校歌の原曲版再刊行について No. 86

No. 86
東洋英和女学院史料室委員会
発 行 2016 年 5 月 13 日
特集:校歌
校歌の原曲版再刊行について
河 野 和 雄
東洋英和女学院校歌の原曲版が昨年
(2015年)
11月、初版から81年ぶりに再び刊行された。こ
の年は奇しくも作曲者山田耕筰の没後50年でも
あった。以下はその経緯についての報告である。
文中、敬称は誠に不本意ではあるが省略させて
いただくことをお許しいただきたい。
「東洋英和女学校校歌」の制定
東洋英和女学院校歌は1934(昭和 9 )年、学
院創立五十周年の年に「東洋英和女学校校歌」
として制定された。当時の校長、ミス・ハミル
トンのもと、北原白秋が作詞、山田耕筰が作曲
した校歌は新しく完成したマーガレット・クレ
イグ記念講堂で行われた創立五十周年記念祝賀
式で披露された。制定に関しての経緯は当時の
国語科教諭、鵜沼幸が『東洋英和女学院七十年
誌』に書いた記事から詳しく知ることができる。
学校の標語「敬神奉仕」を敷衍した格調高い歌
詞と変化に富んだ流麗なメロディーを持ち、女
声三部合唱の形で書かれた芸術的香りの高い校
歌は英和生、卒業生、そして英和に連なるすべ
ての人にとっての「誇り」となっている。
「19. Sep. 1934」の日付のある山田耕筰の自筆
楽譜は現在、日本近代音楽館(明治学院大学図
書館付属)に所蔵されている。『東洋英和女学
院120年史』にも掲載されているが、薄い鉛筆
書きの繊細な筆致で書かれた譜面のいたるとこ
ろにあるクレッシェンド、デクレッシェンドな
どの細かい強弱指示、微妙なテンポの変化、細
かいペダル指示、また数箇所で伴奏左手につけ
られた通常より少し長めのスラー、16小節目に
ある休符を含んだスラーなどから、作曲者が表
情豊かに流れる曲想を求めていたことを読み取
ることができる。また18小節に添えられている
オ シ ア
ossia譜(演奏の困難な場合、部分的に替えて
4
もよい譜)も珍しい。これは「かえでよ かえ
での」の g'' 音(ソ)が高すぎる場合、代わりに
e''(ミ)でもよいように和音の配置を変えた
楽譜である。多分斉唱でこのように歌われたこ
とはないと思われるが、合唱で歌う場合にはこ
の音が加わっても差し支えない。
「校歌」の編曲
一昨年(2014年)の夏前、卒業生の鹿島田章
子から「現在歌われている校歌は、原曲とかな
り違っている」との指摘があった。武蔵野音楽
大学の講師も務めた同姉は初版と現在使用され
ている版を比較し、相違を明らかにした詳細な
レポートを学院に提出された。初版を使って
歌っていた卒業生の何人かからも「校歌をオリ
ジナルに戻してほしい」との要望が学院に寄せ
られた。これを受けて、深町正信院長の指示の
もとに校歌に関する委員会が編成された。委員
長は吾妻國年副院長、委員は武田ゆり中高部音
楽科教諭、山内
桜子小学部教諭、
河野和雄学院オ
ルガニストで
あった。数回の
委員会で、調査、
対策について協
議がなされ、早
速、資料の収集、
卒業生への聞き
取り調査、東光
会の協力による
アンケート
(一部
の学年のみ)な
東洋英和女学校校歌 初版 表紙
どが始められた。
2015年 4 月までに出版された校歌の楽譜は次
の 4 種類である。
1 初版 1934年 9 月(ト長調、Gと略す)
2 編曲版(ヘ長調、Fと略す)1955年中学部
入学者より使用
3 編曲版(F)「東洋英和の歌」付 1966年
4 編曲版(G)「東洋英和の歌」付 1973年
― 1 ―
2 以降の版に編曲者名、また編曲の経緯につ
いての記載はなかった。しかし学院史料室に移
管されたものの未登録であった書類「富岡正男
先生の遺された楽譜など」の中から、表紙に
M.Tomiokaのサインがある初版譜に赤鉛筆で
囲んだ伴奏音の補足(17、19、22、31小節の 4
箇所)
、及び 2 節、 3 節の歌詞の楽譜への書き
込み、その他速度記号の補足のある楽譜が発見
されたことから、この編曲は1952年から1972年
まで中学部・高等部に音楽科教諭として在任し
た富岡正男の手になるものと推測された。
19小節伴奏部
これらの書き込みは、後に出版された楽譜と
も違い、その準備段階のものと思われる。さら
に卒業生の話などから、1955年頃富岡は中高生
の歌いやすさを考慮して原曲のト長調をヘ長調
に移調したことが推定されるに至った。
富岡の長女で卒業生、またピアノ科の主任を
務めた丸山もと子の話によれば、かつて大学で
山田の授業を受けた富岡は、この変更について
許可を受けるために山田の自宅を訪ねた。おそ
るおそるお伺いをたてたところ山田の返事は予
想に反して「ああ、いいですよ」のような気軽
な調子であったこと、また夫人からも歓待を受
けたとの事である。この話は後年、父正男から
直接聞いたと丸山は語っている。
本稿ではこのヘ長調版をTF版、後にト長調
に戻された編曲版をTG版と呼ぶことにする。
移調と同時にいくつかの修正が加えられた。
低音の扱い
移調により低すぎることになったアルトパー
ト、特に冒頭 4 小節にわたる f(ファ)の保続
音は割愛された。(参照 p. 3 A)
同様に22小節、
「椎よ樫よともに」の部分の
a(ラ)の保続音も割愛された。これらの部分
ではアルトは原曲のメゾのパートを歌い、メゾ
はソプラノと共にメロディーをユニゾンで歌う
こととなった。この結果、これらの部分は実質
2 声部となり、原曲のどっしりと安定した響き
は失われるが、反面女声合唱らしい軽やかさを
持つこととなった。
その他、 8 小節 6 拍目、17小節 9 拍目、18小
節 1 拍目、27小節 1 、 2 拍目の 5 箇所では、ア
ルトおよびメゾの音を上げて和音は開離配置か
ら密集配置に直された。結果的に女声合唱らし
い響きを与える変更とも言える。(参照 B)
和声の変更
4 4
18小節の「かえでよ」に相当する箇所の和音
がそれぞれ変更された。原曲では 3 拍目のソプ
ラノとアルト
(伴奏パートではソプラノとバス)
の経過的な音をはさんで同じ和音であるので、
静止した安定感のある和声となっている。
これに対し編曲では、メゾ、アルトパートに
動きが与えられ、変化のある、少しおおげさに
言えば色彩的な和声となった。(参照 C)
なおこの18小節 4 拍目の和音変更により伴奏
のソプラノとアルトパートに禁則の連続 8 度が
生ずるが、休符を挟んでいるので実質的には連
続した感じは緩和されている。
TG版では伴奏18小節 4 拍目のテノール<譜
例中の * 印>は d'(レ)音でタイで 1 拍目から
つながれている。一見原曲と同じように戻され
たように見えるが、TF版からの移調ミスと思
われる。d' 音では合唱アルトパートとの間で
不協和音が生じる。TG版で伴奏する際にはこ
の音は e'(ミ)に直して演奏すべきである。
伴奏への音の追加
17、19、22の各小節ではフレーズの終わりで
歌のパートが音を延ばす時、左手の分散和音を
4 拍目以降にも追加し、伴奏に感じられる空白
感を埋めた。これは山田自身が11小節目で行っ
ている手法を他の場所でも応用したとも言える。
(参照 D)
31小節 4 拍目、最後の主和音に第 3 音<TG
版では h'(シ)>を加えている。これは左手の
分散和音の動きが 4 拍目に最終音を期待するこ
とによるのであろう。原曲ではそれが実質的に
は右手和音の一番低い音 g''(ソ)となり、分
散和音の最終音と 1 オクターブの開きがあるた
め最終音を欠く印象があり、これを補ったもの
と思われる。(参照 E)
伴奏リズムの装飾
23、24小節の左手バスパート 1 ~ 3 拍目では、
原曲の 8 分音符の同音反復は、付点を付けられ
弾んだリズムに装飾されている。(参照 F)
― 2 ―
編曲
原曲




