本稿は Web 上での公開用の原稿です。写真省略。引用等は印刷物を参照してください。 浜口 尚 (2003) 「北極圏地域における先住民生存捕鯨−アラスカとチュコトカの事例より−」 『第 17 回北方民族文化シンポジウム報告』、(財)北方文化振興協会、27‐32 頁。 Hisashi Hamaguchi (2003) Aboriginal Subsistence Whaling in the Arctic: Examples of Alaska and Chukotka. The Proceedings of the 17th International Abashiri Symposium, pp.27‐32. A U.S.‐Russian request to allow Alaskan Eskimos and native peoples of Chukotka to catch bowhead whales was rejected at the 54th annual meeting of the International Whaling Commission held in Shimonoseki, Japan in May 2002. Consequently, at the time of the annual meeting, unless a compromise was reached by 2003, the indigenous peoples would not be able to hunt bowhead whales as from the 2003 whaling season. After all, the request was accepted by consensus at the special meeting of the International Whaling Commission in October 2002. The final result was not so bad for the indigenous peoples. However, what on earth was the confusion for these five months? In this paper, the importance of bowhead and gray whaling for the indigenous communities of Alaska and Chukotka which have been influenced by the external forces, will be reviewed. In Alaska, the Iñupiat and Yupiit have hunted bowhead whales for over 2000 years. Hunting bowhead whales in Alaska remains a communal activity that supplies whale meat and maktak for the entire community. Formalized patterns of hunting, sharing and consumption of the whales characterize the indigenous way of life. Bowhead whaling constitutes a great part of the indigenous peoples’ cultural tradition and their cultural identity. Bowhead whaling, culturally, still has much importance today. On the other hand, the Yupiit and Chukchi on the Chukotka Peninsula have harvested gray whales and bowhead whales for over 2000 years. The whalers of Chukotka have been influenced by the shift to gray whaling from bowhead whaling, and the transition to government‐controlled ship whaling from indigenous whaling. As a result of the demise