「学校から職場への移行」における自立要件としてのセルフディレクション

「学校から職場への移行」における自立要件としてのセルフディレクションとその規定要因
Self-Direction as the Key to Individuals’ Smooth Transition from School to Work
04D43010 岡部悟志
指導教員 坂野達郎
Satoshi Okabe, Adviser Tatsuro Sakano
ABSTRACT
This study aims to explore the critical factors of individuals’ smooth transition from
school to work under the post-industrial society including Japan. According to the analysis,
self-direction is needed to mitigate the conflict during the transition from school to work
regardless of individuals’ educational attainment or socio-economic status. Moreover, one
of the great predictors of self-direction is the individuation process through which young
people can achieve their great autonomy by communicating with non-family people. This
finding implies that there are other ways through which we can boost individuals’
self-direction apart from promoting the communication with family members. Finally, the
author demonstrates that the attainment of self-direction can be seen as one of the most
significant factors of successful transition from childhood to adulthood. In this sense,
nurturing individuals’ self-direction can be justified not only by the requirement of current
labor market but also the basic human rights.
序章
具体的な政策課題と本研究の位置づけ
ものである。
矢野(2008)は、労働市場における諸個人の市場価値とみ
本稿は、
「学校から職場への移行」
(Transition from School
なせる所得にかんして、不況期ほど大卒者の対高卒者優位性
to Work)
、および「職業とパーソナリティ研究」
(Work and
があることを実証している。そしてそこから、大卒であるこ
Personality)という経済学・社会学・心理学の先人たちが取
とが、個人の労働生産性を高めるのと同時に、生活上のリス
り組んできた分野横断的な議論の蓄積に依拠しながら、ポス
ク・ヘッジにもなっていると結論づける。矢野(2009)が提
ト産業社会を生き抜くうえでわが国の若年層に求められる自
唱する「学び習慣仮説」も、そこに通底するのは伝統的な人
立のあり方とその形成メカニズム、およびその支援の仕組み
的資本論であり、高等教育を中心とする教育・訓練投資が個
のあり方を検討するものである。
人の労働生産性を高めるという理論枠組みから独立したもの
1960 年代の高度経済成長以降、わが国における高等教育の
でない。それゆえに、とりわけ近年、高学歴者のあいだでも
拡大・拡充政策は、人的資本理論(Human Capital Theory)
失業・ワーキングプアが表面化しているという事実に対して
を基本的な根拠とし、展開されてきた。ところが 1990 年代
説得的な理由を与えることに失敗しているように思われる。
より、高等教育の出口と労働システムの結節点をめぐる新た
このような事態に対して、教育の職業的レリバンスを高め
な社会問題が浮上した。すなわち、相対的低学歴層を中心と
ることこそが問題解決の糸口であるとする主張がある(本田
したニート・フリーターの問題であり、その一方で表面化し
2010)
。詳細は別章にゆずるが、筆者はそのような処方箋が、
た相対的高学歴層の失業・ワーキングプアの問題である。さ
教育と職業のあいだに生じるさまざまなコンフリクトを短期
らには、これら若年不安定雇用の社会問題化の陰であらため
的には低減する効果があるかもしれないものの、諸個人が歩
て問われる機会を失ってきた個人にとって真に必要な自立の
むライフコース、およびそれらを取り巻く社会経済のマクロ
あり方にかんする議論についてである。本研究は、1990 年代
な変化までを視野に入れた包括的な視座からすれば、たんな
以降の「学校から職場への移行」をめぐる問題を再検討する
るつじつま合わせにすぎず、とりわけポスト産業社会におけ
ことによって、古典的な人的資本理論では説明がつかないこ
る「学校から職場への移行」が抱える課題の本質を解決する
れらの現象に、一定の説得力をもった回答を与えようとする
ことができないと考える。
以上のような議論に対して、本研究の分析と議論から導か
究の2つに分けられる。
れる今後あるべき教育政策の方向性は、人的資本論を根拠と
前者の代表的論者が玄田有史である。労働経済学的アプロ
する高等教育のさらなる拡大・拡充でも、教育カリキュラム
ーチによる手堅い実証分析によって導かれた玄田の知見は多
への職業的レリバンスの注入でもなく、むしろ、初等・中等
岐にわたる。中高年ホワイトカラー層の雇用の維持が新規学
教育段階における学校外・家庭外の非制度的な教育カリキュ
卒採用数を抑制し若年就労の悪化が進展したこと、
「失われた