                
              



A
か ぜ に そ よ ぐ う つ くし き も の




  
 
            
5小節6拍目以下(以下5.6~と略す)
 


B
 と
 
27.9~






17.9~



か


C
 
 
 
Ⅰ

17.1~
D



    
   

う
よ う ー え



  

 
 


え
で
よ

 

   
   


(Ⅲ)
Ⅴ Ⅴ43
2
*
 




  
 



 
わ


 
 

か
 


と

 


い

 



え

で


   


 

   
   




 







か





  

* は経過的な和音
 



31.1~
E
 




                

  

 か ぜ に そ よ ぐ う つ く し き も の 



 
            

Ⅰ

    
  
う
よ
う ー え

  

え

 



 


 
で
よ
い


 
 

か
え






   
   * 

Ⅴ Ⅰ6 Ⅱ7
2
 

  
 





で
TG版ではd'(レ)
移調の際のミス?














 
わ

 


   
連続8度


 


  
  
 
 

 





 






  
             
      
    




   
  

  
             
      
    
F




  
  
22.12~
― 3 ―
拍目、伴奏テノール音の誤り、および26小節 6
拍目、右手の和音の上から 2 番目の音が誤って
書かれるという事態が生じた。fis''(ファ #)
音は正しくは g''(ソ)である。これは移調、
あるいは浄書の際の誤りと考えられる。
このリズムは前述の追加された分散和音(19、
22小節)の中にも見られる。
楽譜の変更の推移
これらの変更についても富岡と山田の面談の
際に話があったかどうかということについては
大変興味あることである。著作権法上、著作者
人格権の中の「同一性保持権」により作曲者の
意に反した編曲は禁止されている。丸山の話か
ら大変良好であったと思われる両者の関係の中
で、専門家であった富岡がこれらの変更の件に
ついても了解を求めたとも十分推測できるが、
今となっては確かめる術はない。
著作権法は1899(明治32)年に制定された。
その後、時代の要請、技術の発展などを受けて
1970年に全面的に改訂された。この改訂は条文
数では約 3 倍、総文字数では10倍以上の大改訂
であった。旧法においても「著作者人格権」は
規定されていたが、富岡が編曲を行った1955年
当時のわが国では、近年とは違いあまりこれを
意識する風潮はなかったのではないか。また編
曲の可否については作曲者の寛容さによるとこ
ろが大きい。山田の場合はどうであったのだろ
う。しかし仮に山田の了解があったとしても、
出版譜には編曲についてのことわりが記載され
るべきであったであろう。
その後TF版は、創立80周年(1964年)を記
念して富岡により作曲された「東洋英和の歌」
と共に合本として出版された。1973年頃、再び
ト長調に移調され、TG版として2015年にいた
るまで版を重ねて使用された。ト長調に戻され
た理由は不明である。卒業生の中には「持って
いる譜面はヘ長調であるがト長調で伴奏されて
いて違和感があった」、「ある年から突然ト長調
で伴奏するようにいわれて戸惑った」などの感
想を持った者もいたようである。
この際、新たな版が起こされたが、TF版の
誤り、12小節 3 拍目、伴奏バス音 e(ミ)の♭
欠落は訂正されたが、あらたに前述の18小節 4
検討委員会はなお数回の委員会を重ね、再び
自筆楽譜から版を起した原曲版と、60年以上歌
われてきた富岡による編曲版を併せて掲載した
校歌の楽譜を新たに刊行することを決定した。
この際、原曲版は実用的利便性を考慮して旧仮
名遣いを現代の仮名遣いに直すことも検討され
たが、歴史的価値を尊重してあえてそのままに
した。また山田自身の記譜ミス(13小節。すで
にTF版で修正済み)、通常つけるべき注意喚起
のための変化記号の欠落などを修正した。編曲
版は再び編曲当初の調子、ヘ長調に戻した。
編曲の理解
編曲版をどう評価するかは、意見の分かれる
ところである。もちろん原作は創作物であるが
故にその価値に勝るものはない。ましてや一流
の作曲家の作品に手を入れることは勇気のいる
ことである。富岡の編曲の第一義的な理由は音
域の問題であったのであろう。しかし富岡の編
曲は生徒の歌い易さという実際的な目的を超え
て、富岡独自の音楽的脚色により、新しい魅力
を作り出していると言えるのでないか。原作の
格調高さに対して、より身近な親しみ易さとい
うことかも知れない。
愛される曲は後に多様に編曲されることが多
い。古典の名曲の多くは後にさまざまな形に編
曲されている。ヘンデルの「メサイア」も作曲
された時代においても、演奏される場所、演奏
者の条件により作曲者自身により様々に編曲さ
れた。モーツァルトが彼の時代のオーケストラ
に合わせて編曲した
「モーツァルト版メサイア」
も一時は演奏の主流であった。最近は作曲され
た時代の演奏スタイルを重んじる傾向が強く
校歌楽譜 各版の使用時期
各版の使用時期
1934
55
60
66 71 73
昭和9
31
30
36
35
42
41
78
46 48
53
2016 平成28
初版(ト長調)
TF版
TF版(ヘ長調)
TF版
TF版 *
* 「 東洋英和の
東洋英和 の 歌」 付
TG 版 *(ト長調)
2015年刊行楽譜
新楽譜
― 4 ―
なったが、現在でもなお使用される場合がある。
バッハの作品も極端な場合はジャズにまで編
曲されることがある。良し悪しはともかく、そ
