1.ヨーロッパ史から浮かび上がるものに、日本以上に国民性、民族性

パリ史こぼれ話
第2回(11 月 12 日)
: 都市の社会地理学 — ロンドン、パリ、ウィーンの比較 —
質 疑 応 答 [回答は常体で標記]
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
1.ヨーロッパ史から浮かび上がるものに、日本以上に国民性、民族性、地域性とともに
今回のご講義を聴き、自分のわずかな旅行体験をふりかえってみると、
「都市性」と
いう観点があるように思いました。街という歴史をもつ空間が、あたかも頭(思想)
、
顔(景観)
、手足など(機能、構造)をもつ人体のように個性があると思います。
自分は、ドイツの城壁都市で中世市民の街ローテンブルクを歩き(表面的ですが)
、ま
た、フィレンツェ、ヴェネチア、トレドをふりかえり、先生のご講義に頷いたしだい
です。ありがとうございました。
街を「人体のような個性をもつ」としているところにおもしろさがある。さもありなん、
である。一卵性双生児も環境しだいで個性をもつようになると聞く。同じ民族から成る都
市として出発しながら、元の同じ民族にまま、同一文化環境にとどまりながら成長した都
市と、異文明の影響を受けて成長した都市とでは違っていて当然である。
講師が言いたかったのは、都市形成史を見るときに①地政学的な観点、②当該都市のひ
とつの国家・民族のなかでの政治的な役割の観点、③文化・宗教的観点、④異民族ないし
は他国との関係を顧慮することが必要だということだ。上記の観点に留意しての比較が望
まれる。人間社会に関することは、比較しなければ何事も始まらない。
質問者が挙げている都市でイタリアのフィレンツェとヴェネチアが挙げられているが、
さらに、ジェノヴァ、そしてローマも比較しなければならないだろう。同じ半島に位置し、
イタリア語を話す土地柄でありながら、違いの大きさに驚くことだろう。それはそれぞれ
が歩んできた経緯が違うからである。また、トレドを引き合いに出す以上、マドリード、
バルセロナも俎上に乗せる必要がある。さらに、違いを見出すためには、ある程度の類似
性をもつ都市どうしを比較しなければならない。大都市と寒村を比較してもあまり意味が
ない。
質問者は「都市性」を挙げる。これは特筆すべき問題提起である。
「都市性」比較してみ
るのもおもしろい。
「国民性」はしばしばとり沙汰されるのに、
「都市性」という話を聞い
たことがない。さしあたってはわが国日本の都市の比較、たとえば、京都、大阪、江戸の
3都の比較をしてみてはどうか。
しかし、留意点はある。中世ヨーロッパのように人口の圧倒的多数が農民であった時代
と、先進国で国民の圧倒的多数(8 割以上)が都市に在住している現代を比較する際には、
問うべき「都市性」の意味あいが違うことも頭に入れておかねばならない。
2.パリ下水道の話を少し加えていただきたい。これも Haussmann 改造か?
1
昔、パリの最初の下水道はパリの城壁沿いに作られた堀であった。この堀はメニルモン
タン川(現存せず)― パリ東部メニルモンタンの丘に源を発し、右岸を遠巻きにグルリと
半周し、シャイヨーの丘の下付近でセーヌ川に合流する ― に通じていた。簡単にいうと、
小川と堀が、市内各所から通りを伝って流れ落ちる下水を集め、最終的にまとめてセーヌ
川に放流するのだ。
セーヌ左岸では長く、ビエーヴル川がこの役割を果たしてきた。こうした原始
的な下水溝は18世紀末までつづく。ところが、街の膨脹に伴って汚物が増大し、
水の流れが滞留するようになった。これまで自然の緩やかな傾斜が流れを形づく
っていたが、滞積した汚物が堰止めの役割を果たすようになった。憂慮したパリ
市長エティエンヌ・テュルゴーは1740年、シルク・ディヴェール(現フィユ=デ
ュ=カルヴェール大通り)に大貯水槽とポンプ場をつくった。ここで昼夜の別な
くポンプで汲み揚げられた水がこの大貯水槽に溜められた。貯水槽が一杯になる
と、栓が開かれ放流される。この高度差から生じる水圧を利用して下水溝を洗い
流すのだ。
一方、暗渠の歴史は14世紀に始まる。しかし、19世紀までは広く普及したわけ
ではなく、それを過大評価してはならない。1374年、当時のパリ市長ユーグ・オ
ーブリョーは中央市場近くのモンマルトル通りに、パリ史上初めて下水溝の上部
を蓋で覆った下水管をつくらせた。ルイ十四世治下で下水道整備の計画が立案さ
れ、その一部が実現された。全長10,390mのうち、8,035mが露出下水溝であっ
た。つごう、暗渠は全体の2割、2km足らずということになる。ここからも、暗
