ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論

関東学院大学『経済系』第 260 集(2014 年 7 月)
論 説
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論*
——ウィリアム・ペイリとの対比——
Political Economy and Happiness in Jeremy Bentham’s
Economic Jurisprudence
—in Contrast with William Paley—
永 井 義 雄
Yoshio Nagai
要旨 ベンサムはその学問体系において第 9 部門に「経済法学」を置いた。この「経済法学」中の政
治経済学とその基礎にある幸福の概念をここで我が国最初の解剖を試みる。資料は,主にスターク
版『ベンサム経済学著作集』に収められた『政治経済学便覧』であるが,私はベンサム解釈において
スタークとは全く異なる見解を取るので,彼の版本の批判を避けることが出来ない。ペイリと対比
させたのは,ペイリがベンサムの『道徳および立法の原理序説』の出版に関連しているからである。
キーワード 最大幸福原理,最大多数の最大幸福,近代国家,刑法,人口論
1. スターク版の問題
2. ベンサムのスミス批判
3. ベンサム法学における政治経済学
4. 『政治経済学便覧』の理論構造
5. ベンサムのスミス論再論
6. ウィリアム・ペイリの政治経済学と幸福論
7. ベンサムとペイリ
スターク版の問題
1.
外にはないという印象を読者が受けても止むを得
ない。しかし,ここには,二重の錯誤がある。こ
W・スタークの編集した『ベンサム経済学著作
れらの錯誤の一つは,政治経済学の範囲をどこま
集』
(1952–1954)はベンサムの経済学的著作のす
で取るかという問題に関わり,もう一つはベンサ
べてを網羅,包含しているように思われるかもし
ムが何を追求したかということの評価に関連する。
れない。なぜなら,それは,経済学を意図しない著
私が錯誤とする第 1 の点は,スミスとマルサス
作中にも散在する経済学的発言さえも集めて,
「経
の時代以降,救貧〔生活保護〕法の問題,すなわち貧
済科学の哲学」として第一巻に収め,同様に第三巻
困の問題は,一貫して政治経済学の領域に入れら
には「経済人の心理」として経済行動における人
れてきたと思う。ただし,二人とも,理由は同じ
の心象を写したベンサムの片言隻語を諸著書から
ではないにしても,救貧〔生活保護〕法には反対で
収集,編集しているからである。こうした措置の
あった。しかしながら,スタークは,ベンサムの
ために,ベンサムの経済学的論述はもうこれら以
救貧〔生活保護〕法に関する著作を意識的に『ベン
∗
サム経済学著作集』に含めなかった。スタークは
本稿は,2003 年 4 月 22 日にリスボンで行われた
ユーティリタリアン・スタディズ
第 8 回国際幸 福 主 義 学 会で読まれた英文原
稿に加除訂正を加えて日本文にしたものである。ペ
イリの部分はほとんど書き直した。
言う。
「1796 年の初頭から 1798 年の年末までの 3
年間は,ベンサムが経済学研究の主方向から逸脱
した期間であった。
」この期間,ベンサムは,それ
— 145 —
経
済
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まで努力してきた財政計画を,彼自身の言葉で言
ない。しかし,所詮,それは無理である。ベンサ
えば「棚上げ」し,
「貧民救済の問題」に向かった。
ムの言葉を信じ,彼を法学者として見なければ,ベ
しかし,スタークは言う。貧困問題は「政治経済
ンサムの発言はすべて歪む。ベンサムの人と学説
学に密接に関連しているとはいえ,我々はそれに
はすべて歪んで理解される。しかもこれら全 10 部
かかずらわっているわけにいかない。我々にはこ
門の法律体系が最大幸福原理実現にとって重要な
スペース
の第二義的な道に逸れたベンサムに従う紙 幅も時
位置を与えられていることを思えば,なおさらベ
間もない」
(Introduction, EW, II, 7)
。こうして貧
ンサム体系における法学とその基礎としての法哲
困問題はベンサム経済学から除外された。さらに
学を理解し損ねる。ベンサム体系は最大幸福主義
また,『パノプティコン』(一七八七年執筆,一七
体系である。
九一年刊行)も,失業者(受刑者)の職業訓練施
スタークの視野から落ちこぼれたベンサムの分
設としても考えられる場合には経済学に関って来
野と著作は少なくないと思われるが,
『ベンサム経
ると言えるし,何より,刑務所という国家施設を
済学著作集』の利便性は評価されるべきであるに
私的経営体に代えるのがその経営原理であるから,
もかかわらず,その視野が狭く限定されていたこ
どうしても政治経済学と関って来るけれども,や
とにも留意しなければならない。
はり除外された。確かにベンサムの『パノプティ
コン』は建築原理を含むからその全てを収める必
2. ベンサムのスミス批判
要はないけれども,その経営原理は入れるべきで
ベンサムは,自分の最初の著書『統治論断片』
あったと,私は考える。
次に,私が錯誤とするところは,ベンサムが追
(1776 年)の序において,自分の生きる時代が「多
及しようとしたものは全 10 部門に分けられた全法
忙な時代である」と言ったことがある。それは,
体系の編纂であったから,このことと『ベンサム
我々の現代用語では「離陸」の時代であり,しかも
経済学著作集』との関連である。ベンサムの全法
世界で初めての「離陸」の時代であった。もう一つ
(学)体系の中には八番目の部門に財政法学,九番
別の現代用語を用いれば,
「マルサスの罠」から脱
目に経済法学がある。これらは,彼の全法律体系
却し始めた時代でもあった。スコットランドを併
において,不可欠の部門であった。それらは,全
呑して,グレート・ブリテンを成立させたイングラ
法律の目的(最大幸福)の具体化である「豊富」条
ンドが,国民国家として自己を形成し始めた時代
項を推進するのに必要な立法部門であった。そし
であった。国民国家は,単に同一地域に共存する
て,これらの部門のために書かれたのが,
『政治経
国民から構成される国家というだけでなく,利害
済学便覧』と『政治経済学教科書』である。しか
を異にする主権国民のさまざまな利害を調停する
し,これらの著作は,科学としての政治経済学に属
機能を持つ国家でもあった。国家はもはや,ロッ
アート
(立
するものではなく,科学が仕えるべき「技法」
クの夜警国家ではない。国民は保護され従属させ
法技法)に属した。ベンサムは,
「自分の目的(対
られるだけの存在ではない。国民が自ら経営する
象)は技法である」
(Manual, EW, I, 224)と明言
機関である。この場合の国家の立法行為が目的と
していた。この言葉は,ベンサムを理解しようと
するのは,国王でなく国民の基本的価値を保護し
するものが必ず念頭に置くべきものである。そし
支持することである。このためベンサムは,従来
てこの言葉をスタークが知らないわけがないが,
のイングランド法に固執するブラックストン法学
スタークは『ベンサム経済学著作集』を編集する
にオクスフォード在学中にすでに批判的になり,
以前から,ケインズを批判するかのようにベンサ
法学の革新を志した。このようなベンサムにおけ
ムを「経済学者」として論じ,
「法学者」としては
る財政法は,スミス財政理論が国家機関あるいは
扱わなかった。スタークは『ベンサム経済学著作
機能の活動の維持のためのものであったのに対し
集』によって自説を立証しようとしたのかもしれ
て,それも継承しつつ,それ以外にも国民生活を維
— 146 —
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論
持,扶養,豊富化することをも目的とする。経済
対照的である。ロバート・オウエン(1771–1858)
法は,社会の資本を増加させ,可能な限り冨の平
がそうであったように,イングランドの商工業階
等な分配を保証する制度の確立を目的とする。特
層は,フランスの保護主義に打ち克つ自信を持っ
権的な組織や人に奉仕するのでなく,最大多数に
ていた。マルサスにおいて,政治経済学に優位す
最大幸福を保証する国家でなければならない。「有
る「より高次の公準」が掲げられるのは,農業利害
益性の原理に規定されたすべての法律の共通の目
を含めた総資本を視野に入れた時に彼に自ずから
的は,公共の利益の促進である」(Laws, 32)。ベ
生ずる命題であった。マルサス『穀物法論』は言
ンサムの「批判的法学」は,近づきつつある国民
う。「冨,人口,軍事力に値打ちがあるのはただ,
国家が持つべき法学であった。逆に言えば,ベン
人びとの徳性と幸福を向上,増大,保障する限り
サムの時代はまだ,国の内外において現代のよう
においてである。」マルサスは,「徳性と幸福」に
こだわ
な複雑さを持たなかったから,社会と国家の諸問
拘 った。経済学が政治経済学である限り,これ
らの「公準」を降ろすわけにいかないというのが,
題をその基本から考察することができた。
こうしたベンサム法学を集大成したのが,生涯
の最後近くになって書かれた 2 つの大著であった。
『憲法典』第 1 巻(1830 年)と『公職適性の極大化
マルサスの立論であった。この態度は,ベンサム
に近い。
ところでベンサムの経済法学の概略は以下のよ
と費用の極小化』
(1830 年)である。この 2 書は,
うである。彼の経済法学に関する最初の叙述の試
1 組のものと考えられていい。『憲法典』は,国家
みは,
『政治経済学便覧』であった。これは,2 部
の基本構造,すなわち司法,行政,立法のような組
に分れている。第 1 部は「一般的考察」と題され,
織を規定し,『公職適性の極大化と費用の極小化』
第 2 部は「政治経済学の観点からする政府の作用」
は,それら組織が浪費癖に汚染されないようにし,
となっている。第 1 部第 1 章「序論」はスミスに対
官僚たちが最善を尽くして職務に尽力し,不必要
する自らの姿勢を明白にすることを意図する。冒
な経費を削減するようにするために,いかなるこ
頭でベンサムは言う。「政治経済学は,科学と考え
とをなすべきかを議論する。このことは,
「公共の
られてもいいし技法と考えられてもいい。しかし
簿記」と題された論考においてもよく現れている。
どのような場合であろうと,科学が役に立つのは
この論考は,極めてベンサムに似つかわしいもの
技法に対する先導役をする場合だけである。政治
で,財政法学に含めるにはあまりに実用的に思わ
経済学が,もし国民の統治をその掌中に握る人び
れるかもしれないが,ベンサムにとっては立法の
とによって行使される技法と考えられた場合には,
技法として論ずべき主題であった。
国民の勤労を最大限有利に向けられる目的に導く
さて,スタークがベンサムの政治経済学上の作
技法である。
」ベンサム自身の政治経済学の定義は,
と認めた『高利の擁護』
(1787 年)が示すように,ベ
「技法」であるから,明白に法学的である。経済学
ンサムは市場原理に対する政府干渉に全面的に反
的ではない。『便覧』の目的も曖昧ではない。「こ
対であった。この著作におけるベンサムのスミス
の小論考の目的は,政治経済学として何がなされ
に対する態度は,我々がベンサムとマルサスおよび
るべきか,また何がなされてはならないかを概括
リカードゥに対する関係を考える上での基礎とな
的に示すことである。」そして続けて言う。「この
るであろう。なぜなら,マルサスもリカードゥも
ようにして,またこうした考えでこれまで行われ
スミス政治経済学の継承者であって,経済的自由主
てきた多くのことのうち,行われて良かったこと
義のうちにあったからである。確かに,マルサス
はごく稀であった。
」これまでの経済政策にこのよ
は原則として農業保護主義の考えを抱いていたが,
うな断罪を下し,そして今後の課題として掲げた
それは彼の経済政策の例外であった。ブリテンの
ことは,「今のところ,行われるべきことのうち,
