ノンシャラン道中記

ノンシャラン道中記
アルプスの潜水夫 ︱︱モンブラン登山の巻
久生十蘭
3
駅に約十分滞留したのち、 汽車はブウルジェの湖畔の、
一、鼻には鼻、耳には耳︱︱︱現品取引。エークス 鉱泉 ﹁ささ、お見受けいたしますれば、これはアルプス 登攀 聞き捨てならぬ、と二人は思わずその方へ乗り出すと、
らでござります﹂
レ・バン
水陸間一髪という 際 どいところを走っている。
のご途中と拝察されますが⋮⋮﹂
イ
ル
とはん
車窓に蘆 の葉がなびき、底石の青苔や、御遊泳中の 魚族 す る と、 厚 手 の 毛織上衣 に 革 の 脚 絆 を し た う ら 若 き
もみ
きわ
の鱗 のいろも手にとるように見える。対岸、オオト・コ
洋的令嬢 、喉もとから腰のあたりまで巻きつけた登
東
山綱 うっそう
サコレーヴ
うろくづ
ムブの 鬱蒼 たる 樅 の林は、そのまま水に姿を映し、湖上
をポンとたたいて、
あし
の小
舟 は、いまやその林中に漕ぎいるのである。
﹁ええ、ご覧の通りよ﹂と、涼しげにいい放った。鉄縁
シャン ダ イ ユ
汽車は水に浮び、舟は山に登る、この意外な環境に恐
眼鏡は天を仰いで嘆息し、
うろこ
悦してしきりに喝采しているのは、登山用具で身をかた
﹁ああ、天なるかな、命なるかな、⋮⋮まことに申しにく
ザ
めた男女二人の若い東洋人。 幾百千とも知れぬ小魚が、
いことながら、これから手前が申しあげまする条々、よ
ゆびさ
にっぽんのおじょうさん
くるくると光の渦を巻きながら魚紋を描いているのを 指 こい
ウく心をしずめてお聞きとり下さい。⋮⋮そもそもアル
ふな
して、 鮒 じゃ、鯉 じゃ、といい争っていると、
プスの山神と申しまするは、その昔、天の火を盗んだ百
てつぶち
﹁はい、今日は﹂といいながら寄って来たのは、 鉄縁 眼
罰として、コウカサスはエルブルュスの 巓 につながれま
いただき
鏡をかけた半白の老人。村役場の 傭書記 、小学校の理科
したるプロメシウスの弟 御 パラシュウスと申す猛々しい
やといしょき
の先生、︱︱
︱そういった 実体 な人物。
お方でござります。されば山の 犠牲 としてご要求になる
ご
﹁ご清興をおさまたげいたしまして申し訳もありませン
人命と申しまするものは、 一年にだいたい二百六十個、
じってい
が、ぜひともお耳に入れたい事がござります、と申しま
片足だけお取りあげになったものは千八本、前歯が六百
え
するのは、⋮⋮﹂と、声をひそめ、﹁実は、あなたがた、
枚、耳が七十三対という有様でございます。とりわけお
に
お二人さまの生命に関する重大な報告を持参いたしたか
4
ムバアは最初の 英吉利 人、ハンス・ジムメルマンは最初
でございます。例を申しますなれば、エドワアド・ウイ
必ずお取りあげになるというのが古来アルプスの山の 掟 して国別にいたしましてその国の最初の登山者の人命は、
好みになりまするは、各国、各人種のお 初穂 でございま
する部門を開設いたしまして、はなはだ優秀なる成績を
社は、両三年以前から﹃アルプス登山傷害保険﹄と申しま
本社をリヨン市に置きますところのルナアル生命保険会
めいたすわけではございませン。それにつきましては、
止 ン・ブラン、なにほどのことがありましょう。決してお
たいくらいなンでござります。ナニ、 多寡 の知れたるモ
か
の墺
太利 人、アブ・アッサンは最初の 土耳古 人でござい
あげておりますのでござります。保険契約の仕組を簡単
た
ました。お見受け申しますれば、フィリッピンとかマニ
に申し上げますれば、契約と同時に金三百 法 をちょうだ
はつほ
ラとかあのへんのお方と存じますが、アルプスの記録に
いいたしまして、万一、ご身辺に傷害の事故のございまし
と
はフィリッピン人が登山したという事実はまだ記載され
た場合には、金銭をもって支払わずに、鼻が欠けたら鼻、
おきて
ていないのでござります。さすれば、お二人さまはその
腕がもげたら腕、という工合に、実物代品をもって弁済
はしり
イギリス
オ、フィリッピン人の初
品 になるわけでござりますが、あ
いたすという仕組でござります。リヨン市には弊社に附
はえ
コ
あ、して見れば、お二人さまの生命と申しますものはさ
