 国宝監 守兼帝 国奈 良博物館 国宝監守 ヲ命 ズ) ・ 同文書 3 4 5 「辞令」 ( 帝国博物館評議 員被仰付 但 任勅任待遇) ( 1 9 7 ) 山高信離 関係文書 3 2 6 「賞状」 ( 豊大閤墳墓修 築等 の功労 を表彰す るにつ き) ( 1 9 8 ) 京都 国 立博物館編 1 9 9 7 『 京都 国 立博物館 百年史』 京 都 国 立博物館 P 1 3 5 ∼1 3 6 ( 1 9 9 ) 山高信離 関係 文書 3 2 7 「辞令J ( 全 国漆器漆生産府県聯合共進会 審 査長 フ嘱託) ( 2 0 0 ) 山高信離 関係文書 3 2 8 「通知書」 ( 全国漆器漆生産府 県聯 合共進会審査長嘱託手 当 トシテ金 百 円給与) ( 2 0 1 ) 山高信離 関係 文書 3 3 7 「通知書J ( 羽 織地、袴地下賜 につ き) ( 2 0 2 ) 山高信離 関係 文書 3 3 9 「辞令 」 ( 任巴里万国大博 覧会 出品鑑査委員) ( 2 0 3 ) 山高信離 関係 文書 3 4 0 「通知書」 ( 京都 二条離官御殿 向張付 の工 事監督 としての尽 力 に対 して 百円下賜 につ き) ( 2 0 4 ) 山高信離 関係文書 3 5 0 「通知書」 ( 京都 二 条離官御殿 向張付 の工事監督 としての尽 力 に対 して 百円下賜 につ き) ( 2 0 5 ) 山高信離 関係文書 3 1 8 「辞令J ( 古 社 寺保存会委 員被仰付) ( 2 0 6 ) 山高信離 関係 文書 3 6 7 「恩給請求書写」 ( 付山高信離履歴 書) ( 2 0 7 ) 山高信離 関係文書 3 2 2 「通知書」 ( 手当金 百 五 拾 円支給) ( 2 0 8 ) 山高信離 関係文書 3 6 7 「恩給請求書写」 ( 付山高信離履歴 書) ( 2 0 9 ) 山高信離 関係 文書 3 3 1 「通知書J ( 明 治 三 十 一 年度分手 当金 百円給与 ス) ( 2 1 0 ) 山高信離 関係 文書 3 3 4 「辞令」 ( 古社 寺保 存計画 ノ調 査 ヲ嘱託) ( 2 1 1 ) 山高信離 関係文書 3 3 5 「命令書」 ( 京都府奈 良県 へ 出張 ヲ命 ズ) ( 2 1 2 ) 山高信離 関係文書 3 3 6 「書状 」 ( 京都奈 良調査 の人選 につ き) ( 2 1 3 ) 山高信離 関係 文書 3 6 7 「恩給請求書写」 ( 付山高信離履歴書) ( 2 1 4 ) 山高信離 関係 文書 3 6 7 「恩給請求書写」 ( 付山高信離履歴 書) ( 2 1 5 ) 山高信離 関係 文書 2 7 7 「命令 書」 ( 京都府 へ 出張 につ き) ( 2 1 6 ) 山高信離 関係 文書 2 8 6 「通知書J ( 手 当 トシテ金参 百 七 拾 五 円下賜) ( 2 1 7 ) 山高信離 関係 文書 2 9 2 「通知書」 ( 手当 トシテ金 三 百 円下賜) ( 2 1 8 ) 山高信離 関係 文書 2 9 3 「通知書」 ( 事務格別勉励 二付金 六 百 円賞与 ス) ( 2 1 9 ) 山高信離 関係 文書 3 2 0 「辞令」 ( 臨時博 覧会評議員被仰付) ( 2 2 0 ) 山高信離 関係文書 3 2 1 「通知書」 ( 事務格別勉励 二付金 百 円賞与 ス) ( 2 2 1 ) 山高信離 関係 文書 3 6 7 「恩給請求書写」 ( 付山高信離履歴書) ( 2 2 2 ) 山高信離 関係 文書 3 4 7 「辞令」 ( 京都 帝室博物館長 ヲ本官 卜心得 ヘ シ) - 60 - 山高信離 とその仕事 一 ( 2 2 3 ) 山高信離 関係 文書 3 4 8 「辞令 」 ( 賜 級俸) ( 2 2 4 ) 山高信離 関係 文書 3 5 2 「位記 」 ( 叙従 四位) ( 2 2 5 ) 山高信離 関係 文書 3 6 2 「辞職願 写J フ ー 。フ ( 2 2 6 ) 山高信離 関係 文書 3 6 5 「辞令 」 ( 依願免本官 並兼官) 。なお ドイ ツ人女性美術 史家 リ ダ 「 い ィ ッシ ャー は明治 3 5 ( 1 9 0 2 ) 年 夏 に奈 良を訪れ 、山高 について 以下 の よ うに言及 して る。 奈 良 の 堂塔伽藍 の まんな か 、な だ らかな丘 陵 が ゆ るゆる と上 り勾配 にな つてい る林苑 にか こまれて奈 良 のウ 帝 室博物館 がた つてい る。 ( 中略) 館 長 は尊敬す べ き山高信離 氏だ。 山高氏 は 1 8 7 3 ( 明治 6 ) 年 イ ー ン万国博 覧会 に派遣 され 日本 の展示 を担 当 したひ と りであ り、東京 上 野 の博物館 の設 立 にも貢 献 した。 わた したち の精神 的な指導者 であ り、詳細 な研究 の さま ざまにあ らゆる可能性 をあた えて ー くれた。J ( フ リー ダ 。フ イ ッシ ャ 著、安藤勉 氏訳 2 0 0 2 『明治 日本美術紀行』 講談社学術文庫 P 8 2 ∼8 3 ) 。この記述 は山高 の役割 を考 えるにあた つて重要 であるが、彼 の辞職 は明治 3 5 年 5 月 3 日 で あ り、 「 夏J と い う時期 には若千 の疑 間 がある。 一 ( 2 2 7 ) 山高信離 関係 文書 3 6 4 「通知 書」 ( 特旨 ヲ以 テ位 級被進) ( 2 2 8 ) 山高信離 関係 文書 3 6 3 「位 記J ( 叙 正 四位) ( 2 2 9 ) 山高信離 関係文書 3 6 6 「通知書」 ( 辞令 の送付等 につ き) 一 ( 2 3 0 ) 山高信離 関係文書 1 8 4 「感謝状J ( 明 治 五年 二月 ヨ リ同十 年 五月 マ テ所蔵 ノ物 品数種 井雀 一 羽博物館 へ 献納候段奇特 二候事) ( 2 3 1 ) 山高信離 関係文書 1 8 2 「献納 品受領 書J ( 2 3 2 ) 山高信離 関係 文書 1 8 2 「献納 品受領 書J ( 2 3 3 ) 山高信離 関係 文書 1 8 2 「献納 品受領 書」 ( 2 3 4 ) 山高信離 関係 文書 1 8 2 「献納 品受領書J ( 2 3 5 ) 山高信離 関係 文書 2 4 7 「通知書」 ( 明治十八年 二 月 ヨ リ十 二 月 ノ間 二於テ加州金沢 夕顔 亭起 シ ^ 箇下賜候事) 図 一組外十 品、博物館 へ 献納候段奇特二付其賞 トシテ 木盃 ( 2 3 6 ) 山高信離 関係 文書 1 8 2 「献納 品受領書J ( 2 3 7 ) 山高信離 関係文書 1 8 2 「献納 品受領 書J ( 2 3 8 ) 山高信 離 関係文書 1 8 2 「献納 品受領 書」 ( 2 3 9 ) 山高信離 関係文書 2 4 9 「感謝状」 ( 明治十 九年十 二 月 キ ンメイチ ク外 三 品博物館 へ 献納候段奇 特 二候 事) ( 2 4 0 ) 山高信離 関係 文書 1 8 2 「献納 品受領 書J 一 ( 2 4 1 ) 山高信離 関係 文書 2 1 7 「通知書J ( 博 物館 へ 物 品四十種献納候段奇特 二付其賞 トシテ 木盃 組 下賜候事) ( 2 4 2 ) 山高信離 関係 文書 2 5 0 「感謝状」 ( 秩鶏活動 二羽帝国博物館 へ 献納候段殊勝 二候事) ( 2 4 3 ) 山高信離 関係文書 2 6 4 「通知書J ( 鉄 鍔外 二 十 四種帝 国博物館 へ 献納候段奇特 二付 其賞 トシテ 木杯 壼 一 個 下賜候事) ( 2 4 4 ) 山高信 離関係 文書 3 6 8 「受領 書J ( 聖 教序摺本 。僧雪舟与僧周耕書寄付 につ き) ( 2 4 5 ) 山高信離 関係 文書 3 8 4 「ネL 状J ( 仏 像寄贈 につ き) ( 2 4 6 ) 山高信離 関係 文書 2 0 9 「証書」 鯖自池会通常会員 タル ヲ証 ス) -61- 山高信離 とそ の仕事 (247)浦 崎永錫氏 1974『 日本近代美術発達史』 東京美術 P 1 9 5 (248)山高信離関係文書 243「通知書」 (褒賞証 園庭用屋根 塀 右 本 国出品 中優等 ノモ ノ ト査定 ス シテ 因テ褒 賞 ト 木盃 ヲ贈与 ス) ( 2 4 9 ) 山高信離 関係 文書 3 1 9 「本 堂再建 寄附金割納証 」 本稿 は 2 0 0 8 年 に松戸 市戸定歴 史館 で行 っ た 「 徳川 昭武 の博役 ・山高信離展 」をで の成果 を もとに し てま とめた もの である。展覧会 に関わ る機会 を与 えて くだ さっ た戸定歴 史館 の皆 さま 、資料使用 の 許可 を与 えて くだ さった 山高登氏 にお 礼 を申 し上 げ る。 (松戸 市戸 定歴 史館研 究員 ) -62- 宮本馨 太郎先 生 と博物館学 KEITARO MIYAMOTO and Musedogy 落合 知 子 OCHIAI Tomoko は じめに 宮本馨太郎 は幾多 の業績 を残 し、博物館 を始 め とす る多岐に亘 る文化財 関連事業 に携 わ り尽力 一 した ことは、次 に挙げる略歴か らも容易 に理解 できる。そ の‐つ つの事績 を挙げるな ら、1冊 の書物 を書 くまでになるとさえ言われてい る。宮本 の業績 の 中で も民俗資料 の研究 と文化財保護 法及び博物館法制定 に於 ける役割 、そ して我が国初 の博物館学講座 を立教大学に開講 した ことは、 特筆す べ き業績 であろ う。 宮本が専門 とした民俗学は、や がて学 としての博物館学 へ と形成 されていつた。現代社会 にお いて も一般 に見受 け られ るよ うな、民俗学や考古学、歴史学等 に傾注 した博物館学 とは意 を異 に す るものであつた。 そ の理念はま さに博物館学を主軸 とした理念か ら成 り立っていたのである。 本稿 は宮本 の博物館学 思想 を中心に、宮本 の果 た した博物館学 の功績 と博物館学理念 の形成 の理 角牢を 目的 とす る。 略歴 MOUSE10N』 宮本馨太郎先 生年譜」 (『 宮本馨太郎 の年譜は 「 論考』註2に詳 しいので 、以下略述す る。 第 23号 )註 1及び 、『民俗博物館 東京市下谷 区池之端 七軒町 66番 地にて宮本勢助 の長男 として生まれた。 明治 44年 7月 30日 、 父勢助が服飾 ・民俗学 の研究者であった ことか ら、北関東 。東北地方 の民俗調査 にも同伴 し、早 くか らフ ィール ドワー クを身に付 けていた。昭和 4年 、大学予科 に進んだ宮本 は、勢助 と共に、 ー 澁澤敬 三の下に出入 りを始める。澁澤が主宰 したアチ ック ・ミュ ゼアムの 同人 とな つて、民俗 学 ・民族学 の調査研究に従事 し、父 と澁 澤 の影響 を大き く受 けて民具研究 を志す ことになる。昭 和 10年 3月 、立教大学文学部史学科 を卒業す る。 同年 4月 、立教大学文学部助手 に就任す る。 昭和 12年 11月 、日本民族学会附属民族学博物館研究員及 び同附属民族学研究所研究員 を兼務す る。昭和 17年 4月 、立教大学文学部講師 に就任す る。同年 10月 、財団法人 日本民族学会協会調 査部主任 、同附属民族学博物館 主任 を兼務す る。昭和 19年 4月 、立教大学予科講師 に就任す る。 同年 9月 、立教大学経済学部講師 となる。昭和 20年 4月 、立教大学 工業理科専門学校講師 とな る。昭和 21年 12月 、財 団法人 日本民族学会協会評議員 を兼務す る。昭和 22年 4月 、 立教大学 予科教授 に着任す る。昭和 24年 4月 、立教大学文学部教授 に就任す る。昭和 25年 4月 、財団法 人 日本常民文化研究所創設理事 を兼務す る。昭和 26年 11月 、社団法人 日本博物館協会 理事 を兼 一 務す る。同年 12月 、博物館法施行規則原案 を作成す る。昭和 27年 7月 、文部省第 回学芸員講 -63- 宮本馨太郎先生と博物館学 習 の講師を担 当す る。 同年 9月 、立教大学に我が 国初 の博物館学講座 を開講す る 同年 10月 。 、 文化財保護委員会調査員 を兼務す る。昭和 28年 11月 、 財団法人 日本民族学協会理 事 を兼務す る。 昭和 30年 2月 、東京都文化財専門委員 を兼務す る。昭和 31年 2月 、文部省学芸員試験認定試験 委員、学芸員無試験認定審 査委員、博物館相 当施設審査委員 を兼務す る。 同年 11月 、 日 本人類 学会評議員 を兼務す る。昭和 36年 4月 、 日本風俗史学会創設理事 を兼務す る。 同年 7月 、文部 省史料館専門委 員 を兼務す る。 同年 10月 、 日本民俗学会評議員 を兼務す る。昭和 37年 10月 、 品川 区文化財認定委員 を兼務す る。昭和 38年 2月 、物質文化研究会代表委員 になる。同年 4月 、 立教大学文学部史学科長 を兼務す る。 同年 11月 、NHK放 送博物館専門委員 を兼務す る。昭和 39年 2月 、日本民族学会創設理事 。評議員 を兼務す る。同年 4月 、財団法人民族学振 興会改組評 議員 を兼務す る。同年 8月 、東京都近代文学博物館建設調査研究員 を兼務す る。昭和 41年 4月 、 立教大学総務部長 を兼務す る。昭和 42年 3月 、文化財保護 審議会専門委員 を兼務す る。 同年 7 月、国立歴 史博物館設立準備懇談会委員 を兼務す る。昭和 43年 3月 、川崎市 立 日本民家園専門 委員 を兼務す る。同年 4月 、立教大学大学院文学研究科 日本史専攻博 士課程 の主任 となる。同年 10月 、小川原湖民俗博物館 館長 を兼務す る。昭和 44年 4月 、財 団法人観光資源保護財 団専門委 員 を兼務す る。昭和 45年 2月 、山形県 立博物館資料展示等研究協議会委員 を兼務す る。 同年 9 月、東京都歴史博物館資料収集調査会委 員 を兼務す る。 同年 10月 、高 田市立博物 館建設委員 を 兼務す る。昭和 46年 1月 、国立歴史民俗博物館基本構想委員会委員 を兼務す る。 同年 4月 、国 際博物館会議 (ICOM)日 本委員会委員 を兼務す る。同年 10月 、文部省社会教育審議会専門委員 を兼務す る。昭和 47年 11月 、国立科学博物館理 工学関係資料委員会専門委員 を兼務す る。昭和 48年 6月 、人丈町立博物館建設委 員 を兼務す る。昭和 49年 4月 、長野県文化財専門委員 を兼務 す る。 同年 6月 、千代 田区文化財専門調 査委員 を兼務す る。 同年 11月 、 日本古文書学会評議員 を兼務す る。同年 12月 、 日本民俗建築学会評議員 を兼務す る。昭和 50年 5月 、葛飾 区文化財専 門委員 を兼務す る。同年 7月 、台東 区文化財調査委員 を兼務す る。同年 8月 、国立歴 史民俗博物 館設 立準備委員会委員を兼務、群馬県立博物館 建設計画 を監修す る。 同年 11月 、 日本民具学会 創設幹事 を兼務す る。昭和 51年 4月 、台東 区文化財専門委員 を兼務す る。 同年 5月 、長野県文 化財保護審議会委員 を兼務す る。同年 11月 、 日本風俗学会評議員 を兼務す る。同年 12月 、富山 県科学文化 セ ンター設 立委員兼専門委員 を兼務す る。昭和 52年 2月 、台東 区立下町博物館調査 研究協議会委員 を兼務す る。同年 3月 、立教大学文学部教授 を定年退職す る。同年 4月 、立教大 学文学部講師、駒沢大学文学部講師に着任す る。同年 6月 、栃木県 立博物館設置専門委員 を兼務 す る。 同年 7月 、立教大学名誉教授 となる。昭和 53年 5月 、多年 に亘 る民具研究お よび文化財 保護 に関す る功績 によ り、紫綬衷章を受章す る。同年 9月 、国立民族学博物館評議員 を兼務す る。 同年 10月 、東京都文化功労者 に選 ばれ る。同年 11月 、多年 に亘 る博物館活動 の振興に関す る功 績 によ り、文部大臣よ り表彰 され る。昭和 54年 4月 12日 、胆 の う癌 のため永眠。享年 67。 法 名温徳院繹馨信。 同年 5月 、正五位勲二等瑞宝章追賜。 以 上が宮本 の略歴 である。 立教大学 の教員 を主軸 としなが らも、多岐に亘 る委員や講師を引き 受 け、我が国の博物館学 。博物館界 に大 きく貢献 して きた人物である。 -64- 宮本馨太郎先生と博物館学 ー 宮本 とアチ ック ・ミュ ゼアム の 戦 中か ら戦後 にかけての宮本は、 日本民族学協会附属民族学博物館 に於 いて、資料 収集、調 査研究、保管、展示等 を任 され、多 くの問題 にも直面 した とい う。 この よ うに民具 の研究 を基盤 とした宮本は、民具研 究 の必要性 を主張 し、 のちに文化財保護法や博物館法 の制定 にも参画 し、 民具 の保護 。保存事業 の推進 を図るとともに、民俗博物館 の建設、 さらには学芸員養成 の必要性 を唱 えることになる。 宮本は澁澤敬 三を主宰者 とす るアチ ック ・ミューゼアム (後の 日本常民文化研究所)の 同人 と して澁澤 に師事 し、澁澤 のお供 として国内はもとよ り、朝鮮、台湾 にも派遣 されて民俗資料 の調 査研究、民具収集 に従事 した ので あつた。そ もそ も宮本 が初 めて澁澤 に会 つたのは、父勢助 に連 れ られて アチ ック ・ミューゼアムの例会に出席 した昭和 4年 3月 8日 とされ る。そ の後勢助 は顧 問格 として、馨太郎はアチ ックの 同人 として、民具 の共同研究に関わ つてい くことになる。昭和 ・ 5年 1月 に花祭 を見学 して澁澤 と二人 で豊橋 か ら帰京 したのがお供 の最初 で、そ の後は総合調 査 ー 採訪旅行 に加 え られたが、毎 日アチ ック ・ミュ ゼアムに通 うよ うになるのは、大学卒業後 の昭 和 10年 4月 以降の ことであつた。 アチ ック ・ミューゼアム民具研究室では、澁澤 の指導 の もとに足半草履、紡績技術、絵巻物 の 共同研究 を行 い、『民具門答集』 の編纂や 『民具蒐集調査要 目』 の改訂 な どに携 わ った。昭和 12 年、保谷町 に 日本民族学会附属民族学研 究所が、翌 13年 には民族学博物館 が建設 され、アチ ッ クの収蔵資料が寄贈 されて、宮本 は民族学研究所研究員 として迎 えられた。次 いで学会改組 にあ 宮本常一 の 協力 の もとこれ を完成 させた。 た って澁澤 か ら博物館収蔵民具 の台帳作成 を命ぜ られ、 昭和 17年 、財団法人 日本民族学協会 が設 立 され、博物館 は協会に引き継 がれ 、宮本 は協会調査 部 主任 と博物館主任 を兼務 し、以来民族学博物館 の責任者 となった。戦 中は閉館 した ものの、昭 和 24年 頃 か ら館 内整備 にあた り、民具 の展示 を再開 し、昭和 27年 5月 には、博物館法 の施行 を 契機 に民族学博物館 を再開す るに至 った。 宮本は 「 私 が澁澤先 生の ご指導 を得 るよ うになってか ら既 に 35年 にはなるだろ う。想 えば、 私 の研究は、大学 の講義 よ りも、 また父 の学問よ りも、何 にま して澁澤先 生の ご指導 を最 も強力 に受 けて成 立 している。 日本お よび周 囲諸民族 の生活文化 。物質文化 の研究 とい う私 の研究課題 はアチ ック ・ミューゼアムの民具研究には じまるもので あ り、また、私 のや ってい る博物館学 も アチ ック ・ミューゼアムか ら民族学博物館 にいたる民具研究 の うちにできあが つた もので ある。」 註3と し、澁澤 との信頼関係 が絶大なもので あ った ことは容易 に理解 できるのである。宮本 の博物 館学意識 は、澁澤 と共に歩んだ長年 の地道 な民具 の調 査によつて培 われた もので あ り、博物館学 が机 上の学問ではない ことの証明 ともいえよ う。 昭和 30年 に勢助 ・馨太郎 による山袴 コ レクシ ョンが重要有形民俗文化財 に指定 された。昭和 53年 には、宮本 は民具研究 と文化財保護 に関す る功績 によ り紫綬褒章 を受章す る。 また 、昭和 54年 、民具や服飾な どの物 質文化研究 のパ イオ ニア として活躍 した、宮本勢助 と宮本馨太郎 の業 績 を記念 して、財団法人宮本記念財団が設立 され、現在 に至っている。 -65- 宮本馨太郎先生と博物館学 宮本の博物館学 思想 宮本は民俗資料 をその研究対象 とす る中で、博物館資料分類 の問題 を提起 し、そ の必要性 を強 く訴 えたのであった。 「 博物館資料 は、自然 。人文にわた り、また東西 ・古今 にお よぶ 、あ らゆる 物資を含んでい る。(中略)博 物館 の設 立の 目的 。使命 を達成す るために体系的に収集整備 。研究 調査 。 保存管理 ・ 展示公開 さるべ き物資である。そ して このよ うに物資が体系的に収集整備 され 、 研究調査 され、保 存管理 され 、展示公開 され 、博物館資料 として活用 され るためには、まず以 つ て資料分類が前提 されねばな らない。(中略)博 物館資料 の分類は博物館 に とって欠 くことのでき ない最 も重要な基礎的作業であって、 これ な くしては博物館 の 目的 。使命 の達成は不可能 といわ ざるを得ないので ある。J言主4と し、 「 全国の博物館が共通 の分類法 をもつ ことは、全 国の博物館 が 共通 の立場に立って、もの を考 え行動す ることができる基盤 がつ くられ る」とい う論 を展開 した。 さらに今 日なお全 国共通 の資料分類法が確立 していない原因を国立博物館 に求め、厳 しい批判 を 力日えている。 昭和 26年 12月 、我 が国では じめて博物館法 が制定 され 、そ の施行 に従 つて、立教大学で博物 館学 の講義 を行 な った際 と、昭和 28年 3月 、文部省か ら学芸員講習講義要綱原案 の執筆依頼 を 受 けた際に この分類法 の問題 に直面す ることになる。そ して、機会 ある ごとに、博物館資料 の一 般分類法の制定 と専門分野 の資料細分法 の展開を提唱 したのであった。 同 じく日本 の国立博物館 に対 して、美術偏重 の施策が続 いてい る美術博物館 であることに批判 を述 べ て、国立の歴史博物館 の必要性 を説 いて 、 日本 の博物館 の整備 と建設 と発展のために一石 を投 じたのであった。 しか し、歴 史博物館 の分類試案 とその例示 を執筆 したにもかかわ らず、そ れは博物館 関係者 の 目に触れ ることな く、文部大臣に提 出 した歴史博物館 の設置 と充実は完 全に 無視 され、政府 と文部省 の美術偏重 の施策 に一層不満 を募 らせ る こととな った。 また、昭和 29年 7月 1日 の文化財保護法 の改正によ り、民俗資料 が独立の一部門 として確 立 され、有形民俗資料 と無形民俗資料 は別箇 の保護規定 が設 け られたが、急速 に湮滅 す る民俗資料 に対 して、そ の収集 ・保存 の急務 と調査 ・研究、 さらに公開 。活用 を強 く論 じた。 また調査 。研 究 と公開 。活用 のためには国立の民俗博物館 の建設 を早急 に実現 されなければな らない とし、刻 下 の急務 は既存 の地方公立郷土博物館で民俗資料部門を育成す る ことが 、今 日の重要課題である と強 く訴 えたのであった。 わが国博物館界 の 当面す る問題 は、まず 、博物館法 を改正 して国立博 棚橋源太郎 との対談は、「 物館 をも包含す るもの とし、国立博物館以下 の全 国公私博物館 を指導 ・監督す る国家機関 をつ く り、美術博物館以外 の科学 ・歴史 ・民俗 な ど国立博物館 の設置 。拡充をはか り、また各博物館 は 展示 と研究 の確 立 と整備 を行 い、社会教育 と共に学術研究 の使命達成 をはかるといつた諸点 にあ 主5と ぃ ぅ内容 を含 む もので あ った。 このよ うに博物館法案審議会委員 であった棚橋 と密接 に る」言 関わる中で、 棚橋 の影響 を大 きく受 けてい たことは明 白であろ う。民俗 を専門分野 としなが らも、 宮本 の主た る概念はもはや博物館学 に置 かれていた と言 って も過言 ではない。 日本博物館協会 と博物館法施行規則の原案審議 日本博物館協会 は棚橋源太郎が長年 に互 り専務理事 としてそ の運営にあた り、戦後 の混乱 か ら -66- 宮本馨太郎先生と博物館学 一 時活動 が困難 とな つた ものの、博物館 法制定促 進運動 に伴 つて、 日本博物館協会 の改組 と再建 4月 に の気運 が強ま つていつた。宮本 が 日本博物館協会 の会合 に出席 し始 めた の は、昭和 23年 。 一 の に伴 ない 、理事 開催 された第 回博物館 問題研究会 か らで、昭和 26年 12月 に改組 再建 実現 の一人 として 日本博物館協会 に関与す る こととなる。 の ・ い 昭和 26年 12月 、博物館 法 が公布 施行 され るにあた り、博物館法 に規定 されて る学芸員 。 気を規制す る博物館法施行規則 の原案 資格取得 と必要科 目の単位 、博物館 の設置 運営基準 の二′ 作成 が進 め られ、 日本博物館 協会 に特別委員会 が設 け られ、協会内部 で原案作成 が行 なわれた。 一 宮本 は第 部会 で学芸員 の資格取得 に関す る科 目と単位 、履修 、お よび学芸員資格講習会 で修 得 す べ き科 目の単位 についての原案作成 にあた つた。そ の後 五 回 の審議 を重ね て翌 27年 に 日本博 博物館法 に伴 う学芸員 の講習、博物館 の基準に関す る意見」 として文部省 に提 出 物館協会 よ り 「 された。 この原案 に沿 つて、学芸員 の修得す べ き博物館 に関す る科 目の単位 を規定 した博物館法 一 施行規則 が公布 され、同年、東京藝術大学 で第 回学芸員講習 が開催 されたので ある。 一 一 宮本は この第 回の学芸員講習 の際 に、文部省 か ら博物館学 の講義 の 部 を担当す るよ うに命 ぜ られたが、博物館学 の担 当は棚橋源太郎以外 にはい ない として棚橋 を推薦 して宮本 自身は選択 科 日である民俗学 の講義 を担 当 したのであつた。 そ して講 習終了後 に、文部省 の川崎繁事務官 か ら 「 国立大学 では大学設置法 の法律改正 を行 なわなければ、学芸員養成 のための博物館 に関す る 科 目の単位 を開講す る ことはで きないので 、 まず先生 のよ うな私学 大学で博物館学講座 をは じめ て下 さい ませんかJと 依頼 を受 ける ことになつたのである。 立教大学に我が国初の博物館学講座開講 宮本 の幾多 の業績 の 中で も、我 が国で初 めて博物館学講座 を開講 した ことの意義 は とりわけ大 きい。昭和 26年 12月 の博物館法 の公布 に伴 い 、立教大学は全 国 の大学 に先駆 けて、博物館専門 博物館学」 職員 である学芸員養成 の コー ス を立ち上げ、翌 27年 よ り日本 の大学に於 いて初 めて 「 の講義 を開講 したのであつた。 当時 の宮本 は将来 の見通 しな ど全 く持 ち合わせてお らず、ただ博 物館法 の実施 に応 えて、大学 で博物館学講座 を開設 したい とい う念願 だけであつた とい う。 博物館法 の制定 に伴 い文部省では、大学に於 いて修得す べ き博物館 に関す る科 日の単位や、学 芸員資格認定 の試験科 日、お よび博物館法施行規則 の原案審議 が進 め られ、文部省 の会議 に出席 ^人と知 るので ある。 これ した宮本 は、参加者 のほ とん どが博物館 関係者 で 、大学関係者 は 自身 では博物館法 が施行 され、博物館 に大学出身 の学芸員 を置 くことが博物館 登録 の要件 として規定 されても、全国 どの大学にも学芸員養成 の 博物館学講座 が設置 されそ うにない と危惧 し、わが立 教大学 で博物館学講座 を率先 して 開講せねばな らない と痛感 したのであった。 さらに川崎事務官 か らの要望 も相侯 って 、文学部長 に博物館学講座新設案 を相談 し、教授会 に諮 られ る こととなっ た。教授会 に於 いて も、博物館学講座 は学術研究 の上か らも、国民 の生涯教育に奉仕す る人材 を 養成す る点か らも、新制大学で開講す るのにふ さわ しい講座 であるとい うことで大賛成 を得て、 ー 昭和 27年 の後期 の授業開始 とともに博物館学講座 が開講 されたので ある。 しか し、ス タ ト当 初 か ら棚橋源太郎を招聘す る ことは、大学事務手続 き上困難であった。棚橋 が教壇 に立う まで の 間を、宮本 自身 が何 とか切 り抜 けた とい うことで ある。 -67- 宮本馨太郎先生 と博物館学 翌 28年 には 85歳 になる棚橋源太郎 を招 き、博物館学 の講義 を委 嘱 され 、棚橋 は爾 来 35年 ま つ に立 こと 教壇 になった の 。そ 間、宮本は棚橋 と幾度か の対談 の機会 を得て、そ の記録 は 『 で 棚 註 6と の 橋先生 生涯 と博物館』 して刊行 された。 立教大学 の博物館学講座 は単に文 学部 の学生 のみな らず、広 く全学部 の学生 に開 され 放 、各 々 の専攻学問以外 に、博物館学的教養 を与え、学芸員 の立場 か ら博物館活動に必要な技 術、知識 を 修得す ることに力 を注 いだ もので あ った。特に実習 。見学に重 きを置 いて、出来 る限 り博物館 を 理解す るよ うに指導 した ものであった。必修科 目の博物館学は棚橋源太 郎、博物館実習 を宮本 、 棚橋、石島渉 (地学)、中川成 夫 (考古学)が 担 当 した。現在でお よそ三 百程 の大学が学芸員養成 コー ス を開講す るに至った、そ の道筋を付 けた功績は特 筆すべ きであろ う。 また、文部省学芸 員講義要綱草案 の博物館 の問題′ 点の章に於 いて、「 文部省に博物館委員会 を設 けて各局所管 の博物館 を規制す るか、博物館局を置 いて学術資料 の収集 。保管 。調査 ・研究 をは じめ、そ こで文化財保護行政 も行 い、社会教育 も担 当す る局 の必要性 Jを 執筆 した ところ、文部 省側か ら削除を求め られた とい う。 この考えは 「 文部省 に文化局 とか学術局 とかの一局を こ しら えるべ き」 と説いた棚橋源太郎 の理念 と同 じもので あった。 このよ うに宮本 の博物館学概念は棚 橋 との関わ りの 中か ら形成 された要素 が強 い といえるのである。 一方棚橋 は、立教大 の 学 博物館学講座 に対 して註7 日本 の博物館 の発達 が こん なに遅れた事情にはい ろい ろあろ うが、国立の博物館が明治十 九年以来 六十余年間、政府 の手 を離れ て官内省 の所管に帰 し、中央に全国博物館 を指 導す る 機 関をもたなかった ことも、有力な原因の一つ であるが、最近まで我 が邦に博物館 員養成 の 機 関をもたなかつ たため、博物館 に博物館事業 の専門家 が殆 どいなかつ た ことが、 とくに大 きな原 因を成 している。(中略)独 り博物館員養成機 関のみ が今 日まで全然閑却 されていたの である。 とし、博物館 の専門職員 の育成 が皆無 であった ことに批判 を加 え、 さらに、博物館法 の公布 を受 けて我が国の博物館建設拡充 の兆 しが見 えるに及んで、 しか し博物館 の重要性 が認 め られて、立派な建物が出来た として も、(中略)博 物館事業は 頗 る複雑 で、 これが経営にはその方面に関す る専門的知識技能 を有す る館長学芸員 が絶対 に 必要である。非役 の官吏や退職 の学校長な どの素人 では、決 してや つ て ゆけるもので ない 、 博物館 に専門家 の館長学芸員 の ないのは、恰 も船 に老練 の船長 がな く、病院に医事専門の院 長 がないの と同様である。 とい うよ うに、天下 りによる館長 の採用 を否定 し、専門知識 を有 した学芸員 の絶対なる必要 性 を強 く訴 えたのであった。 さらに立教大学 に対 しては、 大学 の学芸員養成科 では選択科 目は別 として人文 自然 の 区別 を しないで どの博物館 へ で も 融通 の き くよ うな教養 を与 うべ きであろ う。 これは博物館学 の性質 上か らも、また無理 のな い話 である。 立教大学 では博物館学講座 へ は、文学部 の学生ばか りでな く、理学部そ の他 の 学部 の学生 をも、一緒 に開放す ることになつ ている。 と論 じ、学問領域 を問わず に多 くの学生に対 して、学芸員養成課程 が開かれてい ることを紹 介 している。 このよ うな棚橋 の博物館学理念が宮本 に大 きな影響 を与 えた ことは言 うまで もな - 68 - 宮本馨太郎先生と博物館学 を残 した人物 と関 い。宮本 は澁澤敬 三 、棚橋源太郎 といつた、我 が 国の博物館界 に大きな功績 のであつた。 わ り、絶大 なる信頼関係 を築 き上げ、 自らも博物館 学 に傾注 した 宮本 の横顔 た環境に育 った8先 代 宮本は風俗 史家 ・服飾史家 の宮本勢助 を父に持 ち、学者 として も恵まれ ー 朝鮮半島に於 る白衣着用 の習俗 について」 大学 の卒業論 文 のテ マ は、「 の研究 を継承す るためか、 であ り、書庫 には万巻 の書物 を蔵 していた とい う。 か ら調 の 宮本 は早 く勢助 の下 で、物質文化 の研究を深 め、調査に同行す る傍 ら、生来 機械好 き 「 の と映像 査 の様子や資料 を写真や映像 で記録す る ことを心掛 けていた。宮本瑞夫 も 馨太郎 民具 へ の深 い 関心は、渋沢先生 とも共通す るところがあ り、そ んな ところか ら、先 生に親 しくご指導 を受 ける ことにな つた のではないか と思われ るJ註 8と述べ てお り、調査 の際 の映画撮影 の多 くを 任 されて いた とい う。 宮本 は下町育 ちで和服 に角帯が似合 う、律儀 で折 日正 しく、礼儀深 い几帳面 な性格 で、感情 を の 容易 に表 に出す ことがな く、計画 を立てて着実 に実行 に移す、大学総務部長 に就任す るほ ど 実 務 にも長 けた人物 であつた。 また、宮本 の話術 は長 く醇 々 として説 き、相手 が納得す るまでその 話 を終わ らせ なか つた とい う逸話 も残 る。 宮本馨太郎 さん の横顔J註 9の 中で 、薩南 トカラ列島の調 査は、総 元駒澤大学教授小川徹 は、 「 一 勢 20名 の調 査団で、九大 、北大、東 大 の教授 陣 と学者 は 等船 室に納ま り、宮本や小川 といつ た若輩組 は船底 の二等船 室を占領 して賑やかであつた ことや、昭和 11年 の越後 三面 のマ タギの 家 の庭先 で、 ロライ の二眼 レフを手に した探訪姿 の宮本 を回想 してい る。 そ の頃 の宮本 の探訪 は服飾 に傾注 していた らしく、 一 一 被調 査者 を前後 か ら慎重にカメラで撮影 し、髪型、着衣 を つ つ尋ね て、下着 に至 るま で聞き漏 らす ことはなかつた。態度 は温厚、物腰 も穏や かだか ら、婦人 で も喜 んで質問 に答 えるのだ つた。宮本 さん の人徳 がそ うさせたに違 い ない。 メモ は入念 に、繰 り返 して正確 を 期す る。 出発直前 にな つて も、昨夜 の間き取 りを確かめて 出かけゆ くな ど、毎度 の ことであ った。 メモの文字がまた一画 一点 をゆるがせ にせ ぬ几帳面 なもので、 どんなに急 いで も左傾 斜 の楷書体 が崩れ る ことがない。 と記 され、 この文面 か らも宮本 の性格 が見 て取れ るよ うである。 さらに、駒沢大学 に宮本が出 学 生が非常に熱心に聴 いて くれ るし、民具 の 講す ることの奇遇 さに喜び合 った とい う。宮本 は 「 一 リポー トを書 かせ ると、 夏 で全 国 の資料 が集 まるといつて、大へ ん御満悦 の態であつたJの も 束 の 間、思 いが けない長逝 を小川 のみな らず、多 くの者 が残念 に思 つたにちがい ない。 註 - 69 - 宮本馨太郎先生と博物館学 註 1 宮 本 馨 太 郎 1 9 7 7 「博 物 館 法 施 行 規 則 の 制 定 か ら博 物 館 学 講 座 開 講 に 至 る 経 過 」 MOUSE10N』 『 第 23号 立 教大学博物館学講座 註 2 宮 本馨太郎 1960『 民俗博物館論功』慶友社 註 3 宮 本馨太郎 1964「 渋沢先生の生涯 と博物館」『 博物館研究』 37‐ 9 日 本博物館協会 註 4 宮 本馨太郎 1965「 民俗資料 の分類 について (1)」『 MOUSE10N』 12 立 教大学博物館 学講座 註 5 宮 本馨太郎 1962「 博物館事業に捧げた 50年 J『MOUSEION』 座 8 立 教大学博物館学講 註 6 宮 本馨太郎 1962『 棚橋先生 の生涯 と博物館』六人社 註 7 宮 本馨太郎 1958「 博物館学講座 に期待す るものJ『MOUSE10N』 2 立 教大学博物館学 言 純 註 8 宮 本瑞夫 2003「 宮本勢助 ・馨太郎民具研究の軌跡 J『歴史 と民俗』 19 神 奈川大学 日本 常民文化研究所論集 │1徹1979「 宮本馨太郎 さんの横顔 ―アチ ック時代 ―」財団法人宮本記念財 註9 小 り 団 (國學院大學文学部 落 合知子) 一 曝書 ・曝涼 を中心 に一 TYaditional preseⅣation method of material 大谷 歩 OHTANI Ayumi は じめに 歴 史、芸術 、民俗 、産業、 自然科学等 に 関す る 博物館 の役割 は、博物館法第 二 条 にお いて 、 「 一 資料 を収集 し、保管 (育成 を含む。以下 同 じ。)し 、展 示 して教育的配慮 の 下 に 般公衆 の利用 に供 し、 そ の教養 、調査研究、 レク リエ ー シ ョン等 に資す るために必要 な事業 を行 い 、 あわせ て これ らの資料 に関す る調査研究 をす る ことを 目的 とす る機 関Jと定義付 け られて い るよ うに、 一 「 資料 の保 管」 がその つの柱 を担 ってい る。 そ の保管方法 は、資料 の種類や状 態 に よつて さ ま ざまに対応 してゆかね ばな らな い こ とは、言 うまで もな い ことである。 一 博物館 資料 は、数 百年 、 あるい は 千年 を越 える時間を経 て現代 に伝 わ ってい るものが少 な くな い。考古資料 の よ うに、発掘 に よつて 、資料 が生 きて いた 当時 の 姿 が明 らかにな るもの も ある。或 い は、書物 の よ うに、人 々 に読み継 がれ 書 き継 がれ なが ら、大切 に保管 され て現在 に 至 ってい る資料 も数 多 く存在す る。現在 は、科学技術 の進歩 に よ り、科学的な見地 か ら、各資 料 に適 した保 存 の在 り方 が検討 され 、実行 され て い る。 しか しなが ら、科学的根拠 に基 づ く保 存方法 は近代以降 の こ とであ る。今後数十年 、数 百年 、それ らの 資料 を後世 に伝 えるためには、 近代以前 にいか に して保 存管 理 され て きた か とい う歴史 を把握す る必要 がある と考 える。本稿 では 「 書物」 に注 目し、古代 か ら近代 まで、書物 がいかなる保存方法 の も とで保 管 され て現在 に至 った のか を検討す るもので ある。中で も、 「 曝書 ・曝涼」 とい う方法 につい て 、そ の歴 史を 概観 す ることを 目的 とす る。 「 曝書」 とは書物 を 日や風 に当て るこ とであ 曝」の字義 は 日光や風 雨に さらす こ とであ り、「 イ ― 涼 (涼)Jの 字義 は 曝涼」 の 「 る。 「 曝」 に類似す る語 としては 「 (晒)」 とい う字 もある。 「 曝書」も 「 曝涼Jも 、 日や風 に書物や衣類 な どを さらして湿気 を飛 ば 風 にあて ることであ り、 「 し、虫干 しす る こ とと定義付 け られ る。後 に述 べ て ゆ くが 、 日本 にお ける 「 曝書Jと い う語 の 最 も早 い 例 は、『懐風藻』 であ る と思われ 、『懐風藻』 にみ える記事 は 、 中国 の漢詩文や典籍 が もとにな ってい る。従 って 、 日本 にお ける曝書 ・曝涼 の検討 に入 る前 に、 中国 の文献 にお ける 曝書 ・曝涼 の在 り方 を確認す る必要があ る。 まず は、中国 の 文献 を追 った後 に、 日本 の文献 ヘ と進 んで ゆきた い。 1 古 代 中国にお ける曝書 口曝涼 -71- ■■ ■ ■ ■ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ 1 1 l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l 資料 の伝 統 的保存 法 ■■■■︱︱︱︱︱︱︱︱︱日日︰日lllllllllllllllllll 資料の伝統的保存法 中国 の 文 献 で確 認 で き る最 も早 い と思 われ る例 は 、『後 漢 書』逸 民列 伝 の 高鳳 の 記 事 で あ る (1)。 高鳳 、字 は文 通 、南 陽葉 の 人 な り。 少 く して 書 生 と り 為 、家 は農 畝 を以 て 業 と為 す も、 而 れ ども精 を 専 らに して 誦 読 し、昼夜 息 ま ず。 妻 嘗 つ て 田に之 き、麦 を庭 に 曝 して 鳳 を して 鶏 を護 せ しむ 。 時 に天 暴 か に 雨ふ る も、 而れ ども鳳 は竿 を持 ちて 経 を誦 し、涼 水 の 麦 を流 す に 覚 か ず。 妻 還 りて 怪 しみ て 問 い 、鳳 方 めて之 を悟 る。 其 の 後 、遂 に名 儒 と為 り、乃 ち 業 を西 唐 山中に教授 す。 (列伝 7・ 逸 民 73) 高鳳 は 「 曝 」 して い た麦 が 雨 に濡 れ 、 つ い に大 水 に流 して しま っ た こ とに気 が 付 か なか っ た とあ る。 つ ま り、麦 を 「 曝 」す る とい うこ とは 、麦 を乾燥 させ てい た も の と考 え られ 、庭 に並 べ て 日 しし、風通 しす ることと理解 できる 干 。次 の 『晋書』② の三例は、衣や髪 を 日や風にあ てる意 で用い られている記述である。 ①咸字仲容。父熙、武都太守。咸任達不拘、典叔父籍鶯竹林之済、営世趙法者識其所篤。 咸興籍居道南、諸院居道北、北院富而南院貧。七月七 日、北院盛曜衣服、皆錦綺楽 目。 咸以竿桂大布債鼻於庭、人或怪之、答 日 「 未能免俗、り「 復爾耳 !」 (列伝 49・院籍 19) ②悟字敬豫。少好武 、不鶯公門所重。導見llf軋 喜、見悟便有怒色。州辟別駕、不行、襲爵 即丘子。性傲誕 、不拘祀法。謝萬嘗造悟、既坐、少頃、llI便 入内。高以鶯必厚待己、殊 llI久 之乃沐頭散髪而出、抜胡沐於庭 中曜髪、神氣llt邁 有喜色。 、党無賓主之程。高張然 一 而婦。晩節更好 士、多技藝、善奔菓、馬中興第 。 (列伝 65。王導 35) ③後其母病篤、乃詣洛市薬。會二月上巳、洛中王公已下並至浮橋、士女餅填、車服燭路。 統時在船 中曝所市薬、諸貴人車乗来者如雲、統並不之顧。 (列伝 94・隠逸 ・夏統 64) ①は 『芸文類衆』にもみえる記事 であ り、「 竹林 の七賢」の一人、院咸 にまつ わる記述である。 七月七 日、隣人が錦の衣 を干 しているのを見た院咸は、竿を掲げて 自らの 「 憤鼻 (=下 着)」を 干 した とい う。この故事は 『 懐風藻』の詩にも登場す るもので、ここでは衣服 を干す ことが 「 曜」 llIの と表現 され る。②は王 記事で、髪 を洗 つた後に庭 で 「 曜髪」 した とある。 この 「 曜髪」は 髪 を風にあてて乾かす ことを意味す る。③は夏統 が病気 の母 のために洛陽まで薬 を求めにゆき、 船 の 中で求めた薬を 「 曝」 した、 とある。 曝書 の例については、『 周書』131に 、幼いころよ り学問を好 んだ柳慶 の記事 がみえる。 慶幼聰敏、有器量。博渉早書、不治章句。好飲酒、閑於 占封。年十三、因曝書、僧習謂慶 曰 「 汝雖聰敏、吾未経特試。」乃令慶於雑賦集 中取賦一篇、千有餘言、慶 立讀三偏、便即誦 之、無所遺漏。 (列伝 22・柳慶 14) このほか、『 宋史』④ には 「 曝書」の語 が多 くみえる。『 宋史』巻 164・志 H7・ 職官 4・秘書 省 には 「 歳於仲夏曝書、則給酒食費、尚書、學士、侍郎、待制、両省諫官、御史並赴。」とあ り、 「 仲夏」の頃、すなわち旧暦 の四月後半か ら六月前半にかけての時期に曝書を行 うことが定め られてい る。同 じく職官 4・秘閣の項では、 「 十三年、詔復毎歳曝書會。」 とあ り、衛尉寺の項 には 「 時其曝涼而封籍其数、若進御及頒給、則按籍而出之。」とある。また、志 150。兵 11・器 至和元年、詔河北、河東、険西路毎歳夏曝器 甲、有損断者、悉令完備。」とあ 甲之制 の項には 「 - 72 - べ て い る。 り、毎年 夏 に武器 を曝 涼す る き こ とが記 され ・ 曝 」す る対象 と して の 的 な も ので あ る。 「 の 以 上 が 、中国 の正 史 にお け る曝 書 曝涼 記 事 代表 い 日に 当 て た り風 を通 した り、或 い は乾 は、麦や 衣 類 、髪 、薬 、書 物 な ど様 々 で あ り、 ず れ も に よれ ば、夏 に行 われ る こ とが通例 燥 させ る とい う意 味 が認 め られ る。曝涼 の 時期 は、『宋史』 で あ った よ うに見受 け られ る。 してみ る。 それでは次 に、中国 の正 史以外 の 、 主 に年 中行事 を記 した文献 を確認 ③ 四時纂要』 ) ④曝書表 衣服 四段 固障書籍毎、晴 明則曜直 至人月。 (『 …… 三 巻之須。須要 晴時、 ⑤雌黄治 書法 〔 五月十五 日以後 、七月 二十 日以前 、必須 度舒而 之 於 大屋 下風涼虎 、不見 日庭 、 日曝書。令書 色喝。熱巻 、生轟爾速 、陰雨潤気。尤須避 、 慎 書如 此。則数 百年実。〕 (買思網 『斉 民要術』雑 説第 300) こ とが記 さ ④ の 『四時纂要』 では 、書物 と衣類 の曝涼 について 、 人月 まで の晴れ た 日に行 う こ れて い る。⑤ の 『斉民要術』 では、曝書 は五月十 五 日か ら七月 二十 日ま で 、 三 回行 う と、必 ことな ず晴れ た時に行 い 、屋根 の 下 の風 が通 る涼 しい ところで、直接 日に当 てず に陰干 しす る ど、書物 の曝涼 につい て詳述 され て い る。④ と⑤ では曝涼 の 時期 は異 なるが、晴天 の 日に行 う こ とか ら、 日干 しに よつて湿気 を飛 ば し、虫 か ら書物や衣類 を守 るため の行為 とみ な され る。 書物 に湿気や熱 が こ もる こ とが虫害 の原 因 であ り、それ を除去す るこ とで書物 が数 百年 を経 て も保存 できる とい う知識 が既 にあ つた こ とを物語 つてい る。 曝涼 が行事 として定着 していた形跡 が確認 で きるのが 、次 の 『四民月令』 と 『荊楚歳 時記』 の記事 で ある。 ⑥ 七 日、遂 に麹 を作 る。是 の 日や 、藍丸及蜀漆 丸 を合 わす べ し。経書及 び衣裳 を曝 し、乾 七 月」条 0) 根 を作 り、恵耳 を采 るな り。 (在是 『四民月令』 「 ⑦荊楚 の俗 、 七 月、経書及 び衣裳 を曝す。以為 へ らく巻軸久 しけれ ば則 ち 白魚有 り。漢 の 在是 曰 く。七 日、経書及び衣裳 を曝す るは習俗然 るな り、 と。『穆天子伝』 に書 を羽陵に 七月 」条 ③) 壼 しす とは是れ な り。 (宗慎 『荊楚歳 時記』 「 ③は 「 七 ⑥⑦ 共 に経 書 と衣類 を曝涼す る こ とが記 され てお り、⑥ の記事 につ いて 渡 辺武氏 月 七 日に曝涼 を行 う記録 としては本条が最 も古」 い ことを指摘 してい る。⑥⑦以後 、 中国 の文 献 で も七 月 七 日に曝涼 をお こな う記述 が散見 され るよ うにな る。 この七月七 日は、牽牛 と織女 の伝説 で も知 られ るよ うに七 夕 の 日で あ り、曝涼 もまた 七月七 日の行事 として、 日本 に受 け入 (1の れ られ ることとな ったので ある。 七月七 日の曝書 の例 としては 、宋代 の小説集 『世説新語』 に 「 赤「隆は七 月 七 日、日中に出で て仰 臥す。人其 の故 を問ふ。答 へ て 日は く、我 は書 を曜せ り、 と。Jと あ り、七 月 七 日に赤「 隆 が腹 を 日に さらして、 自分 の腹 の 中の書物 を曝涼 してい るのだ 、 と言 つた とい う説話 であ る。 この説話 は 『懐風藻』 に も登場す る。 また 、時代 はかな り下 るが、韓 国 の浜錫漢 の 『東 国歳時記』(11)(1894年 ・李朝朝鮮)に は 、 一 七 夕 の 日に 「 人家曜衣裳。蓋古俗 也 。Jと い う記事 があ り、曝涼 は東 アジアに共通す る行事 の つ であつた ともい える。 曝」 してお り、年 中国 の正 史 にお いて は夏 の期 間 に、麦や衣類 、髪や薬 な ど様 々 な もの を 「 一 経 中行事書 にお いて 、殊 に 『四民月令 』『荊楚歳 時記』にお い ては七夕 の 日の行事 の つ として 「 - 73 - ■■■■■︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱111lllllllllllllllllllll 資料の伝統的保存法 ■■■■■■■■︱︱︱︱目目日︱日日︱目︱︰︰日llllllllllllllllll 資料の伝統的保存法 書 ・衣 服 」 を 「 曝 」す る こ とが広 く行 われ てい た こ とが理 で 解 き る。 日本 にお け るI I n 書・曝 涼 は 、 この 七 月 七 日に行 われ る も の と して 受容 され て ゅ くの で あ る。 2.古 代 日本 に お ける曝書 ・曝涼 続 い ては 、 日本 の曝書 ・曝涼 につい て みて ゆきた い。日 本 で確認 で きる文献で最 も早 く曝 書 の記述 が あ るのが 、 日本最古 の漢詩 集 であ る 『懐風藻』(1の であ る と思われ る。 この 『懐風藻 』 の 中の曝書 の記載 は二 箇所 あるので 、以下に 引用す る。 ①太后天皇 の世 に、師本朝 に向かふ 。 同伴 陸に登 り、経書 を曝涼 す。 法師襟 を開 き風 に封 か ひて 日は く、 「 我 も亦経典 の奥義 を曝涼す」 とい ふ。衆皆噴笑 り、妖言 と以鶯 へ り。試業 に 臨み、座 に昇 りて敷演す。辞義峻遠 、音詞雅 麗。論峰 の ご とくに起れ りと 雖 も、應 封流 る るが如 し。 皆屈服 し驚骸 せ ず といふ こと莫 し。 帝嘉み したまひ 、僧 正 に したまふ 弄 。 時に 歳 七 十 三。 (釈智蔵 ・序文) ② 大 宰府 大 式 正 四位 下紀朝 臣男人 「 五 言。七夕。 一 首。」 憤鼻標竿 日。 隆腹曜書秋 。 憤 鼻 を竿 に標 ぐる 日、隆 が腹 に書 を曜 す秋。 鳳 亭悦仙會 。針 閣賞神遊 。 鳳 亭仙會 を悦 び 、針 閣神遊 を賞す。 月斜孫 岳嶺。波激子池流 。 月 は斜 く孫岳 の嶺 、波 は激 つ 子池 の流。 歎情未充半。天漢 暁光浮。 歎 情 も未 だ 半ばにも充たね ば 、天漢暁光浮かぶ 。 ① は釈 智蔵 が経書 を曝涼 してい る と、 自分 も風 に当た って 、 自らの腹 の 中の奥義 を曝涼す る のだ 、 と言 つ た とい う。② の波線部 は 、前項 (1.古 代 中国にお ける曝書 ・ll■ 涼 )の 『晋書』① の 院咸 の故事 を踏 まえた もので あ り、次 の 「 隆が腹 」は前項 に掲 げた 『世説新語 』 の赤『隆 の故 事で、① の釈智蔵 も同源 の故事 を踏 まえてい る と考 え られ る。 この二つ の例 か らは 、書物や衣 類 に風 を通 し、或 い は 日光 を当てて干 した後 に保 存す る とい うこ と、 あるい はその よ うな知識 が 、持統朝以降 の 日本 では留学僧 を通 して既 に知 られていた こ とを示 してい る。 さらに、 ここ にあ らわれ る曝涼 は、① 「 法師襟 を開 き風 に封 かひ 」 とあるよ うに、直接 日光 にあて る とい う よ りも、風 を通 す こ とに主た る 目的があ った もの と推察 され るので ある。 『懐風藻』 に続 いて 古 い文献 に 、『正 倉院御物 出納文書』(13)が 挙 げ られ る。 正 倉院 に納 め ら れ た御物 の 出納 が記録 され てい る文 書 で 、そ の 開錠 は勅命 で行 われ 、納 め られた宝物 は厳重 に 管理 され ていた。次 に挙 げ る二つの記事 は、曝涼 を命 じられ た東大寺使 の 「 曝涼」 の記録 であ る。以下 に簡 略 に 引用 してお く。 ③ 「 東 大寺使 解 」 延暦 六年 六 月十 六 日跡財 帳 萱 巻 (目録 中略) 以前、依太政官今月十 三 日符 、曝涼香薬 井雑物亦簡澤之、即以槍称財 帳篤本 、時有疑以 引 厭物帳改 正 、亦依 出帳定数、具件如前、謹解 、 延暦 六 年 六 月 「 廿 六 日」 (以下略) - 74 - 資料 の伝統的保 存法 東大寺使解」 ④ 「 曝涼 目録 東大寺使解 申 曝涼香薬等≡ 牧納麻院西雙蔵北端〕 合壼栢肇拾伍種 納 厨子式 口韓積参拾合 〔 記書 五巻 御 書十 五巻 (目録 中略) 右 、被 大政官今月 一 日符俗 、被右 大 臣去 五月十九 日宣偶 、奉 勅 、篤曝涼 在彼 寺香薬 、宜 遣件人等者 、例依 宣 旨令 向彼 寺、宜知此状、幕 使庭 分 、其少僧都 玄憐及 三 綱、与使 共加捻 校者 、謹奉符 旨、曝涼 如件 、謹解 、 延 暦 十 二 年 六月 十 一日 (以下略) 「 解」 とは役 人 が上級官人 に提 出す る報告書 を意味 し、曝涼 を命 じられた役 人 がそ の 目録 と 曝涼 。点検 の結果 を記 し、報告 した もので ある。 いずれ も延暦年 間 (782-806年 )の 六 月 の記 香薬 井雑物」とあ り、香薬 の曝涼 が主た る 目的 であった こ とが うかが える。 録 であ る。③ では 「 記書」な どの書物名 や経典 の名 もみ え 御 書」 「 日録 には仏具や調度 品 も含 まれ 、④ の 目録 には 「 る こ とか ら、曝涼 の対象 とな った ものの 中には、書物 も多 く含 まれて いた こ とが推測 され る。 曝涼使解 」な る記述 があ り、倉 に納 め られ この二 つ の記事 の他 に、斉衡 三 (856)年六月 に も 「 た品 々 を曝涼 。点検 した ことが報告 され てい る。正 倉院 の曝涼 は、単 な る風通 しだ けではな く、 宝物 の 点検 。管 理方法 として も機能 していたので ある。 (1→(昌泰 一 同 じ平安前期 の文献 に、今 つ 曝書 に関す る作 品があ る。菅原道真 の 『菅家文草』 一 三 (900)年)に 、書物 の_Lを遊ぶ紙魚 にまつ わ る詩 が 編 ある。 壁魚」 『菅家文章』 巻 五 「 白魚浮紙上 済 泳九流 中 白 魚紙 の上に浮かぶ 続軸高低 去 随 書遠 近通 軸 豊嫌漁父業 唯 妨學人功 豊 漁夫 の業 を嫌 はめや 若得風前拳 鱗 飛道豊空 若 を続 りて高 く低 く去 る 済 泳 す 九 流 の 中に 書 た に随ひて遠 く近 く通ふ だ學人 の功 りを妨 ぐらくの み し風の前に基 ぐる こと得なば 鱗 飛 びて道あに空 しか らめや 一 首 の 大意 は、 自魚 (=紙 魚)は 紙 の上 を泳 ぎまわ り、巻子や冊子本 の 間を うろ うろす る。 も し書物 を風 に曝す ことがで きたな らば、 白魚 の鱗 は飛 び去 って (=死 んで)書 物 は無事 に保 護 され 、学 問 の道 も空 しくな るこ とが無 いで あろ う、 とい うもので ある。 書物 に巣食 う紙魚 に 風 の前 に基 ぐる こ と得 なばJと す る 悩 ま され る学者 の 姿 が描 かれ てい る作 品である。 書物 を 「 よ うに、 この曝涼 は直接 日光 にあて る とい うよ りも、書物 に風 を通 して湿気 を除去す る こ とで あ り、更 に虫 も駆除す る行為 であるこ とが認識 されて い た ことを示 す もので ある。 (15)(1346年 頃成 立か)に も、 時代 は下 るが 、南北朝時代 の東福 寺 の僧 ・虎 関師錬 の 『済北集 』 夏 の暑 さと湿気 に よ り紙魚 が発 生 し、書物 に被 害 が及 んだ こ とを嘆 いた詩 が ある。 (10の図 平安期 の文献 で 、最 も詳細 かつ 具体的 に曝涼 につ いての記載 があ るのが 、『延 喜 式 』 書寮 に 関す る巻 である。 図書寮 は国家 の経典及 び 書物 を取 り扱 う部署 で 、書物 の曝涼 とその管 理法 が記 され てい る。 ⑤凡暴涼佛像経典者。 起 七 月 上旬。蓋人月 上旬 。其所須綿 紙 井鋪設等。 臨時請受。 -75- 資料 の伝統 的保 存法 ⑥几御 書及 固給者 。六年 一度暴凍 。勅使耕 官簡差諸 司判官以 下及舎人 學生等堪事 者分番検 凍。 其雑使取 散位位 子 等。駈使 充左右 衛 士各十人 。掃部寮設座 席。所 司朝 夕給 百度 食。衛 士人 別 日飯 二 升。若 御 書井雑調度 有損破者 。仰 所 司令 繕補。 事詑 之 後。惣取 諸番 日記。勅使 署 名奉進 。其蔵鍮者 。寮 申内侍 奏請。検凍 之 間。勅使封 鍮納寮。 一 以上 の 内容 を要約 す る と、1.仏 像 。経典 の曝涼 の 時期 は毎年 七 月上旬 よ り人月上 旬 までの約 ヶ月 間で行 うこ と (⑤)、2。 それ以外 の 図書寮の所蔵 品につい ては 、勅命 に よって六 に一 年 度曝涼す るこ と (以下⑥)、3.番 (二人 の組)ご とに作業分担 をす ること、4.破 損箇所 があっ た ら修 補す るこ と、5.作 業 が終わ った ら番 ご とに 日記 をつ け、勅使 が署名 した に 上 後 奏 す るこ と、6.曝 涼 中の蔵 の輸 は勅使 が 管理す るこ と、な どが挙 げ られ る。また雅楽寮 に 関す る巻 には 「 凡毎年六月 曝凍林 邑井雑楽具 。寮預 申省。省 申官令監物 就検。省丞録各 一 人相共 検校。」とあ り、毎年 六 月 に楽器類 の曝涼 を行 うこ とが記 され てい る。 図書寮 の⑤ で示 され た曝涼 の 時期 につい て 、沓掛伊左 吉氏 (17)は「 大体 7月 7日 は新暦 では 土用 の大 暑 の候 であ り、 7月 下旬 か ら 8月 中旬 にかけては、天候 も比較的安定 してお り、湿度 も低 く、 日光 も強烈で、 陽足 も長 い。し たが って 、書 中 の 除湿 、駆 虫、殺 菌等 日光消毒 をす る には 、最適 の気候 であ る」 と述 べ てい る。先 にみた 『正 倉院御物 出納文書』 の曝涼 の 時期 は、 延暦 ・斉衡年 間 の六 月であ ったが 、新暦 に換 算す る とおお よそ七月 下旬 か ら人月 中旬 の 時期 で あ り、沓掛氏 の指摘す る時期 とも一 致す る。 また 、曝涼 の対象 とな るの は、経典 な どの書物 に 限 らず 、仏像や絵画、調度 品 も含 まれ てい る点、『正 倉院御物 出納文書』 とも共通 す る。六年 に 一 度 とい う根拠 は不明であ るが 、そ の修補や 、記録 に よる管理 を徹底 させ よ うとした意 図が読 み取れ る。 ここまでは 平安前 。中期 にか けて の文献 をみて きたが、平安後 期 の有職故実書であ る、大江 匡房 の 『江家次第』(10による と、曝涼 の時期 が七月七 日と定 め られ るよ うになる。 七 月J条 『江家次第』巻人 「 同 日 (七日 :引 用者 注)排 拭御物事 鋪廣蓬於清涼殿孫庇 、風戻御物等 良久排拭 、後如元返置、又披清涼 。仁 壽 ・宜 陽殿等御物。 この記事 か らは、清涼殿 の孫庇 (庇の さらに外側 に出てい る庇)に 進 を広 げて、御物 を風 に 当てて い た ことが わか る。沓掛 伊 左 吉氏 (1"は、「 『江家次第』以後 に書 かれ た年 中行事書では、 曝書 の 開始時期 を七月七 日として い るJと 指摘 し、 「 曝涼 の 日を七月七 日と したのは 、『江家次 第』 が始 めてで ある。 この 『江家次第』 が有職故実 の軌範 とされ た ところか ら、それ以 後 の年 中行事書 は 、 これ らに よつ た もの と思われ るJと 述 べ てい る。 この七 月七 日は、先 に確認 した よ うに 中国文献 の影響 を受 けた もの である。そ の一 例 として 、鎌倉時代 の藤原 定家 の 『明月記』 (2の をみてみ る と、 1.嘉 禄 二年 、2.寛 喜元年 、3.寛 喜 二 年 、4.寛 喜 三 年 、5.天 福元年 の五 例 の記録 が存す る。 いずれ も七月七 日の晴天 の 口に文書や文庫 の曝涼 を行 った ことが記 され て い る。 2の 寛喜元年 の記事 を挙 げ る と、 「 七 日、壬 中、天晴、開文庫令排 書Jと あ り、また 4の … 七 日、辛 卯 、天晴、 令沸文書、是綾 閑人 之所携也」、閑人 が携 わ るこ とだ と言 寛 喜 三年 では 「 つ てお り、かな り時間のかか る作業であ った ことが想像 され る。 この よ うに 、曝涼 は七月七 日 の行事 として定 着 していった ことが うかが えるのである。 -76- 資料 の伝 統 的保 存法 3 近 世 ・近 代 に お け る曝 書 ・曝 涼 『江家次第』 によつて曝涼 の 日は七月七 日として定着 したが、江戸時代 の文献によると、必 (21) ず しも七月七 日に限 られた行事ではな くなつて くる。は じめに、黒川道祐 の 『衆州府 志』 をみてみたい。『売州府志』 は江戸前期 の貞享三 (1686)年に刊行 された山城国の地誌であ り、 北野天満官 の行事 として、宝物 の曝涼 が記載 されてい る。 『宛州府志』 北 野宮 七月六 日、 外陣にある ところの神宝を西の間な らびに幣殿および会所に出 し、これを曝す。 一 その間に、宮司、内外陣の煤塵を掃 ふ。同 じく七 日の暁、松梅院主、 人内々陣に入 り、 御手水 を献ず。神宝 の 中、松風 の硯筒の上に穀 の葉 を置きて、 これを供ず。 七夕祭 の歌を 詠ぜ られんためな り。 宝物を曝涼 し、同時 に宮司によつて庫内の清掃 が行われてい ることが読み取れ る。『明月記』 にもあつたように、資料 の状態維持 と管理、また保存場所 の環境 の維持 とい う二つの機能 があ る。 なお、現在 の北野天満宮では秋に宝物殿 の害虫駆除を行 つてお り、平成 二十 二年は十月十 2)。 四 日か ら十一月二 日の三週間をかけて作業を行 つてい る 。 『奔州府 志』 にみえる時代では、 一 未 だ 『江家次第』か らの流れを受けてお り、七 夕の 行事 としての意味合 いが強い ようである。 明治期に、曝涼 に適 した季節は秋 であることが示 されてか ら (後述)、近現代 の曝涼 は十月か ら 十一月にかけて行われ るよ うになったのであろ う。 。貝原好古編録 の 『日本歳時記』 次に、『衆州府 志』とほぼ同時期 に刊行 された、貝原益軒Wll補 1688〉年)を みてみる。 9つ (貞享五 〈 『日本歳時記』巻 之四 六 月 梅雨審 て後 、書 を 日に晒すべ し、新薦 にひろげ、表紙 を下に して乾す。苧縄 に懸て晒せば 。晩 には 表紙損ず。天気好 日な りとも、一 日に 一度なるべ し。朝 よ り晒 し、午未 の時lllむ 一 暴雨の憂あ りのはや く牧むべ し。屋下にな らべ て熱 をさま し、 夜置て、明朝笥 に納む。 凡書 を晒す事 、 一度 に多晒す べ か らず 、暴雨 の をそれ あ り。又多 けれ ば 、家奴厭 ひ倦 て心 を用ひず 、書 をそ こなふ事 あ り。損壊 あ るは修補 し、断 た る とぢ糸 を補 ひ縫 て 、各故 の ご とく積 中に納 、各其所 を得せ しめて 、蓋 を開べ し。屋 中に久 し く晒 さん よ り、か くの如 く 烈 日に一 度晒 した るが、贔 はまず 。 湿 な くして よ し。毎年久 しくさらせ ども、 い さ ゝか書 の損壊 な し。 古人 も書 を外 に さらせ る と見 えた り。 もえぎ色 な どの表紙 も、表紙 を下 にす るゆへ に色かは らず。居 家 必用 にい は く、古人書 を蔵 るに、多 く芸香 を用 て壼 を さく。今 の七 里香 これ な り。又藤香 を書厨 の 中に入置 ば、轟 を さく、一 法 に樟脳 を用 い るも又 よ し。 『日本歳 時記』 に よる と、曝涼 の 時期 は、梅 雨開 けの六 月が よ しとされ てい る。 午後 二 時ま でに取 り込む とい うの は、夕立 を避 ける とい う点 では合理 的であろ う。 しか し、陰千 しよ りも 強 い 日に当てた ほ うが虫はつ かない とい うが 、紫外線 の影響 を考慮 す る と、や は り直射 日光 は 避 けるべ きである。 また 、現代 の感 覚 では、梅 雨明けの蒸 し暑 い 夏 の外気 に干す よ りは、乾燥 した秋 に行 つ た方 が湿気 は避 けやす いので はな いか とも考 え られ る。 しか し、 当時 の曝涼 が梅 雨明 けに行 われ た理 由 としては 、梅 雨 の 時期 に溜 ま った湿気 をい ち早 く飛 ばす ことが最 も優先 -77- 資 料 の伝 統 的保 存 法 され たためであろ う。『日本歳時記』は 『売州府志』 と同時期 の刊行 であ り、神 社 な どの祭 りの 行事 としては七月七 日、民間 の行事 としては六 月 (梅雨明 け)と い う意識 の差が読み取れ る。 「 苧縄 に懸 て 晒せ ば表紙損ず 。」とは、縄 を軒下な どに張 り、洗濯物 の よ うに書物 を開 い てか ける とい う方法 が採 られ ていた場合 もあ つた よ うで、そ の こ とに 関 して注 意 を促 してい る。 当 然、落下に よる破 損 が考 え られ 、書物 の安全 上 あま り好 ま しくない方 法であ る。 また 「 損壊 あ るは修補 し、断 た る とぢ糸 を補ひ縫 て 、各故 の ご とく積 中 に納 」 の指摘 は 、書物 の錯簡 な ど、 これ以上 の破損 を防 ぎ、現状 を維持す るため の行為 であ り、現代 の古典籍修補 の基本 姿勢 に通 じるものである。 次 の 貝原益軒 の 『萬費部事記』。。 (宝永 二 (1705)年)に も、曝書 の方法 が詳細 に記述 され て い る。少 々長 いが 、以下に引用 してお く。 『萬費部事記』巻 之 二 ①書董 を さらす に、今和俗 には土用 ぼ しとて 、夏 の上用 に さらす。是梅 雨晴て後 、 日はげ し く照 とき也 。月令廣義 には、四月 の天氣 よき時 、 日に晒 して箱 にお さめ入 、紙 にて透 間を 張、梅 雨 の後 にひ らく。か くの ご とくすれ ば 、かび 出ず とい へ り。衣服 な ども、又爾 な り。 い まだ梅 雨 の瀑氣 にあた らぬ前 にはせ ばかひ生ぜず 。 ②書 を さらす に、 家 中に久 しく接 げて、 自然 に乾かす人有 り。 書す くな き家 には さも有 りぬ べ し。但書少 くとも、烈 しき 日に干た るに しくはな し。苧縄 を多 く張 りて書 をか け千べ し。 是書 よ く乾 る。又地上 に新 しき薦 を布 て 、其 上 に書 をひ ろげほす 、和表紙 は 、営時そ りて、 か さ高 くなれ ども、後 は然 らず 、表紙 を下に して干す べ し。朝 よ り晒 して 、午未 の 時 に早 く屋 の 内に納む。又 六七 月 の晩景 は暴雨 の うれ へ 有 り。 早 く納 めて屋 中 にひ ろげ、明朝箱 に納む べ し。我敷十年 の 間、如此 に書 を さらす といへ ども、 い まだ書損ぜず 。況や書多 き 家 は、屋 下に久 しく晒 しがた し。 豊軸 は殊 に烈 しき 日に晒 さ ゞれ ばむ しばむ。但豊 は裏 を 上 に、表 を下に し、 上 に紙 か布 をお ほひて 千べ し。 ③書籍 に雨 のふ りか ゝり、又道 中船 中な どにて 、水 に浸れ るを、大 きな る甑 の 内に入 て蒸 、 日に干、お も りを懸 て置 ば損ぜず 。 王氏 談録 要約す る と、① では、 当時は夏 の 土用 に曝書が行 われ てい るが、『月令広義』 (明代 の年 中行 事 の解説書。『ネL記』月令 の注 ・補足的な内容。)に よる と、梅 雨入 り前、 四月の天気 の 良 い 日 に一度曝書 した方 が よい とされ ることを述 べ てい る。② は、曝書 にあた つて は直射 日光 は避 け、 家 の 中にただ広 げるので はな く、縄 にかけて千す 、或 い は新 しい薦 を引いて広 げて干す こと、 表紙 は下に して干す こと、朝 に干 して正 午 か ら午後 二 時 の 間には取 り込む こ と、 六月七月 は夕 立があるので 、早 めに取 り込んで翌朝片付 ける こ と、絵画 は裏 を上、画面 を下 に して 、紙 か布 をあてて画面 を保護 しなが ら千す こ とな どが記 され る。③ では雨や旅行 、船旅 な どで書物 が水 に濡れて しま った場合 の対処法 が述 べ られ 、大 きい 甑 (=蒸 し器 )に 入れ て蒸 し、干 して 、お 圧す るこ とが推 奨 されて い る。 これ らは益軒 の数十年 に及ぶ経験 か らの教 えで も りを乗せ てカロ あ り、 この方 法 に よつて 虫害が発生 した ことは な い とい う。 ② では陰干 しをすす めてお り、そ の干 し方 も二種類提示 して い る。 苧縄 にかけて千す方法 は 『日本歳時記』 にもみ える方法である。現在 は落下 による損傷 の危険性 があ るた め、書物 を紐 - 78 - 資料 の伝統 的保 存法 一 に掛 けて干す ことはないで あろ うが 、 当時は 般 的な方法 であ つたのだ ろ うか。 時代 は少 し下 00(寛 政 七 (1795)年)に は、書物 を立てて風通 しす るべ き こ とが るが、津村涼庵 の 『諄海 』 述 べ られ て い る。 『諄海』巻 の十 三 べ へ 書物轟千す るには、和紙 の本 は 二つ に開けて、其ま ゝ畳 の う にたてて干 し、風 よく通 りて便宜 よろ し。唐紙 の本 は如 レ此すれ ばたふ る ゝ故 、 心 あ るべ し。 書物 を立てて風通 しす る とい うこ とで あるが、 ある程度厚 み の あ る本 な らば可能 で あるが、 べ 薄 い本 ではかな り倒れやす くな る状態 が予想 され る。 そ の意 味で、薄 い唐紙 の本 は注意す き と言 つてい るので あろ う。 しか し江戸時代で主流 であ った袋綴 じの和本 も、 立てたまま置 いて たてて千Jす とい うの は、単 に本 お くの は難 しい ので はな い だ ろ うか。或 い は 、 ここでい う 「 を開 い た状態 を言 つてい るのであろ うか。 実際 どの よ うな状況 であつたのか、 この記述 か らは 判断 がつ かないが 、 この よ うな方法 もあ つた よ うである。 益軒 の記事 に話 を戻す と、曝書 の 時期 だ けではな く時間帯ま で提示 され 、絵画 では画面 の 日 焼 けに も注意 が払 われ てい る。書物 をいかに管 理 し、保護す るか とい う詳細 な記述 は、今 回 の ・ 調 査 では益 軒以前 にはみ られ なか つた。 しか し、益軒以前 か らこの よ うな方法 で書物 を管理 保存す る こ とが行 なわれ て い た と考 えるのが妥 当であろ う。益軒 が記 した方法 は、先人 の知恵 を活 か した伝統的な管理 ・保存法 であ る と言 える。江戸時代 の具体的な曝書 の方法 を知 る、貴 重 な資料 で ある。 (20(文化 二 (1806)年)を み てみ たい。 続 いては 、速水春暁斎 の 『諸 国図会 年 中行事大成』 ここには 、京都 の寺社仏 閣 の 虫払 いの記事 が多 く記載 され てい る。 六 月之部」 『諸 国図会 年 中行事大成』 巻 之四 「 京師 。日不定 ○ 今月 、諸寺院及 び諸名 家 に蔵す る所 、霊 宝 書画軸物 の 虫払ひ あ り。 大抵 天気晴爽 の 日を侯 て 、辰刻 よ り午亥1迄曝す。諸人拝見 を許 さる。 (以下、東 寺 、東福 寺、妙心寺、建仁 寺、天龍 寺 、智恩院、 二 尊院 、大雲院 の宝 物 の 紹介 :引 用者 注) 此外諸寺院等枚 挙 に違 あ らず。又諸人拝見許 され ざるあ り。悉略 之。 京師 三 日 ○高雄 山神護 寺 虫払 今 日よ り九 日に至 る。 京師十 五 日 ○浄 華院 虫払 京 極今 出川 の南 三 町にあ り。浄 土宗 の 京 師廿 日 …… ○十念寺 虫払 京 極今 出川 の 北 にあ り。 昨今 の 間、晴天 を待 て 出 さる。 ・ 京 師十 二 日 ○栂尾 虫払 今 日よ り十七 日に到 る。 山城 国愛宕郡梅 ヶ畑郷 中 にあ り。 一 本寺 な り。 …… 今 日よ り仁和寺院家 の僧 二人 、当寺 に来て監之。顕密 の聖教若 干筐 あ り。故 に顕密部 の二 書隔年 に虫払 あ り。 …… ○大徳寺方 丈 虫払 洛 北紫野 にあ り。龍 宝 山 と号す。 京師十 三 日 ○四条道場金蓮寺 虫払 四 条寺町 にあ り。錦綾 山 と号す 。 ○聖光寺 虫払 寺 町綾小路 の南 にあ り。今 日清海 の 曼陀羅 を懸 る。 …… ○報恩寺 虫払 小 川 上立 売 の北 にあ り。 …… -79- 資料の伝統的保存法 京 師十 五 日 ○ 建仁寺霊 洞院 虫払 二 十人祖画像南堂手 書 の賛 あ り。 …… ○黒谷金戒 光明寺 虫払 法 然上人 、一 枚起請及霊法挙 るに違 あ らず 。 ○誓願 寺 虫払 当 寺 の縁起 三 幅、又貝多羅葉其長五尺 ばか りあ り。 …… …… ○妙顕寺 、本能寺、要法寺 虫払 各 国蓮上人 の 曼陀羅井書数篇 あ り。 ・ ○百万遍 智恩寺 虫払 大 珠数 出 る事 は二月 条 下に しるす。 京 師十 七 日 ○ 本 国寺 虫払 日 蓮 上 人 自筆 の 曼陀羅 あ り。 …… 虫払 隔年 な り。 江戸後期 の京都 の 寺社仏 閣 の曝涼 (虫払 い )の 記事 であ る。『諸 国図会 年 中行事大成』は六 月 まで しか発刊 され ていないため、秋 以降、特 に七月七 日の曝涼 の有無 を知 るこ とはで きな い が 、 一 月 か ら五 月 まで の 間 で虫払 い が行 われ た寺社 はなかった。 六月 に取 り上 げ られ た ものだ けで 二 十 四の寺社 が確認 で き、六月 の行事 として定 着 してい る様子 が うかがえる。 「日不定 」 の項 では、虫払 いの 際 に陳列 され る宝物 の拝観 が許 され ていた こ とがわか る。展 覧会 の先駆 として位 置付 け られ るで あろ う。 また二 十 一 日と二 十 七 日では虫払 いが 隔年 であ る ことが付記 され てい る。曝涼 の頻度 は 、各寺社 に よつて異 な ってい たので あろ う。江戸 の人 々 に とっては 、曝涼 の 時期 に合 わせ て各寺社 の宝物 を見物す る こ とが 、行楽 の一 つ で あ った のか も しれ な い。 江戸時代 の最後 の文献 は 、滝沢馬琴 の 『燕石雑志』。つ (文化 人 (1811)年 )で ある。 書籍 の破 れ轟 た るを修補 に、或 は編粽糊 、或 は生雄糊 をもてすれ ば 、ふ た ゝびその処 よ り 轟 て破 損 は じめに倍す。只海薙 を用ふ べ し。海蒸 にてすれ ば 白魚 生ぜず 。 ○ 白魚 は多 く徽 雨 の 時節 に生ず 。 四月 の は じめに書 を晒 して箱 にお さめ、そ の 隙 をふ たぎて徹 雨 の 中の風 にあて ざれ ば 白魚 な し。又寒 中 に書 を晒せ ば春 轟ず。又暑 中 に書 を晒す によ くそ の冷 るを 侯 て箱 に蔵 め ざれ ば 、却 て 白魚 を生ず。 (修書) 誤 つ て冊子 に油 を沃 ぎか けた るには、 屋 上の漆灰 を取 りて末 とな し、 紙 の裏 よ りふ りか け、 焚斗 て一 宿 を経れ ば 、油悉 く脱 けて述 な し。衣裳 へ 油 をか けた るも、 この方 を用ふ べ し。 屋 上の漆 灰 は風雨 に うたれ て灰汁 なけれ ば、 これ に用ふ るに堪 た り。 …… (除油汚書) 生数 糊」や 「 修補 に 「 海嘉 」 (海藻 を板 状 に干 し、煮 て用 い た もの)を 使用 してい るこ とがみ られ る。 生数 糊 は現在 で も古典籍 の修補 に用い られ る糊 である。海幕 に紙魚 を防 ぐ効果 があ る のか は不 明であ るが、曝涼 の 時期 に よつてその効果 が異 なる ことを記 してい るの は興味深 い。 梅 雨 の湿気対策 として四月 に、あたたか くな る春 に生 じる紙魚 の対策 としては冬 に曝書す るこ とが よ しとされ て い る。 また 、夏 に虫干 しした場合 、 よく冷や さな いで箱 に しま うとか えって 紙魚発 生の原 因 とな るよ うで 、書物 を よく冷やす こ とは 『日本歳 時記よ こもあ つた教 えで ある。 最後 に、明治期 の文献 を確認 してお きた い。文部省編 『図書館 管 理法 全 』。の に曝書 に関す る記事 がある。 『図書館管理法 全 』 第 十 五 書 籍調 査及 ビ曝書 ①在庫 ノ書籍 ハ 時 々調査 ヲ篤 シ少 クモ 毎年 一 回ハ 之 ヲ行 フベ シ ②書籍 ハ 規則通 リノ整頓 ヲ篤 シ第 一 分類第 二 書籍番琥順 二 函架 二 陳列 シアル ヲ以テ調査 ノ方 法 ハ 先 ヅ函架 目録 ヲ讀 ミテ函架 ノ書籍 二封照 スル ニ ア リ是函架 目録 ハ 書籍陳列順 二整頓 又 ハ 記帳 セ ラ レザル ベ カ ラザル 所以 ナ リ (第十 一 函架 目録 ノ部参考) -80- 資料 の伝統 的保存法 ー ー スル時ハ全部 ヲ ③調査 ノ時期ハ 出納 ノ少キ時即事務少 キ時ヲ可 トシ 時ニ 部分 ヅツヲ調査 一 セル時二於 モ 閉鎖 スル ノ必要ナカルベ シ但 シ帝國固書館 ニテハ十月十 月 ノ交空気尤 乾燥 テ 凡一週 セザル者 ニハ 樟 アル者 ハ 特 二 風 二 曝 シ且 平 ヲ鶯 シ和 漢 書 ノ類 ヲ 二 入 レテ 壼魚 ヲ防 グ コ ト ヲ生 ズル フ以テ時 々之 ヲ掃拭 スル コ トトセ リ 一 明治 の 図書館管 理法 の 中の文章 で ある。曝書 に関す る下線部 を要約す る と、十 月十 月 の空 気 が 乾燥 して い る時期 に調査 を行 うこ と、調査 と同時 に曝書 を行 い 、 虫害 の あ る本 は風 にあて 殺轟菊」な どの 防虫斉Jを入れ 、虫害 を 樟脳 」や 「 る こ と、頻繁 に使 用 され る資料 について は、 「 防 ぐ こと、洋書 も徹 が発 生す るため、徹 を拭 き取 る こ とな どが明記 され てい る。 明治期 に入 る ゆ"に よる と、昭和 二十 一 (1951)年 と洋書 の 取 り扱 い に も注意 が払 われ てい る。橋本義彦氏 の正 倉院 の曝涼 では 、防虫斉1に樟脳 、沈香 、 白檀 、丁子 、甘松 を調合 して 白絹 に包 んだ裏衣香 が用 い られてお り、奈 良時代 に調製 した裏衣香 が九包 伝存 して い た ことが記 され てい る。 当時 の哀衣香 も、 伝存す る奈 良時代 の調合 を基準 に して調製 され て い た よ うで ある。明治 に入 る と、 伝統的 に夏 に行 われ て い た曝書 ・曝涼 は 、夕 立 も少 な く、湿度 も気候 も安定す る秋 に行 うもの として定 め られ 、現在 に も引き継 がれ る こ ととな る。 しか し、曝涼 が同時 に宝物 の点検作業 で ある ことは 、『正 倉院御物 出納文書』の記録 で既 に行 われ て い た こ とがわか るよ うに、曝涼 が担 う役割 は千年 以 上 を経 て も変 わ らな いので ある。 おわ りに 一 曝涼 の 時期 は、奈 良朝 か ら平安前 。中期 にかけては、 六月か ら人月 にか けて と 定 して い な か つたが、 中国大陸 では七 夕に際 して行 われ ることも影響 して 、平安後期 の 『江家次第』 に よ 一 り、七月 七 日の行事 とな り、 中世 か ら近世 の 部 にまで引き継 がれ た。 そ のた め、今 回確認 で きた江戸前期 の史料 では 、神社 の行事 では七月七 日、民間 の行事 では六月 の梅 雨明け に行 うも の として の差 が み られた。 これ は伝統行事 として の在 り方 と、現実 に即 した書物 の保存方法 と の差 であ り、江戸後期 にな る と寺社 で も六月 の行事 として定着す るよ うにな る。 さらには、季 節 ごとに発 生す る虫害や徽 害 を考慮 して曝涼 を行 う考 え方 も登場す る。 明治期 にな る と、現在 と同 じく、十 月か ら十 一 月 の天気 が安定 し、 空気 の乾燥す る時期 に曝涼 を行 うこ とが、規範 と され るよ うにな る。 現在 で も行 われて い る曝書 の行事 としては、毎年 七 月 二十 一 日に奈 良県 の 明 日香村 にある向 原寺、愛知県碧 南市 の貞照院 で大 蔵経 の 虫干 し供養 が行 われ てい る。栃木県 の足利 学校 では 、 一 一 九月 中旬 か ら十 二 月上旬 にかけて の湿度 の安定 した時期 を選び、座敷 で和紙 の上 に 冊 冊書 を広 げ、約 千 五 百冊 を曝涼 してい る。 この曝涼 では書物 に風 を通す ほかに、蔵書 の糸切れや 虫 点検 も同時に行 われ て い る。 この曝涼 の行事 は 、江戸 中期以降 に記 され た 『足利学校記 喰 いの ′ 江戸 時代 か ら続 く伝統 の行事 が今 なお続 録』 とい う文献 の 中にたび たび登場す るもので (30)、 い て い る例 であ る。今 回調査 した 「 曝書 ・曝涼」は、書物 ・宝物 の長期利用 ・保存 の観 点 か ら、 持統朝 にはそ の知識 が伝 わ ってお り、 日本人 が いか に して書物 を湿気や 虫害、そ の他 の災害 か ら守 ろ うとして きた のかを理 解 し、後世 に伝 えて ゆ く必要 が あるのではないだ ろ うか。 - 81 - 資料 の伝 統的保 存法 註 (1)吉 り│1忠 夫 2005『 後漢書』 第 9冊 岩 波書店 (2)『晋書』 中 華書局 (3)『周書』 中 華書局 (4)『宋 史』 中 華書局 (5)『歳 時 習俗資料彙編』 3 芸 文 印書館 (6)国 学基本叢書 『斉民要術 』 上 台 湾 商務印書館 ※ 〔〕 内は分注である。 (7)渡 部武 1987『 東洋文庫 467 四 民月令 』 平 凡社 (8)守 屋美 都雄 ほか編 1978『 東洋文庫 324 荊 楚歳 時記』 平 凡社 (9)註 7に 同 じ (10)竹 田晃 2006『 中国古典小説選 3 世 説新語』 明治書院 (11)雀 大林訳注 『 新訳 東 國歳 時記』 (12)小 島憲之校 注 1964『 日本 古典文学大系 69 懐 風藻』 岩 波書店 (13)東 京大学史料編纂 所編 1970『 大 日本古文 書』編年 25(補 遺 2) 東 京大学出版会 (覆刊) (14)川 口久 雄校 注 1966『 日本古典文 学大系 72 菅 家 文章 』 岩 波書店 (15)虎 閑師練 『済北集』古律詩 「 曝書」 (上村観 光編 1973『 五 山文学全集』 1 思 文 閣) 夏暑苦炊蒸。慣 因思移換。課童 教曝書。排布在几案 。 日照 耕打畳。風来作経看。時又 開一 函。 壼魚相逃遭。簡策多穿透 。標軸皆零乱。轟痕字 雖壊。蝕述文還集 。高撃 山川 曲。悟塾 地泳断。 夏姫坐深官。裂 餘羅 畠搭。越巫入古廟。儘残紙銭散。嵯轟何馬者 。生 涯 良可嘆。文字 当饉食。 書篇鶯舎舘。函 中尤 闇黒。生成不鶯難 。函開偉逢 明。煉燿争蔵 竃。几 下及窓隙。身首成 分段。 宛似誦文徒。字句 作味玩。 唯知貪紙墨。義理転 漫痣。或本分宗師。憐慈 烹鍛。 心 目共眩晃 。 辟易生驚愧。不 菅乖大道。却又失故翫。昏迷入 苦輸。長夜何 時且。 (16)黒 板勝美編 1974『 新訂増補 国史大系 延 喜式』 中編 吉 川 弘文館 (17)沓 掛伊 左 吉 1969「 むか しの曝書 といまの曝書J 『 図書館雑誌』63巻 4号 (18)渡 辺直彦校注 1991『 神道大系 朝 儀祭祀編』 4 精 興社 (19)沓 掛伊左 吉 1970「 曝書史稿 ― 書籍保存 の歴 史― 」 二 官 山房 (20)文 停 正 興 ほか編 1969『 明月記』2・3 国 書刊行会 (21)立 川美彦編 1997『 訓読売州府志』 臨 川 書店 (22)北 野天満 宮 ホー ムペ ー ジ (http:/んw.kitanOtenmangu.or.jp/) 但 し宝物 庫 の曝涼 。点検 の掲示 は秋 のみ (2010年現在)。 (23)益 軒会編 1900『 益軒全集』 1 益 軒全集刊行部 (24)註 23に 同 じ (25)原 田伴彦 ほか編 1969『 日本庶民生活史料集成 8 見 間記』 三 一書房 (26)儀礼文化研究所編 1978『 諸国図会 年 中行事大成』 桜 楓社 (27)日本随筆大成編集部 1975『 日本随筆大成』 19 吉 川弘文館 (28)日本図書館協会編 1978『 復刻図書館学古典資料集』 (29)橋本義彦 1995「 正倉院曝涼 の記J 『 日本歴史』560号 (30)足利学校 の曝書 に関 しては、足利学校ホー ムペー ジ (http://wⅧ .ashikagagakko.jp/)。 また 文献に関 しては職員 の方 にご教示 を賜 つた。 (國學院大學大学院博 士課程後期) -82- 巻子本展 示序 論 An introduction to scroll display 河合 奈 々瀬 KAWAI Nanase はじめ に 。 ・ 飛 鳥 ・奈 良時代 の 遺 品 を最 占に 、巻 子本 は書物 の 原 始 的形 態 と して 絵 巻 経 典 古 文書 な ど の 装 訂 に用 い られ 、現在 で も各博 物館 施 設 に数 多 く収蔵 され て い る。 しか しなが らそ の 展 示 法 は美 術館 な どの事 例 をみ て もわか る よ うに、 い ま だ に主 要 とな る場 面 を広 げて見せ て い るだ け の 、非 常 に古典 的 か つ 単純 な も の で あ る。 で は ど うす れ ば本 来巻 子本 に内蔵 され て い るはず の 様 々 な情 報 を、観 覧者 に過 不 足 な く上 手 に伝 達 で き る の か 。 筆 者 はそ の 展 示 法 の 改 善 を試 み て い くつ も りで あ る。 本稿 は この 序 論 と して 、巻 子本 に対 す る基礎 的 な見識 を深 め るた め 、 そ の 定義 ・博 物館 展 示 資料 と して の位 置 。研 究 史 。展示 法 の 実態 な どに つ い て概 説 を述 べ てい くも の で あ る。 1巻 子本 の定義 1-1 巻 子 本 の 起源 日本 文化 に 関す る遺 物 の 多 くが そ うで あ る よ うに、巻 子 本 もまた そ の 起源 は 中国 に求 め る こ とがで き る。 無論 は じめか ら現在 の よ うな装 訂 で あ つた わ けで は な い 。 この 前段 階 と して 普 及 して い た のが 、竹 簡 。木 簡 で あ る。 竹簡 。木簡 とは、細長 い 木や竹 の札 に文字 を書 き、 これ を麻 糸またはなめ し皮 で東 ねて 一 編 ず つ ま とめた 、書物 の始祖 とも呼 べ る装訂 の こ とで ある。現存す る竹簡 は 中国 の戦国時代 か ら の もので 、湖 南省 ・湖北省 。河南省 な どの楚墓 か ら多 く出上 してい るが、内容 は遣策 と呼ばれ る副葬 品 の 品名 を記 した もので あ る。 一 方 日本 では現在 まで竹簡 が 出土 され た とい う報告 はな い。 また木簡 は中国では公 文書や私文書及 び地図 を含 む絵 画 な どの出上品が多 く、先述 した遺 策や書翰 の封 印 をす るため の検 、つ け札 の掲 (けつ )。証 明書 の繁 (けい )。割符 の符 な ど、使 用 目的や形態 に よつて名称 がつ け られ てい る。 こち らは 日本 で も正倉院 に伝来 した整理用 付 け 札や文書木簡 が現存す るほか、平城京 の 古代都城址や地方官衛跡 な どか ら多数 の本簡 が 出土 し てい る。 内容 は文 書や記録 的な もの租税 の貢進付 け札 な どに大別 され るが、 ほか に も習字 とし て 書 かれ た 「 千字文Jや 詩歌 の落書及び使用済み の木簡 の 削 り屑 が 出土 してい る。 しか し、 これ らは読み継 いで ゆ く うちに簡 の角 がす り切れ バ ラバ ラにな り、簡 が抜 ける断簡 や順序 が狂 つ た錯簡 になって しま う恐れ が ある上 に、非常 にか さば つ た。 そ こで 次 に普及 した のが 、か さば らず持 ち運 びの しや す い 畠書 である。畠書 とは絹布 に書 かれ た 書物 の こ とを指 し、 そ もそ も巻 子本 は この装 訂 と して用 い られた のが起源 であ る。(1)なお現在最 占の 畠書 もまた戦 -83- 巻子本展示序論 国時代 、湖南省 の楚墓 か ら出土 した もので 、「 楚絹書 (そそ うしょ)」または 「 絹書 (そ うしょ)」 と呼ばれ る、楚 の祖先神 を絵画 と文字 で描 い た もので ある。 そ のつ く り方 は書 き終わ っ た絹布 を断 ち切 り、心 に ぐる ぐる と巻 きつ け る とい う単純 な もの だ っ たが 、 これ な らば長短 を融通 で き便利 で あ っ た。 しか し畠書 は竹簡 。木簡 とは異 な り文字 の訂 正 がで きな い 上 に 、高価 であ る とい う欠 点があ った。 そ こで登場 したのが紙 に よる巻 子本 である。 紙 は畠書 とは異な り長短 の融通 が利 かず、巻子本 装訂 にす る際は何 枚 も継 ぎ合 わせ なけれ ば な らなか ったが 、 後漢 の葵侯紙 の登場以後 、次第 に串書 に代 わ って広 く使用 され るよ うにな る。 現存す る巻子本 もほ とん どは紙 を用 い た もので 、我 が 国最 古 の典籍 で ある聖徳太子 の 「 法華義 疏」 もまた紙本 であ る。 この よ うに巻子本 は紙 の 時代 に入 つた書物 の装訂 なかでは 、 もつ とも 古 い形態 を有す るもので あ り、 とくに現存す る飛鳥 。奈 良時代 の典籍 ・記録 。文書 は全 て この 装訂 で ある。(2)では具体 的に どの よ うな装訂 で もつて 、巻子本 は巻子本 と呼ばれ ていたか 、次 節 では これ につい てふれ て い きた い。 1-2 巻 子本 の装訂 前節 でふれ た よ うに、巻子本 とは要す るに絹や紙 を軸 に巻 きつ けた書物 の ことで ある。 当初 末尾 に取 りつ け られ た軸 は細 い竹や木 に過 ぎなか っ たが 、後 に紫檀 ・黒檀や漆 を塗 った塗 り軸 。 模様 を描 い た画軸 、 さらには蒔絵 を施 した蒔絵軸 。金属 に彫刻 した彫刻軸 な ど、実 に様 々 な材 料 を用 い た ものがつ くられ るよ うになつた。形態 は銀杏型 。撥型 。丸型 。四角型 ・六 角型 。人 角型 な どがあ り、 日本 では長 さを調節 で きる レデ ィ メイ ドの合 わせ軸 とい うもの までつ くられ た。 巻子本 を広 げたは じめの何 も描 かれ ていない余 自の部分 は標 と呼ばれ 、本文 の保護 の た めに この部分 には厚紙 ・絹布 を使 用 した。 この標 は後世 の表紙 の起源 であ る とされ 、 日本 では標 の 端 にお さえ竹 と呼ばれ る細長 い竹片 を巻 きつ けた ものが 多 い。(3)標端 の外側 には書名 が記 され てお り、それ は今 日の本 の よ うに直接外題 を書 い た場合 もあれ ば、わ ざわ ざ小型 の紙や布 へ 書 名 を書 いて貼 り付 けた題 察 の場合 もあ つた。 また高 い棚 の上 に並 べ る 。積 み重ね て置 くな どの 場合 は、製條 (察條)と 呼ばれ る竹や象牙 でつ くられ た札 がつ け られ 、書名 がわか るよ うにな ってい た。 なお、先述 した よ うに長短 を融通で きる畠書 とは異 な り、紙 の場合 は料紙 を糊 で何枚 も継 ぎ 合 わせ てつ くられ る関係 上 、年 月が経 つ と糊 が老化 してバ ラバ ラにはがれ て しま うこ とがあ っ た。 そ こで 、継 ぎ 目に印 を捺 した り、花押 を書 いた り、書名 した りす るこ とで 、 い ざ継 ぎ 目が はがれ た ときに正 しく継 ぎ合 わせ られ るよ うに され ていた。 これ を印が捺 された もの を印縫 、 書名 され た もの を款縫 と呼んだ。 1-3 巻 子本 の短所 この よ うに巻 子本 はか さば らないで持 ち運びが容易 な上 に、軸 に料紙 を巻 き込み標 で全 体 を 包む こ とか ら、本 文面が空気 にふれず保存上最 も有効 な装訂 となって い る。 しか しその反面 、 途 中や巻末 を見 た い ときもわ ざわ ざ始 めか ら広 げて いか なけれ ばな らない上 に、見終 わ つた後 -84- 巻子本展示序論 も丁寧 に巻 き戻 さなけれ ば巻 き癖 が悪 くな り、本 自体 が痛 んで しま う恐れ がある。 また裏表 両 側 を使 うことがで きな い とい う欠点 もある。 そ こで新 た に登場 して きた のが折本 (帖装本)と 呼ばれ る装訂 で 、 これ は要す るに巻子本 を 折 り畳 んだ形態 であ る。巻子本 か ら軸 を取 り外 し、料紙 を本文 の行数 に して四行 また は五行幅 ご とに折 り畳み、最初 と最後 にやや厚手 の紙 で表紙 を取 りつ けた もので 、閲覧 ・検索 には便利 な上 に開 いた状態 も安定 していて 、長 さが 自由に調節 で き る とい う利 点 があ る。 これ には類似 の装訂 として、経摺装 。旋風葉 。画帖仕 立 (折帖)と い うもの も存在 し、 主 に仏教経典類 な ど に用 い られ た。中国 で本格 的に普及す るよ うにな つた の は、11世 紀初頭 の北宋 時代か らであ り、 宋版 一切経 の版本類 の装訂 として活用 された。 この経典 は平安 時代後期以降 日本 に も数 多 く輸 入 され たが、平安 ・鎌倉時代 の古写本 ・古版本 で この折本装訂 が積極 的 に用 い られた形跡 はあ ま りな く、む しろ鎌倉 時代後期 ∼ 南北朝 。室町時代前期 にか け、奈 良 ・平安時代 の古写本 とく に古写経 の修理す る際に、披見 の便 を計 って巻子本 か ら折本 に改 装 した とい う例 が あ る との こ とで ある。(4) 1-4 巻 子本 の特質 以 上の よ うに巻子本 は次第 に折本 に取 つて代 わ られ、折本 は さらに冊子形式 の粘葉装 に、粘 葉装 は糸で綴 る列 帖装 へ と発展 し、そ の後 もい くつ かの変遷 を経 て 、現在我 々 が使用す る書物 に近 い形態 とな ってい くので ある。 しか しそれ で も この装訂 が 日本 文化 か ら完全 に消 え去 るこ とはなか つた。む しろ書物 の原始的形態 として 、権威 的 ・ 神秘的 とい うイ メー ジが付与 され 、(5) 古 特定 の地位 を 占め るよ うにな って くる。例 えば 、金沢文庫本 として有名 な出光美術館 の漢籍 「 文孝経」は、巻末 に寛元 五年 (1247)づ けの清原教盛 の伝授 奥書 と、嘉元 二年 (1304)づ けの 金沢 貞顕 の校合奥書 の あ る巻子物装訂 だが 、 これ は いか に も 「 古文孝経Jを 家学 とした清原家 の証本 らしい 姿 を してい る との こ とであ る。 また これ に対 し、建久 六年 (1195)づ け の 書写奥 古文孝経Jは 粘葉装訂 で 、 これ もま 書 の あ る、現存最古本 として有名 な愛知県は猿投神社 の 「 た いか に も書写者 が 自分 の勉強 のた めに書写 した手控 え本 の 姿 を してい る との こ とで ある。(6) この よ うに巻 子本 とは 、「自ず か ら特定 の 目的を持 つて書写 された本Jに 用 い られ る装 訂 の こ と で あ り、書物 は この装訂 に され るこ とで 「 古典的 で格式 が 高 い雰 囲気 を持 つ 」 こ とができたの で ある。 2博 物館資料 としての巻子本 2-1 博 物館 展示資料 に必要 とされ る要素 数 あ る書物 の装訂 の なかで も、特定 の地位 を占めて い る巻子本 だが 、 では博物館 資料 、 とく に展示 のための 資料 としてみた場合 、そ こには どの よ うな要素 が介在 してい るの だ ろ うか。『新 4目 的別資料 の種類Jに 版博物館学講座 5 博 物館学資料論』 の 「Ⅱ博物館 資料 の分類」 の 「 お いて 、青木豊 は 博物館展示資料 に必要 とされ る要 素 を次 の よ うに述 べ て い る。 博物館展示 は前述 してい るご とく広 義 の展示 の 一形態で あ り、それ ゆ えに博物館展示資 料 とい え ども見世物 としての要 素 を多分 に必要 とされ るので あ るこ とを忘れ てはな らない。 -85- 巻子本展示序論 つ ま り、学術情報 の 内蔵 とその伝達 は 、博物館展示 であるが ゆえに当然置 き去 りにで きな い基本要 素 であるが 、人 を魅 了す る広 義 の展示 とした場合 、 さらな る展示要 素 が加 味 され なけれ ばな らな いの である。す なわ ち、それ は見 世物 とい う展示 が 専有す る ともい える要 素 であ り、それ はまた博物館展示 であろ うとも保存 しなけれ ばな らな い 、広 義 の展示 に含 まれ るす べ ての種類 の展示 に共通 す る基本要 件 な ので ある。(7) つ ま り博物 館展示資料 は、学術 的情報 の 内蔵 とそ こか らできる伝達 を期待す る と同時に 、「 人 間 の種 々 の感性 を刺激 し、 かつ 希求 され る要素が必 要」 とされ てい るので ある。 この よ うに博 物館 資料 に人 を魅 了す る要素 を求 めた とき、巻子本 もまた多分 にその要素 を含 んだ 資料 であ る と考 え られ る。 それ は この主 張 を軸 に青木 が挙 げて い る、博物館展示資料 に介在す る人 らの要 素 の うち、 三つ の項 目に巻子本 が該 当す るこ とか らもわか る。 青木 は博物 館展示資料 に介在す る要素 として 1.珍奇姓 ・稀少性 を有す る資 料 2.金銭 的欲望 を刺激す る資料 3.残虐 さ ・卑猥 さで人 間 の ある種 の感性 を刺激す る資料 4.美的 で鑑 賞 の対象 とな る資料 5.臨場感 に富む資 料 6.楽しみ なが ら理 解度 が深 め られ る資料 7.知的欲求 を満 たす 資料 8.代替 二 次資料 (8) とい う人 つ の項 目を挙 げ、それ ぞれ につい ての解説 を してい る。 この うち巻子本 は 1・ 4・ 6 に該 当す る と考 え られ 、 これ らの要素 につい ての解説 文 と実 際 の巻子本展示 の事例 を照合す る と、博物館展示資料 としての巻子 物 に観 覧者 が希求 してい るこ とが明 らか にな る。 奇姓 。稀少性 を有す る資 料 一 般 的に世 の 常 として付加 価値 で あ まず 、1.珍奇姓 ・稀少性 を有す る資料 につい て青木 は、 「 る経 済価値 が必 ず発 生 し、珍奇性 。稀少性 が 高 けれ ば高 いほ ど経済価値 もそれ に比例 し高ま る 2-2 珍 こ とは必定で ある。」(9)と し、 この要素 が 2.金銭 的欲望 を刺激す る資料 としての要素 も多分 に 含 み なが ら、両要素 が相 ま って人寄せ 効果 を有す る展示 の ため の資料 にな る場合 が 多 い と述 ベ て い る。 さらに青木 は この うち とくに稀少性 につい ての例 として 、 「 重要文 化財 」 と 国 宝 」。「 い う等級 づ けが学術価値 とは別途 の価値 として 、見学者 の注意 を喚起す る と述 べ てい る。 この 点 に関 して巻子 本 は 、末尾 の一 覧表 1東 京 国 立博物館所蔵 の 、① 「白氏詩巻J(国 宝 )や ② 「 土 蛛1蛛草紙絵巻」 (重要文化財)の よ うに、複数 の 国 宝 。重要文化財 の登録 を受 けて い る。 とくに 国宝 は特別展 の 目玉 として大 々的な宣伝 がな され 、 ま さに人寄せ効果 となって博物館 の集 客 に多大 な貢献 を して くれ る。例 えば平成 十 九年 (2007)に 東京 ミッ ドタ ウン に移転 開館 したサ ン トリー 美術館 は、 「 開館 記念特別展 鳥 獣戯 画 がや つて きた !一 国 宝 『鳥獣人物戯 画 絵巻』 の全貌」 (11月 3日 ∼12月 16日 )と い う展覧会を開催 したが、 この ときの一 日の平均 )こ 入場者数は約 3500人 で、結局会期全体では約 13万 3000人 にまで達 したそ うである。(1° -86- 巻子本展示序論 重要文化財 」 とい う名称 が持 つ 稀少性 に よつて 、 国 宝 」。「 の よ うに国宝 ・重要文化財 作 品は、「 人 々 を強 く引きつ け、 ときには度 が過 ぎるほ どの集 客 を生み出 して くれ るが、そ の なかで も巻 子本 は美麗 な絵巻類 の登録 が 多 い 分 、 とくにそ の傾 向が強い と考 え られ る。 2-3 美 的で鑑 賞 の対象 とな る資料 4.美的で鑑 賞 の対象 とな る資料 につい ては 、美術資料 に代表 され るよ うな鑑 賞 を 目的 として ・ 制 作 され た ものの み な らず 、伝 世 品や復 元 また は賠葉標本 封入標本 の展示 を加 えるこ とで 、 (11)も つ と 美 しさを演 出 した歴 史資料や民具資料 。自然系資料 も含 まれ る と述 べ られ てい る。 も巻子本 の場合 は彩色 の鮮や かな絵巻類や 、料紙や表紙 ・巻 き軸が凝 つた経典類 な ど、見た 目 に華や かな装訂 な され て い るものが多 い ことか ら、ほぼ単純 に鑑 賞 目的 の美術資料 として これ に該 当す る と考 え られ る。 一 華厳経 巻 四十六 (二月堂焼経)」 例 えば末尾 の 覧表 に もあ る、13根 津美術館所蔵 の② 「 は、焼損 とい う悲劇 に遭 い なが らも、紺紙 に銀泥 で 書写 された経文 が大 変美 しく、 どち らか と い えば地味なイ メー ジの 強 い経典類 に しては 、多 くの観 覧者 が立 ち止 ま りじつ と注視 していた。 この よ うに巻子本 は美術 資料 とまでは いかず とも、丁寧 なつ く りで大勢 の人 々 を魅 了す る作 品 が多 い。 そ もそ も この装訂 自体 が 、前章 でふれ た よ うに特定 の 目的 を持 つた ときに用 い られ る もので あ り、粘葉装訂 の よ うに一 個 人 の 手控 え本 ではな く、大勢 の人 々 に見て受 け継 いで も ら うこ とを前提 として い るのだか ら、鑑 賞 目的 の作 品 が多 いの はある意 味 こ と当た り前 の こ とな ので ある。 いずれ に して も美術館 な どに展示 されて い る巻子本 は、概 ね この 4.美的で鑑 賞 の対 象 とな る資料 に該 当す るもの と考 え られ 、それ らは数 あ る巻子本資料 の なかで もい わば花形 と 言 つていいのだ ろ う。 2-4 楽 しみ なが ら理解度 が深 め られ る資料 6.楽しみ なが ら理 解度 が深 め られ る資料 につい ては 、「 見 るこ とに よ り発 生 す る楽 しみ と、展 示 に参加 す るこ とで発 生す る楽 しみ の 両者 が存在す るJと 述 べ られ (12)、パ ノラマ 。ジオ ラマ な ど見 ることに よ り楽 しめ 、 さらに理 解 が深 め られ る資料 を挙 げ られ たほか、参加型展示 にお け る楽 しみ につい て詳 しく解説 され てい る。 そ の なかで も知的参加型展示 の種類 と して挙 げ ら れ る、 クイ ズ形式展示や ミュー ジア ム ・ワー クシー トの活用 は、 とくに絵巻 類 な どの巻子本 資 料展示 にみ られ る手法であ り、 これ に よつて子 どもの観 覧者 が楽 しく展示 に参加 して い る姿 も 実際に見た こ とがある。 それ は末尾 の一 覧表 8名 古屋 市 立博物館 の② 「 享元絵巻」 の複製展示 の ことで 、 この絵巻 が 展示 され ていた ウォール ケー ス前 の 台座 には、ボ ラ ンテ ィアが手ず か ら制作 した 「さが してみ よ う享元絵巻Jと い う、 主 に子 どもの観 覧者 向けの フ ァイル が用意 され ていた。 なかには絵巻 に描 かれ てい るた くさん の人物 た ち の うち、何人 かが拡大印刷 され た用紙 が数枚挟 み込 まれ て お り、子 どもたちは この フ ァイル と絵巻 を交互 に見比 べ なが ら、実際そ の人物 た ちが画 中の何 処 に描 かれ てい るのか を探す とい うクイ ズ形式 の展示法で ある。 絵巻類 はそ の色鮮や かな彩色や物語性 か ら、数 ある巻子本 資料 の なかで もとくに視覚効果 が -87- 巻子本展示序論 期待 で き るた め 、実物 だ けでな く複製や 印刷 か らで も、多大 な情報 を伝 達す るこ とがで きる。 そ うい った意 味では、楽 しみなが ら理 解度 が深 め られ る資料 の最 た る例 とい えるのでは な い だ ろ うか。 この よ うに巻子本 は どの博物館展示資料 よ りも、人 を魅 了す る要 素 を含 んでい る。 とくに絵 巻類 は国宝 指定 な どによって稀少性 が付加 され るこ とで 、大勢 の人 々 の注意 を喚起 して くれ る だ けでな く、 これ が有す る物語性 は 、誰 もが楽 しみ なが ら理 解 を深 め る展示法 を可能 に して く れ る。 つ ま り絵巻類 はその美麗 さか ら単体展示 として も通用す る一方 、描 かれ た ヒ ト ・モ ノあ るい は物語 と関連 したほかの展示物 との組 み合 わせ も可能 であ る とい う、非常 に融通 の利 く資 料 な ので あ る。 そ して この絵巻類 の利 ′ 点に関 しては 、学芸員 をは じめ とす る博物館 関係者 も評価 してい るよ うで ある。 なぜ な らば巻子 本 の展示 につい て言及 した論文 はあま り多 くはな いが 、それ らの論 文 の なかで も主軸 となってい るの は 、絵巻類 をい かに効果 的 に展示す るか とい う問題 だか らで あ る。 では 、具体的に どの よ うな こ とが論 じられ て きた のか。 次章 で辿 つてみ ることにす る。 3.巻 子本展示の先行研究 3-1 秋 山光夫 の絵巻展示論 管見 のか ぎ り、現在巻子本 とくに絵巻類 の展示 につい て言及 した論 文 は、秋 山光夫 の 「 絵巻 陳列箱 の考察J(13)が 晴矢 である と思 われ る。秋 山光夫 は東京 国 立博物館 がまだ 帝室博物館 と 称 していた 頃 の美術課 の鑑 査 官 (学芸員)で あ り、昭和 17∼20(1942∼ 45)年 には同館 の学 芸課長 も歴任 した人物 であ る。著書 に 『日本美術論孜 』 (1943年 /第一書房)が あ るこ とか らも わか るよ うに、 とくに専門 と したのは 日本美術 であ り、そ の 関係 か らか今 回取 り挙 げ るよ うな 論文 も記 した よ うで ある。彼 は この論文 の なかで絵巻 の鑑 賞 の仕方 につい て 、 実際、絵巻 の興 味は展舒す るに従 い 、事件 が発展 し、 い ろい ろの場面 が展 開す るにあ る ので ある。 そ の興味は恰 も現代 に於 ける活動写真 と似 た ところがある。 され ば、始 めか ら 終 りまで開 いて置 いて 眺 めたのでは観 賞 の楽 しみ は余程減ず るので あ る。然 し博物館等 に 於 いて絵巻 を公衆 の観 賞 に供 す る場合 に 、一 々観 覧者 に巻 きなが ら見せ る と云 うこ とは事 実不可能 である。 と述 べ 、そ の ため安全 な陳列箱 に展示す る ときは 、観 覧者 が満足す るよ う、な るべ く多 くの 場面 を広 げて見せ るべ きで ある と述 べ てい る。秋 山の この主 張は非常 に正 鵠 を得 た もので あ り、 絵巻類展示 は現在 で もなお彼 の述 べ た よ うな問題 を抱 えてい る。 つ ま り本来絵巻 は床 に座 り込 み広 げて巻 くとい う動作 を繰 り返 しなが ら鑑 賞す るもので あ って 、現在 の ケー スいっ ぱ い に大 き く広 げた ところを上か ら覗 き込 んで も ら うとい う鑑賞法 では 、秋 山 の述 べ る 「 活動写真 と似 た 」機 能 が発揮 しきれ てお らず 、充分 に鑑 賞 を楽 しんだ こ とにはな らな い とい うこ とで あ る。 しか しなが ら秋 山 も ここで述 べ て い るよ うに、 よもや実際 に広 げて巻 くとい う鑑 賞法 な どさ せ られ るはず もな いので 、結局 な るべ く多 くの場面 を広 げて陳列箱 に展示す る しかないのだが 、 この 陳列箱 とくに ロー ケ ー ス (論文 中は 「 の ぞ きJと 呼ばれ てい る)展 示 につい て も秋 山は実 に的確 な意見 を述 べ てい る。 -88- 巻子本展示序論 の ぞ きJ内 に於 いて 、絵巻 は殆 ん ど平面的 に展 げ られ てい るので 、観 覧者 は上 か この 「 ら見 下 し、適 宜 の位 置 に於 いて 、随意 の距離 に眼 を置 いて観 賞 し得 るので 、誠 に便利 で あ る。 それ のみ な らず 、 この方法 は絵巻本 来 の観 賞法 に近 いためか 、落 ちつい た気 分 で 見 ら れ る。 また絵巻 自体 のために は、箱 の底部 に僅 かの傾斜 が あるのみ の所 へ 殆 ど平面的 に展 べ られ て い るであ るか ら、最 も安全 であ る。而 して絵巻 自身楽 に体 を休 めて い るので あ る か ら、保存 上に もよく、従 つて絵巻 に狂 いが来 る心配 もな い。 ここでは ロー ケー ス展示 にお ける、観 覧者 と絵巻 自身 の利 点 がそれ ぞれ述 べ られ、 ロー ケ ー ス が絵 巻 を展示す る上で最 も適 当であ る理 由が説 明 され て い る。 しか し続 けて秋 山は この ロー ケー ス展示 にお ける欠点 に もふれ てい る。 の ぞ き式陳列箱Jの 絵巻 を見て行 く場合 、観 覧者 の姿勢 は 自然前屈み にな ってい この 「 る。 この前屈み にな る ことは平素 の習慣 で 、 日本人 には大 した疲 労 の原 因に もな らない と の ぞ きJは 可な り苦痛 であ り、 思われ るが、直 立 的姿勢 を常態 とす る欧米人 に とつて は 「 「 の ぞ きJを 観 る骨折 りが原 因だ と云 つてい る 博物館 に於 いて覚 える疲 労」 の 大部分 は 「 くらいで ある。 の ぞ き式陳列箱 Jつ ま リロー ケー ス展 この意見 も大 い に共感 し得 るもので あるが、 しか し 「 示 が欧米人 の み に とつて 苦痛 の対象 で ある とい う考 えには い ささか賛 同 しかね る。 なぜ な らば い まや欧米人でな くとも、我 々 日本人 も長 時間 ロー ケー ス展示 ばか り見続 けて いて は、や は り 結構 な疲 労感 を感 じることが多 いか らである。 とくに現代 の 日本人 は床 に座 る習慣 もほぼな く な った上 に、平均身長 が伸びた こ とで 、少 な くとも この論文 が記 され た とき よ りは、 日線 が 高 くな つてい るはず である。従 つて 欧米人 は どではないか も しれ な いが 、現代 の 日本人 も ロー ケ ー ス展示 を鑑 賞す れ ばそれ な りの疲 労感 は感 じて い るので あ り、秋 山が指摘 した 問題 はなお の こ と検討 され るべ き問題 とな つてい る と考 え られ る。 3-2 近 年 の先行研 究 ニ ュー ヨー クにお け る絵巻物展J(14)、②坂根厳 夫 そ のほか 近年 の論文 には 、①渡 辺 明義 「 「 電子絵本 か ら電子絵巻物 まで 文 化遺産 のデ ジタル 化 」(15)、③林延哉 「 本版刷 り絵巻物 の デ ジタル 化 につい て 一 「 複製 メデ ィアで 見 る絵巻物展Jに 際 しての試 み ―」(16)な どが確 認 で きて い る。 いずれ も とくに絵巻 類 の展示活用 に主軸 をお い た もので あ り、や は り現在巻子本資 料 の なかでは絵巻類 が情報媒体 として最 も注 目を集 めてい るよ うで ある。 ① の論文 は文 化庁 の海外文化 交流事業 のひ とつ として 、 アジア ・ソサ ェ テ イ との共 同主催 で 実施 され た 、 ニ ュー ヨー クでの絵巻物展 の活動報告 で 、文化庁 主任 文化財調査官 の渡辺 明義 が 記 した もので あ る。 この なかで渡辺 は前章 の秋 山の論文 で も述 べ られ ていたのぞ きケ ー ス につ い て 、展示す る角度 が急傾 斜 にな るものの 、 わ ざわ ざ欧米人 向けに位 置 を高 くした もの を新造 した と述 べ て い る。 また 3.8mの 大 ケ ー ス が 9台 と小 ケー ス が 4台 であつたが 、 出品作 品 の 主 要 な場面はほぼ示す こ とがで きた 上 に 、絵巻物 ごとに、全 体 の解説 と示 され た場面 の説 明 をつ けた ことが好評 だ っ た とも述 べ てい る。 そ して展 覧会 が大 きな成功 を得 た と評 価す る一 方 、絵 巻物 の持 つ 内容 の全 体 を総合 的 に娯 しみ 、味わ うの は決 して容 易 ではない と し、展覧会 の評価 -89- 巻子本展示序論 は 多層構造 として 見なけれ ばな らない と主張 してい る。 ② の論文 は本 のデ ジタル 化 現象 へ の賛否 両論 に対 し、む しろ 「 デ ジタル 本 」 は相互 本」 と 「 ・ ハ ヘ に影 響 し合 って 、新 しい イブ リッ ト メデ ィア と進 化 してい く可能性 がある と述 べ られ て い る。 そ して現代 のデ ジタル 化技術 が文 化遺産 のす ば らしい 内容 と雰 囲気 を再生 し、遺産 の保 存 を図 る と同時 に、現代人 が読解 で きな くな って しまった もの を、現代人 の意識や感 覚 に読み 替 え 。読み直す 、現代的復元 メデ ィアに もな る可能性 がある と主張 してい る。 また これ に よっ て原典 に忠実 な展示 を うたっていた 、博物館や美術館 の 文化財 。文化遺産 の展示 を、現代人 の 視 点か ら再発 見 した知 恵や感動 に溢れ る印象 に読み 替 え、音やイ メー ジ ・様 々 なイ ン ター フェ イ ス に よつて 追体験 で きる、電子 メデ ィア作 品 として蘇 え らせ ては ど うだ ろ うと提案 を してい る。 ③ の論文では、 1997年 茨城 大学付属 図書館 において 開催 され た 、 「 複製 メデ ィアで 見 る絵巻 物展」で試みた、本版刷 りの絵巻物 のデ ジタル 化 につい ての報告 であ る。林 は収 蔵 品 をデ ジタ ル 化す る意義 として 、破損 ・ 磨耗 に配慮 し閲覧 。 展示 が制 限 され るよ うな収蔵 品 の代替 として 、 で きるか ぎ り多 くの人 々 にオ ー プ ンにす る一 方法 にな るだ けでな く、ネ ッ トワー クを通 じて 場 所や 時間に制 限 されず 閲覧 が 可能 にな り、利用可能 な人 々の範 囲 を広 げる こ とがで きる と述 ベ てい る。 またデ ジタル デ ー タがオ リジナル 作 品 の完全 な代替 にはな らない としなが らも、オ リ ジナル 作 品で は不可能 な こと、例 えば経年変化 に よるひび割れ 。退色 ・変色 を補正 して描画 当 時 の状態 に絵 を復元す るな どが、デ ジタル デ ー タに対 しては行 うこ とがで きる と述 べ てい る。 以 上の よ うに、近年 の論文 では絵巻類 を介 しての海外交流や 、現代 テ クノ ロジー を活用 した 新 しい絵巻類 の表現方法 な どが論 じられ てい る。 また青木豊 も実物資料 を展示 した傍 らに、そ の資料 全体 を収録 した ロー タ リー ビジ ョン を設置す る こ とで、見学者 が 自分 の意思で 当該絵巻 の全 て見 られ るよ うにす る必要性 を説 いて お り (17)、 今後 ます ます この方面で の絵巻類 の展示 表現 は、増加 してい くだ ろ うとい うことが予想 され る。 しか しなが らや は り依然 として 、巻子本展示 は② の論文 で述 べ られ て い るよ うに、原典 に忠 実な展示 が 中心であ り、そ の なかで も展示法 はまた い くつ かの傾 向にわ かれ てい る と考 え られ る。 だが これ まで博物館展 示論 の なかで、巻子本 の展示法 を個別 的に論 じ、体系化 した研 究 は 一 み られ な い。 そ こで 次章 では見学調査 した博物館施設 につい て 、 覧表 に した もの を参照 しな が ら、 どの よ うな展示法 の傾 向 があるのかを考察 してい くこ ととした い。 4巻 子本展示の実態調査 4-1 調 査方法 と分類 今 回調査 した博物館施設 は、 国 立 2館 。都 立/県 立 3館 。公設民営 1館 ・市 立 5館 。私 立 3 館 ・私 立大 2館 の計 16館 であ る。 主 に私立系 の施設 な どで企画展 が メイ ンの ところもあるた め、企画展 の 資料 も含 む ことに したが 、そ の博物館 の設 立 目的 ・理念 が よ り反映 され て い るの は 、や は り恒常性 の ある常設展示 であ る と考 えたため 、原則 は常設展 の資料 を調査対象 とした。 なお、基本 的 にそ の博物館 にある全 ての巻子 本 を記載す るよ う努 めたが 、規模 の大 きい施設 は多 い ところで十数巻 の資料 を展示 してい る場合 もあ つ たため、僣越 なが らそ の場合 は とくに -90- 巻子本展示序論 特徴的 だ と思 われ た資料や 、 工夫 され た展示演 出 がな され ていた資料 の み を取 り挙 げ る ことと した、 ご寛恕 いただきたい。 。 調査 内容 は、巻子本 の名称 とそ の 内容 の概 略 には じま り ( これ らは題箋 キ ャプ シ ヨンを参 ・ 。 ・ ー ー 考 に した) 、資料 が展示 され ていた エ リア コ ナ の展示 内容や 、題 箋 キャプシ ョン 解 説 パ ネ ル な どの解説手 段 の充実 ぶ りと左右動線 の 向き、そ して とくに特徴 的な展示技法 な どを 一 備考 として書 き とめる とい うもので あ る。 また これ に加 え末尾 の 覧表 には、そ の博物館 の設 立年 ・運営主体 ・設 立 目的 と理念 も付記 し、 そ の巻子本資料 が いか な る意 図 か ら展示 され た も ので あるのか を分析す る参考 とした。 まだまだ調査件数 は少 ないが 、暫定的 な展示傾 向を把握 一 で きる程度 にはな った と思 われ る。 そ こで作成 した末尾 の 覧表 か ら、巻子本展示 は下記 の表 の よ うな分類 で もつて 、体 系化 で きる と考察 した。 分類表 分類名 該 当資料 巻子本提示型展示 10/34巻 巻 子 本 説 示型 展 示 23/34巻 分類 基 準 資料 の 基本 的性 格 に よ る分類 資料 の 組 み合 わせ に よる分類 配 置 場所 に よ る分類 実物 か 複 製 か に よる分類 4-2 資 巻 子本 単体 展 示 11/34巻 巻 子 本組 み合 わせ 展 示 巻子本 ウォ ー ル ケ ー ス 展示 12/34巻 巻 子本 ロー ケ ー ス 展 示 14/34巻 巻子本 実物 展 示 14/34巻 巻 子本 複 製 展 示 20/34巻 15/34巻 料 の基本 的性格 に よる分類 まず資料 の基本 的性格 に よる分類 とは、『新版博物館学講 座 9 博 物館展示法』の 「Ⅱ展示 の 2分 類 と形態 一展示論史的考察Jに お いて 、 分類 と形態」 の 「 美術 ・工芸資料 は、制作 目的が第 二者 に見せ る点 に重点が 置 かれ た資料 であ る ところか ら、 自ず と展示要素 を内蔵 してい るものである ゆ えに 、 自らが展示物 な ので ある。 したが って 、美術 ・工芸資料 は一 般 的 には提示型展示 が好 ま しく、他 の学術資料 は該 当資料 が内 (18) 蔵す る学術情報 を見学者 に伝 達す る説示型展示 が不可避 とな るので あ る。 と述 べ られ て い るよ うに、美術 。工 芸資料 として扱 われ てい るか否 か に よる分類 法 で あ る。 ここで述 べ る美術 ・工 芸資料 とは 、要す るに 2-3で ふれ た よ うな美 的 で鑑 賞 の対象 とな る資 一 料 の こ とであ り、末尾 の 覧表 では 12大 倉集 古館や 13根 津美術館 な ど、主 に私立系 の美術館 の 資料 全 体 が これ に該 当す る と考 え られ る。 一 方学術情報 を伝達す る説示型展示 の例 としては、2国 立歴 史民俗博物館 の③ 「 琉球人登城 ・ 。 ・ 之行列 図」で行 われて いた題 箋 キ ャプ シ ョン パ ネ ル 機械端末 を駆使 した展示や 、4神 奈 五 川 県 立歴 史博物館 ・6江 戸東京博物館 。9四 日市市 立博物館 な ど、複数 の施設 でみ られ た 「 街道分 間延絵 図」 を活用 した宿場 につい ての展示 が挙 げ られ るで あろ う。 こち らは博物館 とく に歴 史展示 を してい る施設 に事例 が 多 く、そ の説示 の展示法 も解説手段 に よつて大 まか にまた -91- 巻 子本展示序論 い くつ か の 段 階 に 分 け られ る。 まず最 も詳細 な展示 法 としては 、先述 した 国 立歴 史民俗博物 館 の題 箋 。キ ャプシ ョン ・パ ネ ル ・機械端末 を駆使 した展示 が挙 げ られ る。 これ に続 くのが機械端末 を減 らした 、題箋 。キ ャ プ シ ョン ・パ ネル を使 つた展示法 で 、パ ネ ル は ときに写真 。絵 ・地図な どが記載 され てい る場 合 もあ る。 そ して最後 が題 箋 とキ ャ プ シ ョンに よる展示 で 、 こ ち らは さらに簡 略化 され る と、 題箋 に解説 も一 緒 に明記 され、 キ ャプシ ョンが省 かれ る場合 もある。 なおそ の場合末尾 の一 覧 表 の方 は 、題 箋 (作品解説 も明記)と 記載す るよ うに した。 当然 なが らこれ らの展示法 の なかで 、最 も観 覧者 の感性 に訴 えて くるのは 、や は り機械端末 を導入 した展示法 であ り、 これ に よる映像展示 は前章で紹介 した坂 根 の論文 に述 べ られ てい る よ うな魅力 があ る。 しか しその一 方 で 、進歩 した 映像技術 を どの よ うに駆使 して ソフ トを制作 す るのか 、対象者 。ジ ャ ンル を どこに絞 るのか 、そ して時代 の趨勢 な どに よる受 け手 の意識変 化 へ ど う対応す るのか な ど、粕谷崇 は映像 の利用 に対 し多数 の 問題 を指摘 してい る。 とくに博 物館 の 映像展示 の場合、そ のほ とん どは観 覧者 が一 方的 に映像 を見なけれ ばな らな い 一方通行 型 で 、内容 に魅力 がな けれ ばその場 を離れて しま う行為 が 見 られ るため、映像 も展示 ス トー リ ー の一 部 であ ることを意識 した上で 、 ソフ ト制作 をす べ きだ と論 じてい る。(19)確か に粕谷 の 述 べ るよ うに、安易 な ソフ ト利用 を した ところで 、逆 にそれ が人寄せ効果 になる どころか 、展 示 の形骸化 を招 くこ とになって しま う恐れ もあ る。従 つて 映像展示 をす る場合 は 、そ の展示 内 容 ・意 図に基 づ き、 きちん とした制作 目的 をもつて 、 ソフ トづ くりに心がけねばな るま い。 4-3 資 料 の 組 み合 わせ に よ る分類 2分 類 と形態 ―展示論 史的考察 ―」 にある、 資料 の 組 み合 わせ に よ る分類 とは 、 同 じ く 「 単体展示 と組 み合 わせ展示 の こ とで ある。 単体展示 とは 「 独 立 体で展示す る一 般 的な展示形態Jの ことで あ り、そ の館 の特性 を強調す る こ とが 目的 の象徴展示や 、先述 した私立 系 の美術館 の提示型展示 が これ に該 当す る とされ て い る。(20)_覧 表 に挙 げ られ た展示 例 の なかで は、とくに 5斎 官歴 史博物館 の① 「 斎 王群行絵 巻」 な どが好例 で 、 この絵巻 は最初 の展示室 を入 つてす ぐの正 面 に展示 され ていたのだが 、わ ざわ ざ大和絵画 家 に依頼 して描 かせ た とい う華麗 な斎 王行列 は 、 まだまだ新 し く色鮮や かで展 示室全体 の見事 な象徴展示 とな つていた。 一 方組 み合 わせ展示 とは一 次資料 と二 次資料 を組 み合 わせ た展示 の ことで 、 この場合 の二 次 資料 とは模 式 図 (復元 図 ・想像 図)。写真 ・模型 。映像 な どの こ とを さして い る。(21)従っ て こ ち らは説示型展示 の なかで も、そ の よ うな内容 が表記 され た解説 パ ネ ル や 、機械 端末 を導入 し てい る展示法 が該 当す る と考 え られ る。 ほかには 7横 浜市歴 史博物館 の① 「 東大寺薬院文書J が 、題箋 (作品解説 も明記)に 電子 パ ネ ル とい う解説手段 の展示 だが 、 こち らも組 み合 わせ展 示 に該 当す る とみ られ る。 この文書 は当時 の地方 ―京 間 の交流 を理 解す る資料 として展示 され ていたのだが 、資料 が展示 され た後 ろの壁 面 には 日本 の古代地図 が描 かれ た電子 パ ネ ル が掛 け られ 、具体的 に どの よ うな人や物 の流れ があつたのかを図示 して くれ ていた。 この よ うに とく に文 書類 の巻子本資料 は 、絵巻類 とは異 な り具体的なイ メー ジを しづ らい ことか ら、写真 ・絵 ・ -92- 巻子本展示序論 一 こ 地 図な どが記載 され たパ ネ ル な どを 緒 に展示 しなけれ ば、本質的な情報伝 達 を した とにな らな いのではないか と思 われ る。 4-4 配 置 場 所 に よる分類 配 置場 所 に よる分 類 とは 、要す るに展示 され て い るケ ー ス が ウォ ー ル ケ ー ス か ロー ケ ー ス か の 違 い で あ る。 こ ち らは前 章 の 秋 山 の 論 文 に あ る よ うに、 い さ さか の 不 便 は あ る も の ー の 、現在 の と ころ ロー ケ ー ス が観 覧者 と巻 子本 資 料 の 双 方 に最 も都 合 のい い 展 示 ケ ス で ー ・ ー ー ー あ る と考 え られ る。 しか しなが ら、 ウォ ル ケ ス 展 示 ロ ケ ス 展 示 の い ず れ も、動 線 の 問題 を抱 えて い る こ とにか わ りはな い 。 こ とに ウォ ー ル ケ ー ス 展 示 の 場合 、 中央 に設 置す る こ とで動線 をや や 曖 味化 す る こ との 一 。 で き る ロー ケ ー ス 展 示 とは異 な り、 度 動線 を確 定す る と変 更 融 通 が利 か な い とい う欠 点 が あ る。 これ は基本 的 に左 方 向 に読 み進 め る巻 子本 資料 に とつて は い さ さか不便 な こ と ー で あ る。 つ ま り右 回 り動線 の ウォ ー ル ケ ス 展 示 な どで巻 子本 資 料 を展 示 す る と、 当然観 覧者 は右 方 向 (逆向 き)か ら資 料 を鑑 賞 しな けれ ば な らな くな る ので あ る。 一 しか しな が ら中央 に ロー ケ ー ス を設 置 し、 そ こへ 展 示 す る こ とで 、本 来 の 動 線 か ら 度 見学者 に展 示 ス トー リー の 追跡 を願 うも の で あ 離 れ て鑑 賞 して も ら うに して も、 それ は 「 る こ と と、展 示 を熟 覧す るに あた り他 の 見 学者 との接 触 や衝 突 を回避 す る意 味 で 、 ク ロス (22)、 「 一 見 学者 導線 」 の や 重複 す る こ との な い 所 謂 筆 書 きで あ らね ば な らな い 」 とい う 原 則 か ら反 す る行 為 とな って しま うの で あ る。 一 従 って 覧表 にお い て も、右 回 り動線 に な つて い る施 設 全 て は もち ろん、 た とえ左 回 り ー ー 延喜式 (一条家本)」 の よ うに中央 の ロ ケ ス展 動線 で あ って も、 5斎 官歴 史博物館 の② 「 示 であるな らば、動線 の 問題 は抱 えてい る ことにな るので あ り、 これ らの 問題 につい ては何 ら かの対策 を講 じなけれ ばな らない と考 える。 4-5 実 物 か 複 製 か に よ る分類 最 後 の 実物 か 複 製 か に よ る分 類 とは、文字 通 り実物 展 示 か 複 製 展 示 か の 分 類 で あ る。 実 述 べ た 単体 展 示 に該 当す る、私 立 系 の 美 述 べ た提 示 ItJ展示 や 、 4-2で 物 展 示 は 4-1で 一 術 館 の 資料 が まず 挙 げ られ るが 、 ほか に も 覧表 で は東 京 国 立 博 物館 の 資料 な ども全 て 実 物 展 示 で あ る。 ま た これ らの 巻 子本 資料 は い ず れ も 2-2で ふれ た珍 奇姓 ・稀少性 を有す る資料や 、 2- 3で ふれ た美的で鑑 賞 の対象 とな る資料 にも該 当す る。 つ ま り実物展示 とは複製 に よる代替 が 通用 しな い 、実物 であ る こ とそ の ものに展示 ・鑑 賞 され る 目的が集約 され て しま ってい る、 あ 点か る意味硬 直的な展示 ともい えよ う。無論 この こ とは 長所 に もな りうるが、資料保存論 の観 ′ らす る と、例 え_ば日本画 を含 む水彩画 あ るい は彩色写本 が 、光 に対 して最 も脆弱 な資料 で 、TCOM な ど数 々 の機 関 が 、50ル クス以 下 の照度 を推 奨 してい るこ とを考 えれ ば (23)、当然長 時間 の展 示照 明は避 けなけれ ばな らな い。 こ とに巻子本資料 を展示す る場合 は、観 覧者 の要望 に配慮 し て 、 いつ も同 じ主 要 な場面 を広 げ ざるを得 な い こ とか ら、そ の部分 だ け退色劣化 が進 行 して し -93- 巻子本展示序論 ま うとい うデ メ リッ トがあ る。 しか しその反面、この よ うな展示 と保存 に横 たわ る矛 盾 もまた 、 実物展示 の魅力 の ひ とつ になってい るこ とは否 定で きない。 そ して 複 製 展 示 はや は り説 示 型 展 示 の 例 と して も挙 げ た 、歴 史展 示 を して い る 博 物館 を 一 中心 に行 われ て い る。従 つ て 覧表 で 該 当す る事 例 も、説示 型 の それ とほ ぼ 同 じな のだ が 、 そ の な か で もい さ さか変 わ っ た 事 例 が 、3消 防博 物 館 の ① 「 鎮火 安 心 図巻 」 と 11松 阪市 立 歴 史 民俗 資料館 の ① 「 茶 屋 新 六 交跡 貿易 渡海 図」 で あ る。 このふ た つ は ボ ー ドに絵 巻 を 印 刷 した 形 式 で 展示 され て い た ので 、厳 密 に言 えば巻 子本 展 示 とは い えない の だ ろ うが 、 3 -2で ふ れ た 現代 テ クノ ロジー での新 しい表現方法 と同様 、 と くに説 示 型 展示 の なか で はひ とつ の有効的な展示法 になってい る。 しか し、 この よ うに学術 資料 として巻 子本 資料 を捉 え、説示型展示 に取 り入れ る とい う事例 は 、な かなか増 えていか ないの が現状 で ある。 だが例 えば映像展示 が どの よ うに忠実で あ って も、あ くまで現代人 が想 像 した再現 で しかないのに対 し、 こ と絵巻 類 な どは多少 の脚色 があっ た として も、 当時 の人 の実体験が強 く反 映 され てい るものである。従 つてむ しろ これ らは もつ と優 秀 な説示型展示 資料 となれ る可能性 を秘 めてい るはず であ る。 そ こで今後博物館展示資 料 として巻 子本資料 を展示す る場合 は 、 この説示型展示方 面で の活用 の拡大 をはか るべ きだ と考 える。 おわ りに 以 上 、巻子本展示 の実態 を把 握 。分類 し、そ の展示法 の 問題 点や展望 の言及 を試 みた次第 で ある。今後 は文化財保存学 の視点 か ら、具 体的 に巻子 本装訂 に使 われ る和紙 が何 だ ったのか把 握 し、それ が保存 ・劣化 に どの よ うに関係 してい るのか調 査 しなが ら、他方 では 日本美術史 の 点か ら、 い かな る主題 が巻 子本作 品に選 ばれ たのか概観 し、 これ らがほかの作 品に与 えた影 視′ 響 につい て考察す るこ とで 、 さらに基礎 的な研 究視野 を広 げて いか な けれ ばな らな い と思 うが 、 それ らについ て述 べ るのは後 日に期 したい。 また今 回は調査件数 も少数 だ った上 に 、展示傾 向 も暫定的な見通 しを述 べ るこ とに終始 して しまった。従 つ て 引 き続 き調査 を重ね 、体系化 した展示 法 の分類 につ い て 、 い ま少 し考察 を深 めるほか 、 これ らの展示法 に観 覧者 がいかな る反応 を してい るのか 、そ の展示効果 につ いて も 明 らかに していきたい。 そ して最終 的には、 これ まで博物館展示論 に依 拠す るだ けで、あま り 検討 され る こ とのなかった 、効果 的な巻子本資料 の展示法 につ いて 、提 唱 を試 み るつ も りで あ る。 -94- 巻子本展示序論 註 (1)長 澤規矩也 1976年 (2)山 本信吉 2004年 (3)註 『 古書 のはな し』 富 山房 pp.1415 ― 『 古典籍 が語 る一書物 の文化史 』 人 本書店 p51 (1)p16 (4)言主 (2)pp.54-55 ― 。 (5)堀 川貴司 2010年 『書誌学入門 古典籍 を見る 。知る 読む』 勉 誠出版 p28 ( 6 ) 言主 ( 2 ) p 5 3 ( 7 ) 加 藤 有 次 ほか 1 9 9 9 年 雄 山閣 出版 p 7 1 (8) 言 主 (7) pp.72-73 ( 9 ) 言主 ( 7 ) p p . 7 3 - 7 4 ー ( 1 0 ) 「サ ン トリー ホ ー ムペ ジ J h t t p : / / w w w . s u n t O r y . c o . j p / n e w s / 2 0 1 0 / 1 0 9 1 2 2 . h t m l 一 なお この 展 覧会 で の 日平均入 場者 数 は 2 0 1 0 年 現在 、 同館 最 多記録 で あ る との こ とだ。 (11)註 (7)pp.8182 (12)註 (7)pp.8991 (13)1932年 『 博物館 研 究』 第 5 巻 第 9 号 なお秋 山 は論 文 中 「 観 賞 」 と表 記 して い るが 、筆者 は註 ( 8 ) に 挙 げ た青木 の 定義 す る、博 物館 展 鑑 賞 」 と表 記 して い る。 示資料 に必 要 とされ る人 つ の 要 素 を参 照 して い る こ とか ら、 「 (14)1984年 『月刊文化財』第 44号 (15)1998年 『季刊本 とコンピュータ』 4 (16)1998年 『茨城大学教育学部紀要 (人文 。社会科学,芸術)』第 47号 (17)青木豊 1997年 『博物館映像展示論 一視聴覚メディアをめぐる一』 雄山閣出版 pp.163 -164 (18)加 藤有次 ほか 2000年 雄 山閣出版 p34 (19)1991 「 博物館 にお ける映像 の現状 と今 後 の課題 J『國學院大學博物館 学紀要』第 16集 (20)註 (18)p47 (21)註 (18)p51 (22)青 木豊 2003年 (23)神 庭信 幸 1988年 『 博物館展示 の研 究』雄 山閣出版 p372 「 博物館展 示照明が色材料 に及 ぼす 作用効果 (I)」 『国 立歴 史民俗博物 館研 究報告』第 16集 (國學院大學大学院 博 士課程前期) -95- 巻子本展示序 論 __ 巻 子本 展 示各館 ― 麟 聴聰が一 耗 ¨剛お”泰 ﹄蟄比腋一 -96- ( 2 0 1 0 年 1 1 月現 在 ) 教育普及活動 と特殊 ボ ランテ ィア育成 の試み 一特 に鉄砲 隊 と武 者行列 を通 して 一 The Activities for Spereading Education at museunl and the lbial of Raising Partlcular Volunteers ―E s p e c i a l l y t h r o u g h M a t c h l o c k G u n P a r t y a n d S a m u r a i P a r a d e ― 小西 雅 徳 KONISHI NIasanori l.は じめに 板橋 区立郷 上資料館 は昭和 47年 (1972)7月 、東京都 の城北地域 にある板橋 区の西端部、赤 塚地域 に開館 して以来早 39年 目を迎 えよ うとしてい る。都 区内では 2番 目の古 さと伝統 を持 つ 博物館 であ り、平成 24年 度 には開館 40周 年 を迎 え、今後 も将来を担 える東京 の公立博物館 とし 1)。 て歴史ある博物館像 を 目指 していきたい は さて、当館 ではこの よ うな長年 の活動 を通 じて、館運営上の様 々 な課題 も見えてきた。しか し、 よ り重要なの は将来へ の構想、即 ち展望 をどう示 して活動 を行 つてい くか とい う、占くて新 しい 課題 へ の新たな対処 と行動局面を迎 えている。 これは当館 に限 らず全国 の博物館 が抱 える永久 の 一 悩み でt)あろ う。 言 で理想 とす べ き展望を示す ことは易 い。 しか し、具体的 な処方箋 を見出せ ず に汲 々 として い るのが昨今 の博物館事情 でなかろ うか。 ・ 本稿 は、板橋 区立郷 上資料館 が今 までに行 って きた博物館活動 の 中で、特に展示 (常設 企画 ー 特別展)と 連動す る形で進 め られてきた教育普及活動に焦点をあて、比較的ユニ クな試み と考 え られて い る人材育成 と、活動 の延長線 上にあるボランテ ィア活動の実例 を提示 し、そ の活動 を 通 じて当館 へ の影響 と、他館 へ の新 たな取 り組み方 を示す もので ある。今回は 2事 例 を中心に紹 介 し、他館 にお いて類似 した活動 を行 う際の参考 となる部分 を、煩瑣 なが ら極力資料例示 してそ の過程 を説 明す る。 尚、当館 の運営上 の実態について既 に 2編 ほ ど紹介 してい るので参照 された 2)。 ぃ (註 2.展 示活動 の可能性 と限界 1)旧 館 か ら新館 (改築)へ の時代的推移 一 昭和 47年 夏 に現在 の地に開館 した当館 は、都市近郊 の大型 開発 の つ とされた高島平団地 の 出現 と、昭和 44年 に全国で盛んに行われた明治 100年 記念 の延長 で急遂開館 した。実 は既 に高 一 島平 の団地造成 が本格化す る前 の昭和 30年 代後半には、都 立赤塚公園 の 画にあつた中世戦国 期 の赤塚城 を活用 した地域 の博物館 として構想 されてお り、かつ ての板橋 の農村域 を考労 とさせ る赤塚地域 へ の郷 上資料館建設 によつて、 この地域 か ら新たな文化情報発信 を期待 したのであっ た い」。 しか し、都 市公 園内での制約等諸種 の条件 を受 ける中で、決 して博物館機能 を充分に備 えているとは言 い難 い 中途半端な小規模施設 として開館 した。小規模館 であるが故 に運営す る組 織 も度 々組織替 えとな り、要す るに存在感 の薄 い、行政 上の用語で言 うな ら文化情報発信 とい う -97- 教育普及活動 と特殊ボランティア育成の試み 名 を冠せ られ た 出先機 関であ ったのであ る。 それ で も、まだ都 内では数少 ない郷 土 ・歴 史系 の 博 物館 であったた め学校等 の郊外学習施設 として それ な りに賑 わ っ ていた。敷地 内にある茅葺 の 古 民家 も郷愁 を誘 ったのであろ う。 特別 区内で世 田谷 に次 い で 2番 目に開館 となった郷 土資 料館 は、開館 間 もな くか ら施設 の狭除 性 と建物 自体 が溜池側 へ傾 くとい う構造上 の 問題 を抱 えていたため 、昭和 60年 代 に入 り施設 の 建 替 えが検討 され る。 平成 と年 号 が変 わ るや 日本経済 はバ ブル を迎 え、民間 も行政 も資金 的余裕 を抱 え、それ こそ湯水 の よ うな状態でお金が沸 き上が ってい た時代である。懸案 であった郷 土資 料館 の改築 (新館建設)も 承認 され 、急邊 立て替 え られ る事 となった。そ の間 2年 とい う短期 日 の慌ただ しさで、今 か ら思 うと検討時間が少な過 ぎた とい う悔 い を残 しつつ 、 これ に関 しては 区 の上層部で決定す る事であ り、時 間的な余裕や土地環境 か ら見ても、理想 とす る改築構想段階か らの大規模館 へ のステ ップア ップ を諦 めざるを得ない状況 であつた。それ で も旧館 に比 べ約 7倍 の規模 (1370ポ )、予算 も 10倍 以上 となれば無い よ りま しと諦念、ただ改築早 々将来に亘 る懸 念材料 を残 しなが らの船出であった Ctt。υ バ ブル崩壊後、全国で多 くの博物館 ・美術館等が建設 あるい は計画 中止に追 い込まれた情勢 と 比べ 、格段 に良 くな った現状 に安息を見出 したの も事実である Qp。 改築前 と以後 との相違 が何 処にあるのか との比較で言 うな ら、現在 の状態 の方が断然良かった と言 い切 ることがで きる。そ れは体制 と予算面 とで大きく飛躍 し得たか らである。人的な面 で言 えば専属学芸員枠が 2名 とな り、展示予算以外 にも購入費や教育普及 に関わる予算的な裏 づ けを得た事が大きい。 また、狭 い なが らも常設展示室 、企画 ・特別展示室や収蔵庫 ・講義室 を確保できたのであるが、 これ らは博 物館施設 として機能上 当然であ り、以前がそ うでなか った環境 を考 えると隔世 の感 がある。 しか も収蔵庫 を確保 して資料寄贈等 の受 け入れ態勢が取れたのは大 きい。 当た り前 と思われ ることが できる、それ が新 旧の違 い である。 2)活 動 の重点施策 と組織 の硬直化 。活動 の不活性化 平成 2年 1月 改築新規開館時 の展示構想や収蔵資料 につい て、前述 したよ うに種 々の懸案材料 があって充分機能す る形で館運 営を行 ってい たわけではない。 しか し、活動 の重点施策 として特 別展 ・企画展の回数 を多 くして集客化 を図 り、常設展 も含 めた リピー ター の増加 をも企図 した。 特徴 ある収蔵品の充実化 と他 の博物館施設 との差別化 を考 え、特に資料収集費を増額す る方針 を 取 つていた。次 に組織運 営 に関わる点では、二つの側面 として新たな行動規範 と内容 とが求め ら れた。 一つ は従来所属 していた社会教育課文化財係 か ら資料収集 。研究 。展示 とい う機能 を備 え た博物館組織 として独立 、埋蔵文化財行政 との兼務状態 か ら解放 された事。 二つ めが新たに第 二 者機 関の郷 上資料館運営協議会 を設置 した事 である。特 に運 営協議会 は文字通 り館運営に対す る 意見徴集機 関であ り、そ の構成員 には学識経験者以外 に地元の文化財保持者や民間人、小 中学校 関係者 で構成、学芸員が提示す る年 間展示予定及び内容 を審議 して第二者 か らのア ドバ イ ス機能 を設 置 した ことで、 展示 を主体 とした館活動 に対 してある一 定 のバ ランス を保持す る事ができた。 それ によって将来的な ビジ ョンを繰 り返 し審議、今 日まで の 20年 間を軌道 に乗せ ることができ た ので ある Q∂ 。 運協の存在 は、学芸員 2名 が専属 で展示活動に専念 できる環境 を整 えることが出来 た要因の一つ である。開館後 の郷 土資料館 における展示活動は、年 5回 の企画 ・特別展 を中心に資料収集及び研 究 と教育普及 を行 うもので あるが、所詮 2名 の体制では無理があ り、文化財専門 とい う学芸研究職 とは相違す る非常勤職 員 を展示企画へ の参画が可能な状況を画策 し若返 りを図っている は'。 これ - 98 - 教育普及活動 と特殊ボランティア育成の試み 学芸員補 的な色彩 を専門員 に持たせたのである。現在、 は常勤学芸職 の負担軽減 を図 ると同時に、 年間 4∼5回 の展示企画 を学芸員 2名 、文化財専門員 2名 がそれぞれ専門 とす る領域で企画 立案 し、運営協議 会 の審議 を経て展示 を実施 してい る。但 し、時間の経過 と共に これには良い側面 と 悪 い側面 が露見 した。例 えば専門系職員 がほぼ固定化 された事による企画展内容 の類似性や偏 り、 創意 工夫 といつた展示 の変化性 が乏 しい とい う問題点 が指摘 されてい る。人事固定化 の弊害 であ る。原因 として人事流動性 の少な さが、将来性 を見据 えた展示企画へ の展望 と方向性 を見失 って い るとい うもので ある。 一方でそ うでない との意見 もあるが、 これについ ては筆者 も思 い あたる 所 があ り、何 らか のアクシ ョンが必要 と考 えて い る。 しか し、人事的 な面 で 固定 されてい る状況 一 下での選択肢は限定的 で大幅な変化 を望み得ず、また人事面 で 新 した体制 を組む とい うの も現 実的 でない はD。 以 上のよ うな内部的事情 を抱 えなが ら、展示以外 での新たな集客方法 として の教育普及活動 再 検証 とな つたので ある。 この方面での学芸職及 び文化財専門員 の関わ り方は限定的 である。展示 企画 に専念す るばか りに、教育普及 に手が廻 らない実態 が確 かにあるが、担 当す る展示 の時に講 演会や展示説明等 を行 えば充分 とい う雰囲気 が蔓延 してい る事 も否定できない。筆者 か ら見れば、 展示企画にお いて最先端的な あるい は研究成果 を提示す ることに汲 々 としていて、それ以外 にま で手が廻 りかね るとい う側面は学芸員 の世界 では 日常的であ り、要はや る気 の問題 である。専門 性 へ のこだわ りと、博物館運営上での博物館学的手法 とは本来別個 の ものである。そ の原因 とし て考 えられ るの は、端的に言 うと博物館界 (国内外)で の時流 へ の情報収集及 び研究が欠 けてい るため と言わねばな らない。 確 かに、昨今 の博物館界 は経 済 の動向 と連動 して必ず しも景気の良い話 が 出てい るわけでな く、 しか も人員増 どころか削減や組織 の分離 (指定管理者制度 の導入や民営化)や 、職員 の高齢化 と い う負 の部分 が大きくな りつつ ある。今 の時勢 を照 らして見て、い ろい ろな部分で博物館界 の過 渡期 とい う話 もある。社会的 ・組織的な変化移行期 にあつてベ テ ラン といえば聞 こえがいいが、 学芸員 自身 が独善的 とい う批判 を良 く耳にす る。館 内に閉 じこもるので はな く、館外 に打 って 出 る気構 えや 姿勢 が今求 め られてい る。PCの 普及以降、 どうも机 の前に張 り付 く傾 向が強 くな っ てい ると感 じるのは筆者 ばか りでなかろ う。因み に都 区内の学芸員採用 は、昭和 50年 台以降 が 多 く、今 ちょうど定年世代 を迎 え、新 旧の世代交代 の時期 に さしかか つてい る。そ の意味 で転換 期 に立 ってい るのである。 当館 の平成 22年 度 の館活動 の 一覧 を次に提示 しておきた い。 ほぼ毎年 このよ うなスケ ジュー ル とな つてお り、表 で見 る限 り日程面を含 め棚密 である。 これ以外 に小学校 を中心 とした 団体見 学 が 50件 程度 あ り、主 として文化財専門員 が古民家体験 (石自による黄粉作 り等)や 展示説明 を行 う。寄贈 申 し込み対応や窓 口相談、資料貸 し出 し対応等、 日常的な博物館活動 の上での話 で ある。 このよ うな内容は他館 も同様 と思われ る。 主な教育普及活動 の場は、講義 室 ・古民家、そ の他館外 である。講義 室は普段資料整理等 に使 う場合 が多 いので、土 日を中心に行事 を入れ るが、前後 の片付 け等 の手間を考 え優先順位 をつ け 対応 している。一 定期間集 中的に資料整 理 を優先 して、他 の行事 を入れない事 も配慮 してい る い い。 この よ うな効率面 で見 た弊害は、施設 の狭除性 と関連 している。 当初か ら資料整理空間を充 分確保 していないため起 こるので、 これは建物 のハ ー ド面 と関わる問題 であ り、簡単に改 善す る 一 余地は少ない。それ で も、色 々工夫 しなが ら講義室利用度 の向 上に努 めてい る。 時期職員間の コ ミュニ ケー シ ョンが取れず、講義室利用で揉 めた事 も度 々 ある。現在 、区施設 の多 くは有効活 用 を 目的 として会議 室等の有料貸 し出 しが一般的 であるが、当館 では対応 していない。 -99- 教育普及活 動 と特 殊 ボ ラ ンテ ィア育成 の試 み 噸縣 颯 ¨ 織聖 回柵 翁 じ Щ撃 駅¨ →個 ︶回 め製 駅 ¨ ︵ 爛 ﹀回ヽЩ︵ 側 朧鵬 堰 菜 賦 側 椰鵬 堰 真 賦 係略 拒 側 幕 濡堰 薬 賦 国 “ 製 興 野 Kb 褻 堰 菓 賦 巡 + ︵m ︶ШR Щ 巡 + Ш E ︵= ︶Ш留 眠Υ ︵引 ︶Ш 留 Щ ︵= ︶口 0”眠 ︵口 ︶回口 駅01 ︵ = ︶Ш O一Щ ︵= ︶口 0劇Щ ︵田︶ШO八引 ︶口”Щ ︵ 側 轟 ひ却Q ︶い﹀0 峰 轟 鶏 3 豪 報 ︶F 場 S 翠 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転換 ではないが 、時宜 に応 じた体市1作りや ヒ ッ トエ ン ドラン的な企画 の打ち出 し方 による即応性 である。 かつ ての よ うに何が何で も展示 中心 とい う姿勢 には限界がある。それ が惰性 を生んでい た可能 性を否定 できない。やや ノル マ 的な展示 の進 め方にも問題があつたか も しれ ない。展示が 花形 であることに相違 はないが、理想 とす る展示 (大規模化)に は多額 の予算処置 を必要 とし、 それがない と出来ないの も展示 の宿命 である。実際、展示 にかかる予算は、当館 にお いて も改築 当初 と比 べ 半減 してい る。臨時に特別展経費 を計上 しない限 り大幅な増加 は見込めない。 よく少 ない予算 で効率的 とい う話 を提示す る事は簡単であるが、実際は中々難 しい。 そこで注 目され ているのが教育普及 の充実化 である。展示経費 に比べ て少な くて済む とい う話を 聞 くがそれは誤解 である。確 かに経費 は展示 よ りはるかに少な くて済む。今、当館 の教育普及経費 は予算配分比率 か らす ると、展示を含む文化財展示経費 と比べ約 7分 の 1の 287万 円 (平成 22年 度)で ある。講演会関係費用 がオ干文化財展示 予算に組み込まれ ているので、比率的にはも う少 し 輛 高 くなる。それ でも決 して多 い予算ではないが、か とい って少ない とい う数字 でもない 10。 公立 博物館 の予算は、数年平均 によ り予算枠 が 固定化す る傾 向が強 い。それ で も当館 では、必 要に応 じて 1000万 円程度 の経費 を臨時に計 上できる余裕 があ り、他館 よ りも恵まれてい るはず である。 普通全国を見渡 して も充分な予算 の ある時物館 とい うものが少 ない はずで、活動費 どこ ろか維持管理 の運営費 の捻 出もままな らない 話も間 く。 当館 は他館 と比較 した事がないので分 か らないが、概 ね平均 よ り上ではあるらしい。 日玉展示 の企 画 ・特別展経費 が削減 され る中で、恒常的に しか も少ない費用 で効果 が期待 され るもの に教育普及があるが、それは博物館運営 の実情 を見てない見方であって、物事 そ う単純 で 簡単な事柄 でない ことは多 くの学芸員 が経験 しているはず ある。例 えばそれ こそ学習効果到達点 がなかなか見えて こない、成果 の程 が充分に伝 わ らない等、手間隙 が懸かる割 りに効率的 (人数 動員 とい う意味 で)で ない とい うジレンマ を往 々 に して抱 える。運営経費 の 中で教育普及は少 な い予算で済む と考えるとした ら、それは大 い なる誤解である。 写真 1 特 別展展示風景 (平成 22年 度特別展 「 中山道 と加賀藩下屋敷J) 写真 2 冬 の古民家 と納屋 (平成 19年 撮影) 1)古 民家 都 内で も数少 ない茅葺農家 を昭和 47年 に移築 した、江戸時代後期 (幕末)の 農家建築。板橋 区高島平 に巨大な集合団地 (高島平団地)が 開発 された際、隣接す る農家 の多 くが開発 の恩恵 を - 101 - 教育普及活動 と特殊 ボ ラ ンテ ィア 育成 の試 み 受 け新たな家屋 を新築 したが、そ うした中でかつ ての農家 を移築 し保存す るために板橋 区徳丸 の 田中家住宅を移築 したので ある。 当初移 築 して公 開 した際には、民具展示 (生活感 を提示す るた め)を 中心 とした生活空間 として活用 していた。平成 2年 に本館が新たに改築 (新築であるが) してか らは、体験 学習 の場 として活用す る方 向性 を打 ち出 し、特に四季折 々の年 中行事 を中心 と して、ゆ とり教 室や工作教 室 、講談落語 の会場 として 開放 し、稀 に一部 テ レビ公 開活用 も行 う。 但 し古民家は板橋 区の登録文化財 とい う側面 もあるため、竃炊 きの常態化 を通 して維持管理 の徹 底化 を図 つてい る。特 に防災へ の配慮が強 く求め られ る。 古民家では農村 における年 中行事空間 として活用す る ことで、メ リハ リ感 が 出て却 って維持管 理 に都合 が 良い場合がある。畳 の ある座 敷 を中心に正月の荒神様、繭玉飾 り、3月 の雛節句、5 月端午 の節句 (五月飾 りと中庭の鯉 職)、7月 のマ コモ馬 七 夕、9月 。10月 の月見、12月 注連縄 作 りと続 き、時折、体験学習 として随時利用 してい る。今、区民サー クルか ら作品展 の会場 とし て古民家 を利用 したい との要望 が 出てい るが、施設維持 。景観 を損なわない条件であれ ばなるベ く対応す るよ うに している。 また、最近行 っていないが、夏 の夜に怪談 。講談会場 として使用 し た こともある。 写真 3 1月 ま ゆ玉飾 り 写真 5 5月 端 午の節句 鯉 幡 (古民家内では二月人形を飾る) 写真 4 3月 写 写真 真 6 7月 雛 の節句 雛 飾 り マ コモ馬作 りと七夕飾 り 2)講 義 室 特別展 ・企画展 に伴 う講演会 を中心に、ゆ とり教 室 、博物館講座 、古文書講座 、兜作 り等 の体 験講座等 のために使用す る。椅子席定員 100∼120名 。机講習 では最大 50名 程度 とし、映写会 も 随時行 う。使用公 開 日は土 日が多 く、平 日は資料整理室がないため専 ら資料整理等に使用す る。 講演会は 100名 を定員 とし、平均 50名 ∼80名 程度 が多い。 150名 以上が詰 め掛 けた事 もある。 -102- 教育普及活動 と特殊ボランティア育成の試み 中学校 での ゆ と り教育導入 に合 わせ た事業で あ る。学校 で土曜 日に行 ゆ と り教室 では 、所謂 、 /1・ へ ついて 要請 が き っていた授 業 を廃 止 す る代 わ りに、児童 の受 け皿 として博物館 等 体験学習等 に では年 10 た のが記憶 に新 しい。今 ではむ しろゆ と り教育 の弊害 を指摘 され る ご時勢 で あ る。当館 め細 かい対応 回程度 を季節性 に合 わせ た教室 を開催 、夏休 み期 間中 には子供 専用 の 日を設 けて き 一 い を心 が けて い る。子供 は普通親 と 緒 に来 る場合 が 多 いが 、受講害J合は大人圧倒 的 に多 為気後 一 す る姿 は 見微 笑 ま しいが 、 で きる事 な ら年齢構 れす るよ うで あ る。 大人 と子供 が混在 して参カロ ー して 成 的 に分 けたほ うが指導 も しや す い。参 加者 の感想 を、折 り紙教室で のア ンケ ト結果 で示 お きた い は lp。 写真 7 折 写真 8 夏 休み 自由研究 万 華鏡作 り り紙教室に よる紙雛 つ くり 表具入門 ―掛 け軸作 リーJ 写真 9 博 物館講座 「 写真 10 国 際交流のカナダ人中学生 と武者姿体験 3)館 外活動 ここ 10年 程 は館外活動 に一 定 の力 を入れてい る。最近では博物館 の館外活動 が叫ばれて久 し いが、当館 が この取 り組みを開始 した の は、集客効果 を狙 つたか らである。 立地条件 も関係 して い る。 当館 へ の交通 アクセ スが必ず しも至便 とい う環境 でないため、 自然 と年間 を通 した来館者 数 に限界が見 えていたか らである。開館 当初 7万 人を越 えていた ものが 、 ここ数年 5万 ∼ 6万 人 で推移 してお り、 この辺が一つの限界点 か と勘案 している。そ のため 当館 が立地す る赤塚溜池公 一 園や赤塚城 (中世 の城館跡、都 立赤塚城址公園)周 辺 を取 り込みつつ 、尚かつ美術館 と連携 体 化 して集客 を図る方策 を模索す る機運 を模索 しているが、 まだそ の糸 口を掴み かねてい る。来館 像あるい は館園)の みに固定 者増加 のための情報発信 を常に心がけてい く、そ のため 1ケ 所 (地′ しては限界 がある、他 のセ クシ ョンと連携 を図ることで活路を見出そ うと考 えるのは 自然 の流れ で もあ つた。 この考 え方 をとる背景 には、内部事情 として行政効率化判定を 目的 とした予算査定 -103- 教育普及活動と特殊ボランティア育成の試み 上の入館者数 へ の評価基準 ・重′ 点化 が ある。 当館 は基本的に無料公 開施設であ り、評価基準 とし て入 館者数 を当てるのは仕方 ない。 しか し、数字だけでは推 し量れ ない何 かを常に住民及び 行政 に対 して説明責任や行動が伴 うのであれば、館 に籠 もる作戦でな く、外 に打って 出る事が必 要な のである。それが区の政策企画及び財 政 へ の説 明 として (区民へ の説明 としての意味)、当 がよ 館 り積極姿勢であることを示す格好 ともなる。最近では内部 の行政監査だけでな く、外 部 の関係者 か らもこ うした館外活動実績 を高 く評価 され つつ ある。 因みに館外活動での利用者数 は概ね 3万 人前後である。来館者数 と合計す ると8万 か ら9万 人 となる 孵1'。 そ の館外 での活動は主に 4カ 所 で行 ってお り、1カ 所 目が夏に総務 課 と共 同で行 う平和展 (板 橋 区平和実行委 員会主催)の 展示で、8月 15日 の終戦記念 日に合わせた事業。区役 所 のホ ールで 約 2週 間。2カ 所 目が板橋 区最大 のまつ りである 10月 の 区民まつ り。板橋 区伝統 工芸 士会 と連携 した工芸展 を開催、匠 の技 の伝承 を普及す る事に 目的を置 き一 部チャ リテイ販売を行 う。土 日の 2日 間行 い 、お よそ 7000人 前後 の利用者 が ある。3カ 所 目が 11月 の農業 まつ り。収穫祭 に合わ せた宝船 の行進 に子供たちの武者行列や農機具 の展示 を土 日の 2日 間実施す る。 4カ 所 目が 3月 の梅 まつ りに開催す るもので 、当館 に隣接す る赤塚城 址公 園で赤塚城戦国絵巻武者行列及び鷹 匠 や居合 い等 の古武道 を披露す る。 これは当館 の展示に合わせ て鉄砲 隊、武者行列等 と連携す る行 事であ り、今では梅 まつ りと共に定番化、地域住民や 区外か らも大勢 の見学者 が訪れ る。何れ も 各種 まつ り等 とタイア ップ した展開であるが、 これが今回紹介す る鉄砲隊 と武者行列である。 写真 11 区 民まつ りでの伝統工芸展 写真 12 農 業まつ りでの農機具展 4.新 たな教育普及活動 と専門性 ボ ラ ンテイア育成 の試み 展示以外 の活動や展示 と連携す る形での教育普及活動 には多種多様 な内容がある。それ こそ博 物館 の数 ほ どをあるとも言 える。 日本 の博物館 における教育普及活動事例 は枚挙 にい とまない。 近年では文部科学省か らの事例研究補助金 を得て博物館 ・美術館 か らい ろい ろな提案 が 出 されて い る は 19。学校教育 との連携 を示す もの は 1つ、やや批判的に博物館 における教育普及 姿勢 を取 り上げるもの等多数散見す る は1'。当館での普段 の教育普及活動 につい て前述 したが、これだけ ではまだまだ弱いのは確 かである。種類や回数 を増やす事 はそ う難 しい事ではないが、特徴 ある もの となると中々名案 が浮 かばない。展示 との連携、展示 とは別 の博物館事業 としての教育普及 の充実、他館 と連携 しつつ何 か行動 を起せ るか。そ うした気持 ちの発露、発案が鉄砲隊創設 と武 者行列 の再現である。 この 2種 類 のグル ー プの存在 は、従来 か ら当館 が進 めていた教育普及活動 と別の次元 を想定 し ていた。展示充実 の延長 として考 えていた といって も良い。 しか し、 この 2グ ル ー プの成 立背景 を異に してい るので、一見似 ていて も同一性格 の団体 とい う訳 ではない。共通 しているのは、当 -104- 点で ある とい う′ 館 と密接 に関連 し行動 を共 にす る つてお り、 こ の 志 がLぅ ボ ラ ンテイアが担 う体制 を と 鉄砲 隊 も武者行 列 も、運営 主体 が 善意 有 る事 を先 に紹介 一 は常 に当館 が行 う事業 と協 同 して行動す れ は 種 の文化 団体 で あ るが、 この団体 の ー ー る重要 なパ トナ 的存在 で あ り、 また 当館 した。今 で は外部活 動 (館外 活動)場 面 で活動す 互作 い ー との文化交流 団体 としての存在性 も増 して る。相 活動 サ ポ ト以外 で、区が他 の交流都 市 に設 立経過 を含 め両団体 の紹介 をす る。 用 して互 いの利 点を引 き出 してい るのである。次 1)西 洋流火術鉄砲隊保存会 Ql∂ を顕彰 し、 に して西洋砲術家高 島秋帆 板橋 区高島平 地名発祥 の人物、幕 末 の長崎 町年寄 ー では特別展等 で度 々高島秋帆 を取 り上げ 高島平 を全国にア ピ ルす る団体 として発足 しキ。 当館 い とい う印象 を、学芸員 自身や展示 を た展示会 を行 ってきたが、展示終 了後図録以外何 も残 らな に限 らず展示 の多 くがそ うなので 見 に来た多 くの来館者 が持 つていた のである。 これは高島秋帆 か他 には方法はない も ′ あるが、 よ り地域 性 とあいまった思 い入れ の ある展示 では尚更である。何 のであ り、ほかに動的な のか とい う素朴 な疑間である。極端な言 い方 をす ると展示 とは静的なも い えを生んだ。鉄砲隊に よつて高島平 表現方法 として何 かないか との発想 が鉄砲隊を作 ると う考 では男的な発想 か も し や板橋 区全体 の地域起 こし街起 こしにも繋げたい とい う考 えで、ある意味 ー のは迫力 があるのではないか との れない。戦争 をイメ ジ して い る訳ではないが、鉄砲 とい うも 半分不純 な動機 もあつた。 へ で出す とい う事は現実 博物館 の展示は、出展す る資料が文化財 的な側面 があるため、館外 裸 が鉄砲隊を一つの 的にあ りえない。 それな らば展示物 に代わ るものを動的行動 として出す、それ 示 ー 展示デモス トレ シ ョンとして設定、展示 の延長線 上で捉 えよ うとす る考 え方である。人間展 つた異色 の人 である。人間が許せ ば何時で も展示、行 動 ができるのではないか。長崎 の町人 であ の 物高島秋帆 が幕末 の天保十 二年 二月九 日 (1841年 )、武州徳丸原 と呼ばれた現在 板橋 区高島平 動 く絵画、 にあ つた幕府大砲場 で行 った、日本最初 のオランダ式洋式砲術調練 を鉄砲隊が再現 し、 いう があると つの だか ら迫力 動 く展示 として活用す るである。空砲 なが ら実際に火薬 を使 つて撃 ものである。 い 次 にやや長文 となるが、鉄砲隊設 立の趣 旨 と経過 を紹介 した文章があるので紹介 した 。 西洋流火術鉄砲 隊保存会設 立経緯 と今後 の活動方針 平成 14年 3月 2日 、 日本古武道振興会 会員 で森重流古式砲術 の島津兼治氏、 日本銃砲 史 ついて 学会 の峯 田元治 氏、板橋 区常盤台倹1友会 の成瀬和夫氏 らと、板橋 区での鉄砲隊結成 に 会合 を持 つた。発起人は郷 土資料館 の小西 である。 一 「 板橋 区の鉄砲隊結成 の理 由と して 、平成 15年 度予定 の特別展 日本 の砲術 和流砲術 か ら 西洋流砲術 ヘ ー」 に伴 う砲術演武 と、高島秋帆 に代表 され る西洋流砲術 の伝習及 び実際論 を 一 町 (地域)起 こしの 環 として立ち上 げたい と考 えたか らである。演武場所 として赤塚城 が 最適 であ り、梅 まつ り開催期間中での実施 を想定 した。 一 流西洋砲術隊 の結成式 を開催 、今後 の活動方針 につ 4月 6日 、(仮称)江 戸鉄砲組― 高[鳥 いて意見交換 を行 った。会は平成 15年 度 に向けて準備 を行 うとし、ボランテ ィアに基 づ く活 ー 動 とした。 しか し、夏前 に高島平警察署 か ら、9月 中旬 に交通パ レ ドを行 うので、高島秋 帆 の徳丸原洋 式調練 を再現 した行進 を実施 して欲 しい との依頼 があつた。準備資金 もな く、 段取 りの見通 しも立たなか つたが、島津先 生か ら①警察に協力す ると火薬使用 による発砲許 -105- ■■ ■ ■ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ロ ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ︲ の試み 教育普及活動 と特殊ボランテイア育成 ■■■■■■︱︱︱︱︱︱︱︱IIIIllllllllllllllll 教育普及活動 と特殊ボ ランテ ィァ 育成の試 み 可が取れや す ぃ。②新規の鉄砲 隊 の 結成 を公 安 ・警察を含 めて平成 14年 4月 以降認 めない 方 針 にあ る。③館のよ うな公立機 関が 学術的側面で支援 す る体制であ ることが必 須条件 、 これ をク リアす るため早急な準備 を必 要 と す るとい うもので した。 この時には資金面で も人力の 面で も会 としての形 の体をな してぃ なかったため 一 、 人島津先生に多大なる負担 をお願 い し たよ うな次代です。 しか しなが ら、郷土 資料館か らは切地 の提供 を、顧 問 ・賛助会 。 員 その 他か ら旗や衣装 。足袋 等 の資金 。現物援助 を受 け鉄砲 隊の衣装及び道 具製 作等にあたった。 また、会 の名称 も 「 西洋流火 術鉄砲隊保存会」 と正式に命名 した 。 9月 14日 (土)午 前、早朝 よ り郷土資 料館 に集合 して衣 装 を整 え、成増 スキ ップ村で の高 島秋帆徳丸原洋式調練 の再現 を 目指 した行進 を行い 、地域か ら多大なる声援 を頂 くことがで きた。 同時にNHK放 送による取材 と放映 もあ り 、幸先 良い発会 ともなったので ある。 10月 27日 、高島平まつ りに協力、警察か らの火 薬使用 による発砲許可を得て、東京都 内 では、森重流 古式砲術 、新宿 区百人 町鉄砲隊に次 ぐ鉄砲隊 との位置付けを得た。 また、西洋 流 の鉄砲隊 として も全国的にも珍 しい 出陣式 となった。 この後、東京新聞 ・読売新聞等か らの取材があ り 、特に読売新間の紹介か ら新規 の入会希 望者が相次 ぎ、会員 の層 を厚 くす ることがで きた。 