渠はたいへん面倒な工事を伴ったことがわかる。
本格的な下水渠の敷設工事は第一帝政下で始まったが、それとて、1824年当時、
パリ全体でわずか37kmにしかならなかった。
1832年のコレラ騒動は町当局に対し、本腰を入れて公衆衛生問題と取り組むこ
とを余儀なくさせた。かくて、1832年から40年にかけて工事のピッチは上がる。
首都において新設ないし改修された下水道は62,682mになった。ヴィクトール・
ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』に登場する主人公ジャン・バルジャンが1832
年9月のパリ蜂起の後、逃げ惑った下水溝はできたばかりであった。彼はサン=
ドニ通りの下水渠入口から地下に降り、市内の中心部をぐるりと一巡してシャイ
ヨー口からセーヌ川に脱出した。
1841年以後、工事はいったん中弛みになる。同年から47年までの間に整備され
た下水道は27,321mにすぎない、したがって、七月王政前半の半分以下というこ
とになる。とはいえ、これは財政上の困難から中弛みしたにすぎず、時のセーヌ
県知事ランビュトーはどうかと言うと、彼は下水道整備の重要性を正しく認識し
ていた。もし、二月革命の勃発が遅れ、彼の執政がもう少し長くつづいていたと
したら、下水道はもっと延びたはずである
オスマンが県知事に就任した1852年当時、パリの下水道の全長は107kmに達
していた。これが第二帝政末までに560km、つまり実に5倍以上になっている。
オスマンによる精力的な努力の結果であることはいうまでもない。
2
次いで、1878年には600km、1900年には1,650km、そして、現在のパリの
下水網の全長は2,000kmに達し、オスマン時代の4倍近くに伸びている。たし
かに、現在と比較すればオスマンの業績は見劣りするかもしれない。しかし、帝
政のわずか17年間の出来事であることを考えれば、それは驚異に値するといわね
ばならない。思うに、オスマン業績の真価は下水管の長さいうより、その体系性
にあるといったほうがよい。大・中・小の下水管区分は今も昔も同じである。
ナポレオン三世は口癖のように「パリの美化」を唱えたが、不思議なことに公
衆衛生そのものに対しては、まったく指示を与えていない。ということは、主人
の特別の指示なしに実行したという意味で、この分野に関するかぎり、オスマン
固有の業績と見なすことができる。前述のように、下水道工事においてオスマン
が必ずしも独創的見地を始めたわけではないが、このことはそれでも重要である。
オスマンは給水と排水を一体のものととらえ、とくに後者を、「パリの美化」の
内実をなすものとしてとくに重視したことは、オスマンの都市計画の壮大さと実
用性を裏づけるものである。
また、公道の直線化・拡幅、新道の開通、新街区の建設、公園緑地の造園など
の工事の一環として下水道工事が施されたことは、改造計画が都市の構造化の観
点から推進されたことを意味する。
オスマンが知事に就任した当時、下水道工事の責任者はデュピュイであった。
デュピュイはある意味で近代的下水道計画の立案者でもある。それまでは個々の
住居から出る小さな下水溝(管)はばらばらに、川に向かって駆け下りるのが通
例だった。デュピュイはこれを整序し体系づけようとした。下水渠を大・中・小
の管渠に区分し、家庭や工場から出る下水を小さな管から次第に大きなものへと
順に移し、最後に集中的に処理しようとした。
1851年、デュピュイはリヴォリ通りの直線化・拡幅工事の際に、この通りの地
下に、巨大な坑道をつくった。高さ4m、幅2.4mという穴はもはや、当時の常識
でいう下水道の概念を遥かに超えるものであり、むしろ洞窟もしくはトンネルと
いったほうがよい。常識はずれの巨大な洞窟は世間の非難と冷笑を招いた。しか
し、デュピュイはあらゆる雑音をものともせず、当初の計画どおりリヴォリの下
水道の完成を急いだ。その途中で、ルイ=ナポレオンによるクーデタが敢行され
る。デュピュイはまもなく辞職するが、彼が切り拓いたやり方は、後任のベルグ
ランに踏襲されていく。
デュピュイの「洞窟」を見て、当時の人々が驚いたのも無理はない。従来の下
水渠は大きなものでも高さ180cm、幅80cmしかなかった。これでは清掃夫が
中を1人歩くのが精一杯で、掃除をするにも動きまわるにも不自由したことは容
易に想像できる。下水管の断面積が小さいことは即、容量の小ささに直結する。
排水が一時的増水や季節的増水に対応できなかったばかりか、雨水管と汚水管の
分離がなされていないため、雨天時には排水不可となって、各所で氾濫を起こし
