約 4名手やえ争 - 東京歯科大学同窓会

号
昭和 4
7年
8月 1
5日
4
/
約 名
手
や
え
争j司会令ぺ子氏
14 ~
悼
矢崎正方先 生 追 悼 記 念 会 に
於ける追
会長
井
百
字
上
真
それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ果敢なきものはこの世の始中
終幻の如くなる一期なり 、 さればいまだ万歳の人身を受けたりという事を閲かず、 一
生過ぎ易し、今に到りて誰れか百年の形体を保つべきや 、我れやさき、 人やさき今日
とも知らず明日とも知らず遅れ先だっ人は元のしずく末の露よ りもし げしと云へり。
されば割引には紅顔ありてタには白骨となれる身なり、既に無常の風来りぬれば、即
ち二つのまなこたちまちに閉じ、一つの息永く断えぬれば紅顔むな しく変じて桃季の
よそおいを失いぬる時は六親答属集まりて愁き悲しめども更にその甲斐あるべから
ず、きてしもある可き事ならねばとて野外に送りて夜半の煙となしはでぬれば白骨の
みぞ残れり、あはれというも中中におろかなり。
これは親矯上人の白骨のと文章の一節であります。
人の命のいかに計り知れないものか、八十才のご高齢にも関はらずあのお元気一ぱ
いの矢崎先生が一月二十九日心筋梗塞で、あっという間にお亡くなりになった。今も
まだ夢の様な気が致します。私はあの日は関根学長とと一緒に品 川支部の新年会に招
かれて大井海岸の会場で先生のと卦報を知ったのであります。
先生は大正四年十月母校を卒業され直ちに渡米、 シカゴのロ ヨラ大学に留学、大正
六年と卒業、ドクトルのタイトルを得られ翌年帰朝せられてより、十八年間に亘り母
校の補綴部長として学生の指導に当られ、今日の補綴学教室の基礎を築かれたのであ
ります。
当時の日本の歯科補綴は欧米の模倣時代とでも申しましょうか確固たる学問的体系
はなく、先生は独創的発想に基いて盛んに研究されました。
特に私共の忘れる事の出来ないのは 、ギーシ lの願路学説に依る下顎の全運動は阻
鴨には関係なしとし 、矢崎学説に基くア lチクレーターを発表された事であります。
今より四十何年か以前の事、その頃ギ l シ!と云えば世界で有数の専門家、その頼
路学説に対し 、真向から反論された先生の勇気とその自信には只々敬服するのみであ
ります。
先生は昭和三十五年六月、河村弘同窓会頭が日本歯科医師会会長に就任され同窓会
頭を辞任された後を次いで 、第七代目の東歯同窓会頭に就任さ れ
、 三十七年十一月中
井武一郎先生が同窓会頭に就任されるまで二カ年と六カ月同窓会頭として会務の運営
に当られました。同窓会が今日かくの如く円満なる発展を逐げま した事は先生に負う
処極めて大なるものがあったと信じます。
先生は永年の功により、正五位に叙せられ銀盃を受けられました事は皆様の御存じ
の通りであります。
私共全国九千の東歯同窓はひたすら亡き先生のと冥福を祈る次第でございます。
の
お知らせ
=三芸=三=三==三歪
=三三=三=三=三三
一
=三=三=三=三三
=三=
三三=三三=三三=三=三=三=三三三=三=三=三=三三三=三=三三=三=三=三=三=三=三三==三==三三三=三=三三=三三=三=三=三=三=三=三=三呈=三=言=三三=三呈=三呈三=三三=三三=三三=三=三三=三三=三=三三=三三=三三=三=三三=三=三三=三=三=三=三芸=三=三=三=三=三=三=三=三三=三=三=三=三三=三=三===三三=三=三=三=三三=三===三三=三==三=三三=三=三=三=三三==三=三=三芸=三=三==三三==三==三三=三==三=三芸=三==三=三三==三=三=三三
==
出
山
附
州
川 。 日曜セミナl
川 期 日 十 一 月 十 二 日 ( 日 ) 午 前 十 時 か ら 午後 四 時 川
川 テ l マ ﹁ ト ラ ブo フ ル の 少 い 根 管 充 填 の 要 領 ﹂ 川
州講師保存学第一講座浅井康宏教授ほか川
川会費
一万円川
川 @ 昭 和 回 十 七 年 度 同 窓 会総会
川昭和四十七年度総会を次のとおり開催いたしますの川
川川川で万障お繰り合わせのうえ御 出 席 下 さ い ま す よ う 御 案 川
川内申し上げます。川
川期日十一月十八日(土﹀午前九時から午後七時まで川
川会場高輪プリンスホテル(口品問川駅前)川
(O一コ三二一己)四四五│五一=三ニ一一一川
川電話
.支 部 連 合 会 会 長 連 絡 会 午 前 九 時J 十 時 川
川
川クラウンル
lム川
.支 部 長 .評 議 員 会 午 前 十 時J 午 後 一 時 川
川
川クラウンル
lム
州 昼 食 午 後 一 時 J 二時(旭ル│ム 、 クラウンル l ム ) 川
.鹿 島 お よ ぴ 井 上 後 援 会 午 後 二 時 │ 二 時 三 十 分 川
川
川クラウンル
lム
.総 会 午 後 二 時 三 十 分l 五 時 ク ラ ウ ン ル l ム 川
川
川①総会②会員顕彰式③講演(未定﹀川
.会 員 懇 親 会 午 後 五 時 │ 七 時 プ リ ン ス ル l ム 川
川
川
.展 示 デ ン タ ル .シヨ l午 前 十 時 │ 午 後 五 時 瑞 祥 の 間 川
川
川 @ 総 会 懇 親 会 、宿 泊 の お 申 し、込込み につい て
込
込
み
川 一 て 、 懇 親 会 出 席 申 し、
川二十一頁の申
し 込 み 書に所定事項を御-記記入のう川
川え十月二十日までに同窓会本部へ御送付下さい。州
川二
、 懇 親会 会 費 五 千 円
川 振 り 替 用 紙 ( 口 座 番 号 東 京 七 六 九 O四 番 ) 川
川又は現金書留にて十月二十日までに御送金下さい。川
州 @ 同窓会全国ゴルフ丈会
酬期日十一月十七日(金)詳細は次頁を御覧下さい。川
注意
思われるものを申告して下さい。
、 B組の二部制とし、 シニヤ部
4、競技はハンディーにより、 A組
東歯大同窓会
(五十五才以上﹀を特別に設け競技を行ないます。
5、入賞は A、B組については一位より二十五位まで 、特にシニヤ部
に つ い て は 、 て 二 位 と し ま す 。 そ の 他 飛 ぴ 賞 (A、B組 と も 十
大会
全国
位毎)、ベスグロは一名、プ l ビl、二名、 (A、B組とも﹀尚同
順位の場合は高齢順をもって上位とします。
時、競技終了後懇親会を行ない、その席で成績発表と同時に受賞式を
会報一四六号にて予告を、一四七号にて大会の詳細についてお知ら
戸行ないます。
せした通り東歯大同窓会全国ゴルフ大会を開催致します。会員各位多
7、宿泊希望者は高輪プリンスホテル(港区高輪一一一│十三│一﹀電話
数の御参加を期待し御案内申し上げます。
O 三│四四五│五一一 一一一を御利用下さい。各自で予約して下さい。
コU
(東歯大全国ゴルフ大会参加のためと申し添えて下さい﹀。尚、今
年は翌日十八日(土)評議員会、総会、懇親会等がありますので
十一月十七日 (金)
便利かと思います。
武蔵 カントリークラブ 豊岡コ!ス
(参考 )ホテルル l ムチャージ
埼玉県入間市小谷田九六一
シングル五、 OOO円
l 六二│四一五一
電話 O四二九
ツ イ ン 六 、 三 OO円│七、八OO円
十八ホ l ルストロークプレ l
8、大会当日会場までパス二台(往復﹀を用意致しますので利用希望
(アンダーハンデ l)
者は、申込書に御記入下さい。尚、パス代は各自負担(約一、 0
憂 万円也 (グリンフィ l、キャディフィ l、昼食、パーティー代、
00円│一、五OO円)と致します。
ロッカー使用料、賞品代を含む)
⑥パス発車場所及び時間
申 込 八 月 十 五 日 よ り 九 月 十 五 日 まで
A車
、 1、発車場所 高 輪 プ リ ン ス 前 (午前六時発)
期日 但し、先着一八O名で受付を締切ります。
新宿駅西口安田生命前(午前六時二十分発﹀
申 込 先 東歯大同窓会事務所全国ゴルフ大会宛
、 1、 発 車 場 所 錦 糸 町 駅 前 ︿ 午 前 六 時 発 )
B車
Tm 東京都千代田区三崎町二│九l 一八
東歯大病院前(午前六時二十分発﹀
電 話 二 六 四l 四八五九(直通﹀
A、B車共大会行事終了後 発車場所に帰えります。
申込方 法 刷 り こ み の 参加申込書に所定の事項を御記入 のうえ、会費
9、本大会についての詳細(各自のス タート時間、組合せ及び会場案
一万円也をそえ、 現金封筒 で御送付下さい。
内図等については、後日参加申込者にのみ、各個人宛に東歯大同
尚、参加申込は各個人毎にすること。一括申込み及び電話等
窓会全国ゴルフ大会実施要項としてお送り致します。
での申込みは認めません。
日、本大会開催に関する運営は 、
但し、申込み後やむを得ない事情により欠席する場合は大会
先に発表した大会委員会があ
前日迄に東歯大同窓会事務所全国ゴルフ大会宛連絡のあった方
たります。お問合せ等につい
に限り半額返済致します。
ては左記にお願いします。
阿保喜七郎
O 八九
電 話Oコ了二七一 11一
ー、当日は晴雨にかかわらず決行します。
熱田俊之助
電 話O=了六四一 │ 六 九 六 五
参加申込書は本号二十一頁
に刷りこんであります。
@
注
意
.包.
事
項
ゴ
J
レ
7
ライベ l卜共に最近のハンディキャップに基づいて各自が適正と
残暑御見舞
申 し 上げ ます
会長
斉藤静三
井上真
東京歯科大学同窓会
副会長
理区
高橋初太郎
花岡十之丞
加藤久二
山本義茂
高木圭二郎
阿保喜七郎
伊丹一男
早速晴雄
山根照人
村越議雄
海老原信
中久喜喬
三島平左衛門
熱田俊之助
羽賀通夫
坂登輝夫
佐々木達夫
橋本尚
斉藤世
鈴木信
夫馬男
菅岡山
長坂一
穂積雄
正岡夫
野上平
宮下郎
山本三
糧ー順健藤健晴嘉芳利
常任理事
事選
事
会期
2、第一組 スタートは午前 八時(アウト、イン同時に スタ ート )
3、ハンディキャップは申告制に致します。従ってオフィシャル、プ
出地
監
場 日
会方競
資 法技
つくされた。
その問、就任された主な公職は
東京府歯科医師会長、日本連合学
校歯科医会常任理事、赤坂区議会
議員、東京医業信用組合常務理
事、都歯政連理事長、日歯政連顧
問、都歯代議員会議長その他で、
また昭和三十五年にに藍綬褒章受
章、昭和四十二年には勲五 等 双光
旭日章を授与されている。
葬儀は東京都歯科医師会、同政
治連盟、麻布赤坂歯科医師会、東
京医業信用組合の四者による合同
葬が五月三十日、午後一時より築
地本願寺において執り行なわれ
た
。
十八年間、歯科界と共に歩みその
発展のために一貫して歯科医政に
上田貞三先生逝去さる
本会々 同
氏、東京都歯科医師会名
誉会員、東京都歯科医師政治連盟
顧問、東京医業信用組合常務理事
の上回貞三先生は、五月二十四
日、慈恵医大附属病院で肝硬変の
ため逝去された 。
先生は明治二十三年一月十五日
の生れで今年八十二才。明治四十
二年東京歯科学講習所(東京歯科
医学校の前身)を卒業し大正元年
十月に医術開業歯科試験に合格、
大正三年五月に現港区赤坂二│一
なお東歯同窓会を代表して井上
同窓会長から弔辞が捧げられた。
謹しんでご冥福をお祈りいたしま
す
。
子
01二に開業。以来、今日まで五
大
太
国参議院選挙の時、僚友故林了君
の選挙で大量の選挙違反者を問志
から出し、歯科医の政治的感覚の
あまりにも無知なことを痛感して
ニッカポーカー姿の君の落語を開
いた時に始まる。そして第一回全
上田貞三君を 悼む
F﹄
上回君が逝つた。よき仲間 の 一
人がまた身辺からいなくなつた こ
とにうたた寂申家挙の感を芯禁問じえな
し
‘ 想えば君との交友は大正末期の
豊島園における母校の園遊会での
われわれは、東京都歯科医師政治
連盟を結成し て、会員の政治意識
の高揚と 、 政治的関心の啓曲家発揚
に努力 した。その初代理事長に君
を推し、私は都歯会長として唇歯
輔車、二者一体の強固な団結で、
歯科界の向上発展に寄与したこと
は大方の知るところである。
この政治連盟は医界における政
治結社としての創始であった。そ
して君の演説は華麗にして豪快、
軽妙酒脱なウイットに富んだ比除
は、聞くもをしてたのしませ、力
づけた。特に君がいい加減な外人
の名をベラベラとやる時には、聴
衆は訳もなく君の演説に酔い、万
雷の拍手を送ったものである。そ
れほど君は随時で随所、会場の雰
囲気にマッチした演説をぶって、
歯科医政家としての面白を大いに
発揮した。君を失った歯科界は、
河野一郎、大野伴睦、川島正次郎
といった党人政治家を失った政界
のそれにも匹敵して、巨星落つの
感慨しきりである。 一
決溢れるを禁
じえない。晩年におけるステッキ
をついた弱々たる君の面影を偲ぶ
とき、更に惜しみでもあまりある
君の死に痛恨の情しきりである。
私の叙勲祝賀会の時、友人代表
として、私を激励してくれた君の
声音はまだ私の脳裏に初得として
よみがえってくる。その君のため
に私が友人代表として、哀しい弔
詞を捧げ、ここに追悼文を書くこ
とは、なんたる運命の皮肉であろ
うか。
んで拙文を捧げ、冥福を祈る。
を分ちあって生きてきた。幾星霜
かずかずの君との思い出は尽きな
いま幽明境を異にした君に謹し
BU
過去において君と私とは、日常
生活においても、あいより、あい
助け、喜びをわかちあい、悲しみ
故矢崎正方先生
用下さい
悶O O字詰め原稿用紙を御使
九月十五日です
次号原稿締切は 、
なお、先生のご遺族は矢崎家を
つがれた矢崎秀昭氏(昭和四十二
年東歯大卒)が先生の奥様をまも
り、先生の残された医院で診療を
続けておられる。
次いで河村弘、海上喜久男、北
村勝術、河辺清治の諸氏が先生の
思い出の迫悼談話、また先生の業
績に関し鵜養、羽賀、関根(弘)
の三教授がそれぞれ紹介し 、参会
者に多大の感銘を与えた。
長、井上同窓会長、鵜養補綴部長
の追悼の辞、黙祷、弔電披露の
後、先生のご令弟矢崎高儀氏(楠
山建築設計事務所取締役会長)が
親族を代表して挨拶された。
追悼記念会挙行さる
かねてお知らせした問先生追悼
記今ω
