新・下田会議 激動する国際社会と日米戦略的パートナーシップの再構築

新・下田会議
激動する国際社会と日米戦略的パートナーシップの再構築
2011 年 2 月 22 日火曜日
東 京
主催者開会挨拶
(財)日本国際交流センター
理事長
山 本
正
米国と日本からの多くの友人をお迎えし、また同僚と共にこの「新・下田会議」を開会することができま
すことは、大きな喜びであると同時に光栄と存じております。参加者の皆様、特にこの会議のためにわ
ざわざ来日してくださった米国の友人に対し、心よりの謝意を表したいと存じます。また私の大切な友
人であり、優れた外務大臣である前原誠司議員には、会議開催にあたってご支援いただき、さらには
今晩、外務省飯倉公館にて立派な夕食会を催していただく運びとなり、深く感謝申し上げております。
美酒と素晴らしい和食もさることながら、日米両国の各界の指導者、特に米国議会と日本の国会から
も多数の政治指導者にご参加いただいているこのような二国間対話の意義について、前原大臣には
強くご賛同いただいておりますことに、私もまた同僚達もあらためて感謝申し上げる次第です。
静岡県下田市が、ペリー提督が最初に日本の地を踏んだ土地、
日米両国の関係が始まった土地であることに加え、多くの方が
「下田」という名称を下田会議と関連づけてくださっています。下
田会議は日米関係について最初の非政府の二国間政策対話
であり、多くの有力な政治指導者が参加してくださった会議とし
て記憶に刻まれております。その第 1 回下田会議は 1967 年秋に
開催されました。この頃までには日本と米国との間で進化しつつあった日米関係という、重要ではある
ものの極めて複雑な二国間関係が政府間だけでは維持できないという認識が生まれつつありました。
われわれはそのような時期に米国の有力政治家が参加してくださったことに感銘を受けました。民主
党上院院内総務のマイク・マンスフィールド議員が基調講演をされ、他に著名な議員であるジョン・ブ
ラデマス下院議員、エド・マスキー上院議員、ドン・ラムスフェルド下院議員、ジェフ・コヘラン下院議員、
ジム・オハラ下院議員、そしてウェンデル・ワイアット下院議員、の 7 名が参加してくださいました。
当時、このような非政府対話を拡大しようとする試みは容易ではなく、政治指導力が渇望されておりま
した。また、このような対話に対する制約は数多く存在し、第一回の下田会議でもそれは明らかでした。
主として左翼からの強いイデオロギー的な反対の声があがっていたのです。会議会場となった下田東
急ホテルに続く道沿いには左翼のデモ隊が押し寄せており、私は「米帝の走狗!」と怒鳴られました。
デモ隊は会議主催者の代表に対して抗議状を提出することでホコをおさめたのですが、この代表が
後の総理大臣、中曽根康弘氏だったのです。日本社会党の中央委員会は同党の 2 名の議員が第一
回下田会議に参加することを禁止しました。左翼の動きの向こうを張るように、名高い右翼の赤尾敏
氏が下田東急ホテルのロビーで会議に抗議し、杖を振り回し警察に阻止されるという一幕もありました。
端的に言えば、日米同盟を強化するための日米間の政策対話を確立するために、かなりの年数を要
したのです。
マンスフィールド上院院内総務は記憶に残る基調講演において、先進民主主義国家の内政課題の
みならず、外交関係においても政治家が果たすべき重要な役割を強調されました。さらに、行動につ
ながる議員交流を深化、拡大させることの重要性も訴えておられました。さまざまな政党が存在する日
本と米国との間で政策対話を開始することは決して容易なことではありませんでした。しかしマイク・マ
ンスフィールド上院議員の強いアピールを受け、1968 年に日米議員交流プログラムが開始されたの
です。その後延べ200名以上の米国議員が下田会議から派生した日米議員交流プログラムで来日し
たことを誇りをもってお伝えしたいと思います。また日本からも170名強の国会議員が米国を訪れてい
ます。ただ、残念なことに下田会議も日米議員交流プログラムも近年活動が下火となっておりました。
ここで、今回の会場の看板や会議資料に書かれている「40」という数字について少し説明させていた
だきたいと存じます。(財)日本国際交流センターは今年度設立 40 周年を迎え、この下田会議を一連
の記念行事の中核として位置づけております。私が昔の上司であった小坂徳三郎氏の元を同僚と共
に離れ、(財)日本国際交流センターを設立したのがちょうど 40 年前のことです。1962 年にグリーンベ
イ・パッカーズの拠点であることを誇りとするウィスコンシン州の片田舎から日本に戻って以降お世話
になっていた小坂氏が下田会議をはじめ、日米議員交流プログラムやその他の関連活動を通じて日
米関係の発展に携わるきっかけを作ってくださったのです。小坂氏には個人的に大変お世話になり、
深く感謝しております。しかし小坂氏の政界進出と共に、私自身として意欲的な目標を追い求めるた
めに効率的に活動する必要性を感じ、真の市民社会組織を運営するためには独立しなければならな
いと考えたのです。長い話を割愛すれば、私は清水の舞台から飛び降りるかのごとく小坂氏の元を離
れ、30代半ばで、その頃の日本では非常に珍しい独立組織を立ち上げる決意をしたのです。この過
程においては米国、日本の多くの友人達におおいに助けられ、また日米間の関係強化のためには非
政府の立場からの参加も不可欠だという信念も後押ししてくださいました。
こうした歴史を披露することで、当センター設立 40 周年を祝うにあたり、この会議が皆様に深い感謝の
意をお伝えする場であると同時に、なぜこのような対話の場が重要なのか、また特に、この時期だから
こそ日米関係をいかに再構築すべきかを真剣に考える必要があるのではないかをここにお集まりの皆
様と共に考える場としたいと考えたのです。日米関係はもはや二国間の課題にとどまらず、むしろどの
ようなアジアや世界をわれわれが求めていくべきかという課題にまでつながっているのです。二国間
関係において日米両国は重要な転換点にあり、世界的にもまた東アジアの地域秩序においても大き
な変化を目のあたりにしています。このような変化を見るにつけ、マイク・マンスフィールド氏の言葉を
借りるならば、日本にとって「日米関係は最も重要な二国間関係である」という事実を再認識する次第
です。われわれの前にある様々な課題は、中国の台頭にいかに平和的に適応するかという地域的な
ものから、環境破壊や感染症拡大という国境を越えた課題まで様々です。これらの多様な課題に効
率的に対処するためには社会の多様なセクター間の日米協力を深めていかなければなりません。し
かし、時に漂流しているとも形容される日米関係を再興するためには、日本と米国がどの分野で協力
し、何に優先順位をつけるかを具体的に考えていかなければなりません。今日のこの下田会議がこう
したプロセスに貢献することを希望します。
今日、皆様がこうしてお集まりくださり、いかに日米関係を再興するかを一緒に探る試みに参加してく
ださっていること自体が、より強固で意義深い日米パートナーシップを世界に、またアジアに築くという
我々の信念の表れだと感じております。この 40 年間で私と同僚達とで成し遂げてきたことを振り返り、
神に感謝しています。今後も日本と米国が共に安定した平和な世界に貢献することとなるよう、私共も
引き続きこのエキサイティングで達成感のある仕事に携わっていくという約束を、この会議の場を借り
て改めて新しく誓いたいと存じます。