の作品にはそれだけ時代やジャンルを超えた普
遍性を持っているのである。バッハ自身も晩年、
青年時代に作曲した作品、特にオルガン曲につ
いて再度推敲し校訂版を出版した。もし山田が
晩年に30年前に作曲したこの校歌を再度校訂し
たとしたらそれは初版と同じ物であっただろう
か、あるいは何らかの変更もあったのであろう
かと想像の翼は広がる。
結び
現在、学院の諸行事において全員で歌う校歌
は高さを考慮してヘ長調で歌われることが一般
的である。近年は中学部合唱コンクールの中 1
課題曲、毎年高三が卒業時に録音するCDにも
TF版が使われている。これに対して1959年の
創立七十五周年記念のレコード以来今日まで何
回か行われたレコード、CD録音では編曲版が
ト長調で演奏されているものが多い。興味深い
のは1973年にTG版が出版される以前の録音で
も編曲版ではあるがト長調で歌われている。今
回新楽譜の刊行と共に、中高部合唱部により原
曲、編曲両版による校歌の合唱が録音され、幼
稚園から大学まで各部にちなんだ歌を加えて、
CD「楓よ 楓の園」として刊行された。
筆者は初版を見たことはあったが、今回初め
て調性以外にも多くの相違があることを知った。
長年英和に在職しながら、このことに気付かな
かった不明を恥じるとともに、指摘してくだ
さった卒業生各位に心から感謝するものである。
この二つの版をどのように使用するかは今後
の課題であるが、歌う機会の状況に応じて使い
分けるのが現実的ではないか。オリジナルの価
値を十分に認識した上で、原曲のとおりに歌う
のはもちろん、原曲版をヘ長調で、あるいは富
岡版をト長調で歌うのも許す、そのような柔軟
性をもってこの美しい校歌が今後も末永く愛さ
れ、歌い続けられてゆくことを願うものである。
これまでに録音された校歌のレコード、CD
年
タ イ ト ル
形 態
備 考
1959
「東洋英和女学院校歌」
創立75周年記念
レコード
(EP盤)
合唱:高等部生徒
伴奏にオルガンが加えられている
1971
「TOYO EIWA JOGAKUIN」
1971年度卒業記念
レコード
(EP盤)
合唱:高等部三年生
1984
「風にそよぐ美しきもの」
創立100周年記念
レコード
(LP盤)
合唱:短期大学聖歌隊
1984
「東洋英和女学院校歌」
創立100周年記念
レコード
(EP盤)
合唱:短期大学聖歌隊
1993
「名門女子高校校歌集」
CD
1993
「東洋英和女学院校歌」
大学第 1 回生卒業記念 CD(ミニ)
合唱:高等部生徒 音源は上記東芝版
ハンドベル演奏版も収録 1999
~
2002
「東洋英和女学院校歌」
高等部卒業記念
CD(ミニ)
合唱:高等部三年生
2002
「東洋英和女学院校歌」
CD(ミニ)
音源は東芝版
2003
~
2016
「風にそよぐうつくしきもの」
高等部卒業記念 2005
「東洋英和女学院校歌・
東洋英和女学院大学歌」
2016
「楓よ 楓の園」
CD
CD(ミニ)
CD
― 5 ―
合唱:高等部生徒 東芝EMI制作
合唱:高等部三年生
2004年までト長調、以降ヘ長調
音源は東芝版
校歌合唱:中高部合唱部 原曲版、編曲版を収録
<追記:あれこれ>
楽譜通りでない歌い方
4
4
4
「かべ」
、
「にわ」の傍点の音にフェ
、
「このまど」
ルマータ(音を延ばす印)はつけられていない。
「少しゆっくり」の指示があるが、付点 4 分音
符分延ばしてゆったりと歌われるのが習慣に
なっている。その方が大きな 2 拍子の拍子感が
崩れず、自然に感じられるからであろうか。
白秋自筆原稿の修正
北原白秋の自筆原稿はインクで書かれている
が、最後の「東洋英和、東洋英和」の部分は、
3 節ともアルファベットでTE TE TE と
3 回も書かれている。しかしこの部分は鉛筆で
うすく消され、
日本語で「東洋英和、東洋英和」
とこれもうすく直されている。直したのは誰だ
ろう。曲のおさまりは 2 回が適当で、 3 回では
おさまりが悪い。耕筰からの提案であったのか、
それとも白秋みずからの訂正であったのか。
ことば
「東の道」の解釈
筆者は中高部在任中、毎年高三の音楽テスト
の一部に、校歌の歌詞の意味について出題した。
「日かげ織る」
、
「光と新たなる」、
「にほへよ この良き土」
、
「玉よりも響かふ愛」など文学的
かつ文語調の歌詞は、中 1 以来何回か意味を教
わっているはずである。この類は採点対象とし
たが、第 3 節の「東の道」については採点はせ
ずにそれぞれに自由な解釈を書いてもらった。
多かった解釈、珍答。
「東の道」→「東の言葉」→「東の国で話さ
れている言葉」→「英語」の連想から「英語が
話されている学校」。確かに日本で見る世界地
図では、カナダは日本の右、すなわち東にある。
しかし英語は西洋の言葉というのではないか。
「道」という字にひかれて「東の道」は「学
校の前の通り」であると地図入りの解答もあっ
た。鳥居坂通りは学校の東ではなく西側にある。
無理もない。筆者も一言で明快な説明はでき
ず、関連ある事柄を羅列し、それぞれに連想を
広げてもらうだけであった。
「東」
、太陽の上る方向、明るくなる、物事の
始まり、真理の源、啓蒙、オリエンテーション、
東の博士、「はる」という読み方もある・・・
「道」
、字からは人のみち(倫)、読み方からは、
神のみ言葉、
「はじめに言葉があった」(ヨハネ
福音書)
、フォーレ作曲「ラシーヌの賛歌」の
冒頭の歌詞「至高者と同一なる言葉よ」(キリ
スト賛歌)、
中国語では「道」という字に「言う」
という意味もある・・・ 等々
二名の方の解釈を紹介したい。
・黒川信也元高等部長の解釈
楓の園には、人間が最も大切にしなければな
らない、「わたしはどのように生きるか」を教
えてくださる神の御言葉が示されている。
・今井亮二中高部国語科教諭の解釈
東洋英和は、互いに相手のことを思いやり、