このため 新規会員 の紹介 と年初 の活動報 告 のため、 2月 16日 (日)総 会及び会員紹介 を行 い、平成 15年 度活動の方 針 を提示 した。 3月 2日 (日)に は梅 まつ りに合せ、郷土資料館 民家前にて 会員 7名 による演武 を 2回 披 市 露 した。 会の趣 旨 板 橋 区には、西洋砲 術家 の高島秋帆が演武 を行 った歴 史的な経緯 が ある 。そ の 歴史的な事跡 を評価す るとともに、板橋 区の名 を広 め、また地域活`性化 の一 として 助 西洋流火術鉄砲隊保存会 (江戸鉄砲組 )を 結成 し、板橋 区及び区外での積極的な演武 及び広報活動 を行 う。 活動 目標 東 京 には古式銃 (火縄銃)に よる演武 を行 う団体が 2団 体ある。本会は 日本古 来 の古式銃 の伝統 に則 りなが ら、高 島秋帆による西洋流砲術 とい う、 日本で唯一 の西 洋流鉄砲演武の会 として活動す る。 会は、板橋 区住民及び 関係者 によって結成 され 、板橋 区の事業に積極的に関わ り、地 域活 性化 のため活動す る。会員は基本的にボランテ ィアである。 しか し会は、要請 のあ る場合、道具 の運搬 ・火薬使用等による実費負担 を求めるが、営利 を 目的 としない。 また、会は、資金的な援助な しで も、会 の活動 目的に合致す る場合は積極的に関与 し、板橋 区 と高 島秋帆による西洋流砲術 の名 を広 げることに努 める。年会費制。 先述 したよ うに、鉄砲隊創設 には当館 での展示活動の延長線上 とい う伏線がある。 主たる活動 が特別展等 の展示活動 にある事は繰 り返 し述 べ て きた。常設展示及び収集資料 の柱 として高島平 地名発祥 の人物高島秋 帆 に焦′ 点を当て、それが平成 6年 2月 の特別展 「 高島秋帆」に開花 したが、 そ の際展示 に伴 う特別講演や シンポジ ウム、展示解説、都 内にある高島秋帆ゆか りの地に史跡散 歩等、思 い付 く範囲での教育普及活動 を行 って きた。それで も物足 りない部分が残 った。 これ ら はある意味にお いて普通 とい うと失礼か もしれ ないが、当た り前 の事業なので ある。 もつ とイ ン パ ク トの あるものが欲 しい と思いなが ら、平成 10年 秋、高島秋帆生誕 200年 と高 島平団地入居 26年 (30周 年 を念頭 において)を 記念す る特別展 「 高島平」を開催す る。四半世紀 を経て人 口 6 万人 の街 のアイデ ンテ ィテ ィー を再考す る狙 いが あった。地方では人 口数 で比較す ると立派な都 市 の部類 となるが、板橋 の人 口 50数 万人でみ ると一つの地域 を構成 してい るの に過 ぎない。 ヘ -106- 教育普及活動 と特殊ボランティア育成の試み そ の ない住 宅地である。 この時期 の高島平 では、既 に 日本 の将来像 を見透か したかの よ うな都市 病 の兆候 が出ていた。 高島平は果 た して住民 に とつて故郷 なのか、町 として の愛着感や歴史 の浅 さを問われつつ あつた時期 であ り、それ を象徴す るかのよ うに高島平住民 の約 6割 が地名 由来 さ は え知 らない調 査結果が出てい る 1'。特別展 はそ の事 へ の問いか けであつた。 しか し、展示だけ では一過性 に過 ぎず、実際大 きなイ ンパ ク トとな り得 なか つたのである。 そ こで町 (街)興 しと 一 地域 の歴史再確認 を兼ねなが ら、当館 の活動 の 端 を紹介す る意味にお いて も、またそ の象徴 と へ して高島秋帆 が幕末 にここで歴史上 日本最初 の西洋式調練 を再現す る意味 か ら鉄砲隊創設 結 び 動」 とい うよ り行動力 つい たのである。繰 り返 し述 べ るが、展示 が 「 静」 であれば、鉄砲隊は 「 一 のある展示手法。 これ に携 わるメ ンバー を当館 の 種 のボ ラ ンテ ィア として育み、広義 の教育普 一 巳み入れた ので ある。 及活動 の 環へ糸 ち上げ費用 の問題 鉄砲隊を捨J設にす るにあた つて は、地元 の有志 に加 え鉄砲指導 の人物 を探す必要 があつた。板 1)-2 立 橋 区内に居ない ことがわかっていた ので 、都 内で誰が適任 か とい う相談 を剣術及び銃砲史関係者 に当た りをつ け、そ こで候補 に上が った のが 品川 区在住 で森重流砲術研究会 を主催 し、柳 生心眼 流兵法術 の古武道家島津兼治 氏である。島津氏は新宿百人町鉄砲隊創設 にも関わ つたベ テ ラ ンで あ り、 占武道 の面 か ら砲術 を継承 していた ので ある。 当館 へ の来館時に赤塚城 に登 り、 この場所 は稽 占や演武 にも素晴 らしい と感想 を漏 らされ、同時に筆者 へ の覚悟 を確認 したので ある。 平成 14年 春 、数人 の仲間内で鉄砲隊創設 へ の準備 を進 める事 としたが、問題 は どれだけの費 用が かかるか とい う問題 であつた。筆者 は 14年 度 中に費用概算 を算 出 し、 15年 度 にお いて館 の 事業 の一環 として組み込む ことを想定 して いたが、たまたま 14年 5月 に地元 を所轄す る高島平 ー 警察署へ相談 した折 、警察署長 さんか らの熱 心な薦 め と秋 に行 う交通安全 パ レ ドに高島の鉄砲 隊 として参加 しないか との誘 い を受 け、急速前倒 しで準備す る こととな つた。 当時、当館 が負担 できるの は消耗 品程度であ り、 これだけでは充分な体市1を作 ることが出来ないので延期 して時期 を待 ちた い と筆者 は島津氏を説得 、反対 の意志 を示 したのであるが、島津氏は 自分 で負担す るの で警察 か らの誘 いのチ ャ ンス は逃す べ きでない との頑 な姿勢 に終始 した。 そ の結果、衣装材料 の 布地 と工作す るスペ ー ス を提供、あ とは関係者 をまわ り諸道具を揃 えるための寄付活動 を始めた。 ほ とん ど公的な資金援助 によらない、民間有 志か らなる鉄砲隊立ち上 げ とな ったので ある。会則 lυ を設 け G主 、参加者 をつの り、秋 の交通安全 パ レー ドや、高島平団地で開催 され るまつ りに高島 鉄砲 隊 として参加 、初 めての演武 を披露 した。 鉄砲隊参加 はマス コ ミにも大 々的に取 り上げ られ、難産 の害Jには比較的順調 なス ター トを切 る ことがで きた。 島津氏 か ら再 々 にわた つて、鉄砲隊 は大人 の遊び と思つて もらいた と念押 しされ たのが印象 に残 つてい る。実際 は古武道 の流儀 としてマス ター した上での話 であるが 、要 は個人 電銃 は 1挺 35万 円前後 し、 的な負担 が馬鹿 にな らない とい う意味である。因みに個人所持す る火糸 整備ッ 像検費用や小道具揃 えを含 めると結構 な金額 となる。 これは、博物館 が負担す るもの と別 世 界 の話 であ り、結果 として個人有志 による鉄砲隊創 設 とい うス タンスが、 この場合 向いていた と い うことになる。 ボランテ ィア といって も、個人負担 が大きい 団体なので ある。それ を当館 の活 動方針 と ^体 化 させ るのが学芸員 の役害1である。お金ではない公 的な援助 を最大限博物館側が行 うが、運用 は純粋 に鉄砲隊が行 うとい う役割分担 としたのである。 高島秋帆 の 西洋流 の鉄砲隊は、江戸時代に隆盛 した和流砲術 の武芸 とい う個 々人 の所作 とは異 質な、集 団行動 が西洋流 の特徴 である。18世 紀後半 ヨー ロ ッパ のナポ レオン戦争 で編み出 された -107- 教育普及活動と特殊ボランティア育成の試み 集団戦法が高島流の特徴であ り、 この流派はやがて西洋流 と名 を変 え全 国の諸藩で導入 した歴 史 を持 っている。日 本最初 の西洋流 ス タイルの鉄砲演武 を行 う団体 として、そ の特徴 ある団体 を板 橋 の地か ら発祥 させたのである。会発足に当た っての 島津氏 の役割は非常に重 要なもの であ り、 それ を支援 した頂 いた各種団体、特 に 日本銃砲史学会 とのつ なが りが 15年 度以降 の鉄砲展等に 重大な影響 を与えて くる ことになる は1り 。 個人負担 の大 きな鉄砲隊創設 にあったって、一体 どれだけの概算費用がかかるのか とい うと鉄 砲流派 のス タイル によって も異なるが、西洋流では 15名 の演武構成 (旗持 ち、見分役、指揮、 道具方 、銃 士)で 400万 ∼500万 位 である。 翌 15年 4月 に会報 「 高島秋帆研究 ―西洋流火術鉄砲隊保存会会報 ―」を発行、活動記録 と会 員間 の コ ミュニケー シ ョンを掲載す る。研究的な性格 を持たせ気持 ちの高揚 を狙 つて もい る。 冒 頭 で私事なが ら以下のよ うなあい さつ文を掲載 した。 写真 13 区 民まつ りでの鉄砲隊演武 写真 14 鉄 砲隊の会報 あいさつ 鉄 砲隊発足にあたって 西洋流火術鉄砲隊保存会会長 小 西雅徳 昨年 の平成 14年 3月 2日 に島津兼治先生を、峯 田 。成瀬両会員 か ら紹介 して頂 き、板橋 区で の念願であった西洋流 の鉄砲隊を立ち上げることができま した。 この 日は赤塚梅 まつ り の初 日で、 2年 後 の特別展 「日本 の砲術」に伴 う鉄砲演武 に向けた よき 日で もあ りま した。 板橋 区高島平は、江戸時代には徳丸原 と呼ばれ 、幕府 の砲術場であると共に、天保十 二年 五月九 日に長崎 の西洋流砲術 家高島秋帆 が 日本初 の西洋式砲術調練 を行 つた地 として、歴史 及び砲術 史上にその名 を留めて い る所です。板橋 区立郷土資料館 では、高島秋帆 を顕彰す る 意味 で幾度 かの展示会 を開催 し、そ の業績 を評価 してきま したが、 ただ展示活動のみに拘泥 す る ことな く、そ の再現 とその実践 とを渇望 していた ところ、成瀬 ・峯 田両会員 の紹介 によ り島津先生 の知遇 と協力 を得 る ことがで きま した。そ して、都 内のみな らず全国的にも珍 し い西洋流 の火術 (砲術)を 再現 。実践す る団体 を立ち上げる ことがで きま した。 今 か ら思 うと予算的 にも時 間的 にも不 十分な中、一人島津先 生の献身に よつて、 この西洋 流火術鉄砲隊保存会 を立 ち上げることが出来た と言 つて も過言ではあ りません。発足後 の 2 連絡誌 であると共に研究的な色彩 を持 つ会報 を発行す る こともできま した。 年 目の今 日には、 中性のみに重点 を置 くので もな く、高島秋帆 の精 単 に鉄砲 を打つのではな く、また空疎な精ネ 神 とその先進性 を受 け継 ぎなが ら、地元板橋 区の歴史的団体 として活動 して 、や がてはその 名 を全国区に広 めるべ く精進 したい ものです。 この団体は会員 によるボランテ ィア団体 であ り、短期 間で終わる ことな く次代 を受 け継 ぐ糸 区承性 の ある団体 として維持 しつつ 、そ のため -108- 教育普及活動 と特殊ボランティア育成の試み には、会 員相 互 の連絡 ・連携 を密 に しなが ら、息 の長 い 会 と して活動 した い と考 えてお りま す。会員諸 氏 か らの 忌憚 の な い意 見 を賜 りなが ら、会報発行 の継続 を切 に願 うものです。 1)-3 活 動実績 について 鉄砲 隊 は 20名 程 で構成 し、まつ りの 時期や演武 内容 に よ り適 宜応 援者 を加 えて い る。秋 の 区 民まつ りの 時 には、 当館 へ 博物館 実習 に来て い る学生 に鎧や西洋流 の服装 で参加 させ てい る。 学 生の 中には感動 してそ のまま鉄砲 隊 に加入す る者 もい る。 多数 の 区民等 が注 目す る中で初 めて行 進 ・演武す るのは緊張す るで あろ うが 、 そ の体験 は他 の博物館 では決 して味わ うこ とが 出来 な い ー もので あ る。 ユ ニ クな実習 と思 う。 主 な年 間 ス ケ ジュー ル は 1月 の お払 い と新年会 、3月 上旬 の梅 まつ り、4月 の総会 、5月 の端 午 の節句 鎧 着付 け体験応援 、同 じく 5月 に 日野市新撰組 まつ り、7月 の射 撃場訓練 、10月 区民ま つ り 。高島平 まつ り、11月 農 業 まつ りとな り、昨年 の 10月 には福井 県大野市 の 大野城 開城 430年 祭 に参加 して い る。今年 も長 野市松代 での参加 が決定 して い る。練習 は第 2、 第 4日 曜 で あ る。 く火 用 の 口薬入れ 練習 は赤塚城址公 園 で行 う。小道 具作 りも当館 の講義 室 を借 りて行 い 、昨年 は′ L2∂ 停 を参照 され た。 を伝 統 工 芸 の根付 士 の指導 を得 て 作 つてい る。鉄砲 隊 の練習基本 につ いて 演武 で発砲す るのは各 自 5発 であ る。 この 5と い う数字 は、戦 国時代以 降 の鉄砲足軽 が携 帯す る 胴 乱 に納 め られ た数 と共通 し、通 常 は倍 の 10発 を収納す る。 戦場 で は鉄砲足軽 は 100発 まで の 発射 を求 め られ た とい う。今 、国 内で行 われ て い る和流流派 に よる砲術 (鉄砲演武)も 打 つ 発射 数 は普通 5発 で あ る。 写真 15 福 井県大野市大野城 開城 430年 祭での演武 (平成 22年 10月 9日 ) 赤 塚梅まつ り古武道での鉄砲隊演武 写真 真 16 赤 写 2)赤 塚城戦国絵巻武者行列 平成 14年 春 に鉄砲 隊を立 ち上げる時、演武場所 として当館裏 にある中世 の平山城 (武蔵千葉 望む縁 にある赤塚城 の ある赤塚 氏 の居城。戦国期)赤 塚城 を想定 していた。武蔵野台地 の荒り││を 城址公 園 は都 立公 園 であ り勝手 に使 うことは 出来ないが、抜群 のロケー シ ョンで あ り、 この地で の活動 を祈願 し続 けていた。特 に 2月 か ら 3月 にかけて赤塚溜池公園や赤塚城 址周辺 は梅が咲き 一 誇 る名所で、3月 上旬 には必ず梅 まつ りを毎回開催す る。板橋 区 として も この周辺 帯 の観光化 を度 々企図 していたが、交通 アクセ ス上 問題 があって集 客性 とい う点で も苦 心 していた。 これ は当館 に とつて も重要課題 である。 鎧 を身 に付 けて鉄砲 を打つ事は既 に会則 に うたつていた所 である。 西洋流 ス タイルの鉄砲隊が、 それ を実際に行動 に移す何 らかの きっか けを必要 としていた。 出来 ることな ら当館 の 自主事業で 考慮す べ きであ つたが、企画説明及び予算面 での根拠 を示す のが難 しかったのである。 - 109 ‐ 一 教育普及活動 と特殊 ボランティア育成の試み ところが 、平成 17・ 18年 頃 の板橋 区を始 め とす る東京 都及 び 特別 区にお い て 、金融 。IT関 係 産業 (輸出産業 を含 む)の 景況感 の好結果 を受 け大幅 な増収 とな り、そ の恩恵 が税 の配分 となっ て特別 区に回 つて きた ので あ る は2p。地方 では夢 と思 うよ うな話 であ る。余 った税 を何 に使 うか。 これ らは基本 的 に教育 関係 配分 となった。 当時 の板橋 区だ けで 70億 円 の配 当額 で あ る。 学校設 備 に使 うには、大 々 的であれ ばまたハ コモ ノ とい う批判 を浴び かねず 限界 が あ るが、学校連 携 の ソフ ト事業 へ は積極 的な投資す る動 きを示 していたので 、 当館 では赤塚城 とい う観 光 立 地 ・遺産 を活用す る方法 をベ ー ス に、学校 と連 携 して鎧 作 りや鎧 着付 け体験 を行 い 、赤塚城 で子 供 た ちが 主体 とな った武 者行列 を組 む。 それ には地 域 の人 々 との協力及 びボ ラ ンテ ィア を募 る旨の 以下 の 企 画 (案)を 提 出 した。 赤塚城戦国絵巻体験学習 と武者行列 趣 旨 赤塚周辺 の小学校や地域 の人 々 らとの連係 によって、赤塚城 の歴史 を学びつつ 、戦国時代 の武者行列再現を試み る。赤塚城 を中心 とした新 たな文化創 出を企図 し、また、区が推進す る文化芸術振興 に関わる文化 ・観光創 出事業 の観光振興策 とも連係 したい。 赤塚城跡 は 「自然 と歴史 と文化 の 里 。赤塚Jの 拠点である。城跡 を中心 とした地域的なつ な が りを深 め、町興 しのよ うな地域活性化 を試み る。最初 に、次代 を担 う児童達に学校教育 の 場 で、赤塚城 の歴史を学 び、鎧や着物 をま とう子供 を中心 とした武者行列 を再現す る。 この 事業では、全ての鎧 。衣装 を取 り揃 えるのは困難 なので、一部 を指 導者 の助言 を得なが ら児 童用 の武者装束及び女性用衣装 を手作 りす るな どを して、学校教育 の場 での手工芸の楽 しみ を同時に学ぶ。そ の成果 を、11月 の農業まつ りと 3月 の梅 まつ りに赤塚城戦国時代絵巻再現 として実演す る。時代設定は、戦国時代の上杉謙信 が小 田原城攻めの際、赤塚大堂を焼 き払 った と伝 えられ る永禄 4年 (1561)か 、あるい は豊臣秀吉 による小 田原攻 めのため、後北条 氏 と関係 した千葉氏居城 の赤塚城 が廃城 となった天正 18年 (1590)春 を想定す る。 内 容 1)赤 塚城 の歴史を学ぶ (ワー クシー トの作成) 2)鎧 (衣装)を 作 ってみ る 。着 てみ る (体験学習) 3)武 者行列 (本陣 。出陣 ・帰陣 ・祝宴)⇒ 農業 まつ り 。梅 まつ りへ の参加 対 象 塚 。三 園 ・成増ケ丘 ・高島第 二の赤塚城跡近隣小学校 の希望者及 び まつ り」 区全体 か らの希望者 をつの る (人数未定)。赤塚城跡 の近隣小学校は 「 (当初協力学校)赤 の核 となるもので 、準 じその範囲を広 げてゆきたい。 期 間 平成 18年 11月 11日 (土)初 出陣 (準備 は 5月 下旬 よ り開始)、3月 3日 (土) 場 所 赤塚城跡及び溜池周辺 (赤塚農業まつ りの場合は、赤塚体育館周 辺) 将来的展 望 ①武者行列 (本陣 。出陣 ・帰陣 ・祝宴)の 定型化 ②楽市楽座 (マー ケ ッ ト) ③古武道演武 (居合、柔術、鉄砲等) 協賛 0人 的資源 -110- 教育普及活動 と特殊ボランテイア育成の試み 「 い 。 ′ で全 赤塚地域 の企 業 ・商店街 」Aあ おば、寺社等 にカロえ、 和文化 の創 出」 と う視 は 国規模 企業 の協賛 を得たい。着物 に代表 され る呉服商 の全 面的な協力 も得 る。また、人的 資源 では、観光協会及 び観光 ボランテ ィア、 シエアの人 々や古武道 の分野 で区内在住及び そ の他 の団体活 用 をはかる。 協力者 甲冑師 三 浦 公 法氏 (板橋 区伝統 工芸保持者) 歴 史家 西 ヶ谷恭弘氏 (戦国史研究家) そ の他 鎧 模造製作者 (うさぎ塾)、西洋流火術鉄砲隊保存会 (赤塚城鉄砲隊)、呉服商、 着付師、旗屋 、裁縫、そ の他 ・ 次に学校 との連携 を示すた めに、以下の よ うな企画書を用意 して学校長 担 当教員 との相談を 行 つた。紙鎧作 りな どは 自由研究 で恰好 の素材 だが、授業で使 うのは時間の 関係 上難 しいか もし れない。 しか し、武者行 列参加児童 へ の案内 には協力 したい との返事 を受 け、夏休み期間中の紙 鎧作 り体制準備 に着手 してい る。 赤塚城戦国絵巻体験学習 と武者行列 における学校 との連係 実施主 旨 一 赤塚城戦国絵巻体験学習 と武者行列再現 へ の第 歩 として、赤塚周辺 の小学校や地域 の 人 々 らと連係 してそ の実現に取 り組み たい。 そ こで、学校側 が行 い得 る内容 を、郷 土資料館 側 がプ ログラム して、学校教育 の場 で赤塚城 あるい は鎧兜 の着付 けな ど、歴史教育にも興味 を持てる教材活用 として実践す る。 また、武者行列実施校 には、希望があれば鎧 セ ッ トを配 布 して、教材活用 に役 立てる事が できるよ うにす る。 一 体験学習 は、学校教育 の場 で鎧の 部な りを作 る事によ り、手 工芸 の楽 しさと歴史 とを同 時に学ぶ ことができる。そ うした成果 を、11月 の農業 まつ りや 3月 の梅 まつ りで実施す る赤 一 塚城戦国時代絵巻武者行列 (姫役 を含 む)再 現 の 員 として参加実演す る。時代設定は、戦 国時代 の上杉謙信 が小 田原城攻 めの際、赤塚大堂を焼 き払 つた と伝 え られ る永禄 4年 (1561) か、あるい は豊臣秀吉による小 田原攻 めのため、後北条氏 と関係 した千葉氏居城 の赤塚城 が 廃城 とな つた天正 18年 (1590)春 を想定す る。 対応 内容 1)赤 塚城 の歴史を学ぶ ワー クシー トの配布 (自由配布 小 学校 6年 生程度) ・歴史単元あるい は郷土学習 の一助 として役 立て られ るもの (今年度 は内容 検討 の余地 を残 し、次年度早 々 に教材 として希望す る学校 に配布す る) 2)鎧 (衣装)を 作 ってみ る 。着 てみ る (体験学習) ・鎧兜を最初 か ら手作 りす るためには、相 当の時間を要す る (半日×12回 程度)。 これ は学校側対応 として現実的でないため、ある程度 の完成 品を作 り、それ を連結 (威し紐 を通す)し た り、鎧 の各パ ー ツ (部材)名 称 を覚 えなが ら、実際に着付 け (着用)を す るな どの対応 は可能 と思われ る。 1教 室で数領 の鎧 を用意 し、全員が着用体験できるよ うにす る。 ・試着用鎧兜の配布 は、希望校 に郷土資料館が届 けるか、あるい は学校側が取 りに来 る ことで対応 (協議 の上)。 。鎧着付 け講習 をボランテ ィアあるいは郷土資料館職員が行 うが、希望す る先生がいれ -lH一 教育普及活動 と特殊ボランテ ィア育成の試み ば 1時 間程度 の講習 で先 生 自身 で着付 ける こ とがで きる。そ うした講 習 の場 を設 けるこ とは 可能 である (実施校教師 の積極 的 な着付 け講習参加 を促 す)。 。赤塚 城 の歴 史や鎧 の歴 史 (着用時)に つい ての講師派遣。 3年 後 には 40名 程度 まで拡 充す る。 対 象 (当初協力学校) 赤 塚 ・三 園 ・成増ケ丘 。高島第 二の赤塚城跡近隣小 学校 の希望者 中心に行 い、1贋次実施校 の範囲を拡張す る。 夏休み鎧作 り講習会 の案 内 平成 18年 7月 下旬か ら数名程度 の希望者 を募集。参加費無料。親子 体験 も可能。 武者行列実施 日 平成 18年 11月 11日 (土)初 出陣平成 19年 3月 3日 (土) この企 画に対 して教育委員会は、総額 1000万 の予算処置 を講 じて くれた。初年度 18年 400 万、19年 。20年 度が各 300万 である。 もつ と予算 を付 けるといわれたが、体制的に対応 できる 範囲に限度 があ り断 った経緯 がある。特に紙鎧作 り等は相 当手間がかかると予測 されたのである。 未体験であ り、 ど う転 がるか蓋を開けてみない とわか らない部分であ り、む しろ煩雑 と予測 で き るものへ無理 に多額 の 予算 をつ けないのが鉄則 である。 しか しなが ら鉄砲隊の時 と違い予算 が付 い たのは夢 のよ うであった。 2)-2 手 作 り鎧 工作 と武者行列 初年度 の武者行列の参加人数 を 30名 程度 とし、残 り2年 間で 30人 を追加 、最大 で 60人 前後 の武者行列体制 を作 ることとした。大人 のサイ ズには市販 の鉄製 の鎧 (当世具足)が あるので購 入で済むが、問題 は小学生 の体型 にあつた鎧が無いために作 る必要がある事である。そ こで販売 用 として小 田原市にある 「うさぎ塾」製 の大人 向け、子供 向け紙製鎧キ ッ トを購入、試 しに作 る こととした。作成 には うさぎ塾が指導に来て、館職員や ボランテ ィアがそのノ ウハ ウを学ぶ ので ある。数 をこなすためには、紙鎧作 りの指 導者 を最初 に養成す る必要があ った。 これは夏前か ら 準備 し、夏休み期 間中に一般公募 した親子紙鎧作 り教室 を開い ている。 5組 の募集 に対 して 3組 の応募があった。子供 が 自主的に応 募 した とい うよ り、親 が熱心である。歴女 の走 りであろ う。 女性 の方が鎧 に興味を持 ってい るよ うである。男親は意外 と積極的でない。 結論か らす ると、 うさぎ塾 の教材 で子供 が作 るのは とても困難 であることがわかつた。大人 で さえ大変なの に、 子供では とても工程の点や根気 の部分 を見ても難度 が高す ぎるよ うに思われ る。 これでは、学校全体で鎧 を作 る ことな ど土台無理であることを実感 した。経験 して́みない とわか らない ことである。 2年 目か らは板橋 区内在住 の 甲冑師三浦氏の指導 を仰 ぎ、技術面での修 正を 加 えるな ど、徐 々 に製作技術 の 向上が図 られてい る。性格 によるのか上手な人 と下手な人 (雑か 否 か)と がいて、鎧作 りにも個性が出るものだ と感 じた。 ベ テ ラン ともなると、兜の前立てに凝 つた もの を作 り、胴 の 出来栄 えも細工を加 え素晴 らしい もの を作 る。 これ こそが鎧作 りか ら学ん だ経験 である。鎧作 リボランテ ィアが現在 の武者行列行進 の裏方、 サポー トの面 々 となってい る。 彼 らには一切 の謝礼を払 つてい ない純粋 のボ ランテ ィアであ り、鉄砲隊 と違 つて 自己負担がない ものの、当館 の事業には献身的に参力日してお り大変あ りがたい。 -112- 教育普及活動 と特殊ボランティア育成の試み C ・ めを参考 に構成 した 武者行 列 の陣形 は、日本武道館 が正月早 々 に開催す る鏡開き式 武道始 2'。武道館 では鎌倉様式 の鎧 を身 にま とうが、板橋 では時代 を戦国に してい るので 、当世具足 中 バ ンス感 がある。しか し、 心である。しか し、うさぎ塾 の紙鎧 が鎌倉風 であるため、若千 のアン ラ スで は当世具足 がぴた りと合 う。 子供 には この方が似合 うよ うである。小学校 上級生や高校 生 クラ す る。本来出陣 に際 して姫が参加す る ことは歴史的事実 と 更に行列 には着物 を着た姫様役 も参カロ い 一 してあ りえないが、そ こは 種 の華 として行列 に組み入れ てい る。女子 は圧倒的 に着物 を着た い と願 っている。姫 に限 らず、役付 きを毎回 じやんけんで決 める慣わ しである。負 けて泣 く子 も 々の協力 による て準備会場 は大変 である。児童用 の着物 は全て特注 であ り、それはい ろい ろな人 い欠′ ハ 点が 賜物 である。 レンタルで武者行列 を組む ことは易 い。 しか し、 ノウ ウの蓄積 が出来な ので ある。手作 り武者行列 は大変 であるが、 日に見 えない蓄積 が出来 る。それ こそが財産 となる ある。 行列 内容 は、①行進、②着至1状、③ 二献 の儀、④勝 どき、⑤行進 の順 で行 う。奉行役 と警備 を え)の 武 兼 ねた人人衆 が鎧 を着て脇に付 き添 う。 主体は子供 である。構成 は主 として黒鎧 (黒備 ・ 19 蔵千葉 氏、赤鎧 (赤備 え)の 後北条 氏 の 2軍 か らな り、間に姫 腰元等 の女子 を挟む。平成 の 年 3月 の最初 の 出陣式では 30名 強 の編成 であったが、22年 11月 の農業 まつ りでは 54人 大編 成 とな つた。準備 す る方 としては 30名 か ら 40名 程度 がち ょうど良い。少人数 だ と行列があま り の 見栄 えしないので 40名 前後 に揃 えるのが 良い。毎年応募人数 が違 うので参加人数 を予沢1する は難 しいが、最 近では武者行列 が定着化 してい るのか応募者 も増加傾 向にあ る。 大人 の時代まつ り的なイベ ン トは数多 い。 しか し、当館 の よ うに子供 主体 の武者行列 は珍 しい と思 う。 子供 が参加す ると、両親 に限 らず祖父母や親戚 まで見に来 るので、動員効果 がす こぶ る 幼稚園 クラスの参加 を見据 えて鎧作 りに励 んでい るところである。 大きいのである。今は低学年 ・ この鎧作 りのノ ウハ ウを、 素材 を含 めて福 井県大野市 での武者行列 に提供す るまでにな つてい る。 武者行列 を公開す るのは 11月 と 3月 の 2回 だけであるが、5月 の節句 で も鎧着用を行 い 、学校教 材 として も貸 し出 してい る。 写真 18 着 到状 (赤塚城 での梅 まつ り風景) 写真 17 武 者行列行進 - 113 - 教育普及活 動 と特 殊 ボ ラ ンテ ィア 育成 の試 み lV 三 二 献の儀 写真 与ヨ‐19 臥の儀 (晨 (農業 栗 まつ り) り, 写 真 20 農 業まつ り武者行列参加者集合写真 (平成 22年 11月 ) 5。 おわ りに 一博物館活動 の多様性 と人材育成 を求めて 一 板橋では、 他館 にない独特 のボ ランテ ィア団体 の育成 をはか り、 今 では 一定 の成果 を生みつつ 、 将来 を担 える団体へ の躍進 を期待 で きるまでになった。彼 らは特殊技能 の持 ち主である。鉄砲隊 と武者行列 とは、成 立経緯やお金 のか け方がまった く対照的であ りなが ら、面 白いこ とに、そ こ に集 う面 々の性格や人材 が多様でユニー クな雰囲気 を醸成 しそれぞれ大変個性的である。 両者 は 協同 して郷土資料館運営 ・活動 を支 える裏方的な存在であ り、当館 に とって大変な財産 を得た喜 びを素直に感謝 の念で表 したい と思ってい る。 さて、高橋裕 は 「 地域博物館 へ の提言」は2」の 中で、博物館 づ くりは人 づ くりであると述 べ た が、 まった くそ の通 りである。博物館 を作 った らあとは勝手に とい うわけにいかない。人作 りに は そ こか らいか に学芸員 自身 も含 め、地域 の 中か ら人を作 ってい くか とい う本 当の宿題 を負 わ され る。地域文化 の核 (コア)に なるためには、人 の連携 を含 め人材ネ ッ トワー クにかかってい るのである。 一 言でい うと愛 され る博物館 とは何か とい うことになる。そ の第 一 が人作 りであろ う。学芸 員 に会って話 しを聞 こ う、聞いて もらお うとい う環境作 り雰囲気作 りが、や がて人作 り と愛 され る博物館 に繋 がるので ある。来 客万歳。それ こそが原点 であろ う。 例 えば企 画展や特別展のよ うな展示準備 。開催 とい う一連 の作業 の 中で、い ろい ろの人 々 の協 力 ・連携があ って公 開 され るのであるが、そ の範囲 。パ イ とい うものは得 て して限定的にな りが ちである。所言 胃専門家集団 の 中で収束 してい る感 を否定できない。それ に対 して、教育普及 の世 界 ではよ り広範 な世界 の広が り、 無限 といって も良い可能 性の余地 をそ こに見出す ことがで きる。 しか し、可育 レ性があっても待 っていたのでは駄 目である。積極的なアプ ロー チを掛 ける必要があ る。 これに関 して鉄砲隊や武者行列 を見ていると、何 とな く筆者 の経験 か らすればタイ ミング と い うか機運 が待 っていたよ うにも思 える。それ には時間 と経験 と、多 くの人 々 との繋 が りを持 っ ていな くてはな らないが、鉄砲 隊や武者行列はそ うした人作 りへ の試み の過程で生まれた もの と 考 えている。そ こに人が集 まる、そ うした環境 つ くりが博物館 の役 目であ り、学芸員 の裁量でも ある。単純なが ら彼 ら博物館応援隊 が活躍 。安 ′ 息できる場 (応接 室 ・講義室や簡単な机 と椅子 だ けで も良 い)を 提供す るだけで輪 が広がるので ある。サー クル を作 る、専門集 団を作 る事 の半分 は思いつ きか ら来 る。 しか し、それ を実行 に移す には時間 。資金 ・体力根性 と学芸員 の度胸 。人 物像 も求め られ る。 きらわれ者 の学芸員 には人 は集 ま らない。教育普及 のための手法 と方法はた くさんある、 しか しその事へ の対処 にあたって 自分 自身 も覚悟 を決 める必要 がある。 - 114 - 「 郷土資料館 十 五年 の あゆみ」開館 15周 年特別 展 中山道 と板橋宿 註 1 小 林保男 昭 和 62年 「 一夜明 け前 の世界 一」所収 板 橋 区立郷 土資料館 一 。 。 郷 土資料館 のあゆみ 改築 沿革 所属 の変遷」、小林 板橋 区立郷 土資料館 平 成 3年 「 郷 土資料館雑考」板橋 区立郷 上資料館年報第 3号 保男 「 のあ り方」国学院 大学博物館紀 要 註 2 小 西雅徳 昭 和 61年 「 東京都板橋区 における博物館 板橋 区にお ける文化施設 の課題」国学院 大学博物館学紀 第 10輯 、小西 ほか 平 成 14年 「 要 26輯 註 3 註 1小 林保男論文 2編 による。 つ 柱 4 当 時教育委員会社 会教育課 文化財係 が運営 していた郷 土資料館 (組織 は館 内にあ た)で は、昭和 58年 頃 か ら建物 の傾斜 による施設管理不都合 を理 由に、新 たな施設 の建設 を求 めていた。昭和 62年 末に建設計画が具体化 し、急邊対応 が求め られ ていたが、文化財係 は出先 で赤塚 の郷 土史料館 にあ つた 関係 で本庁 と意志 の疎通 に欠 けて いた。建設費用全般 や敷地 ・建物面積 も本庁主導 で進 め られ、担 当す る学芸員 もあい まい なままであつた。筆 者 が埋蔵文化財等 を担 当 しなが ら兼務 で計画 を立案 した経緯 がある。 註 5 平 成 5年 以降、特 に 10年 前後 には全国各地 で博物館 、美術館等 の 中止及び延期計画 が博 物館界 の話題 をさらつた。同時に学芸員採用 を控 えたの もこの時期 である。 しか し、現実 には博物館数は減少 どころか増加 してい る実態がある。 平成 17年 度社会教育調 査報告書 「 平成 5年 度 が 3704館 に対 して 平成 17年 度は 5614館 である。 博物館 の現状Jに よると、 であつた。 12年 間で 2000館 の増力日 註 6 改 築前は文化財係 が所管 であったため、館運営 の行事報告 は板橋 区文化財保護審議会 に対 して行 つていた。郷 11資料館 として独 立後は条例 によ り板橋 区立郷 上資料館 運営協議会 を 設 けた (委員定数 10名 )。運協 は館運営全般 に亘 る審議機 関であ り、ある意味学芸員 の独 走 を押 さえる機能 も働 いてい ると思 うが、当館 の運協は行政組織 にお いて も非常 に活発で バ ランスが 良い との評判である。 註 7 1日 館 の郷 土資料館ができた時には学芸員制度 がな く、社会教育主事あるい は文化財専門員 とい う非常勤職員 を置 いてい た。 当初は大学 を出た若 い学芸員資格者 を専門員 として置 い ていたが、や がて他 の博物館や教育委員会 へ就職 、学校長退職 ポス トとして文化財専門員 を設置 して、主に郷土全般や小学校及び団体見学 の説 明を行 っていた。改築後 の新組織 で 区がれたが、5年 任期 を機 に学校長ではな く若 い学芸員有資格者 を当て、 もこの制度 が受 け糸 一 ある意味学芸員 の補助 として機能 している。実際 には、常勤 と非常勤 の仕事 内容が同 で あ りなが ら、給与体系等 に大 きなアンバ ラ ンスが ある。所謂格差 の問題 が当館 にもある。 註 8 学 芸員 と文化財専門員 との待遇面是正は、重要かつ 緊急 性をは らむが、現実的には年齢や 専門性 の課題 があつて残念なが ら是正は困難である。任用面 で大 きな利点を見出 したいが 、 これは郷土資料館 だけの問題 でな く、例 えば板橋 区全体 で非 常勤職員 だけで 1000人 以 上 がいる中で、他 の組織 との整合性が求め られ る。特別 区の博物館施設 には こ うした非常勤 職員 が大変多 い。 註 9 年 平均 の寄贈 申 し込み件数 は 304有 i後である。分量 も年 によつて相違す る。多 い時は 1 件 あた りの分量 が トラック 2台 となることも珍 しくない。首都圏近郊 といい なが ら、まだ まだ農 家 の納屋等 が多 い。最近 の傾 向 として江戸明治期 の資料 は珍 しくな つて きた。 だい た い 古い家 の把握 は終了 し、それ らも相続等で解体 され る際に大量 の資料 が出て くるので -115- ■■■■■■■■■■■■■︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ロローーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 教育普及活動 と特殊ボランティア育成の試み 教育普及活動と特殊ボランティア育成の試み あ る。 当館 ではアル バ イ ト2名 を雇用 し整 理 に専従す る 。 註 10 開 館 当初 (平成 2年 度)の 教育普及 を含 めた文 化財展示予 は 5000万 算 円強 であった が 、 今 では 2000万 円強 と五 分 の二 程度 に減少 してい る (平成 22年 度予算 との比 較)。註 2の 「 板橋 区にお け る文 化施設 の課題 J国 学院大学 博物館 学紀要 26輯 を参照 され たい 。 註 11 行 事 ご とに必 ず ア ンケ ー トを集 め る。内容 は一 般公 開 してい な い が 、行政文書 での公 開請 求 は可 能 であ る。 当館 では適宜 問題 の ある部分 を改 善す るよ うに心が けて い る 。 因み 、現 在 の受講者 の費用 は実 費負担 が原則 で 、子供 (中学生以 下)100円 。大人 が 300円 で あ る 。 博 物館 講座 の よ うに、掛 け軸 を作 る高 度 な 内容 の 場合 、講 師謝 ネL及 び 材 料 代 と して 一 人 3000円 を徴収 してい る。講演会 は基 本 的 に無 料。以 下にア ンケ ー ト例 を示 す と 、 ー 平成 22年 度 ゆ とり教室 ア ンケ ト集計結果 1.事 業概要 (1)日時 平成 22年 8月 8日 13時 30分 か ら 15時 30分 講 義 室 (2)参加者 受講者 34名 (定員 40名 ) (申 込者 80名 、辞退者 6名 ) (3)内容 和紙折 り紙講座 「 花火」 (講師 :山 田史子ほか 3名 ) ー 2.ア ンケ ト結果 (回答率 =94% 32名 /34名 ) 問 1 資 料館の講座 を以前か らご存知で したか。 知 って いた 知 らなかった 17 無口答 15 53% 0 46% 0% 問 2 当 館講座 へ の参加 は何 回 目です か。 初回 21 65% 2回 目 3回 目 5 15% 4回 目 5回 以 上 無 回答 3 0 4 O 9% 0% 1 1% 0% 問 3 今 回 の講座 を どの よ うに してお知 りにな りま したかc 広 報 チ ラシ 友人家族 区 HP 他 の 用件 無 口答 31 0 1 O 0 O 0% 3% 0% 0% 97% 0% 大変 良 25 78% 良 普通 4 0 12% 〇% 亜心 問 4 今 回 の教室 の 内容はいかがで したか。 大変悪 無回答 0 0 3 0% 0% 9% そ の理 由 ・先生た ちが親切 で よかつた (大変 良)4件 ・ 夢 中で覚 えた。 (大変 良) ・頭 の体操 になった (大変 良)。 シンプル な折 り方 で 、見栄 えがす る(大変 良) 。介護 で使 い た い (大変 良) -116- 教育普及活動 と特殊ボランテ ィア育成 の試み 問 5 今 後 も、 当館 の教 室 に参加 した い と思 い ます か。 参力日したい 興味 の あるもの な ら参加 したい 無 回答 8 0 24 0% 25% 75% 問 6 今 後 、当館 で開催 して ほ しい 教 室 はあ ります か。 ・和紙人形 ・ ク リスマ ス 、お 正月 用 の折 り紙 (2件 ) 。日本 の美 しさを表現できるもの ・切 り絵 。 組みひ も、絵手紙 。季節 の 折 り紙 ・ 表具入 門 ・ 手 ま り 。 手芸 、小物 大変 良 良 38% 38% 大変悪 無 回答 0 0 2 0% 0% 6% 普通 6 12 12 亜心 問 7 受 付 な どにお ける職員 の 対応 は いかがで したか。 18% 問 8 あ なた のお 住 ま い は 板橋 区内 31 97% 都 内他 区 他府 県 0 1 0% 3% 問 9 当 館への感想 。お気づ きの点 ・交通の便 がよくない 。 家でお さらいできるよ うな資料がほしい。 。もう少 し時間がほしい。未完成だった。 註 12 費 用対効果 の簡単な算定基準に使われ るのが施設維持管理総額 (人件費 ・運営費)を 利用 者数 で割 る方式である。そ うす ると一人 当た りの利用者経費 が 出て くる。 区民は これだけ の税負担 を この施設 のために しているとの論法である。納得できないが、現実的な数字 と して肝 に銘 じる必 要はある。因みに当館 の平成 21年 度利用者維持費は 1,600円で ある。 註 13 博 物館 と学校 をむすぶ研究会 平 成 12年 「 学ぶ心を育 て る博物館 ―総合的な学習 の時間 へ の最新実戦例 ―」閉 ミュゼ 文部省生涯学習局社会教育課 平 成 12年 ∼ 「 親 しむ博物館 づ くり事業実施報告書」、平成 「 16年 科学系博物館教育機能活用推進事業実施事例 」等 による。 註 14 大 堀哲編著 平 成 9年 「 教師 のための博物館 の効果的利用法」東京堂出版。全国の博物館 で も地域 の学校 と連携 した専用 テキス トを作成 している所 が多数 ある。小 中学校 との連携 は重要な要素 であるが、果た して効果的か否 か検証す る必要があるよ うに思 う。 註 15 水 藤真 平 成 13年 「 博物館 を考 えるⅡ」 の教育普及活動 の実態 の 中で、 日本 の博物館 に おける教育普及のあ り方につい て感想文的な言 い回 しなが ら批半J的に見てい る。確 かに 当 たつてい る部分 もあるが、何 もしない よ りはマ シ とす るの は筆者だけではない と思 う。水 藤 氏が言わん とす る所 は、皆同 じよ うな事 を してい る、あるい はもつ と工夫 の余地がある とい う事であるが、現場ではこれが 出来 ていない 日本 の博物館事情 がある。 註 16 高 島秋帆 の秋帆は号。名 は茂敦 、字 が子厚 ・舜臣、通称 四郎太夫。長崎町年寄家 の三男に 生まれ 四郎兵衛 の家督 を継 ぐ。寛政十年 (1798)一 慶応 二年 (1866)の 人。文政年 間以降 オランダヘ書籍 ・銃砲 を注文 し天保 年間に高島流砲術 を完成 、天保十 二年老 中水野忠邦 の 命 によ リオランダ式 三兵 (砲兵 ・騎兵 ・歩兵)戦 術 の実際を徳丸原 で調練 した。 註 17 平 成元年 に立ち上 げた板橋 区史編 さん委 員会 によるアンケー ト結果 による。郷 土資料館 の 利用者 の半分以 上は高島平団地周辺が多 く、区外か らの来館者 は 2割 程度である。 -117- 教育普及活動 と特 殊 ボ ランテ ィア育成 の試 み 註 18 鉄 砲 隊 の 会 則 は川 越 城 鉄 砲 隊 の 「 獅 子 の 会 会 貝J」を 参 照 に しな が ら、郷 土 資 料 館 の 後 背 地 に あ る赤 塚 城 で の 鎧 武 者 行 列 を想 定 して 定 め て い る 。 最 近 で は 名 誉 顧 間 の 追 加 そ の に よ 他 り、 平 成 20年 に 会 則 変 更 を行 っ て い る。 西 洋 流 火 術 鉄 砲 隊 保 存 会 会 則 (併 赤 塚 城 鉄 砲 隊 ) 平成 14年 03月 02日 制定 平 成 14年 12月 15日 改定 平成 17年 05月 08日 再改定 平 成 20年 04月 13日 再再改定 総 貝 J 第 1条 名称 本会は 『西洋流火術鉄砲 隊保存会』 (併 赤 塚城鉄砲 隊)と 称す る。 第 2条 事 務所 本会 の 事務所 は、事務局長宅 に置 く。但 し、連絡先 として板橋 区立郷土資料館 にも置 く。 第 3条 目 的 本会は、日本 における西洋流火術 の導入 と、その指導に大きな役割 を担 った高島秋帆 の事跡 を評価す る と共 に、徳丸原での 日本最初 の洋式砲術調練 を研究 し、それ を後世に伝 える。また、西洋流火a手 装東 (洋 ・ 式調練服 緒道具 を含む。但 し、西洋式銃 の使用 は現在の法律上使用できないため火縄銃 に替 える)の 歴史、制作技術 の研究、学習 を行 い 、日本最初 の 西洋流火術鉄砲隊を結成 して、徳丸原洋式調練 を再現、 普及す ることを 日的 とす る。更に、赤塚城鉄砲 隊を併設 ・組織 し、占来か らの武具 甲冑による火縄銃研 究 を行 い 、和流 と西洋流火術 の比較研究 。普及 を行 う。 第 4条 活 動 の原則l 本会は高島秋帆 を祖 とす る西洋流火術愛好家 の集 ま りで、火砲 (火縄銃)及 び 甲冑を着用す る伝統行事 等 には積極 的に参加す る。 また、板橋 区の行事に も積極的に参加す る。情報連絡誌 として会誌 (年 1 回)を 発行す る。 第 5条 運 営 (1)本 会は原則 として年会 費 を徴収す る。また、会員及び会員外 か らの寄付金、謝礼金等 は拒まない。 (2)年 会費は 5千 円 とす る。銃士隊員 は別途 7千 円を徴収す る。会費はいかなる理 由があれ返還 しない。 会 員 第6条 資 格 (1)本 会 の会員資格 は高島秋帆の西洋流火術愛好 家 であれば、年齢、 国籍 は間 わない 但 し、未成年 にあつては親権者 の同意 を必要 とす る。 (2)入 会 については、会員 の推薦 を必要 とす る。 第 7条 入 会、退会 (1)本 会へ の入会 は入会 中 し込み を行 い、役員会 で認 めた ときとす る。 (2)退 会は退会 を申 し出た とき とす る (貸与品は速やかに返還す ること)。 (3)本 会 の趣 旨に反 し、また、品位 を汚 した ときは役員会で協議 し除名す る事がある。 第 8条 役 員 本会 の組織 は、次の役員 を置 き会 の運営 を行 う。但 し、任期は定 めない。 (1)名 誉顧 問 ・顧 門 3名 (4)事 務局長 1名 (5)賛 (2)会 長 1名 (3)冨 」 会長 2名 助会員 4名 第 9条 総 会 本会 の総会は、年 1回 開催す るもの とす る。議決は会員の半数以上 を必要 とし、役員 の賛成 を以 つて - 118 - 教育普及 活動 と特殊 ボ ラ ンテ イア育成 の試 み 本会 の議決 とす る。 付員1 第 10条 行 事参加 (1)本 会 が実施す る行事 には、会員 は参加す るもの とす る。 (2)衣 装道具類 は、本会が指定 した もの を着用す る。 ま (3)『火縄銃』を使用する場合には、登録証を常に携帯し、会が登録する以外の銃の使用を禁■する。 た、鉄砲検査 を受 けた者以外 の使用 を禁 止す る。 の提 出を (4)本 会 は、火縄銃使用 の会員について戸籍抄本 (住民票 にも替 えることが出来 る)。履歴書等 求める ことができる。 第 11条 そ の他 ついて も、総会 を開き 不測 の事態 が発生 した ときには、必要に応 じて役員会 を開き決定 し、重要事項 に 議決す る。 註 19 日 本銃砲 史学会 は 日本 ライ フル射 撃連盟傘下 にあ り、古式銃砲 に取 り組む前装銃射撃 連盟 とも連 携す る。今 の銃砲 史学会 は独 立機 関 とな つてい るが、国内 では古 くか ら古式銃砲研 究会 で あ る。平成 16年 2月 当館 が 開催 した特別展 「日本 の砲術 Jで シ ンポ ジュ ム を含 め多 コ 大 な支援 を得 た。同時 に当館 が 平成 19年 度 に西洋兵学書 の所荘古 レク シ ョンを入手す る き っか けを作 って くれ た。 註 20 西洋流火術鉄砲隊保存会 西洋銃陣の型 巳 (4人 一組)、三列 9名 (12名 )で の銃陣 を基本 として説 明す る。 3人 一糸 (1)基 本単位 ↑ (進行方向) 一列 目 ① _列 目 ④ Jリ ロ ⑦ ② ③ ⑥ ⑤ ⑨ ③ 各列 の①、④ 、⑦ が各列毎 の号令者 である。 また、 三列全体 の総合号令者 を⑦ が務 める。 (2)号 令詞 について 前 へ進 め (ホール ワル ツ マ ルス〉 進 め (マル ス) 止 まれ (ハル ト〉 オ ム ラー フ) を右手に下げ 〈 右 向け右 (レキ シ ョン キ リヒ〉 休 め (リュス ト)銃 ー え (斜めに構 える)(セ ッ トアフ〉 弾 込 め (ラ ジンフ〉 奉 げ筒 (ネー ムオ ップ〉 構 火縄付 け (ハアル ジフ〉※ 狙 え (アン)※ 火蓋 を切れ (スコイセ ン 本 来 の意味は銃 を左右 に振 り狙 い を定める〉※ 放 て (ヒュール 〉※ (3)銃 陣型 について 一列 日か ら二列 目まで同 じ動作 の繰返 しが基本 となる。 ―列 日の発射後、1列 日が前へ進み、 二列 目の発 射後 は三列 目が前に進み出る。発射後 はそ の場 を動かず、火薬装填 (火薬入れ後 の索丈は使用 しない)と 、 口薬入れ を速やかに行 う。右手 の隊員 の動 きを確認 しなが ら、各列が同 じ所作 で行 うことが望ま しい。 一 西洋銃陣 の最大 の特徴 は、す ばや い行動 を繰 り返す ことにあ り、各人、各列 が同 の均整 の とれた整然 とし た行動様式を求 め られ る。 -119- 教育普及 活動 と特 殊 ボ ランテ ィア育成 の試み (4)基 本型 1(前 進方 向を主体動 作 として) ①行進 隊形 銃 を右 肩 に乗せ、左手は腰 に付 けて (腰刀 を押 さえる )行 進す る。 一歩 日は必 ず左足か ら。 。 前身 構 えも左 足か ら踏み出す こと。笛 (強い ピー音)で 行進 、再度 の笛 (ピー 、 ピ)で 停止。三歩 目で停 止。 ※あるいは指揮者 のハル ト (止まれ)の 号令 で 止 停 。 ②行進後の隊列静止状態 (銃を右肩 にのせ て行進、笛 (ハル トの号令)止 まれ ―足踏み しなが ら静 lL(3歩 目で)。 リュス ト (休め)、ネー ムオ ップ (捧げ筒)、オム ラー フ (銃を右手に 下げ、休 めの指示 において 銃 を右側足元 に置 く)⇒ 指示待 ちの状態 ↑ (進行方向) 一 ①立 列目 二列 目 ④立 三列目 ⑦ 立 ② ③ ⑤立 立 立 ⑥立 ③ 立 ⑨ 立 ③隊形構えの状態 (指揮官の号令により、銃構え―斜めに構える) ↑ (進行方向) 一 ①立 列目 二列 目 =列 ② 立 ③ 立 ⑤立 ⑦立 目 ③ ⑥立 立 ⑨ 立 ④ l発 目の発射 (各列毎の一斉射撃 ※ 三列同時の斉射ではない) ↑ (進行方向) 一列 目 二列 目 ①立 ② ↑ ↑ ④立 ⑤ 立 ③ ↑ 立 ↑ 立 (一 列目発射後、右手前 に出 る) 立 ⑥ ↑ ↑ (二列目発射後、右手前 に出 る) =列 目 ⑦立 ③ 立 ⑨ 立 2発 の ⑤ 目 発射 (③、⑥、⑨が右膝着の構えで、各列連発射撃) ↑ (進行方向) 一 ①立 列目 ②立 ↑ _列 目 ↑ ⑤立 ④立 ↑ 三列 目 ⑦立 ③ ↑ 右膝着 (一 列目発射後、右手前に出る) ⑥ 右膝着 ↑ ③立 ↑ (二列目発射後、右手前に出る) ⑨ 右膝着 -120- 教育普及活動 と特殊ボランテ ィア育成 の試み ⑥ 3発 目の発射 (全員が右膝着の構えで、各列連発射撃) ↑ (進行方向) 一列 目 ①右膝着 ② 右膝着 ③ 右膝着 ↑ 列 目発射後、右手前に出る) (一 ↑ ↑ ④右膝着 ⑤ 右膝着 ⑥ 右膝着 二列 日 ↑ (二列目発射後、右手前に出る) ↑ ↑ ⑦右膝着 ③ 右膝着 ⑨ 右膝着 三列 目 ⑦ 4発 目の発射 (全員が立ちの状態で、各夕1連発射撃) ↑ (進行方向) 一列 目 ①立 ② ↑ ↑ ④立 二列 目 ⑤ 立 ↑ =夕J目 ⑦立 ③ 立 立 ③ (一 列目発射後、右手前に出る) ↑ ⑥ ↑ 立 立 (二列日発射後、右手前に出る) ↑ 立 ⑨ ③ 5発 目の発射 (一斉射撃) ↑ (進行方向) ③立 二列 目 ④ 立 ⑥立 三 列目 ⑦ 立 立 一 列目 ① 立 ⑨ ⑧立 ・ 最後の列の4発 目が終了した時点で、次列は左側へ、後列が右側へ扇状になるように進行 展開する 一 ⑨退場行進 (③か④のいずれか方向へ、 列銃陣で行進退場する。 ここでは③の例で) ↑ (進行方向) 二列 目④ ③ ⑤ ⑨ 一列 目① ⑥ 三列 目⑦ ③ ⑥ ③ (進 行方向)→ ⑦ 西洋流火術鉄砲隊保存会 練習心得 当会 は、幕末 の 西洋砲術家高島秋帆 が提唱 した高島流砲術 (西洋流)を 再現 し、銃陣編成 して演武 を行 う ことにあるc高 島流 (西洋流)が 、使用 した小銃及び大砲 はオ ラ ンダ経 由で輸入 された隧石式小銃 (インハ ンテ リー ・ゲ ヴェール )等 であ り、現在 当会が使用す る和式 の火縄銃 とは相違す る。 日本 の法律 上 、空砲射 撃 が火縄銃 にほぼ限定 されて い る関係 上 、高島秋帆 が使用 した小銃 は使用で きず 、また人手困難である。 そ の のために、 当会 は火縄銃 による銃 陣展開を前提 として練習、演武 しなけれ ばな らない。演武 での事 故防 l卜 ためには、完全なる火縄銃 の扱 い をマス ターす る必要がある。 当会 は、練習及び演武 を行 うた めの火縄銃 の扱 い と練習 の上に、高島秋帆 が提唱 した西洋流銃陣を展開す 一 る。使用銃 が異なる上で の西洋式銃 陣 には困難 が伴 い 、完全 な る再現は無理 として も、 定 の銃 陣展開を行 -121- 教育普及活動 と特殊ボランテ ィア育成 の試み うことは可能であろうし、努力 したい。会員にはこの,点をよく理解 していただきたい 。 (1)練 習始め ①練習場所に参加者が集合 したら、一礼後、練習メニュウの確認を行 う。銃 と胴乱は必 ず持参する。着物 は各 自自由であるが、総合練習の場合全員持参 して行 う場合がある。 ②銃 (必ず登録証持参 ―如何なる場合にも登録証提示できること)の 状態確認をおこな う。作動不良及び 銃付属品の落脱等がないか確認する。 ③銃 の発砲所作確認 (参加者全員で行 う)。胸構え、火縄付け、銃構え (標的に向けて―斜め上空に向けて )、 火蓋を切る、放つ。 この動作を 1回 行 い、改めて作動不良等の確認を行い、安全確認する。 ④練習 ―西洋流銃陣の反復練習の開始 (2)西 洋流銃陣練習 ①銃陣基本形 1の 反復練習。 ②銃陣基本形の練習の場合、参加者人数により編成数が異なる。二人 1編 成 の場合もあり、また、 二人 2 編成 の場合もある。 ここでの練習は、各編成の中にあって も、決められた所作を完全にこなす ことが求 められる。繰返 しの練習の中で、臨機応変の対応が出来ることが求められる。固定位置での 自分の役割 以外、号令一下で銃陣編成 して行動できるように したい。 ③各編成には号令者がいる。全体号令 と、各編成号令 とが一体 となって銃陣行進 ・演武。 (3)練 習終わ り ①全体集合後、練習上の反省を行い、一礼 して終 了。 点検確認を行 う。 ②銃の′ 註 21 平 成 17年 度 の東京や板橋 区を含む 23区 特別 区は、国内の不況 とは無縁 の金 融及 び IT関 連 を含 めた都下企 業 の好成績 につ られ膨大な納税額 が納め られた。 これは一 時板橋 区の財政 を潤 し潤沢な予算配分 となるが、バ ブル後 の不景気 と緊縮予算経験 してきた行政組織 に して み ると、 自由で使 い勝 ってのよい予算編成 を組む といって も、それ を使 う発想 と運用す る組 織 。人材 が育 っていなかつたので ある。 当時、教 育委員会生涯学習課 に所属 していた郷 土資 料 では、従来 の秋季予算編成枠 に加 え数年間別途予算 を加 えるとい う臨時経費 の使 い方 につ いて どう提案すべ きか具体的な内容 を固めていたわ けではなか ったが、鉄砲隊の事 もあつて す ぐに名乗 りを上げたのである。 註 22 (財 )日 本武道館、 日本武道 協議会、 (社)日 本 甲冑武具研究保存会等 の共同主催 による 古武道演武。 この 内容 を参考に行列 ・内容 を構 成 した。 