1. 「トヨタ生産方式」と大野耐一 一般的に「トヨタ生産方式」 と呼ばれるシステムは、 昭 和48年のオイルショックをきっかけとして、 世間で強い関 心を持たれるようになりました。それまでの高度経済成 “日本発”モノづくりのシステムを確立 トヨタ自動車工業株式会社 元取締役副社長 大野 耐一 長時代が終焉を告げ、量産効果が解決していたに過 ぎない問題が顕在化したからです。 「トヨタ生産方式」は、 生産現場のムダ、 ムラ、 ムリを徹 底的に排除することにより、 つくり方の合理性を追い求 める思想を貫き、 システム化したものです。その根底には、 自由競争市場では、 商品の価格は市場(=お客様)が 大野耐一氏 決定するもので、 利益確保は原価低減以外にないとい う考え方があります。 大野は、 これらの考え方を、 実際の生産現場で、 少しず 単なる量産効果によるコストダウンではなく、 合理的な つ具現化していきました。 つくり方の追求による原価低減を目指す「トヨタ生産方式」 以下、 私のような若輩者では一知半解の知識である は、低成長やマイナス成長の時代にこそ、 その真価を ことをお許しいただき、 大野が、 その確立に大きな役割 発揮したと言えると思います。 を担った「トヨタ生産方式」の一端を紹介させていただ 大野耐一は、 昭和7年、 豊田紡織に入社し、 昭和18 きます。 年、 トヨタ自動車(当時はトヨタ自動車工業)へと職場を 移しました。そこで、 豊田英二(現トヨタ自動車最高顧問) 2. 「トヨタ生産方式」の2つの柱 らの強いバックアップのもとで、 「トヨタ生産方式」の確立 「トヨタ生産方式」の全容を紹介することは、 紙面の に尽力しました。 制約もあり困難であるため、 その2つの柱である「ジャ 大野は、 徹底した現場主義者です。 スト・イン・タイム」 と 「自働化」 という視点から解説します。 「トヨタ生産方式」を確立する際も、 自らの生産現場 大野 耐一(おおの たいいち)略歴 1912(明治45)年2月 中国の大連市に生まれる 1932(昭和7)年3月 名古屋高等工業学校機械科卒業 4月 豊田紡織株式会社入社 1943(昭和18)年11月 トヨタ自動車工業株式会社に転籍 1949(昭和24)年8月 トヨタ自動車工業株式会社機械工場長に就任 1954(昭和29)年7月 トヨタ自動車工業株式会社取締役に就任 1956(昭和31)年1月 米国自動車産業視察のため渡航 1960(昭和35)年5月 トヨタ自動車工業株式会社元町工場長に就任 1 で試行錯誤を繰り返しました。机上での議論はあくまで ①「ジャスト・イン・タイム」 も想像でしかなく、 現場にこそ事実があるとの想いから 「ジャスト・イン・タイム」 とは、 「必要なものを、 必要なと です。 きに、 必要なだけ」 という考え方です。 「トヨタ生産方式」は、 各工程が必要なものだけを流 生産現場の場合は、 必要な部品が、 必要なときに、 必 れるように停滞なく生産する「ジャスト・イン・タイム」 と、 異 要な量だけ最終組み立てラインの各工程に同時に到 常が発生したら機械がただちに停止して不良品をつく 着することを意味し、 トヨタ自動車の創業者(2代目社 らない「自働化」 という2つの考え方を柱としています。 長) である豊田喜一郎が提唱しました。 1964(昭和39)年12月 トヨタ自動車工業株式会社常務取締役に就任 1970(昭和45)年7月 トヨタ自動車工業株式会社専務取締役に就任 1973(昭和48)年11月 藍綬褒章を受章 1974(昭和49)年7月 労働大臣功績賞を受賞 1975(昭和50)年7月 トヨタ自動車工業株式会社取締役副社長に就任 1978(昭和53)年9月 トヨタ自動車工業株式会社相談役に就任 1982(昭和57)年5月 勲三等旭日中綬章を受章 1990(平成2)年5月 逝去(享年78歳) 挙母工場生産ライン 建設当初の挙母工場(現本社工場) 2 かんばん 豊田喜一郎氏 豊田佐吉氏 アンドン 付きます。この語源は、 トヨタ自動車の社祖である豊田 3. おわりに 佐吉が発明した自動織機に源流があります。 最後に、 大野の語録の一部を紹介したいと思います。 自動織機とは、 布をつくるために、 糸を紡ぎ、 織物を織 『ムダな動きは働きではない』。 る作業を行う機械で、 古くは手作業で行っていました。 『異常があれば機械を止めるということは、 問題を明 佐吉は、 日本で最初の動力織機を発明しただけでな らかにするということでもある。問題がはっきりすれば改 この考え方は、 トヨタ自動車の創業当時の人々にとっ さらに、 生産現場で「ジャスト・イン・タイム」を実現する く、 その後、 糸切れなどの異常を検知すると運転を停止 善も進む』。 ても、ユニークかつ理想的なものではあったものの、実 ための管理道具として「かんばん」が導入されます。 「か するなど、 数々の革新的な機能を織機に搭載しました。 『先入観を持たず、 白紙になって生産現場を観察せよ。 際の運用をどうするかについては、 具体的な教科書が んばん」 とは、 後工程が前工程から部品を引き取る際に、 戦前より世界的な視野をもって生産現場の合理化に 対象に対して5回の「なぜ」を繰り返せ』。 あるわけでもなく、 難解なものとなっていました。 必要な情報を伝えるための道具で、 「トヨタ生産方式」 取り組んでいた紡織業に身をおいていた大野は、 自動 『「原因」より 「真因」。原因の向こう側に真因が隠 大野は、 それまでの「前工程が後工程へモノを供給 は「かんばん方式」 と呼ばれることもあります。 織機の考え方を自動車の生産現場にも応用しました。 れている』。 する」ことから「後工程が前工程へモノを引き取りに行 しかし、 「かんばん」は重要ではあるものの、 「トヨタ生 「自働」とは、機械に善し悪しを判断させる装置をビ 『私は生産現場に関しては「データ」 も勿論重視して く」 という発想の転換により、 生産現場における「ジャスト・ 産方式」の二本の柱のひとつである「ジャスト・イン・タイ ルトインしたものであり、 「自動」は動くだけのものです。 いるが、 「事実」を一番重視している』。 イン・タイム」を推進しました。 ム」の運用手段のひとつでしかありません。工場全体に 異常が発生すれば機械が止まることで、 不良品は生 『仕事は部下との知恵比べ』。 その際、 ヒントとなったのは、 当時、 米国社会に根付い 「流れ」をつくり出すことや最終組み立てラインの「平準 産されず、 ひとりで何台もの機械を運転できるようになり、 それぞれが、示唆に富む内容で、 ひとつひとつ解説 ていたスーパーマーケットです。お客様(後工程)が、 必 化」など、 「ジャスト・イン・タイム」を実現するための「つく 生産性が飛躍的に向上します。 また、 「アンドン」 と呼ば するだけでも紙面に余裕がなくなってしまいます。 要な商品を、 必要なときに、 必要なだけスーパーマーケ り方」や「思想」を導入せずに、 「かんばん」だけを採用 れる異常表示盤システムの設置により、 作業当事者は 私事で恐縮ですが、 入社間もない1983年頃、 駆け出 ット (前工程) で買い求め、 スーパーマーケットは買い取 しても、 現場は混乱するだけです。 機械を注視する必要がなく、 さらに、 生産工程の異常が しの広報部員として、 既にトヨタ自動車を退任していた 他の作業者や監督者にも、 ひと目で分かる仕組みとなっ 大野に会社に来てもらい、 インタビュー対応をしたことを ています。 今でも鮮明に覚えています。そこでの一言「人を育てな られた分だけ、 その前工程から仕入れなければならず、 まさに「ジャスト・イン・タイム」が実践されているシステム ②「自働化」 です。 「トヨタ生産方式」の「自働化」の「働」はニンベンが いと会社は育たない」。これは、 その後の私の会社生 以上、 その一端をご紹介した「トヨタ生産方式」は、 活における信条ともなっている言葉です。大野の厳しい 大野ひとりの手によって現在のカタチにまで進化したわ 指導により鍛えられ育てられた経営者、 現場の親分は けではありません。 数知れません。大野は「トヨタ生産方式」を確立した単 しかし、 大野は、 佐吉の自動織機に対する考えと、 喜 なる技術者ではなく、 「偉大な教育者」でもあったのだと 一郎の効率化に対する考えを、 実際の生産現場での様々 思います。 な実験的な取り組みにより具現化させ、発展させた中 「トヨタ生産方式」は、 実践をともなった思想です。そ 心人物であったことは間違いありません。 れは、 現在の社会で、 生産現場以外でも世界的に通用 する“日本発”のシステムであるとも言えるのではないで しょうか。 (文中、 敬称略) (トヨタ自動車株式会社 広報部長 小西工己) 3 昭和30年代の元町工場生産ライン G型自動織機 4 マツダの第一号ロータリーエンジン搭載車コスモスポ ーツが誕生して40年を迎えた今年、 「ロータリーエンジ ン (以下REと略)育ての親」と呼ばれてきた山本健一 氏が日本自動車殿堂入りされたことを心から祝福すると ロータリーエンジンへの飽くなき挑戦 マツダ株式会社 元代表取締役社長 名誉相談役 山本 健一 共に、 山本氏のもとで永年REの開発に携わってきた者 として誠に感慨深いものがある。 1920年、東洋コルク工業として広島で産声をあげ、 1929年社名を東洋工業に改めた現在のマツダは、 戦前、 戦後を通じて三輪トラックメーカーとして成長、1960年 代に入ると各種の軽自動車を導入、 モータリゼーション 山本RE研究部長とスタッフの協議(1964年) の幕開けを担った。 しかし開放経済体制下、 ひ弱な日 成し、 RE開発に専心しろ” という松田社長からの指示 本の自動車産業を守るため、 特定産業振興法が浮上、 を受けた。」時に山本氏は40歳だった。山本氏は早速 東洋工業は大手に飲み込まれる可能性が大きかった。 社内各部門を回って頭を下げ、人材を確保されたが、 「西ドイツで革命的なエンジン誕生」のニュースが松田 中でも重視されたのが材料研究部門だった。それは未 恒次社長の耳に飛び込んできたのは丁度そのころだ。 知のREでは材料が重要な役割を果たすと予感された 1960年10月、松田社長自ら西ドイツに飛んでNSU− からであり、 事実材料研究部門が果たした役割は計り バンケルとの間に契約を結び、 マツダにおける研究開発 知れないものがある。 が開始された。 新設されたRE研究部は47人でスタートし、 山本健一 しかし山本氏は必ずしも当初からREにぞっこんだっ 部長のもとに本格的な開発活動を始動した。研究部結 たわけではないようだ。同氏の回想録によると、 「1946 成パーティーの席上山本部長は「マツダの存亡をかけ 年東洋工業に入社以来最初の3年間を除きエンジン設 て新エンジンに取り組む我々は忠臣蔵の赤穂浪士47名 計期間が長く、 自動車エンジンがいかに過酷な条件に と同じ運命をもつ。これからは力をあわせ、 寝てもさめて さらされ、 耐久性、 信頼性が重要な課題であるか身をも もRE成功のために努力をして欲しい。」 と激励、 それ以 って知っていたからだ。」 しかし「1963年4月に驚天動 来「寝てもさめても」が合言葉となった。その山本氏の 地のことがおきた。 “設計部次長を退きRE研究部を編 心をもっとも揺り動かしたのは、 1963年秋の東京モータ ーショー終了後、試作のコスモスポーツで松田恒次社 長と共に行脚した広島出身の池田総理、 金融筋、 マツ ダ販売店などの訪問だったという。 「そこで私が学んだ のは“社長がいかにREに一生懸命になっているか” と いうことだったが、 直接私に云うのではなく、 背で私にわ 山本 健一(やまもと けんいち)略歴 5 1922(大正11)年9月 熊本県に生まれる 1944(昭和19)年9月 東京帝国大学 第一工学部機械工学科 卒業 1946(昭和21)年2月 東洋工業株式会社 入社 1950(昭和25)年10月 設計課発動機係 主任 1952(昭和27)年8月 発動機課発動機設計係 主任 1956(昭和31)年3月 技術部設計課長兼発動機係 主任 1959(昭和34)年12月 設計部次長 1963(昭和38)年4月 ロータリーエンジン研究部長 1971(昭和46)年12月 取締役 ロータリーエンジン研究部長 1978(昭和53)年1月 常務取締役 研究開発本部長 1980(昭和55)年2月 常務取締役 新技術開発担当 1982(昭和57)年1月 専務取締役 新技術開発・研究開発本部担当 1984(昭和59)年11月 代表取締役社長 かって欲しいということではなかったか。広島への帰途、 1987(昭和62)年12月 代表取締役会長 1992(平成4)年12月 退任/相談役最高顧問 1998(平成10)年7月 名誉相談役 東海道、 山陽道沿いのマツダ販売店も訪れたが、 この 一連の行脚が私の決意を決定的なものにした。」 賞罰 1969(昭和44)年4月 科学技術庁長官賞 受賞 1971(昭和46)年11月 紫綬褒章 受章 1986(昭和61)年2月 MAN OF THE YEAR 受賞 (AUTOMOTIVE INDUSTRIES誌) 1987(昭和62)年10月 米国自動車技術会(SAE)エドワード・コール賞 受賞 11月 藍綬褒章 受章 1991(平成3)年3月 ベルギー王国 王冠勲章コマンド−ル章 受章 12月 RJCマンオブザイヤー賞 受賞 1993(平成5)年11月 勲二等旭日重光章 受章 開発に拍車はかかったが、 幾多の問題を抱えている ことが日を追うごとに明らかになり、 著名な学者がREの 実用化は不可能という烙印までおしてくれた。 「悪魔の バンケル式ロータリーエンジン契約交渉に向けて出発する関係者たち。 一番左が松田恒次氏。 爪あと」 と命名した、 ローター先端のアペックスシールの 摺動によりローターハウジングの表面に生じる波状磨耗 6 同年12月延べ60万キロに及ぶ社外委託試験も終了、 マツダは経営危機の引き金にすらなったREを断念 1967年5月、 遂に念願の発売にこぎつけることが出来た。 せずに、燃費の大幅改善とREでしか実現出来ないス ポーツカー、 初代RX−7の開発を決断するが、 その背景 是非とも言及しておきたいのが部品工業各社の献 には住友銀行関係者の理解と協力もあった。初代RX 身的な貢献だ。RE研究部の設立直後、 松田社長は山 −7は導入と同時にアメリカ市場を中心に大成功を収め、 本部長他を伴い、関連部品メーカーのトップを宮島に REの失地回復に大きく貢献、2代目、3代目RX−7へと あった迎賓館に招き協力を要請した。 ものになるかどう 引き継がれた。 かわからない段階からのソロバン勘定を度外視した各 1990年代に入り再びREへの暗雲が立ち込めたが、 社の献身的な協力はマツダに於けるRE実用化成功の 山本氏の薫陶を受け、 あるいは志を引き継いだ技術者 は中でも最も厄介な問題だった。固有振動数を変える 大きな基礎となった。またマツダは早くから精密な工作 達の飽くなき挑戦が実を結び、 RENESISという21世紀 ためにシールに縦横に小穴を開けたクロスホローアペッ 機械を自ら開発、 生産、 更には各種の新鋭生産技術を をふまえた新型REとそれを搭載したRX−8が誕生、 生 の父である故バンケル博士、 REの開発を決断した故松 クスシールをはじめ、 可能性のある材料を片端から評価、 積極的に導入してきた企業であり、 REの生産に関わる 産設備も英知を結集して大幅に刷新された。現在も水 田恒次社長、 そして世界中のREユーザーにささげたい。」 量産可能という判断に至ったのはカーボンパウダーにア 課題の多くを自ら解決出来たことも忘れるわけにはい 素REを含む次世代REへの挑戦が力強く続いている。 と述べられている。 ルミを含浸させた新材料だった。 「かちかち山」 と呼んだ、 かない。 もうひとつの忘れられない出来事が1991年のルマン 山本氏は1984年から社長を3年間、 1987年から会長 ドイツのリンダウにバンケル博士訪問(1965年) ローター側面のオイルシールから漏れたオイルが燃焼 ル・マン優勝報告会(1991年7月 赤坂プリンスホテル) 室に入って燃焼し、 排出されるもうもうたる煙も大きな問 しかしREへのハードルはこれにとどまらなかった。松 総合優勝だ。REによるルマンへの挑戦は1974年に始 を5年間つとめられ、 現在も名誉相談役として大所高所 題だった。NSU方式とは大きく異なるオイルシール、 なら 田恒次社長の夢でもあったアメリカ市場への進出に際 まり、1979年からは毎年挑戦し続けたが、結果は最高 からマツダの行く道を見守っておられるが、 回想録のあ びにOリングの開発により解決することができた。 「電気 し立ちはだかったのが、 光化学スモッグが引き金となっ でも7位止まりだった。 レース規則の変更により1990年 とがきで「技術開発の成否には人間の在り方が深く関 あんま」と呼称した不整燃焼による車体振動の対策と た排気ガス規制だった。苦心の末にサーマルリアクタ がREによる挑戦可能最後の年となったため、 上位入賞 わる」とし、 マツダのRE開発が幾多の困難にもめげず しては、 サイドポートと呼ぶ吸気システムによる吸排気の ー方式による排気ガスの後処理技術を開発、 念願のア に向けて全力投入したが結果は惨敗に終わった。 しか にその目的を実現することが出来た条件として以下の3 オーバーラップの削減が大きく貢献した。幾多の技術 メリカ輸出を果たしたのは1970年、 松田恒次氏はその しレース後幸いにも、 もう一年だけREによる参戦が可能 点をあげておられる。 的な困難や社内外の体制派からの批判に対して山本 後のマツダをみとどけることなく同年逝去された。