ラムの充実に投資すべきではないか、というものである。そ
10 年」の世代効果(generation effect)がその世代の雇用環
の理由は、第一に、労働(採用)市場とレリバンスの高い分
境に消し去ることのできない負のインパクトをもたらしてい
野横断的な汎用能力(=セルフディレクション。同調性の対
ること、2000 年代以降に低所得世帯出身の若年無業層が増加
極概念)の育成は、前期青年期にかけての家族外教育体験が
していることなどがある。
重要と考えられるからである。したがって、後期青年期にあ
一方の教育社会学的アプローチからは、本田由紀が精力的
たる高校・大学時代をむかえてから汎用能力の育成機会を与
な研究を行ってきた。なかでも、学校と企業の制度的リンケ
えることは、効率性の観点からしても、望ましい選択である
ージに着目した「関係論的アプローチ」に基づき、1990 年代
とは言えない。第二に、そもそもセルフディレクションを育
以降の若年就労悪化の要因を「学校経由の就職の衰退」に求
成することは、広く捉えれば、重要な他者(=Significant
めた論考は示唆に富む。
「移行の失敗」を社会構造的問題に求
Others. 典型的には親)に依存的な存在としての子どもが、
めるスタンスは玄田と同様のものであるが、本田の議論のオ
社会の一員として責任ある自立的な大人になる過程で社会か
リジナリティは「教育の職業的意義」にある。すなわち、わ
ら要請される、きわめて基礎的な発達成長上のタスクとみな
が国の学校教育に職業的レリバンスが欠如していることこそ
せるものである。それゆえに、セルフディレクションの育成
が、移行の失敗の根幹にあるとした。このような議論を背景
に取り組むということは、たんなる職業的自立の支援の範囲
に、個人は学校教育における職業的レリバンスを高める「専
にとどまらず、一人ひとりの人間に対して子どもから大人へ
門性」を軸足としたうえでハイパー・メリトクラシーと呼ば
の移行を支援することにほかならない。であるならば、この
れる流動化した労働市場に参入するのが望ましいと主張する。
ような支援はあらゆる個人の発達成長にとって必要とされる
以上のような既存の研究蓄積に対し本研究では、わが国の
という意味において、基本的人権の観点から正当化されるべ
若年就労の悪化の背景要因を、高等教育拡大・拡充政策の陰
きものと考えられる。
で焦点化される機会を失っていた、個人のライフコースに組
以上のような議論は、I. イリイチの「脱学校論」
(Illich
み込まれた発達成長の過程に求める。そのような視点の転換
1971)を想起させるかもしれない。高度に合理化・制度化さ
によって、以上に挙げた既存研究によって様々に説明されて
れた学校化社会のなかでは、学生は主体的な思考や行動の機
きた 1990 年代以降の「移行の失敗」を再考する機会をわれ
会を失い、本来の学校の機能が逆転化する。そのような問題
われに提供するからである。子ども期からのライフコースに
をはらむ学校社会化のもとでは、学生が主体性を取り戻すこ
埋め込まれた多様な発達過程が、成人期の社会生活のあり方
とができるようなしかけ――Learning Web を基軸とした学
に関与するという、ある意味当然の、リアリティをもったパ
校教育システムの再編成――が求められる。
ースペクティブ――発達成長論的視座(developmental
高度成長と軌を一にしたわが国の高等教育の拡大・拡充政
perspective)。しかしながら、伝統的な社会階級・階層論の
策は、教育システム全体として高度に合理化・制度化を推し
立場からは容赦なく排除されてしまう視座――に着目するこ
進めてしまったために、つまり、個人のセルフディレクショ
とが本研究の大きな特徴の一つである。
ンがきちんと育成されるような学習機会を後退させてしまっ
他方、ポスト産業社会の流動化した労働市場において、学
たため、上述したような学校から職場への移行プロセスにお
校から職場へのスムースな移行に必要とされる汎用性の高い
けるさまざまな問題を引き起こしたと考えられないか。だと
自主的・自律的な行動調整能力(たとえば、厚生労働省の「就
したら、いまわれわれに必要なことは、人的資本論を根拠に
職基礎力」や経済産業省の「就職基礎力」
、文部科学省の「学
展開されてきた高等教育拡大・拡充政策の陰で、知らない間
士力」
、OECD の「キー・コンピテンシー」など)に着目す
に失われてきた学齢初期の非制度的な学びの場を、地道に再
ると、そこでの能力観が「職業とパーソナリティ研究」のキ
構築していくことにほかならないと、私は思う。
ー概念である「セルフディレクション」
(同調性の対極概念)
と近しいことが指摘できる(吉川 2007)
。本研究は、そのよ
第1章 本研究の理論的背景、構成、データ
うな能力の規定要因を、上で述べた発達成長論的視座から個
人のライフコースの「社会的自立の過程」
(individuation)
以上に述べたように、わが国の高等教育拡大・拡充政策は、
人的資本論を基本的な根拠として展開されてきたが、その意
図せざる帰結として 1990 年代に表面化した若年就労の非正
規化・無業化は、社会構造の変化や個人の就労意欲の欠如に
に求めていくことにする。なお、分析に用いるデータは次の
通りである。
①「若者の仕事生活実態調査」2006 年1月実施(定量調査)、
2006 年2~7月実施(定性調査)
。
よる「移行の失敗」と位置づけられ研究されてきた。この点
②「シンガポールフィールド調査」2007 年8月~2008 年
に関する研究は大きく、労働経済学的研究と教育社会学的研
8月実施(第一次調査)
、2009 年3月実施(第二次調査)
。
への満足度は、
「正規・男性・未婚」を除くすべてのカテゴリ
第2章 若年非正規雇用の職務満足にみる心理的自立とその
の満足度よりも有意に低いということが判明した。
規定要因
表2 「職務満足」の平均値の比較
2.1. 仕事に対する満足感(職務満足感)と非正規雇用
労働者が仕事から得られる満足感(職務満足感)が中長期
的に低下傾向にあるが、その背景要因の1つとして指摘され
ているのが、1章で指摘された「移行の失敗」としての若年
就労の非正規化である(平成 20 年度『労働経済白書』
)
。その
対象カテゴリ(I)
非正規社員・男性・未婚
