死と悲しみを通して人に仕える - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

死と悲しみを通して人に仕える
新約単篇
コロサイ書の福音
死と悲しみを通して人に仕える
コロサイ 1:24,ローマ 12:15
「私の葬式」という文章を書いたのが、今から 20 年前のことです。あれは、
旧「たねまき」誌に四回に分載して頂きました。当時の編集長は確か、ラニ
ー・ミングズさんでした。基本的にはあの時点で私の考えも熟していて、今
読んでみても、変える所は一つも無いと思えるのは嬉しいことです。極端だ
と言って反発する人ももちろん、いましたけれど、「あれで良い。あれでや
ってくれ」と私にも言い、家族にも「私が死んだら織田さんに頼みに行け」
と言い続けていた方もおられました。もっとも、この方は御子息方も社会的
に地位のある仏教徒でしたし、四人の娘さんたちも普通の家に嫁いでいまし
たから、まあ、私に頼みに来られることはあるまいと、私自身はあまり本気
で聞いていませんでした。
ところがその 89 才の信者の方が 12 月に召されたとき、御遺族の意志で、
「母の信仰を尊重した形の葬儀をして欲しい」と依頼が来ました。それで、
東大阪市の玉泉院という葬儀場で、花の飾りだけを使いまして、祭具や燭台
など抜きの舞台装置で、素朴な葬儀を私が司式させて頂きました。私自身、
これができたと言うことは、嬉しかったのです。私が責任を持って勤めた式
の後に葬儀屋が演出した献花の部分を除くと、私の持ち時間は、正味 20 分あ
まりだったと思います。しかし、「母がいつも織田さんの文章を読んで、あ
れの通りにして頂きたいと言っておりましたから」という遺族(もちろん遺
族は読んではおられなかったのです)の申し出を無視して、わざと、かなり
妥協した中途半端なものにいたしました。まず、正面に遺体を置かない原則
は引っ込めまして、棺をデンと据えましたし、写真、十字架の類を飾らず、
献花は省く……という原則も崩して、当たり障りのない慣例的キリスト教式
葬儀に大体合わせました。こういう事は、本当は、死ぬ人自身と残る人とが
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信仰的な方針で事前に一致していなければなりませんし、葬儀の責任者にな
る人自身が、回りからどんな批判や不平があっても、「これはこれで宜し
い!」と言って居直るだけの確信がなければなりません。ところで、あの葬
儀を「私の葬式」の通りにやらなかった理由は、ほかにもあったのです。
「私の葬式」を書く前ですから、30 年になるかも知れません。30 才そこそ
こだった私は、ある年配の遺族の方から葬儀の司式を急に頼まれたのです。
学生時代から私をかわいがって下さったお婆ちゃんで、その方も、亡くなっ
たお爺ちゃんもクリスチャンだっただけではなく、息子さんもお嫁さんも信
者でした。ところで、どうして私みたいな若造に葬儀を頼んだかというと、
その教会(旭教会)が当時無牧だったのです。「織田さんの信仰に基づいて、
織田さんが良いと思うやり方で式を進めて欲しい」と全面的に委任されたの
は、余程私を大事にして買いかぶって下さったのでしょうが、それだけに、
私もとても責任を感じました。
先輩のクラークさんの助言も頂きながら、「こんな簡潔な形で献花も致し
ませんが、それで宜しいでしょうか……?」と恐る恐る申し上げると、「そ
れで良いですよ。織田さんが一番適当と思うやり方でして下されば良いので
す」と言われるのです。今でしたら、私も疑い深くなっておりますから、「こ
の人、そうは言うけど、そんなのできるかな……」と考えて、「本当に良い
んですか? 後モメませんか?」……しつこく聞いて、なかなか相手を信用し
て上げませんけれど、その時は相手の言葉を鵜呑みにして、その通りにやっ
たのです。この時の式辞は全文、旧「たねまき」の 21 号に載っております。
式は 12 月のよりは少し長目で、その代わり献花がありませんでしたから、開
会から出棺まで 38 分。先月の式で私の持ち時間(プラス弔電)より 10 分長
くしています。
この式の後で、御遺族の中でたいへんなモメごとがあったらしく、30 年間
私に対する苦い感情を持ち続けておられたとは、後から、その方たちが後に
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移られた教会の牧師から聞きました。ある意味で無理はないと思うのです。
大体あの葬儀に参列する人というのは、親類にしても、職場関係の上司や取
引先にしても、みんな「お参り」させてもらいに……つまり、焼香とか献花
をすることで義理を果たすために来られるものです。「間違いなく参列して、