属する優秀なる外科整形病院がございまして、まことに
が す
ト ル
ながら風前の 瓦斯 灯、酢のなかに落ちた 蠅 同然。ナント
手ぎわよく、原品同様に修理工作をいたしましてご返却
ごしゅうしょう
オースタリー
モ御
愁傷 さまな次第なンでござります。⋮⋮と、申しま
いたす次第でございます。また、万一ご落命の節は、葬
フラン
しても、決して御登山の御愉快にケチをつけようなどと
儀万般弊社が取りはからいまして、第一等の 伊太利亜 大
理石を墓碑に撰び、お指定の墓地の通風採光よろしき個
イ タ リ ア
いう狭い了見から申しあげているのではございませン。
男子越ゆべしアルプスの嶮、
所にご埋葬申しあげるてはずになっておりまする。 如何 でござりましょうか。山には登るべし、保険には入るべ
いかが
踏んで登れやモン・ブラン⋮⋮
きょうどう
⋮⋮てなわけで、むしろ、手前がご 嚮導 申しあげて登り
5
し、という諺も昔から⋮⋮﹂
サン
パリ・リヨン・メディティラーネ
くだくだしきルナアル保険会社の長広舌のうちに、汽車
はんじょう
パウアンヌ
すばかりの殷
賑 、昼は犬を連れて氷河のそばで five o’clock
バレエ
クッサ ン
、ホテルの給
仕 に小
蒲団 を持たせてブウシエの森でお
tea
ひるね
睡 。夜は MAJESTIC-PALACE
仮
の広間に翻る孔
雀服 もすそ
フェト・ヴォ・ジュウ・メッシュー
の裳
裾 、賭博館の窓からは、
︵ 賭けたり、賭けたり ︶とい
は無事に聖 ジェルヴェの駅に到着。ここで P・L・M の本線はおしまい。これから電気鉄道に乗って、モン・
う玉
廻し役 の懸け声もきかれようという。右行左行するも
クルウピエ
ブランのトバ 口 ともいうべき、シャモニイ・モンブラン
のは遊子粋客にあらざれば、偽装いかめしい 氷海の見物客 くち
の町へたどるのである。
ばかり、かいがいしい登山者は町はずれででもなければ
メ ー ル・ド・グ ラ ス
このあたりはもはや二千六百 呎
の標高。山
毛欅 の林の
見当らない。
から、飄々と立ち現われて来たのはタヌキ嬢ならびに狐
は
杜鵑 。
山
のコン吉の二人連れ。なにやら浮かぬ顔をしてしきりに
ヘエトル
奥のお花畑には羊の群が草を 喰 み、空をきりひらくアル
そのシャモニイの町の、停車場に近い英国教会の墓地
二、落ちては登る 人魂 の復原運動。南は嶮山重畳のモ
爪を噛んでいたコン吉が、
ぼうし
フィート
プスの紙ナイフは、白い象牙の 鋩子 を伸べる。光る若葉
ン・ブラン群 と、氷河の蒼氷を溶かしては流すアルヴの
﹁いや、なかなかすごいものだね、タヌ君。君、いまの碑
やまほととぎす
清洌、北には 雲母 張りの衝
立 のように唐突に突っ立ちあ
銘を読んだかね。︵ロバートソンの足の指をここに葬る。
きらら
ひとだま
がるミデイ・ブラン、グレポンの 光峰群 。この間の帯の
残余はタッコンナの氷の下にあり︶なんてのは、どうも
マシッフ
ような細長い谷底がシャモニイの町。
さんざんな最期だね。残った部分がこう少なくては保険
エクラン
山の町と一口にいっても、ここは世界に 著名 るアルプ
会社でも弁済の法がつくまい。桑原、桑原﹂というとタ
チュディオ
レストオラン いらか
しっぴ
ホテル
デ・セイギイユ
ス山麓の大遊楽境、宏壮優雅な 旅館 ・ 旗亭 が 甍 をならべ、
ヌは眉をひそめて、
ス
なだた
行品店 、高
流
等衣裳店 、昼夜銀行に電気射撃、賭博館や劇
﹁でも爪の伸びた足の指なんて不潔ね。あたしなら、そう
グ ラ ン・モ オ ド
場やと、至れり尽せりの近代設備が櫛
比 して、誠に目を驚か
6
﹁戦争ですか。飛行機ですか﹂と、あわただしくたずね
そばの肥満紳士に、
高いコン吉はたちまち活況を呈してそっちへ駆け寄り、
殺気だった面持で虚空をみつめているので、日ごろ物見
た大眺望鏡を十重 二十 重に取り囲んだ群集が、いずれも
コン吉がその方を見ると、町役所の 土壇 に持ち出され
はそうと、あっちにずいぶん人だかりがしてるけど、⋮⋮﹂
ね、うす桃色の耳かなんか残してやるつもりよ。⋮⋮それ
あっ!⋮⋮もう見えなくなってしまいました。⋮⋮三人
の上へ、⋮⋮あと、十 米
、⋮⋮あと五米、あと、一米!