比較カテゴリ(J)
正規社員・男性・未婚
正規社員・男性・既婚
正規社員・女性・未婚
正規社員・女性・既婚
非正規社員・女性・未婚
非正規社員・女性・既婚
平均値の差 (I-J)
-.192
-.340 **
-.267 *
-.469 **
-.285 *
-.616 **
1)**:1%水準で有意、*:5%水準で有意、+:10%水準で有意。
背景には、
「学卒後、すぐに正社員として就職する」ことが正
常な移行であり、若者の職業的な自立の要件であると見なす
社会的通念がある。2章では、そのような通説の検証をおも
な目的とし、職務満足感の獲得に関する規定要因分析を行う。
2.3. 非正規・男性・未婚の職務満足感の規定要因
ここでは、
「非正規・男性・未婚」の職務満足の規定要因を、
他の男性カテゴリ「正規・男性・既婚」
「正規・男性・未婚」
との比較のなかから明らかにしたい。対象カテゴリを男性に
2.2. 非正規・男性・未婚層への着目
限定したのは、ジェンダーの差異が主観評価に与えるインパ
25~35 歳の男女(学生を除く)2,500 名を対象とした調査
クトを除外するためである 。若者の職務満足感を規定すると
①(1章参照)をもとに議論を進めたい。本章の目的変数は、
考えられる要素は2つに大別できる。一つは、彼/彼女らが
「総合的に考えて、あなたは現在の仕事にどの程度満足して
現在の仕事や生活の状況と社会的属性であり、もう一つは、
いますか」という問いに対する回答を、
「とても満足してい
子ども期の教育体験と当時の社会的属性である。後者につい
る:4点」~「まったく満足していない:1点」のように得
て本研究では、わが国の人々が共通体験としてもっている義
点化したものである(平均 2.49、標準偏差 0.72)
。さて、関
務教育段階の教育体験に着目する。そして、当時の属性変数
心のテーマである現在の就業形態(
「正社員」か「非正社員」
(
「生家の暮らし向き」 「小中成績」 )を制御したさいの、
か)を基本軸に、職務満足を規定すると考えられる2つの属
それらの教育体験が「職務満足」に及ぼす影響について分析
性変数「性別」
「結婚の状況」を組み合わせることによって7
を行う。具体的な説明変数として、前者については、「年齢」
つのカテゴリ(
「正規・男性・既婚」
「正規・男性・未婚」
「非
「教育年数」
「父大卒ダミー」
「親同居ダミー」
「正規×未婚(基
正規・男性・未婚」
「正規女性・既婚」
「正規・女性・未婚」
準:正規×既婚)
」
「非正規×未婚(基準:正規×既婚)
」「年
「非正規・女性・既婚」
「非正規・女性・未婚」
)を設定し、
収」
「仕事能力 (自己評価)
」の8変数を投入する。なお、
「正
それぞれのカテゴリごとの特徴を探ってみた。表1は、7つ
規×未婚(基準:正規×既婚)
」
「非正規×未婚(基準:正規
のカテゴリごとに職務満足スコアの平均値と基本統計量を示
×既婚)
」という変数は、前節の探索的なクロス分析の結果、
したものである。職務満足スコアの平均値がもっとも高いの
非正規・男性・未婚の仕事に対する評価の低さが判明したた
が「非正規・女性・既婚」の 2.82 であり、もっとも低いのが
め、それを考慮して導入を試みたものである。後者について
「非正規・男性・未婚」の 2.20 であった。同じ非正規であっ
は、子ども期の「生家の暮らし向き」
「小中成績」
「交友体験
ても、
性と結婚の状況の違いによって.62 ポイントの差が開い
因子」
「勉学体験因子」
「大人交流体験因子」の5変数を投入
ていることがわかる。もう一つの非正規のカテゴリである「非
する。なお、後半の3因子は、小中学生時代のさまざまな体
正規・女性・未婚」では、職務満足の平均値が全体の平均値
験の頻度を因子分析した結果から導かれたものである。
と同じ 2.49 であった。非正規という就業形態のなかでも、仕
事から得られる満足感に散らばりが存在している。
推定結果より、第一に、汎用性の高い能力を保有している
ことが、収入などの労働環境条件よりも、職務満足の向上に
対して強く寄与していること、第二に、大人交流体験因子を
表1 有職者の「職務満足」
カテゴリ
正規社員
男性
正規社員
女性
非正規社員
男性
女性
合計
未婚
既婚
未婚
既婚
未婚
未婚
既婚
度数
457
456
239
82
114
189
148
1685
筆頭に、子ども期の教育体験や社会的属性を表す諸変数が、
最小値
最大値
1
1
1
1
1
1
1
1
4
4
4
4
4
4
4
4
平均値 標準偏差
2.39
.71
2.54
.71
2.47
.71
2.67
.70
2.20
.79
2.49
.70
2.82
.60
2.49
.72
1)有職者のうちサンプル数の尐ない「自営自由業」「非正規・男性・既婚」は除外した。
2)分散分析により、F (6,1678)=11.21、p <.01
職務満足感に対して現在変数に匹敵する強度の関与をもたら
していることがわかる。投入した説明変数のなかで唯一、標
準偏回帰係数が負で有意となったものは、非正規×未婚(基
準:正規×既婚)であった。子ども期から成人期にわたる様々
な変数を投入しても、なお当該カテゴリが職務満足を低める
ことが判明した。このことは、男性に限って言えば、やはり
「非正規・男性・未婚」層がもっとも職務満足度が低いこと
さらに、職務満足のレベルがもっとも低かった「非正規・
を意味するが、その一方で、現在置かれている属性カテゴリ
男性・未婚」に着目し、このカテゴリに属する者の職務満足
を制御してもなお、職務満足に影響を与える変数が存在する
が他のカテゴリの職務満足よりも有意に低いかどうかを検証
ことを示唆している。政策的観点からみれば、とりわけ注目
してみた(表2)。その結果、
「非正規・男性・未婚」の仕事
に値するのは、子ども期の、かつ制御可能な変数であると考
える。なぜならば、成人期の課題・問題点(低い満足水準)
いは属性カテゴリのインパクトを相殺するような労働条件の
の克服の可能性を人生初期に見出すものだからである。その
整備可能性も小さいことを示唆していることが考えられる。
ような観点から、再び重回帰モデルをみれば、有意になった
このような問題関心にもとづいて本章では、属性カテゴリを
3つの変数のうち、着目すべきは大人交流体験因子である。