土地所有者階層は,大陸の農業者との競争に負けな
ほとんどすべては,これまで行われてきたことを
い自信を持たなかった。この点は,商工業階層と
しないでおくことにある」(Manual, 223)という
— 147 —
経
済
系 第
260 集
の点,慎重に沈黙を守った。
大政策転換であった。
ベンサムはここで,スミス博士がすでにこの問
だから,ここにおけるような明示的スミス批判
題を論じたという反論が自分に向けられることを
は,ベンサムとして珍しい。因みに,スミス批判
予想する。ベンサムは自分の設定した問題に自分
の第 2 は,スミスが「自分の議論をとことんまで突
で応える。スミスがこの問題に触れたのは,「ほ
き詰めなかった」ということであり,この後,
「主
んのたまさかのことであり,細切れでしかなかっ
題の全てを包括しなかった」
(第 3)
,
「議論をコン
た。
」このことは,スミスが立法技術のための政治
パクトにまとめなかった」
(第 4)
,
「もっとも良い
経済学をベンサムの仕事として残したことを意味
方法で論じなかった」
(第 5)
,
「政治経済学の問題
する。ベンサム特有の言い方で言えば,
「この著作
に無関係な問題を混入させた」
(第 6)と続く。「と
〔『便覧』
〕とスミス博士との関係は,医療技術の本
ことんまで突き詰めなかった」というのは,科学
と解剖学あるいは生理学の本との関係に等しい」
(Manual, 224)。
は技法のためにあるのだから,技法(立法)まで
議論を展開しなかったということである。これは,
ベンサムは,自分とスミスとの違いを 9 項目に
スミス批判というよりは,ベンサム自身の立脚点
亘って指摘するが,その中心は第 1,第 7 と第 8 項
の開示かもしれない。なお,ベンサムはロックに
目にあるように思われる。第 1 は,すでに触れた。
ついても,ここにおける第 4 のスミス批判と同様
すなわち「彼の目的は科学であり,私の目的は技
のことを言ったことがある。以上は,ベンサムに
法である」ということを中心に,スミスは主に「科
よるスミス批判の概略である。
学」に携わったし,ベンサムにとっては,科学は
その後,ベンサムは,スミスが決して言わなかっ
目的に対する手段に過ぎないことを論ずる。第 7
たこと,すなわちベンサム自身が非常に好んだ命
も似た発言である。「…法律がどうあるべきかとい
題,
「資本の制限による勤労の制限」
(Manual, 225)
う問題は,スミスの研究の唯一つの,あるいは主
ということを述べる。この命題は,後に『刑罰と報
な,あるいはいかなる部分の目的でもなかった。」
償の理論』
(パリ,1811 年)
,
『国際法』その他におい
ベンサムはここでスミスが法学研究を別の形で考
ても用いられた。ベンサムは,スミスがこの命題
えていたことに気付いていない。恐らく『道徳感
を用いなかったために,論理に無理を来たしたと言
情論』の「道徳感覚」論を否定するあまり,最後ま
う。「もし彼〔スミス〕にその命題があったならば,
で読まなかったかもしれない。「主に科学を考えて
彼は幾多の矛盾と誤りを犯さないですんだであろ
いた」ことを繰り返した後,ベンサムは,スミス
う。
」ベンサムが言うのは,スミスの重 商 主 義
が当時の法律に対して言及した言葉を厳しく検討
と重農主義の論述のことである。「彼〔スミス〕は,
した。「その内容は,法律の現状に関して検察官的
誤り,すなわち彼の観点からそう思われたものと
マーカンタイル・システム
〔すなわち〕批判的でなく,現実の自然の経過に関し
闘うさいに,論理を一つずつ取り上げるのでなく,
て説明的すなわち叙述的〔である。〕そしてこの説明
ひっくるめて取り上げ,体系化した。これは,明確
的内容が彼の本の大部分を占めている」(Manual,
化には決して好ましくなく,真理とぴったり一致
224)。この文言は,既得権益に対する態度を別と
することのあまりない研究方法である。」確かに,
すれば,ブラックストンに対する評言と殆ど同じ
いわゆる重商主義は,重農主義と違って,時代と国
である。
によって理論内容は千差万別である。勿論,スミ
勿論,ベンサムはだからと言って,スミスをブ
スは,重農主義にも精通していたから,その多様
ラックストンのように批判し続けることをしなかっ
性をも熟知していた。従って,この評言は,
『国富
た。ベンサムはその生涯を一貫して,スミスに対
論』第 4 編を念頭に言われたものであろう。もっ
する敬意を持ち続けた。「道徳感覚」による人びと
とも,ベンサムは,技法重視の姿勢であったから,
の相互交流の理論に対しても,ベンサムは『道徳
理論の細部が無視できなかったろうけれども,経
感情論』を名指しで批判したことはない。彼はそ
済学の科学者あるいは理論家にとっては,一般化
— 148 —
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論
と体系化は重要であった。ベンサムのスミスに対
た。マルクスの観点からすれば,これは全くの俗
する評言はそのまま,両者の学的課題の相違を表
流に思われるであろう。ベンサムは,
「冨の目的あ
現する。こうしたベンサムの論点は,スミスに対
るいは利用価値」の議論に示されるように,使用
しての評言に限らず,やや論点はずれるが,例え
価値視点(法学的視点)に立った。従って,冨を
ばフランス革命の「人権宣言」に関しても,その
使用価値視点で捉える限りベンサムは,すべての
最初の一文に対して四ページを費やして批判した
古典経済学者と同様,冨が土地と労働の協同の生
ことにも表れている。
産物であることを知っていたが,それを経済学的
ベンサムは,スミス批評の最後をこう締めくく
る。「いずれにせよ,この書物は,全体としてスミ
に展開することはなかった。
ベンサムは,冨に四つの目的を認め,それを列
ス博士の書物よりも良いか良くないかは別として,
挙する。生存,享受,安全,および〔冨の〕増加で
非常に違う方法を取っている。かの〔スミス博士の〕
ある。これらは,民法の四目的(生存,豊富,平
本から学ぶべきものがあると思う人があるとして
等,安全)に類似している。ベンサムは,商業社会
も,この〔私の〕本から得るものがあると考える人
が資本によって支配されていることを認める。「文
もあろう。仮にましではないとしても,ひどく悪
明の過程をいくらかでも進んだ社会ではどこでも,
いわけではなければ,この本も,少なくともその
生産者から商品を買い,その商品を使用したいと
違いのお蔭で,一つでなく二つの易しい学び方が
思う消費者に転売することを業とする種類の人び
あるということで,役に立つであろう」(Manual,
とが出来て来る。」商業社会である。
225)。しかし繰り返すが,ベンサムは,『国富論』
そして,萌芽的な賃金基金説が初めて登場する
について批判より尊敬の念を述べることの方が多
のは,この文章を含む章である。「労働は,いかな
かった。「職業の性質のうちで,労働の価格を変動
、、、、、、、
させるあらゆる事情が 政 治 経 済 学 の 父を特徴づけ
る場合にも,ある対象に相当量が投じられるには,
、、、、、、、、
資本がなければならないから, あ る 対 象 に 投 じ ら
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
れ
れ る 労 働 量 は そ れ に 投 じ ら れ る 資 本 量 に 制 限 さ 、、、、、
る で あ ろ う。ある社会において用いられる資本量
る叡智によって分析されている」
(Récompense, II,
73,傍点は引用者。以下同じ)と,スミスに対す
、、、、、
る敬意を明白に表していたし,また,
「 政 治 経 済 学
、、、、、、
の 真 の 創 設 者は,いわば,この原理から新しい科
が一定とすると,一定期間内の冨の増加量は,資
本が用いられる効率の良否に比例する,言い換え
学を引き出した。彼は,その科学を商取引の法則
れば,資本が使用される方向の効率性に比例する
に対して用いて,主題をほとんどすべて論じ尽く
であろう」
(Manual, 229)
。問題は,なぜこの文脈
した」(Rationale, II, 228〔原文はフランス語〕)と
において賃金基金説が必要であったかということ
同様な尊敬を表した。
である。ベンサムが念頭に置いていたのは,第 4
の目的「〔冨の〕増加」であって,賃金水準ではな
3.
ベンサム法学における政治経済学
かったことは,注意深い観察者には明白であろう。
ある一定の時点においては,
「ある対象に投じられ
ベンサムは,政治経済学の基本原理を冨の考察
る労働量はそれに投じられる資本量に制限される
から始める。ベンサムによれば,冨とは,
「人間の
であろう」という命題は,正しい。この命題は,前
欲求の及ぶ範囲内にあって,人間が所有すること
に引用した彼のお好みの見解「資本の制限による
ができ,そしてこのようなものとして現実に人間
勤労の制限」から引き出された。もしある一定の
の役に立っているか,あるいは役に立つようにで
時点で,冨の量が資本量とその効率性〔技法水準と
(Manual, 226)
。
きるあらゆる対象〔商品〕である」
考えていいであろう〕の双方によって決定されるこ
つまり,彼の言う冨とは,なによりも使用価値を持
ととなっているとすれば,資本および(あるいは)
つ商品である。問題は,価値の議論があるかどう
資本の効率性が増大すれば,冨を増大させるであ
かということである。ベンサムにはそれは無かっ
ろう。ベンサムは,賃金水準には(人口問題に関
— 149 —
経
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系 第
260 集
わらない限り)関心を持たなかったように私は思
ち,企業者の「貯蓄」によって決定される。この
う。ベンサムが言うところでは,資本の効率性の
考えもまた,ベンサムがスミスから学んだもので
程度は,企業者が胸中に抱く「関心の程度に比例
ある。
する」し,
「事業に関連した知識と判断力を可能な
最高度に持つ機会に比例する。
」経済成長が知識に
以上が,
『政治経済学便覧』第 2 章においてベン
サムが言わんとしたことである。
基づくという認識は,ずっと後に多くの人によっ
て強調されることとなるが,ベンサムはその遥か
4. 『政治経済学便覧』の理論構造
な先駆であったと言えるであろう。つまり,ベン
サムにおける萌芽的賃金基金説は偶発的に生まれ
第 3 章「政治経済学の目的追求における統治権
力の作用の仕方」が述べるところでは,国家権力
たに過ぎない。
スミス以後の古典経済学においては,暫くの間,
は法的,物理的,そして知的力能を含み,それぞ
主観の領域に属するとしてこの種の論議は,経済
れの力能が幾つかに分れる(Manual, 231–233)。
学からの論理的逸脱として論じられなくなる。し
第 4 章は,「商取引は資本に依存するから統治の
かし,ベンサムにとってそれは,必要不可欠な議
作用に設定される限界について」と題され,政府
論であった。彼が言おうとしたことは,
「知識と判
に不幸にもその限界の考えがないか,ごく僅かし
断力」の程度は,企業者が自分の企業に対して持
かない場合に,特定の取引の奨励が誤りである場
つ「関心」に比例するということであった。そし
合があることを論ずる(Manual, 233–236)1) 。第
て,その議論は,もし企業者の関心が冨の増加の
5 章「現在の利害による考慮事項,あるいは非難の
鍵だとすれば,政府の干渉は不必要で悪であるこ
声に対して守られるべき危険について」は,資本
とを強調する。公営企業における政府の執行官は
効率の要求に応えつつ政府は「情報の提供という
民間企業者と同じ関心を持たない。「他人の事業に
間接的方法」しか取ることができないことを強調
対して持つ関心は,…自分自身の事業に対して持
し,また資本蓄積に参加するには政府は「課税に
つ関心ほど通常大きくない。
」判断力に対して影響
よる蓄積の強制」以外に方法はないことを力説し
を及ぼす様々な能力を列挙した後,ベンサムは結
た。ベンサムのことであるから,この「課税によ
