日本の原発と原発反対運動の歴史社会学的考察 小熊英二 1、はじめに

日本の原発と原発反対運動の歴史社会学的考察
小熊英二
1、はじめに
二〇一一年三月の震災と原発事故を機会に、日本における原発の社会的位置が注目され
ている。ここでは、日本における原発と原発反対運動について、歴史的・社会的に考察し
ていきたい。
結論からいうと、日本の原発は一九六〇年代から八〇年代、まさに日本が「ジャパン・
アズ・ナンバーワン」とよばれた時代に築かれた社会構造の縮図である。原発を考えるこ
とは、それを再考することにほかならない。
2、工業化社会と原発
日本の原発は一九六〇年代から九七年までが建設のピークだった。日本のさまざまな経
済指標は九〇年代後半がピークである。小売販売額や出版物売上は九六年、国内貨物総輸
送量や国内新車販売台数は二〇〇〇年がピークだった。この動向は「クール・ジャパン」
も例外ではなく、日本最大のマンガ雑誌である『週刊少年ジャンプ』の発行部数も、一九
九五年に六五三万部を記録したが、二〇〇八年には二七八万部となっている。
さらにこのことは、日本における格差拡大と貧困増加とも結びついている。デフレが続
き、九五年から消費者物価は下落傾向であり、大卒初任給は九五年から現在までほとんど
上昇していない。ただし非正規労働者が増加したため、日本の雇用者の平均賃金は、この
二〇年で約五二〇万円から約四六〇万円に低下している。このことは、大卒正規労働者と、
それ以外の層との格差が増大していることを示している。生活保護受給者数は、九五年に
最低の八八万人を記録したが、二〇一一年には二〇〇万人をこえた。
こうした状況は、現在の日本が、
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とよばれた時代とは
変化していることを示している。ここではそれを、
「工業化社会からポススト工業化社会へ」
という視点から整理したい。
日本はいつからいつまでが工業化社会だったのだろうか。日本で製造業の就業人口が農
林水産業を抜くのが一九六五年。サービス業の就業人口が製造業を抜くのが一九九四年で
ある。もちろん日本の製造業はいまでも強大であるが、一九六五年から一九九四年が、日
本が製造業中心の社会だった時代といえる。その時代が、日本の原発建設のピークでもあ
った。
アメリカではどうだろうか。アメリカの製造業就業人口は過去三〇年間で約五百万人減
少し、労働力シェアでは七九年の二〇パーセントから一一パーセントに低下した。七〇年
代の二度の石油ショックを契機に、製造業の衰退がおきたのが原因である。そしてアメリ
カにおける原発建設は、一九七〇年代半ば以降は低迷し、一九七九年のスリーマイル事故
でそれが決定的になった。
日本とアメリカでは、時期はずれているが、原発建設のピークは工業化社会の時代だっ
た。大規模投資を要する巨大プラントである原発は、工業化社会の象徴である。
しかし日本とアメリカでは、工業化社会の時期だけでなく、そのあり方が異なった。そ
れは同時に、原発反対運動のあり方の相違にもつながってくる。一言で相違をいえば、日
本では経済にたいする政府の関与がずっと大きい。原発に対してもそれがいえる。
3、日本における原発推進体制
日本は政府主導の開発政策で工業発展した、アジアの国である。政治的な自由と民主主
義が限定された時代が長く続き、産業政策も「富国強兵」をスローガンに行われた。
日本の原発を語るには、まず戦争の歴史から始めねばならない。一九三〇年代に戦争体
制が整備されるなかで、軍需産業への電力供給を安定させるため、電力の統制が行われた。
それまでは電力会社は自由競争で乱立し、発電も送電も安定していなかった。一九三九年、
送電網を独占する国策会社の日本発送電株式会社が発足し、一九四二年には全国に一五二
社あった電力会社が九社に統合され、各地域を独占的に分担した。日本発送電は戦後に解
体されたが、電力九社に送電施設は分割所有され、地域独占体制は残った。現在まで続く
日本の電力会社独占体制は、ここから始まっている。
この電力統制は、国有会社化ではなく、
「国策民営」として行われた。ときに誤解される
ことがあるが、日本政府は公務員数からいっても、政府支出の GDP に占める比率からいっ
ても、先進国のなかではむしろ小さい。日本政府の強さは、指導権の強さである。民営会
社に事業を担わせることで政府の支出を減らしながら、指導によって民営会社を操ること
が日本の産業政策の基本である。
たとえば日本では放送事業は免許制であるため、民間テレビ局も政府の免許取り消しを
恐れるため、政府批判は行いにくい。そのかわり、テレビ局の側は、新規参入業者を政府
に制限してもらうメリットをもつ。
日本の電力業界も、政府の意向に逆らえないかわりに、地域独占を認めてもらい、電力
料金を自由に上げられるメリットを享受する。日本の電気料金は、政府が決めた電気事業
法によって、発電コストに4パーセントをかけて決定される。電力会社は、高額な発電所
を建ててコストをかけたほうが、利益が上昇する。原発は建設コストが高いため、電力会
社にとってメリットがある。地域独占であるため、消費者は近年まで、高くとも他の電力
供給者から電力を買うことができなかった。
原発の建設は政府の認可制である。原発を含む発電所の建設は、政府の長期エネルギー
需給見通しと、原子力開発利用長期計画(二〇〇五年から原子力政策大綱に名称変更)で
決定される。これは通産大臣(二〇〇〇年から経産大臣)の諮問機関が答申するもので、
国会審議を経ずに閣議決定される。この計画にもとづいて、政府が各種の補助金や社会基
盤整備を提供し、電力会社が事業を推進する。フランスやロシアのように国営公社が原発
を作るのでもなく、アメリカのように民間会社が一定の決定権をもつのでもない、
「国策民
営」の推進体制である。
この体制の特徴は、一九六一年の原子力損害賠償法にも表れている。原発事故がおきた
場合、電力会社が拠出した保険金から賠償が支払われるが、現在その限度額は 1200 億円に
すぎない。福島第一原発事故の被害総額は、少なくとも数兆円以上にのぼるといわれる。
原子力損害賠償法は、賠償限度額をこえた事故がおきた場合、政府は必要な援助を行うこ
とが「できる」と記載しているのみである。電力会社は政府が援助してくれることを期待
しているが、政府は責任を負うことを保証しているわけではない。このため、福島第一原
