愛―科学的

AMOUR
A Scientific and Psychological Analysis
By C.W. (Australia)
&T.C. (Malaysia)
|Keywords|
愛
一目惚れ
真の愛
科学と心理学
概念
Amour
_要旨_
愛や一目惚れとは何か、愛や一目惚れは存在するか、愛か真の愛か、などという様々な
愛に関する疑問は我々の「愛」に対する概念が乱れている証である。科学と心理学という
二つの違った分野から「愛」のあり方を見て比較し、そしてアンケートの結果を参考にし
ていくことで「愛」の存在性がより明確になり、愛に対する謎を解く手がかりになるであ
ろう。
_はじめに_
「一目惚れ」というのは全ての人間に潜んでいる、心的自発感情という不思議な現象で
ある。また脳の理解力を超えた心境でもあるともいわれている。しかし、それこそが「愛」
の理想であり、すなわち普通の人間が自然に追求する法則である「真の愛」だと考えてし
まうことが多いのだが、その存在に疑問を持つべきであろう。一方、
「一目惚れ」が「真の
愛」ではなく、「愛」でもない、という考え方もあるのだが、必ずしもそうでもない。この
ように、二つの極端な考え方が対立、または矛盾し、我々の「愛」に対する感覚や概念を
乱しつつ、それらの違い、存在性とあり方が曖昧になったといえよう。
ところが、「真の愛」、または「愛」という抽象的、空想的な情緒は人が根拠なしに生み
出したイデオロギーに過ぎないと思う人もいれば、実際に存在すると主張する人もいる。
この論文では、「愛」、「一目惚れ」、そして「真の愛」を、存在するという立場と存在しな
いという立場の両面から論じようとしたものである。しかし、「愛」と関わっている物事は
全て心理面ばかりが目立っているのだが、この自発感情は心理面だけでは論じきれないた
め、科学面と共に論じ、比較しながらその存在性を解釈するのが最も適切だと考えられる。
したがって、心理学と科学の両面を照らし合わせることによって、それらの存在性とあり
方はより明確に説明できる、というのがこの論文の構成と目的なのである。更に、社会の
人々の「愛」に対する概念により近づくため、アンケートも使用している。即ち、この論
文は比較とアンケートという二つの技法を使おうとしたものなのである。
しかし、この論文を読む前に、人間の理想的な心理法則である「真の愛」(英語でいうと
「True Love」)は、普通の「愛」とは全く異なるということに注意してほしい。そして、
この論文は「愛」、「一目惚れ」、そして「真の愛」の三つの心理法則をより理解し、人間の
本性により近づくためにあるのだが、にせ宗教的なアナーキズムのようなものとは異なる
ことにも注意してほしい。
2
Amour
_第一章
科学から見た「愛」_
人間関係に関する多くの事について我々は深く解っていない。特に一目惚れ、愛、恋な
どに関する事はそうである。しかしながら、ある科学者、数学者は「なぜ人々は一目惚れ
するのか」と言う問題に取り組んでいる。彼らは科学と数学の面から興味深い論拠により、
個人的な出会いを明確に説明する。そのため、この章は彼らの思想を詳しく説明しながら、
一目惚れは、本当は抽象的なものではなく、科学的な説明が出来るということを論ずる。
第一節|数学の表面左右対称
私達の表面左右対称は他の人に色々なことを伝えられる。例えば、顔を見て人の大ざっ
ぱな歳を推測できるし(私達の顔は歳によって具体的に変わる)、鼾をかくかどうか(奇形
または少し曲がった顔構造でもその人はかならず鼾をかくと証明された。なぜかというと、
奇形と曲がった顔は呼吸チューブをふさぐからである)、そのような情報を得る。顔が左右
に対照的であればあるほど、もっと綺麗、もっと完璧になるといわれている。あるアンケ
ートの結果によると、ほとんどの回答者は、一目惚れをするかどうかは、顔の造りによっ
て決まると答えている。
70
では、表面左右対称は一目惚れとどんな関係が
60
あるのか?総じて、表面左右対称は三つの種類
50
顔の造り
精神的な性格
体の造り
40
30
20
に分けられる。つまり、echoism, harmonism と
primal copulism である。
10
0
男性 女性
第二節|Echoism
Echoism の根本の言葉は echo、つまり日本語で言うと「反響」である。Echoism という言
葉を一瞬見て何を伝えたいのか推測できるかもしれない。Echoism はその二人の顔が鏡に映
ったように似ている状態である。
ハリウッドの有名なカップル(しかしながら、現在その二人はもう別れてしまった)、ブ
ラッド・ピットとジェニファー・アニストンを例とすると echoism の言いたい事が解る。