論を下す。「これら個別事業のいずれにおいても,
る蓄積の強制」は,当然「市民社会の目的あるいは
〔公営企業を担当する〕政治家は,問題の件に関する
そうであるべきものと矛盾する抑圧的方法」2) であ
選択が意のままになる個人に比べて,同等以上の
る。だから非難されるべき方法であるが,この場
能力があるとはとても思われない。ほとんどすべ
合は,ベンサムの筆法は鋭くなかった。彼は,こ
ての事業において,彼らは,常に必然的に非常に
劣っている。
」ここに彼の自由主義の確固とした核
がある。経済活動に関して言えば,すべての個人
は,他の誰よりも自分の企業に精通しており,資
本の可能な最良の効率性を選択する。ここには,
政治的あるいは行政的執行官の介入の余地はない
(Manual, 229)
。ここでもベンサムはスミスの弟子
である。独占(特権大企業による経済政策の支配)
に反対し,自己責任の経済活動を主張した。ベン
サムは,こうした事柄を,自分の政治経済学ある
いは経済法学の主要主題にした。もし自由が企業
者に与えられれば,資本量は,
「全生産量と全消費
量」の差によって決定されるはずである。すなわ
〔注〕
1)ここでスミスは,シェフィールド卿とともに,
「二人
のもっとも優れたこの科学部門の研究者」と高く讃
えられた。ベンサムは言う。スミスは,
「それ〔取引
は資本に左右されること〕には一言も触れないが,
彼の推奨することはすべてその命題と一致しており,
彼の文章全編においてまるでその命題が常に彼の思
考の中で最重要であるかのように書いている。」他
方,シェフィールド卿が「推奨する事柄はその命題
に無頓着な施策はほとんどない」
(Manual, 233)
。
2)文中,
「市民社会」の原語は,civil society である。
ベンサムとしては,珍しい用語,用法である。恐ら
くこの単語,特に civil の意味するところは,
「非軍
事的」あるいは「非教会的」という日常的な社会を指
している。ペイリにおいてこの単語は珍しくない。
— 150 —
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論
うした措置に対して,その方法が本当に無効であ
農業者の利益も安定的にする」
(Manual, 266)
。生
るかどうか,またこうした悪しき方法を突然に廃
産過剰の場合,輸出奨励金は,
「過剰分が市場に大
止することが,その初期に弊害がいくらかあった
量に滞留しないようにし」
,農業者に翌年の穀物の
にせよ,長く続いてきたのであるから,誰かに不
植え付けを可能にする。ベンサムは言う。「成長か
利が生じないかどうかを,我々に確認するように
ら溢れ出るものがあるのは,輸入しなげればなら
勧告している。まことに「安全」を重視した彼ら
ない状態よりましである。
」ここでは,ベンサムは
しい配慮である。そしてこの配慮は,スミスのも
マルサスと同じ呼吸をしている。奨励金がなけれ
のでもあった。
ば,価格は「不満と暴動」を惹起するまでに達する
『政治経済学便覧』の第 2 部「政治経済学の観
かも知れない。だが,一般的に言えば,
「輸出と輸
点からする政府の機能」において論じられるのは,
入に関する規制は,金がかかり,結局,安全を生
現実経済世界との関連における政府の役割である。
まない」ことは更に明白である。「絶対的安全を生
二分法を好んだベンサムらしく,この第 2 部は二
むものは,備蓄以外にない」
(Manual, 266–268)。
3)
分され,「不適切な施策」(全 13 章) と「適切な
以上がベンサム経済法学の概略である。ここか
施策」
(全 2 章)からなり,
「不適切な施策」は更
ら言えることは,すでに述べたように,統治機関
に二分され,「直接的奨励」(全 7 章)と「間接的
が何をすべきであり,何をすべきでないかという
奨励」
(全 6 章)からなる。「不適切」と命名され
ことである。そして,スミスとは違う観点からで
たものは,望ましくもなくし,自由でもない国家
はあるが,保護制度あるいは干渉体制に反対した
干渉を指していることは,言うまでもない。
ということである。ベンサムにとって,保護主義
冨を増大させる目的で政府が取り得る施策は 2
体制は,法(学)的現象であった。この法的現象
つであって,
「特許,すなわち発明に対する排他的
としての保護主義に対する批判原理を,ベンサム
特権とそれを許可する利便性」
(第 19 章)と,
「生
はスミスから借りた。
存に関わる安全という点でなされるべきこと」で
ベンサムの生産奨励金問題の詳細を検討しよう。
ある。特許に関してはスミスも同意見であったこ
生産奨励金問題は彼には経済現象ではなく法現象
とは,周知である。「生存に関わる安全」とは,人
であることに留意しなければならない。ベンサム
びとに生活資料を安全に,着実に,安定的に供給す
は,生産奨励金を「不合理の道の大きな歩み」と
ることを意味する。小麦あるいは主要食糧に関す
批判する4) 。スミスとは違って,ベンサムは,輸出
る限り,ベンサムは,
「輸出奨励金」に賛成であっ
奨励金と同様に生産奨励金を論ずる。「それ〔生産
た。なぜなら,
「穀物輸出奨励金の利益が,もしあ
奨励金〕は目的が達せられないことが確実な情況の
るとすれば,それは,量を安定的に保つ。そして
もとで,目的が達せられないとの理由で,生じる
3)
「不適切な施策:直接的奨励金」の各章の表題は次
のようである。第 6 章「資本の貸与」
,第 7 章「貨
幣の贈与と現物給付」,第 8 章「生産奨励金につい
て」
(後に検討する)
,第 9 章「輸出奨励金」
,第 10
章「租税その他の生産費負担の免除」
,第 11 章「輸
出割戻金」
,第 12 章「外国人労働者の移入と外国技
法の導入の奨励金」
。
「不適切な施策:間接的奨励金」
は,次のようである。第 13 章「競合する産業部門,
すなわち競合製造工業の生産の禁止」
,第 14 章「競
合する輸入の禁止」
,第 15 章「競合する国内製造業
部門への課税」
,第 16 章「競合する輸入への課税」
,
第 17 章「輸入禁止協定」
,第 18 章「我が国の外国
に対する輸出を有利にする当該外国の奨励金を得る
協定」
。
費用である。
」資本の交付あるいは貸付もまた統治
機関の関与すべきことではないが,これらが実行
された場合,ある部門の産業が増大あるいは存在
可能になる。こうした部門の産業は,これらの資
本交付あるいは貸与がなければ増大もしくは存在
が不可能であったろう。しかし,
「生産奨励金の場
合は,目的が悪いだけでなく,用いられる手段も,
大切な財産がその目的にとって何の役にも立たな
いものになる」
(Manual, 242)
。ベンサムのここで
4)スミスは,
「生産奨励金が認められたことは滅多にな
い」と言う。商人層に好まれなかったからである。
『国富論』第 4 編第 5 章 a, 25 参照。
— 151 —
経
済
系 第
260 集
の議論は,輸出奨励金に関するスミスの議論と似
転によって生産奨励金が正当化されることがある
ている。「お金が維持のために投じられるのは,そ
例外的な場合があると言う。奨励金の対象となる
の取引が不利だからであり,その理由だけのため
主食料の場合である。例えば「イングランドの小
である。それというのも,もしそれが有利な取引
麦,スコットランドのカラス麦,アイルランドの
〔貿易〕であれば,維持を必要としないからである。
ジャガイモ,インドの米」
(Manual, 247)である。
取引〔貿易〕業者が自分の商品でそれを必要とする
これらの食料は,貧しいものの間で主に消費され
人びとから得る売上金額が通常の利潤に達しない
ている。もっとも広く消費される商品は,課税の
から,彼はその差額を埋め合わせるために政府に
対象とされるべきでなく,奨励金の対象とされる
お金を援助して貰わなければならない」(Manual,
べきである。その他のあまり一般性のない消費財
244)。
は,この奨励金が収集されるべき税の対象とされ
この施策の弊害は,
「古くからの既存の取引」の
るべきである。カラス麦の生産奨励金は,貧しい
場合,極めて明白である。なぜなら,このような
ものが奨励金のない場合よりも安い価格でカラス
古い取引は一般に非常に広範に営まれているから,
麦を入手できるようにするであろう。ベンサムは
この実際の範囲がたとえどれだけであろうと,維
言う。かくすれば,富める階級のポケットからお
持される価値があると考えられるべきである。こ
金を出させて貧しい階級のポケットに入れること
れが,典型的な商人の営業観である。この営業観
になるように思われる。これが所得移転という意
は,
「嫉妬と近視眼,疑り深い気質と混濁した頭脳」
味である。
5)
(Manual, 244)を生みがちである 。明らかにベ
しかし,貧しい階級の生活状態は,改善されない
ンサムは,自由競争市場を視野に入れており,生
であろう。なぜなら,彼らの所得は減少するから
産奨励金が生産価格を奨励金の額だけ引き下げて,
である。ここにおいて萌芽的賃金基金説が前より
競争者を当該産業に誘導するであろう(Manual,
も明白に登場する。ベンサムの主張によれば,
「最
245)6) 。こういう情況では,国民は,税によって
も貧しい階級の生活のよりどころは,労働の賃金
失った金額を価格の低下によって埋め合わせるか
である。つまり,彼らの労働と交換に彼らに与え
ら,価格低下が生じた生産物によって,生産奨励
られる冨の量である。しかし,賃金率は,その時
金は,利益も齎さず害も及ぼさないであろう。
のその国の豊さの程度に,左右され,必然的にそ
しかし,この循環は,無意味であり,いくらか
れのみによって,かつ排他的に支配される。すな
経費がかかる。もしベンサムの生産奨励金の考え
わち,資本の形で労働の購入に用いられる用意の
が間違っていなければ,「生産奨励金が,どれだ
ある冨の量と労働需要のある人びとの数の比率に
けその価格を減少させようとも,長期的には,い
よって,支配される」(Manual, 247–248)。
ささかも商品の量を増大させないことは明らかで
ベンサムはまた,こうも言う。ある国の富裕の
ある」
(Manual, 246)。これが,彼の結論である。
水準が同一である限り,カラス麦が安く提供され
しかし,彼は例外的な場合を付け加える。所得移
れば,支出はそれだけ減るであろう。だから,ベン
サムは,賃金基金説を基礎に生産奨励金の経済効
5)Cf., Smith, WN, IV, V, a, 25. 「輸出奨励金が多
くの不正な目的のために悪用されてきたことは,極
めてよく知られている。
」
6)Cf., Smith, WN, IV, V, a, 25. 「奨励金を支払う
ために人びとが納入しなければならないのは,ただ
税だけであろう。それは,国内市場では商品の価格
を上げるのでなく,低めるであろう。そのため,人
びとに第 2 の税を課すのでなく,少なくとも部分的
には,人びとが最初に納入した額を戻してくれるで
あろう。
」
果を論じたと言える。その限り,彼は,経済学者
であったと言っていい。彼の議論は,スミスより
詳細であった。ただし,ベンサムはこの論題に限
り経済学者であったけれども,ここだけで彼を経
済学者として評価してはならないであろう。奨励
金の議論をスミスとベンサムで比較すると,ベン
サムの議論はとてもスミスには及びもしない。第
1 に,ベンサムには価値と価格の理論がないから,
— 152 —
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論
スミスが論じた銀価値に対する奨励金の効果とい
を犠牲にしなければ増えない。また冨は人口を犠
う議論を展開できない。ベンサムは,経済現象と
牲にしなければ増えない。人口が多ければ,それ
しての奨励金に関する歴史的事実に関心を持たな
だけ人びとは貧しい。少なければそれだけ,豊か
い。彼が法学者であることは,このことでも明白
である。」
である。それ故,第 2 に,ベンサムが論じようと
我々は,この断片が 1793 年から 1795 年の間に