不可 となったため、 マツダ、 マツダスピードが一体となって、 あ 氏は強力なリーダーシップを発揮され、 それに技術者達 能とまでいわれたREの排気ガス規制への対応に成功 らゆる技術課題に対応し、 1991年あの歴史的な勝利を が「寝てもさめても」の思いで応えた。 したマツダはR100、 RX−2、 RX−3などのRE車を次々に 手中に収めることが出来た。山本氏はルマンの帰朝報 開発陣を常に守り、 かつ激励のためのリーダーシッ アメリカに導入、 破竹の勢いで販売を伸ばした。 告会で、 「多くの自動車会社が開発を諦めたREにマツ プをとり続けた。 初代のRE搭載車には当時としては画期的なスポー しかし1973年末の第一次エネルギー危機による燃 ダだけが執念を持ち続け、 ルマンの歴史に新しい1ペー 2. RE開発・生産に従事した技術者達が志を高く持 ツカーが選択された。時代の最先端を行く三次自動車 料価格の急騰、 更にはEPAが発表した燃費問題が引 ジを付け加えたことは誠に意義深い。 しかもREが出走 ち、 常にチャレンジングスピリットを失わず、 自己犠牲 試験場(最高速度オーバー200km/h) も1965年5月に き金となり販売が激減、経営危機に直面した。1974年 可能な最後の年であったことも劇的である。関係者一 をいとわぬチームワークに努力した。 完成、 走行テストに拍車がかかった。1966年1月からは から1976年にかけての社内環境は、 REの存続を疑わ 人ひとりの精進によってもたらされた今回の勝利をRE 60台のコスモスポーツを全国各地の特約販売店に配車、 しめるほどのものとなったが、 このころの山本氏の心境 あらゆる気象条件や道路条件のもとでの走行を依頼し、 は察するに余りある。 1. 経営トップが自らの経営戦略に基づき意思決定し、 3. 日本の部品メーカーが損得を度外視し、 運命共同 体的な視点から献身的協力を発揮してくれた。 山本氏は「考えてみると以上の3項はすべて人間相 互の信頼が基礎であったということが出来る。」 と述べ られているが、 山本氏こそ、人間相互の信頼をもっとも 大切にされた方であり、 ロータリーエンジンへの飽くなき 挑戦を通してマツダの企業文化を大きく前進させると 共に、 世界の自動車技術史に貴重な一ページを刻まれ た方である。 (マツダ株式会社 元専務取締役 黒田 尭) 7 1967年5月に導入され、初代RE搭載車として 貴重な役割を果たしたコスモスポーツ RE存続の危機の中1978年に誕生し、 REイメージの再構築にも大きく貢献した初代RX-7 新型RE、RENESISを搭載し2003年に導入された 4人乗りスポーツカーRX-8 8 (1)開発技術者として 1952年にいすゞ自動車に入社し、 エンジン設計、 車両 設計を経て、創設された研究実験部門で未開拓の操 縦性・安定性、 乗心地の研究に従事。ほとんどゼロから 自動車の研究・開発・生産で技術哲学を実践 いすゞ自動車株式会社 元専務取締役 車体工業株式会社 元代表取締役社長 中塚 武司 の出発であった。鉄道技術研究所、 空気ばねメーカー と共同研究を行ない、 日本初の空気ばねバス、 トラックを 世に出した。これは東海道新幹線の空気ばねのベー スとなる画期的な先行研究開発でもあった。操縦性・安 スイングアクスル車の限界特性シミュレーション解析 定性については、早く世界に並びたいとの思いから論 文や識者から学び、 泥臭いやり方といわれても、 推論を たことなどから、 日本からのこの情報発信は世界の運動 立て、 あらゆる可能性を考えて、 実験と理論で着実に実 性能研究者に衝撃を与えた。この過程で、 いすゞ標準 証していく自分流の方法を生み出す端緒となった。運 試験方法のベースができ、 その後も設計企画時の性能 動性能を人間−機械−環境系の現象としてとらえ、 特に 目標設定のための性能の数値化などで技術を蓄積し、 限界特性、 事故予防・回避、 さらに傷害低減など、 安全 客観化した。限界特性の究明、 運動性能全般の体系 性を追求した。代表的な成果には下記のようなものが 化を行った際の一連の研究論文で自動車技術会賞学 ある。 術賞を受賞している。 操縦性・安定性の研究 高速安定性、横風応答特性の研究 試作車がテスト中にアンダーステアから突然オーバー 高速道路が完成した直後から、 高速走行時の安定 ステアに変わる特性を示した。綿密な実験で運動現象 性面で優れた欧州車との格差が明確になった。わが国 を確認し、 シミュレーション解析の後、 改良したスイングア 初の横風発生装置を設置してパルス入力時の応答を クスル式サスペンションを備えたベレットは、 優れた旋回 空力特性、車両応答特性の面から現象確認、理論解 特性を持つ今までにないスポーティーな乗用車との評 析し解明した。 価を得て、 一時期を作った。 成果を研究論文「自動車の曲線運動、特に限界特 レースへの参加とサーキットでの性能解析 性の研究」、 “Cornering Ability Analysis Based on 各社ともレースで技術力を競ってアピールする時期 Vehicle Dynamics System”にあらわし、 自動車技術 には、 乗用車、 スポーツカーR6などで参加。運動性能研 会およびSAE・FISITA国際会議で公表した。実験、 理 究をレースまで拡げて、 限界加速度G−Gカーブをドライ 論の面で世界レベルであったこと、世界の名車といわ バー+車の限界能力とし、 理論解析してラップタイム予 れる車の中にスイングアクスル機構を持つ車が存在し 測値を示した。実験、 計測で精度も高いことを確かめて ドライバーの信頼を得た。 中塚 武司(なかつか たけし)略歴 1926(大正15)年11月 岡山県に生まれる 1951(昭和26)年3月 東京工業大学機械工学科卒業 1952(昭和27)年4月 いすゞ自動車株式会社入社 1965(昭和40)年7月 研究部研究室主査 1967(昭和42)年5月 自動車技術会賞 学術賞 1970(昭和45)年6月 小型車研究実験部部長 1976(昭和51)年1月 取締役 小型車研究生産本部副本部長 1980(昭和55)年1月 常務取締役 開発本部長補佐 1982(昭和57)年1月 専務取締役 開発本部長 9 予防安全、衝突時の安全性の研究 1983(昭和58)年6月 発明協会会長賞 1984(昭和59)年1月 専務取締役 品質保証・生産部門所管 1988(昭和63)年1月 車体工業株式会社 代表取締役社長 1990(平成2)年9月 中国重慶大学 顧問教授 1991(平成3)年10月 PM優秀事業場賞 1992(平成4)年1月 株式会社いすゞ中央研究所会長 1992(平成4)年4月 科学技術庁長官賞 1992(平成4)年10月 自動車技術会賞 技術貢献賞 1994(平成6)年2月 いすゞ自動車 理事 1997(平成9)年5月 自動車技術会名誉会員 1965年頃より身体計測、 心身反応計測、 運転疲労な ど、 予防安全を考え人間工学領域へと拡張した。更に、 空気ばねを装着した試作車 車+ドライバーの限界G-Gカーブ:左は乗用車、右はレース車。 ミリケンの著書にも引用されている 10 わりは強く影響を受けた。 ィーゼル乗用車速度世界記録」はいすゞ技術者の能力 とプライドをかけたイベントとなり、24時間走行で平均 過去に無い数の開発プロジェクトに新技術を反映 205km/h、 最高214km/hの世界記録を樹立した。全 車両開発責任者としてまた開発本部長として各種商 社一丸となっての挑戦はエンジニヤに日常業務とは異 用車、 乗用車、 SUV車を開発した。 なる新しい経験をもたらした。 GM世界戦略車のジェミニ、 LUVピックアップ、 アスカ、 いすゞ独自の開発車ではエルフ超低床フラットロー、 ビッ 低い荷台の効果をエネルギー消費量測定で評価 ダミーを乗せて二輪車事故再現 むち打ち解析などで「日本交通科学協議会」に参加し、 (3)品質保証・生産部門での経営者として グホーン4WD車、 ピアッツァ、 ファーゴ、 10トン車、 電子制 個々の能力発揮、結束で生産性向上 御機械式自動変速機(科学技術庁長官賞:NAVI−5 1984年からは品質保証・生産部門の責任者として、 の開発育成) などの開発に携わっている。GM各グル− 日本式生産方式の優れたところを全て取り入れた「いすゞ プとのプロジェクトでは、 きびしいビジネス上・技術上の プロダクションシステム」により全社を通した改革に取り やり取りもあったが、 互いに本音で話し合い、 技術者とし 組んだ。原価・工数・在庫・品質問題低減などで画期的 て信頼関係を築くに至った。 な目標を達成している。1987年から、 プレス金型、 商業 (4)人間技術者として タクラマカン砂漠用車の現地走行テスト しての人材育成を日中友好協会からも高く評価された。 車の車体を製造する車体工業(株)で、社長として陣 中塚流技術哲学 目標性能達成管理 頭指揮をとりPM優秀事業場賞(PM方式設備管理に 京都哲学の三木清「技術哲学」で示される概念「人 今の開発プロセスでは当然となっている、図面の段 よる品質と生産性向上) を受賞して結実した。 