会は去る六月十日(土﹀午後
二時より母校において多数会員の
出席のもとに盛大に挙行された。
饗庭格太郎氏の司会で、関根学
3
村
開学記念講演会
並びに披露 パ ーティー
盛大に開催さる
三笠宮殿下 も ご 出 席
における
J
レ
の歯科大学卒業者で歯科医師免許
る新天地であるとのことで、日本
を経た後に同国の正式の歯科医師
証 所 持 者 は 、ブ ラジル政府指定の
同国内の大学で一定のインタ ー ン
ブラジル、サンパウロ市で長年
と し て 登 録 さ れ開 業 資 格 が 得 ら れ
る。但 し同国への帰化 が 義 務 づ け
の活躍
に わ た っ て 活 躍 して お ら れ る 田 中
正実先生(大正三年卒)から同地
られる由である。
詳細は田中正実先生へお問い 合
一
﹁ト ラ ブ ル の 少 い 根 管 充 填 の
要 領﹂
根管の充填には糊剤充填と国
C期待下さい。
意 しております 。
代 歯 科 医 学 に 沿 っ た テ l マを用
意義な一日として下さい。
学術部では 、 これに続いて近
臨床方針を確定されるための有
御 予 定 下 さ れ 、 先生 方 の 日 常 の
今から十一 月 十 二 日 の 日 曜 日 を
ミナーを企画しました。どうか
のあたりにスポットをあてたセ
呼んでいます。そこで今回はそ
現在広く紹介されており議論を
型充填の対照的な二つの方法が
V
日曜 セミナー
一問'回口開Z U U開﹀ ZUHN﹀ロ開. 一
、 一
H
M﹀CF。・ ω
H
N﹀ω口
ω
N
∞ω
一 口 ﹃ 宮 ﹀ωω ﹀沼同斗﹀Z﹀吋内﹀ 一
せ下さい。
の 新 聞 が 送 ら れ てきた。
ブラ
〉〆
本人歯科医師
日
それによればサン ・パ ウ ロ 綜 合
大学の 斗﹀ロ﹀わ回目、吋﹀玄﹀関同教
左は村瀬学長)
(写真右は関根学長 、
一
展を祈る祝辞が贈られた。
日大総長、中原臼歯会長(代理)、
関根東衡大学長そのほか多数名士
が列席し東北歯大の前途を祝し発
教 授、吉 岡 女 子 医 大 理 事 長 、鈴木
祝宴は五時ごろまで続いた。
当日 、来 賓 と し て は 三 笠 宮 を は 一
じめ 、前尾元法相 、 シュlハルト
一
一
笠 一
理念についての挨拶があり、 一
宮殿下の音頭で乾杯、が行なわれ、
務理事の創立に至るまでの経過報
告 、 八回理事長の健学精神と教育 一
ま ず、村 瀬 学 長 の 挨 拶 、 影 山 常
病院長の司会により閉会された。
母校はじめ街科界関係者で埋めら
れた会場で 、渡 辺 冨 土 夫 東 北 歯 大 一
このあと 、午後二時より披露パ
ーティーに移り 、続々 つめかける
が行なわれた。
約四十分にわたって感銘深い講演
臨床例をスライドで示しながら、
て交通事故による外傷の数多くの
外科の進歩と現状﹂につき主とし 一
六月四日 、 東 京 プ リ ン ス ホ テ ル で
l ハルト教授に より ﹁口腔顎顔面
記念講演は村瀬学長と親交のあ
るハンブルグ大学の カー ル ・シユ
ティーを行なった。
雄 ) は 去 る 六 月 四 日 (日)午後一
時より 、 芝 公 園 の 東 京 プ リ ソ ス ホ
テルで関学記今鉱山町
演会と披露パ ー
母校の姉妹校と して 今 春、 発 足
した東北歯科大学(学長村瀬正
東氏歯科夫参
4
さ
学ん
講
習
と
津
所
と
和
関誌﹃月刊 ・歯科学報﹄が貰える。
この制度が終戦頃まで続いたもの
である。なお同窓会や母校に対し
功労特に顕著な者が、特別(今日
の名誉)会員に推されている。
その大井先生譲りの古い名簿に
は、東京歯科医専校略史の一頁物
が挿入されていて、第て第二、
第三期の歴史は型の如き記載であ
るが 、附設歯科医育機関の項を見
ると 、明治四十年、東京歯科医学
校(注 、夜間部)を設置し 、専ら
歯科医師開業試験受験者の教育会
目的とし、これに附属して同四十
五年より実習科を 、大正四年より
基礎学実習科を、同十年より受験
科を設けたとある。﹃以上は特に
同窓諸氏の記憶を新たにせん為に
して、名簿 に関係なき感ありとい
えども意を用いたる点を了せられ
たし﹄と附呈一目されている。
同種のポケット入り小形判の縦
組名簿は、昭和五、七 、九、十一
十三年にそ れぞれ出ている。終戦
後初の名簿は昭和二十五年版であ
る。二倍大の今日の如き大形名簿
し、その他の普通会員は 、年額五
円の会費を納めれば、それぞれ機
米
田
東
上
尽貞
歯 =
科
あの元気な上田貞三さんが五月
二十四日永眠され 、五月 三十日築
地本願寺での告別式に会葬した
際 、井上同窓会長の切々たる弔辞
でふと想起したことがある。東京
歯科学講習所の出身云々の件であ
る。上田さんは、同窓会名簿上明
治四 十 二年東京歯科医学校卒とあ
るが 、実は講習所二回生である。
東京歯大同窓会々員名簿昭和四
十年版は、そのアトガキで、大井
名簿編集委員長(副会長)が述べ
ておられるよう に、推薦会員、高
山・ 東京の両歯科 医学院 、東京歯
科医学校、東京歯専 ・歯大の四種
に区別して作られた同窓会最初の
名簿である。勿論、明治四十四年
東京歯科医専指定第一回卒業生か
らは同窓会入会が義務づけられた
(終身会員制)。但しそれ以前の
歯科医専卒業生(合、別科生)他
は、有志が任意に入会 したものら
しい。私の持っている最古の名簿
は、大井先生譲りの大正十五年版
で、前年末施行の新会則が掲載さ
れている。会員の資格は、終身会
員では 、歯科医専唱和七年卒の私
の場合卒業時一金五十円也納入
になったのは昭和三十二年版から
である し、横組に改められたのは
向三十六年版からである。
以上の記事からは上田さんの 出
身校たる東京歯科学講習所の名称
、 日本歯科医籍録
が出て来ない し
(東京 ・医学公論社)は 、昭和二
十八年初版で、同四十三年までに
第十二版が発行されていて 、皆様
ご承知のあれを見ても、明治四十
年代の歯科医専外の卒業生の方々
の履歴の項目では、きまって﹃東
歯卒﹄または﹃東歯医校卒﹄とあ
り、東京歯科学講習所卒とは書い
ていないようである。
そこでいよいよ東京歯大創立七
十周年記念誌にと登場願うことに
なる。学校別年表の記載中、二 十
二頁には 、 ﹃明治四十年七月東京
歯科医学院内に設立された、東京
歯科学講習所の開校式挙行さる。﹄
とあり、次頁には、﹃同四十三年
四月、旧東京歯科学講習所は私立
東京歯科医学校と改称。﹄とある。
歯科学級十五巻三号(明治四十三
年三月)の六十四J五頁の記載が
その出典であろう。﹃東京歯科医
専校の指定についで同校附属議習
所は大いに発展の計画あり。第一
に校名を改称して東京歯科医学校
、 第二に校長として 、血脇守
とし
之助氏を裁き、第三には学則を改
正し 、学 科 課 程 の 増 多 向 上 を 企
て、新たに細菌学(綿引朝光ドク
トル)を加え講師を増聴し、即ち
次の如くなり(略)。但し第て二
学年の両課目を併聴することを得
べし。﹄とある。これ迄の一学年制
が校名変更と同時に二学年制とな
った様様である。東京歯科医学校
卒業生台帳では 、恩師 ・中村清直
先生は大正九年七月の卒業生とな
っていて、この時点で廃校となっ
たのである(卒業生計六九二名)。
東歯大同窓会創立七十周年記念
誌の一 G四頁には、東京歯科学講
習所の設立と題して 、 ﹃東京歯科
医学院(注、昼の学校)が近き将
来専門学校に 昇格した際には 、別
科生を収容することが出来なくな
ると同時に 、夜間就学を必要とす
る開業医の門下生その他に対 し
て
、 便を与える目的をもって歯科
学講習所を設立すべく 、明治四十
年五月末日出願し 、 六月七日認可
を受け 、七月一日開校した。修業
期限一カ年。生徒定員二百名、学
年開始期毎年九月十 一日。な お開
校式は七月二日に行なわれた。﹄と
明治四
ある。当時の同窓会々則 (
十年十月規約変更)では、﹃東京歯
科医学院同窓会を歯利医専問窓会
と改称し、その第三条に 、本会は
旧
古岡山歯科医学院 、川東京歯科医
学院および東京歯科医専出身者と
関係者並びに東京歯科医学校卒業
者をもって組織す﹄とある(同記
念誌一一一一一J四頁)。ところが本
会則では東京歯科学講封所の名前
が一向に出てこない。講習所とい
えば必りが悪い為、東京歯科医学
校の校名一本で貫かれて来たとし
か考えられない。
掲載の写真は昭和三十五年九月
十三日(於神楽坂 ・喜久川)、上
回貞コ一さんと私が主賓となっての
自民党の益谷秀次氏よりの招宴風
景。前列、向って左より福島元学
長、上回 、益谷の両氏 、 一人おい
て私、 一人おいて、昭和 二年卒前
回卯太雄氏。後列は益谷氏縁故の
昭和三十二年卒岩田一雄博士夫
妻。謹弔。(昭和七年卒、教授)
5
二寄 稿二
先
生
方
卒
年
つ
し
、
て
田
英
金属が発売されることになった。
私の思師である先生の一人は、
﹁
NHKT合金なんて金ではないよ﹂
た。花沢鼎先生の金パラジ
れにあてはまる。儲けるためには
法則がある。前述のことなどがこ
貨を駆逐す﹀というグレシヤムの
るような製造業者がいるのであ ・
る。私は、こいつらを憎み軽蔑す 一
マ おねがい ム
御住所をお知らせ下さい。
鎌谷真帥林俊生帥
日吉同準制大鹿保和伸
高橋郁雄帥中野茂帥
馬駿翻帥早川弘文帥
挑品位同楊公敏帥
李陽斯帥弥政富士雄帥
間 瀬千 賀 子 同 桐 原 俊 治 伺
石田 五 十 雄 制 勝 野 治 雄 帥
木村敏幸帥
向鎮光仰
高橋生行紳徐家英
帥
長尾喜景
五十嵐太仲
小林富次郎
福島秀策
田中久兵衛
佐藤新一
河村弘
鹿島俊雄
HH ﹀ 高 木 圭 二 郎
事入江義次
HH ( H H )
MM (
大学役員
(
HH
﹀山本義茂
学長(教授)関根永滋
副学長ハグ﹀松宮誠一
大学病院長
松井隆弘
市 川病 院 長 ( MH ﹀ 松 尾 武 夫
事務部長中屋敷小吉
東京歯科大学
授
専門課程
米津和一
上保務彦
金竹哲也
田村俊士口
上回喜一
竹内光春
鈴木芳太郎
坂田三弥
山村武 夫
田熊庄三郎
教授
西村
一郎
正雄
金光秀明
林淳一
高橋義夫
中山誠
秋山誠一郎
平井満喜男
竹中正一郎
山本又雄
河合貞吉
森雅文
小林秀夫
和田知雄
山崎可夫
加藤繁次
緒方鐙
大野虎之進
鈴木弘造
川島康
浅井康宏
佐藤徹一郎
関根弘
中久喜喬
羽賀通夫
町田幸雄
高 橋庄 二 郎
石川達也
鵜養弘
木村吉太郎
高添
鈴木和男
東京歯科大学
授見明清
進学課程
学校法人
残暑御見舞申し上げます
常務理事(教授﹀関綬永滋
。井上真
グ(教授﹀松宮誠一
る。私はこの製品を使ってみたこ ⋮
理事長石河幹武教
と が あ る 。 し か し二、 三の患者の一
希望によってであった。現地に関一
業以来二十一年になる今日まで使わない 。 胸糞がわるく、いいもの 一
とは考えられないからだ。私のよ一
うなのを勝曲りというのであろう一
方グ
先生のこのような噂は多分本当⋮
であったろう。この時の先生は、
平然として撲られておられたに違一
いない。徹底した補綴学の学者一
で、決していい加減な妥協を許さ⋮
れぬ固い信念の人であったと恩 ⋮
ぅ。私共の教った先生一が次々に逝一
くなられた。先生もこのうちの一
人になってしまわれた。深い悲し⋮
みと同時に、昔が懐しく、折々先一
天はいいものだヨ﹂といわれた。
今にして思えば、正にその通りで 、 生 を 偲 ん で い る 。 私 に は 忘 れ ら れ ⋮
出 来 る の に 感 じ 入 り 、 いつか俺も
や っ て み よ う と 思 っ た c ﹁石田、寒
知らないのだが。::ただの暴漢
ウム合金などである。それ
手 段 を 選 ば ず、 批 判 し た学者を撲
ない恩師の一人である。謹んで、
先生のご冥福を祈っております。
入 海 草 の 成 分 か ら 成 っ たV印象材
が 、 モデリングや石膏に代って大
いに使われ、然、天もまた、利用さ
れ つ つ あ る。 日 進 月 歩 、 技 術 も 材
料等も他のいろいろなものに比べ
て劣らぬよう になってきている。
批 判 し て 何 が 悪 か ろ う。良いもの
は良い 、悪いものは悪いとハッキ
が代用材料の余り良くない
学者が、学問的立場から製品を
造元のカンに触ったのだと判って
きた。幸い先生は負傷されなかっ
二
た よう である。
当時の補綴材料には 、優
r
r
-
リさせるべきなのだ。︿悪貨は良
料を批評されたらしい。これが製
審 に 思 っ た 。 先 生 は 、新製品の材
紳 士的 でもの静かで温厚な学者タ
イ プ の 先 生 が ど う し て と 、 私は不
が聴かされたのかどうかは未だに
して模型 の 再 製 を や っ て お ら れ
た 。 私 は 技 工 室 で 見 学 し 、巧妙に
と私にいわれたことがある。
当 時、矢 崎 先 生 は 、 寒 天 を 使 用
まっていったようである。
れらの材料がとり入れられるよう
になって、いよいよこの傾向が深
たと云われている。健康保険にこ
から、補綴の技術まで低下してき
石
に襲われるような先生ではない。
途中で、待ち伏せていた何者かに
閤打ちされた話を聴いた。私だけ
ら、矢崎先生が学校から帰られる
らなかった。当時、私はある人か
卒業の前年に勺たか、冠などの鍍
の
院
事
宝
塚
市
貴金属が段々 減ってきたからか、
これらの代用品としてなのかは判
今からざっと四十年前のこと、
を読み 、 そ し て 技 工 や 臨 床 に 手 を
とって教えて頂いた一人です。
て、先生の講義を聴き、その著書
私は、学生時代に補綴学につい
昭
和
七
ものが出廻るようになって
1/
1/
I
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1
矢
崎
正
秀な質のものが使われてい
動例
寄
一
一
教
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事
九
守
理
監
顧
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!