そして想いや時間を共有し、それをみなが一緒
に積み重ねていくような、豊かな出会いのある
学舎である。
校章の変遷
初版楽譜の裏表紙にある校章は楓の葉の根元
の部分が曲がっている。1984年、創立 100周年
を機に校章の正用定型が制定されたが、それま
ではさまざまな形の楓マークが種々の出版物な
どで使われていた。校章の変遷を調査した元大
学教授、伊勢紀美子は「史料室だより」に寄せ
た文を次のように結んでいる。
「当時の校長ハミルトン先生は、合理的で簡
潔を好まれると共に鷹揚であって、大筋にOK
を出されると、一切責任者に委かせて仔細に及
ばずであった方という。根本のカナダ楓が確認
されている限りにおいて、その一時的、表層的
形状の崩れをも内に抱擁して来た校章の歴史は、
ひとりの人格が時の流れ方をも支配し、伝統と
いう言葉に置換えられうるものと教えてくれ
た。」(No.7 1979年)
校歌の変遷とも関係があるような気がする。
「富」と「冨」
富岡正男の「富」は「冨」が正式な字である
が、学院在職時は「富」を使われていたことか
ら本稿では「富」を使用することとした。先生
は晩年は「冨」を使われていたようだ。
校歌についての記事など
1935年 「同窓会会報 母校創立五十年記念号」
1954年 鵜沼幸『東洋英和女学院七十年誌』
2013年 今井亮仁「論叢」第31号
資料
「東洋英和女学院 校歌について」
校歌を主題とした楽曲
1971年 長尾壽晃(元短期大学教授)
東洋英和女学院校歌の主題による変奏曲
197?年 田中友子(卒業生・作曲家)
東洋英和女学院校歌による変奏曲
― 6 ―
(学院オルガニスト 元中高部音楽科教諭)
校歌に刻み込まれた歴史と伝統
渡 辺 裕 共同体歌としての校歌
音楽のもっている重要な役割のひとつに、共
同体を形づくったり維持したりするというもの
がある。コンサート・ホールなどで、浮世の雑
念を忘れて純粋に楽しむことは、もちろん音楽
の醍醐味の一つだが、現実の社会の中で人々が
声を揃えて歌うことで連帯を確かめ合い、アイ
デンティティ意識を強めてゆくこともまた、音
楽の重要な機能である。もっぱらそのような目
的で作られる歌は、しばしば「共同体歌(コミュ
ニティ・ソング)」などと呼ばれるが、校歌は
その典型的なものである。日本では、とりわけ
昭和戦前期に多くの学校が次々と校歌を制定し、
どこの学校にも校歌があるという、世界的にも
珍しい文化が形作られてきた。
狭い意味での校歌だけでなく、小学校で歌わ
れる唱歌、女学生たちの歌う愛唱歌など、ふつ
うの音楽作品とはまた一味違う、さまざまな共
同体歌のおりなす学校の音楽の世界は、日本人
の共同体意識や心性を形作る上で大きな役割を
果たしてきた。東洋英和女学校校歌は、校歌制
定の動きが全国的に最も活発化した時期である
1934年に、その先頭に立って多くの校歌、社歌、
自治体歌などを作っていた北原白秋、山田耕筰
という「黄金コンビ」が手がけた、この種の共
同体歌の典型と言える作品であると同時に、そ
れらの中でもとりわけ質の高いものの一つであ
る。
共同体歌をめぐる「原典」問題
こうした珠玉のような作品であれば、原典を
そのままの姿で残したいと考えるのは当然のこ
とである。近年はとりわけ、
「原典尊重」が叫
ばれ、作曲家の自筆楽譜などの信頼できる資料
をもとに校訂された「原典版」楽譜が重視され
る時代である。その意味では今回、山田の自筆
楽譜の精査をふまえた原曲版の楽譜があらため
て刊行されたことは、時宜にかなったことと言
えるだろう。
他方で、共同体歌のような、人々に愛唱され、
歌い継がれてきた曲の場合には、いささか厄介
な問題もある。
滝廉太郎の作曲した《荒城の月》
にある、原曲では半音下がりだった「春高楼の
はなのえん」の「え」の音が、全音下がりの形
になって広まったり、ブラームスの《子守唄》
のリズムの付点がとれてしまい単純化された形
で広まったりするなど、作曲家の残した原典と
は違った形で人口に膾炙しているケースが少な
くないのである。
それらの場合、原曲より改変された形の方が
自然で歌いやすいなど、もしそういう形に変え
られていなければ、あれほど広く人々に愛され
るようにはならなかったかもしれないと思わさ
れることが多い。《荒城の月》の音の変更のケー
スは、作曲者の死後、山田耕筰が手を加えたも
のであることが知られているが、このように歌
う人々の感覚に合わせた変更が意識的に行われ
ることも少なくない。こうしたケースでは、改
変のもたらした効果の重みや広がりを考えると、
原曲を尊重して元に戻すのが良いと、一概に決
めるわけにはいかなくなってくる。
今回のケースでも、編曲者の富岡正男が行っ
たヘ長調への移調は、音が高すぎるための歌い
にくさを解消するという理由であろうし、その
他の変更も、最小限の変更でさらなる輝きを加
えることに成功したもので、その意味では、共
同体歌によくある事例のひとつであると言って
良い。山田自身、率先して滝廉太郎の《荒城の
月》の改変に関わっていることからも窺えるよ
うに、共同体歌特有のこのような問題をよく理
解していた。山田はベルリンに留学して西洋の
最先端の現代音楽を取り込むような仕事の一方
で、民衆が声を揃えて皆で歌えるような「国民
音楽」の樹立を自らの重要な使命と考えていた。
あれほど多くの校歌を手がけたのもまた、そう
いう使命感ゆえのことであり、富岡の加えた改
変について、山田が単に了解したという以上の
積極的な賛意を示したとしても決して不思議で
はない。
複数の「正しい歌い方」
共同体歌のこうした特殊事情に限らず、最近
の音楽研究では、楽譜や演奏法の「正しさ」に
関わる考え方全体が大きく変化してきている。
― 7 ―
音楽というものが、楽譜に書かれた時点で完成
するものではなく、さまざまな「現場」でさま
ざまな人が関わってはじめて実際に音になる
「生もの」である以上、楽譜はプランの一部に
