「産総研に残る陶磁器コレクションと近代陶磁の発展の歩み」(1358kb)

◎「産総研に残る陶磁器コレクションと近代陶磁の発展の歩み」
愛知県陶磁資料館 主任学芸員 佐藤一信
産総研、正式には、独立行政法人 産業技術総合研究所、
その中部センターに、2,373 件もの膨大な数の陶磁器が残さ
れていたことは、従来、一般にはほとんど知られてこなかっ
た。現在の産総研では、陶磁器(セラミックス)についての
研究はほとんど行われていない。新聞報道などで、産総研の
研究が話題に上ることはしばしばあるが、それは人工知能で
あったり、カーボンナノチューブのことであったりする。で
は何故、こうした陶磁器作品が、現在の産総研に残っている
のかというと、産総研の前身の、110 年程前にも遡るいくつ
かの試験機関において、
陶磁器に関する重要な研究を行って
いたからである。産総研に残る陶磁器は、それらの機関が行
った独創的かつ最先端の研究の成果を示す試作品と、デザイ
ンや技術改良の参考のために収集されたヨーロッパやアメ
リカ、中国など海外、そして国内の陶磁器をリアルタイムに
。
収集した参考収集品だったのである(写真 1・2)
写真 1
そして、もっと大所から、この産総研に残る陶磁器コレクション、あるいは各陶磁器試
験機関の活動を俯瞰すると、日本の近代陶磁の発展の歴史が見えてくるのである。
産総研につながる陶磁器研究機関の源流は、
1896 年(明治 29)に京都市によって設立さ
れた「京都市陶磁器試験所」である。同所は、
陶磁器(京焼)製作の振興に努めることが最
大の目的であり、製陶技術や機械設備の導入
支援、後継者育成などを行った。中でも独自
目標の試験、依頼による試験に応えることで、
原材料の分析、開発から新技術の応用までを
示し、京都の陶磁器製作の発展に大きく貢献
写真 2
した。
京都市陶磁器試験所は、その後、人材の育成などにますます成果を挙げてその重要性を
増したことから、1919 年(大正 8)に国立へと移管され、京都に留まらず広く全国の陶業
界を指導する陶磁器研究機関として、農商務省所管の「(国立)陶磁器試験所」へと生まれ
変わったのである。国立の陶磁器試験所となってからは、模範的指導のため、一層、研究
の成果を示す試作品の公開に重点が置かれ、積極的に試作がなされた。1952 年(昭和 27)
に陶磁器試験所は、機構改革の一環で、名古屋へと移り、機械試験所や東京工業試験所と
合併し、「名古屋工業技術試験所」となったのである。名古屋工業技術試験所(後に名古屋
工業技術研究所)は、2001 年(平成 13)に機構改革で産総研となるまで陶磁器に関する研
究を行ったのだった。
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そもそも、筆者が産総研の陶磁器コレクションに興味を持ったのは、あるいはそれを形
成した各時代の陶磁器試験所に興味を持ったのは、日本の近代陶磁発展に大きな足跡を残
したドイツ人化学者ゴットフリート・ワグネルの活動を追う過程のことだった。ワグネル
については、ここで改めて説明する必要はないだろう。ワグネルが日本陶磁の近代化に功
績のあったことは良く知られている。具体的には指導者を始めとした人材の育成、西洋の
製陶技術の導入、従来にない特徴をもつ釉下彩陶器「旭焼」の創出などである。
そのワグネルが 1888 年(明治 25)に東京で没した後、ワグネルの理念と実践は、どの
ようにどこへ引き継がれたのか、その解答のひとつが京都市陶磁器試験所に繋がっていた
のである。京都市陶磁器試験所の所長(後に場長)は、2 人ともワグネルの最も身近にいて
薫陶を受けた人物で、藤江永孝(ふじえながたか)
、植田豊橘(うえだとよきち)であった。
京都市陶磁器試験所の研究の記録からは、ワグネルが作った釉下彩陶器「旭焼」の成果を
京焼の改良や新たな陶磁器作りに生かそうとしていたことがうかがえる。無論、ワグネル
の試みだけでなく、陶磁器制作の近代化のための様々な研究や試作が同時に行われていた。
実は、この陶磁器に関する試験研究を行う機関を官設で設置すべきだと提唱したのも、
ワグネルが先駆であった。明治以降、日本陶磁の生産が主に海外へ向けて行われていなが
ら、輸出増大のために必須であった陶磁器の改良は一朝一夕ではならず、強力なライバル
であるドイツのベルリン窯(写真 3)、フラ
ンスのセーブル窯に伍していくためには、
個々の努力だけでは充分ではなく官設の試
験機関設置が急務だと主張したのである。
ワグネルの主張は生前叶うことはなかった
が、京都市が設立した陶磁器試験所にワグ
ネルの直弟子が所長として据えられたのは、
決して偶然ではないだろう。今後の日本陶