間の行為の本質である技術を行う技術者は、 主観的な 階で性能を満足させられることを保証する体制を構築し、 トップダウンで進めていた挑戦も、 進行するにつれて 目的や願望を持ち、客観的な自然法則に則るものでな 企画者、 設計者、 実験審査者などのレベルアップを促し 成果が現れてくるのを皆にわかるように表現し、 作業者 ければならない」という考え方にもとづいて、追従や模 た。更には生産技術、品質管理を含む、全社を通した の一人一人の能力が発揮され、 結束されるまでになった。 倣を退けた。客観性は文献、識者から学び、開発した 品質確保体制に道筋をつけた。 特筆すべきは事務部門や病院、 保育所にも適用されて 技術を研究論文等で報告する際には、客観的で誰に 顕著な成果が得られたことであろう。 でもわかる表現を求めた。 医学界との共同研究を行った。最新映像技術と生体 解剖で分析した「うさぎの衝突実験」は世界的な評価 ディーゼル乗用車の公認国際速度記録13種目更新 を得た。 また、 計測器を装備したダミーを乗せた二輪車 GMの世界戦略乗用車「Jカー」に日本の市場に合っ 中国との友好促進 個人の能力発揮と結束 を乗用車に側面衝突させるわが国初の実験で事故を た商品性を備えるべく、 ディーゼルエンジンを搭載した 重慶の慶鈴汽車以来、 中国との友好関係を深めて 「自動車の開発、生産、販売、 その他いずれの場面 再現し、 傷害程度を予測した。 アスカを開発。1983年に組織委員長として計画した「デ いたが、 当時、 中塚氏が責任者となっていた輸出車の においても、 それぞれ一個人だけでは仕事をなしえない。 これらの成果は、 自動車工学ハンドブック・便覧、 機械 品質問題解決、 タクラマカン砂漠用車の共同開発、新 目的を共有し、個々人の能力を発揮して目標に挑戦し 工学便覧やその他の著書で公表され、 自動車技術の 疆ウルムチにノックダウン工場建設などで更に絆は強く なければ、 達成はあり得ないことを認識し、 指導者、 先輩、 体系化と拡大普及に結実した。 なった。重慶大学との産学連携では日本での正社員と 難題を解決する際にも努力を惜しまなかった同僚、後 輩に感謝しなければならない」と中塚氏はことあるごと (2)車両開発責任者として に述べている。 過去に例の無い多くの開発プロジェクトを迎えた時 中塚武司氏の技術者、 経営者としての42年間は、 い 期であった。 「世界で初めての製品を生み出す」 「車 すゞ自動車で乗用車の開発が始まり、 本格的に生産され、 作りは自己表現であり、 みなの理解を得られ役に立つ シボレーチーフエンジニヤとLUVのテストトリップ 日本の自動車技術、 自動車産業がゼロからスタートして 客観的なもの」を信条とした。技術者のひらめきを実現 世界のトップの座に成熟する時期に符合する。自己の させるための方法をリードし、定着させるためにプロセ 願望と執念を貫いて、 最先端の研究・開発や未知の領 ス化した。自分の力を信じてやれ! といつも言っていた 域への挑戦の機会に恵まれた技術者・経営者人生だ のは、助言であると同時に、 中塚氏本人が達成を信じ ったといえよう。 るための表現でもあったようだ。意見の激しいやり取り (東京工業大学特任教授 元いすゞ中央研究所 が仲間との信頼関係を築き、 相互の力を発揮させる結 常務取締役 北原 孝) 果を導いた。世界のトップレベルを目指して邁進する様 11 は、 いつも全力投球、 直球勝負という表現が相応しく、 ま 世界記録にチャレンジし達成したアスカディーゼル 全社結束で生産性改革 12 世界に冠たる自動車プレス金型産業を拓く 荻原鉄工所(現・株式会社オギハラ) 創業者 荻原 八郎(おぎはら はちろう)略歴 1906(明治39)年1月 群馬県新田郡尾島町に荻原家の六男として 生まれる 1921(大正10)年3月 新田中学校卒業 9月 中島飛行機製作所(現・富士重工業(株))入社 1943(昭和18)年8月 中島飛行機(株)小泉製作所矢島工場長に着任 1945(昭和20)年8月 終戦により中島飛行機(株)を退社 9月 富士産業(現・富士重工業(株))入社 G.H.Q.賠償資産管理責任者 1950(昭和25)年6月 荻原興業(株)設立、代表取締役就任 高林富士館(映画館)開設 以後、小泉日活館も開設 13 荻原 八郎 世界に進出したプレス金型の名門 若さで矢島工場長に任命され、主に海軍機の組み立 日本の、 そして世界の多くの自動車に (株) オギハラの てに従事していた。 しかし太平洋戦争が終結し、 軍需 プレス金型技術が生きている。数え上げれば限がないが、 産業であった中島飛行機は解散。同時にその仕事に 例えばビッグ3を始めベンツ、 ジャガー、 アルファロメオ、 終止符を打つこととなった。 プジョーなど欧米のほとんどの自動車メーカーがその名 代わってGHQの命により賠償資産を管理する富士 を連ねることになる。 産業株式会社に所属することとなった八郎氏は、 この いまや世界各国に7拠点、 日本に関連会社8社を 会社の太田地区管理担当者となる。米軍のジープの 擁し、 その精度の高さと品質により比類なき評価を不動 外板をジュラルミンで製作しようと提案するなど、 技術的 のものにしてきた (株) オギハラ。 な仕事をこなす傍ら、賠償資産管理の任務を全うした そのルーツは1906年(明治39年)群馬県新田郡尾 八郎氏。その後いくつかの関連会社から誘いを受けな 島町(現・太田市)で荻原八郎氏が生を受けたことに がらも、 漠然と戦後の混乱期において将来自分が進む 始まる。 べき道を考えていた。 中島知久平氏との出会い 通勤路3往復の熟慮の末に独立 当時としては豊かな農家に生まれた八郎氏は、 中学 全てがゼロからのスタートとなった戦後復興は、 自分 を卒業しても就職の必要も無く、 寺子屋での勉強や近 自身の力だけで新しい道を切り開くには絶好の機会で 所の子供達との草野球に興じる悠々自適な日々を過ご あった。昭和25年、 八郎氏44歳の時、 おりしも前年に恩 していた。 人の中島知久平氏が逝去していたことも、多くの誘い その野球少年に同郷である中島と名乗る男性が声 を断り独立を決心させる要因のひとつとなった。 を掛けた。その人から飛行機の基礎に始まりその将来 しかし、 荒廃した日本で新たな事業を起こすとなると 性まで熱心に話をして聞かせられ、瞬く間に飛行機の 不安は尽きない。独立は当時の自宅から最寄り駅まで 虜になった八郎少年は、 周囲の反対を押し切って中島 の間を3往復しながらの思案の末の結論だったという。 氏の会社に入社することとなる。この中島氏こそが、 ま 目標はやがて復興するであろう日本の飛行機産業や、 さに中島飛行機製作所の創始者中島知久平その人で これから再興に直面している自動車産業に直結する機 あった。 械加工工場の設立であった。 当時の飛行機といえばパイプフレームに布張り、 試作 しかしゼロから工場建設に着手するには時間も資本 機は金属加工からすべて手作業で行っていたため、 個 も不足していた。 まずは36万円の退職金と30万円の借 人の技術と工夫でその出来上がりに大きな差がつく代 金で始めたのが、 旧中島飛行機物資供給所跡地を利 物であった。工場で頭角を現した八郎氏は38歳という 用した映画館。この事業はやがて映画館2館を擁する 採光室での検査は熟練の眼により微細にチェックされる。もちろん三次 元測定機や検査冶具など最新鋭機器による数値チェックにおいてもオ ギハラは世界をリードしている。 昭和30年創業時の工場風景。精鋭18名で立上げた新工場には今で こそ見慣れたフライス盤、ボール盤、 プレーナーなど最新鋭の機械が並 ぶ。これで世界に立ち向かって行った。 1951(昭和26)年11月 荻原鉄工所を創業 1955(昭和30)年12月 (有) 荻原鉄工所を設立、代表取締役就任 1968(昭和43)年1月 群馬県プレス金型工業会初代会長就任 1973(昭和48)年4月 内閣総理大臣より黄綬褒章を受章 1980(昭和55)年2月 (株)荻原鉄工所、他3社の会長就任 4月 内閣総理大臣より紺綬褒章を受章 11月 日本赤十字社より金色有功章を受章 1983(昭和58)年4月 17日逝去(享年78歳)勳五等瑞宝章受章 14 いた新三菱重工業からの発注を受け、事業は熱を帯 びてくることになる。 そしてついに昭和30年、 有限会社荻原鉄工所を設立。 翌年には関東自動車工業、富士精密工業、本田技研 浜松製作所、 武部鉄工所などから発注を受け、 金型メ ーカーとしての礎を築いていくことになる。 しかし戦後間もない新興工場では、 時に完成品をリ ヤカーで駅まで運び貨車で運搬することもあった。念願 リヤカーに代わりいよいよ待望の『運搬車』が投入された。写真は昭和 35年頃に活躍していた日産ジュニア。