註 23 川 添登監修 平 成 13年 「 地域博物館 へ の提言」 ぎょうせい (板橋 区立郷 土資料館館長) -122- 野外博物館 再考 一 一 「 民 家 野外博物館 」 の峻別 遺跡 0史 跡野外博物館 」 と 「 The reconsideration of an open alr inuseum ―M a k i n g a c l e a r d i s t i n c t i o n b e tmw eoepne`n1 メ ar mllseum of remains"and`1缶 open alr museum ofpnvate housd'― 齊藤 千 秋 SAITOU Chiaki はじめに 日本 における本格的な野外博物館 の始ま りは、昭和 31年 (1956)に大阪府 豊 中市 の服部緑地公 (1)この 日本民家集落博物館 が、民家 園内 に建設 された 日本民家集落博物館 であるとされてい る。 を中心 とした展示 を行 つてい る野外博物館である ことは、館名 か らも明 らかである。野外博物館 にお いて、民家 は主な展示資料であ り、多 くの博物館 で取 り扱 われてい る。 遺跡 ・史跡野外 本稿 で筆者 は、特 に民家 を展示す る野外博物館 を遺跡 ・史跡等 を主題 とす る 「 民家野 民家野外博物館」 として提唱す るものである。 さらに、 「 博物館」 と峻別 し、そ の呼称 を 「 民家野外博物館Jが 、地域 における伝統的生活様式 を 外博物館」の性格 を明確 にす るとともに、「 保存 し、将来 に伝 えてい くための最適な施設 であることを再度明 らかにす るものである。 「 民家野外博物館」の概念史 1.藤 島亥治郎 の民家野外博物館 野外博物館 につい ては、新井重 二 をは じめ として多 くの研究者 によつてそ の概念や分類 が規定 されてきた。 しか し、そ の 中で、 「 民家野外博 物館」とい う分類 を行 ったのは、藤島亥治郎 が哨矢 であると看取 され る。藤 島は、昭和 53年 (1978)に著 した 「 野外博物館展示 の家」(2)にお いて 、 野外博物館 を 3つ に分類 した。 ①近代野外博物館 幕末 か ら明治 。大正か ら昭和 に至 る 日本近代建築 とその他 の文化史料 を展示す る博物館で ある。Ex)明 治村 (愛知) ②近世野外博物館 寺社 か ら町家 ・農家 に至 るまで江戸時代 の建 築 を綜合す る施設である。Ex)江戸村 (金沢) ③民家野外博物館 (以下、 下線部 は筆者が付 した もので ある。) 「 民家 といえばす ぐ草深 い里の草葺家 のよ うな連想 を伴 うが、 ここでい う民家はそ の よ うな もの ばか りではない。 お よそ住 宅 として建て られた ものか ら、宮殿 ・殿舎 ・寺社 の庫裏 。方 丈 ・客殿等 を除き、家族構成 をな した人 々が常住 生活 をす る住宅を指す もので、 したがって そ の階層 の面 では 中流以 下、社会的面 では都市村落 のす べ てに及び、構造的面 では、木造 が - 123 - 野外博物館 再考 主体 であるが、れんが造 。石造等の家 も差別 な く含まれ る。 また、一民家 の範囲内には屋 敷 地内のす べ てが籠 め られては じめてその家 の生活 機能が完璧であるといえ る。」(3) 藤 島は、主に伝統 的建造物 を展示 している野外博物館 につい て、そ の収集 。展示 された建 物 の 時代またそ の性格 によって、①近代野外博物館 。②近世野外博物館 。③民家野外博物館 とした分 類 を行 った。 さらに、筆者 が下線部 を付 した③民家野外博物館 につい ては、詳細な事項が述べ られている。 「(前略)民 家 が博物館 となる理 由は種 々 あるであろ う。 (中略)い ずれ に しろ民 は 家 現地 でそのま ま博物館 とな ってい る場合 は最 も好ま しい手段 として歓迎す べ きである。ただ し、 これ らの家は文化財指定 の家な らもとよ りの こ とであるが、そ うでない ものが あって も、で きるだけそ の家 の 旧態 を残 してお くことを心掛 けるべ きである。(後略)事 情 上 可能な らば'瞑 重な調査 の上 で、出来 るだけその家 の建 った時の状態 のままで復原す べ きである。」(4) つ ま り、下線 部 の通 り、民家は現地にお いて、博物館 となって保存す ることが最 も望ま しい と している。 また、可能であれば、建 築 された姿 のままで復原す ることが必要であるとしてい る。 2.杉 本 尚次 の野外民家博物館 杉本 尚次は、海外や 日本 における野外博物館 の研究をす る中で、野外博物館 の定義 を行 つてい る。特 に民俗建 築 である民家 の研究にお いて、野外民家博物館 (民家園を含む)に 注 目してい る。 そ して、平成 14年 (2002)「野外民家博物館 の 100年 一民家 の生活復原展示 をめ ぐって」(5)の中 で 、野外民家博物館 (民家園)の 定義 を明記 している。以下 にま とめると、 ①人文系野外博物館である。 ② 主 として伝統的建築物 (民家 ―民俗建築な ど)や 、生活用具類な どを収集 し、セ ッ トに し て野外 に移 築 し展示 (収集 ・移築型展示)し た施 設。 ③ 広義 には伝統的建造物群保存地 区や伝統的民家 (町家)な どによつて構成 され る景観 (町 並み)お よび修 景 を施 した地区 (現地保存型)も 含 まれ る。 ④民家や史跡、産業遺跡 な どを含 んだ環境 を保 存 し公 園化 した施設や、広 い地域 を含 むす ベ ての伝統文化 と周 囲 の 自然環境 とが結びついた、地域環境 ともいえるエ コ ミュー ジアム (現 地保存型)も 含 まれ る。 また、「 現地保存型 は環境 と共 に生きてい た直接体験 か らくる生 きて い る姿やその迫力、強 い利 点 も多 い」 として い るが、一方で 「 失われてゆ く伝統文化が激増 してい る現状では、現地での保 存 が難 しい場合、保存 の手段 として収集展示型、移築復元型野外博物館 も重要」であると言及 し てい る。 すなわち、野外民家博物館 (民家園)と は、人文系 の野外博物館 で 、主 として民家 を生活用具 類 とセ ッ トに して展示 を行 ってい る施設であるとした。 また、杉本は藤 島 と同様 に、現地保存 出 来ない場合 の移築復元 の重要性 を説 いてい る。 3.落 合知子 の民家 ・集落博物館 次ぎに、落合知子 の 『野外博物館 の研究』(6)における野外博物館 の分類 について紹介す る。落 - 124 - 野外博物館再考 ー 民家野外博物館 」 とい うカテ ゴ リ は示 して い な い。 しか し、 合 は、野外博物館 の分類 として 「 重要視 され る可育旨性を示唆す る分類 を行 ってい る。 民家野外博物館 」 力` 今後 、 「 以下 が 、落合 の 野外博物館 分類 をま とめた もので あ る。 ①現 地保存型野外博物館 最 も理想的 なタイ プの野外博物館 である。完全な情報発信 ができ、臨場感 ・迫力 ・保存に お いて最 も優れ てい る。 ②移設 。収集型野外博物館 原位置 か ら他 の場所 に移 して、復元お よび建 築す る。そ のため、環境復元 が大 きな用件 と なる。 ③復元 ・建設型野外博物館 一部 に実物資料 の移築 も見 られ るが、基本的に実物資料 を移 築保存す るのではな く、あ く までも新たに創造建築す るタイプ。テーマパ ー ク的野外博物館 に多 くみ られ る。 野外博物館総論」(7)において、系統化 野外博物館 の分類 は、平成元年 (1989)に 新井重三の 「 された。 しか し、落合 が提唱 した③復元 ・建設型野外博物館は、新井 が行 つた分類項 目には存在 新たに建設 された形態」(8)を有す る野外博物 しない新たな分野 であつた。この分類 は、落合 が 「 館 の実在か らは じめて提唱 した もので ある。 また、復元 ・建設型野外博物館 の種類 として、 1)歴 史博物館 2)野 外美術館 3)テ ーマパ ー ク、逍遥 。体験博物館 4)集 落 。民家博物館、回想館 以上の 4つ に分類 してい る。 ここで、下線部 を付 した 4)集 落 。民家博物館 に注 目したい。落合 は、事例 として 「 千葉県立 房総 のむ らJ(以 下、房総 のむ らと表記)を 取 り上げてい る。当該博物館 は、現地保存型 でもな く、 移築復元型 (一部を建 築物 を除い て)の 野外博物館 でもない。 しか し、 これか らの野外博物館 、 そ して 「 民家野外博物館」を考 える上で、落合 の復元 。建 築型 の野外博物館 とい う分類 は重要性 を帯びて くるもの と考 える。 民家野外博物館Jの 必要条件 を提示 してい 以上の藤島、杉本、そ して、落合 の定義 を踏 まえ、 「 きたい。 まず、 「 民家野外博物館」 とは、人文系野外博物館 である。そ して、展示 の主体になる民家は、 「 家族構成 を成 した人 々が常住 生活 をす る住 宅Jを 指す もの とす る。民家 にお いて は、現地保存 が望ま しいが、 ほ とん どの野外博物館 では移築復元 の民家が多 い。 しか し、地域 の特色 を考慮 し た場合 、現時点 においてその特色 を示す民家 が消失 している場合 が多 い。 この時、伝統ある建築 技術 によつて、当時 の民家 を建設 し、そ の姿を後世 に残 し伝 える必要性 も往 々 に して生ず る。 つ ま り、落合が示 した復元 ・建築型 の民家野外博物館 も定義 として含 まれ ると考 える。 さらに、民 家野外博物館 における展示は、民家 とそ こで使用 されていた生活用具 (民具)を セ ッ トに しなけ 一 民家 の ればな らない。また、「 範囲内 には屋敷地内のす べ てが籠 め られては じめてその家 の生活 機能」(9)が表現 され る。 つ ま り、一 民家 を取 り巻 く環境 も展示す る必要があるので ある。 -125- 野外博物 館 再考 文化財保護法からみる「 民家野外博物館」 他 の野外博物館 か ら 「 民家野外博物館 」 を峻別 す る際に、昭和 25(1950)年 公布 の文化財保 護法について考える必要がある。以下、引用す る。 文化財保護法(10(昭和 25年 憲 法第 214号 ) 第 1章 総 則 (この法律 の 目的) 第 1条 こ の法律 は、文化財 を保 存 し、且つ 、その活用 を図 り、 もつて国民 の文化的 工場 に資す るとともに、世界文化 の進歩に貢献す る ことを 目的 とす る。 (文化財 の定義) 第 2条 こ の法律で 「 文化財」 とは、次ぎに掲げるもの をい う。 ① 建 造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡、典籍、古文書其 の他 の有形 の文化的所産で我が 国 に とつて歴史上又は芸術上価値 の高 い もの (これ らの もの と一体 をな してその価値 を形成 し てい る土地そ の他 の物件 を含む。)並 びに考古資料及びそ の他 の学術 上価値 の高 い歴 史資料 (以下、 「 有形文化財Jと い う。) ② 演 劇、音楽、工芸技術そ の他 の無形 の文化的所産で我が国にとって歴史上又は美術 上価 無形文化財Jと い う。) 値 の高 い もの (以下 「 ③ 衣 食住、生業、信仰、年 中行事等に関す る風俗習慣、民俗芸能及び これ らに用 い られ る 衣服、器具、家屋、そ の他 の物件で我が国民 の生活 の推移 の理解 のために欠 くことので きな い もの (以下 「 民俗文化材Jと い う。) 宅その他 の遺跡 で我 が国 にとつて歴 史上又は学術 上価 ④ 貝 づ か、古墳、都城跡、城跡 、1日 値 の高 い もの、庭園、橋梁、峡谷 、海浜、山岳、その他 の名勝地 で我が 国 に とつて芸術上又 は観賞 上価値 の高い もの並 びに動物 (生息地、繁殖地及び渡来地を含む。)、植物 (自生地 を 含 む。)及 び地質鉱物 (特異な 自然現象 の生 じてい る土地 を含む。)で 我 が 国に とつて学術 上 記念物」 とい う。) 価値 の高い もの (以下 「 一 ⑤ 周 囲の環境 と 体 をな して歴史的風致 を形成 している伝統的な建造物群で、価値 の高 い もの (以下 「 伝統的建造物群 」 とい う。) 2 (略 3 こ ) の法律 の規定 (略)の 中 「 史跡名勝天然記念物」には、特別 史跡名勝天然記念物 を 含む もの とす る。 文化財保護法は、従来 の国宝保存法 (1929年)。史蹟名勝天然記念物保存法 (1871年 )。重要 美術 品等 ノ保存 二関スル法律 (1933年 )を 廃 して、下線部 を引いた建物 ・美術 工芸御 ・遺跡 。自 然物 。景勝地な どを含 めた有形文化財 。無形文化財 。民俗文化財 ・記念物 の保護活用 のために統 一 的な法規 として定め られた。 こ うした文化財 を所有 している施設の多 くは、博物館法 の規定 に 則 した博物館 である。 しか し、建造物や遺跡 ・史跡等 にお いて は、博物館法 にそ の用語 がない野 - 126 - 野外博物館再考 外博物館 を中心 に保 存や展 示 が行 われ て きた。 法 に も とづい 日本 にお ける野外博 物館 の萌芽 とされ る大阪府 の 日本 民家集 落博物館 は、博物館 については博 た施設 で あ り、ま た、川崎市 立 日本 民家 園 も同様 で ある。 つ ま り、民家 を扱 う施設 した施設 で あ る とい える。 物館法 に従 つて設 立 され てお り、野外博物館 の 中 で も特 に博物館 法 に則 ついて の情報発 また、遺跡 ・史跡等 につい て は、整備 され 、付 随す る施設 で展示や 当該 史跡 に ・ るた めの い 信 が行 われ て い る所 もあ る。 しか し、整備 保存 の み で 終 わ つて しま 、情報 を発信す ・ に規 定 さ 施設 を備 えて い な い遺跡 ・史跡 も少 な くな い。 つ ま り、多 くの遺跡 史跡 は、博物館 法 れ る施設 はな く、文化財保護 法 の規 定 の 中で とどま つてい る とい える。 であ こ す なわ ち、民家野外博物館 とは、博物館 法 に則 した野外博 物館 として 区分す る とが可能 る。 民家野外博物館」 日本における野外博物館 の中の 「 1.野 外博物館 の設 立か ら ー 周知 の よ うに、世界 で初 めての野外博物館 は、1891年 に設立 された ス ウェ デ ンのス トックホ ルムにあるスカ ンセ ン野外博物館 (H)である。先述 したが、 日本 における晴矢 となる民家野外博物 ス 館 は、大阪府豊 中市に所在す る 日本民家集落博物館 である。創 立は昭和 31年 (1956)で、 カン セ ン野外博物館 よ りもお よそ 60年 遅れ て設置 された。 一 ここでは、野外博物館 または民家園 とな つている博物館 の 覧表 (表 1)か ら民家野外博物館 。 を考察す る。 この表は、設 立順 に、各館 に収集 展示 されてい る資料 の年代 や地域、種類 の欄 を 設けてい る。 資料館」 博物館」 「 まず、野外博物館 の設 立年 につい てであるが、 1960年代 にお いて各地 に 「 と称 した野外博物館 が設 置 されは じめる。 ここで 、設置 された野外博物館 の展示資料 の地域 につ いて注 目したい。愛 知県 の博物館 明治村や、神奈川県 の川崎市 立 日本民家園 の地域設定は全国 と なってい る。全国各地 にお いて伝統 ある建造物 を移築 。収集 し、展示 を行 つてい る。 つ ま り、当 時設置 された野外博物館 は、 日本各地にお ける代表的な民家 の避難場所 であ つた ともいえ る。 こ の点は前述 した 、大阪府 の 日本民家集落博物館 も同様である。 日本民家集落博物館 の案 内図を見 ると、広大な敷地 の 中に各地 の民家は隣接 して移築 されてい ることが分かる。 これは、野外博物館 の条件 である、資料 (民家)を 取 り巻 く環境 の再現 が され ていない。 つ ま り、野外博物館 にお いての展示 としては成 立 してい ない と考 える。 また、川崎市 神奈川 の村J 関東 の村」 「 宿場J「信越 の村」 「 立 日本民家園も同様 であるが、敷 地内にお いて、 「 「 東北 の村Jの 5つ のエ リアを設 け、各地域別 にま とめて配置 してい る点が高 く評価 できる。 こ 同一地方 の民家 を集 めるよ うに工夫J(1"され た もので、 日本民家集落博物館 よ りも、展 れは、 「 示に関す る1工 夫 が窺 える。 また 、川崎市立 日本民家園 にお いて特筆す べ きは、民家 を見学す る前 に導入部 として展示室を設 けてい ることである。 資料館」 とす る野外博 博物館」 「 1970年 代 に入 ると、館名 にお いて は 1960年 代 と変わ らず 「 物館 が多 いが、全国か ら資料 を収集 し、展示 を行 ってい る館 は設 置 されてい ない。 これは、民家 -127- 野外博物 館 再考 を収集 。展示す る野外博物館 が増加 してい く中で、単に伝統ある建 築物 を全国か ら集 めるめで は な く、各地域 において、そ の環境下に建 築 された建 物 を保存 してい くことが定着 していっ た こと が窺 える。 博物館 の名称での変化が顕 著に現れ るのが 1980年 代である。それまで 日本で野外 博物館が設 置 されてきたが、そ の多 くが 「 博物館」 「 資料館」であった ことは前述 した。 しか し、 1960年 代 から 「 │1崎 明治村Jや 「 り 市立 民家園」 とい うよ うな 「 村」 「 民家園」と称 した野外博物館 も設置 さ 「 い 「 れて た。 この 村Jや 民家園Jと した野外博物館 が増加す るのが 1980年 代であることが分 か る。 筆者 は、 「 村」 「 民家園」 とす ることで、当該野外博物館 に設定 された空 間の理解 が深まる と考 える。 さらに、 1990年 代では、館名 として 「 ふ るさと」 「 みちの くJ「暮 らし (くらし)」 といった言 葉 を用いた野外博物館 が登場 して くる。 これは、伝統ある郷上 の生活 を表現 した館名 であると捉 えることがで きる。すなわち、各地にお い て郷上 の伝統ある文化 を観覧者 に見せ ることを 目的 と してい ることが窺 える。 各年代 において、館名 は、当該博物館 の設置 目的やそ の性格 を表す もので あると考 える。野外 博物館が設置 されて い く中で、徐 々 に、それ らが設置 された地域 の生活や文化 に焦′ 点をあてた館 が増加 してい くのが分 かる。 つ ま り、館名 か らも民家野外博物館 としての役割 が、明 らかにな り つつ あると分析できる。 2.民 家野外博物館 の 「 建物」資料 野外博物館 の主たる資料は、建物である。そ の 中で も、ほ とん どの野外博物館 において 「 民家」 が収集 。展示 されている。 しか し、民家 のみで展示 してい るので はな く、一民家 の範 囲内に存在 した建物 も併せて展示 されてい る。 つ ま り、民家 が存在 した環境 を含 めて展示 を行 ってい る館が 多 い。 また、民家 のみではな く、民家以外 の建物 を収集 。展示 してい る野外博物館 としては、明治村 や北海道 開拓 の村 が挙げ られ る。 明治村 は、明治年間にお いての建物 を収集 し展示 を行 っている ため、「 帝国 ホテル 」や 「 教会Jな どの公共 的な建物や宗教に関す る建物が民家 と併せて展示 され ている。 また、北海道開拓 の村 では、開拓時代 における建物 として銀行や 工場な どが展示 されて い る。 ここで、民家 とそれ 以外 の建物 について考えた い。 「 民家野外博物館Jと した場合、民家が主た る展示資料 であることは言 うまで もない。先に紹介 した杉本 にお いて も、建物資料 の分類 が行わ れてお り以下に示す と⊂め、 A)農 家 ・町家 。漁家な どの主屋 と穀倉 ・倉庫 。家畜舎な どの付属建物 B)農 村 工業や伝統技術 に関す る建物 …陶器 工房 ・搾油小屋 ・製材所 。製粉小屋 ・鍛冶屋 ・水車 ・風車な ど C)宗 教的な建物 …教会 ・十宇架 堂 。小祠な ど D)公 共的建物 - 128 - 野外博物館再考 …小学校 ・役場 。徴税 小屋 ・郵便局 。消防署 。刑務所 ・ホテル ・小濠1場な ど I家 ・漁家 の主屋 と、 ホテルや小学校 な どの公 上記 の分類 か らも分 かるが、民家 である農家 。田 共的建築物 は異な つた機能 を持 つ。 この機能 の異 なる資料 同 士 を、野外博物館 の 同敷地内 にお い それぞれ の資料 が歴 て展示す る ことは、違和感 を持た ざるを得 ない。 それは、野外博物館 とは 「 史的なもので あつた り、そ こに加 え られ る自然的要素、要す るに風土です。風 土が現場 に息づい てい るとい うことに意 義 を持たせ るJは。ことが最大 の特徴 であるが故であると考 える。例 えば、 一 房総 のむ らにお いて 民家 を展示す る際、建物資料 である民家 とそれに付随す る建物、 さらに農 作地をも併せて展示 を行 つてい る。 つ ま り、民家 が主 とな りそれ を取 り巻 く自然的環境 が再現 さ れてい ることが重要 である。 自然環境 下にお いて民家 を配 し、 さらにそ の生活 を展示す る ことが 「 民家野外博物館」 の条件 になると考 える。 そ のため、民家以外 のホテルや教会、小学校 な どの建物 を併せて展示す る野外博物館 にお いて 観覧者 に違和感 を与 えると考 える。 は、 環境 の異な つた ものが 同 じ空間に現出 して しま うことで 、 3.民 家 にお ける展示 また、「 民家野外博物館Jと して峻別す る際に必要な事項 となるのが 、民家 とその生活用品 (民 具)を セ ッ トで展示 してい る ことで あると考 える。 多 くの野外博物館 にお いて、民家 の 内外部 に生活用品 (民具)を セ ッ トに した展示が行 われて │1崎 い る。筆者 の訪れ た、 日本民家集落博物館 。り 市 立 日本民家F4 l・ 房総 のむ らでは、 どの館 にお いて も民家 と生活用品 (民具)を 併せての展示 を行 つていた。 また、実演や体験、催 し物 につい 民家野外 博物 て も、各館 にお いて取 り扱 ってい る地域 に応 じて行われてお り、 これ について も 「 館」 とす る必要な条件 として視野 に入れ る必要があると考 える。 つ ま り、民家 を展示す ることは、建築物 のみ として捉 えるのではないcそ の民家 を取 り巻 く生 である民:具の展示や、当時 の生活 を示す実演や体験)や 環境 を合わせ ることで、生 活 (生活用I島 生活Jを も展示 し再現す る必要があ きた資料 になると考える。 つ まり、建物 (民家)を めぐる 「 るので ある。民家 での展示の詳細につい ては別稿 で記す事 にす る。 「 民家野外博物館」の必要性 野外博物館 は現 地保存 の ものが最 も理想的である ことは確認す るまで もない。本稿 にお い て峻 別 を試みた 「 民家野外博物館」 t)また例外ではない。現地にお いて保存 された民家 は、環境や景 観 が十分 に伝承 されてい る場合 にお いて、そ の姿 は説得力 と迫力 を得 る。 しか し、戦後 か ら現在 に至 るまで、人 々の生活や取 り巻 く環境 は大 き く変化 していった。そ のため、伝統技術 が施 され た民家 は姿を消 していつた。 こ うした状況 を憂 える人 々 によって、各地 の伝統ある民家 が一部 に 収集 ・保存 され、野外博物館 としての機能 を持 つ よ うにな つていった。 これが、1960年 代 の 「 民 民家野 家野外博物館」 の特徴 であると考 える。 そ して、各地にお いて、民家 を収集 ・保存 した 「 外博物館」が設置 され 「 民家園J「民俗村Jと い う名 の施設が増加 していった。 しか し、移築 ・保 存す る以前に姿 を消 して しま つた伝統 ある民家 も存在 していた ことは言 うまで もない。 こ うした -129- 野 外 博 物館 再 考 問題 か ら、千葉県の房総 のむ らは、現在 において姿なき民家 を当時の伝統 ある技術 に従 って 復元 ・ 建設 を し、そ の姿を後世に残そ うとした 「 民家野外博物館」であるといえる。 「 民家野外博物館Jは 、設置 された年代によってそれ を取 り巻 く問題 は様 々であ る。その現状 に応 じて、民家野外博物館 の性格 は異なるもの となる。 しか し、「 家族構成 をな した人 々が常住生 活 をす る住宅」 である民家を展示 してい ることに変わ りはない。 展示については前述 したが、生活用品である民具を民家にお いて展示す ることで、そ の民家 を め ぐる 「 生活」 をも再現す ることが可能である。民具は、単体では、そ の資料 の情報 を得 ること が難 しく、使用 目的別 にま とめて展示 され ることが多 い。例 えば、稲作 にお い て用い られ る民具 を工程順 に並べ る展示がある。 つ ま り、複数 の民具資料 を組み合わせ ることで、単体 では分 か り づ らい使用法が相乗効果 によ り自ず と理解 できるよ うになる。 こ うした民具 の性格 を踏 まえた際、民家にお いての民具展示 とは、大規模 な構造展示 になると い える。民家 の土間に、調理 に使用す る用具類 が適切 な場所 に置 かれ、居間には、衣類 な どを収 納 した棚や、机 が配 置 され る。 これ によ り、資料 一つ一つの使用方法 ・場所 が理解 できるので あ る。 また、 この よ うな展示は、屋 内の博物館での部屋 の一場面を切 り取 った再現展示 と比 べ 臨場 感 に富む ことは言 うまで もない ことで ある。 つ ま り、「 民家野外博物館」は民具展示 にふ さわ しい場 であると考える。民家 とは、生活 の場 で あ り、そ こで生活用品である民具 を効果的 に展示す ることができ、最 も情報 を発信できる場なの である。民具展示 には欠かせ ない展示空間である。 現在、各地域博物館 には雑 多 に収集 された民具が溢れている。 主体 となる 「 観 るJ型 の美術的 展示法では、 こ うした民具を生かす ことが不可能であるため、展示 をされず死蔵 されてい る。 こ の よ うな民具を生か し、過 去の経験側 に基 づ く 「 民家野外博物館」で、構造的に展示が行われれ ば、地域 の民俗 を理解す る上で多大な効果 を生む もの と考 える。 この 「 民家Jを 主体 とした野外博物館 を、分類 として 「 民家野外博物館Jと 位置付 ける必要 を 唱 えたい。 民家野外博物館」 の必要条件 をま とめて提示 したい。 最後 に 「 1)人 文系野外博物館 2)展 示資料は民家 が主体であ り、一民家 に付随す る建造物 も含 める。 また、農村歌舞伎舞台や水車な どの建物 については、民家 が展示 された環境下にお いて不 自然 でない もので あれば含 める。 3)民 家 の内外部 にお いて、生活用 品を併せて展示 され る。 さらに、敷地内にお いて、展示 されてい る民家 の生活に併せた実演や体験な どが 出来 る。 以上の大 きく 3つ の要素 を備 えた野外博物館 を 「 民家野外博物館」 として野外博物館 か ら峻別 したい。 -130- 野外博物館再考 註 年報 人 類文化研究 のための非文字資料 の体系化』 (1)青 木俊也 2007「生活再現展示 の思考」『 第 4号 神 奈川大学 21世 紀 COEプ ログラム研究推進会議 (2)藤 島亥治郎 1987「野外博物館展示 の家J『野外博物館総覧』社団法人 日本博物館協会 (3)前 掲 註 2 (4)前 掲 註 2 (5)杉 本 尚次 2002「野外民家博物館 の 100年 一民家 の生活復元展示 をめ ぐって」 『 住 まいの 100年 』 日本生活学会 株 式会社 ドメス出版 (6)落 合知子 2009『野外博物館 の研究』雄 山閣 (7)新 井重 二 1989「 野外博物館総論J『博物館学雑 誌』 第 1・2号 合併号 (8)前 掲 註 6 (9)前 掲 註 2 (10)第二次世界大戦 中お よび戦後 における文化財 の荒廃 と法隆寺金堂 の火災を契機 として、1950(昭 和 25)年 5月 30日 に公布 された。 ハ セ リウス (Artur Hazelius)(1833∼ 1901) (11)スカンセ ン野外博物館 とは、1891年 にアー トゥル ・ ー によって ス ウェ デ ン国内 の異なった地域 の過去 の生活や仕事 を現代 の人 にいかに伝 えるかを 目的 として 、 ス トックホル ムのジュール ゴーデ ン島に設置 された世界初 の野外博物館 である。 (12)杉 本 尚次 1977『地域 と民家 日 本 とそ の周辺』株 式会社明玄書房 ― ― 「 民家」 を中心 とした生活形態 の研 究 』 (13)杉 本 尚尚 1991『 欧米伝統文化 の 実像 図書印刷株 式会社 (14)青 木豊 。内川 隆志 ・粕谷崇 。金 山喜昭 。加藤 有次 1976「 野外博物館 の現状 と展望」 『國學院雑誌』第 94号 第 2号 民家野外博物館 」 として合致す る野外博物館 に 、丸印 を記 した。 (15)筆 者 が提 唱す る 「 (國學院大學大学院博 士課程前期) - 131 - 野外 博 物館 再 考 ︻ 咄 針訓 X ︼ ・ 叫期翔H い 甜 加斗 加N回L 脚0耐 潜﹂∬銘 巾 加0耐潜報” 出い ﹁ ︱ い ・ 叫期河︱ 剛 ゛滸斗副 針加刈回﹁ 却0 耐潜 ﹂∞市 脚0耐潜報” 日い ﹁ ・ 叫5華 響 い 出い ﹁ 中淋 輌蒻 辮加刈料 Σ T ご ﹁ 加務 醐潜﹂絣錫 巾 和ヽ耐潜報が ・ E5 饗 い コ ■■ヨ ト0謝 L却ヽ 耐料 ﹂ 出∞ ﹁ ∬R 抑 和李 耐潜報” ・ 和斎哺高 い ン普 加刈≫回Э 脚刈柵凝 L 加ヽ 耐沿 ﹂ 8o ﹁ ∬鴫抑 和0襦潜報 ” ・姉田 獅 い シ゛Э︿”が 葺, ■卜■日慕ゞ詩‘ ﹁ 和務 耐潜 ﹂ 絣銘 巾 加わ冊潜■” 出い ﹁ ・ E5 響﹁ 蘇田和H ﹁ 研叶計叫ロ ト訓 Эい ﹂ ∬“抑 湘が 耐潜世” Э沖刈﹁和ヽ 醐 沿 ﹂ ・ 叫昴課 響 い 十冊 輌蒻 淋 脚刈冊 Σ S ヽ加●耐 潜﹂∬田巾 加0耐料■” 出Ч ﹁ ・ 外薔 冊 P 棒 田0 図Э 湘刈団L却0耐潜﹂ 絣口巾 加う耐 潜性” 鵠∞ ﹁ ・ 前 田噌= い Ⅷお Эけ ゛L脚務冊辮﹂ ∬認抑 加ヽ 耐沿弧” 80 ﹁ ︻ 絣訃 X弾 ︼ ・ロン 和ヽ 耐 潜弧” N8 い ﹃国珊湘が 耐潜汁冊海﹄ ・ さ> ユユ い 興 丼粛謙 XきЭ刈慈 ︱﹁ 8い ﹃ 洒刈﹂ ゛■0 針⊂計肝昴隷熙 Э事料 ︱﹄ 国咄 晋型茅 丼ゆ詳 -132- 一 ー 野外博 物館 のバ リア フ リ につい て の 考察 A study of the barrier-free designfor OpenAir Museum 中村 千 恵 NAKAWIURA Chie はじめに 博物館 とは、市民 の生 涯学習 を支 える社会教育施設 のひ とつ であ る。 そ うであ る為 には、年 齢や 国籍 、 しよ うがい等 、個人 が有す る特性 に関わ らず 、 あ らゆる人 が楽 しく快 適 に利 用で き 。 る場所 でな くてはな らな い。筆者 が現在研究 を進 めるハ ンズ オ ン展示 を含 め、各 地 の博物館 にお いて様 々 な取 り組みが行 われ てい るが、未 だ明確 な形 を示す には至 ってい な い よ うに思 わ れ る。 ー 博物館 にお けるバ リア フ リ 関係 の文献 を読む にあた り、野外博物館 について論 じられ た も のが少 な い と考 え、今 回 これ をテ ー マ として設 定 した。 屋 内に資料 を収集す るタイ プの博物館 ・ に比 べ 、野外博物館 は野外 へ 自らが足 を運び、周囲 の雰 囲気 環境 を含 めた展示全体 を体感 し ー て も ら うことに 、大 きな意味 がある と考 え られ る。 そ の為 に、野外博物館 は特 にバ リア フ リ や ユニバ ー サ ル ・デザイ ン とい つた観 点 を重視す るべ きな ので ある。本稿 は、筆者 が 実際 に見 ー 学 した事例 を交 え、野外博物館 に限定 したバ リア フ リ の必 要要件や今後 の あ り方 につい て考 察す るもので あ る。 一 尚、 しょ うがい者 の表記 につい ては 、引用部分 や 、註釈等以外 はひ らがなで の表記 に統 す 障 りの あ る 。害 の ある」とい う漢字 の る。 これ は、一 部 のバ リア フ リー論者 が指摘 して い る、 「 意 味 を除外す る とい う考 え方 に賛 同す る為 である。 1.バ リアフリー について バ リア フ リー の概念 ー 野外博物館 にお けるバ リア フ リ につい て記述す る前 に、 ここでは博物館 に 関 わ るい くつ か のバ リア フ リー の概念 につ いて述 べ てお きた い。す でに周知 の もの ばか りではあ るが、筆者 の バ リア フ リー 自体 に対す る考 え方 を明 らかにす る 目的 で 、 ここに今 一 度 の説 明を行 うもので あ る。 ノー マ ライ ゼ ー シ ヨじ 一 ノー マ ライ ゼ ー シ ヨン (normalization)と は 、 「 般 的 には、障 害 者 を含 む社会 的支援 の必要 なす べ ての人たちに普通 の市民 の通 常 の生 活状態 を提供す る ことを ー 念 であ る。 しょ うがい者 も健 常者 も共 に生 きる社会 こそ ノ マル 目的 として掲 げ てい る」( 1 ) 概 で あ り、そ のハ ンデ ィキ ャ ップ を特別視せず に 、お 互 いの権利 を尊重 し合 って普通 に暮 らす こ とを 目指す考 え方 であ り、方法 とされ る。1 9 5 0 年 代 のデ ンマ ー クで起 こつた 、知 的 しょ うがい 者 へ の収容施設保護 へ の批半J 運動 の 中か ら誕生 し、1 9 6 0 年 代後 半 にはアメ リカで も導入 され た。 - 133 - 野外博物館のバ リアフリーについての一考察 日本 で は 1 9 7 5 年 ( 昭和 5 0 ) 前 後 か ら知 的 しょ うが い 者 に対 す るサ ー ビスの 分 野 で 当該 用語 が 使 用 され る よ うにな り、現在 で は 社 会 福祉 分 野全 体 の基 本 的理 念 とな ってい る( 2 ) 。 バ リア フ リー バ リア フ リー (barrier‐ free design)とは 、 「 身体障害 な どの何 らかの原 因 に よつて、ある社会や環境においては何 らかの行為を達成す るために障壁 (バリア)が 存在す る こ とがある。 一 中略 … このバ リアが取 り除かれた状態をバ リアフリー と言い、そのために 環境 や道具 、 日用品などを適正 なものに改変すること」(3)で ぁる。 この概念は、身体 しょ うがい者 の移動環境についての議論を中心に普及 して きてお り、主にハ ー ド面での対策を考える上で 、 重要なキー ワー ドとされ るが、近年では人 々の行動や心理的側 面か ら観た 「日に見えないバ リ アJと いった社会的環境について も当該用語が使用 され 、物理的環境 と共に注 目され る。 ニバーサル ・デザイ バ リアが存在す るこ とを前 提 としてい るバ リア フ リー の概念 は 、 ア メ リカの専門家 の 中には消極 的で ある として批判 的な見方 もあ り、賛否 が分 かれ る所 である。 これ に対 して 「 後 か ら改造や 特殊解 のデザイ ン を しな くとも、最初 か らす べ ての人 に とって最 大限 の拡張性 を持 っ た使 いやす い環境や家具、道具類 をデザイ ンす る」 (註 3)こ とを 目指す 、 ユ ニバ ー サル ・デザイ ン (universal design)とい う概念 が生 まれ た。 この概念 を提 唱 したア メ リカ の ロン ・メイ ス (Ron Mace)は 、建築家 であ り製 品デザイナ ー で もあ つた。 上 記 の定 義 には ものづ く りか らの視′ 点が見 られ るが 、特筆す べ き な の は、彼 自身 が車椅子使用者 であっ た事 も相侯 って 、 ここで初 めてある領域 の専門家 の視 ′ 点と共 に、使用者 としての視 ′ 点を持 ち合 わせ た概念 が誕生 した事 な の であった。 この分野 の博物館 につい ての研 究 は、神奈川 県 立生命 の星 。地球 博物館元学芸員 の奥野花代子 が詳 しく、後述す る青森県 。三 内丸 山遺跡 時遊館 のユ ニバ ー サル ・デザイ ン導入 に際 して指導 を行 ってい る(4ゝ 以 上 の 3項 が 、大 まかではあるが現在 主に使 用 され てい る専門用語 であ り、概念 であ る。 日 本 で も これ らの考 え方 が広 ま り、博物館 で も多 くの試 み が行 われ てい るが、まだまだ バ リア の 除 去 は不十分 であ る と看 取 され るので あ る。 また 、現在 とられ てい る措 置 が本 当に適切 な ものか ど うか を、継続 的に見直 してい く必要 が あ るであろ う。 ノー マ ライ ゼ ー シ ョンや バ リア フ リー とい う考 え方 では、十分 に使用 者 の 目線 に立 って い る とは言い難 く、「 普通 の状態 に標 準化す る」とい う考 えの下に行 われ た措置 は 、逆 に しょ うがい等 を特殊 化 し浮 き彫 りに さえ してい る実 情 もあ る。 こ うした事態 は、使用者 に と つ ては不 快感 を抱 くもので あ り、避 けね ばな らない要件 な ので ある。 以 上 の観点 か ら、筆者 は 今後 のバ リア フ リー 対策 を行 う上では 、 ュニバ ー サル ・デザイ ンの視 点 に立 った措置 を とるこ とが 常套手段 で ある と考 えるのである。 しか し、現状 ではユニバ ー サル ・デザイ ン とい う言葉 のみ が先行 し、独 り歩 き してい る感 が 否 めない こ とも事実である。当該用 語 を使用す る者 の解釈 も、 様 々 であ るよ うに思 われ るので 、 一 ー ここで今 度 、ユニバ サル ・デザイ ンの 「 7つ の原則」を以下 に確認す る(5、 (日本語訳 :筆 者) 1.公 平な利用 (Equitable use) 2.利 用 にあた っての柔軟 ′ 性 Oexibility in use) 3.単 純 か つ 直観 的 (simple and intuitive) -134- 一 野外博物館のバ リアフリーについての 考察 4 . 知 覚 に訴 え る情 報 ( p e r c e p t i v e i n f o r m a t i o n ) 5 . ミ ス を許容 す る寛 大 さ ( t o l e r a n c e f o r e r r o r ) 6 . 身 体 的能 力 に制 限 され な い こ と ( l o w p h y s i c a l e f f o r t ) 7 . 利 用 し易 い 寸 法 と空 間 ( s i z e a n d s p a c e f o r a p p r o a c h a n d u s e ) これ は あ くまで製 品デ ザ イ ンが 元 にな つ た概 念 で あ り、 それ を丸 ご とそ の ま ま 博 物館 の 中 に ー ド面 に限 らず博 応 用す る こ とは難 しい で あ ろ う。 だ が 、 この 考 え方 を基本 と して 、施 設 の ハ ー 物館 が 行 う展 示 を含 む教 育活 動 に も、 ユ ニバ サ ル ・デ ザ イ ン を取 り入 れ る こ とは可能 で あ る と考 え る。 2 博 物館 におけるバ リアフリー 博 物館 と しょ うが い 者 に つ い て の 先 行研 究 博 物館 の バ リア フ リー 計 画 J ( 註 2 ) 博 物館 と しょ うが い 者 に つ い て の 研 究 史 は 、山本 哲 也 の 「 に詳 しい 。 日本 で 最 初 に しょ うがい 者 へ の 教 育活 動 に関す る記 述 が認 め られ る の は 、 山本 に よ る と 1938年 (昭和 13)の 『博物館研 究』第 11巻 第 2号 「 海外事情 ◇ 植物 園 の教育行事」 で ある。 ここでは 、 ニ ュー ヨー クのブル ック リン植 物 園 を取 り上 げ、視覚 しょ うがい者 へ の特 別講座 とい う形 の対応 が述 べ られ てい るのが嘱矢 で ある。 そ の後 は 、戦争 で混 乱 の 時期 で もあ り論 じられ る事 はなか つた よ うであ る。再度 目にす るの は、1961年 (昭和 36)の 『国 立博物 身体 の不 自由な人 に も美術鑑 賞 の機 会 を」が戦 館 ニ ュー ス』第 166号 所収 の岩崎友吉 に よる 「 車 つ きの椅子」を用意す る こ 後初 出 である。 この 中では 、身体 の不 自由な人 へ の対応 として 、「 とを提 案 してい るもの とされ るが、山本 は この表現 につい て 「「 車椅子Jと い う言葉す ら普及 し てい ない こ とが読み取れ るもので あ り、 当時 の 日本 の しょ うがい者福社 の状況 も見 えて しま う よ うな観 がある」 と断 じてい る(6)。 更 に山本 は、総合的 な見地 か らの最初 の成果 と して 、 「 学校教 育 と博物館 (3)」と題 す る特 つ いて論 じ 集 が組 まれ てい る、1964年 (昭和 39)発 行 の 『博物館研 究』第 37巻 第 5号 (7)に てい る。 これ を取 り上 げた理 由 として 、以下 の よ うに述 べ てい るc 最 も評価す べ き,点は 、養護 学校 ・盲学校 の それぞれ の教員 の意見 を取 り入れ てい る こ と にあ る。 それ は、 自らが しょ うがい者 でなかった り、また、教育 上 。生活上や そ の他 の場 面にお いて しょ うがい者 の意見 に耳 を傾 け られ る立場 になけれ ば、所謂健 常者 か らの お仕 着 せ に陥 る恐れ を考 えなけれ ばな らな いか らであ り、教育現場 にい る者 の 見解 は重要 視 さ れ て しか るべ き と考 えるか らで ある。 (註 6) これ は博物館 の設 計にあた る時や 、教 育 プ ロ グラム を開発す る際 に必要 な視 点で ある。 前述 した よ うにユニバ ー サル ・デザイ ンには 「 利 用者 の視点」 が含 まれ てお り、 こ うした利用者 の 近 くにお り、そ の特性や対応 を熟知 してい る者 の意 見は貴重 で あ り、大 い に参考 にす べ きで あ る。 また 、可能 な限 りしょ うがい者や 高齢者 か ら、利 用 当事者 としての意見 を直接組 み入れ る こ とも、ハ ー ド面 に限 らず 博物館 で行 われ る教育活動 には必要である。 そ の後 も、数 多 くの研究 が発表 され てい るが 、そ のほ とん どが視覚 しょ うがい者 か 、肢体 し ょ うがい者 に対す る展示や対応 につい て論 じるに留 ま ってい る。聴覚 しょ うがいや 内疾患等 、 - 135 - 野外博物館 のバ リアフリーについての二考察 そ の 他 の しょ うがい に つ い て は駒 見和 夫 が ( 8 ) に 総論 的 にま とめて い るが、今 後 も継 続 して研 究 してい く必 要 が あ るで あ ろ う。 1 9 9 6 年 ( 平成 8 ) 以 降 の 、近年 に発 表 され た文 献 に つ い て も、 同 じ く山本 の 研 究 に詳 し く述 べ られ て い る( 9 ) 。また 、 山本 は 、 バ リア フ リー や ■ ニバ ー サ ル ・ デ ザイ ン を考 え る上 で 、今 まで の よ うに しょ うがい 別 に 対応 策 を考 え る の で はな く、 「 4つ の障 壁」 ご とに考 えるべ きである としてい る。 4つ の 障壁 とは 、『障害者 白書 (平成 7年 度版)』に お いて 、 しょ うがい者 を取 り巻 く社会環境 に存在す るバ リア として挙 げ られ た 「 ①物理的な障 ・ 壁、②制度 的 な障壁 、③文化 情報面 での 障壁 、④意識 上 の 障壁Jで ある。社会教育施設 で あ る博物 館 での場合 を考 える際 に、最 も問題 とな るの は 、展示 されて い る資料 の情報 を伝達す る 際 の③文化 ・情報面 での障壁 である と見倣 され る。 そ の為 、視覚等特定 の感覚 の み に よる観 察 ではな く、複数 の感 覚 を活用 した観 察 が可能 で ある展示 を行 うことが望 ま しい と考 える。勿論 しょ うがい別 の特性 も考慮す べ き,点であ るが 、それ らは既 に多 くの先行研 究で論述 されて い る こ とと、本編 は五感 を使用 した展示 の観 察や 、人 に よる見学サ ポー トい う点 に重点 を置 くとい うこ とか ら、本編 で詳 しく述 べ る こ とは行 わな い こ ととす る。 野外博物館 の概念 まず 、 ここで述 べ る 「 野外博物館 Jと は どの よ うな もので あ るか、そ の定義 ・概念 につい て 述 べ 、そ の後 に野外 博物館 のバ リア フ リー に 関す る先行研 究 を幾 つ か 挙 げ ることとす る。 野外博物館 の 定義 ・概念 につい て 、発祥 の 地であ る欧州 では 、 ヨー ロ ッパ ・オ ー プ ンエ アー 下 AEOMと 記述)に お い て示 博物館協会 (AssOciatiOn Of EurOpean Open Air Museum=以 され てい るものが 唯 一 の例 で ある(10ヽ AEOMは 、 1957年 国際博物館会議 (ICOM)に 対 し、 Open Air Museumす なわ ち野外博物館 を提唱 し、 1959年 ICOM第 5回 総会 にお いて承認 さ れ た博物館協会組織 であ る。 当協会 が提 唱 した 、Open Air Museumの 定義 ・概念 は、以下 の通 りであ る。 (落合 2009よ り引用) (A)文 化財及 び文 化 地域 にあ る移動不可能 な もの 、及 び移動可能 な文化遺産 を保存す る。 (B)文 化財及 び文化 地域 の科学的調査 を実施 し記録す る。 一 (C)教 育 に 関連 して 、文化財及 び文 化空 間 自体 の歴 史 を 般 市民や 民俗研 究者 に対 し て公 開 し普及す る。 [定義] (抄) Open Air Museumは 歴 史的 に正確 な絵 にな るよ うに 自然 的、文化 的環境 を取 り入れ た 展示 を通 して 、夫 々の建造物 がお互い に関連 しあつてみ られ るよ うにア レンジす る こ とが 望 ま しい。 Open Air Museumは Open Air(戸 外)に お ける文化 史博物館 であ る。現在 あ るものの 大部分 は民族学お よび民俗学 にかかわ る博物館 であ る。 そ して 、 そ の 中の大部分 は伝統 的 な農家や農村文化遺産 を扱 ってい るが、なかには少数 ではあるが町並み を扱 っ てい るもの もある。 また 、実在物 を展示す る となる と限界 があ る。特 に先史時代 の住居等 は科学的 に - 136 - 一 ー 野 外 博 物 館 の バ リア フ リ に つ い て の 考 察 承認 されれ ば再建す る こ ともで きる。 これ は、そ の建物 が持 つ 教育的価値 をゆがめ るもの ではな い。科学 的決定 に よつて高 く評価 された もので あれ ば再建 、修復 、移設等 によ り展 示効果 をあげ る こ とがで きる。 上記 か ら、AEOMが 定義す る Open Air Museum、す なわ ち野外博物館 とは 、資料 を戸外 に 展示す る文化 史博物館 であ り、野外 が展示空 間 であるものの 、自然史系 の分野 は対象外 で あ り、 人文系 の分野 に限定 され る施設 で ある と理解 で きる。 では 、 日本 で は どの よ うに定義 され てい るので あろ うか。落合 知子 は、博物館 学 の視 点 か ら 一 木場 夫や新井重 三 らの論 を考察 し、AEOMの 定義 に 自然史系分野 を加 え、以下 の よ うな概念 を提示 してい る。 (註 10) 1.野 外博物館 とは野外 にあ る博物館 を直戴 に指す もので はな く、環境景観 とい っ た風 土 を も移設 。再現 した 野外展示空 間を有す るもので な けれ ばな らな い。 2.野 外博物館 は 自然 系 と人文 系 の 両者 を併せ持 つ た もので 、 さらに総合博物館 へ と昇華 した もので なけれ ばな らな い。 3.野 外博物館 は野外展示 空間 を有す る と同時 に 、核 とな る博 物館 を有 さなけれ ばな らな い 。 4.核 とな る博 物館 の室 内展 示 と野外 展 示 は 関連 した も の で あ り、室 内展 示 は野 外 展 示 を 集 約 した もので な けれ ば な らな い 。 我 が 国 の 博 物 館 の 分類 と して 、展 示 資料 で はな く展 示 場所 に よ る分類 で あ る野外 博物館 は未 一 だ 確 立 してお らず 、 博物館 法他 関係 諸 法令 に もそ の 名 称 は見 られ な い 。 現 状 で は 、唯 文 部 科 学省 に よる社 会 教 育調 査 の 分類 に加 え られ て い る の み で あ る。し か し、今 後 も近 代 遺 産や 重 要 伝 統 的建 造物 群 等 、多彩 な種 類 の 文化 財 が 増 え続 け る こ とを考 慮す れ ば、そ の保 存 ・活 用 と し て 野外博 物館 が 、そ の 効 力 を発 揮 す るで あ ろ うこ とは 間違 い な い と考 え る。 そ して 野 外博 物館 バ リア フ リー は必 須 要件 で あ る と考 え る も の で あ る。 が 多 くの 人 に親 しまれ る場 所 とな るに は、 それ 故 、 多 くの 文化財 を野外博 物館 と して 分類 を行 っ た落合 の 野外 博物館 の 定義 を踏 襲す る形 で 、本 稿 の 論 を進 め る事 とす る。 野外 博 物館 にお け るバ リア フ リー 先行 研 究 まず 、 山本 は野外博 物館 に限 らず 、博 物館 にお け るバ リア フ リー 事例 と して 、 主 に触 察 展 示 を行 って い る館 を歴 史民俗 系 ・自然 系 ・美術 系 と大 き く 3つ に 分類 して述 べ てお り、そ の 中 に 横 浜 市歴 史 博物館 に 隣接 す る大塚 。歳 勝 土遺跡 公 園 が列 示 され て い る(11ヽ こ こで は車椅 子使 用者 へ の 対応 と して 、竪 穴式住 居 内 に進 入 で き る よ う設 置 され た ス ロー プ が取 り上 げ られ て い る。 しょ うがい別 の 特性 を把握 す る と同時 に、 前述 した 4つ の 障壁 か らの 考 察 を行 つて い る点 が 、博 物館 学 的視 点 か らバ リア フ リー を捉 えてお り評 価 出来 る も の で あ る と考 え られ る。 バ リア フ リー の視 ′ 点か ら野外 博 物館 にま とま っ た記 述 が され て い る の は、野村 崇 に よ る報 告 が 初 出で あ る と看 取 され る(12)。 野村 は野外 博 物館 にお け る しょ うがい 者 との 関 わ りに つ い て 、 自身 の研 究課 題 と して設 定 して い る。 そ の 問題 意識 か ら端 を発 した 当該 報 告 は 、 自身 の 怪 我 に よって車 い す を一 時使 用 した 体験 を き つか けに執筆 され た もの で あ り、肢 体 しょ うが い 者 (車 椅 子 ・各種 杖使 用者 )の み に的 を絞 つ た記述 が な され て い る の が特 徴 で あ る。 前 。後 の二 編 か -137- 野外博物館のバ リアフリーについての一考察 ら構成 され 、前編 は 自身 が勤 める北海道 開拓 の村 につい て 、後編 では江戸東京 たて もの 園 と、 日本 民家集 落博物館 での調査報告 となってい る。 バ リア フ リー としては対象 が 限定的ではあ る ものの 、複数 の野外博物館 を調査 し、当時 の現状 を明 らか に した ことは、大 きな成果 であつた と評価 で きる。 しか し、 ス ロー プや しょ うがい者対応 トイ レ等 の設置 を以て 、バ リア フ リ‐ が 達成 され た とい った安直 な捉 え方 がな され てい るよ うに把握 で きるの は残念 であ る。 この′ 点は 大 い に疑間であ り、次章 にて詳述 す るこ ととす る。 博物館 にお けるユニバ ー サ ル ・デザイ ン研 究 の第 一 人者 であ る奥野花代子 は、2002年 (平成 ー ー 「 14)11月 30日 に開館 した 、青森 県 三 内丸 山遺跡 の ビジ タ セ ンタ 縄文時遊館 Jの 設計 に あた り実施 した 事例 を、実践報告 として発 表 してい る(13、 奥野 は 、視覚 に しょ うが い を持 ち 触察 に 関す る研 究 を行 う半 田 こず え と共 に、様 々 な提言 を行 っ た。 主 に、誘導用 の手す りの太 さや 高 さ、それ に貼付す る点字 シー トの位置や 向き、表記方法 、点字 ブ ロ ックを使用 しない誘 導用床材 の導入 、触知図 の 的確 な表現方法 等 、施設 内 の多 くの部分 を検証 してい る。 当該報告 は 、利用者 と して しょ うがい者 自身 が 、設計段階 において 多 くの 点 を検証 し意見 を反 映 させ て お り、ユニバ ー サ ル ・デザイ ンの理念 に合致 してい る点が評価 出来 る。今後 も この よ うな取 り 組 みが継続 して行 われ る こ とが望まれ る。 しか し、提言 が行 われ たのは展示室外 の所謂 エ ン トラ ンスホー ル や廊 下に留 ま うてお り、展 示室 内にはユニバ ー サ ル ・デザイ ンの考 え方 は反映 して い な い と考 え られ る。館 内で の移動 と い う物理 的な障壁 に対 しては有効 だが 、筆者 の考 える文 化 ・情報 へ の 障壁 へ の対応 としては 、 不十分 である と考 える。 宮崎県 立 西都原考古博物館 では 、特徴 的な もの として 、両肩 に ス ピー カ ー が配 置 され た ジ ャ ケ ッ ト型音声 ガイ ドと、組 み合 わせ に よ り空 間案 内 を行 う触察 ピク トについ ての事例報告 が 、 東憲章 に よ つて発表 され て い る(14、 当該施設 は、特別史跡 西都原 古墳群 の ガイ ダ ンス館 の役 割 を担 って い た西都原 資料館 の老朽 化 に伴 い 、新設 され る際 にユニバ ー サ ル ・デザイ ンが導入 され 、2004年 (平成 16)4月 17日 に開館 した。開館 か ら約 8ヶ 月後 に、 日本 ミュー ジアムマ ネ ー ジメン ト学会 に よるユニバ ー サ ル ・デザイ ンに 関す る シンポジ ウム が 開催 され、前述 した 取 り組み に対す る評価 検討 が行 われ 、更 なる改善 を行 つてい る。 しょ うがい者 だ けでな く幅広 い 見学者 を対象 として計画 が行 われ た点 と、人 による案 内 を前提 とした こ とで柔軟性 の 高 い 取 り組 み である と考 え られ る。 野外博物館 のバ リア フ リー 」 とい う節 を設 けて論 じて い る。 最近 では 、落合 が 著書 の 中で 「 (15)落合 は 、バ リア フ リー は建築物 の 中 と野外部 に大別 され る とし、それ ぞれ の事例 を挙 げて い る。屋 内部 に関 して 、特 に歴 史的建築物 を活用 した施 設 の場合 、建 築物 の保存 とバ リア フ リ ー を共存 させ 、出来 る限 り違和感 の無 い よ うに施 され るべ きであ る と述 べ 、秋 田県小坂鉱 山事 務所 の外付 けエ レベ ー ター を事例 として紹介 してい る。 これ は歴 史的建築物 の活用事例 だが 、 建築物そ の もの を展示資料 とす る野外博物館 に関 して も、考 えね ばな らな い方策 である。 