すぎないとも言える。作曲者自身、自分が現場
に立って演奏する機会があれば、演奏者の技量、
ホールの音響等々、さまざまな要素を考慮して
改変を加えたであろうことは想像に難くない。
そういうことから、最近の楽譜校訂は、唯一の
正しい「原典」を固定するというよりは、そう
した多様な可能性をできる限り勘案するような
方向に向かってきている。
特に共同体歌の場合、多様な伝承の場があり、
それぞれに応じた歌い方の「伝統」が形作られ
ていることも多い。有名な北大寮歌《都ぞ弥生》
は、寮歌集編纂の過程で何度も作曲者に問い合
わせるなど綿密な楽譜の校訂が行われてきた一
方で、入学式できいた歌い方と、その当時寮で
行われていた、
「一息二文字」などと呼ばれる
おそろしくゆっくりした歌い方とがあまりに異
なるので新入生が仰天したといった一口話を生
み出したりもしてきた。しかしその多様なあり
方は、その曲が形作ってきた歴史や伝統の深み
の現れと考えるべきであって、無理にどれか一
つの「正しい」ものに統一することは、そうし
た深みや厚みを失わせることにもなりかねない。
その意味では今回、東洋英和女学院校歌の楽譜
やCDが「原曲版」と「編曲版」とを並置する
形で編纂されたことは、まことに理にかなった
措置と思われる。それは、この校歌が多くの人々
の手で守り育てられてきた誇るべき歴史である
と同時に、その上に立って、将来さらに第三、第
四の新しいあり方が生み出されてゆく、そんな
可能性の広がりを感じさせてもくれるのである。
プロフィール
渡辺 裕(わたなべ ひろし)
東京大学大学院人文社会系研究科教授(美学芸
術学、文化資源学)。専門は聴覚文化論、音楽
社会史。著書に『聴衆の誕生』(中公文庫)、
『日
本文化モダン・ラプソディ』(春秋社)、『歌う
国民』(中公新書)など。
••••••••••••••••••••••••••••••••
上 :初版楽譜 1 ページ 山田耕筰サイン入り
右上:
「東洋英和女学院校歌」 創立₇₅周年記念レコード
(19₅9年)
右中:
「東洋英和女学院校歌」 創立1₀₀周年記念レコード
(19₈₄年)
右下:
「楓よ楓の園」
CD (₂₀1₆年 ₃ 月)
― 8 ―
〈思い出の先生がた〉31 黒田成子先生
黒田成子先生との出会い、そして学んだもの
眼鏡の奥の眼差しの優しさ、ウェーブのか
かった髪の毛、お茶目な投げキッスのパフォー
マンス。六本木の短期大学時代、そこで出会っ
た黒田先生のイメージを挙げるとこのようなも
のが思い浮かびます。
授業では優しい口調で時には熱意を込めて、
子どもの遊びの場面でのいろいろな姿、そこに
関わる保育者のあり方を教えられました。社会
性、喧嘩をめぐる受け止め方、カリキュラムの
是非などどれも興味深く、自分が保育者になっ
たらどうするかなと思いめぐらしながら授業を
受けていました。保育学の基本原理やフレーベ
ルについての基礎知識も。
ところが呑気な学生だった私は期末試験の時、
大変な失敗をします。いくつかの言葉が挙げら
れその意味を問う出題でした。「ガーべ」と書
かれており、それを見た私はいわゆる頭が真っ
おんぶつ
白の状態に。フレーベルの保育遊具である恩物
のドイツ語でした。他の学友は難なく回答した
といいます。いつ聞いたの?と聞くと涼しい顔
で「先生がおっしゃっていた」と。私は恩物に
ついては歴史的な古い遊具だと理解し、あまり
関心も持たない学生だったのです。
キリスト教保育は子どもの遊びを大事にする
保育として実践の歴史を積み重ねてきました。
私は「東洋英和の保育」を学び、それをいくつ
かの保育現場で実践してきました。そこでは常
に変わらない保育を共有できる基盤がありまし
た。何々方式というような保育方法ではない、
ごく普通の日常的な子どもとの生活、遊びを大
事にしようという意識です。
それは何を根拠にして伝えられてきたのか、
改めて興味を持ち、たどり着いたのが黒田先生
の保育論でした。そこでこの数年、先生の数多
いご研究の実績や資料を調べています。
黒田先生はキリスト教保育を戦後の東洋英和
の新制短期大学において晩学されました。
卒業後直ぐに送り出されたアメリカ留学で世
界の最先端の保育学、キリスト教学を学ばれ、
帰国後は東洋英和だけでなく、日本の保育学研
究への情報発信者として功績を残されました。
先生の保育学研究は常に実践を伴うものである
こと、何よりキリスト教信仰に基き、そして今
を生きる子どもに向き合おうとする姿勢でもあ
片 山 知 子 黒田成子先生
りました。
私は短大卒業後、短期大学附属かえで幼稚園
で保育者としての歩みを許されました。そこで
は黒田先生から保育の現実課題としてキリスト
教保育についての園内研修のご指導を受けたこ
とも懐かしく思います。聖書の示す私たちへの
神様からのメッセージを子どもに伝えることの
大切さ、そして同時に子どもの生活の中に存在
し、生じる様々な事柄をキリスト教の価値観で
どのように受け入れて関わるかを小さな事例、
エピソードを通して考える学びでした。
不肖の教え子である私は、今回この原稿を書
きながら、先生のチャーミングな仕草を思い返
し、黒田先生は常に神様に対してご自分を心か
ら委ねる、正直な生き方を表現されていたのだ
と気付かされました。感謝です。
(キリスト教保育連盟理事長
1972年高、1974年短期大学保育科卒)
― 9 ―
黒田成子(くろだせいこ)先生 略歴
1914年10月11日生まれ
1936年 同志社女子専門学校卒業
1952年 東洋英和女学院短期大学保育科卒業
1954年 WMSの留学生としてアメリカのナショ
ナル・カレッジ・オブ・エデュケーショ
ン大学院修了
本 学短期大学に奉職、東洋英和幼稚園
主任、保育科長、学長事務取扱を歴任
勤続 25年間 (~1980年)
キリスト教保育連盟理事長、日本保育学会名誉
会員、武蔵野相愛幼稚園園長・理事長
2007年 5 月24日 永眠(享年92歳)
〈資料紹介〉28