磁の発展を見据えワグネルが育てた人材が、
その学理と実践を生かしてすぐさま指導的
写真 3
立場で活動を始めたのである。
京都市陶磁器試験所は先に述べたように 1896 年(明治 29)の設立であり、所長に就任
した藤江永孝は弱冠 31 歳であった。ここに日本で最初の本格的な陶磁器に関する試験研究
機関が生まれたのである。日本の主たる窯業地、工芸の中心地である京都において、新設
された試験所の使命は、一大ブランド「京焼」の一層の発展に寄与することであった。そ
れには製陶技術の導入、言い換えれば化学的側面の改善と、デザインの改善・創出、言い
換えれば芸術的側面の改善の両方が必要であり、生前ワグネルが創り出した、当時最新の
技術と日本の伝統的画題を融合させた陶器「旭焼」の取り組みと重なる部分が大きかった。
京都市陶磁器試験所に遅れて、1900 年(明治 33)に農商務省(国)によって設立された
「東京工業試験所」と比較すれば、京都が原料分析から美術工芸的な陶磁器製作研究まで
を扱うのに対し、東京工業試験所は原料分析や化学的研究が主であったといわれる。
京都市陶磁器試験所は、輸出向け、内国向けのどちらにしても、デザインの刷新が重要
であるとして、その改良に取り組んだ。陶磁器のデザインとは、それが独立してあるわけ
ではなく、それを構成する素材や技術・技法と一体であり、当時、斬新かつ最新のデザイ
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ンをまとって流行していた西洋の陶磁器には、日本では用いられていなかった絵具や釉薬、
描法、成型法が用いられていた。各陶磁器試験所には、まず第一にその使用法や応用法の
研究、そして指導という役割が期待されたので
ある。無論、並行して図案意匠の改善指導も行
われた。(写真 4)。
一例を挙げれば、1900 年(明治 33)頃にヨ
ーロッパで盛り上がりを見せるアール・ヌーヴ
ォーと呼ばれる新しい芸術の傾向は、陶磁器分
野では、斬新な図案や形態と、釉下彩技法や結
晶釉、マット釉といった最新の描画・釉薬技法
が相乗的に効果を上げ、生み出されたデザイン
であった。
(写真 5)
写真 4
こうした西洋陶磁のデザインを学び、吸収し、
日本陶磁に新たな息吹を吹き込もうと、その先
陣を切ったのが 1900 年当時活動していた京都
市陶磁器試験所であった。残念ながら同所時代
の試作品はほとんど残っていないが、写真資料
などから、釉下彩技法やマジョリカ陶、マット
釉薬技法などを用いた新味ある試作を積極的
に行っていたことが知られている。これらは当
業者への改良の見本として提示されたのであった。
写真 5
こうした西洋からの製陶技術やデザインを
学んだ成果を生かし、ジャパニーズ・デザイン
ともいうべき、陶磁器試験所独自の、そして、
新たな日本陶磁の進むべきスタイルを最も明
確に打ち出したのは、次の国立の陶磁器試験所
時代(1919-1952)であった。まず、
「西洋食器
の日本趣味応用化」研究を行い、斬新さや豪華
さではなく、器の形状や、絵付装飾、描法など
に日本あるいは東洋的な風趣を生かした温雅
で格調ある輸出向け食器の創出を試みた。
写真 6
この研究は陶磁器試験所の主たる研究であり、神坂雪佳や日根
野作三などの外部のデザイナーにも依頼するなど、大規模に行
われた(写真 6・7)
。
また、「陶磁彫刻の工芸化」という研究も同時に行われてい
た。これは西洋にある陶磁器による彫像製作という分野に取り
組み、量産可能な工芸品とすることを目論んだもので、彫刻部
の主任嘱託として、日本に陶彫という新分野を築いた沼田一雅
を迎え行われた。「陶磁彫刻の工芸化」として製作されたもの
には、陶磁器の素材と釉薬装飾の持ち味を生かした造形作品と
しての存在感を持つ彫像置物や、室内装飾としての機能を備え
写真 7
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たランプスタンド、花器などの実用品があった。
さらに、素地や顔料研究などにも多くの成果があった。陶磁器試験所の名を冠した「陶試
紅」や「陶試辰砂」といった安定した発色を得ることが出来る顔料、あるいは「白雲陶器」
と名付けたドロマイトを原料とした軽質陶器などがそれである。白雲陶器は軽量でありな
がら比較的硬度があるという特徴を生かし、
第 2 次世界大戦後は瀬戸のノベルティ製作に
生かされ、輸出振興に大きく寄与した。
こうした陶磁器試験所の研究と試作は
1930 年代に盛んに行われ、展覧会での公開
などによって民間の製陶関係者にも広く紹
介された。しかし、陶磁器試験所の研究が最
も充実し、陶磁器輸出振興の手がかりを掴ん
だ頃には、第 2 次世界大戦に突入し、本格的