重量物を運ぶため、 日常の整備 点検は自社の社員が念入りに行なう。 のトラックを購入できたのは3年後、 そんな時代だった のだ。 順調な発展ぶりをみせ、 のちの昭和26年に荻原鉄工 本田弁二郎氏との出会い 所を創業する際の大きな原動力となる。 他社が途中で投げ出す程の高精度を要求された本 田技研工業発注の金型製作。当時0.2mm/m程度の モータリゼーションの黎明期と共に 精度が一般的だったものを、 実に0.02mm/mの精度が 戦前からプレス金型の必要性を認識し、 実現こそさ 要求された。この仕事を他社から引き継ぎ、 これを無事 れなかったがドイツ人技師の指導の下に試作まで手が 納入。本田から高い信頼を勝ち得た。 けていた八郎氏の技術は、 やがて富士自動車工業か 当然、 さらなる追加発注を受けたものの、 あまりの精 らのバス・フロントパネルの受注に結びつく。 度の高さゆえ事業の採算は合わず、 さらに納期を守る 実に富士自動車工業としても外板の製造を板金から のは至難の業であった。 プレスに切り替えた初の仕事だった。現在でこそ一般 ついに八郎氏は本田弁二郎氏(宗一郎氏の実弟) 的となったプレス加工であるが、 当時としては最先端の に仕事の辞退を申し入れることとなる。 技術力を必要としたパイオニア的な出来事であり、 八郎 しかし弁二郎氏の回答は意外なものだった。融資を 氏の経験と技術力が有って初めて成し得た偉業といえ するから最新設備の工場を建設するべきだと言うので よう。 ある。同氏の並々ならぬ尽力で資金援助を得た八郎氏 その後、 「シルバービジョン」や「みずしま」を生産して は、 自社の発展を支える新工場を竣工した。その後、 オ 海外向けカタログ第一号。昭和42年春、40日に渡る欧米視察旅行の結 果、 それまで商社任せだった営業を自社で展開することを決意。世界の オギハラへ飛躍する大きな一歩となる。 サーブから贈られたクリスマスカード。オギハラへの感謝の念が首脳 3 氏 の直筆サインから読み取れる。昭和52年、 オギハラは世界各国の自動車 メーカーと親密な関係を構築した。 ギハラ社内野球大会の始球式まで努めた弁二郎氏と 注するという決断を下した。 『今はどこの会社だって苦 の信頼関係が築かれたエピソードである。 しいのだから…』社内の反対意見を熱心に説得し自社 以後は、高度成長期の追い風にも乗り、 また積極的 だけの利益を追及せず、 同業他社との共存共栄を図っ に自社の努力で進出を図った海外からの受注も得られ たのだった。昭和49年暮れの出来事だ。 るようになってきた。 これはすなわちオギハラの技術が欧米の金型技術 病床の八郎氏とオギハラのその後 に追いつき、 追い越した証でもある。なにしろ金型を船 昭和51年1月、 八郎氏は病床に伏した。脳血栓。 で運ぶ一ヵ月半という時間のハンディを克服しながら、 幸い対処が早く、 その後は療養生活を送り、 やがて 地元メーカーより高品質の製品を送り出さなければなら は職務を遂行できるまでに回復したが、 これを機に会長 ないのだから。 に就任し、 長男・栄一氏に社長の座を譲った。 さらに関連会社の設立も進み順調に業績を伸ばした 昭和55年、 次男・映久専務、 三男・登紀雄常務の オギハラ。 しかしオイルショックでは当然のごとく大きな トロイカ体制は、 さらに今日のオギハラの繁栄を確固たる 苦難を強いられた。 ものにする礎となり、 今日に至る。 それを救ったのは韓国・現代自動車からの競争入札 これ新体制の確立が社長として、八郎氏の最後の 獲得だった。 仕事となった。 国内外4社の激しい受注競争を勝ち抜いた成果を、 (日本自動車殿堂「選考会議」) 八郎氏は苦境に喘ぐ国内各社に惜しげもなく分割発 15 昭和38年5月、 オーストラリア・ゼネラルモータース社ホールデン工場の工場長ら首脳がオギハラを視察に来日。翌39年、初の海外出張の契機となり、 翌年の初受注に繋がる。 ソ連との取引も貴重な体験となった。カマス自動車のロンジェロン・フォームダイは製品長7910mm、 その金型は30t トレーラーでなければ運搬できない 世界最大級の代物だった。 16 自動車交通の安全を手がけた先駆者 宇留野藤雄氏は我が国の心理学に関する諸研究 の中で、 「交通心理学」なる領域を創設し、 今や交通安 全に関する諸施策を考える上で「交通心理学」的な知 自動車の安全を支える交通心理学の先達 見を抜きにしては考えられない確固とした学問上での 地位を築き上げられた功労者と言っても過言ではなか 日本交通心理学会第2代会長 元日本大学生産工学部 教授 文学博士 宇留野藤雄 ろう。 もちろん、 陸上における交通機関の安全運行の研究 に関しては、 すでに国鉄労働科学研究所がこれを手掛 ハワイにて(平成2年1月) け、 その研究実績の数々は周知の事実である。然し、 昭和30年代後半より急速に高まって来た「くるま社会」 る交通事故の多発に対処するため、 警察庁は、 交通警 の到来は、 マスコミに「交通戦争」なる新造語まで生み 察の運用の科学化を図ることが急務であることに気付き、 出させるに至った。 科学警察研究所を創設し、 当時東京工業大学におい そもそも 「くるま社会」は、 自動車運転者・自転車・荷車・ て学究の道・教育者の道を歩んでいた宇留野藤雄氏 歩行者等々、 全く通行様態の異なるものが同じ道路を に白羽の矢を立て就任を懇請した。 利用し、相互に往き来することによって成立している。 新らたな交通部交通安全室長の仕事は、 我が国の その為に交通事故は我々の極く身近かなところでも発 道路交通の安全確保は勿論、 道路利用者(人と車両) 生している。これが軌道・鉄道交通や、 海・空の運輸と への指導取締り等にかかわる極めて重要なものであっ は異った点で、 これらに対する対策も決して一筋縄では たが、 すべて、 未知の領域が多い為、 種々の隘路困難 行かぬ「難かしさ」を抱えている。 も予想された事は想像に難くない。 然し先生は、 「この様な重大な仕事を任せられるの 「男子の本懐」と文部教官(東工大)より は男子の本懐である…」 と、 敢然とこれを受諾、 学問の 警察庁技官へ転身 府から一介の技官に身を投じ、我が国交通警察の科 この様に我々の身近かで時と場所を選ばず発生す 学化に向けて、該博な心理学の知識と持ち前の行動 力と実行力、 そして広い人脈と魅力的な人柄をもって、 様々 な課題に取り組み、 着々とその成果を上げられた。 道交法65条制定のための飲酒実験 数々の業績の一部は略歴に示される通りであるが、 特に道路交通法第65条(酒気帯び運転の禁止) にか かわる「身体に保有するアルコールの量と『酒気帯び』 規定の制定(道交法施行令44条3)」に当っては、 大が 宇留野 藤雄(うるの ふじお)略歴 17 1917(大正6)年4月 27日 茨城県常陸太田市に生れる 1949(昭和24)年3月 東京文理科大学心理学科卒業 1949(昭和24)年9月 東京工業大学助手(文部教官) 1959(昭和34)年5月 警察庁に出向 1960(昭和35)年9月 科学警察研究所交通部 交通安全室長 1969(昭和44)年6月 日本大学総合科学研究所教授 1971(昭和46)年4月 日本大学生産工学部教授 1981(昭和56)年11月 日本大学より文学博士の学位を授与される (研究テーマ 交通心理学) 1986(昭和61)年7月 日本大学生産工学部図書館長 1987(昭和62)年4月 日本大学定年退職 1994(平成6)年11月 勲四等瑞宝章 1996(平成8)年10月 19日 逝去(享年79歳) かりかつ精力的な実験研究を行なった。その後道交法 学会活動・社会活動 自昭和24年∼至昭和62年 日本心理学会会員 自昭和58年∼至平成8年 日本交通心理学会会員・第2代日本交通心理学会会長 自昭和41年∼至昭和53年 (社)交通工学研究会理事 自昭和40年∼至平成8年 (社)日本交通科学協議会常任理事・顧問 自昭和43年∼至平成8年 (財)日本交通安全教育普及協会理事 の一部改正によって、 『酒気帯び』運転に関する罰則 が強化され今日に至っているが、 ここで得られた基準は、 国際的にも初めての基準であり、 現在自動車先進国各 国の基準として採用されている。 研究論文 自動車運転行動の安全と教育に関する総合的研究(共著) 文部科学研究費成果報告(昭和61年3月) ほか47篇 この実例は、 「研究し・提案し・行動する学会」を標 榜する日本交通心理学会としても、 その歴史に記され 公共事業体の委託研究報告 高齢運転者対策に関する交通心理学的研究――その教育的アプローチ―― 佐川交通社会財団研究助成報告書(共著) ( 平成8年3月) ほか19篇 るべき快挙であり、 学会全員の誇りとするところでもある。 新宿でのスナップ写真(平成5年5月) かくして、 科学警察研究所はもちろん、 警察行政の中 18 56( 1981)年まで、 「大地震における運転者の意識と行 新らしい知見が展開されている。 