したことは,立法の原理としての生産奨励金一般
書かれたことを銘記すべきである。これは,少な
の問題であって,特定の産業における奨励金に関
くともマルサス『人口の原理』(1798 年)の 3 年
る経済学的論述ではなかった。『政治経済学便覧』
前である。ベンサムの人口理論は,スミスおよび
において,ベンサムは,立法政策の問題として冨の
マルサスの人口理論とは,共通点も相違点もあっ
増大に生産奨励金が貢献するかどうかという問題
た。もとより,ベンサム人口理論は,人口は繁栄の
に決着を与えることで満足していた。従って,経
標識という重商主義人口理論を克服していた。ベ
済学者としてスミスとベンサムを比較することに
ンサムが指摘したように,人口は生活資料の量に
は意味がない。
より決定されるという人口理論において,モンテ
私はここで,スタークが『政治経済学便覧』に付
スキュー,コンディヤック,ジェイムズ・ステュ
け加えた断片「人口」7) に対して,ベンサムが行っ
アート,アダム・スミスおよびフランス重農主義
た短い考察に触れておきたい。これは,私見によ
者たちと共通していた。1802 年に『民法と刑法の
れば,スミスとマルサスとの間におけるベンサム
理論』,1811 年に『刑罰および顕彰の理論』を編
の位置を示唆する重要な文献である。
集したエティエンヌ・デュモンは後者の第 2 巻に
「人口は性欲によって制限されるのではなく,生
おいて述べた。「人口論に関して将来政治経済学の
活資料によって制限される」とベンサムは言う。
名誉ある地位を占めるであろうマルサス氏の名前
スミスも似た言葉を述べている。また,ベンサム
が,ここで述べられていないのは,この著作が彼
は言う。「子供の生活資料があるかどうかは,労働
〔マルサス〕の著作よりかなり前のものだからであ
需要に比例する。そして労働需要はすでに蓄えら
る。…もしマルサス氏がこの著作を知っていたら,
れている相対的資本量に比例する。
」再び,ここに
氏は,自分の人口の原理が新しい逆説ではないと
萌芽的賃金基金説がある。ベンサムは続ける。「産
いうことのもう一つの証明として引用したであろ
業に向けられる資本量が一定とすれば,人口は,冨
う…」(Bentham, Récompenses, t.2, 305)。デュ
モンは,残念ながら,ベンサムがこの人口の議論
7)私は,ラテン語で書かれた長い文章を割愛する。こ
れは,スタークによれば,
「たとえ生殖に役立たなく
とも,たとえ明確に不自然であろうと,性交は快楽
の経験として正当な行為だと擁護」したものである。
スタークは,こうした考えをラテン語で表現するよ
うにしたものは,ベンサムの繊細な気配りなのだと
言う。
「経済学者は一瞥も与える必要はない。ベン
サムはここでは,社会理論家としてではなく,道徳
の教師として(あるいは,誰かが等しく正当に言っ
たように,不道徳の教師として)語っている。
」Cf.,
Stark, Introduction to his edition, vol. I, p.57. ス
タークはさらに言う。
「オグデンによれば,ベンサ
ムがマルサスにより決定的に転向したのは 1802 年
であった。このことは正しいと思われる。」そうか
もしれない。私は,1803 年の『人口の原理』第 2 版
以降,マルサスはスミスによってベンサムと同様に
労働維持基金の考えを抱くようになったと思う。
において何を追求しようとしたかを理解しなかっ
た。ベンサムがここで明らかにしようとしたこと
は,統治機関が人口増加に関してなすべきことは
何もないことを,スミスを基礎に述べることであっ
た。ベンサムは,人口増加を目的とした人為的奨
励は,不必要でもあり,効力もないという見解で
あった。人口は,富裕と同様,すべてを個人の自
発性に委ねた場合に最も盛大となるとも考えてい
た(Institute, EW, III, 36)。
5. ベンサムのスミス論再論
すでに触れたように,ベンサムは終生,スミス
に対して尊敬の念を失わなかった。我々は,バウ
— 153 —
経
済
系 第
260 集
リング版全集の中に,スミスに対する数々の言及
有能な事務弁護士ジェイムズ・トレイルからも齎
を見ることができる。ベンサムはスミスに対する
された。「私はスミスの本が印刷中だと思います。
多大の敬意を払いながら,それにも拘わらず『高利
多くの文章が追加されると思います。…二か月以
の擁護』においてスミスを批判したことは周知で
内に出ることはないでしょう」(Bentham, Corre-
ある。ベンサムがスミスに対して初めて言及した
spondence, III, 299, Trail to Bentham, 9 August
のは,私が知る限り,弟サミュエルに宛てた 1777
1784)。
年 5 月 6 日付の手紙である。その時 27 歳のベン
トレイルとベンサムと両方の友人であったジョー
サムは,その手紙において,ヒュームの遺稿『自
ジ・ウィルスンは,ベンサム宛ての手紙(1787 年
伝』に付けられたスミスのストラハン宛ての手紙
4 月 27 日)の中で,ここ 10 年の政治経済学の大
に多くの批評と批判が巻き起こったという報道を,
きな変化を指摘し,その原因をアダム・スミスの
驚きをもってサムに伝えている。周知のようにス
影響と対アメリカ紛争に求めた。恐らく少なから
ミスがヒュームは安らかに息を引き取ったと述べ
ぬ知識人がウィルスンと見解を共有していたであ
たことに対して,ある種のセンセイションが起き
ろう。少なくともベンサムは,
『国富論』第 3 版に
た。この時のベンサムの驚きから,彼がスコット
おける改訂を知っていた。
ランド哲学者に多大な関心を払っていたことを,
ウィルスンがベンサムに伝えた報道は,それだ
我々は知る。ベンサムはすでに信仰を持たなかっ
けではなかった。スミスはベンサムの『高利の擁
たから,同様の疑いを持たれたものが安らかにこ
護』を高く評価しているという別の報道も,ベンサ
の世を去ることが世間に信じられないという事態
ムは聴いた。しかも,スミスだけでなく,トマス・
が,ベンサムには驚きであった。
リードもまた例外なくスミスと同意見だし,ジェ
ベンサムが『国富論』に初めて言及したのは,
イムズ・グレゴリ博士はベンサムによって見解を
1783 年 2 月 5 日,シェルバーン卿に宛てた手紙
変えたとも知らされた。スミスが亡くなる少し前,
においてである。ベンサムがこの手紙を書いたの
ベンサムは,政府による利子率規制に関する自分
は,シェルバーン卿に本を一冊,入手する援助を
の見解にスミスが同意してくれることを切望して
依頼するためであった。それは,
『国富論』ではな
いた。この議論はアイルランド議会で白熱してい
く,
『国富論』第 5 編に引用されている『フランス
たからである。『高利の擁護』において公表された
の財政改革の正しい方法を考慮するために過去数
2 つの公開書簡とは別に,ベンサムはもう 1 つの手
年間委員会によって用いられてきた,ヨーロッパ
紙をスミス宛てに書いたが,これは公表もされず
における権利と義務に関する覚書』というフラン
投函もされなかった。ベンサムがそこに書いたこ
ス語の本であった(WN, V, II, 1, f.n.: Bentham,
とは,スミスの考えが「今は」自分の考えと同じで
Correspondence, III, 154)
。このことは,ベンサム
あると信じており,アイルランド議会の討論に強
が 1783 年初めには『国富論』を全部か一部を読ん
い影響を与えるためにスミスの同意を求めたいと
でいたことを物語っている。ベンサムが『統治論断
いうものであった。「私が以前に植えた無価値な種
片』
(1776 年)を書いてから 7 年後,シェルバーン
は,少しは役に立ちました。貴下が頑丈な杖の一
卿が短い首相在任中のことであった。そして,ベン
撃を加えられれば,これ以上,望むことはありま
サムがフランスの事情に関心を寄せ始めたことを
せん」(Bentham, Correspondence, IV, 134)。ベ
この手紙は示している。フランス革命の 6 年前の
ンサムは,この手紙をスミスに送らなかった。ベ
事であった。そして,スミス『書簡集』の編集者に
ンサムは,スミスの援軍を諦めたと思われる。そ
よれば,オーストリアの医師,フランソワ・ザヴィ
して,ベンサムの勘は恐らく正しかったであろう。
エール・シュヴェディアウアーがベンサムに対し
私には,スミスは火中の栗を拾う人とは思われな
て,スミスは『国富論』の新版を準備しているとの
いからである。
情報を齎している。少し経ってから,同じ情報が
晩年になってもベンサムは,スミスを依然とし
— 154 —
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論
て賞賛した。『刑罰と報酬の理論』には「政治経済
関心を持った。政治経済学の理解の必要は,増大
学の父」
(Bentham, Récompenses, II, 72f.n.)8) と
しつつあった。しかし,他方,チャールズ・ジェ
か「政治経済学の真の創始者」という表現がある。
イムズ・フォクスのようなウィグ貴族は,政治経
「政治経済学の真の父は,いわば,この原理から新
済学を軽蔑したと言われる。この科学があまり大
しい科学を作り出した。彼が取引の法則にそれを
衆受けしなかったことは確かである。ベンサムは
用いた結果,彼はほとんどすべての論点を論じ尽
彼らを啓蒙しなければならなかった。彼の教科書
くした」
(ibid., 122)とも言う9) 。もしスミスに何
はそのために生まれた。
か残した仕事があるとすれば,それは「政治経済学
の教科書」書くことであった。ベンサムは,1799
6. ウィリアム・ペイリの政治経済学と幸福論
年 7 月の日付を持つジョージ・ローズ宛ての手紙
において,
「輝かしい先生によってすべての研究が
ベンサム研究者がすでに周知のように,ベンサ
し尽くされましたけれども,この科学の適切な教
ムは『道徳および立法の原理序説』を 1780 年に
科書を書く作業は,まだその需要が満たされない
印刷して,若干の友人たちには配布したものの,
で残っています」
(Bentham, Correspondence, VI,
9 年間も未公刊のまま放置していたのを,出版す
184)と述べている。その契機は,ベンサムがアン
る気になったのは,1785 年にペイリ(1743–1805)
ブローズ・ウェストンの無署名のパンフレットを
の『道徳哲学および政治哲学の原理』
(PMPP)が
読んで,感ずるところがあったからである。それ
出版され,それがいくらかベンサム理論に似ると
は,誤った貨幣観が蔓延しているという危惧であっ
ころがあったため,早く出さないと剽窃を疑われ
た。誤った貨幣観は,「この著作家(才能もあり,
ることを友人たちが心配したからであった。ペイ
思考力もある人と思われるが,アダム・スミスを
リのこの書物は,長くケンブリッジ大学クライス
読んだこともなく,充分にスミスから学恩を受け
ツ・カレジで倫理学の教科書として使用され続け
てもいない)のみならず,…その他の知識人,読
た。確かに,ペイリとベンサムは,道徳理論にお
者,そしてアダム・スミスの崇拝者にも」及んでい
いて「有益性の原理」を導入した点,刑法の目的
るという危惧があった。おそらくこの議論は,ナ
を「犯罪の防止」に置いた点,社会とは単なる名
ポレオン戦争中の 1797 年の正貨支払いの停止に
辞にすぎず実在するものは個人のみであると考え
よって引き起こされたものであろう。ベンサムは,
た点,統治機関の目的は国民の幸福にあるとして,
正貨の裏付けのない銀行券が通用することを体験
最大幸福主義を掲げた点,あるいは情報の公開を
して,銀行券あるいは財務省証券の流通に大きい
重視した点など,理論の急所において共通するも
のをいくつか持っていた。ただ,全体を概観して
8)この文章は,もと,1811 年に公刊されたが,書か
れたのはそれ以前であり,1826 年にベンサム自身
の同意のもとで英訳された。Récompenses, tome 2,
Livre premier, ch. X, p.72.
