美術館研究紀要 - 沖縄県立博物館・美術館

沖縄県立博物館・美術館
美術館研究紀要
第3号
沖縄県立博物館・美術館
美術館研究紀要
第3号
沖縄県立博物館・美術館
平成 25 年3月
目 次
瑞慶山 昇
宮古島の絵画同人「二季会」の画家Ⅰ—下地明増と本村恵清—……………………………… 9
豊見山 愛
交差する表現—アジア・沖縄の女性アーティスト
復帰 40 年記念展<アジアをつなぐ-境界を生きる女たち 1984−2012 >を通して… … 45
新里 義和
東松照明 終の棲家としての沖縄 「太陽へのラブレター」展から見えてくるもの… … 53
仲里 安広
安次嶺金正の軌跡と美術論について…………………………………………………………… 69
大城 直也
稲嶺成祚絵画様式の変遷………………………………………………………………………… 85
交差する表現-アジア・沖縄の女性アーティスト
復帰 40 年記念展<アジアをつなぐ—境界を生きる女たち 1984−2012 >を通して
①
②
③
④
⑤
⑥
①アジアをつなぐ-境界を生きる女たち
1984 − 2012 沖縄会場入口
②沖縄の女性アーティスト展 会場入口
③ plate. 1《翻訳された壷》(2009)イー・スギョン
④ plate. 2《つながる》
(2012)仲座 包子
⑤ plate. 3《那覇の女たち》(1971)宮良 瑛子
⑥ Plate. 4《凝視》
(1988)中島 イソ子
−1−
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑤ plate. 5《コロスの唄》− Life Field −(2012)
山城 知佳子
⑥ plate. 6《とまったカーテン》
(2010)阪田 清子
⑦ plate. 7《ひとつの応答》イトー・ターリ
(2012 年 12 月 15 日沖縄県立博物館・美術館エン
トランスホールでのパフォーマンス)
⑧ plate. 8《ハウス・オブ・コンフォート》アルマ・
キント(2012 年 10 月 27 日沖縄県糸満市米須 キャ
ンプ・タルガニー)
⑨ plate. 9《Issei》
(2011)ローラ・キナ
−2−
東松照明 終の棲家としての沖縄
「太陽へのラブレター」展から見えてくるもの
①
②
① Plate. 1 2011 年に沖縄県立博物館 ・ 美術館にて開催された「東松照明と沖縄 太陽へのラブレター」展会場風
景企画展示室 1 Ⅱ章 占領シリーズ最後の地「沖縄」< OKINAWA 沖縄 OKINAWA > 1969
② Plate. 2 企画展示室 1 Ⅲ章「さびしさを思想化せよ。
」<太陽の鉛筆> 1971 − 1973
−3−
③
④
③ Plate. 3 2011 年に沖縄県立博物館 ・ 美術館にて開催された「東松照明と沖縄 太陽へのラブレター」展会場風景
企画展示室 2 Ⅴ章 写真はイメージで綴るラブレター <琉球ちゃんぷるぅ> − 2011
④ Plate. 4 企画展示室 2 Ⅳ章 カラーへの転換 <南島><光る風> 1973 − 1979
−4−
安次嶺金正の軌跡と美術論について
安次嶺金正 絵画の変遷
①
③
②
④
⑦
⑤
⑥
⑧
⑨
①「童女像」1941 年 F30
油彩、キャンバス
②「思い出の北明治橋」1949 年 305 × 610㎜ 油彩、板
③「群像」1950 年 762 × 1278㎜
油彩、キャンバス
④「初夏」1955 年 F100
油彩、キャンバス
⑤「佇住」1958 年 F50
油彩、キャンバス
⑥「佗住」1958 年 F50
油彩、キャンバス
⑦「がじゅまる」1959 年 F15
油彩、キャンバス
⑧「赤い幹」1959 年 F50
油彩、キャンバス
⑨「森」1961 年 F40
油彩、キャンバス
−5−
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑱
⑯
⑰
⑩「森」1964 年 F40
油彩、キャンバス
⑪「青い空」1972 年 F40 油彩、キャンバス
⑫「祭り」1975 年 F40
油彩、キャンバス
⑬「帰り道」1976 年 F40
油彩、キャンバス
⑭「林立する青樹のビル」
1981 年 F20 油彩、キャンバス
⑮「花のないでいご」1985 年 F40 油彩、キャンバス
⑯「アリアケカズラ」1987 年 F8 油彩、キャンバス
⑰「さとうきび」1988 年 油彩、キャンバス
⑱「自画像」1988 年 F8
油彩、キャンバス
−6−
稲嶺成祚絵画様式の変遷
①
②
④
③
① Plate. 1 「二人の人物」1957
② Plate. 2 「いろいろな形」1961
③ Plate. 3 「戦争・将軍・女達(2)」1965
沖縄県立博物館・美術館蔵
④ Plate. 4 「OKINAWA」1968
−7−
⑤
⑦
⑥
⑧
⑤ Plate. 5 「花をつくる人」1973
⑥ Plate. 6 「母と子」1974
⑦ Plate. 7 「ハートと少女」1983
⑧ Plate. 8 「太陽の下の家族Ⅱ」1990
−8−
宮古島の絵画同人「二季会」の画家Ⅰ—下地明増と本村恵清—
ず
け やま
のぼる
かわ しま しょう こ
さい ゆう き
瑞慶山 昇(下地明増作品調査 : 川島 祥 子、齋悠記)
はじめに
海の美しさや素朴で気取らないのんびりとした島民
沖縄では戦後復興に伴い 1949(昭和 24)年に、後
の気質が好まれ、県外から移り住む者も多い。毎年、
1 となる第 1 回沖縄美術展が開催されるなど、
に
「沖展」
国際的規模のイベントである全日本トライアスロン宮
美術活動が活発となっていた。また、1950 年代から
古島大会をはじめ、プロ野球のキャンプや各種スポー
1970 年頃にかけて、幾つかの美術グループが結成さ
ツ団体の合宿が行われている。また、ダイビングや釣
れ精力的に活動した。中でも、1950(昭和 25)年に
りなどのマリンスポーツも盛んで、島全体がスポーツ
2 や、1958(昭和
結成された「五人展」
アイランドの様相を呈し、年間約 40 万人の観光客が
33)年に結成
された「創斗会」3 などはその活動を通し多くの芸術
訪れるリゾート地となっている。
宮古島の歴史や自然環境から見ると、島に住む人々
家を育てた。
宮古島においても、旧制・県立宮古中学校(現・県
にとって決して恵まれたものではなかった。琉球王府
立宮古高等学校)や、沖縄師範学校で学んだ者が中心
時代からはじまり、明治政府へ島民の陳情によって、
となり、1956(昭和 31)年に絵画同人「二季会」が
1903(明治 36)年にようやく撤廃された「人頭税」
結成された。
「二季会」は 1963(昭和 38)年まで約
といわれる重税もその一つである。この上納制度は島
8 年間活動し、宮古島の芸術振興に大きく貢献した。
の人々を長年に渡って苦しめた。また、夏に襲来する
しかし、活動の実態を伝える資料の散逸などにより、
台風の進路にあたるため、毎年のように大きな被害を
その全貌は定かでない。本稿では、
「二季会」の創立
受けてきた。皮肉なことに、農作物に多大な被害をも
メンバーで、生涯宮古島で暮らした画家、下地明増
たらす台風は、農業用水の乏しい宮古島にとって、夏
(1918 - 2009)と本村恵清(1920 - 2011)につい
場の乾いた畑の土を雨水でうるおし、恵みをももたら
て、画家のご家族や画家と交流の深かった方々のご協
している。島の人々は、台風の直撃を恐れながらも、
力により、これまでの調査によって明らかになった活
台風のもたらす適度な雨水を期待するのであるが、こ
動や、作品、及び資料について提示しつつ述べ、今後
れまで幾度となく大きな被害を被ってきた。
の「二季会」研究の礎石としたい。
2.宮古島の美術活動
1.宮古島について
宮古出身の画家、宮原昌茂 4 によると宮古島では、
沖縄県は大小 160 の島々からなる島嶼県である。
明治後期まで絵を描く者はほとんどなかった。明治の
その中で有人島は 27 島で、最大の島は人口のおよそ
末頃に下里の市場付近に住んでいた、西里と言う者が
9 割が集中し、県庁が所在する沖縄本島である。沖
漫画風の広告画を描いていた。また、上江洲と言う者
縄本島は東京からおよそ 1,600km、鹿児島から約
が西里大通りで、屏風に毛筆で淡彩画を描いていたが、
650km の南西に位置している。宮古は沖縄本島から、
いずれも長くは活動しなかったらしい。
さらに南西に約 300km の位置にあり、大小 6 つの
大正期になると、師範学校在学中の富盛寛孟や平良
島(宮古島、伊良部島、下地島、池間島、来間島、大
恵義が水彩画を描くようになる。卒業後、富盛は図画
神島)で構成されている。宮古島市の総面積は 204
科研究訓導として本土の学校に派遣された。帰郷後、
平方 km、人口は約 55,000 人(平成 24 年現在)で、
油彩画を描いていが、その後上京し法科の道に転向し
人口の大部分は宮古島の西側に位置する平良地区に集
た。平良恵義も卒業後、音楽へ転換した。
中している。宮古島は島全体がおおむね平坦で、低い
1918(大正 7)年〜 1923(大正 12)年には、宮
台地状を呈し、山岳部は少なく大きな河川もない。宮
原昌茂や友利克が師範学校在学中に水彩画を描いてい
古島は、高温多湿な亜熱帯海洋性気候に属し、四季を
た。友利は、師範学校卒業後も、教職の傍ら水彩画を
通して暖かく、年平均気温は摂氏 23 度、年平均湿度
描いていたが、後に教師を辞め政界に転じた。宮原昌
は約 80% である。
茂は、卒業後に図画科研究訓導として京都の学校へ派
−9−
遣された。昭和になり宮原が帰宮後、旧制県立宮古中
学校で図画科嘱託教師を勤めた。その後、宮原は上京
し東京の国民学校で教師を勤めながら、熊岡美彦の絵
画研究所で学んだ、東光会、光風会に入選し、その間
2、
3 度帰郷した際に個展を開催した。宮古島において、
本格的な油彩画の展覧会を開催したのは、宮原が最初
であったと思われる。
戦後の 1950 年代以降は、いくつかの美術グループ
が誕生し、展覧会を開催するようになる。最初に結成
されたのは「二季会」で、長期に渡って活動し、一端
は解散したものの再結成され、現在も活動を行ってい
図 1 篠原転出後の旧制県立宮古中学校、生徒作品展
(1935 年頃)
る。また、1975(昭和 50)年には、砂川恵光が中心
となって県立宮古高等学校職員の美術愛好者が集まり
鳳作先生は、生徒ひとりひとりをとても大事にし
「青の会」を結成した。「青の会」は、毎月例会やスケッ
てくださった方で、ほんものの教師だった。英語と
チ会などを実施し、学校内での展示会開催や、平良
公民のほかに美術も教えていた。夏休みの課題に図
市文化センターで展覧会を開催したが、1977(昭和
画 2 枚が出された。初めて校内で絵の展示会を開
52)年で活動を閉じている。1980(昭和 55)年には、
いたりした。僕は、その時、ひと夏で 50 枚も描いた。
宮国博文を中心とした宮古島の若手美術愛好家が「彩
描いて、描いて、描きまくった。島中を歩き回って、
の会」を結成した。
「彩の会」は、結成の年の 6 月に
台風のときは戸のすきまから外をのぞいて描いた。
平良市文化センターで第 1 回展を開催し、1984(昭
2 学期になってそれを全部鳳作先生に提出した。先
和 59)年までに 11 回の展示会を開催した。「彩の会」
生はとても喜ばれた。それから何日かたって先生に
は共同アトリエを持ち、精力的に創作活動に取り組ん
職員室に呼ばれ、先生は僕にこうおっしゃった。「明
だ。1981(昭和 56)年と、1982(昭和 57)年の 2 回、
増君、君の作品全部を展示したいんだが、みんなと
那覇の県民アートギャラリーにおいて「那覇移動展」
同じ二枚だけにするよ。すまないね」と—
を開催している。
明増はこの頃にはすでに、描くことに対する意欲が、
3.画家への道(影響と動機)
(1)下地明増と篠原鳳作
並々ならぬものであったことが伺える。篠原との出会
5
いが、明増の創作への思いに何らかの影響を与えたか
旧制県立宮古中学校で 1928(昭和 3)年〜 1931(昭
もしれない。
和 6)年まで、図画の嘱託教師をしていた宮原昌茂の
後を受け、図画を指導したのは篠原鳳作であった。篠
(2)本村恵清と宮原昌茂
原は、鹿児島県出身で東京帝大法学部を卒業し、英語
先に述べたように宮原昌茂は、宮古島出身の画家で
と公民担当教師として旧制県立宮古中学校へ赴任して
初めて県外公募展に入選を果たした人物である。宮原
きたが、図画をも受け持った。篠原は美術を専門的に
は東京や京都と沖縄を幾度か行き来し、帰郷の際に那
学んだ経歴はなく、篠原が図画を担当するに至った経
覇や宮古島で個展を開催している。
宮原と本村家は家族ぐるみで親しくしていた。恵清
緯は不明である。
篠原は美術の専科ではなかったが生徒とスケッチに
は幼い頃から宮原の自宅に出入りしており、宮原の作
出かけたり、生徒の作品展を初めて開催するなど、図
品や制作の様子を見る機会があったのかもしれない。
画の指導に熱心に取り組んでいる。
若しくは、宮原から絵の手ほどきを受けた可能性もあ
篠原は宮中に 1931(昭和 6)年から 1934(昭和
る。幼い頃から人一倍感受性が強かった恵清は、画家
9)年まで 3 年間務めた。明増は篠原が赴任した同じ
宮原と接する中で、絵画への感心が高まったのであろ
年に入学し 1936(昭和 11)年に卒業しているから、
う。ある日、小学生の恵清と弟は連れだって宮原宅に
1 年生から篠原が転出するまで 3 年間指導を受けたこ
遊びに出かけた。自宅に帰ったその日の深夜、同じ部
とになる。旧制中学校は 5 年制で、図画の授業は週
屋で寝ていた恵清の弟がふと目を覚ますと、部屋の隅
に 1 時間あり四年生まで授業があった。明増は、恩
の机に向かって恵清が一心に何か描いていた。翌朝、
師篠原と自身の学生時代について次のように語ってい
弟は机の上に置かれた恵清が描いた絵を見つけた。恵
る。
清は、夜を徹して絵を描き上げていた。宮原との出会
− 10 −
いが、その後の恵清の生き方に、大きな影響を与えた
から慕われる面倒見のよい教師であった。平田は授業
ことは間違いない。
に出られないとき、恵清に代役を頼み教壇に立たせる
宮原は、恵清の作品を高く評価した良き理解者で
ほど、恵清を信頼し目を掛けていた。恵清は平田に「君
あった。宮原は、恵清の光陽会での活躍を度々地元新
に教えることはもうなにもない」といわれたと言うが、
聞に投稿し賞賛している。その一つ 1984(昭和 59)
平田が学生に掛けそうな言葉である。平田は教師とな
年 7 月 20 日発行の宮古毎日新聞で次のように書いて
る学生達に、自信を持って子供達を指導するように常
いる。
日頃励ましていたという。明増もまた東京美術学校出
身の平田の指導を受け、ますます美術への思いを強め
—本村恵清画伯の力作今年も掲載される—
たのかもしれない。明増は生前、妻に美術学校へ進学
平良市西里出身・本村恵清画伯、光陽会会員の、
したかったとしきりに話したという。おそらく平田が
第 31 回光陽会出品の傑作『戦場の顔』100 号が、
学んだ東京美術学校へ進学したかったのであろう。平
昨年東京産経新聞紙上展に、春秋 2 回に亘り掲載、
田は沖縄県造形教育連盟の初代会長で、沖縄県造形研
絶賛を得たことは周知の通りであるが、今年も又、
究宮古大会が開催された 1964(昭和 39)年当時も会
第 32 回光陽会出品の力作「戦場の群れ」100 号が、
長を務めていた。宮古大会では、「二季会」メンバー
日本美術出版社発刊の芸術公論 7 月号に、またビ
で教師の下地明増や本村恵清、下地充、池村恒仁らが
ジョン企画出版社発刊のビジョン 84(現代日本美
中心になり、大会運営や研究発表を行った。
術の枠を絢爛と捉える展覧会年鑑、現代の美の胎動
を伝える)に、オールカラー版 1 / 4 貢大で掲載
紹介されている。沖縄美術界は近年驚く程向上進展
しているとはいうものの、中央画壇での活躍は未だ
しの感がするのである。現在中央芸術界のマスコミ
として傾倒する、産経新聞、芸術公論、ビジョン
84 等に、多数の力作の中から選抜取り上げられる
ことは、中央美術界に進展する者の少ない沖縄出身
者として、郷土美術界のため大いに気を吐く其の活
動に対し多大の賞賛を惜しみなく送るものである。
将来益々限りない進展のため、一層の検討を期待す
る
図 2 前列左から 1 人目が恵清、3 人目が平田(1950
年代)
宮原と恵清との交流は、宮原が 107 歳で逝去する
2006(平成 19)年まで続いた。
平田が逝去した 1989(平成元)年に、那覇市民ギャ
ラリーにおいて沖縄師範学校・龍潭同窓会主催による
平田追悼の「第 1 回龍泉展」が開催され、平田の油
(3)沖縄師範学校図画教師、平田善吉
6
彩画 2 点と沖縄師範学校出身であった大嶺政寛の油
沖縄県師範学校で、明増と恵清が学んだ 1937(昭
彩画 1 点を含む、絵画 28 点、写真 26 点、書道 33 点、
和 12)年〜 1942(昭和 17)年の間、図画を指導し
園芸その他 18 点が展示された。この「龍泉展」に明
ていた教師は平田善吉である。
増は、『さとうきびの山』『さとうきび(うねり)』『さ
平田は、旧佐敷村出身で 1922(大正 11)年に沖縄
師範学校を卒業後、東京美術学校(現・東京芸術大学)
図画師範科へ進学し、卒業後は岐阜県立多治見高等女
学校で図画教師を 6 年間勤めた。1931(昭和 6)年に、
母校である沖縄師範学校へ赴任する。以後 1945(昭
とうきび(うず)』の 3 点を出品。恵清は『よう樹』
『戦
場の群れ』の 2 点を出品している。
4.沖縄戦の中で
(1)明増、1 年 6 カ月の学童疎開引率
和 20)年の沖縄戦終決まで沖縄師範学校の教師を勤
太平洋大戦の戦局の悪化に伴い、内閣は沖縄本島、
め、沖縄戦においては師範鉄血勤皇隊と行動を共にし
宮古、石垣、奄美、徳之島の 5 島から、60 歳以上と
た。戦後は県立高等学校の校長や、教育長を務めなが
15 歳未満の老幼婦女子と学童を本土、及び台湾へ疎
ら、沖縄県の美術教育に尽力した人物である。
開させることを決定し沖縄県の疎開が開始された。県
明増と恵清が学んだ沖縄師範学校の教師は県外出身
者が多く、沖縄出身の平田は地元の先輩として学生達
外疎開は、1944(昭和 19)年 7 月から海上交通が途
絶する翌年 3 月上旬まで続き、8 万人以上が疎開した。
− 11 −
学童疎開は全体で約 5,580 人の子どもたちが九州へ
んだ。空爆や艦砲射撃によって平良の町は廃墟と化し
渡り異郷の地で過ごした。九州への学童疎開先は、宮
ていたが、幸いにして学童疎開児の家族は全員無事で
崎、熊本、大分の 3 県で主として沖縄本島中南部と
あった。
宮古島の学童であった。同じ先島である石垣島の学童
疎開は、約 1,400 人が、台湾に疎開している。また、
(2)恵清、弟・恵英との別れと戦時下の帰郷
恵清は、1942(昭和 17)年 3 月 20 日に沖縄師範
宮古島や石垣島の一般疎開者も台湾へ疎開させられ
学校を卒業後、同年 3 月 31 日から浦添村(現浦添市)
た。
1944(昭和 19)年に明増は、婚姻したばかりの妻、
の仲西国民学校に訓導として就任する。戦局の悪化に
文と平良第二国民学校(現在の北小)児童を引率し、
伴い恵清の住む首里市(現那覇市首里)は、激しい空
宮崎県へ学童疎開することになった。宮古から共に疎
襲に見舞われアメリカ軍の沖縄上陸が濃厚となった
開したのは、平良第一国民学校 13 人、平良第二国民
中、末の弟で沖縄師範学生であった恵英が、恵清の勤
学校 21 人、下地国民学校 46 人、あわせて 80 人の学
める仲西国民学校へ訪ねてきた。恵英は明日、師範鉄
童と引率教師らであった。妻の文は、平良第一国民学
血勤皇隊 に入隊することを告げ、別れに際し宮古に
校の教師であったが、明増と夫婦ということで明増と
残る母親のことを恵清に託した。当時、恵清の兄は軍
共に平良第二国民学校の引率に割り当てられた。
に徴兵され県外へ、三男の弟も沖縄本島の旧制県立第
宮崎県へは沖縄から延べ 32 校 2,643 人の学童が疎
二中学校(現県立那覇高等学校)の教師であったため
開している。
明増と宮古島の学童は、
「対馬丸」
「暁空丸」
宮古島から離れており、宮古島には母親だけが残され
「和浦丸」の貨物船と、護衛の駆逐艦「蓮」と砲艦「宇
ていた。
マリアナ諸島の攻略を終え、南方から北上するアメ
治」を含む 5 隻で構成されたナモ 103 船団で長崎へ
向かい、
長崎から列車で宮崎へ疎開することとなった。
リカ軍の侵攻は、八重山諸島や、宮古島から開始され
ナモ 103 船団は、長崎へ向けて 1944(昭和 19)年
ると誰もが予想した。1944(昭和 19)年 9 月に恵清は、
8 月 20 日に那覇を出港した。「対馬丸」には一般人と
アメリカ軍の空襲が激しくなる中、母親の住む故郷宮
那覇国民学校の児童、その介添者合わせて 1,661 名(又
古島の平良第二国民学校へ転任する。戦局は日に日に
は 1,788 人)が乗船していた。
「和浦丸」には学童疎
悪化し、船舶での移動はアメリカ軍機や潜水艦の攻撃
開だけが 1,514 人、
「暁空丸」には一般疎開者だけが
を避けながらで、すでに幾隻もの船舶が攻撃を受け撃
約 1,400 人乗船した。船団の中の「暁空丸」には一
沈していた。恵清の宮古への船旅も容易ではなかった
般疎開者だけが乗船したと言うから、明増と宮古島の
であろう。母を思う気持ちと弟、恵英の言葉が恵清を
学童らは、学童疎開者だけが乗船した「和浦丸」に乗
宮古へと向かわせたのかもしれない。恵清が宮古島へ
船していたものと思われる。船団の中の「対馬丸」は
到着した翌月の 1944(昭和 19)年 10 月 10 日、ア
8 月 22 日、アメリカ海軍潜水艦の攻撃を受け沈没し、
メリカ海軍機動部隊による大規模な空襲が、沖縄の広
学童児を含む 1,476 人の尊い命が失われた。
「和浦丸」
い範囲で行われた。那覇市街地の大半が焼失し、多数
は鹿児島に入港。
「暁空丸」は、24 日に長崎へ到着した。
の民間人にも被害が及んだ十・十空襲である。この日、
鹿児島から、列車で宮崎へ到着した平良第二国民学
宮古島にもグラマン 16 機が繰り返し飛来し、飛行場
校の学童は、小林市にあった小林青年学校の教室を宿
や船舶を襲撃した。米を満載した広田丸が沈没し、貴
舎として、共同生活を送りながら小林国民学校で学ん
重な食糧を失った。その後も、B24 などによる空襲
だ。
が続き、食糧等を積載した船舶が次々と撃沈された。
明増は小林国民学校の教師として授業を受け持ち、
1945 年(昭和 20)3 月に、豊坂丸と大建丸が沈めら
明増の妻・文は宿舎で学童の世話に当たった。雪の降
れ、その後、輸送綱は完全に途切れる。当時宮古島は、
る日には、アカギレやシモヤケに悩まされながらも、
32 軍の独立混成第五九旅団(碧部隊)等約 19,000
子供たちは宿舎から列を作って登下校を行った。食料
人と、海軍部隊約 6,000 人の合計約 25,000 有余の兵
の配給が十分でなかったため、明増は役所と掛け合い、
士であふれていた。アメリカ軍の宮古島上陸はなかっ
宿舎近くの道路の脇で作物を植え、子供達の食料の足
たものの、急激な人口増加と輸送船による食糧調達が
しにした。明増夫妻は 1946(昭和 21)年に学童疎
絶たれたため、極端な食糧危機をまねき飢えた日本兵
開児と共に宮古島へ帰島することになったが、宮崎で
たちは、食糧をめぐって住民とトラブルを起こすよう
宮古島の住民は玉砕したと聞かされていたため、宮古
になる。この情況は敗戦の日以後も続き、栄養失調に
島に残った家族のことを思うと喜べなかった。船が平
よるデング熱や、マラリアによる死者も続出した。
良港に近づくと学童の一人が大声で「人がいる」と叫
− 12 −
アメリカ軍は 1945(昭和 20)年 4 月に、沖縄本
島へ上陸を開始し、弟、恵英は師範鉄血勤皇隊の一員
す。日本の世界的陶芸家、河井寛次郎氏の言にまつ
として戦死する。沖縄師範学校生で組織された師範鉄
までもなく数々の国宝的石工作品や紅型を生んだ民
血勤皇隊は、動員された学生 386 人中、実に 224 人
族の芸術性は比類なく、私達に限りない自負を与え
が戦死した。弟、恵英の戦死に関する記録が無く、い
て呉れます。
ところで、ふり返って郷土宮古の現状を見れば、
つどこでどのような最後を遂げたかは定かでない。弟
の死は、恵清にとって大きな衝撃であり、埋めようの
人間形成に欠くべからず芸術教育は、遅々として進
ない深い傷となった。恵清の作品の多くが、怒り、苦
まず、社会環境は、旧態依然として芸術の価値を顧
しみ、悲しみ、恐怖をテーマとしているのは、弟、恵
みず、郷土文化の向上に思い至ればただ望蜀の感を
英をはじめ沖縄戦で亡くなった多くの人々の英霊に対
深くするのみであります。
する、強い思いが込められているからである。恵清は
私達が、同人相寄って、「二季会」結成に至った
2000(平成 12)年、80 歳の頃、息子と共に沖縄本
のも、同人の技術的研さんは言うまでもありません
島糸満市摩文仁にある平和の石礎を訪れている。石礎
がこれ偏えに、郷土文化を前進させる機動力たらん
に刻まれた恵英の名を見つけたとき、恵清の胸中はい
とするに在り、且又、若い世代に芸術の苗木を植え
かほどであったろうか。
つけ、その育成をはかろうとする悲願をもつからで
あります。
5.二季会
さて、昨年三月結成して以来、今日既に軌道に乗
沖縄戦から 10 年後の宮古島では、ようやく生活は
り、予期以上の成果を挙げつつあります。このたび
落ち着きはじめたものの、油絵の具やキヤンバスなど
は、一ケ年にわたる各自の研さんの成果を一堂に集
画材の入手は容易ではなかった。それでも、幾人かの
め、第二回展覧会を催す事になりましたが第一回展
学校の教師らがわずかな画材で創作していた。そのよ
に比し、同人皆、格段の進歩を遂げました。三回、
うな中で 1956(昭和 31)年 3 月に、美術教師や美
四回と会を重ねる中に、必らずや、沖縄でも有数の
術を趣味としていた旧制県立宮古中学校の卒業生らが
美術集団となるでありましょう。
何卒忙中一閑を割いて、御高覧賜りますよう、ま
中心となり「絵画同人会」が結成された。
た生徒さん達にも御連絡下さいますよう心から御願
創立当初のメンバーは下地明増(38 歳)、本村恵清
(36 歳)
、平野長伴
7(36
い申し上げます。
歳)、川満進(23 歳)、大宜
尚今度から、毎日新聞社が、主催することに相成
見猛(31 歳)
、下地充(26 歳)の 6 名で、同人会立
りましたが、将来は私達の二季会を中心にして、写
ち上げの中心となったのは平野長伴だった。
真、書道、その他を含めた定期展覧会が計画され、
宮古島出身の画家、宮原昌茂が 1954(昭和 29)年
に帰郷し 2 年間滞在した後、京都へ戻る際に送別記
わが宮古にも芸術の祭典のうまれる日が、近づいて
念として、同人会第 1 回展を 1956(昭和 31)年 9
いることを申添えます。
二季会員一同
月に、宮古琉米文化会館で開催し 22 点の作品が展示
された。当時、下地明増は市立平良中学校教頭で、本
村恵清は同じく市立平良中学校の美術教師、平野長伴
は県宮古統計調査支所所長、大宜見猛は宮古琉米文化
会館職員、川満進も宮古琉米文化会館職員で、下地充
は市立平良第一小学校教員であった。
第 1 回展開催後に、年 2 回の展覧会開催を決めた
ことから名称が「二季会」となった。第 2 回「二季展」
には、
6 名に加え池村恒仁(宮中 9 期卒)と砂川隆之(宮
中 1 期卒)の 2 名が参加しメンバーは 8 名となった。
第 2 回「二季展」開催にあたり「二季会」は、関
係機関へ次のような文章を送った。
図 3 第 1 回同人会(二季会)展パンフレット(1956 年)
戦後十年。渦巻く混乱の中に芽生えた、沖縄本島
の芸術文化は、今や、ルネッサンスに擬される程、
「二季会」は宮古島において、「沖展」のように幾つ
立派に花を開きました。演劇、文芸、音楽等は勿論、
かの部門を含めた総合美術展を目指していたようだ。
殊に絵画の発展ぶりには、ただ目をみはるばかりで
そのため、地元新聞社へ協力を求めたと思われる。経
− 13 −
図 4 第 2 回二季展会場前にて、前列左から大宜見猛、
下地明増、下地充、池村恒仁、二列目左から本
村恵清、砂川隆之、川満進、平野長伴(1957
年 5 月)
図 5 第 2 回二季展会場前にて、下地明増(1957 年
5 月)
図 7 第 2 回二季展会場前にて、平野長伴(1957 年
5 月)
図 8 第 2 回二季展会場前にて、大宜見猛(1957 年
5 月)
図 9 第 2 回二季展会場前にて、下地充(1957 年 5 月)
図 6 第 2 回二季展会場前にて、本村恵清(1957 年
5 月)
する使命感のもとに、創立されたグループであった
ところにある。彼らの活動は 1950 年代に、実物の油
緯は定かでないが、第 2 回展の主催者であった宮古
彩画を目にすることがほとんどなかった宮古島の人達
毎日新聞社は、第 3 回展には後援となっており、総
に、美術作品を鑑賞する機会を提供し、それによって
合展の開催には発展しなかった。
若い世代が刺激を受け美術を志す者も育った。
「二季会」の特徴は、単なる趣味を同じくする者の
1958(昭和 33)年の第 5 回展には、喜納久子が加
集団ではなく、会員が沖展や全国公募展への出品を目
わりメンバーは 9 名となる。この年に開催された第
指したことや、地方の芸術文化の向上に寄与しようと
12 回沖展において、メンバー 7 人が入選するなど会
− 14 −
を感心させた。当時沖展運営委員の玉那覇正吉は、第
12 回沖展開幕を伝える 1960(昭和 35)年 3 月 23
日発行の、沖縄タイムス紙上で「二季会」について次
のように述べている。
—活発な宮古の絵画活動—
二季会の絵に対する情熱はたいしたもので、われ
われも頭が下がる思いがする。絵画関係の人が宮古
を訪れると必ずひきとめて話し合っている。このグ
ループは決してうわついたものではなく、宮古で絵
画を啓蒙する気持ちである。彼らはわれわれが東京
に対する孤島苦以上に切実に孤島苦を考えている。
図 11 第 2 回二季展会場前にて、池村恒仁(1957 年
5 月)
これをきっかけとして宮古の絵画活動が活発化する
ものと期待している。
玉那覇正吉は、1957(昭和 32)年に開催された
「二季会」第 2 回展に特別賛助出品している。また、
1958(昭和 33)年に開催された第 4 回展では、玉那
覇正吉の外に安谷屋正義や安次嶺金正らも賛助出品し
た。第 9 回展には「創斗会」のメンバーの中から玉
那覇正吉、宮城健盛、安次富長昭、平野長伴、永山信
治らが賛助出品している。
玉那覇正吉をはじめとする、当時の沖縄美術界を牽
引する若手作家らが賛助出品したのは、二季会の設立
図 10 第 2 回二季展会場前にて、川満進(1957 年 5 月)
趣旨と会員の熱い思いに賛同したからであろう。
「二季会」は、中央画壇から遠く離れた小さな島で、
美術活動を開花させることを夢見ながら、互いに研鑚
し情熱を持って創作に取り組んだ。会員の相次ぐ公募
展入賞、入選によりその目標は達成されたが、創立の
中心となった平野長伴が沖縄本島へ転勤のため退会す
るなど、「二季会」はしだいに会としての活力を失い、
1963(昭和 38)年から休会となる。
休会となって 23 年後の 1980(昭和 61)年に、明
増の呼びかけで新たなメンバーが加わり、
「二季会(以
後、新「二季会」で表記)」は再び活動を開始する。新「二
季会」は、1986(昭和 61)年の第 1 回展から、2009(平
成 21)年の第 36 展まで 24 年間に 36 回開催され、
明増亡き後も活動を続けている。明増は、亡くなる 7
日前に開かれた「二季会」の定例会にいつも通り参加
図 12 第 2 回二季展会場前にて、砂川隆之(1957 年
5 月)
していた。明増の「二季会」創立から持ち続けた地方
文化振興への貢献と言う思いは、変わることがなかっ
た。
員の実力は着実に向上していった。さらに回を重ねる
ごとに新たなメンバーが加わり「二季会」の活動は活
発になっていった。
「二季会」は、県内外から美術関
6.美術団体(公募展)への出品
(1)沖展
係者が来島すると、積極的に交流を求めた。彼らの美
二季会は創立当初、沖縄タイムス社が主催する県内
術に対する純粋で真剣な姿勢は、来島した美術家たち
で最も大規模な総合美術公募展、「沖展」の入選、入
− 15 −
賞を目標に創作活動に取り組んだ。
「二季会」創立の
「二季会」は、会員全員の入選を果たしたことで、
中心となった平野長伴は、
「二季会」創立と同年の 3
創立当初の目的であった、宮古の芸術振興に寄与した
月に開催された、
第 8 回沖展で初入選を果たしている。
いと言う意気込みと自信が、一層強まったであろう。
1957(昭和 32)年の第 9 回展では、下地明増が初
明増は 1963(昭和 38)年の第 15 回展でも奨励賞
出品で入賞。続いて大宜見猛も入賞し、1960(昭和
を受賞し準会員に推挙される。明増はその後も出品し
35)年の第 12 回展では本村恵清、池村恒仁、平野長
続け、1986(昭和 61)年の第 38 回展で、準会員賞
伴、川満進、下地充、砂川隆之、喜納久子の応募者 7
を受賞し会員に推挙された。明増は 91 歳で亡くなる
人全員がそろって入選した。
2009(平成 21)年の第 61 回展まで会員として出品
7 名の入選を果たした「二季会」は、1960(昭和
し続けた。
35)年 3 月 18 日付けで、当時の沖展運営委員長であっ
た豊平良顕宛に喜びの言葉と、今後の抱負を会員の連
恵清は 1960(昭和 35)年の第 12 回展から 4 年間
連続入選を果たした。
名で送った。
(2)本村恵清と光陽会
第 12 回沖展の飛躍的な前進を聞き喜んでいます。
恵清は、1963(昭和 38)年に開催された第 15 回「沖
戦乱の中で咲く花も踏みにじられた沖縄に、沖縄タ
展」の入選を最後に、
「沖展」への出品を止め「光陽展」
イムス社並びに社と同調の諸先生方が沖縄の前進を
へ出品し始める。全国公募展で入選を果たした宮古島
暗示する光として文化向上の先端たる芸術振興の道
出身の画家は、宮原昌茂が 1941(昭和 16)年の第 9
を開いてくれたことは私たちも感謝感激しておりま
回東光展入選が、最も早かったが当時宮原昌茂は宮古
す。ここに沖展が琉球発展のために芸術文化建設に
島を離れていた。宮古に住みながら全国公募展で最も
貢献するため立ち上がりつつあるのをみたとき、私
早く入選を果たしたのは、43 歳の恵清が 1963(昭和
たち二季会一同は深く敬意を表します。このたびは
38)年に光陽会に入選したことであろう。恵清はこ
二季会も全員駒を並べて出品したところそろって入
の初入選で会友に推挙された。
選の栄を獲得できまして喜んでいます。それもひと
恵清が中央公募展に出品するようになったのは、美
えに先生方の直接の激励とご指導によるものだと感
術関係の出版社職員に、公募展への出品を勧められた
激しています。うっかりすると刺激の多い本島に比
ことがきっかけだったらしい。出品先を光陽会に決め
べて傷あとを大きく残す台風以外に私たちの心にふ
たのは、当時、懇意にしていた沖展会員の津山彬 8(津
れるもののない当地は芸術文化がおくれがちです。
嘉山栄興)が、光陽会に所属していたためだと推測さ
しかしながら私たちは沖展を目標とし、力とし光と
れる。津山彬は那覇市出身で、大潮展や光陽展に出品
して寸暇も許しません。皆様の温かいご指導を期待
していた。
し孤島宮古を文化の宮古におきかえるよう考えてお
ります。
恵清が光陽展に出品を始めた当時、光陽会に所属し
ていた県出身者は、津山の外に新川唯盛 9(渡嘉敷唯
盛)がいた。新川は、那覇市出身で日本美術学校を卒
業後、東京都で中学校の教師を務めながら、大潮展の
会員と光陽会の会員となっていた。恵清と新川の交流
の始まりは、津山を通じてであった。新川から恵清あ
ての葉書に、業者とのやり取りの様子が書かれている。
葉書の文面によると、恵清は光陽展に出品する際、新
川唯盛に上野の「彩美堂」と言う額縁の貸し出しや、
作品の搬入出を代行する業者への輸送手続など一切を
依頼している。恵清が長年に渡り光陽会へ出品し続け
ることが出来たのは、津山や新川らの協力があったか
らであったろう。
図 13 第 12 回沖展に 7 名が入選し沖縄タイムスに (3)下地明増と春陽会
掲載された二季会会員、前列左から池村恒仁、
明増が春陽会へ出品し始めたのは、二季会創立の中
喜納久子、砂川隆之、下地明増、大宜見猛、二
心的な役割を果たし、後に沖縄本島へ転勤のため「二
列目左から川満進、平野長伴、下地充、本村恵
季会」を退会した平野長伴と、明増が懇意にしていた
清(1960 年 3 月)
− 16 −
沖展会員の大嶺政寛 10 が、春陽会に所属していたか
1960 年代には、白を基調としペインティングナ
らであろうと推測される。平野長伴は県立宮古中学校
イフを使用した、インパスト技法で描くようになる。
8 期生で下地明増に 2 歳年下であった。平野長伴は「創
1960 年 制 作 の 油 彩 で 板 に 描 か れ た 作 品、「 西 表 島 斗展」の中心的な存在であった玉那覇正吉らと交流が
仲間橋」は、米国民政府広報局琉米文化会館担当官と
あり、
玉那覇らが所属していた「春陽会」に 1969(昭
して宮古で勤務した米国人、サムエル・H・キタムラ
和 44)年に初入選し、以後連続入選を果たし 1976(昭
氏が離任の際に、明増から送られた作品で、2005(平
和 51)年には会友となっていた。また、大嶺政寛は
成 17)年にキタムラ氏から宮古島市に寄贈されたも
1940(昭和 15)年に春陽会賞を受賞。1953(昭和
のであるが、この作品や、1968 年制作の漁船(題名
28)年には会員となっている。
不明)を描いた作品は、ペインティングナイフを使い
春陽会では、
政寛や玉那覇の外にも安谷屋正義など、
鋭く直線的なタッチで、画面上に緊張感を生み出した
当時の沖縄を代表する作家達が華々しく活躍してい
作品である。これは安谷屋正義が 1950 〜 1960 年代
た。安谷屋正義は 1957(昭和 32)年の第 34 回春陽
に白を基調として描いた作品と、表現手法が類似する
展で春陽会賞を受賞し、1958(昭和 33)年の安井賞
ことから、安谷屋の影響を受けたものかもしれない。
新人賞候補となっている。また、1960(昭和 35)年
1970 年代後半から 1980 年代中頃になると、薄塗
の「朝日ジャーナル」表紙に『港』
(第 37 回春陽展出品)
りで透明色を塗り重ねるグラッシ(グレース)技法で
が採用され、1961(昭和 36)年の「朝日ジャーナル」
制作している。具象表現傾向が明確になり、輪郭を描
9 月 17 日号の表紙にも、
『街の灯』
(第 38 回春陽展
かず印象派的な光の描写を意識した表現へと変化す
出品)が採用されるなど、その活躍は県内作家達に大
る。ただ、印象派の様に鮮やかな色彩ではなく、統一
きな影響を与えた。
された色調で、まるで薄い絹を通して見る景色のよう
明増は、1986(昭和 61)年の第 63 回春陽展で、
「さ
な柔らかな表現である。1986(昭和 61)年の第 63
とうきび収穫」が初入選した際に「春陽展」開催中の
回春陽展出品の作品から、さとうきびをモチーフとし
東京で政寛と面会している。政寛は明増に「僕が赤瓦
た作品に取り組み始める。以後、さとうきびの連作に
を描くのは、沖縄を愛しているからだ。君は宮古のさ
取り組んだ。
明増は「さとうきび」の作品について次のようなメ
とうきびを描きなさい」と話した。政寛は「八重山風
景」を代表とする、沖縄の赤瓦のある風景を数多く描
モを残している。
き、失われていく沖縄固有の文化や風景を描き続けた
・郷土の風土やたくましく生きる人々の暮らしを身
画家である。明増の、さとうきびを描いた作品に、政
