1 中東イスラム世界における民族問題の発生 中東イスラム世界の民族の

中東イスラム世界における民族問題の発生
中東イスラム世界の民族の分類
※中東イスラム世界では、アラビア語を母国語とし、イスラムの歴史と文明を共有する「ア
ラブ」が支配的民族であるというイメージが強くあるが、その他主要な民族ではオスマン
帝国という世界国家を築いた「トルコ」、またシーア派イスラムの盟主を自認し、現在のイ
ランを主に構成する民族である「ペルシア(イラン)」が歴史的に競合してきた。こうした
主要な民族の他に、中東には多様な少数民族が存在し、言語、宗教、人種によって分類さ
れる。
中東の民族の分類では、マクローリン(R.D.McLaurin)が『中東における少数民族の政治的
役割(The Political Role of Minority Groups in the Middle East)』
(1979年)の中で、
アラブ=スンニ派、アラブ=非スンニ派、非アラブ=スンニ派、非アラブ=非スンニ派と
いう区分を行い、こうした区分の中に中東の諸民族を定義づけている。たとえば、シリア、
レバノンのアラウィー派、ドルーズ派、レバノンのキリスト教徒は、非スンナ派のアラブ
人であるし、北アフリカのベルベル人、またトルコ、イラクなどに居住するクルド人は非
アラブのスンナ派教徒、さらに北アフリカのユダヤ人や、アルメニア人は非アラブの非ス
ンナ派教徒である。
中東の諸民族のそれぞれの国家における役割、性格も実に様々→シリアでは人口の12%
ぐらいを占めるに過ぎない少数派であるアラウィー派がアサド大統領を頂点にして政治権
力を掌握し、またイラク戦争で倒れたサダム・フセイン政権までイラクではスンニ派アラ
ブが過半数の人口を占めるシーア派系住民を統治した。こうしたシリアやイラクのような
敵に囲まれたような「少数派」支配は、多数派の政治的要求を抑えるために独裁的な傾向
を強めざるをえなかった。
イラク、トルコ、シリア、イランに居住するクルド人→分断された民族として自治、ある
いは独立を求める運動を続け、つねに体制にとっては脅威であり続けた。
対照的に、北アフリカのベルベル人のように、国家の「アラブ化」政策とともに自らのア
イデンティティーを喪失し、アラブに同化していく傾向の民族もある。また、占領地では
ないイスラエル国内のアラブ人のように「同化」を余儀なくされ、「政治的」というよりも
「文化的」マイノリティーとして「平和的」な生活を強いられる民族もある。
民族問題が中東で顕在化するのは第一次世界大戦後、それまで4世紀余りの間ペルシア
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を除く中東のほぼ全域で政治的権威を誇っていたオスマン帝国が崩壊してからである。オ
スマン帝国を支配していたのはトルコ人であり、スンニ派イスラムが国家の宗教として採
用されていたが、トルコ人以外の民族コミュニティーは、「ミッレト制」と呼ばれる自治制
度の中で寛容な扱いを受け、国家の権威に従う限りは保護されることすらあった。
オスマン帝国解体後に成立した諸国家は西欧モデルの主権国家の体裁と、西欧で発生した
ナショナリズムの概念を取り入れ、国家はそれ自体一つの民族の「故国」であるべきであ
り、その民族の「意志」を具体化すべきものであるという考えに至った(=国民国家)。こ
こに中東において少数民族に対する、また少数民族が支配する場合には多数派民族に対す
る脅威が発生したのである。中東では第一次世界大戦後、新国家群が成立して以来、諸民
族間の、また民族と国家の緊張関係が生じ、民族・宗派問題が地域の重要な政治的ファク
ターとなった
ロレンスの「裏切り」
第一次世界大戦で中央同盟側についたオスマン帝国に対して、イギリスなど連合国は
イスラム世界におけるオスマン帝国のスルタンの権威を失墜させることをまず考え、さら
にオスマン帝国を敗北に導いた時には、その領土を分割することを意図していた。
イギリス→オスマン帝国のスルタンのイスラムの最高権威である「カリフ」としての権威