た。
こういうわけで、メニルモンタンの各通り、タンプル、サン=マルタン、サン
=ドニ、ポワソニエール、モンマルトルの各フォブールは、雨天のたびごとに奔
3
流となった。付近の歩道と住居が水に漬ったのはいうまでもない。もし窪地でも
あれば、辺り一帯が池となった。たとえ雨が止んでも、排水設備をもたない付近
の住民は、天日がそれを乾すまでの間、そのままの状態を堪え忍ぶしかなかった。
オスマンとベルグランは前任者デュピュイの巨大暗渠の事業を引き継いだ。巨
大であることはそのぶんだけ大掛かりな掘削工事を要するが、その反面、何かと
便利な面があった。管の容量が大きいため、汚水が街路に溢れ出る惧れがなかっ
たし、清掃夫ないし清掃機械を送り込んで、内部の掃除をするにも容易であった。
また、下水坑道の中に上水道管を走らせることもできたから、文字どおり一石二
鳥の効果も期待できた。
1855年1月22日、上下水道部長ベルグランがまとめた下水道敷設計画書によれ
ば、今後、公道下に敷設されるべき下水道は次のような容量をもつべきとされた。
1
最大雨量に達したばあい、雨水、あらゆる種類の泉水および池の溢水、公道の洗水
および散水、さらに工業ならびに家庭の雑水を直ちに排水しうること。
2
公共的および私的上水の給水のために、最低でも1本、通常は2本、あるいはそれ
以上の上水管を受け入れること。それらの管は流水の妨げにならぬよう、また、作業
員の巡回や労働者の作業の妨げにならぬよう、坑道の天井にぶら下げるか、側道の上
に設置されるかしなければならない。
3
舟または下水清掃車による排水渠の清掃システムを広範囲に適用しうること。それ
が不可能なばあい、シャベルによる浚渫から出た汚泥、街路清掃に由来する汚物…を
二輪車で運べるようにすること。本規定はとくに、地下坑道を肥溜めから区別するこ
とを目的とするものである。
4
パリの地下を流れ、そしてセーヌ川の氾濫時において地下室の浸水を生じせしめる
水溜り — いくつかの坑道がこれらの水溜りに突っ込み、その通常の流れに障害を起
こしている — を排水しうること。
以上、要するに、今後つくられるべき下水渠は容量が大きく、掃除が容易であ
り、そこに上水道も通されるということだ。
今でも、早朝の街路を歩くと、いかにもパリ的な、次のような光景に出くわす。
車道の脇を水がちょろちょろ流れている。清掃夫が箒で歩道のごみや犬の糞をこ
の水の流れの中に掃き落とす。汚物を運んだ水はしばらく流れたあと、歩道下の
溝に吸収され、忽然と姿を消してしまう。原始的であると同時に、きわめて便利
なこの街路清掃方式はオスマン時代に生み出されたのである。
むろんすべての管渠が巨大である必要はない。ベルグランは公道の道幅に応じ
てその下に敷設すべき下水渠を、次の3つの種類に分類した。すなわち、第一は
歩道の下に埋設され、道路の両側からの排水を受けとる管渠を第一次下水管とい
い、それを集めたものが、やや太目の第2次下水管であり,さらにそれらを集め
たのが幹線排水管、いわゆる「アニエール集合管」である。
第一次下水管については、高さが少なくとも230cm、幅が130cmあることを
要した。それまでの管で、高さが180cmを超えるものは、パリ全体の合計でも
わずか15kmにしかならなかった。したがって、以前の最大の下水管でも、オス
4
マン後の最小の下水管に及ばなかったことになる。第二次下水管は高さ240cm
から390cm、幅150cmから400cmとされた。アニエール集合管はこれよりさ
らに巨大であるが、第二帝政の傑作の一つであり、特筆に値する。
アニエールはパリの北西郊外にあって、セーヌ川の蛇行により半島のようにな
った地形の根元部分に相当する場所である。ここが下水の放流地であるため、
「ア
ニエール集合管」の名が生まれた。パリの下水はすべて、セーヌ右岸コンコルド
広場の下に敷設されたアニエール集合管に集められた。一方、セーヌ左岸の排水
はコンコルド橋の橋桁に設置された管渠をサイフォン原理によって、コンコルド
広場下の集合管につながれた。この管はセーヌ川に沿って下流に向い、ブーロー
ニュの森の向こう側に出て、さらにアニエールまで走り、ここでその汚水がセー
ヌ川に放流されるのだ。
アニエール集合管はデュピュイの巨大暗渠よりさらに大きく、例えるならば、
現在の地下鉄のトンネルほどの広さがあった。両サイドに作業員が移動できる側
道が設けられ、凹んだ中央部を清掃船が移動できた。
<松井道昭『フランス第二帝政下のパリ都市改造』日本経済評論社を参照されたい>
3.英国で 99 年または 999 年の土地借地制について、元の土地所有者は誰か?