発事故以前は、深刻な事故がおきる可能性を検討することそのものがタブーとされていた。
それを検討すれば推進できない体制だからである。
ちなみにアメリカも「国策民営」であるが、一九五七年には、民間補償をこえた金額は
すべて政府が負担する法律を制定している。電力会社への政府の指導力が日本にくらべて
弱いため、電力会社はコストとリスクを度外視して原発を建設しないからである。
4、地方振興策としての原発
日本で初の原発が運転開始したのは一九五七年である。この時期から一〇年ほどは、原
子力にたいして「夢のエネルギー」という期待は強かった。原発は工業化社会のシンボル
だった。
アイゼンハワー大統領が一九五三年に宣言した「核の平和利用 Atom for Peaces」の声
のもと、日本語では「原子力発電所」Atomic Power Plant は、「核」Nuclear の語を含ま
ずに使い分けられた。与党の自民党も、野党の社会党も、ほかの争点では激しく対立した
が、原発を作って経済を発展させることには異論はなかった。
日本政府には、核武装の意図もあったらしい。一九五〇年代から六〇年代の首相は、核
武装に意欲的な発言を残しており、とくに一九六四年に中国が核実験に成功してからはそ
の傾向が強まった。プルトニウムを抽出できる再処理計画と、ロケット技術を中心とする
宇宙開発の推進が、この時期に政府によって決められている。
しかし一九六八年、米ソの妥協によって NPT 体制が発足し、日本はそれへの加入を迫ら
れた。日本は一九七〇年には NPT に署名したが、一九六九年の外務省文書は「当面核兵器
は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」
とうたっており、一九七六年までは NPT は議会で批准されなかった。批准後も、日本はア
メリカ政府の圧力にもかかわらずプルトニウム抽出をやめていない。こうした核開発政策
と、原発推進との関係は、いまだに謎に包まれている。一般に対しては、核兵器開発の意
図は隠蔽され、豊かさをもたらす新時代のエネルギーというイメージが作り出された。
しかしこうした事情は、しだいに変化する。当初は都市部に原発を作るという構想もあ
ったが、1960 年の秘密試算で、重大事故がおきれば周囲が永久立ち退きになり、国家予算
の半分以上が吹き飛ぶという結果が出た。そのため原子力損害賠償法が作られる一方、原
発は過疎地にしか作れなくなった。
やがて一九六〇年代の高度経済成長で、環境汚染がひどくなり、一九六〇年代後半から
各地で公害反対運動がおきた。原発もしだいに環境への害が知られるようになり、一九六
九年の総理府調査では、原発建設地域に指定されたら反対するという意見が多数を占める
ようになった。それ以前に決定していた立地地点では原発建設が進み、一九七〇年には日
本初の商業用原発が運転を開始し、一九七一年には福島第一原発も運転開始する。しかし
一九七二年には、社会党が原発反対に転じ、各地の反対運動を支援し始めた。
そこにおきたのが、一九七三年の石油ショックだった。石油の安定供給に不安を抱いた
日本政府は、原子力を推進する方針を決める。しかし立地地域の反対運動は根強いものが
あった。
時の首相は、田中角栄だった。小学校しか出ていない田中は、豪雪で知られる北部日本
の新潟県の山中の出身だった。そこは高度経済成長で、若者が都会に急速に流出していた
過疎地だった。彼の願いは、出身地のような過疎地を豊かにすることだった。
田中は石油ショック前から、
「日本列島改造論」を唱えていた。その趣旨は、日本各地に
高速道路と新幹線をめぐらせ、過疎地と都会を結ぶ一方、整備された交通網を活かして工
場を誘致し、地方に産業を興そうというものだった。
田中がとくに重視したのは、道路建設だった。一九五三年、田中はガソリンに税をかけ、
それを道路建設の特定財源にする制度を議員立法した。一九七〇年には、田中は自動車重
量税を新設し、これも道路特定財源とした。この制度では、自動車取得者は、取得時と2
年ごとの定期検査時に、政府の指定工場で検査をうけ、政府の安全基準に沿った自動車で
あることを証明してもらい、重量税を支払う。自動車を買い、乗り続け、ガソリンを購入
すれば、道路建設の財源は永久に確保されるシステムである。全国の道路建設は、発電所
建設と同様に、政府が五カ年計画を国会審議なしで閣議決定し、必要な予算を建設業者に
配分する。
田中が原発にたいしてとった政策も、道路と同型だった。彼は反対運動をなだめて原発
推進をなしとげるために、電気料金から税金をとり、それを立地地域に投下する法律を作
った。その税金は都会や工業地域の電力消費地から徴収され、原発が建つ過疎地に回され
る。電力を使えば使うほど、原発建設の補助金が確保されるシステムである。田中はこう
した原発補助金制度について、
「東京に作れないものを作る。作ってどんどん東京からカネ
を送らせるんだ」と述べていたという。
田中の作った制度によって、地方には道路がつぎつぎと建設され、建設業が農林水産業
にかわって地方の主力産業になった。現在では建設業の就労人口は農林水産業の二・五倍
にのぼっており、二〇〇〇年前後には労働人口の一一パーセントを占めていた。原発立地
自治体への補助金は、その地に多くの公共建築物を建てることを可能にし、豪奢な建設物
が地域住民に利益を実感させると同時に、建設業者をうるおした。田中をはじめとした自
民党の政治家は、建設業者を選挙のさいの実働部隊とした。
さらに電力会社は、立地自治体に多額の寄付を行ない、老人医療や教育などへの資金提
供を約束した。寄付金は建設コストとみなされるので、寄付金を出せば出すほど利益率が
上昇し、電力料金は値上げができた。
この日本独特の制度は、反対運動を沈静させるのに効果があった。原発立地地域では、
原発をうけいれれば多額の補助金でうるおい、建設ブームで仕事が増えた。反対住民は沈
黙させられ、公聴会も名目的なものだった。
福島第一原発が建っていた東北地方は、明治政府に反抗した江戸幕府支持派の牙城だっ
た。日本の近代化において、東北はつねに発展から取り残された地域だった。戦後におい
ても、東北が担った役割は、労働力と食料と電力の供給地だったといって過言ではない。
高度経済成長期以降、大量の若者が東京などの工場地帯に出て行った。主要な農産物で
あるコメは供給過剰になり、一九七〇年からは政府の命令で、補助金とひきかえの生産調
整が始まった。
一九六〇年代に急成長した日本の自動車産業や電気産業は、労働力不足に対応するべく、