9)
『報酬の理論』(Rationale of rewards, Works, II,
228)は,この文章の翻訳である。なお,ベンサム
は,競争の考えについて,スミスに心から共感して
、、
いたことに留意すべきである。
「 競 争——その長所
は,すでに非常に見事に,サー・ジェイムズ・ステュ
アートは言うに及ばず,アダム・スミスによって示さ
、、
れた。 競 争においては,浪費と腐敗に対する防止が
彼の見解に取っては死活の重要性を持つと考えてい
た」
(Bentham, Economy against Burke, in Official Aptitude Maximized, Expense Minimized,
CW, 92–3)
。
も細部を子細に見ても,例えば刑法の目的で共通
したとしても死刑に関してペイリは賛成であって
死刑廃止論で有名なベンサムと相違する箇所も目
に付く。最も基本的な相違の一つは,ベンサムが
この刑法理論を道徳理論と一貫させ,両理論の基
本理論として「有益性の原理」を置いたのに対し
て,ペイリは,法学的視点を一貫させることはな
かった。
『道徳哲学および政治哲学の原理』は,6 編から
なり,その第 6 編が「政治知識の構成要素」と題
され,表題における「政治哲学の原理」はこの第
6 編だけで語られる。その直前の第 5 編は「神に
— 155 —
経
済
系 第
260 集
対する義務」である。信仰を持たなかったベンサ
には存在しないと言う。1.「感覚的快楽」すなわ
ムとのもう一つの決定的相違はここにある。
ち,飲食および子孫持続行為の充足。2. 「苦痛あ
幸福についてのペイリの定義はいろいろあるが,
るいは不安から逃れた状態」
。3. 「高位,高官,貴
私が代表的な表現だと考える文章は,以下のよう
顕」
(PMPP, I, VI, 16–22)10) 。ベンサムならば,
である。「幸福な状態(happy)という言葉は,相
これらすべての範疇を幸福から除外しなかったで
対的な用語である。すなわち,人が幸福だと言う
あろう。ペイリはまた,苦痛が救いであることが
場合,我々の言う意味は,その人が他の誰かより幸
あり得ると主張する。「穏やかな苦痛は,そこに
福(happier)だということを指している。…同様
注意が集中し力を使うから,多くのものにとって
リフレッシュメント
に一般の人びとと比較して言う場合,我々は,健
気 分 回 復となる。例えば,痛風の発作は時とし
康と力能を持つ人をそう呼ぶ。
」あるいは「厳密に
て癇癪を治す」(PMPP, I, VI, 19)。ベンサムは,
は,快楽の量あるいは総体が,苦痛を超えるいか
この程度の議論はしない。仮にするとしても,単
なる状態も幸福と呼び得る。そして幸福の程度は,
純にこの効能も痛風の「有益性〔効能〕」として処
この超過する量に左右される。そして通常,人生
理するであろう。この程度の道徳理論が学問的議
において手に入れられる幸福の最大量は,人の幸
論にも教義上の論議にも前面に出て来た時の,イ
福とは何であるかと問い,あるいは幸福について
ングランドにおける代表がウィリアム・ペイリで
述べる際に,我々が幸福という言葉で意味するも
あり,スコットランドでは共通感覚学派のジェイ
のである」(PMPP, Bk., I, ch., VI, p.14. 以下,
ムズ・オズワルド(?–1793)であったように私に
Bk. Ch.p. を省略)。大雑把に言えば,「幸福」を
は思われる。ともに神学者である。
コモン・センス
「快楽」と区別しなかった点,ベンサムと共通する
ではペイリにおいて,結局のところ,幸福とは
が,厳密に言えば,幸福の捉え方と量的計算の仕
何であるか。簡潔に言えば,次の 4 つである。第
1,
「社会的情愛の発揮」
。「社会的情愛」とは,
「友
方において両者には精粗の差がある。
ペイリによれば,上に見たように,
「幸福」とは,
人や隣人に対する情愛を含むのみならず,家族の
快楽あるいは快適情況が苦痛あるいは苦痛な情況
絆や縁者に対する情愛をも含む。
」これは,詰まる
を超える超過分である。ペイリの幸福の観念は情
ところ,家族愛をふくめた隣人愛というキリスト
況と結びついている。ベンサムは,当事者の「幸
教道徳の徳目であろう。ここに家族愛が入ってい
福を促進あるいは阻害する」行為の傾向ないしは
るところに近代家族の成長を読むことができるで
ユーティリティ
性格を「有 益 性」と呼んだ。すなわちベンサム
あろう。これに続く 3 つは,
「社会(家族)的情愛」
の場合は,幸不幸の概念は,なによりも行為ある
といささか範疇を異にする。第 2 は,
「引き受けた
いは行為の性格(傾向)と結びついている。そし
目的のために心身のいずれかを使うこと」であり,
て,道徳と幸福を「立法の原理」の観点から考える
これは,人が置かれた立場に相応しい役割と課題
ベンサムにおいては,
「恩恵,利益,快楽,善ある
を遂行するという意味である。家族あるいは社会
いは幸福はすべて同じものに…帰着する」
(IPML,
のなかの義務の遂行と言ってもいいかもしれない。
CW, 12)。行為とは,ある動機によって引き起こ
されるものであり,そしてある結果を残すもので
ある。従って,ベンサムにおける幸福は,行為が
その輪郭を明白に持つ限り,内容はどれほど様々
であろうと,輪郭が明確である。
ペイリは上の幸福の定義を更に説明する,ある
いはむしろ,否定的に再定義したと言っていいか
もしれない。つまり,ペイリなりに幸福概念の明
確化を図った。彼は,幸福は次のようなものの中
10)
「感覚の快楽と私が言うのは,食べること,飲むこと
の動物的欲求充足だけでなく,人類が存続する上で
もっと洗練された,音楽,絵画,建築,庭園の手入
れ,素晴らしい展示,劇の上演の快楽,最後に,狩
猟,射撃,魚釣などの積極的スポーツの快楽を言う。
」
どうしてこれらの快楽が幸福から除外されたかとい
う理由は,これらが長続きしないという事実,また
それらの繰り返しは新鮮さを減ずるという事実,ま
たそれらはもっと洗練された趣味ほどに興味を持た
れないという事実による。
— 156 —
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論
そう理解すれば,第 1 項と関連してくるように思
ある時に感じる幸福を「神が人生に与え給うた喜
われる。そしてここでも,キリスト教道徳を見る
び」と呼んだ。それ故,ペイリの思想は,
「神学的
ユーティリタリアニズム
べきであろう。人は,その役割を神から与えられ
幸 福 主 義」と呼ばれる。ペイリの観念体系は,
ると考えていい。「目的あるいは仕事がある場合,
神が現世に直接参加するという議論であるが,こ
人は通常,幸福である。…精神が空白である場合,
の議論はペイリのみならず,スコットランド共通
我々はしばしば惨めである。
」第 3 および第 4 は更
感覚学派にも共通した主張であった11) 。この思潮
に前二者とも趣を異にする。第 3,
「幸福はよく考
は,スミスおよびベンサムとは異質の動向であっ
えられた習慣のあり方に左右される。
」ここでペイ
たように私には思われる。
リが言おうとしていることは,習慣によって同じ
しかし,既に触れたようにペイリとベンサムは
ことが違う効果を持つことである。彼が典型例と
社会とは名のみであって,実在するのは個人のみで
して挙げた例示に明らかである。カード遊びを習
あるという認識において同意見であった。マルク
いとする人は,日曜日にそれがないと楽しみがな
スに手酷く批判された認識である。ペイリは言う。
いが,毎日農耕に汗を流すものにとって日曜日は
「我々は社会を感覚的存在のように語るけれども,
「解放」である。あるいは,「科学や議論になって
また我々は社会から幸福と不幸,欲望,関心,情
いる話題の本,小説,有名なパンフレット,新聞
念が生まれると考えるけれども,個人以外には実
記事,新奇航海物語,あるいは旅行者の日記」つ
在するものも,感じるものもいない。人びとの幸
まり多趣味な読書家は愉しみが多いが,趣味の範
福は,1 人ひとりの人の幸福から成り立っている。
囲が狭いと本を探すのに苦労しなければならない
そして幸福の量の増大は,受け手の数,あるいはそ
(PMPP, 25–27)
。もしこれが,
「習慣」というもの
れを感じた喜びの増加によるしかない」(PMPP,
を表現しているとすれば,この人の行為は,家庭
VI, XI, 51)
。厳密に言えば,これは,ベンサムと完
内の極めて個人的な行為であり,個人的な幸福を
全に同一の見解というわけではない。両者の見解
語っている。また,こうも言われる。幸福に関し
が一致するのは,「個人以外には実在するものも,
ては,
「快楽を齎すものは,収入ではなく,収入の
感じるものもいない」という点であり,
「人びとの
増加である。
」第 4,
「幸福は健康にある。
」ペイリ
幸福は,1 人ひとりの人の幸福から成り立ってい
によれば「健康」とは,
「身体の不調から自由」で
る」という点であった。ペイリがそのように考え
あることであり,また「円満な心」である。「円満
たのは,
「快 楽は,持続時間と密度が違うだけで,
たのしみ
な心」とは,
「平穏な,確固とした,敏捷な心」の
〔他に〕違うところは何もないと思う」と,快楽の
ことである。(PMPP, I, VI, 21–25)
、
ペイリの幸福論は,幸福 感の論議と言うべきも
量的な差異以外に質的な差を認めなかったからだ
のである。そして,こうした考察から,ペイリは
ベンサムで違った。ベンサムが,誰しも知るよう
2 つの結論を導き出す。「第 1,幸福は市民社会の
に,快苦の測定基準すなわち尺度を個人としては
と思われる。この快楽の量的計算原理がペイリと
様々な階層にほぼ同じように与えられている。第
ペイリの 2 つに加えて更に 2 つ,合計 4 つのもの,
2,悪徳は,…美徳に優る利益を有しない。」ペイ
集団としてはその 4 つに更に 2 つを加えた 6 つの
リは,独自な幸福観によってこのような結論を述
ものを考えていた(IPML)
。だから,ペイリと同
べるが,ベンサムにはこのような幸福論はない。
様にベンサムもまた,若きジョン・スチュアート・
2 人が如何に異なるかを理解するには,
「恩恵,利
益,快楽,善あるいは幸福はすべて同じものに…
帰着する」というベンサムの言葉を想起するだけ
で充分であろう。ベンサムは,幸福を感覚で捉え
られたものというよりは,社会的実在として捉え
る。しかも,ペイリは,我々が心身ともに健康で
11)イングランドにおいては,リチャード・プライスがペ
イリよりも共通感覚学派と親密であったように思わ
れる。Richard Price, A review of principal questions in morals, London 1758 を参照。この本は,
トマス・リードに対する敬意を表明し,リードから
受けた学恩に感謝している。
— 157 —
経
済
系 第
260 集
ミルを苦悩に陥れたことで人も知るごとく,快楽
らゆる国においていかなる他の政治目的すべてに
に質の相違を認めないけれども,快楽の発生原理
もまして目的とされるべき対象である。
」この献策
(情況か行為か)と計算原理がペイリと違うから,
は,先に見た,いわゆる重商主義的発言からの当
「幸福の量の増大は,受け手の数…の増加あるいは
然の帰結である。しかし,そう言いながら,ペイ
受け手の快楽の増加によるしかない」と言うペイ
リには,人口繁殖率への確信があった。すなわち,
リに全面的には同意しなかったであろう。ベンサ
ペイリは,強い人口圧力を認める。「生きることが
ムは,幸福を感じる人の数以外にも,法の保護の
容易な国ぐにでは,またそういう環境では,人口
許の幸福増大には様々な方法があり得ると考えて
は 20 年間に倍加してきた。」すなわちペイリは,
いる。例えば『民法と刑法の理論』における指標
25 年倍加説のマルサスよりも人口圧力を強く考え
の 4 項目は最大幸福,すなわち個人の幸福の増大
ていた。そう述べた後,当然のようにペイリは言
が目指すべき目標であって,そこに幸福増大の鍵
う。「戦争,地震,飢餓あるいはペストが惹き起し
があった。ペイリは,従って人口は社会の繁栄の
た荒廃〔人口激減〕は通常,短期間に修復される」
標章という重商主義的なものにとどまっていたが,
(PMPP, VI, XI, 52)
。スミスもマルサスも,食糧
が十分にあればという条件つきならば,ペイリの
ベンサムにはそうした人口論はなかった。
ベンサムが相互に同意できたと思われるもう 1
この発言には賛意を示したであろう。しかし,ペ
つの道徳的見解は,彼らが道徳哲学の主題として,
イリは,その条件をつける必要を認めないほど,食
美徳よりも幸福を優先的に考えたという点である。
糧危機については楽観的であった。
この哲学上の主題移動は,社会的および神学的研
ペイリとマルサスとの人口論における決定的相
究の関心の推移を反映しているであろう。我々は,
違は,生活資料増加率であった。ペイリは,楽観的
再び厳密な意味での国民国家が登場し,全国民の
に土地の肥沃度は相当よく向上させられる,彼の
幸福に責任を負うようになった近代国家の歩みを,
言葉を用いれば「まだ我々には知られていない程
思わざるを得ない。ただし,ペイリは例外的事例
度まで,ヨーロッパのいかなる国の改善状態よりも
を認める。これは今日的観点からは,非常に重大
遥かに超えて」向上可能であると述べた(PMPP,
な指摘だと私は思う。ペイリは,奴隷を考慮に入
VI, XI, 53)
。これは,マルサスが断罪したゴドウィ
れるならば,不幸が人口に比例することを認める。
ンにいくらか近いであろう。だが,私は,ペイリ
ただそれでも彼は言う。「だが,一定の限界内で