of the Soviet Union, Chukotka communities experienced near‐complete economic collapse. Recently the indigenous peoples have begun to use more wildlife resources, especially marine mammals, than before. Gray whales are important for the Chukchi as food and bowhead whales play an important role in revival of traditional culture of the Yupiit. It is clear that bowhead whales and/or gray whales are culturally and nutritionally indispensable resources in Alaska and Chukotka. Bowhead whaling on both sides of the Bering Strait must be continued in the 2003 whaling season. ‐ 1 ‐ キーワード:先住民生存捕鯨、イヌピアット、ユピット、チュクチ、ホッキョククジラ、コクク ジラ Key words: aboriginal subsistence whaling, Iñupiat, Yupiit, Chukchi, bowhead whale, gray whale 1. はじめに 2002 年 5 月、山口県下関市で開催された第 54 回国際捕鯨委員会年次会議において米ロ共同提 案による「アラスカ、チュコトカの先住民によるホッキョククジラ捕獲割当要求案」が否決され た(1)。本要求案は「2003 年から 2007 年までの 5 年間の陸揚げ数 280 頭、年間最大銛打ち数 68 打撃、未使用銛打ち分 14 打撃まで翌年への繰越を認める」(2)という内容で、従来から当該地域 の先住民に容認されてきた捕鯨形態とほぼ同じ内容であった。本要求案否決の背後には捕鯨問題 を巡る長年の日米対立があったが、ここではその問題には立ち入らない。 アラスカの先住民によるホッキョククジラ捕鯨は 1978 年より「先住民生存捕鯨」として国際捕 鯨委員会から容認されてきた。従来はアラスカの先住民のみに認められてきたこのホッキョクク ジラ捕鯨は、1998 年以降はアラスカの先住民の捕獲割当の一部をチュコトカの先住民に譲る形で、 チュコトカの先住民にも認められるようになり、そのかわりに、従来チュコトカの先住民にしか 認められていなかったコククジラの捕獲が、チュコトカの先住民の捕獲割当の一部を譲る形で、 米国ワシントン州に居住する先住民マカーにも認められるようになった(cf. Freeman et al. 1998:82,109,117; 小松 2001:95,97)。 一方、チュコトカの先住民は従来から先住民生存捕鯨としてコククジラの捕獲が認められてき たが(1998 年以降はマカー割当分を含む)、この捕獲に関しては「2003 年から 2007 年までの 5 年間、合計 620 頭、年間最大 140 頭まで」(3)という捕獲割当が全会一致で合意された。 以上が 2002 年 5 月、第 54 回国際捕鯨委員会終了時点の話である。その後、2002 年 10 月に国 際捕鯨委員会特別会議が開催され、アラスカ、チュコトカの先住民によるホッキョククジラ捕鯨 は「2003 年から 2007 年までの 5 年間の陸揚げ数 280 頭、年間最大銛打ち数 67 打撃、未使用銛打 ち分 15 打撃まで翌年への繰越を認める」(4)という内容で投票に付されることなく合意がなされ た。その結果、2003 年以降もアラスカ、チュコトカの先住民はホッキョククジラ捕鯨を継続でき ることとなったのである。最終結果は悪くはなかったが、この 5 か月間の騒動は何であったのだ ろうか。高度に政治化した捕鯨問題の一つの帰結であったことは確かである。 以下、本稿においては、外部の力によって多大な影響を被ってきた(また、現在も被っている) アラスカ、チュコトカの先住民社会におけるホッキョククジラ捕鯨、コククジラ捕鯨のもつ意義 を探っていく。本稿が読者諸氏の当該地域における先住民捕鯨の現状理解の手助けとなれば、筆 者としては幸甚である。 