近にある風物に託して描いてみたかった。
寛は自身の創作に対する思いと、相通じるものを感
じたのであろう。これを契機に、明増は 2009(平成
・さとうきびには宮古島の風土を感じる
21)年に 91 歳で亡くなるまでの 23 年間、サトウキ
・画面には人影は見えないが、さとうきびが束に
ビを描き続け春陽展と沖展に毎年出品し、サトウキビ
なった向こう側には人々の暮らしが垣間見えるよ
は明増のライフワークとなった。大嶺政寛は明増と東
うな気がする。
・また、束になったさとうきびは、複雑化している
京で会った翌年、1987(昭和 62)年に 77 歳で逝去
人間社会が調和してまとまっていくという思いも
する。
する。
7.二人の作品
・画面構成に当たっては、キャンバスの形から割り
出した幾何学的な骨組みをベースにした。
(1)下地明増
・複雑な形をどのように整理してまとめるか苦心し
明増が、ライフワークとも言えるサトウキビのシ
た
リーズを描くまでには、表現に幾度か変化がみられる。
・少ない色で出来るだけ多くの色が出せないものか
1950 年代の作品は現存していないが、第 2 回「二季
を試みた。
展」の際に撮影された写真を見ると、キュビスム的な
・グレーズ的な手法で描いた。
作品を描いていたようだ。ただ、その頃はまだ対象の
極端な分析、解体や単純化、抽象化までには至ってい
ない。キュビスム的な表現は、1970 年代半ばまで見
印象派の画家達が屋外に出かけて描いたように、明
られ、
1967(昭和 42)年制作の「漁港」や、1968(昭
増も屋外でのスケッチを好んで行った。明増の創作
和 43)年制作の「ふね」は対象の解体と、再構成が
に対する情熱は、晩年になっても衰えることがなく、
進み抽象的な表現が強まっている。
2009(平成 21)年の逝去した年まで、創作に取り組
− 17 −
にはますます至難な業となって来たと考える。芸術
んだ。下地明増、享年 91 歳。
をやる者として、一体どんなことを試みたらよいの
か悩みが一層深くなった。そうだからと言って、今
(2)本村恵清
1940 年代の作品は、第 1 回二季展に出品された
の時代の私達が芸術活動が思うように出来ないと言
「町の裏通り」や「復興を始める商店」
、
「ポー崎」な
うことはない。遠大の希望に燃え、強い信念を持っ
て大いに頑張ることだ。
どに見られるように、アカデミックな表現であった。
1956(昭和 31)年に開催された、第 2 回二季展で撮
芸術をやるには、どうしてもさまざまな冒険をし
影された作品を見ると、写実的な作品とは別にフォル
て見ることが必要だと思う。冒険をして見て、自分
ムが単純化され、幾何学的でシンボリックな作品「赤
がこうだと思うことが考えられたら勇気を持って
い太陽」又は「白い太陽」が見られる。また、「石垣」
やって見ることだ。ユニークな試みに対し、アカデ
を描いた作品は、不規則な石組みを模様のように強調
ミックと言う既成概念を持ったクリティック達から
し、抽象表現にも感じられる作品を制作していること
無視されるだろう。それに一般大衆から嘲笑される
から、1950 年代には表現形式が変化し始めていたこ
だろう等と考え、やって見ないのは愚かしいことで
とが分かる。やがて、1960 年代になると、その単純
ある。自分がこうだと思うことが考えられたら勇気
化された象徴的な表現は、表現主義的な感情表現へと
を持ってやって見ることです。…………私は芸術の
変化する。
「魔よけ」を描いた一連の作品に見られる
ことで多くの人々から嘲笑され無視されてもよい、
ように、単純化が一層進み主題を強調する画面構成へ
自分がこうだと思うオリジナリティー豊かで個性の
の傾向が強まっていく。また、描画素材や技法につい
ある絵を描きたい、自己を失っては駄目だなどと意
てもいくつかの試みが見られる。例えば、油彩とクレ
気込むのだが思うようにいかない。今後若さを取り
ヨン等の併用や、ハッチングによる独特なマチエール
もどし大いに頑張って行きたい。—
を作り出すなど、独自の表現手法の追求に取り組んで
いる。1960 年代後半になると、法隆寺の釈迦涅槃を
恵清の、固定観念に捕らわれず、純粋に独自の表現
囲み悲しむ姿の、羅漢像の表情を連想させる、苦痛に
に取り組みたいという強い姿勢が伺える。1985(昭
満ちた表情の「顔」を描き始める。この「顔」を描い
和 60)年から 1990 年代には、サンケイ新聞『紙上ギャ
た一連の作品は、晩年まで繰り返し描かれた。中でも
ラリー』等に、度々作品が掲載されるなど精力的に創
1986(昭和 61)年に描かれた「怒号」は、恵清が求
作に打ち込んだ。しかし、80 歳となった 2000(平成
め続けた主題と表現の調和が、見事に図られた存在感
12)年頃には、画家にとって最も大切な視力が極端
のある秀作である。恵清の主な画題は、沖縄戦に起因
に低下してしまう。恵清はそれでも光陽展に出品し続
している。肉親を失った悲しみや戦争に対する怒り、
けたが、2004(平成 16)年以降、制作はままならな
空しさなどやり場のない感情が、恵清を創作へと駆り
くなっていった。本村恵清、2011(平成 23)年に逝去、
立てた。
享年 91 歳。
恵清のアトリエには、美術専門誌や各種技法本、各
種美術団体展覧会図録等の蔵書が多数残されている。
恵清は中央から遠く離れ、情報の少ない離島のハン
おわりに
下地明増は、さとうきびのある風景の中に様々な人
ディを、書籍によって埋めようとしたのであろう。展
間模様を見いだし、古里への愛着を持って連作を描い
示会を容易に見ることが出来ない離島において書籍
た。本村恵清は戦争によって肉親を失った怒り、悲し
は、最新の美術動向を把握する唯一の情報源であった
みを生涯のテーマとし、独自のフォルムを探求した。
かもしれない。
同時代に宮古島で生きた二人は、画家としてのスタイ
恵清は、1985(昭和 60)年 8 月に宮古島の美術グ
ルや作風は、対極的と言えるほど異なるが、互いに教
ループ「彩の会」が開催した、宮古の若手作家を中心
職に就きながら創作活動を続け、宮古島から中央の美
とした「新彩展」の作品資料集の中で、出品者へ向け
術展へ出品し続けるなど、その生き方は多くの点で類
て次のように述べている。
似している。
宮古島で、明増と恵清が画家として、生涯創作意欲
真に創造した芸術作品と言うものは、今までの世
を持ち続けられたのは、若き日に「二季会」の活動を
界の多くの画家達によってすべてなされたようなゆ
通して、培われた創作に対する情熱であったのかもし
きずまった感さえするのだ。そこで真に新しい絵画
れない。明増は、沖展と春陽展に活動の場を見いだし、
芸術を生みだすと言うことは、今からの時代の人々
恵清もまた、光陽展に活動の場を見いだした。二人の
− 18 −
画家に共通するのは、発表の場を島の外へと向けなが
と壺」入選、1942(昭和 17)年の第 10 回『東光展』で
ら、
芸術家として辺境の地と言える、離島で生涯を送っ
も「無果花」入選。時期は不明だが宮古へ帰郷し個展を開
催。1942(昭和 17)年、那覇(国映館ホール)や宮古島
た点にある。芸術の大きな流れから、遠く離れた地に
で個展を開催。1943(昭和 18)年京都へ疎開し浅野物産
暮らす二人が、画家としてのモチベーションを保つた
に勤める。奈良県で教職に就く。1947(昭和 22)年、
「光
め、中央の美術団体との繋がりを、心のよりどころと
風展」入選。1949(昭和 24)年、光風会京都支部展入選。
したことは容易に推察できる。離島のハンディを抱え
その後、連続出品。1954(昭和 29)年、宮古へ戻る。時
ながら、生涯創作に打ち込んだ二人の画家の軌跡は興
期は不明だが、名渡山愛順や豊平良顕、城間朝教らの協力
味深い。今後、
「二季会」創立メンバーの平野長伴や、
を得て、那覇で個展を開催。1955(昭和 30)年、第 7 回
下地充、川満進、大宜見猛、池村恒仁、砂川隆之らに
沖展「カンナ」入選。1956(昭和 31)年 3 月に宮古琉米
ついても調査を進めることで、宮古島における絵画同
文化会館で 30 点の作品を展示した個展開催。1959(昭和
人「二季会」の、
活動の全貌を明らかにして行きたい。
34)年、第 45 回光風展に「仁王像」出品。1977(昭和
52)年に宮古島に帰郷。1978(昭和 53)年、平良市文化
謝辞
センターで個展を開催。1983(昭和 58)年、京都へ帰る。
本稿をなすにあたり、ご家族の皆様から貴重な資料
2002(平成 14)年、平良市総合博物館にて「宮原昌茂展」
のご提供をいただきました。また、二季会会員の皆様
をはじめ関係者の皆様から多くのご教示も賜りまし
た。記して篤く謝意を表します。
開催。2006(平成 18)年、京都市で逝去(享年 107 歳)。
5 【篠原鳳作】1906(明治 39)年、
鹿児島県生まれ。1929(昭
和 4)
年、
東京帝国大学法学部政治学科卒業。1928
(昭和 3)
年 2 月「ホトトギス」初入選。1930(昭和 5)年、
「天の川」
註釈
へ投句。1931(昭和 6)年 3 月旧制沖縄県立宮古中学に
教師として赴任し公民、英語、図画を指導。1934(昭和 9)
1 【沖展】沖縄タイムス社が主催する県内最大の総合美術展。
年、
旧制鹿児島県立第二中学校へ転任。1936(昭和 11)年、
1949(昭和 24)年から毎年 3 月中旬から下旬に掛けて開
催され、絵画、版画、彫刻、デザイン、書道、写真、工芸(陶
芸・漆芸・染色・織物・ガラス)の 7 部門 11 ジャンルに
鹿児島で夭折(享年 30 歳)
。
6 【平田善吉】1901(明治 34)年、旧佐敷村生まれ。東京
美術学校図画師範科卒の西銘生楽(1887 - 1924)から、
応募された作品の中から準会員賞、沖展賞、奨励賞などが
沖縄師範学校で指導を受け、東京美術学校の図画師範科へ
選ばれる。
進学。卒業後、岐阜県町立多治見高等女学校で図画の教師
2 【五人展】1950(昭和 25)年に具志堅以徳、金城安太郎、
を務め、
母校の沖縄師範学校へ図画の教師として赴任する。
安次嶺金正、安谷屋正義、玉那覇正吉の 5 名で結成し、第
沖縄戦では、学生と共に師範鉄血勤皇隊に参加し米軍の捕
1 回展を壺屋小学校で開催。以後毎年春、秋の 2 回、絵画、
虜となる。戦後は、沖縄師範学校生に卒業証書を発行する
彫刻を発表。1954(昭和 29)年の第 9 回展に当間辰、安
ため尽力する。県立辺土名高等学校の初代校長や県立糸満
次富長昭が加わるが、この展示を最後に解散。
高等学校、県立知念高等学校長を歴任。また、県教育委員
3 【創斗会】1958(昭和 33)年 1 月に安次嶺金正、玉那覇
や知念連合地区教育長を務めた。県造形教育研究会初代会
正吉、安谷屋正義、安次富長昭によって結成。1971(昭
長を務めるなど、
戦前から戦後の沖縄造形教育に尽力した。
和 46)年の解散までに 15 回の展覧会開催。1958(昭和
33)年 11 月岸本一夫入会。1959(昭和 34)に宮城健盛
入会。1961(昭和 36)平野長伴、神山泰治、安元賢治、
1990(平成 2)年に逝去。
(享年 89 歳)
7 【平野長伴】(饒平名長伴)1920(大正 9)年平良市(現宮
古島市平良地区)で生まれる。本村恵清と同年で県立宮古
永山信春、仲村盛光、大城宏捷入会。1962(昭和 37)石
中学校で同期。旧制宮古中学生時代から絵画を好み、
「二
嶺伝郎入会。1965(昭和 40)稲嶺成祚、翁長自修入会。
季会」創立の中心的な役割を果たした。沖縄県職員で宮
4 【宮原昌茂】(与那原昌茂)1899(明治 32)年、宮古島の
古島から本島へ転勤後、「創斗会」に加わり玉那覇正吉ら
旧平良市下里で生まれる。1923(大正 12)年に沖縄県師
の指導を受ける。1969(昭和 44)年に春陽会に初入選し
範学校本科一部を卒業。1923(大正 12)年西辺尋常高等
1976(昭和 51)年に会友となる。1981(昭和 56)年に
小学校訓導赴任、1924(大正 13)年西城尋常高等小学校
詩集「水平線」を出版するなど執筆活動も行う。1967(昭
赴任。1926(大正 15)年に京都の小学校へ図画研究訓導
和 42)年に第 1 回沖縄タイムス芸術選奨(絵画)受賞。
として派遣される。1928(昭和 3)年帰郷し平良第二小
学校(現・市立北小学校)で教鞭をとる傍ら、3 年間、旧
制県立二中宮古分校で図画嘱託講師を務める。1931(昭
2012(平成 24)年に逝去。
(享年 92 歳)
8 【津山彬】(津嘉山栄興)1902(明治 35)年に那覇市首里
和 6)年に上京し小学校で教鞭をとる傍ら熊岡絵画道場で
学ぶ。1941(昭和 16)年の第 9 回『東光展』に「リンゴ
− 19 −
で生まれる。1937(昭和 12)年、第 9 回大潮展初入選。
1943(昭和 18)年、私立積徳高等女学校教諭(〜 '47 年
まで)
。1946(昭和 21)年、
「津嘉山」を「津山」に改姓。
1949(昭和 24)年、第 1 回沖縄美術展(旧沖縄タイムス
・砂川幸夫 1996 新生美術 11 月号「宮古の美術活動〜二季会
のあゆみをとおして〜」
社本館)招待出品。1956(昭和 31)年、第 8 回沖展から
運営委員出品。1961(昭和 36)年、新象展初入選。1962
(昭
・下地明増『沖縄県史第 10 巻「学童疎開に関する手記」
』沖縄
県
和 37)光陽会展初入選('77 年まで毎回出品)。光陽会展
沖縄支部相談役。1972(昭和 47)年、光陽会沖縄支部結
・島袋栄徳 1998「留魂の碑—鉄血勤皇師範隊はいかに戦塵を
くぐったか」龍潭同窓会、株式会社文教図書
成記念展(沖縄タイムス第 2 ホール/那覇市)。1975(昭
和 50)第 24 回光陽展(上野都美術館)に最後となる『竜』
『せみの一生』出品。1977(昭和 52)年、逝去(享年 73 歳)
9 【新川唯盛】(渡嘉敷唯盛)1908(明治 41)年、那覇市生
・企画展図録 2002「宮原昌茂展」平良市総合博物館
・新彩会展作品集 1985「新彩会展」新彩展実行委員会
・南秀同窓会 1988「南秀同窓会名簿」宮古高等学校創立 60 周
年記念事業期成会発刊
まれ。1916(昭和 5)年、日本美術学校を卒業し、東京
で中学校の教師を務めながら、1917(昭和 6)年から光
・もりおみずき 2008「宮古島の鳳作先生」広報誌『南ぬ風 風会展出品。1950(昭和 25)年から大潮展に出品。1956
(昭
和 31)年、大潮展特選受賞。(昭和 32)年、大潮展会員
推挙。1961(昭和 36)年に光陽展で特選を受賞し光陽会
会員となった。1962(昭和 37)年、光陽展特選。1963(昭
和 38)年光陽展特選、光陽展運営委員。没年不明。
10 【大嶺政寛】1910(明治 43)年に那覇市久米で生まれる。
1930(昭和 5)年、沖縄県師範学校本科二部(1 年)卒業。
美術教師として伊江島に赴任。1940(昭和 15)年、春陽
会賞受賞。1942(昭和 17)年、文部省展に賛助出品、沖
縄県立第一高女兼沖縄師範女子部教諭。1943(昭和 18)
年、
「第 6 回文部省美術展(新文展)」で『首里風景』入
選。1949(昭和 24)年、第 1 回「沖展」絵画彫刻部門審
査委員出品。1951(昭和 26)年、民政府より第 2 回国民
指導員として米国視察。1953(昭和 28)年、「第 30 回春
陽会展」
(都美術館美術館)『琉球の墳墓』『首里風景』入
選、会員推挙。1956(昭和 31)年、沖縄美術家連盟結成、
「第 1 回展」(琉米文化会館/那覇)
。1967(昭和 42)年、
第 1 回沖縄タイムス芸術選賞大賞。 1981(昭和 56)年、
「新生美術協会」設立、会長に就任。1985(昭和 60)年、
文部大臣より地域文化功労者賞受賞。1986(昭和 61)年、
「第 63 回春陽展」
『波照間島』芸術クラブ月間優秀賞卯月賞。
1987(昭和 62)年、個展「大嶺政寛画伯喜寿記念展」
(沖
縄三越)
。沖展功労賞を受賞。沖展会員、春陽会会員、沖
縄民芸協会会長。1987(昭和 62)年逝去(享年 77 歳)
主な引用文献等
・安里源秀 1980『龍潭百年(沖縄師範学校百年記念誌)』 龍
潭同窓会
・稲嶺成祚 2009「沖縄県美術教育史」『happ news』NPO 法
人沖縄県立美術館支援会 happ
・前田恵子 2002『いのちのうた—沖縄-鎮魂を超えて未来へ』
文芸社
・沖縄師範学校龍潭同窓会 1978『龍潭同窓会会員名簿(昭和
53 年)』沖縄師範学校龍潭同窓会
・平良尚介、大山春明、砂川寛亮、伊志嶺茂、糸洲朝薫 1981『篠
原鳳作の周辺』篠原鳳作の周辺編集室
− 20 −
Vol. 7 春号』財団法人海洋博覧会記念公園管理財団
下地明増年譜
西暦
年号
1918
大正 7
1925
大正 14
7
(4 月)
平良第二尋常高等小学校入学
1931
昭和 6
13
(3 月)
平良第二尋常高等小学校卒業
(4 月)
県立宮古中学校入学
1936
昭和 11
18
(3 月)
県立宮古中学校卒業
1937
昭和 12
19
(4 月)
沖縄県立師範学校(本科第二部)入学
1939
昭和 14
21
(3 月)
沖縄県師範学校卒業
(4 月)
宮城尋常高等小学校訓導(現・うるま市宮城島)赴任
1941
昭和 16
23
(3 月)
平良第二国民学校訓導就任
1943
昭和 18
25
(9 月)
沖縄師範学校研究科入学
(12 月) 同研究科修了
1944
昭和 19
26
(8 月)
平良第一国民学校教師の砂川文と結婚。平良第二国民学校(現・市立北小学校)
児童 21 名の疎開学童を夫婦で宮崎県西諸県群小林市へ引率し、生徒と寄宿舎生
活を送る宮崎県西諸県群小林国民学校訓導就任
1946
昭和 21
28
(2 月)
学童疎開先(宮崎)から帰島
平良第二国民学校訓導就任
1947
昭和 22
29
(4 月)
宮古民政府文教構成部教学課事務官就任
1948
昭和 23
30
(□月)
城辺町立西城小学校校章作成
1949
昭和 24
31
(4 月)
平良南中学校教頭就任
(□月)
琉球切手図案競技会「龍頭」入賞
1952
昭和 27
34
(4 月)
平良市立平良中学校教頭就任
1953
昭和 28
35
(4 月)
琉球大学で琉球教育指導者(アイフェル)講習受講〜 7 月
1954
昭和 29
36
(4 月)
城辺町立福嶺中学校校長就任
1955
昭和 30
37
(□月)
平良市立久松小学校校章作成
38
(3 月) 絵画同人会結成(本村恵清、下地明増、平野長伴、川満進、大宜見猛、下地充)
(4 月)
平良中学校教頭就任
絵画同人会第 1 回展「首里風景」「削られた山」「老樹」「婦人像」「カンナ」
「潮
干狩」出品
1956
昭和 31
年齢
事 項
(10 月)
19 日。平良市(現・宮古島市)下里に生まれる(父・明良。母・メガ。7 人兄
弟の 3 男)男 5 名、女 2 名
1957
昭和 32
39
(3 月)
第 9 回沖展「□」初出品(奨励賞受賞)
(5 月)
第 2 回二季展「製糖小屋」「那覇風景」「野良の眺め」「石粉取場」「スクラップ」
「久松の午下り」「保良海岸」「少女像」出品
(12 月)
第 3 回二季展「石灰焼場」「残陽」「大嶺の午下り」「坂道」「岸」「生きる」出品
1958
昭和 33
40
(3 月)
第 10 回沖展「□」入選
(6 月)
第 4 回二季展「石段」「丘の変貌」「かげ」「野原嶽」「石粉取場」出品
(12 月)
第 5 回二季展「浚渫機」「洞」「傷ついた舟」「丘の家」出品
1959
昭和 34
41
(3 月)
第 11 回沖展「修理船」(奨励賞受賞)、「傷ついた船」(入選)「浚渫(入選)
」準
会員推挙
(5 月)
第 6 回二季展「修理船」「傷ついた船」「浚渫」「作品」出品
(12 月)
第 7 回二季展「構築」「港」「岸」「破船」「修理船」「小林風景」出品
1960
昭和 35
42
(3 月)
第 12 回沖展「□」出品
(4 月)
第 8 回二季展「船体」「建物」「廃墟」出品
1961
昭和 36
43
(1 月)
第 9 回二季展「作品 A」「作品 B」「港」「漁船」「橋のある風景」出品
(12 月)
第 10 回二季展「榕樹」
「修理船 (A)」
「城址」
「岩礁」
「修理船 (B)」
「石垣」
「構え」
「岩魂」
1963
昭和 38
45
(3 月)
第 15 回沖展「□」出品
(4 月)
第 12 回二季展「船 A」「船 B」「風景 A」「風景 B」「港 A」「港 B」出品
1964
昭和 39
46
(2 月)
第 5 回沖縄造形研究宮古大会開催
(3 月)
第 16 回沖展「珊瑚礁」出品
沖縄タイムス教育賞「情操教育」受賞
1965
昭和 40
47
(3 月)
第 17 回沖展「漁船」出品
(□月)
第 39 団 文部省海外派遣(視察国 : インド、フランス、スペイン、イギリス、
アメリカ)海外で描いたスケッチ展を文化会館で開催
− 21 −
西暦
年号
年齢
事 項
1966
昭和 41
48
(3 月)
第 18 回沖展「港」「防波堤」出品
(4 月)
宮古連合区教育委員会事務局管理主事
1967
昭和 42
49
(3 月)
第 19 回沖展「漁港」出品
1968
昭和 43
50
(3 月)
第 20 回沖展「ふね」出品
(4 月)
宮古連合区教育委員会事務局総務課長
1969
昭和 44
51
(3 月)
第 21 回沖展「長崎風景」「徳島風景(眉山)」「洲本港夜景」出品
(4 月)
宮古連合区教育委員会事務局教育次長
1970
昭和 45
52
(3 月)
第 22 回沖展「まち」出品
1971
昭和 46
53
(3 月)
第 23 回沖展出品「ふね A」「ふね B」出品
(4 月)
平良市立久松中学校校長就任
1972
昭和 47
54
(5 月)
宮古事務所初代所長就任
1976
昭和 51
58
(3 月)
第 28 回沖展「ガジュマル」出品
1977
昭和 52
59
(3 月)
第 29 回沖展「赤い屋根」出品
1978
昭和 53
60
(3 月)
第 30 回沖展「家」出品
1979
昭和 54
61
(3 月)
宮古教育事務所所長退職
第 31 回沖展「くり舟」出品
1980
昭和 55
62
(3 月)
第 32 回沖展「舟揚げ場」出品
(11 月) 平良市文化功労賞受賞
1981
昭和 56
63
(3 月)
第 33 回沖展「岬」出品
1982
昭和 57
64
(3 月)
第 34 回沖展「七又海岸」出品
1983
昭和 58
65
(3 月)
第 35 回沖展「ガジュマル」出品
1984
昭和 59
66
(3 月)
第 36 回沖展「岩波」出品
1985
昭和 60
67
(3 月)
第 37 回沖展「樹景」出品
(3 月)
(6 月)
(□月)
(9 月)
第 38 回沖展「サバニと漁師」出品(準会員賞)、会員推挙
第 63 回春陽展「さとうきび収穫」初入選
新『二季会』再発足
第 1 回新『二季展』
「サバニと漁師」
「さとうきび収穫」
「サバニの群れ」
「浜」
「サ
バニ」
「樹」出品
1986
昭和 61
68
1987
昭和 62
69
(6 月)
第 2 回新『二季展』「石段」「岬」「サバニ」出品
(10 月) 宮古島市立南小学校校章作成
1988
昭和 63
70
(3 月)
第 40 回沖展「さとうきび」出品
(7 月)
第 3 回新『二季展』「さとうきび」「きびの山」「樹景」
(□月)
第 65 回春陽会展「さとうきびの山」入選
71
(3 月)
第 41 回沖展「きびの山」出品
(6 月)
平良市総合博物館天井画「渦(うず)」を制作
(7 月)
第 4 回新『二季展』「さとうきび ( うず )」「さとうきび ( うねり )」
(11 月) 第 1 回龍泉展「さとうきびの山」「さとうきび(うねり)」「さとうきび(うず)
」
出品
1989
平成元
1990
平成 2
72
(3 月) 第 42 回沖展「さとうきび」出品
(4 月)
第 67 回春陽会展「さとうきび」入選
(5 月)
第 8 回平良市総合博物館企画展『現代宮古島の作家達Ⅰ』展「さとうきびの山」
「さとうきびの収穫」出品
(9 月)
第 5 回新『二季展』
「さとうきび (A)」
「さとうきび (B)」
「ブウゲンビリア (A)」
「ブ
ウゲンビリア (B)」出品
1991
平成 3
73
(3 月) 第 43 回沖展「さとうきび」出品
(4 月)
第 6 回新二季展「長崎郊外」「台風後のキビ」「ウタキの杜」出品
(11 月)
第 7 回新二季展「ブウゲンビリア」「デイゴ」「樹海」「さとうきび」出品
74
(2 月) 第 16 回平良市総合博物館企画展『現代宮古島の作家達Ⅱ』展「ブーゲンビリア」
出品
(9 月)
第 8 回新二季展「ブウゲンビリア」「デイゴ」「樹海」「さとうきび」「東平安名
岬眺望」出品
75
(3 月) 第 45 回沖展「でいご」出品
(4 月)
第 70 回春陽会展「さとうきび」入選
(5 月)
第 9 回新『二季展』「デイゴ」「デイゴの花」「木立ち」「茂み」
(10 月)
第 10 回新『二季展』「さとうきび」「七又海岸」「保良海岸」「与那覇湾」出品
(□月)
「花ギャラリー TOMOE」にて初個展
1992
1993
平成 4
平成 5
− 22 −
西暦
1994
1995
年号
平成 6
平成 7
年齢
事 項
76
(5 月)
勲五等瑞宝章叙勲
第 11 回新『二季展』「七又海岸」「さとうきび収穫」「さとうきび」出品
(10 月)
第 12 回新『二季展』「がじゅまるの根」「下地島」出品
(11 月)
画廊サロン・ド・ミツにて個展
77
(5 月)
県文化協会文化功労賞受賞
第 13 回新『二季展』「きび」「あかがわら屋根のある風景」「サバニのある風景」
出品
(11 月)
第 14 回新『二季展』「きびの束」「東平安名崎」出品
1996
平成 8
78
(3 月)
第 48 回沖展「さとうきびの束」出品
(4 月)
第 73 回春陽会展「きびの束」入選
(5 月)
第 15 回新二季展「きびの束」「きびの尾花」「サバニのある風景」
(10 月)
第 16 回新二季展「石段」
「ふくぎ木立ち」
「ブウゲンビリア」
「サバニのある風景」
出品
1997
平成 9
79
(□月)
サロンドミツ(那覇の画廊)で個展
(6 月)
第 17 回新二季展「さとうきび」「でいご」「岩と波」出品
(10 月)
第 18 回新二季展「きびの束 A」「きびの束 B」「きび収穫」出品
1998
平成 10
80
(5 月)
第 19 回新二季展「さとうきび A」
「さとうきび B」
「さとうきび C」
「森」
「気根」
出品
(10 月)
第 20 回新二季展「さとうきびのある風景」「でいご」「林」出品
1999
平成 11
81
(3 月)
第 51 回沖展「さとうきび '98」出品
(5 月)
第 21 回新二季展「島のでいご」
「ブウゲンビリア」
「七又海岸」
「トゥリバー辺リ」
「尾花ノアル風景」出品
(11 月)
第 22 回新二季展「さとうきびの束」「サバニのある風景」出品
2000
平成 12
82
(5 月)
第 23 回新二季展「さとうきび A」
「さとうきび B」
「保良海岸」
「東平安名崎」
「七
又海岸」出品
(10 月)
第 24 回新二季展「でいご」「さとうきび畑」出品
2001
平成 13
83
(3 月)
第 53 回沖展「でいご」出品
(6 月)
第 25 回新二季展「漁港」「さとうきび畑」出品
(10 月) 第 26 回新二季展「漁船とサバニ」「城址」出品
2002
平成 14
84
(3 月)
第 54 回沖展「さとうきび畑」出品
(4 月)
第 79 回春陽会展「さとうきびの束」入選
(5 月)
第 27 回新二季展「さとうきび」「東平安名岬眺望」出品
(10 月) 第 28 回「新二季会」展「さとうきび(A)」「さとうきび(B)」「修理船」出品
(12 月)「下地明増、吉村明―2 人展」花ギャラリー TOMOE
2003
平成 15
85
(4 月)
第 80 回春陽展「さとうきびの山」入選、会友推挙
(5 月)
第 29 回新二季展「さとうきび」「杜のガジュマル」「城址」出品
2004
平成 16
86
(5 月)
第 30 回新二季展「さとうきびの山」
「さとうきびの束(A)」
「さとうきびの束(B)
」
「さとうきびの束(C)」「サバニのある風景」出品
(10 月) 第 31 回新二季展「さとうきび収穫」「七又海岸」出品
2005
平成 17
87
(4 月)
第 82 回春陽会展「さとうきびの束」入選
(5 月)
第 32 回新二季展「さとうきびの山」「さとうきびの束」「杜」出品
(10 月) 第 33 回新二季展「さとうきびの山」「さとうきびの束」「でいごのある杜」
「東
平安名崎」出品
2006
平成 18
88
(4 月)
第 83 回春陽会展「きび収穫」入選
2007
平成 19
89
(3 月)
第 59 回沖展「きび収穫」出品
(4 月)
第 84 回春陽会展「さとうきびの束」入選
(5 月)
第 34 回新二季展「さとうきび A」「さとうきび B」出品
2008
平成 20
90
(3 月)
第 60 回沖展「きびの束」出品
(4 月)
第 85 回春陽会展「きびの束」入選
(5 月)
第 35 回新二季展「きびの束」「杜」出品
91
(3 月)
第 61 回沖展「きびの束」出品
(4 月)
86 回春陽展「さとうきびの束」入選
(5 月)
第 36 回新二季展「岩と波」出品
(10 月) 永眠(享年 91 歳)
2009
平成 21
2010
平成 22
(5 月)
宮古島市総合博物館第 13 回企画展『下地明増・堀泰明作品展』
(※□は不明)
− 23 −
本村恵清年譜
西暦
年号
年齢
事 項
1920
大正 9
1927
昭和 2
7
(4 月)
平良第二尋常高等小学校入学
1933
昭和 8
13
(3 月)
平良第二尋常高等小学校卒業
(4 月)
県立宮古中学校入学
1940
昭和 15
20
(3 月)
県立宮古中学校卒業
(4 月)
沖縄県師範学校(本科二部)入学
1942
昭和 17
22
(3 月)
沖縄県師範学校卒業
(4 月)
中頭郡浦添村仲西国民学校訓導就任
1943
昭和 18
23
(9 月)
沖縄師範学校研究科入学
(12 月) 同研究科修了
1944
昭和 19
24
(9 月)
宮古郡平良第二国民学校訓導就任
1945
昭和 20
25
(2 月)
津嘉山ミツと婚姻
1947
昭和 22
27
(4 月)
宮古平良第二初等学校教官
(9 月)
県立宮古高等学校教授嘱託(美術・工芸担当)
1949
昭和 24
29
(□月)
第 1 回個展
1950
昭和 25
30
(3 月)
平良市北中学校教諭
1952
昭和 27
32
(3 月)
県立宮古高等学校教授嘱託退職
(9 月)
北中学校が平良中学校に校名変更
1953
昭和 28
33
(5 月)
米琉親善日ポスター審査員
1956
昭和 31
36
(3 月)
絵画同人会結成(本村恵清、下地明増、平野長伴、川満進、大宜見猛、下地充)
(4 月)
絵画同人会第 1 回展「町の裏通り」
「夕焼の海」
「カンナの花」
「みさき(小)
」
「み
さき(大)
」出品
1957
昭和 32
37
(5 月)
第 2 回二季展「赤い太陽」「白い太陽」「夜の明るい窓」「淋しい街」「福木のあ
る風景」
「石垣」「岩」出品
(12 月) 第 3 回二季展「がじゅまる」「裏口」「大風」「海辺の貝殻」「夜」出品
1958
昭和 33
38
(3 月)
第 10 回沖展「□」入選
(6 月)
第 4 回二季展「がじゅまる」「砂利をつくる機会」「風景」出品
(12 月) 第 5 回二季展「岬」「悩む」「沖を跳める少年」出品
1959
昭和 34
39
(5 月)
第 6 回二季展「見つめる人の顔」「建物」出品
(12 月) 第 7 回二季展「作品」「作品」出品
1960
昭和 35
40
(3 月) 第 12 回沖展「ガシュマル」入選
(4 月)
第 8 回二季展「がじゅまる」出品
平良区久松中学校教諭
1961
昭和 36
41
(1 月) 第 9 回二季展「作品 A」「作品 B」「作品 C」出品
(3 月)
第 13 回沖展「□」入選
(12 月)
第 10 回二季展「拝所」「樹」「作品」「作品」「作品」「風景」
1962
昭和 37
42
(3 月) 第 14 回沖展「□」入選
(3 月)
21 日、旧平良市(宮古島市平良)西里に生まれる(父・恵渡、母・カナの男 4
人兄弟の次男)
1963
昭和 38
43
(3 月)
(4 月)
(6 月)
(□月)
第 15 回沖展「□」入選
第 12 回二季展「よう樹」「作品」出品
第 11 回光陽展初出品「よう樹」「拝所」入選、会友推挙
第 2 回個展
1965
昭和 40
45
(6 月) 第 13 回光陽展「怒り出した魔よけ」入選
1967
昭和 42
47
(4 月) 平良市立平良中学校赴任
(6 月)
第 15 回光陽展「魔よけ大いに怒る」ターナー賞受賞 会員推挙
1968
昭和 43
48
(6 月)
第 16 回光陽展「おびえる」出品
1969
昭和 44
49
(6 月)
第 17 回光陽展「魔よけいきりたつ」出品
1970
昭和 45
50
(6 月)
第 18 回光陽展「裸のガジュマル」出品
1971
昭和 46
51
(4 月)
平良市立久松中学校教頭就任
(□月)
美育文化協会指導者賞受賞
1972
昭和 47
52
(6 月)
第 20 回光陽展「沖縄のある表情」出品
1976
昭和 51
56
(4 月)
平良市立鏡原小学校教頭就任
(5 月)
第 24 回光陽展「□」出品、ターナー賞受賞、会員推挙
− 24 −
西暦
年号
年齢
事 項
1978
昭和 53
58
(4 月)
平良市立池間小学校校長就任
1980
昭和 55
60
(4 月)
平良市立池間小学校校長勧奨退職
(□月)
沖縄美術家連盟会員
1981
昭和 56
61
(5 月)
第 29 回光陽展「赤瓦」出品
1982
昭和 57
62
(5 月)
第 30 回光陽展「戦場の顔」出品
(6 月)
サンケイ新聞『紙上ギャラリー』に「戦場の顔」掲載
1983
昭和 58
63
(□月)
沖縄平和美術展実行委員
1984
昭和 59
64
(5 月)
第 32 回光陽展「戦場の群れ」出品
1985
昭和 60
65
(5 月)
第 33 回光陽展「戦火がやってきた」出品
サンケイ新聞『紙上ギャラリー』に「戦火がやってきた」掲載
1986
昭和 61
66
(5 月)
第 34 回光陽展「怒号」出品
1987
昭和 62
67
(1 月)
日本美術出版発行『藝術公論』
「魔よけ大いに怒る」
「あるまわし者」
「よう樹」
「怒
号」
「戦場の群れ」「拝所」「戦火がやってきた」掲載
(5 月)
第 35 回光陽展「戦場の昇天」出品
1989
平成元
69
(11 月)
第 1 回龍泉展「よう樹」「戦場の群れ」出品
1990
平成 2
70
(5 月)
第 38 回光陽展「戦場の亡魂達」出品
第 8 回平良市総合博物館企画展『現代宮古島の作家達Ⅰ』展「戦火がやってきた」
出品
1992
平成 4
72
(2 月) 第 16 回平良市総合博物館企画展『現代宮古島の作家達Ⅱ』展「戦場の群れ」
「あ
るまわし者」出品
(9 月)
第 11 回沖縄平和美術展「拝所」出品
1993
平成 5
73
(6 月) 第 22 回平良市総合博物館企画展『現代宮古島の作家達Ⅲ』展「戦場の昇天」
「怒
号」出品
1994
平成 6
74
(5 月) 第 42 回光陽展「ある忍者」出品
第 26 回平良市総合博物館企画展『現代宮古島の作家達Ⅳ』展「よう樹」出品
1995
平成 7
75
(5 月) 第 43 回光陽展「復興を始める商店通り」「ポー崎」出品
1996
平成 8
76
(8 月) 第 31 回平良市総合博物館企画展『現代宮古島の作家達Ⅴ』展「よう榕樹」出品
(9 月)
第 15 回沖縄平和美術展「怒り出した魔よけ」出品
1997
平成 9
77
(9 月) 第 16 回沖縄平和美術展「町の裏通り」出品
1998
平成 10
78
(5 月)
第 46 回光陽展「哀れなドラムかん立つ」出品
2000
平成 12
80
(5 月)
第 48 回光陽展「戦場の喚」出品
2001
平成 13
81
(5 月)
第 49 回光陽展「怒号(2)」出品
2002
平成 14
82
(5 月)
第 50 回光陽展「大口まよけ」出品
2004
平成 16
84
(5 月)
第 52 回光陽展「古い石達による壁」出品
2011
平成 23
91
(7 月)
永眠(享年 91 歳)
(※□は不明)
− 25 −
「二季展」出品者一覧
回
年
期 間
会 場
出品者〔* 新規出品者/( )内展示作品数〕
1
1956
4 / 22 〜 26
宮古琉米文化会館
下地明増(6)
、平野長伴(4)
、川満進(1)
、大宜見猛(4)、
下地充(2)、本村恵清(5)
2
1957
5/3〜7
宮古琉米文化会館
下地明増(8)
、平野長伴(7)
、本村恵清(7)、下地充(3)、
川満進(4)、大宜見猛(7)、* 池村恒仁(4)、* 砂川隆之(2)
【賛助出品】玉那覇正吉(□)
3
1957
12 / 13 〜 16
宮古琉米文化会館
砂川隆之(5)、下地明増(6)、平野長伴(8)、本村恵清(5)
、
池村恒仁(5)、川満進(6)、大宜見猛(7)
【賛助出品】玉那覇正吉(2)
4
1958
6/6〜9
砂川隆之(3)、下地明増(5)、平野長伴(5)、本村恵清(3)
、
池村恒仁(2)、大宜見猛(5)、下地充(1)、川満進(2)
宮古琉米文化会館
【賛助出品】安次嶺金正(1)、玉那覇正吉(1)、安谷屋正義(1)
、
安次富長昭(1)
5
1958
12 / 5 〜 8
宮古琉米文化会館
下地明増(4)、平野長伴(5)、砂川隆之(3)、本村恵清(3)
、
大宜見猛(3)、川満進(2)、下地充(3)、* 喜納久子(2)
6
1959
5 / 16 〜 18
宮古琉米文化会館
平野長伴(6)
、下地充(3)
、下地明増(4)
、池村恒仁(2)、
本村恵清(2)、川満進(6)、大宜見猛(4)、喜納久子(1)
7
1959
12 / 26 〜 28
宮古琉米文化会館
下地充(3)
、砂川隆之(1)
、平野長伴(5)
、本村恵清(2)、
大宜見猛(5)、川満進(3)、下地明増(6)
8
1960
4 / 16 〜 18
宮古琉米文化会館
平野長伴(4)
、本村恵清(1)
、川満進(2)
、大宜見猛(1)、
砂川隆之(1)、下地明増(3)、下地充(1)、池村恒仁(2)
下地明増(6)
、本村恵清(3)
、下地充(2)
、喜納久子(1)、
池村恒仁(3)
、砂川隆之(3)
、大宜見猛(3)、川満進(3)、
宮古琉米文化会館 * 新城朝宣(1)、* 池村悦子(1)
【創斗会賛助出品】玉那覇正吉(1)
、宮城健盛(2)
、安次富長
昭(1)、平野長伴(2)、永山信治(1)
9
1961
1/3〜5
10
1961
12 / 24 〜 26
宮古琉米文化会館
新城朝宣(2)、池村恒仁(1)、池村悦子(2)、大宜見猛(2)
、
川満進(2)、喜納久子(2)、下地明増(9)、下地充(2)、砂
川隆之(2)、本村恵清(6)、* 平良邦夫(2)
11
□
□
□
□
12
1963
4 / 27 〜 29
宮古琉米文化会館
川満進(3)
、新城朝宣(1)
、大宜見猛(1)
、砂川隆之(3)、
本村恵清(2)、平良邦夫(2)、下地明増(6)、* 本村朝輝(3)
、
* 狩俣利彦(3)
(※□は不明)
− 26 −
再結成「二季展」出品者一覧
回
年
期 間
会 場
出品者〔* 新規出品者/( )内展示作品数〕
1
1986
9 / 12 〜 14
県立図書館宮古分館
下 地 明 増(6)
、 池 村 恒 仁(4)
、 平 良 邦 夫(2)
、* 宮 平 孝 志(3)、
* 瑞慶山隆司(3)
、* 奥平賢吉(3)
、下地充(1)
、* 砂川典子(1)、
* 砂川幸夫(4)
2
1987
6/5〜7
県立図書館宮古分館
下地明増(3)
、池村恒仁(5)
、平良邦夫(1)
、宮平孝志(1)、瑞慶
山隆司(1)
、砂川幸夫(2)
、奥平賢吉(4)
、砂川典子(1)