いつがいま壊れて⋮⋮ 雪崩 だア!⋮⋮ちょうど三人の頭
んもう諦めて下さい。⋮⋮頭の上の大きな 雪蛇腹 ⋮⋮そ
だ。⋮⋮あああッ!⋮⋮いけない、いけない。⋮⋮みなさ
た。⋮⋮ 偉いぞ 、偉
いぞ !⋮⋮そこを離すな、もう少し
登 は 片 手 を 離 し ま し た。 ⋮⋮あ、 ま た 抱 き つ き ま し
先
動いています。⋮⋮あ、あ、畜生、なにをするんだ。⋮⋮
た、⋮⋮風が出て来たと見えて、時計の振り子のように
エイギュイユ・ヴェルト
テエト
ると、紳士は唇に指を立て、
の魂はアルプスの雪に浄められて天に昇りました。⋮⋮
テラッス
﹁しっ! 緑の光峰
の氷壁で三人の男が落ちかかって
みなさん、どうぞ 黙祷 を願います﹂
し
メートル
もくとう
か
パ ン
アヴァランシュ
ブ ラ ヴォ
綱一本でぶらさがってるのです﹂
群集の中から、うおッ! という 嗚咽 の声が起こった。
フランス・アルプスくらぶ
アノンセ
ギ
ブ ラ ヴォ
﹁うわア! これは大変﹂とコン吉が、人垣を押し分け
男は一斉に帽子を脱いで黙祷し、女たちは抱き合ってす
た
て円陣の中心をのぞくと、 C・A・F の徽章をつけた男
すり泣いた。市役所の屋根の上のサイレンが鳴り出した。
は
が、眺望鏡に目を押しあてて、一心に空をみつめながら、
コン吉とタヌはねんごろに念仏を唱え、沸然たる非常
テエト
アックス
コルニッシュ
金切り声で、不幸な一行の動静を披
露 している。
時の広場から離れ、 川岸 の椅
子 に坐って、しばらくは言
おえつ
﹁あ、落ちます、落ちます。⋮⋮ 先登 の山
案内 は必死に
葉もなく差し控えていると、その前を、 氷斧 をかかえた
トラアス
ド
岩 鼻 に し が み つ い て い ま す が、 も う 三 人 を 支 え る 力 が
三人連れの登山者が、談笑しながら登山鉄道の乗り場の
ク ウ
イ
ない⋮⋮。最
後 の奴はしきりに 足場 を刻もうとしていま
方へ歩いて行った。コン吉はその後ろ姿を見送りながら、
アックス
すが、 斧 は壁へ届きません。⋮⋮揺れ出した、揺れ出し
7
者の墓地を参
詣 して一歩外へ出るといきなり、山から落
﹁さすが本場だけあってなかなか相当なもんだね。犠牲
コン吉がひったくってその紙を見ると。
﹁こ、こ、こ、⋮⋮これを﹂といった。
さんけい
ちる奴がある。そうかと思うと落ちたとたんに代り合っ
破格廉価大特売
おろし
て登って行くのがある。今の連中も、いずれ落ちて来る
︵卸
売 の部︶
いとま
のだろうが、こう頻繁では応接の 暇 がないね。これでは
フラン
南 針 峯 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮三〇〇 法 エイギュイユ・デュ・ミデイ
ドーム・ド・グウテ⋮⋮⋮⋮⋮⋮二〇〇法
毎日告別式だ﹂
タヌもどうやら不承服な面持で腕組みをしていたが、
モン・ブラン⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮五五〇法
フランス
﹁そうね、こう死亡率が多いとゆゆしい問題だわね。 仏蘭西 パラシュウト
ビオナッセエ針峯⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮一八〇法
ぶ
のアルプス倶
楽部 は、登山者に 落下傘 を貸す、なんて智
緑の 針
く ら
慧を持ち合わしていないのかしら﹂
︵小売の部︶
峯
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮二五〇法
メートル
A・A・ガイヤアル商会
しになったんでしょ。
︵笑︶ホ、ホ、ホ、お隠しになっちゃ
ヒマラヤなんてねエ。お二人なんぞさんざその方をお荒
カ、カ、カンチェンジュンガとか、ヒ、ヒ、ヒ︵以下略︶
オ、 オ国の方にはずいぶん高い山があるそうですなあ。
三、 頂はどこにでもあり、 私製のモン ・ ブラン。 オ、
デタイユ
エイギュイユ・ヴェルト
﹁日ごろ傍若無人のタヌ君でさえ、そういう意見をいだ
売 は一〇 分
米 につき二〇法也。
かれるようでは僕がこうして震えあがっているのも大い
に無理のないことだ。どうだろう。山登りなんぞはやめ
おいし
にし、アッタシイの湖畔へ引きうつって、 美味 い川魚で
も喰おうじゃないか﹂
﹁でも、あたしは魚は嫌いよ﹂と、語り合っている二人
の前へ、またもや立ち現われたのは、よれよれの白麻の
あからがお
服を着た長大赭
面 の壮漢。黄色い厚紙を二人の鼻の先へ
突きつけ、のぼせあがってどもりながら、
8
いやですよ。アタシなんぞもね、長年この土地で苦労し
莫大なもので、
苦 心 酸 胆、×日×時×分、ついに
ほくろ
て、いまじゃ、モン・ブランの背中の隠し 黒子 のありか
モン・ブランを征服す。
写して差しあげるんです﹁モン・ブランの絶頂を一枚た
岩壁へぶらさがって、あわや、危機一髪!
てな工合に
しゃれば、そこは手前の写真術で、五十米も切り立った
の岩へぶらさがって、
﹁おい、これで写真を一枚﹂とおっ
として写真もやっておりますがね、せいぜい五米ぐらい
お客様のお望みの寸法だけ差し上げるんですヨ。副事業
ろしい﹂
﹁グウテを十米だよ﹂
﹁おっと合点﹂ってわけで、
ですヨ。