ちゃんと義理を果たしてお参りしましたよ!」という確認をしてもらわない
と、まあ、香典を受け取ってもらわなかったのと同じくらい、不義理になる
のですね。献花省略というのは、それを「やらせないで」「何のために来た
か分からない」ことにしてしまうのですね。このとき遺族の方たちへ来た非
難と風当たりはかなりきつかったのではないかと想像します。でも、私に対
して一番怒っておられたのがお婆ちゃん自身であった(!)と聞いた時はシ
ョックでした。あれだけ打ち合わせして、「それで良い」と言われたのにど
うして……? でも、信者でもあり、65 才も越えておられたと思われる円熟
したクリスチャン婦人も、あそこであれをやらなかったらどんな余波が来る
かまでは、思慮が及ばなかったのです。そしてそれが来たとき、「私が良い
と言ったのです。文句ありますか!」と言う勇気も確信もなくて、若い牧師
の軽率の結果として言い逃れた。これは無理がないのでしょう。大方の人は
そんな所です。あなたも、覚悟しておいてください。
大東の教会でも、死んだ人自身のしっかりした意志……と言いましても、
死んでからでは意志を確認できませんけれど、生きている間に本人と、家族
の責任者がその意志をはっきりして申し出られた場合、しかもその方が非難
や圧力に、責任をもって自分の信仰の正味の答弁ができる人の場合は、申し
出を額面通り尊重して私が信仰に基づいて正しいと信じる最も簡素な仕方で、
葬儀をさせて頂きますが、そうでない限りは、相手の申し出は「話半分」に
聞いて、慣例的キリスト教葬儀のパターンに大体合わせたような、中途半端
な式をして差し上げます。12 月 7 日の葬儀の時に私の式辞のところまではま
じめに聞いていらっしゃった姉妹で、後の葬儀屋にやらした献花の部分に憤
慨して、「こんな葬儀はミヨノさんは望んでいなかったと思う」と家内に感
想を漏らした方がおられました。亡くなったお婆ちゃんとは面識もない会社
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役員や、親族の仕事の上だけの付き合いの人たちが、延々と献花の行列をす
るのに呆れたのです。これはしかし、30 年前の K 夫人と同じでして、そこま
では思慮が今は回らないのは、無理がありません。家内はでもその夫人を思
いやって、いつもは出て行ってする献花には出ませんでしたが、そういう思
いやりのお付き合いをしてあげたのは「でかした! わが女房よ!」と思って
います。
反対に、「今夜は絶対に献花は私はしませんよ」と電話でわざわざ断って
きた姉妹教会の夫人で、私の「献花についてお願い」という説明を聞いて、
「それなら分かったから、私はするわ」と言って、残った家内を尻目に花を
置いて驚かせた人もいました。その私のアナウンスというのはこうです。こ
の前お聞きになった方には、二度目で申し訳ありませんが。
献花について、一言、簡単に説明し、お願いを申し上げます。キリスト信
者の葬儀には、実は、焼香に相当するものがございません。ただ、いつの頃
からか、棺のまわりに友人たちが花を飾ることで、遺族の方たちの悲しみを
ほんの少しでも和らげ、それによって、愛する者を失った皆様への同情と敬
意を表す習慣が生じました。本当は、無しで済ませられる時は省くものです
が、本日は遺族の御意志もありますので、いたします。「献花」と呼んでは
おりますがこれは、ミヨノさんに花を献げて故人の霊を拝礼するのではあり
ません。これは、悲しむ人と共に心を痛める友人たちの同情の表現、遺族へ
の尊敬のしるしです。
とは言いましても、これは信者の場合の理解でございます。皆様お一人お
一人が大事にしていらっしゃる信仰と良心は、私どもは心から尊重させてい
ただきますので、花をお置きになる時にはどうぞ、御自分の信仰と良心に基
づいて敬意を表して頂ければ、それで結構でございます。ちょうど私どもキ
リスト者が仏式の葬儀に参列した場合、皆様の御寛大で、私共の小さな信仰
を尊重して許していただくのと同じなのですから。
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お聞きになって、「それでは、偶像礼拝をご自由におやりなさい」という
許可と奨励になるではないか……と憤慨される方がいても不思議ではありま
せん。もっとも「絶対拝まないでください。敬意だけで花を飾ってください。
死者への拝礼無しで献花してください」とアナウンスして、「みんな守って
くれよ……」と念じるのも喜劇的ですけれど……。私のは、割り切り過ぎに
見えますか? でも、いま御紹介した私のアナウンスというのも、そんなに自
信をもっておすすめできるほど、絶対的なものではありませんのでまあ「た
たき台」のように考えて、御自分のお考えをまとめるテーゼなり、アンチテ