その二人が一緒にいる姿は、よく似合うといわれている。実際ブラッドの右顔とジェニフ
ァーの左顔を合わせて見ると美しくて新しい顔が作れる。勿論、逆にしても綺麗な顔がで
きる。不思議な事に、ブラッドとジェニファーの顔は本当に鏡の反映である。
3
Amour
それを echoist パートナーと言う。Echoist パートナーはお互いに対称的な特徴を持ってい
る。例としてあげたブラッドとジェニファーを見ると二人の鼻の高さ、唇、眉毛、目の形
や目と目の間などがほぼ一緒である。つまり、echoist パートナーの多くの共通点を持って
いる。
第三節|ナルシシズム
更に、その echoist と言う理念は同時にナルシシズムまたは自己中心主義を反対する。ウ
ィキペディアによると、ナルシシズムは自己の容貌や肉体に異常なまでの愛着を感じ、自
分自身を性的な対象とみなす状態を言うそうである。そうだとすると、echoist の人は実に
ナルシシズム状態を持っていると言えるのではないか?彼らはパートナーの性格をよく理
解せずにパートナーに一目惚れしてしまったのである。Echoist の人は性格を不必要なもの
と思っているわけではない。彼らは echoist パートナーの顔はもう自分の顔と瓜二つだから、
echoist パートナーもう同じ性格を持っている可能性が高いと思ってしまうのである。
第四節|Harmonism
Harmonism は echoism の一つである。Harmonism はただ顔の何か所の共通点を意味する。
例えば、鼻の長さや眉毛から鼻までの長さが同じだと harmonism カップルだという。形は
違ってもかまわない。つまり、harmonism は部分的な共通点をいうのである。
Harmonic カップルの例は、チャールズ皇子とレディー・ダイアナである。彼らの鼻の長
さとその他は、同じ測定値である。そのため、チャールズ王子はレディー・ダイアナに一
目惚れするのは珍しいことではない。前述の通り、数学的な説明はただ一目惚れの気持や
感覚を説明ができる。しかしながら、顔の左右対称は真実の愛の存在を証明できない。極
短期間で崩れてしまったこの王族の話からもわかることである。
4
Amour
第五節|Primal Copulism
それは初恋としてよく知られている。初めて愛着を感じた人と似ている人に魅せられる
傾向を持つ人もある。それは世話する人(例えば母やおばあさんなど)と似ている人に魅
せられると言うのである。その世話する人は私達にとって、私達に保証或いは安心を与え
られる人である。それで、両親と似ている人に一目惚れするのが珍しくない事である。
例えば、イギリスのチャールズ王子とカミーラの関係がそうである。カミーラはチャー
ルズ王子の乳母であるマベール・アンダーソンと似ているといわれている。
ある点では、primal copulism はオウディプスとエレクトラの力説に比較することができる。
この二つのフロイディアンの説は自分の親に対して無意識的に性的な欲望を述べている。
より具体的に述べると、世話する人に対して無意識的に性的な欲望を示している。なぜか
というと、現代社会では、ほとんどの子供たちは幼いときから、幼稚園や保育園などに送
られているからである。 この欲望は私たちの奥に常に隠れているかもしれないが、徐々に
大きくなり、もし、世話された人を肉体的に思い出させる人と会うと、過去に愛されたこ
とを思い出すため、自然にその人と恋に落ちてしまうのである。
第六節|Golden Ratio
幾何学が我々の人間関係に非常に大きい影響を与えながら、数学者たちは
黄金率説をできるかぎり symmetry を完成させるため、現在の顔の構造につか
い、研究した。もちろん、この symmetry は整形手術や化粧をするなどして達
成できる。 右の、Dr. Stephen Marquardt による黄金率でできた顔は完璧な顔
がどのような比率であるのかを示している。 我々の顔とそのマスクの対称率
が高ければ高いほど綺麗で魅力があると言われている。
第七節|生物学的な考えから
一目惚れをする現象は生物学を通しても説明することができる。これは化学物質が人体
の中でどのように機能し異性に対してどのような信号をおくるのかということに関係す
る。一般的にホルモンといわれているものは、我々の体の機能を浴するための生物化学的
な物質である。例えば、血液中のグルコスのレベルを制御するインシュリンというペプタ
イドホルモンである。しかし、この章では性ホルモンと日々の他の人にたいするそのホル
モンの役割を強調して述べてみる。
5
Amour
フェロモンというホルモンで一目惚れの説明ができる。性フェロモンは性的に発情を誘