元の土地所有者は貴族である。その経緯の概略を以下に示しておく。
ノーマン・コンケスト(1066)でアングロ=サクソン社会が完全に破壊され、それまで
の支配下にあった土地と領民は全部が全部ノルマン人によって略奪された。土地はノルマ
ン人の貴族間に分配され、アングロ=サクソン人やケルト人は追放されるか、またはノルマ
ン人支配下の農奴状態におかれた。ノルマン人がその土地を分配するとき、アングロ=サク
ソン支配下の土地制度について調べたものが「ドゥ-ムズデイ・ブック Doomsday Book」
という記録である(横浜市大図書館にそのリプリント版がある)
。アングロ=サクソン固有
の従属民がいたため、これをどのように区分してよいかわからず、それで、大陸のノルマ
ンディの土地制度に類似するものはその名で区分し、区分できない独特のもの(エオルル、
ケオルル)は原語標記のままに残した。それを荘園(manor)という。
ともかく、ノルマン人の間で分配された土地はまず有力豪族に渡り、また、その有力豪
族は家来たちに下賜した。こうして、国王を頂上とする有力貴族、非有力貴族、その陪臣、
さらにその郎党というように、ヒエラルキー構造をもつ封建制が誕生したのである。当然、
彼らの領地には従属民としての農奴・労働者がいた。誤解のないように言っておくが、支
配者=貴族=ノルマン人は少数派であり、圧倒的多数はアングロ=サクソン人である。かつ
て、安逸の夢を貪っていたアングロ=サクソン人はノルマン人によって貶められ、この屈辱
状態を長く記憶にとどめた。これが「ノーマンのくびき Norman York」である。それは
17 世紀の中葉の清教徒革命の際にさかんに出てくる合言葉となった。すなわち、
「ノルマン
人によって平和と安逸は破られ、以後は悲惨な境涯の永続化である。この革命を利用してアングロ=サク
ソン社会の平和を再建しよう」という社会運動につながっていくのだ。
話を戻そう。ノルマン人貴族の所有する土地が一括して貸し出されたのが問題の定額借
5
地である。その契約条件が 99 年または 999 年というわけだ。なぜそれほど長くなったか
については授業で述べたが、貴族であるためには土地所有が絶対的条件であり、たとえ半
永久的に貸し出すことはあっても、転売や譲渡はしなかった。それを可能にしたのが、イ
ギリスに独特な長子相続制であり、領地は分割されることなく長男に世襲されるため、細
分化の必然性がなかったのである。イギリスで殊のほか貴族の独身と晩婚が奨励されたの
も同じ理由による。相続争いがないため、イギリス社会は安定することになった。次男や
三男は修道院に入って高位聖職者になる(聖職禄に与る)か、海軍に入り士官となるかの
道が予定されていた。
ところで、借地権を得たのは誰かだが、富裕農民(平民、のちのヨーマン)である。富
裕農は長期の貸し出しという安定した条件にもとづいて、広大な領地を一括して借り受け
るやいなや、土地の改良に着手し、ここに小作農民を雇い入れるか、または大量の賃金労
働者を雇い入れかして資本主義的農業を始める。土地区画の整理(牛引きの農機具が入れ
るように)
、施肥、種苗改良、農法改良などを積極的におこない、単位面積あたりの収穫量
を増やす。かくて、イギリスでは農業革命がいちはやく進んだのである。定期借地農はも
ちろん年ごとに地代を地主(貴族)に払うのだ。
同じことが都市でもおこなわれた。二つの方式がある。自己所有の土地を宅地化または
コンドミアム化してそれを直接的に店子または間借人に貸す直接経営するのが第一のタイ
プ。第二のタイプは不動産そのものを一括して資本家に貸し出すことによって彼に不動産
経営をやらせるやり方である。借り受けた土地が長期で更改されるので、資本家は大規模
開発が可能であったし、手持資金を不動産に投下しても多大な利益が見込めたのだ。
4.都市改造における政策遂行手段のひとつとして税制はどのように作用させられたか?
上記の質問には二つの問いが含まれている。
(1)国または市の財源がどのようなものか
ら成るか、
(2)そして、その財源が都市改造に引き当てられるときに何らかの条件がくわ
わるかどうか。たとえば、有料道路、使用料、敷設負担費、近隣住民の同意など。
(2)を先に述べよう。これも一概にいえないだろうが、その基本原則は国有地は国家施
設にふさわしいもの(宮殿、歌劇場など)を国庫支出で、市または州の土地では公有施設
(市役所、市場、と畜場、上下水道、道路、公園)を公的負担で、民有地は民間施設(邸
宅、集合住宅、アパート)を民間資本の投下で賄うのが筋である。
パリの財源は入市税と固定資産税であり、歳入と歳出の差がパリ都市改造に引き当てら
れた。しかし、毎年黒字財政になるわけではないため、公債を振り出し、その償還を 30
年に亘って行う方式をとった。授業でも言ったように、市が収用令でもって時価で買い取
った土地にインフラを充実させ、買い取り価格の何倍もの価格で売りさばくことにより利
益を出し、それをもって改造費に充てる方法がメインだった。だから、開発地の土地価格
と家賃が上昇し、新造の宏壮な建物に住めなくなった店子や間借人は移住せざるをえず、
元の諸階級混住の“よき風習”が廃れたのである。いわば、都市改造はセグレガシオン(ア
パルトヘイト)をもたらしたのだ。