ーゼなりに使ってください。
ここまでで一応、中間のまとめをしてみます。まあ、自分の葬儀でしたら、
妻と息子たちと十分論じ合って、方針を固めておけますし、必要とあれば、
親類とでも近所とでも家族の職場関係とでも、大喧嘩を派手にやるだけの準
備も作戦も立ちますけれど、仲間の兄弟の場合、またその家族の場合は、そ
れにどの程度耐えられる人なのか、どこまでできる事情なのか……それをよ
く洞察してあげて、無難な慣例に従うことも、愛の故に必要になってまいり
ます。結婚式でもそうですが、「どうしてもこんな雰囲気のが欲しい」とか、
「フラワーガールも数人新婦の前を歩かせて欲しい。鐘も鳴らせるような場
所で派手にやってくれ」と言われればもちろん、「つまらないから、もっと
簡素におやりなさい」とはひとこと言いますけれど、「ローブ着てやってく
れ」と言われれば、あるいは借りて来てでも着るかも知れません。献花もそ
れと同じです。弔辞だけは、後で下痢を起こしそうでゾッとしますから、ま
あやる気はありません。先日もせずに済みました。でも、これは 10 年以上も
前のことですが、尊敬する先輩が司式なさったある葬儀で、弔辞があって、
ショックだったのを思い出します。これも、先日家内に不満を漏らした姉妹
のコメントと同じで、その先輩に「失望した」とか、彼を責めるべき筋合い
のものではないのでしょう。
先日、玉泉院の住職控室みたいな所にみんな集まっておりました時に、「杉
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山さん、よう見といて、僕の時ちゃんとやってや」と申し上げましたが、こ
れは田中志郎が現れる前から頼んであるので、そうなっておるだけです。田
中さんによると、「織田さんは早よ死ぬからえェけど、もし僕が大東に残る
ことになったら、長老級の人たちは、みんな僕がせんならん」と、人数計算
しながら嘆いていましたから、一人減らしただけでも感謝してもらえると、
私は思っています。その時は杉山さんの助手くらいはしてくれる筈ですね。
まあ冗談みたいに聞こえるかも知れませんけれどその日はそう遠いことでは
ない。でも、先程も言いましたようにこんなのは、鈴恵や牧夫が私の信仰と
私の理解で一致して立ってくれるからできるだけのことです。そういう、私
と同じような準備を自分の家族と話し合ってできるクリスチャンを、連鎖反
応で作る。それを励まして助ける。これも牧者の務めです。理想の通りには
参りません。30 年間喧嘩したい人は別です。まあ、理想にに少しでも近いも
の、妥協の幅の狭いものと言うべきでしょうか……現実的に言えば。港の飯
島牧師は、教会員の人たちに「遺言を書いておけ」と薦めたそうですが、で
も、遺言を実行してもらえる下地をまず作らねばなりませんね。
「死と悲しみを通して人に仕える」というテーマでしたが、これはまた、
「死のうとしている人に仕える」ことをも含みます。中でも特に大きな悲し
みは、もう良くなる筈のない患者を訪問する務めです。(こんなの、ここで
やらなくても、中野先生の牧会学でやるのでしょうが……)まあ、織田もネ
タが切れて、最近の出来事から雑談してる……と席を立たないで、我慢して、
聞いてやってください。私の父は手遅れの胃癌の手術のあと、間もなく死ん
だのですが、死が近付くのを自分でも感じると、かえって、「よくなって家
に帰ったら……」ばかり話すようになりました。その父の枕もとで、永遠に
ついて、この世かぎりでない命について話すことができなくて、思い出すと、
今も心が痛みます。でも、どうかすると、クリスチャンでもそうなることが
あります。少なくとも、一時的にはです。先日亡くなった方もそうでした。
こういう、特に困難な病気の場合でも、手術が一応成功して、まあ何年間
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かは多分セーフだろうという方や、これから手術するから祈ってくれ……と
いう場合はまだ、こちらの心もそこまで重くはありませんけれど、医師から
も、もう回復の見込みが無いことを知らされて、せいぜい鎮痛剤で押さえる
程度……本人も家族も、後は残された時間を、少しでも苦しみを少なくして、
精神的に潰れずに過ごすことしかない……ということを知っているような場
合は、特に愛と勇気と知恵が必要です。
昨年の秋から冬にかけて、私ども夫婦が何度か、お宅にお訪ねしたり、病
院を訪問した方もそうでした。泌尿器のほうの癌でしたが、お年のこともあ
って手術は初めから不可能と分かっていました。でも、今から考えてみると、
こういう風にして何度か枕元にお訪ねしたり、来合わせた家族の何人かとそ
こで会話を交わしたことが、あの 12 月の葬儀が実現するための準備になった