﹁モン・ブランを二十 米
だけ頼むよ﹂
﹁へえ、よ
だけで、いろいろ有名な方々にごひいきを願っているん
が、山の小売をするのは、シャモニイじゃアタシんとこ
から不思議なもんです。なにしろ、卸売はみなやります
桟 の上を走って行くのが、ありありと心眼に写るんだ
氷
だってもう三千度の上は登っていますが、まだこの通り
の種切れになるじゃありませんかよウ。そういうアタシ
ナタ、いやですヨ。そう一々落ちていたんじゃ、山案内
路をご案内するんでございますヨ。⋮⋮本当かって、ア
おしゃるなら、まるでニースの国道のような大幅の廻り
へご案内するんですが、
﹁おい、落ちなくてもいいよ﹂と
たいとおっしゃるので、アタシ達も泣く泣くそっちの方
ろを登るから落ちる。お客さまの方で、どうしても落ち
一体、山から落ちるってエますのは、落ちるようなとこ
までしょう。なアに、危ないことなんかありますものか。
勉強いたしますヨ。モン・ブランを十米ばかりいかがさ
てもんじゃありませんか。いかがでしょう。この際格別
なんて、ちょっと書き入れておけば、一生の記念になるっ
かもしか
のむ﹂とご下命がありますとネ、こいつをラ・コートの
生きながらえて、おしゃべりをしているんですから、こ
メートル
小山の頂きへ持って行って、下から仰げば、これが︵モ
んな立派な 生 証拠ってございませんヨ。⋮⋮ねえ、お嬢
す
いき
ン ・ ブランの絶頂でパイプを 喫 う図︶ってのになるわけ
みやげ
さアん。アタシはとりわけご婦人のご案内をいたします
おくに
ですヨ。こいつが 故郷 の土
産 になる価値といったら誠に
コリドオル
まで知ってるんですヨ。こう、目をつぶると 羚羊 が三匹
、
、
、
、
9
きるってもんですヨ。それに、だいいち色っぽいですナ。
しく介抱してくださるから、アタシも安心してご案内で
エ、アタシが危ない時は、ちゃんと助けてくだすって、優
しかねないんですよ。そこへいくとさすがご婦人ですね
シが危ない、なんてときは薄情でしてねエ。見殺しにも
しろ殿方ばかりをご案内いたしますとねエ、さあ、アタ
ことでもちゃんと承知しているつもりなんですヨ。なに
のに妙を得ていますんで、ご婦人のお 嗜好 なら、どんな
登ることにしたからそう思ってちょうだい。あんたもま
﹁コン吉君、すまないけど、あたし、明
日 モン・ブランに
けてつかつかと次の間から出てくると、タヌは、
四、 午 年生れは山にて跳るべからず、 厄災 あり。扉 開
すヨ。山の方は万事アタシが。
さいヨ、おやんなさいよウ。せつにアタシおすすめしま
ヤワンヤするにきまってます。ね、お嬢さん、おやんな
ませんヨ。花火をあげるやら、送別会をするやら、テン
開けだってことになればアルプス倶楽部だって黙ってい
このみ
モン・ブランの頂上の 記念石 に腰をかけて、こう、コン
ごまごしないで、早く仕度をしたらどう﹂といいすてた
ドア
パクトなんか出して、チョイ、チョイと顔をたたくナン
まま、今度は次の間から 登山綱 を持ち出してせっせと輪
やくさい
テのは、いうにいわれない味がありますねエ。ねえ、お
を作り、水筒、靴下、油紙といったようなものを、やた
うま
嬢さんお供さしてくださいましヨ。いいでしょう⋮⋮え、
らにリュック・サックに詰め出した。コン吉は仰天して、
ほうろうび
どもり
あ す
本 ⋮⋮。ははア、日本ってのはどっちの方角だか知り
日
﹁うわア、こりゃ情けないことになった。どうしてまた
ドルメン
ませんが、そんならなおさらのことですヨ。アルプスに
そんな気になったのかね。多分あの 吃漢 の話を真に受け
プランキアル
ル
日本のご婦人が登ったって記録はまだないんだから、ア
て、アルプス倶楽部に花火をあげさせるつもりなんだろ
クレヴァス
ザ イ
ナタが 口開 けになるわけですヨ。⋮⋮こりゃもう大評判
うけれども、君だって、 担架 で運ばれて来たあの血綿の
ジャポン
になりますネ。シャモニイ中の雄という雄はみな眺望鏡
ような塊を見ないわけじゃなかったろ。氷河へ行けば大
くちあ
でのぞいちゃのぼせあがって鼻血を出しますヨ。 破 れ返
きな 亀裂 がある。吹雪は吹く。まるで 琺瑯引 きの便所の
わ
るような騒ぎになりますネ。⋮⋮それにさ、アナタが口
10
てくれたまえ。思いとどまったというまでは、死んでも
命 あっての物種だ、どうか山登りだけは思いとどまっ
生
ンダでも喰っ付きはしないからね。あ、桑原、桑原。⋮⋮
ごなになってしまってからは、支那人の焼き継ぎでもハ
ち目がくらむようにできているんだ。谷底へ落ちてこな
僕は、あいにく午年生れで、高いところへ登れば、たちま
剃刀の刃のように狭い氷の 山稜 を伝えるものか。それに
て、⋮⋮これ見たまえ。この僕のガニ股で、どうして西洋
うしてのめのめ日本へ帰られるものか。それから僕だっ
どうするつもりだね。そんなところへ 青痣 をつけて、ど
もし 雪崩 に押し落とされて、下の岩角でお尻をぶったら
子なぞには手も足も出るもんじゃないよ。ねえ、タヌ君、
壁のように、つるつるした氷の崖なんかがあって、女の
みましょうか﹂といって、 登山綱 をしごきかけると、コ
たって連れて行くわよ。⋮⋮どう、ひとつここでやって
畚 に乗せ
かないなんていったって、 が ん じ か ら めにして イ、ってわけなんだよ。⋮⋮どう、わかったかい。君が行