込む温かい人柄で接して来られたのは、 はた目にも心 動」を調査分析している。昭和60( 1985)年には日本消 著作は数多いが、 「危険なドライバー」 (朝日新聞社刊・ 温まる思いがした。 防協会の協力のもと 「日本海中部地震における運転者 1969年) は、 すでにこの分野での達見を展開され、 当時 奥様は交通評論家として著名な結城多香子さんで、 の意識と行動」について、現地調査を行ない、運転者 の交通問題に関心を抱いていた警察官・実務家・研究 お二人ともゴルフ好きであったから、 晩年周囲にゴルフ のとった行動の解明を行ない貴重な提言を行なう等々 者にとってはバイブル的存在として高い評価を得た。そ 場の多い伊豆高原に居を移された。そして趣味と仕事 常にくるま社会の先を見通した研究をリードされたこと してこの書物は先生の没後、同書の復刻版発行の要 を共にされた鴛鴦(おしどり)ぶりも決して半ぱではなか は敬服に価いするものがある。 望が強く、 著者(西山) と岸田孝弥 高崎経済大学教授 った様で、同学・同業・同好の人たちを羨ましがらせる 一面もあった。 (当時) によって、 古い資料の書き替えや解説の加えら 日交心の仲間と千鳥が淵で花見(平成5年4月) 左から西山 啓、丸山康則、宇留野先生、木島公昭 日本交通心理学会の設立 れた「新危険なドライバー」が誕生した程である。この 先生はかねてから交通安全に関する諸問題について、 作業を担当した者として痛感したのは、 同書の着眼点 研究成果を世の中に還元しなくては… で「交通心理学」の存在とその重要性を定着させ、 幾 研究討議の出来る組織の設立を構想して居られたが、 や内容ともに全く現代にそのまま通用することばかりで、 先生は常に「我々は研究し行動し提言出来る学会 多の後進を指導されたが、 1969( 昭和44)年日本大学 これを実行に移し、1975( 昭和50)年に日本交通心理 さすが「交通心理学会の千里眼…」と舌を巻くことば でなくてはならぬ」 と言われた。 「単なる研究ではなくそ 総合科学研究所教授、1971( 昭和47)年日本大学生 学研究会(初代会長鶴田正一元大阪大学・中京大学 かりであった。 の成果を世の中に還元しなくては…」が口ぐせであった。 産工学部教授に就任、 再び学究と教育者の道を歩む 教授) を立ち上げ、 その事務局長に就任。1982年には ことになった。 日本交通心理学会に名称も変更し、 心理学会における 多くの人々に慕われた人柄 で、 トラックドライバー用安全教育ビデオ教材(全3巻) 独立した研究領域(学会活動) としての地位の確立に 先生はアイデアと行動力で広く活躍されたが、 持ち前 を制作したり、 「安全運転の人間科学(1) (2) (3) ( 、1982 幼児交通安全教育の基本を構築 尽力された。 の気遣いと優しさ溢れる人柄で多くの人からも慕われ、 ∼85)」 「安全運転の心理学(1) (2)、 ( 1988)」 「人と 昭和46年総理府への「幼児交通安全対策プロジェ そして鶴田会長のあとを受け、 第二代日本交通心理 宇留野ファンは多かった。その人柄に惚れ込んでいた 車QアンドA (1993)」――いずれも (株)企業開発セン クト」のリーダーとして、 専門家の協力を得て、 幼児交通 学会会長に就任。1996( 平成8)年に病没されるまで 人がある日 「先生は夫婦喧嘩をされたことがありますか」 ターより発行――などを刊行し、 成果を世に問うている。 安全教育の基本を制定(国家公安委員会・幼児交通 学会の発展の基礎を築かれ、 「交通心理学の宇留野 と問うたところ、 即座に「ありません」との返事。さもあり 安全教則) し、 幼児交通安全クラブの全国的展開など 先生」の名声は更に全国的なものとなったことは、 研究 なんと一層感服し己れの不明を恥じ入ったとの事である。 「やあ頑張ってるね」ハイ「みんな頑張っています」 幼児の交通事故の激減に貢献した。 業績の大なること、 数々のマスコミ ・メディア等への登場 然し乍らこちこちの「学者先生」ではなく、 交通評論 先生が亡くなられ10周年目の平成17年11月11日に、 がこれを証明している。 家集団の代表幹事でもありまとめ役でもあった。個性派 「宇留野先生を偲ぶ会」が催された。発起人の代表は 沖縄県交通方法変更時の交通安全教育指導 この間1981年には、 永年に亘る交通心理学の研究 揃いの評論家グループのメンバーも、 気さくで人を包み 元人事院総裁の内海倫(ひとし)氏で「科学警察研究 沖縄県の本土復帰に伴う交通方法の変更は昭和 の集大成を学位論文にまとめられ、 日本大学より文学博 所交通安全室長宇留野藤雄」の生みの親とも言うべき 53( 1978)年7月30日を期して行なわれた。これは従来 士の学位を授与された。 方をはじめ、 学者・実務家・弁護士・会社社長・評論家・ そんな経緯もあり、 日本交通心理学会編のブランド名 音楽家等、 錚々たる顔ぶれ多数の参加者によって和や の米本土方式「車は右」から日本本土並みの「車は左」 に改めるもので、 これを完了しないと、 沖縄の戦後は終 著書・研究に見られた交通心理学の千里眼ぶり かに楽しく行なわれた。その時に配布されたのは、 奥様 わらないとも言われた国家的大プロジェクトであった。 論文は、 道路・歩行者・交通警察官・運転者・運転行 の発案で作られた「宇留野藤雄追悼文集」でタイトル 変更日が7月30日であったため、 ナナ・サン・マルと呼ば 動等の章から構成されているが、 特に運転者の適性、 は「あれから十年みんな頑張っています」である。これ れ道路・車両・標識から運転者・歩行者をも含めた官民 問題・事故多発者・運転機能を阻害する要因等にもふれ、 ぞ先生の口ぐせ「やあ頑張ってるね…」に応えた「偲 一体の準備が行なわれた事は言うまでもない。ここにお ぶ会」メンバーの苦心の作! そしてあちこちにお得意 昭和63年元旦の作品 いて、文部省が主催する幼児・児童の交通安全教育 の水墨画や、 スナップ写真もちりばめてある傑作であった。 指導チームを率いて自ら沖縄県下各地の交通安全教 その末尾には、 奥様のお礼の言葉「…宇留野が残し 育の指導にあたった。その後5年経過した時点での てくれた宝物、 “素敵なお友だち”達に囲まれ、 今日を出 調査結果は幼児・児童の交通安全行動に改善効果が 発点に又これからの人生を歩んで行きます。今日の会 認められた。 を彼もきっと喜んでいると思います…」が付記されてい ることを紹介して顕彰文のしめくくりにしたい。 (広島大学名誉教授・前日本交通心理学会会長 災害時の運転者の安全行動を解明 また最近、 地震等の災害時におけるくるま対策が大 19 きな関心事となりつつあるが、 昭和53( 1978)年∼昭和 水墨画を楽しむ 平成9年10月19日一年祭に発行された記念 追悼誌「やあ、頑張ってるね」の表紙 文学博士 西山 啓(にしやま・さとる)) 20 モータリゼーションの発展に尽した自動車誌の祖 株式会社 三 栄 書 房 初代・代表取締役社長 鈴木賢七郎 鈴木賢七郎氏は、 日本の自動車誌の本格的な編集・ くキッカケになった。この縁により茅場町にあったモータ 出版の祖と呼ぶのに相応しい活躍と実績を残している。 ーファン編集部での仕事につくことになった。 初対面の印象が鮮烈に残る。当時、運輸省自動車 モーターファン誌は戦前からあり、 八木熊五郎さんが 局整備課の技官であった犬丸令門さん(後のJAF副 社長、 鈴木賢七郎氏が編集を担当していた。ただし太 会長) と、 細谷開造さん(後の軽自動車検査協会専務 平洋戦争が激しくなると出版を許されず、 戦後、 八木さ 理事) に伴われて四谷のご自宅を訪ねた。技官お二人 んが病死なさったこともあり、 東京マツダ社長で小型自 は整備関係解説書の出版打合せが目的であったと記 動車整備業者のまとめ役をされていた石塚秀男さんが 憶する。折りしも、 自動車の保安基準や整備基準が次々 音頭を取り、鈴木賢七郎氏がモーターファン誌を復刊 と制定される時期であった。 することになった。 当時、 絵画とデザインを勉強する傍ら、 技官諸公が示 1947年11月に発行した第1号は、 名女優と謳われ す条文案に副える説明図を描く下請けアルバイトの一 た高峰秀子とスクーター、 ラビットが表紙を飾っている。 員であった小生は、専門誌「モーターファン」でも仕事 いうまでもなく当時は「業界誌」の類で、三輪トラックや ができるよう、打ち合わせのついでに鈴木賢七郎社長 オートバイ、部品・用品メーカーが名刺代わりの広告を を紹介していただいた。 掲出、 誌面は自動車に関する新法規や海外ニュースも 夏である。庭先から見える縁側近く、鈴木社長は風 載っているが、 いわゆる業界情報が多くを占めていた。 通しのよい座敷で、 仕事机ではなく食卓にむかってあぐ 発行部数は多くなく、 主として業界関係者に配布し、 らを掻き、 縮みのシャツにパンツ一丁で原稿用紙にペン 書店に並ぶのは僅かであった。 