発させるフェロモンである。成熟して交尾が可能性な事を他の個体に知らせるホルモンで
ある。我々は今焼きたてのパンとうんちのにおいを区別できるように、フェロモンのにお
いをはっきり嗅ぎ分けることはできないが、嗅覚はフェロモンを感知することができるし、
これは我々のある特定の場所を反応させる。例えば、フェロモンは心拍数を速くさせ、そ
して、汗腺を膨らませ破裂し冷や汗を流すのである。このようなすべてのサインが実は、
どのように他者が我々の身体に一目惚れを信じさせて影響を及ぼすかというサインである。
その上で、性フェロモンは人の理想の相手を探すときに使われる。例えば、女性は男性
の放つ性フェロモンから、あの男はパートナーとしていいかどうか知ることができる。信
じられないかもしれないが、ホルモンはどれほど我々の体が健康的かという信号を放つ。
このような現象を証明するため女性達に何人かの男性による汗がついたシャツの匂いを嗅
がせる実験が行われた。そして、その女性たちに一番好みの匂いを選ぶようにした。決し
てこの女性達は以前にこの男の被実験者を会ったことはなかったが、全員がその中で一番
健康状態のいい人を選ぶことができた。これは何故我々が幾何学的に似合わなくても、体
の生物的構造が好ましいという人に一目惚れするかということを説明している。
6
Amour
_第二章
心理学から見た「愛」_
第一節|「一目惚れ」と「愛」がもたらした心理学と科学の矛盾
このように、科学面だけを見ると、
「愛」や「一目惚れ」というのは人間の DNA に書き
込まれている本能や本性であり、誰でも持っている潜在的自発性、または「潜在的命令」
に過ぎないことが分かる。顔の左右対称という説から見ても、人間はただ決まった法則に
従って恋に落ちているだけだと分かる。更に、それらはダーウィンが主張していた「Survival
of the Fittest」と同様の法則を持ち、感情や心理などとは決して関係なく、通常の無意識
的な自然現象であるといえる。換言すれば、より優れた後世を残すために、自分の DNA に
欠けている必要な部分を持っている人間を見つけることが我々人間の最終目的である。そ
して、「愛」というのはその行動を芸術的に表現する空想の言葉であるに過ぎないといえよ
う。
ところが、宇宙起源が科学的に証明されることによって、神の存在が疑問になったと同
様に、科学的に「愛の起源」を説明することができるということは、(「真の愛」は当然だ
が)、
「愛」は存在しないということになる。確かに、DNA は我々の脳や心の支配範囲外で
あるし、その命令のみで無意識に恋に落ちることは決して「愛」ではないといえるだろう。
でもそれこそがまさに「一目惚れ」という現象であると考えられる。つまり、我々は人に
出会う瞬間に無意識に相手の DNA や顔を確認し、それらが相応しいのであれば、自分の
DNA に「惚れろ」と命じられるのであり、かつ、「一目惚れ」という心的自発感情が生じ
る。このように、科学によると「一目惚れ」は存在するが「愛」は存在せず、そして、「一
目惚れ」が「愛」であるというのが間違った考え方であるといえるだろう。
一方、心理学から見た「一目惚れ」と「愛」の解釈は科学とは全く反対の立場にあるの
だが、同じ結論が推測されることになる。つまり、心理学も「一目惚れ」が「愛」ではな
いと認定する。しかし、そこで科学と矛盾しているのはその結論の由来であり、つまり、
「愛」
は存在するが「一目惚れ」は存在せず、という考え方に達するまでのプロセスである。我々
はこの矛盾を考えずに両方の説、あるいはどちらかの一つの説を無意識に信じているとい
えるだろう(表 1.1 参照)。
愛
一目惚れ
一目惚れ=愛
科学
存在しない
存在する
×
心理学
存在する
存在しない
×
表 1.1.科学と心理学の矛盾
7
Amour
心理だけを考えると、
「愛」は実際に存在するとすれば、それは決して人に出会うだけで、
そしてその瞬間に自発的に感じるものではないであろう。換言すれば、「一目惚れ」が存在
するのであれば、それは相手の外見から相手を判断し、それによって恋に落ちるという現
象となるだろう。心理学で、その現象は決して許されない。なぜなら、初めて出会った人
の性格や内面などを決して知ることができないのであり、それらを知らずに人を愛するこ
とはできないと思われるからだ。それにもかかわらず、「一目惚れ」を信じている人や「一
目惚れ」をしたことがある人の数は、特に外国人が意外と多い(表 1.2.&1.3.)。
はい
ノー
はい
分からない
日本人
日本人
他
他
0%
20%
40%
60%
80%
100%
0
20
ノー
40
60
80
Percentage
Percentage
表 1.2.「一目惚れ」があると信じている?