国 の光を八
皇
紘 に輝やかさではおくべきや、エンサカホ
てね、︵高い山から谷底見れば︱︱︱︶の一つも歌ってさ、
れた、あの山形のシャッポ。あの上に日章旗を押したて
から、あたしは、納まらないのよ。ナンダイ! 多寡の知
は、みな麓を し ゃ な し ゃ な散歩して引き上げたってんだ
子が、みな一度は登ってるってのに、日本の女の子だけ
りっく・おらんだ・ぽるちゅげえ、と世界中の国々の女の
ないのよ。⋮⋮ふらんす・あるまん・あんぐれい、あめ
まえ。あたしがモン・ブランへ登ろうってのは私事じゃ
心配しないでね。⋮⋮いいかい、コン吉君、よく聞きた
なだれ
これを離さないから﹂と、リュック・サックにすがって
ン吉はたちまち降参して、
はっこう
ザ
、
、
、
、
、
、
あおあざ
かき口説くと、タヌは、いきなりそいつをひったくって
﹁いや、行きます、お供します。どうか、その、 が ん じ
アレート
﹁なにするのよオ。⋮⋮チョイト君、君もずいぶんおた
か ら めだけはごかんべん願います﹂と、手を合わした。
イ
ル
、
、
、
、
、
、
みくに
んちんね。君がいくらそんな顔をしたって、もうあとの
﹁そう。そんならさっそくだけど、あたしの部屋にあるも
もっこ
祭りよ。ね、君、コン吉君、ここからモン・ブランのてっ
のを、みなこん中へ詰め込んで、ラ・コートの村の旅
籠屋 オ テ
ル
、
、
、
いのち
ぺんまでは、ちゃんと国道がついているのよ。あんまり
、
、
、
11
ド
あ
す
どもり
ランテルヌ
ピエール・ポアンチユ
した吃 のガイヤアルの角
灯 を先登にして﹁ 尖 り 石
﹂の
イ
まで一足先に出発してちょうだい。あの 山案内 は 明日 の
ホテルを出発。ボッソン氷河の横断にとりかかったのは
ギ
夜明けに、そこへ迎いに来ることになってるんだから﹂
翌朝の午前三時。
光を発し、いまにも頭の上に落ちかかろうとする怪偉な
へきぎょくずい
﹁へい、かしこまりました﹂と、コン吉が次の間へ入っ
見あぐれば淡い新月に照らされて、 碧玉随 のような螢
フライ・パン、大 薬鑵 、肉ひき機械、 珈琲 沸し、テ
山容は、これぞアルプスの 大伽藍 モン・ブランの円
蓋 。
コーヒー
ンピ、くるみ割り、レモン汁
絞器 、三
鞭酒 、ケチャッ
ガイヤアルのあとに続きますのは狐のコン吉。小山の
やかん
てみると、さながら大観工場の棚ざらえのごとく、
プ・ソース、上靴、小
蒲団 、ピジャマ、洗面器、マニ
ようなルュック・サックを背中にしょい、納めようのない
い
そ
アックス
えんがい
キュア・セット、コロン水、足煖炉、日章旗、蓄音
鉄鍋は、やむを得ずこれを頭にかぶり、フライ・パンと
そ
だいがらん
機、マンドリン、熊の胆 、お百草、パントポン、アド
マンドリンを腰の廻りにくくりつけ、右手には 氷斧 、左
シャンペンシュ
ソルピン、腸詰め、卓上電気、その他いろいろ⋮⋮
手には薬鑵、それでも足らずに首からは望遠鏡と肉ひき
り
という工合に、机の上と下に参差落雑しているので、さ
機械を吊し、洗濯板のように、高低ただならぬ凍った波
し ぼ
すがのコン吉もあきれ果て、
頭の上を、漂うごとく流るるごとく、寒風の中に汗を流
クッサ ン
﹁つかぬことをうかがうようですが、このマンドリン、っ
し、 呻吟 の声を発して行進する。タヌの方は、ぐるぐる
しんぎん
てのは一体何の代用に使うのですかね﹂ とたずねると、
と巻きつけた 登山綱 の中から目だけを出し、愛用のハン
ド
ル
タヌは口をとがらして、
ド・バッグを小脇にかかえ、楚
々 たる蓮歩を運びたもう
イ
イ
﹁馬鹿ね︵高い山から︶の伴奏を弾くんじゃありません
様子。
ギ
クレヴァス
ザ
か﹂といった。
氷河には至るところに青黒い口を開けた地獄の入口が
かっぱ
五、河
童 の川知らず、山
案内 の身知らず。ブルタアニュ
いでたち
ある。この 亀裂 に落ちたが最後、二度とこの世の光りは
ブルウジ
の漁師の着る 寛衣 にゴム靴という、はなはだ簡便な 装 を
12
橋を、ほじくり返しかき廻し、雪か氷か確かめては渡っ
見られない。ガイヤアルは 亀裂 の上にかかった薄い氷の
﹁仕様がないわね。じゃお鍋類はいいから、マンドリン
ず﹂というと、タヌはおもしろからぬ面持で、
することにして、とにかくここへ放棄するから悪しから
クレヴァス
てゆく。重荷をしょったコン吉にとっては、これは誠に
と日章旗と 三鞭酒 だけはぜひ持って登ってちょうだい﹂
シャンペンシュ
薄氷を踏む思い、踏み破ったらこの世からお 暇 、助けた
さてここで、ガイヤアル=タヌ=コン吉という工合に、
そら
いとま
まえ、神々と、お尻をもたげ、マンドリンの 空 鳴りにも
がらば
とはん
一本綱で三人をつなぎ、氷の中からところどころに顔を
コルポオ
胆を冷やしながら、虫が這うようにしてまかり通る。
だ
出している岩塊にとりつきながら 登攀 を始めた。見あげ
な
幾たびかの危難ののち、ようやく﹃ 烏 ﹄の岩
地 にたど
ると、岩頭に吹きつけられた大きな雪塊が、いまにも 雪崩 デプリ
り着き、その頂きに登ったところで、アルプスの山々は
ロ
れ落ちて来るかと思われ、うつむけば断崖の下には氷の
ハ
薄い朝霧の中で明け始めた。頂きがまず桃色に染まりお