故
6
短
信
ー、行事・役員出張・その他
6月お日
6月初 日
6月 m
m日
7月 5日
7月 6日
7月 7日
全国ゴルフ大会実行委
員会
保険事業打合会
長崎 ・宮崎両県支部長
宛水害見舞状発送
井上後援会常任幹事会
高知県支部長宛水害見
舞状発送
長崎 ・熊本 ・宮 崎 ・鹿
児島四県支部長宛水害
見舞状発送
7月 U日 学術委員会
7月日日 滅菌地区支部連合会懇
親会高橋副会長出張
7月口日 夏期講習会開始
7月刊日 常任理事会
7月初日 多摩地区支部連合結成
会井上会長出席
︿﹀ 訂正
柳川昭、藤村豊
小木原英雄横田由三
。広報担当理事の委嘱
中久喜喬理事の海外出張に伴な
い九月より十二月の間前任の高橋
重雄氏に委嘱しました。
会報間号 4P支部長交替
世 田 谷 支 部 日 山村相官は
山崎智の間違にて訂正します
。神奈川県支部解消
改めて次の十支部誕生
横浜中央支部・支部長川池田喜夫
横浜北部支 部 ・ uw m 岩本正三
H U山 口 保
横浜鶴見支 部 ・ H
横浜南部支部 ・ 。 削 酒 井 惣 一 郎
hwm
杉山忠直
横浜西部支部 ・
川崎支部
・ グロ伊藤士ロ蔵
洋
昭
/
/
I
!
I
!
I
!
2、支部分離・独立
5月口日北多摩支部より武蔵野
H江
H
市分灘、支部長
部易広
6月 幻 日 沖 縄 県 支 部 結 成
支部長 ロ永井長 秀
3、支部長交替
5月 1日 付 世 田 谷 支 部 川 山 崎 智
5月 凶 日 付 中 野 区 支 部 ロ 押 見 宏
6月 4日付富山県支部門川松島正康
4、会長指名評議員
横須賀
削鈴木弥栄
鎌倉支部
神奈川湘南
川三木
支部
神奈川西湘
8古向橋謙作
支部
神奈川相北
7近藤
支部
梅雨による災害状況
﹀
八
現在本部に入りました情報は次の
通りです。
高知県支部 会員に被害なし
宮崎県支部 同右
商三河支部 同右
青森県支部 同右
秋田県支部 同右
岐阜県支部 同右
広島県支部 海岸地方は無事、
山間部連 絡 不能
(4 ﹀
南信支部 清水涯(大 8﹀宅床上
浸水
島根根県支部松江市
石 川 勝 俊 (9﹀
大野忠郎(推﹀
佐 和 和 美 ( 大 1)
m
佐 和 重 美 ( M﹀
佐和サチ子(幻)
広戸亮
酒井孝治(削)
(MU﹀
松本功
ω
母里正(幻﹀
以上床下浸水
板 垣 信 ( 大 8)
板 垣 陽 ( 初 ・9)
以上床上紛セソチ
石田秋二郎 ( M H)
床上土砂
中 原 紀 彦 ( 凶 ・ロ ﹀
床上初センチ
ω
床上 センチ
平下武千代
床上 センチ及土砂
山本敏彦(幻)
床上加センチ
芝原邦彦(必)
松 岡 重 雄 (7)
二つの出張診療所共に全
滅に近い状況
岡山県支部
大塚彰(お﹀床上
心からお見舞い申し上げ、 あわ
せて速かな御復興をお祈りいた し
ます。
去 会
員
一=・ 茨 城
医 谷 地 佐 吉 田 ?ニ
推井上源太郎四七 ・ニ・一 五 中 信
お 森 野 俊 雄 君 ・手一八神奈川
推 鹿 野 泰 生 四 千 五 ・ 神祭川
推 須 永 源 蔵 不 詳 栃ニ木
出岡野茂男四六・?一五滋賀
一
・5 広 島
医楠本春一四六・
推 渡 辺 重 雄 四 六 ・手 四 青 森
五 - Z八 南
口田 辺 安 義 理 ・
推 小 山 彦 平 君 ・手 七 静 岡
推 高 橋 省 治 四 七-z・五 豊 島
ニ八 神奈川
推 小 坂 秀 夫 望 ・ 5・
対 辻 畑 静 雄 四 五・ ・
ニ回大阪
一
一
北 堀 内 泉 宅 ・ ・一 回 練 馬
一
=
二小樽
推唐橋完四六・ ・
逝
二
一三 岐 阜
知 宮 島 弘 二 思 ・五
医 上 回 貞 三 宅 ・手 二回麻布赤坂
u
柴 田 久 三 郎 君 ・手 ニ 西三河
w
2石 井 真 隣 四 七 ・六・二 宮 崎
医大森 寿 治 思 ・三・ハ岡 山
一八福岡
三・
大和泉直治四四 ・
知 足 立 企 救 生 里 ・マ一一一神奈川
医 大 原 正 人 君 ・宇 一 六 佐 賀
日石川 東一四七 ・で 一 回 新 潟
医 橋 本 英 彰 契 ・一 千 神 奈川
毛大阪
知 大 塚 桂 造 四 七 ・五・
二六港
お佐々木庸祐四七 ・六・
ω松村正澄四七・六・ 二五 兵 庫
二六栃木
医 牟 田 健 作 君 ・六・
m伊 藤 要 四 千 三 ・一 小 樽
医 平 出 勇 回 ??一 神奈川
一
=
護んでと冥福をお祈りいた し
ます。
7
推上平初五郎
。同窓会学術委員の委嘱
(学内)浅井康宏、 中 久 喜 喬
瀬端正之 、 薬師寺仁
丹羽克味
(学外) 山本為之、
仁
部
5月げ日 常任理事会
5月刊日日 大森支部会員一日入学
5月幻日 栃木県支部総会
井上会長・早速理事
5月
間 μ日 静岡県支部総会
井上会長 ・阿保理事
5月幻日 渉外部打合会
5月初日 埼玉県支部総会
井上会長 ・伊丹理事
5月初日 上回貞三名誉会員葬儀
6月間山日 矢崎先生追悼記念会
6月刊日 渋谷区支部総会
高橋副会長 ・早速 ・熱
田両理事出席
6月 日日 東遊会懇親会
6月日日 群馬県支部総会
斎藤副会長出張
6月日 日 六歯科大学同窓連合会
野上理事出張 ・宮崎県
支部より五名出席
6月四日 鹿児島県支部長宛水害
見舞状発送
6月 M日 宮城県支部総会
井上会長出張
6月剖日 福島県支部総会
山根理事出張
6月川品目 神奈川県支部総会
坂受理事 ・原事務長
6月お日 福岡県支部総会
熱田理事出張
医政懇談会打合会
6月お日
大
友
本
支 部 の う ごき
。 静岡県支部
時は五月、新緑も鮮やか
薫風と潮風の爽やかな熱海
、 五
市魚見崎ホテルに於 て
月二十 七 ・二十八日両日に
わたり静岡県支部定時総会
。 本県は昨年
が開催さ れた
五月全役員が改選され 、以
来初めての総会で出席会員
六十四名。
学校から闘根永滋学長、
講演講師として補綴部の腰
原好助教授、同窓会本部か
ら井上真同窓会々長 、阿保
理事が出席された。
総会は五月二十七日午後
二時を少し廻ったところホ
テル会議室にて開会。司会
神田秀彦君、閥会の辞靭浪
惣一一割支部長、続いて河村
孝義支部長挨拶、昨年度は
特に物故会員が多く七名、
黙祷に一同粛然となる。直
、 すべ て満場
ぐ議事に入 り
。
一致、総会を終 る
ついで学長 より 学校の近
況諸般、特に入試に ついて
私学と して同窓 を尊重す る
旨線々熱の入った御話 しを
伺った。その中で同窓会の
会合は参加する事に意義が
あり老若等 しく交歓 して 連
繋を強め ひいては自己研鐙
すべきであるとのくだ りは
七十名の出席者を得た本県とし て
、
は御同慶の到りであった 。東北
さ ん同窓会員入 り乱れて の懇親会
は大盛況。終 り頃の母校 4歌大斉
二十 九日(月)の両日にわたり伊豆
海岸稲取温泉銀 水荘 で行う。足は
る波の立日を耳に床についたのは十
例年 九月 の秋季に行なっ ていた 二時を廻っていた。
総会を 、本年からは時期をかえ て
翌二十九日は若手会員の方々の
春季に実施することにあらためそ 恒例のゴルフコ γベを伊東サザン
の第 一回を新緑の限に しみる初夏 クロスで行ない 、約三 十名の参加
の風の爽やかな五月二十八日︿日) を見、それぞれ 腕 により をかけ て
。埼玉県支部総会
毎度パスを使っ ていたのを今回か
松本両歯大にもふれ同窓会は母校 唱で最高潮。
その 夜 の二次会は推 して知る 可 ら趣向をかえて現地集合という方
及びヤ﹂れらの大学との連帯を益々
深め度き旨、御話 しあり。学長は し。翌朝の 朝食会は大島行の汽船 法でやってみる。各位の御協力を
時間不足を歎かれつつ庖を下りら の警笛で起 こされ生憎の雨で 、魚 得 て参会者は意外に多く約五十名
見崎ホテルからの 魚見物は 出来な の参加を見る。
。
れた
本部からは会長の井上真先生並
次いで井上同窓会長は同窓会本 かったが 、大勢の 出席者に感激さ
部として諸般の事を話され特に医 れた学長から再度御挨拶あり 、井 ぴに広報担当の伊丹一男先生の御
政面の事にふれられ 、往年の水道 上会長の万歳三唱で幕を閉じた 。 多忙の処の参加を得て総会がいや
橋黄金時代を偲ぴ 、時勢の変遷と 段々と雨が晴れ、陽ざしも出て吾 が上にももりあがる。午後四時半
に十階ホ lルで総会を始める。議
は申せ 、昔程でなくとも束歯の声 等を祝福するかの如くであった。
事は増田県会長の座長によ って形
怖を挙ぐべきであり 、それがひい
出席者
ては歯科界の発展にもつながる事 大村(武)、杉本、大村(伯)、塚本 、 通り無事にすみ永年県会長として
、
、植山 、三浦、山本、 御尽力いただきま した小杉太郎前
であろうとの御話しは感銘を深か
神
田
大
内
会長並びに大塚達郎先生に心ばか
めた。
五十嵐 、
本田 、
谷口(富﹀谷口(稔﹀ 、
本県は前々 より 総会には学会講 佐藤、大杉、栗田(春)、堺沢、亀 りの記念品を贈呈する。続いて井
、 親睦と共に勉強も、 と 井、外 、
演を催 し
浅井、新保、徳永、栗田(稔)、 上会長から学校の近況並びに同窓
会の情勢等約五十分にわたり詳細
いう甚だ殊勝な伝統がある。本年 宇佐美、田村、続、大野、大石、
は題 して﹁前装鋳造等について﹂
児島、朝浪(惣)、朝波(篤)、井川 にお話 しを裁きあらためて母校へ
の 講 演 が 始 ま る 。 外 副 支 部 長 司 (貞)、井川(武﹀ 、井川(康)、河村 のかん しんをもっ。歯科医界の今
、
、
、
会、若手のホ lプとして腰原助教
後また国民医療の現況を見た時学
(
孝
﹀
、
河
村
(
孝
)
字
藤
森
和
名
、
授の明快なる講演に一同熱の入 っ 波佐塚 、 、
大
沢
平
岡
、
岡
村
、
村
松
校
の時代の流れに沿った発展を祈
ってやまないものである。
た質疑応答がかわされ 、 これまた 加藤 、
鈴木(啓)、下村(登)、荻原 、
坂
本、大場、塩田 、今村、 山本、吉
時間不足をかこちつつ学会を終っ
総会を終了し七時半から待望の
た
。
田、片山 、下村(章﹀ 、本目、小野 懇親会、 地元の美妓十名をまじえ
田、浅野、鈴木 (
英﹀
佐野
、 足立 、 増田会長を始め諸先生の玄人をし
市川
、 泉地。 (
外 記) のぐかくし芸に時のたつのを忘れ
て宴に酔う。伊豆の浜風打ちよせ
閉会の辞浅野副支部長。
夕刻より催された懇親会。司会
地元五十嵐莞昭君七十名の大宴会
にはさすがの学長 、同窓会々長も
感歎された。 一つの県としては全
国に稀れならんと当方も自負して
いる。御機嫌 の関根学長の余輿、
歌がうまいとはついで聞いた事が
ないのになかなか御立派 / お客
新会長寄贈になる カ ソプをめざ し
て和 気あいあ いの中に無事に コン
ベを終 り来年度総会を楽しみにそ
れぞ れ帰路についたのである。
戸幹事記)
8
で、本校と併 せて 一応同窓の子弟
の入学が緩和さ れ ることと思って
いる。大学も千葉稲毛に三万坪の
土地を買収したので 、同窓会と し
ても何とか協力 しなければならな
いと思っている。其節はと助力を
お願いしたいと侯拶された 。
次に 、 三輪副会長より今回始め
て来宴した市 川欣二 、中崎勝二 、
村田勇義、 山口長太郎、渡来伊太
郎の諸氏を紹介した 。
統いて関根学長がと招待のお礼
をのべ大学のことについては明朝
時閣を見てお話ししたいと申添え
られた 。
以上挨拶が終り宮下一郎会員の
乾杯で祝宴となった。
折柄美妓数名侍り宴酎となり磯
節 ・松島音頭 ・安来節の足芸等そ
れぞれ得意の隠芸珍芸がとび出し
万場の拍手喝采を博した 。
若い人に負けないほど盛会裡に
一同歓を尽し一先ず宴を終り夫々
の部屋に帰り 二次会がもたれた模
様であった 。
夜来の雨に睡りを党されのか 、
翌朝は四時頃より大浴場で朝湯に
つかっている湯浴みの音部屋に流
れて来た 。
八時半に朝食をとり学長より学
校運首、入試原則、千葉稲毛の土
地買収施設鉱充等について詳しく
お話 しがあり 、松宮副学長より進
学課程では今年度より病院の見学
.基礎教室の見学等をとり入れて
将来の専門教育への心がまえにし
たいと計画 していると話され 、 学
術会議 ・大学院につい ても説明さ
れた 、 続い て山 本病院長より病院
の経営状況に ついて詳 しく話され
た
。
朝食後旅館の正面で記念撮影を
終り待望の懇親旅行の幕を閉 し再
会を約 し家路についた 。
なお 、 この会のために大学 ・同
窓会、渡来伊太郎、市川欣 二、 原
田進 、大村太子二、中久喜八十、
江川三郎の各氏より多額のと寄付
をいただきましたことを厚くお礼
申しあげます。
参加者次の通り(敬称略﹀
関根永滋先生、松宮誠一先生
真、 三 輪 源 七 、
鐙雄、 小山内喜久治
、
語て原徹
(=一輪記﹀
一男織の鴨川
こと しの東四会は南一
で開催された。
六 月 七 日 十 二 時 に 、房総西線
(内房)館 山駅に急行列車が止る
と 、改 札 口を続々と出てくる馴染
み の 顔 七 遠 く 佐 賀 か ら 、 岡山 か
ら、和歌 山から 、名古屋から、佐
野市から。
﹁おや井原君が見えないね﹂。
﹁乗り遅れたんだろう 、 一列車待
とう﹂というので次の鈍行の着く
のをまっ。やっぱり来ない。﹁鴨
一
房総半島の南端を海に沿いながら
鑑賞、外房鴨 川 へ行士うというの
でふある。
ガイ トの少女が虎の巻を見なが
らの説明もたどたどしくてむしろ
可憐であ る。そのいう右方を眺め
るとなるほど伊豆の大島が淡く浮
一パラダイス前
んでる。やがて南房
に車が駐って中に入る。ここは緑
したたる松の丘陵を背にし 、広々
たる太平洋を前にした一四五 、。
川へ直行したのだろう ﹂ と総勢二
十一名、待っていた貸切パスに乗
り、車内で昼食をとる。 これから
00平方米の広大な地域に 、 いろ