所与の条件とした上で現職に対する満足感の規定因、および
その理由は、標準偏回帰係数の高さ(
「仕事能力」に続く影響
そのメカニズムを探ることに力点を置いた。その結果、
「非正
の大きさ)
、および外部からの政策的介入の可能性 の2点か
規・男性・未婚」の仕事に対する満足感は、現在の状況変数
らである。紙幅の都合により詳細は省略するが、これらの傾
によって説明され得ない一方で、義務教育時代における大人
向は「非正規・男性・未婚」にデータを限っても同様である
交流体験に一定の影響を受けていること、そしてこの大人交
ことが確認された。
流体験は、他のカテゴリに属する者にとっても現職に対する
主観的評価にポジティブな影響与える要因であることが明ら
表3 男性有職者の職務満足に対する諸要因の効果(重回帰
分析)
かにされた。さらにヒヤリング調査からも、非正規・男性・
未婚に該当する若者のライフストーリーから他者との対話体
要因
年齢
教育年数
父大卒ダミー
親同居ダミー
正社員×未婚[基準:正社員×既婚]
非正社員×未婚[基準:正社員×既婚]
年収
仕事能力
生家の暮らし向き
小中成績
交友体験因子
勉学体験因子
大人交流体験因子
Adjusted R2
F値
N数
モデル1
-.014
.080 *
-.025
.037
-.031
-.076 *
.100 **
.320 **
.141
18.995 **
876
標準偏回帰係数
モデル2
.103
.062
.121
.105
.186
.105
25.058
1022
**
+
**
**
**
**
モデル3
.001
.044
-.038
.044
-.031
-.074 *
.095 **
.255 **
.082 *
-.014
.027
.077 *
.131 **
.165
14.308 **
874
1)[ ]内は基準カテゴリ。
2)標準偏回帰係数は全変数を投入したときの推定値。
3)**:1%水準で有意、*:5%水準で有意、+:10%水準で有意。
験が幾重にも重なることを通して、自ら進路や職業を選択し
――まさに、主体的・自律的な行動調整能力を表すセルフデ
ィレクション――満足のいく仕事にたどり着くまでの一連の
プロセスが確認された。
本稿の分析結果は、義務教育段階より多様な大人との接触
体験を積むことが、どんな環境においても満足して仕事に取
り組むための基盤を提供する可能性を示唆する。抜本的改善
の見通しが立ちにくい非正規雇用を取り巻く労働条件の整備
を推し進めるだけでは、若年雇用全般の本質的改善には結び
つきにくいと推察される。時代の流れに翻弄され続ける若年
雇用問題の本質的解決のためには、義務教育段階より大人交
以上の分析の結果、非正社員の中でもとりわけ男性未婚層
流体験を促進する教育プログラムを導入するなどの方策を、
の職務満足感が低いこと、しかしながら、職務満足感を規定
今後の政策議論の俎上に載せていくことが急務ではないか。
する要因は、就業形態や年収というよりも、むしろ汎用性の
ただしそのさい、本章で確認されたことは、親との相互コミ
高い能力であることがわかった。さらに、質的調査を加えた
ュニケーションと、親・教師以外の大人との接触体験とでは、
分析結果から、そのような能力は、子ども期における大人と
個人に内面化される態度や能力が異なるのではないか、とい
の接触経験によって涵養され、ライフコースの中で醸成や修
う点である。すなわち、ヒヤリング調査の分析によれば、後
正を繰り返しながら、現職の職務満足感と結びついている可
者は前者と比較して、社会的コミュニケーションのスキルや
能性が指摘された。
自己反省の機会を提供しているようすがうかがわれた。これ
らの態度・スキルは、まさに本研究が着目している「自ら考
2.4. 2章のまとめ
え行動する力」
、すなわち「セルフディレクション」の根幹に
本章では、不安定な就労層を含む若年者の現職に対する満
かかわる能力要素と考えられる。次章では、この点に着目し、
足感を手がかりとし、就業の非正規化に伴う問題の特定、お
個人の能力形成の過程でどんなメカニズムが働いているかを
よびその解決の糸口を探ることを目指した。まず、
「性別」
「婚
議論することにする。
姻」
「就業形態」によってカテゴライズされた複数のグループ
ごとに仕事に対する満足感の比較したところ、
「非正規・男
第3章 家庭環境と能力形成の過程――家族外コミュニケー
性・未婚」の仕事に対する満足感が相対的に低いレベルにと
ションへの着目
どまっていることがわかった。彼らは、他の属性カテゴリと
比較して、現職における年収が低いだけでなく、出身家庭が
3.1. 能力の規定要因としての家庭環境
経済的に恵まれていなかったことや比較的低学歴にとどまっ
本章では、2章で得られた知見をもとに、子ども期の家庭
ていることなど、経歴上の不利な条件によって制約を受けて
環境と成人後の能力形成について定量的な検討を行う。社会
いる(岡部 2007)
。以上の点にかんしては、これまで蓄積さ
経済のサービス化、グローバル化などを背景に、変化の中で
れてきた多くの先行研究が指摘してきたことであり(小杉
も自らを律し環境変化に対応することができる個人が求めら
2003, 橘木 2006)
、それゆえに、あえてここで指摘するまで
れている。そのようななか、分野横断的で汎用性の高い能力
もない。いま、ここで問われるべきは、なぜ、これまで多く
(以下、汎用能力)に着目した調査研究が蓄積され始めてい
の論者によって指摘され続けた課題・問題点が解決されずに
る。本章では、これら汎用能力をめぐる既存の調査研究をベ
いるのか、という点であると思われる。そう問われたとき、
ースとしながら、そのような汎用能力がどうやって育成され、
若年層の属性カテゴリの変容可能性は大きくないこと、ある
それが教育から職業への移行にどう位置づけられるかを議論
していく。
さらに議論を展開させた本田(2005)は、ハイパー・メリ
トクラシーの下では、子育て期における親、とりわけ母親た
3.2. 本田モデルの検討
ちの間にわが子に対するしつけ・教育にかんする認知上のプ
本稿の議論の下敶きとなる本田(2005)について①「分析
レッシャーが増加するとし、
「パーフェクト・マザー」という
結果」と②「そこから導かれた示唆」の2点を中心に振り返