片 が鋭い鮫の歯を並べている。コン吉は目玉をすえ、
砕
さい
いおい朱に、やがて七彩の 氷暈 が氷の断面一帯に拡がり
口で息をしながら、はや一 切 夢中でにじりあがる。タヌ
なだれ
始める。風が少し出て鋭い朝の歌を奏し、落石と 雪崩 の
はと見れば、これも先ほどの威勢もどこへやら、これ一
ふな
音が遠雷のように峯谷々に反響する。
本が命の綱、と釣られた鮒 のようにあがって来る。
コルポオ
三人は﹃烏 ﹄の頂きで手の込んだ朝食をすませ、山稜
一つ登れば、そのまま次に 玻璃 を張ったような蒼い氷
プロムナード
ガラス
に沿って南へ﹃ 烏 の 嘴
﹄までくだり、タッコンナの氷
の壁が現われる。八寒地獄の 散歩道 もかくやと思われる
ベック・ア・コルポオ
河を渡って、いよいよそこからグラン・ミューレの大難
ばかり。
ドオム
プラトオ
場、氷の絶壁へととりかかる。コン吉はこの酷薄無情な
瘠身 幾時間ののち、やがて、ミューレの 平場 へ届
焦慮 そうしん
氷の璧を見あげていたが、やがて悲鳴ともろ共に、
こうとするころ﹃グーテの 円蓋 ﹄の頂きに、ふと一 抹 の
まつ
﹁タヌ君、いくらなんでもこの 移転 荷 物のままでは、こ
雪煙りが現われた。驚きあわてたガイヤアルが、その凶
ひっこし
の崖はのぼれない。この中にある雑品はいずれ僕が弁済
、
、
13
ノ
みずっぱな
せんす
まっか
ランテルヌ
ふく
キャッフェ
六、馬肉屋的登山法、動物愛の応用。ブウシエの森に
じくろ
アックス
いでたち
ル
カ ジ
徴を指さしながら、
囲まれた、ここは 遊楽場 の喫
茶館 。人目を避け他聞をは
しゅす
はげ
しつら
﹁フ、フ、フ、フ⋮⋮﹂と披露する間もあらせず、細か
ばかって、奥まった片隅に会議の席を 設 え、コン吉とタ
あたり
い吹雪まじりの突風が横なぐりに吹きつけ始めた。たち
ヌが待ち構えていると、ガイヤアルを先登にして三人の
ド
まち 四辺 は瞑々たる白色の中に沈み、いまにも天外に吹
案内 が、威風堂々舳
山
艫 を啣 んで乗り込んで来た。
ギ イ
き飛ばされようと思うばかりに、その風のすさまじさ 劇 お定まりの 登山綱 、 氷斧 、 角灯 などという小道具もさ
はげ
しさ、コン吉は凍える指に力を集め、必死と岩にしがみ
ることながら一行の 装 というものははなはだもって四分
イ
つき、
滅裂。細身の 繻子 のズボンに 真紅 な靴下、固い立襟に水
ザ
﹁オーイ、オーイ﹂と呼びかけると、はるか上の方から
クダ
兵服、 喉まで締め上げた万国博覧会時代の両前の上着。
タス
は途切れ途切れにガイヤアルの血声。
カタ
そうかと思うと、何を考えたか 扇子 なんてのを持ったの
テ
シタ
﹁モ、モ、モシ、⋮⋮下 ノ方 。⋮⋮オ助 ケ下 サアイ。⋮⋮
もいる。
オ
、手 手 ガチギレソーダ。⋮⋮アア⋮⋮落 チル、⋮⋮落 チ
ひどい藪
瞶 みが一人、笑ったような顔をしたのが一人、
オ
ル⋮⋮﹂
最後の人物などは、ひどく咳をし、 水洟 を流し、時々ギ
テ
﹁手なんか離すなよオ﹂
クッ、ギクッと 劇 しい痙攣を起こすんだ。うち見たとこ
やぶにら
﹁しっかりしてちょうだいよウ﹂
ろ、田舎廻りの曲馬団員が、これからテントの 地杭 を打
ぢくい
﹁ア、 アタシ 悪 カッタヨー。 ⋮⋮ヤ、 ヤ、 山 ナンカ、
ちに行こうというような恰好である。
ヤマ
キョウガ、ハ、ハ、ハジメテナンダ⋮⋮アタシニハ⋮⋮カ
さて、席も定まり、しかるべき飲料もおのおのの体内
コドモ
に適宜に浸潤したと思われるころ、タヌは立ち上がって
ワル
ミサンモ⋮⋮コ、コ、 小供 モアルンダヨー。⋮⋮ワア!
ケテクレエ⋮⋮﹂
助 いよいよ開会を宣言することになった。
タス
14
だろうがモン・ルウジュだろうが、お茶の子サイサイな
て来たけど本気で登ろうと思ったらだね、モン・ブラン
足手まといがあったので、とうとう目的を遂げずに降り
とも思っていないんだよ。ボク達はガイヤアル君という
きますが、ボク達は、モン・ブランなんて、山だともなん
見したいためなんです。しかし、ちょっとお断りしてお
を拝借して、モン・ブラン登山の、 嶄新 奇
抜 な方法を発
して、諸君にお集まりを願ったというのは、諸君の智慧
いもうガイヤアル君から聞かれたことでしょうが、こう
タヌ﹁満堂の紳士諸君。今晩の会議の目的は、だいた
というんなら、それはスポーツの軽
業 主義だよ。⋮⋮君、
と思うんだ。危険を冒すことだけが登山の最大の意義だ
保証されているのでなければ、スポーツなんて無意義だ
ないよ。ただね、生命の最後の一線だけは、やや安全に
足一本、前歯一枚ぐらい無くしたって恐れるところじゃ
りたいというんじゃないのよ。モン・ブランに登るなら
ますがね、嶄新奇抜といっても、骨を折らずに楽々と登
の寺院にて⋮⋮って工合にするのよ。だが断わって置き
つまりね、途中葬列を廃し、告別式はただちにサン・ドニ
ペンへあがってしまえばいいじゃないか、っていうのよ。
いわせると、途中のいざこざは抜きにして、いきなりテッ
ざんしん き ば つ
のよ。ちょっと断わっておくわ。そこでだね、⋮⋮いいで
君、そこで嚊 なんかかいちゃ駄目だよ。⋮⋮コン吉、君ま
かるわざ
すか、これからが肝心なところだよ。⋮⋮そこでボクは
ごまごしないで葡萄酒でも注いで廻ったらどう?