東北をはじめとした過疎地に工場を建てた。しかし東北に作られたのは、零細な部品工場
も少なくなかった。典型的な零細工場の例では、都市の工場に働きに出て技術を覚えた人
が、地元の村で従業員数人の部品工場を作り、大企業に納入した。働いたのはおもに子育
てを終えた農家の中年婦人の、非正規雇用労働者だった。時給は政府の最低賃金基準ぎり
ぎりのことも多いが、農村には他の収入源は限られている。
政府は田中内閣以前から、道路や港湾を整備して工業地帯を作ろうとした。しかしその
ほとんどは成功しなかった。現在、使用済み核燃料処理施設がある青森県六ヶ所村は、一
九六九年の大規模工業団地誘致計画が失敗したあと、工場がこなかった跡地に建設された
ものである。
やがて東北をはじめ日本の地方は、政府の補助金に頼るようになった。生産調整にあっ
たコメの補助金や、そして道路建設などの公共投資による建設業がそれである。こうした
状態は、一九六〇年代から始まっていたが、田中内閣のもと一九七〇年代前半にはそれが
大規模化した。そうした補助金を得る一つの手段として、原発誘致があったのである。
5、日本型工業化社会
原発の日本における社会的位置を説明するには、一九七〇年代以降に成立した日本型工
業化社会の全体像について述べなければならない。
一九七〇年代前半に、政府の補助に頼るようになっていったのは、地方だけではなかっ
た。当時は、高度成長にとりのこされた中小企業や自営業、都市部に出てきた労働者、公
害に悩まされる工業地帯や都市の住民、とくに女性と高齢者などに不満がたまっていた。
それらが得票源となって、一九七二年の選挙では、共産党が大幅に議席を増やす。都市部
には社会党と共産党の支援をうけた知事が多数当選し、一時は東京をはじめ大都市の多く
がその傘下に入った。
六〇年代の高度成長によって、日本は急激に工業化社会に変貌した。農村型政党の自民
党は、一貫して得票率を低下させていた。自民党は、こうした状況に対応しなければ、都
市労働者を基盤にした社会党や共産党に、政権をおびやかされることを恐れていた。
危機感を抱いた自民党は、田中角栄を座長とした調査会をつくって都市政策にとりくみ、
公害対策や都市環境整備にのりだす。首相となった田中のもとで、福祉予算は大幅に増や
され、地方への公共事業が増大する。ほぼ同時に中小企業や自営業を保護するため、官庁
指導下の業界保護のしくみや、大規模店舗の出店を規制する大店法(大規模小売店舗立地
法)が作られた。大店法は、地元商店などによって構成される商工会議の合意がない限り、
大型小売店が出展できない法律である。
これらはいわば、高度成長の恩恵からとりのこされ、工業化社会のなかで周辺化された
地域と人びとを、自民党につなぎとめる措置だった。こうした措置によって自民党は支持
を回復した。
原発への補助金は、こうした政策の一環だった。原発は一九六〇年代までは、輝かしい
工業化社会のシンボルだった。しかし高度成長が石油ショックで終わった一九七三年以降
は、原発は工業化社会の中心部から周辺部に、パイを配分する制度に変貌していく。
反面こうした政策は、必然的に、財政赤字をもたらすものだった。しかし当時は高齢化
が進んでおらず、社会保障支出もそれほどではなかった。また経済成長が続いているかぎ
りは税収があがるので、財政赤字の問題も現在ほど深刻ではなかった。
石油ショックで高度成長は終わり、一九六〇年から七三年の経済成長率が平均一〇パー
セントほどだったのにたいし、一九七四年から九一年までは平均四パーセントほどになっ
た。それでも一九七三年と七九年の石油ショックによって、アメリカと西欧の経済が極度
に停滞したのにたいし、日本は経済成長をつづけ、失業率も低いままだった。高度成長が
終わって内需が縮小したため、日本の製造業は輸出攻勢に転じた。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とよばれたのは、この時期のことだった。それでは、
なぜ日本はそれが可能だったのか。ごく簡略に私の考えを述べる。
アメリカや西欧は、石油ショック後に製造業の衰退にみまわれた。OECD 諸国は、一九七
九年から一九九三年までに、平均して製造業雇用の二二パーセントが失われ、サービス業
への移転がおきている。
石油価格と賃金の上昇によって、先進諸国の製造業は途上国に出ていった。またオート
メーション技術の発達で製造業の人員が不要になった。それによって失業が増大し、長期
安定雇用から短期非正規雇用への切り替えが増える。そして男性正規労働者を中核とする
中産層が減少して、男性の賃金が下がったため女性の労働力率が上昇し、離婚率が上昇す
る。これらが工業化社会からポスト工業化社会への移行とよばれる現象である。
ところが日本では、製造業の就業人口が減少に転じたのは、一九九二年からだった。こ
れはアメリカの推移とくらべると二〇~三〇年遅れている。
こうみると、日本が後発国だったから、製造業の衰退が遅れたのだ、という見方もでき
そうである。実際に、一九八四年のアメリカの対日貿易赤字の四分の一が、在日アメリカ企業の
輸出と、アメリカ企業の発注による部品/OEM 契約の輸出だった。つまり当時の日本は、今日の
中国のように、アメリカの製造業の移動先でもあったわけである。
また冷戦が日本に好作用した。中国は東側陣営だったし、アジアの西側諸国は冷戦体制
特有の親米独裁政権で、政情も不安定で教育程度もまだ低く、工場の移転先に適さなかっ
た。またレーガン政権下の「新冷戦」のもと、ドル高円安が続いたため、日本企業はあえ
てアジアに進出する動機に欠けた。
しかし日本国内の社会構造要因が、最大のものだった。石油ショックに直面した日本企
業は、いちはやくオートメーション化を進め、石油コストと人員コストの削減に成功した。
「ハイテクの国日本」のイメージはこの時期に作られ、日本の製造業の生産性は他国を圧
倒した。それで失業が増加しなかったのはどうしてかといえば、女性・地方・中小企業と
いった、日本社会の弱い環が負担をひきうけたからだった。
日本企業が優先的に削減したのは、女性社員だった。結婚退職や出産退職を奨励された
女性たちは、男性労働者の妻になった。日米の女性労働力率は、一九六〇年代まで日本の
ほうが高かったが、七〇年代に逆転する。日本では、一九七五年が専業主婦率のピークだ
った。しかし主婦になった女性は、失業者にカウントされない。子育てが終わると、女性