コンセプトに依拠しながら、ハイパー・メリトクラシー下に
っておきたい。既に述べたように、本田はいくつかの調査研
おいて、母親たちはわが子の能力形成に対して限りない投資
究から、子どもや成人の能力、とりわけ学力や成績などペー
をせざるを得ない状況に追い込まれるという。これはすなわ
パーテスト等で測定可能な能力(=能力α)以外の要素で構
ち、家族コミュニケーションが能力βを左右するという本田
成されると考えられる意欲や対人関係力、人柄、情動などを
モデルとして示した因果モデルを基本的な根拠とした上で、
含めた能力(=能力β)の形成において、家庭環境要因が重
家族コミュニケーションを唯一コントロールしうるエージェ
要な位置を占めると主張している 。まず第一段階として、学
ントとしての親、とりわけ母親たちの間に子育てにかんする
校段階にいる小中学生、および高校生を対象に行った調査デ
過度なプレッシャーが降りかかるだろうと示唆するものであ
ータを利用し、能力βの概念に合致すると思われる質問項目
る。
(示唆2)
への回答と家庭環境の間に正の有意な関連が存在することを
以上の本田(2005)の議論をまとめれば、次のようになる。
重回帰分析などの統計分析手法を用いて明らかにしている。
まず、①「分析結果」としては、
「家族コミュニケーションが
具体的には、能力βを表す指標と考えられる項目と、それぞ
能力βの形成に影響を与える」という因果モデルとしてまと
れの生徒が育った家庭環境の状況を表す指標と見なすことが
めることができる。そして、②「そこから導かれた示唆」と
できる「家族コミュニケーション」の間に統計的に有意な正
しては、
「生まれによって生じる能力形成の格差・不平等問題」
の関連が確認されたとしている.このことを簡潔に図示する
(示唆1)
、および「パーフェクト・マザー信仰に見られる子
ならば,図1のようになるだろう。なお、矢印は因果の向き
育て期のプレッシャー問題」
(示唆2)を挙げることができる。
を、+は「家族コミュニケーションが豊富なほど能力βが高
能力βに決定的な影響を与えうるのは家族コミュニケーショ
い」ことを意味している。
ンであること、そしてその家族コミュニケーションに対する
家族外部からの政策的介入は不可能であるということの2点
図1 「家族コミュニケーション」と「能力β」の関係
示された因果関係から導かれた示唆1、示唆2は、論理的に
+
家族コミュニケーション
が、これらの示唆の根底にある考え方である。本田モデルに
能力β
正しいと考えられる。しかしながら、本田モデルに示すモデ
ルそのものが、じっさいの能力形成の過程を適切に映し出す
モデルであるかどうかについては、次章に示すようなさらな
このような分析結果をもとに、本田(2005)は次のように
る検討の余地が残されていると思われる。
議論を展開させる。すなわち、能力形成にとって個々人の「家
庭環境」が重要化するだろうということ、そしてそのなかで
3.3. 作業仮説モデルの構築
も、家族メンバー間の質的な相互作用――家族コミュニケー
ここでは、前節で議論した本田モデルをベースに、子ども
ション――が、家庭の経済的背景要因よりも重要な役割をも
期の家庭環境である経済階層的要因(家庭の暮らし向き)と
つであろうと述べる。すなわち、子どもの能力形成にとって
文化階層的因(家族コミュニケーション)
、および子どもの社
より重要なのは、家庭の経済資本的要因ではなく文化資本的
会的な自立の程度を表す「家族外コミュニケーション」が、
要因であるということを示唆している。さらに本田(2005)
成人後の能力を形成すると仮定した作業仮説モデルを構築し
は、学校段階を卒業した社会人対象の調査データを用いて、
た。具体的に図示すれば以下のようになる。
能力βに該当すると考えられる「ライフスキル」
(
「コミュニ
ケーションスキル」や「ポジティブ志向」
)に着目した分析を
行っている。分析を通して、能力βに該当するライフスキル
が、成人後の社会的・経済的・心理的な地位を規定するとし、
そのような社会的状況を「ハイパー・メリトクラシー」と名
づけた上で、次のようなシナリオを描く。すなわち、家族メ
ンバー間の質的な相互作用である家族コミュニケーションが
能力βの決め手になるという本田の因果モデルを基本的な根
拠とし、さらにその家族コミュニケーションに対する政策的
介入が困難であるという倫理的根拠を付与した上で導かれた
示唆である。外的に制御不可能な個々人の生まれが能力形成
の格差につながり生涯にわたって社会的不平等を生み出すだ
ろうと述べている。
(示唆1)
図2 家庭環境と能力形成の過程にかんする作業仮説モデル
3.4. 作業仮説モデルの検証
の可能性を見出すことができる。さらに(示唆2)に対して
前節で示した作業仮説モデルに対して、調査データによる
は、データに基づく冷静な再認識の必要性を迫るものであり、
検証(共通分散構造分析)を行った。その結果、子ども期の
能力形成にかんする上述の知見を正しく認識することにより、
経済的・文化的階層要因が成人後の能力形成に与える影響力
過剰なまでに加熱した家庭の教育力言説をクール・ダウンさ
は必ずしも決定的ではないこと、その一方で、社会的自立の
せる効果も期待できるだろう。
過程(家庭内から家庭外へのコミュニケーション対象の移行)
残された課題を以下に示す。第1に、個人の能力形成にお
が、成人後の能力を高めることがわかった。これらの傾向は
いて重要な結節点と考えられる「家庭外コミュニケーション」
女子にサンプルを限った場合にも成立すること、父親の職業
の意味や役割、効用にかんする議論である。本稿では「子ど
的地位で測定されうる出身の社会階層を導入したモデルにお
もの社会的自立の過程」と位置づけ分析・解釈を行った。し
いても、同様に成立することが確認された。
かしながら、この発見じたい、子どもから大人への移行にか
んする議論、たとえば青年期(adolescence)研究としては伝
図3 家庭環境と能力形成の過程(共分散構造分析)
統的なテーマであり、人間の発達成長の観点からすれば、き
わめて素朴なものともいえる。Anderson and Sabatelli らは、
e2
R2=.098 .669***
.225***
家庭の経済力
能力α
.076*
家族コミュニ
ケーション
-.011
(n.s.)