寺本定治郎、中 久喜八十、
中沢 明 一郎、中 崎 勝 二 、
中村正尾、原田進、
真栄田義光、宮 下 清 、
宮下一郎、村田勇義、
同 夫 人 、黛 誉 治 、
八 杉 和 一 、 山 口 敬 蔵、
山本義茂先生
五十嵐庭治、 石井武之弼、
市 川 欣 二、江 川 三 郎 、
小野富太郎、太 田 岩 吉 、
大村太子 二、 折 井 忠 、
斎藤{富太郎、清 水 信 元 、
杉 江 玄 照 、財 部 盛 行 、
会
六月十一日緑深い青葉の候箱根
だ
陸地井
森挽上
山口長太郎、渡来伊太郎、
9
宮 ノ 下 温 泉、 っ た や 旅 館 におい
て、 春期懇親旅行を催 した
。
この日東京は盛 夏を思 わす よう
な蒸暑であった。喉か し箱 根 は と
思いきや 、 ここも今までにない暑
さとのこと 、その汗を抽出量豊かな
温泉にしたり一汗を流し開宴前の
一刻を夫々の部屋部屋で懐旧談や
近況に時を過した。定 刻 六 時 よ り
~
四
会
必
』
東
遊
ス
学長 、 副学長、病院長を迎え地挽
幹事の司会により開安となった 。
先 ず、 井上会長より昨年以来の
久潤をのべたのち、今 席 は 関 根 学
長、 松宮副学長、 山本病院長及び
遠路多数の会員のと参加を得たこ
とのお礼をのべ、今年三月にてお
誕生の祝屯を予算の関係上打切っ
ていたが長い間の習慣で折角の誕
生日にどこからも祝屯をもらえな
いのは淋しいとの会員より声があ
ったので今度は又祝電を贈ること
にした 、従って来年度から会費の
値上げをさしてもらわなければな
らないと思いますので予めと諒承
願いたい。
又、 本年四月より松本、東北の
両校が姉妹校として発足を見たの
フ
一
よ
り
東
ク
フ
一
会
だ
た。なお幹事は次のような事を附
の後、この一年間に他界した矢崎
正方君、真砂己義君及び多くの逝
去会員の冥福を祈って黙梼を鋒げ
当番幹事の開会挨拶、経過報告
﹀円ノ。
止郎君の来訪あり 。 東街一級下で
浅野の親友である。同席してもら
で広間に集まり、懇親晩餐の会を
開く。其の時鴨川で開業の鈴木敬
ろいで鳥居君が持参の静岡の新茶
のうまいこと。
やがて入浴、すがすがしい気分
が寄せては返している。まずくつ
室いずれも東の窓は太平洋に向
い、庭先からつづく砂浜に、白浪
君夫妻が既に待っていた。
旅装を解いた二階の部屋は 、 五
を楽しませ、四時半鴨川吉田屋旅
館に着いた。みんなで案じた井原
途中、白浜灯台や太海(ふとみ﹀
のフラワーセンターに下車して目
蘭風の水車、城のようなレストラ
ン、小鳥館等々案内書にあるいろ
いろなものを見残して車に帰り、
があるね﹂と誰かがいってる。和
と咲きさかる花々を賞でつつ歩い
た。﹁これだけでも見に来る価値
いろの施設があり 、 私たちは三O
O 米もつづく長い温室内に幾百穫
ス
言した。﹃下関の続君は目下高杉
耳目作銅像委員会の委員長として東
り
r
敬止郎君より一同に房州土産を贈
て いる。一風呂浴びて窓外を見れ
ば前の渚に釣人ふたり。サンダル
つっかけて浜に下りる。風強く海
場をのぞけば 、 湯 を 満 々 と た た え
ら 朝 湯 は あ る ま い が 、念 の 為 と 浴
きうねりに船乗りにけり
鯛の群たちまち沈みゆきし時大
写真説明。後列左より。
栗 林 夫 人 、浅 野 豊
、
快諾してくれましたから御承知く
ださい。(浅野記)
来年の当番幹事は下関の続君が
下りて言った﹁これで僕は大原の
土を踏んだ﹂と。ナル程それに違
いないね。さらば諸君 、 文 会 う 日
まで健康に注意しましょう。
の大原駅で幹事は諸君と別れた。
大原駅につくと小倉君がホ│ムに
時発両国行上り急行に乗車した。
この線は房総東線といい、途中
パスで駅に行く。栗林君は令嬢
の待つ木更津岩根に行くべく下り
列車に乗り、他は安房小湊駅十三
す。簡素だが味噌汁の熱いのが旨
かった。
し、 遅ればせながら長い参道を通
って日蓮宗本 山誕生寺に詣でる。
再び浜見屋に戻り 、 昼 食 を 済 ま
波が高いので危険と思うのか 、
乗員らも長くはそこに止まらず
に、 早々と帰路につく。上陸して
鯛類の資料館に半時間ほど見学
って下され感謝いたします。吉田
屋社長よりも特にフルーツの饗応
ありお礼申上げます。
六月八日。早起。温泉でないか
も荒れているのにとビクをのぞけ
ば、名を知らぬ魚が三尾まだヒク
ヒクと動いていた 。
井原君夫妻は用事があるとて 、
食事もせずに八時の列車で上京し
た。一同は朝食後九時すぎに、宿
のマイクロバスに乗り 、 安房小湊
に向って出発した。窓外には白砂
青松の浜や岩礁累々と散らばる荒
磯が去来する。車内は賑やかに話
がはずむ。この海の向うがアメリ
カですよともっともらしく誰かが
いったりするうちに、車は誕生寺
の門前につく。
一向、吉田屋取引の浜見屋とい
う家に荷物を預ける。今日は浪が
荒くて 、 鯛見物の船は出まいとあ
きらめていたが 、 平常のように出
るという。そんならと勇敢な十名
は早速発着所に駈けつけて、折か
らの出船に乗り、日蓮上人ゆかり
同正幸(嗣子)、 阪 野 雪 男、
岡本美代司 、 成 川 隆 明 、
井原協て篠原辰之助、
の妙の浦に 向 う 。 防 波 堤 を 出 る
と、さすがに高波がつぎつぎに押
栗林真吾、福田夫人
し寄せる。その高いうねりに乗っ
hu
瞬間
は、思わずみんなで声をあげる。
小倉信男
前前列左より。
中列左より。
鳥 居 重 平 、 福田
た小船が急に波聞に落ち込
声をあげたあとでみんなで大笑い
b
見える。波聞を閃く大きな鯛の群
する。漁師が餌をまく。見える。
事の音頭で東四会万歳を三唱して
時は移るが隣り同志、向う同志
で懐旧談はいつまでも尽きようと
しない。があすの日程もあり、幹
ん姿で身も軽くレコードに合せて
﹁水鐙﹂というのを踊りまくり、
鴨川芸者の目を張らせた。
参詣にちなんで、ケサを着た坊さ
が、福田夫人は明日の小湊誕生寺
浅野君の越後追分等が披露された
都々逸、井原君の﹁関の五本松﹂、
いう礼状が来ました)
ついで余興に移ると、成川君の
員会に送付した処、ロハ今の小生に
とり天にも昇る感激でありますと
の 会 計 精 算 の 結 果、 七 千 円 を 加
え、金参万円を同君の銅像建設委
ありて 、 立ちどころに二万三千円
の拠金があった。美しい友情のあ
らわれである。(後刻今次東四会
の事に及ぶと、福田夫人の助言も
るか﹄
拍手が起こったので、みんなで
遠く離れている続君の声をきい
た。幹事の言葉が続君の義挙応援
聞 い て 下 さ る な ら 光 栄 だ と テ lプ
を送って来たので諸君聞いて下さ
会に参加できないで残念 という
書面が来た。且つ最近同君の講演
したものの録音を食事の聞にでも
奔西走しており、為に今年も東四
よ
各々自室に引揚げた。なお、鈴木
益
ク
1
0
浅 野 夫 人 、成川 夫 人、
小倉 夫 人 、篠 原 夫 人 、
井原夫人、阪野夫人、
故斎藤久夫人、神木 房 子
(斎藤君令妹)鳥居夫人、
岡本夫人。
三泊 四日の 旅
大正八年卒の H互発会 H は 、 戦
後はじめて親睦会をもったのは 、
十年前昭和三十七年東京の日本閣
でした。その後毎年日本各地を旅
行して 、 昨年は 、東 北 地 方 を 五 泊
六日の観光旅行をして 、楽 し ん で
きま し た。その席で 、 た ま た ま 私
が当番幹事を申しっかつて 、 本 年
は愛知、 三重両県を三泊四日の親
のためにはスケジュ ー ルを共に 、
ご馳走で 、 忘れかけていた昔の味
を想い出した。古稀をすぎた者に
は、 懐 し い味でもあった。
た
伊良湖岬の太平洋の波しぶきを
眺めながら 、 渥 美 半 島 の 先 端 の 宿
で南国情緒を味いながら宿泊。
にでかけ、 妙厳寺で、精進料理の
貸切観光パスで、豊川稲荷参り
宿泊地とその周辺のガイドブック
を作製して 、 会員各位に郵送もし
ました。
出発は 、 五月十六日午前十一時
に、豊橋に集合のことにきめた。
豊橋地方はその前日まで雨が降っ
て、心配したが 、 好都合にも、こ
の十六日には、近来にない快晴に
恵まれ、孝さきのよい出発となっ
翌日はゆっくり朝寝を楽しみな
がらも、午前中に伊良湖水道を、
オーバーフラフトで約 二十分ほど
で、対岸の志摩半島鳥羽港にわた
る
。
明治生れの日本人なら誰しも思
う﹁お伊勢さま﹂大神宮の神前に 、
深々と頭をたれて 、 戦前、戦中、
戦後のさまざまの﹁想い﹂に、感
慨 一し お だ っ た と 思 う 。 そ の 晩
は、太神宮の地元二見に宿泊。伊
勢といえば﹁赤福餅﹂の本庖を訪
て、 経 済 大 国 日 本 の 発 展 の か げ
に、 こんなに濁った空、太陽もか
むような汚染に驚いた。なるほど
産業公害の﹁ことぱ﹂の重さを泌
四国大会で決定したのでその準備
幸いにも河村君の郷里出身者で
もおさおさ怠りなく何回かの準備
会を経て愈々五月中旬実行の運び
に漕ぎ付けた 。 本年は追悼法要が
主となり旅行は従となった。
あり中前同窓の江口御老師が鶴見
お願いして総持寺で執行さるる事
4と感じた人も相当 いたことだっ
たろう。
ともあれ、五月十六日から十九
日まで 、 三泊四日の旅のなかで 、
天気にも恵まれ 、 楽しい想い出に
残る﹁旅﹂になったのも、参加者
わず遺族及ぴ会員達予定通り集ま
る。二の膳付の立派な精進料理を
出 され、 その上予期も しなかった
結構な盤若湯迄たっぷり頂いた。
の備 を唱えてから箸を取る。
これは禅宗独特の食事作法であ
やが て夕飯の時刻となり 、案 内
されて別の大広間で夕食を頂く。
先ず係りの坊さんの指導で五観
増し、浮世の汚れた塵を洗い流す
様である。
する。折柄雨は一しきり激しさを
仏殿、僧堂、庫裡等 数 々 の 宏 壮な
建物が建ち並び、さすがに大宗門
、
の祖山にふさわしい感を深く し
且つ禅寺特有の清均しい雰囲気と
相待って身も心も洗わるる思いが
長い廊下伝いに太祖堂を初め、
の間(貴賓室)に通されて少憩の
後修業僧の案内で寺内を一巡す。
ったのでタクシーで曹洞宗大本山
総持寺に参り、紫雲台の客問、松
先ず五月十五日午後三 時鶴見駅
に集合、五月雨降りしきる中を厭
に相成った次第。
総持寺で副監院、庶務部長の要職
におらるるので、同御老師に万事
の心を一にしたおがげで 、 みんな
元気で最後まで行動できたこと
が、 世話役としてはありがたかっ
た。 参加者名簿はつぎの通り。数
字ω
の は夫人同伴者です。
参加者
松 本 績 ω、 多 重 守 ω
伊藤英一ω
郎 、遠 藤 駿 ω
三
橘高八郎
ω、小司馬秀ω
俊
河 野 源 造 助 、 田 中 健 之ω
助
西村禎裕
三
ω、 原 田 栄 ω
ω
ω
ω
宮 川 仁 三 郎 、吉 沢 八 郎
大森保
当番幹事、西村
L
大正九年卒
月新緑の好季節に恒例の様に続け
られて来たのだが自分達ばかり楽
しんでいたのでは 、 亡 き 旧 友 に 対
して 何となく済まない気がするの
で今年は旅行に先立って 亡友の追
悼法要を しよ う と いう事に昨年の
吾々赤心会の懇親旅行は毎年五
禎
裕
ねたり、その土日の遊廓古市をだず
ねたりして、一度は来る筈にして
いた伊勢の見物に、みんなと満悦
の態。
用意されたパスで 、 再ぴ伊勢路
を南下 し て、湯の上温泉で 、第三
泊めホテルに入る。さすが伊勢路
だ。こんな山の中でも、 さぎえの
会
睦旅行になりました。
だ
心
,
お正月もすんだ二日はじめか
ら、 旅行業者とも打合せながら、
十周年の記念の年でもあるので 、
従来とは趣をかえて、﹁昔の味を
楽 しみながら 、
心のふる里を探り 、
一面では 、 産業の伸展に伴う公害
言葉
料理が出た。
こんどの旅の最後の夜とあっ
て
、 疲れも忘れて 、 にぎやかに親
睦の実をあげる組が 、 いく組もい
る。翌日は 、日 本中知らない人の
いない公害の街四日市市を ま わっ
1
1
第一報から第四報までの事前連
A
赤
会
の実情も﹂と考え て、 三 河 路、 伊
。
勢路の旅を立案しま した
フ
一
り
発
ス
絡を緊密に して、 一人でも多くの
参加を呼びかけることに し た 。 そ
一
よ
互
ク
フ
一
ス
A
Z玄
だ
慰霊祭は去る昭和十五年雅叙園で
亡 友 の 冥 福 を 祈 っ た 。 亡 き 学友の
前に進み、心からなる焼香をし、
吾等列席者は 二 列 縦 隊 で 須 弥 壇
り、厳粛且つ懇ろに営まれた。
副厳院初め一高僧達大勢の方々によ
いでになり不在たった、が 、監院、
主岩本禅師様には生憎愛知県へお
A 点の物故者六十有余
続いて五日が 主
名 の 追 悼 法 要 に 移 る 。 当 本 山 の貫
がら待つ程にその行も漸く終り、
た。膝頭の痛くなるのを我慢しな
により暁の権行が厳かに初められ
指定の位置に座して待つ程にえら
いお坊さん方初め何十人かの僧侶
の引率で廊下伝いに太祖堂に入り
る。廊下に二列縦隊に並び修業僧
の夢を破られて起床。
洗面清帰後愈々法要の本番とな
僧が廊下を走りながらの振鈴に暁
明くれば十六日は早暁四時修業
屋 で 宗門 関 係 の 映 幽 を 観 賞 し て か
ら明朝の起床が早いので紫雲台の
一室で早々に寝に就く。
りには驚いたり、うれしかったり
のミックスだ。夕食後は又別の部
まじホテルも及ばないサービス振
同 じ 宗 門 の 大 本 山でもこ の様な
相違は両本山の性質の相違か 、な
など絶対禁止である。
筆者は越前、氷平寺へは度々上 山
し宿泊したがあちらはアルコール
ク
君を煩すのもどうかと因。ぃ 、 時 に
は拙文も一興かと思い当番序に書
の諸君と来た頃は乗り物の便はな
籍中、岩垣、大久保、佐藤、大沢
去る大正十一年初夏の頃慶応在
封を寄せられた左記の諸君に 厚 く
いたので御了承あれ。