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税制の面から各都市の改造を考察するのはおもしろいだろう。ロンドン、ウィーンにつ
いてもふれたいが、長くなるので別の機会に譲りたい。
5.オランダ、ベルギー、ルクセンブルグの歴史的分岐点(成立過程)が与えた仏語の影
響を知りたい。
オランダとベルギーの統合と分離についてはヨーロッパ諸列強(ハプスブルク帝国、
ブルゴーニュ公、イギリス、フランス、スペイン)の対立抗争が関わっている。限られた
紙面でこれを述べるのは難しいので、略記にとどめる。
オランダ(ネーデルランド、つまり低地地方の意)人の中心はフリースラント族であり、
元々は漁労生活をしていたゲルマン部族であるが、その傍ら、北海岸という地政学的位置
と船乗りの技術を活かし大西洋岸とバルト海の中継貿易もおこなっていた。
南ネーデルランドは古来、イギリス産の羊毛を紡いで毛織物産出した。ここはそのほか、
レース編み、亜麻布、絹織物などの織物業が盛んであり、また銅金物も特産物であった。
この部族もゲルマン系のフランドル人である。産業構造の違いと部族の違いが重なり合っ
ており、元から「北」と「南」の依存関係は薄かった。
そうしたところに、15 世紀以降ブルゴーニュ公国とハプスブルク帝国の支配下に組み入
れられて統一国家となり、続いてスペイン=ハプスブルク家の領土となった。スペイン=ハ
プスブルク国家による税課の誅求と宗教的弾圧がひどく、それを嫌った新教徒はスペイン
から独立をめざしてオランダ独立戦争が起こった。この時、
“カトリックの長女”フランス
もスペインとは別のかたちで介入し、フランドルの一部がフランス領に含まれる[注]。結
局、オランダが独立すると同時に、カトリックの支配圏にとどまった南ネーデルラントは
ハプスブルクの版図に残った。
[注]北フランスのフランス語(オイル語)を話すワロン人がここに定住しており、文化・宗教(カ
トリック)
・習俗の点でフランス人に近い。
連邦国家オランダは絶対主義王権のイギリスと貿易覇権をかけて 17 世紀中に激突する。
オランダは南隣のフランスからも挑戦を受けた。英仏両大国を相手にしてのオランダは戦
いきれない。つまり、イギリスに対して大海軍を維持しなければならず、フランスに対し
ては大陸軍を保持しなければならないのだ。二大国を相手に ― 英仏は連合を組んでいる
のではないが ― 小国の共和主義的連邦国家が単独で当たるのは荷が重すぎた。財政面で
致命的な弱点をかかえるオランダは覇権争いから脱落するとともに、東南アジアを舞台と
する海外貿易の点でもイギリスに敗れ去っていく。
フランス革命とナポレオン戦争時代にはネーデルランドは「南」
「北」ともにフランス領
に編入され、フランス化が進む。4半世紀に及ぶ戦禍から抜け出し、ようやく独立国に復
帰したオランダを待ち受けていたのは再分裂である。ここことが 1830 年のベルギー独立
に結果する。
この時、ルクセンブルク公国はベルギーと行動を共にしたが、翌年のロンドン会議でベ
7
ルギーの独立が承認されるのと引き換えに、ルクセンブルク公国は東西に分裂し、西が(自
治領としての半独立性を維持しつつ)ベルギーに、東がオランダに服属することになった。
この西の部分が今のルクセンブルクである。今日までルクセンブルクが独立を維持したの
は、蘭・仏・普の緩衝地帯としてその存在を残したかったイギリスの差し金である。20 世
紀末に通貨ユーロに統一される以前はベルギーフランを通貨として使っていた。
質問に「フランス語の影響は?」とあるが、ベルギーとルクセンブルクにおいてフラン
ス語はフランドル語(オランダ語の方言)と並ぶ公用語の一つである。したがって、ベル
ギーやルクセンブルクではどこでも標識に2か国語が併記されている。しかし、ワロン地
域の住民は日常生活では専らフランス語を使い、フランドル語は知っている程度でしかな
い。ルクセンブルクではフランス語とフランドル語は同じ程度に通用する。
もともとベルギーの大学はすべてフランス語を公用語としており、中等教育も大学への
入学(有利)との関連でフランス語が重視されていた。それがフランドル系部族にとって
は不満で改革を求める声が強かった。今や、増設された大学でフランドル語で教育・研究
がなされており、この不均等は改善された。それでも対立は消えず、国家分離の動きは止
まない。その意味でカナダにおけるケベック州の独立運動に似た面がある。
6.今回の講義に関しての直接の質問ではないが、今回の「都市の社会地理学でロンドン、
ウィーンを比較できてとてもわかりやすかった。機会があれば、ベネルックス3国、
特にベルギーの文化・社会・国家の成立過程を教えてください。
上記の質問への回答で一部分は述べたことになろうが、やはり専門的に解説しなければ
ならないだろう。わが国でもごく少数だがベネルックス史を専攻する研究者はいる。知人
に立正大学経済学部の小島健氏がいる。ベネルックス3国とEUの関係に詳しい人物であ
る。アマゾン本で検索かけてみられたい。
7.ロンドン大火について。ロンドンのように石造り、レンガ造りでも大火となった理由
は何でしょうか。
ロンドンのような古い町はどこでもそうであるように、火災の餌食となり、多くの大火
に見舞われてきた。ロンドン、パリと聞くと、すぐにレンガまたは石造の建造物を連想し
てしまうが、教会堂や公共建築物は確かにそうした耐火建造であるが、ふつうの商店や住