い ま ず わ せ
い
松岡正樹氏寄贈 今諏訪勢以所蔵古写真
酒 井 ふみよ ここに紹介する古写真群は、昨年 9 月と10月
に、関西在住の研究者の松岡正樹氏により寄贈
された、今諏訪勢以先生の所蔵写真である。
全127枚中ほとんどが写真館で撮影された人
物のポートレートで、厚紙の台紙に貼られたも
のやカバーのついたものばかりで保存状態は大
変良い。
ここでまず今諏訪先生について紹介しておき
たい。先生はクリスチャンであった父親の願い
により、1885年すなわち本校創立翌年に甲府か
ら上京して給費生として入学、1893年まで在学、
1 年間静岡英和女学校に派遣され、戻ってきて
翌年卒業。1897年まで寄宿舎取締り、その後教
員として訳読、初級英語クラス、聖書、唱歌な
どを担当した。そのほかにも日曜学校の先生、
王女会運営の恵風学校校長も務めた。その間
ずっと英和の寄宿舎が彼女の家であり、寄宿生
たちと共に暮らしていた。とても誠実な人柄で
誰からも信頼が厚かった。1922年に京都の上島
家に後妻として嫁ぐために退職、その後は関西
の同窓会の要となり、1932年に亡くなった。彼
女については、
『東洋英和女学校五十年史』の
みならず、同窓会会報、ミス・カートメルの回
想にも記述されており、初期の東洋英和女学校
を支えた献身的な人物であった。
このように彼女が「麻布女学校の子」(ミス・
カートメルの表現)であったことが良くわかる
のが、この写真群である。
大きく分けると、ご本人およびご家族の写真
が13枚、宣教師など西洋人のものが32枚、日本
人の教師たちのものが 7 枚、それに対し、教え
子と思われる生徒・同窓生たちおよびその家族
の写真が73枚ある。
同窓生たちが贈った写真は、一人で写ったも
の、数人のグループのもの、結婚の報告と思わ
れる伴侶とのもの、出産報告と思われる赤ちゃ
ん、子どもの成長、一家全員のものなどパター
ンはいろいろである。先生を敬愛する生徒はま
ず卒業の時、それから結婚や出産の慶びの報告
の時に写真をさし上げたのであろう。先生と同
窓生の絆の強さがうかがわれる。中には、 1 枚
の若い青年の写真の裏に、彼の生年月日と死亡
年月日が記されており、息子を亡くした悲しみ
のお便りが寄せられたことが推察される。
宣教師の先生は数年ごとに 1 年間の賜暇休暇
があったので、別れを意識して写真を渡す機会
は多かったであろう。史料室で今回初めて入手
できた先生方の写真も数枚ある。カナダメソジ
スト教会婦人ミッション会長のW. E. ロス夫人、
主任のE . ストラチャン夫人が1905年に訪日され
た時のポートレートもある。また、今諏訪先生
と小林富子先生とは仲良しだったらしく、一緒
に写ったものも何枚かある。
保存状態の良さから推測すると、今諏訪先生
はこれらをきちんと箱に納めて、大事に保管し
ておられたのだと思われる。
全く別の視点、台紙や写真館の方から見てみ
ると、台紙の多くが大変素敵なデザインである。
あたらしばし
また、丸木写真館(新橋)、次は荒川(芝森元町)
で撮影されたものが多い。
残念ながら、裏面に献辞や撮影日は記されて
も、贈呈者の氏名の記述は少ない。両者にとっ
てことさらに記す必要もなかったのであろうが、
後世の我々からすればどこのどなたかわからな
いのは非常にもどかしいことである。
お名前のわかる方々・・・【先生】:ブラック
モア( 4 枚)、クレイグ( 2 )、マンロー( 2 )、
ラージ( 2 )、M.カックラン( 2 )、S.カック
ラン、C.E.ハート( 3 )、コーテス、ロバート
ソン、ヴィゼー、アレン、ティンバーレイク、
アームストロング、ハミルトン、クロンビー、
ウィントミュート、小林富子( 5 )、奥野みね
子、小澤ふさ【生徒】:内田(高木)勝代( 2 )、
内田(伊丹)小夜子( 2 )、生尾元子、平岩喜
代子、福田x喜子、吉田x、今村寿々代(?)、
内垣(浅野)泰子(浅野順一牧師夫人)、【その
他】W. E. ロス、E. ストラチャン、和田喜八、
横田ふくみ、新渡戸稲造(?) (xは読み不明)
写真以外に、1919年の創立35年記念祝賀会の
プログラムと1915年の外国人教師一同のクリス
マスカードが入っていた。
本学院に学び、あるいは教えた人びとの真剣
な眼差しがじっとこちらを見据えている。往時
の本学院の雰囲気を偲ばせる貴重な写真コレク
ションである。幸運なことに散逸せずにまと
まっていたこれらの写真をそっくり入手した上、
本校に寄贈してくださった松岡正樹氏に心から
感謝申し上げたい。
(史料室 嘱託)
― 10 ―
1
₅
₆
₂
₇
₃
₄
1 :今諏訪勢以
₂ :今諏訪勢以(右から ₂ 人目)と小林富子(左端)
₃ ・ ₄ :氏名不詳
₅ の左 :松野和平
中央:鈴木静、富士枝(明治₄₀年)
₆ の左上:波多野傳四郎牧師一家
右 :古谷一雄一家(明治₃9年)
₇ 左より:シビル・コーテス、マーガレット・クレイグ、
アニー・アレン
(以上 敬称略)
― 11 ―
史料室の活動より(2015年10月~2016年 3 月)
(☆は複数回の事項)
10月・来室・取材─ザイヤ
(いのちのことば社)
「朝のヒロインはクリスチャン」DVD作
成のため
・来室─東光会役員 11/14の東光会のつ
どいの用意の相談
・資料提供─河出書房新社『柳原白蓮の生
涯』へ 柳原白蓮インタビュー記事
・画像提供─「ビジュアル馬込文士村 2 」
のため、ハーツ&マインズへ 片山廣子
ほか 4 点
・受贈─松岡正樹氏より 今諏訪勢以氏
(初期教員)所蔵の写真多数 第 2 弾
☆来室─河野和雄氏 「史料室だより」本
号執筆のため、画像検索など
・来室・画像提供─広報 市川麻友氏 4
「楓園」No.79特集[戦時下の東洋永和]
のため、画像検索 →多数掲載
・画像提供─「柳原白蓮の生涯展」のため、
NHKプロモーションへ 4 点
・来訪・展示見学─プリンスエドワード島