2. アラスカの捕鯨文化 2.1. ホッキョククジラ捕鯨 アラスカの先住民イヌピアット(Iñupiat)とユピット(Yupiit)は 2000 年以上にわたってホ ッキョククジラ捕鯨に従事しており(Braund 1997:3)、今日においてもホッキョククジラ捕鯨は彼 ‐ 2 ‐ らの生活において中心的地位を占めている。 アラスカでは伝統的にガンベル、サヴーンガ、ウェールズ、キヴァリナ、ポイント・ホープ、 ウェインライト、バロー、ヌイクスット、カクトヴィクの 9 村落を中心にして捕鯨が行われてき ており(地図 1 参照)、1950 年から 1980 年にかけて上記 9 村落他でホッキョククジラ 505 頭、コ ククジラ 47 頭が捕獲されている(Marquette and Braham 1982:390)。捕獲頭数を一瞥しただけでホ ッキョククジラの捕獲が圧倒的に優越していることがわかる。1992 年以降は上記 9 村落に加えて 新たにリトル・ダイオミードでもホッキョククジラ捕鯨が開始され、2002 年現在、10 村落でホッ キョククジラ捕鯨が行われている(Freeman et al. 1998:119)。 冬をベーリング海で過ごしたホッキョククジラは、春にセント・ローレンス島とチュコト半島 の間からベーリング海峡を通過し、アラスカ北西岸沿いに北上、ボーフォート海に入り、バンク ス諸島付近およびマッケンジー川デルタ地帯で夏を過ごし、秋になると反転、アラスカ北岸をウ ランゲリ島付近まで西進し、そこからロシアの海岸沿いに南下し、北ベーリング海に戻ってくる (Marquette 1978:18‐19)。 春の捕鯨シーズンは最南に位置するガンベル、サヴーンガで 4 月初頭に始まり、5 月末から 6 月初頭にかけてポイント・ホープ、バローで終わる。一方、秋の捕鯨シーズンはカナダ国境沿い の最東端のカクトヴィクで 8 月末から 9 月初頭にかけて始まり、10 月初頭バローで終わる (Marquette 1976,1978)。 この定期的なホッキョククジラの回遊パターン、およびそれに合わせた捕鯨活動は人々に強く 認識されており、鯨の所有権に関する慣習法の基礎となっている。全捕鯨村落における鯨の所有 権に関する最も基本的な決まりは、一番銛を打ち込み、所有権を印したキャプテンおよびそのク ルーに絶対的な権利を与えており、 それはそのクルーが鯨を殺すことに成功しなかったとしても、 あるいはそのクルーが追跡をやめ、他のクルーが鯨を回収してきたとしても変わりはない(Worl 1980:315‐316)。たとえ鯨から同時に複数の銛が見つかったとしても、春の回遊の場合は、鯨は南 から北に向かうので最南に位置するグループが一番銛を打ち込んだと想定され、所有権が確定す る(Worl 1980:315)。 ただし、これは鯨の所有権に関する理論上の決まりであり、現実には鯨肉の分配時に、実質的 に鯨の捕獲に功績のあったクルーに対して配慮を加えることによって労力が報われるシステムと なっている。すなわち、一番銛を打ち込んだけれども鯨を放棄した、あるいは亡失したキャプテ ンは、分配時に自らが受け取る権利のある部分の一部を実際に鯨を殺した、あるいは回収してき たグループに引き渡すのである(Worl 1980:316)。 数十トンもあるホッキョククジラを 1 クルーだけで捕獲するのは不可能であり、複数のクルー (通常は 8 前後)の共同作業となる。一番銛を打ち込んだキャプテンおよびクルーに形式的に鯨 は所有されることになるが、その所有権は最良の部分を分け前として受け取れるという意味にす ぎず、協力の度合いに応じて、鯨の他の部分はあらかじめ定められている分配法に基づいて各ク ルーに配分される。 ポイント・ホープでは一番銛を打ち込んだキャプテンおよびクルーが臍から後の部分を取り、2、 3 番目に現場に到着したクルーが臍から前の体の部分を二等分し、4、5 番目のクルーが頭部の下 半分を二等分し、6、7 番目のクルーが口の周辺部を一つずつ取る(Rainey 1947:261)。 ‐ 3 ‐ 鯨の陸上への引き揚げ、および解体を手伝った村人には一番銛のキャプテンから食事と分け前 が提供され、また男たちによる解体終了後には、女たちが死骸から肉片をそぎ落とすことが許さ れ、さらにキャプテンの妻は、各世帯、または家族の中にクルーがいない年輩の人々や生活が苦 しい人々に食用鯨皮(maktak)を分配する(Worl 1980:317)。捕鯨シーズンの終わりを告げる祝宴 など、様々な年間の儀礼時にもキャプテンは多くの鯨肉、脂皮(blubber)、食用鯨皮を提供する ことが期待されており、各機会に大量の鯨産物が消費される(Rainey 1947:262)。 