いびき
一昨日の体験によって、つらつら考えたのよ。この文明
そこでだね、諸君、今晩はモン・ブラン登山のわずかな可
ぶ
⋮⋮
開化の世の中にだね、ラ・コートから、頂上まで、わずか
能性のうちで最も安全な部分を発見⋮⋮、平ったくいえ
り
粁 か 八
十粁 の道中に二日もかかって、おまけによちよち
ばだね、一風変った登山の方法を発見しようと思うんだ
ご
と四本の手足を使って這い廻るなんてのは進化の逆行だ
よ。だいいち、いく人もいく人も登ったあとから、よたよ
り
わよ。⋮⋮文明のチジョクだよ。⋮⋮そもそもだね、登山
たと一向変りばえのしない方法で登ったってんじゃ、日
よ
なんてのは、要するに山のテッペンへ駈けあがって、そこ
本女子の一 分 が立たないからよ。⋮⋮ね諸君、どうせ君
くしゃみ
で旗を振ったり 嚔 したりすることなんだ。だからボクに
15
やって並べておきますよ。だがね、もう一つ断わってお
てのが必ずあるはずよ。一等賞は三百 法 ⋮⋮ここへこう
ちょうだい。大工なら大工、馬肉屋なら馬肉屋的登山法っ
に、ひとつ新鮮な角度から、奇抜な登山法を考えて見て
う。⋮⋮そう話がきまったら、無駄な見栄などを切らず
達はモグリでしょう。 山案内 なんてのは看板だけでしょ
と、ま、こういうわけでございまス。⋮⋮まず 羚羊 を三匹
ざいまス。早速でスが、わたくスの名案をぶちまけまス
まして、こちの方へご厄介になりに来たような次第でご
とつアルプスへ行って 山案内 にでもなろうかア、と思い
ら﹁ぐ
るぐる山登り ﹂の手伝いをしたこともあるから、ひ
ス。わたくスは植物の方は一向経験がありませんでスか
をすこしばかり植えつけて植物園ということにしたので
ド
きますが空からさがって来るのでは駄目、とにかく下か
とっつかめえまス。けれど、それは羚羊といってもただ
イ
ら上へ登って行くのでなくては、登山にならないからね。
の羚羊と訳が違いまス。なるたけ親子夫婦の情合いの深
ガ
それから、どうせシャモニイ中の連中に眺望鏡でのぞか
そうなのを撰ぶんでございまス。生れ立ての羚羊、 亭主 が き
かかあ
モ ン タ ー ニュ・リュッス
れるんだから、ひどく目立つことや、大仕掛けなのは採用
の羚羊、それから 嬶 の羚羊とこう三匹つかめえましたな
ド
しなくてよ。⋮⋮いいですか。じゃ始めてよ。第一番に、
らば、まず 餓鬼 の羚羊をモン・ブランのてっぺんへ持っ
イ
向うの端にいる、その笑ったような顔をした人。⋮⋮さ、
て行ってくくりつけておく。そこで亭主の羚羊の方は先
レック・レック・レック
つの
グラン・プラトオ
しゃ
モン・ブランのてっぺんでは手前らの大切
ガ
君から始めてちょうだい﹂笑う人﹁わたくスはクロ・ド・
生さま、 嬶の羚羊はお嬢さまが 手綱 をつけて ﹃ 大平場 ﹄
フラン
キャアニュそばの動物園で園丁をしておりましたのでス。
の下まで引っぱって来るんでございまス。すると、これ
モ ン タ ア ニュ・リュッス
シャモア
一ころはルウナ・パアクのような﹃ ぐるぐる山登り ﹄な
はしたり!