たちは時給2~3ドルの非正規労働者として、製造業やサービス業で日本経済を支えた。
なかでも地方の女性の製造業労働が、日本を支えた。一九六〇年代から作られていた東
北などの中小の下請工場で、夫が農業や建設業に就いている既婚女性が、時給数ドルで働
いた。賃金は安くとも、失業者ではない。トヨタのカンバン方式をはじめ、日本の製造業
の合理化は、下請け中小企業に厳しい負担を負わせることで成立した。
こうした状況があったにもかかわらず、問題が露呈しなかった要因は三つあった。一つ
は大企業の景気と雇用が安定していたことだった。大企業が安定していれば、下請け企業
にも恩恵がおよぶ。そして大企業の男性正社員の雇用と賃金が安定していれば、妻が専業
主婦だったり、低賃金労働者だったとしても、問題はないとみなされた。
第二は日本社会が若かったことだった。製造業は男性正社員を製造部門から販売部門へ
配置転換することなどによって、製造部門からの削減と雇用維持を両立させた。日本の労
働組合は職種別組合ではなく企業内組合だったため、ヨーロッパ諸国やアメリカと違い、
配置転換に協力した。それでも遊休人員はあったが、労働者が平均的に若かったため賃金
が低く、問題が露呈しなかった。高齢化が進むと、人員を削減するか年功賃金をやめるか
しなくてはならなくなり、そうなると女性の低賃金状態を支えられなくなるのだが、それ
は一九九〇年代以降のこととなる。
第三は田中政権いらいの補助政策だった。地方の低賃金地帯には公共事業で建設業の仕
事が配分され、中小企業には大店法その他の保護があった。もっとも貧困な地帯には、原
発がやってきた。福祉予算は一九八〇年代には抑制にむかうが、老人を家庭内で女性に介
護させる見返りとして、専業主婦の優遇税制と優遇年金制度が一九八五年に導入された。
それでも大企業の景気がよく経済成長が続くなら、税収もあがって財政赤字は深刻ではな
く、大企業男性正社員の雇用が維持されれば、専業主婦が老人介護に専念してくれるはず
だった。
こうして一九六〇年代から八〇年代にかけて、
「日本型工業化社会」が築かれた。結果か
らみれば、この時期が日本の原発建設のピークだった。しかし一九九〇年代に入ると、こ
の社会構造は前提を失い、機能不全に陥っていく。
6、機能不全に陥った「日本型工業化社会」
まず前提が変わったのは、国際条件だった。ドル高政策と冷戦の終焉によって、日本の
製造業は政情が安定してきた韓国・中国・東南アジアなどに続々と移転した。それでも九
〇年前後のバブル景気の時期は、国内需要で製造業も好況が続き、就業人口は九二年まで
伸びていた。しかしバブル崩壊とともに、製造業はコスト削減のため海外移転を促進し、
一九九二年から二〇〇九年までに製造業の就業人口は三二パーセント減少した。
ポスト工業化社会への移行がおこり、景気が低迷すると、八〇年代には隠れていた問題
が連鎖的に露呈し始めた。男性正社員の雇用が維持できなくなり、人員削減と年功賃金の
見直しが始まる。さらに採用抑制で、若者の場合は正社員になれる比率が減った。
そうなると女性は働きに出ざるをえなくなり、女性労働力率は上昇した。しかし一部の
若い高学歴女性をのぞけば、大半は非正規雇用だった。不安な男性と疲れた女性のあいだ
でトラブルが起こり、家庭の崩壊が議論されるようになる。
また一九八〇年代後半からのアメリカの市場開放要求によって、一連の規制や補助政策
が撤廃されていった。大店法は一九九一年に改正され、二〇〇〇年に廃止された。一九九
一年から二〇〇七年までに、小売店の数は三分の二に減った。しかも化粧品や医薬品など
の販売価格の自由化や、輸入規制の撤廃で、大手チェーンの小売店が安い中国製品などを
売ることが増えた。高い国産品を売っている古い自営小売店は続々とつぶれ、地方の商店
街は「シャッター街」とよばれるまでになった。
冷戦終結とともに日本の景気後退が始まり、地方経済が疲弊した。政府は公共投資を増
大させ、一九九八年にはピークに達し、建設業は就労人口の一一パーセントに達した。し
かし財政赤字に耐えかねた日本政府は、二〇〇〇年代には公共事業削減に転じ、関連予算
は最盛期の半分に低下した。
この状態を招いた一因は、皮肉にもアメリカの要求だった。対日貿易赤字に悩んだアメ
リカ政府は、日本に市場開放と自由化を要求する一方、公共事業を増やして内需を拡大す
ることを要求した。その結果、対米公約というかたちで、一九九一年度から一〇年間で総
額四三〇兆円という公共投資基本計画が策定されたのである。この計画はやがて目的が景
気対策に変わったが、二〇〇二年には延長計画が廃止された。
西欧では賃金が年功によって上昇しないかわりに、大学教育が無償だったり住宅補助が
あったりする。日本はそれらがない代わりに、正社員であれば年功で賃金があがり、家族
にお金がかかる年齢になると高収入になるようになっていた。しかし若者が正社員になれ
ず、なっても終身雇用や年功賃金制度が廃止されるとなると、こうした前提が崩れる。現
在、日本の子供が大学を出るまでに安くとも一人三〇〇〇万円、高ければ六〇〇〇万円か
かるといわれ、三人子供を生んだら破産するといわれている。
結婚できず、子供を作れず、親の自宅や賃貸住宅に住み続ける三〇代男女が増え続け、
晩婚化と少子化が進んでいる。低収入層が子供を進学させられず、貧困の再生産に陥りつ
つある傾向も出始めた。
高齢化が進み、社会保障費がかさんでいる。二〇一一年度当初予算の三四パーセントが
社会保障費、三七パーセントが国債の返還費で、国債が予算源の半分以上だった。
日本の社会保障制度は、一九六〇年代から七〇年代前半に基本ができた。現在の問題は
高齢者医療と年金の費用が七割以上で、中年以下の失業者や母子家庭などに回っていない
ことである。中年以下は働ける、雇用はある、という前提の制度だった。
雇用はあるにはあるが、正社員が減って低賃金の非正規雇用が増えている。中年の子供
たちが、戸籍上は一〇〇歳をこえる親が死んだことを隠して年金をうけとっていた事件は、
二〇一〇年にニュースとなった。
また高齢者年金も、正規雇用を前提とした厚生年金は手厚いが、自営業や非正規雇用の
基礎年金は月額六万円にすぎず、高齢貧困者も増えている。生活保護は一九九五年以後は
急激に上昇に転じているが、若年・中年者はなかなか適用されないため、高齢者とくに単
身高齢者が受給世帯の半数をこえている。二〇一一年には、OECD 基準の相対的貧困ライン
以下の人口は一六パーセントをこえ、アメリカについで高くなった。