宅は木造が基本であった。中世のロンドンは 4 階建て、パリでは 5 階建ての木造の建物が
大半である。よって、いつも火災の危険と背中合わせの状態にあった。強風下でいったん
どこかで出火すると、たちまち炎の舌が住宅密集地を舐めまわす。レンガまたは石造の耐
火建造物になるのは、そうした災禍の結果として建築規制がおこなわれたからだ。
1666 年の災害は規模の点で類例のないもので、シティの 3 分の 2 が焼失した。その大火
はプディング・レインのパン屋での事故で始まった(9 月 2 日)
。シティは長い夏の後で、
8
すべてが乾いて引火しやすい状態にあった。この日は日曜日で、早朝の火事にロンドン市
民は気づいており、拡がる危険も察知していたが、だれも、特に消防署も日曜日というこ
とで迅速な消火活動をしなかった。
「危ない!」とだれもが気づいた時はもはや火勢を抑止
できない状況だった。
多くの市民は十分な防火帯をつくりだすために我が家が引き倒されるのを認めようとし
なかった。こうした躊躇が街の壊滅につながった。年代作家で著名なサミュエル・ピープ
スのように、火事は遠いとみて、そのうち消えるだろうと思って、ふたたび床に就く者さ
えいた。
強い東風に煽られて火勢は強まる一方で、シティ全体に飛び火し、もはや手のつけられ
ない状態に陥った。火の手は木材や樹脂や油のような可燃物でいっぱいのテムズ河畔伝い
に颯のように西へ進み、午後までにはサザーク橋まで達した。ちなみに、テムズ河畔は土
手道路が走っていなく、水際まで民有地や倉庫がぎっしり建っていた。そのため、テムズ
の水を汲んで消火することさえできなかった。ロンドン子は持ち物をかき集めて道路や岸
辺を歩いて避難した。
火勢は月曜、火曜、水曜になっても衰えず、それが衰えたのは木曜日夕刻で金曜日の9
月7日に鎮火した。この日にようやく被災状況を確認するため実地検分が始まった。検査
官は恐るべき荒廃を目撃した。ロンドンは巨大な廃墟となっていた。第二次大戦当時の空
爆による被害よりも酷く破壊されていた。大火は1万3千の家屋、87 の教会堂、52 の組合
会館、他にも甚大な被害を出していた。その損害総額はシティの歳入が 12,000 ポンドだっ
た当時、1,000 万ポンドにも上ると見積もられた。
失火元のパン屋(不幸なことに、フランスパン専科)の主人は、放火でもあるまいに、
車裂きの公開処刑[注:手足を4頭の馬に引かせて胴体から手足を引きちぎる酷刑、アンリ四世の暗
殺の下手人ラヴァイヤックもこの刑を受けた]に処された。現在、失火元に円柱が建っている。
この大惨禍を機にクリスタファー・レンによるロンドン再建計画が策定されたが、よく
練られた計画であったにもかかわらず、ロンドン市当局はその一部だけを採用し建造規制
は制定したものの、計画の全体は退けてしまった。下水道の暗渠化とテムズ埠頭の拡大、
建築物の耐火化などが義務づけられた。ロンドンの復興は早く、1671 年までに 9,000 の家
屋が建造された。急造だけにロンドンの建物はパリやウィーンと較べるとみすぼらしく、
魅力に欠ける。
8.各首都の発展の産業的・財政的基盤は何でしょうか。
ロンドン……サービス業、製造業、建設業、鉱業
・サービス業の内訳:商業、金融業、保険、輸送、通信
・製造業の内訳:電気製品、出版、印刷、食品、機械、衣料
パリ…………サービス業、製造業、建設業
・サービス業の内訳:商業、金融業、保険業、輸送、観光、研究開発、文芸
・製造業の内訳:宝石細工、貴金属加工、高級衣料、精密器具、楽器、高級
9
家具、香水、印刷・出版
ウィーン……サービス業、製造業
・サービス業の内訳:卸売業、定期市、小売業、金融業、保険、通信
・製造業の内訳:精密機械、電子、金属加工、ガラス、陶器、衣料品
9.各階層の住区分はあるにしても、お互いの存在を許容する由来および背景をご教示
くだざい。
難問である。時代と場所を特定化しないと答えられない。授業では居住状態を規定する
ものに、身分と階級の社会への浸透度、国権と私有権の関係(公法が私法にどの程度に優
越するか)
、どのような産業構造をとるか、住民の社会構成、住民の所得格差、地政学的特
色、城郭の有無、地理、都市アメニティの利用度(特権階級のみか、それとも庶民にも開
かれているか)
、近代では人種構成などによって規定される。
都市史はようやく途に就いたばかりで、これからの発展が見込める分野である。
10.都市計画の立案は国、都市、民間のいずれかご教示ください。
この問題も時代と場所を特定化しないと答えられない。ロンドン、パリ、ウィーンいず
れも国・都市・民間のすべてが関わっている。その主導権のとりぐあいにニュアンスがあ
る。国が主導権のとり方の強さでいうと、ウィーン、パリ、ロンドンの順になる。ロンド
ンにいたっては国家はほとんど関わらなかったと言ってよい。
授業でも言ったが、民間資本をどのように、どの程度に活用するかで都市計画の成否は
かかっている。パリがいちばんの成功例で、ウィーンがそれに次ぐ。だから、街並みが壮
麗なのである。公園・緑地は民間資本に任せてはうまくいかない。これこそ公権力(国ま
たは市)がコミットしなければならないし、国費・公費支出は避けられない。ロンドンの
緑地が見事なのは、もともとその公園は国王または貴族の庭園であるからだ。
11.ローマ、マドリードと共通点は如何でしょう?