、友利恵
勇(3)
、* 新里俊次(3)
、富山裕策(2)
、平野長伴(2)
3
1988
7 / 29 〜 31
県立図書館宮古分館
下地明増(3)
、池村恒仁(5)
、平良邦夫(2)
、瑞慶山隆司(1)、砂
川幸夫(3)
、奥平賢吉(4)
、友利恵勇(4)
、* 下地正秀(5)、* 玉
城清松(3)
4
1989
7 / 21 〜 23
県立図書館宮古分館
池村恒仁(6)
、富山裕策(2)
、奥平賢吉(4)
、平良邦夫(1)、下地
明増(2)
、友利恵勇(4)
、玉城清松(3)
、瑞慶山隆司(1)
、砂川幸
夫(3)
5
1990
9 / 21 〜 23
県立図書館宮古分館
下地明増(4)
、池村恒仁(4)
、平良邦夫(3)
、奥平賢吉(4)、友利
恵勇(4)
、富山裕策(4)
、下地正秀(3)
、砂川幸夫(3)
6
1991
4 / 12 〜 14
県立図書館宮古分館
下地明増(3)
、池村恒仁(4)
、平良邦夫(2)
、友利恵勇(4)、奥平
賢吉(3)
、* 佐渡山政子(5)
、砂川幸夫(3)
、富山裕策(2)
7
1991
11 / 8 〜 10
県立図書館宮古分館
池村恒仁(4)
、奥平賢吉(1)
、佐渡山政子(5)
、下地明増(4)、砂
川幸夫(1)
、平良邦夫(4)
、富山裕策(2)
、友利恵勇(4)
、平野長
伴(2)
8
1992
9 / 26 〜 28
県立図書館宮古分館
下地明増(5)
、友利恵勇(4)
、佐渡山政子(2)
、富山裕策(3)、池
村恒仁(5)
、平良邦夫(4)
、下地充(2)
、砂川幸夫(3)
9
1993
5 / 28 〜 30
県立図書館宮古分館
下地明増(4)
、平良邦夫(3)
、下地充(3)
、* 山里誠栄(3)、* 奥
浜芳子(2)
、友利恵勇(4)
、池村恒仁(3)
、富山裕策(3)
、佐渡山
政子(3)
、砂川幸夫(1)
10
1993
10 / 29 〜 31
県立図書館宮古分館
下地明増(4)
、池村恒仁(3)
、下地充(3)
、山里誠栄(3)
、奥浜芳
子(2)
、友利恵勇(4)
、平良邦夫(3)
、富山裕策(3)
、平野長伴(2)、
奥平賢吉(1)
、砂川幸夫(1)
11
1994
5 / 27 〜 29
県立図書館宮古分館
下地明増(3)、平良邦夫(3)、* 与那嶺正金(4)
、下地充(3)
、富
山裕策(2)、池村恒仁(3)、友利恵勇(3)、* 喜久川耀徳(4)
、山
里誠栄(3)
、砂川幸夫(2)
12
1994
10 / 28 〜 31
県立図書館宮古分館
下地明増(2)
、平良邦夫(3)
、友利恵勇(3)
、富山裕策(2)、平良
恵秀(6)
、砂川幸夫(1)
、池村恒仁(1)
、下地充(3)
、喜久川耀徳
(8)
、与那嶺正金(3)
、山里誠栄(3)
13
1995
5 / 26 〜 31
14
1995
11 / 10 〜 13
下地明増(3)
、平良邦夫(2)
、与那嶺正金(3)
、平良恵秀(5)、山
里誠栄(3)
、池村恒仁(3)
、砂川幸夫(2)
、友利恵勇(4)
、佐渡山
花ギャラリー TOMOE
政子(4)、下地充(4)、喜久川耀徳(5)、富山裕策(2)、* 与那嶺
達男(3)
県立図書館宮古分館
下地明増(2)
、与那嶺正金(3)
、平良邦夫(2)
、友利恵勇(4)、平
良恵秀(2)
、
富山裕策(2)
、
山里誠栄(3)
、
池村恒仁(3)
、
下地充(2)、
与那嶺達男(1)
、
喜久川耀徳(4)
、
佐渡山政子(3)
、
* 西里悠梨亜(3)、
砂川幸夫(1)
15
1996
5 / 24 〜 27
県立図書館宮古分館
下地明増(3)
、池村恒仁(3)
、友利恵勇(4)
、平良邦夫(2)、下地
充(3)
、富山裕策(2)
、山里誠栄(3)
、与那嶺正金(3)
、佐渡山政
子(3)
、喜久川耀徳(5)
、平良恵秀(3)
、西里悠梨亜(3)
、与那嶺
達男(2)
、砂川幸夫(2)
16
1996
10 / 25 〜 28
県立図書館宮古分館
下地明増(4)
、平良邦夫(2)
、友利恵勇(3)
、喜久川耀徳(5)、下
地充(3)
、与那嶺正金(4)
、与那嶺達男(1)
、池村恒仁(3)、山里
誠栄(2)
、佐渡山政子(2)
、平良恵秀(5)
、砂川幸夫(2)
、富山裕
策(1)
、* 藤本有香(1)
、* 西里恵子(3)
17
1997
6 / 26 〜 29
県立図書館宮古分館
平良邦夫(3)
、与那嶺正金(5)
、下地明増(3)
、池村恒仁(3)、喜
久川耀徳(3)
、佐渡山政子(2)
、下地充(3)
、西里恵子(2)、友利
恵勇(3)
、与那嶺達男(3)
、山里誠栄(2)
、砂川幸夫(2)
、富山裕
策(1)
、平良恵秀(1)
18
1997
10 / 24 〜 27
県立図書館宮古分館
下地充(3)
、与那嶺正金(4)
、西里恵子(3)
、下地明増(3)、与那
嶺達男(2)
、砂川幸夫(2)
、友利恵勇(3)
、喜久川耀徳(3)、池村
恒仁(3)
、平良邦夫(3)
、* 池村嘉則(2)
、* 与那覇憲治(3)
19
1998
5 / 28 〜 31
平良市中央公民館
下地明増(5)
、平良邦夫(3)
、友利恵勇(3)
、富山裕策(2)、喜久
川耀徳(2)
、佐渡山政子(3)
、池村嘉則(5)
、池村恒仁(3)、与那
嶺正金(4)、下地充(3)、西里恵子(3)、* 安里ルリ子(3)
、砂川
幸夫(2)
、与那嶺達男(2)
平良市中央公民館
富山裕策(3)
、喜久川耀徳(3)
、平良邦夫(2)
、友利恵勇(3)、池
村恒仁(3)
、佐渡山政子(2)
、池村嘉則(3)
、与那嶺達男(2)、下
地充(2)
、下地明増(3)
、与那嶺正金(3)
、西里恵子(3)
、砂川幸
夫(2)
、安里ルリ子(3)
20
1998
10 / 29 〜 11 / 1
− 27 −
回
年
期 間
会 場
出品者〔* 新規出品者/( )内展示作品数〕
21
1999
5 / 27 〜 30
平良市中央公民館
友利恵勇(3)
、下地充(3)
、西里恵子(3)
、与那嶺正金(3)、池村
恒仁(2)
、安里ルリ子(3)
、下地明増(5)
、平良邦夫(3)
、池村嘉
則(2)
、佐渡山政子(3)
、喜久川耀徳(3)
、与那嶺達男(2)、富山
裕策(2)
、砂川幸夫(2)
、* 伊志嶺孝(3)
22
1999
11 / 20 〜 21
平良市中央公民館
下地明増(2)
、池村恒仁(1)
、西里恵子(3)
、伊志嶺孝(3)、与那
嶺正金(2)
、喜久川耀徳(3)
、佐渡山政子(1)
、下地充(2)、友利
恵勇(3)
、平良邦夫(2)
、安里ルリ子(3)
、与那嶺達男(1)、砂川
幸夫(2)
23
2000
5 / 18 〜 21
平良市中央公民館
西里恵子(3)
、平良邦夫(3)
、伊志嶺孝(3)
、* 幸地ヨシ子(3)、
喜久川耀徳(2)
、与那嶺正金(3)
、佐渡山政子(1)
、下地明増(5)、
与那嶺達男(2)
、池村恒仁(3)
、友利恵勇(3)
、下地充(3)、池村
嘉則(1)
、安里ルリ子(3)
、* 饒平名浩(2)
、砂川幸夫(1)
24
2000
10 / 20 〜 22
平良市中央公民館
喜久川耀徳(4)
、下地充(3)
、友利恵勇(3)
、幸地ヨシ子(2)、下
地明増(2)
、平良邦夫(2)
、西里恵子(3)
、池村恒仁(3)
、与那嶺
達男(1)
、* のひなひろし(1)
、与那嶺正金(2)
、砂川幸夫(1)、
伊志嶺孝(3)
、安里ルリ子(1)
25
2001
6/1〜3
平良市中央公民館
与那嶺達男(1)
、幸地ヨシ子(3)
、平良邦夫(3)
、西里恵子(3)、
下地充(3)
、友利恵勇(3)
、富山裕策(2)
、下地明増(2)
、喜久川
耀徳(3)、伊志嶺孝(1)、池村恒仁(3)、与那嶺正金(2)、* 池間
恵子(3)
、池村嘉則(2)
、砂川幸夫(1)
26
2001
10 / 26 〜 28
平良市中央公民館
幸地ヨシ子(2)、下地充(2)、友利恵勇(3)、* 友利節子(3)
、下
地明増(2)
、平良邦夫(3)
、西里恵子(4)
、喜久川耀徳(3)、池間
恵子(3)
、与那嶺達男(2)
、安里ルリ子(3)
、のひなひろし(1)、
与那嶺正金(1)
、池村恒仁(2)
、砂川幸夫(1)
27
2002
5 / 24 〜 26
平良市中央公民館
平良邦夫(2)
、西里恵子(3)
、下地充(3)
、池間恵子(2)
、下地明
増(2)
、友利節子(3)
、のひなひろし(1)
、友利恵勇(3)
、池村恒
仁(1)
、与那嶺達男(1)
、池村嘉則(2)
、与那嶺正金(1)
、幸地ヨ
シ子(2)
、喜久川耀徳(3)
、富山裕策(2)
、砂川幸夫(2)
28
2002
10 / 25 〜 27
花ギャラリー TOMOE
下地充(2)
、幸地ヨシ子(2)
、友利恵勇(3)
、下地明増(3)、池間
恵子(3)
、平良邦夫(2)
、のひなひろし(1)
、喜久川耀徳(2)、与
那嶺達男(2)
、友利節子(3)
、与那嶺正金(1)
、西里恵子(3)、池
村恒仁(2)
、富山裕策(2)
、砂川幸夫(2)
5 / 23 〜 25
のひなひろし(1)
、平良邦夫(2)
、西里恵子(3)
、友利節子(2)、
喜久川耀徳(2)
、下地明増(3)
、与那嶺正金(1)
、池村恒仁(1)、
花ギャラリー TOMOE
友利恵勇(3)
、下地充(3)
、幸地ヨシ子(3)
、与那嶺達男(1)、池
間恵子(2)
、富山裕策(1)
、池村嘉則(1)
、砂川幸夫(2)
5 / 27 〜 30
池間恵子(4)
、池村恒仁(3)
、池村嘉則(4)
、上原麻里江(4)、喜
久川耀徳(1)
、幸地ヨシ子(2)
、下地充(3)
、下地明増(5)、砂川
幸夫(3)
、
平良邦夫(3)
、
富山裕策(3)
、
友利恵勇(4)
、
友利節子(4)、
西里恵子(7)
、のひなひろし(3)
、* 与那覇淳(1)
、与那嶺正金(4)、
与那嶺達男(3)
、
【特別出品】平野長伴(2)
29
30
2003
2004
31
2004
10 / 29 〜 31
32
2005
5 / 14 〜 15
33
34
2005
2007
平良市中央公民館
上原麻里江(2)
、下地充(2)
、下地明増(2)
、友利節子(2)、平良
邦夫(3)
、
砂川幸夫(1)
、
友利恵勇(3)
、
池間恵子(1)
、
西里恵子(3)、
花ギャラリー TOMOE
のひなひろし(2)
、池村恒仁(2)
、喜久川耀徳(3)
、富山裕策(2)、
与那嶺達男(2)
、池村嘉則(1)
、与那嶺正金(2)
平良市中央公民館
平良邦夫(2)
、富山裕策(2)
、西里恵子(3)
、喜久川耀徳(1)、下
地明増(3)
、与那嶺正金(2)
、友利恵勇(3)
、池村恒仁(3)、友利
節子(2)
、与那嶺達男(2)
、下地充(2)
、のひなひろし(1)、池間
恵子(1)
、上原麻里江(1)
、砂川幸夫(3)
10 / 28 〜 30
西里恵子(3)
、下地充(2)
、池村恒仁(4)
、友利恵勇(3)
、与那嶺
正金(1)、池村嘉則(2)、下地明増(4)、* 前原麻里枝(1)
、池間
花ギャラリー TOMOE
恵子(2)
、与那嶺達男(2)
、のひなひろし(3)
、平良邦夫(3)、島
袋正弘(2)
、友利節子(3)
、富山裕策(2)
、砂川幸夫(2)
5 / 25 〜 27
下地充(3)
、のひなひろし(1)
、友利恵勇(2)
、池村恒仁(2)
、
* 垣花健(3)
、島袋正弘(2)
、平良邦夫(2)
、下地明増(2)、友利
、* 下里旨源(2)
、* 下地昭五郎(2)
、富山裕策(2)、与
花ギャラリー TOMOE 節子(3)
那嶺達男(2)、西里恵子(2)、* 垣花健志(3)、池村嘉則(1)
、砂
川幸夫(2)
35
2008
5 / 23 〜 25
島袋正弘(3)
、のひなひろし(1)
、友利恵勇(1)
、池村恒仁(3)、
与那嶺達男(1)
、西里恵子(2)
、下地充(2)
、垣花健(2)
、砂川幸
花ギャラリー TOMOE
夫(1)
、下地明増(2)
、与那嶺正金(1)
、平良邦夫(2)
、下里旨源
(3)
、富山裕策(1)
、池間恵子(1)
、垣花健志(1)
、池村嘉則(1)
36
2009
5 / 22 〜 24
花ギャラリー TOMOE
37
2011
5 / 27 〜 29
平良邦夫(3)
、下里旨源(3)
、友利恵勇(2)
、下地充(3)
、与那嶺
、砂川幸夫(1)
、西里恵子(3)
、のひなひろし(1)、池村
花ギャラリー TOMOE 達男(1)
恒仁(3)
、池間恵子(2)
、島袋正弘(1)
、垣花健(1)
、池村嘉則(1)
与那嶺達男(2)
、平良邦夫(2)
、西里恵子(3)
、池村恒仁(2)、下
里旨源(3)
、富山裕策(1)
、下地明増(1)
、垣花健志(2)
、友利恵
勇(1)
、島袋正弘(1)
、下地充(2)
、のひなひろし(2)
、池村嘉則
(3)
、垣花健(1)
、砂川幸夫(2)
− 28 −
下地明増作品
1
6
西表島「仲間橋」
ふね
サ イ ズ: 410×600 ㎜
サ イ ズ: 647×988 ㎜
制作年: 1960
制作年: 1968
素材等: 板、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 宮古島市総合博物館
所蔵者: 個人蔵
備 考: 元アメリカ民政府公報局琉
備 考: 第20回沖展出品
米文化会館担当官サムエ
ル・キタムラ氏から平良市に
寄贈
2
7
不明
不明
サ イ ズ: 527×724 ㎜
サ イ ズ: 445×600 ㎜
制作年: 1960~1970頃
制作年: 1968
素材等: キャンバス、油彩
素材等: 板、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
3
8
不明
洲本港夜景
サ イ ズ: 525×720 ㎜
サ イ ズ: 530×724 ㎜
制作年: 1960~1970頃
制作年: 1969
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考: 第21回沖展出品
4
9
不明
徳島風景(眉山)
サ イ ズ: 645×992 ㎜
サ イ ズ: 525×720 ㎜
制作年: 1965頃
制作年: 1969
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第17回沖展出品作「漁船」と
備 考: 第21回沖展出品
推定される(裏に沖展出品
票の後あり)
5
10
漁港
長崎風景
サ イ ズ: 640×995 ㎜
サ イ ズ: 525×722 ㎜
制作年: 1967
制作年: 1969
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第19回沖展出品
備 考: 第21回沖展出品
− 29 −
下地明増作品
11
16
ガジュマル
不明
サ イ ズ: 648×995 ㎜
サ イ ズ: 380×455 ㎜
制作年: 1975
制作年: 1980
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第28回沖展出品
備 考:
12
17
赤い屋根
不明
サ イ ズ: 652×990 ㎜
サ イ ズ: 380×455 ㎜
制作年: 1977
制作年: 1980
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第29回沖展出品
備 考:
13
18
家
不明
サ イ ズ: 744×990 ㎜
サ イ ズ: 455×530 ㎜
制作年: 1978
制作年: 1980
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第30回沖展出品
備 考:
14
19
くり舟
舟揚げ場
サ イ ズ: 644×993 ㎜
サ イ ズ: 380×455 ㎜
制作年: 1979
制作年: 1980
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第31回沖展出品
備 考: 第32回沖展出品
15
20
不明
舟揚げ場
サ イ ズ: 333×242 ㎜
サ イ ズ: 807×1,173 ㎜
制作年: 1980
制作年: 1980頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
− 30 −
下地明増作品
21
26
東平安名岬 B
ガジュマル
サ イ ズ: 803×1,167 ㎜
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
制作年: 1981頃
制作年: 1983
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考: 第35回沖展出品
22
27
岬
岩波
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
制作年: 1981
制作年: 1984
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 宮古島市総合博物館
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第33回沖展出品
備 考: 第36回沖展出品
23
28
七又海岸
不明
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 160×230 ㎜
制作年: 1982
制作年: 1985頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第34回沖展出品
備 考:
24
29
ガジュマル(習
サバニのある風景
サ イ ズ: 380×455 ㎜
サ イ ズ: 333×242 ㎜
制作年: 1983頃
制作年: 1985頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
25
30
ガジュマル(習
サバニと漁師
サ イ ズ: 380×455 ㎜
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
制作年: 1983頃
制作年: 1985
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 沖縄県立博物館・美術
備 考:
備 考: 第38回沖展準会員賞
− 31 −
下地明増作品
31
36
樹景
不明
サ イ ズ: 不明
サ イ ズ: 455×530 ㎜
制作年: 1985
制作年: 1986以前
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 不明
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第37回沖展出品(写真のみ
備 考:
確認)
32
37
砂丘
石段のある風景
サ イ ズ: 318×410 ㎜
サ イ ズ: 1,620×1,303 ㎜
制作年: 1986以前
制作年: 1986以前
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 宮古島市総合博物館
備 考:
備 考: 沖展出品
33
38
砂丘
さとうきび収穫
サ イ ズ: 383×455 ㎜
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
制作年: 1986以前
制作年: 1986
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考: 第63回春陽会入選、沖展出
34
品
39
不明
さとうきびの束
サ イ ズ: 158×227 ㎜
サ イ ズ: 380×455 ㎜
制作年: 1986以前
制作年: 1986以降
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
35
40
不明
さとうきび
サ イ ズ: 454×530 ㎜
サ イ ズ: 380×455 ㎜
制作年: 1986以前
制作年: 1987
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
− 32 −
下地明増作品
41
46
ブーゲンビレア
さとうきび
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 333×242 ㎜
制作年: 1987以降
制作年: 1990頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 沖展出品
備 考: 第42回沖展出品作と同構図
42
47
きびの山
不明
サ イ ズ: 1,307×1,620 ㎜
サ イ ズ: 380×455 ㎜
制作年: 1988
制作年: 1991~1994
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 沖縄県立博物館・美術
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第65回春陽会入選、第41回
備 考:
沖展出品
43
48
きびの山
不明
サ イ ズ: 910×1,167 ㎜
サ イ ズ: 383×457 ㎜
制作年: 1988
制作年: 1991~1998
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考: 新二季展出品
44
49
渦
きび畑
サ イ ズ: 直径7,000㎜
サ イ ズ: 333×242 ㎜
制作年: 1989
制作年: 1991頃
素材等: 石膏、顔料
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 宮古島市総合博物館
所蔵者: 個人蔵
備 考: 宮古島市総合博物館天井
備 考:
画
45
50
さとうきび
さとうきび
サ イ ズ: 1,300×1,622 ㎜
サ イ ズ: 910×1,167 ㎜
制作年: 1990
制作年: 1991頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 沖縄県立博物館・美術
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第67回春陽会入選、第43回
備 考: 第43回沖展出品作と同構図
沖展出品
− 33 −
下地明増作品
51
56
きび畑
でいご
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
制作年: 1991以降
制作年: 1993
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 沖展出品、第54回沖展出品
備 考: 第45回沖展出品
作と同構図
52
57
さとうきび
不明
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 380×455 ㎜
制作年: 1991以降
制作年: 1993~2004
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 沖展出品
備 考:
53
58
不明
不明
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 380×455 ㎜
制作年: 1991以降
制作年: 1994頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
54
59
不明
浜
サ イ ズ: 318×410 ㎜
サ イ ズ: 380×455 ㎜
制作年: 1993頃
制作年: 1994頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
55
60
さとうきび
あかがわら屋根の
サ イ ズ: 1,308×1,624 ㎜
サ イ ズ: 245×337 ㎜
制作年: 1993
制作年: 1995頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第70回春陽会入選、沖展出
備 考:
品
− 34 −
下地明増作品
61
66
あかがわら屋根の
ブーゲンビレア
サ イ ズ: 240×335 ㎜
サ イ ズ: 160×228 ㎜
制作年: 1995頃
制作年: 1996頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
62
67
石灰焼き場
不明
サ イ ズ: 333×242 ㎜
サ イ ズ: 333×242 ㎜
制作年: 1995頃
制作年: 1996頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
63
68
不明
不明
サ イ ズ: 380×455 ㎜
サ イ ズ: 333×242 ㎜
制作年: 1995頃
制作年: 1996頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
64
69
サバニのある風景
石段
サ イ ズ: 158×227 ㎜
サ イ ズ: 333×242 ㎜
制作年: 1995~1996
制作年: 1996頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 新二季展出品
備 考:
65
70
サバニのある風景
ブーゲンビレア
サ イ ズ: 158×227 ㎜
サ イ ズ: 160×230 ㎜
制作年: 1995~1996
制作年: 1996頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 新二季展出品
備 考:
− 35 −
下地明増作品
71
76
さとうきびの束
修理船エスキ-ス
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 242×337 ㎜
制作年: 1996
制作年: 2002
素材等: キャンバス、油彩
素材等: 紙、クレヨン
所蔵者: 沖縄県立博物館・美術
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第48回沖展出品
備 考:
72
77
不明
修理船
サ イ ズ: 333×242 ㎜
サ イ ズ: 333×242 ㎜
制作年: 1999頃
制作年: 2002
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
73
78
不明
修理船
サ イ ズ: 333×242 ㎜
サ イ ズ: 380×455 ㎜
制作年: 1999頃
制作年: 2002
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考: 第28回新二季展出品
74
79
漁船とサバニ
東平安名岬眺望
サ イ ズ: 455×530 ㎜
サ イ ズ: 380×455 ㎜
制作年: 2001
制作年: 2002
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考: 第27回新二季展出品
75
80
城址
きびの束
サ イ ズ: 380×455 ㎜
サ イ ズ: 910×1,167 ㎜
制作年: 2001~2003
制作年: 2002
素材等: キャンバスボード、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人所蔵
備 考:
備 考:
− 36 −
下地明増作品
81
86
さとうきびの束
きび収穫
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 910×1,167 ㎜
制作年: 2002
制作年: 2007頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第79回春陽会入選、沖展出
備 考:
品
82
87
さとうきびの山
さとうきびの束
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 455×530 ㎜
制作年: 2003
制作年: 2007
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第80回春陽会入選、沖展出
備 考:
品
83
88
不明
さとうきびの束
サ イ ズ: 380×455 ㎜
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
制作年: 2005頃
制作年: 2007
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人所蔵
備 考:
備 考: 第84回春陽会入選、第60回
84
沖展出品
89
でいごのある杜
きび収穫
サ イ ズ: 380×455 ㎜
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
制作年: 2005頃
制作年: 2007
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考: 第83回春陽会入選、第59回
85
沖展出品
90
きびの束
岩と波
サ イ ズ: 913×1,170 ㎜
サ イ ズ: 158×227 ㎜
制作年: 2005頃
制作年: 2009頃
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第82回春陽会出品作と同構
備 考:
図
− 37 −
下地明増作品
91
96
さとうきびの束
不明
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 333×242 ㎜
制作年: 2009
制作年: 不明
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第86回春陽展出品
備 考:
92
97
不明
不明
サ イ ズ: 240×338 ㎜
サ イ ズ: 158×227 ㎜
制作年: 不明
制作年: 不明
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
93
98
不明
不明
サ イ ズ: 333×242 ㎜
サ イ ズ: 333×242 ㎜
制作年: 不明
制作年: 不明
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
94
99
不明
でいご E
サ イ ズ: 333×242 ㎜
サ イ ズ: 158×227 ㎜
制作年: 不明
制作年: 不明
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
95
100
不明
不明
サ イ ズ: 333×242 ㎜
サ イ ズ: 333×242 ㎜
制作年: 不明
制作年: 不明
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考: 文部省海外派遣でインド、フ
ランス、スペイン、イギリス、
アメリカを視察した際のス
ケッチを基に制作
− 38 −
本村恵清作品
1
6
町の裏通り
よう樹
サ イ ズ: 405×315 ㎜
サ イ ズ: 910×1,168 ㎜
制作年: 1946
制作年: 1963
素材等: 板、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第15回沖縄平和美術展出
備 考:
品、第1回二季回出品
(1956)
2
7
復興を始める商店
第11回光陽展入選・会友推挙、
現代日本代表作家カナダ展出
品、1987(昭和62)年日本美術出
版発行「藝術公論」掲載、平良市
総合博物館企画展「現代宮古の
作家たちⅣ」出品
怒り出した魔よけ
サ イ ズ: 1,000×785 ㎜
サ イ ズ: 910×1,170 ㎜
制作年: 1948
制作年: 1965
素材等: 板戸、油彩
所蔵者: 個人蔵
素材等: キャンバス、油彩、クレヨ
所蔵者: ン
個人蔵
備 考: 第43回光陽展出品
備 考: 第13回光陽展出品、第14回
3
沖縄平和美術展出品
8
ポー崎
魔よけ大いに怒る
サ イ ズ: 825×1,045 ㎜
サ イ ズ: 1,180×910 ㎜
制作年: 1948
制作年: 1967
素材等: 板戸、油彩
所蔵者: 個人蔵
素材等: キャンバス、油彩、クレヨ
ン
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第43回光陽展出品
備 考: 第15回光陽展出品(光陽会
4
賞受賞)会員推挙/1987
(昭和62)年日本美術出版
発行「藝術公論」掲載
9
福木のある風景
おびえる
サ イ ズ: 500×650 ㎜
サ イ ズ: 1,170×805 ㎜
制作年: 1957
制作年: 1968
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第2回二季展出品
備 考: 第16回光陽会出品、沖縄平
5
和美術展出品
10
拝所
魔よけいきりたつ
サ イ ズ: 730×910 ㎜
サ イ ズ: 1,310×900 ㎜
制作年: 1963
制作年: 1969
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人所蔵
備 考: 第11回光陽展入選・会友推
備 考: 第17回光陽会出品作品
挙、現代日本作家タヒチ展
出品、第10回沖縄平和美
術展出品、1987(昭和62)年
日本美術出版発行「藝術公
論」掲載
− 39 −
本村恵清作品
11
16
裸のガジュマル
戦場の顔
サ イ ズ: 975×1,300 ㎜
サ イ ズ: 1,615×1,300 ㎜
制作年: 1970
制作年: 1982
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第18回光陽展出品
備 考: 第30回光陽展出品、1982
12
(昭和57)年6月5日サンケイ
新聞「紙上ギャラリー」掲載
17
榕樹
戦場の群れ
サ イ ズ: 727×1,167 ㎜
サ イ ズ: 1,620×1,303 ㎜
制作年: 1970頃
制作年: 1984
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 平良市総合博物館企画展
備 考: 第32回光陽展出品、前田恵
「現代宮古の作家たちⅤ」出
品(1996年)
13
子筆「いのちのうた」に掲載
/1987(昭和62)年日本美
術出版発行「藝術公論」掲
載、平良市総合博物館企画
展「現代宮古の作家たちⅡ」
出品
18
沖縄のある表情
あるまわし者
サ イ ズ: 不明
サ イ ズ: 1,000×725 ㎜
制作年: 1972
制作年: 1984
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 不明
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第20回光陽展出品、写真の
備 考: 現代日本作家スペイン展出
み確認
14
品、1987(昭和62)年日本美
術出版発行「藝術公論」掲
載、平良市総合博物館企画
展「現代宮古の作家たちⅡ」
出品
19
古い石達による壁
戦火がやってきた
サ イ ズ: 1,005×810 ㎜
サ イ ズ: 1,620×1,303 ㎜
制作年: 1977
制作年: 1985
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第25回光陽展出品
備 考:
15
20
赤瓦
第33回光陽展出品、第11回沖
縄平和美術展出品、1985(昭和
60)年5月23日サンケイ新聞「紙
上ギャラリー」掲載、1987(昭和
62)年日本美術出版発行「藝術
公論」掲載、平良市総合博物館
企画展「現代宮古の作家たちⅠ」
出品
怒号
サ イ ズ: 970×1,300 ㎜
サ イ ズ: 1,305×801 ㎜
制作年: 1981
制作年: 1986
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第29回光陽展出品、第8回
備 考: 第34回光陽展出品、1987
沖縄平和美術展出品
(昭和62)年日本美術出版
発行「藝術公論」掲載、平良
市総合博物館企画展「現代
宮古の作家たちⅢ」出品
− 40 −
本村恵清作品
21
26
戦場の昇天
怒号(2)
サ イ ズ: 1,940×1,303 ㎜
サ イ ズ: 1,005×655 ㎜
制作年: 1987
制作年: 2001
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
素材等: キャンバス、油彩、クレヨ
ン
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第35回光陽展出品、平良市
備 考: 第49回光陽展出品
総合博物館企画展「現代宮
古の作家たちⅢ」出品
22
27
戦場の亡魂達
大口まよけ
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 910×1,170 ㎜
制作年: 1990
制作年: 2002
素材等: キャンバス、油彩
素材等: キャンバス、油彩
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考: 第38回光陽展出品
備 考: 第50回光陽展出品
23
28
ある忍者
不明
サ イ ズ: 1,005×730 ㎜
サ イ ズ: 不明
制作年: 1994
制作年: 不明
素材等: キャンバス、油彩
素材等: 不明
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 不明
備 考: 第42回光陽展出品、第13
備 考: 写真のみ確認(所在不明)
回沖縄平和美術展出品
24
29
哀れなドラムかん
石垣
サ イ ズ: 1,000×727 ㎜
サ イ ズ: 730×910 ㎜
制作年: 1998
制作年: 不明
素材等: キャンバス、油彩、クレヨ
ン
所蔵者: 個人蔵
素材等: キャンバス、油彩
備 考: 第46回光陽展出品
備 考: 光陽展出品(回は不明)
25
所蔵者: 個人蔵
30
戦場の喚
不明
サ イ ズ: 1,303×1,620 ㎜
サ イ ズ: 803×1,000 ㎜
制作年: 2000
制作年: 不明
素材等: キャンバス、油彩
素材等: 不明
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 不明
備 考: 第48回光陽展出品
備 考: 光陽展出品(回は不明)、写
真のみ確認
− 41 −
本村恵清作品
31
36
不明
エスキース
サ イ ズ: 不明
サ イ ズ: 198×239 ㎜
制作年: 不明
制作年: 2000頃
素材等: 不明
素材等: 紙、鉛筆
所蔵者: 不明
所蔵者: 個人所蔵
備 考: 写真のみ確認(所在不明)
備 考:
32
37
エスキース
エスキース
サ イ ズ: 239×178 ㎜
サ イ ズ: 264×305 ㎜
制作年: 1967頃
制作年: 不明
素材等: 紙、鉛筆
所蔵者: 個人蔵
素材等: 紙、水彩絵の具、クレヨ
所蔵者: ン
個人蔵
備 考:
備 考:
33
38
エスキース
エスキース
サ イ ズ: 151×114 ㎜
サ イ ズ: 105×128 ㎜
制作年: 1984頃
制作年: 不明
素材等: 紙、鉛筆
素材等: 紙、クレヨン
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人所蔵
備 考:
備 考:
34
39
エスキース
エスキース
サ イ ズ: 200×242 ㎜
サ イ ズ: 130×146 ㎜
制作年: 1984~1987頃
制作年: 不明
素材等: 紙、鉛筆