こうして村落共同体の全成員に何らかの形で鯨産物が行き渡り、消費される。最初の分配時に 多くを得た一番銛のキャプテンも二次的な分配でかなりの部分を分け与えてしまう。鯨の所有お よび分配において理論的には一番銛のキャプテンが優越しており、その威厳と名誉は満たされて いるが、現実には様々な分配の強制により、富の消費がはかられ、村落共同体の社会的均衡が保 たれるしくみとなっている。 鯨肉、脂皮、食用鯨皮以外にも全ての鯨体が利用されている。鯨髭は換金商品として、肋骨は 網の重しとして、あご骨は墓碑、保存棚、家の入り口として、肝臓、肺の皮はドラムの皮として、 脊椎は家屋の通風口や建築材料として、内臓は犬の餌として利用されている(Rainey 1947:262)。 頭蓋骨は海に戻されるが、決してゴミとして捨てられるわけではない。頭蓋骨には鯨の魂が宿っ ており、海に戻せば魂はまた新しい体を見つけるだろうと考えられているからである(Rainey 1947:259,261)。 北西アラスカにおけるイヌピアット、ユピットの生活は鯨および捕鯨を中心に展開している。 彼らは鯨の民、より正確にはホッキョククジラ捕鯨民なのである。 あるポイント・ホープの住民は捕鯨の意味を次のように語っている。「捕鯨は我々のクリスマス であり、独立記念日であり、感謝祭でもある」(Bockstoce 1980:54)。 2.2. コククジラ捕鯨 つぎにアラスカにおけるコククジラのもつ意義をみてみよう。イヌピアット、ユピットが捕獲 対象としてきたベーリング海系統のホッキョククジラは 1931 年に商業捕鯨が禁止されたにもか かわらず、1980 年代初頭までに 600∼2000 頭程度にしか資源レヴェルが回復しなかった(Gambell 1983:468)。 一方、1946 年に商業捕鯨が禁止されたカリフォルニア系統のコククジラは、1980 年代初頭には 1 万 5000∼1 万 7000 頭まで資源レヴェルが回復し(Marquette and Braham 1982:386,391)、一部の 科学者はコククジラによるホッキョククジラの代替を考え始めた。 その結果、1979 年に国際捕鯨委員会の意向を受けて開催された専門家会議において、ホッキョ ククジラを保護するために、イヌピアット、ユピットの食料におけるホッキョククジラとコクク ジラ、アザラシ、セイウチ、カリブー、鳥、魚などの野生資源との代替の妥当性およびその実行 可能性のさらなる調査を推奨する報告が出された(Mitchell and Reeves 1980:691‐692)。 ところが、たとえば 25 トンのホッキョククジラに匹敵する動物数を計算してみれば、セイウチ (36 頭)、アゴヒゲアザラシ(77 頭)、 ワモンアザラシ(303 頭) 、カリブー(273 頭)となり(McCartney 1980:527)、実行不可能とは言えないまでも、捕獲には技術的、労力的にかなりの困難が伴うと推 定される。いわんや鳥や魚で代替するとしたならば、それこそ超天文学的な数になってしまう。 ‐ 4 ‐ では、コククジラはどうであるだろうか。 ベーリング海峡を通過してからアラスカ海岸沿の各村落を順次回遊していくホッキョククジラ と異なり、コククジラはベーリング海峡を通過するとチュコト海に直進し、少数の個体しかアラ スカ海岸沿を回遊しない(Marquette and Braham 1982:391)。従って、現在ホッキョククジラ捕鯨 を行っている 10 村落のうち、ガンベル、サヴーンガ、リトル・ダイオミード、ウェールズしか毎 年十分な数のコククジラを期待できず(地図 1 参照)、他村の住民にとってコククジラは確実な代 替品にはなりえないのである。このように非文化的理由だけでもコククジラ(あるいは他の動物) によるホッキョククジラとの代替は困難と結論しうる。 前述した捕獲数からわかるようにコククジラ捕鯨はイヌピアットにとっては重要な生計活動で はなかった。時々コククジラが捕獲されているガンベルの村人でさえも、ホッキョククジラこそ が伝統的に好む鯨であると述べており(Marquette and Braham 1982:390)、一方、伝統的にホッキ ョククジラ捕鯨民の村として知られているポイント・ホープでは、コククジラは食料としては劣 っ て お り 、 ま た 捕 獲 は 余 り に も 危 険 で あ る と 考 え ら れ て い る の で 捕 獲 は さ れ な い (Rainey 1947:262)。実際、ポイント・ホープでは今日までコククジラが捕獲されたことを示す記録は残っ ていないし、1979 年に 3 頭のコククジラがシャチに襲われて死に近くの海岸に打ち上げられた時 も村人は見向きもしなかった(Marqutte and Braham 1982:391)。 