e3
教育年数
R2=.383
e4
.681***
.205***
.078*
R2=.448
小中成績
.236***
能力β
“individuation”という興味深いコンセプトを提示し議論し
ている が、今後は、このような研究蓄積にも丁寧な目配りが
2
.827***
.135***
子どもから大人への移行期における重要なポイントとして
プレゼンテー
ション
R =.683
e6
R2=.579
.761***
e7
リーダーシップ
.372***
家族外コミュニ
ケーション
.262***
R2=.209
e5
.698***
自己表現
R2=.487
e8
R2=.138
e1
2
χ /df=65/28=2.32, GFI=.991, AGFI=.976, RMSEA=.028
1)男性有職者(n=1,078)のみ分析。
2)数値は標準偏回帰係数。
3)***:0.1%水準で有意、**:1%水準で有意、*:5%水準で有意。
4)破線は5%水準で有意でないパスを表す。
必要だろう 。また、
「家族外コミュニケーション」が人間の
発達に与える影響を「家族コミュニケーション」との対比の
なかで捉える本研究のスタンスからは、発達心理学における
愛着理論とソーシャル・ネットワーク理論の間で俄かに湧き
起こっている論争が想起される。以上を踏まえれば本研究は、
基本的には前者の理論に依拠するものでありながらも、後者
の理論を積極的にモデルに取り入れることで、子ども期から
成人期にかけての発達過程と地位達成の関係性を明らかにし
3.5. 3章のまとめ
以上の結果、第1に、成人期の能力形成に対して子ども期
たものと位置づけられる。学問領域や理論の垣根を超えた議
論の展開は、今後の主要な課題の一つと考えられる。
の家庭環境のあり方が有意な影響をもたらしていること、そ
第2に、分析結果を受けての政策展開にかんする議論であ
して第2に、それは決して単線的なプロセスではなく多様で
る。本稿の分析結果からは、能力形成の格差・不平等問題に
複雑なプロセスを経て関連していることがわかった。このう
対して、政策的介入の可能性は見出された。しかし、じっさ
ち、第2の点にかんしては、独自の作業仮説モデルの構築、
い実行すべきかどうかという問題、実行するとしてどのよう
および調査データによる検証により、新たに明らかにされた
な方法を採択するかという問題を議論する必要がある。前者
点である。そして、これには以下のような知見を見出すこと
については、単なる経済的な効果の検証だけではなく社会心
ができる。第3章で指摘したように、本田(2005)は能力β
理や法・倫理の観点からの議論も必要であろう。本稿の分析
に決定的な影響を与えうるのは家族コミュニケーションであ
結果によれば、家族コミュニケーションが能力βに与える影
ること、そしてその家族コミュニケーションに対する家族外
響は、総効果としては大きい。加えて、家族コミュニケーシ
部からの政策的介入は不可能であるということを根拠とし、
ョンが家族外コミュニケーションに与える影響も、比較的強
「生まれによって生じる能力形成の格差・不平等問題」
(示唆
いものとなっている。このような効果に対抗しうるだけの政
1)
、および「パーフェクト・マザー信仰に見られる子育て期
策的効果が望めるかどうか、より綿密な検討が必要とされる。
のプレッシャー問題」
(示唆2)を指摘している。しかしなが
一方、後者の実行の段階では、仮に「家族外コミュニケーシ
ら、5章で指摘したように、家族コミュニケーションが能力
ョンの促進」を政策目的とするならば、その手法・効果が一
βに与える直接効果は、その間接効果よりも弱い。むしろ、
般的に確立されていると思われる具体策としては、たとえば
家庭の経済力の直接・間接効果や、家族コミュニケーション
“mentoring”などがある。しかし、本稿の分析結果によれ
から家族外コミュニケーションを媒介とした子どもの社会的
ば家族外コミュニケーションは能力αに何ら影響を与えない。
自立の過程を表す間接効果などを総合した効果のほうが、能
目に見えて認知しやすい能力形成につながらない家庭外コミ
力βに対してより大きな影響力をもつ。このことはすなわち、
ュニケーションに対して成人期に現れる長期的なリターンを
政策的介入が困難な家族コミュニケーションだけに依存しな
視野に入れつつ先行投資できるかどうかがポイントとなる。
い能力形成ルート(家庭の経済力から能力βにつながる直
ただし、これはあくまでマクロな(労働)政策的観点からの
接・間接効果や、家族外コミュニケーションから能力βにつ
議論である。第1の点も踏まえるならば、このような施策は
ながる直接効果を促進させる方法)が確かに存在することを
子どもが大人になるために必要なきわめて基本的な支援とも
意味する。以上を踏まえれば、
(示唆1)に対して政策的介入
いえる。個人の発達成長支援の観点とマクロな政策的観点と
のせめぎあいのなかで、新たな研究の展開が望まれる。
本章の分析からは、比較的早い学齢段階における家庭外か
日本をはじめ世界の先進諸国が直面するポスト産業社会に
らの政策的な働きかによって、汎用性の高い能力(セルフデ
おいて、とりわけ労働市場で要請される能力観は、主体的・
ィレクション)を向上させる可能性が見出された。このこと
自律的な行動調整能力、すなわち 20 世紀の近代化されたアメ
は、そのような資質・能力を獲得するためには、子ども期よ
リカ社会における階層的秩序と共振関係にあるとされるセル
り異質な社会的グループに属する人々と接触する体験が必要
フディレクション(同調性の対局概念)に他ならない。本研
であり、そのようなことを通して社会的自立のステップを踏