所蔵者: 個人蔵
素材等: 紙、鉛筆、ペン、蛍光ペ
ン
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
35
40
エスキース
エスキース
サ イ ズ: 14.1×18.5 ㎜
サ イ ズ: 182×124 ㎜
制作年: 1985頃
制作年: 不明
素材等: 紙、水彩絵の具、クレヨン、
コンテ
素材等: 紙、鉛筆
所蔵者: 個人蔵
所蔵者: 個人蔵
備 考:
備 考:
− 42 −
本村恵清作品
41
エスキース
サ イ ズ: 180×127 ㎜
制作年: 不明
素材等: 紙、鉛筆
所蔵者: 個人蔵
備 考:
42
エスキース
サ イ ズ: 204×135 ㎜
制作年: 不明
素材等: 紙、ペン、マジック
所蔵者: 個人蔵
備 考:
43
エスキース
サ イ ズ: 181×129 ㎜
制作年: 不明
素材等: 紙、ボールペン
所蔵者: 個人蔵
備 考:
44
エスキース
サ イ ズ: 102×129 ㎜
制作年: 不明
素材等: 紙、ペン、コンテ
所蔵者: 個人蔵
備 考:
45
エスキース
サ イ ズ: 115×126 ㎜
制作年: 不明
素材等: 紙、鉛筆
所蔵者: 個人蔵
備 考:
− 43 −
交差する表現 — アジア・沖縄の女性アーティスト
復帰 40 年記念展<アジアをつなぐ-境界を生きる女たち 1984−2012 >を通して
と
み やま
めぐみ
豊見山 愛
1.アジア・沖縄 —ふたつのビジョンを通して
1879 年には内国化され沖縄県となった。その経緯は、
福岡アジア美術館、栃木県立美術館、三重県立美術
1894 年から 95 年の日清戦争後に台湾が、日露戦争
館と合同で企画した展覧会「アジアをつなぐ-境界を
を経て 1910 年に朝鮮半島が、日本列島の周辺地域と
生きる女たち
1 は、沖縄を拠点にする
1984−2012」
3
名のアーティストを含む、沖縄とゆかりの深いアジア
して統治されたことと同じであり、沖縄が台湾や朝鮮
半島と、一部の歴史を共有している。
以上のように、アジア諸国・地域と日本との交点に
諸国及び地域の女性アーティストが名を連ねている。
「アジア圏に共生する女性」という単純な括りだけで
立脚し、現在も日米安保条約の下において沖縄は、ア
はなく、そこに沖縄固有の文化と歴史背景を交差させ
メリカと日本との境界に立たされている。国々が交差
る展覧会となった。国際社会の関心がアジアへ向くよ
するこの地で、本土復帰四十年を分節とする年の記念
うになった近年、マイノリティという不可避的な立場
事業として、本県独自の企画展「沖縄の女性アーティ
からの脱却に焦点をあてたことで、沖縄から世界へ活
スト― Art is My Life」を含めて構成する本展は、
躍の場を広げるアーティストの創出にもつなげられれ
戦後沖縄の復興過程に生きる、女性アーティストが制
ばと思う。「アジア」の「女性」というテーマは、女
作活動に専念できる環境―平和で、安定した社会が、
性学のみならず、沖縄学、アジア学、思想史及び移民
本土復帰(1972)以降の女性アーティストが活躍目
史などに、創造的、かつ、ポジティブな研究の場をも
覚しく、沖縄女流美術家協会(1977−)の歴史も含め
たらし、今後あらたな研究活動のリレーションが期待
て女性アーティストの仕事を、県内で初めて通観する
されるものだった。その広がりを得たことは、沖縄県
ことを試みた。そのメンバーや、沖縄を活動の拠点、
立博物館 ・ 美術館での開館五周年という節目にふさわ
あるいはルーツとして制作を続けている、九十代から
しいものであった。
三十代までの女性アーティスト十三名の美術作品をあ
例えばジェーン・ジン・カイスンの《女と孤児と虎》
わせて、アジアの美術表現として共通あるいは差異を
(2010)は、韓国に駐留する米軍基地と地元の女性た
探ろうとするものだった。沖縄からアジアへ、あるい
ち、その間に生まれた子どもの国際養子たちがディア
はアジアから沖縄へと寄せては返す波のように、故郷
スポラとして生きなければならない運命と、その心の
や家族から隔てられた境界を消し去れるだろうか。そ
ありかをテーマにした映像作品である。沖縄在住の写
のような希望を持ちながら、まるで合わせ鏡のように、
真家、石川真生の《フィリピン人ダンサー》シリーズ
沖縄が置かれている姿が浮かび上がるような充実した
も同様に、沖縄県金武町の米軍基地周辺にあるバー街
内容となった。次章から沖縄戦後復興期から日本本土
で働く、フィリピンから出稼ぎに来ている女性(ダン
復帰前後、そして沖縄県立芸術大学出身の世代にわた
サー)たちを被写体に撮った写真である。1980 年代
る、女性アーティストたちと、本展覧会での沖縄独自
終盤の米軍バー街を通して、外貨に頼らざるをえない
の試みについて紹介し、今後の課題について述べたい。
いしかわ ま
お
本国に居る彼女たちの家族を知ると同時に、アジア諸
国とアメリカの境界に立つ彼女たちの逞しさに、生き
ることの意味を知らしめた。思えば沖縄も 1900 年代
2.沖縄の女性アーティスト ― Art is My Life
沖縄の女性アーティスト展は計 34 点の絵画作品と、
の初めごろ、
大正から昭和にかけて貧窮した沖縄では、
13 名の出品アーティストで構成をしており、博物館
移民政策としてハワイやペルーに多くの沖縄県人が送
特別展示室の 3 分の 2 を借用して「アジアをつなぐ
り出されたこともあり、マイノリティとして耐え凌い
-境界を生きる女たち 1984−2012」のオープンから
できた直近の過去を認識させられる。また、歴史をさ
一週間後の 12 月 4 日から開催した。出品作家や作品
かのぼると、15 世紀から 16 世紀まで中国との冊封
の選定については、2010 年 10 月 9 日のシンポジウ
関係のもと独立した国家を築いていた琉球は、1609
ム「沖縄から女性美術を考える」Vol. 1 にさかのぼ
年に薩摩藩による侵攻を受けて日本の従属国となり、
る。沖縄戦後美術史のなかで、これまで積極的に紹介
− 45 −
されていない女性アーティストの世界をあらたな沖縄
が住んでいて、綺麗な沖縄衣裳の人物画を描いていた。
美術の切り口とするために、聞き取りをベースに構成
「タンメータイ、絵ーグワーイシミソーリ(お爺さん、
を練った。ほぼ未着手であったこれらの調査を始めた
絵を見せてください)」と、よくせがんだ。
ところ、従来の美術史研究で対象となる、絵画や彫刻
久場は、那覇尋常小学校で、多くの沖縄の画家を輩
などを中心にみたところでは、記録を追う過程で対象
出した美術教師、島田寛平(1898−1967)から、しっ
となる人物が圧倒的に少ないと感じた。沖縄は、あま
かり 6 年間教えていただいた。イベント用の絵であっ
りに戦争の傷跡生々しく、生活に追われて美術制作ど
た時もあるが、普段は本当に本格的な、たとえば「自
ころではなかったため、公募展歴などの基礎資料から
分の手首を描きなさい」、「お急須を描きなさい」とか
女性たちの思いがどこにあるのか、推し量ることが困
「バケツを描きなさい」などと、デッサンを小学校で
難だと感じた。その反面、特に沖縄の戦後美術史のな
しま だ かんぺい
ありながら、教わった。
かで、絵画、彫刻に比して圧倒的に多い、工芸にかか
その後、沖縄県立第二高等女学校へ二人とも進学し、
わる女性たちの表現を、どのように見ていけばよいの
東京美術学校を卒業したばかりの、名渡山愛順に絵の
か、あるいは、美術と工芸という、日本の近現代美術
手ほどきを受ける。わずか 13 歳の久場には、
「君は、
での分断を、沖縄の女性美術研究のなかでは美術工芸
夏休みから油絵を描け」といわれて、夢中で絵を描い
として接合することができるのではないか、という希
て、評価をもらっていた。津嘉山(沖縄の地名)の下
望が、このシンポジウムを通して見えてきた。
の方で、竜舌蘭を描いた 20 号の絵が光風会に入選し
な
と やま あい じゅん
2009 年 に 筆 者 が 担 当 し た 名 渡 山 愛 順(1906−
つ
か ざん
た。
1970)の展覧会 で、図録掲載を目的に、3 名の教
(久場)「生徒自体が先生の作品といえるほど、育て
え子の方々に、
恩師について語っていただいたなかで、
ていただきましたよ。それで、先生は郷土の文物をと
戦前の美術教育について興味を持った。そこで、あら
ても愛していらして、われわれも夏休みになると紅型
ためて、久場とよ、山元文子の両氏に、戦前から戦後
の布を集めさせられたり、絣(琉球)の収集をさせら
にいたる話を伺おうと思ったことが、シンポジウム開
れたりしました。ですから、充分に、女流の美術家が
催のきっかけである。その内容については、当館発行
出てくる筋を作ってくださったと思っています。」
3
紀要 No. 2「主体と客体との狭間で-沖縄女性美術研
究(1)-」でも一部紹介し、『Art is My Life -沖
2 - 2.戦後の女性たちによる表現
縄の女性アーティスト』
(2012 年、沖縄県立博物館・
約 4 人に 1 人が地上戦で亡くなった過酷な戦争
美術館発行)で、群島舎の岡本由希子により編集、掲
の傷跡のままに、沖縄県内で終戦を迎えた山元は、
載したが、戦後草創期から自覚的に油絵を描き、発表
1946 年 4 月に設立された行政機構の沖縄民政府で、
を続けていた、
1921 年(大正 11 年)生まれの女性画家、
文化部に勤めていた。そこに、画家の山元恵一が、戦
久場とよ、山元文子両氏の対談(聞き手:崎山律子フ
争で妻を亡くし、当時、四歳になる子供を連れて、配
リーアナウンサー)を改めて引用したい。本文では、
給を貰いに通っていた。自分は生き延びたから、そう
戦後美術の復興過程で、女性アーティストがどのよう
いう不幸な方を救わなければ、という思いで結婚した
にかかわっていたのかに焦点をあてた。
という。沖縄戦後美術の礎となったニシムイ美術村が
く
ば
やまもとふみ こ
またニシムイ美術村にかかる人名については、名渡
1948 年に形成されたことについて、久場が、名渡山
山愛順氏の長男であり、当時の事実関係の証人でもあ
の当時の動向に詳しい。アメリカ軍から資材を貰った
る画家の名渡山愛擴氏から、2009 年に聞き取りをし
とお書きになった方がいましたが、あれは違います。
た際にお聞きした、明らかに特定される人物名のみ、
沖縄民政府工務部長の松岡政保さんが資材を調達して
筆者によって補足した。
くださって、運んでくださったのは宮城(沖縄民政府
な
ど やま あい こう
まつおかせい ほ
陸運部長 宮城善吉 : 筆者補足)さんで、あれは本当
に寄せ集めの材料です。それでアトリエを作られて、
2 - 1.戦前の美術教育について
ふみ
戦前のとても貧しい時代に、絵を描くことは苦難の
その時にご一緒にいらした先生方は、これは文ちゃん
道のりであった。そのような社会状況下で久場と山元
(山元文子)が良く知っていますけれど、山元恵一先
は、環境的に大変恵まれて、少女時代を過ごした。山
生に安谷屋正義先生、具志堅以徳さん、玉那覇正吉さ
元は、那覇尋常高等小学校に通学していた頃から描い
ん、6 名ぐらいの先生方がずらっと。他の先生方はコ
ていた。好きで、早く、早くと描き、いつも褒められ
ンセットをお貰いになって、名渡山先生はそれじゃな
ていた。小学一、二年生の時に、画家の親 泊 英 繁
くて、本格的な瓦屋です。あっちこっちから、地縁血
おや どまり えい はん
ひ
が
2
か ざん
が教えてくれた。山元の屋敷近くに日本画の比嘉崋山
あ だに や まさ
ぐ
し けん い とく
たま な
は せいきち
縁でみなさんが集めてきて。ちゃんと、運んだ方も集
− 46 −
めた方も現存している方もそうでない方もありますけ
える Vol. 2 -なぜ、女性たちは織に向かったのか」
れど、よく知っています。」
では、伝統織物への就業が戦争未亡人や復興期の女性
ここで久場が語ったニシムイ美術村については、米
にとって、物心両面を支えていたことに着目し、戦後
軍政府によって任命された文化部技官の画家たちが那
沖縄の女性たちがおかれた状況から表現の足跡をたど
覇市首里儀保町に形成したアート・コロニーで、米軍
り、ひろくアジア諸国及び地域へと、芸術表現のあり
からアトリエや画材などの提供を受けて、創作活動を
ようを押し広げる機会とした。山元のように、絵の代
続けたという説がある。しかし当時、父・愛順と行動
わりとして織物や工芸制作の道を選んだ、という話が
を共にしていた長男の愛擴氏は一部否定し、地図を
他に無いか、1972 年の日本本土復帰まで、聞き取り
描いて遺した。
(pp. 147『名渡山が愛した沖縄―名
を現在まで継続して行なっている。沖縄戦後史のなか
渡山愛順』2009 年、沖縄県立博物館・美術館発行)。
で通観すると、1945 年以降、多くの戦争未亡人を救
ニシムイ美術村の土地を提供したのは首里市長の兼島
済する目的で、聖公会をはじめとする教会や婦人会が
由明であり、米軍としてニシムイ美術村の設置にかか
織の技術を教えていた。男性アーティストはと違い、
わる積極的な助力が、いかほどであったかは明らかで
生活を支える女性たちの復興はまだ遠く、女性の就業
ない。ニシムイに居を構えた、戦後沖縄における男性
支援に織物をすすめたアメリカ人もいた。1960 年代
アーティストは戦前同様に、公募展への出品を重ねた。
にキリスト教聖公会の神父、ウイリアム・ハイオ が
1946 年、日展が第 1、2 回展を開催した折に、名渡
沖縄の戦争未亡人の生活の糧になるようにとアメリカ
山愛順が沖縄の女性画を連続出品したのに続き、他の
から取り寄せた英文の織物の本 3 冊をもとに、田 本
かねしま
よしあき
画家も春陽会、光風会など、次々と日本の中央画壇へ
た もと
しげ こ
成子らへ教授した。南風原町に伝承する絣柄を組みい
は
え ばる おり
と発表を続けようと努力を重ねるのであるが、日本本
れた「ハイオ南風原織」が、今でも伝承されている。
土復帰支持と不支持とが、沖縄県民の意識を二分する
戦後、沖縄県の文化財指定は日本本土復帰以降になる
ほどに、当時の沖縄でのアメリカニゼーションが音楽
が、本土復帰を契機として王府のあった首里の織物を
など色濃く反映しているにもかかわらず、美術の領域
「首里の織物」として分類していて、その内容としては、
では、アメリカのモダニズム、ポストモダニズムの影
首里花織、道屯織(両緞織)、花倉織、諸取切、手縞、
響が顕著に表れなかったのだろうかが、大変興味深い
煮綛芭蕉布、花織手巾の 7 種類としている。さらに
ところである。
現在は浮織も織られていて、織や手縞は、首里に限ら
ず他地域でも普通に織られている。また道屯織(両緞
(聞き手)
「その瓦屋に久場先生は通われたのです
か。
」
織)と花倉織は、首里だけに伝来したが、現在では南
風原など他地域でも織られている。
(久場)
「はい、通いました。その時は文ちゃんは織
物していました。」
伝統的な織物復興に重ねて、生活を支えなくてはな
らない女性が、機織の仕事の先に、創造する喜びを見
(山元)… (照れ笑い)
出していたとしたら、その紋様に込められた意味と、
(久場)
「綺麗な花織でした。」
その反復するイメージを美術表象のひとつとして評価
(山元)
「読谷山ですね。私が先だったのよ、読谷山
することは可能ではないだろうか。また女性たちの表
ゆんたん ざ
現としてだけではなく、アジア文化圏の共通する美意
はあと。
」
識と想定し、さらに研究を深めて生きたいと思う。西
(聞き手)
「どこで先生は読谷山花織を…?」
うえざと
(山元)
「あのね、
上里オトという方が教えてくれた。
洋美術における構図と日本の非対称的な造形の魅力と
大きなお家があったの。そこで織機を買って。高
も違って、アジア美術の造形的特徴は、漆器の加飾や
機。何故かというとね、私は絵を描きたいのだけど、
陶器の絵付技法のように、工芸にみられるアシンメト
主人がいるでしょう?機織りは絵に近いから。」
リーな構図が、独特の躍動感を与えるものではあった。
たか
はた
(聞き手)「やはりあれですか。一つ屋根の下に 2
身近な自然などのモティーフを観察し、美を抽出し、
人の画家がいるというのは、大変なことですか?」
表現として様式化するだけにとどまらず、造形的特徴
(山元)
「そうそう。私は描くことを止めたわけじゃ
を活かしながら単純化していくプロセスを、無名の作
ない。隣にマチヤグワー(商店)があったのですが、
り手によりデフォルメされた紋様が、ある規則性のな
そこの二階にキャンパスや油絵の具を持って行って
かに反復するイメージとなって眼前にあらわれた時、
夜遅く描いて…見せないようにして。」
想像した成果として、作り手に何らかの喜びを与えた
はずである。
2011 年に開催したシンポジウム「女性美術から考
− 47 −
沖縄の模様については、幾何学的に組み合わされた
トゥイグヮー(鳥)、バンジョー(番匠金)などの生
知り、東京にいては沖縄の現実がわからないと感じた。
活にそった絣図柄が、知られている。沖縄の女性と織
米軍基地の近くでは、写真を撮ってもいけない、スケッ
については縁が深く、家政以外では、琉球王府時代の
チもいけないといわれ、スケッチブックを小さく切っ
宮古、
八重島、
久米島の女性たちが「御絵図(みえず)」
て、後ろ手に構えて知らんぷりして描いていた。それ
といわれる、王府の絵師が描いた手本どおりに、貢納
が、沖縄を描き始めた原点となる。その前から沖縄の
布を織ることを強いられていた。このことから、南方
絵を描いていたが、実際に来て描いた絵とは全然違う。
伝来(インド、フィリピン)について、社会構成の織
そういう意味で、沖縄は宮良にとって、絵を描く本当
と紋様についてのシンポジウムを行い検証した。沖
の力を与えてくれた場所であるという。那覇の市場の
縄を経由して日本本土へ伝播したといわれることと、
女性たちを描いた作品は、1971 年、復帰の前に東京
ヨーロッパなどでは発達をみなかったことは、沖縄独
で発表した(plate. 3)。頭に物を載せている女性の
自の美的感覚に迫るための視点として、引き続き考察
フォルムはすごく魅力的で、ボリュームがあって、描
を深めたい。他にも、所有を示す道具紋、屋判(ヤー
かずにおられないと「アンマー(母)・シリーズ」が
バン)が八重山地方にあるが、非常に簡素で、士族に
始まった。その後、アンマーたちから戦争の悲劇を聞
与えられたという説である。
く。71 年からは沖縄に住み、戦跡巡りや平和学習な
「アジアをつなぐ」展にみられる、韓国のアーティ
どの機会を捕まえて、多くの戦跡を巡る。髑髏を触っ
スト、
イー ・ スギョン(plate. 1)と、沖縄女性アーティ
たことや、豪の中での日常生活の様子、歯ブラシや飯
スト展で紹介した仲座包子(plate. 2)に、まるで織
盒の蓋などを拾い集めた体験が、描かずにはおれない、
物の紋様のような単一模様の連続性がみられた。確証
描かねばならないと自分に言い聞かせていた。
しょ うど
アンマー・シリーズの後は、焦土シリーズを描く。
を得るまでには至っていないが、アジア美術のなかで
沖縄の美術工芸を検証することの方が、日本美術のな
「海病む」(1973)は復帰後、沖縄の自然が侵されて
かで比較をすることよりも、性が開先てくるのではな
いく中で生まれた、小さな作品である。
「無辜の民」
(80
いだろうか。そのような観点から、表象概念に固有の
年代)は、焦土シリーズの延長にあり、湾岸戦争の時
輪郭が見られるのではないかと考え、る。本展覧会の
の砂漠の民の悲劇をテーマとした。(中略)辺野古の
美術作品を概観しその表象概念に触れて、アジア美術
V 字滑走路案が新聞で報道されてからは、三枚連作の
のなかで再考し、理論的再編の動勢を試みることは、
大きな作品の右側に、荒れた海を描く予定だったが、
それまでの表象概念のなかで、あるいは美術研究の過
V 字案について「よし、これは芸術であろうとなか
程のなかで、工芸についても注視すべきであるという
ろうと、人が何と言おうとこの V 字を描かなくちゃ」
気づきを得たことであった。
と思った。その後からは鉄条網を次第に作品に取り上
次に、
久場、
山元に続く戦後第二世代の女性アーティ
スト 2 名について、2010 年のシンポジウムで行った
げて、近年(ここ 5、6 年)はフェンスを入れた作品
を描いている。
対談を紹介する。1972 年の本土復帰以降、1976 年
中島イソ子(1940−)は 48 歳の時、エプロン・シ
に発足した沖縄女性美術家協会を事実上立ち上げ、ま
リーズと呼んでいる「凝視」(1988)(plate. 4)を描
たけん引していった、二人の画家についてである。
いた。生活の中の「私」をテーマに描いていたもので
あり、この頃、画中に必ずエプロンを描いているので、
3.沖縄女性美術のリアリズム
「もうそろそろ、エプロンははずしたら?」と人に言
みや ら えい こ
宮良瑛子(1935−)は 1971 年に東京から沖縄へ渡っ
た。終戦からまだ 10 年も経たない頃、九州の福岡か
われたこともあった。生活ありのままに「私」を描く
ことで、時代が醸し出せるのでは、と考えている。
ら東京の武蔵野美術学校へ進学したが、親の仕送りな
自画像を描くのは、「私はここに生きているゾ」と
しで苦学生活をしていた沖縄県与那国島出身の宮良作
いう記録のようなもので、沖縄に生まれ育ってここま
と出会い、結婚した。まだ本土では沖縄の問題がそれ
で来た「私」を証したい。他の方は風景を描いたり、
ほど知られていなかったが原水爆禁止運動や沖縄返還
沖縄的なモチーフを描くけれど、「私」がここで生ま
運動で知り合った、沖縄出身者の住む南灯寮の学生た
れ育ち生きてきたというのは、「私」を描くことでし
ちと知り合った。1969 年に息子二人、三年生と三歳
か表現できないと思っている。間を描けば、社会性が
の子を連れて沖縄へ渡った。子供二人を八重山の姑に
滲んでくる。絵を描くことは小学校の時から好きであ
預けて、那覇で十日間ほど、那覇の市場や壺屋、糸満、
る。「顔」(1993)は、50 代の時に更年期になって、
中部の基地などを、義弟たちの手を借りながら取材し
画廊の企画展があと一ヶ月と迫っているなか絵が描け
て歩いた。当時、沖縄が置かれている耐え難い状況を
なくて困っていた中島を、画廊のオーナーが日帰りで
みや ら さく
なんとうりょう
− 48 −
大神島に連れて行ってくれた、その時の私である。大
沖縄を多覚的に捉える、宮良、中島のようなアーティ
神島のおばあさんと私を描いた絵もあるが、その時に
ストと沖縄女流美術家協会の活動は、必ずしも世代間
顔を全部描いてしまえと思ったら、それで悩みが昇華
の交流が活発ではない沖縄では、若年層へ知られてい
されて、この個展をしたことで、更年期を乗り越える
ない。この展覧会をきっかけにアーティスト間の交流
ことができた。
をはかり、その歴史を知ることは、今後の展望を考え
今から三十数年前、初めて女流の仲間と三人展を琉
る上で必要なことと思われる。また、1945 年以降か
米文化会館を開催したところで、新聞記事の「武蔵美
ら現在にいたるまでで、1972 年の本土復帰以降、安
出身の…」という記述に、宮良瑛子が「あ、後輩が
定した制作活動がなされていることがわかる。戦後の
いるわ」ということで、会いに来た。その際に中島
動乱から社会が落ち着きを取り戻して、女性がキャン
の絵を見て、
「10 年もすれば、面白くなるわ」といわ
バスへ向かえる環境になったことが大きく、大変意義
れ、中島は「10 年も?そんなに待てないわ」と思っ
深いことと思われる。
た。睡眠を今までより一時間少なくして、一年で 365
次に、このような背景をふまえつつ、「アジアをつ
時間、費やそうと考えた。さらに、仕事を持ちながら
なぐ-境界を生きる女たち 1984−2012」で紹介され
絵を描く男性画家たちは、
「お父さんは絵を描いてい
たアーティストの作品と沖縄とのかかわりを、紹介し
るから邪魔しないで」と、家のことをしなくても許さ
たい。
れるのに対し、女性は、そんな言い訳は許されない。
家事のなかで絵を描くのは当たり前だから、「じゃあ、
男性には描けない絵を」と、頑張った。そうすると、
男性たちは絵を見て、「
(自画像が)睨んでいるから、
4.アジアと沖縄の境界を越えて
―山城知佳子、アルマ ・ キント、阪田清子
第二次世界大戦による犠牲者は、1944 年 2 月の沖
もう僕たちは見られないよ。
」と言われた。他にもい
縄県の人口が 491,912 人で、県出身軍人・軍属戦没
ろいろと言われたが、描きたいものを描きたくて、
「好
者 28,228 人、一般住民戦没者 94,490 人、沖縄県人
きなことをさせてよ」と、いつでも祈る気持ちでいる。
の総戦没者 122,718 人と、戦没者の割合が約 25%、
時代を遡ると、1950 年代当時の沖縄には言論の自由
約 4 名 に 1 人 が 亡 く な っ た こ と に な る( 沖 縄 県 の
が無く、
反米的な思想を持っていたら「あなたパスポー
統計による)。このような歴史のうねりに巻き込ま
トもおりないよ」とか、
「壁に耳ありよ」と言われた
れ、抗うこともできない人々にたいして、山城知佳子
時代だった。絵だったら、
(駐留米人にも)何を描い
(1976−)は、いつも寄り添うように、しかし冷静な
ているのかわからないだろうから、思いは絵で表現し
やましろ ち
か
こ
まなざしで作品と対峙している。
ようと考えた(後略)。
《あなたの声は私の喉を通った》では、アーティス
宮良、中島それぞれ、これからの制作について語っ
た。
ト自身の顔に、目の前で家族を失くした老人の声が重
ねられている。老人の肉声は、涙ながらに大事な家族
宮良は、沖縄女流美術協会や沖縄平和美術展(1982
が自決した記憶を語るが、口を動かす山城は、想像で
−)を仕掛けたことで、世間の風当たりが強いと感じ
しかない虚しさを滲ませつつ、次第に涙ぐむところに、
たが、ふと考えると、男性アーティストたちが確かに
この作品を見る、戦争体験のない人々に、山城の思い
先へと進んでいたと思う。
(中略)しかし、この現実
が伝わっていく。《沈む声、紅い息》は、名もなき女
社会を作品化していくことが、痩せても涸れてもアー
性の私的なモノローグによって物語が紡がれている。
ティストの立場にいる、生涯の使命ではないかと私は
女性の声がマイクの束とともに深く海へと沈み、消え
考える。
(中略)沖縄の基地が置かれている厳しい現
てしまいそうな彼女の、そして誰かの、無数の記憶を
実を、精一杯描き続けていきたいし、家族や周りには
連想させる。そして、東京都写真美術館でも発表され
いろいろ大変な思いをさせてはいるが、頑張らせても
た《コロスの唄》
(plate. 5)は、本展のために新たに
らいたい、と語った。
撮影された映像《コロスの唄- Life Field》を作品に
中島も、これからの制作について「絵がなければ生
取り入れて、これまで消えてしまった、無数の魂たち
きていけない。落ち込んでいる時こそ、いつも 5 年
の声の隠喩として泡が海面から浮上するシーンから始
区切りで生きていますが、この四年間でどういう作品
まった。それと同調するように、黒い壁面に展示され
が自分の中にできるのか、探っていきたい、と抱負を
た二十数点の写真には、沖縄にふりそそぐ強い光に垣
述べて、シンポジウムは終わった。
間見える、老女と若い女の姿が映る。それまでシリー
沖縄の若手アーティストによる表現媒体が多様化
ズで展開されていた、戦争の記憶を継承できるかとい
し、ローカリティにこだわらない作風が多いなかで、
う山城自身の制作テーマに、この作品によって結論が
− 49 −
導かれた。それは、記憶を共有することはできないが、
タルガニーを会場にワークショップを行った。この際
傷痕を共に語り合い、思いを繋げることで悲しみを乗
の参加者は一般の親子 20 組ほどであったが、このイ
り越えることはできるかもしれない、という希望にみ
ベントを通して、フィリピンにたいする関心の高まり
ちた答えであった。
と、自分の夢を形にする喜びに溢れていた。
さか た きよ こ
阪田清子(1972−)は、新潟県に生まれ、沖縄県立
フィリピンのアルマ・キント(1961−フィリピン)
は主にフィリピンで、虐待され、負傷し、疎外され、
芸術大学進学を機に移住した。坂田の視点は、他の沖
苦しむ人々にエンパワーメントを与えるためのアート
縄女性アーティストに比して、俯瞰的で本質的な沖縄
活動を行ない、貧困地域や、災害被災地、虐待被害者
の姿を顕在化している。写真と椅子を組み合わせたイ
のシェルターなどに出向いてワークショップを行なっ
ンスタレーション《Story: Reclaimed Land》(東京
ている。フローデット・メイ・ダトゥイン(フィリピ
国立近代美術館にて初出、2008 年)は、眩暈のしそ
ン大学ディリマン校文学部准教授)によれば、1970
うなほど真っ白な埋め立て地が、新しく始まる未来を
年代から 80 年代にかけて、イメルダ・カヒーペ = エ
感じさせる。倒れそうな斜めの椅子は、華奢な脚を
ンダーヤ、ブレンダ・ファハルドなどが、女性アーティ
無数の小さな琉球石灰岩が支えることで、沖縄のお
ストとして表現の自由を獲得し、
「カシブラン(先進
かれた政治的な不安を連想させる。「VOCA2010」展
的な女性のアート)
」というグループが女性アーティ
へ出品した《移動するということ- Ipomoea pes -
ストたちによって結成され、2000 年代半ばには、ア
caprae(L. )Sweet》においても、人間の制度によっ
ルマ・キントがその代表となって、フェミニズムの思
て規制される移動に対して、沖縄県外への持ち出しが
想を議論しあった。社会的な芸術活動を 10 年以上続
規制されているグンバイヒルガオをアクリルボックス
ける源流は、このカシブランに拠るかと思われる。虐
に密閉した作品で検疫通過をさせるという、きわめて
待および性的暴行を受けた子どもや女性たちを対象
ポリティカルな作品を提示した。本展出品作の、ふわ
に、美術館やギャラリーを超えて行なっている《ハウ
りと風に翻った形をとどめている《止まったカーテン》
ス・オブ・コンフォート(慰安の家)》(2006)とい
(Plate. 6)は、カーテンの隔たりから、向こう側が
うアート・プロジェクトは、フィリピンの社会から疎
見えるかも知れない希望と叶えられない現状を表し、
外されたコミュニティとの創造的なワークショップの
日米安保による政治的な国家間の関係性を再解釈し、
ひとつで、展示作品としては参加者が作った作品を、
ゆるやかな日常性に置き換えている。《例えば一つの
アルマ・キントを中心にした制作メンバーが、ひと
部屋》でも、自らの意思で移動することの衝動を、い
つのタペストリーに仕上げる。
《ハウス・オブ・コン
くつもの脚を備えた椅子で表現している。
フォート(慰安の家)》の主旨は、対話や共有の場を
全体の展示については、必ずしも章立てに沿うので
つくることで、被害者が創作を通じて生きる力を取り
はなく、個々の作品が持っている表現の意図を確認で
戻すことを目的としている。不要となった衣服などの
きるような配慮をした。たとえば、映像のスペースを
切れ端で、希望と絆をイメージして参加者は作品を作
暗くし、塩田千春のブラウン管テレビ、山城知佳子、
り、20 〜 30 点の「夢」を表した作品は、それぞれ
出光真子のインスタレーション作品を並列して、アイ
多彩な未来像として、ひとつの長い織物に縫いつけら
レベルの低い空間を作った。このことで観覧者は、体
れ、タペストリーにするのである。このプロセスを通
の重心が次第に落ちていく感覚を持ち、身体が生死の
して、トラウマに向き合うことを支援し、回復力を促
境におかれる恐怖感を想像させる。身体が翻弄され、
す共同作業者との創作を通じて、
「傷から子宮へ(痛
意のままにならない理不尽さを共感することで、境界
みから保護へ)
」転ずる場をつくるのである。過酷な
に立つ人々が、女性や子供だけではないことへのメッ
社会状況の中でこそ、アーティストはババイラン(ま
セージを発した。
じないや薬草で病気・悪運を治す伝統的な医者を意味
とはいえ、戦後まもなくは、沖縄の多くの婦人たち
するフィリピンの言葉)でなくてはならない、とアル
にとって、裕福で教育環境に恵まれた女性以外、生活
マは活動を続けている。沖縄での取り組みとしては、
のために職を求め、米軍相手の水商売、売春に追い込
沖縄 NGO センターと、沖縄キリスト教学院大学内の
まれていく女性たちも少なくなかった。苦難の時代に、
活動団体、ワンラブに協力を仰いだ。ワンラブはフィ
さらに痛ましいことに、米軍人から性的暴行を受け、
リピンの過疎地域に赴きプロジェクトを行っている。
なかには殺害された女性も多く、その声なき声を拾い
沖縄県内在住の、
フィリピンからの国際花嫁の方々が、
上げたパフォーマンスが、イトー・ターリの《ひとつ
沖縄でも伝統的な古村で暮らしているが、本国に帰っ
の応答》(plate. 7)である。社会から軽視されてい
てしまうこともあると聞き、糸満市米須のキャンプ ・
るマイノリティの存在を無いことにはしたくない、と
− 50 −
いう思いが、パフォーマンスのそこここにあらわれて
境界に接しているとも換言できる。アジア諸国のなか
いた。
異民族統治を歴史的に何度も経験した沖縄では、
で沖縄のアーティストが果たす役割は拡大するといっ
翻弄され、周縁化される痛みは潜在的に理解しやすい
て間違いはないだろう。
のかも知れず、誰かに内在するであろう傷と向き合い
作品にするという強さと、美術表現には批判性を持ち
美術表象が交差し、交点に沖縄があることの未来は、
限りない可能性にみちているのではないだろうか。。
込むことができるという気づきにみちた、素晴らしい
作品だった。
そして、
アルマ・キント(Plate. 8)も、インスタレー
ション作品が何かを語るのではなく、創造的なワーク
ショップとしての場として《ハウス・オブ・コンフォー
註釈
1 【会期】2012 年 11 月 27 日−2013 年 1 月 6 日(33 日間)
*巡回先会期 福岡アジア美術館 2012 年 9 月 1 日−10
ト(慰安の家)
》があるのである。対話や共有の場を
月 21 日、栃木県立美術館 2013 年 1 月 26 日−3 月 24 日、
つくり、サヴァイヴァー(さまざまな被害者を、生存
三重県立美術館 2013 年 4 月 13 日−6 月 9 日。沖縄県で
者という意味でアルマは用いる)それぞれが生きる力
は「沖縄 21 世紀ビジョン」を掲げており、またアジア美
を取り戻すことに、イノベーションを置いている。
術を標榜する美術館と基本計画にうたわれ、交流が期待さ
この二人の作品は、2012 年 12 月 15 日の、イトー・
れるとのことで、沖縄県立博物館・美術館では、博物館特
ターリのパフォーマンスの際に、レイプによって無残
別展「Okinawa から沖縄へ」と共に、美術館復帰 40 年
に手折られた女性たちを記したテープが、アルマの作
品近くに貼られ偶然のコラボレーションを見ることが
できた。鎮魂の思いを込めて貼られたテープは、約 1
記念事業と位置づけられた。
おや どまり えい はん
2 親 泊 英 繁(1891−1973)は那覇市松山町(若狭保育園付
近)に住んでいて、近くに後の県知事、松岡政保がいた。
週間そのままに展示された(plate. 5)。
1932 年に図案科教諭を辞めて那覇市久米町へ転居、現在
の上ノ山中学校付近で、朝日石版という石版印刷所を営ん
ひ が か ざん
5.むすびにかえて
でいたそうである。英繁の妻は、
日本画家・比嘉崋山(1868
沖縄女性学が先行的になされているように、歴史や
文化、習俗など、日本の文化との相違点をふまえた研
−1939)の娘であった。
3 『名渡山愛順が愛した沖縄―名渡山愛順』展覧会図録より、
クロストーク「名渡山愛順先生の思い出」(久場とよ、山
究は珍しくなく美術の領域についても、日本の女性美
元文子、中山きく)より引用。沖縄県立博物館・美術館発
術以外の視点からも考えることのできる、他に類をみ
行、2009 年。
ない研究体系の可能性があるのではないか。そのため
にもひろく、文学や思想と照らし合わせながら、その
意味について考える必要があるだろう。
さらに女性美術のみならず、沖縄の美術全体を考え
た時、マイノリティの美術表現として、継続的な移民
展覧会関連事業
(1)シンポジウム「沖縄から女性美術を考える」2010 年 10
月 9 日 宮城晴美(歴史家)、久場とよ、山元文子、宮良
系アーティストの調査も欠かせない。それは、けして
瑛子、中島イソ子、根間智子(以上、アーティスト)、小
弱者としてではなく、さまざまなアイデンティティが
勝禮子(栃木県立美術館)、ラワンチャイクン寿子(福岡
かけあわさったところでの表現の魅力について、可能
性を見出していこうとする、沖縄独自の視点が見えて
きた意義深い企画であった。今後の課題のひとつとし
アジア美術館)
、豊見山愛
(2) シ ン ポ ジ ウ ム「 な ぜ、 女 性 た ち は 織 に 向 か っ た の か 」
2011 年 10 月 15 日 講師:金谷美和(京都大学)
、ノーマ・
て、沖縄女性アーティスト展で紹介した、カリフォル
レスピシオ(フィリピン大学)
、上原美智子(染織家)、新
ニア州生まれの沖縄系ハワイ移民四世のローラ・キナ
垣幸子(染織家)
、
喜納育江(琉球大学教授)
、
平良次子(南
(1973−)
(Plate. 9)の作品と沖縄系移民女性アーティ
ストのみならずミックスルーツ ・ カルチャーのアー
ティストについても、あわせて調査を継続できればと
風原町立南風原文化センター学芸員)
、豊見山愛
(3)シンポジウム「他者、ディアスポラ、女性のアートと表
現―共同体の再構築へ向けて」
2012 年 10 月 26 日 参
思う。ローラ・キナは、父がハワイ移民沖縄三世で、
加作家:アルマ・キント(フィリピン)、カレン・ティ・
ハワイ移民一世の曽祖母は、写真花嫁として沖縄から
ヤマシタ(日系アメリカ人、小説家)
、ベティ・ノブエ・
ハワイへ渡った。現地での暮らしは他の日系移民と同
様にさとうきび農場で、低賃金で過酷な労働生活を余
儀なくされた。
周縁化された歴史を持つということは、さまざまな
− 51 −
カノ(奄美系アメリカ人、アーティスト)
、ルース・シュー
(香港出身、アジア系文学研究)
主催:琉球大学国際文化研究所「沖縄ジェンダー学の創出」
プロジェクト※共催イベント
(4)プレ・イベント(ワークショップ)
2012 年 10 月 27 日[糸満市米須、キャンプタルガニー]
参加作家:アルマ・キント(フィリピン)
(5)オープニング・アーティスト・トーク
2012 年 11 月 27 日
参加作家:ユン・ソクナム(韓国)、井上廣子、石川真生、
山城知佳子、阪田清子
(6)映像作品上映会
2012 年 11 月 30 日、12 月 7 日、12 月 14 日、12 月 21 日、
12 月 28 日 上映作品:8 作家 19 作品
(7)はじちワークショップ
2012 年 12 月 1 日
講師:山城博明(琉球新報社)、赤嶺善雄(ちゅくいむじゅ
くいすと)ほか
(8)イトー・ターリによるパフォーマンス「ひとつの応答」
2012 年 12 月 15 日(土)
(9)国際シンポジウム
1.2012 年 12 月 15 日
参加作家:久場とよ、山元文子、宮良瑛子、中島イソ子、
仲座包子、桃原須賀子、
花城郁子、石垣克子、山川さやか
2.2012 年 12 月 16 日
参加作家:石川真生、イトー・ターリ、琴仙姫(韓国)、
阪田清子、候淑婆(台湾)、
山城知佳子/パネリスト:頼瑛瑛、岩切澪、小勝禮子/コ
メンテーター:新城郁夫
(10)Asian time at Christmas
2012 年 12 月 23 日
ライブ 1 ラ☆ソウダラ(インドネシア音楽)
ライブ 2 首里フジコ &KINO(沖縄民謡 POPS アレン、
ジャズ)
ライブ 3 カオリ(モンゴル馬頭琴)
ライブ 4 おばぁラッパーズ(マチグヮー HIP HOP)
(11)ひらけ、アジアのトビラ!