このように先住民にとっては大きな違いのあるホッキョククジラとコククジラも米国人(白人) 一般の眼には同じ存在に映る。米国人一般がいかに鯨についての知識に乏しいかを例証した興味 深い出来事がある。 1988 年 10 月、アラスカ、バロー岬沖で氷に閉じ込められていた 3 頭のコククジラがイヌピア ットによって発見され、その救出作戦がメディアをにぎあわせた。米ソ両国が協力、580 万ドル (8 億 7000 万円当時)以上もの大金を費やし(Rose 1989:239)、結局、2 頭を救出し、まずは万々 歳で終わった。 ところで、メディアでは全く語られていなかったが、前述したようにイヌピアットはホッキョ ククジラ捕鯨民であって、コククジラ捕鯨は重要な生計活動ではなかった。彼らの文化はホッキ ョククジラを中心に展開してきたのであり、ホッキョククジラの肉と食用鯨皮は称賛するが、コ ククジラのそれについては人々の間では意見が異なっている。 この救出作戦もイヌピアットにとって不必要なコククジラであったから実行しえたのであった。 もし、氷に閉じ込められていたのがホッキョククジラであったならば、メディアの注目を集める 前にイヌピアットの食卓を飾っていたはずである。イヌピアット社会が自らの文化的基準から不 要物として捨て去ったものを米国白人社会が貴重品として拾い上げたのであった。 鯨類保護にかかわっている人たちは伝統的食物への先住民の文化的選好を見落としている。代 替食料は栄養学的には人々を充足させるかもしれないが、文化的、心理的には充足させえない。 いやいや食べるものはおいしくはないし、おいしくないものは食べたくもない。 ホッキョククジラ捕鯨においては銛手に捕鯨クルーのキャプテンとしての特別な地位が与えら れている。鯨肉の分配時には一番銛を打ち込んだキャプテンが最良の分け前を取り、以下、協力 の度合いに応じて各クルーに分配がなされる。一時的に多くを得たキャプテンも解体作業時、あ るいは祝宴時に自らの取り分を再配分することによって鯨肉を消費する。そのことによってキャ ‐ 5 ‐ プテンとしての威信が保たれ、同時に村落共同体の社会的安寧が保証されるのである。 ところが、一般的にコククジラは高性能ライフルで一斉射撃される(Marqutte and Braham 1982:387)。もしイヌピアット、ユピットが全面的にコククジラに依存せざるを得ない状況になれ ば、一番銛のキャプテンを中心にして確立されてきたホッキョククジラを巡る諸々の文化的複合 は大幅に変わらざるを得ないであろう。幸いにして様々な外圧にもかかわらず、イヌピアット、 ユピット社会においては 2002 年現在、ホッキョククジラ捕鯨は存続し、ホッキョククジラを中心 とする伝統的な捕鯨文化も継承されている。 このホッキョククジラに基づくイヌピアットとユピットの捕鯨文化が捕鯨問題を巡る政治的対 立の結果、変容をきたすとするならば、それは非常に残念なことである。 3. シベリアの捕鯨文化 3.1. 国営「先住民」捕鯨 シベリア東部、チュコト半島においても 2000 年以上にわたって、ユピットとチュクチ (Chukchi)によって捕鯨が行われてきた(Bogoslovskaya et al. 1982:395; Krupnik 1993:186)。1930 年代まではホッキョククジラ捕鯨が中心で、コククジラ捕鯨は一部の地域に限られていたが、 1940 ∼1950 年代に大部分の地域では、ホッキョククジラの減少に応じてやむなくコククジラ捕鯨に移 行していった(Krupnik 1987:16; Bogoslovskaya et al. 1982:398)。さらに 1969 年以降、銛打ち亡失 鯨の増大の結果、捕獲効率が悪い先住民自身による捕鯨は中止を余儀なくされ、国際捕鯨委員会 の捕獲割当に応じてソ連邦政府の捕鯨船による「先住民のため」のコククジラ捕鯨が行われるよ うになった(Krupnik 1984:106, 1987:28)。 チュコトカの鯨捕りたちはホッキョククジラ捕鯨からコククジラ捕鯨への移行、さらには自ら の手による捕鯨から政府の捕鯨船による捕鯨への転換によって多大な影響を被った。コククジラ 捕鯨はボートからのライフルの一斉射撃によって行われるので、コククジラ捕鯨への移行と共に、 ホッキョククジラ捕鯨における一番銛を打ち込んだキャプテンとクルーの優先権、威信およびそ れに基づく社会的規範や慣習は変わらざるを得なかった(Krupnik 1987:26,28)。 