おやじ
んてのもありまして、なかなか栄えたものでございまス。
な 忰 が悲しそうに﹃ 父ちゃんや、母あちゃんや ﹄とない
たづな
その後、とんとハヤ 駄目 なりまして、獅子を売り、狐を払
てるもんだから、びっくり仰天して 角 の先まで熱くなっ
や し
せがれ
いしていまスうちに、残ったのはモルモットと犬。⋮⋮
て、小供可愛いさの一念から崖道、絶壁の頓着なく、 捨 いけなく
これでは動物園とはいわれねえ、というので、 椰子 の木
も、お嬢さまも、無事にモン・ブランのてっぺんに登っ
し涙にむせんでいる時には、ふと気がつくと、先生さま
と、ここに廻り合いましたる羚羊の親子三人、互いに嬉
んもお母ちゃんも来ましたよ。よしよし、泣くじゃない﹄
二 無 二に押し登る。
﹃おお、おお、坊や、坊や、お父ちゃ
ねエ話ヨ。⋮⋮いいかねいってエ、海に沈むときにゃア、
着と、送風ポンプが一つありゃあそれですみさ。わけの
て聞いチくんねエ。⋮⋮入用なものてえのは、潜水具二
とちったア訳が違うんだヨ。よウく耳の穴をカッぽじっ
行ったきりでもどって来ねえなんて鉄砲玉みてえなお話
チくんねえ。⋮⋮ね、お嬢さんあっしの名案ってえのは、
む
てござるというわけになりますんでございまス。⋮⋮は
知ってもいようが、身
体 が浮かねえように、ってんで、十
からだ
い、どうか三百法ちょうだい﹂
キロもある 鉛錘 ってのを胸へさげるんだ。 ところでだ。
プロン
七、浮くは沈むの逆なり、千古不滅の真理。藪にらみ
山へ登るにゃア、そんならば反対に 浮袋 をつけたらいい
う き
﹁ナニヨ、百姓め、羚羊がどうしたとオ。情合いの深けえ
だろうてンだ。まず、おめえサン方は海へもぐる時と同
て
羚羊たア、一体 エどんな面をしてるんでえ。でえいち、て
じように、潜水着を着てしっかり 甲 をかぶる。するてえ
かぶと
めえのようなトンチキにつかまる羚羊なんかこのへんに
と、あっしらは送気ポンプでもって、空気の代りに水素
まり
たち
一匹でもいたらお目にぶらさがるってんだ。三百法ちょ
斯 を送ろうッてんだ。そこでサ、おめえサン方は、 瓦
性 が す
うだい。⋮⋮ケッおかしくって鼻水が出らア。⋮⋮ネ、先
ド
のいいゴム 鞠 のようにふくれあがって、岩壁のすぐそば
イ
生、オレの本職ってなア 案内人 なんてケチなんじゃねえ
を足で舵をとりながら、つかず離れず、って工合に、そ
ガ
んだよ。オギャアと生れたのはツーロンの 軍器廠 の門衛
ろそろゆっくりと登って行くんだ。そイデ、無事に頂上
ドック
アルセナール
小屋だ。 十歳 の時から船
渠 で船腹の海草焼きだ。それか
へ着いて一服したら、どうか信号綱をきつウく三度引っ
お
ら汽
鑵 掃除からペンキ塗りと仕上げて、今じゃツーロン
ぱってくんねエ。すると下じゃその合図で、そろそろと
と
潜水夫組の小頭で小鮫のポンちゃんといやア、チッたア
瓦斯を抜くから、おめえサン方は、御用済みになった観
か ま
人に知られた兄さんなんだヨ。⋮⋮どうか一度遊びに来
16
17
たい登山などと申しますものは人間力以上の精神の緊張
このアルプス地方に移住いたしたかと申しますと、だい
ころは 白髪 染めでございます。しからばどういうわけで、
髪師でございまして、なかんずく、得意といたしますと
考案を申し上げることにいたします。ワタクシは元来理
す。しかし、批判は差し控えまして、簡単にワタクシの
りますが、まだチト腑に落ちぬ個所もあるようでありま
え。一つ話にならア﹂喘息﹁なるほどこれはご名案であ
レァ、金なんざどうでもいいや。ぜひひとつやっチくんね
還あそばすッてことになるんだア。ねえ、お嬢さん、オ
測軽気球みてえに、斜めになって頭を振りながら、御帰
八、空に蓋 なし天界への墜落。ある天気晴朗の夏の朝、
ウ・ペタリと岩面に吸いつけながら登るんでございます﹂
両手と両足の裏に結びつけまして、キュウ・ペタリ、キュ
て顔面の血行をよくいたします。つまり、これを左右の
平面へ吸いつけては離し、吸いつけては離しいたしまし
気鐘 的な作用をいたしまして、こう、吸盤の面を顔の
排
ム製のマッサージ器ですな。これは御承知の通り、やや
考えて見ますと、実はその手前どもで使用いたしますゴ
ます。そこで、何か吸盤の代用になるものはないか、と
であろうと、削岩壁であろうと、実に訳のない事であり
のは、もし人間に 章魚 のような吸盤さえあれば、氷の壁
タクシの経験から申しますれば一体山登りなどというも
た こ
を要求されるものであります。その間に費やされるエネ
グラン・ミューレの氷壁の下に勢ぞろいをした六人の人
はいきしょう
ルギーまたは心労というものは実に筆紙に尽されぬくら
物。なにやら異様な機械を持ち出してしきりにシュウシュ
しらが
い、されば、 朝 は黒髪の青年も、夕 は白髪の老人となって
ウいわしていたが、やがてその中心から、ふらふら二着
ひだ
ふた
下山するであろう。さすれば商売繁盛疑いなしと思いま
の潜水着が浮き出した。潜水着の至るところには大きな
ゆうべ
したところから、いそいそと当地方に移住いたしました
が作られ、それぞれみなはち切れるほど水素瓦斯が詰
襞 あした
が、いかなる次第か、予期に反しましてそういう現象は
ド
められていたほか、肩や腰には色とりどりの巨大な風船
ガ イ
起こらない。やむなく 山案内 を志願いたしまして、辛く
が、十五六も結びつけられて、グラン・ミューレの壁に沿
ここう
も糊
口 を支えているような次第でございます。さて、ワ
18
おろし
い、そろそろと登って行ったが、やがて、ドッと捲き起
オ ー ラ・ラ
こったシャモニイ颪 に吹き上げられ、ぐるりと一廻転し、
足を空に向けたまま、 O La La
とあきれ騒ぐ四人の案内
イタリー
人を尻目にかけ、モン・ブランの頂きをかすめ、 伊太利 ひょういつ
側のクウルマイエールの谷の方へ流れて行った。二人の
逸 の潜水夫は追って二点の・・となり、やがて、蒼い蒼
瓢
い空の深海の中へ沈んでしまった。
後註
ルビの﹁デプリ﹂はママ
底本:
「久生十蘭全集 Ⅵ」三一書房
1970(昭和 45)年 4 月 30 日第 1 版第 1 刷発行
1974(昭和 49)年 6 月 30 日第 1 版第 2 刷発行
初出:
「新青年」
1934(昭和 9)年 7 月号
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2009 年 10 月 26 日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。
入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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