2012 年 12 月 1 日、2013 年 1 月 5 日
内容:民族衣装試着体験、民族楽器演奏体験、
ワークショップ「もしアジアが 100 人の村だったら」
協力:NPO 法人 沖縄 NGO センター
凡例
・
( )内に入っている西暦年については、「年」という字を省
いた。
− 52 −
東松照明 終の棲家としての沖縄
「太陽へのラブレター」展から見えてくるもの
しん ざと
よし かず
新里 義和
はじめに
占領シリーズからスタートする沖縄への関わりを
昨年 12 月、戦後日本の写真潮流をリードした写真
の巨人がこの沖縄で静かに息を引き取った 1。
<チューインガムとチョコレート>を導入部分とし
て、沖縄で撮影された重要な写真集の構成を主軸に時
東 松 照 明 は 名 古 屋 で 生 ま れ、 学 生 時 代 ま で 名 古
系列的に配置し展示した。これは、前回の「沖縄マ
屋(1930 - 1954) で 過 ご す が、 プ ロ と し て 活 動
ンダラ」展 4 では見えづらかった『OKINAWA 沖縄
し て か ら は、 東京 2(1954 - 1972)、 沖 縄(1972
OKINAWA』や『太陽の鉛筆』の仕事をきちんと紹
- 1974)
、 東京(1974 - 1987)、千葉(1987 -
介することで、当時、東松が沖縄で何を見出し、表現
1999)
、長崎(1999 - 2010)と制作の拠点に住民票
したか、その変遷を明確化したいというねらいがあっ
を移してきた。それは、思想や方法論と大きく関わる
た。
ものであり、決して軽視できない事象である。その東
松が終の棲家として沖縄を選択したのである。
本稿では、2011 年に沖縄県立博物館 ・ 美術館にて
開催された「東松照明と沖縄 太陽へのラブレター」
展での作品展開を中心に 東松と沖縄の関係性を探り
ながら、東松が沖縄に何を求めていたのか、また沖縄
が東松の写真表現にどのような影響を与えたのか、そ
の意味について論考したい。
1 - 1.
「太陽へのラブレター」展概要
東松は日本の戦後史の特徴をアメリカニゼーショ
ン(米国化)と捉え、1959 - 67 年にかけ全国の米
軍基地周辺を取材する。そして占領シリーズの最後
の地としての沖縄にアサヒカメラの特派員として初
めて訪れ、2 ヶ月の滞在ビザ
3
Fig. 1 『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』
(写研)1969 年 8 月 1 日
発行
ソフトカバー サイズ: 210 × 260mm
総ページ数:96 頁
挿入写真:モノクロ 109 点
で『OKINAWA 沖縄
OKINAWA』
(1969 年写研)を制作した。しかし、
沖縄の島々を取材する中で、アメリカニゼーション
を拒む強靭で良質な文化と遭遇し、その強烈なカル
チャーショックが、のちに『太陽の鉛筆』(1975 年
毎日新聞社)へと結実する。以来、東松は 43 年間に
わたり沖縄を見続け、戦後日本の写真界、とりわけ沖
縄の写真家に多大な影響を与えてきた。
本展覧会では、前半の企画展示室 1 において、モ
ノクロ 128 点を下記の 3 章の章立てで展示した。
Ⅰ章 敗戦日本の原風景
<チューインガムとチョコレート> 1959 - 1967
Ⅱ章 占領シリーズ最後の地「沖縄」
< OKINAWA 沖縄 OKINAWA > 1969
Ⅲ章「さびしさを思想化せよ。」
<太陽の鉛筆> 1971 - 1973
Fig. 2 『太陽の鉛筆 沖縄・海と空と島と人びとそして東南ア
ジアへ』
カメラ毎日別冊(毎日新聞社)1975 年 9 月 20 日発行
ソフトカバー サイズ: 240 × 260mm
総ページ数:252 頁
挿入写真:モノクロ 150 点、カラー 80 点
− 53 −
空間となった事である。
Fig. 3 企画展示室 1 Ⅰ章〜Ⅲ章 モノクロを展示
後半の企画展示室 2 は、企画展示室 1 と構造的に
異なる部屋で、間接的に自然光が取り込めるように
Fig. 5 企画展示室 2 内覧会
なっている。その構造をいかし、大判出力のカラー
112 点を 490㎡の大空間を仕切らずに二段がけで全作
品が一望できるように展示した。薄暗いモノクロの展
示空間から抜けると、一変し、太陽の自然光 5 が降り
注ぐ圧倒的なカラーの大空間の出現は、今回の作品群
に見事にマッチした。
Fig. 6 企画展示室 2 112 点のプリントはすべて新
作である
Fig. 4 企画展示室 2 Ⅳ章〜Ⅴ章 大型カラー作品
を展示
Ⅳ章 カラーへの転換
<南島><光る風> 1973 - 1979
Ⅴ章 写真はイメージで綴るラブレター
<琉球ちゃんぷるぅ> - 2011
大判カラー作品は、今回の目玉と呼べるもので、
「太陽の鉛筆」の後半部分から現在に至るまで作品制
作がカラーに転換する事を展示構成で示すとともに、
1966 年から 2011 年までの 45 年間にわたり撮影さ
れた沖縄、奄美、台湾、インドネシアの時間と空間を
Fig. 7 展示会場にて(左から山田實氏と東松氏)
デジタルの大型カラープリントで新たに制作し、
「ちゃ
んぷるぅ」として、ランダムに配置した。
特筆すべきは、壁で仕切らずに 1 ルームとするこ
とで円環が構成され、群写真としてエンドレスな展示
− 54 −
1 - 2.展示プラン
Fig. 8
Fig. 9
− 55 −
Fig. 10、Fig. 11 でリスフィルムを用いたハイコント
2 - 1.
「占領」シリーズ最後の地 沖縄
東松が沖縄を初めて訪れたのは 1969 年のことであ
ラストの画像や、画像合成等の手法が採用されている。
る。
チューインガムとチョコレートをバラ撒きながら、
じわじわと日本中に拡大するアメリカに憎悪と畏敬を
感じ、戦後日本の特徴をアメリカニゼーション(= ア
メリカ化)と捉え、北は千歳から南は佐世保まで「占
領」シリーズとして 10 年にわたり日本中の米軍基地
周辺を撮影していた。その最後の地が沖縄であった。
四半世紀にわたりアメリカの軍政下にある沖縄は、
本土のどの地域よりもアメリカニゼーションが進行し
ているだろうと予想し、綿密な事前調査を行って沖縄
入りしている。その結果、わずか 2 か月の滞在であっ
たが、撮影した枚数は、ほぼ 2 か年滞在した「太陽
の鉛筆」と同数であったという。
Fig. 10 神奈川・横須賀 1959
2 - 2.第二の長崎としての沖縄
一方でその 8 年前、1961 年に日本原水協の依頼で
長崎の被爆の惨状を取材し、土門拳の広島の写真と共
に『hiroshima - nagasaki document 1961』とし
て全世界に向け刊行された。依頼仕事で長崎入りし、
取材過程で目の当たりにした被爆者の現在進行形の病
苦や、偏見による差別、社会に見捨てられた実態は、
東京に戻る東松を顔面蒼白にした。
「原爆のことを知
らなさすぎた。仕事と割り切って撮った後ろめたさも
手伝って気持ちが整理できなかった」6 現状認識の甘
さに打ちのめされたのである。
その後、依頼仕事ではなく、社会の闇であった被爆
者の実態に光を当てるため、被爆者との距離を縮める
事を自らに課し、毎年のように長崎を訪れ、長崎を撮
ることに生涯をかけることとなる。
沖縄の取材は、まさに東松にとって意識の上での第
二の長崎であったに違いない。
Fig. 11 神奈川・横須賀 1959
2 - 3.
「 占 領 」 シ リ ー ズ と『OKINAWA 沖 縄
OKINAWA』の違い
『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』においては、これ
までの「占領」シリーズに見られるクールで覚めたま
日本の戦後史を一口で特徴づけよ、と問われれ
なざしではなく、「沖縄に基地があるのではなく、基
ば、ぼくはためらいなく、アメリカニゼーションと
地の中に沖縄がある」というタイトルが示すように本
答えるだろう。アメリカニゼーションは米軍基地か
土から差別され続ける島民への、弱者への視点が明確
ら始まった、という実感がぼくにはある。アメリカ
になる。見るという行為を被写体に限りなく接近させ、
が、基地に張りめぐらされた金網の網目から、じわ
見えないものを撮影するためには、歴史的な背景の深
じわっとはみ出して、やがて日本全土に染みとおっ
い掘り起しと、闇の中に隠蔽された問題に光を照射す
ていったというイメージだ。
(1975 年『太陽の鉛筆』)
ることが必要だったのである。
10 年にわたる「占領」シリーズは、最後の地「沖縄」
「占領」シリーズは、アメリカニゼーションを主眼
で、弱者への視点を得ることで必然的に表現方法の変
に撮影された。日本中に拡大するアメリカに憎悪と畏
更が行われ、それに伴い以後のシリーズ名も「占領」
敬の複雑な感情であった。よって、その捉え方もきわ
から「チューインガムとチョコレート」へと変更され、
めて主観的な表現方法を採用している。その 1 例が、
装飾的な技巧は排除された。
− 56 −
Fig. 12 嘉手納 1969
Fig. 14 奥武島 1971
3 - 2.見えないものを見る
やがて東松の関心は、基地から見えるアメリカの物
質文化からシマに生きる豊かな精神文化へと移ってゆ
く。「固有の文化が、モノとしてかたちをなさぬとき、
写真家はお手上げだ。目に見えないモノは写らない。
Fig. 13 嘉手納 1969
シマにあって、ぼくは写真がまったく無力であること
を思い知った。」見えないものは写らないとは、被写
体に限りなく同化し、シマンチュでしか感じきれない
3 - 1.弱者への視点
東松の弱者への視点は「差別」に敏感であった。長
ものを東松が感じ始めた証である。
崎に通いつめ被爆者を取材し続けたのも、ケロイドに
より社会から差別された状況に寄り添うものであっ
た。また、1969 年以来、沖縄通いが続くが、なぜ沖
縄かと聞かれるたびに「この種の問に、沖縄を差別す
る質問者の底意を感じとって、にがにがしく思うこと
がある。そういう人に限って、ニューヨークやパリへ
行く者には、決して「なぜ行くのか?」と問わない。」
と質問者の差別意識を鋭く突く。1972 年復帰と同時
に那覇に住民票を移し、1 年間那覇を拠点に離島を巡
る。その後、宮古島で 7 か月を過ごすが、那覇から
宮古島へ移ったのも、当時の沖縄で宮古島への差別を
感じたからであった。弱者への視点は、社会や権力へ
Fig. 15 宮古島 1971
の懐疑からくるものである。弱者の側に視点を置き、
4
4
4
4
4
4
見えてくるものをこの目で確かめる。
「被写体のため
たとえば、『太陽の鉛筆』に掲載された 1 枚の喰わ
の写真。沖縄のために沖縄へ行く。
」したがって、シ
ずイモの群生写真がある。宮古島では道路わきによく
マにいるときは威張らず、主張せず、同じものを食い、
見かける風景で特に珍しくもない。何気なく撮影され
同じ時間を過ごす必要があったのだ。
た 1 枚だと考えていたのだが、宮古島での調査の折、
4
4
4
4
4
しかし、
自己を消し客体化する「被写体のための写真」
現地の人と写真を見て話していると「これは日照りの
は、対象と同化する事で実態に迫ろうとしているため、
時の葉っぱだ」と言うのである。見ればイモの葉っぱ
ミイラ取りがミイラになる危険を常にはらんでいた。
がすべて立っており太陽の熱から水分の蒸発を最小限
− 57 −
に食い止めるポーズになっている。雨が降っても石灰
ける執念である。
岩質の平らな土地のためすぐに海に流れ出てしまう宮
16 歳という多感な時期に終戦を迎え、大人たちの
古島は、昔から水には苦労してきた歴史があり、その
築いた戦前の絶対的な価値基準の崩壊という所謂「不
経験が我々とは明らかに違う世界を見て、感じている
信の時代」を生きた。
東松の敗戦直後の<現実>に対する不信感は、<現
のだと、この 1 枚で思い知らされた。
実>と向き合う姿勢を決定づけた。それは見るという
沖縄では考え方の三重構造があるようだ。植物が
ことの不確かさを意識下に置くことであり、あらゆる
繁茂し家が建って人が住んでいる島が現世で、あざ
方向から<現実>を見ること、つまり他者の目線を意
やかに彩られた浅瀬が近い過去のあの世。近未来と
識しながら不確かな現実と対峙することである。他者
いう言葉があるが、いうなれば近過去である。そし
の目線を意識下に置くことで、認識と<現実>の差異
てリーフの向う側の底なしの暗い海、つまり不可視
を明確にすることができる。すなわち、見えないもの
の世界が遠いあの世。沖縄ではグショウといってい
を意識することができるということである。そして、
る。そういう中間領域を設定することが沖縄の特質
自らの目だけを信じ、見ることに生涯を掛け死の間際
であり、ものの考え方でもある。
(中略)風景の三
まで今を撮り続けた。
重構造は沖縄独特のものだが、観念の三重構造はか
つて日本のものであったと思う。それが写真に表れ
るかどうかは、やはり、そういうことを踏まえてい
4.終の棲家としての沖縄
東松は名古屋(1930 - 1954)で生を受け、プロ
るのといないのでは違ってくるのではないだろう
として活動してからは、東京(1954 - 1972)、沖縄
か。写真に奥行きが出るのではないか。
(1975 年『太
(1972 - 1974)、東京(1974 - 1987)、千葉(1987
陽の鉛筆』
)
- 1999)、長崎(1999 - 2010)と制作の拠点とな
る場所に住む場所を移動させてきた。それは、被写体
単純な風景の中にさえ、良質な沖縄の精神文化の深
部を見ようとする意識において、写真はその強度を増
に限りなく接近し、見続けることを可能にするための
方策に他ならない。
すのである。
かつて東松は、沖縄で撮影された写真群に対し、
「作
日本の写真史に大きなインパクトを与えた『太陽の
鉛筆』はこうして撮影されたのである。
者:沖縄」と名付けていた。「被写体によって撮らさ
れてしまった。」と、自らを消し客体化することで生
み出された写真群は、まさに「被写体のための写真」
を目指していた。沖縄はそれを可能にしたのである。
「被写体のための写真」による、ミイラ取りがミイ
ラになる危険。そのバランスを長崎と沖縄を行き来す
ることで保持していたのではないだろうか。
長崎と沖縄はそれぞれ両輪のごとく補完しあいなが
らライフワークとして生涯をかけて撮影されたのであ
る。そして晩年、写真を撮ることに対して「まばたき
のリズム」と答えているように、ついには沖縄と同化
する危険を飛び越えて、身体的なリズムへと昇華した
ということであったのではなかろうか。
Fig. 16 西表島 1972
5.マンダラシリーズの最終形として
3 - 3.見続けるということ
マンダラシリーズは 2000 年「長崎マンダラ」を起
写真家は見ることがすべてだ。だから写真家は徹
点に、2002 年「沖縄マンダラ」、2003 年「京まんだ
頭徹尾見つづけなけねばならぬのだ。対象を真正面
ら 7」、2006 年「愛知曼陀羅」、2007 年「Tokyo 曼陀羅」
から見据え、全身を目にして世界と向き合う、見る
と続く。マンダラシリーズの構成は、それぞれの地域
ことにかける人間、それが写真家なのだ。(昭和 50
で撮影された過去から現在までの時の厚みが、一旦す
年)
べて解体され、ランダムに再構成されるという実験的
な試みである。最初の長崎では「チャンポン」、沖縄
また、東松照明の特筆すべき強さは、見ることにか
では「ちゃんぷるぅ」と歴史的に様々な文化の影響を
− 58 −
受けた土地のゴチャ混ぜでカオス的な文化を示すもの
として東松が方法論的に採用したのがマンダラシリー
ズであった。その後マンダラシリーズは、京都、愛知、
東京へと引き継がれていくが、その過程でマンダラの
意味合いも微妙にニュアンスを変化させている。
マンダラシリーズの考え方は、1 つに群写真として
の写真のとらえ方がある。東松、名取論争 8 で問題に
なった組写真に対するアンチとしての東松からの回答
で あ る。2 つ 目 に、『 < 11 時 02 分 > NAGASAKI』
で試みられる時間の重層化を図る試みである。一方向
の時間の流れから解放され、速度も方向も自由な振る
・『日本列島クロニクル-東松照明の 50 年』図録(東京都写真
美術館)1999 年
・
『東松照明展 沖縄マンダラ』図録(沖縄県)2002 年
・『愛知曼陀羅-東松照明の原風景-』図録(愛知県美術館)
2006 年
・
『 東 松 照 明 [Tokyo 曼 陀 羅 ]』 図 録( 東 京 都 写 真 美 術 館 )
2007 年
・『東松照明展-色相と肌触り 長崎-』図録(長崎県美術館)
2009 年
・
『写真家東松照明 全仕事』図録(名古屋市美術館)2011 年
・『東松照明と沖縄 太陽へのラブレター』図録(沖縄県立博
物館 ・ 美術館)2011 年
舞いを可能にするものである。3 つ目は、今福龍太と
のコラボレーション『時の島々』のような、多様な解
釈を得るために、最終的に見る側にゆだねる方法とし
て試みである。
試行錯誤を繰り返しながら取り組まれたマンダラシ
注
1 2012 年 12 月 14 日午後 12 時 50 分那覇市内の病院で肺炎
にて逝去。生前の本人の遺志により発表は翌 2013 年 1 月
リーズではあったが、時間と空間の混在は、見る側に
7 日に行われ、葬儀や仏壇、墓などの法要は執り行わない
混乱も招いた。特に、モノクロとカラーの混在は生理
的な混乱も招きかねない。しかし、
「太陽へのラブレ
ター」展において準備された大型のカラー作品は、当
というものであった。
2 VIVO の時代、共同の事務所を構えるが、一時期住居と事
務所の単純な往復に疑問を抱き、毎日宿を変えるという試
初から一つの空間で、ひとかたまりに展示することを
みを行う。そこから誕生した作品がアスファルトのシリー
想定していたため、全体にわたり非常にセンシティブ
な色彩のコントロールが働いており、40 年に渡り撮
影された写真群がそれぞれ切り取られ死んだ時間の集
積ではなく、今まさに蘇り、現在の時間と違和感なく
並置され、
上記の 3 つの機能を完全に成立させていた。
ズである。
3 当初は 1 ヶ月の予定であったが、沖縄の周辺離島を取材す
るため 1 ヶ月期間を延長している。
4 「東松照明写真展 沖縄マンダラ」(2002 年浦添市美術館)
は県主催で開催された初めての大規模な個展である。マン
その完璧に制御された群としての色空間の出現は、時
ダラシリーズとしては長崎に続き 2 回目で、その後「京
間と空間の解体実験であったマンダラシリーズの完成
まんだら」
、
「愛知曼荼羅」
、
「Tokyo 曼荼羅」とマンダラ
形ともいえるものである。
シリーズの手法が続く。
マンダラシリーズの貴重な写真群はそれぞれの地域
5 自然光は、紫外線と熱線をカットし最大 100 ルクスで制限
され、一定の光量を維持するよう太陽の動きに合わせて
に寄贈されており、今後益々その重要性が高まってく
ルーバー制御し、足りない分を蛍光灯で補い調光されてい
ることは間違いない。とりわけ 2011 年に沖縄県立博
物館・美術館で開催された「太陽へのラブレター」展
における 112 点の大型作品群の展開は東松照明が 80
歳を超えて、最初で最後となった意欲的な試みであっ
た。
る。
6 読売新聞 1999 年 6 月 20 日「被爆者の命見つめる-写真
家・東松さんこだわりの長崎」
7 正式な名称は「東松照明の写真 1972 - 2002」展である
が、
「京まんだら」として位置づけられている。
8 「僕は名取氏に反論する」
『アサヒカメラ』1960 年 11 月号
参考文献
・東松照明 『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』(写研)1969 年
・東松照明 『太陽の鉛筆 沖縄・海と空と島と人びとそして
東南アジアへ』カメラ毎日別冊(毎日新聞社)1975 年
・東松照明 『日本の美 現代日本写真全集 第 8 巻 光る風
-沖縄』(集英社)1979 年
・東松照明 『昭和写真 ・ 全仕事 SERIES15[ 東松照明 ]』(朝
日新聞社)1984 年
・東松照明 + 今福龍太 『時の島々』(岩波書店)1998 年
− 59 −
東松照明 年譜
上京し、岩波写真文庫のカメラ・スタッフとな
る。
新里義和 編
9 月、
『水害と日本人』
(岩波写真文庫 124)刊行。
1930(昭和 5)年
1 月 16 日、愛知県名古屋市東区新出来町に、父・
1955(昭和 30)年
10 月、『やきものの町―瀬戸』(岩波写真文庫
宮崎新鐘、母露子の次男として生まれる。
165)刊行。
1936(昭和 11)年
1956(昭和 31)年
名古屋市中村区立亀島尋常小学校に入学。
岩波書店を退社、フリーランスとなる。
1942(昭和 17)年
名古屋高等理工科学校電気科(現・名城大学付
1957(昭和 32)年
第 1 回「10 人の眼」展(小西六フォトギャラ
属高校)に入学。
リー、東京)に《水上小学校》を出品。
日本写真家協会に入会する。(~ 85 年)
1944(昭和 19)年
学徒動員令で名古屋市大隈鉄工所に通い、旋盤
1958(昭和 33)年
工見習いをする。
《地方政治家》(中央公論 1957.9、中央公論社)
などで第 1 回日本写真批評家協会新人賞を受
1946(昭和 21)年
賞。
名古屋高等理工科学校卒業。
1959(昭和 34)年
1950(昭和 25)年
実兄の写真機(シルバー・ゲルト)を借り、好
初の個展、日本人シリーズ「人」(富士フォト
きだった女性を撮影したことをきっかけとし、
サロン、東京)開催。これによって、第 5 回
写真を始める。
毎日写真賞を受賞。
愛知大学法経学部経済学科に入学。写真部に入
9 月、台風 15 号(伊勢湾台風)が襲来し、実
部。
家が倒壊する。
セルフ・エージェンシー「VIVO」を川田喜久治、
佐藤明、丹野章、奈良原一高、細江英公らと結
1951(昭和 26)年
2 月、
第 2 回愛知大学写真展に《残酷な花嫁》
《皮
成する(1961 年解散)。
肉な誕生》など 19 点出品。
テレビ番組「現代の貴族」を制作。
全日本学生写真連盟のオーガナイザーとして活
1960(昭和 35)年
躍する。
米軍基地をテーマにした撮影を続行する。《占
領》(アサヒカメラ 1 - 3 月号、朝日新聞社)、
1952(昭和 27)年
《家》(フォトアート 1 - 9 月号、研光社)な
『カメラ』誌(アルス)の月例コンテストに入
選しはじめ、審査員の木村伊兵衛や土門拳の評
どのシリーズを発表。
価を得る。
650 エクスペリエンスの会(土方巽、寺山修司
全日本学生写真連盟結成、中部地区代表委員と
他)で映画「ヒコーキ」を制作・上映。(日比
なる。
谷第一生命ホール)
「反芸術」的な前衛芸術集団<ネオ・ダダイズム・
5 月、私服警官の学内侵入により「愛大事件」
が起こり、撮影する。
オルガナイザース>のメンバーなどを被写体に
11 月、第 1 回全日本学生写真連盟展(松坂屋、
した『檻』を発表。(カメラ毎日 6 月号)
上野)に《国際児》を出品。
1961(昭和 36)年
長崎を取材し、写真集『hiroshima - nagasaki
1954(昭和 29)年
愛知大学卒業。
document 1961』(原水爆禁止日本協議会)を
− 60 −
央公論社)刊行。
土門拳らと共著で刊行。同書により第 5 回日
本写真批評家協会作家賞を受賞。以後 70 年代
「ゼロ次元」メンバーを被写体に撮影する。
まで毎年のように長崎を訪ねる。
『日本写真史 1840 - 1945』(平凡社)の編集、
執筆を担当する。
大島渚監督映画『飼育』制作に関わる。
1972(昭和 47)年
1962(昭和 37)年
4 月、4 度目の渡沖。那覇で沖縄の「日本復帰」
「NON」展(松坂屋デパート、銀座)に、
《DNA
の風景》を出品。
を迎え、住民票を取り寄せてそのまま 1 年間
個展「< 11:02 > NAGASAKI」展(富士フォ
滞在する。
トサロン、東京)開催。
写真集『I am a king』(写真評論社)刊行。
1973(昭和 48)年
1963(昭和 38)年
3 月、宮古島へ移住し、7 ヶ月間滞在。
「宮古大学」
『太陽』誌の取材でアフガニスタンを撮影する。
の立ち上げに関わる。
11 月、約 1 ヶ月間の東南アジアに行った後、
1964(昭和 39)年
東京へ戻る。
個展
「泥の王国」
(富士フォトサロン、東京)開催。
1974(昭和 49)年
1965(昭和 40)年
「New Japanese Photography」展(ニュー
多摩芸術学園写真学科講師に就任する(~ 69
ヨーク近代美術館)に出品(1976 年まで、ア
年)
。
メリカ、カナダ全 9 ヶ所巡回)。
荒木経惟、深瀬昌久、細江英公、森山大道、横
1966(昭和 41)年
東京造形大学映像科助教授に就任する(~ 73
須賀功光と「WORKSHOP 写真学校」を開校
年)
。
する(76 年閉校)。
写真集『< 11 時 02 分> NAGASAKI』(写真
1975(昭和 50)年
同人社)刊行。
写真集『太陽の鉛筆』(『カメラ毎日』別冊、毎
日新聞社)刊行。同書で日本写真協会年度賞受
1967(昭和 42)年
賞。
出版社・写研を設立。1955 ~ 67 年の作品に
よる写真集『日本』(写研)刊行。
1976(昭和 51)年
『太陽の鉛筆』により第 17 回毎日芸術賞、第
1968(昭和 43)年
日本写真家協会主催「写真 100 年―日本人に
26 回芸術選奨文部大臣賞受賞。
よる写真表現の歴史展」の編集委員を務める。
南日本写真展(南日本新聞社主催)の審査員と
写真集『サラーム・アレイコム』(写研)刊行。
なる。(~ 94 年)
エッセイ集『朱もどろの華 沖繩日記』
(三省
堂)、
『私のカメラ初体験』(共著、朝日ソノラマ)
1969(昭和 44)年
刊行。
2 月、
『アサヒカメラ』の特派として、初めて
沖縄を 2 ヶ月間取材する。
写真集『OKINAWA 沖繩 OKINAWA』
(写
1978(昭和 53)年
写真集『泥の王国』(朝日ソノラマ)刊行。
研)
、
『おお ! 新宿』(写研)刊行。
個展 「太陽の鉛筆」(日本生命ホール、名古屋)
開催。
1971(昭和 46)年
イザイホー撮影のため渡沖。
7 月、2 度目の渡沖。1 ヶ月間滞在する。
12 月、3 度目の渡沖。波照間島に 1 ヶ月滞在
1979(昭和 54)年
する。
写真集『戦後派』
(
『映像の現代』第 5 巻、中
− 61 −
日本写真美術館設立促進委員に就任する。
写真集『光る風―沖繩』(日本の美 現代日本
1993(平成 5)年
個展「ニュー・ワールド・マップ + ゴールデン・
写真全集 第八巻、集英社)刊行。
マッシュルーム」(INAX ギャラリー)開催。
「東松照明写真展 太陽の鉛筆」(コニカフォト
1980(昭和 55)年
50 歳の誕生祝いに招かれて、沖縄を旅行する。
ギャラリー、名古屋)開催。(コニカフォトギャ
この頃より京都取材を始める。
ラリー、大阪を巡回)
1994(平成 6)年
1981(昭和 56)年
個展「京・桜―原像ニッポン国」
(コニカ・プラザ、
「 い ま !! 東 松 照 明 の 世 界・ 展 」
(八代市立立
東京)開催。(コニカ・プラザ、札幌を巡回)
体駐車場ホール)開催。3 年間にわたり全国
30 ヶ所を巡回する。
1995(平成 7)年
紫綬褒章を受章。
1984(昭和 59)年
沖縄で初の個展、戦後 50 年企画「東松照明・
『昭和写真・全仕事 SERIES・15 東松照明』(朝
展―戦後日本の光と影―」(那覇市民ギャラ
日新聞社)刊行。
リー、沖縄)開催(平良市中央公民館、宮古を
巡回)。
1985(昭和 60)年
オックスフォード近代美術館「Black Sun:
写真集『長崎< 11:02 > 1945 年 8 月 9 日』
(フォ
The Eyes of Four」に出品。(イギリス、ア
ト ・ ミュゼ、新潮社)刊行。
メリカを巡回)
1996(平成 8)年
「東松照明写真展 インターフェイス」(東京国
1986(昭和 61)年
立近代美術館フィルムセンター展示室)を開催。
心臓のバイパス手術を受ける。
個展「長崎< 11:02 >」
(長崎原爆資料館)開催。
この頃より《泥海「ブリージング・アース」》
1987(昭和 62)年
住居を千葉県長生郡一宮町へ移す。
を撮りはじめる。
写真集『廃園』(パルコ出版)刊行。
上野昂志「評伝 写真家渡世 45 年」が『アサ
この頃より《プラスチックス》を撮り始める。
ヒグラフ』に 1 年間連載される。
1997(平成 9)年
1989(平成元年)年
個展「プラスチックス」(パルコ・ギャラリー)
日本写真協会に入会する。
開催。
Modern Masterpiece(St. James)を受賞。
1998(平成 10)年
1990(平成 2)年
写真集『さくら・桜・サクラ 120』、
『さくら・桜・
1 月、「東松照明 新春特別講演会」(映像と話
サクラ 66』(ブレーンセンター)刊行。
の会主催、アルハンブラ・ギターラウンジ、沖
縄市)開催。
写真集『時の島々』(岩波書店)を今福龍太と
1992(平成 4)年
個展「南方見聞録―琉球列島」(コニカプラザ、
共著で刊行。
東京)開催。
写 真 集『VISIONS of JAPAN TOMATSU
「復帰 20 周年記念事業 こだわりの眼 写真
で考える沖縄戦後史展」(那覇市民ギャラリー、
Shomei』(光琳社出版)刊行。
「東松照明展 さくら」(新潟市新津美術館)開
沖縄)
に出品。(那覇市営体育館、名護市民会館、
催。
石垣市民会館、平良市中央公民館を巡回)
個展「キャラクター P・終の住処」(epSITE、
個展「SAKURA + PLASTICS」(メトロポリ
東京)開催。
タン美術館、ニューヨーク)開催。
− 62 −
2005(平成 17)年
1999(平成 11)年
長崎市に移住。
個展「東松照明展 Camp カラフルな ! あま
個展「日本列島クロニクル―東松照明の 50 年」
りにもカラフルな !!」(ギャラリー新居、東京)
展(東京都写真美術館)開催(豊橋市美術博物
を開催(ギャラリー新居、大阪を巡回)。
館を巡回)
。
写真集『Camp カラフルな ! あまりにもカラフ
第 31 回日本芸術大賞を受賞(新潮文芸振興会
ルな !! 東松照明 Tomatsu Shomei』(ギャ
主催)
。
ラ リ ー 新 居 )、『 長 崎 曼 陀 羅 東 松 照 明 の 眼
写真集『日本の写真家 30 東松照明』(岩波書
1961 ~』(長崎新聞社)刊行。
店)
、
『写真家東松照明』(青土社)刊行。
日本写真協会功労賞を受賞(日本写真協会主
催)。
「日本ゼロ年」展に出品。(水戸芸術館現代美術
長崎新聞文化章受章。
センター)
京都府への作品寄贈により紺綬褒章
2000(平成 12)年
個展「長崎マンダラ」(長崎県立博物館)開催。
2006(平成 18)年
個展「愛知曼陀羅―東松照明の原風景―」展(愛
「How You Look at It: Photographs of the
Twentieth Century(いかに見るか:20 世紀
知県美術館)開催。
の写真)
」展(シュプレンゲル美術館、ドイツ・
第 39 回東海テレビ文化賞受賞。
ハノーファー)に出品。(シュテーデル美術館、
2007(平成 19)年
フランクフルトを巡回)
個展「東松照明[Tokyo 曼陀羅]展(東京都
写真美術館)開催。
2001(平成 13)年
個展「TOMATSU SHOMEI さくら・桜・さ
個展「東松照明展 南島」(ギャラリー新居、
くら 写真展」(佐喜眞美術館、沖縄)開催。
東京)開催。
個展「東松照明展 八月の光」(中京大学アー
トギャラリー C・スクエア)開催。
2008(平成 20)年
写真集『SHOMEI TOMATSU 55』
(Phaidon
個展「東松照明写真展 長崎< 11:02 >」(長
Press Limited)刊行。
崎原爆資料館)開催。
「琉球・沖縄 2 人展 比嘉康雄―琉球の祭祀、
長崎県、愛知県への作品寄贈により紺綬褒章
東松照明―チューインガムとチョコレート in
沖縄」(キヤノンギャラリー S、東京)開催。
2002(平成 14)年
(2009 年に浦添市美術館、沖縄を巡回)
個展「東松照明写真展 沖縄マンダラ」
(浦添
市美術館、沖縄)開催。
個展「東松照明写真展 25 年目の沖縄、宮古島」
2009(平成 21)年
4 月 那覇の事務所にてデジタル写真ワーク
(ギャラリーうえすやー、平良市)
ショップ開催。(1 期生 7 名)
「岡本太郎・東松照明写真展 まなざしの向こ
2003(平成 15)年
第 56 回中日文化賞を受賞(中日新聞社主催)。
う側」(沖縄県立博物館・美術館)開催。
個展「東松照明の写真 1972 - 2002」展(京
個展「東松照明展―色相と肌触り 長崎―」(長
都国立近代美術館)開催。
崎県美術館)開催。
2010(平成 22)年
2004(平成 16)年
個
展「Shomei Tomatsu: Skin of the
4 月 那覇の事務所にてデジタル写真ワーク
Nation(東松照明:国民の皮膚)」展(ジャパン・
ショップ開催。(2 期生 5 名)
ソサエティー・ギャラリー、ニューヨーク)開
西日本新聞に「時を削る 東松照明の 60 年」
催。
(~ 2007 年まで、アメリカ、ヨーロッパ
を連載。
各地巡回)
沖縄へ移住する。
沖縄県への作品寄贈により紺綬褒章
個展「南島」(gallery M&A、沖縄)開催。
− 63 −
個展「アッサラーム・アレイクン」(コリンザ、
沖縄)開催。
個展
「東松照明展-時を削る-」
(長崎県美術館)
開催。
「琉球チャンプルー三人展」(那覇市民ギャラ
リー、沖縄)東松照明 + 宮良信男 + 宮里千里
による三人展開催。
2011(平成 23)年
4 月 那覇の事務所にてデジタル写真ワーク
ショップ開催。(3 期生 5 名)
個展「写真家・東松照明 全仕事」展(名古屋
市美術館)開催。
個展「東松照明と沖縄 太陽へのラブレター」
展(沖縄県立博物館・美術館)開催。
長崎県への作品寄贈により紺綬褒章
2012(平成 24)年
「everything was moving photography
from the 60s and 70s」(バービカン ・ セン
ター、ロンドン)に出品。
個展
「東松照明の写真」展(砺波市美術館)開催。
写真集『Shomei Tomatsu Photographs
1951- 2000"only photography』(ドイツ出
版)刊行
12 月 14 日 那覇市内の病院で肺炎により逝
去。
(享年 82 歳)
*『東松照明と沖縄 太陽へのラブレター』展
図録(2011 年、沖縄県立博物館・美術館)所
収「年譜」を追補。
− 64 −
「東松照明と沖縄 太陽へのラブレター」作品リスト
展示 NO.