な量産化の道筋を付けるには至らなかった
(写真 8・9)
。
写真 8
その後、国立陶磁器試験所は、1952 年(昭
和 27)に名古屋へと移り、名古屋工業技術
試験所となった。名古屋工業技術試験所では、
1955 年からは外部の陶芸家や画家などに技
術モニターを依頼し、加藤土師萌などを招聘
し、研究試作の充実を図った。しかし、陶磁
器産業が成熟する中で国の振興政策は変化
し、研究試作体制は徐々に縮小していった。
写真 9
名古屋工業技術試験所は、組織改革で 2001
年、産業技術総合研究所中部センターとなり、現在に至っている。
現在、産総研の研究は、ファインセラミックスについてをわずかに残すのみである。
本文の冒頭で、産総研が 2373 件もの陶磁器を所蔵しながら、外部にはそれほど周知され
ていなかったことを述べたが、これはある意味、当然であった。何故なら、これらの陶磁
器は研究の成果ではあるのだが、研究が終われば無用のものとされ、また、参考収集品に
しても、長年の内に破損亡失するものとして、いつ頃からか不明であるが組織として台帳
などで管理はされておらず、ひっそりと引き継がれてきたものだったのだ。
年、当館の「近代窯業の父
それが 2004
ゴットフリート・ワグネルと万国博覧会」展での作品借用を
契機に、総目録作成の必要性が認識され、紆余曲折の後、昨年 2009 年の 12 月に『収蔵品
(陶磁器)総目録』が産総研によってようやく刊行されたのである。筆者も及ばずながら
手助けをし、長年放置された間に基礎データは失われており、完全とは言えないが、とも
かく 2,373 件が一覧できるようになった。
これはしかし、産総研関係各位の英断に拍手しなければならない。何故なら、現在の産
総研においてすでに研究部門もほとんどなく、これまで価値を認めてこなかった陶磁器に
対し、自らの DNA の一部であることを認め、歴史として振り返りはじめたのであるから。
その試みは産総研内部で完結するものではなく、他方へ広がりを期待される試みでもある。
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明治後半期から全国各地に数多く設置され、今日に続く陶磁器試験所、もしくは陶磁器
に関係する学校では、規模の差こそあれ、産総研と同じように残る試作品や参考収集品が
今後の展望もなく、放置されているからである。各地の陶磁器試験所(窯業技術センター・
工業技術センター)や学校は、機構改革などで規模縮小を余儀なくされているところも多
く、その陶磁器コレクションの行く末は風前の灯火と言えるかもしれない。
しかし、かつて、各地の試験所や学校は、近代陶磁製作の最前線であったのだ。そこか
ら発信された技やモノ、今は消え去った再現不可能な技、そこから巣立ち窯業界を支えた
人々、これらを今日あらためて検証しないことには、日本の近代陶磁の歩みは見渡せない。
各地に残る近代陶磁の成果が散逸せずに、歴史資料として保管活用されることを期待する
ものである。
従って今回の産総研の総目録は、そういった事例のモデルともなったのである。なお、
産総研に残る陶磁作品の全体像に興味を持たれた方には、持ち上げると手が痺れるほどの
ボリュームがある『収蔵品(陶磁器)総目録』
(独立行政法人 産業技術総合研究所 2009
年 12 月発行)をお近くの県立図書館などで探して、ご覧いただくことをお薦めする。
また、昨年の 12 月から今年の 3 月にかけて、愛知県陶磁資料館では、
「ジャパニーズ・
デザインの挑戦
産総研に残る試作とコレクション」と題し、産総研に残る陶磁器の全貌
を紹介する展覧会を行った。こちらもご覧になっていない方は図録を参照していただきた
い。
(写真キャプション)
写真 1 人魚灰皿 国立陶磁器試験所/ デザイン:日根野作三 1935 年
写真 2 鹿装飾燭台 ウフレヒト ドイツ 20 世紀前半
写真 3 藍地金彩花文飾皿
写真 4 釉下彩牡丹文香合
ベルリン王立磁器製作所 ドイツ 20 世紀初(1908 年頃)
京都市陶磁器試験場 1915 年頃
写真 5 釉下彩花文皿 ロイヤル・コペンハーゲン
デンマーク
19 世紀末-20 世紀前半(1894-1922 年頃)
写真 6 洋皿セット 国立陶磁器試験所/ デザイン:神坂雪佳 1931 年
写真 7 熊照明具 国立陶磁器試験所/ 原型:沼田一雅 1935 年
写真 8 透入菓子器兼用キャンドルスタンド 国立陶磁器試験所 1934 年
写真 9 コーヒーセット 国立陶磁器試験所/ デザイン:馬渕利貞 1938 年
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