また 野外部 に関 しては 、段差 の無 いル ー トの他 、車椅子 の貸 出 ・点字 の案 内パ ネ'レ等 が挙 げ られ て い るが、屋 内部 に必要 とされ る要件 と概 ね同様 である と述 べ てい る。 各博物館 での個別 の取 り 点か ら野外博物館 にお けるバ リア フ リー に考察 してお 組み に 関す る報告が多 い 中、客観 的 な視′ -138- 一 ー 野外博物館のバ リアフリ についての 考察 るで あ ろ う。 り、野外 部 に関す る配 慮 が未 だ十 分 で な い こ とを指 摘 して い る点 が 高 く評 価 出来 と して は、全 体 と 以 上 数 少 な い なが らも、筆 者 が読 了 した先行研 究 に つ い て 管 見 した 。 結論 と して して各 博 物館 にお け る実践 報 告 が 多 く、野外博 物館 の 特 に野外 部 に関 して は、未 だ理 論 め そ の後 の 確 立 され てい な い こ とが 明 らか とな つた 。 また 、報 告 は導 入 当時 の も が 多数 を 占 、 数 年 を経 て 、導 入 され た設備 や サ ー ビス が機 能 して い る の か ど うか不 明 で あ り、継 続 的 な報 告 が望 まれ る。 3野 ー 外博 物館 におけるバ リアフリ ・ 野 外博 物館 にお け る必 要性 と屋 内部 野外 部 の比 較 ー 全 国各 地 の 野外博 物 館 で 、様 々 な バ リア フ リ 対応 が 行 われ て い るが 、果 た して それ らは本 ー べ 当 に必要 な も の で あ ろ うか 。 バ リア フ リ 自体 が 行 われ る きで あ る こ とは、誰 も が 認 め る所 ー ド面 の整 備 に重 点 が 置 かれ て い る ー ー で は あ るが 、 主 に ス ロー プや エ レベ タ の 設 置 とい うハ 高齢 者 、身 体 障害者 等 が 円 現 状 も周 知 の 事 実 で あ るか と思 う。 これ は 、 1 9 9 4 年 ( 平成 6 ) に 「 ー トビル 法 ) ( 1 6 ) に よつて 、法 滑 に利 用 で き る特 定建 築 物 の建 築 の 促 進 に 関す る法 律 」 ( 通称 ハ ー ド面 の整 備 は 、前述 した 4 つ の 障壁 の うち、 的拘 束 力 が生 まれ た こ とが 背 景 とな つて い る。ハ 主 に物 理 的 な障壁 を取 り除 く為 に有 効 で あ る。 これ は 、野 外 部 を有 す る野外博 物館 には特 に欠 かせ な い もの で あ るが 、 山麓部 や 丘 陵地 帯等 に建設 され た館 で は 、 全 て の 人 に対 して安 全 で 快 適 な見学 を保 証す る の は困難 で あ る。 そ う した理 由は、抑 々 野外博 物館 にお け る展 示 が 、 単 に 資料 を野外 に展 示す る ので は な く、そ の 地域 の 自然 や季 節 感 を も体感 し、楽 しむ も の とい うこ ー とに起 因す る も ので あ る。 つ ま り、遊 歩道 を コ ンク リ トで完壁 に舗 装 し、傾 斜 を全 て 崩 して 平 地 に した も の は、 もはや 野外博 物館 とは言 えな い ので あ る。 こ う した点 か ら、筆 者 は野外 博 ー ド面 の 整備 も考慮 に入 れ る と同時 に、 ソフ ト面 の 充 実 を ー 物館 にお け るバ リア フ リ で は、 ハ 図 る こ とが 最 も重 要 で あ る と考 え る。 一 で は、現在 行 われ て い るバ リア フ リー 対応 は 、 体 どの よ うな もの が あ る の で あ ろ うか 。 現 状 と今 後 の 望 ま しい あ り方 を考 え るべ く、先行 研 究 を参 考 と して 、実施 され て い るバ リア フ リ ー の 種類 に つ い て 、屋 内部 ・野外 部 で の 実施 例 の比 較 を試 み る。 ー まず屋 内部 では 、物 理 的な障壁 を取 り除 くもの として 、 ス ロ プの設置 。点字 ブ ロ ックの設 ー ー 。 。 置 ・車椅子等 の貸 出 。手す りの設置 。多 目的 トイ レの整備 エ レベ タ の設置等 が 、施設 ・ 設備 面 にお ける対応 として行 われて い る。文化 ・情報面 の 障壁 に対 しては 、触察展 示 音声 ガ イ ド ・点字解説書等 が配 置 され 、数 は少 ないが 手話通訳 ・筆談 での応 対 ・ボ ラ ンテ ィアに よる 案 内を実施 してい る館 も存在す る。 そ の他 に も、資料 を展示室 内で展示す る所謂博物館 では 、 資料 を館外 に貸 し出す こ とで 、来館 が 困難 な利用者 へ 学習 の便 を図 つてお り、 当該措置 は同時 に文化 ・情報面 の 障壁 に対 して も有効 であ る。 ー ・ ー 次 に 、野外部 での物理的 な障壁 を取 り除 くもの として、 ス ロ プ式 のル ト 点字 ブ ロ ック の設置 ・車椅子等 の貸 出 。手す りの設置 。多 目的 トイ レの整備 。救護 室等 が挙 げ られ る。文化 ・ 情報面 の 障壁 に対 して も、屋 内部 と同様 に触察展示 ・点字解説 パ ネ ル 等 が配置 され てい る。 こ の よ うに見 る と野外部 で も十分 な対応 が行 われ てい るよ うに思 われ るが、所謂博物館 との決 定 -139- 野外博物館のバ リアフリーについての一考察 的な相違 ′ 点は、野 外博物館 の資料 は館外 へ の貸 し出 しが 困難 な′ 点であ る。 野外博物 館 において 野外部 に展示 され る資料 は 、建築物等大型 の資料や 、遺跡 等 の基本 的 に移動 が不 可能 である 資 料 が ほ とん どであ る。勿論 、野外博物館 の屋 内部では 、収集 された 民具や 土器 等 の よ うに移動 可能 な資料 が展示 され てい るが 、それ らはその場 か ら離れ て しまって は、本来 見学者 に伝 える べ きメ ッセ ー ジ を正確 に伝 える事 は 出来 な いの であ る こ 。 れ は野外博物館 の展示 が 、屋 内部 と 野外部 が融合す るこ とで機能す る為 であ る。 以 上 の よ うに、野外部 のバ リア フ リー は屋 内部 と同様 の措置 に留 ま っ てお り、野外 部 の展示 を安全 ・快適 に見学す るに足 るか否 かは 、大 い に疑 間が残 る。特 に、野外部 において物理的 な 障壁 に対す るソフ ト対応 は、 管見 の 限 りでは記載 が 見 られ なか った。 また 、野外部 にお ける施 設 ・設備 の整備 は、風 雨等 に よって屋 内部 の もの よ りも劣化 が 早 く、定期 的なメ ンテナ ンスが 求 め られ るが、現 状 では設置 を行 うこと 自体 に重点が置 かれ 、利用 の便や安全性 までは 、 至 ら な い部分 が 多 い よ うに思われ る。 野外博物館 にお けるバ リア フ リー の必 要要件 そ の上で 、野外博物館 に必 要であ る と考 え られ るバ リア フ リー の要件 として 、以 下 の 4項 を 提案す る。 ①安 心 して博物館 へ 足 を運 べ るよ う情報 を発信す る こ と ②諸感 覚 を駆使 して野外展示 を含 む資料 の観 察 が 可能 であること ③雨天時 も休憩 出来 る施設 が敷地 内に数 ヶ所備 わ つ てい る こと ④屋 内 。屋外共 に 、人 に よる案 内を受 け ることが 出来 る こと これ は、野外 博物館 が他 の場所 に移動 させ ることが 出来 な い遺跡や建築物等 の大型 資料 を有 す るこ とが主た る要 因である。 見学者 は 自らの足 で訪れ 、資料 を取 り巻 く自然環境や 、季節 の 移 ろい も共 に体全体 で感 じるこ とが 、野外博物館 の見学 に際 して重 要 な要素 のひ とつ である と 考 える為 であ る。 これ ら 4つ の要件 は 、前述 した 4つ の障壁 の うち、③文化 ・情報面 の 障壁 を 越 え、しょ うがい者 に限 らず多 くの人 が 野外博物館 を見学す る際に必要 な こ とであ る と考 える。 以下 よ り提案 した必 要要件 を、順 を追 って考察 を行 う。 まず ①安 心 して博物館 へ 足 を運 べ るよ う情報 を発信す るこ とについ てだが 、館 内 の対応 を積 極 的 に行 った ところで 、そ の情報 を伝 えなけれ ば足 を向けるこ とは難 しいだ ろ う。情報発信 の 手段 としては様 々 な媒体 が挙 げ られ るが、特 に常設 的な情報媒体 として 、Webサ イ トに注 目し て みた い。 これ は博物館 か ら発行 され るポ ス ター 等 の情報媒体 が 、特別展等 に際 して 作成 され るもので ある こ とが多 く、一 時的な もので ある為 である。総務省 の平成 21年 度通信利用動 向 調査 (17)による と、情報通信機器 の普及 率は携 帯電話 。PHSが 96.3%、 パ ソコ ンが 87.2%と 高 い割合 を示 してい る。更 に、イ ン ター ネ ッ トの普及率 は 78.0%と な ってお り、そ の 内パ ソ コ ン ・ 携帯電話等 のモ バ イル 端末 の併用 が 69.0%、 パ ソコ ンか らの み使用 が 13.7%、モ バ イ ル 端末 か らの み が 9.4%と な ってい る。地方や年齢 に よつ て も差 はあ るか と思 うが 、Webサ イ トが有効 な手段 であるこ とは間違 い な い であろ う。 そ して浅井勝利 も述 べ てい るよ うに 、博物館 の Webサ イ トは 、使用す る通信 機器や環境 に左 右 され ぬ よ うに し、利用 の公 共性 を守 らね ばな らな い(18)。特 に携 帯電話 に関 して 、高齢者 世 - 140 - 一 野外博物館のバ リアフリーについての 考察 帯 では高額 のパ ソ コ ンに比 べ て普及 率 が高 く、また視覚 しょ うがい者や聴 覚 しょ うがい者 に と ー ー って も、携帯電話 は使 用頻度 の 高 い コ ミュニ ケ シ ョンツ ル であるこ とか ら、博物館 の Web べ サイ トは携 帯電話 か らも利用 が可能 で ある こ とが 、今後 必要 な条件 とな る きで あ る。Webサ イ トを作成す る際 には、知 りた い情報 がす ぐに探 し出せ るよ うな分 か り易 い デザイ ン を基本 と し、文字 の大 き さや背景色 。文字色等 に配慮す る と共 に、常 に最新 の情報 を掲載す るよ う心掛 色覚 バ リア フ リー 等 に関 して は、全 国 の都 道府 県庁 の Webサ イ トも参考 けるべ きで ある(19)。 にな る部分 が あるか と考 え られ る。 次 に、②諸感 覚 を駆使 して野外展示 を含 む資料 の観 察 が可能 であるこ とについ ては、野外博 物館 ではひ とつの感 覚 だ けではな く、複数 の感覚 を組み合 わせ た資料 の観 察 が可能 で ある と考 える。例 えば、江戸東京 たて もの 園 (東京都 小金井市)等 の民家園では、民家 の野外展示 の 内 部 にお いて 囲炉裏 に火 を くべ る等 の情景再現展 示 を行 ってい る。板 張 りの床 に座 って 囲炉裏 か ら発す る熱 を肌 で感 じ、煙 の匂 い を嗅 ぎな が ら昔語 りを聞 けば、囲炉裏 が家庭 の 中で ど うい つ た役割 を果 た していた の を視覚 。感 覚 ・嗅覚等 を使 って 、体 全体で観 察す るこ とが可能 な ので あ る。 また、 三内丸 山遺跡 (青森県青森 市)で は、野外展示 の 大型掘 立柱建物 が 、縄文時代 に 再現 され てい る こ とを野外展示 に よ つて 学 び 、 ビジ タ 当該遺跡周辺 に生 えて い た栗 の木 (20)で ー セ ンター で ある時遊館 にお いて栗 を使用 した料 理 を食 べ る こ とが出来 る。 これ は野外展示 で 視 覚 ・触覚等 を使 つて資料 を観 察 し、味覚 に よつて縄文 の暮 らしに考 えを巡 らせ て 、経験 を再 ー 。 確認す る効果 が ある と考 える。 これ らは本来 バ リア フ リ を意 図 した ものではないが 、視覚 触覚 。味覚 ・嗅覚等資料 に対 して様 々 な感覚 か ら観 察 を行 える体験型展示 は 、 しょ うがいの有 無や年齢 に 関 わ らず効果 的 であ り、バ リアフ リーや ユニバ ー サ ル ・デザイ ンの視 点か ら捉 えて も有効 で ある と考 える。 続 いて 、③ 雨天 時 も休憩 出来 る施設 が敷地 内に数 ヶ所備 わ ってい る こ とにつ い てだが 、野外 博物館 の 見学 では、屋 内 の博物館 と比較 して も移動距離や 、それ に伴 う疲 労 が大 き くな ること は疑 いの無 い こ とで あろ う(21)。 更 に 、野外 に特有 の事象 のひ とつ として 、天候 は非常 に大 き な事項 である。天候条件 が悪 い 中 の見学 であれ ば、疲労感 は よ り頻繁 に感 じられ るであろ う。 しか し現状 で は、 ビジ ター セ ンター 内に喫茶 スペ ー ス等 が設 け られ 、野外部 は屋根 の無 い ベ ン チ の設置等 に留 ま ってい る。休憩施設 は、身体 を気遣 うだ けで な く、諸感 覚 を リフ レ ッシュ さ 一 せ て よ り良 い観 察 を行 う為 に も必要 な ものであるこ とを、 今 度認識 を新 た にす るべ きである。 設置 の 際 には 、誰 もが利 用 しや す い よ うに、施設 内部や 出入 り国の空 間 を十分 に確保す るこ と は勿論 、内部 に設置す る椅子等 の 素材やデザイ ン も安全性 に配慮せ ね ばな らない。例 えば 、車 一 壁 面 に折 り畳む こ とが可能 なベ ンチの設置や 、 椅子使用者 と歩行者 が 緒 に休憩 で きるよ うに、 内臓機能 しょ うが い者や小 さな子 どもを連れ た家族 が 、人 目を気 にせず に横 にな つた り世話 が 出来た りとい うスペ ー スの確保 も、休憩施設 には必要で あろ う。 最後 に 、④屋 内 ・屋外共 に、人 に よる案 内を受 ける こ とが出来 る ことについてで あるが、前 述 した よ うに野外博物館 で も施設 。設備 等 のハ ー ド面 の整備 は 、各館 でそれぞれ進 め られ て い る。 しか し、や は り文化 ・情報面 での障壁 を越 えるには 、人 と人 との コ ミュニ ケ ー シ ョンを通 じたサポー トが望ま しい と考 える。それ は 、博物館 での経験 とい うものが 、「 見学者 と資料」の -141- 野外博物館のバ リアフリーについての一考察 関係 だけで な く、資料 を通 じた 「 人 と人 」の 関係 に よって も構成 され るか らであ る(22、特 に、 野外部 を持 う 野外博物館 では物理 的な障壁 に 関 して も、有 効 である と考 える。野外部 において も、ハ ー ド面 の整備 が行 われ てい る とはい え、不測 の事態 が起 こ ることも考 え得 る。 そ うした 事態 を未然 に 防 ぐには、人 に よる柔軟性 に富 んだガ イ ドが最 も適 してい る と考 える。展示解説 が バ リアフ リー に も応用可能 である との考 え方 は 、田川泉 ・ 藤 田真理子 。 佐藤美 由紀 に よる 2004 ーー ― 「 バ 年 博物館 の リア フ リ 日米比 較 」『広 島大学 民族社会研 究』第 2号 において も、看 取 出来 るもので ある。 また 、視覚 しょ うがい者 に限定 され たデ ー タであ るが、博物館 を訪れ る際に最 も重要視す る こ との 中に、 「 角 虫っ て観察 。観賞 できる展示 があるこ とJと 並んで 「 理 解 あ るス タ ッフの存在」 が挙 げ られ てい る(23と 更 に 、博物館職員 のバ リア フ リー に対す る意識 が 高 いほ ど、そ の館 で のバ リア フ リー 対応 が進 んでい る とい うア ンケ ー ト結果 に よって 、博物館職員 の 高齢者や しょ うが い者 に対す る志 向 と、そ の館 にお けるバ リア フ リー 対応 の進展状況 が大 き く関係 してい る 事 が 明 らかになってい る(24)。これ らの こ とか らも、博物館 での 見学 にお け る人 を介 したバ リ ア フ リー の重要性 が読み取れ るであろ う。 また 、人 による案 内が意 味す る ところは 、ハ ー ド面 の サポ ー トと して物理的 な障壁 に対応 し安全 な見学 を担保す るもの と、展示 につい ての解説等 で五感 に よる観察 をサポー トし、文化 ・情報面 の 障壁 に対応す るものの 2つ が考 え られ る。 し か し、それぞれ が完全 に独 立 して行 われ るので はな く、両者 が結 び付 い た案 内が よ り望 ま しい と考 える。 4つ 目の項 目に付 随 して 、 しょ うがい者や高齢者等 と共 に訪れた家族 ・友人が、 一 緒 に展示 を楽 しめるツール を考 えるこ とも必要であろ う。 一 例 として 2009年 に 国 立 民族 学博物館 で行 われ た企画展 「 点天展」では 、点字 と墨字 の 両方 が 印刷 され てい るパ ンフ レ ッ トが配 布 された。 それ ぞれ に どの よ うな ことが 書 かれ てい るのか を教 え合 うことで 、展覧会 を通 じた コ ミュニ ケ ー シ ョンが生 まれ る と同時 に 、展示 につい て もよ り深 い理 解 が得 られ るので はな い か。更 に 、 点字使用者 と墨字使用者 が 、お 互いの文字文化 につい て触れ 合 うことが 出来 、 こ うした試 み を 通 じて意識 上 の 障壁撤廃 へ の効果 も大 い に期待 できる もので ある。 4 お わりに ここまで 、 バ リア フ リー 関係 の先行研 究 を管見 し、野外博物館 にお けるバ リア フ リー の現状 をま とめる と共 に、新 たに必要要 件 の 定義 を行 った。 そ こか ら、現在行 われ てい るバ リア フ リ ー 対応 が 、ハ ー トビル 法 の施行等 の一 定 の強制力 に よって 推進 され て きてお り、あ る意味では 消極 的な対応 であるこ とが明 らか とな った。今後 は、従来 の 障壁 があ るこ とを前提 とし、それ を取 り除 くため の 「 消極 的バ リア フ リー 」 か ら、博物館側 は展示 に よつて何 を伝 えた いの か を 考 え、それ を伝 える為 には何 が必 要 な のか を考 える 「 積極 的 バ リア フ リー 」 へ と、バ リア フ リ ー に対す る意識 の転換 が必 要 である と考 える。近年 では 「 ユニバ ー サ ル ・ミュー ジアム」 とい う言葉 も広 が り、それ 自体 を主題 とした展 覧会 も各地で開催 され てお り、博物館 関係者 に留 ま らず 、一 般 の方 に も認識 が進 んでい る こ とと思 われ る(25、 今後 も、継続 して博物館 にお ける バ リア フ リー に関す る研 究 が進 展す るこ とが期待 され る。 -142- 一 ー 野外博物館 のバ リアフリ についての 考察 ー の が共 に楽 今 後 も博 物館 教 育 の 視座 に立 ちな が ら、 バ リア フ リ の 視 点 を取 り入 れ 、多 く 人 しめ る博 物館 を模 索 して い きた い と考 え る。 註 ( 1 ) 庄 司洋 子 ・木下康仁 ・武川 正吾 ・藤村 正之編 1999『 社会福祉事典』 弘文 堂 ( 2 ) 山 本 哲 也 1997「博物館 のバ リア フ リー計画」『國學院大學博 物館学紀要』第 21輯 (3)註 1に 同 じ ( 4 ) 奥 野 花代 子 2003「ユニバー サル ・デザイ ンによる誘導 。案内方法 の創 出一 「 縄文時遊館Jヘ の導入 のための検証 を例に して― 」『 博物館研 究』Vol.38 No.10 ( 5 ) ァ メ リカ障 害者 リハ ビ リテ ー シ ョン 国 立研 究所 ユ ニバ ー サ ル デ ザ イ ンセ ン ター H P http:〃design.ncsu.edu/cud/index.htlnl (6)註 2に 同 じ ( 7 ) 山 本 に よ る と、 関係 す る内容 の も の は以 下 の 通 りで あ る。 西条 正 晴 「 養 護 学校 教 育 と博 物館 J 「 谷 合侑 盲 学校 教 育 と博物館 J 盲 学校 の理 科 教 育 か ら科 学博 物館 へ の 希 望 」 林 良重 「 小森厚 「 博 物館 施 設 と盲 人指 導 と くに動 物 園 にお け る指 導 例 を中心 に」 (8)駒 見和夫 2008『 だれ もが学べ る博物館 ヘー 公教育 の博物館学』学文社 (9)山 本哲也 2008「 博物館学 におけるバ リア フ リー研究 の現状 につい て」『 新潟県 立歴 史博物館研 究紀要』第 9号 ( 1 0 ) 落 合知子 2 0 0 9 『 野外博物館 の研 究』雄 山閣 (11)註 6に 同 じ ( 1 2 ) 野 村崇 1 9 9 8 「 野外博物館 のバ リア フ リー 計画 ( 1 ) 」『 北海道開拓の村調査研究中間報告』1 ー バ 北海道開拓の村調査研究中間報告』2 1 9 9 9 「野外博物館 の リア フ リ 計画 ( 2 ) J 『 (13)註 4に 同 じ ( 1 4 ) 東 憲 章 2 0 0 6 「 宮崎 県 立 西都 原 考 古博 物館 にお け るユ ニバ ー サル デ ザイ ン導入 の 取 り組 み 」 『博 物館 の 望 ま しい 姿 シ リー ズ 7 誰 に もや さ しい 博物館 づ く り事 業/ バ リア フ リ ーのために』財団法人 日本博物館協会 (15)言 主1 0 に 同 じ (16)2006(平 成 18)年 に 「 高齢者 、障害者等 の移動等 の 円滑化 の促進 に関す る法律 ( バリア フ リ ー 新法) J が 施行 され、 旧ハ ー トビル 法は廃 止 とな ってい る。 ( 1 7 ) 総 務省平成 2 1 年 度通信利用動 向調査 http7/www.soumu.go.jp/main content/000064217.pdf ( 1 8 ) 浅井勝利 2 0 0 8 「 博物館 W e b サ ィ ト論一 ア クセ シ ビ リテ ィの 問題 を中心 に一 」『新潟県 立歴 史 博物館研 究紀要』第 9 号 ( 1 9 ) 山 本哲也 2 0 0 6 「色覚 バ リア フ リー の点検 と改善 の試 みJ 『博物館 の望 ま しい 姿 シ リー ズ 7 誰 にもや さしい博物館 づ く り事業/ バ リア フ リー の ために』財 団法人 日本博物館協会 ( 2 0 ) 現 在建 て られて い るもの は、栗 の本 ではあるが現地 の もので はな くロシ ア産 を輸入 した もので ある との ことであつた。 (21)註 2に 同 じ 山本 は 「 館 の規模 に よ り博物館疲 労 の度合 い も異 な るはずで ある し、見学者 自身 の見学時 の体調 に も左 右 され るのは 当然 であろ う。適切 な休憩所 の確保 は、しょ うがい者 のみ の 問題 ではな く、全 ての利用者 。見学者 のためでなけれ ばな らな い。」 と述 べ て い る。 以 上の記述 を参考 とし、野外 であるこ とも加 味 した もの を 提案す るもので ある。 一 ― (22)」 O h n . H . F o l k 、L y n n . D . D i e r k i n g 、 高橋順 訳 1 9 9 6 『 博物館 体験一 学芸員 の ため の視 , 点 』 雄 山閣出版 ( 2 3 ) 半 田 こず え 2 0 0 7 「 視覚 に障害 の ある来館者 の求 める博物館 のア クセ シ ビ リテ ィに関す る研 -143- 野外博物 館 のバ リア フ リー につい ての一 考察 究」『 博物館 の望ま しい姿 シ リー ズ 10 誰 に もや さしい博物館 づ くり事業/バ リ アフ リー のために』財団法人 日本博物館協会 (24)朴燦 一 。宮崎清 2005「 日本 の 博物館 にお けるバ リアフ リー実態 の類型化 による特性分析 」『デ ザイン学研究』 (25)広瀬浩 二郎編 2007『だれ もが楽 しめるユニバ ー ル ・ サ ミュー ジアム “っ くる"と “ひ らく" の現場か ら』読書 工房 (國學院大 學大学院博 士課程前期) - 144 - 一 ミュー ジア ム ・コンサ ー トに関す る 考察 A consideration of Concert in Museum 松林 有 紀 MATSUBAYASHI Yuki はじめに ー ミュー ジア ム ・コ ンサ ー トとは、そ の名 の通 り博物館 ・美術館 (ミュ ジア ム)で 行 われ る ー ・コ ・ ー 演奏会 (コンサ ト)の こ とであ る。今 日、多 くの博物館 美術館 で様 々 な ミュ ジア ム ンサ ー トが行 われ 、博物館 が行 う事業 の一 つ として定着 して い る。1990年 に出 され た、社会教 教育 博物館 の整備 。運営 の在 り方 につい て 」の報告 では 、 「 育審 議会 の社会教育 施設分科会 の 「 普及活動 の多様化 と充実Jの 項 目にお いて 「(各博物館 の資料や特徴 を活 か した教育普及活動 の ー 充実 を図 る と共 に 、)展 示 に関連す る映画会 、ョ ンサ トな ど多彩 な活動 を 工夫す る必要が あ 一 ー る。」ωとされ 、展 示 と リンク した ミュー ジア ム ・コ ンサ トは教育普及活動 の つ として位置 付 け られ てい る。(下線 は筆者) 一 博物館 エ 博物館 学 にお いては 、藤 山 雄 が満州 國 立 中央博物館 で展 開 した 、教育普 及活動 「 キ ステ ンシ ョンJの 一 つ として 、1939年 にオ ー ケ ス トラの演奏会 を行 つた、とい う記述 があ り、 ー ー 音柴」 棚橋源太郎 は、 ミュ ジア ム ・コ ンサ トとは記載 して い な いが 、博物館 の活動 として 「 を挙 げて い る。1990年 代後半 にな る と、博物館 の現場 では 、金 山喜 昭 が 、野 田市郷 土歴 史博物 一 ー ー ・ 館 で 、 地域 の童謡作家 の特別展 開催 時 に関連 の ミュ ジアム コ ンサ トを実践 し、そ の 方 一 で 、 ミュー ジア ム ・コ ンサ ー トは新規来館者 を増やす ため の つ の戦略 で ある とい つた声 も出 て きてい る。 ー トの 開催 は容認 され 、近年 に近 づ くにつ れ 、博物館教育論等 の なかで、 「 演奏会」、 「コ ンサ ー ト」 とい つ た言葉 が散 音楽会」、 「 一 見 出来 る。 しか し、それ らは博物館 活動 の 例 として挙 げ られ てい るものが殆 どで 、 いずれ も 日本 の 博物館 学 にお いて 、早 い 時期 か ら博物館 での コ ンサ が 明確 な研 究史 であ る とは言 えない。 ー ー 今 日、多 くの 博物館 、美術館 にお いて ミュ ジアム ・コ ンサ トは開催 され て い るに も関わ らず 、 この分野 は未 踏 の研 究分野で ある とい えよ う。筆者 は、そ うい つた現状 か ら、教 育普及 ー 活動 の 一 つ として の ミュー ジアム ・コ ンサ トは、 ど うあ るべ きか考 えなおす必要性 を感 じ、 研 究テ ー マ として定 めた。 ー ー 本稿 では、そ の基礎研 究 として 博物館学 史にお い て ミュ ジアム ・コ ンサ トは、 どの よ う ー に述 べ られ て きた のか を概観 し、 また現代 の博物館 にお ける ミュー ジア ム ・コ ンサ ト開催 の ー ・ 状況 を、年報 か らの情報 を も とに分析す る ことで 、博物館 学史 にお ける ミュ ジアム コ ンサ ー ト論 と、実際 に行 われ てい る ミュー ジアム ・コ ンサ ー ト双方 の 問題 点 を考察す るもので ある。 -145- ミュージアム ・コンサー トに関する一考察 第 1章 ミ ュー ジア ム ・コ ンサ ー トの位 置 づ け 1 . 博 物館 学 研 究者 による研 究 史 コンサ ー ト ①藤 山 一 雄のミュー ジアム ・ 1939年 に満州 国国立 中央博物館 副館長 に就任 した藤 山一 雄 は 、それ まで 「 単な るモ ノの展示 ・ 場」とい う博物館 を否定 し、欧米 に倣 い 、社会 に積極 的 に働 きか ける教育 普及活動 で ある 「 博 物館 エ キ ステ ンシ ョン」 を展 開 し、新 しい博物館 を 目指 した。 。) 「 博物館 エ キステ ンシ ョン」として行 われ た活 動 には 、「 移動講演会J、「 現地入所科学研 究生」、 「 博物館 の 夕J、 「 満州科学 同好会」、 「 科学 バ イ キング」等 があった。 ミュー ジアム コ ンサ ー ト は、 現代 でい う博物館 の定期 的な公 開講演 に該 当す る 「 博物館 の 夕」第 4回 目にお いて 開催 さ れ た。『國 立 中央博物館 時報』第 3琥 には 、以下 の通 りに ミュー ジアム ・コ ンサ ー トの概 要 と開 催 時 の状況 が報告 され てい る。 第 4同 博物館 の 夕 (通俗學術講演會) 康徳 6年 10月 25日 午後 7時 か ら、新京特別 市西慶場 、満鐵倶柴部 で 、第 4同 博物館 の 夕 を下記 の通 り開催 した。 ……新京交響染 園 出演 ・ 指 揮 ……大塚 敦 氏 獨 唱 …… 古田牧江 嬢 "フ "よ A.序 曲 イガ ロの結婚 り……モ ー ツアル ト曲 "ア "よ B.第 一 幕 の序 曲 ルル の女 り…… ビゼ ー 曲 "フ "よ C.管 弦柴 附 き ソプ ラノ獨 唱 モ ー ツアル ト曲 イガ ロの結婚 り……・ 1.スザ ンナ の詠唱 2.ケ ル ビー ノの宣叙調 と抒情調 第 1部 音 柴 "よ D.第 一組 曲 歌 濠1"カ ル メ ン り………ビゼ ー 1.プレ リュー ド 2.ア ラ ゴネ ー ズ 3.イ ン ター メツツオ 4.ア ラ ゴ ンの龍騎兵 5.トレア ドー レ 第 2部 科 學講演 第 3部 文 化 映書 今 回 の博物館 の 夕に際 して 、新京音楽院及び満鐵新京支社 の御支援 を得 て 、音架 と映豊 と をプ ロ グラムの上 に組 み得 た事 は 、科學講演 と相待 つ て 、新京 の文化人 を非常 に喜 ば した。 (中略)會は定刻 正 7時 、藤 山副館長 の 開會 の詳 に引き績 い てプ ロ グラム通 り、演奏會 に移 つ た。 1200名の 耳は動員 され 、水 を打つ たや うな静かな會場 に、オ ー ク ス トラの旋律 が流 れだ した。 (中略)やがてわれ るや うな拍 手で第 1部 のプ ロ グラム が送 られ る と、第 2部 の 科學講演會 に移 つ た。 ③ 終 了時刻 が午後 11時 との記載 があ り、長 時間に亘 る会 だ っ た よ うであるが 、好評 の うちに無 事終 了 した ことが窺 い知れ る。藤 山は、 自身 の著書 『新博物館態勢』 の 中で 、 「 博物館 の 夕」に ー つい て 「 講演及 び音柴映書 に よ リ 般 の知的啓嚢 、情操涵養 に営 り、別 に科 學 同好含 を組織 し、 一 毎月 同づ ゝ給 々専 門的な知 的探求 に精進す るに努 め」 “)と述 べ てお り、 ミュー ジアム ・コ ン サ ー トを教育普及 の 一つ と考 えていた と思われ る。 -146- 一 ミュー ジアム ・コンサ ー トに関す る 考察 ー ー ・ ②棚橋 源太郎 のミュ ジアム コンサ ト の 棚橋源 太郎 は、東京教育博物館 (現在 の 国 立 科学博物館)の館長や 、博物館 事業促 進会 (現在 日本博物館協会)の専務 理事 を務 め 、戦前 の博物館令 制 定運動 にお いて も中心的な役割 を果 た し、 博物館 の育 ての親 」 として知 られ てい る。 博物館 学 の父」、 「 現在 では 「 ー 棚橋 が ミュー ジア ム ・コ ンサ トについて述 べ て い るの は、郷 土博物館 の特質 について論 じ 郷 土博物館 は、学校教育 の補助機 関 た 『郷 土博物館 』の著作 内である。郷 土博物館 について 、 「 であ る と同時 に、また町村及 び地方 の青年 を始 め全 住民社会教育 の 中央機 関 た らしめなけれ ば な らぬ。 (中略)特 に公 民 と しての教養 、愛郷 土精神 の養成 に重点 を置 き、多方面 の社会教育 に よって 、地方 の発展 、特 に民風 の作興産業 の発達 に貢献せ ねばな らな い 」 (5)と した上で、棚橋 は、郷 土博物館 にお ける常時展観 、特別 展 、講演会 、講習会 、趣 味娯楽会 な どの必 要用件 につ 一 いて言及 して い る。 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トは趣 味娯楽会 の つ に含 め られ 、以下 の よ うに 述 べ られて い る。 各町村各地方 には、また特殊 の但謡音楽舞踏村 芝居 そ の他 の 民衆芸術 を有 つ て居 る とこ ろ も少 くあるま いか ら、兎角乾燥無味 の生 活 に陥 り易 い農村や 地方 へ 民衆的娯楽 を導 き入 れて、そ の 単調 を破 りこれ を美化潤色す る こ ともまた頗 る必要で ある。 0(下 線 は筆者) また 、『博物館綱要』 に も、 「(郷士博物館 は)舞 踏 ・音柴 ・映董 ・村芝居等 の健全 な る娯楽及 び芸能 の会 を催 し、青年男女 を して 漫然都会 に憧れ ることな く、ここに永住す るの を誇 りとし、 愉快 と感ず るに至 らせ るのである。」0(下線 は筆者)と述 べ られ てい る事 か らも、郷 土 博物館 で 、 郷 土 に伝 わ る固有 の音楽 を含 めた芸能 、娯楽 の会 を催す事 は、そ の土 地 の者 へ 楽 しみ を与 える と共 に、郷 土へ の愛着 を育む こ とに繋 が る として い る。 コンサ ー ト ③守井典 子のミュージアム ・ 第 6章 博物館教育論 」 国 立科学博物館 の教育部 企画課研 究員 の守井典子 は 、『博物館学教程』「 ③を執筆 してい る。 守井 は著書 内で、博物館 で行 われ てい る多彩 な教育普及活動 につい て 、展 示 がそれ らの 中心 とな る とい う認識 の も とに、展示 に対す る理解 を促す活動 を始 め として、資料 に関す る知識 を 深 め る活動や 、 日常的な学習 を支援す る活動 につい て論 じてい る。 そ して 、 これ らの どの活動 に も新 しい利 用者 を呼び込む要素が含 まれ てい る とし、 「(博物館 内で の コ ンサ ー トや演劇 の 開 催 は)ふ だん博物館 に興 味 を示 さな い よ うな人 々 が博物館 に来 るよ うに仕 向ける活動 と割 り切 って 、戦略的 に実施す る姿勢 が望 まれ る。J⑨ と述 べ 、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トを、よ り多 く の来館者 を呼ぶ ため の一 つの 手段 として捉 えて い る。 コンサ ー ト ④ 金 山喜 昭の ミュージアム ・ 法政大学教授 、金 山喜昭 は 『博物館 学入 門― 地域博物館 学 の提 唱一 』 (10で、博物館活動 の 中 で最 も住 民 と交流す る教育 普及活動 は 、 これ まで の資料 の収集 、整 理保 管 、調査研 究 を踏 ま え て 、「 何 を どの よ うに して住 民 に普及す るのか 、またそれ は何 を 目的 にす るのか」を考 えて実践 ま ちづ く り」 の施策 に 関連す る教育普及 の あ り方 を述 べ てい る。 す る ことに あ る とし、 「 -147- ミュージアム ・コンサー トに関する一考察 金 山は野 田市郷 土博物館 で 、1996年 10月 15日 ∼ 11月 17日 の 間、「よみが える 山中直治童 謡 の 世界」 と題 し、野 田市 出身 の童謡 作家 である 山中直治 に関す る調査研究 の成果 を 、特別展 と して発表 した。(11)こ れ は、これ まで歴 史的に埋 もれ ていた 中山直治 の存在やそ の業績 を評 価 し、 彼や そ の作 品 の普及活動 を通 じて 、市民 の地域 に対す る誇 りや 愛着 の生成 につ なげ る事 を 目的 とした もの で あ った。 この特別展 は、展示 に よって直治 の生涯や 業績 を紹介 し、理 解 を促す 「 見 るアプ ロー チ」と、 直治 の作 品を実際に来館者 に聴 い て も ら う 「 聴 くアプ ロー チJを 複合 させ た構 成 である。 「 聴 くアプ ロー チ 」 の詳細 は、展示会 場 に直治 の童謡 を BGMと して流す こ とと、 コ ンサ ー ト を開催す る こ とで 、特別展会期 中 の 10月 26日 に 、市内 の興風会館大 ホー ル で 「 生 誕 90年 山中 ー コ 直治童謡 ンサ ト」 が 実施 され てい る。入場料 は無 料 であ り、出演者 は 、野 田市立 中央小学 校合 唱部 の子供 た ちや 、住 民サ ー クル 「 童 謡 を歌 う会Jの メ ンバ ー等 、住 民 ボ ラ ンテ ィアを採 用。住 民ボ ラ ンテ ィアの活用 につい て 、金 山は 「 市民 の 出番 をつ くる こ とは 、単 に予 算 の 問題 解決策 とい うこ とではな く、社会参加 を促 しその後 の普及活動 につ なが ってい く。地域 の童謡 を育成す るた めには、そ の地 域 の人 た ちが主 体者 とな り参加 す る こ とが必 要 であ り、ボ ラ ンテ ィア として参加 した 市民た ちはそ の後 に、演奏 を継承す る機 動力 にな って ゆ くので ある。」 (1の と述 べ 、住民参加 の意義 の重要性 を説 いてい る。 コ ンサ ー トは 500名 を越す盛況ぶ りであ り、 観 覧者 か らは、「 現在 の世 の 中ではあま り童 謡 が聴 けないが 、久 しぶ りの 昔 にかえ つ た よ うに感 動 した Jな どの感想 が 寄せ られ 、好評 の うちに幕 を閉 じてい る。 (10 特別展終了後 も、博物館 は展示会 とミニ コ ンサ ー トの二部構成 による 「 老人 ホー ム移動博物 この 山中直治 に関す る博物館 の一 連 の 館 」を実施す るな ど、童謡 の普及 を継続 して行 つた。 (1つ 活動 を受 けて、市教育委員会 の社会教育課 は、市民 を中心 とした 「 山中直治 を歌 う会」 を結成 し、また市 内 の小 中学校 では 直治 の童謡 を音楽 の教材や 、 クラブ活動 に取 り入れ るな ど、行政 に も様 々 な影 響 を及 ぼ してい る。l「l 金 山の行 っ た ミュー ジアム ・コ ンサ ー トは、 中山直治 の童謡 を 「 ま ちづ く り」 に生か す、 一 連 の 取 り組 み の なかで、童謡 を普及す る とい う目的 を達成す るため の非常 に有用 な方策 であっ た と言 える。 コンサー ト ⑤その他のミュージアム ・ 『 新版 ・博物館学講座 第 1巻 博物館学概論』 (10に おいて、お茶 の水女子大学教授鷹野光行 は、博物館 における講座 ・教室等 の集会活動 を、①展示資料に関す る研究会 ・講演会②各種講 座 ・講習会 。実技教室な ど③その他 の集会活動 の三つに分け、 ミュー ジアム ・コンサー トを③ に含 んでいる。 ミュー ジアム ・コンサー トの他に、映画会、芸能発表会、昔話を問 く会、落語 会 があげられてお り、いずれにせ よ、 これ らの集会活動は単なるイベ ン トではな く、また単な るひ と集 めのためではな く、明確な 目的を持 った企画が立て られなければな らない と述べ てい る。 つにおいて、丹青研究所 の また、『 新版博物館学講座 第三巻 現代博物館論 一現状 と課題 ―』。 里見親幸は 「 博物館 の普及活動 として、一般的に講演会、講座、映画会、観察会な どが行われ - 148 - ミュージアム ・コンサー トに関する一考察 て い るが 、 コ ンサ ー トや 結 婚 式 な ど多 彩 なイ ベ ン トが行 われ る よ うに な つて 、博 物館 は地域 の コ ミュ ニ テ ィセ ン タ ー の 役 割 、 あ る い は文化 の 発信 源 とい う存 在 に もな り、人 々 の利 用 の 幅 を 広 げて い る。J ( 1 °と し、 ミュ ー ジア ム ・コ ンサ ー トをイ ベ ン トと して捉 えて い る。 コンサ ー トの位置付 け 2美 術館 におけるミュー ジアム ・ コンサ ー ト ① 井出洋 一 郎 のミュージアム ・ 東京純 心 女 子大学 の教授 であ る井 出洋 一 郎 の 『美術館 学入 門』に よる と、「 美術館 はあ くまで 非 日常的な体験空間であ り、 さらに娯楽 の要素 を増 した知的 エ ン ター テイ メン トの場 で もあ る べ きJと し、 「 美術館 教育 は さま ざまな情報 を利用者 の取捨選択 出来 る形 で豊 富 に提 供 し、利用 者 の 自己実現 をサポー トす るこ とが可能 」 (10としてい る。 井 出は美術館 にお ける教育活動 を展示 解説部 門 と講座 ・行事部 門に分 け、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トは後者 に含 まれ 、舞踏 、パ フォー マ ンス と共 に以下の 3点 を述 べ て い る。 ・美術館全体 の活性化 のため に (舞踏や パ フォー マ ンスの 開催 は)あ らゆる場所 で可 能性 を試 し、決 して聖 域 を設 けない こ とが望 ま しい。 。芸術性 があれ ばあ とはジ ャ ンル を問わな い 柔軟 な姿勢 が求 め られ る。 。企画 があま り突 出 しない よ うに館 の性格や展覧会 との連携 もときには必要で あ り 、そ の 際 には美術館 全体 をひ とつの祝祭 空間 とみな して 、総合芸術 と しての事業運営 をはか るセ ン ス が 重要 とな る。 コンサ ー ト ②清水久夫 のミュー ジアム ・ 世 田谷美術館教育普及課長 であ る清水久夫 は 、開館 以来 、世 田谷美術館 で行 われ た コ ンサ ー トを含 む 、バ レエ な どのパ フォ ー マ ンス に携 わ った経験 か ら 「 美術館 のパ フォー マ ンス」 とい う論文 におい て 、 「 美術館 で もつ と積極 的 にパ フ ォー マ ンス を行 うべ きで あ る」 のωと述 べ てい る。清水 は、 「日本 では無名 の新人 が コ ンサ ー トを開 こ うとすれ ば 、経済的、心理 的な負担 が大 きい」 とい う日本 の貧 しい音楽界 の状況 を知 り、 「 音楽界 がその よ うな、状況 であれ ば 、美術館 ー に専門職員 がいれ ば 、美術館 でパ フ ォ マ ンス をす る意味が ある」 とい う考 えに至 っ てい る。 また 、企画展 の 出品作 品 としての 、パ フォー マ ンス を位 置 づ ける事例 も紹介 し、「 単な る場所貸 ー しでパ フォ マ ンス を終 わ らせ な いた めに も、実施 にあたっては企 画 の段 階 か ら、専 門職員 で あ る学芸 員 が参加せね ばな らない」 。1)と、言及 してい る。 コンサ ー ト ③松本玲子 のミュージアム ・ 創 造学園准教授 である松 本玲 子は、ただ 単 に博物館 ・美術館 で演奏 を行 うので はな く、展示 内容 とリン ク したプ ロ グラム で 、来館者 に芸 術 の新 しい楽 しみ方 を提 供 で きるよ うな コ ンサ ー トを ミュー ジアム ・コ ンサ ー トと位 置 づ けた。 自身 が手 が けた、国立京 都 近代美術 館 と山 口県 立美術館 にお ける 「 シエ ナ展 」 関連 コ ンサ ー トを事例 に 、 どの よ うに展示 と音楽 を リン ク させ コ ンサ ー トのプ ログラム を組 んだのか説 明 し、ミュー ジアム ・コンサ ー トの提言 を してい る。 ●" 松本 のい うミュー ジアム ・コ ンサ ー トはあ くまで も 「ミュー ジアム (作品 。展示資料)Jと 「コ -149- ミュージアム ・コンサー トに関する一考察 ンサ ー ト(演奏 され る音楽)」 とが 、そ の異 な った表 現方法 を超越 してお互い 対等 に出会 い 、融 合す るこ とに よ り、新 しいス タイル の確 立 を 目指す もので ある。 この ミュー ジアム ・コ ンサ ー トの期待 され る効果 につい ては、「これ をきっかけに美術愛好者 に とっ ては音楽 を通 して作品に 触れ る とい う新 しい鑑 賞 の形 の提案 とな り、音楽愛好者 に とっ て も、美術館お よび 、美術作 品 に コ ンサ ー トを通 じて 芸術鑑 賞 の幅 を広 げて ゅける機会 とな る。 そ して美術館 は コ ンサ ー トと い う新 しい 「 展示方法」 を得 て 、文化 の発基地 としての館 の存在 を進化 させ てい く一 助 とな る であろ う。」 の と述 べ てい る。 3ミ ュージアム ・ コンサ ー トの位置づけの傾 向と課題 以 上 、博物館 学史 にお い て ミュー ジアム ・コ ンサ ー トが どの よ うに述 べ られ て きた のか を概 観 した。 藤 山が 「 博物館 の 夕Jの 一 つ として展 開 した ミュー ジアム ・コ ンサ ー トは、 日本人 が 手懸 け た ミュー ジアム ・コ ンサ ー トの 先駆例 の 一 つ として評価 され てい る。 ω→ 「 博物館 の 夕」で行 わ 一 れ た 講演会等 は、 貫 して展示や企 画展等 と関連 した内容ではな く、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トも同様 である。 開催 の意 図 として 、演奏団体 であ る 「 初 めて満州 にお ける 日本人 の 専 門交響 管弦楽 団」 と してその 前年 に設立 され ていた新京音楽院側 の 宣伝 的意 味合 い もあ つた ので はな いか とい う見方 を されて い る。eDそ れ は、副館長 であつた藤 山が 、オ ー ケ ス トラや混声合 唱団、 音楽学校 まで を内包す る国民情操教育機 関、「 新京音楽 協会」の 常務理事 であ った こ とか らも裏 付 け られ る。 。①新京音楽協会 は 、 「 碑雑 な る廃頒音楽 の反乱 を防止 し高調 な る興 国音楽 を勃興 せ しむ る ことJ「首都 市民 の情操 生活 の健全 な る発達 に寄与す ることJ「音楽 を通 じて 民族協和 の精神 を高揚す るこ とJの 三 点 を活動 の 目的 とした 国家的な音楽団体 であ っ た。 時代 に よ り、 人 々 が音楽 に求 めるものは異 なるで あろ うが 、 当時 は音楽 が 国威 高揚 の道具 として意識 され て い た よ うである。故 に、 「 博物館 の 夕」で行 われた この ミュー ジアム ・コ ンサ ー トも政 治 的意 味 合 いが あ った ので はな いか と考 え られ る。 一 次 に、博物館教育論形成期 において 、棚橋 は、郷 土博物館 の必 要要件 の つ と して 、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トを挙 げ てい る。 しか し、具体的な開催 にあた つての方策等 は論 じられ てお らず 、博物館 が行 う多種多様 な活動 の一 つの例 として挙 げて い るに とどま ってい る。 1990年代後半 の博物館教育論 の 中では 、鷹 野 が博物館 の教育普及活動 の例 として ミュー ジア ム ・コ ンサ ー トを扱 ってい るが、考察 はな され ていない。 また、守井や里見 は前述 の教育普及 活動 ではな く、集 客 の手段 としてや 、多様化す る博物館活動 の 経営 の立場 で ミュー ジアム ・コ ンサ ー トを捉 えて える。 一 つ のイ ベ ン トとして 、博物館 金 山が 、野 田市郷 土歴 史博物館 にお いて展 開 した 中山直治特別展 に関連 した ミュー ジアム ・ コ ンサ ー トは、童話 の普及 を通 して 「 まちお こ しJを 行 つた もので あ つ た。も ちろん童話作 家 、 山中直治 とい う音楽 に直結す る素材 が あ ったか らに他 な らな いが 、地域博物館 にお け る、地域 文化 に根 ざ した ミュー ジアム ・コ ンサ ー ト実施 の好例 と言 えるで あろ う。 最後 に美術館 にお ける ミュー ジア ム ・コ ンサ ー ト論 に考 を移 したい。井 出は、美術館 にお け る ミュー ジア ム ・コ ンサ ー トの 開催 につ い て 、舞踏 、パ フォー マ ンス と共に、場所や 、 ジ ャ ン - 150 - 一 ミュージアム ・コンサー トに関する 考察 ー ト等 を行 う意 /1N画 ル 、■ 内容 に つ い て 言 及 して い る。 しか し、根 本 的 に美 術館 にお い て コ ンサ ー トを行 う際 の 希 望 的 あ り方 を述 ー ・ 義 や 有 用性 に つ い て は論 じてお らず 、 ミュ ジア ム コ ン サ ー べ て い るに過 ぎな い 。美 術館 学芸員 の 清 水 は、「 美 術館 で の パ フォ マ ンス は企 画 の 段 階 か ら学 芸員 が 携 わ った上 で 積 極 的 に行 うべ きJ と してい るがそ こにはや は り、 明確 な教 育 的意 義 が あ ー トを含 む パ フ ォ ー マ ンス の 開催 が 、単 に客 ー ・ るべ きで は な い だ ろ うか 。 ミュ ジア ム コ ンサ コ 寄 せ と して で は な く、展 示 と関連 す る、 も しくは展 示 へ の 興 味 を喚起 す る も の 、館 の ンセ プ トを象徴 す る も ので な くて は な らな い と筆 者 は考 えてい る。 そ うい つ た点 で 、特別 展 と音 楽 の ー トを新 しい 「 ー ・ 展 示表 現 方 法 J 関連 性 の 持 たせ 方 を具体 的 に述 べ た上 で ミュ ジア ム コ ンサ へ と昇 華 させ て い る松 本 の ミュー ジア ム ・コ ンサ ー ト論 は、評価 で き るで あ ろ う。 ー トの 捉 え方 は、 一 様 で は な い 。 ミュ ー ジア ム ・ ー ・ 博 物館 学 史 にお いて ミュ ジア ム コ ンサ コ ンサ ー トを教 育 普及 活動 の 一 つ と して 位 置付 け、例 と して挙 げて い る論 文 は散 見す るが 、 そ の 教 育 的意 義 や 有 用性 等 が 論 じられ てお らず 、実施 にあた つて の 理念 や 方 策 な どは現 場 の 判 断 に委 ね られ て い る とい つ た のが 現 状 で あ る。 ー トに つ いて の研 究 は行 われ てお らず 、 ー 以 上 の 事柄 を鑑 み るに、や は リ ミュ ジア ム ・コ ンサ ー ・ ・ 未踏 の研 究分 野 で あ る こ とが分 か る。 で は実 際 に、現代 の 博物館 美術館 で の ミ ュ ジア ム コ ンサ ー トは どの よ うに行 われ て い る の で あ ろ うか 。 次 章 で は、 ミュ ー ジア ム ・コ ンサ ー トの 実態 につ いて 分 析 して い く。 ー コンサ ー トの分 類 とそ の傾 向 第 2 章 近 年 におけるミュ ジアム ・ コンサ ー トの分類 1 ミュー ジアム ・ ・ ー 先ず初 めに、 ミュー ジア ム ・コ ンサ トの実態 を掴む た めに 、各博物館 美術館 の年報 か ら ー ー 表 1】にま とめた。 そ して 、各館 が 、 ミュ ジア ム ・コ ンサ トをいか 得 られた情報 を末尾 【 な る形態や 目的で開催 してい るのか とい う点 に着 日し、暫定的 ではあるが以下 の よ うに分類 を 試 みた。 ① 開催 目的に よる分類 各年報 を見 る限 り、ミュー ジアム ・コ ンサ ー トは開催 目的 によ り、展示 関連型 、イ ベ ン ト型 、 市民交流型 の三つ に分類 出来 る。 展示 関連 型 とは 、そ の名 の通 り何 らか の形 で展示 と演奏す る音楽 に繋 が りを持 たせ た もので ある。美術作 品 の特別展や企画展 に付 随す るかた ちで企 画 され るものが 多 く、社会教育施設分 科会 の 「 博物館 の整備 ・運営 の在 り方 につい てJ。 つに書 かれ てい る通 り、教育普及活動 に位置 付 け られ てい る。 イ ベ ン ト型 とは、博物館 へ 足 を運 んで も ら うき つか け作 り等 の ために行 われて い る コ ンサ ー 4 ‐ てい る。特徴 と して 、演 トで 、展 示や館 の特性 とは関係 な く多種 多様 なプ ロ グラム で企 L A され 奏 され る由に選 ばれ て い るの は 、誰 もが 聞 い た こ とのあ るクラ シ ック等 の名 曲用 い た 、親 しみ 一 やす い ものが 多 い。博物館 で 番多 く行 われて い る ミュー ジア ム ・コ ンサ ー トは、 この タイプ である事 が年 報 か ら窺 えた。 -151- ミュ ー ジア ム ・コ ンサ ー トに 関す る一 考 察 市民交 流型 は演奏会 を通 し、気軽 に集 まれ る雰 囲気 を創 出 し、市民相互 の あるい は 、異 な る コ ミュニ テ ィの人 同 士の 交流 を促進 す る 目的の もの である。事例 として 、野 田市 郷 土歴 史博物 ー ・ ー 館 が行 ってい る ミュ ジアム ョ ンサ トは 、演奏 と演奏 の合 間に市民 同士 が 談笑 出来 る時 間 を設 け、市民 交流 の機 会 を提供 してい る。 ② 演奏者 による分類 演奏者 に よる分類 はプ ロの音楽家 に よる コ ンサ ー トな のか 、音大生等 のボ ラ ンテ ィアなのか 、 また ミュー ジアム ・コ ンサ ー トの 開催理念 に よ り当該地域 出身又は在 住 の演奏家 な のか によ り 分類 出来 る。演奏者 に よ り、観 覧料 が発 生 す るであろ う し、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トの特色 も打 ち出す ことが 出来 うるの である。 ③ 場所 に よる分類 最後 に、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トを行 う場所 に よる分類 である。演奏場所 で 分 ける と、概 ね展示室 型 、 ロビー ・ェ ン トランス型 、野外 。中庭型 、付属 ホ ール 型 の四つ に分 ける こ とが 出 来 る。 展示室型 は 、展示室 内で ミュー ジアム ・コ ンサ ー トを行 うもので あ り、必然的 に① の展示 関 連型 の 内容 にな るものが 多 い。 ロ ビー ・ェ ン トランス型 は 、博物館 の ロビーや エ ン トランス ホ ー ル で行 うミュー ジアム ・コ ン ー サ トであ り、① の イベ ン ト型 の ものが頻繁 に行 われ てい る。 開催 にあた り、聴衆 に立って聴 い て も ら う場合 と、 あ らか じめ椅子 を準備 し座 って聴 いて もら う場合 がある。付属 ホー ル 型 は 、博物館 が所有 してい るホー ル で行 われ る コ ンサ ー トであ り、 博物館 が 開催す る といっ た点 以外 で 、普通 の コ ンサ ー トホ ール で行 われ てい る演 奏会 との差異 は 、あま り見 受 け られ な い よ うに感 じる。付属 ホー ル の他 に 、付属 の講 堂や 、視聴覚室等で行 われ る コ ンサ ー トも、 この型 に含む もの とす る。 また 、博物館 の外 で演奏 を行 う野外 ・中庭型 は 、野外博物館や 中庭 を所有す る博物館 で行 われ てお り、開放 的な空 間 で音楽 を楽 しむ ことが 出来 るものである。 