表 1.3.「一目惚れ」をしたことがある?
日本人 vs.外国人
日本人 vs.外国人
ところが、妙なのは世界中で見られる出会い手段、つまり、結婚を前提とする活動であ
る。それはまさにお見合いと呼ばれている日本文化の一つであり、大昔から東洋文化であ
ろうと、西洋文化であろうと、どこでも見られる習慣であった。確かに、世界中でこのよ
うな出会い手段がよく見られたのだが、現代社会ではだんだん受け入れられないようにな
っているといえるだろう。これに対して、日本社会は伝統であるお見合いを継続し、昔の
お見合いと比べると更に進化したという点で特殊な文化であると思われる。ところが、お
見合いは相手の写真あるいは年収などの物理要素を参考にしたうえで、相手と対面するこ
とになる。つまり、最初に考慮するのは、やはり内面的な要素ではなく、表面的な条件で
あろうが、それだけで相手と結婚できるかどうか、そして、それは「愛」と呼べるかどう
か、という二つの疑問が生じる。
この二つの疑問に関しては、人の「愛」についての価値基準が何にあるのか、そしてこ
こでの「愛」とは何か、という二つの問題を解釈しなければならない。まず、ここでいう
基準は無意識的と意識的という、二つの基準に分けられる。例えば、科学で見た DNA や顔
などの左右対称に従った「愛」は決して我々自身の意識の届く範囲内ではなく、無意識に
相手の DNA に価値を置いているため、それが「愛」について無意識的な基準に価値を置い
ているといって良いだろう。これに対して、心理学から見た愛を生み出す出会い手段、つ
まりお見合いなどはやはり最初は相手の表面的な条件に価値を置いていると言ってもよい。
つまり、科学と比べると心理学は「愛」について意識的な基準を置いているであろう。
8
Amour
確かに、表面的な条件を考慮するのはお見合いだけではなく、通常の我々が初めて人に
出会った時にも、その第一印象もその考慮の範囲内であろう。表 1.4a を見ると 90%の人は、
最初はやはり異性の表面的な要素に惹かれることが分かる。ところが、最初は表面的な条
件を参考したからといって「愛」が生まれないとは決して言えないはずだ。先ほど述べた
ように、心理学によると「愛」は人に出会うだけで生まれる心境ではない。しかし、「愛」
は存在するという明確な立場にある心理学が、
「愛」はその後に生まれてくるというのであ
る。これは科学でも反論できない概念であるといっても過言ではない。このようなイデオ
ロギーを説明するには、
「愛」の定義とその存在やあり方を明らかにするのが何よりも優先
であろう。まずは、人間の理論と感情の矛盾から「愛」の存在性はより明確に表現できる
だろう。
外国人
日本人
表面条件のみ
内面条件のみ
両方
表面条件のみ
内面条件のみ
両方
表 1.4a.最初は何に惹かれる?