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59
60
61
作品名
制作年
イメージサイズ(mm)
Ⅰ章 敗戦日本の原風景
<チューインガムとチョコレート> 1959 - 1967
北海道千歳 1959
2011
390×461
北海道千歳 1959
2011
365×525
東京都心 1960
2011
525×360
東京都横田 1978
2011
532×355
神奈川県横須賀 1959
2011
365×518
神奈川県横須賀 1966
2011
350×547
山口県岩国 1960
2011
511×365
山口県岩国 1960
2011
360×534
山口県岩国 1960
2011
466×380
長崎県佐世保 1966
2011
380×496
Ⅱ章 占領シリーズ最後の地「沖縄」
< OKINAWA 沖縄 OKINAWA > 1969
国頭 1969
2001
254×349
那覇 1969
2001
244×358
知花 1969
2001
254×349
嘉手納 1969
2001
248×343
辺野喜 1969
2001
239×358
那覇 1969
2001
244×359
辺野喜 1969
2001
359×249
読谷 1969
2001
254×347
糸満 1969
2001
244×359
糸満 1969
2001
254×349
嘉手納 1969
2001
349×254
コザ 1969
2001
334×249
金武 1969
2001
244×334
金武 1969
2001
333×254
辺野古 1969
2001
249×344
コザ 1969
2001
343×259
金武 1969
2001
333×249
コザ 1969
2001
258×344
コザ 1969
2001
238×358
コザ 1969
2001
344×258
コザ 1969
2001
248×359
コザ 1969
2001
246×366
コザ 1969
2001
238×358
コザ 1969
2001
333×259
辺野古 1969
2001
349×246
金武 1969
2001
244×359
具志川 1969
2001
238×358
具志川 1969
2001
373×259
宜野湾 1969
2001
249×373
那覇 1969
2001
244×359
金武湾 1969
2001
244×359
知花 1969
2001
359×249
那覇 1969
2001
244×359
金武 1969
2001
358×238
嘉手納 1969
2001
258×349
嘉手納 1969
2001
238×358
嘉手納 1969
2001
249×374
読谷 1969
2001
244×355
コザ 1969
2001
259×333
宜野湾 1969
2001
244×359
琉球政府主席 屋良朝苗 那覇 1969
2001
358×244
人民党委員長 瀬長亀次郎 那覇 1969
2001
333×260
財界の重鎮 国場幸太郎 那覇 1969
2001
359×244
社会大衆党委員長 安里積千代 那覇 1969
2001
358×244
政界の重鎮 当間重剛 那覇 1969
2001
349×245
復帰協会長 喜屋武真栄 那覇 1969
2001
349×244
上原康助 嘉手納 1969
2001
249×334
オルガナイザー 福地曠昭 那覇 1969
2001
359×244
大神島 1969
2001
234×354
大神島 1969
2001
348×258
池間島 1969
2001
239×358
− 65 −
技法
所蔵
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62
63
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小浜島 1969
石垣島 1969
西表島 1969
65
66
67
68
69
70
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72
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90
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119
120
121
122
123
124
125
波照間島 1971
西表島 1972
渡嘉敷島 1972
西表島 1972
宮古島 1971
伊平屋島 1972
黒島 1972
宮古島 1972
宮古島 1972
宮古島 1973
奥武島 1972
波照間島 1971
伊平屋島 1972
宮古島 1973
池間島 1973
宮古島 1973
伊良部島 1973
伊平屋島 1972
大神島 1969
波照間島 1971
奥武島 1971
黒島 1972
奥武島 1971
奥武島 1971
大神島 1969
波照間島 1971
久米島 1972
黒島 1972
宮古島 1973
奥武島 1971
宮古島 1972
西表島 1972
大神島 1969
西表島 1972
宮古島 1973
宮古島 1971
新城島 1972
宮古島 1973
新城島 1972
波照間島 1971
宮古島 1971
宮古島 1973
伊良部島 1973
黒島 1972
西表島 1972
奥武島 1971
奥武島 1971
伊良部島 1973
西表島 1972
宮古島 1973
宮古島 1973
宮古島 1973
宮古島 1973
伊良部島 1973
黒島 1972
宮古島 1973
伊良部島 1973
宮古島 1973
宮古島 1973
黒島 1972
新城島 1972
2001
249×343
2001
249×359
2001
274×349
Ⅲ章 「さびしさを思想化せよ。
」
<太陽の鉛筆> 1969-1973
2001
244×373
2001
244×358
2001
209×315
2001
210×315
2001
239×358
2001
249×334
2001
244×355
2001
274×383
2001
244×374
2001
259×344
2001
338×249
2001
343×254
2001
359×254
2001
258×348
2001
244×349
2001
238×358
2001
249×359
2001
254×350
2001
359×244
2001
399×249
2001
259×359
2001
359×244
2001
358×239
2001
243×333
2001
333×259
2001
269×324
2001
258×333
2001
349×259
2001
250×373
2001
358×247
2001
244×359
2001
250×359
2001
359×239
2001
358×243
2001
244×348
2001
349×244
2001
359×249
2001
243×349
2001
244×364
2001
244×358
2001
338×259
2001
269×333
2001
359×249
2001
270×343
2001
209×314
2001
358×239
2001
357×237
2001
243×349
2001
239×369
2001
239×359
2001
244×359
2001
255×379
2001
245×363
2001
238×358
2001
238×359
2001
343×258
2001
249×373
2001
269×349
2001
238×358
2001
250×359
2001
360×249
− 66 −
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伊良部島 1973
宮古島 1973
宮古島 1973
2001
384×275
2001
239×354
2001
334×249
Ⅳ章 カラーへの転換 <南島><光る風> 1973 - 1979
渡嘉敷島 1973
2011
810×742
バリ島 1974
2011
800×697
阿嘉島 1973
2011
725×790
コザ市 1974
2011
760×751
コザ市 1974
2011
733×810
ミンダナオ島 1974
2011
790×739
バリ島 1974
2011
780×739
ミンダナオ島 1974
2011
790×726
中城村 1974
2011
810×739
宮古島 1979
2011
720×780
池間島 1977
2011
820×730
鳩間島 1979
2011
860×633
伊良部島 1978
2011
780×764
宮古島 1978
2011
780×758
久高島 1977
2011
810×742
久高島 1979
2011
744×760
竹富島 1979
2011
810×739
波照間島 1979
2011
880×675
久高島 1977
2011
711×840
久高島 1978
2011
780×757
辺戸岬 1979
2011
724×830
池間島 1978
2011
800×739
宮古島 1978
2011
741×790
小浜島 1977
2011
725×790
宮古島 1979
2011
870×589
国頭村奥 1977
2011
790×729
久米島 1977
2011
749×790
コザ市 1972
2011
780×742
宮古島 1978
2011
800×739
宮古島 1978
2011
840×704
那覇市 1977
2011
750×800
小浜島 1977
2011
800×711
知念村 1978
2011
764×780
宮古島 1978
2011
800×725
久米島 1978
2011
810×744
波照間島 1979
2011
880×601
西表島 1979
2011
606×880
宜野湾市普天間 1978
2011
800×718
粟国島 1977
2011
790×744
浜比嘉島 1979
2011
617×880
国頭村安田 1979
2011
800×753
那覇市 2009
2011
860×641
宮古島 1978
2011
770×754
西表島 1979
2011
734×770
国頭村辺戸 1977
2011
800×754
小浜島 1977
2011
800×742
渡嘉敷島 1979
2011
780×749
宮古島 1979
2011
753×790
座間味島 1977
2011
790×768
久高島 1977
2011
760×746
沖縄市 1979
2011
850×703
Ⅴ章 写真はイメージで綴るラブレター <琉球ちゃんぷるぅ>- 2011
名護市嘉陽 1981
2011
850×649
多良間島 1991
2011
775×773
勝連町平敷屋 1981
2011
585×880
水納島 1991
2011
585×880
那覇市 2005
2011
752×800
伊良部島 1983
2011
870×673
那覇市 2007
2011
614×880
那覇市 2011
2011
656×860
グアム島 1984
2011
860×619
− 67 −
S/p
S/p
S/p
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
*
*
*
*
*
189
190
191
192
193
194
195
196
197
198
199
200
201
202
203
204
205
206
207
208
209
210
211
212
213
214
215
216
217
218
219
220
221
222
223
224
225
226
227
228
229
230
231
232
233
234
235
236
237
238
239
240
那覇市 2011
那覇市 2006
うるま市 2011
今帰仁村 2009
小浜島 1981
那覇市 2011
糸満市 2010
那覇市 2005
与那原町 1998
具志頭村港川 1990
那覇市 2009
久高島 1980
名護市辺野古 1981
金武町 2005
那覇市 2009
宮古島 1980
那覇市 2008
瀬底島 1979
那覇市 2007
沖縄市 2005
宮城島 1987
バリ島 1988
那覇市 2007
伊良部島 1981
浜比嘉島 2008
西表島 1990
瀬底島 1981
瀬底島 2009
本部町備瀬 2011
波照間島 1981
名護市辺野戸 2006
那覇市 2005
那覇市 2011
那覇市 2011
沖永良部島 1966
那覇市 2005
瀬長島 2011
台湾島 1980
那覇市 2006
那覇市 2009
宮古島 1991
金武町 2008
沖永良部島 1966
那覇市 2007
多良間島 1991
バリ島 1990
那覇市 2007
那覇市 2005
那覇市 2008
北谷町 2010
宮古島 1980
那覇市 2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
2011
860×682
880×606
684×820
860×660
860×636
860×648
587×880
640×880
744×800
714×790
860×677
800×729
850×597
860×632
668×880
880×578
880×568
780×762
876×880
880×623
760×757
755×760
587×880
860×546
880×641
700×840
860×635
880×660
860×597
649×880
860×691
664×880
830×697
820×712
830×696
880×624
616×880
643×880
880×582
880×631
770×748
880×626
764×770
653×880
717×810
860×571
880×641
880×636
860×667
651×880
880×573
860×659
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
DpC
*
*
*
*
*
□作品名に付されている地名と年は、それぞれ撮影地、撮影年を表している。
□イメージサイズはタテ × ヨコ(mm)の順で表記した。
□技法は以下の記号で表記した。
Dp◆=デジタル・プリント(モノクロ)、DpC=デジタル・プリント(カラー)
、S/p=ゼラチン・シルバー・プリント
□所蔵は以下の記号で表記した。
*=作家蔵、無印=沖縄県立博物館・美術館蔵
□ 2011 年制作のプリントはすべて下記機材によるものである。
プリント機材:キヤノン imagePROGRAF iPF8300
出力用紙:Hahnemuhle PhotoRag 308gsm
− 68 −
安次嶺金正の軌跡と美術論について
なか ざと
やす ひろ
仲里 安広
はじめに
嶺小学校の先生から絵を描きに行くので一緒に行こう
戦後沖縄美術の復興を牽引した画家の一人として安
と誘われたのがそのきっかけであった。そばで絵を描
次嶺金正の存在は大きい。ニシムイ美術村の安谷屋正
く先生の様子を見ていたときの印象が心に強く焼き付
義や玉那覇正吉等と共に活動し、戦後美術の復興に寄
いたようだ。
与した画家の一人である。安次嶺金正は太平洋戦争が
始まる 1941 年に東京美術学校を繰り上げ卒業後、翌
先生の手の動きにしたがって、どんどんあたりの
年 2 月には出兵し兵役に就く。曹長となった 1945 年
風景が絵になっていく。できあがってから絵をも
にマレー半島で終戦を迎えた後は捕虜生活 2 年後の
らったが、絵はこんなにすばらしいものか私も絵を
1947 年に帰郷し、戦後混乱期の沖縄で画業に取り組
A
やろうということをひそかに考えたものだ。
む。ニシムイ美術村の活動は基より、沖展創設に加
わり、グループ展五人展のメンバーとして活動した。
那覇市久米町へ移り住んだのは沖縄県立第一中学校
1950 年代後半から戦後沖縄の前衛的な絵画を牽引し
に受験した年の 1930 年からであった。入学後は、こ
た創斗展の創設など、戦後沖縄の美術界をリードした
れまでの絵画への思いがあったことから美術グループ
画家の一人としてその存在は大きい。また、1953 年
「竜泉会」に入会し、絵画活動に打ち込むようになっ
の琉球大学就任後は後進の育成に尽力し多くの美術家
た。その頃の指導者は京都市立絵画専門学校日本画科
に影響を与えた指導者として知られている。緑を基調
出身(現京都市立芸術大学)の佐藤良次であった。当
とした作風は独自の深化を遂げ、制作し続けた画家で
時のメンバーとして先輩に宮城健盛、後輩に玉那覇正
ある。このような安次嶺金正の軌跡を辿りながらその
吉が入会する。当時は比嘉景常率いる県立第二中学校
人物像や芸術論、作品論等について検証したい。
の「樹緑会」が隆盛を極める中、「竜泉会」もその勢
いに対抗しようと個々がクラブ活動に励んでいた。
1.安次嶺金正の軌跡
金正は 3 年の学年度末になり(1933 年 3 月)、突如、
上京し東京の学校へ転校する。安次嶺の将来を心配し
(1)幼少期の安次嶺金正
-影響を与えた人たち-
安次嶺金正は 1916 年 12 月 5 日に父安次嶺金英、
た父親の意向であった。というのも、絵の没頭ぶりに
より父親の怒りを買うことになり、絵画道具を石でた
母ナヘの長男として名護市字宮里 175 番地に生をう
たき割られ、石油をまかれて焼かれてしまう。幼少時
けた。父方の先祖は、久米村出身の士族で廃藩置県の
代父を亡くし貧困で苦労した父親にとって、息子の将
ころ名護へ移り住んだという。
(金英の祖父の頃)父
来に不安を抱いた為であった。勉学へ励んでもらうた
金英は名護で育ち嘉手納にあった県立農林学校を卒業
めに、金正は叔父宮里長太郎がいる東京市江戸川区へ
後、県庁農務課に勤務。母は小学校の教員であった。
と上京させられ、日本大学第一中学校へと転校させら
一人っ子であった金正は小学校に入学するまで主に祖
れる。当時、友人であり学校へ一緒に通っていた玉那
母に見てもらい育った。そこで祖母から伝統的なしき
覇正吉は「丁度私が三年生に進級した春、金正は私の
たりを教わったようである。小学校へ入学した後は両
前から何の予告もなしに、去ってしまった。」と金正
親の仕事の都合により、3 回も転校したという。最後
について当時の様子を記している。
の転校先である那覇尋常高等小学校では、学校以外に
一中学受験のため学習塾のようなところへも通い励ん
(2)人生を変えた宮城与徳と出会いと東京美術学校
への入学
だ。後の画友となる玉那覇もそこに通っていた。
上京して 2、3 ヶ月がたち、絵が描きたくてたまら
ところで、安次嶺が絵に興味を持ちその道を志すよ
うになったのがいつ頃であったのか、彼のエッセイの
なくなり、日曜日だけ描くことが許された。しかし、
中では小学校 2 年の時であったと記されている。高
美術館や画材が豊富にあり、絵に触れる機会が地元よ
− 69 −
り多かったことを考えると、東京への上京は、絵を描
とは無かった。
両親の許しを得た金正は念願の東京美術学校を受験
く環境が更に整えられた事になった。後に安次嶺金正
することになった。しかし、1 度目は不合格となり浪
は「東京への上京は逆効果だった」と述べている。
東京へ上京して彼が中学 5 年生の 2 学期、同じ名
人生活を余儀なくされる。その後、石膏デッサンを学
護出身の宮城与徳 が叔父を訪ねてきた。叔父から与
ぶため午前は川端画学校、昼は同舟舎、晩は吉村画塾
徳の紹介を受けた安次嶺は木炭デッサンと水彩画を見
でデッサンを学んだ。二・二六事件が起こった翌年、
てもらうことになる。自らもアメリカのカルフォルニ
2 回目の受験も失敗に終わった。叔父の紹介で、伊東
ア州立美術学校とサンディエゴ美術学校で学んできた
清永 2 宅を訪れ、デッサンを見てもらう。東京美術学
与徳は、金正の素質を評価した。そして、美術学校へ
校を卒業したばかりの伊東清永から「これでは美術学
進んで絵を勉強することを勧めた。与徳は叔父を説得
校に入れないよ、不勉強だ、間違った勉強法をしてい
後、沖縄へ出かけ金正の両親に会い、東京美術学校へ
る」C と言われ衝撃を受ける。一時は絵の道を諦める
の受験許可をとりつけてくれたのである。
ことを考えたが、気を取り直し伊東清永より指導を受
1
と こ ろ で、 与 徳 の 父 与 正 は、 出 稼 ぎ 移 民 と し て
けることになった。また、「君はデッサンをやってい
1904 年に沖縄を出てフィリピン、ハワイ、アメリカ
D と取り上げられ絵
る間は色をつかってはいけない」
本土と渡り、1919 年には与徳をアメリカへ呼び寄せ
の具を焼かれた。一中時代に次いで 2 回目であった。
ている。その後、資金を蓄えた与正は早々とアメリカ
伊東清永からはデッサンのあり方について具体的な細
を離れ、与徳と与徳の兄与整をおいて名護に帰郷して
かい指導により技術を学んだ。その甲斐あって晴れて
いる。兄の与整とアメリカに残り与徳は絵の勉強のた
翌年合格し、念願の東京美術学校西洋画科への入学を
めにサンフランシスコへ出てアルバイトをしながら進
果たす。入学祝いには伊東清永から絵の具一式を合格
学に備えるが、体調を崩しロサンゼルスに移る。その
祝いとして贈られ、その後も付き合いは続いた。
後 1921 年の 10 月にはカルフォルニア美術大学に入
東京美術学校では、1 年の予科に続き 2 年の本科か
学を果たした。1923 年にはカルフォルニアを離れサ
ら各指導者による教室で学んだ。金正は藤島武二教室
ンティエゴ美術学校に転校した。当時アメリカの美術
であった。その頃の体験談がある。
雑誌『アート・ダイジェスト』でも与徳の絵が取りあ
げられ、高い評価を受けていた。与徳は 1933 年に日
ある日、先生が私のところへきて、絵を見てやろ
本に帰国する。また金正が通っていた絵画塾で 1935
うといい、私の絵の具の出し方をみて、「こんなレ
年に講師として勤務していた。その頃の与徳の年譜に
ビュー・ガールが踊っているような絵の具の出し方
金正のことが記されている。
ではダメだ」と、いきなりチューブの半分くらいで
るようにびりびりと出してしまった。こっちは金も
東京田端の絵画教室で絵を教えていた与徳に、塾
生の安次嶺金正少年が絵を学ぶ。与徳は金正少年の
B
素質をいち早く評価する。
ない貧乏学生なので、こんなに思い切った絵の具の
出し方ではたまらないと、ひやひやしていたものだ。
先生はさらに「この色とこの色とはけんかをして
いる。これはなかなおりさせなければならない。わ
また、与徳が安次嶺の実家へ訪れて両親へ掛け合
かったかね」ときいた。「はい」と答えたが、その
い、東京美術学校受験を取り付けた際、与徳の実家へ
ときの自分にはなにがなんだか、さっぱりわからな
の帰郷も含めたものであったと考えられる。しかし、
かった。
実際にその頃、沖縄へ帰省したとの記録が宮城与徳の
先生は筆を大づかみにし、いま出したばかりの絵
記録には無い。但し沖縄へ帰省した手がかりとして、
の具をねり、画面にぴたりとあてると、一本の絵筆
1934 年に与徳は「いもうと」のパステル画を残して
で塗りつぶしてしまった。
いる。妹が沖縄に居たかどうか、その記録ははっきり
そのとき「この絵のモデルがだれか、だれもわか
らない。だから自分が思ったとおりをかけ、思った
しない。
与徳が金正の絵の才能を初めて認めた人であった。
通りを描いていい絵が生まれるのだ」といわれた。
そして金正にとって宮城与得は、将来を方向づけた人
このことばはいまもって私の頭の中に残っており、
でもあった。両親へ掛け合い説得したという意味にお
苦しいとき、楽しいときに思い出すことばの一つで
いては重要な存在であったと言えよう。その後も金正
E
ある。
はしばらく与徳との付き合いが続いたようだが、美術
学校へ合格する 1937 年頃から行方が知れず、会うこ
− 70 −
当時の教官は学生からすると神様のような存在で
あったという。日本の画壇を支える 70 代の藤島はさ
とになった。捕虜から解放されたのは二年後の 1947
らに近寄りがたい存在であったとも言える。師弟以上
年であった。5 月には、広島の宇品港へ帰国、その後、
の個人的な親しい関係は無かったが、藤島教室からは、
戦前付き合っていた藤平伸子と東京で再会し、金正の
「自分が思ったとおりをかけ、思った通りを描いてい
い絵が生まれるのだ」と言われたように、絵に対する
両親が暮らす沖縄へ向かう。そして二人は結婚した。
居住地はみなと村 4 であった。
考えかたを学び、後の絵画活動で励みとなった。
ところで、手を加えられたその作品は藤島作品へと
(4)戦後の美術活動
変貌し周りの学生から羨ましがられたという。大事に
持ち帰った絵であったが、戦争で焼失した。
金正が帰郷し、みなと村に移り住んだのが 11 月で
あった。当時多くの画家が文化部芸術課に所属し米軍
当時在学中の学生は、展覧会への出品が禁止されて
の依頼に応じて風景画や絵葉書などを描いていた。し
いた。しかし 1939 年、3 年になった金正は友人の氏
かし、移設に伴い芸術課は解散、名渡山愛順、大城皓也、
名(山本道乗)を借りて F50 号の作品「浜木綿」を
山本恵一、玉那覇正吉、安谷屋正義など東京美術学校
第 3 回文展
(新文展)に出品し、初入選を果たしている。
出身の画家を中心に、1948 年春頃からニシムイ美術
友人の名前を借りて出品することは当時度々あったよ
村に移り住みアトリエを構えた。ニシムイの画家は生
うである。師の藤島武二も友人の名前を借りて出品し
活の糧を得るために米軍相手に肖像画等を描き、絵と
た記録があり、伊藤清永も同様に美校時代に帝展に入
物資と物々交換し生計を立てた。同じように金正もニ
選している。
シムイに移り住む選択肢があったが、ニシムイに比べ
安次嶺の文展初入選となった「浜木綿」は残念なが
物資が恵まれていたみなと村に住居を構えることを選
ら戦争で焼滅した。翌年は第 1 回の創元展に「童女図」、
んだ。また、戦前県庁農務科に勤務していた父金英が、
第 4 回の文展に「御願所」を出品。それぞれ入選した。
戦後は農業組合連合会の総務部長として勤務し、農業
卒業を迎えこれからと言うところに、1941 年 12 月、
組合連合会があるみなと村に拠点を構えていたためで
太平洋戦争が勃発する。同月徴兵検査を受け、甲種合
もあった。
格となるが、名誉な気持ちと同時に、死を覚悟して戦
金正はみなと村にアトリエを構えていたが、ニシム
地へ向かうことになる複雑な心境であったと後に述べ
イに足繁く通い、小学校から付き合いがあった玉那覇
ている。
正吉のアトリエでも活動を行った。そして日々芸術論
を交わすことが多かったという。ニシムイで撮影され
(3)美術学校卒業と太平洋戦争による兵役
た写真も数多く残されている。
卒業後の翌年一月、第 18 回白日展に出品、
「童遊図」
ところで当時、ニシムイのアトリエを初めて訪れた
が白日賞を受賞し、会友になった。2 月には輜重兵第
軍医のスタンレー・スタインバーグは初めて会った金
六聯隊補充隊として入隊、物資の輸送等の兵役につい
正や玉那覇等について、その時の様子をこのように
た。そこでは兵科乙種幹部候補生となり、一等兵から
語っている。
上等兵、伍長、軍曹、後に曹長まで昇格した。1944
年には営内教育を終えた後、1 月には現在の中華人民
私達の車は黒いキャンバス地を張り巡らせて壁に
共和国広東省にある濠北への派遣のため北九州の門司
した家を中心に建つ 5、6 軒の家々に着いた。そこ
港を出発した。二ヶ月後には小スンダ列島スンバワ島
には「オキナワン・アーチスト・ソサエティ」と大
ビマ港に上陸。終戦の年となる 1945 年にはマレー半
きく描かれた看板があった。近づいて行くと画家の
島にあるジョホールバルのゴム園で終戦を迎えてい
玉那覇正吉、安次嶺金正、安谷屋正義、具志堅以徳
る。そこで英印度軍 の捕虜となり、インド軍の指令
がアトリエから出てきた。彼らも私たちもお互い驚
により第 46 師団馬匹勤務隊に編入させられた。そこ
いた。全く偶然の出会いであった。それは奇妙な光
では馬の世話をさせられることになった。優秀な馬は
景だった。私たちはカーキ色のズボンに T シャツ姿、
イギリス将校が引き取り、残された馬は銃殺され地中
流行のアメリカ車に乗った米軍将校で、画家たちは
に埋められたのである。金正もその作業に当たった。
フランスのボヘミアンのような装いだった。玉那覇
戦後の食糧不足により、埋めた馬を掘り起こして盗る
はベレー帽をかぶりネクタイをはためかせ、安次嶺
ものがいたため、隊員はその見張りをやらされた。し
はバンダナを首にしめたハンサムで華やかな姿、安
かし、一夜明けた翌日には数カ所が掘り起こされて
谷屋はとても若くてゴーギャンの絵に描かれたタヒ
いたという。その後、第 46 師団残留隊に編入後、第
チの人のように見えた。F
3
35 作業大隊に編入し、戦場の後始末をさせられるこ
− 71 −
スタンレー・スタインバーグは 1948 年、米軍の異
てくる。不必要は説明描写、感激のないハッタリ、機
動命令により沖縄へやってきた軍医である。絵に興味
械的なマンネリズムそのようなものが画面を占領する
があり文化的な人であった。1950 年の帰国までの 2
旅になれば画人の生命も終いである。」5 五人展が目指
年間ニシムイに日曜毎に通い、ニシムイの画家と交友
す画家として信念もあろうが、その時の画壇に対して
を深めていった。また、スタンレーとその友人(エイ
の批判であったと思われる。安次嶺は第一回展のパン
ベルマン)は安次嶺や玉那覇等から絵の手ほどきを受
フで自然と美の表現について記している。それについ
けて共に絵を描いていた。現在もスタンレーの自宅(サ
ては後章で言及したい。
ンフランシスコ)には安次嶺や玉那覇などニシムイ画
家の作品が展示されている。
2.五人展会場前で 1951 年
1.1950 年頃のニシムイ美術村での撮影
また、金正は 1948 年 5 月ニシムイ美術村ができて
間もない頃、既に第 1 回の個展を古波蔵農園のコン
セットで開催し、肖像画など 25 点の作品を出品して
いる。戦後初めての個展であった。そして、その年に
は長女正子が誕生。翌年の 49 年には沖縄タイムス一
周年事業として沖縄美術展覧会(現在の沖展)が崇元
寺旧本社で開催された。金正は「ゆうわく」
「ひるさ
がり」の油絵 2 点を出品した。沖縄美術展覧会の審
査員は名渡山愛順や大嶺政寛、大城皓也など戦前から
活躍していた戦後の第一世代の画家であった。その審
査により第 1 回の入賞に輝いたのが大村徳恵であっ
3.壺屋にて 1952 年
た。
五人展は、スタンレーとエイベルマンがアメリカか
(5)五人展と創斗展
ら送ったゴッホやルオー、マチス、ピカソなどの近代
-絵画の変貌とその変遷-
美術の複製品を同時に展示し、県民に紹介した。近代
翌年の 1950 年には金正を含むニシムイの画家 5 人
絵画を公開する事により自らが目指す表現をも意識し
が五人展を発足させた。五人展の第 1 回展は壺屋小
てのものであったとも言える。また、山里永吉を中心
学校で行われ、作品を通して芸術に対する主義、主張
に琉球民芸研究所を発足させ、陶芸家金城次郎や新垣
を行った。これは、沖縄美術展覧会へのアンチテーゼ
栄三郎、小橋川永昌などから指導を受けながら陶芸活
として新たな芸術の深化を目指す目的があった。その
動を行った。安次嶺金正、玉那覇正吉、安谷屋正義、
中で、安谷屋正義は五人展のパンフ内でこの様に記し
具志堅以徳等は、「美術家の立場から、型にはまった
ている。
「人間の社会は雑音が多い。その雑音に負け
壺屋の陶器に対し新しい意匠や時代の感覚を盛ろうと
ると純粋であるべき二次元の世界に他人の思惑が入っ
いう運動」G を興し陶芸の制作も行った。琉球赤絵に
− 72 −
よる陶芸作品も制作され、即売会を開催し五人展にも
こり若い芸術家がその影響を受け、抽象絵画の拡がり
出品した。五人展は美術のみならず工芸の領域へも拡
があった。そして、県内においても 1955 年頃を境に
がりを見せ、多彩な展示会となった。1954 年の第 9
画風が大きく変わることになる。創斗展の作家はこの
回展で五人展は幕を閉じることになった。
文言に記された「創造こそが芸術」とあるように創造
その 4 年後、安次嶺金正、玉那覇正吉、安谷屋正義、
としての絵画、つまり抽象的な斬新な作風「未來の可
安次富長昭により創斗展を発足させる。第一回展は、
能性」を追求した。安次嶺は第一回展で 15 点の作品
沖縄タイムス社の 3 階ホールで行われた。そのパン
を出品している。その中に「がじまる」3 点、
「バナナ」
フレットには五人展のような主義主張の文言は無く、
2 点、「浜木綿」2 点等がある。「裸婦」を除けばほと
シンプルにまとめられているが、発足の冒頭にこのよ
んどが植物など、緑をテーマにした作品であった。他
うな文言が添えられている。
の作家がアンフォルメル的な抽象画へと変貌していく
中、安次嶺は緑を基調に独自の表現法で展開していっ
た。
吾々は創斗会を結成致します。
ところで、1950 年以降の安次嶺金正の役職を追っ
うたわざる詩人、描かざる画家は、吾々の仲間では
認めることが出来ません。
てみたい。五人展が 1950 年から 1954 年まで年に 2
表現されたものの中に真実が存在します。
回のペースで展覧会を行う中、1952 年に首里高校の
勿論、表現は主観的なものかもしれませんし、然し
教諭として就任、1953 年には琉球大学の非常勤講師
表現されたものは、普遍的なものでありたいと希い
として勤務し、翌年の 1954 年には琉球大学文理学部
ます。
美術工芸科助教授になった。その後多くの後進を育
何故ならば吾々は-見るもの、創るもの-現在に生
てた。59 年には沖縄民芸協会理事を行い、かつて活
きていますから
動を行った琉球民芸研究所での研究を活かして民芸
の発展に携わった。「浜田庄司作陶展」の展評で民芸
又、美は驚きと、感動と、希望の中に生まれると思
について 64 年 3 月の沖縄タイムスに掲載している。
います。
1960 年には文部省内地研究員として東京藝術大学
美は蓄積出来ません。美は創造の中にしかありませ
美術学部に研修に出かけ、更に研究を深めていった。
ん。
61 年には琉球大学教授へと昇格した。64 年には文化
常に未來の可能性を追求するところに、創造の喜び
財専門委員に任命され、1969 年には全国造形教育研
があると思いますそして-
究大会沖縄大会の研究局長として勤めた。研究会報告
創造こそ芸術だと思うのです。
の中で、造形教育の有用性について触れ「知性的な面
と感性的な面というものは両立していかなければなら
その様な目的で、吾々のグループは結成されました。
ない」「感性というものはお互いの風土の中から生ま
今後私達と同じ様な気持ちを持った人々を、加え真
れてくるものではないか」
「感激というものは科学じゃ
H
の創造の世界を築き上げたいと思います。
表現できない、これこそお互いの造形美術の中でしか
I と、美術教育の有用性について述べて
表現できない」
いる。他に新聞の挿絵を手がけ、産業デザイン振興会
の副会長を務めた。大学教員退官後も絵画の審査員等、
多くの役職を務め美術界に貢献した。
2.安次嶺金正の美術論
(1)安次嶺金正とデッサン
-デッサンと「段落」、そこから見えるもの-
東京美術学校を卒業するまで金正に影響を与えた画
家は多く、とりわけ、東京美術学校へ入学するまで多
くの画家の指導を受けた。初めて素質を認めた宮城与
徳、朝昼晩とそれぞれの画塾での指導、そして特に辛
辣な批評を受けた伊藤清永からの技術指導の影響は大
4.1958 年 創斗展会場にて
きく合格への道筋を掴んだと言える。そして藤島教室
1955 年頃から全国的にアンフォルメルの動きが起
で学び、絵に対する考え方もその根底にはあるとい
− 73 −
う。安次嶺は終生デッサンの重要性を唱えていた。安
をそっくりに捉えたからと言ってそのものを捉えたこ
次嶺にとってデッサンというものが、どのようなもの
とにはならず、その物を捉える上で「段落」の重要性
であったのか。受験対策としての領域に留まらないそ