【 分類表】 分類 基 準 分類名 開催 目的 に よる分類 展 示 関連 型 イ ベ ン ト型 市 民交流型 演奏 者 に よ る分類 プ ロ ボ ラ ンテ ィア 当該地域 出身奏者 演奏 場所 に よ る分類 展示 室型 tr C-. r1> l7>z.4. 付 属 ホー ル 型 野外 。中庭 型 -152- 一 ミュージアム ・コンサー トに関する 考察 コンサ ー トの傾 向と課 題 2 . 館 種 別 のミュー ジアム ・ ー ロム ナ ー ドコ ン 暫 定 的 で は あ るが 、現 段 階 にお い て入 手 で きたデ タか ら分類 を試 み た 。 プ ー ト、 ギ ャ ラ リー コ ンサ ー トな ど、様 々 な タイ トル の 演奏 会 が 行 われ 、 サ ー ト、 フ ロア コ ンサ ー トの 開催 が 博 物館 に足 を運 ぶ 一 つ の き つか けに な つて ー ・ 来館 者 に とつて ミュ ジア ム コ ンサ ー トの 方 向 ー ・ い る の は事 実 で あ る。 しか し、各博 物館 ・美術館 にお い て 、 ミュ ジア ム コ ン サ 一 性 は 様 で はな い 。 ー ・コ ンサ 傾 向 と して 、美術館 を 中 心 に、頻 繁 に行 われ て い る のが 展示 関連型 の ミュ ジア ム ー トで あ る。 展示 と音 楽 の 繋 げ方 、 関連 の 持 たせ 方 は各館 に よ り様 々 で あ るが、 国 立西洋 美 術 館 の よ うに展 示 され てい る絵 画 が描 かれ た時代 と、 同時代 を象 徴 す るまた特徴付 け る音 楽 をプ ロ グ ラ ム に組 み込 む こ とが 多 い よ うで あ る。 日で絵 画 を鑑 賞 し、耳 で絵 画 が 描 かれ た世 界 の 音 楽 に触 れ る こ とが 出来 る とい う点 にお い て 、展 示 関連型 の ミュ ー ジア ム ・コ ンサ ー トは 、芸術 を多角 的 に捉 え る こ とが 出来 、充 分 に教 育 的意 義 の あ る も の と考 え られ る。 ー トは、美 術館 だ けで は な く、歴 史 系 の博 物館 にお いて イ ベ ン ト型 の ミュ ー ジア ム ・コ ンサ も開催 され てお り、単 に人 寄 せ の た めだ けで は な く、若 手演 奏 家 の た めの 演 奏 場 所 の 施 設 提 供 一 と して 開催 され て い る事 例 も見受 け られ た。 これ は 、博 物館 と演 奏者 側 双 方 の利 害 が 致 した 一 うえで行 われ るものであ るが、展示や館 の コ ンセプ ト等 に、 切 関連 の ないプ ロ グラムの コ ン サ ー トは 、 ただ演奏場所 を博物館 に移 しただ け と捉 えるこ とも出来 る。果 た して本 当に、 こ う ー い ったイ ベ ン ト型 の ミュー ジア ム ・コ ンサ ー トは博物館 が行 うべ き活動 な のだ ろ うか。 ミュ ジア ム ・コ ンサ ー トの現状 として、今 一番 多 く行 われ てい るのが このイ ベ ン ト型 であ るが、博 物館 が 「 貸 しコ ンサ ー ト会場化」 して い る印象 は否 めない。 ー ー 筆者 は教育施設 として の博物館活動 として 、 こ ういつた ミュ ジアム ・コ ンサ トの在 り方 を見直す べ きではな いか と考 える。 まとめ ー 以 上 、博物館学 史 と、実際に行 われ てい る ミュー ジアム ・コ ンサ トの 問題 点 を見て きた。 一 時代 の変遷 と共 に、人 々 の音楽 へ の価値観や求 めるものは 様 ではな く、満州 国国 立 中央博物 館 で行 われ た、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トの意味合 い は現代 とは大 き く異 な ってい る。博物館 一 教育論形期 にお ける棚橋 の論 では 、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トは郷 土愛 を育むた めの つ の娯 楽 として位 置 づ け られて い る。 しか し、 1990年代後半にな り、多種 多様 な博物館活動 が展 開 さ れ てい くにつ れて、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トは人集 めの手段 として捉 え られ て い く傾 向 が窺 えた。 美術館 の ミュー ジア ム ・コ ンサ ー トについ ては 、音楽 と美術 とは芸術領域 として分かれて い るが、両者 は相互 に深 く関わ りあ つてい る側 面 を持 つ こ とか ら美術館 での コ ンサ ー トは頻繁 に 行 われ 、数 々の事例 が 見受 け られ た。 しか し教育普及活動 として の 、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トの 明確 な位 置 づ けや具体 的な方策 が論 じられ て い るのは 、松本 の論文 の みである。 博物館 の 「 貸 しコ ンサ ー ト会場化 」現象 は、今 日に至 るまで、あま リミュー ジア ム ・コ ンサ ー トの教育的意義 につい て論 じられ て こなか つ た こ とが 、原 因 の一 つ として挙 げ られ るので は -153- ミュージアム ・コンサー トに関する一考察 な い だ ろ うか。ィ ベ ン トの一 つ と して 、 プ ロの演奏 家 を呼び開催す る ミュー ジアム ・コ ンサ ー トは 、それ だ けで集 客 が 見込 まれ るで あろ うが 、社会教 育施設 であ る 博物館 の あ り方 と して本 当に良いか疑 間である。 勿論 、美 しい 演奏 を聴 くの は、 来館者 に とって一 っの癒 しとな るであろ うし、実 際 に生の 楽 器 の音 を耳にす ることは 、cDや テ レビ等 よ り、遥 かに醍醐 味 の あるもので ある。博物館 は も 誰 が利用す るこ との 出来 る社 会教育施設 であることか ら、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トは ホー ル 、 で行 われ る従来 の クラシ ックの コ ンサ ー トよ り、敷居 が低 く、来館者 に とっ て 、気軽 に 音楽 を 楽 しむ ことの 出来 る とい う利 点がある。 しか し、博物館 で行 うな らば 、音楽 ホー ル での コ ンサ ー トでは 出来 な い 、博物館 だか らこそ 可能 な コ ンサ ー トを展 開 して こそ、 ミュー ジアム ・コ ン サ ー トの意義 が生 まれ て くるので はな い だ ろ うか。 そ のた めには 、理解 あ る演 奏者 と、音楽 の 専門的知識 を有す る学芸員 の密 な連 携 が 、必要不可欠 であ るの は言 うまで もない。 今 回は、博物 館学史 とミュー ジアム ・コ ンサ ー トの現状 を概 観 す るに留 ま った。 ミュー ジア ム ・コ ンサ ー トの分類 は 、入手 出来たデ ー タを基 に試 み たため、まだまだ再考 の余地が多分 に ある。今後 、糸 区続 して ミュー ジアム ・コ ンサ ー トの情報 を集 め 、明確 な現状 の把握 と分類 を行 い たい。 そ して 、博物館 の教 育普及活動 として ミュー ジアム ・コ ンサ ー トを位 置付 け、博物 館 に求 め られ る社会的意義 と使命 を全 うさせ発展 につ なげ るた めには 、 ど うあるべ きな のか 、現 場 の学芸員や 、 ミュー ジアム ・コ ンサ ー トの聴衆 へ のア ンケ ー ト調査等 を行 った上で 、考 えて い きた い。 註 (1)社会教 育審議会社会教育施設分科会 1990 「 博物館 の整備 ・運営 の あ り方 につい て」 (2)名古屋市博物館 1995『 新博物館態勢 満 州国の博物館 が戦後 日本 に伝 えていること』 名古屋市博物館 (3)新京特別市國立中央博物館 1940 『 國立 中央博物館時報第 3琥 』 (4)藤山一雄 1940 『 新博物館態勢』 東 方国民文庫 (5)棚橋源太郎 1932『 郷 土博物館』 刀江書院 (6)註 5に 同 じ (7)棚橋 源 太 郎 1950 『 博物館学綱要』 理 想社 (8)大 堀 哲 編 1997 『 博物館学教程』 東 京堂出版 (9)註 8に 同 じ (10)金山喜昭 2003 『 博物館学入門― 地域博物館学の提唱― 』 慶 友社 (11)金山喜昭 2002 「 市民 と博物館 ・学校 ・行政 の連携による新 しい地域文化 づ くリー 千葉 県野 田市における童謡作曲家山中直治 の復活 の軌跡― 」『 博物館学雑誌』第 27巻 第 1号 (12)金山喜昭 1997 「 博物館 の特別展 とその教育普及成果 に関す る研究 (前編)一 ソー シ ャ ル ・マーケティングに基づ く新 しい行動戦略― 」『國學院大學博物館學紀要』第 21輯 ( 1 3 ) 註1 2 に 同 じ ( 1 4 ) 金山喜 昭 1 9 9 8 「 博 物 館 の 特 別 展 とそ の 教 育 普 及 成 果 に 関す る研 究 ( 中編 ) 一 ソー シ ャ -154- 一 ミュ ー ジ ア ム ・コ ンサ ー トに 関す る 考 察 ル ・マーケティングに基づ く新 しい行動戦略― 」『國學院大學博物館學紀要』第 22輯 ー (15)金山喜昭 2002 「 市民 と博物館 。学校 ・行政 の連携 による新 しい地域文化 づ くリ 千葉 一 博物館学雑誌』第 27巻 第 1号 県野田市 における童謡作曲家山中直治 の復活 の軌跡 」『 (16)加 藤有次 他編 2000 『 新版 博物館学講座 1博 物館学概論』 雄 山閣 (17)加 藤有次 他編 2000 『 新版 博物館学講座 3現 代博物館論 現状 と課題』 雄 山閣 (18)註17に 同 じ (19)井出洋一郎 1995 『 美術館学入門』 明 星大学出版部 博物館研究』第 33巻 8号 水久夫 2000 「 美術館 のパ フォーマンス」『 (20)清 ( 2 1 ) 註2 0 に 同 じ ー トの 可能性 と提 言 一 国 立 京 都 近 代 ー ・ ( 2 2 ) 松本 玲子 2 0 0 4 「 美 術 館 で の ミュ ジア ム コ ンサ シエナ展」関連 コンサー トよリー 」『 創造学園大学紀要』 美術館 と山口県立美術館 における 「 第 1巻 ( 2 3 ) 註2 2 に 同 じ ( 2 4 ) 犬塚 康 博 1 9 9 3 「 満 州 国 国 立 中央博 物館 とそ の 教 育活 動 」『名 古屋 市博 物館 研 究紀 要 』第 16巻 ( 2 5 ) 註2 4 に 同 じ (26)岩 野裕- 1 9 9 9 『 王道楽上の交響楽 満州―知 られ ざる音楽史』 音楽之友社 ( 2 7 ) 註1 に 同 じ (國學院大學大学院博 士課程前期) -155- ミュー ジアム ・コンサ ー トに関す る一 考察 護 槽 言 888 s“籠〓 堰t Ж葉 ●回 鸞 市 〓 ●00い ヽ“籠● 霞ゞ量 ●墜,L 戯昔 し 0﹁oN 0↓疑t 霞ヾ無メ 墨,く 〓0 ■ 0わ一〓“ よ 8 oa ■ 3 o● s“ 稀 ● 霞 ミ Ж ‘ H , 画 檜 ● つま 経 総 ︻´R 一 s“︾ ← 爛 に メ た に ヽ 回 -156- ■ 8R t ∞Oo一 t のOo一 s ¨疑 ● 襲 t Ж ぐ 百 単 ■ 8R ,“騒 ● 壌 よ Жぎ ︺﹁嗽 ミく華 : : , 1 :懲 3 』: 亀 置や言 地域 振興 と文 学館 BUNGAKUI(AN in town Promotion 渡邊 真 衣 WATANABE Mai l は じめに 個人記念館 や地域文学館 な ど、博物館 お よび類似施設 に相 当す る施設 は文学館 の 中 で も大 き 文学館 」 と呼ばれ てい る施設 の うち どれ が博物館 に相 当す るか な割合 を占め てい るが、現在 「 ー ・ 明確 に分類す る こ とは困難 で ある。博物館 ミュ ジア ム な どの名称 を持 つ ものが必 ず しも博 物館 に相 当す る とは限 らず 、そ の逆 もまたあ り得 る。 特 に現在 、博物館 の名称 を観 光施設 に用 い る例 が増 加 して い る。1990年 代 には行政 主導 に よ ハ コモ ノ」 が全 国 に造 られ 、 そ の 中に博物館 ・美術館 と言 つた 文化施設 も多 くあ った こ と る 「 ○○ ミュー ジア ム」 が 多 く設置 され た時 は周知 の如 くである。 この 時期 は観 光資源 として の 「 期 で もあ つた。 現代社会 にお いて は、史跡名勝 は も とよ り文化財 、特産 品、はては地域 出身 の有名 人 に至 る まで、人 の注 目を集 め るものが あれ ば観 光資源 として活用 され る。特 に地域 との結び つ きが強 く魅力的な資源 があれ ば、それ を地域 アイデ ンテ ィテ ィ として地域全体 も観 光 地化す るの は必 ー 然 と言える。 昨今 の観光 ブー ム、 地方 ブ ム に伴 い 、様 々 な地域 でそのアイデ ンテ ィテ ィ とな ・ り得 るものを見 つ けだす 、 も しくは作 り上げ ることが盛 んにな つてい る。例 えば映画 テ レビ 『○○』 の地」 として大 い に宣伝 され るのは既 に恒例 とな ドラマ な どの舞台 とな つた地域 が 、 「 って お り、また大河 ドラマ の人気 が地 域 の観 光客誘 致数 に影響 を与 えて い る とい つた実例 もあ る (中村哲 2003)。 博物館 の レジ ャー利用 に関す る言及 が最初 に行 われた のは棚橋源太郎 の 『博物館 学綱要』 で あ り、以来博物館 と レジ ャー に 関す る論説 も数 多 く立て られ てい る。 ただ し近 年 に見 られ る こ ― ジア ムの始 ま りは、博物館額 的な意義 よ りも 「自ら考 え 自ら行 う地域 づ く ういった観 光 ミコ、 ふ る さと創 生 1億 円運動」)な どに代表 され る、地方 の 呼 び物 を見 つ けだそ う、 り事業」(通称 「 または作 ろ うとい つた風 潮 に よる ところが大 きい。 こ うい っ た例 の 中 には、地域全体 の総合 的 なまちお こ しの一 環 として ミュー ジア ム が造 られ る例 も存在す る。 宇治市源 氏物語 ミュー ジア ムJと 、『坂 の上の雲』ゆか り 例 に挙 げ る 『源 氏物語 』ゆか りの 「 一 の 「 坂 の 上の雲 ミュー ジアム」 は 、 地域 とゆ か りの ある小説 をテ ー マ とした文学館 の 種 で あ り、 ここでは文 学 に関す る地域振興 の核 とされ る これ らの施設 を取 り上 げ る こ とで、 これ らが ど ういった意 味 を持 ち、何故 地域活性化 の核 とな るのかについて考察す る。 - 157 - 地域振興と文学館 2文 学館 と地域振 興 文学館 の設 立 を考 える上で 、地域 との 関連 を除外 す ることはで きな い。今 日文 学館 と呼ば れ る、または そ の一 種 と考 え られ る施設 の 内容 が決 して一 様 でない ことは事実であ り、全 国文学 一 の 1)、 館 協議会 定 め る文 学 との 関 りとい う 点 を除 けば そ の設 立 母体、主題 、活動 内容 な ども 多岐 に渡 る。 そ して これ らの うちでは 、設 立地 域 にゆか りのある文 学 (作者 。作 品共 に)を 主 題 とす る地 域文学館 が圧 倒 的多数 を 占め るの であ る。 1967年 設 立の東京都 近代文学館 (2002年 閉館)に 始 ま る地 域 ゆか りの文学 作家 ・作 品を主 題 とす る博物 館 としての施設 は 、非常 に一 般的 な文 学館 の イ メー ジ と言 えるだろ う。 また個人 の文学者 を記念 ・顕彰す る個人記念 館型 の施設 は文 学館 とい う施設 が登 場す る以前 か ら存在 し てい るが "、 これ は 明治 か ら昭 和初期 にかけて増加 した 、郷 土 ゆか りの偉人 を記念 す る人物記 念館 の一 種 と考 え られ る。 そ の一 方 、日 本 で初 めて 「 文学館 」 の名 を使 った施 設 で ある 日本近代文学館 は 、設 立地 (東 京都 目黒 区)と は無 関係 に近 代文学 に 関す る資料 めを収 集 し利用 に供 す ることを主な役割 とし てい る。 この他 に俳句文学館 、 日本 現代詩歌文学館 、 日本現代紙 碑文学館 な ど、 いずれ も地域 を限定せず 、特定 の文学 を対象 とす る資 料館 。文学 セ ン ター としての機能 を有 してい る。 先述 の地 域文学館 において もゆか りの人物 ・作 品 のみが取 り上 げ られ るわ けではな く、特 に 特別展 な どでは 、地域 の文学的需要 を満 たす 目的か ら著名 な文学者や 時事 に 関す る文学が取 り 上 げ られ ることもある。 「 文学Jと い うものが示す 範 囲は非常 に広 く従 つて文学館 の 内容 も多岐 に渡 るが 、 ここで は 仮 に、広義 の 文学館 (文庫 。図書館 ・資料館 を含 む)の うち、地域文学館 、個人記念館 、また 一 部 の 門文学館 な ど 専 博物館機能 を有 し、 また博物館 に相 当す る活動 を行 つてい る施設 を 「 文 学博物館」 とし、狭義 の文学館 と定 義す る。 広 義 の文学館 と文 学博物館 の境界 は非 常 に漠然 とした もので ある。 図書館 の資料 室や文庫 に お いて優れ た博物館活動 が行 われ る例 もあ り、また博物館 の うちに も展示設備 を備 えていなが ら厳密 な意味では博物館 とは言 い難 い ものが あるよ うに、両者 の 間に明快 な線 を引 くこ とは不 可能 とい える。 線 引き の 困難 な例 として 、博物館 的な観 光施設 があげ られ よ う。近年 、観 光振興 の波 に伴 つ て様 々 な試 みが行 われ る中、 「 ○○ ミュー ジアム」 「 ○○博物館Jな どの名称 を持 つ施設 が登 場 ー す るよ うにな つ た。 これ らは名称 に 「ミュ ジアム」 「 博物館 」な どを用いてい るだ けの 商業施 設 か ら、博物館 として登 録 され てい るものまで様 々 であ り厳密 な分類 は困難 だが 、人 の集 ま る 観光地 に設 置 され 、博物館 を思わせ る展示 または体験施設 を有 し、特定 の 主題 に基 づ く資料 を 収集 ・展示す る点 は共通 してい る。 この よ うな ミュー ジアム は観 光客 を誘 致す るた めに、 いか に も魅力 を感 じさせ るよ うな テ ー マ を設 定す るが、その中にはあ る種 の文学館 も含 まれ る。 知名度 の 高 い優 れた作 品 。作家 が 、観 光客 を引きつ ける顔 として使 われ る例 は 、単一 の観 光 施設 に とどま らない。作 品 の舞 台 。作者 の 出身地 な ど、地域 と文 学 の 間に何 らか の ゆか りが あ る場合 、地域 全 体 がそれ を観 光資源 として 、地域振興 の活動 を行 う例 がある。 ただ しこの よ うな地域振興 とい う目的が大前提 と して存在す る例 には、観 光客 が期待 してい -158- ー な考証 を疎 か にす る恐れ もつ きま と るで あろ う作 品 。作者 のイ メ ジを優先す るあま り学術的 文学館感傷紀 行』 め 中で 自身 が訪れ た う。 日本近代 文学館 の初代館長 であ る中野稔 は、著書 『 に有名 な作家 の記念館 について 、 文学館 について語 つてい るが、 1997年 に訪 問 した ある全 国的 い こ と、作者 を過 パ ネ ル に引用 した文章 の 出典 を明記 しな い な ど展示 の学術性 を疎 かに して る ついて苦言 を呈す る (中村稔 1997)。文学 美化 ・聖化 し、最終的 に商業化 して い る こ とに Allに 「 を提 唱す る中野 に とつて 、学術 館 とはあ くま で も文学研 究 の場 で ある と位 置 づ け 文学館 学」 ー し い ものだつた こ の 的 な リア リテ ィ よ りも観 光客 へ のア ピ ル を重視す る施設 あ り方が理解 難 。 る文学館 とは、想像 に難 くない。 しか し、 この よ うな傾 向は人 気 のある作 品 作者 を取 り上 げ で あれ ば皆潜在 的 に持 つてい る危険 であろ う。 ・ が ある。作者 は 作 品は作者 に よ つて生み 出 され るもので あ り、そ の作者 作 品 を育 んだ土地 ー ジな の どの よ うな人物 か 、 そ の土地 は どの よ うな場所 か と考 える とき、我 々 は既 に作 品 イ メ どか ら形成 され た想像 図 を描 いてお り、実際 に もそ の通 りであ つてほ しい と思 つてい る。 地域 ー の側 が こ うい つた来訪者 の期待す る (または期待 して い る と考 える)イ メ ジに忠実 に、 自ら 一 ー ー ○○ ゆか りの地」としてプ ロデ ュ スす る こ とも ご く 般 的な観 光サ ビス と言 えよ うが 、 を「 これ を博物館 サ ー ビス として評価 で きるかは別 の 問題 であ る。 3地 域と文学観光 特定地域 の広 告塔 として、地域 とゆか りの ある文学 が用 い られ る例 は珍 しくな い。 地域 との つ なが りが明快 で あ り、大抵 の人 は実際 に手 に取 つた こ とはな くとも名前 を聞 けばわ か るよ う な、知名度 の 高 い作家 。作 品であれ ば、地域 を代表す る シンボル として十 分な 宣伝効果 が期待 で きる。 読書 ばなれ 、文学 ばなれ が 叫ばれ る今 日にお いて も、文学作 品 の持 つ メデ ィア として の力 は い まだ侮 れ ない。 地域 ゆ か りの文学 関連史跡 な どの保存 、それ にちなんだ商品 の 開発 、公共物 へ の名称 の使 用 とい つた例 は全 国に存在す るが、それ は単発 的 な試 み の集合 で あ り、 自然発 生的 な もので あ つ た。 理 由 としては、そ もそ も条件 に合致す るよ うな、 地域 の顔 として取 り上 げる こ とを周 囲 に 納得 させ られ るよ うな文学作 品は決 して 多 くな い こ と、 また文学作 品にそれ ほ どの影響力 はな い と考 え られ て い た こ と めな どが挙 げ られ よ う。 一 ○○ ゆ か りの 地」 として整 ところが近年 、文学 をテ ー マ に地域全体 を つ の計 画 の うち に 「 ふ る さと倉1生 1億 円運動」 に代 備 ・観 光振興 を行 う例 が現れ た。 これ が 可能 とな つ た の は、 「 表 され る 1980年 代後 半 か ら 90年 代初頭 の地方活性化 の動 き、また観 光 地 化 に よる景観 の破 壊 。地域住民 の生 活 に対す る被害 な どい わゆる観 光被害 な どの 問題 か ら従来 の観 光 の 姿勢 に対 一 して 見直 しが 叫ばれ るよ うににな つた こ とに よつて 、 全 国挙 げて 律 の観 光地 を造 るのでは な く地域 ご との特色 を押 し出 して観 光客 を誘致 しよ うとい う方 向に、観 光 の性格 が変化 した こ と に よるもので あろ う。 が ある。 地 域 の特色 として用 い る場合 、文学作 品には地域 との 関 わ りが明確 で ある とい う利 ,点 小説 の舞 台 とい うアイデ ンテ ィテ ィは執筆 の 地や着想 を得 た (と 特 に小説作 品につい て言 えば 、 思 われ る)地 よ りも作 品 との 関係 がわか りやす く、そ の作 品が残 る限 り失 われ る こ とはな い。 -159- ■■■ ■■ ■■■ ︱︱ ︱︱︱ ロー ーーー ー日 ︱︱︰ 11 1ll ll lll ll lll ll lll ll 地域振興 と文学館 ■■■ ■■■ ■■ ■︱︱ ︱目日 ︱日 ︱︱日 ︱日 ︰日l lll ll lll lll ll lll ll 地域振興 と文学館 また 訪 問者 が 読 書 を通 して 訪 れ る前 か らそ の 地 域 を疑 似 体 験 し好 奇 心 を抱 く とい う宣伝 効果 も 期待 で きよ う。 京 都府宇治市 の 「 宇治市源氏 物語 ミュー ジアムJと 、愛媛 県松 山市 の 「 坂 の上 の雲 ミュー ジ アム」 は 、それ ぞれ文 学 に よる町 づ く リを進 め る上で 、 中核施設 と して設 置 され た観 光 ミュー ジアム で ある。 この二つ は設 立 目的 、背景、また施 の 設 性 質 な どにい くつ かの共通 点 が見 られ る。 4-1 宇 治市源 氏物語ミュージアムと宇治市 宇治市源 氏物語 ミュー ジアム (以下 「 源氏物語 ミュー ジアムJ)は 、京都府宇治市のふ る さと 創 生事 業 であ る 「 『源 氏物 語』の まちづ く り」の 中核 ・基地 として 1998年 11月 に建 設 され た。 平安 時代 の 貴族 が生活 した寝殿 造 りをモ チ ー フ に した地上 1階 (地下 1階 )の 建物 であ り、室 内 の装飾 に も平安お よび源氏物語 か ら派生 した装飾 が取 り入れ られ てい る。 館 内は展示 ゾー ン と情報 ゾー ンに分 かれ 、展示 ゾー ンの み有料。 施設 内では 、 六 条院 の再現模型 、調度 ・服飾 品な どの展示 、人形 に よる物語 の場面再現、 ま た宇治十帖 のス トー リを紹介 す る映画 の上 映 な どを行 ってい る。 また源氏物語お よび 平安文化 に 関す る企画展示 、講演会、講座 、イ ベ ン トな ども行 う。 まちづ く り計画 の始 ま りは 、1989年 「 ふ るさと創 生基金 Jの 使途 につい て 市民 のア イデ ア を 募集 した 際、最優秀 賞 に選 ばれ た 「 紫式部文学 賞Jを 契機 に源氏 物語 をテ ー マ に した街 づ く り の機 運 が 高 ま っ た こ とに よる。 1993年 11月 には第 1回 源氏物語 ミュー ジアム検討委員会J開 催 、お よそ 1年 後 の 1995年 3月 に、基本構想 が発 表 され た。 源 氏物語 とい う作 品 とこの地 を結 び付 ける取 り組 みは、現行 の まちづ く りよ りも更 に古 く、 ま ちづ く り計画 が始 ま る 10年 以 上 前 に刊行 され た市史 には 、既 に宇 治 と関 りの深 い もの とし て源 氏物語 が紹介 され てい る (『 宇治市史 1』 )。両者 の親密 な結び つ きには、宇治 の地 自体 の有 す る観 光地 としての性質 が 関与 してい る。 奈 良 。京都 間 をつ な ぐ交通 の要衝 で あ り、 かつ 万葉集 に も取 り_Lげられ た歌枕 で もある宇治 の地 は、古 くか ら貴族 の別 業 ・遊猟 の地 として行楽地 の特性 を有 していた。 また 17∼18世 紀 にかけて の人 口減少 。衰退 の ため 、そ の 打開策 として観 光 が重 要 な位 置 を 占めるよ うになる。 そ の一 端 は、宇治 十帖古蹟 に見 るこ とがで き よ う。宇治十帖 の各巻 に対応 した名 を持 つ これ らの古蹟 は、王 朝末期 ∼鎌倉 の ころに作 られ た社 寺お よびその跡 ・古跡 。石仏等 か ら成 つて お り、 もちろん源 氏物語 と直接 の 関係 はな い。成 立年代 も作 られ た 目的 も別 であろ うこれ らの 古 蹟 が宇治十帖 に仮託 され た理 由には、 しか るべ き古蹟 を作 品 と結び つ ける ことで 、『源 氏物語 』 を しのびなが ら自然 に宇治巡 りを させ る為 に設 定 され た (『 宇治市 史 1』 )、作 品 の知名度 を借 り て 、聖地 。文化財 な どを保存 しよ うとした先人 の知恵 であ る (『 宇治市史 5』)、な どの説 が存在 す る。 少 な くとも秋里離 島 の手 に よる安永 9(1780)年 の 『 都名所 図絵』 には宇治十帖古蹟 の一 部 が紹介 され てお り、源 氏物語 に こ と寄せ た 由緒解説 が行 われ てい る (『 新修京都叢書第 6巻 』)。 改 めて指摘す るまで もな く源氏物語 は フ ィ クシ ョンで あ り、現実 の古蹟 の 由来 が これ に由来 - 160 - 地域 振 興 と文 学館 す る こ とはあ りえないが め、遅 くとも 18世 紀 なかばには宇治十帖 の古跡 が定 着 していた よ うで あ る。 この 時期 に宇治が観 光 地 として の性格 を前面 に押 し出 して振 興 を図 る必要 があつた こ と 『源氏物語』観 は先述 の通 りだが、安藤徹 は、当時 の観 光戦略 として宇治十帖古跡 を核 とす る 「 光」 の存在 を想 定 してい る (安藤徹 2005)。 これ らの伝 統的な観光振興策 は、現代 の まちお こ しと直接 つ なが るもので はな いが 、源 氏物 語 が伝統的 に宇治観 光 の 目玉 と して存在 し、地域 と結び つい た もの として存在 した こ とは 間違 い な い。 近代 にな る と、宇治 の観 光 全体 につい て幾 つ かの 問題 が 現れ る。 平等院 を始 め とす る多 くの 文化財 を有 して い なが ら、観光資源 は個 々 に点在 し、交通 の不備 に よつて分断 され ていた。 ま た観 光客 は京 都 ・奈 良 ・大阪 とい つた近在 の 巨大観 光地 に流れ る傾 向 があ り、宇治 は あ くまで もそ の途 中で立 ち寄 る場所 と言 う通過 的観 光都 市の地位 に甘 ん じていた。 これ らの事情 か ら、 観光 面Jを 回復す る ことの必 要性 が あ った ことは 、1973年 の 時点 で も指摘 観光 地 の再編成 し 「 され て い る (『 宇治市史 1』 )。 源 氏物語 の まちお こ しは 、 こ うい った状況 を改善す べ く、埋 もれ ていた観 光資源 を見直 し、 観 光客 の滞留 時間 の延長 と地 域活性化 を 目的 として始 め られ た (綜合 ユニ コム 1999)。 の上の雲ミュー ジアムと松 山市 坂 の上 の雲 ミュー ジアムは 、司馬遼太郎 の歴 史小説小説 『坂 の Lの 雲』 ゆ か りの 土地 、そ こ に存在す る歴 史 。文化 。自然等 を活 か して 回遊性 、物語性 の あるまちづ く りを行 う 「 『坂 の Lの 4-2坂 雲』を軸 とした 21世 紀 のま ちづ く りJの 中核施設 として 2007年 4月 に 開館 した。上 か ら見 る と三 角形 の形 を してお り、利用者 は正三角形 の吹 き抜 け の周 りを巡 るス ロー プを上 っ てい く。 建 築 を担 当 した安藤 忠雄 は敷地 の形状 か ら三角形 の 平面 を構想 した とい うが (安藤 忠雄 2007)、 3と 言 う数字 に 3人 の 主人公 を連想す る人 も多 い こ とだ ろ う。 三角形 のデザイ ンはフ ロアの タ イ ル な どに も採用 されて い る。 開館 以来、小説 『坂 の上の雲』、明治 とい う時代 、また松 山に関す る展示 を行 うほか 、それ ら に 関す る学 習 ・情報提供 の場、市民 のイ ベ ン トの場 として利用 され て い る。 フ ィール ドミュー ジアム構想 は、 中村 時広 (松山市長)の 就任 時 の公約 として 1999年 よ り 計画 され 、選挙 公約 として提 言 され た もので ある。市長 の就任後 、 Hl馬遼太郎記念財 団 の 上村 洋行専務理事等 を交 えた委 員会 を組織 し基 本構想 を策定。2002年 には小説 をま ちづ く りのテ ー マ とす ることについ て 同財 団 と協定 を交 わ してい る。 文学 に 関す る地域振興 の取 り組 み は これ以 前にも存在す るが、 こち らは松 山にゆか りの あ る 文学 を活用す る取 り組 み が複数行 われ てお り、現在 は主 に近 年 の坂 の上の雲 の まちづ く りと、 それ以前か ら行 われ てい る正 岡 7-規の顕彰 を中心 とす る俳句 を活用 した 取 り組み、夏 目漱石 の 小説 『坊 つ ちゃん』 を用 いた取 り組 みが存在す る。 松 山市 は 1951年 に国際観 光温泉文化都 市 の指定 を受 けた こ ともあ り、観 光振興 は道後温泉 と松 山城 を中心 とした整 備 事業 を行 うことが 中心であった。高度経済成長期 には 100万 人 を越 える観光客 が訪れ た松 山市は、しか し石 油 シ ョックの影響 な どに よ り、1970年 代 なかば の観 光 -161- 地域振興と文学館 客数 は下 降す る一 方 とな っ た 。 この よ うな事 情 か ら観 光行 政 の 転 換 が 検討 され 、地域 の 個性 を 活 か した 「 文 化観 光 」 が 提 言 され 、 これ 以 降 の観 光振 興 に は文 学 を利 用 した試 み も取 り入 れ ら れ る よ うにな っ た ( 『 松 山市 史 第 4 巻 』) 。 松 山市 は 1946年 に前 年 空襲 で消 失 した子規堂 を復元 し、それ以降子規お よび弟子 の顕彰活 動 、また俳句 に関連 したイ ベ ン トな どを さかんに行 い 、俳 句革新運動 の推進者 であ る正 岡子規 の 出身地 、俳 句 の メ ッカ (俳都 )と して活動 を続 けて い る。1981年 に開設 され た 「 子規記念博 。 物館 」 は 、展示活動 に留 ま らず子規 俳句 に 関す る活動全 般 の 中核施設 として短詩型 文学 の振 興 に寄与 してい る。 また夏 目漱石 が 自らの教師体験 を もとに執 筆 した小 説 『坊 っ ちゃん』 も、松 山市の地域振興 に盛 んに取 り入れ られて い る。銘 菓 「 坊 つ ちゃん団子 Jを は じめ、坊 っ ちゃんの名 を持 つ 商 品 は数 多 く、坊 っ ちゃんは松 山 の地域 アイ デ ンテ ィテ ィ としてす っか り定着 され た感 がある。行 政 に よる取 り組み にも、 1988年 の 「 坊 っ ちゃん文 学賞」制定 (市政 100周 年記念事業)、小説 に も登場す る小型蒸気機 関車 「 坊 つ ち ゃ ん列車」の県文化財 指定 (2001年 に復元 され 、観 光列 車 として復活運行 され てい る)、2000年 の松 山中央公 園野球場 こ と 「 坊 つ ちゃん ス タジア ム」 の落成 な ど 『坊 つ ちゃん』 にちなむ もの は多 い。 これ らの運動 は時代 背景 ・登場人物 な どに共通点 を持 つ ため 、現行 のま ちづ く りを行 う上 で も障害 にはな らず 、む しろその一 部 として相乗効果 が期待 で きる との声 もあ る (丹羽 2007/山 崎 。十代 田 2007)。 4-32施 設の共通点 上 にあげた 2施 設 の大 きな特徴 は 、 1つ の作 品をテ ー マ とし、物語 の舞台 に設 置 され てい る こ とであろ う。宇治 は 『源氏物語』 の最終章 にあた る 「 宇治十帖」 (橋姫 、椎本 、総角 、 早蕨 、 宿木 、東屋 、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋)の 重要 な場面で あ り、また松 山は 『坂 の上の雲』 に 登場す る 3人 の主 人公 (正岡子規、秋 山好古、秋 山真 之 )の 生 まれ 故郷 と して 、特 に序盤 では 主要 な舞 台 とな る。 この よ うに地 域 ゆか りの 1作 品 を主題 とす る施設 は文学館全体 か ら見て少数 であ り、多 くの 文学館 は地域 にゆか りの ある文学者 の記念館 、 も しくは地 域 ゆ か りの作 家 ・作 品を総合的 に取 り上げ る地域文学館 であ る こ とは 、先 に述 べ た通 りである ③。 理 由 と しては 、地域 と明 らかな 関係性 を持 ち、かつ 幅 広 い読者層 か ら支持 され る作 品は決 して 多 くな い ことに加 え、 あ くまで も フ ィ クシ ョンである文 学作 品は実在す る作 家本人 とは異 な り現実 の事物 とのかか わ りを持 た な い こ とな どが挙 げ られ る。 こ ういつた 点か ら言 えば 、双方 の 地域 が伝 統的にそ のアイデ ンテ ィテ ィ として同一 も しくは 近似 の文学作 品を用 いて地域振興 を行 つ て きた ことは 、地域 と文学 のつ なが りを強 め現実味 を 与 える力 にな る と考 え られ る。 両施 設 の 目的は地域全体 を作品 の地 と位置 づ けるまちづ く りの核 で あ つて 、作 品を想起 させ るモ チ ー フを採用 した建 築や物語世界 を忠実に再現 した展示 な どで来館者 に作 品世界 を体験 さ せ る一 方 、物語や そ の背景 にある歴史 。文化 、またまちづ く りの活動 に関す る情報提供 を行 う -162- 地域振興 と文学館 の び つ き を可視 化 す る地域 アイ デ ンテ ィ ー 情 報 セ ン タ と して の役 害1 を持 つ 。 文 学 世 界 と地域 結 テ ィー 主 張 の 場 と言 え るだ ろ う。 5総 括 って い る こ とは否 定 で きな い 。 文 少 な く とも当該 例 に関す る限 り、博 物館 と類 似 の機 能 を持 ー に は、地域 博 物 館 の 性 格 と似 学 とい うテ マ を通 じて地域 のア イ デ ンテ ィテ イ を展示 す る行 動 い に該 当す るか は疑 問 た と ころ も見 て取 れ る の だ が 、 これ らの 施 設 が はた して 博物館 と う施 設 ー ー 屋根 の の の ま ち全 体 を 「 も残 る。 た とえば松 山市 は 「フ イ ル ドミュ ジア ム構想 」 名 通 り、 松 山な らでは の文化性や物語 性 の あ る 『坂 の上の雲』の 世界 が感 じ取 な い博物館 Jに 見 立て 、「 ー 。 の を回遊 れ るよ うな ま ち」 をテ マ に景観 交通 の整備 を行 うことで 、観 光客 が市内 観 光資源 ー FII遊 型 観 光地 とす る (神野 2007)。 この構想 はエ コ ミュ ジア ム を念頭 に置 し物語 を発 見す る「 。 エ コ ミュー ジ いた もので あろ うが つ、 地域 の継承す る歴 史 。文化 を住 民 の 手 で保存 活 用す る ー ュー ア ムの理念 と、以前 には存在 しなか つたアイデ ンテ ィテ イ を地域 に付 与す る フ ィ ル ドミ ジアム構想 のあ り方 は異 な るのではないか。 ー 「 ム 最終的 な 目的 が地 域振興 と観 光誘致 で あ る これ らの施設 には、 ミュ ジア Jで あ る必然 ー い 性 があ つた のか とい う疑 問 も湧 く。 地域 アイデ ンテ ィテ ィ の主 張、地域情報 の発信 と う性 。 格 は無論博物館 (および博物館類似施設)に も必要 な もの だが、観 光 地域活性化 の核 で ある ー 以 上、 テ ー マパ ー ク的なア ミュ ズ メン ト施設や複合文化施設 な どの選択肢 も存在 した と思 わ れ る。 一 ○○ ミュー ジア ア ミュー ズ メ ン ト施設 の 種 に、 いわ ゆる博物館 と似 た展示機 能 を有す る 「 ー ム」 が存在す る こ とは先述 したが、 これ らは文化 的 レジ ャ として 中高年層 の顧 客獲得 な どを ー ー ー 一 期待 され る 方 、静的 な展示 を中心 とす るためにテ マパ ク等 のア ミュ ズ メ ン ト施設 の 中 では利用者 に訴 える魅力 が弱 い と見 な され る こ ともあ る (井出 1995)。 ・ 。 しか し 「ミュー ジアム」 とい う名称 に文化 的、または地域 にお ける歴 史 文化 の記録 発信 を行 う場所 とい うイ メー ジが あ り、 これ が地域 のア イデ ンテ ィテ ィを構成す るにあた り大 い に 力 にな るのは確 かであろ う。 ただ し、 これ らの例 には次 の よ うな問題 点 も考 え られ る。 一 す でに触れ たが 、第 に挙 げ られ るの は、 フ ィ クシ ヨンである文 学作 品を地域 のア イデ ンテ ィテ ィ として採用す る こ とは歴 史 ・文化 的な真 正性 を損 な うこ とにつ なが るのではないか とい 。 ・ う問題 である。 文学 が執筆 された時期 または舞 台 とな つた時代 の歴 史 風俗 社会情勢 とい っ た もの とのかかわ りが深 い ことは否 定で きな い。 しか し 1000年 以 上前 の 時代 を舞台 とす る源 氏物語 はそ の 実態 が現代 に残 つてお らず 、逆 に近代 を舞台 とす る坂 の上の雲 には歴 史認識 な ど の 問題 もつ きま と う D。 また 、文学作 品は地域 のア イデ ンテ ィテ ィ として本 当に適 当な のか とい う問題 もある。 この 点 はまちづ く りが実行 され る以前 の段 階 で話 し合 われた こ とと思われ るが、小説 を地域 のア イ デ ンテ ィテ ィ として永続 的 に採用 し続 ける こ とは果 た して可能 な の だ ろ うか。 既 に述 べ た よ うに 、両 地域 には以前 か ら文学 を用 いた振興活動 を行 つて きた実績 があ る。 ま -163- 地域振興と文学館 たテ マ となった作 品はいずれ も現在 非常 に 注 目を集 めてい ること も間違 い ない。 、教科 書等 で誰 もが 一度 は接す る作 品であ り、また 2008年 には源 氏物 語 千年 期 として京都 をは じめ 全 国的にキ ャ ンペ ー ンが行 われ た。 一 方 の_Lの 坂 雲 が 多 くの 読者 に支 持 され るベ ス トセ ラー で あ るこ とは先 述 の 通 りで あ っ て 、 2009年 にはNHKに よる ドラマ 第 1期 が放 映 され た (2010年 12月 現在 、第 2部 が放 映 中)。 しか しなが ら、現在注 目を集 めてい る作 品が数十年 、数 百年 の後 に 同 じよ うに支持 され るか は疑 問だ と言 わ ざるを得 な い。 執筆 千年 といわれ る源 氏物 語 も一般 に 高 い評価 を受 けるよ うに な るのは 19oo年 前後 の こ とであ り (鈴木 2008)、 ま して 「 産経 新 聞」紙 上で連載 が 開始 され た 1968年 か ら数 えて も 50年 に満 たない坂 の Lの 雲 は 、そ の危 険が大 きい とい えよ ぅ。 一 過性 の ー 振 興運動 な らば価値 の薄 くな っ たテ マ を別 の もの に差 し替 え る こ と も不 可能 で 一 はないが 、 度施設 が作 られ て しまってい る状況では変更 も容易ではない 。 ま して 半永久的 に 活動 してい くべ き ミュー ジアム ・博物館 の立場 か ら言 えば 、論外 であ る。 最初 に述 べ た よ うに文学館 の示す 範 囲は広 く、文 学 に関す る雑 多 な施設 を纏 めて 「 文学館 」 と呼 んでい る。為 にその 中で博物館 、 ミュー ジアム と呼ばれ る施設 が あ って も、 博物館施設 の 用 を成 してい な い場合 もあるのが現状 であ る これ は博物館 全 体 につ い て も言 え る こ とで あ り、我 が 国 にお け る博物 館 の イ メー ジ は未 だ 「 「 見世物 」 展示会場Jの 意識 を脱 却 し切れ てい な い部分 があ る。手軽 な 「 ○○ ミュー ジアム」 た とえば源 氏物 語 は 日本 を代表す る古典 と呼ばれ が 作 られ る背景 には設置者側 の 、展示施設 を もち、 モ ノを並 べ て さえぃれ ば博物館 と 称す るこ とがで きる とい っ た考 えがあるので はないだ ろ うか。加 藤 有次 が 「 博物館 の今 日的解釈 か らす べ る と、それ らのす て を博物 館 と呼ぶ には 、少 なか らず抵抗 な しとしな ぃJと 評 した事態 は 0日 藤 1996)、未 だ是 正 され ていない。 註 1 ) 全 国文 学館 協議 会 の 会則 に よれ ば 、文学館 とは 「 わ が 国 の 文 学 に 関す る文献 ・資料 の 収集 ・ 保 管 、閲 覧 、展 示 等 の 事 業 を行 ってい る、 また は こ う した 事 業 を行 お うと してい る 、施 設 ま た は組 織 」 で あ る。 2)『 日本 博物館 沿革要覧』 (野間教育研 究所紀要別 冊 1981)に よれ ば、文 学 関係者 の個人 を 記念 。顕彰す る試み としては 、19o6年 設 立の鈴屋遺跡保存会 に よる本居 宣長 の住居 を保 存す る試 み が最 も古 い。 3)「 日本近 代 文学館 の設 立趣意」 (1992.07)では 、資料 「 手稿 。文献 。図書 ・定期 不定期刊 行物」お よび 関係所物件 「 遺 品 。建造物 Jな ど。 4)後 述す る 「 『坂 の上の雲』 を軸 とした 21世 紀 の まちづ く りJで も、 当初 は小説 でまちお こ しがで きるのか ど う力V隈疑的な意見が 多 かった とい う (中村 時広 2008.05) 5)こ れ につ いて北村季 吟 が 『菟芸泥赴』 の 中で、 (略)浮 船 の 明神手 な らひ の森 な どいふ 事更 に うけ られず も とよ り源氏 の作物語 なれ ば其 あ とあ るべ きにあ らず (略)千 年 上林浄雪 に比 故 を一 巻 にか きあ らは して橋住 と名付 て - 164 - 地域振興と文学館 新 修 京 都 叢 書 第 1 2 巻 』) つ か は しつ る も二 十年 計 のむ か しにな りぬ ( 『 また黒川 道 祐 は 『衆 州府 志 』 で ハ ス モ ( 略) 今 宇 治 自 り御 室 至ル 田間 二 十 帖 ノ跡 存 ス 或 ハ 小社 ヲ建 テ 或 観 音石 造 ヲ安 然 新修京都叢書第 10巻 』) 是皆後人 之 附託 ニ テ而之 ヲ取 ル ニ足 ラ不 ル 者 力乎 (『 と述 べ て い る。 共 にフィク シ ョンで ある こ とを指摘す るものだが 、逆 に これ らの古跡 が源 一 氏物語 ゆ か りの もの として 般 の認 知 を得 ていた こ とを示 して い る とも言 えよ う。 TBS星 の王子様 ミュー ジア ム」、長 6)他 に 1作 品を主題 とした施設 の例 には、神奈川県 「 池波 正 太郎真 田太平記館 」 な どが ある。厳密 に言 えば文 学作 品ではな いが 、青森 県 野県 「 二十 四 の瞳映画村 」 な ども挙 げ られ よ う。 「 小説 「 津軽Jの 像記念館 」、香川 県 「 ー 7)フ ィー ル ドミュー ジアム構想 では 、坂 の上の雲 ミュ ジアムが ある松 山城周 辺 の市街 地 セ ンター ゾー ン」、松 山市 立 子規記念 博物館 の あ る道後温泉 をは じめ とす る 6つ の主 を 「 サテ ラ サブ セ ン ター ゾー ンJ、更 に小説 ゆか りの地 を含 む 単独 の 地域資源 を 「 要 な地域 を 「 イ トJと 設 定す るな ど、 エ コ ミュー ジア ム を意識 した用語 が使 われ てい る。 8)坂 の上 の雲 ミュー ジア ム は 、歴 史観 お よび 政治イデ オ ロギー につい て非常 に慎重 であ り、 特定 の それ に肩入れ しない 姿勢 を示 してい る。 参考文献 カロ 藤有次 1996『博物館学総論』雄 山閣 新修京都叢書刊行会 1967『新修京都叢書第 6巻 』臨川 書店 新修京都叢書刊行会 1968『新修京都 叢書第 10巻 』 臨川書店 新修京都叢書刊行会 1971『新修京都叢書第 12巻 』臨川 書店 中村稔 1997『文 学館感傷紀行』新潮社 林屋辰 二郎 ・藤 岡謙 二 郎編 1973『宇治市 史 1 古 代 の歴 史 と景観 』宇治市役所 林屋辰 二 郎 、藤 岡謙 二郎編 1979『宇治市史 5 宇 治川東部 の生 活 と環境 』宇治市役所 松 山市史編集 委員会 1997『松 山市史第 4巻 』松 山市役所 安藤 忠雄 2007.09「 近代 日本 の 時代精神 を伝 える場」『新建築』 82-11 源 氏物語 』 の ま ち ・宇治一 史蹟 と観 光文化 」 立石和弘 ・安藤徹編 『源 氏文 化 安藤徹 2005「『 の 時空』森話社 井 出信雄 1995「カル チ ャー パ ー クの展 開に よる地 域振興戦略J『月刊 レジ ャー産業資料』 28 巻 6号 (通号 345) 源氏物語 と江戸文 源氏物語』 と文化共同体 :メディア 。ジャンル ・翻訳」『 鈴木登美 2008「『 化 :可視化 され る雅俗』森話社 新都市』61巻 11号 (通 神野誠 2007「松 山市中心地 区 :坂の上の雲を軸 とした都市観光」『 号 730) 市長講演 『坂 の上の雲』のまちづ くり」『交流人 口を活 か したまちづ くり : 中村時広 2008.05「 日本年学会年報 2007』Vol.41 -165- 地域振興 と文学館 中村 哲 2003「 観 光 にお け るマ ス メデ ィ ア の影 響 :映 像 媒 体 を 中心 に 」『21世 紀 の 観 光 学』学 文社 「 丹羽 由 -2007「 坂 の 上 の 雲 」 の ま ち づ く り :地 域 ブ ラ ン ド構 築 の 視 点 か ら」 『地域 開発 』 517 山崎 隆 之 。十 代 田朗 2 0 0 7 「 観 光 ま ち づ く りにお け る物 語 性 の 援 用 : 松 山市 「 『坂 の上 の 雲 』 を軸 と した 2 1 世 紀 の ま ちづ く り」 を事 例 と して 」『日本 観 光研 究 学会 第 2 2 回 全 国大会論 文集 (2007年12月)』 1999「 宇治市源氏物語ミュージアムJ『月刊レジャー産業資料』32‐ 2 (389) (國學院大 學大学院博 士課程後期) -166- 韓国 の博 物館 関連法律 Museum law in Korea 李 文 子 LEE Ⅳ [oonJa 1.韓国 の博物館 法 の流れ 1970年代末、博物館 法草案 がつ くられ、1979年 10月 国会 に提出 されたが、10・26事 態 の勃発 で 博 博物館法メ ま制定 ができなかつた。そ の後 1984年に 『 l会が解散 され る ことによつて 1979年の 「 ll・ の文化事受確 が向 上 活動 と施設拡充等でllbl民 Fliさ れた。 また活発な各種 の文fヒ 物館法感 がお1定 。公‐ 博物館及 び美術館 振興法」 されたが、先進国に比べ るとまだ改善 しなければな らないことが多 い 中 「 このよ うな現状 をふまえ博物館及び美篠鑢 の活動 を振興 させ るために設 け られた。 │ま 関連法律 の変化 博4///J館 制定 国立博物館職 制 1949,12.12、法律第 234号 国立博物館職制 1961.1.16、法律第 185号 国立民族博物館職制 1949.12.12、法律第 235号 圏 立中央博物館職制 1972.7.19、 法fド ,ヽ6290号・ 法 博47J館 1984.12.31、 法律第 3775号 博物館及び美術館振興法 4t10号 1 9 9 1 . 1 1 . 3 0法律第 、 廃上 1961.1.16 1957.12.23、大統領令第 1324号 1901.2.1、大統領令第 13283号 1991.11.30、 法律第 4410号 “ 1979年 10月 に国会に提織 された 「 簿物館法J`とい う)と 1984年に制定 ・ 博物館法」(以下 1目「 博物館法 は 19条 か ら構成 されてお り、 1984年 の 公布 された 「 博物館 法」にはあま り差はない。 1日 「 博物館法Jで は第 6条 で博物館 協会 に設置、 博物館法」 は 20条 か ら構成 されてい る。 1984年 「 館 の設置、運営基準、登録及び取消、準博物館施設 の指定 と解 除、博物館 に対す る指導 と助言 IIS物 ■ 1991年 :こ 関す る事項 は文化財保護 法による文化財委員会の諮問を求 めるよ うに した。 この法律l― ll体 が 11月 「 博物館及び美術館振興法Jの 制定 │こより廃止 され るまで、韓国博物館 の 中で地方 自治l・ 設 立 した公立博物館 と民法による法人又は大統領令 で定める法人が設立 した私立博物館以外 の準博 の管理等に鸞す る法的基準であつた。 物館施設 に設置、登録 と運営 、博物館翻 ・ 博物館法」 では、第 5条 (学芸職 員の配置)の 中で、学 芸職人に対す る資 両法 の 熙立つ差は1翔「 ` 格要件 を 学士学位 を持 つ者で、大学で文化公報部令で定める博物館 に関す る科 圏の単位 をIFX得し "、“ た もの 大学 で 2年 以 上在学 し博物館 に関す る科 目の単位 を取得 した者 で 2年 以上学芸職人を補 -167- 韓国の博物館関連法律 助 とい う職務又ま まこれ 以上の もと文化公報部長 官 が指定 した職務 に従:事した者 "、・ 文化公報部長官 が 文化公報部令で定め ること:こょって 同等以上の資格があると認定 した もの'と 限定 した。しか し 、 1984年 「 博物館法」の第 5条 (学芸職員 の配lT― )で はただ博物館 に置 か なければな らない学芸職 人 の資格 と養成 に関 して必要なi事 項は大統領令で定めると規定 しただ:す でぁ る。 2.博物館及び美術館振興法 'と 博物館及び美術館振興法 (以下 “ 振興法 い ぅ)は 国家を代表す る博物館及び 美術館 として 国 1央 主 嗜 博物館 とll‐ l立現代美術館 ,こ 関す る事項 と公立博物館及び公立美術館 、私 立博物館及び私 立 美 術館、大学博物館及び大学美術館 の登録 ゛管理運営 ・指導監督について 規定 してい る。 1991年 制定 され 、 1999年 と2007年 の全llii的 な改定が行なわれ婁在に至ってぃ る。 9章 32条 か ら構成 されてい るが、2010年 6月 33条 (圏立 博物館文イ ・ に財目1の設立)が 新設 され 12月 施行 され る 」 定である。(1) 博物館及び 美術館振興法の 変遷 法律 施行 1991. 11. 30、 議ぜ ,む 第 4410号 1992, 6. 1 1998.3.6、 絶法改定 第 4541号 1993. 3. 6 1994.1.7、 他法改定 第 4718号 1991, 7. 8 1994.8.3、 他法改定 第 4781号 1994. 8. 3 1996.12.30、 他法改定 第 5193号 1997. 1. 1 1997.12.13、 他法改定 饉5453号 翻 1998. 1. 1 1997.12.13、 他法改定 第 5454‐ 号 1998. 1. 1 1999.2.8、 全部改定 2000,1.12、 一部改定 負等5928号 2000. 2. 9 第 6130号 2000. 2. 9 2002.12.30、 他 法改定 2003. 5. 29、 一・ 3さ 瀬`郡 第 6841号 2003. 10. 1 第 6904号 2001. 1. 1 2004.9.23、 他法改定 第 7217号 2004. 9. 23 2005.8、 4、 他法改定 fr')7d7a ";' 2006. 8. 5 2006.9.27、 他法改定 等8014号 窮 2007. 9, 28 2007.4.11、 全 部改定 一部改定 第 8347号 ・ 2007. 4. 11 ヽ8556'シ 自 2007. 7. 27 2008.2.29、 他法改定 醇8852'シ 自 2008. 2. 29 200S.3.21、 ffise?6* 2008. 3. 21 2009,3.5、 一部改定 第 9171号 009, 鑽 : 0 磯 2009.6.9、 第 9撃SS澪 2 報0 ・3 , : 鶴 第 10331号 2010. 12. 1 第 10367号 2010, 12. 11 2007.1.27、 2010.5.31、 2010.6.10、 他法改定 他法改定 他法改定 一 部改定 -168- 韓国の博物館関連法律 博物館及 び美術館振興 法 「 施行 2010.3.10J「 法律 第 9763号 J 第 1章 総 則 第 1条 (目的) この法は博物館 と美術館 の設 立 と運 営 に関 して必要な事項 を規定 し博物館 と美術館 を健全 に育成す る ことに よつて文化 ・芸術 。