1951年、 当時でも、雑 を走らせていた。かたやエリート官僚お二人、 かたや出 誌が刷り上がると営業担当に限らず、 編集担当も総動 版社のオーナー社長である。当時の19歳の貧しい画 員で関係各所に配って歩き、 地方発送作業に追われた。 学生には近寄りがたい偉い人だと構えていただけに、 鈴木賢七郎氏が目指したのは、 こうした業界誌から 鈴木賢七郎社長には畏敬の念というより親愛の情を抱 の脱皮である。業界関係者だけではなく、ユーザーを 含むバイクや自動車に興味をもつ人たちに読んでもらえ る自動車文化専門誌を志向、 進展すべき日本のモータ リゼーションに寄与したいと考えていた。 折を見ては日本橋の丸善に赴き、 欧米のバイク誌や カー雑誌、 参考書籍を購入。内容を検討して編集方針 を指示した。小生が命じられたのはエンジンや足回りな ど自動車のメカニズムを図解する企画であった。業界 関係者なら百も承知であろうが、 モーターファン誌では「ク ルマに興味をもつ若い人に親しまれる基礎的な絵解き ページにしなさい」と。これがやがて日本で初めての透 視図掲載に進む。 鈴木賢七郎(すずき けんしちろう)略歴 社団法人・全国小型自動車整備組合連合会の設立発起人である石 1903年(明治36)3月 6日札幌市郊外の手稲に生まれる 早稲田大学文学部史学科(インド哲学専攻)卒業後, モーターファン社に奉職 1947年(昭和22)11月 モーターファン誌復刊八木熊五郎氏に代わり発行人となる 1948年(昭和23)10月 全国小型自動車整備組合連合会 (1952年, 社団法人・全国小型自動車整備振興会連合会に改名) の設立に際し、事務局長に就任 1954年(昭和29)11月 新型車のロードテストを実施(1号車はゴリアート) 1963年(昭和38)6月 18日 逝去(享年60歳) 塚秀夫氏(当時東京マツダ社長)が「頑固だったが、 真実味のある男だ 運転技術についても免許取得目的に限らない指導 ページを設けるべく、 教習経験者を迎えて編集テーマ った」 といわれたように、 業界の硬骨漢として知られ、 モーターファン誌を を広げ、 新聞社を辞めた記者を入社させて取材に当た 通じて日本の自動車の発展のために情報を発信した。 昭和22年のモーターファン復刊第1号に述べた復刊の辞は次のとおり。 らせたのも同じ時期であった。 「モーターファンを復刊するに際しては懐古的な萬感交々至るものが 欧米を例にするまでもなく、 専門誌は新型車の紹介と ある。然し新しい世代の時期に際して私共は『明日』の自動車界に大き な希望と抱負に燃えているのである。即ち自動車が國民にもっと親しま 商品評価が「柱」でなければならない。 れ文字通り手足となり、 國民生活と切離せないよう努めたいのである。こ の目的實現に寄与したいのが私共の切なる願ひであり、 敢て本誌を復 21 著 書 1949年, 『小型自動車整備全書・上下巻』 雑誌『ゴルフ・マンスリー』, 『幸福教室』など創刊 当初はバイクやスクーターが多く採り上げられていた。 刊した所似である。而してポピュラーな自動車文化雑誌として、 自動車 大学教授の富塚清さんや景山克三さん、眼科医の棚 の普及発達と國民の科學知識の向上に精進する事を御約束する次第 である。尚、 本誌復刊に當り理解ある人々の御鞭撻と絶大な激励を頂い た事は私共の最も感銘する所であった。深く謝意を表する次第である」 モーターファン復刊第1号(1947年12月号、 トヨタ博物館協力) 橋東一さん、 そして伊藤兵吉さんなど他に要職をお持 22 試験場でポルシェ356のテストデータをチェック 中央が鈴木賢七郎氏(48歳) 1955年、 トヨペット・クラウンのテストに際して。右から桶谷繁雄・東京工業大学教授、鈴木賢七郎社長、平尾収・東京大学教授、 宮本晃男・運輸省技官、隈部一雄・クマベ研究室長…… 判定するもので、 具体的なテスト方法に困難をしていた。 部に報告したのが最初の関わりであった。 採択されたのは同氏の思いつきであった。 鈴鹿サーキット竣工直前の1962年夏には大学関係 走行中の車両からインクを垂れ流し、 その軌跡を計 者や各メーカーを含むロードテスト主要メンバー、 試乗レ 測して特性を評価してはどうかと、 アイデアは改良され、 ポーター諸氏を招いて現地を視察。同種の見学会は自 垂れ流しではなく間欠点滴とし、 それなりのデバイスが 動車のみならず部品メーカーの工場や研究所、 建設途 ちの上でメーカー色がないフリーな立場からの試乗記 寄って総合商品力を評価、 自動車技術会に報告する 造られた。点滴の間隔で車速も推定できる。同氏のお 次の高速道路にも及んでいる。 を載せたのも 「モーターファン」が初めてであった。 道が拓けた。ややあって東京農工大学教授樋口健治 供で近藤研究室に伺ったばかりに、試作デバイスのテ 常に誌面展開を念頭に新アイデアを次々実行に移し そもそも日本で売られる自動車は運輸省の新型認証 さんと同平田利英さんもメンバーに加わっている。 ストにもお付き合いしたが、 最終作業はスキッドパッドに たことも印象に残る。自身も写真やムービー撮影を楽し を得なければならず、 最終的には箱根や正丸峠を難な そのテストに全面協力し、 テスト機器試作、 教授陣や 残ったインクの跡を追って方眼紙に記録することであり、 んでいたが、 動く被写体には速写技術が必要だとして、 く走れるかどうかで決定される。従って試乗記も舞台の 研究室の日程調整、 データ収集などをプロモートするこ 炎天下の作業は難儀であった。 事あるごとに溝口宗博さんをカメラマンに起用した。溝 多くに箱根が選ばれた。鈴木賢七郎は、四輪系新型 とにより、 写真撮影や検討座談会の記録などを独占掲 社名をモーターファン社から三栄書房に改め、2代 口さんは本田宗一郎さんと弟の弁二郎さんが多摩川の 認証の担当技官であった宮本晃男さんとも親交があり、 載することになったのが「モーターファン・ロードテスト」 目の鈴木脩己社長に代わった後、 モーターファン・ロード レースで転倒したシーンをコンタックスで連続写真に記 しばしば執筆をお願いしている。 の始まりである。 テストは谷田部の日本自動車研究所(JARI) に舞台が 録したことで知る人ぞ知る。 やがて世はバイク全盛から四輪乗用車時代に傾いた。 当初は通産省機械試験所の村山テストコースが舞 移り、 風洞実験、 排ガス測定とモード燃費試験も加わる カメラの前でスリット付きローターをモーターで回せば、 ルノー、 オースチン、 ヒルマンのOEM組立てが始まり、 純 台であった。さすがに最高速テストはできなかったが、 に至ったが、 多くの評価方法は国際技術会でも認められ、 連続写真のみならず車速も記録できるのではとか、 シャ 国産技術ではクラウン、 プリンス、 スバルが開発されて、 お決まりの発進加速・追越加速など動力性能や、 車内・ より高度に、 かつテスト項目を増やしつつ、 メーカー各社 ッター機構をモータードライブ化すればコーナリングを連 量産に向かう時代に入る。 車外の定常走行騒音と加速騒音、 「まくら」 と呼んだ半 に受け継がれている。 続撮影できるのではとか。発案の全てが必ずしも鈴木 ならばと、 国産車に限らず輸入車も含む自動車の性 円筒形の踏み台を通過させて振動減衰特性を調べる 能と商品力をいかにして客観的に評価すべきかを目指 乗り心地テストが行われた。 鈴木賢七郎氏はモータースポーツにも熱心であった。 協力をしている。その成果により、 1963年に鈴鹿で行な し、 運輸省 (現・国土交通省) 、 通産省 (現・経済産業省) 、 難航したのは操縦性・安定性評価であった。舵角一 本格参加は浅間火山レースから。主催者事務局長の われた四輪の第1回日本グランプリでは、 日本初のモー (社) 自動車技術会、 自動車工学系大学教授と研究室 定で円旋回しながら車速を高めていく。旋回半径の変 藤沢武夫さんと懇意だったことから、 全社員を動員し、 タードライブカメラを独占してAUTOSPORT誌がこれ の協力を得ながら、評価の指針を確立、発展させてい 化でUS=アンダーステア、 OS=オーバーステア特性を コース数カ所で周回ごとの通過順位を記録し、 大会本 を掲載している。 賢七郎氏とは言えないが、 それら試作にアイデアと資金 ったのが「モーターファン・ロードテスト」である。 残念ながら鈴木賢七郎氏はグランプリ直後に病に倒 実は自動車技術会に性能評価委員会が設けられた れ、 手術の甲斐なく僅か1ヵ月後に亡くなる。 ものの、 評価項目はあっても試験方法が暗中模索段階 鈴木賢七郎氏は高い理想を掲げ、 情熱をもって新し で、 テスト機器試作さえままならない頃であった。 い自動車誌を追及し、 しかも常に「黒子」に徹し、多く 東大教授からトヨタの技術担当副社長に転じた隈部 の自動車関係者を育成して日本のモータリゼーションを 一雄さんが退職なさったのを機に、 東京大学生産技術 育み支えてきた。