日本人 vs.外国人
第二節|「論理」vs.「感情」
科学の説だけを採れば、
「愛」は存在しないということになる。しかし、時によって我々
は恋に落ち、考えていることと感じていることが矛盾し、我々を混乱させるのだ。それも
DNA や科学の仕業だというのだろうか。実は、その矛盾こそが「愛」の存在を肯定するの
である。
科学にしても、心理学にしても、最初から「愛」を感じることはないだろう。ところが、
DNA の命令に従ったとしても、その後の感情や心理状態の発展は我々の支配範囲内である
といえる。つまり、我々は DNA や表面的な条件から人との出会いを「愛」に発展させる能
力を持っていると考えられる。例えば、お見合いにより結婚をしたとしても、最初は「愛」
がないといっても良いだろうが、その後の発展は「愛」を生み出す可能性が非常に高い。
換言すれば、一旦表面的な条件から抜け出すと、誰かを愛するようになる可能性が高まる。
そこから発展するのが「愛」であろう。
我々は「愛」と伴う精神的なつらさ、痛み、悲しみなどという悲痛、または喜び、楽し
みなどの歓喜があるからこそ、「愛」を感じることができる。これらの感情を否定し、自由
9
Amour
に操ることが決してできない。そして、一旦恋に落ちると、事実として存在しているこれ
らの感情が頭脳の論理と対立する現象が起こりかねない。この頭と心の矛盾はまさに「愛」
と呼べるだろう。この対立を感じることというのは、通常以外の感情や情緒を感じている
ということになる。つまり、我々にそれらの感情が秘められているからこそ人間であり、
「愛」を感じることができるのである。
このように、人間は恋に落ちたら論理と感情のバランスやハーモニーが崩れ、感じたこ
との少ない情緒に触れるため、冷静さを失う。この現象は科学でも説明できない予想外の
情緒であり、そして「愛」という不明確な心理状態や存在の仕業だといっても過言ではな
いだろう。
第三節|「愛」の種類
「愛」は様々な形として現れることがあると思われ、非常に高い多元性を持つ感情であ
るといわれる。なぜなら、人に対して愛情を持つだけでなく、動物や様々なものに対して
愛情を持つことも可能なのである。
ところが、
「愛」は様々な人やものなどに対して現れることがあるのだが、それぞれの「愛」
は基本的に同様であるといえるだろう。通常の考え方では、「愛」には段階や程度などがあ
り、恋人に対する「愛」や愛犬に対する「愛」などの様々な種類の「愛」が存在するとい
う。そして、「一目惚れ」はその一種であるといわれる。しかし、「愛」は実は一つのみ、
または一種のみ存在している:
それは家族に対する「愛」であろう。 1
我々は人にせよ、動物やものにせよ、一旦それらを自分の家族の一部であると認識した
り、扱ったりすれば「愛」を感じ、
「愛」を伝えるようになる。実は、科学の左右対称説も
これを肯定する。カップルの顔が似ている、夫と妻の顔が「夫妻顔」であるなどは決して
偶然ではない。つまり、我々は近親感を無意識に求めているため、時によって家族や自分
に似ている相手に惹かれるのである。それが「一目惚れ」という現象だと思う人もいるだ
ろうが、心理学では内面などを知らずに他人を家族として愛したり、認めたりするという
現象は決して起こらない。だとすれば、「一目惚れ」は「愛」の一種だという説は決して成
り立たないのである。
1 感情力:la force des émotions
第九章
家族に対する愛
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10
Amour
このように、
「愛」は単純な性質を持っているにもかかわらず、複雑な背景があるという
ことが分かる。つまり、一旦相手を家族のように思い始めると、そこで初めて「愛」とい
う心境が生まれてくるはずである。
第四節|「恋」vs.「愛」
「恋」と「愛」が同様であるという考え方を持つ傾向が見られる。日本語ではこの二つ
の言葉の関係が不思議であるのだが、最も妙なのはこの二つの言葉で出来ている「恋愛」
という状態の存在なのである。換言すれば、「恋」と「愛」は異なるにもかかわらず、なぜ
この二つの違った感情が一つの言葉になれるのだろうか。
まずは「恋」と「愛」を比較することによって、「愛」という心境が「恋」とは絶対的に
異なるということが判明するだろう。ここで一番大切なポイントはこの二つの基本素質が
異なり、すなわち「恋」は一元的な存在にあるのに対し、
「愛」は先ほど述べたように多元
的な性質を持つ心境であることである。換言すれば、「恋」は「愛」より頻繁に活躍し起こ
りやすいのだが、人間のみに対して生じる心境であるため、ある程度の心的範囲にしか影