に対してマルサスの眼,とりわけ『人口の原理』初
は,すなわちヨーロッパに存在する節度ある統治
版の眼を通して評決を下そうとは思わない。マル
機関のもとで市民生活が営まれている限界内では,
サスは,ペイリを自分の先駆者の一人として数え
ある一定の地域で生み出される幸福の量は,これ
たことはなかったけれども,ペイリが『道徳哲学
まで住民の数に左右されているのは確かだと私は
および政治哲学の原理』において論じた諸問題を
思う」
(PMPP, VI, XI, 51)
。奴隷はこの頃,まだ
関心外に置いたとは考えにくい。この書物の第 6
ヨーロッパ社会にはほとんど流入していなかった
編「政治知識の基本要素」においてペイリは,人
から,市民というものの観念に関わることはなかっ
口理論を展開し,全 12 章において多くの話題を
た。しかし,白人市民だけの幸福論としても,人口
論じた。例えば,貧困,家族,雇用,奢侈,移民,
が幸福を齎すと楽観する時代はやがて過ぎ去ろう
植民地,貨幣,租税,穀物輸入,農業,労働の節
としている。マルサスは,ケンブリッジの出身で
約である。このことは換言すれば,ペイリが人口
あるにも拘わらず,あるいはそれだからこそ,ペイ
論に集約する形で経済学を展開したということで
リの人口理論を批判した。それは当然であったか
ある。マルサスは人口論から出発して,初版以後,
もしれない。ベンサムと対照的に,ペイリは,統
次第に経済学的関心は深まり,ペイリに類似した
治機関に人口奨励策を献策する。「人口の減少は,
問題を,版を重ねる毎に展開し,やがて『経済学
国家にとって最大の災厄である。人口増加は,あ
原理』(1820)に結実させる。
— 158 —
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論
ペイリの第 6 編第 11 章の表題は「人口と食糧,
る」という発言で始まる。食糧は,分配される前
およびそれに伴う農業と商業」である。この表題
に生産されなければならないが,
「生産は分配に大
において暗示されているように,ペイリは重農主
きく依存する。
」ここで,食糧は,需要に規制され
義である。この点はマルサスに共通する。第 11 章
るが,需要は「購買力ある人」に規制されると述
は次の印象的な文章で始まる。「あらゆる理性ある
べて,簡単な有効需要論が展開される。要するに,
政治の最終目的は,一定の領域の国に最大量の幸
すべては雇用に発した。だから,人口は雇用に関
福を生み出すことである。
」国民の冨,力および栄
連する。雇用は人口に影響する。そして素朴な農
光は人類の賞賛するところである。こう述べた後,
工二分論から,食糧生産に雇用されない人(工業
ペイリは断言する。「国民の幸福は一人ひとりの幸
人口)は,農業人口が需要する商品の生産に雇用
福からなる。
」だから,住民の数が倍加すれば,そ
を見出す必要を述べる(PMPP, VI, XI, 64–70)。
の幸福も倍加する(PMPP, VI, XI, 50–51)
。逆に
外国貿易がこの中で議論される。
言えば,人口減少は最大の悪である。政治家や立
ペイリの人口論とそこからの系論としての経済
法者は,国の威光に目を奪われるが,国の「真の
学の骨格は以上である。この後,「人口に影響す
絶対的利益は人口である」(PMPP, VI, XI, 52)。
る原理」として,移民,植民,貨幣,課税,パン
では,人口を決定するものは何か。人間の増殖
原料穀物の輸出,そして労働の短縮という 6 項目
力と土地の生産力が人口を決定する二つの原理で
が,原理論政策論の区別なく検討され,その骨格
あると,ペイリは答える。土地の生産力が乏しい
を肉付けしている。人口は繁栄の標章であるとす
場合,
「本能」が人を労働に駆り立てる。あるいは
るペイリであるから,移民が歓迎すべきものでな
土地生産力が等しくても,生産物の分配と消費の
いことは当然である。植民については,アメリカ
様式によって人口は変わる。従って,人口決定要
独立直後であったから「最近の我々の誤り」を反
因は,生活様式と食糧の量と食糧の分配様式と言
省しつつ,なおそれは国土の拡大であり,原料輸
い換えられる(PMPP, VI, XI, 56)。生活様式に
入と「加工品の輸出」で我が国を潤すと言う。「貨
ついては,奢侈の問題が取り上げられる。奢侈は
幣」論は,常識的に貨幣数量説を受け入れている
雇用を提供し,勤労を促進するから人口を増加さ
ように思われる。「貨幣が多いところでは人口は
せると,一旦は肯定される。雇用問題はペイリに
多い」と言いながら,この論理を解くことは難し
とって極めて重要視されている。有効需要論がそ
く,人口に対する貨幣の影響は説明が困難だと言
れに絡むことは後に触れる。しかし,奢侈は社会
う。ペイリにとっては人口に最も影響するのは雇
全体に蔓延すると,逆方向に作用するようになる。
用であったから,問題は貨幣が雇用に及ぼす影響
「富裕で贅沢な」人びと, は存在してもいいが,一
である。スペインの例でも明白なように,鉱山の
般の人びとは「働き者で倹約家」でなければなら
発見,従属国の貢納は人口に影響しないという知
ない(PMPP, VI, XI, 57–59)
。食糧の量つまりそ
見は素朴な貨幣数量説であろう。しかし,ペイリ
の生産に関しては,ペイリは,素朴な経済発展の
は,貨幣が「真の実効ある動因」であると言い,勤
4 段階論を述べた後,
「国家の最大の不幸は,貧し
労を刺激し,生活資料の入手を容易にするとも言
い小作制度である」とし,リチャード・プライス
う。これは敢えて言えば連続的影響説になるであ
に似た自作農主義を主張する。各人が他人のため
ろう。つまり,ペイリには経済学的一貫性,一言
でなく自分自身のために働くこと,生産物のすべ
で言えば素養が欠けていた。あるいは常識的知識
ての利益が生産者のものになることを,強調する。
しかなかった。かくして,ペイリは,雇用と人口
しかし,この論理は徹底していなくて,地主小作
の増加は正貨の量の持続的増加による,あるいは
関係が否定されているわけではない(PMPP, VI,
正貨の増減は公共の利益の増減の試薬であると言
XI, 61–63)
。分配様式に関しては,
「雇用はすべて
う(PMPP, VI, XI, 75–78)。
ストック
の国で分配手段であり,個人に供給する源泉であ
課税の影響については,税は公共の資 本を増減
— 159 —
経
済
系 第
260 集
させないから基本的には影響はない。ただ配分が
我々は,今一度,ペイリは,ベンサムと同時代
変わるだけである。しかし,勤勉な人びとから怠
の「幸 福 主 義」者の 1 人であったことを確認し
惰なものへ,多数者から少数者へと配分が変わる
ておきたい。ベンサム自身は,ペイリが後発だと
と,結果は「同じではない。
」税は報償にも刑罰に
信じていた。ベンサムのこの信念は間違いなく正
もなる。9 家族に課税され,10 番目の家族を扶養
しい。
ユーティリタリアン
することに使用されれば,貧しい家族からなる「全
ペイリは,国家干渉について明確であった。彼
地域は崩壊するであろう。
」税如何によっては結婚
は先に見たように,勤労の成果に対する労働者の所
が減少して人口が減少することもある。「公共の貨
有権を主張した。別の個所でも彼は「法律は,労働
幣の使い方に悪用は付き物である。
」賢明な政治家
者に彼の労働の成果と利益を保証し,保護すること
は,税額が決まると,人口に対する影響を必ず考
によって,人びとを勤勉にするであろう」
(PMPP,
える。また,課税の方式も問題である。ここでペ
Works, IV, 510)と言う。しかし,法律は,人び
イリは,ベンサムと同様の素朴な限界効用理論を
とを勤勉にすることを援助はできるが,それ以上
述べる。年収 100 ポンドの人の 10 ポンドと,10
のことは出来ない。ここで言われる「労働者」と
ポンドの人の 1 ポンドは「同じではない」
(PMPP,
は,被雇用労働者とも独立小生産者とも,あるい
VI, XI, 78–83)。
は小作人とも範疇的には区別されていない。雇用
パン原料穀物の輸出については,ペイリは意表
関係の問題が資本関係であることは垣間見えるけ
を突いたことを言う。これ程人口を減少させるも
れども,地主小作関係を意味している場合もあり,
のはないと一見すると思われると述べた後,公理
混濁している。だから,アントン・メンガーのい
として「過剰なくして十分なし」と言う。十分に
わゆる「全労働収益権」のことでは勿論ない。「全
穀物が生産される場合,時に過剰になり,輸出し
収権」は法律によって保障されなければならない
なければならないことも生じようという意味であ
自然権であるけれども,勿論,ペイリは,この場
る。しかし,やはり常識人ペイリは常識を取り戻
合,自然権論者ではない。人びとを「勤勉」にす
す。「あらゆる場合に穀物の輸出は人口にとって悪
る上で,
「労働の成果と利益」を確保することが有
影響がある」(PMPP, VI, XI, 83–84)。
益だということである。すなわち,労働に十分な
労働の短縮というのは,労働節約的機械の登場
報酬が与えられるべきだという要請である。そう
のことを意味している。ペイリは,ここでは補償
だとすれば,ペイリはスミスほど熟した資本関係
説に立つ。労働節約的機械は人口によいか悪いか
をまだ確認していない。これもまた,ペイリとベ
と彼は問い,それは雇用を減らすかどうかによる
ンサムとの経済認識における決定的相違になる。
と答える。もし,新機械の採用の結果,1 人がこ
当然ながら,
「勤労なくしては,法律は生存も雇
れまでの 3 人分の仕事をすれば,2 人が失業する。
用も提供できない。」「熟練した,勤勉な,誠実な
しかし,その機械が仕事を増やせば,雇用は増え
労働者」が「怠惰な,未熟な,不誠実で誤魔化し
る。新機械は製品を安価にし,新機械自体も安く
の多い労働者」よりも優先して雇用されるのが普
なって社会に普及すれば,売れ行きは増大して追
通であって,それを妨害するような法律は不必要
加の人手を必要とするであろう。賃金も低下しな
である。この論理は,ヒュームとウォーレスに見
い(PMPP, VI, XI, 84–85)
。新機械は人口にとっ
られるし,スミスとベンサムが政治経済学におけ
て有益である。
る非干渉の主張に用いた論理と同じである。勤勉
以上がペイリの人口論であり,それに収斂する
な労働者を選ばないで,怠け者の労働者を雇って
政治経済学であった。今見た限りでは彼の経済学
しまう失敗を避けさせるのに,法律は不要である。
は余りに幼弱と言うべきであるが,道徳哲学と政
この点で,ペイリは国家干渉に批判的であった。
治哲学中での展開の限りでは止むを得ないと言う
法律は,風習の崩壊を止めることは出来ない。人
べきであろうか。
類の欲求の規制,結婚誘導,食物育成が出来ない。
— 160 —
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論
、、
「法律の作用によって 取 引を強制する,つまり別の
る。地主とその小作人は鳩に譬えられる。99 羽の
市場より安くいいものを入手できるある市場にお
鳩が自分たちには何も残さず皆で貯めたものの山
いて商品を購入するように人びとを強制すること
を最も弱い,恐らく最も悪い 1 羽の鳩のために積
によって,取引を強制するあらゆる試みは,確実
んでおき,一冬中,この最も弱い鳩が食べるのを見
に,私的利益に敏捷で絶えず活動しているものな
ている。しかし,一番空腹に耐えていた一羽の鳩
らば,その法網を潜るか,しっぺ返しを食らわせ
が,後世のジャン・バルジャンのように穀粒を一
て頓挫させるかのいずれかをする。多くの国の商
粒,ついばむと,他の鳩が一斉に山に群がる。人
業法規の半ばは,他国が課した制限に対抗するた
間は貧しさゆえとはいえ,出来た生産物を盗めば
めだけのものである。恐らく,取引の役に立つか
罰せられる。貧しいからと言ってもしすべての貧
らあっていいと思われる唯一つの法律は,詐欺の
しいものが盗みを働いたら,秩序と生産は成り立
防止に関する法律である」(PMPP, IV, XI, 87)。
たないからである(PMPP, III, pt. I, ch. I, 67)。
ペイリにおいても,近代国家と経済社会は成熟を
しかも,この非難は,一時的なものであってはな
見せている。
らない。暗黙の同意では,他の必ずしもそれに賛
私は,ペイリと道徳理論との関係は,ブラック
同しないものを拘束できないから,暗黙の同意だ
ストンと自然法学との関係と同じであるように考
けでは,この非難は長く広くは持ちこたえられな
える。両者ともに,神の意志を強調した。それは,
い。すなわち盗みの再発を防止できない。そのた
所有権論議のなかで明白に見られた。ペイリは,
め,「土地に関する法律」が必要となる。「神のご
ロック以来の所有権理論を回顧した後,とりわけ
意志は,土地の生産物が人の利用に供されること
土地所有権を土地の国内法に基礎づけた。「我々
である。このご意志は所有権を確立しないと達せ
の権利の真の基礎は,土地に関する法律である」
られない。従って,所有が確立されることは,神
(PMPP, VI, IV, 75)
。この所説は,幾つかの興味
のご意志に沿うことである」
(PMPP, VI, IV, 75)
。
ある意味を含む。ペイリの所見によれば,ロック
このことは,ペイリが国家の存在を当然のこと
的所有権論は,動産には適用可能であるが,不動産
と前提したことと関連する。国家がいかにして形
には半分しか適用できない。言い換えれば,彼は,
成されたかというロック的問題は,ペイリの問題
不動産をロックのように労働に基礎づけない。土
ではない。彼は,国家形成を自然法で説明しない。