大企業が景気悪化で中国などに工場を移転したため、下請け工場は苦境におちいってい
る。今回の津波で壊滅したある東北の町の零細工場では、時給三〇〇円で農村女性たちが
電気部品を作っていた。納入先がペルーの工場に部品を発注するから契約を打ち切る、と
言ってきたのを引き止めるため、時給を切り下げたのである。法定最低賃金以下だが、雇
用がない地方なので、監督署に告発することもできない。
この工場の経営者は、土建業を営んでもいて、自民党の支持者だった。しかし公共投資
を削減した自民党政権は支持基盤を失い、おりからのリーマンショックによる景気後退も
あいまって、二〇〇九年には民主党に政権が交代した。
地方には仕事がないので、都市への集中が進んでいる。地方といっても、県庁所在地に
人口の半分以上が集まっている県は少なくない。さらにそこから東京への集中が進んでい
る。
一九八九年に行なわれた、北海道の県庁所在地である札幌市の公営住宅のある調査は、
すでに二〇年前に、こうした状況が何をもたらしていたかを示している。地方で仕事のな
くなった女性たちが公営住宅に集まっていたが、人生経歴はほとんど似通っていた。実家
の貧困・自身の低学歴・親族関係の希薄・都会への流出・不安定就業・おなじ境遇の男性
との結婚と出産・夫のギャンブルと借金・家庭内暴力と離婚・転職と転居をくりかえして
公営住宅にたどりつく、というパターンである。母子家庭の場合、生活が不規則になり、
子供が不登校になるケースも多く見られた。
ここで注目すべきなのは、この地域の貧困母子家庭が、表面上は必ずしも貧困にみえな
かったことだった。その公営住宅は、公共投資で建設された、コンクリート製のビルが並
ぶ近代的な計画団地だった。人並み以上に新しい家電製品や衣類を買い、マンガ本が狭い
住居あふれている例も少なくなかった。しかしこれらの女性たちは日々の低賃金労働に追
われ、病気や神経失調にかかる例が多く、食事はインスタント食品が大半だった。家電製
品などの買い物やマンガ本に走るのは、未来のみえない不安定な生活のストレスと社会的
な劣等感からで、その支払いのローンで苦しんでいるケースが多いとされている。こうし
た現象は、一九八九年には地方都市の例外的区域だけの問題だと考えられていたが、いま
では無視できないものになった。
今回の被災地は、二〇三〇年までに人口が二割から三割減ると予測されていた、過疎化
と高齢化が進む地域で、津波の犠牲者の多くは高齢者だった。大きな産業はなく、最大の
工業都市の釜石市でも、一九八九年から製鉄は行なっておらず、外部から移入した鉄を高
品位の線材に加工しており、雇用は最盛期の数パーセントである。高齢者福祉の負担もあ
り、自治体の多くは大きな財政赤字を抱えている。二〇〇〇年代からは公共事業も削減に
転じ、地方の衰退はますます深まった。そうしたなかで、原発を受け入れた町だけが、補
助金でうるおっていたのだった。
7、ポスト工業化社会での原発
原発の建設は、一九九七年までで増加が止まった。一九九九年の JCO 事故や二〇〇二年
の事故隠蔽工作発覚などがあいつぎ批判を招いたこと、国際的に原発の安全性が問われ建
設コストが上昇していったことなどが影響している。しかしもっとも大きな理由は、日本
経済そのものがこの時期をピークに縮小に転じ、省エネルギー技術の発達もあいまって、
電力需要が伸びなくなったことだった。
製造業の海外移転や、小売店の減少や合理化は、九二年からおこっていた。しかし九〇
年代半ばまでは、その縮小の傾向がまだ大きくなかったことと、公共事業が需要をカバー
していたことで、それほど目立たなかった。しかし九七年のアジア通貨危機の時期に、日
本でもおきた金融危機を境目として、多くの経済指標が減少に転じていった。電力需要と
発電所建設も、その例外ではなかったといえる。
プルトニウムの過剰蓄積を批判されている日本は、一九九三年の日米交渉で、余剰蓄積
を持たないことを国際公約とした。しかし一九九五年、プルトニウムを燃料にする高速増
殖炉「もんじゅ」が事故をおこした。事故の深刻さは隠蔽されたが、その後に自治体職員
の立ち入り調査で明るみに出た。以後現在にいたるまで、一日五千万円に相当する修理維
持費を費やしながら、いまだに稼動していない。
おりしも一九九五年は、阪神大震災と薬害エイズ事件によって、行政の不透明さに批判
が高まっていた時期だった。これを機に、原子力行政も議事録などの情報公開と、批判派
をふくむ参考人招致を余儀なくされた。こうした流れは、一九九九年の情報公開法によっ
て加速された。
一九九〇年代後半から二〇〇〇年代前半にかけては、高い電気料金に不満をもつ経済界
と、経産省の改革派から、経済合理性のない高速増殖炉やプルトニウム抽出をやめ、電力
市場を自由化すべきだという動きが台頭した。一九八五年の通信事業自由化のあと、大幅
に通信料金が下がったことを踏まえての動きだった。
しかし電力業界は、企業など大口需要家への自由化のみを行なうことで経済界の不満を
沈静させた。また改革派の官僚は、旧来の方針と利権を守ろうとする勢力との抗争に敗れ
た。こうして二〇〇五年には、原発を大規模に増設する原子力政策大綱がまとめられた。
二〇〇〇年代前半は、公共事業の大幅な削減や、郵政民営化にみられるように、日本型
工業化社会の非効率性を、市場自由化によって打開しようという改革の動きがおきた時期
だった。原発についてもそれがおこったのだが、日本型工業化社会の構造を維持しようと
する守旧派が一時的に勝ったのである。二〇〇七年の中越地震のさいの柏崎原発事故など、
頻発していた事故は隠蔽され、地球温暖化対策に原発が役立つという宣伝もなされて、原
発推進は安定したようにみえた。
しかし原発産業の実態は苦しくなる一方だった。二〇〇八年のリーマンショック以降、
日本経済の低迷はますます著しくなり、それ以前から伸び悩んでいた電力需要は減少に転
じ、二〇〇七年度から二〇〇九年度に七パーセント減った。原発の運転開始から半世紀以
上たっても、安全性や廃棄物処理などの技術的な問題が解決せず、一九七〇年前後に建て
られた原発は老朽化し、新規建設による設備更新もままならないまま、あいつぐ事故で稼
働率は六〇パーセント台に低迷していた。
青森県六ヶ所村の使用済み核燃料再処理施設(プルトニウム抽出施設)は、プルトニウ
ムの過剰蓄積を持たないという国際公約が行なわれたのにもかかわらず、一九九三年から
建設が開始された。しかし当初予定の三倍ちかい二兆二千億円を費やしても技術的問題が