観光局 R. Ferguson氏、C. Sulis氏, 高
橋由香氏、カナダ観光局 半藤将代氏、
村岡美枝・恵理氏
・照会─高橋貞二郎教諭(中高部)より 「東
洋英和青年会会歌」の楽譜 →コピー提供
☆来室─小出いずみ氏 資料集第 4 号編集
および、目録作成についての助言
・来訪─柴谷栄子氏(高等女学科卒 カナ
ダ在住)
長野彌先生とミス・ハミルト
ンからの書簡をご寄贈
・来訪─飯田國宏氏・久子氏(高等部卒)
ご夫妻、まどか氏(高等部卒)
古い同
窓会の写真をご寄贈
☆来室─三木妙子氏 卒業60周年記念文集
作成のための調査(週 1 - 2 回)
11月・
「史料室だより」No.85 刊行
・来室・調査─田中奈緒氏(高等部卒、学
習院大学大学院)
中高部相談室の歴史
・出張─「柳原白蓮の生涯」展 特別内覧
会(於 西武百貨店)
・
(創立記念日)
展示コーナーにて、大学
留学生 4 名に学院の歴史をレクチャー
・画像提供─「じゅん散歩」のためTV朝
日映像へ 永坂孤女院 1 点
・画像提供─「風─東洋英和女学院高等部
卒業60周年記念文集」のため 「敬神奉
仕」の扁額他 3 点
・来室・懇談─塩入隆氏(
『百年史』執筆者)
戦前の長野県の幼稚園や教会の話
・撮影─いのちのことば社 「朝のヒロイ
ンはクリスチャン」DVD作成のため 『赤
毛のアン』初版本、直筆原稿、展示コー
ナーほか
・来室・取材─FBIコミュニケーションズ
より 3 名、松波朋子氏(高等部卒、ヴォー
リズ建築事務所)
「Kaede Magazine」
ヴォーリズ特集のため
・来室・調査─教文館 倉澤智子氏 スト
レトフィールド著 村岡花子訳『バレー
シ ュ ー ズ 』1957年 版 と1967年 版 の クレ
ジット。新版(中村妙子訳)再版のため
・来訪─港区麻布地区総合支所担当者 3 名、
「麻布未来写真館」パネル展打ち合わせ
・会合─筧正三氏から柳原白蓮の母方の家
系の方々の話 新見(しんみ)正裕氏(柳
原白蓮の親戚)
、あざ六プラスのメンバー
達と。
12月・画像提供─ムック『広岡浅子のすべて』
のため、日経BP社へ ヴォーリズ校舎と
現校舎 2 点
4
・校閲─「楓園」戦時下の東洋永和特集
・来室・画像提供─鈴木法子幼稚園園長
・照会─白金台に東洋英和があったことが
ないか →不明
・来訪─暮地雅子氏、母上の暮地喜美代様
(1934年卒)のアルバムご寄贈
・出張─全国大学史資料協議会東日本部会
研究会(東海大学資料館移転について)
・出張─第26回保存フォーラム(国立国会
図書館にて 展示と保存)
・村岡花子文庫展示コーナー企画展 宣教
師と村岡花子①「忘れ得ぬ人─ミス・ス
トラザード─」終了(18日)
・校閲─「Kaede Magazine」Vol. 11ヴォー
リズ特集、歴史館
・来室─村岡美枝・恵理氏 展示用写真ご
提供、今後の展示の打ち合わせなど
・画像提供─
「クイズバラエティー Qさま!!」
のためTV朝日へ 旧・現校舎 2 点
2016年 1 月
・来室─細川恒子氏(高等部卒)
「東光」
原稿執筆のため、新聞部1958年ごろ発行
― 12 ―
の「東洋英和新聞」を閲覧
・来室─村岡美枝氏 『王子と乞食』原文
と翻訳初版を調査
・来室─TVマンユニオンより 3 名、NHK
「アナザーストーリーズ」原案作成のた
めの下見、取材
・学院資料・村岡花子文庫展示コーナー 企画展「村岡花子と広岡浅子 文学者村
岡花子の誕生」開始(13日)
・画像提供─ムック『広岡浅子と日本のヒ
ロイン』のため、フォーチューンボック
スへ 『パレアナの成長』他 7 点
・画像提供─BS-TBS「にっぽん!歴史鑑
定」
(テーマ 広岡浅子の生涯)のため、
ネクサスへ 『赤毛のアン』初版 1 点
・画像提供─ムック『広岡浅子のすべて』
電子版のため日経BP社へ旧・現校舎 2 点
・来室─国際文化会館図書室 林 理恵氏 倉庫の資料(国際交流プロジェクトの記
録)の目録化作業開始にあたり、ご相談
・来 室 ─ 高 橋 貞 二 郎 教 諭 東 洋 英 和
YWCA100年の原稿執筆のため資料貸出
・来室─1956年卒の方 3 名。
文集の掲載
年表作成のため最近の学院の歴史調査
・来室─浅田順子氏(高等部卒)
「東光」
寄稿のため、中高部ワンダーフォーゲル
部誌「やまびこ」閲覧
・来室・見学─高三 福本久子教諭の補講
「学院資料の解読」受講者のうち 3 名
・照会─中高部宮崎恵美教諭より 元保健
室故宮部黎子教諭の写真 養護教諭の会
で追悼のため
・来室─松波朋子氏 「ヴォーリズと英和」
企画展示打ち合わせ
・ 画 像 提 供・ 撮 影 ─TVマ ン ユ ニ オ ン NHK「アナザーストーリーズ 広岡浅
子編」のため →BS 2 月17日、地上波 3 月26日放映
・第 3 回史料室委員会
・照会─那須求一氏より、叔母 3 名の在籍
→ 2 名在籍、卒業
・校閲─「朝のヒロインはクリスチャン」
DVD
・来室─市川麻友氏(広報)カナダ大使夫
人来訪準備 資料の貸し出し
2 月・学院資料展示コーナー 企画展「ヴォー
リズと英和」開始( 1 日)
・来訪、展示見学─東山荘 大和田浩二氏 画像および資料提供
・画像提供─佐々木紀人氏へ 英語教材の
ため 東洋英和学校 1 期生の集合写真等
・校閲─大学入試広報課作成の2017年大学
案内の歴史に関するページ
・中高部地歴部ボランティア─史料室年度
順個人ファイルをあいうえお順にファイ
リングし直し
・照会─齋藤康代氏より ミス・ジョー
ン・チャードが創立100周年の記念式典
で挨拶しているか →確認、資料提供
・画像提供・撮影─創美社へ 大同生命特
設サイトのため、
「村岡花子と広岡浅子」
企画展展示資料
・画像提供─大学の町田小織講師へ 「キャ
リア設 計Ⅰ」教 科 書 掲載のためミス・
カートメル、花子、白蓮の画像
・第 3 回英和ネットワーク会に出展
・画像提供─
演奏会チラシ