島には一軒の家もなく白秋の
く横須賀から往復歩いた頃の事共
思い出された。
会員中出席されなかったが金一
お礼申し上げます。
きながら眺めて車は三渓聞に到
もそこそこに出発鎌倉に入る。
横浜市街もガイド嬢の説明を聞
柴 田 実、 田 村利威、宮本俊治、
大 久 保 禎 五 郎 、明 楽 、 久 保 田 各 御
着、ここで軽く昼食を取り、休憩
のみで鎌倉八幡も車中から眺め 、
駐車の関係で建長寺へ立ち寄った
スは国定公閣の見事な海岸線を走
らないのだが 、 これも端折ってバ
た。房州も名所旧蹟では他所に劣
東京湾も湖水の様な静けきであっ
今Uも 絶 好 の 天 気 で 風 も な く 、
谷に渡る。
ル出発、久里浜からフェリーで金
明くれば十七日午前九時頃ホテ
此 の 土 地 は い う ま で も な く 、 鎌 たのだが今はそれもない。今宵の
倉時代の古都として名所山積数知 宿は城ケ島温泉ホテル、今暁の寝
れず 、い ち い ち 立 ち 寄 る 暇 も な し 、 不 足 を 取 り 返 す た め 夕 食 も そ こ そ
こに寝に就く。
﹁城ケ島の雨﹂の気分も満喫出来
遺族。
引続いて旅行出発までの時間を
利用して昨年開校したばかりの当
本山経営の鶴見女子歯科大学を見
学 した 。 山 門 前 の 境 内 一 角 に 偉 容
を誇る。
長尾学長は不在どったが副学長
初め幹部教授述も杉山君と旧知の
バスは逗子 、 葉 山 も 夢 う つ つ の 間
に過ぎ今暁四時起床のたたりで概
ね白河夜舟の中に目的地城ケ島へ
お早いお着きでした。
間柄か殊の外懇切なもてなしにあ
ずかり履近の設備を一通り見学
し、五口等 大 正 時 代 の 頭 脳 の 持 主 に
は殊の外珍らしく参考になった点
変り果てたには驚いた。
り館山を後にして植物と小鳥の宝
庫南房パラダイスに到着、昼食後
御内室の一日も早き快復を祈る
次第。また所要のため法要不参加
ーを楽しみ天津小湊に入る。
附近もすっかり近代的観光地に
も多かった。
やがて旅行出発の時間ともなっ
たので同校を辞し門前に待機して
は白浜、南国間フラワーラインを経
広 い 圏 内 を 自 由 に 散 策 の 後、 パス
これで追悼法要の行事は滞りなく
終了したので続いての旅行参加者
の兼松君がパスの中で待っておっ
た。パスは予定通り十一時出発、
レス。海、山の幸で盛大な宴を催
余 り に も 有 名、 今 宵 の 宿 は シ l パ
て鴨川に至り、世界の海獣と魚族
を除いて名残りを惜しみつつ再会
旅の記事も詳しく記したいのだ
三 浦 半 島、城ケ 島から千葉県一房一州
にかけて二泊三日の旅に向った。
尚御多忙中にも拘らず御遺族と
岩垣、武藤、海野、若田部各未
し 上 げ ま す。
亡人殿
岩垣御令妹、市原、中国各御令
息殿
が法要の記事が意外に長くなった
のでこの方は端折って要点のみに
し赤心会の内規を定め明年の当番
を 埼 玉 の 高 野、 宮 本 の 両 君 に お 願
生寺に参詣してから舟を妙ケ浦に
翌十八日は先ず日蓮宗大本山誕
いして旅の最後の一夜を閉じた。
で軽妙に報ぜらるるのが毎年小畑
例年この記事は小畑君の軽い筆
止める 。
小湊は日蓮上人生誕の地として
を集め東洋一を誇る鴨川シlワl
ルトに入園 、 シャチその他のショ
して御来会下され且つお心付けを
の日を期待しながら散会した。
賜わった左記の方々に厚く御礼申
はすっかり天候恢復後、日本晴れ いたパスに乗り込む。杉山君は夫
人が病気で入院中のため法要のみ
の好き日を迎えた。
一同勅使門の前で記念撮影をし 、 で帰った。
々を頂き一同感謝の連続だ。
昨日は終日雨に降られたが今朝
また大本山特独の好き記念の品
らいと心から感謝する。
これも江口御老師の特別のお計
りには全く恐縮の外はない 。
て 朝 飼 の 膳 に つ く。
朝から盤若湯付きのサービス振
も 終 わ り 、 一入清々しい気分で一
同太祝堂を辞し、別聞に案内され
これで赤心会本年の大切な行事
てならなかった 。
し心の重荷が下りた様な感じがし
執 行 し た の は 初 め て で あ り 、五回等
も亡き友に対して責任の一端を果
天下の大本山で心の穏った法要を
執行された事があるが、この様な
よ
1
2
催した。前日九日よりの浅虫混泉
の宿泊組と 、九日夜上野 発の夜行
寝台車組が、十日朝浅虫温泉駅頭
に集合した。前日の悪天候は嘘の
ように晴れ上り、先ず先ず好調の
﹂L
り出し 。卒業以来半世紀振りに
会った山田義雄君も 、 元気で顔を
見せた 。岐阜の古向井 君 夫 妻、淡路
島の富岡君夫妻も顔を見せる。 パ
スは八甲田山を下って、大町桂月
のこよなく愛した 、奥入瀬の渓流
に添いつつ、十和田湖に着く。
パスガイト嬢の美声に酔い、会
員諸君のお国自慢の歌が盛んに飛
び出す。 烈風中だが十和田湖の双
胴船の遊覧も文快適。 流石立日に名
高い十和田湖の緑の風物は格別
だ。湯の瀬温泉に着く。今年度の
主当番白須賀君の司会で 、 物故会
員の黙悼に続いて 、鈴木君の庶務
報告あり、宴会も輿に至れば 、 若
き日の思い出などに花が咲き、寝
に就いたのは十二時過ぎピった 。
出席会員次の通り
大 西 夫 妻 、 田 中 夫 妻、
玉井夫妻、古向井夫妻、
鈴 木 夫 妻 、富 岡 夫 妻 、
山 内 夫 妻 、 平 井 夫 妻、
岡 本 夫 妻 、山 口 夫 妻 、
松 浦 夫 妻 、石 津 夫 妻 、
奥村夫妻、久保田夫妻と
姉 様、竹下 君と令嬢、
藤 本 君 、 石 原 君 、 山 田 君、
明星君、原夫人、三宅君 、
白須賀君。
(久保田正一記)
から罪人の遠流の島という事にな
っているが 、今でいえば政治犯、
或いは思怨犯等で、 00大納言等
という肩書のある有名人もあり、
殺人、強盗等という強悪犯ではな
かったとの事。いわれればなる
程、文客、武人 のたしなみ能の舞
台柑守も随所に残り 、 日蓮上人遺跡
も数多くあった 。 その為め現在で
も能楽の盛んな地であるとの事。
根本寺、長谷寺、順徳天皇の御
陵等参拝、相川 の所謂佐渡の金 山
を見に行く。 今では完全に観光地
化し、品目の江戸無宿の水替人足と
して酷使された京話も電動人形で
残されているのみ 、
土日の悲惨な様
子は感じられない 。 日本海の荒海
にさらされる 、 尖閣湾の変化の多
い色の岩壁の連なる景勝を舟で廻
遊してより 、 ホ テ ル 大 佐 渡 に 入
る。
さすが古き伝統の霊山 、 巨大な
杉並木、 何 か襟をただす気鳴を感
ずる。精進料理の昼飯をすませ 、
上の山温泉に向い村尾旅館に最後
日を見はる。 相憎くの雨で温海祖
泉に向う途中 、 日本海の海岸の絶
景もかすみ 、残念乍ら見えず温海
似泉、 ﹁たちばなや ﹂ に泊る 。 佐
世保 の江崎君より祝電をうける 。
二十 一日は早朝出発、鶴岡市内見
物出羽 三山の一つ羽黒山に向う。
そぼ降る雨の中、 山伏姿の修験者
のホ一フ貝に異様な感じを受け乍
ら、山寺の説明を聞く。
の 連 中 で 出 演 さ れ た 。 初日は、
新潟に戻り、市内観光、佐 勝 倉 蔵
氏邸の錦鰹を見物。 山年の錦鰹に
第一夜の安席では 、本調、佐渡
おけさ、相 川青 頭、鬼太鼓、花笠
踊等が相 川町 の 立 浪 会 グ ル ー プ
(パス、タクシーの運転手の諸君)
Lー
│
本年度更始会の旅行及び総会は
五月十九日より二十二日まで 、佐
渡、庄 内 地 方 に か け て 行 な わ れ
た。 十 九 日 朝、 六時新潟港集会。
述絡船大佐渡丸の特別室におさま
り久閥を叙す。会えばともかく 、
楽しい談笑の内に両津港に着く。
本年は参加会員も多く 、 一台では
窮屈なので 二台のバスを仕立て 、
島内の観光に向う。 先ず車内でガ
イド嬢の説明によると 、佐渡は北目
会
進めて尺余の鯛の泳ぎ廻っている
のを観賞した 。尚パスを清澄山に
だ
始
馳って日蓮上人の史蹟を訪ねたい
のだが生憎道路損壊のためあきら
会
更
めて一路帰途につく。
途中千葉郊外のドライブインで
お別れの中食会を開き、バスは京
葉道路、環 状 七 号 線 を ひ た 走 り
に、午後 二時過ぎ早くも終点東京
駅に到着、本年の旅行も無事に終
了した。当番幹事としては出来る
限りの努力をしたつもりだが、何
分にもなれぬ事とて不手際の事が
多かったが幸い諸君の瓶い友情に
ささえられて大過なく終った事を
感謝して拙文を終る。 (寺嶋記)
出席者
西村一雌、坦凶豊造、
会
田 頭 規 短 て 水 野 史 郎、
小 畑 蕃 ( 以 上 夫 人 同 伴)
兼松山政 、梶剛 、高野福次、
宮本正治、河村喜久治、
長 田 卓 陶 、 高 木 彰 一 郎、
本 間 太 郎 、寺 嶋 謙 次 。
ス
翌十一日八幡平にパスは上る 。 さ
むさが身に泌みる 。 残 雪 にスキー
を楽しむ若人達の姿も見受けられ
た。 ふけの湯のオナメ ・モトメの
哀話を思い出し乍ら 、 花 巻温泉に
着く。
様の舞姿は今会の白眉だった 。 み
ちのくの旅を忍びつつ一ノ瀬で 、
来年の再会を約して散会した 。
1
3
来年の主 当番は鹿児島の三宅久
夫君とて 、南九州の総会のスケジ
ュールを発表。 岩手の山内君の奥
り
年
六月十日より十 二 日まで、 二泊
一一一日の十年会総会が 、 ご夫妻を多
数交えて、四十名の参加者を得
て、賑やかな東北地方の総会を開
フ
一
よ
十
ク
一フ
だ
に出て駅前のビ l ル パ ー ラ ー で お
る え 上 っ て 小 舎 に 逃 げ こ ひ。 仙 台
ず、夏シャツ、夏服の一同は、ふ
雪。 し か も ひ ど い 霧 に て 何 も 見 え
が、五月末というのに丈余の残
途中蔵王山頂のお釜で下車した
二十二日は最後のコ l ス 、 蔵 王
エ
コ l ラインを登り仙台に向う。
決定。
をささげる。来年の開催地につき
一向の賛否に問い能登半島方面と
氏と、亡き級友の為め、一同黙緯
後、間もなく亡くなられた松尾雅
の夜をすごす事となり 、 途 中 参 加
の清宮、 阿 部 両 君 を 迎 え 、 総 会 開
催。昨年の級会でお世話になった
会
別れパーティ。仙台市開業の三宅
よ
アロハ、女性はムウムウに変身一
る日米親善交歓レセプシヨンに一
ラント、ワイキキホテルで催され
イナップル畑を見学、その広大さ
に感嘆ホテルに帰り六時よりシエ
世部隊の霊に敬意を表す、丁度
﹁父 の日﹂の故か詣でる人多く花
二次世界大戦の墓アンパイル、二
アヌパリ。ポンチボlルの丘に第
ハワイ大学、訪問、ォイラ二宮殿、
十八日、定員四十名のところ二
十六名の専用パスにて市内観光、
︿好誠)、 山 口、桜井、 麻生
河村以上同伴組。
向出席、桑田博士の司会日系人会
休みして観光に真珠湾を望見、パ
成毛、大月、加藤、岡本、
長ジヱ│ムス米村氏、前日系人会
士、団長島田の紹介団員との名刺
イ島日系人会長福永御夫妻各名
実行家佐藤浩三氏、進々司法路マウ
ハワイの頂上よりハワイの全貌を
はレストラント 、 トップ、オブ、
近くの日本人墓地にも礼拝し昼食
が続々たち暗然として礼拝し辞し
えた 。 ベ ト ナ ム 戦 に よ る 新 規 の 墓
長小田安太郎氏、トマス津田嘉男 を抱いて泣いている妻、母の姿を
博 士 、ハワイ報知新聞社長円福氏 、 見 、 一同粛然眼底に熱きものを覚
﹁カナハメハ大王﹂風で有名なヌ
以上単独。
六年卒
交換、歓迎の御挨拶を戴き、団長
り各テーブルに一人ずつハワイの
方々が座られ、日米親善の歓談に
国の食事と同じ福永御夫妻今日最
一戻一り夕食は有名な、﹁京家﹂の日
眺め乍ら美味しく頂く、ホテルに
より御礼の言葉を申上げ宴会に入
昭二会総会で計画発表の通り今年
花咲き楽しき到着の夏の宵を過
す
。
り馳せ参じたクラスの面々二十六
界の楽園ハワイに遊んだ。各地よ
て各自にマクダミアンナッツ、チ
終便にて帰島のところ時聞を割い
名羽田空港ロビl集合、日航の配
二会総会を聞き各自今後共心身を
ョレ l トの高価の箱をお土産に頂
き御厚意を多謝し再会を期す、昭
度きもの否続くべきもの等談論風
々五々ワイキキ繁華街、左手は海
大事に行末永く、外地旅行を続け
で遅れ出発二十三時ジャンボ機上
の人となった。
発ハワイ気分に浸り夕食後散開三
辺の風を満喫しつつ夜の町に消え
た
。
一時間足らずヒロ空港着、 日系人
会長青木保氏の御出迎を受け一同
十九日午前八時空路ハワイ島へ
になるプルメリヤのレ l等 を 頂 き
光レンボ l の滝を見る青木氏の車
レィーを頂き専用パスにて一路観
早 速 ハ ワ イ 気 分 に 満 つ 、プリン
ス、ヵイ ウ エヤホテル に到着早速
桑田賢博士、佐藤浩三氏各名土の
歓迎を受け各自ハワイ香水の原料
ノルル歯科医師会長、日系人会長
午 前 十 一 時 ホ ノ ル ル 空 港 着、 日 系
人会長ジェ │ム ス米村、西力前ホ
太平洋上日付変更線通過十七日
で お 互 い の 健 康 を 祈 り 闘 い 復 手 で 慮により貴賓室を提供さる。
香港発ロスアンゼルス行使都合
散会した。(散会後、清水 、 清 宮 、
黒田、阿部、浅野誠、千野の六人
で級友を代表、病床の梅津君を見
舞う。病庄に坐す同君の様子を見
(千野記)
乍ら、依復を念じつつ辞した J
参加会員(順不同)
西山、千野、清水、鈴木、
鹿島、佐々木、浅野誠、
萩 沼、田 島、曽田 、 斎藤 、
三 浦 、 渡 辺、黒田 、大沢、
田沢、秋山、森下、浅野
本座敷での日本料理仲々の味で故
六月十七日(この時期ハワイは良
い 時 ) よ り 一 週 間、 世 界 の 楽 園 世
の重責を負わされ昨年千葉県での
何年来の外地クラス会挙行の夢
が今年実現する事になり、小生そ
﹂
山路、片岡、清宮、阿部、
り
日 米 視察 団
会
ス
君が夫人同伴で迎えに出て来ら
れ、一同喜ぶ。来年また会う日ま