究の分析によれば、そのように位置づけられた学校から職場
んでゆく必要があるということを意味している。以上のよう
へのスムースな移行に必要とされる能力は、じつは学校と職
な考え方を具体的な方策として展開したものの1つとして
場に閉じられた世界や文脈においてというよりは、むしろ、
“mentoring programmes”がある。英国、米国を発祥とす
重要な他者(=significant others. 典型的には親)への依存
るこのような仕組みは、日本ではあまり聞かれることがない
的存在としての子どもから社会的存在である大人への発達的
が 、次章で着目するアジアの経済大国シンガポールにおいて
成長過程において、あらゆる個人に対して要請されるべき能
は、自立支援政策の一環として盛んに取り組まれているプロ
力の獲得に他ならない。以上から推察すれば、20 世紀の米国
グラム体系の一つでもある。そのような社会的背景があるこ
におけるセルフディレクション形成の背景要因には、産業化
とからも、次章では、シンガポール現地におけるフィールド
がもたらした職業条件の水準的向上と分化があったというよ
ワークを通して得られたあらゆる調査データを用いて、自立
りは、むしろ、産業化とそれを下支えてきた高学歴化が、幸
支援型政策の実態と課題・問題点を議論していく。
いにも諸個人の社会的自立の過程(individuation)を伴う形
で進行したからと解釈するほうが適切ではないか。だとした
第4章 シンガポールの自立支援政策の理念と実践
ら、尐なくともわが国においては、戦後の急速な産業化およ
び高学歴化が個人の社会的自立の過程(individuation)を伴
世界の社会政策を北欧的な公的資本に依存するタイプのも
ってこなかった、つまり、教育カリキュラムの合理化や労働
のと、アングロサクソン的な自由主義に委ねるタイプのもの
市場への移行の制度化、あるいは新卒一括採用や長期雇用・
に大別するならば、シンガポールは日本と同様、家族主義的
年功賃金に代表される伝統的な雇用慣行のもとで、一人ひと
な社会政策レジームに属する。一方で、労働を称え福祉への
りの人間が子どもから大人になるために本来的に必要とされ
依存を諸悪の根源であると見なすワークフェアという国家理
る individuation の機会を後退させてきたのではないか。そ
念のもと、個人の自立(self-reliance)――セルフディレクシ
してそれが、1990 年代後半からの若年雇用問題、すなわち2
ョンと同義の概念――を基軸とする政策群を展開している点
章で見たように、若年就労の非正規・無業化として、にわか
で、日本の自立支援政策のあり方の鏡となりうると考えられ
に浮上してきたのではないか。
る。約1年間にわたるフィールドワーク、および1年弱後に
ポスト産業社会で必要とされるセルフディレクションは、
行ったフォローアップ調査の結果、いまや社会階層の下位に
高学歴化・産業化などによってもたらされた近代化の産物と
限って固定的再生産がもたらされるのではなく、中産階級を
いうよりも、むしろ、個人のライフコースに埋め込まれた社
含めた誰もが転落のリスクを負うようになった現在のシンガ
会的自立の過程としての individuation に規定される。ポス
ポールにおいて、ソーシャル・エージェンシ(非営利のコミ
ト産業社会においても、全体的には、高学歴者が低学歴者よ
ュニティ型支援組織)を中核とした事前的介入に力点を置く
りも労働市場や社会生活等で相対的に有利であることには変
実践的支援や、多様な支援の主体のネットワークを生かした
わりはない。しかしながら、制度的な地位達成者でしかない
社会的な自立支援の取り組みが行われており、その結果、学
高学歴者は、労働市場で不利な立場に置かれることも起こり
齢初期における子どもとその家庭の社会階層を超えた文化資
うる。その理由は、まさにポスト産業社会で必要とされるセ
本・社会関係資本の再配分が生じ、出身階層や学力水準にか
ルフディレクションが、非制度的な学び・試行錯誤の場にお
かわらず生じうる転落リスクの低減とセルフディレクション
いて涵養される主体的・自律的な行動調整能力のことを指し
の養成に貢献している様子がうかがわれた。ただし、シンガ
ているからに他ならないからである。
ポールの自立を基軸とする社会政策の積極的展開の背景には、
セルフディレクションは、しかしながら、一部の限られた
多民族国家における統治を目指した業績主義的価値規範の注
人間に要請される資質や能力ではない。なぜならば、そのよ
入、自立を基軸としたミクロ=マクロの政策的リンケージ、
うな資質・能力の獲得が、重要な他者への依存的存在として
外国人労働者の戦略的活用など、日本とは異なる社会文化的
の子どもから社会的存在としての大人になるために必要な発
諸条件を伴うものであった。それゆえに、日本への示唆を得
達的移行過程における重要なタスクであるとらえるならば、
るさいには、一定の留意が付与されるべきものと考えられる。
これは、むしろ万人に(結果的に高学歴であるかどうか、高
威信の職業に就いているかどうかによらず)求められるもの
第5章 結論と考察
だからである。ここから、学齢初期の子どもとその親に対し
――自立要件としてのセルフディレクションとその規定要因
て公的に保障されたサービスとして提供する必要性が生じる。
としての社会的自立の過程(individuation)
学卒時の経済変動、労働需給の関係に翻弄され続ける若年
雇用問題の本質的解決のためには、教育段階初期(義務教育
配慮が不可欠である(仁平 2005)
。現状では、そのような
段階)における教育施策を、単なる職業的自立のための対策