は説くが、「段落」を感じさせないように表現する必
の考え方がどのようなものであったのか。デッサンと
要があるという。表現法の本質と「段落」との微妙な
独自の絵画論とがどのように結びつくのか、その糸口
関係性について述べている。同時に安次嶺絵画を構築
について言及したい。一見、構成的な安次嶺絵画の中
する上での解釈論や認識論といった物のとらえ方と表
に、その起源となる理念やものの捉え方がデッサンの
現との関係性がその論説から垣間見える。安次嶺の平
中にあるのだろうか。安次嶺は独自の視点からデッサ
面的な画面処理もこのような理論が根底にあるのでは
ンの重要性について述べているが、その文言を追いな
ないか。
がらその視点について観てみたい。
(2)変貌する美術と固有性との拮抗
石膏デッサンをやったから絵描きになれると言う
-前衛美術と安次嶺の絵画論-
訳でもないが、物の見方というか、物それ自体の形
1950 年代の中期からアンフォルメルの影響を受け
としてのとらえ方がわかってくる。まわりくどい言
抽象絵画の到来があった。本県においても当時の若手
い方になるが、向こう側の石膏と、こっち側の作品
画家がその影響を大きく受け、絵画の解体があった。
の間にある調子なり、あるいは形なりの「段落」が
また、60 年代はアクションペインティングやコンセ
わかるようになる。このダンラクという言い方は私
プチュアルアートなど欧米や中央で前衛芸術の盛り上
なりに見つけたものだが―。自分の描く線が、石膏
がりがある中、とりわけ戦後の第 3 世代の若手作家
像の線にピタッとダブるまで何度でも描き直しをす
がその影響を受け独自の展開を進めていた。沖縄の美
る。最初はだめだが、そのうちに重なってくる。そ
術史の中でエネルギッシュな拡がりがあった時代で
れは大変な忍耐が要る。形を正確に表現するという
あった。そして、美術の分野も時代を追うごとに拡が
ことの前提条件として、この「段落」がのみこめて
りを見せ様々な新しい美術の形態が誕生した。しかし
J
いないといけない。
その中で安次嶺は、安易に新しい物といったアイデア
勝負の作品のあり方については提言を述べ、このよう
ここの「段落」とは、デッサンに明け暮れた頃に安
に訴えていた。
次嶺が鍛錬し、つかみ取った感覚的な解釈を独自の言
い方で表現した文言である。文学的とも取れる「段落」
今の若い人たちはデッサンがしっかりしていなく
だが、この「段落」については、物の形を捉える上で
ても当たり前になっている。この違いは大きい。今
重要であると唱えている。この文言はデッサンについ
の若い人はデッサンの弱い部分を何でカヴァーして
て述べているが、晩年の安次嶺絵画にも通ずるもの
いるか。時にはアイデアそのものがフォルムと受け
があろう。金正は 1950 年代から構成的な絵画へと変
取られている向きもある。今の人はアイデアが変化
貌する。デッサンに見た「段落」は同時に、安次嶺絵
すると、もう誰の絵だかわからなくなる。私の経験
画が変貌する中でも確実に揺るぎないものとして、物
では、アイデアばかりに頼っていると、必ず行詰ま
を捉え表現していく要素の一つとしてあったと思われ
る。その行詰まりを打開するために、叉、アイデア
る。更に「段落」についてはこのようにも述べている。
を変える。その繰り返しを無駄な努力というのだ。
本当の絵というものは、具象であれ抽象であれ、色
石膏像を仮に真正面からそっくりその通りに描い
にしろ調子にしろその人なりのものがある。今の展
たとする。
それもひとつの正確な形ではある。
「段落」
覧会で誰の絵だかわからないものはアイデアの面白
もない。次にその石膏像を横に向けた時、絵が宙に
さだけにのっかっているためだと思う。考えてごら
浮いてしまうと困るというのだ。正確にということ
ん。人間同志の思いつきなどというのは、大抵似か
は、石膏像を動かして、絵との間に「段落」が生じ
よっているものだから、どんなに奇に抜だと本人が
ても、
なおそのものを表現していなくてはならない。
思っていても、必然的にどこかで似たことを思いつ
その時、
「段落」はあるけれども、「段落」を感じさ
くのがいるものでね。すると、“ どこかで見たよう
K
せないことが一番のポイントである。
な絵 ” になってしまう。沖展や県展でもそうだ。私
は “ どこかで見たような ” ものを絵とは思わない訳
ここでは「段落」を単に解釈論に終わるのではなく、
表現する上で重要なポイントについて述べている。形
− 74 −
L
です。
ここでは、安易なアイデアや斬新さだけに偏った表
わらげ、うるおいをあたえる。私はその美しさを表現
現形態が抱える落とし穴について触れ、負のスパイラ
して見たいという衝動にかられる。その時心臓は早鐘
ルへ陥ることへ警告を発している。
「その人なりのも
の様に鳴り興奮を他にかくす事は出来ない。美は私を
の」と云った個々が追求しその人なりに積み重ねて作
盲目にする。然し美は泥沼にいる時でも理想と勇気を
り上げることの大切さを説いている。1960 年代以降
ふるいたたせる。美を一本の藁にたとえ、それにすが
県内でも様々な美術の出現により広がりが出てきた
O
りつきたいと私は思う。
が、同時に表現する上で重要なものが存在し、見失わ
ないような努力も重要であるという。先にも述べたよ
ここでは自然と芸術の関係について述べられている
うに、デッサンに見る「段落」の関係の確かさ、表現
が、安次嶺絵画にも通ずる理論であるのか。自然の美
の仕方が持てているのかどうか。あるいはそれを培い
しさと芸術の美しさとは別の物であるという。そして
独自で積み上げていく努力がなされているのか。また、
自然は学ぶものであり、模倣するものではないとし、
“ その人なりのもの ” についてはこのようにも述べて
画家は真の美を創り上げるように務めなければならな
いる。
いと説いている。また、金正自身、美への憧れについ
てその思いを謳い、美を創り上げる事が能動的に行わ
芸術はその人個人の活動であって、孤独な活動で
ある。個人が人生観に対するあるひとつの真理の表
れるものであると、自己の情動の様子を述べている。
そのことは同時に孤独の美の追究とも言えよう。
現をしているわけである。こうした主観的活動とい
うのは他人に知らせることはできないし、また、他
(3)絵の中のリアリティーについて
M
人のものを自分が知るというわけにもゆかない。
前項で芸術の美と独自性について述べたが、客観的
な芸術の価値としてのリアリティーについても触れて
何が絵画の仕事かと云えば、その作家が、有形、
無形に、また、精神的に、肉体的に、体験した事を、
いる。安次嶺はリアリティーについてこのように述べ
ている。
絵画といふ形式を借りて、表現してあることです。
そこに美が存在するのです。その美は自然の美では
絵画と云う平面上の操作を通して創造されるレア
ありません。美には自然の美と、絵画の美がありま
リテというものが、実生活のレアリテそのものでな
す。いわゆる其の人は自然の美を自分の経験により
いことは子供でもわかることである。―絵画の栄養
N
解釈し、絵画の美に置きかえたのです。
源としての実社会のレアリテというものと、画面に
構築された、絵画としての社会とは全然血液型の違
このように、造形活動をすることが孤独であること
うレアリテであると云うてみたのである。―吾々は
について述べ、
「個人が人生観に対するあるひとつの
画面に向かって絵を描くのであるが、実生活のレア
真理の表現をしているわけである」と説いているが、
リテを画面のレアリテに変貌させるのが技術であ
それが “ そのひとなりのもの ” として、独自の経験か
る。しかし、技術というのは創り出すのではなく、
ら作用し生まれる造形表現が、芸術という美を生み出
眼が創り出す事を忘れてはならない。―技術は眼に
すと安次嶺は謳っている。また、自然美と芸術の美に
従属しているのだが眼は精神のことであるから、眼
ついてはこのようにも述べている。
に従属した技術ということは、方法論としての眼で
あり技術であるということである。そして、方法論
自然には自然の美しさがある。出来上がった芸術
としてのこの眼は歴史とともに変わる。これが美術
には芸術品の美しさがある。芸術は自然の模倣では
史だ。人間は、何でも見えると思うが、そうではな
ない。芸術品は又自然の模造品でもない。そこに芸
い。自分の持つ方法論の範囲でしか見えない。だか
術の価値がある。もし芸術が自然美の模倣に終われ
ら、自分の外に社会というものがあると確信したと
ば芸術品を見る必要はない。直接自然の美しさを楽
ころで、実際自分に見える社会は、自分の方法論を
しんだ方が利巧だ。自然より学ぶことは大事である
通してであるし、その枠内に限られるわけだ。だか
が、模倣は自然に対する冒涜だと私は思う。私は自
ら、芸術家は謙遜であることが必要になるのだ。此
然を愛する自然は私の良き指導者であり、自然より
の方法論を常に刷新するアヴァンギャルドの精神を
学び取り真の美を創りあげる事に努力したいといつ
もたなければ、未知数の世界の探求や発見ができな
も希っている。
P
いことになる。
私は美しいと云う事に憧れる。美は私の気持ちをや
− 75 −
自然への憧れと美の追究に加え、固有性と物のリア
であるが、絵を描くとなると、なかなかうまくい
リティーを探求するための精神性。風景の発見として、
かない。それは「青い海青い空」も同じことがい
独自の眼への疑いと新たな絵画的視野の拡がりを求め
えそうである。確かに緑の木や、青い海、青い空
た安次嶺の絵画論があった。
は見えるが、いざ絵の具でキャンバスに描いて見
安次嶺は 1950 年代中ごろからバナナなど緑の対象
ると、形まではそれらしく見えるが、緑や青は全
を描くようになった。同時に「アヴァンギャルドの精
然見えない。色々な手段を講ずるが思うようには
神」による絵画活動の展開であり、
「未知数の世界の
いかない。特に私は緑の色が好きだから、せめて
探求や発見」へ向けての活動であった。とは言え、そ
緑の木ぐらいはとがんばっているが、うまくいか
もそも緑の世界に安次嶺を掻き立てたものがどのよう
ない。
なものであったのだろうか。緑の世界に何を見いだし
(ハ)本土における緑の木と青い空は、静寂と安全
たのであろうか。
であるが、沖縄における緑の木と青い空は期待と
希望である。
(4)緑に見る安次嶺絵画
安次嶺は緑の画家と云われるほど緑を基調にした作
(二)沖縄の島はつよい、緑の樹木はつよい。さす
品が多い。前項に自然と芸術について述べているが、
「私は緑の樹木が大好きである」と安次嶺が云うよう
が「うりずんの島」である。太陽の暖かい光、適
に描かれた作品群が意味する緑とはどのようなものな
度な雨量は緑の島全体にめぐみを与えてくれたの
だ。たたかれても立ちあがることができるのは、
のだろうか。幼少の頃、名護で育った安次嶺はやんば
るの風景が既に自明なものとして周りに存在した。安
「青い海青い空」それに「緑の木」である。沖縄
次嶺にとって、その緑が郷愁となって滲み出てくるの
の島がもつ緑の色と青い色、つまり期待と希望の
であろうか。緑に何を見いだし、どのような可能性や
色があるからである。私が緑の絵を描くのも、常
心象があったのだろうか。
に期待と希望を持ちたいからである。
(ィ)本来沖縄の島は緑の島である。どこまで行っ
(ホ)政治行政、人々が生きていくための社会秩序
ても樹木がおいしげり、どこに家があり人が住
など、全てが変わっていく中で絶対に変えていけ
まっているだろうと思う程である。どちらかとい
ないものがある。それは「青い海」「青い空」「緑
えば樹木の緑の中にひそんでいると言った方が適
の島」「明るい太陽」である。これらのものは沖
切な表現だろう。暑い太陽から、まぶしい光から、
縄の風土を創りだしている。現存する伝統の文化、
おそろしい暴風雨から身を守る生活の知恵といっ
Q
伝統の芸術はこの風土から生まれたのだ。
てよい。
緑を題材に描き続ける安次嶺の視点や思いが述べら
(ロ)
「がじゅまる」は枝が横に張りだしているので、
れている。自然の中に美を見いだした安次嶺はそのも
太陽の厚さと光をさえぎり、広い範囲に陰をつく
のが持つ意味性について追求していった。それは生活
る。家の者が仕事にでた後、おばあさんが孫をあ
の一部であり、希望であり、沖縄の文化を支える存在
やす場所になり、小さな孤児が 5、6 人集まると、
として、様々な物に精通する対象としてその深さを感
もう立派な保育園である。女が集まれば、井戸端
じ取った。同時に安次嶺が幼少から見てきた風景でも
会議が始まる。男が集まれば、三味線と泡盛だ。
あったのだろう。現在では(ロ)の様な光景があま
こんな平和な緑の島の風景も今では 40 歳代以上
り見られなくなったが、かつては木の下がコミュニ
の人でなければわからないだろう。そこで私は、
ティーの場であり、生活の一部であった。また、安次
「青い海青い空」に、もう一つ「緑の島」の言葉
をつけくわえたい。
嶺が見る沖縄は「青い空」
「青い海」ばかりでなく「緑
の島」であると説く。緑が生活を支えると同時に、文
私は緑の樹木が大好きである。樹木も、その形
や色でいろいろのおもきがあるが、中でも年中あ
化を支え、希望を生み出すエネルギーであると謳って
いる。
おあおとしている緑の木が好きだ。私の家の庭も、
更に、(ハ)の文言から、安次嶺が感じ取った本土
緑の木を植えて楽しんでいる。外から見ると家が
の緑と沖縄の緑の違いについて述べている点が興味深
見えないくらいである。ところがこの緑の木は、
い。本土の緑の木と青い空が静寂と安全であるのに対
生活とむすびつけて考えると実にすばらしいこと
して、沖縄では期待と希望であると述べている。上京
− 76 −
し東京で生活した安次嶺が感じ取った同じ緑にしてそ
の意味が示す差異である。これは単に印象だけのもの
ではあるまい。色が意味するもの、それはその土地で
緑が果たす役割であり、そこで生活する者が感じ取っ
た体験からである。戦後、戦火により廃墟と化した沖
縄の風景は絶望といった状況であった。安次嶺はその
絶望の中から短期間で生い茂り、森へと成長した緑の
繁殖力の強さに魅力を感じた。繁殖力こそ沖縄独特の
右段 4 行
L 安次嶺金正画集 1982 年 発行者 : 安次嶺金正 119 頁
右段 2 行
M 「今後の造形教育」沖縄タイムス記事 1969 年 7 月
N 第 7 回五人展パンフレット 1953 年 11 月
O 五人展パンフレット 1950 年 3 月
P 第 2 回五人展パンフレット 1950 年 8 月
Q 琉球新報 1975 年 9 月
強さであり、瀕死の状況から立ち上がる沖縄の状況と
重ね会わせたところに、希望へ向かう願望とが相俟っ
て出てきた風景の色でもあった。安次嶺自身戦後廃墟
と化した沖縄を憂いていた。その後、緑の復活の様子
注釈
1 宮城与徳
1903 年名護村東江に誕生する。名護尋常高等小学校の頃、
を喜んでいる。また「私が緑の絵を描くのも、常に期
担任であった比嘉景常の影響を受けて絵に目覚める。美術
待と希望を持ちたいからである」と述べているように、
工芸の専門が学べる沖縄県立工業徒弟学校への進学を希望
そこに希望を見いだし、固有性の源泉となっている。
していたが、成績が良かった与徳は担任や周りの勧めで
緑が生み出す世界観に共鳴した安次嶺の作品は、計
1917 年沖縄県師範学校を受験することになる。1918 年
算された構成的な側面を持つ一方、抒情的でもある。
予科を終え本科に移るが、肺結核を理由に退学する。名護
そして、幻想的な安次嶺独特の世界観が構築されてい
へ戻り静養していたところ 1919 年に父から呼ばれてアメ
る。象徴的な一つの形にこだわることなく、緑の空間
リカへ渡った。アルバイトをしながら 1921 年 18 歳の時
の中に拡がりや可能性を見いだし、表現の深化があっ
にカリフォルニア美術学校に入学。1923 年にサンディエ
た。そこに安次嶺の内奥の心象があり「アヴァンギャ
ゴ美術学校へ転校する。1933 年、当時の日本共産党議長、
ルドの精神」で追い求めた安次嶺の原風景が探求され
参議院議員であった野坂参三が訪れ、日本への帰国を促さ
た。平和を求める緑は、沖縄の生活の根源であり、コ
れた。同年に帰国しソ連スパイのゾルゲと会っている。日
ミュニティーの場であり、伝統文化発祥の土台であっ
本では画家として、あるいは絵画教室の講師をしていた。
た。そして強さを兼ね備えた緑の力は、自明となりす
1941 年にスパイ容疑で逮捕、1943 年巣鴨の獄中で死亡し
ぎた見えない沖縄の新たな風景を浮かび上がらせる安
た。享年 40 歳。
与徳はゾルゲとのスパイ活動について「ソ連と日本の戦争
次嶺絵画の表現の旅でもあった。
を回避させるための情報収集であった」と述べていたと言
う。
出典
2 伊東清永
A 安次嶺金正画集 1982 年 発行者:安次嶺金正 152 頁
1911 年兵庫県出身、1935 年東京美術学校西洋画科卒業、
左段 18 行
1935 年文展で選賞(特選)受賞、
1947 年日展で特選受賞、
B 宮城与徳-移民青年画家の光と影- 著者:野本一平、発
1956 年日展審査員、1984 年日本芸術院会員、1996 年文
行者:沖縄タイムス社 1997 年 335 頁、5 行
化勲章受章、2001 年長野県で逝去、享年 90 才
C 安次嶺金正画集 1982 年 発行者:安次嶺金正 181 頁
8行
3 イギリス領インド軍
4 漫湖と那覇港を挟んだ周辺市域、奥武山・壺川・旭町・楚辺・
D 安次嶺金正画集 1982 年 発行者:安次嶺金正 152 頁
泉崎・古波蔵の一部 1947 ~ 1950 までの地名)
右段7行
E 安次嶺金正画集 1982 年 発行者:安次嶺金正 152 頁
右段 26 行
F 移動と表現 2009 年 発行者:沖縄県立博物館・術館 16
参考文献
・宮城与徳遺作画集 1990 年 発行者:沖縄タイムス社
・宮城与徳 移民青年画家の光と影 1998 年 著者 野本一
頁 32 行
平 発行者:沖縄タイムス社
G 沖縄タイムス新聞記事 1952 年 11 月 30 日
H 全国造形教育研究会パンフレット 1969 年 8 月
・安次嶺金正画集 1982 年 発行者:安次嶺金正
I 全国造形教育研究会パンフレット 1969 年 8 月
・沖縄文化の軌跡図録 2007 年 発行者:沖縄県立博物館・
美術館
J 安次嶺金正画集 1982 年 発行者 : 安次嶺金正 117 頁
・移動と表現図録 2009 年 発行者:沖縄県立博物館・美術館
右段 7 行
K 安次嶺金正画集 1982 年 発行者 : 安次嶺金正 118 頁
・新生美術 11 月号 1996 年 発行者:星雅彦
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年譜 安次嶺 金正
油絵 30 号「童女図」(現在渡辺多歌音氏所蔵、モ
デルは宮里長太郎の二女当時満 5 歳 従妹に当る)
ASHIMINE, Kanemasa
当時創元展は、日本美術協会の会館(上野)で開
1916 年 大正 5 年 12 月 5 日、国頭郡名護町字宮里 175
かれた。10 月 16 日〜 11 月 20 日、第 4 回文部省
番地に生まれる。父・金英、母・ナヘの長男。
美術展[新文展]
(東京府美術館)にて『御願所』
(油絵 F50 号)が入選。12 月 8 日、徴兵検査を受
1930 年 14 歳 昭和 5 年 那覇市久米町 1 丁目 24 番地
け甲種合格。12 月 25 日、東京美術学校油画科を
に転居。4 月、沖縄県立第一中学校入学。佐藤良
3 カ月繰り上げ卒業
次(京都絵専日本画科出身)の指導で、宮城健盛・
山口恵曠・屋比久猛俊・伊良皆宣勝・玉那覇正吉
等と「竜泉会」を結成、展覧会開催。県立第 2 中
1942 年 26 歳 昭和 17 年 1 月、第 18 回白日展(東
京都美術館)に『童遊図』(油絵 F50 号)出品、
学校の「樹緑会」に対抗する意気込みだった。
白日賞受賞、会友推薦 昭和 17 年 2 月 1 日、輜
重兵第六聨隊補充隊(熊本市)に入隊、兵科乙種
1933 年 17 歳 昭和 8 年 3 月 18 日上京する。中学 3
幹部候補生となり一等兵、伍長、軍曹、曹長と進
年のとき、絵に熱中するあまり絵具箱や絵の材料
級
を父に焼かれる。叔父の宮里長太郎(母の弟、当
時東京在住)のもとで生活、日本大学附属第一中
学校 4 年に転校する。叔父の家(東京市江戸川区
1944 年 28 歳 昭和 19 年 1 月、営内教育を終えた後、
濠北派遣のため門司港を出発。3 月に小スンダ列
小岩町 1277 番地)には、東京美術学校を卒業し、
島スンバワ島ビマ港に上陸
軍隊に入隊するまで世話になる。
1934 年 18 歳 昭和 9 年 中学 5 年生の 2 学期の初め
1945 年 29 歳 昭和 20 年 8 月 14 日、マレー半島ジョ
ホールバルで終戦、同時に英印度軍の捕虜となる。
ごろ、叔父を訪ねてきた宮城与徳に紹介される。
昭和 20 年 08 月 14 日、マレー半島ジョボールバ
絵の才能をみとめ、美術学校に進むことを勧めら
ルのゴム園で終戦を迎える。終戦と同時に英印軍
れる。宮城与徳は叔父と沖縄の両親を(帰郷して)
の捕虜となる。
説得し美術学校受験の許可をとりつける。
1935 年 19 歳 昭和 10 年 3 月、日本大学附属第一中
1947 年 31 歳 昭 和 22 年 5 月 19 日、 宇 品 港 上 陸、
召集解除。11 月 16 日、沖縄帰還。久場崎に上陸。
学校卒業。美術学校受験に失敗。川端画学校、同
藤平伸子と結婚。みなと村の中にあった農業組合
舟舎、吉村画塾において石膏素描を学び、午前、
連合会(農連会長・平良辰雄、父・金英総務部長)
午後、夜間と基礎勉強に精を出す。
の住宅地域に落ち着く。
1936 年 20 歳 昭和 11 年 2 月 26 日、二・二六事件
起こる。3 月、叔父に連れられ伊藤清永宅を訪問
1948 年 32 歳 昭和 23 年 5 月、第 1 回個展(那覇市
古波蔵農園コンセット)
。比嘉永元氏(農務部長)
し教えを受ける。2 度目の美術学校受験に失敗。
の肖像画ほか 25 展出品。8 月 28 日、長女・正子
誕生
1937 年 21 歳 昭和 12 年 4 月、念願かなって、第三
回目の受験で、東京美術学校西洋画科(現東京藝
術大学美術学部油画科)に入学。田辺至に人体素
1949 年 33 歳 昭和 24 年 7 月 2 日〜 3 日、第 1 回沖
縄美術展(那覇市崇元寺前の旧沖縄タイムス社本
描を、藤島武二に油絵を学ぶ。夏休み、伊藤清永
館)招待出品。『ゆうわく』『ひるさがり』
(両方と
を伴って帰省
も油絵 F15 号)以来毎回出品する。運営委員、
会員、
審査員を委嘱され現在に至る。米国民政府主催全
1939 年 23 歳 昭和 14 年 10 月、第 3 回文部省美術
琉球美術展に出品する。
展[新文展]
(東京都美術館)にて『浜木綿』
(油彩・
F80 号)が入選。三重県の友人(山本道乗)の名
前を借用して出品。戦災で焼失。
(画集には 40 年
1950 年 34 歳 昭和 25 年 3 月、「五人展」結成。安
で掲載)
次嶺金正・安谷屋正義・玉那覇正吉・金城安太郎・
具志堅以徳、1954 年の第 9 回展まで行う。3 月
1941 年 25 歳 昭和 16 年 5 月、第 1 回創元展に入選。
− 78 −
30 日〜 4 月 2 日、第 1 回五人展(壷屋小学校)
。
『私
はつかれた』『赤・白・黒』『こわれた家』『サキソ
フォンを吹く』
『自画像』出品。10 月 14 日〜 16
1954 年 38 歳 昭 和 29 年 3 月 27 日 〜 31 日、 第 6
日、第 2 回沖縄美術展(二中同窓会館)
「赤い椅子」
回沖展 「瓦屋根」 「バナナ」 「瓦屋根」出品。4
「百合」「花」
「緑」
。10 月 18 日、長男・正一誕生。
月、琉球大学文理学部美術工芸科助教授。4 月、
ひめゆり橋服装学院講師(〜 1976 年 3 月)
。4 月
12 月 25 日、父・金英病没(享年 56 歳)
3 日〜 15 日、第 13 回創元展(東京都美術館)に『の
ぼりがま』
(油絵 F60 号)出品、准会員に推挙。5
1951 年 35 歳 昭和 26 年 3 月 30 日〜 4 月 1 日、第
3 回五人展(那覇高校)
『市場所見』
『でいご』『庭
月、那覇市工産品展示会審査員(〜 1969 年 5 月)
。
中童女図』
『庭』
『T 氏の像』出品。5 月、
安谷屋正義、
5 月、那覇市産業観光ポスター展審査員(〜 1969
玉那覇正吉らと壷屋に通い、金城次郎・新垣栄三
年 5 月)
。7 月 2 日(金)〜 4 日(日)
、第 9 回五
郎の指導のもと陶芸制作(〜 1959 年)
。11 月 3
人展(那覇琉米文化会館)に『バナナ』
『黒い壺』
『白
日〜 5 日、第 3 回沖展(那覇琉米文化会館、アン
い花』『名護の山』『名護の浜』『木麻黄』出品(午
デパンダン展)に『豊穣 1』
『豊穣 2』
『豊穣 3』出
前九時より六時まで)
品。陳列委員。第 4 回五人展 9 月 8 日〜 10 日(那
1955 年 39 歳 昭 和 30 年 3 月 26 日 〜 30 日、 第 7
覇文化情報会館)
回沖展(壺屋小学校)に『バナナ』
『バナナ』
『月光』
『薫風』出品。4 月、創元会入選
1952 年 36 歳 昭和 27 年 4 月、首里高等学校図画科
教諭。4 月 5 日〜 7 日、第 5 回五人展(崇元寺琉
米文化情報会館)
。
『赤いバラ』
『白いバラ』
『白と
1956 年 40 歳 昭 和 31 年 3 月 24 〜 28 日、 第 8 回
青と黄』
『赤と白と黒』
『赤い服』
『古波蔵部落』
『女達』
沖展(壺屋小学校)に『白い幹』
『赤い幹』
『黒い幹』
の 7 点出品。*画集では「
『赤いバラ』
『白いバラ』
出品。4 月 3 日〜 18 日、第 15 周年記念創元展(東
『バナナ』
『リンゴ』
『リンゴ』制作」
。4 月 19 日、
京都美術館)に『初夏』
『薫風』
(油絵 F100 号)入選。
沖縄タイムス紙の新聞小説「水脈」
(作 : 泊之男、
会員に推挙。10 月 11 日〜 14 日、沖縄美術家連
画 : 安次嶺金正)スタート(〜 9 月 9 日 140 回で
盟結成、第 1 回展(琉米文化会館/那覇市)出品
終了)。7 月、山里永吉を中心に山元恵一、玉那覇
正吉らと琉球民芸研究所を結成。壷屋の新垣栄三
1957 年 41 歳 昭 和 32 年 3 月 31 日 〜 4 月 15 日、
郎氏宅で制作。9 月 13 日〜 15 日、
第 6 回五人展(琉
第 16 回創元展(東京都美術館/東京上野)に『バ
米文化会館/那覇市)に『バナナ』など 7 点出品。
ナナ』出品。3 月 23 日〜 27 日、第 9 回沖展(壺
10 月、宮里静湖作・新聞小説「獣人」
(琉球新報)
屋小学校)に『初夏』
『薫風』出品。9 月 1 日〜 5 日、
の挿絵 9 編連載。11 月 15 日〜 17 日、第 4 回沖
招待美術展出品
展(那覇琉米文化会館、アンデパンダン展)に『陶
器図』
『G 氏の像』
『裏庭』出品*画集では第 4 回
1958 年 42 歳 昭和 33 年 1 月、「創斗会」結成。安
沖展に『百合』
『風景』
『市場』出品」
。11 月 17 日、
谷屋正義・安次嶺金正・玉那覇正吉・安次富長昭
次男・正英誕生
の 4 人で第 1 回展スタート、その後美術工芸科の
学生が参加し総勢 15 人となる。1 月 11 日〜 13 日、
1953 年 37 歳 昭 和 28 年 3 月 27 日 〜 31 日、 第 5
第 1 回創斗展(沖縄タイムス 3 階ホール、後援タ
回沖展(那覇高校新校舎、アンデパンダン展)、
『窯
イムス)開催。『がじまる(A)』
『がじまる(B)
』
『立
積む人』
『風景』
『風景』出品。4 月、琉球大学教
木』『浜木綿(A)』
『浜木綿(B)』『とらの尾』『た
育学部美術工芸科非常勤講師。4 月、第 12 回創元
たづまい』
『裸婦』
『バナナ(A)』
『バナナ(B)
』
『む
展に『バナナ』
(油絵 F60 号)出品。5 月 30 日〜
くげ』
『でいご』
『さばに』
『風景』
『がじまる(C)
』
6 月 1 日、第 7 回五人展(那覇流米文化会館)
『壷
出品(沖縄タイムスホール)。3 月 23 日〜 27 日、
屋』『バナナとクロトン』
『白百合花』
『風景』
『赤
第 10 回沖展(壺屋小学校)に『階段』
『ようじゅ』
い葉の垣根』
『田舎道』
『久志岳』出品。6 月、第
出品。4 月、第 17 回創元会展(上野)に『佇住』
『佗
1 回全琉小・中・高校図画作文コンクール図画の
住』会員出品。5 月、琉球国際美術家連盟(RIAL)
部審査員。6 月 6 日〜 16 日、戦後初めて開催され
の会長就任。琉米の画家達が美術を通して文化交
た美術教育講習会(沖縄タイムス社主催)で安谷
流する目的で結成されたグループ。11 月、第 2 回
屋正義・山元恵一らと講師。12 月 4 日〜 6 日、第
創斗会展
8 回五人展(那覇文化会館/那覇市)に『庭』
『老樹』
『瓦屋根』
『バナナ』
『むくげ』
『風景』
『街道』
『裸婦』
1959 年 43 歳 昭和 34 年 沖縄民芸協会理事・沖縄文
化協会評議員。3 月 21 日〜 25 日、第 11 回沖展
出品
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第 8 回創斗展(沖縄タイムスホール)に『森』
『地
(壷屋小学校)に『がじまる』
『バナナ』出品。4 月、
平線』『平な山』『青い空』出品
第 18 回創元展に『黒い幹』
(50 号)
『赤い幹』
(50 号)
会員出品。12 月 5 日〜 7 日、第 3 回創斗展に『風
1965 年 49 歳 昭和 40 年 3 月 30 日〜 4 月 3 日、第
景』
『白い木』
『風景』
『がじまる』
『立木』出品
17 回沖展(壺屋小学校)に『森の中』
『そよ風』
『も
や』
『森の入口』出品。第 24 回創元展に『森』出品。
1960 年 44 歳 昭和 35 年 3 月 23 日〜 27 日、第 12
回沖展(壺屋小学校)に『黒い幹』
『赤い幹』出品。
第 9 回創斗展に『遠い道』
『木立』
『みどり』
『夜明
4 月〜 1961 年 3 月、文部省内地域研究員として
け前』『城跡』出品
東京藝術大学美術学部にて研修。4 月 2 日〜 19 日、
第 19 回創元展(東京都立美術館)に『風景』
(50 号)
1966 年 50 歳 昭和 41 年 4 月、沖縄タイムス芸術選
賞選考委員。3 月 30 日〜 4 月 3 日、第 18 回沖展
出品
(壺屋小学校)に『青い空』出品。第 25 回創元展
に『そよ風』出品。6 月、第 2 回個展―「緑を追って」
1961 年 45 歳 昭 和 36 年 4 月 2 日 〜 19 日、 第 20
回創元展(都立美術館)に『森』
『白い立木』出品。
と題した自選集で、油絵 F100 号「初夏」
「薫風」
「至
5 月、沖縄タイムス紙の連載新聞小説「鉱脈」(作 :
天耕」等を中心に 36 点を出品。
(沖縄タイムスホー
新里金福)に挿絵掲載。7 月、
琉球大学教授に昇任。
ル)
。油絵 F100 号『初夏』
『薫風』
『自画像』『車
11 月 1 日〜 3 日、沖縄選抜美術展(ハワイ・ホノ
を待つ』
『私はつかれた』など 1948 年から 1966
ルル、琉球政府主催)出品。11 月 3 日〜 5 日、第
年までの 36 点
5 回創斗展(沖縄タイムスホール)に『森』『白い
1967 年 51 歳 昭和 42 年 2 月、第 7 回県展選抜展(東
木立』
『仏桑華(A)
』
『仏桑華(B)
』出品
京上野美術館)に『樹木』出品。同展は沖縄タイ
ムス創立 20 周年記念行事のひとつ。2 月、第 1 回
1962 年 46 歳 昭和 37 年 3 月 30 日〜 4 月 3 日、第
14 回沖展(壺屋小学校)に『森の春』
『森の中』
『宝島』
沖縄タイムス芸術選賞大賞受賞。3 月 30 日〜 4 月
『海辺』出品。4 月、那覇市経済民生部商工観光課、
3 日、第 19 回沖展(壺屋小学校)に『三又路』
『樹
工芸伝習生講師(伊佐川新・玉那覇正吉・安谷屋
木』
『一本道』出品。第 28 回創元展に『村への道』
正義らとともに)
。第 21 回創元展に『仏桑華(A)』
出品。第 11 回創斗展(琉球政府立博物館)に『道』
『無題』出品。7 月 29 日画友安谷屋正義急逝
『仏桑華(B)
』出品。11 月、第 6 回創斗展に『現
象界』
『夜明け前』
『帰路』
『出現』
『弥次馬』出品
1968 年 52 歳 昭和 43 年 1 月、家庭裁判所参与員に
1963 年 47 歳 昭和 38 年 3 月、
「創斗会研究会」を
選任される。2 月、個展(画廊喫茶セーヌ)。2 月 8 日、
「NEO」
と改称。広く芸術愛好者の集まりとなる(〜
ネオの会解散。世話役の労に対し表彰状を受ける。
1971 年)
。3 月 30 日〜 4 月 3 日、
第 15 回沖展(壺
3 月 30 日〜 4 月 3 日、第 20 回沖展(壺屋小学校)
『新
屋小学)
『晴れ間』
『春のめばえ』
『線』
『春への準備』
緑』
『山道』出品。4 月、通商産業局琉球工業研究
出品。4 月、那覇市字古波蔵に住所の呼称が変更
指導所研究テーマ設定協議委員を委嘱。第 27 回
創元展に『道』出品。第 12 回創斗展に『大きい木』
になる。4 月 2 日〜 19 日、第 22 回創元展(東京
『小さい木』出品
都美術館)に『帰路』
(F40)
『夜明け前』
(F40)
『出現』
『弥次馬』出品。7 月、米国国際開発局第三回技術
計画により台湾の工芸を視察研修。9 月、沖縄タ
1969 年 53 歳 昭和 44 年 2 月、個展(画廊喫茶セー
イムス紙の連載新聞小説
「黒い叛乱」
(作 : 石川文一)
ヌ)。1950 年頃の『群像』
『自画像』55 年頃の『琉
に挿絵掲載。11 月 2 日〜 4 日、第 7 回創斗展(沖
球の民家』56 年の『薫風』
『バナナ』61 年の『森』
縄タイムスホール)に『森』
『木立』
『そよかぜ』
『水
など。3 月 29 日〜 4 月 3 日、第 21 回沖展(那覇
の面』出品
高校)に『新緑』
『水と木』出品。4 月、琉球米国
民政府及び DHEW 計画による教育視察のため渡
1964 年 48 歳 昭和 39 年 3 月、
沖縄タイムス紙
「沖展」
米。6 月、沖縄タイムス紙の連載新聞小説「北山」
(作 :
で準会員作家と作品について安谷屋正義と対談。3
嘉陽安男)に挿絵掲載。8 月、全国造形教育研究
月 28 日〜 4 月 2 日、第 16 回沖展(壺屋小学校)
会沖縄大会において研究局長として運営にあたる。
に
『一直線』
『至天耕』
『道』
出品。NHK 図画コンクー
第 13 回創斗展に『白い雲』『雲と道』出品。第 28
ル沖縄地方審査員。第 23 回創元展に『春を待つ』
回創元展に『小さい木』出品。
出 品。10 月、 琉 球 政 府 文 化 財 専 門 委 員。11 月、
− 80 −
1970 年 54 歳 昭和 45 年 第 29 回創元展に『雲とき
出品。4 月、創元展に『白い雲』出品。4 月 12 日、
び畑』出品。10 月 14 日〜 20 日、沖縄現代画家
琉球新報紙に「田所量司日本画展」展評掲載。7 月、
秀作展(琉球新報社第 2 ホール、
主催 : 琉球新報社)
長堂英吉作・新聞小説「天正傭兵始末記」に挿絵
に『白い立木』出品。11 月 27 日(金)〜 12 月 1
掲載(琉球新報連載)
。7 月 28 日、沖繩タイムス
日(火)第 14 回創斗展(那覇市民会館第 2 ホール)
紙「安谷屋正義展」掲載。9 月、全国教育美術展(教
に『海』『道』他出品。12 月、琉球新報紙の新聞
育美術振興会主催)の沖縄地方審査員に委嘱され
小説「秋扇」に挿し絵掲載、平良みさを作
る。第 32 回創元展に『私の道』出品。11 月 1 日
〜 5 日、第 2 回沖縄県芸術祭現代美術展(リウボ
1971 年 55 歳 昭和 46 年 2 月、沖縄県産業デザイン
ウ 6F)に『私の道』(油絵・F40 号)出品。11 月
振興会副会長(会長・国場幸太郎、事務局長・伊
15 日〜 19 日、第 17 回創斗展(沖繩タイムス第 2
佐川新)
。3 月 31 日〜 4 月 3 日、第 23 回沖展(那
ホール)開催。15 年にわたる創斗会活動に終止符。
覇商業高校)に『道』