昭
ク
に 藤 原 大 人、 上 野 君 、 西 堀 副 団 長
夫 人 檎 足 痛 小 生 同 采 、 マンゴーの
林に入り新鮮なマンゴーをパケツ
二 杯 に 採 り 、パ ス の 一 同 に 分 け 味
ぅ。シダの洞窟、世界的活火山キ
1
4
大牧場を眺めながら黒砂海岸に向
昼食後雄大な眺望と溶岩の大流、
驚嘆あるのみ、ボルケノハウスで
は 比 に 非 ら ず 唯 4その強大規模に
ラウエア火山見学、日本の噴火山
た。 ( 一メートルも吹かない時も
の真実性を裏書きする様であっ
ら白煙りを上げ岩がとどろき伝説
で丈余の潮が直径五十センチ空か
に沿い潮吹岩を見物稀に見る盛観
望 見、望 外 の よ ろ こ び と す、海 岸
受 け 貴 賓室 に 泊 さ れ 久 々 に て 奥 様
にお目にかかり団長島田より副団
問致し高良総領事夫人の御出迎を
内で日本総領事館訪問、急の御訪
三人はジェ l ム ス 米 村 会 長 の 御 案
団 長、 副 団 長、 地 方 代 表 藤 原 君 の
浴 、 散 歩 を 楽 し む 等、 この時聞を
伴だったので大いに感謝された。
現 し た。 そ し て 、 ほ と ん ど 夫 人 同
御紹介申し、日本の近況、歯科界
の現状など歓談し奥様の御案内で
二時五十分再びジャンボ機上の
載を感謝致します。
昭和八年卒
ll
追 H ハワイ報知、円福社長に記
各 歯 科 医 ハ ワ イ タ イ ム スより
写真は左より西郷、島田、藤原
会、 国 家 の た め 奉 仕 せ ね ば な ら ぬ
ことを教えられた。
尚、一行は帰国した。
ハワイで感じた収獲は、人聞は
自 分 の た め に 働 く だ け で な く、 社
四万人で歯科大学も十五、六校あ
る
。
日本は人口一億、それに歯科医
光したが、よい印象をうけた。
会ではハワイの代表にも出席して
頂き、有意議であった。各島も観
十七日夜、 シ エラトン ・ワイキ
キ ・ホ テ ル で 催 さ れ た 日 ・布 交 歓
う。坦々たる大ウヱーを約百八十
ある由)
庭園散歩楽しい数時間を過し夫人
の御見送り後ハワイタイムス社訪
長 西 堀 一 夫、 地 方 代 表 藤 原 鎮 雄 君
キロのスピードで ブラックサウト
ア河に遊び三度朝、昼、タ色の変
問常務平井隆三氏に面接近況歯科
P
に着く、 青木 氏 の 御 案 内 を 受 け 文
ココパlムズホテルで昼食平和
な村の気分を味い昼食後、ワイメ
普からの貴族の結婚式場、現在で
るハウの花を両岸に賞でシダの洞
窟に上陸す、世界に一つしかない
字通り予定を終り記念撮影をし て
手を掘りながらここでお別れす
る。一 同 コ ナ 、 ヒ ル ト ン ホ テ ル に
到着庭前に咲き乱れるハイビスカ
スその他の花で旅行の思い出を増
人となり 二十 三 日 夕 刻 無 事 羽 田 着
昭 和 二年、 東 京 歯 科 大 学 に 入 学
夫人を同 伴 、 各 島 を 観 光
東 京 歯 科 大 学 昭二会
日米親善交歓
水川勤、早乙女篤、小林喜久丸
大森茂春、高橋信吾、藤原鎮雄
大 鶴 悦 郎、吉 野 正 巳 、 上 野誠三
原島敏之以上(島田宗武記)
二十七分でホ ノ ル ル 空 港 に 帰 着 休
思い出の日程を終る。知ってる人
界 の 事等懇談、 そ の 談 話 は 夕 刻 の
新聞に発表され一部ずつ米村、佐
す。ハワイアンバンドの演奏を聞
藤秀雄氏の御厚意により裁き持ち
きながら大いなる南海の大夕焼を
も若者達の式場に使う由、船の中
洞窟の前等でハワイアン、ソング
を響かせ、聞き観光を終り。
堪能し肺然たるスコール一興と夕
センターまでパスで一時間半ポリ
知 っ た 人 々 の 事 が 目 に 浮 ぶ 。 以上
息する。夕刻よりポリネシヤ文化
二十一日午後二時リフェ空港発
帰 る。
食 を し た た め 島 の 一夜を過す。
に到着大断崖上、野生の黒山羊を
二 十 日 午 前 九 時 五 十 分空 路 カ ワ
イ島へ向う、到着後ワイメア渓谷
ネシヤ料理を味いポリネシヤショ
本航空の小山、石川、ハワイの斎
ス米村その他の方々に大変お世話
になり、その上一人一人に高価な
μ
、 二十二
し た 同 窓 生 昭 二会 H が
-明 年 四 十 周 年 を 迎 え て 、 記念
名のハワイ日米親善視察団を組織 総 会は北海道で開催することに決
。
して去る六月十七日来布、各島を
定
し
た
夫婦仲良く観光した 。
O
去
る五月十八日鈎回四海会
けさ団長の島田宗武医博(東京)
総
会
は 、 地 元、 杉 本 君 の お 骨 折 り
を 初 め 、 西 堀 一 夫 ( 東 京 ) 藤 原 鎮 で、
伊豆船原ホテルで開催された。
でアラモアショピングセンターで
出発まで免税広で、ダウンタウン
ム 集 合 地 新 幹 線 三 島 駅、 用 意 さ
れたパスが待合所とされ、西から
の案内で挨拶に来社した。
東から、ャアヤアと久仮りの談笑
で一パイ。
雄(滋賀)一 二代表 が 米 村 通 協 会 長
島田 、 西 堀 、 藤 原 三 歯 科 医 の 談
昭二会は十年まえから一度ハワイ
お土産をいただき原く御礼申し上
す。文、日系人連合会長ジェ l ム
御厚意御配慮に深甚の謝意を表
藤 専 務、日 通 の 渡 部、近藤、樋口
ハワイ協会々長浜田音四郎諸氏の
快適な旅行を終るにさいし特に日
ーを見物する、日航関係日通の樋
口ガイドの並々ならぬ御尽力でよ
い席取れゆっくりハワイの夕べを
満喫して午後十 一時頃サ l フライ
ダ l ホテルに帰りハワイ最後の夜
会
定 刻 を 少 々 廻 っ た 頃、 一行を乗
M
せたパスは、
伊 豆 の 踊 子 H の舞
げます。
を惜しむ。
二十二日ホテルで朝食後二時の
海
で同窓会を開こうと計画、みな忙
しいので 、 そ の 夢 が や っ と 今 度 実
各 自 お 土 産 を 買 う 方 4ゴルフ、ホ
団長島田宗武、副団長西堀一夫
地方代表藤原鎮雄
出 席 者、 同 伴 者 下 江 信 て 北 条 直
島 田 宗 武、 百 瀬 勇 逸 、 西 堀 一 夫
1
5
テルの庭続きのワイキキ海岸で水
よ
り
フ
一
ス
ム
ヨ玄
だ
引受けたと 、代表して挨拶し 、級
友いずれも奥方向伴で多数参加し
てもらいたい、僅か 三泊四日であ
るが 、 日本にもヨーロッパ的 、広
大な牧歌詞風景のあることを是非
見せてあげて下さいと結んだ 。
東京代表、小坂君から経過報
告、山口、加藤両君より庶務、会
北海道の平井君が開会の辞を兼
ね、 明年七月、四海会卒業ω周年
記念総会は、北海道の七人の侍が
放されてかヤレヤレといった面持
がうかがえる 。
ム 吉井司会で物故会日以に黙祷
を捧げ開会。
風景である。
先ず記念出影を済せると、ゆか
た姿にくつろいで 、時刷三億円 、
重さ 卜 貨の純金風品で、ゴー
一
一
ジャ一
スな三
王侠気分を味い、旅の疲
れ を 流 す。
大広間は還暦を過ぎた面々 、 い
ずれも貫録充分務着はら ったもの
だ 。 同伴の御夫人力も係共から開
台である天城街道を 、狩野川に沿
って走ること四十分、道を右にと
って土肥街道をゆくと 、 やがて会
場の船原ホテルである。
緑の山々に固まれた静寂な地で
ある 。 掛間流に沿 った 六 万 坪 の 庭
園 、街道をはさんでうどん、だが
ポッンと一軒、仲々野趣に富んピ
ク
り
掘
江
会
る、 一見して鈴木君と見破られた
が、彼一流のユーモラスな調子で
一席ブッ 、 それは闘病生活を送 っ
ている長尾委員長を更に元気づけ
ようとの提言である。次で村瀬君
が立って長尾委員長の近況を告げ
た。 目下の処 、無理は禁物だが、
すこぶる元気であると 、鈴木君の
提案に賛成の意を表し 、出席者一
同全員賛成 、すべては役員に一任
という一幕が終り 、役員一同ホッ
とした 。 一時中断の宴は 、 再び気
合を入れ直し 、互に汲み交い語り
合う 、 やがて小坂夫人の民謡まで
出て輿を沿えた。
亭主族は大変お行儀がよく 、 ど
うも酔人の域を脱した感。 まさか
齢のせいでもあるまい往年の意気
にくらべ て、少々沈滞 気 味 、当夜
F
すませとの之比白喰べるに夢中、宿に他界された船坂先生の一涙雨か館
泊地安房鴨川に八時に無理かと云山にて青空のぞく、期江先生と同
一生、 碑 の 傍 に 暫 し 立 ち つ く さ る の 罪 ﹂ の 碑 を 左 に 見、富崎館に着く少しでも御恩の御返しが出来たか
。
一が印象的 、 水 郷 は 時 間 , の 関 徐 に て 生 造 り 伊 勢 蝦 等 の 磯 物 の 食 欲 盛 と 自 ら を 慰 め 拙 筆 を 位 き ま す
一素通り鹿島神宮へ 、利 根 の 大 橋 を ん 、次 い で 東 洋 一 の 花 園 南 一 一 房 パ ラ 林 昭 男 記
一
出席者
一渡り茨域県へ 、鹿 島 神 宮 に て 空 腹 ダ イ ス に 到 着、 雨のため他に遊客
一
堀江御夫妻、 飯田母堂、
、
、永田 、 飯田 、小畑
一を訴えたる人々も 神 宮 奥 の 院 迄 な し堀江 会貸切の如し 、千 葉 の 南 大 久 保
、笹本、 川 上、佐藤、
一見学、 益々時刻過ぎる 。 河 口 の 銚 端 フ ラ ワ ー ラ イ ンを通り館 山市 内 野 田
、高木 、 林 (昭男﹀ 、
一子大橋を渡りやっと食につく堀江に入る拙宅に て暫 し休 憩、雨 も 止 杉 山
。
一会様一行の食卓に向うも三 十分 で み (白浜通過中 は豪雨) 旅 行 を 前 林 ( 東 二 ﹀ 、 安西(順不同)
う車を安全速度?八十粁位に運転期だった亡父の喜びのためか、最
計の報告があった。
手を督促一路夕日を浴び 、 ひ た 走 後 の 宿 泊 地 鹿 野 山 に 向 う 、 明 日 の
千 葉 県 一周の旅
O 記念品贈呈
悔 雨 入 り と て 天 気 の 心 配 も 測 候 り 、 三 十 分 短 縮、 七 時 半 に 鴨 川 グ 診 療 に 備 え 山 の 霊 気 の 中 静 か に 宴
、
東北歯科大学初代学長
一所よりO Kとの確報?を得て千葉ランドホテルに到達 従 業 員 の 出 が 行 な わ れ 姻 江 先 生 よ り 陶 歯 製 造
、
村瀬正雄君へ 一
。
県 一 周 二 泊 三 日の旅、堀江会は六迎えにてやっとくつろぐ 従 業 員 の 苦 労 話 等 に 聞 き 入 る 朝布志六
母校病院長山本義茂君へ
月 十 一 日 朝 九 時 千 葉 駅 を 愈 々 出 発 の お 嬢 さ ん 達 十 二時 迄 勤 務 延 長 し 時 起 床 神 野 に 詣 で 、一房総の連峰を
、
それぞれ級友から寄せられた祝
一
の運びとなる。 体 力 判 定 の た め 五 て 呉 れ る 芸 妓 は 一 時 間 も 待 た さ 望 み 朝 食 を す ま せ 九 十 九 谷 を の ぞ
意を 、長尾委員長に代って、小坂
日へ向う。 東洋一の観
百 粁 の 強 行 軍 を 行 う と の 通 知 に 恐 れ た と の 事、 諸 々 の 事 重 り 宴 盛 き 東 京 湾 鋭 ι
君から記念品として伝達され 、 一
、
れをなし 、 若 き 諸 先 生 欠 席 戦 術 を ん 歌あり踊りあり 、サー ビ ス 良 音 機 の オ ヒ ッ プ を 眺 め 浜 金 谷 に 向
。 ロー プ ウエーに鋸 山 に登り東
同拍手、可祝、可祝
採るかと世話人多少の不安を感じきタ飼に若き全会員大いにハ ツス ぅ
ム 山本君の音頭で乾杯、締麗
、
たるも、 定 刻 続 々 と 胸 を 張 り 集 つ ル 小畑蕃先生の詩吟、堀 江 会 に 京 湾 を 一 望 に 望 み 、 下 り て カ ジ ャ
どころのサービスで 一息入れる 。 、
て来た 。 駅頭にて既に周凶を威圧捧ぐ吟味特に光放っ、約四時間の旅館に着き円以後の昼食次回の打合
、
会員の近況通知が回覧され頃、忍
する様な元気、刷江先 生 の 御 令 嬢 安 終 り 各 部 屋 に 帰 り 又 々 談 笑 深 史 せ 等 し 、 約 の 車 に て 浜 金 谷 駅 へ
者もどきの風態の男が舞台に現
夫一妻(千葉大教佼嶋一利夫妻)の御一時に及ぶ波の音に目ざめ七時半房州に別れを告げ 一路車中の人と
る。 小生此処迄の御案内車中何
一見送りを受け愈々出発、世話人の従業員整列の中を出発、日蓮の誕 t
ったかは知らず、 思えば堀江
一老 婆 心 に よ り 五 十 人 乗 ハ ス に 十 六 生 寺、鯛 の 浦 沖 に て 尺 余 の 鯛 の 乱 が 但
。 千 先 生 に は 、 昭 和 二十三J 二十四年
、
山名 の 旅 少 し で も 楽 な 旅 行 に な れ ば 舞 を 見 日蓮の清澄山へ登る
一孝 と 念 じ つ つ 先 ず 交 通 安 全 祈 願 の 年 杉、八百年の俸の木等寺院に映に亡父なき小生診療所へ毎月一回
⋮ため成田不動係へ車は東へ走る 。 え日蓮第一声の昔、を偲ぶ 、 こ の 頃 従 業 員 指 導 の た め 四 等 車 に 矯 ら れ
日
千葉の南端まで約一年間学生の私
不動隊にて持思い思いに祈念し。 より雨降始む 、品購の声に山を下り
の案内にて御出で願 った頃を想い
一香取神宮へ、不動様と又変 った 神 シ l ワールドに着く。 シャチ 、イ
房州を先
一
再び明るさを取り戻した 一
一威、 武 人 の 神 に 暫 し 思 い を 馳 せ ル ヵ 、 アシカの珍芸に暫し我を忘
⋮る。 参拝終り佐原への途中、 故 花 る 、雨 警 c
一
房州一路を白浜へ 、海 底 生 御 夫 妻 始 め 諸 先 生 に 御 見 せ 出 来
無事御帰り願 った事 二十数年後に
沢先生の碑に車を停める。 掘 江 先 透 視 船 は 中 止、 菊地幽芳の ﹁己が
よ
一
、
⋮
一
﹀
一
一
一
一
⋮
山
一
一
v
1
6
.