解決せず、いまだに試運転中にとどまっている。
日本は再処理と高速増殖炉による「核燃料サイクル計画」に一九六〇年代から固執して
きたため、使用済み核燃料の処分施設を作ってこなかった。このまま再処理が行き詰まれ
ば、また再処理ができてもプルトニウムを使う高速増殖炉が行き詰れば、日本の原子力政
策そのものが行き詰る。そのため、抽出したプルトニウムを通常の原発で燃料にするプル
サーマル計画が推進されたが、こちらも予定を大幅に遅れ、二〇一〇年一〇月から福島第
一原発で商業運転を開始した。
二〇〇九年、民主党に政権が交代したが、結果的には原発政策にほとんど影響をあたえ
なかった。やがて低迷する経済状況を打開することと、国内の原発建設が行き詰っている
ことのため、原発を政府支援で輸出産業にする方針がとられるようになり、工業化社会に
なりつつあるベトナムやタイ、インドへの交渉が進められた。
大口需要家の電力市場が自由化されたため、東京電力の販売電力量は大口が六割以上で
あるのに、利益は一割にすぎなかった。そのため大部分の利益は、独占が保たれている家
庭用電力販売から得ているといういびつな構造となっていた。東京電力は二〇〇〇年代後
半から、暖房や調理など、家庭のエネルギー利用をすべて電力にする「オール電化」のキ
ャンペーンを行なった。
この利益から、立地自治体に寄付金や補助金がばらまかれていた。建設のピークはすぎ
ていたが、公共事業の削減とともに地方の窮状は深まり、原発を増設したいという声は立
地自治体から多く出ていた。しかしひとたび何かのきっかけで、この構造が注目をあびれ
ば、批判が高まることは明らかだった。
そこにおきたのが二〇一一年の福島第一原発事故である。
8、原発反対運動の社会的基盤
日本の原発反対運動は、一九六〇年代後半から始まった。その担い手は、社会構造の歴
史的変化に応じて、いくつかの種類にわかれる。
第一の層は、原発立地地域の農業者と漁業者である。日本の原発は冷却水の必要から海
沿いに建てられるため、地権者の農民だけでなく、漁民の漁業権が問題になることが多い。
彼らが土地と漁業権を譲渡しない限り、原発は建てられない。
第二は、労働組合と社会党、そして知識人である。とくに立地地域の近隣にある地方都
市の労組、社会党員、弁護士、教員、学生、科学者などが、農民や漁民の運動を支援して
きた。この層は、もともと日本の労働運動や平和運動の担い手でもあった。
上記の二つは、日本社会が発展途上国の特徴を残していた時代の、いわば伝統的社会の
社会層である。運動の強さも伝統的社会にみあったもので、農民や労働者は共同体のつな
がりを基盤としており、学者や弁護士は知的権威を基盤としていた。七〇年代においては、
原発反対運動は水俣病訴訟や成田空港反対運動などと並列に語られがちだったが、それは
担い手の社会層が似通っていたためでもある。
日本の原発は、大部分は一九六〇年代までに選定された立地地点に建っている。いちど
原発をうけいれた自治体は、補助金を目当てに増設を要請しつづけた。もっとも貧困な県
である青森県では、一九八〇年代にプルトニウム抽出工場を受け入れさせるため、電力業
界は立地自治体だけでなく全県の市町村に寄付金を配布するシステムをつくりあげ、強力
だった反対運動を沈静化した。しかしこれは全国にはとうてい波及し得ないシステムであ
り、一九七〇年代以降に新規に建設立地を受け入れたところは少なかった。これはこの時
期の運動の大きな成果である。
運動を立地地域以外に広めるフレーミングとしては、日本の戦争体験にもとづく平和志
向や反核兵器、反資本主義、そして反自然破壊が有力だった。
七〇年代までの自然志向は、やや現代と異なる。日本は一九六五年まで農林水産業の就
業人口が製造業より多かった国であり、都市住民の多くも元農民だった。彼らにとって、
原発や空港の建設は、ブルドーザーが農村をふみつぶしていく光景に映った。それがたん
なる自然志向を超えた感情だったことは、
「ふるさとを守れ」というスローガンが多用され
たことにもみられる。
しかしこれら第一と第二の社会層は、八〇年代半ばまでは運動の主力だったが、現在で
は衰退している。第一の要因は、彼らの基盤だった伝統的社会が衰退したことである。農
業や漁業が衰退し、原発に頼る傾向が生まれた。労組の団結と組織率も下がり、知識人の
権威も衰えた。そこに第二の要因として、日本型工業化社会の利益誘導システムが働いた。
農民や漁民には補助金や寄付金による切り崩しが行なわれ、労組は石油ショック後の合理
化政策のなかで経済界と妥協し、雇用を守る代わりに政治活動を控えていった。
それに代わって、八〇年代後半以降の原発反対運動の担い手となったのは、第三の社会
層である都市部の主婦だった。比較的高学歴で、三〇代後半から四〇代前半の、育児を終
えた都市部の専業主婦である。八六年のチェルノブイリ原発事故のあと、この層が原発反
対運動の中心となった。彼女たちは時間と知識と体力があり、食品の安全性や放射能汚染
などに関心が高かった。
この現象を理解するには、一九七〇年代から八〇年代の日本では、男性の雇用と賃金が
安定していたことを述べなければならない。一九七〇年代以降のアメリカでは、男性の雇
用と賃金が不安定となり、専業主婦が劇的に減っていった。しかし前述したように、日本
の女性はこの時期が専業主婦率がもっとも高かった。郊外に住む白人中産階級の専業主婦
の空虚さを描いたベティ・フリーダンの著作は、アメリカでは一九六三年に出版されたが、
日本でよく読まれたのは七〇年代から八〇年代である。
運動を担った主婦たちは、高学歴であるにもかかわらず、性差別のためよい職に就くこ
とができず、あるいは出産・育児のため退職せざるをえなかった女性たちだった。しかも
彼女たちは、高学歴・高収入の夫と結婚して経済的余裕があり、子育てを終えて時間的に
も余裕があった。そしてまだ若く体力があり、しばしば六八年の学生運動の経験もあり、
自分にふさわしい自己実現の場を求めていた。
彼女たちは、まさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代の、日本型工業化社会の
構造のなかで登場した社会層だった。彼女たちは、豊かさの中で政治的関心を失っていた
学生や労働者に代わって、原発反対運動にかぎらず、この時代のさまざまな社会運動の担
い手となった。
彼女たちは、第一と第二の社会層のように、伝統的社会の価値観を身につけてはいなか