質問主旨は、ヨーロッパ 3 都(ロンドン、パリ、ウィーン)との比較においてローマ、
マドリードとの共通点が何かということか。その場合、何についての共通点なのか。たと
えば、①都市の社会地理学一般、②都市アメニティ、③住民の階層別居住(アパルトヘイ
ト)
、④都市権力と市民との関係、⑤異民族侵入の経験…。
講師は問題提起のつもりで講座をおこなったわけであり、多くの都市について検討した
わけではない。むしろ、受講生の皆さんに「こうした比較研究もありますよ」
、といった軽
い気持ちで試みた次第である。
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1(質疑応答の冒頭)の質問者が言うように、
「都市性」という論議も成立するのではな
いだろうか。現代社会はまだ色濃くナショナリズムの影響下におかれていて、国単位で物
事をみる傾向が強い。これがいわゆる「国民性」の論議である。しかし、近代国家の成立
以前に存在し、近代国家の範型となった中世都市国家の有りようを追究するなかで「都市
性」を究めるのも意義深いと言えよう。わが国でようやく「都市学」とか「都市形成史」
とかいう分野がとりあげられるようになった。だが、まだ駆け出し程度のレベルである。
12.給排水の設備は都市で違いがあるでしょうか。
現代において給排水面で設備の差があるかどうかだが、基本的にはないとみてよい。ヨ
ーロッパでは水は大変貴重なものであり、わが国の格言に「湯水のごとく使う」という形
容句を文字どおりに訳すと、相手には何のことか理解できないだろう。つまり、
「湯水のご
とく使う」は、
「たいせつなものを惜しんで使う」と受け止められてしまう。だから、蛇口
で水を流しっぱなしにするのは大家に嫌われる。日本でも最近は見られるようになったが、
ヨーロッパでは上水と下水の中間に中水というものがある。街路掃除で流しっぱなしにさ
れているのはこの中水であって、飲み水には向かない[注]
[注]生活用水のなかで飲み水の占める割合は3%程度であるといわれる。だから、水洗トイレのタン
ク水や庭に撒く水は中水である。万事が合理主義的で節約家のヨーロッパ人はこのように区分して
使うのだ。電気料金も高い。よって、廊下の電灯をつけっぱなしという習慣はない。点灯すると、
数秒後には自動的に消えてしまう。
ヨーロッパの流水は石灰岩の表面またはその隙間を通るため、石灰分が溶けた硬水であ
る。それでいつも白濁している。河川を見ればすぐわかるが、川底まで透き通っているこ
とは滅多にない。水道水を飲んで飲めないことはないが、長期滞在する場合はミネラルウ
ォーターを飲料や料理に使うことをお勧めしたい。でないと、肝臓や腎臓への負担が大き
くなって、そのあげくの果てに疾患を生じてしまう。それと確実に肌荒れを起こす。
排水設備は日本の大都市と同じで、雨水管渠と汚水管渠は別々に設置されており、道路
の下を通って大下水管につながり、そこから浄水場に向かう。浄水化されてから川に放流
される。わが国と違い、し尿処理は農村かなり進んでいるとみてよい。
13.フランスの現代の若者の宗教心はどんなものか教えてください。異教を信じる人と
の恋愛・結婚などあるのかなどについて。
本日(14 日)のトップニュースはパリにおける同時多発テロであった。百数十名の犠牲
者が出たようだが、まさしく宗教問題と思想の自由の折り合いの悪さを感じさせられた。
さて、質問についてだが、正直いって現在のフランスの若者が信仰をどう考えているか
はわからない。人種や民族以上に信仰問題はナーバスで、彼らに敢えて訊いても答えてく
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れないであろう。受講生の中には長くフランスに住んだ人がいるが、そういう方でなけれ
ばとても答えられないだろう。
フランスは 16 世紀以来、激しい宗教対立とそれに起因する内乱を経験してきたため、フ
ランス人は異教徒に対して概ね寛容の精神で臨むと言ってよい。相手がプロテスタントで
あれ、イスラム教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、仏教徒であれ、また無神論者であれ、そ
れが個人的信条や同じ教徒の集団の問題にとどまるかぎり、すべて「可」とみなす。それ
が「信仰の自由」
「思想・信条の自由」となる。
一神教の信徒の場合、独特の習俗をもち、それが社会生活における公私の区別をつけず
に、公共の場所で己の信仰にもとづいて行動をとる場合に一挙にフリクションを起こす。
かつて「スカーフ問題」として社会問題化した事例をご存じであろう。
現在のフランスの若者で毎日曜教会に行ってミサに参席する者は少なかろう。それは現
代日本の若者が特別の祭礼でもないかぎり、神社仏閣に参拝しないのと同じである。だか
らといって、われわれ日本人が神道を捨てたとか、仏教徒であることを辞めたとかはいえ
ないのと同じように、フランス人もキリスト教を捨てたとは言いきれない。むしろ、社会
の道徳・慣習および法律規範はキリスト教の倫理観にもとづいているのである。
恋愛・結婚の問題だが、それははたしてどうなっているだろうか。相手が熱心なイスラ
ム教徒だったりユダヤ教徒だったりする例はほとんどないのではないだろうか。信仰箇条
はしばしば人種や民族との重なるケースが大半で、厳しい戒律の下にある異教徒(一神教
徒)を敢えて恋愛相手や配偶者に選ばないのではないか。
このように推定でおしまいとするのではなく、実証しなければ説得力がないのは重々承
知している。遺憾ながら浅学の私にはそれ以上のことはわからないと言っておこう。
フランス人男性は日本女性を好むケースが多いが、それは、日本女性がしとやかで、細
かい心遣いをもつからである。また、日本人の多くが積極的な棄教とまでいかなくても、
信仰生活から事実上離れていて、フランス人男性が日本女性と共同生活を送るうえでほと
んど違和感をもたず、摩擦を起こすこともないからである。
14.