.
0
.
~
だ
伊東正二(京都)、高田直秀(石巻)
山口誠一(青森)、中道嘉門(秋田﹀
若林一土大(沼津)、十河将階、同夫
人(大阪)、平井猛 、同夫人(北海
道)、増田悦蔵、同夫人(埼玉)、
河原武男、同夫人(茨城﹀、杉本
静 岡)、成宮貞一、同
幸、同夫人 (
夫人(長野)、以下東京、村瀬正雄
同夫人 、小坂力、問夫人、田辺和
三郎、柏倉武雄、前島鋭士口、加藤
亮之輔、山 本義茂、橋本栄 、小早
川隆季、中条弘、清信静夫、鈴木
伊三郎 、山口 重敏、吉井三郎。
(三郎記)
し
、 患者の信頼も篤く盛業であっ
た。太平洋戦争で 仙台市が焼野原
となった時は警防団員として 、文
救護班員としてよく働いたもの
だ。昭和三十六年より四年間、国
保の審査員や、県歯の代議員とし
て能く後進の世話役も 果した。之
からは人生を楽 しみ、花 も咲き実
もならうという時期に、病魔に魅
入ら 、鬼籍の人となるとは惜しく
も悼ましいことである。
しかし御泣族は奥様の健在を始
め、男四人女二人と子宝に恵ま
れ、夫々東北大学、山形大乍、学
期円院大学等と一流の学校で教育を
修め、皆社会人として各自立派に
活動しておられる。その山一茂君も
泉下にあって 、定めし安らかに永
Lー
│
本年は奈良、 京都の幹事のお骨
折り で京都新幹線駅八条円に午前
会
した観光地のためシ lズ γには宿
がとりにくいので特に梅雨期を選
定したにもかかわらず、前にも会
わず全日無事故にて芸達者な小野
君、 ユーモラスな民謡歌手佐々木
君(北海道)等芸人ばかりで、屋
島、栗林公園を振り出しに、大歩
危、小歩危、土佐 の民謡で名高い
桂浜、青葉の石槌 山市守の渓谷美を
探賞し 、松山城に登り、七佐の闘
犬、太万踊、 よさこい踊、伊予万
ハパ粁のパス
歳に興じ三泊四日の い
旅行に一人の酔った々も伽⋮く、琴
平参精一も無事来し山の緑紺碧の
海、 一流 ホテルでの山海の珍味を
満喫し来年の北海近 での 再会を約
して散 A一
致しました 。(松崎剛記)
v
同伴参加
佐燥、佐々木、大沢 、松本、
問 、 後 藤、
竹 村 、 小 野 、 iH
鈴木、宿 沢、徳 、北、神戸
水
、慎)、浅野、
勝ハ(立)、木村(
松崎 、藤尾。
単独参加
一
様 、 桑名、
岩 沼 、 武 藤、 日
望月、下原、 河,u紅 、 高橋、
山脇、越智。
昭和十
星
昭和四十七年度 総会
七
眠されておる,たろう。
御巡族の化所は仙台市本町二丁
目 二 ハ の 六 消 針 晃 一 様 で あ る。
(古同旧直秀)
h同 日 ー
μ
鳴
会
出演のストリップ嬢が Hこんなや
り憎い客は初めてだ Hとボヤいて
いたという。
ス
清野茂君の死を悼む
清野君は数年前に喉頭癌の診断
を下され 、病院で大手 術 を 受 け
た。その結果は発声 不能 となった
が、経過は良好で元気を恢復し 、
奥様を介在して筆談で診療が出来
る程迄になった。しかし昨年末再
よ
り
宴後、女性は別室に御退席、男
性は二次会へと席を改め 、 円熟し
た明治生れ 、山里 の余 花 を 交 え
て、旧交を温める。漸くエンジン
がかかったよう、さんざめき は深
更に及ぶ始末 、四海会未だ極めて
健在であった。
ム翌朝 、
船原 川の渓流に沿い 、
小径をたどりつつ 、草葺屋棋の田
舎屋で朝食をとる。
いろりの煙に包まれながら 、名
物のお狩場焼と郷土の山菜料理、
そこへ朝酒と来ては、正に下戸の
天国である。生け貨の鯉があらい
となって食前を賑わす。
席上 、話題は北海道から、堀田
君の新潟は佐渡ゆきに飛ぶ 、 そし
て叩年頃は周年を記念して海外へ
俺が案内すると村瀬君が大気炎、
その時は委員長を買って出るとい
みじくも発言して、全員から拍手
が送られた。かく して歓尽 きるこ
となく名残りを惜 しみつつ、 互に
自愛の上にも自愛 して、何 時の旅
にも参加出来る よ う 心 掛 けよう
と、明年北海道での再会を竪く約
して、自由解散。
発して 種々手を尽くされた甲斐も
なく 、 二月五日御家族一同悲歎の
中に遂に不帰の客となられた。真
に残念なことである。
茂君は土日の山形高等学校から東
四回路臨時総 会
歯に入学された。学生時代には四
その後諸先生方には益々御健勝
海会の総代を勤めた。我々の為め 、 の御事と拝察申し上げます 、此の
学校の為め随分活躍 し、また級友 たびの四国路に於ける鹿鳴会臨時
の世話をした苦労人であった。
総会に際 し会員各位の御協 力によ
卒 業 後 間 も な く 現 住 所 で 開 業 り参加者も年毎に増加の一途をた
どり本年は十八組の同伴参加を含
め四十六名の山席者で﹁青い四国
路﹂のキャッチフレ ーズで売りだ
1
7
参加者
森壱郎(三重)、中島良一一一ハ岐阜﹀
フ
一
ク
会
だ
総会を開催、相会する者九十名
(夫人同伴を含む)の多数で幹事の
お世話も大変だったと思います、
岩崎幹事の司会でゲスト近藤三郎
先生の音頭で乾杯次いで加藤孝一
君の挨拶あり 、舞妓芸娘の歌や舞
ル切り 、 小 林吉三郎君外二 、三の
隠し芸あり、最後に榎本赴君のタ
クトで校歌を合唱して盛会複に午
後九時半懇親会を終 了しました 。
一夜明け て小 雨降る中を天竜寺
の名闘を見学鑑賞 した一時糠雨に
会いま したが嵐山←高雄 に向う 頃
から次第に雨が止み晴聞を見る様
にな り、京都東山 の勤王 の志土が
会合 したといわれる﹁京大和﹂に
たる説明、がなされ 、そ の中に奈良
薬師寺に到着、有名な高田好胤師
の法話後見学、パスで京都の森田
歯科製作所 (スペースライン 、 X
線機械等)を見学して午後六時宿
舎ホテル嵐山に到着午後七時より
十一時に集合して 、近鉄観光バス
二台に分乗して先ず元興寺極楽坊
着、名物の普茶料理を頂き見学、
パスの中では明日香村の歴史を岩
崎君の歴史の先生の如く詳細にわ
ス
着く頃はすっかり晴れました。此
処にて昼食茶会を催しました。後
大藤孝組 、中亦柴俊輔、春山 正雄、
大西正夫、(以上夫人同伴)
山本弥市 、野 村 孝 ( 未 亡 人 )
小川洋、坂越突、唐木元て
川越久雄、池 山 正 、大橋正 三、
却都 、飯田良一、
大沢一康、藤 城 H
古 川 勝 、浅岡与一郎、佐藤水治
小林吉三郎、 尾 形 新 、 中 村 光 男
久 野 明 、 今 永 英 文、鎌田縄史、
古 川 俊 て 関 口 正 八 郎 、関 泰 昭
鏑木正直、福凶寿男ハ福田寿男記)
神田二郎、清水(橋本) 、峯皆、
朝倉重美 、夫馬嘉男 、前川秀夫、
小 徳 静 夫 、 吉 田 肇 、広 瀬 静 、
岡 本 治 、 庄 司 常 世 、 岩 崎 之、
クラス会総会が開催されることに
決定致しました 、 今年十 一月十八
日同窓会総会が東京高輪高輪閣に
て催される予定です、その後クラ
ス会を開き度いと思っております。
尚出席者は次の通り(順序不同)
長尾富士男、斎 藤 潔 、 矢 島 和 重
伊 藤 慎 て 援 本 社 、 穂 積 敏 夫、
加藤孝て吉村賢、井上稜、
礎誠三、伊藤保、五十嵐発附
関口浩、姫野守夫、榎本善二、
よ
り
十一月十七日ハ金﹀夜、 同窓会総
会前日に開催、 地方会懇談予定。
会
フ
にパスで京都駅に到着、解散夫々
帰路に着きました。
尚、来年は北関東を中心 にして
辰
ク
業態語ヰ鱒聴会
久
会
もらい 、彼の心境をうかがい今後
の活躍を皆で 祈りました 。夜 の宴
会は地元芸妓の踊 りと有志 の余興
、 最後に 小川渉 君の指揮で
等あ り
肩を組みながらなつかしい校歌の
合唱、夜の更けるのを忘れて痛飲
しました。第三日目は太平洋の地
平線を昇る日の出の太陽を拝み暑
て見学し九十九里浜を一路 、黒潮
騒る犬吠岬に向い第二日目の宿泊
地ニュ l大新ホテルに到着、計ら
ずも東京より 山崎数男君が馳けつ
け久し振りに級友に会い肩の荷を
おろして歯科界の現況を報告して
十時母校正門前より会員及び家
族含めて総員四十七名を乗せて汚
れた東京の空を後に車中賑やかな
笑いの内に一路紺碧の海と新緑の
松林とおいしい海の宰を夢見て出
発、途中金浜谷にて昼食の後白浜
燈台及び太海フラワ ー センタ ーを
見学、第一日目の宿泊地である鴨
川グランドホテルに到着、 浴衣に
着がえて夜の宴会は新鮮な山海の
珍味と郷土芸能の踊りに旅の疲れ
を忘れ賑やかに 過しました 。翌日
も天候に恵まれ鴨川をあとに日蓮
上人誕生の地といわれる誕生寺及
妙の浦の鯛の生態を小船に分乗し
兼ねて計画中の房総半島一周ド
ライブ旅行会は 、去る五月十九日
堅
い位 いの好天に全員元気で香取神
宮に参拝、花 沢先生の生家及び石
碑を拝見し 、成 田山 にて大休止各
自思 い思いのお土産を沢山買い込
んで開港間近い成田新空港を横目
に見ながら一路高速道路を東京に
1
8
コ
玄
だ
が、あとは晴天に恵まれ快調のス
。
ケジュ ールで した
柴山兄の絶大なる御支援の賜物
により思い出多い四日間を過すこ
とが出来ました。誌上をかりで改
めて厚く御礼申上ます。
雄
、
鈴木芳信、杉山英世、柴山 一
古賀俊彦、皆川好文、田中堅一。
以下五名は夫人同伴。
福 本 博 、林 輝 季 、 黒 岩 潔 、
会
熊谷一義、酒泉浪夫。
今秋の 同窓会は同窓会報で予告
のあった通り 、全同窓会員を対照
にした初の大懇 親会がハイライト
になっ ています。
一つ参加してみて下さい 。
私事で申訳ありませんが暫く
胃、血圧、脳が不調で御心配戴い
ておりましたが 、御蔭様で最近恢
復致しました。引続き二六会の為
め頑張り度いと存じます。(酒泉)
この写真、モノクロでは解り政 い
が、送られて来たカラ l版では、
正直いって、アジア、アフリカ会
議、於長崎、一九七二。
低開発国の民族展覧会、といっ
たシロモノ。段前列に一人で座り
込んでいる松戸の旦那に至つて
は、復員したアラブゲリラ。
五人の御令夫人の参加で救われ
(A-M)
た感じである。
.