『樹木』出品。4 月 2 日〜 19 日、
8 月 14 日、沖縄タイムス紙に「屋良朝春・与那覇
第 30 回創元展(東京都美術館)に『雲ときび畑』
朝大・普天間敏三人展」評を掲載
(60 号)出品。9 月、沖縄タイムス紙の連載新聞
小説「琉球の裏面史」
(作 : 石川文一)に挿絵掲載。
1974 年 58 歳 昭和 49 年 3 月 30 日〜 4 月 4 日、第
第 14 回兵庫県美術家同盟展に『雲ときび畑』出品。
26 回沖展(那覇商業高校)に『一本道』『あけぼ
8 月 18 日、沖繩タイムス紙に金城規克個展につい
の』出品。第 33 回創元展に『帰り道』出品。3 月
て評論掲載。9 月 14 日、琉球新報紙に、
「民具展
2 日、沖繩タイムス紙に「沖繩近代物故美術家展」
を見る」
(政府立博物館で開催中)
掲載。11 月 25 日、
について執筆。7 月 4 日、沖縄タイムス紙に評論
「女
沖繩タイムス紙に大浜佳津子個展評掲載。
性作家による絵画展をみて」掲載。7 月 25 日、沖
縄タイムス紙に「石垣博孝展」評を掲載。9 月 7 日、
沖縄タイムス紙に評論「儀間朝健・当山進二人展
1972 年 56 歳 昭和 47 年 3 月 28 日〜 4 月 4 日、第
を見て」掲載。11 月 1 日〜 7 日、第 2 回美術展
24 回沖展(那覇市立神原中学校)に『熱帯低気圧』
覧会(沖縄県立博物館)に『道』
(F40)出品、沖
『帰り道』出品。4 月、教育学部に配置換、法文学
縄県主催
部教授。4 月 2 日〜 19 日、第 31 回創元展(東京
都美術館)審査員。
『私の道』
『森の中』出品。5 月、
第 14 回兵庫県美術家同盟展(兵庫県立美術館)に
1975 年 59 歳 昭和 50 年 3 月、沖縄タイムス紙の連
『雲ときび畑』
(油絵 F40 号)招待出品。兵庫県立
載新聞小説「なはをんな一代記」
(作 : 金城芳子)
近代美術館蔵。5 月 15 日、日本復帰にともない国
に挿絵掲載。11 月、全国教育美術展(教育美術振
立琉球大学職員(琉球大学教育学部教授)となる。
興会主催)の中央審査員に委嘱される(東京)
。3
7 月、沖縄海事協会主催中学生「海の絵」審査員。
月 29 日〜 4 月 3 日、第 27 回沖展(那覇市立神原
8 月 17 日、沖繩タイムスに絵画四人展(金城規克・
中学校)に『祭り A』『祭り B』出品。第 34 回創
屋富祖盛美ほか)評論掲載。9 月 30 日、沖縄タイ
元展に『道』出品。4 月 11 日、琉球新報紙「自画
ムス紙に「古我地展に寄せて」掲載。沖縄造形教
自選」に「熱帯低気圧」を執筆。8 月 31 日、沖繩
育連盟委員長に選任(〜 1977 年 2 月)
。沖繩タイ
タイムスに「屋良長春個展を見て」掲載。9 月 11 日、
ムス紙に「山里永吉油絵小品展」論評掲載。10 月
琉球新報紙「美の発見と伝統 もう一つの沖縄を
18 日、琉球新報紙に「屋良朝春個展」展評掲載
めぐって」(1)に「風景」論掲載。
11 月、第 4 回九州沖縄芸術祭現代九州沖縄洋画展
(那覇市民会館)に『熱帯低気圧(油絵 F40 号)』
『帰
1976 年 60 歳 昭和 51 年 3 月 30 日〜 4 月 4 日、第
り道』出品。12 月 15 日、沖繩タイムス紙に「新
28 回沖展(那覇高校)に『私の森』
『帰り道』出品。
垣栄三郎親子三人展」論評掲載。
9 月 4 日、琉球新報紙に「第 5 回光陽会沖縄支部展」
展評掲載。第 35 回創元展に『まつり』出品
1973 年 57 歳 昭和 48 年 2 月 4 日、沖繩タイムス紙
に西村立子日本画展の論評掲載。2 月 13 日、琉球
1977 年 61 歳 昭和 52 年 3 月 29 日〜 4 月 3 日、第
新報紙に「宮城健盛水彩画展」展評掲載。3 月 27
29 回沖展(首里高校)に『森』出品。8 月 19 日、
日、「グループ綱第 1 回展評」を沖縄タイムス紙に
沖繩タイムス紙に「山之端一博個展をみて」掲載。
掲載。3 月 27 日、
「佐々木一郎油絵作品展」論評
第 36 回創元展に『樹木』出品。11 月 9 日、琉球
を沖縄タイムス紙に掲載。3 月 29 日〜 4 月 4 日、
新報紙に「山元恵一氏を悼む」掲載
第 25 回沖展(那覇高校)に『青い空』
『白い雲』
− 81 −
1978 年 62 歳 昭和 53 年 4 月、金井喜久子作・新聞
1986 年 70 歳 昭和 61 年 1 月、新生美術展(沖縄三
小説「ニライの歌」に挿絵掲載(琉球新報連載)
。
越/那覇市)に『くちなしの花』
(F3)を出品。5
8 月、住友生命保険児童画展、沖縄地方審査員
月 29 日〜 6 月 1 日、第 5 回新生美術展(沖縄物
産センター画廊/那覇市)に『黒のバッグ』、『茶
色のバッグ』を出品。12 月 9 日〜 14 日、個展「画
1979 年 63 歳 昭和 54 年 3 月 28 日〜 4 月 2 日、第
31 回沖展(那覇市立神原中学校)に『緑を追って』
業 50 周年記念展」(沖縄物産センター画廊/那覇
第 7 室に出品。5 月、神奈川県展に『緑を追って』
市)に『仏桑華』
、
『ばなな』
、
『デイゴ』
、『ハイビ
スカス』
、
『夫の顔』
、
『赤と緑』
、
『自画像』など 43
(油絵 F40 号)招待出品
点を出品。12 月 11 日、沖縄タイムス紙「美しく
1980 年 64 歳 昭和 55 年 3 月、沖縄現代絵画巨匠展
も静かな画境 安次嶺金正展によせて」(執筆 : 仲
(沖縄物産センター画廊/那覇市)
。油絵 F100 号
井間憲児)にて紹介。12 月 13 日、琉球新報紙に「展
『初夏』『薫風』
『私はつかれた』など出品。同画
評 造形主義的姿勢を貫く 肖像、花、風景 安
次嶺金正作品展」(執筆 : 稲嶺成祚)にて紹介
廊創立 10 周年記念展。3 月 28 日〜 4 月 2 日、第
32 回沖展(那覇市立神原中学校)に『二人連れ』
『一
人立ち』
出品。4 月 6 日〜 22 日、
第 39 回創元展(東
1987 年 71 歳 昭和 62 年 3 月 15 日〜 27 日、小品展
京都美術館)に『白い木立』出品。7 月、沖縄県
(アート・ギャラリー茶絵羅/那覇市)。3 月 14 日
美術家連盟に加入。沖縄県県芸術祭美術展審査員。
〜 31 日、那覇近現代美術展「明治・大正生まれ
9 月 23 日〜 29 日、第 21 回神奈川県展選抜展(横
の作家たち」(那覇市民ギャラリー/那覇市)に出
浜市民ギャラリー)に『一人立ち』出品
品、明治、大正生まれの作家 85 人、作品 91 点(絵
画 62 点、書道 25 点、彫刻 4 点)同ギャラリーの
1981 年 65 年 昭 和 56 年 4 月 7 日 〜 24 日、 第 40
開設記念展。2 月 20 日〜 3 月 2 日、個展 - 小品展
回創元展(東京都美術館)に『台風眼』出品。10
(アート・ギャラリー茶絵羅/那覇市)
。4 月 3 日
月、県民アートギャラリーオープニング展に『林
〜 15 日、個展 - 絵画展(琉球真珠ギャラリー/石
立する青樹のビル』
、油絵 F100 号「初夏」
、
「薫風」、
垣市)。12 月 1 日〜 6 日、個展(那覇市民ギャラリー
P30 号「私は疲れた」等(油絵 F20 号)出品。沖
/那覇市)に『はるらんまん』
(15 号)
、
『芭蕉畑』
縄美術家連盟主催
など作品 50 点を出品。12 月 5 日、沖縄タイムス
紙「展示会から 安次嶺金正展 沖縄戦後のにお
い残す “ 時の絵 ”」
(執筆 : 仲井間憲児)にて紹介。
1982 年 66 歳 昭和 57 年 3 月、琉球大学を定年退職。
16 日〜 21 日、退官記念作品展(県民アートギャ
5 月 26 日〜 31 日、第 7 回新生美術展(那覇市民ギャ
ラリー/那覇市)に『群像』などを出品。画集出版。
ラリー/那覇市)に『森』(F40)を出品
第 1 回新生美術協会展出品(県民アートギャラリー
/那覇市)以後毎年出品。9 月 28 日〜 10 月 3 日、
1988 年 72 歳 昭和 63 年 1 月 16 日、新生美術協会
第 2 回現代沖縄作家展(県民アートギャラリー/
の総会及び大嶺政寛先生を忍ぶ会において、新し
那覇市)に『秋祭』
(F20)出品。沖縄県美術家連
い新生美術会会長に推薦される。3 月 14 日、琉
盟主催
球新報紙「日展に入選した歴代沖縄関係作家たち
< 4 >在学中偽名で出品 安次嶺金正 二度目は
1983 年 67 歳 昭和 58 年 4 月、
退官記念展(県民アー
本名を使う」にて紹介。3 月 15 〜 27 日、個展
(アー
トギャラリー/那覇市)
。4 月 8 日〜 24 日、第 42
ト・ギャラリー茶絵羅/那覇市)に『梅雨の花』
『夜
、
回創元展(東京都美術館)に『雲と灯台』出品。9
見た花』
、
『森』
(1964 年)などを出品。5 月 3 日
月 8 日〜 12 日、
第 2 回沖縄の現代絵画 60 人展(那
〜 15 日、沖縄画壇の先達展パート I ―沖縄初期
覇市山形屋 7F 催事場)出品、画廊沖縄主催。
の受賞作品を中心にして(ギャラリーみやぎ/那
覇市)に『平良辰夫像』を出品同ギャラリーの一
1984 年 68 歳 昭和 59 年 12 月、三人展(沖縄物産
周年記念の企画展。5 月 24 〜 29 日、第 8 回新生
センター画廊/那覇市)宮城健盛・玉那覇正吉・
美術展(那覇市民ギャラリー/那覇市)に『つわ
安次嶺金正
ぶきの花』を出品。7 月 5 日〜 10 日、沖縄県美術
家連盟展(県民アートギャラリー/那覇市)に『春
1985 年 69 歳 昭和 60 年 名護市民会館大ホール緞張
らんまん』を出品。12 月 6 日〜 11 日、個展「安
次嶺金正自選展」(那覇市民ギャラリー/那覇市)
デザイン制作
に『もぎたてのトウモロコシ』
(1987 年)
『
、童女像』
− 82 −
(1941 年)
、
『私は疲れた』
、
『群像』
、
『黒い幹』、
『の
1998 年 平成 10 年 8 月 12 日〜 21 日、沖縄県立現代
ぼりがま』
(1953 年)
、
『平良辰雄氏の肖像』(1950
美術館(仮称)
「収蔵品展」
(リウボウホール/那
年)
『バナナ』
、
(1960 年)2 点、
『北明治橋』
(1949 年)
覇市)に『侘住』(1958 年)、
『青い空』(1973 年)
など 1949 年から現在までの 36 点を出品。12 月
を出品、安次嶺金正・安谷屋正義・大嶺政寛・名
20 日、琉球新報紙「安次嶺金正自選展 行きつ戻
渡山愛順・南風原朝光・普天間敏・山元恵一
りつ 自らの芸術世界深める」
(執筆 : 稲嶺成祚)
2001 年 平成 13 年 8 月 7 日〜 12 日、夏休み特別企画
にて紹介
ギャラリーめぐり収蔵品展「抽象への道 廃墟か
1989 年 73 歳 平成元年 5 月、沖縄画壇の先達展パー
らの造形」(画廊サロン・ド・ミツ/那覇市)に『祭
ト II ―五人展(ギャラリーみやぎ/那覇市)、金
り』(1975 年)を出品、安次嶺金正・安谷屋正義・
城安太郎、具志堅以徳、安次嶺金正、玉那覇正吉、
玉那覇正吉
安谷屋正義、
安次富長昭。安次嶺金正は
『自画像』
『私
はつかれた』
『群像』
『裸婦』の油彩 4 点を出品。9
2003 年 平成 15 年 7 月 15 日〜 20 日、H15 年沖縄県
月 19 日〜 10 月 1 日、個展(サロン・ド・ミツ/
立現代美術館(仮称)収蔵品展(那覇市民ギャラリー
那覇市)初めて公開する戦後の混乱期に描かれた
/那覇)『群像』『初夏』出品
米人肖像画や、米軍から画材を集めて戦後初めて
描いたという、北明治橋の風景画など 21 点。9 月
2007 年 平成 19 年 11 月 1 日 沖縄県立博物館・美術
21 日、沖縄タイムス紙にて「戦後沖縄の姿浮き彫
館開館記念展 「まんま」「私は疲れた」「群像」出
り」
と紹介。12 月 19 日〜 24 日、
個展
(那覇市民ギャ
品。3 月 25 日美術館コレクション展示第 3 室「わ
ラリー/那覇市)に『思い出の北明治橋』、『花の
び住まい」「赤い幹」出品
ないでいご』などを出品。12 月、
個展(ギャラリー
南都/那覇市)に新作 19 点(40 号)を含む風景
2011 年 平成 23 年 美術館コレクション展 ニシムイ
以降の美術家たち 「祭」出品
画 30 点を出品。
1990 年 74 歳 平成 2 年 勲三等旭日中綬章受賞。2
2012 年 平 成 24 年 5 月 12 日 〜 平 成 25 年 5 月 12
月 21 日〜 3 月 6 日、沖縄タイムス紙「琉球風土
日 美術館コレクション展 沖縄美術の流れ 沖
記―開学 40 年の足跡―美術工芸科< 1 〜 8 >」
縄の美術がとらえた光と影「群像」出品。沖縄県
にて紹介。8 月 3 日〜 30 日、
沖縄現代絵画展
(辻アー
立博物館・美術館 移動展(粟国島)「がじゅまる」
トギャラリー/那覇市)
、沖縄を代表する作家の作
出品。
品 35 点を紹介。大城皓也・大嶺政寛・安谷屋正義・
玉那覇正吉・安次嶺金正・宮城健盛・与儀達治・
翁長自修など
1992 年 75 歳 平成 4 年 那覇市政功労者となる
1993 年 76 歳 平成 5 年 3 月 15 日、
腎不全のため逝去。
正四位に叙せられる
1995 年 平成 7 年 8 月、沖縄戦後美術の流れ・シリー
ズ 1(浦添市美術館)で『私はつかれた』
『赤い幹』
展示
1995 年 平成 7 年 10 月 17 日〜 11 月 05 日、戦後 50
年 沖縄の美術家展(那覇市民ギャラリー/那覇
市)に『佇住』展示
1998 年 平 成 10 年 4 月 18 日 〜 7 月 12 日、 戦 後 日
本のリアリズム 1945−1960 展(名古屋市美術館)
に『私は疲れた』展示
− 83 −
稲嶺成祚絵画様式の変遷
おお しろ
なお や
大城 直也
1.はじめに
3.絵画様式の模索Ⅰ
り、一目で稲嶺成祚の作品だとわかるくらい県内では
絵の勉強をしながら都内の美術館や画廊を回った。
「当
知名度も高い作家である。稲嶺成祚のスタイルはどの
時石膏デッサンなど西洋画の基礎を学んだが、ブリヂ
ように生まれたのか。そのルーツはどこから生まれた
ストン美術館でベラケラスの肖像画を見た際、真に迫
のか。そしてどのように変遷して今日のスタイルが
るリアルさに『リアリズムで勝負しても負ける』と思っ
誕生したのか。彼の作品 1952 年から 2011 年までの
た。日本画やエジプトの壁画などを見て、これならい
60 年間に制作された作品及び彼の言葉から稲嶺成祚
5
い仕事ができるかもと考えた」
稲嶺成祚の作品は独自の表現スタイルを確立してお
琉球大学美術工芸科を卒業し、1 年間東京に行き、
作品について考えることにする。
2.学生時代
那覇高校で美術教師だった島田寛平氏が指導する
美術クラブに所属。戦後の生活物資も不足した閉塞
感の中、軍の廃品捨て場などから筆記用具を入手し、
創作活動を行った。「終戦後は若者としての行き場が
なかったが美術で良い作品をつくれば、何人でも認
めてもらえるのではと考えた。自分にとって、美術
は窓のない部屋から外に出るようなものだった。」5
作品 2 「二人の人物」1957
1957 年「二人の人物」(作品 2 参照)の作品から、
エジプトやインカの象形文字的な作品が表現される。
色彩も白地の背景に茶褐色の人物と象形文字のメッ
セージとも思える文字がキャンパスに表れる。これま
での表現から新しい表現への最初の始まりである。こ
れまでの人物画中心の作品からメッセージ性と異文化
の表現様式を模索して表現している。平面的様式に図
や模様を組み込み新たな様式を誕生させようとする稲
嶺成祚の情熱が感じ取られる。デザインされた象形文
作品 1 「自画像Ⅱ」1952
字に強い意味はないのかもしれない。しかし、観るも
琉球大学在学中の 1952 年〜 1955 年頃までは、主
のの想像性を高めさせ、作品から多様なメッセージを
に人物画を制作している。彼自身の肖像画が主な作品
受けとれるように意図したことは十分感じることがで
あった。人物を丁寧に描き、絵画の基礎を在学中に学
きる。そのあたりは試行錯誤の中である程度意図して
んだ。
「自画像Ⅱ」
(作品 1 参照)制作した作品の他に
表現しているのであろう。これまでの写実主義から抽
も資料を保管していたが転居の際に所在不明となり、
象絵画に表現への挑戦が始まったのである。
現在では当時の作品資料は 6 点ほどしか残っていない。
− 85 −
4.絵画様式の模索Ⅱ
のような表現でメッセージを伝えている。ここでは、
中世ヨーロッパの絵画は、ものの形を描いているが
リズム感や象形文字は出てこない。パズルのように区
写実ではない。また、日本画にしても強調や省略、平
切られたピースに記号が埋め込まれ、全体のパズルを
面化の技法を用いており写実ではない。この中間部分
観るものに問うメッセージとして表れている。新しい
をもっとやるべきではないかと考えた。そこで平面化
試みとして原色を使うことで強調や色的意味合いをも
した技法はこの考え方の中から生まれた。1955 年琉
利用してきている。作品の構図を意識してリズムを作
大美術工芸科を卒業。翌年一年間東京へ。この二、三
ることはしていない。区切られたピース同士をあえて
年は写実から抽象、キュビズムまでいろいろ描いた。
対立させて作品を仕上げている。この時代の沖縄が置
二、三点かいて、がらっと描き方が変わったりと様々
かれて地位性を作品の中で表現している。
な試みを行った。画集や美術展を見て、感動を受けた
作品の描き方を学んだ。「ピカソの “ 青の時代 ” が印
象深かった。ピカソは自分の貧しさ、悲しさから生じ
5.絵画様式の模索Ⅲ
た気持ちを絵に対象化して描いた。これは文学的とも
いえるが、芸術は単に写実ではない自分の気持ちを対
1
象化するものだということを学んだ」
子どものような簡単なフォルムで人、自動車を描こ
とが万人に強く、そしてストレートにメッセージを伝
える。この試みは絵としての武器になるのではないか
と考え、1959 年頃から “ 大人っぽくない ” 絵をかき
だした。
1960 年の作品は、象形文字を独自の象形文字へと
変形しメッセージを発している。色調はブラウン系が
ベースにあり前年からの流れを受け継いでいるが人物
を排除することで、安易な感情移入を拒否し、文字に
作品4 「戦争・将軍・女達 (2)」1965
のみでメッセージを発する試みを試す。この試みは決
して観るものを拒むのではなく、シンプルな線図を用
1966 年の「戦争・将軍・女達(2)」(作品 4 参照)
いることで作品に関する意味を洞察させようとしてい
では、これまでの場面の境界線を外し、色彩でのみ境
るのではないかと考える。文字のみの発するリズム感、
界線を表している。赤・黄の原色を意識的に使い、沖
配置する空間の余白をも観るものに感じてもらいたい
縄の社会的現状を幼児画の技法を用いてストレートに
のである。
表現している。殺伐としたハードな内容を幼児画とい
う手法を用いて単純化して表すことで一層衝撃の強さ
が伝わってくる。そして、シンプルな線画とハードな
メッセージが見るものの心をゆさぶる作家の挑戦がひ
しひしと伝わってくる。
地方の芸術を全うするには、地方の芸術はその地で
製作され、その社会のリアリティーをもち、かつ創造
的でなければならないからだ。つまりその社旗あの問
題を全人間的課題へと上場する洞察力をもつこと。言
葉をかえていえば、その社会のリアリティーの表現が
そのまま芸術の先端的課題につながる接点を見つける
2
ことである。
1968 年の「OKINAWA」(作品 5 参照)では、青
緑の色彩の中で、星条旗や沖縄の旗、アルファベット
作品 3 「いろんな形」1961
や数字、車、人の顔を「水平視空間」で当時の「うち
1961 年作品「いろいろな形」
(作品 3 参照)から、
なあー世」の時代を表現している。ピカソの青の時代
図形や記号への表現へと移行する。ここでは、キャン
の作品のように青をベースにすることで、冷たく混沌
パスの中で図形や記号の航空写真で街を移しているか
とした世界を強くイメージしているように見える。作
− 86 −
品に描かれた人々の表情も喜びとはほど遠い印象で重
に変わり、花や星、幾何学模様、かたつむりなどの小
動物が出てきている。
作品 5 「OKINAWA」1968
作品 7 「母と子」1974
く嘆いている。皮肉なことに車のライトと街頭、時計
だけがほのかに光を放っている。しかし、この光の光
1974 年「母と子」(作品 7 参照)では、今後の作
源が全てのものに希望を照らす灯りに見えない。それ
品に大きくつながり、稲嶺成祚スタイルの代名詞とも
によりなお一層の不安感を漂わせ混沌とした世界観を
いえる。家族愛がテーマとなっている。ここでの人物
表現している。
は瞳を塗りつぶした目が特徴である。この瞳を塗りつ
ぶすことで、目の表情、視線がいかようにも想像でき
6.絵画様式の模索Ⅳ
る用計算されている。無表情にもみえる顔の表情は、
絵画で有りながら彫刻の仏像をみるかのように観るも
のの心を移す鏡となる。よって、顔の表情をどう読み
取るかは鑑賞者の心情に大きく左右される。また、星
のマークが人物に重なることで、生命の源的に使われ
ているようにも感じることができる。「マチスの絵は
一貫していた。色から量をとり去り、質を抜きとり、
最後は光の表現も止めて、色そのものを光たらしめた。
彼の場合、他の要素をとり去る仕事は、芸術をやせ細
らすことではなく、純化の過程を通して、ますます豊
かにすることであった。」3 稲嶺成祚の作品もマチスの
絵画のように平面化がますます加速し、さらに作品に
深みが携わってきた。
作品 6 「花をつくる人」1973
1973 年「花をつくる人」
(作品 6 参照)の作品は、
7.絵画様式の模索Ⅴ
1983 年「ハートと少女」(作品 8 参照)では 1980
これまでの芸術で沖縄の世相を表していた時代に一つ
年ころから線中心での表現が始まる。全ての輪郭線を
の区切りの見え始めた作品である。色調もこれまでの
意図して、断続的にすることで描いた線が背景に同化
稲嶺成祚の青の時代的寒色の時代から、黄色や緑を多
して区別がつかないようにしている。そのため描いた
く使い人々に豊かさを問う作品へと変化し始めた。人
線の中に自由に空気が流れ込んでくるようにもみえ
物の表情にも変化かが見られ、ピカソの人物画に見ら
る。そしてこの頃の線は、赤や緑の線で表現され、赤
れるような多重面的に見える彩色が、みるものに社会
と緑の色が線描にリズムをもたらしている。線で陰影
の流れの変化かが個々の価値観にも影響を及ぼしてい
をつけているかのように色を変えることで、印象派の
ることを想像させる。また、テーマが社会から庶民の
モネのように光を線の中に盛り込もうとしていうよう
生活(個々の生活)へと移行しているようにもみえる。
にも感じる。そして、描かれる内容も時間的ながれも
作品の中には、これまでのアルファベットや数字、車
織り込まれてくる。昼と夜、晴れと雨、自然と人工物、
− 87 −
鳥と魚などといったものが画面の中で構成をされてい
透視される表現をつくることで、作品に躍動感が生ま
る。相反する時間軸に存在するモチーフを組み合わせ
れて観るものを魅了する。これまでのスタイルが融合
て構成することで、多時間軸絵画という新しい空間を
的な結びついて、化学反応をおこした作品となってい
表現している。
る。今後 20 年続く新しいスタイルの始まりをつげる
作品となった。
9.さいごに
これまで 60 年近くの稲嶺成祚作品を観ていて、作
家の創作への情熱、挑戦を続ける姿勢が強く感じられ
た。かつて「ユニークさは善だと考える社会的風潮を
育てることも大切である。さまざまな試行錯誤が自由
になされるなかから創造的なものは育つのである。し
かし、社会の風潮そのものは作者の側からどうしよう
もないものである。結局はいつの時代になっても芸術
を志すものには、孤独に耐えてユニークな仕事を続け
る勇気と忍耐が必要なのである。」2 と言っている。こ
の言葉は終始ぶれず一貫して続いている。この作家と
作品 8 「ハートと少女」1983
しての志の強さが稲嶺スタイルを確立していった大き
8.絵画様式の模索Ⅵ
な要因ではないだろうか。稲嶺成祚の線・色・形・重
家や人間、樹木など、作品のモチーフはモノの形を
なり・時間軸・風が一つの作品の中で生まれてきてい
残しながら抽象化した。分かりやすく親しみやすい図
る。そしてこの表現は、また少しずつ変化しながら新
像。しかし、その造形的な特質は、対象物や背景の色
しい挑戦を生み描き続ける。「一般的に言えば、器用
面をわざと重複させ、遠近法的ではない空間を出現さ
な人が画家になる。ところが私は不器用なくせに画家
せ、モノとモノとを輪郭線で区別せず、幾重にも対象
を志してしまった。私の武器は、いかに器用に描くか
物と重なり合わせて空間を複雑化するなど、実験的精
ではなく、不器用さをいかにプラスに転換するかであ
5
神にあふれている。
る『平面で勝負しょう』と決意した時が、今にして思
1990 年「太陽の下の家族Ⅰ」
(作品 9 参照)では、
えば、その不器用さを逆手にとった私の絵づくりの
家族の生活と自然との関わりを構成し表現している。
第一歩だったと思う。」4 先日美術館で、展示室のコー
温かい太陽の下ほほえみ合う家族、自然と関わりあう
ナーを抜け稲嶺成祚の作品をみた児童の口から「う
家族、時間軸をずらして表現することで対比しながら
わぁー」という声を耳にした。その児童はそのままこ
中心から渦をまくように隅々まで観て楽しむ作品と
の作品の前に立ち見続けていた。これこそが万人に愛
なっている。これまでの線画・平面画のスタイルと幾
され人々を魅了する作品を制作し続ける作家であると
何学模様を一つの作品の中で、混合し新しいスタイル
いうこと意味するのではないだろうか。
が生まれてきた。そして、モチーフの重なりあう部分
に、別の色の変化をつけてつながりが見えるように表
現している。遠近法を壊しながら重なり合う部分に
作品 9 「太陽の下の家族Ⅱ」1990
− 88 −
(引用文献)
1 1977年7月3日「私のモチーフ」
(新聞社不明)
2 1981年4月21日~22日「地方における芸術の創造」
(沖縄タイ
ムス)
3 1982年「絵画の抽象化−その仮定と意味−」
琉球大学教育学部紀要第26集
4 1999年12月仲井間憲児還暦記念論集「様式・概念・気質−絵
画の命題から−」
5 2010年8月6日「新アトリエ訪問」
(沖縄タイムス)
(参考文献)
・1981 「絵画における四つの基本的空間」
琉球大学教育学部紀要第 25 集
・1982 「絵画の抽象化−その仮定と意味−」
琉球大学教育学部紀要第 26 集
・1988 「絵画における二つのタイプ−モノ派と関係派−」
琉球大学教育学部紀要第 33 集
・1995 「絵画における四つの基本的空間と児童画」
琉球大学教育学部教育実践研究指導センター紀要 第3号
10.資料(作家略歴)
1932 年 12 月 23 日 那覇市に生まれ
学歴
1951 年 4 月 琉球大学文理学部美術工芸科入学
1955 年 3 月 同上 卒業
職歴
1956 年 4 月 那覇中学校教諭
1959 年 4 月 東中学校教諭
1960 年 4 月 浦添中学校教諭
1965 年 4 月 沖縄工業高等学校教諭
1972 年 4 月 琉球大学教育学部講師
1974 年 4 月 琉球大学教育学部助教授
1983 年 4 月 琉球大学教育学部教授
1988 年 4 月 琉球大学教育学部
付属中学校長併任
(至 1992 年 3 月)
1992 年 4 月 沖縄県立芸術大学非常勤講師
(至 2006 年 3 月)
1994 年 4 月 名桜大学非常勤講師
(至 1998 年 3 月)
1995 年 3 月 琉球大学大学院委員会委員
(至 1997 年 3 月)
1998 年 3 月 琉球大学教育学部定年退職
− 89 −
稲嶺成祚作品 1952−2011(1284 点)
形態
年代
具象画 抽象画
基本的空間
作風様式
色調割合
主なモチーフ
象形 幼児画 デザイン
W 白、Y 黄、B 青、R 赤、
水平視 斜上視 垂直視 透視画
人物画 風景画 静物画
線画的 平面的
文字 らくがき 化
Gr 灰、G 緑、Br 茶、Bl 黒
空間 空間 空間 空間
1952
Y6,W2,B2
人
1956
Y7,G2,B1
人
1957
W5,Br4,G1
人、花、手
1958
W7,Br3
人、山、道
1959
Br8,W2
人、家、車、木
Br9,W1
記号化
1960
Br7,Y2,G1
記号化
1961
Y8,Br1,G1
記号化
W7,R1,B1,Y1
記号化
1962
W8,R1,B1
記号化
1963
W7,B2,R1
人、道、うずまき
1964
W7,B2,R1
人、木、うずまき
1965
W7,B2,R1
人、家、塔、犬
1966
W6、R1,Y1,B1,G1 人、車、木、家
1967
W6,R1,Y1,B1,G1 人、車、木、犬
1968
W6,R1,Y1,B1,G1 人、車、木、家、アルファベット
Y5,B2,Br1,G1
人、車、木、家、アルファベット
1969
G5,Y2,R1,B1
人、木、花、犬、アルファベット
1970
G5,Y2,R1,B1
人、車、木、家、星、波
1971
G5,Y2,B1,R1
人、木、家、星
1972
G5,B3,R1,Y1
人、海、木、花
1973
G7,B1,BR1
人、家、花、犬、山、木
1974
G8,Br1,B1
人、花、木、鳥
G4,Y2,B1,R1
人、家、花、木,道
Y4,G3,B1,Br1
人、木、花、犬
Y4,G3,B1,Br1
人、木、花
Br4,G2,B2,W2
人
G5,B3,Y1,W1
海
G4,Gr4,Y1,Br1
人、海、木、花
Y3,Gr3,Br2,G2
人、家、木、犬
B4,Y2,R2,Br2
鬼
1975
1976
1977
1978
Gr3,R3,B1,Y1,W1 木、鬼
1979
Y4,R2,B2,Gr2
人
Y5,Br4,G1
人、木、花、犬
1980
Y4,W2,G2,R1,B1 人、木、ハート、車、月
R3,G3,B3,W1
柿、帽子
W4,R2,B1,Y1,G1 人、木、家、星
1981
W8,Bl2
人、木、川、家
W8,Bl2
人、木、花、鳥、山
Gr5,Br2,B1,G1,W1 人、家、花、星
1982
Br8,G1,W1
人、木、犬、月、星
W6,B4
人、木、犬、月、星
1983
W6,B1,Y1,G1,R1 人、木、犬、星
W6,B1,Y1,G1,R1 人、木、犬、星
1984
W6,B1,Y1,G1,R1 人、木、犬、星
1985
R9,G1
1986
W8,R1,G1,B1,Y1 人、木、犬、星
1987
W8,R1,G1,B1,Y1 人、木、犬、星、太陽
1988
W6,B1,R1,G1,Y1 人、木、犬、星、太陽
人、木、犬、星
1989
W5,Br5
1990
G3,Y2,B2,R2,、Br1 人、木、犬、星、太陽
人、木、犬、星、太陽
G3,Y2,B2,R2,、Br1 シーサー、花、星、波
− 90 −
形態
年代
具象画 抽象画
基本的空間
作風様式
色調割合
主なモチーフ
象形 幼児画 デザイン
W 白、Y 黄、B 青、R 赤、
水平視 斜上視 垂直視 透視画
人物画 風景画 静物画
線画的 平面的
文字 らくがき 化
空間 空間 空間 空間
Gr 灰、G 緑、Br 茶、Bl 黒
1991
G3,Y2,B2,R2,、Br1 人、木、花、鳥、星、太陽
1992
G3,Y2,B2,R1,Br1,W1 人、木、花、鳥、犬、星、太陽
1993
G3,Y2,B2,R1,Br1,W1 人、木、花、鳥、犬、星、太陽
1994
G3,Y2,B2,R1,Br1,W1 人、木、花、鳥、犬、星、太陽
G3,Y2,B2,R1,Br1,W1 木、花、鳥、犬、星、太陽
1995
G3,Y2,B2,R1,Br1,W1 シーサー、花、木、星、太陽
G3,Y2,B2,R2,、Br1 人、木、花、鳥、犬、星、太陽
G3,B2,Y2,Br2,W2 花、木、道、畑、山、雲
1996
Br3,G2,B2,R2,Y1,Bl1 人、木、花、鳥、犬、星、太陽
Br3,G2,B2,R2,Y1,Bl1 花、木、道、畑、家、山、雲、太陽
1997
Br3,G2,B2,R2,Y1,Bl1 人、木、花、蝸牛、鳥、犬、星、太陽
G3,B2,Y2,Br2,W2 木、畑、道、家、雲、星
1998
Br3,G2,B2,R2,Y1,Bl1 人、木、花、鳥、犬、星、太陽
G3,B2,Y2,Br2,W2 木、畑、道、家、雲
1999
G3,B2,Y2,Br2,W2 人、木、花、鳥、星、太陽
G3,B2,Y2,Br2,W2 木、畑、道、雲、星
2000
Br3,Gr3,G1,R1,Y1,W1 人、花、木、鳥、家、雲、太陽
Br3,Gr3,G1,R1,Y1,W1 花、花瓶、果物、机、窓、星
Br3,Gr3,G1,R1,Y1,W1 花、蝸牛、家、雲、星
2001
B3,Br2,G1,R1,Y1,W1 花、木、蝸牛、家、雲、星
B3,Br2,G1,R1,Y1,W1 人、花、木、蝸牛、鳥、猫、家、雲、星
2002
B3,Br2,G1,R1,Y1,W1 人、花、木、鳥、家、雲、星
2003
G4,Br3,R2,W1
木、道、山、雲、星
G4,Br3,R2,W1
木、道、山、雲、星
G4,Br3,R2,W1
木、蝸牛、道、山、雲、星、太陽
Br3,Gr3,G1,R1,Y1,W1 人、花、木、家、犬、雲、星、太陽
2004
B3,Br2,G1,R1,Y1,W1 人、花、木、犬、家、波、雲、太陽
G4,Br3,R2,W1
木、畑、道、家、山、雲
Br3,Gr3,G1,R1,Y1,W1 花、花瓶、果物、机、窓、雲
2005
Br3,Gr3,G1,R1,Y1,W1 人、花、木、家、犬、鳥、雲、星、太陽
Gr5,B2,Y1,W1,Bl1 木、家、雲、星、月
G4,Br3,R2,W1
木、畑、道、家、山、雲
Br3,Gr2,G1,R1,Y1,W1,Bl1 花、花瓶、果物、机、窓、雲
2006
G4,Br2,B2,Y1,W1 木、畑、道、家、山、雲
B4,G2,R2,Y1,W1 人、花、木、雲、太陽
Gr3,G2,B2,R2,Bl1 花、花瓶、果物、机、窓、雲
2007
B4,G2,R1,Y1,W1,Bl1 人、花、木、鳥、雲、星、月、太陽
Gr3,G2,B2,R2,W1 花、花瓶、果物、机、窓、雲
G4,Br2,B2,Y1,W1 木、畑、道、家、山、雲、月、太陽
2008
Br4,G2,R2,B1,W1 人、花、木、鳥、犬、手、雲、星、月、太陽
Br4,G2,R2,B1,W1 花、花瓶、果物、机、窓、雲
Gr7,G1,W1
2009
木、道、山、雲、星
Gr4,G2,R1,B1,W2 花、花瓶、果物、机、窓、雲
G4,Br2,B2,Y1,W1 木、山、海、雲、月、太陽
Br4,G2,B2,R2
2010
人
Br2,Gr2,G2,R2,B1,W1 人、花、木、犬、自転車、雲、星、月、太陽
G5,B2,R1,Y1,W1 木、畑、道、家、山、雲、月
Gr4,G2,R1,B1,W2 花、花瓶、果物、机、窓、雲
2011
Br4,G2,B2,R2
人
Br4,G2,B2,R2
人、花、木、鳥、犬、雲、星、月、太陽
Gr4,G2,R1,B1,W2 花、花瓶、果物、机、窓、雲、月
G5,B2,R1,Y1,W1
− 91 −
木、畑、道、家、山、雲、月
執筆者(執筆者順)
平成 25 年 3 月 25 日現在
瑞慶山 昇 沖縄県立博物館・美術館 美術館副館長
豊見山 愛 沖縄県立博物館・美術館 主任学芸員
新里 義和 沖縄県立博物館・美術館 主任学芸員
仲里 安広 沖縄県立博物館・美術館 主任学芸員
大城 直也 沖縄県立博物館・美術館 主任学芸員
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美術館研究紀要 第 3 号
印刷発行日
編集兼発行
〒900-0006
印
刷
〒901-0225
平成 25 年 3 月 25 日
沖縄県立博物館・美術館
沖 縄 県 那 覇 市 お も ろ ま ち 3-1-1
電 話(098)941-8200(代)
株式会社 平山印刷
沖 縄 県 豊 見 城 市 字 豊 崎 3-59
電 話(098)995-6234
Okinawa Prefectural Museum and Art Museum
BULLETIN OF ART MUSEUM
No.3