響を及ぼさないのだ。更に、友達以上の関係にもかかわらず、まだ「愛」には達していな
い心境を表現する言葉が必要だっただろう。その言葉はまさに「恋」であり、つまり「愛」
より軽く感じ、人間だけに対するための言葉である。しかし、「恋」が「愛」に達するまで
の過程、つまりその二つの間に立つ状態はまさに「恋愛」という言葉が表現している。
恋・好き
恋愛
愛
このように、
「恋」と「愛」の微妙な関係、また「恋」という言葉の存在は実は「愛」の
存在の証となると考えても良いだろう。なぜなら、恋に落ちることだけで「愛」を感じる
というわけではないし、「愛」を「恋」のような未熟な心境と区別する必要があったため、
「恋」や「恋愛」という言葉が生まれたのであろう。
ところが、我々の「愛」に対する概念を形成するのはやはり文化と言葉である。この二
つは非常に大きな役割を果たしているといえるだろう。まず、日本人の「愛」に対する概
念は「恋」や「愛」のような言葉の存在から予想できるだろうが、それも日常生活の中で
実際に口にする言葉をみてみると分かるはずだ。例えば、日本文化であるお見合いや合コ
ンなどのような出会い活動をみてみると、日本人はやはり明確に「恋」と「愛」を区別し、
気楽に「愛」を口にしない傾向があり、かつ、保守的な恋愛観を持っているといえるだろ
う。逆の立場から考えれば、もし合コンなどであまり知らない人にすぐ「愛しているよ」
と言ったら、それは相手もむろん引くだろうが、最も大きな問題は「愛」に対する価値が
急激に下がり、社会が混乱やカオスに陥る可能性はないとはいえないはずだ。人によって
違うのだが、日本人、特に大阪のほうは基本的に「愛しているよ」のような恥ずかしい言
11
Amour
葉を簡単に口にしない傾向が見られるため、かつ、「愛」に対する概念が比較的に明確であ
り、そして乱れたり混乱に陥ったりすることはまずあまりないだろう。一方、オーストラ
リアやアメリカのような英語圏の国をみてみると、恋愛観は日本とは全く反対であるとっ
ても過言ではない。
「愛」は英語でいうと「Love」であり、日本と比べると日常生活の中で
頻繁に使われていることが分かる。例えば、「好き」、「恋」
、「愛」などはほとんど「Love」
の一つの言葉で表現し、日本のように言葉に明確な区別はないのである。そのため、
「I love
this book」、
「I love my dog」などのように簡単に「愛」を口にしてしまう傾向がみられる。
一方、日本人は「この本を愛している」などは決して言わないだろう。
ところが、英語でいう「Love」のような曖昧な表現を頻繁に使うことによって、オース
トラリアやアメリカなどにいる中学生の恋人同士さえも「I love you」などを軽く言ってし
まう傾向があるのだ。日本人と全く反対であるのだが、先ほど述べたように、簡単に「愛」
を口にすると社会は混乱やカオスに陥る可能性があるため、「愛」の限界を超えた「True
Love」、または「真の愛」というイデオロギーを生み出す必要があったのであろう。
第五節|「愛」
vs. ロミオ&ジュリエット
一種の「愛」しか存在しない。それは家族に対する「愛」であると上で既に述べたのだ
が、「真の愛」が「愛」の一種であると考えてしまうことが多い。しかし、実は「真の愛」
は「愛」の一種でなく、愛の極限であると考えたほうが良いだろう。それにもかかわらず、
日本人はオーストラリア人やアメリカ人などとは違う「愛の極限」という概念を持ってい
るだろう。
表 1.4b.「真の愛」に対する価値観の形成過程
日本
好き・恋
愛
オーストラリアなど
愛
真の愛
真の愛
表 1.4b.を見るとわかるように、オーストラリア人などは「愛」を頻繁に口にすると「愛」
に対する価値観が混乱するのであり、かつ、日本人の「恋」と同様のレベルに下がってし
まうことになる。そのため、「愛」より更なる神聖な心境を追求するようになった。それが
「True Love」
・
「真の愛」である。しかし、第二段階では日本人は「愛」を求めているにも
かかわらず、オーストラリア人などは既に「真の愛」を求めている。つまり、これは外国
人が「Ladies First」であり、優しいなどというイメージの由来と原因の一つとなるだろう。
ところが、同様な段階にあるからといって、「愛」と「真の愛」が同じだとは限らない。
アンケートの結果を見ると(表 1.5)、この二つの違いが分かるのは、やはり外国人のほう
が圧倒的に多いということが分かる。しかし、
「真の愛」の定義は様々だが、ここでいう
12
Amour
分かる
分からない
トであろう。つまり、「真の愛」というのは
100
Percentage
「True Love」はまさにロミオ&ジュリエッ
80