老世代の住民によると、コククジラ捕鯨には何ら特別な儀礼的行為は伴わず、特にユピットの 村では、それは伝統的文化の一要素としても考えられていなかった(Krupnik et al. 1983:561)。実 際、1930 年代の終わりに最後の鯨祭りがホッキョククジラ捕鯨に成功した 3 村落で実施されて以 降、この種の祭りは行われていない。また、各村落の口誦伝承は、40∼50 年前であるのにもかか わらず、最後にホッキョククジラの捕れた日のことを語り伝えている(Krupnik 1987:26,28)。ホッ キョククジラ捕鯨はまさしくユピットの人生であった。 ホッキョククジラの肉と食用鯨皮はどこにおいても最も威厳があり、おいしい食料として考え られている。コククジラによるホッキョククジラの代替は、チュクチの村では人々にそれほど困 難を与えなかったが、コククジラの肉を低級な食料とみなし、嫌悪していたユピットの村では人々 に多大な苦痛を与えた(Krupnik 1987:28)。 特に、チュコト半島におけるホッキョククジラ捕鯨の中心地であったシレニキ(ユピットが多 数を占める村)ではコククジラによる代替は全く受け入れられておらず、村人は価値がなく不快 であると考えているコククジラの肉と食用鯨皮は食べなかった(Krupnik et al. 1983:561)。いやい ‐ 6 ‐ や食べるものはアラスカにおいてもシベリアにおいてもおいしくはないし、おいしくないものは 食べたくもない。 ホッキョククジラ捕鯨からコククジラ捕鯨に移行するにつれて、捕鯨道具も手投げ銛から高性 能ライフルへと変わっていった。1940 年代の資料によれば、捕獲を試みたコククジラのうち 30% が手負いで逃げ、30%が海中に没した(Krupnik et al. 1983:560)。さらに、1950 年代の終わりに大 口径ライフルが導入されると共に負傷、亡失する鯨が増加し、ついには先住民自身の手による捕 鯨は中止を余儀なくされたのであった(Ivashin and Mineef 1981:504)。 19 世紀半ばから終わりにかけての商業捕鯨者によるホッキョククジラの乱獲の結果、ベーリン グ海峡の両側でホッキョククジラが捕れにくくなり、チュコト半島では 1940∼1950 年代にかけて ホッキョククジラ捕鯨からコククジラ捕鯨に移行し、ユピット、チュクチの鯨捕りたちのホッキ ョククジラ捕鯨に基づく伝統的文化は変わらざるを得なかったが、さらに共産主義政権下では政 治的要因も加わり、政府の捕鯨船による先住民のための捕鯨が採用され、捕鯨文化は一層歪めら れてしまった。 この政府の捕鯨船による国営捕鯨もある見方からすれば、「亡失鯨問題を除去し、苛酷で危険な 仕事から人々を救済した」(Ivashin and Mineef 1981:504)となる。確かに捕獲成功率の観点からは そうかもしれない。しかし、同時に人々から生きる意味を奪ってしまったのも事実である。自ら を育んできた文化から切り離され、生のみ与えられたとしてもそこに人生を見い出せるであろう か。 シレニキの住民が 1972 年に最後のホッキョククジラを捕った時、村にある 5 捕鯨チーム全てが 捕鯨、曳航、解体に積極的に参加し、捕獲された鯨は昔と同様に一番銛を打ち込んだキャプテン から名前を受け取り、全村民が鯨肉、脂皮の加工に参加し、その製品の一部は近隣の村にも分配 された(Krupnik 1987:28‐29)。当然のことではあるが国営捕鯨からはこういう姿は見られない。 そもそもホッキョククジラ資源の涸渇についても、ユピットやチュクチとは全く関係のない商 業捕鯨者の乱獲に起因するものであり、その災いがチュコトカの鯨捕りたちにホッキョククジラ 捕鯨からコククジラ捕鯨への移行という形になってあらわれた。そのうえ、自国政府あるいは国 際捕鯨委員会から捕鯨に制限を加えられてはたまったものではない。困難な状況下で自らの伝統 的捕鯨文化の存続に苦闘している人々には特別の配慮が与えられてしかるべきである。文化を根 絶やしにされ生きる意味が失われる前に、ホッキョククジラ捕鯨は復活させられなければならな い。 3.2. 先住民捕鯨復活 1991 年 12 月 25 日ゴルバチョフ大統領が辞任し、ソビエト社会主義共和国連邦は崩壊した。社 会主義国家としてのソ連邦、あるいは共産主義のイデオロギーの功罪は歴史が判断するのでここ では触れない。ただ、一般的に言えることは、全体としての国家の維持・発展のために、少数民 族の権利がないがしろにされてきたことは事実である。もちろん国家の援助による少数民族の最 低限の生活は保障されていたが、文化の多様性は一切考慮されなかった。