った。運動のスタイルも、共同体に依拠せず、権威を認めない水平的な個人のつながりで
あり、組織や方針の統一を重視しなかった。こうしたスタイルは、当時は「脱原発ニュー
ウェーブ」と形容されたが、アメリカなどの「新しい社会運動」と類似している。この時
代に主婦たちが行なっていた有機農産物の生協運動にならって、共同出資による風力発電
事業などが起業されたのも、従来にはなかったスタイルだった。
運動のフレーミングとしては、食品の安全や、有機農業者との提携など、自然環境志向
が打ち出された。この自然志向は、七〇年代のように、具体的な「ふるさと」を守るとい
うよりは、理念的な環境保護運動に近かった。
また彼女たちは、
「経済大国日本」が、アジア諸国の自然環境を破壊し、戦争の時代に行
なわれた武力侵略に代わって「経済侵略」を行なっている、というフレーミングも好んだ。
彼女たちの多くは、こうしたフレーミングと、女性としての共感ゆえに、従軍慰安婦問題
にも関心が高かった。
しかしこの層も、その後に活力を低下させた。チェルノブイリ原発事故の衝撃が薄れて
いったという理由もあるが、九〇年代以降のポスト工業化社会への移行のなかで、この層
は社会的基盤を失っていった。
現代の日本では、大部分の若年男性は、専業主婦を養う余裕も志向も失っている。若年
層では、中下層の女性は多くが非正規雇用に就いている。一方で上層部分においては性差
別はやや緩和され、高学歴女性が社会的に上昇できる可能性は増した。
そのため現代では、学歴と時間と経済的余裕のある専業主婦層は、八〇年代までに主婦
になった四〇代後半以上が中心となっている。この層にはいまでも活動的な人物が少なく
ないが、九〇年代以降は、高齢化とともに自分にとってより切実となっていった老人介護
問題や、従軍慰安婦問題に関心を移していった。一九九七年の介護保険法の成立には、こ
の層からの運動が影響している。もともとこの層にとっては、原発立地自治体の反対住民
とはちがって、原発問題は選択的なテーマだった。
9、現代の原発反対運動
二〇一一年の福島第一原発事故のあと、第四の層が台頭した。二〇〇〇年代以降に急増
した、三〇代を中心とする「自由」労働者たちである。
事故直後の四月、東京の高円寺でデモをよびかけたのは、非正規雇用の若年労働者の待
遇改善運動の周辺にいた、三〇歳前後の活動家たちだった。彼ら自身もその多くが、比較
的高学歴であるにもかかわらず、経済の低迷で正規雇用に就けなかった人びとだった。彼
らは社会経験と知識があり、それが欠落している学生よりもはるかに政治的関心が高い。
デモにあたって組織的動員はなく、ツイッターやフェイスブックで集まった一万五千人
の多くは、デモに初めて参加する二〇代から四〇代の男女だった。その社会層の公式調査
はないが、集まっている人びとの服装や髪型は、大手企業のビジネスマンのそれとはほど
遠い「自由」な傾向がある。非正規雇用労働者は、服装や労働時間において正規雇用労働
者より「自由」であり、こうしたデモに参加しやすい。
ただし正規雇用労働者も、二〇〇〇年代になって、新興業種ではフレックスタイムや服
装の自由化が進んでいる。また三〇代でも結婚していない、ないしは子供を生んでいない
女性が増えている。さらに子供を生んでいても、保育サービスの普及によって、退職して
専業主婦になる道を選ばない女性が増えた。全体に、デモに参加するだけの「自由」を得
た層が増大したのである。
日本型工業化社会の最盛期には、三〇代の男女の多くは、背広を着たビジネスマンか専
業主婦であり、主婦の一部が子育てを終えた時期に、社会運動をする余裕を持てるにすぎ
なかった。ところが二〇一一年には、ポスト工業化社会への以降によって出現した新しい
「自由」層が、原発反対運動に流入してきたのである。
さらに外国人の参加も、みられるようになってきた。単純に日本に在住している外国人
が増えたのが大きな理由である。前述の高円寺のデモを主催したグループのホームページ
では、呼びかけ文の英語・中国語・韓国語の翻訳がいちはやく掲載された。彼ら自身の語
学能力が前世代よりあがっているが、非正規雇用の現場で知りあった中国人や韓国人の友
人、アメリカ人の留学生などに訳してもらったという。
運動のフレーミングも、従来とは異なっている。八〇年代までは、原発反対運動は産業
社会の象徴である原発の否定であり、
「ふるさと」や有機農産物をそれに対置するといった
フレーミングが多かった。しかしこのフレーミングは、上記の層をひきつけていない。有
機農産物などは、非正規労働者にとってはぜいたく品であり、むしろ反発を示す。
非正規雇用労働者のデモ参加者たちが共感を示すのは、非正規で危険な労働をさせられ
ている原発労働者の境遇である。彼らにとって電力会社は、労働者を使い捨てにする一方、
ろくに働いていない正社員を厚遇し、独占によって既得権益を得ている、前時代の日本企
業の象徴である。そして電力市場自由化や、再生可能エネルギーの導入によって、原発を
廃絶することが主張される。
このようなフレーミングを理解するには、彼ら自身が、ポスト工業化と自由化の犠牲者
であると同時に、日本型工業化社会の守旧的姿勢の犠牲者であることを踏まえなくてはな
らない。彼らの多くは、それなりに有能であっても、経済の低迷で大学卒業時に正規雇用
されるチャンスを失っている。そして、新卒者しか正社員に雇用しない日本企業の慣行の
ために、非正規労働を余儀なくされている。
日本の大企業は、組織内においては日本型工業化社会の特徴である新卒一括採用・終身
雇用などを維持しつつ、組織の周辺部分において非正規雇用を増大させることで、ポスト
工業化に対応している。そのため彼らの怒りは、自由化そのものよりも、自由化の波を逃
れて日本型工業化社会の既得権を守っている守旧派にむかう。電力会社と原発は、その象
徴とみなされている。
そのため現代日本では、この層と、ネオリベラリズムを唱える新興エリート層が、連携
して原発を批判する動きがみられる。通信市場の自由化にともなって参入した新興企業で
あるソフトバンクの社長が、原発を批判して経団連を脱退し、太陽光発電事業に進出した
ことは、彼らの喝采をあびている。また公務員削減と自由競争を唱える大阪府知事も、電
力会社批判と脱原発をうたって支持された。反面、アメリカのウォール街占拠に呼応して、
ネオリベラリズムと新興富裕層批判を唱えて一〇月に行なわれたオキュパイ・トウキョウ
は、原発反対デモにくらべはるかに少ない人数しか集まらなかった。