.
.
.
向って走り続けました。この三日
間お互いに楽しい事、苦しかった
事等心情を語り合い、特に奥様と
も語り合い同級生とは良いなあと
思いつつ午後三時東京駅に到着、
楽しかった一一一日間をふり返り元気
し
よ
、 なご ︿出席者﹀桜井善行 、関谷三郎、
で次回のクラス会に期待 し
高 田 真 、田 中 滋 、 渡 辺 匡 、
りをおしみつつ解散致しました。
板倉一民、桜本要 二、北川裕久、
今回の出席者 は、同伴組は林、
橋 本 、 畑 、 小 林、 前原、 水野、
大野、田中(博)、寺田 、山 崎主口)
山田 (泰)、湯本、鈴木(譲)、 百東
金山、朝浪、小川(渉)、佐藤(摩﹀
以上十八組と単独組は、富士田 、
木村︿幹)、必浦、岡野、石、高野
滝、石川、小出、八回、入江、
山崎(数)以上十二名で した 。
最後に地元の百束君夫妻始め、
林、木村(幹)君には大変お骨折り
を願い感謝致します。
会計報告は後程各自あて発送致
します。十月には台湾の張春輝君
のお招きにより有志だけで台湾に
行く予定です。
昭和十八年
会
A、
、
"
常時集まる顔触れは 二十 名程度
ですが 、今年になって東京会を四
回聞くことが出来ました 。第一 回
は福本君の焼付けやポ l セレソの
話しとデモ 、第二回は坂 、児玉君
の東京歯科医師会の近況、第三回
は講師を招いてレヂ γ外装鋳造冠
の話しとデモ 、第四回は 理職代議
士(社会党)を呼んで政治討論会、
文八月末にも東京会を予定してお
ります。五月始めに第一回十六会
ゴルフコンベを川奈にて行ないま
した
。
出席者(福本、鈴木、村田、中
原、田中君﹀で少なかったが楽し
い一日を過すことが出来ました。
二月でしたか橋本君が松本歯大
へ教授として栄転されました。十
六会として活躍を期待して止みま
せん。私等現幹事(福本、鈴木貞
夫、田中﹀も今年中で任期が切れ
ますので、第四会東京会の席で次
期(
U
l
ω 年﹀の幹事(村田、坂
森田君﹀の決定をみました。それ
ω
ぞれ挨拶されましたが 、皆心良く
承諾されました。丁度 年は卒業
三十周年に当りますので、会員の
皆々様に協力を求めることがある
と思われますのでよろしくと のこ
とです。次期(必│必年)幹事は
山崎、北川、中村正男君がそれぞ
れ担当します。
七月始め に現地幹事の中村実君
に電話連絡致しましたが、今は三
十六名の申し込みがあるとのこと
(現地の会員は抜いて﹀でした 、
未だ少ないので早速二報の通知を
出すそうです。
多数会員、家族の出席を期待し
ております。何 にかお面白い趣向
もある様です。
この記事が皆様に届くのが八月
末になると恩われますが 、その時
でも出席 したくな ったら現地幹事
1
9
.
.
.
.
、
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九州旅行報告
九州観光旅行は 、本人十九名、
家族五名、計二十四名が参加し
た。初日の鹿児島で雨に遭った
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一
ク
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一
に相談して下さい。
勿論御承知でしょうが、東北旅
行会は九月十五 、十六、十七日 の
一一一日間です。 十六日が総会です。
無事に東北旅行が過ごすことが出
来ますことを切望して止みませ
ん。昨年の十一月に霞ヶ関ビル東
海交友会クラブにて十六会懇親会
を催しました。
写真を掲載致します。
右前列より 、青久男、伊藤隆、
五十嵐一之、泉川勇、白井純丈、
本 間 敬 、 木 村 伯 夫 、沢田清字、
福 本 忍 、 鹿 野 善 孝 、 高 凶 一 也、
飯田精て田中俊三、金子義泰、
菊 地 原 重 郎 、 山 崎 智、古田友三
山根照人、本山周次、小 沢 登 、
鹿 野 悦 生 、 字 梶 淳、鈴木貞夫、
城所進、堀江伸美君以上二十六
名でした。秋田 、青森の現地幹事
の御苦労に感謝致します。十六会
授の納入状況は昭和四十四年は七
だ
四 ・一%。四十五年四十六 ・一%。
四十四年は二十九%。四十七年十
四克です。御協力を御願い申し上
げます。
S ・T)
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り
東北術科大学解 剖学教授新任のお
祝もかねておりまことに記念すべ
き喜びの会となりました。
生の学長御新任のお祝とクラスメ
ートの佐藤勝也君の松本歯科大学
綴補学教授新任と池野谷達雄君の
お世話になった 、松本街利大学学
長恩師北村先生を念願かなって我
等の会にお迎え 山米、 二重の喜び
でありました。さらに今総会は先
戸市有馬鼠泉は﹁中の坊グランド
ホテル﹂に於ていづみ会の第二十
五回総会が催されました。出席者
実に六十七人というのは会史上初
めてのことで、また今回は在学巾
干の旅窓にタ燈が輝く頃、此処神
よ
総会は型泌り決算報告事業報告
を済まし 、 年度会代仰上げの件、
(五百円を四十七年度から壱千円
に)を議決し 、両君のお祝いに記
念品を贈呈無事終りました。続い
て懇親会に入り 、近畿支部の寄贈
になる灘の生一本四斗樟を舞台中
央に据え、北村学長木槌を障って
美事にその鏡を割られ析につがれ
た美酒を最遠来の中村君の音頭で
乾杯、大酒宴の幕を開ければ 、有
馬名物温泉太鼓やら紛麗どころの
粋な踊りなど酒問の余興もさるこ
とながら近畿支部ならではの特別
の催し﹁世界民芸品即売会﹂は兵
庫の清水君の玄人も遁走の名タソ
カぶりによって売れるは売れる
は。呑み語り笑いかつ歌ってお国
自慢の数々も出尽くした頃、全員
起って﹁校旗は燦たり﹂の大合唱。
あれからの二十五年の歳月がこう
して大声に唱う皆の顔を体をそれ
相応に変えて来たとしても変らぬ
ものは戦災で荒廃した水道橋界隈
で青春時代と共に生きたという同
士山感であろ うか。ど の限も心な し
かキラキラと濡れていた一帥でし
た。各自室に引取ってからも旧友
の往来頻 り、こと に北村先生の室
では恩師を囲んで午前四時時天ゆ
白むまで杯の伏せられることがな
かったほどでした 。 明くれば六甲
の山なみも輝く快晴、山々 を貫く
コlスを快適に走り名勝須僚の浦
の須磨離宮公園を散策の後、神 戸
市内の料亭で神戸牛の草大味に舌鼓
をうちしばし歓談の後心を残しな
がらも釆勾を約して解散しまし
た。当番の近畿支部として多数の
御出席を得盛会だったこと御礼申
上げ 、至らなかった点は心からお
詫びいたします。(山下記﹀
のC報告を申し上げます。
杉山先生、山本先生をと招待致
し、出席者は左記の五十一名でし
た。両先生と一泊 ・二日間 C 一緒
できたことのよろこびはと ても お
伝えできません。写真を眺めと想
像下さい。
出 席 者 阿 部 ・泉地 ・出井 ・青
木 ・石塚 ・神谷 ・小池 ・小菅 ・佐
藤(治﹀ ・桜井 ・坂田 ・多胡 ・田所
津島 ・鏑木 ・西辻 ・羽賀 ・広岡 ・
兵 藤 ・三 浦 ・森 ・天 野 ・横 矢 ・
西村 ・福旧 ・相旧 ・岩井 ・川口 ・
勝山 ・山本(勝)・杉山 ・見明 ・西
山尾山 ・塚本 ・島野 ・木屋 ・高橋
二十日 ・二十一日の東山翫泉にお
ける一則会総会も無事に終り、写
真もできましたので、会について
活躍のことと存じます。さる五月
︿﹀一期会のみなさん 、 お元気でご
~L
コ
玄
いづみ会 総 会報告
一一棋の山雨が峯々の緑を潤し百
会
ム
会
期
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昭和二十三年卒
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宅 ・大森 ・倉 繁 ・似鳥 ・佐々
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. 錦糸町駅前
木 関 根 ・佐藤徹 ・宗 ・神 尾 ・小 波 徹 君 が 選 ば れ 、 他 の 委 員 に か ん す
・中 川 ・畦森 ・渡 辺 。 る 人 選 は 新 会 長 に 一 任 と い う こ と
、
宿 泊 ・観 光 そ の 他 方 端 の 準 備 を に な り ま し た 。 た だ ち に 新会長
0
し て下さった地元幹事小汲 ・神 尾 の 抱 負 豊 か な 挨 拶 が あ り ま し た
・渡 辺 三 名 の き め 細 か い と 配 慮 は 演 会 は 石 塚 君 の 司 会 で 始 め ら れ
忘れられません 。幹 事 の 期 待 を よ ま し た。 杉山 ・山本両先生のな っ
そに観光は一時雨にたたられましかしいお話しがあり、一同卒後二
、
た
。 しかし 、野口記念館 ・鶴ケ城 十年の歳月を忘れ 感まさに無且旦
・飯盛山 等を 介 し て う け た 自 然 と で し た 。 中 川 君 の 乾 盃 ・小汲君の
人 の 心 へ の 感 動 は 今 な お 強 く 残 っ 挨 拶 ・佐藤君の帰朝報告 ・津島君
B車
2. 東歯大病院前
1
.
日
月
昭 和 47年
2. 新宿駅西口安田生命前
I~ 輸 プリンス ホテノレ前
A車
希望乗車地
0印をつけ て下さ い
1
1
1
I
オi
ハス利用希望
2. 恕、続会 l
H席
1
. 1
(
1 泊(高輪 プリンスホテノレ〉
卒業年度
氏名
所属支部名
ハンディキャップ
日
月
ノ
明 ・大 ・J
F
生年月日
の学部会ならびに井上裕先生(同
ております。
二十日夜 ・向 滝 ホ テ ル に て 総 会 窓 会 報 一 四 六 号 ) に か ん す る 吉 田
を開催いたしました 。大森君の 司 君 か ら の 要 請 等 の 報 告 ・石塚君の
会にて 、高橋君、が議長に選ばれ、﹁一期ゴルフ﹂報告等があり、さ
ま ず 羽 賀 ・見 明 両 君 が そ れ ぞ れ 庶 ら に 本 年 四 月 、 東 北 歯 科 大 学 教 授 泉
務会計報告を行ないました。に就任された島野君にたいし銀盃
した 。 り
庶務の報告 から 、 ふ た た び 思 師 の 贈 呈 が あ り ま
似鳥君の至芸はいよいよさえ、河
矢崎先生(昭和四七 ・一 ・二九 C
逝去)をはじめ金井君と母堂(四広岡君の今様のうた、佐藤治君のけ
、
六 ・七 ・六C逝去)・相 旧 君 と 尊 謡 曲 等 は 地元の勇壮な太鼓 ・剣 ]
父(四六 ・七 ・二九C逝去﹀ ・高 橋 舞 等 と と も に 特 筆 さ れ る も の で し 七
十三と逝去)・ た。天野君の指揮により校歌 ・氾
君 C尊父(判七 ・問 ・
、
四七 ・四 ・二六 C 逢歌を合唱し 会を閉じました。
川 口君 C母堂 (
逝去)のご冥福を祈ります。一期会の発展と各位のご健勝を
I
O
,
O
O
J円也を添え て申込ふます
会代
議事の 一つは 卒業 二十 周 年 記 念 祈 り 、 かつ委員にかわって四カ年
事業についてでありましたが 、記 の と 協 力 を 深 謝 致 し ま す ( 昭 和 四
念 事 業 を 行 う こ と が 議 決 さ れ ま し 十 七 年 六 月 二 十 五 日 、坂田記)。
た。その計両は 、委 員 会 に よ り 会 ︹ 追 信 ︺ 去 る 七 月 二 十 日 開 催 の ク
員各位のと意向を 十分 組 み 入 れ て ラ ス 幹 事 会 に お い て 、 つぎの事項
具体化されることになりました。が決定されましたのでお知らせし
なお 、 その一つは会長(坂旧﹀ ・副 ま す 。卒業二十周年記念会開催期
会長(佐藤徹 ・関根)・委員(見明 ・ 日は昭和四十八年五月十二日(土)
大 森 ・羽賀 ・津島 ・宝田 ・片 倉 ・ 午後二時より母校で行ない 、懇 親
石塚 ・相田 ・山本勝 ・吉 田 ) の 改 会 は 同 日 午 後 四 時 半 よ り 新 宿 京 王
選についてであり、新会長に佐藤プラザホテルで行ないます。
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クラス会名
名
卒業年度
年
所属文部名
氏
書
昭和 4
7年 度 東 京 歯 科 大 学 同 窓 会 総 会 宿 泊 申 込
懇親会
司
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ド者名
※ 該
当
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買
を Oで囲んで下さい。
- 切 り 取 り 線 ..
束尚 F 同窓会全国ゴ l
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.フ大会参加 申込書
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lt総 会 場 、 と 案 内 ││
4 吉岡 輪 プ
司
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に注意しましょう。
会員諸氏の寄稿をお待ちしています。大学や同窓会との意志の疏
歯科界には無責任な怪文書や差出人不明の投書の横行したことが
'
A 通はお互いの信頼を更に強固にすることでしょう。
﹀
フ
。
ありましたが 、 これは自ら言論の自由を放棄したことになりましょ
昭和四 十 七年八 月十 日 印 刷
昭和 四十七 年八月 十 五 日 発 行 一
編集発行人
伊丹
一
男 一
印刷
所
一世印刷株式会社
一
- この会報には 厳 として 言 論 の 自由 が確立されています、 堂 4とと
意見をおよせ下さい 、但 し自由 には責任があることもお忘れなく。
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暑い夏には臨床の疲れが出やすいものです。無理をしないで健康
へんしゅうこうき
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東京都千代田区三崎町二丁目九番地十八号 一
電 話東京(一二ハ二)三四二 一 (
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f一一盲目
欄
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欄
通
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メトコ J
レ
F Cで満足できない先生方に
ぜひ御使用をおすすめします
メトコーJ
レはすぐれた鎮痛力
と消毒作用を持ち、抜髄根管
感染根管の何れにも賞用され
ます
包装と価格・… "10mQ
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000円
東 京 都 渋 谷 区 広 尾 3丁 目 1番 3号
ネオ製薬工業株式会社
歯学博士
校
長
顧
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士科長
博歯学
学京学
歯東大
美助介滋同
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豊昌弘永 一
理
塚塚塚根員
医学博士
大大大関職
理事長
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