「ノブレス・オブリージュ」について詳しい説明を願います。
「ノブレス・オブリージュ Noblesse oblige」とは「高貴なるものはその身分にふさわ
しい道徳的義務を負う」という意の格言である。すなわち、貴族に自発的な無私の行動を
促す倫理的な規範である。これに基づき貴族は王を扶け政務に進んで就くべきとなる。イ
ギリスでは 19 世紀後半まで議員は無報酬だった。
この「貴族」の範囲が拡大し、富裕者、有名人、権力者も進んで社会的貢献(貧民救済
のための喜捨など)をしなければならないという圧力になる。この伝統は今でも長くつづ
いており、貴族制度が厳然と残るイギリスでは第一次大戦で貴族の多くが前線に出て自ら
の生命を国のために捧げた。貴族出身の将兵の死傷率は平民より高い。
欧米社会で今でも富める者が自発的に社会奉仕をしたり義援金や寄付金を進んで提供し
たりするのはこうした倫理観にもとづいての行動である。ライオンズクラブやロータリー
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クラブもその一種であり、フルブライト奨学金もそうである。
これは西欧の騎士道にもとづくと思われていたが、それよりずっと前の古代ローマ社会
にもそうした気風はあり、封建制の騎士道から発するとは言いきれない。
15.講義は難しいですが、事前にテキストを読んでいますし、ヨーロッパの3都市の特
徴など珍しい切り口でものすごくおもしろいです。
いつも中身の薄い授業であることを自覚しつつ恐々の気分で進めているのに、このよう
な賛辞を賜ると、いっそうこそばゆい思いである。
歴史学のように過去事象を対象とするとき、逃げ場所はいくらでもある。たとえば、細
かなことを述べれば、ほぼまちがいなく聴衆を“煙に巻く”ことができる。専門家以外、
細かな事象に通じている者は少ないからだ。しかし、そうした逃げをうたず、細かな事実
から普遍的な要素を摘出し、聴衆一般が共通してもつ問題意識の中にそれを放り入れるの
が研究の本筋である。ここで初めて共感と反発が生まれ、ひいては論議が起こるのだ。
学会において大学院生の発表が前者のタイプで、学会泰斗の発表が後者のタイプだ。大
学院生の発表はしばしば微に入り細に入りの、しかも、数値または一覧表、数式でもって
の説明に終始する。聞いている側はなんとなく説得された気分になる。だが、そうした感
じを懐いた直後に、
「結局、それがどうしたの?」という気分に襲われる。その研究の普遍
的意義が説かれていないからである。
少々横道に逸れるのを許していただきたい。歴史学の学術論文審査で審査員がいちばん
重視するのは、①問題設定、②論理、③実証についてそれぞれ取り扱いにむりがないかど
うかである。これら3つの要素が審査対象となり、それらを総合的に判断して隙がないと
きは「合格」
、抜かりがあるときは「保留」となって執筆者に再考を促す。
「歴史(実証)
」と「論理」は車の両輪のように重視される。
「歴史」と「論理」には裏
づけとなる調査の中身と論理思考が必要である。
「歴史」と「論理」から帰結するものは研
究対象の普遍的意義と特殊的意義である。すなわち、細かいことをいくら述べても、それ
らが普遍的意義をもたないと見なされると、評価は落ちる(単なる趣味論にすぎないと評
価される)
。逆に研究の普遍的意義だけを振りかざして細かいことを捨象しても、研究の評
価は落ちる(論点先取と評価される)のだ。歴史学の場合、物理学や法学などと違って渉
猟し尽くされていることはきわめて稀であり、新史料の発見によって新境地が開けること
が多い。それは、歴史学が他学に較べ恵まれていることを意味するが、それでもなお、そ
の史料批判の方法や史料を組み合わせるときの厳密さは要求される。
講義では素人にもわかる説明を心がけてはいるが、そうした目標にぴったりの講義がで
きたと感じるのは 10 回に1回ぐらいしかない。社会人講座の受講生のように多様な問題意
識と多様な素養をもっている方々に説明するのは容易な業ではない。
(c)Michiaki Matsui 2015
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