特性を持ち合わせていないわが国の自立支援の基盤は、①
としてではなく、子どもが大人になるために必然的に要請さ
の実現化へ向けてすみやかに改善される必要がある。
れる発達成長過程上のタスクとして位置づけ、根気強く提供
していく必要がある。そのためには、序章で確認したような、
③ポスト産業社会における労働の二極分化(労働力の非正規
長らくわが国において推進されてきた人的資本論に基づく高
化〔外部労働市場化〕
)が避けられないなかで、いかに、そ
等教育の拡大・拡充政策の転換が必要だろう。現在の潮流と
してどこから低スキル単純労働を担う人材を調達するのか、
しては、高等教育の再編成の手段として職業教育に関心が集
あるいはその負担を誰が負うのかという論点が指摘される。
まっているが、そのような処方箋は応急措置的対応の域を出
これは、産業化社会にはあまり認識されなかった課題と考
ず、それゆえに問題の先送りに過ぎないと推察される。本研
えられる。産業のサービス経済化・経営環境のグローバル
究の分析結果に基づけば、経済資本の再配分政策だけではな
化といった趨勢下では、労働力の非正規化(外部労働市場
く、計画的な文化資本・社会関係資本の再配分政策に着手す
化)は経路依存性を伴う不可避なものと考えられる。その
る必要があるだろう。非認知的な能力の形成に貢献する後者
ようなことを前提としたとき、いかに非正規労働力を担う
の評価は、公共的・中長期的立脚点から戦略を立てなければ
人材を調達してくるかという点が大きな課題として浮上し
ならない。そのようなリスクがある先行投資だからこそ、公
てくる。とりわけ、労働力のグローバル化が進行している
的な資金、および優れた人的/非人的資本がそこに投入され
とはいえないわが国においては、国民の自立へ向けた基盤
る必要がある。そのような施策は、個人にとっても社会にと
を整えるためにも、近未来中に解決しておくべき重要な課
ってもポジティブな関与をもたらす先行投資であると認識し、
題と思われる。
大胆な改革を行う必要性があると考えられる。
さいごに、シンガポールにおける自立支援政策の実態から、
新自由主義的な動向に対する理論的批判に対する検討を踏ま
[文献]
本田由紀, 2005, 『多元化する「能力」と日本社会――ハイパ
えたうえで、わが国における自立支援政策の課題・問題点を
ー・メリトクラシーのなかで』NTT 出版.
指摘しておきたい。大きくまとめるならば、次の3点に集約
――――, 2010, 『教育の職業的意義――若者、学校、社会を
されうると考えられる。
つなぐ』ちくま新書.
Illich, Ivan, 1971, Deschooling Society, London:
①人的資本論に基づく「高等教育のさらなる拡大・拡充」で
も、学校経由の就職を補完・代替するための「職業的レリ
バンスの注入」でもなく、
「自立の涵養を基軸とした初等・
中等教育カリキュラムの再編成」が必要だろう。具体的に
は、キャリア教育の一環として位置づけられる「初等・中
等教育における職業観の醸成、職場体験の充実」を目指す
よりも、むしろ「多様な大人モデルの提供」のほうが、と
りわけ中等教育くらいまでの段階で必要と考えられる。こ
Calder&Boyars.
吉川徹, 2007, 『階層化する社会意識――職業とパーソナリテ
ィの計量社会学』勁草書房.
宮台真司, 2009, 『14 歳からの社会学――これからの社会を
生きる君に』世界文化社.
仁平典宏, 2005, 「ボランティア活動とネオリベラリズムの共
振関係を再考する」
『社会学評論』56(2): 485-499.
岡部悟志, 2007, 「仕事満足にみる若年非正規雇用の現代的諸
れは、宮台(2009)が提示する人間の動機付け要因の3類
相――非正規・男性・未婚に着目して」
『理論と方法』
型(競争動機/理解動機/感染動機)のうち、
「感染動機」
22(2):69-187.
(直観で「スゴイ」と思う人がいて、その人のそばに行く
と「感染」してしまい、身振りや手振りやしゃべり方まで
まねしてしまう――そうやって学んだことが身になる一連
のプロセスのこと)の考え方に近い。そのような大人モデ
ルの提供を、たとえば学校を中核として地域社会を巻き込
みながら再構築していくことなどが求められる。
――――, 2008, 「家庭環境と能力形成の過程」
『社会学評論』
59(3):514-531.
――――, 2009, 「シンガポールのメリトクラシーと学校中退
現象」
『教育社会学研究』84:247-266.
――――, 2009, 「シンガポールの家族政策の特徴とその持続
性」
『家庭教育研究所紀要』31:67-76.
――――・樋口健, 2009, 「企業が採用時の要件として大卒者
②わが国において、公共的な立場から社会的サービスを担う
に求める能力とその評価方法――企業の採用担当責
主体的エージェントとしての人材や組織、スーパーバイザ
任者を対象とした量的・質的調査のデータ分析から」
ーとしての国家が不在である。これは、①を実現化するた
大学教育学会第 31 回大会(学士課程教育部会)報告.
めの基本的な実動基盤が整備されていないことを意味する。
すでに述べたように、個々のケースに対して短期的な利害
関係を超えて適切な自立支援を行うためには、わが国にお
ける一般的なボランティア活動では想定されることの尐な
い、異質な価値観をもち理解不能な<他者>への想像力と
矢野眞和 2008, 「人口・労働・学歴」
『教育社会学研究』
82:109-123.
――――, 2009, 「教育と労働と社会――教育効果の視点か
ら」
『日本労働研究雑誌』588:5-15.