に代わる人物を探し出そうとした。その結果、イギリスが目をつけたのが聖地メッカ(マ
ッカ)のアミール(総督)であったシャリーフ・フサイン(1853~1931)である。
↑
フサイン→1915年からエジプト・カイロのイギリスの高等弁務官ヘンリー・マクマホ
ンと連絡をとり、オスマン帝国敗北後のアラブ国家独立の言質をとり、1916年から4
人の息子を立てて帝国に対する反乱を起こした(「アラブの反乱」)。
←その息子の一人で、
「反乱」の中心人物がファイサルだったが、その連絡にあったのが「ア
ラビアのロレンス」として知られる考古学者で、情報将校のT.E.ロレンス(1888
~1935年)だった。ロレンスは、1916年10月にファイサルと最初に出会うや「ア
ラブの反乱」を支援するために、彼の上官たちに武器、資金をアラブ人に提供するように
積極的に促し、さらにオスマン帝国に不満をもつアラブの部族を反乱に引き入れていった。
彼の巧みな交渉術が功を奏し、アラブの反乱はイギリスの戦略的目標にかなうものとなっ
た。当時のイギリスでアラビア語と、かつオスマン帝国のアラブ地域の事情に通ずる者は
貴重だった。
フサイン→1916年10月に「アラブの国王」を宣言したが、アラブ地域をフランスと
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ともに分割する意図をもっていたイギリスはこれを認めなかった。イギリスの「裏切り」
を知ったフサインは1919年のベルサイユ講和条約を批准することもなかった。
※アラブ世界にあるイギリスをはじめとする欧米への不信感は、エジプトやスーダンなど
への植民地主義支配とともに、第一次世界大戦期のイギリスの策動に根強い起源があるこ
とは間違いないだろう。
オリエントを破壊した「サイクス・ピコ協定」
自称「イスラム国IS」の台頭や、果てなきパレスチナ問題の重要な歴史的背景にヨー
ロッパ帝国主義諸国間でおよそ100年前に結ばれたばれた秘密条約がある。
1916年5月6日、イギリスの外交顧問マーク・サイクス卿とフランスの外交官フラ
ンソワ・ジョルジュ・ピコの間でオスマン帝国を分割する秘密条約、
「サイクス・ピコ協定」
が調印された。この協定は、帝国主義ロシアの同意を得るものだった。
この密約はオスマン帝国の領土から「人工国家」を造るもので、イギリスは地中海から
ヨルダン川に至る部分(現在のイスラエル・パレスチナ)とヨルダン、イラク南部、また
地中海の海運の要衝であるハイファとアッコーを獲得し、またフランスは、トルコ東南部、
イラク北部、シリア、レバノンを手にすることになり、さらにロシアは、翌年の革命で実
現することがなかったものの、トルコ東部、またイスタンブールとボスフォラス、ダーダ
ネルス海峡を支配することが決められた。
1923年に成立したトルコ共和国がオスマン帝国の領土を受け継ぐはずだったが、英
仏は、国際連盟からの委任統治として、オスマン帝国のアラブ領の支配を「合法化、正当
化」しようとした。
英仏は自己の利益に都合がよい国王やシャイフ(首長)を担ぎ出したため、民意が反映
されるシステムが建国当初から存在しなかった。ヨーロッパが中東アラブ地域につくった
のは「ステート(state)」であって、
「ネーション(nation)」ではなかった。ネーションは
共通の民族的起源、言語、信条、伝統、生活様式をもつ人々の集合体だが、ステートは地
理的な人工的境界の中につくられた実体にすぎない。
人工的に造られたイラク、シリアなどアラブ諸国では、国家の治安維持のために抑圧、
拷問、腐敗などが横行し、国民の間の貧富の格差が拡大していったが、
「人権」
「民主主義」
を唱えるヨーロッパ、またヨーロッパの役割を第二次世界大戦後に引き継いだ米国はアラ
ブ諸国政府の独裁・腐敗には、後のイラクのサダム・フセインのように敵対しない限りは
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目をつぶった。
サイクス・ピコ協定による分割
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