地所有の基礎としては先占の理論がありうる。そ
この意味でも,ペイリはロックおよび社会契約論
れは,まだ誰の所有にもなっていない土地を説明
と決別している。彼は,国家形成を「有 益 性の
できるであろう。しかし,それだけでは,すべての
原理」によって説明する。そして,
「有益性の原理」
土地を説明できない。すべての土地は,もともと
は神のご意志であり,神が意図されるところであ
共有であった。それが,どのようにして土地に所
る。つまり統治の起源は家族あるいは軍隊におけ
有権が生じたであろうか。ペイリは答える。所有
る指揮命令の統率から説明される(PMPP, VI, I,
ユーティリティ
権が生じたのは生産をするためである。所有権が
299–300)
。道徳理論において,ペイリは主に有益
なければ,いかなる土地も耕作されえなかったで
性の原理を用いる。この意味では,ペイリはヒュー
あろう。この所説の注意すべき処は,所有が耕作
ムとともに,しかし,ヒュームのように無神論的
あるいは労働の結果として生ずるのではなく,耕
ではないけれども,
「有益性の原理」の世界の圏内
作が所有を基礎にしてのみ可能になると述べる処
にすでにいる。ただ,ペイリは,自然権は振りか
である。ペイリは,
「土地に関する法律はそのため
ざさないけれども,事実と矛盾しない限り自然法
に作られた」と主張する。自然法ないし自然権は
(則)から離れてしまうこともしない。ここにも,
もう想定されていない。ベンサムはこの点ではペ
ペイリとヒュームの違いがある。
イリと共通する。ペイリの有名な鳩の譬えは,こ
ペイリが自然法を用いた理由は,彼が制定法を
の議論の前に出てくるが,この議論と関連してい
必ずしも頼りにせず,依然としてコモン・ロウを
— 161 —
経
済
系 第
260 集
有益だと考えたということがある。ペイリが頼り
資料の水準に押し留める「抑止力」を彼は問題に
にした「土地に関する法律」とは,制定法だけで
することはなかった。この隙間を埋めるのが,神
なくコモン・ロウをも意味した。土地の生産物を
のご意志であった。
増加させることとは別に,所有(権)の制度は,人
1760 年代半ばから 1770 年代にかけて,スコッ
びとにとって別の利点もあった。「それは土地の生
トランドにおいて道徳哲学に神学と信仰を復活さ
産物が成熟するまで維持する。
」所有権が設定され
せたのは,共通感覚学派であった。イングランド
ていない場合,誰も生産物を他人のために残して
において 1760 年代から 17801 年代の半ばにかけ
おかない。「それは争いを予防する。」社会契約論
て類似の役割を担ったのが,エイブラハム・タッ
の基礎となった自然状態における「争い」を予防
カー(1705–1774, Light of nature pursued, 7 vols.,
する。ペイリにおいては,国家はすでに成立して
1768–1778)とペイリであった13) 。ただ私は,注
いるから,国家は調停機能を担う。国家施策の用
意すべきことがあると思う。ペイリの神の明白な
具は,制定法とコモン・ロウである。「それ〔所有
ご意志に彩られた古風に見える叙述の下に,スミ
制度〕は,生活の便宜を改善する。
」この改善に二
ス以来の自由主義がペイリの全著作を貫流してい
つの方法がある。一つは,分業であり,もう一つ
ることである。このことが,ペイリの作品に長い
が発明家に特許を許可することによる生活技法の
生命を与えたと思われる。
奨励である。
第 6 編第 9 章は,
「犯罪と刑罰」を扱う。ここで
こう見て来ると,ペイリの歴史的文脈における
は先ず,既述のように「刑罰の正当な目的は正義を
位置は,明白になって来るように思われる。ペイ
満足させることではなく,犯罪の防止である」こと
リは,スミス的ベンサム的自由主義に立脚する限
が述べられる。ペイリが特に入念に気を使いつつ
り,有益性の原理に示されるように,経済学的合理
論じたのは,死刑であった。イングランドにおい
主義に依存している。しかし,彼は,国家干渉に
ては,死刑をすべての犯罪に用いていると,この
対しては,批判的自由主義的姿勢を十分に示すこ
頃の識者の誰もが指摘した事実を彼も述べる。た
とが出来なかった。しかも,彼は資本理論を中核
だ,実際にはよく考慮されて,少数例が「みせし
に据えた政治経済学を構築しなかったし,ベンサ
め」として死刑にされるのみで,法と現実は乖離
ムのようにそれをスミスで解決済みともしなかっ
しているとも言う。彼によれば,死刑がよく行わ
た。このため,彼は,イングランドあるいはヨー
れる原因は 3 つある。「自由,大都市,死刑に至ら
ロッパにおいて土地が現在より五倍の潜在生産可
ない刑罰の欠如」である。「自由」がよく死刑執行
能性を有すると言いながら,その最高の土地生産
が行われる原因であるというのは,直ちに理解す
性をなぜ実現出来ていないかを問おうとしなかっ
るには困難があるが,ペイリによれば,自由な国
た12) 。彼は,マルサスと同じ人口圧力を認めなが
においては恣意的な逮捕拘留は出来ないので,犯
ら,人口が生活資料と同じ水準にとどまることを
罪抑止のために死刑が行使されるのだと言う。「大
自明のこととしてしまった。増大する人口を生活
都市」は,ウォーレス以来しばしば「悪の温床」と
指摘されてきたように,ペイリもそう捉えている。
12)続けてペイリは言う。
「農業の知識と奨励策におい
てほぼ先頭に立つ我が国自身においては,首都近郊
の土地同様に元来の質を持ち,従って同じ肥沃度に
することの可能なイングランドのすべての畑は,同
じような管理によって同等の生産物を生み出すよう
に出来ると,考えていい。そうすれば,私は確信を
もって,この島で生産される食糧の量は五倍にも増
加できるであろうと,主張する。」ペイリは,ゴド
ウィンと同じ方向を向いてはいるが,ゴドウィンの
ような夢想家ではなかった。
従って死刑は大都会における犯罪の抑止力になる
と考えられている。「死刑に至らない刑罰の欠如」
とは,極端に言って法が死刑しか刑を用意してな
い犯罪がある場合のことである。しかし,ペイリ
は,死刑が「見せしめ」として有効であることは
13)Abraham Tucker, The light of nature は,1756 年
に書き始められ,1768 年に 4 冊本で,1778 年に残
りの遺稿が 3 冊本として刊行された。
— 162 —
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論
主張しつつ,拷問による自白の強制を恐れる。拷
最後に常備軍に触れる。ペイリは民兵より常備
問は「取り返しのつかない不正」を冒す危険があ
軍が勝ると言う。3 人中,1 人が兵士で 2 人が勤
るからである。
勉な農民であるほうが,3 人とも兵士としては訓
刑罰について,ペイリの観念はほぼ,ベンサム
練不足で農民としては怠け者であるよりましであ
と共通する。刑罰は,厳しさよりも確実さの方が
る。勿論,危険はある。「公共の自由に対して決し
重要であると両者は言う。厳しい刑を規定してい
て有利でない面」がある。ただし,この面は,軍と
ても,実際に執行されなければ法は軽視されるよ
国民の「利益と感情」の絆を維持することで減少
うになる。それよりは,一旦規定されたら,確実
させることが出来る(PMPP, VI, XII, 102–107)
。
に執行することが法律の尊重につながる。しかし,
そもそも戦争は,国王相互の争いであって,国民
ペイリは,ここで常識を覆す。彼はここで二つの
相互の争いではないし,もともと『聖書』は戦争
公理と看做されてきた法律の常識に反対する。第
を「犯罪あるいは天罰」と規定している(PMPP,
ポジティブ
1,
」これにペイリ
「情況証拠は事 実証拠に劣る。
96–102)
。ペイリは,言外に戦争はすべきものでは
は反論する。「十分に確証された情況の同時発生は
ないと言っているように私は思う。この指摘は,
情況に確認されない事実証拠より強力な根拠を構
後の帝国主義の時代には忘れられるけれども,ク
成する。
」この問題は今日なお我国でも議論のある
エイカー教徒のみならず,広くヨーロッパ諸国の
ところであろう。第 2,
「1 人の無実の人が罰せら
識者達に共通に抱かれていた希望であった。ベン
れるよりも 10 人の犯罪者が逃亡する方がましであ
サムももとよりその一人であって,ヨーロッパ共
る。
」今日の我々に常識になっているこの公理にも
和国の夢を抱いたのも戦争を廃絶したい願望の表
ペイリは,もし「まし」というのが「公共の利益」
れであった。
にとってという意味であるならば,正しくないと
反対する。「市民生活の安全は,それが持つあらゆ
7. ベンサムとペイリ
る祝福の価値と享受にとって最も重要であり,そ
さえぎ
の安全を 遮 ることは,社会全体の不幸と混乱を招
ベンサムはその生涯において何か所かでペイリ
くから,主に刑罰の恐怖で守られるものである。」
に言及している。ベンサムの評言はすべて的を射
つまり,社会の安全は犯罪を冒せば罰せられると
ていると私は思う。その 1 つは,ペイリを自分の
いう恐怖で守られると言う。この場合,
「一人の不
最大幸福原理,すなわち当時の「有益性の原理」
幸」は,「この目的と対等ではない。」ここにおけ
の 1 追随者と認めたものである。「『統治論断片』
る「不幸」とは,何であろうか。つまるところ冤
の刊行後,かなり経って,ペイリ博士は,その道
罪ということでは,勿論,ない。「私は,最も不幸
なものの生命あるいは安全がいかなる場合にも犠
徳論の著作〔『道徳哲学および政治哲学の原理』〕にお
、、、、、、
いて, 有 益 性 の 原 理という言い方を採用して,使
牲に供されるべきであると言うつもりはない。司
用した。しかし,言うまでもなく明らかな理由に
法の原理も刑の目的も決してそのことを求めては
より,それをかつてエルヴェシウスが用いたよう
いない。
」もし少しでも冤罪の疑いがあり,無実と
な特定の応用をすることも,またエルヴェシウス
有罪を間違えている可能性があるならば,何人も
がそれに与えたような明白かつ精密な意味を与え
犠牲に供されてはならない。このことを確認した
ることも,彼の役には立たなかった〔から,してい
上でのことであるが,ただし評決の時点で,審理
」
(Bentham, Official aptitude, Appendix B,
ない〕
を尽くして有罪になったならば,たとえ後に誤審
351)。ベンサムによれば,それというのも,ペイ
と判明したとしても,それで社会の安全は守られ
リの目的は,有益性の原理と神の意志により既存
たのであるから「社会の幸福の維持のため,祖国
の道徳理論を再確認することであったからである。
のため」に刑を受けたのだと考えられるべきだと
ベンサムの評言は続く。『精神について』において
言う(PMPP, VI, IX, 1–23)。
エルヴェシウスは,幸福の明確な意味を含めて有
— 163 —
経
済
系 第
益性の原理を用いたが,
『人間について』において
260 集
り返している。
は「前進は見られない」
。それに比べると,ヒュー
ムは,エルヴェシウスほど精密な観念を有益性と
ベンサムのペイリに対する第 3 の言及は,議会
いう用語に賦与しなかった。ベンサムのこうした
討論の「公開」に関する文書にある。『議会運営法』
批判は,読者の注意を「有益性」あるいは「有益
(Essay on political tactics)の第 2 章「公開につい
性の原理」という名称には限界があるという自説
て」
(1791 年執筆,一部同年印刷)は,その重要性
に惹きつけるために行われた。周知のように,ベ
を強調し,議会と民衆双方にとっての 6 つの利点
ンサムは,その生涯の最後に「有益性の原理」と
いう限界のある表現より「最大幸福原理」という
を数えた。ベンサムが指摘したその最後の利点は,
「公開から生まれる愉しみ」であった。この「愉し
み」は教えることと「実際,切り離すことが出来な
表現が優れていると考えるに至った。
ペイリは,有益性の原理を神の意志と同一視し
い。
」ベンサムによれば,この種の愉しみを齎すも
た。ベンサムにおいては,有益性の原理はそれ自
のに回想録がある。「回想録はフランス文学におい
体で成立し,快苦を「正邪の基準」とした。それ
てもっとも快い部分の一つである。…しかし,回
は,行為の善悪,正邪を判断するのに必要にして充
想録は出来事が起こってから長く経たないと,書
分な条件であった。ペイリは,神の意志の助けを
かれない。それに誰にでも書けるというわけでは
必要とした。なぜなら,彼の有益性の原理は,ベ
ない。」イングランドの新聞は違う。イングラン
ンサムほど確立されておらず,確固としたもので
ドの新聞も一種の回想録である。ただ,出来事あ
なかったからである。ペイリは社会的幸福あるい
るいは「議会の討論——政治劇場という場におけ
は国民の幸福というものは個人の幸福からなるも
る俳優に関連するすべての事」が起きてすぐに公
のというベンサムと同じ観念を有し,従って,ペ
刊される回想録である。ベンサムは続ける。「昔,
イリにおいて幸福と有益性の原理は,ベンサム同
ローマ皇帝の一人が新しい愉しみを発明した個人
様個人倫理にのみ存在可能であったが,ペイリに
に,褒美を取らせると布告した。だが誰もそれに
は,有益性の原理を構成する基準は「持続時間と
価する充分な愉しみを作れなかった。結局,褒美
密度」しかなかった。
に価したのは,立法議会の議事録を公衆の眼に開
また,ベンサムがペイリに言及した第 2 の箇所
示した人であった。
」この文章に付けられた脚注に
は,直接にペイリに言及したものでなく,ロミリの
おいて,ペイリの『道徳哲学および政治哲学の原