ここに心からの敬意と感謝を込めて 研究所教授平尾収さんと同亘理厚さん、東京工業大 記す。 (相談役 自動車ジャーナリスト 星島 浩) 学教授近藤政市さん、 群馬大学教授山本峰雄さんが 23 1956年、文子夫人と共に名古屋佐久間ダムに旅したときの宿で 集まり、 得意分野ごとに運動性能をテストし、 結果を持ち 1955年、村山のテストコースを走るルノー4CV 1952年、二輪のロードテストで静岡県御前崎に。 東京からのロングツーリングなので小休止 24 2007日本自動車殿堂 歴史車 2007 Historic Car of Japan 発売当初におけるミゼットのカタ ログ、幌付き仕様は発売翌年の 昭和33(1958)年から投入されて いる。 “街のヘリコプター”という 愛称を使用してアピールしていた。 日本の自動車の歴史に優れた足跡を残した名車を選定し 日本自動車殿堂に登録して永く伝承します Cars that blazed the trail in the history of Japanese automobiles are selected, registered at the Hal of Fame and are to be widely conveyed to the next generation. ダイハツ・ミゼット ミゼットは発売当初から大村崑と佐々 十郎を起用したCMによって話題と なった。こうしたユニークな関西のメ ーカーの特色を生かした宣伝方法も 大衆の注目を集めた。 ミゼットの輸出は意外に早く、発売年 度には2台が海を渡ったと生産記録に 残っているが、本格的な輸出は昭和34 (1959)年からであり、合計で19382台 が輸出されている。写真は神戸港にお けるアメリカ輸出用のミゼットの船積み の風景である。 昭和32年(1957年)DKA型 ダイハツ・ミゼットの変遷 昭和32年8月 ミゼット (DKA型)販売開始 シャシー形式 ミゼットDKA型 エンジン形式 強制空冷2サイクル単気筒 昭和34年10月 ミゼット (MP型)販売開始 輸出開始 全 長 2,540mm ボア×ストローク 65mm×75mm 昭和35年 全 幅 1,200mm 総 排 気 量 249cc 全 高 1,500mm 最 高 出 力 8ps/3,600rpm MP4型を発売 (全長を20cm拡大し、 荷台をサイズアップ) 25 ミゼットDKA型主要諸元 日本における戦後復興において、 まず庶民の移動・輸送手段と することにより、オイル消費量の低減を達成、さらに排気煙の改 して活躍したのは自転車とオートバイであった。以後時代の要 善や2サイクル独特のカーボンの堆積、マフラー詰まりといった 請によって誕生した簡素な三輪自動車は、一時期は急速な拡大 整備面でも優れていた。同時にエンジンの耐久性も高くなり、信 を見せたが、 経済発展にともない更なる輸送量の拡大が求められ、 頼性も向上した。 しだいに走行安定性にも優れ、多くの荷物が運べる4輪トラック 昭和32年の8月から販売を開始したミゼットは、当初は月産 にその需要は移行していった。 500台程度の予定でスタートしていたが、翌年からは、予想以上 しかし、大量輸送のトラックが普及し三輪自動車が大型化する の受注と効果的なCM宣伝などもあり、社会現象とまでいわれた 中で、商店や庶民の足として使われていたオートバイやスクータ 「ミゼット」の一大ブームが瞬く間に巻き起こった。そして昭和 ーによる運搬には限界があり、輸送需要に隙間が発生することに 34年には登録累計1万台を突破して35年には5万台、同年9月 なる。この潜在する需要に対して、 ダイハツの技術部門の役員で には10万台を突破するダイハツの大ヒット作に成長。 あった藪健一(やぶ・けんいち)の指示によって本格的な軽三輪 ミゼットは好調な販売に支えられて、昭和34年には対米輸出 自動車の開発が開始された。当時の軽自動車に対するエンジン も開始、丸ハンドルのモデルが800台輸出されている。現地で 容量は法規上で2サイクルエンジンは240ccまでであり、昭和 は「トライモービル」と呼ばれ、 工場内や市内の小口配達用として、 28年末に第1号エンジンを開発。その後法令が変わったことも 経済性の高い便利なクルマとして使われた。 あり250ccとして改良を続け、昭和29年には試作車の1号車 また、同時期に東南アジアや中近東地域からも人力車に変わ が完成した。 る軽便タクシー用にと強い要望が高まり、 タイを始めとしてイラン、 その頃ダイハツは日本で初めてともいわれる本格的なマーケ ビルマ(現:ミャンマー)、 インドネシアなどの多くの地域に輸出 ティング調査を行ない、その結果をふまえて「小規模業者向け」 されている。特にタイでは、当時「サムロ・タクシー」の愛称で評 という、新しい需要に対する軽三輪車の最終的な設計・開発を昭 判になり、今でもその後継車として小型の三輪タクシーはタイの 和31年から行なった。そして、 名物として活躍している。 1.小量荷物の運搬に便利 発売時には生産能力の関係で、 ミゼットの販売地域は6大都市 2.小回りがきく と岐阜県に限定されていたが、生産台数が増えるにしたがい全 3.取り扱いがしやすく経済的 国の中小商店や企業に普及し、 そのほかにも電力会社やガス会社、 昭和36年 パキスタンでノックダウンによる現地生産を開始 ホイールベース 1,680mm 最大トルク 1.8kg-m/2,400rpm という軽三輪車の優れた利点を大切にしながら、スタイリング 警察署、郵政省(現:日本郵政グループ)、電電公社(現:NTT) 昭和37年 MP5型を発売(荷台を10cm拡大) ト レ ッ ド 1,030mm 燃料消費率 28km/ℓ やカラーリングにもこだわった「ミゼット」が昭和32(1957)年 などにも大量に納入されるなど、 官民を問わず日本全国に広がり、 昭和47年 生産中止(総生産台数 317,152台) 車 両 重 量 306kg 変 速 機 選択摺動式 に誕生したのである。 日本経済の発展にも大きな貢献を果たした。 乗 車 定 員 1名 荷 台 長 1,090mm ミゼットはその小さな車体により、配達に便利で経済的なだけ ミゼットは日本のモータリゼーションの新しい時代を築いたク 最大積載量 300kg 幅 970mm でなく、技術的な面でも昭和38年のMP5型以降は、潤滑系統 ルマであり、その後につながる軽自動車需要を開拓したことは 最 高 速 度 60km/h 高 355mm で混合燃料から分割給油を実現したオイルマチック方式を採用 間違いないのである。 26 2007∼2008 2007∼2008 CAR OF THE YEAR IMPORT CAR OF THE YEAR 日本自動車殿堂 カーオブザイヤー 日本自動車殿堂 インポートカーオブザイヤー ホンダフィット フォルクスワーゲン ゴルフヴァリアント Honda FIT この年次に発表された国産乗用車のなかで 最も優れた乗用車として ホンダ フィットが選定されました ここに表彰します 選 定 理 由 Volkswagen Golf Variant この年次に発表された輸入乗用車のなかで 最も優れた乗用車として フォルクスワーゲン ゴルフ ヴァリアントが選定されました ここに表彰します 1.環境・安全・実用の最適化 2.着実な改良改善による機能と燃費の向上 選 定 理 由 3.開放的居住空間とコストパフォーマンス 1.TSIとDSGの融合による先進パワートレイン 2.快適な走行性と低燃費を実現 3.スポーツワゴンの新たな規範 27 28 2007∼2008 2007∼2008 CAR DESIGN OF THE YEAR CAR TECHNOLOGY OF THE YEAR 日本自動車殿堂 カーデザインオブザイヤー 日本自動車殿堂 カーテクノロジーオブザイヤー マツダ デミオ 日産 スカイライン クーペ MAZDA DEMIO NISSAN SKYLINE COUPE この年次に発表された国産乗用車・輸入乗用車のなかで 4輪アクティブステア 最も優れたデザインの車として 4 Wheel Active Steering System マツダ デミオが選定されました ここに表彰します この年次に発表された国産乗用車・輸入乗用車のなかで 最も優れた技術として 選 定 理 由 4輪アクティブステアが選定されました ここに表彰します 1.エモーショナルなデザインの実用小型車 2.先代より小型軽量化を達成し環境保全に貢献 3.グローバルマーケットの幅広い支持に対応 選 定 理 由 1.操縦性・安定性の両立を実現した操舵システム 2.操舵感とビークルダイナミックスの一体化 3.高速域の横風安定性の向上 370GT Type SP 29 30
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