その一例が政府の捕鯨 船による先住民生存捕鯨であった。鯨を捕獲できない(してはならない)捕鯨民。そういう文化 的抑圧がまかり通ったのである。 ‐ 7 ‐ ところが、ソ連邦が崩壊、ロシアが誕生して状況は一転した。ソ連邦時代の市場原理を無視し た計画経済の結果、財政は破綻、十分な社会保障は不可能となり、社会のあらゆる局面において 規制緩和、自由化が余儀なくされたのである。 チュコト半島の先住民も表面的には政治的・経済的自由を回復した。そのかわりロシア政府か らの援助は乏しくなった。生きる自由は取り戻したが、命の保障はなくなったのである。以下、 チュコト半島の先住民ユピット、チュクチの今日的姿をみていく(地図 1 参照) 。 チュコト半島のアナディール湾側に位置するシレニキは人口約 550 人(1997 年) 、そのうちユ ピットが 63%、チュクチが 29%を占めるユピット中心の村である(Russian Federation 2002:14)。 ソ連邦崩壊の結果、かつては 2 万頭以上飼育され、主要食料源・収入源であったトナカイの遊 牧は存続不可能となり、シレニキの住民は経済的に大打撃を受け、野生食料資源(wildlife resources)に大きく依存するようになった(Russian Federation 2002:13)。 2001 年の住民 1 人当たり年間野生食料資源消費量は 141kg、そのうち海産哺乳類が 54%を占め、 その海産哺乳類の中ではセイウチが 62%、アゴヒゲアザラシが 19%、コククジラが 15%となって いる(Russian Federation 2002:19)。 かつては忌避されていたコククジラも近年、重要な食料資源 の一部となりつつある。 1989 年以降、米ソ(米ロ)のユピットの相互交流が再開され、チュコトカのユピットのもとに 米国アラスカのユピットから現代的な捕鯨道具が入ってくるようになり、ホッキョククジラ捕鯨 への関心が再生してきた(Kerttula 2000:159)。 その結果、1994 年にはアラスカのユピットから提供されたボンブ・ランスを用いて 1972 年以来 久々にホッキョククジラ 1 頭が捕獲されている。そのホッキョククジラには若者が一番銛を打ち 込み、別人が仕留めたが、ホッキョククジラは一番銛を打ち込んだ若者に帰属すると考えられて いた(Kerttula 2000:160)。最後のホッキョククジラがシレニキで捕獲されてから 20 年以上が経過 していたが、一番銛を打ち込んだ者を中心とするホッキョククジラ捕鯨の伝統は継承されていた のであった。 では、チュクチの現況はどうであるのだろうか。チュコト半島の先端中央部、ベーリング海峡 に臨む地にロリノがある。人口 1414 人(1997 年)、そのうちチュクチが 86%、ユピットが 7%を 占めるチュクチ中心の村である(Russian Federation 2002:14)。 ソ連邦時代、先住民は国営農場の一員としてトナカイの遊牧やセイウチの狩猟に従事、トナカ イ肉などを国に出荷し、給料を受け取ると同時に食料や燃料の援助を受けながら極寒の地で暮ら してきた(武田 1998:73)。 ソ連邦崩壊後は国営農場を共同経営化し、ギンギツネ飼育、毛皮製品製造、捕鯨やアザラシ猟、 トナカイ飼育などで生計の維持を図ってきたが、肉や毛皮製品の販売ルートの不確立など解決す べき課題が多く残されている(武田 1998:73)。 一方、ロシア政府による政権基盤の確立後、政府の捕鯨船による先住民への鯨肉供給用捕鯨は 中止され、チュクチ自身によるコククジラ捕鯨が再開された。1997 年ロリノでは 24 人の鯨捕り が 6 隻の小型ボートでコククジラ捕鯨に従事している(武田 1998:71)。 1997 年から 2001 年までの 5 年間、コククジラの捕獲数は 60 頭を下回ったことはなく、1998 年には 72 頭が捕獲されている(Russian Federation 2002:14)。2001 年の住民 1 人当たりの年間野生 ‐ 8 ‐ 食料資源消費量は 358kg、そのうち海産哺乳類が 68%を占め、その海産哺乳類の中ではコククジ ラが 40%、セイウチが 30%、アゴヒゲアザラシが 11%、ホッキョククジラが 0.5%となっている (Russian Federation 2002:13,19,21)。ここでは海産哺乳類、特にコククジラが重要な食料資源とな っていることが理解できる。 国家の経済破綻が先住民チュクチの自活を余儀なくさせ、コククジラ捕鯨を復活させた。