改革案に関した文章である。それは,ペイリの保
理』に言及があった。「〔この本における議事録公開
守性と関連している。ベンサムは書いている。「そ
」確かに,
という〕主題の論じ方は申し分がない。
れら〔小改革とロミリが呼んでいたもの〕のうちの 1
ペイリは,この種の愉しみが「民主的憲政の長所
つは,私の草稿から借りて行ったものである。そ
のうち,低次だが決して重要でないとは言えない
の草稿は,ペイリの恣意的権力好きが歴然と分か
(傍点は原文の大文字)の一つであると述べた
長所」
るようにしたもので,今も蜘蛛の巣の張った棚に
(PMPP, IV, VII, 361)
。情報公開制度を含む民主
置いたままになっている。
」
『全集』版編集者がこの
制の長所は,
「1. 社会の上層部の教育,研究および
文章に付けた注には,
「ベンサムは 1809 年 1–2 月
仕事に与える方向」および「2. 大衆選挙」の後に
に『法律対恣意的権力— ペイリ博士の網に鉄槌を
第 3(最後)として挙げられる。民主制は「自由
下す』を書いてペイリの死刑擁護論を詳細に論破
な統治の下にある人びとが政治問題の知識と活動
した。ロミリは 1810 年 2 月 9 日庶民院でこれを取
から得られる満足感」を昂揚させるし,
「この種の
り上げた」(Official aptitude maximized; expence
問題は充分に興味と情感をかき立て,思考に温和
・・・
minimized, § XIX, 258)とある。ベンサムは,ペ
な刺激を与え,苦しさを感じるほどの不安を呼ぶ
イリのこの死刑廃止論にはかなりの 拘 りを持っ
ことも精神に固定した抑圧を残すこともない。第
ていた。もっと後にも,ベンサムはこの批判を繰
1 も第 2 も,下層のものに対する上層階層の認識
こだわ
— 164 —
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論
が,民主制の下では改善され,一定の敬意が払わ
この寛容に同意したに違いない。
れると述べるから,階層間の分裂が緩和されると
ペイリは,ベンサムの往復書簡にも登場する。そ
いう認識が明瞭に読み取れる。つまり民主制は全
の最も早い記述は,1786 年 9 月 24 日付けのジョー
ての者に適度の情感と安心を与える。——このこ
ジ・ウィルスンの手紙である。ペイリの『道徳哲
なりわい
とは,これまで富者の「人生の生 業と価値を構成」
学および政治哲学の原理』がすでに版を重ね,各
して来たものを,すべての者に愉しみとして与え
界の賞賛を得ていることを告げて言う。「それの基
る。国民的に重要な問題に関する人びとの討議は,
礎はすべて有益性です,それを彼の言い方で言え
人びとを「一層合理的で清廉」にし,
「飲酒,競技,
ば,神の意志,…それに付け足して言えば神の啓
醜聞,猥褻に代わるものを提供する。
」この論点は,
示意志です。
」それにも関わらず,またいくつかの
ベンサムとペイリが最も接近したもう一つの論点
弱点にも関わらず,
「それはこれまでにこの国でこ
と言ってよい。ただ,ベンサムが民主制を形式の
の問題について書かれた最も重要な本,と言うよ
如何に拘わらず,統治にとって決定的に重要なも
り最良の本です。道徳,統治機関および我が国の
のとして考えたのに対して,ペイリは,イングラ
国家構造について彼が言うほとんど全てのことは,
ンドの統治機関構造,すなわち混合政体について
健全で実際的で,陳腐な言葉はありません。彼は,
かなりこの頃の常識に従って検討していたように,
刑罰のあなたの考えを多く取り入れています。私
私には思われる。とは言え,ペイリもまた混合政
はそれをあなたの発見の最も重要なものと考えて
体における民主的要素を最も重要な基本的要素と
いました。そして私は,ひょっとしたら彼があな
考えていたことは確かである(Bentham, Political
たの〔『道徳および立法の原理』〕序説を読んだのでは
tactics, 34; Paley, PMPP, VI, ch. VI, 343–345)。
ないかと,疑っています。
」そしてベンサムが自分
他方,信仰を持たなかったベンサムは,国教会
の本を出した時には,むしろベンサムがペイリか
の宣誓令に関連して,宣誓するかぎりは信仰の人
ら盗んだのではないかと非難されることを,ウィ
ペイリの言葉に同意すべきだと言う。「ペイリとと
ルスンは恐れている。これは,ベンサム研究者の
もに,嘘偽りのない同意を述べよう」(Bentham,
多くが承知の文章である。
Church-of-Englandism, Appendix, no.1, 284)
。ペ
この手紙に対してベンサムは,クリミア半島のク
イリは,この宣誓令が,協会の役職から,カソリッ
リチョフから返事を 認 めた(1786 年 12 月 19–30
クの宣伝者,当時大陸で有力であったアナバプティ
日)
。この返事の手紙でベンサムは,意気揚々と帰
スト,教会制に反対するピューリタン,および我
国して「立法」の仕事をしたいと思ったけれども,
が国の王政を覆そうとする宗派を排除する意図で
イングランドの立法府には「ペイリ氏のような人
あったことを明言していた。ペイリはまた,自分
びと」が沢山いるから帰国を断念し,なすことも
でこれらの宗派に属していると思うものは,
「署名
なく日を消していたと言う。そんな自分を「大雅
すべきでない」
(PMPP, III, XXII, 134–136,この
なペイリ氏なら軽蔑したかもしれない」とも妙な
章の表題は「信仰箇条への署名」である)と書いて
勘ぐりを入れる。しかし,冗談はともかく,批評
いる。ベンサムもこの問題ではオクスフォード入
文を読んだ限りでは,
「真面目にペイリ師のことを
学の際に署名できない苦悩を経験したし,彼の『宣
言えば,私は彼に多くを期待していません。
」確か
誓してはならない』はその産物であった。しかし,
にウィルスンの手紙を読んだ当初は,ベンサムは
ペイリは硬骨過ぎなかった。ベンサムはペイリか
気分が落ち込んだけれども,今はもう「元に戻り
ら引用している。「誰もこの〔信仰箇条の〕全てを信
ました。」
したた
じることはできないであろう。従って,それを信
じる,その片言を信じると厳かに公然と誰かが述べ
ウィルスンは,2 年後にも同様にベンサムに『序
説』の刊行を急がせている(1788 年 11 月 30 日)
。
ても害はない」
(Bentham, Church-of-Englandism,
『序説』は,印刷されたが出版されない形で数部が
Appendix, no.4, § IX, 479)
。ベンサムはペイリの
出回っていた。特に「アシュバートン卿」に渡っ
— 165 —
経
済
系 第
260 集
た 1 部がいろいろな人の間を回っているらしい。
さと,ペイリが持った当時の影響力を物語るであ
だから,「ペイリがあなたの『序説』を読んだか,
ろう。
あなたと親しい誰かと話をしたかのどちらかだと,
繰り返しになるが,ベンサムは晩年に「有益性
私はよく思います。彼の本にはあなたに似た考え
の原理」という表現を止め,
「最大幸福原理」に代
が多くあります。
」この出版の慫慂は勿論,1789 年
えた。1822 年 9 月 6 日のデュモン宛の手紙にお
いてベンサムは,「有益性の原理」に触れている。
の『序説』の出版に結実する。
以後,ペイリは書簡に断続的に出没する。1809
「
「有益性の原理」は死んだ。最大幸福原理がそれ
年 5 月 11 日デュモン宛の手紙でベンサムは,後に
にとって代わった。英語においてだ。フランス語
プランシップ・デュ・プリュ・グラン・ボヌール
『刑罰と顕彰の理論』となるフランス語原稿のこと
において最
大
幸
福
原
理がそれにとっ
で連絡した最後に,「ペイリをお忘れなく。」と記
て代わるのを妨げるものはあるだろうか。」そう
した。この書簡の編集者は,注記において,ベン
言った後,ベンサムは,
「有益性の原理」をヒュー
サムの草稿「法律対恣意的権力,ペイリ博士の網
ムから学んだと述べて,おもむろに自分の独自性
に鉄槌を下す」
,つまりペイリの死刑擁護論批判の
を強調した。「ヒュームは栄光の絶頂にあった。そ
ことを言っているであろうと推定している。1814
の言葉は,それ故誰もが知っていた。ただ,ヒュー
年 10 月のヘンリ・クールスンという若い友人が,
ケンブリッジ大学クイーンズ・カレジに入学した
ムと私の違いはこうである。その言葉の彼の用法
、、
は,現実の 説 明であって,私の用法は理想の提示
直後のベンサム宛の手紙は,この頃の大学生活の
であった。
」ここにおけるヒュームは,ベンサムが
内情を語っていて非常に興味がある。主に数学が
生涯を通して批判し続けたブラックストンに浴び
学生生活の主要部分を占めて,
「ロックやペイリが
せた批判と全く同じ批判の言葉を浴びている。そ
論じられることはごく僅かです。本当に僅かです」
して,こう書いた後,ベンサムは更に付け加えて
と伝えている。ついでながら,今日の大学生と比
言った。「ヒュームの後,ペイリが私に連絡するこ
較するのは気の毒に思えるが,せめて大学の教師
となく私の使った意味でそれを使った。」
に望みたい数字を引用する。「非常によく勉強する
我々は今や,かつてヒュームやスミスが社会事
人がいます。——ある人は,一日に 13 時間勉強し
象を説明するために用いた「有益性の原理」が「最
ます。——しかし,平均すると 7 時間か 8 時間で
大幸福原理」と名を改めて,立法の原理として統治
しょう。
」その後しばらく経って,秘書のコーとの
と社会を規制する現実的にして有効な原理となっ
書簡(1817 年 9 月 10 日,9 月 19 日,10 月 10 日,
たという,いわば革命的変貌を遂げたことを,理
11 月 5 日)において,ペイリの『ホラエ・パウリ
解できる。ベンサムは,近代国家形成の計画のな
ナエ〔パウロの歳月:聖パウロが書いたとされる書簡
かで長期に居座る既得権益階層の一掃を志した。
を使徒たちの行伝や使徒相互を比較することで明らかと
ペイリは,既存の社会秩序を変わらず維持しなが
(1790 年)
なる聖書における聖パウロの真実の生涯〕』
ら新しい倫理を追求した。私には,彼らは同じ河
が問題になるが,この時ベンサムは別荘のフォー
の左右両岸に別々に佇んでいたように思われる。2
ド僧院にいて,自宅にあるはずのその本をコーに
人は,ブリテン自由主義という大河の,交わるこ
送らせようとして,居間にあるとか,何版を持っ
とのない両岸にそれぞれ名前を残した。
ていたとか,何巻本であったかという内容とは無
なお,更に言えば,ベンサムは,功利主義と誤訳さ
関係の外見を情報として伝えた。前に触れたよう
れる思想の歴史とは切り離して理解すべき存在で
に,ベンサムは,終生,このペイリの死刑擁護論
あると,私は思う。ちょうどスミスが 19 世紀イン
こだわ
に 拘 った。1823 年 10 月 14 日付けのスタナップ
グランド政治経済学のマルサスやリカードゥと切
卿宛のベンサムの手紙は,20 年近くも前に上記ペ
り離して理解可能であるように,ベンサムもまた,
イリ批判論文を書いたことを伝えている。この拘
先駆者のヒュームおよび後継者のジョン・スチュ
りは,ベンサムがペイリに対して抱いた関心の深
アート・ミルと切り離して理解可能である。もしベ
— 166 —
ベンサム経済法学における政治経済学と幸福論
ンサムを「有益性の原理」の歴史の中に位置づける
Théorie des peines et des récompenses, rédigée
en francais, d’aprés les Manuscrits, par M.Et.
Dumont, Londres 1811. English translation of
the second volume, Rational of reward, ed.
Richard Smith, in Bowring edition of Works,
vol. II (originally printed in 1825).
ならば,法学者ベンサムの独自な視点を忘れてはな
らないであろう。ジョン・スチュアート・ミルは,
ユーティリティ
晩年にベンサムが「有 益 性の原理」を極めて不十
分な表現だという理由で捨てて,「最大幸福原理」
ユーティリタリアニズム
に代えたことをよく承知の上で,『幸 福 主 義』
という書物を書いた。この問題は別に論ずべき課
題である。いずれにしても,ベンサムは功利主義
者などどいう手垢にまみれた名前で呼ばれる卑俗
な思想家ではない。
これまでにもベンサム経済学について,スター
ク版が出た後に僅かながらこの国にそれを消化し
ようとする努力があったけれども,そのことごと
くは今日,読むに耐えられるものではない。
[参考文献]
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The principles of moral and political philosophy,
in The Works of William Paley, D.D., with
extracts from his correspondence: and a life of
the author, by the Rev. Robert Lynam, A.M.
Assistant chaplain to the Magdalen Hospital,
a new edition, with a portrait, in 5 volumes,
London: William Baynes and son and others,
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— 167 —