学問の発展 と一般公衆 の文化事有増進 に寄与す ることを自的 とす る。 第 2条 (定義) この法で使用する用話 の意味は次 の通 りである。 (改定 2007.7.27、 2009.3.5) "と 1.“博物館 は文化 ・芸術 。学FpSの 発展 と一般公衆 の文化事有増進に役立つ ために歴 史 ・考古 。 人類 '民 俗 ・芸術 ・lll物・植物 ・鉱物 。科学 ・技術 ・産業等に関す る資料を収集 苺管理 ・保存 ・譲 査 ・研究 ・展示 ・教育す る施設 をい う。 'と 2.“美術館 は文化 。芸術 の発展 と 一般公衆 の文化事有 のlll進に寄与す るために博物館 の 中で特 に書画 ・彫剣 う工芸 ・建築 ,写 真等美術 に関す る資料を取集 ・管理 ・保存 ・調 査 。4jT究・展示 ・教 育す る施設 をい う。 "と 3.“博物館 資料 は博物館が収集 ・管理 ・保存 ・調査 ・研究 ・展示す る歴史 ・考古 。人類 ・民俗 ・ 芸術 ・動物 ・植物 ・鉱物 ・科学 ・技術 ・産業等に関す る人間 と環境 の有形的 ・無形的証拠物 として 価値 がある資料 の 中で大統領令 で定める基準に符合す るもの をい う。 学問的 ・芸術g.」 "と 4.“美術館資料 :ま 美術館 がll■ 集 ・管理 ・保存 。調査 摯研究 ・展示す る美術 暉 す る資料で学問 的 ・芸術峰価値 のある資料 をい う, 第 3条 (博物館 ・美術館 の区分) ①博物館 はその設立 ・運営の主体によって次のよ うに区分する。 1.国 立博物館 :国 家 が設立 ・運営す る博物館 2,公 立博物館 :地 方 白治団体 が設 立 ・運営する博物館 ・ 3.私 立博物館 :「民法」 薦法」、その他 の特別法に よつて設立 された法人 ・団体又 は個人が設 立 、「 運営する博物館 4.大 学博物館 :「高等教育法」 によつて設立 された学校又は他 の法律によつて設立 された大学教育 課程 の教育機関が設 立 ,運 営す る博物館 ②美術館 はその設 立 =運 営 の主体によつて国立美術館、公立美術館、私立美術館 、大学美術館 に区 分 し、その設 立 `運 営 の主体に関 しては第 1項 各号 を準用する。 第 4条 (事業) ①博物館は次の各号の事業を遂行する。(改定 2007.7.27) 1.博物館資料の収集 `管理 ・保存 ・展示 - 169 - 韓国の博物館関連法律 2.博 物館 資料に関す る教育及 び専門的 ・学術的 調査 。 研究 3.博 物館資料 の保存 と展示に関す る技術鷲調査 ・研究 4.博 物館資料に関す る講演会 ・講習会 ・映写会 ・展覧会 ・ 展示会 。発表会 ・鑑 賞会 ・探査会 ・踏査 等各種行事の開催 5,博 物館資料に関す る複製 と各種刊行物の制作 と配布 6.圏 内外他 の博物館及び美術館 との博物館資料 ・美術館資料 ・ 刊行物 ・プ ログラム と情報交換 、博 ・ 物館 美術館学芸士交流等の気機 的協力 7.そ の他博物館の設 立 目崎 を達成するために必要な事業 " ②美術館事業に関 しては第 1項 を準用する。この場合第 1号 から第 5号 までの規定中 “ 博物館資料 “ "と "│ま “ "と :ま 美術館資料 し、第 6号 及び第 7号 中 “ 簿物館 美術館 する。 第 5条 (適用範醸) この法は資料館、史料館、遺物館、展示場、襲示館、郷土館、教育館、文 書館、群念IFi、 保存所、 民俗館、民俗村、芸術館 、文fヒ の家、野外展示公園及び これに類似 した名称 と機能を有 している文 化施設の中で大統領令で定めることによって文fな 体育観光部長官が認定する施設にも適驚する。た だし、他の法律によって登録 した施設は除外する。 (改定 2008.2.29、 2009.3.5) 第 6条 (博物館 ・美術館学芸士) ①lヾ 物館 と美術館は大統領令で定めることによって第 4条 にょる博物館 ・美術館事業を担当する 博 "と 物館 ・美術館学芸士 (以下 “ 学芸士 する)を 置くことができる。 ‐ 3級 ◎学芸士は 1級 ェ学芸士、2級 工学芸 ■ 、 ェ学芸士及び準学芸 l― :こ し、その資格籠1度の施行 lX 分 方法及び節次等に必要な事項1ま 大統領で定める。 ③学芸士は国際博物館協議会の倫理綱領 と国際協約を守 らなければならない。 第 7条 (運営委員会) ⑪第 16条 により登録 した国 。公立の博物館 と美術館 (各地方分館を含む)lF■ 専門性の提高と公共施 設 として効率的運営及び経営合理化のためその博物館又は美術館に運営委員会を置く。 ②運営委員会の構成 と運営に必要な事項は大統領全で定める。 第 S条 戦 産の寄付) 「 民法J、 「 商法」、その他の特別法により設立 された法人 豪l・ ll体 及び個人は簿物館又は美術館設置、 博物館資料又は美術館資料の拡充等博物館又は美術館 の設立 。運営を支援するために金銭又はその 他の財産を博物館叉‡ ま美術館に寄付することができる。 第 9条 (博物館及び美術館振興施策樹立) ◎文化体育部長官:ま 国 。公 。私立博物館及び美術館の拡充、地域の核心文化施設 として支援 ・育成 ・ 学芸士の養成等博物館及び美術館振興のため基本施策を続立 ・ 施行 しなければな らない。〈 改定 2008. - 170 - 韓 国 の博物館 関連法律 2. 29) 行政機関の長は第 1項 による基本施策に従つて所 ②国立博物館 と国立美術館を設立 ・運営するlll央 管博物館 と美術館振興計画を樹立 ・施行 しなければならない。 t体 の博物館及び美術館振興計 ③地方自治団体の長は第 1項 による基本施策に従つて該当地方自治l・ 画を樹立 ・施行 しなければならない。 第 2章 国 立博物館 と暉立美術館 第 10条 (設立と違営) ①国家を代表する簿物館 と美術館 として文化体育観光部長富所属に国立中:央 博物館 と国立現代美術 館を置く。 (改定 2008.2.29) にために文化体育観光部長官所属に国立 ②民俗資料の収集 。ArF。 展示 とこの体系的な調査 ・llll究 民俗博嬢 を置く。 僕彙定 2008.2.29〉 ③圏立中央博物館は第 4条 第 1項の事業以外に次の各号0業 務を遂行する。 (改定 2008.2.29) 1.国 内外文化ltrの 保存 ゛管理 ・ 2.l■ I内外博4//8館 資料の体系輸な保存 ・管理 3.圏 内他の博物館 に対する指導 。支援及び業務協助 4、圏内博物館 のlJ2カ 経の構成及び運営 5.そ の他国家を代表する博物館 としての機能遂行に必要な業務 ‐ ①文化体育観光部長官は文化遺産の均衡鈴 とれた、効率的な収集 ゛l■ 存 ・調査 。研究 `展 示及び文 こ国立中・ 化事有の均衡的な増進を図るために必要な所ぐ kL博物館、圏立民俗博物館又│ま 購立現代美術 館の地方博物館及び地方美術館を置くことができる。 (改定 2008.2.29) ⑥園立現代美術館は難 条第 1項 の事業以外第 3項 各澪‐ の業務を遂行するで この場合各号の “ 縛物 摯 “ "と 館 │ま 美術館 する。 ⑥圏立民俗博物館は民俗に関 して第 4条 第 1項 の事業以外第 3項 各号の業務を遂行する。 この場合 “ ` ・ "と 冬号の 博物館 は 民俗博物館 する。 央博物館 と圏立嶽 ヽ美衛館及び圏立民俗博物館の組織 と運営等に必要な事項は大統領令で ③圏立中‐ 定める。 ③ 圏 立 中央 博物館 には 、館長 1名 を置 き、館 長 は政務職 とす る。 第 11条 (設立 協議 ) ①中央行政機関の長は所管業務 と関連 して圏立簿物館又は国立美術館を設立 しよ うとする時は予め 文化体育観光部長官 と協議 しな:す ればならない。 (改定 2008.2.29〉 必要な事項は大統領令で定める。 ②第 1項の協議│こ 第 3章 公 立博物館 と公立美術館 -171- 韓国の博物館関連法律 第 12条 (設立 と運 営) ①地方曲治団体は地域社会の博物館資料及び美術館資料の購入 ・管理 ・保存 ・展示及び 地域文化発 展 と地域住民の文化享有権増進のために大統領令で定める節次と基準に従つて博 物館 と美術館を設 立することができる。 ②第 1項 による博物館 と美術館運営に必要な事項は地方自治団体の条●ifで 定める。 第 4章 私 立博物館 と私立美術館 第 13条 (設立と育成) ①法人 ・団体又│ま 個人は博物館 と美術館を設立することができる (改定 2007.7.27) は地方自治圏体は第 1項 に従つて博物館及び美術館の設 立を助長 し、文化遺産の保存 ・継 ②圏家:又 承及び暢達 と文化享有を増進する基盤施設として支援 ・育成 しな│す ればならない。 ⑥私立博物Fiiと 私立美術館は第 1条 及び第 2条 による目的と機能に籍合できるよう設立 ・運営 しな ければならない。 第 5章 大 学博物館 と大学美麟 第 14条 (設立 と運営) 高等教育法Jに より設立 された学校又は他の法律によって設立された大学・ ① 「 .I育課程の教育機関 は教育支援施設 として大学博物館 と大学美術を設立することができる。 の大学博物館 と大学美術館は大学の重要な教育支援施設 として評価 されなければならない。 ③大学博物館 と大学美術館は博物館資料 と美術館資料を効率的に保存 ・管理 し教育 `学術資料と活 lFlで きるよう支援 ・育成 されな:す ればならない。 第 15条 (業務) 大学博物館 と大学美術館は第 4条 1項 の rl.業 以外次の各号の業務を遂行する。 1.教 授 と学生の研究 と教育活動に必要な博物館資料 と美術館資料の収集 。整理 ・管理 ・保存及び展 示 2,博 物館資料又は美術館資料 の学術的 な調査 ・rjl究 3.教 育課fi_に 関す る効率的な支援 4.地 域文化活動 と社会文化教育 に対する支援 5、国 ・公立博物館及 び美術館、他 の博物館及び美術館 との交流 ・協助 6.博 物館及び美術館利用 の体系的な指導 7.そ の他教育支援施設 として機遂行 に必要な業務 第 6薫 登 録 韓国の博物館関連法律 第 16条 (登録等 ) 成す るために必要な学芸 士 と撻 ① 簿物館 と美籍館 を設立 ,運 営 しよ うとす るま はその設:立日的を:達 こよ り、圏立博物館及 び美術館 は 物館資料又は美術館資料及び施設 を揃えて大統領令で定 めることζ 文化体育観光部長官 に、公立 。私立 ,大 学博物館及び美術饉 は特別市長 ・広域市長 ・道知事 ・特別 自治道知事 (以下 'と `華 。 い う):こ登録す ることがで きる。 (改定 2009,3.5) 道事 ②第 1壕 :こよつて登録 した者 が登録事項 を変更 しよ うとす る時は変更登録 を しなければな らない。 ③第 1項 によつて学芸 士は博物館資料若 しくは美術館資料及 び施設 に関する登録要件 と登録及び変 更登録 に必要な事項 は大統領令 で定める。 第 17条 (登録証 と登録表示) 市。 道魚1事は第 16条 第 1項 によ撃登録 中講を受け付 けると中講人 :こ 博物 ①文化体育観光部長奮又│ま ` ・ "と い う)を 交付す る (改定 2009.3.5) 館登録証又は美術館登録証 (以 ド 登録証 従 つて鮭外看板、 ②第 1項 によって登録証 を交付 された博物館 と美術館 は大統領令 で定めること│こ 各種文書、公報物等 に登録表示 を しなければな らない。 第 18条 (私立博物館 。私立美術館 の設 立計画承認等) をす ると大統領令で定める ①市 。道知事は私 立博物館 又は私立美術館 を設立 しよ うとす る者 が l14講 こい こよつて博物館 あるいは美術館設立計画を承認す ることができる。 ・ }画をぶ総きれた書がその設立割´ 夫続鎮苓で七める量要な事項を変更し 撻囃 ②嶽 ぶによっで設立議 よ うとするなら市 。道知事の変更承認を受(す ればならない。 な:す ③市 ゛道舞1事は第 1項 と第 E猥 みよつて承認、変更承認を しよ うとする時は予め第 20条 第 1項 各号 該当事項の所管行政機関の長 と協議 しな:す ればならない。 ①市 ・道知事は第 1項 によつて設立計画の容認を受けた者の事業推進実績が極めて不良な場合は大 統領令で定めることよってその承認を取 り消すことができる。 ⑤経 道知事:ま 第 1硬 。第 2項 及び第 4票 によって設立副‐ lllliを 承認あるいは変更承認、承認を取 り 濤 した場合は遅滞なく第 3項 によって協議機関又は利害関係がある者にその事実を知らせな:す れば なもない。 第 19条 (遊休空間の活用) の遊体空間を 「 地方財政法Jで定めることによって博物館、 ①地方自治団体の長はその 自治圏体ltrr有 美術館又は文化の家など地域文化空間に用途変更 して活用することができる。 の家等を設立 ・運営 しよ うとする者が第 1項 :こ よつ ②地方自治圏体の長は博物館、美術館又は文`ヒ て遊体空間を貸与することを要請する時は無償で貸与することができる。 第 20条 (他の法律 との関係) ①群r・道知事が第 18条第 1項 と第 2項 によつて私立博物館又は私立美衛館設 立計画を承認 し、変更 承認する場合、同条第 3項 によって各号の次各号のいずれ力ヽこ該当する事項に関 して所管行政機関 -173- 韓 国 の博物館 関連法律 の長 と協議 した時はそれ:こ 該当する. 可 3‐・認可 ゛指定を得、中告又は協議 (以下この条で ・ 許可 ・ )と い う)を したこと│こ 誌 可等 する。 較 定 齢o8.3.21、 2009,6.9) 1.「圏圭の計画及び利用に関する法律」第 56条 第 1項 1号 及び第 2繁 こよる開発行為の許可、同法 舞 86条 による都市計直権設事業施嶽な の指定、同法第 88条 による実施計画の lll 総 3.「道路法」第 34条 による道路ェ事施行又;ま lur、 の 維持 許 同法第 38条 :こ よる道路の整容許可 3、 「 水道法J第 52条 による専用 上水道の認1可 《.「下本道法」舞 16条 ;こ よる公共下水道に関するェ事民は維持の許可 5,「農jtlj法 」第 34条 による農地専jllに 許 l・ J及び協議 6、「 曲地管理法J tti雄条及び第 15条 にょ魏 ::地専緊許可と由地専用lll告 111林 、「 資源の達成及び管 理に関する法律J、第 36条 第 1痰 。第 4項 による立本、伐採等の許可 。lll普 J林保護法書第 及び 「 頭 9条 第 1寝 及び第 2項 第 1号 。2号 寺 こよる1主 1林保護区域 (ユ I林遺伝子保護区域 は除外する)で の行為 41・Ill告 に許 「 と同法第 ll条 第 1項 第 1号 :こ よる山林保護区域の指定解除 ②第 18条第 1項:こ よる私立博物館又は私立美鑢 立計画の承認を得た者がその承認内容を他の 漂 的ll‐ 用途を変更 した場合又│ま 第 22条 によるFII館 申告をし、第 27条 :こ より登録が取 り消 しされた場 合は第 1項 各号の許可又:ま 隷可は取 り消 しされたこユ こする。 ③第 1項 による所管行政機関の長が協議に応ずる場合関連法律で規定 したその許可 ・認可等の基準 を違叉 して協議に応ずることはできない。 擁 7章 管 理運営 第 21条 (開館) 第 16条第 1項により登録 した博物館又は美術館は年間文化体育観光部令で定める:]数以上一般公衆 が利用できるよう開放 しなければならない。 (改定 2008.2.29) 第 22条 (開館申告) ①登録 した博物館又│ま 美籍館を運営する・ IIが博物館又│ま 美術館を開館 しよ うとする時は大統領令で 定めることによつて文化体育観光部長官又:ま 1・ 道知事に申告 しなければならない。(改正 2009.3. 戴 5) ◎文化体育観光部長官又は市 。道知事は第 1墳 により申告を受 :す すた場合はとその登録を取 り濤 付を さなければならない。 (改定 2009.3.5) 第 23条 (資料の議与等) ①博物館又は美術館は相互間に博物館資料又は美術館資料を交換 ・譲与あるいは貸与してその資料 の保管を委託することができる。 ②国家又は地方自治団体は博物館資料又は美術館資料で活用できる資料を 「 地舞鷲 国有財産法」。「 `貸 「 政法J又 は 物品管理法Jに より博物館又は美術館に無償又は有償で譲与 与 し、その資料の保 管を委託することができる。 -174- 韓 国 の博物館 関連法律 美術館麟 ③博物館又:ま 2項 により博物館資料又:ま 美術館資料を貸与 された場合、保管を委託 され た場合には善良な管理者の義務を果たさなければならなv t嚇 予算の範囲内でその保存 ・ 地方自治団体│ま 第 2項 により資料の保管を委託する場合 に│ま ③国家又│ま 必要な経費を支援することができる。 処理及び管理:こ 等 21条 (経費補助等) 美術館設立計画承認を得たお ①圏家又は地方自治団体は第 18条第 1項によつて私立博物館又は凛立‐ ‐ 必要な経費を、登録 した博物館又は美術館に対 しては運営に必要な経費を十筆の範囲薦 :こ は設立:こ で各各補助することができる. 美術館資料の輸送に関して運賃又はその他の料金を害1 ②政府は国営輸送機関による簿物館資料又│ま り│し、減税することができる. 必要な経費等の支援を受けてしヽ る施設に対 しては第 1痰 又は第 2 0他 の法律により設立又は運営│こ よる支援を しないことができる 機 設 2009 8.さ ) 項1こ 篠 25条 (鍵覧料と利用ない 対する対llliを 散収するこ 0博 物館又は美術館 は観覧料、その他博物館資料又は美術館資料の利 lllに とができる。 美術館資料の利用に対するべ憔 │ま ②公立博物館又は公立美篠館 の観覧料、その他の博物館資料又│ま ll体 藝条例で定める. 地方自治l・ 第 8章 指 導 ・監督 第 26条 (是正要求と停館) ①文化体育観光部長官又は市 。道知事は博物館又は美術館がその施設 と管理 ・運営に関してこの法 又は設立 目的を違反 した議ミ正することを要求することができる。 (改定 2009.3.5) ればな 美術館 は正当な事由がない限 りそれに従わな:す ②第 1項 により是正要求をされた博物館又:ま らなし、 ③l文 化体育観光部長官又は市 。道知事は第 1項 により是正要求をされた博物館又は美術館が正当な 定め停館を命ずることができる。 (改定 2009.3.5) 事由なしで従わない場合 6ヶ ll以内の麟FIllを 要求のために必要だと認定するとその施 ①文化体育観光部長官又は市 ・道知事は第 1項 による是:正 設 と管理 ・運営に関する資料を提出させることができる。 (改定 2009.3.5) 第 27条 鐙 録取消) )冬号いずれかに該当する ①文化体育観光部長官又は市 。道知事は登録 した博物館又は美術館が次σ 場合その登録を取 り消す ことができる。 ただし、天災地変又はその他不得意な事由で第 3号 に該当 す るようになった場合 6ヶ 月以内にその事由が解除された場合はそ うしない。 (改定 20∞.3.5) 1.虚 為又はその他不正な方法で登録 した場合 -175- 韓 国 の博物館 関連法律 2.第 16条第 2項 による変更登録をしなかった場合 3.第 16条 3項 による登録要件を維持することができず第 4条 による事業を遂行するこ とができな い と認定される場合 4.第 21条 を違反 して第 26条 第 1項 による是正要求を受:す て もこれに従わない場合 5.第 26条 第 3項 による停館命令受けたにもかかわらず博物館又:ま 美術館を停館 しなかった場合 6.そ の他 この法による博物館又は美術館 の設立 目的を違反 し、博物館資料又は美術館資 料を取得 , ・ ・管理 した場合 斡1/t 仲介 ②第 1項 により登録が取 り消された場合その博物館又は美術館の代表は 7漏 以内に登録証を文化体 育観光部長官又は市 。道知事に返納 しなければな らない。 (改定 2009.3.5) ③第 1項 により博物館又は美術館の登録が取 り消されると取 り消された 日から2年 以内に取 り消さ れた登録事項を再び登録することはできない。 第 28条 (報告) ①第 16条により登録 した国立博物館 と美術館の長又は市 ・ 道知事毎年大統領令で定めることによっ て該当国立博物館 と美術館又│ま 管轄博物館 と美術館の管理 ・運営 。観覧料と利用料、指導 ・監督 ・ 現状等の運営に現状を翌年 1月 20日 まで文化体育観光部長官に報告 しなければならない。 (改定 2008. 2. 29、 2009, 3. 5) 道熟事は第 16条により博物館 ・ ②市 。 美術館の登録又│ま 第 22条 第 2項 又は第 27条 1項による登録 取 り消しの処分をするとその譴ヽの 諄から 7日 以内に文化体育観光部長官にその事実を報告 しなけ ればならなし、 〈 改定 2008.2.29〉 第 29条 (聴聞) 文化体育観光部長富又は市 。道知事は次の各号のいずれかに該当する処分をしようとするなら聴聞 をしなければならない。 (改定 2009.3.5) 1.第 18条第 4項 による設立計画の承認 の取消 2.第 26条 第 3項 による停館命令 3.第 27条 第 1項 による登録取消 協力等 第 9章 諮 F.│・ 第 30条 (重要事項の諮問) ①文化体育観光部長官は次の各号の事項に関 して必要な場合 「 文化財保護法」第 4条 によって設置 された文化財委員会に諮問を求めることができる。 (改定 2008.2.29〉 1.第 9条 第 1項 による博物館 と美術館振興のための基本施策 2.第 11条 による関係中央行政機関との協議に関する事項 3.そ の他博物館又は美術館の振興に関 して諮問する必要があると認定される事項 ②市 ・道知事は次の各号の事項に関 して 「 文化財保護法」第 71条第 5項 により該当地方自治団体の -176- 韓国の博物館関連法律 条例 によ り設置 された諮問機関又は第 32条 第 1項 により設置 された博物館協会又は美術館協会に諮 問を求める ことがで きる。 1.第 9条 第 3項 による博物館及び美術館振興計画 2.博 物館又は美術館 の登録 とその取消に関す る事項 3.第 18条 による私立博物館又t漱 立美術館 の設 立計画承認 に関す る事項 4、 その他 に博物館又は美術館 の振興に関 して諮 F「 5を求める必要があると認定 され る事項 第 31条 (博物館 ・美術館 協力網) ①文fヒ 体育観光部長官:ま 博物館又│ま 美術館 に関す る資料 の効率的な流通 ・管理及 び利 用 と冬:種博物 館又は美術館 の相互 協力 を│ま かるための 1/」 J力体制 として次 の各号の機能 を遂行す る博物館 ・美術館 '協 "と い う)を llti成 協力網 (以下 力網 す る。 (改定 2008.2.29) 1.電 算情報体系を通 じた資料 の流通 2.博 物館資料又は美術難 資料 の整理 ・情報Rjt理 及 び随設等 の標準イ ヒ ー ー ベ 3.統 合デ タ ス構築、相互貸与体系構備等簿物館又は美術館運営 の情報化 ,効 率化 業.そ の他 博物館又は美術館 の相 Fl‐ 協力に関す る事項 ②博物館又は美術館はその設立 目的を達成するために 「 地方文化振興法J、「 関書館法」及び 「 文化 芸術振興法」により設立 された文化院 。図書館 。文化芸術会館等他の文化施設 と協力 しなければな らないさ ③協力網の組織 と運営のために必要な事項は大統領令で定める。 第 32条 (協会) ①文化体育観光部長官は博物館又は美術館に関する情報資料の交換 と業務協助、博物館又は美術館 の管理 ・運営等に関する機究、外圏の博P/J館 又は美術館 との交流、その他の博物館又は美術館従事 'と 書の資質の向上のため:こ 必要な場合博物館協会又は美術館協会 (以下 “ い う)の 法人設立 協会 を各各許可することができる。 (改定 2007.7.27、 2008.2.29) 必要な経費を補助することができる。 ②国家は第 1項 による協会の運営:こ lj法 ③協会に機 してはこの法に規定されたこと以外は 「 民法」の中で財l・ 人の規定を準用する。 第 33条 (国立博物館文化財団の設立) “ 継承及び利用健進 と国民め文化事有増進のために国立文化財団 (以下 文 ①政府 は文化遺産の保存 ・ "と い う)を 設立する。 化財団 ②文化財圏は法人とする。 ③文化財団には定款で定めることによって任員 と必要な職員を置く。 ①文化財団は次の冬号の事業を行な う。 1.Ftf立 博物館公演場運営 2.文化芸術創作品開発 ・普及 3.文1饉 光商品の開発 と製作及び普及 - 177 - 韓 国 の博物館 関連法律 4.文化商品店、食飲料売店、そ の他便宜施設 の運営 5.圏家、地方 自治団体及 び公共機関等か ら委託 された事業 6.その他文化財団の設 立 日的に必要な事 業 ⑥文化財圏に関してこの法で定めたこと意外には 「 民法」の中財爾法人に関する規定を準用する。 ◎政府は予算の範圏内で文化財団の事業と運営に必要な財政上の支援をすることができるも ⑦政府は文化財国の事業のために必要だと認める場合 「 国有財産法に関わらず、国有財産を文化財 ・ に 団 無償で貸付 し、使用 収益させることができる。く 新設 2010.6.10〉 附良J 第 1条 (施行置) この法│ま 公 布 6ヶ J‐ jが経過 した 日か ら施行する。 第 2条 (国立 中央博物館文化財団に関す る経過措置) 法施行当時 「 ①lleの 民法J第 32条 により気 ヒ体育観光部長官の許可を受け設立された財団法人国立 中央博物館文化財団はこの法施行後 lヶ 月以内にこの法による定款を作成 し文化体育観光部長館の な:す 認 llJを 受 :す ればならない。 ②財団法人国立中央博物館財団は第 1項 による認可を受けた場合は この法による文化財国の設立登 議をしな│す ればならない。 ③財団法人国立中央博物館文化財団は第 2項 により設立登記が済んだ場合 は 「 民法」中法人の解散 及び溝算の規定にも関わらず解散 したことにみな寸ゝ ① この法の施行当時財団法人国立中央博物館文化財圏の理事長を含め任職員はこの法による文化財 国の任職人とみな し、任員の任期は従前の任命 の日か ら越算する。 鍛 定理由〉 国立中央博物鑢文化財圏は文化遺産の保存 ・継承及び利用健進と国民の文化事有機会増進の等博物 館 と関連 した各種公益事業を遂行 しているが、 この法ではなく 「 民法」により設立された財懸であ るため公:益 事業の円滑な遂行が困難であるのが現状議 る。 そ こでこの法に国立博物館文化財団の設立のための法的根拠を設け圏立博物館講演場の運営、文化 芸術創造品の開発 ,普及及び文化観光商品のFrl発・制作 ・普及等の事業を遂行できるよ うに し、Fl 滑な事業遂行のために政府の財政支援 と国有黙産の無償貸付 ・使用 ・収益を規定することによって 国民の多様な文化事有要求に効率的に対応 じ文化産業の国際競争力確保にも寄与する為である。 く 附員導 饉8347ずシ、2007.4.11) 自 第 1条 (施行 日) この法は公布 した 日から施行する。ただし、第 20条 第 1項 第 4号 の改正規定は 2007年 9月 28日 か ら施行する。 -178- 韓国の博物館関連法律 第 2条 (旅行 日に関す る経過措置) lllNI員 J第 1条 の偉書に よつて第 20条 第 1項 第 4号 の改定規定 が施行 され る甫なまではそれに該 当す る従 前 の第 20条 第 1項 第 壌号を適用す る。 一 第 3条 (処分等 に関す る 般的経過措置) この法 の施行 当時従前 の規定による他 の行政機関の行為又は行政機関に対す る行為はそれ に該 当す る行政機関に行為又は行政機関に対す る行為 とす る。 第 4条 (他の法律 の改正) ①社会基盤施設に対する民FFl投 資法一部を次のよ うに改定する。 第 2条 第 1号 ノ圏を次のよ うにする。 ノ.動 による博物館 と美術館 館及び美術館振興法」第 2条 第 1号‐ 第 2条 第 13号 ボロを次のよ うにする。 ボ.「博物館及び美術館振興法」 ②鵜続騎汲 び与税法一部を次のように改定する。 “ "を “ う 第 74条 第 1項 第 2号 中 博物館及び美術館振興法 各各 「 簿物館及び美術館法」 にする。 限法一部を次のよ うに改定する。 ③租税特lyll制 “ "を `「 "に 第 74条 第 1項 第 6号 中 博物館及び美術館振興法 博物館および美術館法」 する。 第 5条 (他の法令 との関係) この法の施行当時他の法令で従前の 「 た場合、こ 博物館及び美術館振興法」又はその規定をじilllし の法の中でそれに該当する規定があるならぱ従前の規定を代替 してこの法あるいはその法の該当規 定を弔1用したことにみなす。 lill員 ぜ(第8852号 、2008.2.29)(政 府組織法) 第 1条 (施行 日) この法は公布 した日から施行する。ただ し (省略)、附員J第 6条 により改定される法律の中でこの法 の施行前に公布 されたものの施行 日が■ll来 しなかつた法律を改定 した部分は各各該当の施行 日から 施行する。 第 2条 から第 5条 まで省路 欝 6条 (他の法律の改正) ①から (258)ま で省略 (259〉博物館及び美術館振興法の一部を次のように改定する。 第 5条 、第 9条 第 1項 、第 10条 第 1項 。第 2項 ・第 4項 L第 11条 第 1項 、第 28条 第 1項 ・第 2 "を “ “ 各各 文化体育観 項、第 30条 第 1項 、第 31条 第 1項 および第 32条 第 1項 中 文化観光部長官 "に する。 光部長官 "に "を “ “ する。 文化体育観光部令 第 21条 中 文化観光部令 (260)か ら (760〉まで省略 第 7 奔攀 l l l - 179 - 韓国の博物館関連法律 購則く 第 8976号 、2008.3.2i〉 (道路法) 第 1条 (施行 日)こ の法は公布 した 爾か ら施行 する (41t書 省 略) 第 2条 か ら第 8条 まで省略 第 9条 (他の法律 の改定) ① か ら (34)ま で省略 85)博 物館及び美術館振興法一部 を次のよ うに改定す る。 く “ "と 第 20条 第 1項 第 2号 tl・第 40条 "を “ 鏑 38条 す る。 (36)からく 99〉 まで省略 糠 10条 省略 く第 9417号 、2009.3.5〉 1艮増 潟 第 1条 (施行 日) この法は公布後 3ヶ 月が経過 した 国か ら施行す る。 舞 E条 (法適澪範醸に関する経過措 置) 0こ の法は施行 当時他 の法律によ り登録 した施設 として従前の第 16条 によって も登録 した博物館 又は美術館 に関 してはこの法 の施行 日か ら6ヶ 月までは第 5条 及び第 24条 の改定規定にもかかわ ら ず この法による博物館 あるいは美術鑢 とみな し、従前 の第 24条 による経費補助等 の支援 をす ること ができる。 体育観光部長官又は市 `道知事│ま ●文(ヒ 従前 の第 16条 によ り登録 した博物館及び美術館 の 中 この法 の施行 日か ら 6ヶ 月が経過 した 露まで他 の法律 により登録が取 り消 されていない施設に関 してはこ の法による登録 を職権で抹消 しなければな らない。 駒 員1く 寸 第 9763号 、2009.6.9〉 第 1条 (施行 日)こ の法は公布後 9ヶ 月が経過 した 日か ら施行す る (饉書省略) 第 2条 か ら第 6条 まで書略 舞 7条 (他の法律 の改定) ① か らく19)まで省略 (20)博物館及び美術館振興法 の一部 を次 CPDように改定する。 “ 第 20条 第 1項 第 6号 中 第 36条 第 1項 ・第 4項 及 び第 45条 第 1項 。第 2項 による立本伐採等 の許 "を “ l法第 46条 第 1項 によるlR― 可 ・Fll告 、lF‐ 安林 の指定解除 第 36条 第 1項 ・第 4項 による立本 ・ 伐採等 の許可 ・申告及び 「 曲林保護法」筆 9条 第 1項 及び第 2項 第 1号 。第 2号 による曲林保護区 域 (llI林 遺伝資源保護 区域│ま 除外す る)で の行為 の許可 ・申告 と同法第 11条 第 1項 第 1号 によるlll 'と 林保護 区域 の指定解除 す る。 く 61〉 21〉 か らく 省略 第 8条 省 ll■ - 180 - 韓国の博物館関連法律 博物館及び美術館 振興法施行令 「 大統領令第 21522ヽ 、2009.6.4 -一 施行 2009、6.6」 「 部改定」 第 1 条 ( 目的) 項 とそ の施行 に必 要な事項 を規定す ることを この令 は 「 博物館及 び美術館振 興法 Jで 委任 され た:事 目的 とす る゛ 第 1条 の 2(1奪物館資料 の基準) '次 “ “ "と の 「 い う)第 2条 第 3等ヽ で 大統領令で定 め る基準は 及 び美術館振興法」(以下 法 博P/J館 lじ 各 号とll・である。 1.博 物館 の設 立 目的達成 と法第 1条 の事業遂行 のために保存 又は活用が pr能な証拠物であること 2.無 形的証拠物 の場合符号 。文字 ・音声 ・音響 。映像等で表現 された資料又は情報であること 第 2条 (文化施設 の認定) れ る文化施設を認定す る時は法第 業条第 1 ①文化体育観光部長官 がこの法第 5条 によつ法が適 lllさ 植物園又は水族館 の 中で認定 しな 項各号による事業を遂行す る目的で設置 。運営 され る動物園又│ま :す ればな らな い。 (改定 2008.2.29、 2009.6.4) 文化財保護法」 第 1項 によ り法 の適用を受ける文化施設 を認定する時 は、 「 ②文化体育‐ 観光部長官 :ま :こよる文化財委員会 の意見を聞 くことができる。 (改定 200S.E.29) 第 3条 (学芸士 資格要件な ど) “ "と い う)資 格 を取得 しよ うとす る ①法第 6.条第 1項 による博物館 ・美術館学芸士 (以下 学芸士 )遂行 と関連 した実務経験等男ll表1の 資格要件 を備 え文化体育観光部lR‐ 者は学芸 士の業務 σ 官 に資格 ればな らない。 この場合準学芸 士資格 を取得 しよ うとす る者 要件に審査 と資格証発給 を申請 しな:す は文化体育観光部長官が実施す る準学芸 l‐ 試験に合格 しなければな らない。 (改定 2008.2.29) 資格 を交 ② 文化体育観光部長官は申講人 の資格要件を審査 した後別表 1の 資終要件を備 えた者に│ま しな :す f・ l・ オしばな らない. と発給等に必要な事項は文化体育観光部令で定める。 ③学芸士資格要件 の審査、資格証 の発給 llI講 (改定 2008.2.29) 第 4条 (準学芸 士試験) 年 1園 実施す ることを原獄Jとす る。(改定 2008.2.29、 ①第 3条 第 1項 後段 による準学芸士試験│ま 2009. 1. 14) ②第 1項 による準学芸士試験の方法は筆記試験によつて共通科 目は選択式に、選択科 圏は記述式に 施行する。 ③準学芸士試験料 目は次の各号と同 じ。 1.共 通科 目 :博物館学及び外国語 (英語 ・仏語 。独語 。日議 。中国語 ・漢文 ・スベイン語 ・ロシア -181- 韓国の博物館関連法律 語及びイ タ リア語 中 1科 目選択) 2.選 択科 闘 :考 古学 ・美術史学 ・芸術学 。lt‐ ・ 俗学 書紙学 ・韓圏史 。人類学 。自然史 ・科学史 ・文 ・ 化史 保存科 学及 び展示企 画諭 中 2科 目選択) ①準学芸士試験は毎科 目 100点満点を基準にして料 闘40点 以上と金 科 目平均 60点 者を合格者 とする。 以 上を得点 した ⑥準学芸士試験に願書提辻│と合格証発給、その他の実施にあた/Dて必要な 事項は文化体育観光部令 で定める。 (改定 2008.2.29) 第 5条 (学芸 士運営委員会) 文化体育観光南:長官は第 3条 による学芸 l‐ 資格要件の審査又はその他の学芸士制度の施行に必要な 事項を審議するためにその所属に博物館 ・美術館学芸士運営委員会を構成するこ とができる。〈 改定 200S. 2. 29) 第 6条 (博物館 ・美術館運営委員会) ①法第 7条 第 1ミ によ り登録 した国公立簿物館又は美術館に置く博物館 ・美術館運 営委員会 (以下 `運 'と 営委員会 する)は 委員長 1名 を含め 10名 以 上15名 以内の委員で構成する。 ②運営委員会の委員長│ま 委員の中で互選する= ③運営委員会の委員は該当博物館 ・美術館 が所在地域の文化 ・芸術界の人士の中でそα)博物館 ・ 美 術館の長が委嘱する者 とその博物館 ヽ美術館の長になる。 )事項を審議する, ①運営委員会は次の各号ご 1.博 物館 ・美術館 の運営と発展のための基本J/ 針 に関する事項 ・ 2.博 物館 美術館 の運営改善に関する事項 3.博 物館 ・美術館の後援:こ 関する事項 4,他 の博物館 ・美術館 と各種文化施設との業務協力に関する事項 第 7条 (協議) ① lll央 行政機関の長はこの法第 11条第 2項 によりFI_l立 博物館又は国立美術館を設立する時は次の各 の 号 書類を添付 し、文化体育観光部長に協議を要請 しなければな もない←く 改定 2008.2.29〉 1.:事業計llti書 2.施 設のFJl細 書及び平lJJi図 3.博 物館資料及び美術館資料内訳書 4.組 織及び定員 ②地方織治団体の長は法第 12条第 1項によ り公立博物館路 ま公立美術館を設立 しよ うとする時は第 1項 の各号の書類を添付 じ文化体育観光部畏官に協議を要議 しなζ すればならない。〈 改定 2008.2. 29) 第 8条 (査録 III請 等) - 182 - 韓 国 の博物館 関連法律 ①法第 16条第 1項により博物館または美術館を登録 しよ うとする者は登録申請書に次の各 号の書類 を添付 し国立博物館及び美術館は文化体育観光部長官に、公立 。私立 。大学博物館及び美術館│ま 管 “ 。 "と ・ ・ i事 い う)に 提出 (電子文 轄特別市長 広域市長 道無 又は特別自治道知事 (以下 市 道知事 書による提議1を含む)し なければならない。く 改定 2007.12.31、 2009.6.4) 1.施 設明細書 2.博 物館資料及び美術館資料の 日録 3.学 芸士名簿 4.観 覧料及び資料の利 lll料 ②文化体育観光部長官又はlll。 道知事は第 1項 により登録をすると法第 17条 第 1項 により文化体育 観光部令で定める登録証を発給 しなければならない く改定 2008.2.29、 2009.6.1〉 第 9条 (変更登録) ①法第 16条 第 2項 により登録事項を変更 しよとする者はその登録事項が変更された日か ら 14日以 内に変更登録申請書に文化体育観光部令で定める呉備書類を添付 し文化体育観光部長官 ・市 。道知 :事 に提出 (電子文書による転l熱 を含む)し なければならない。〈 改定 2007.12.31、 2008.3.29、 2009、6. 4) ②文化体奮観 光部長官 又は市 。道知事は第 1項 により変理登録をす ると変:更された登録証 を発給 し なければな もない。 〈 改定 2009.6.4> 第 10条 (登録 Jll件 ) 法第 16条 第 3項 による博物館 又は美術館 の登録は博物館X∫ま美術館 の所蔵資料、施設規模等:こより 第 1種 博物館又は美術館 、第 2種 博物館 又は美術館 に区分 し登録す るが 、各各 の登録要件は別表 2 と同 じである← 第 11条 (登難 ぶ) 第 8条 第 2項 により登録証を交付 された博物館 又は美術館 は法第 17条 第 2項 によ り屋外看板等に“ 文 P'を 化体育観光部長官又は○Olil・道登録 第○○ 号 表示 しなけオ事ざな らない。 く改定 2009.6.゛ 第 12条 (私立博物館又は私 立美術館 の設 立計画承認 申講) )設立計画 の承認を受けよ うとす る者は設立計 ①法第 18条 第 1項 によ り私立博物館 又│ま 私 立‐ 美術館 σ lFll承 認 lll講 書 :こ 次の各号 の書類を添付 し市 。道知1事に提 出 (電子文書 を含む)し な ざ まればな らない。 く改定 2007.12.31) 1.1事:業副― 藤i書 2.■ 1地の調書 (位置 。地番 ・地 圏 ・面積 。所有権外 σ )権黎1明細、lllr有 )姓名 ・住所 ・地_L維 ・地 者グ lrを書 くこと) 域圏 ・博貰権 ・抵 当権 ・使用貸借 ・土地に関す るその他 の結 ヽ を持 つ者 の姓名 ・住 l・ F― ・大地地番 ・建物構造 ・床面積 ・延雨横、所有権外 の権恭l明細、所 Fl者の姓名 ・ 3.建 物 の調書 (位i・ - 183 - 韓国の博物館関連法律 住所、建物 に 関す るそ の他 の権利 を持 つ者 の姓 名 ・住所 を書 くこと) 4.位 置 図 5.概 略設 計図 INl訳 6.簿 物館 資料 ゛美術館 資料 の 目録 とl・ 書 ②法第 18条第 2項 によ り設立計藤:の変更承認 を受けよ うとす る者│ま 設 立計画変更承認 「 ll請書 に文化 体育観部令で定める書類 を添付 しTli。 道知事に提l鶴 (電子文書:こよる提 出を含む)し な:す ればな ら ない。 〈 改定 2007.12.31、 2008.2.29) 第 13条 鍾 要事項 の変更) ` "と 法 lS条 第 2項 で 大統領令 で定める重要な事項 │ま 承認 された該当設立計 llll‐ の 中で次ぎのいずれ か:こ 該 当する事項をい う。 1.博 物館 ・美術館 の名称及び別表 2に よる種類 ・類型 2.博 物館 ・美術館 げ)設立位置及び面積 3.展 示室 ・野外展示場又は収蔵庫施設 の位置及 び面積 4.展 示室 ・野外展示場又│ま 収蔵庫施設を除外 した施 設 の面積 (該当面積 の 10分 の 1以 上の面積を 変更する場合 に限定す る) 5,事 業施行期間 (該当事業期間を 3)月 以_11延 長す る義祭 │こ 限定す る) 第 14条 (設立計llll隊 認等 の協議) ・ ①市 道知事は法第 18条 第 3項 によ り所管行政機関の長 に設立計画承認 又は変更承認 の協議 を要請 す る時には各各第 12条 第 1項 又:ま 同条第 2項 による書類 の写 しを添付 しなければな らない。 た所管行 政機関は特男Jな事盤〕 がない場合協議要講受 │す ②第 1項 :こより協議 の要講 を受Iす た 日か ら30 日以内に意見を知 らせ な:す れ ばな らない゛ 第 15条 (設立計画承認の取消) 法第 18条 第 4項 により市 ・道知事は第 12条 による設 立計lllliの 承認又は変更承認 を受けた者がその L:事業推進 を中断 した場合是正 承認内容を 1年 以内に推進 しない場合、正 当な事由な しで 6夕ヽ 月以、 を命ず ることができ、是 正命 令 に従わない場合 はその承認 を取 り消す ことができる。 第 16条 (貸館及び使宜施設) いでその施設の 障を及ぼ さない範llllな ①登録 した博物館 又は美術館は必要な場 合そ の設 立 目的に1支 一部を貸館す ることができる。そt7D場 合貸館 日数は法第 21条 による年間開放 日数 の 3分 の 1を 超過 す ることはで きない。 必要な範囲内で売店 ・ ②登録 した博物館 又は美術館はその設立 目的を達成す るため(こ 記念品販売所、 その他 の便宜施設を設置 し運営す ることができる。 第 17.条 (閉館 申告) - 184 - 韓 国 の博物館 関連法律 1登 録 した博物館又│ま 美術館を開館 した者│ま 法第 22条第 1項によ り開館直ちに闘館申告書に登録証を ‐ F)j`道知11事 添餐 し文化体餞観 光部長官又:ま │こ 中告 しなぎ すればならない。敏 定 0009,6.4ト 第 18条 (鮭正要求及び停館) l 1。 は法第 26条 第 1項によ り是IEを要求 しようとする時は該当ll■ ①文化体育観光部長言Xは 蒔 道知:事 物館又は美術館に違反 した内容、是Jiする:事 項 と是正期限等をll」 l確にし書面で知らせなければなら ない。く 改定 2009.6.4) ①文化体育観光書:長官又はll,道知事は法搬 6条 3ぶ :こ (員 り停館を命 じる時はその事項と停館麟問 等を明確に し書面で気1らせなければならない。く 改定 8009.6.4) 文化体育観光部長官 又ζ ま市 ,道 知:事 は次の各 摯の事項が発41した場合は 7日 以内 (こ 公告 しな│す れば な もない,く改定 2009.6.4) 1.法 第 16条 第 1項 による博物館又;ま 美術館 の登録 2、法第 18条 第 1項 による私立博物館又は私 立美術館設 立計薄i¢ )承認 3.法 第 lS条 第 4項 :こ よる凛 1立 博物館又:ま 私立美術館 の設立計画承認の取消 ■.法 第 27条 第 1項 │こ よる博物館又│ま 美術館登録 のIlit濤 第 rO条 (協ノブ 網構成等) 0法 筆 3:条 第 1項 によ 攀博物館 ・美術館協力網│ま 博物館協力網 と美術館 協ブ リ 纏:こ 区分す る. ② 簿物館 協力縮 と― 美術館協プJ網│ま 各各中央館 と地域代表館 を置 くが 、博物館協プリ 網 の 中:央館 は国立 中央博物館 と目立民俗博物館 が、美術館 協力網 の 嗜1央館 は国立現代美術館 にな り博物館 協力網 と美 術館 協力網 1/D地 域代表館は織j。道知事が指定 しlt t央 魚1らせな:す 館 :こ ればならない。 ③l文 化体育観光部長官は法第 31条 第 1項 :こ よ り博物館 ・ 美術館 協力網 の機能 を効率的に遂行す るた めに協力網運営計画を樹立 し施行す ることができる。 購輿l〈 第 20253語、2007、9,10〉 苺 1条 (施行 鶏)こ の令は公布 した 轟か ら地行す る。 ry令は当時他 の令 で 等 E条 (他の法令 との関係)こ ・ 従前 の 「 博物館及び美術館施行令」又はその規 た場合 この令 の中でそれに該 当す る規定がある時は従liilr/D規 定をりlillし 定を代書 してこの令又は こ の令 の該当規定を引用 したことl‐ みなす゛ ‐ 附則 〈 第 20506号 、2007.12.31)(電 子的業務処理 の活性化 のため国喩財産法施行令等 一部改定〉 この令は公 Fl‐ iした 擦か ら施行す る。 1琳 機関職 市1) 則(第 20676号 、2008.2.29〉 (文化体育観光部 とそ のllF漏 第 1条 (施行 日)こ の令は公布 した 日か ら施行す る。 韓国の博物館関連法律 第 2条 か ら第 1条 まで省 略 第 5条 (他の 法令 の改定) 86)ま で省略 ① か らく く 37)博物館及び美術館施行 全グ)一部を次のよ うに改定す る. 第 2条 第 1項 ・第 2項 、第 3条 第 1項 前段及び後段 ・第 2項 、第 1条 第 1項 後段、第 5条 、第 7条 )を =文 第 1項 各 号以外 の部分 。第 2項 、第 20条 第 3項 の中 =文化観光部長織・ 各各 化体育観 光書;長 ` こ 官 ヽす る。 " 第 3条 第 3項 、第 1条 第 5項 、第 8条 第 E項 、第 9条 第 1項 、第 12条 第 奎項 の 中 ・ 文化観 光部令 ":こ を各各 崚 化体育観光部令 す る。 く lilsI員 ぼ 第 21261号 、2009.1.14) こi/J令 は公布 した 日か ら施行す る。 寸即く 写215221ナ、2009.6.4〉 樹 胡 この令は公布 した いか ら施イI‐ 1 る.. - 186 - 韓 国 の博物館 関連法律 博物館及び美術館施行規則 「 文化体育観光部令第 35号 、2009.6.3 哺 施行 2009.6.6」 「 `改定J 第 1 条 ( 擦的) この規則 は 「 簿物館及び美術館振興法ご と同法施行令で委任 された事項 とその施行 に必要な事項 を 規定す る ことを 理的 とす る。 第 3条 (学芸 士資格要件審査及び資格轟I発給中講書等) ・ ` “ 'と い う) 博物館及 び美術館振興法:(以 下 法 とい う)筆 6条 第 1項 と同法施行全 (以下 全 ① 「 低 ・ ・ よる博物館 美術館学芸士 (以下 学芸 ± とい う)の 等級浄l資ll・ を取得 しよ うと 第 3条 第 1項 :こ す る者は別紙第 1摯 の書式 の学芸 ■1資格要件審査及び資格証発給 中講書に次 の各 号の書類 の 中で該 ればな らないく 当書類 と証明写真 2紋 を添付 じ文化体育観光部長官に提餞 しな:す 救定 2008.3.6> l`該 当機 関で発給 した在職経歴議1明書及び実務経歴篠誌書 2.学 芸 士資格 写 し 3.最 終学校事業轟Ellll書 4.最 終学校単位証写 し 第 2号 書式 と別紙第 3号 書式 に ②第 1項 第 1号 による在職経歴証明書 と実務経歴確認書 は各各Bll紙 従 う。 ◎令第 3条 第 2項 による導ゝ 士資格証は/Jll紙 第 4号 の書式 に従 う。 第 3条 (願書及び手数料) ま別紙第 5条 書式 の準学芸士試験応試 ①令 第 4条 第 1項 による準学芸士試験 に応試 しよ うとす る者す 顧書を作成 し文化体育観光部長官に提出 しなけれtr liな らない。 く 改定 2008.3.6、 2008,S.27) 1.肖1移 2008.8.27〉 無く 2. 肖1膨 負(2008. 8. 27〉 ②準学芸 士試験 に応試 しよとす る者は文化体育観光部長官が定めるこ とに従 い応試手数料 を出 さな ければな らない。 く 改定 2008.8.27) 第 4条 (博物館 。美術館学芸 士運営委員会構成及び運営) ①令第 5条 による博物館 ・美術館学芸 士運営委員会は博物館 ・美術館及 び学界等 の人士の 中で文化 改定 2008.3.6〉 体育観光部長官 が委嘱す る 10名 以内の委員で構成す る。 く ②第 1項 による博物館 ・美術館学芸 士運営委員会は次 の各号の事項 を審議す る。 1.準 学芸 士試験 の基本方向 芸士資格要件 の審査 2.学 芸 士資格取得 申請者 の等級FJll学 3_令 別表 1に よる経歴認定対象機関の認定 2009.6.3〉 4.薦嗜 除〈 - 187 - 韓 国 の博物館 関連法 律 第 5条 (登録 llF講 等) ①令第 8条 第 1項 による簿物館又│ま ‐ 美術館登録 申請書は坤l紙第 6号 ・ 書式に従 い 、登録 中請書:こ 添薇 す る書類の書式│ま 次 の各号の通 りであ る。 1.施 設明細書 :別 紙第 7号 書式 2.博 r//J館 資料又は美術館資料 の 日録 :黎1紙第 8号 書式 3.学 芸士名 簿 :別 紙第 9号 書式 《.観 覧料及び資料 の利III料:別 紙第 10号 書式 ②令第 8‐ 条第 2項 による博物館又ま ま美術館登録証は別紙第 11摯書式に従 う 纂 6条 (変更登録申請書等) ①令第 9条 第 1項による変更登録中請書は駆紙第 6号書式に従 うゃ “ ②令第9条第 1項で 文化体育観光部令で定める具備書類"とは次の各号の書類をい う。〈 改定 2008. 3. 6〉 1.登 録証 (博物館 ・美術館 鍼 称 、所在地、設立者及び 代表者 の姓名 ・住所 が 変更にな った場合で 定める) 2.登 録事項 の変更を証明す る書類 1糠 (施設明織書 、博物館資料又ま ま美術館資料 の 目録、学芸熱 総、観覧料及び資料の利 用料 が変更になった場合 は 2部 ) 欝 7条 (凛立博物館 又は私立美術館設立計ll■ i承認 中講書) ①令第 12条 による私立博物館又 は私 立美術館 の設立計画承認 申請書 と設立計画変更申請書は別紙 第 12号ヽ 撻難バむこ従 う。 “ "と ②令第 12条 第 2項 で 文化体育観光部令で定め る書類 は設立計画承認事項 の変更を証明す る書 類 をい う。 (改定 2008.3.6) 第 S条 (開放 澤数) 法第 16条 第 1項 により登録 した博物館又は美術館 │ま 法第 21条 によ り年間 90日 以_L開放 し、1目 覇 放時間は 4時 間以上でな↓ すればな らない。 第 9条 (聞館 申告) 令第 17条 による博物館又 は美術館 の問館 中告書│ま 芳1紙第 13号 書式に従 う。 第 10条 (登録 勒 館及び登録美術館の運営現状報告書) 法第 28条 による登録博物象浸 び登 録美術館 の運営現状報告書 はSll紙 第 14号 書式に従 う。 附則 く 第 169号 、2007.9,19〉 この規則 は公布 した 日か ら施行す る。 - 188 - 韓 国 の博物館 関連法律 体育観光部 とその所属機関職制施行規則) 第 1号 、2008.3.S〉 (文:ヒ 附則〈 第 1条 (施行 日)こ の規員1は公布 した鋳から施行する。 第 2 劣等 略 第 3条 (他の法令 の改定) 0か ら⑬ まで省略 一 ⑬博物館及び美術館振興法施行規則 部を次のよ うに改定す る。 “ ・ ll・ 文化観光部長 第 2条 第 1項 各号の以外の部分、第 3条 第 1項 各澪以外の部分、第 4条 第 1項 の ":こ "を ・ する。 各各 文化体育観光部長官 奮 澪 “ “ "を 各各 文(ヒ 体育観光部令 第 6条 第 2項 各号の以外の部分及び第 7条 露 =項 の中 文化畿光部令 ` :こ ず る。 5 摯 書式前の部分、別紙第 11号書式第 1要の中 黎1紙第 1号 書式第 1ベ ー ジ、男1紙第 4号 書式、FJll紙 "に “ "を “ する。 各各 文化体育観光部長官 文化観光部長官 24)まで省略 ⑮からく 附員J〈 第 14号 、2008.8`27) この規熱は公布 した澤から施行する。 く 附貝嗜 舞著35手)、2009. 6.3〉 4 る。 この規則 ま ま2009年 6奏 6圏 か ら凝Eイ l‐ (國學院大學大学院後期課程) トー ー I D r l L r E ト ー ロ L E E -189- 渡金双龍文 表 紙 の 図 案 は 、 古 墳 時 代 の 大 刀 の 把 頭 で あ る。 双 龍 環 よ り取 材 し て 博 物 館 学 研 究 室 の シ ン ボ ル マ ー ク と して 使 用 す る 目的 で 、 デ フ ォ ル メ した も の で あ る 。 國學院大學 博物館學紀要 第 35輯 31 日 成 23年 3 月 発行 日 平 発行所 〒 1508440棘 都渋谷区隷HO-28 通) 電話 (03)5466-0268(直 國學 院 大 學博 物館 学研 究 室 編集権代表者 印 刷 有 限会 社 青 ト 木 レ 豊 ス 國學院大學 博物館學紀要 2010年 度 第 35輯 目次 組織 的な大学改革推進 プ ログラムJ 平成 21年度文部科学省 「 よる に 採択 高度博物館学教育 に至 る経緯 と実践 ……………………………青 木 豊 …… 1 千葉県 の博物館設置構想 の推進 と現状 … … … … … …… … … … …… 前 り│ 1 公 秀 …… 1 9 山高信離 とそ の仕事 ― 博物館長 にな つた旗本一 … ………… … … … … … …… …… …… … 小 寺 瑛 広 …… 3 9 …………………・ …………・ …落 合 知 子 ・ …… 6 3 宮本馨太郎先 生 と博物館 学 …………………・ 資料 の伝統 的保存法 ― 曝書 ・曝涼 を中心 に一 …………・ ………………・ …………・ …… ………大 谷 歩 …… 7 1 …………………………………… ………………… …… 河 合 奈 々 瀬 … … 83 巻子本展示序論 ………・ 教育普及活動 と特殊 ボ ラ ンテ ィア育成 の試 み ― 特 に鉄砲 隊 と武者行列 を通 して一 ……・ …・ ……………………・ ………… 小 西 雅 徳 … … 97 野外博物館再考 ― 「 遺跡 ・史跡野外博物館 Jと 「 民家野外 博物館 」 の峻別 ― ………… 齊 藤 千 秋 ……123 ……・ …………中 村 千 恵 …… 133 野外博物館 のバ リア フ リー につい ての一 考察 ……………・ …………・ ……・ … 松 林 有 糸己………145 ミュー ジア ム ・コ ンサ ー トに関す る一 考察 ……………・ ………・ ………・ …………………………………・ …………渡 邊 真 衣 …… 1 5 7 地域振興 と文学館 …・ ……・ …………・ ………………………・ ………… 李 韓 国 の博物館 関連法律 ……・ 文 167 子 …… ・
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