しか し、1994 年には鯨捕り 3 人が捕鯨中の事故で死亡するなど(Freeman et al. 1998:85)、その復活の過 程で多くの犠牲も払っている。 資源量が強固であるコククジラの捕獲に関しては、少なくともチュコト半島においては議論の 的になることはない。これに対して資源量に関して不確実性が残るホッキョククジラの捕獲に関 しては第 54 回国際捕鯨委員会年次会議での議論のように時には政治問題化される。ロシアの先住 民とは直接関係のない外部世界の政治的対立の結果、ようやく復活の兆しをみせてきたホッキョ ククジラ捕鯨の中断を余儀なくされるとするならば、それはユピットとチュクチにとっては甚だ 迷惑なことである。日米捕鯨対立をチュコト半島に飛び火させてはならない。 4. おわりに 本稿においてはアラスカ、チュコトカにおけるホッキョククジラ捕鯨、コククジラ捕鯨のもつ 意義を概観してきた。 アラスカのイヌピアット、ユピットにおいては年間の活動がホッキョククジラの捕獲、分配お よびそれに伴う儀礼などホッキョククジラ捕鯨を軸にして展開されており、ホッキョククジラの もつ文化的重要性はきわめて高いことが理解しえた。 一方、チュコトカのチュクチにとってはソ連邦崩壊以降、コククジラが特に食料資源としての 重要性が増大しており、またユピットにとってはホッキョククジラ捕鯨が伝統文化の復興に特に 重要となってきている。 アラスカ、チュコトカのいずれの地域においても、またイヌピアット、ユピット、チュクチの いずれの民族集団においても、ホッキョククジラもしくはコククジラが、文化的、栄養学的にそ れぞれ重要性の違いはあるにしても必要不可欠な資源となっていることは明らかである。2003 年 以降も、ベーリング海峡を挟んだ両側でホッキョククジラ捕鯨が平穏時に継続されることを期待 して本稿を終えたい。 注 (1) 筆者は第 54 回国際捕鯨委員会年次会議の先住民生存捕鯨作業部会ほかにセント・ヴィンセン トおよびグレナディーン諸島国政府代表団の一員として参加した。 (2) IWC, “Final Press Release” (http://www.iwcoffice.org/2002PressRelease.htm). (3) IWC, “Final Press Release” (http://www.iwcoffice.org/2002PressRelease.htm). (4) IWC, “Final Press Release 2002SM” (http://www.iwcoffice.org/Final%20Press%20Release%202002SM.htm). ‐ 9 ‐ 文献 Bockstoce, John R. (1980) Battle of Bowheads. Natural History 89(5):52‐61. Bogoslovskaya, L.S., L.M. Votrogov and I.I. Krupnik (1982) The Bowhead Whale off Chukotka: Migrations and Aboriginal Whaling. Report of the International Whaling Commission 32:391‐399. Braund, Stephan R. and Associates (1997) Quantification of Subsistence and Cultural Need for Bowhead Whale by Alaskan Eskimos: 1997 Update Based on 1997 Alaska Department of Labor Data. IWC/54/AS1. 15p. Freeman, Milton M.R., Lyudmila Bogoslovskaya, Richard A. Caulfield, Ingmar Egede, Igor I. Krupnik and Marc G. Stevenson (1998) Inuit, Whaling, and Sustainability. AltaMira Press: Walnut Creek, CA. Gambell, Ray (1983) Bowhead Whales and Alaskan Eskimos: A Problem of Survival. Polar Records 21:467‐473. Ivashin, M. V. and V. N. 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