また正規雇用のエリートのなかでも、ソフトバンクなど IT 系の新興企業では、服装や勤
務時間が自由な場合も多く、旧財閥系企業に代表される背広姿のビジネスマンとちがって、
文化的には非正規労働者たちと親和性が高い。この層は、経済自由化に積極的であると同
時に、高価な有機栽培食品などにも関心を示し、食品の放射能汚染にも関心がある。
彼らにフレーミングを構築する知識を提供しているのが、一九九八年の NPO 法や、一九
九九年の情報公開法などによって、日本でも育ちつつある NPO の知的専門家たちである。
一九九五年の阪神大震災によって、民間のボランティア活動が認知され、政府は NPO 法を
制定した。政府がみこんでいたのは、介護保険法などにともなって発生する膨大なニーズ
に応えるために、政府機関と提携する NPO の育成であった。しかしこれによって寄付税制
などが整えられ、従来は財政基盤を欠きがちだった市民団体が、専門知識を身につけたス
タッフを育成する余裕が生まれた。これによって、政府に批判的な政策提言をするグルー
プも発生し始めていたのである。
またこれら専門家たちは、非正規雇用層と、新興エリート層を橋渡しする機能も果たし
ている。NPO などに集まっている若手のスタッフは、高学歴かつ優秀な人材が多いが、し
ばしば日本型工業化社会の弊害を説き、また文化的にも「背広を着たビジネスマン」から
遠い傾向がある。その意味で、彼らは新興エリート層と親和性をもつ。一方で彼らは、新
卒採用のチャンスを逃しているか、中途退社しているため、日本の雇用慣行では、二度と
大企業の正社員に雇われる見込みのない人びとである。その意味で、彼らは非正規雇用層、
とくにそのなかの高学歴層と親和性を持つ。ポスト工業化社会への移行のなかで生まれた
「自由」層である点、そして日本型工業化社会の弊害に批判的である点において、これら
三つの社会層は一致している。
一方で、従来から原発反対運動を行なっていた第一から第三の層も、運動にふたたび回
帰してきた。三月から五月に東京で行なわれたデモは、これらの社会層の分化を示してい
た。よびかけグループがばらばらに行動していたため、その性格によって、参加する社会
層が異なる傾向がみられた。
たとえば、従来からの反原子力運動団体や、原水協などがよびかけたデモでは、六〇~
八〇年代から活動していた高齢者や組織労働者が集まり、原発反対のスローガンや労組名
などを書いた幟やプラカードを掲げて行なわれた。環境問題と有機食品普及を行なってい
たグループがよびかけたデモでは、中産層の家族連れがめだち、電力市場自由化を主張す
る専門家が集会で演説を行ない、土壌除染効果があるという菜の花を掲げて整然とデモが
行なわれた。一方、前述の非正規労働者たちがよびかけたデモでは、ロックミュージック
やラップとともに行進が行なわれ、デモ出発前のアピールでは「私たち貧乏人はしょっち
ゅう電気が止まっているから原発がなくても困らない」と述べられていた。
しかしその後、呼びかけグループの交流とともに、これらの社会層の混交が進んだ。二
〇一二年になってからの原発反対デモでは、上記の社会層が隊列ごとに分かれている傾向
はあるものの、共存が進んでいる。また地域に根ざした活動もおこっている。前述の高円
寺で二月に行なわれたデモでは、若者から高齢者まで幅広い地元住民が集まった会議で準
備が行なわれ、自治体とも協力して、小学校の校庭を集会地にしていた。
日本でも、ドイツの「緑の党」のような勢力が台頭するだろうか。比例代表制ではない
日本の選挙制度では、少数党の議会進出はドイツほど容易ではない。八〇年代の「脱原発
ニューウェーブ」が成果をあげないまま消えていったように、こんども同じ経過をたどる
だろうという意見もある。しかし現代の日本は、八〇年代のドイツと、社会条件が似通っ
てきた。
八〇年代のドイツでは、第二次石油ショック後の経済低迷で、製造業の衰退と雇用の不
安定化が激しくなっていた。そこへ中距離核ミサイルの配備や、チェルノブイリ原発事故
がおこり、近代産業社会が行きづまったという認識が広がった。緑の党が支持を集めたの
は、こうした社会背景による。それにたいし八〇年代に日本の原発反対運動の高揚が一時
的に終わった時期は、日本の原発産業がまだ上り坂だっただけでなく、日本型工業化社会
の最盛期で、ドイツとは社会条件も意識も異なっていた。
それを示す一例として、八六年にドイツでベストセラーになったウルリッヒ・ベックの
『リスク社会』の、読まれ方の相違が挙げられる。この本は、チェルノブイリ原発事故後
のドイツで食品の放射能リスクへの不安が高まったことを背景に、ポスト工業化社会への
移行のなかで、雇用・家族・教育など社会のあらゆる分野で不安定とリスクが高まってい
ることを書き、ドイツでは広範な共感をよんだ。
この本は日本でも、チェルノブイリ原発事故後のドイツでの環境保護運動の高まりを示
すものとして、八八年に翻訳出版された。しかしそのさい、雇用・家族・教育の不安定化
にかんする章は削除され、「リスク」という言葉が日本ではなじみがないとして、「危険社
会」という邦題がついた。このことは、日本型工業化社会の最盛期にあった当時の日本で
は、雇用や家族の不安定化や、
「リスク」という観念が、理解される社会的背景がなかった
ことを示している。しかし現代の日本では、まったく状況がちがっている。
現在の日本では、段階的な原発廃止を求める世論は、約七割にのぼっている。知識人の
あいだでは、従来から原発に批判的だった者ばかりでなく、経済自由化論者をはじめとし
た経済学者たちも原発に批判的な者が多くなった。
原発推進の姿勢を崩していないのは、官庁、政界、経団連、保守的なマスメディアとい
った、旧来の日本型工業化社会の中心だった部分の、やや年長の世代である。彼らのなか
には、原発を廃止することは、日本型工業化社会のなかで達成された豊かさを放棄するこ
とだ、と主張する者が少なくない。
これら政界と経済界の中枢部の動きにより、一時的にゆり戻しがあったとしても、中長
期的には原発は日本から消えていくだろう。これは社会構造の変化の必然である。問題は、
そうした避けられない転換のあいだに日本社会が支払う犠牲を最小限におさえること、そ
して政治の民主化と社会運動の活性化をはかることである。それは同時に、日本が「ジャ
パン・アズ・ナンバーワン」の時代へのノスタルジーを断ち切り、新しい時代へふみだす
ことができるか否かの、試金石にほかならない。