とプログラム掲載のため、創立50周年記
念式典で村岡花子が壇上にいる画像
3 月・照会─野村正宣教諭(中高部)より、宮
本むら氏の在籍 →1887年ごろ寄宿舎取
締り
・照会─「週刊現代」より 特集:草創期
の女子大への財政的支援 英和は?
→WMS、カナダの女性教会員たち
・出張─大学史資料協議会研究会(明治大
学生田キャンパス)
・来室─ノートルダム清心女子大学の赤松
佳子氏 展示見学、懇談
・照会─森恵氏(恵泉女学園史料室)より、
庭瀬貞子氏の在籍 →不明
・展示コーナー(通路側)にて 「麻布未
来写真館」パネル展(15日~28日)
・
「 東 洋 英 和 女 学 院 資 料 集 第 4 号 M. J.
カートメル関係史料」
(英文)完成
・照会─都立小石川中等教育学校(元小石
川高校)同窓会より、初代校長伊藤長七
(前任が本校だった)について
・打ち合わせ─「英和学」講座について 学長、大学教員 2 名、史料室 3 名
・来訪─山崎富美子氏、山田美枝子氏 ヴォーリズネットワーク会 旧ハミルトン
&ハード軽井沢コテージ 特別見学会の
打ち合わせ
・調査─関谷晴香氏(高等部卒)
卒業論
文のため、村岡花子蔵書の洋書
― 13 ―
史料室所蔵資料の目録化作業報告
史料室─ 7 月~ 9 月:書庫内整備(余剰資料廃棄、
書籍の分類整理・再配架、逐次刊行物リ
スト化)
、恵泉女学園史料室見学、目録
セミナー参加 / 10月~ 3 月:書庫内パ
ネル、過去の展示資料、モノ資料の整理、
不要物廃棄。逐次刊行物、行事資料の整
理。史料室作成諸目録の統一方法を検討。
10月:所蔵目録作成委託を、出版文化社(以後
S社)
、紀伊國屋書店(K社)の 2 社に決定。
S社には学内にてアーカイブ的資料の目
録作成及びコンサルティング、K社には
書籍と逐次刊行物の目録作成を委託する。
11月・12月:S社 ─ 書 庫 内 の 作 業( 配 架 移 動、
配架図作成)
、書庫棚 5 ・ 6 ・ 7 の概要
目録作成 K社─洋書(Lot 1 含む村岡
花子文庫洋書)搬出・目録作成開始
1 月: K社─洋書作業完了・搬入(830冊)
、和
書(Lot 2・3 一般書籍・他校年史)搬出 S社─打ちあわせ
2 月:S社─ヴァーチカルファイルの概要目録
作業開始。 K社─和書(Lot 2 )作業完
了・搬入(994冊)
3 月:S社─ヴァーチカルファイル( 1 ~ 6 )
の概要目録作成終了(S社 2015年度合
計 2089件)
。 K社─和書(Lot 3 )作業
完了・搬入(723冊)
(K社 2015年度合計 2547件)
。
主な寄贈資料
*画像提供・取材協力成果物:・BS11「とこ
とん歴史紀行」柳原白蓮(2015.7.13放映)
(DVD)
・キリスト教的新発見!目からう
ろこシリーズVol. 7 「朝のヒロインはクリ
スチャン」
(いのちのことば社)
(DVD) ・
『広
岡浅子と日本のヒロイン』英和出版社
*「 東 洋 英 和 女 学 院 第19回 ハ ン ド ベ ル
フ ェ ス テ ィ バ ル 」(CD)、「Early Summer
Concert 2015/ 5 /23」(CD)、「東洋英和短期
大学英文科同窓会かえで会総会(2015.6)」
(DVD)
*卒業記念品 楓モチーフの指輪
*『八重桜の向うに ─戦後70年の夏─』市村和
子著(高等女学科卒) 朝日新聞社(自分史)
*『地平線』白蓮著 ことたま社(1956年刊)
*『柳原白蓮の生涯 愛に生きた歌』河出書房
新社
*『青山学院緑岡初等学校の学童集団疎開』青
山学院初等部
*「日本女子大学成瀬記念館所蔵 広岡浅子関
連資料目録」
*「恵泉女学園史料室所蔵資料目録」その 2
*「重要文化財 神戸女学院 ヴォーリズ建築
の魅力とメッセージ」<創立140周年記念版>
その他 他大学年史・紀要多数
購入資料
*『柳原白蓮エッセイ集 ことたま』河出書房
新社
*『ロッキーの麓の学校から─第 2 次世界大戦
中の日系カナダ人収容所の学校教育』フラン
ク・モリツグ著 東信堂
*『岩倉使節団とイタリア』岩倉翔子著(高等
部卒)京都大学学術出版会
*『不思議というには地味な話』近藤聡乃(高
等部卒) ナナロク社
*オール英和マグカップ 2 種(英和生制服イ
ラスト 楓の会グッズ)
製作資料
*マイクロフィルムのデジタル化:Methodist
Church in Canada ; The Missionary Outlook 9 巻分、Annual Report他WMS資料 9 巻分
<お知らせ>
「東洋英和女学院資料集 第 4 号 M. J. カー
トメル関係史料」
( Documentary Source Book
of Toyo Eiwa Jogakuin Vol.4 M. J. Cartmell
Papers)刊行
かねてより準備してきましたミス・カートメ
ルの資料集をようやく刊行することができまし
た。2010年にミス・カートメルのご親戚にあた
るアンスティス・ブロムさんより寄贈を受けた
遺品(「史料室だより」No.79で一部紹介)と、
残部が底をついていた資料集第 1 号
(1985年刊)
を再録した英文資料です。(B 5 版 301頁)
ご希望の方に有償でお頒けします。 1 部2,000
円+送料。 お申し込みは史料室にて承ります。
〈お知らせ〉
史料室では、学院の歴史や学生生活の様
子を伝える資料、写真、記念品等を収集
しています。ご家庭にあってご不要のも
のがありましたら、ご寄贈いただけると
幸いです。また、卒業生および教員の著
作も収集しています。
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お問合せ先は下記のとおりです。
東洋英和女学院史料室(法人事務局内)
Tel 03-3583-3166(直) Fax 03-3583-3329
E-mail:[email protected]