のです。去って行く姉妹との信頼関係。家族の方たちとの心のつながり。こ
れも牧者の務めの一つです。
今お訪ねしている方は、呼吸器の方の癌でして、お宅を訪問したり、症状
の軽い時は教会に来ていただいたりしています。お子さんたちもいて、本当
は働き盛りの男の方ですが、地上の時間は限られているのです。この方の御
親戚の信者の方から、「もう時は無いから、緊急に福音を伝えて、キリスト
を信じるように導いてのやって下さい」と頼まれているのですけれど、これ
だけは聖霊の時が満ちないと、人間、死を前にしたからと言って、それで霊
的に機が熟す訳ではありません。手紙を書いたり、個人的にお会いしたりし
ながら、祈って待つのみです。「待つ」って、何もしないで待っているので
はなくて、いろんな形でキリストを伝えながら、祈りながらです。聖霊が彼
の心を開いて、ついに信仰の喜びに満ちるのを見るかも知れないし、反対に
心を開かれないまま、傷を浅く癒すだけの結果に終わるかも知れない。一時
的慰めと心理的励ましだけしか伝わらずに、それで先方が心温まって、感謝
して去られるだけかもしれません。
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牧師は、常にそういう「痛みを持った人」と共にいます。そして、仮に、
結局何のお役にも立たなかった場合でも、その悲しみと苦痛を一緒に感じて
その同じ所に立つようにされるだけで、それで良いのだと思います。「俺は
無能だ! すべて無効果で失敗だ!」と見えても、牧者自身が、それでも、僕
として仕えるのにより適わしいものに、造られて行くのです。主にあっての
労力に無駄はない。コリント書の言葉のとおり(コリ 15:58)です。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」
とは、イザヤ書(53:3)に記された「主の僕」の姿です。これは成功しても、
失敗してもそうなので、目の前で奇跡が起こって、救われる人と共に歓声を
揚げる時も「主の僕」、ついに何にも起こらず、涙を流して見送る時も「主
の僕」にされる経験を牧者はするのです。
コロサイ書の中に、不思議な言葉があります。「パウロともあろう人がど
うして、そんな事を言ったのか?」と思わせるような不可解な言葉だとも言
われます。それは1章の 24 節なんですが、「今やわたしは、あなたがたのた
めに苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの
苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」
キリストの苦しみの欠けたところ、キリストの苦しみを以てしても及ばぬ、
届かぬ所というのは不思議です。もし罪の贖いのための苦難─
ならすべては完結されている筈です。キリストの苦難に欠けた所や
不足部分など無いはずです。しかしこの「苦痛の欠けたところ」─
というのがもし、だれかの痛みを痛むべく、キリ
ストがまだだれかを通して痛んでくださる「痛みの残りと続き」だとすれば、
それを負わせて頂くのは、主の弟子として、大きな光栄ではありませんか!
……あなたのすぐそばにいる病む人と一緒に……時には死んで行く人と一緒
に……。
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ガラテヤ書の中には、同じパウロの言葉としてこうあります。「互いに重
荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることにな
るのです。」6 章の 2 節の言葉です。
この重荷は、すぐ後の 5 節に出る重荷─とは違って、負わさ
れた人にのしかかって圧し潰す重圧がこのであろうとは、多くの釈
義家が指摘するところです。それは一人で負いようもない重荷です。たとえ
ば、死の悲しさの重荷、その死に近づいて行く無力の重荷。信仰をもって解
決している筈の人にも時になお付きまとう重荷……。それは「負ってあげて
も、少しも軽くなる筈のない重荷」かも知れないが、それでも互いにその、
圧し潰す重荷を、相手が喜んで感謝してくれる時も、「無駄だよ」と言って
笑う時も、負ってあげよ。それが、「キリス
トの律法─愛を全うする道である」と。
(1990/01/10)
《研究者のための注》
1.コロサイ書のを、ここでは「たとえば」と断って「死の悲しみの重荷」に
適用しました。しかし、互いに負い合うべき重荷は、「死の悲しみの重荷」には限り
ません。このコロサイ書 1:24 の釈義は、シリーズ「コロサイ書の福音」第 5 講「苦
しむことを使命とする」を参照してください。このテーマについてはまた、1977 年 8
月のスピーチ「キリストの苦しみの続編」でも語っています。