愛する人のために自分を犠牲にする、いわば
60
犠牲的愛・「Sacrificial Love」である。これ
40
に対して、普段の「愛」というのは自分のた
20
めに愛する人から「愛」を求め続ける、いわ
0
日本人 他
ばわがままな愛・
「Selfish Love」である。例
表 1.5.「愛」と「真の愛」の違い
日本人 vs.外国人
えば、恋人の時間をもっと欲しがったり、相
手の全てを自分が占有したりするのは全部
わがままな愛であり、別れなどの原因となるこ
変えたくない
変えたい
どうでもいい
とが多いのである。しかしながら、我々は「真
の愛」に達する前にこのわがままな「愛」を経
100%
過しなければならないのである。こうして、第
まだわがままな愛の段階にいる日本人から見
Percentage
二段階で既に「真の愛」を求めている外国人は、
80%
ると普通より優しいなどというイメージが出
来てしまったというのである。
更に、アンケートに答えた人の全てがロミオ
60%
40%
20%
0%
日本人
他
表 1.6.ロミオ&ジュリエットのエンディング
&ジュリエットを知っているのだが、その悲劇的なエンディングを変えたいと思う人もい
た(表 1.6)。エンディングを変えたい理由はただ慈悲から発した結論かもしれないのだが、
妙なのはエンディングを変えようとしない人であろう。確かに日本では「True Love」とい
うはっきりした概念はあまり盛んではないかもしれない。しかし、アンケートの結果を見
ると、日本人の中でもこの「愛の極限」の追求者、また潜在的追求者はいるのだが、意識
的に追求しているわけではない。表 1.7 をみると、内面的な条件のみを重視する人は潜在
的追求者であるのだが、もしエンディングも変えようとしなければ、それはまさに「真の
愛」の追求者だといっても良いだろう。つまり、エンディングがかわいそうではなく素敵
だと思うのは「真の愛」を理解している証となるため、そのエンディングを変えようとし
ないだろうし、そしてまた内面を重視するのは「愛」のあり方を理解しているということ
である。
日本人
表面条件のみ
エンディングを変えてほしい?
内面条件のみ
両方
はい
いいえ
どうでもいい
潜在的追求者
追求者
表 1.7.内面条件のみ&エンディングを変えたくない
日本人の「真の愛」之追求者
13
Amour
第六節|「愛」のあり方とその定義
このように、我々は論理と感情の矛盾、文化と言葉の影響、「愛」の曖昧な過程など様々
な要素や原因のせいで「愛」に対する概念や考え方が明確にできず、混乱しつつある。最
後にここで「愛」のあり方を定義しなければならないだろう。確かに様々な定義があるの
だが、ここで言う「愛」は、
我々は、理想的な人や自分にとって完璧な人を見つけることによって愛するようになる
のではなく、完璧ではない人を完璧と見るようになることによって愛するようになるので
ある。
つまり、科学でいう DNA に従った「愛」は自分の DNA にとって理想的であるため無意識
に相手に惚れるのだが、それは決して「愛」ではないだろう。「愛」というのは永遠の過程
であり、最初は DNA の仕業にせよ、お見合いなどの出会い活動にせよ、その後のプロセス
が大切であり、即ち、相手の不完全なところを受け入れる時点で初めて「愛」が生じるの
であろう。
_結論_
心理学の立場から考えると、
「一目惚れ」はやはり存在しないのだが、
「愛」は存在する。
一方、科学は「愛」のあり方を否定できるのだが、その存在を否定できないのである。な
ぜなら、
「真の愛」はいうまでもないが、
「愛」というのは始めから感じるものではないし、
そしてそれに達するまでの過程も我々の支配範囲内であるからだ。更に科学のいう「一目
惚れ」が存在するとしても、「愛」はその後に生まれてくるといえるだろう。
我々の「愛」に対する基本概念が混乱しているといっても過言ではない。例えば「一目
惚れ」が「愛」であるという考え方や「真の愛」、「愛」なんか存在しない、「愛」とは何か
などの疑問や考え方は決して間違いとはいえないのだが、科学や心理学の比較でこれらの
謎がより明確に説明できるし、謎を解く手がかりになるであろう。
14
Amour
_参考文献_
1. Wikipedia
www.wikipedia.com
2. Mathsworld
www.mathworld.wolfram.com
3. Love at First Sight
Suzy Malin, DK Pub 2004
4. BBC
www.bbc.co.uk
5. 感情力:la force des émotions
Francois Lelord, Christophe Andre 著, 高野優訳
15