2.冒頭に掲げたローマ 12:15 に続く 16 節は、訳文の言葉づかいに、「身分の低い人々」
への憐れみのような響きがあって、いつも読みながら、どの訳文にも疑問を感じてお
りました。原文のは中性複数とも取れるので、旧共同訳のように、
「取るに足りない務めにも順応し」と訳すのもあります。でもこれはやはり、少数意
見のようで、新共同訳ではまた「身分の低い人たちと交わりなさい」に戻っています。
動詞の(分詞形)は「交わりを持つように努力する」と言うよりは、
「一緒に調和していられる」ことを言いますから、これは、エリートや指導者と一緒
に扱ってもらっている時よりむしろ、平凡でパッとしない普通人と一緒にいる時の方
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がアットホームで、その方が自分のホームグラウンドにいる実感がするような人であ
れ……そんな感じを表しているのだと思います。「ローマ書の福音」に発表した私の
訳文は、ちょっとズルいかも知れませんけれど、旧共同訳と新共同訳の解釈を混ぜて
16 節の 2 行目からはこう訳しています。「人のいやしむ仕事や低い人たちと共にある
時くつろぐ人であれ。」これは、自分が指導者だとか、「教えてやるのだ」という考
えから解放されないかぎりなかなかできないことですが……。
3.「罪の贖いのためのキリストの苦難」をの二語で表現しましたが、
この意味での苦難(死)はふつうで表され、の用例は2コリ 1:5,
ヘブ 2:9 等、少数です。
4.私は、結婚式を頼まれた場合、少なくとも一方の方が信者でない限り、お引き受けし
ないことにしています。「どんな派手な式でも、ガウン着てやれと言われても、する
場合もある」と言いましたのも、信者の場合にその人たちの立場を考えて自分の主義
を譲る場合もあり得ることを、誇張表現したまでです。
5.葬儀の簡素な形を考えていた矢先、親戚の創価学会式の葬儀に参列しました。通夜の
会場は、正面に「南無妙法蓮華経」の掛け軸と、左右一対の樒(シキビ)を配しただ
けで、簡素でした。葬儀では樒は三対になり、二対のボンボリと供物用の白木の三方
が数個ほか、祭壇様の飾りがありましたが、花の使用は許されないとのことで、花は
一つも見られませんでした。最初、通夜の簡素な小道具を見て、これは確かに「進ん
でいる」という印象を受けたのですが、これが規則として「押し付けられる」ことに
よって簡素化が成り立っているところに、滑稽さと人間の悲しさを見る思いでした。
家内の姉の主人の葬儀でしたが、姉も義兄も一時的に説得されて形だけ入会していた
ような信者ですから、不満と怒りをもらしながら学会のルールに従っていました。二
人の信仰とは無縁のように見える信者の方々が青年僧侶と一緒に、「南無妙法蓮華経」
を 300 回朗唱するのを聞きながら、「花も許さない素朴とこの儀式的反復とどうつな
がるのか……」と疑問を感じていました。キリスト教式葬儀でも多分似たような自己
矛盾を、気づかないで犯していることはあるのでしょう。私たちが大真面目で「証し
している」つもりの事が証しにならない場合もありましょう。装飾も花も何も無しの
棺も置かない「故人を生かした主を称える会」が理想的だと、私は考えるのですが、
場合によっては花は会場の雰囲気を和ませる意味で、「禁じる」ほどのことはなかろ
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うと思いました。私たち自身も矛盾だらけ……ということを謙遜に認めながら常に「簡
素化」を一人よがりで法則化しないことが大切です。
6.棺に聖書や讃美歌を入れる心理の滑稽さについては、「わたしの葬式」でも触れまし
たが、これも「喜劇」の一部と割り切れば、それをしたい人の気持ちを(笑わないで)
大事にしてあげる余裕もあって良いのでしょう。故人の使った聖書を使う人がいなけ
れば、遺体を焼く燃料の一部に使うのは、衛生局に出すビニール袋に入れるよりはマ
シと言えば言えます。すべては故人のためと言うよりも、それをしたい遺族の「気持
ち」をかわいがってするのですから……。前述の通夜に先立つ納棺の時に学会の指導
者が、遺体の胸に置いた他派の「お守り」に色をなして、取り除いた後、「こんなも
のを付けていたから苦しそうな怖いお顔をしていたのです」と言うと、信者の人たち
がそれに合わせて、「ああ、今は本当に安らかなお顔になりました」と頷き合ったの
は、宗教的演出として面白く、苦笑しました。我々もあれと似たことを言ったりしな
いかな……と自戒の意味でも面白い見物でした。正味でないものはすべて滑稽です。
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