萩原 健 ドイツ語文献解題 A:ソ連にいたドイツからの亡命者 たち―トラー、ヴォルフ、ピスカートア、ライヒ 1930 年代初め、ナチスによる弾圧を避け、数多くの は市民権を剥奪された。そして翌 34 年、今回ここに訳 演劇人がドイツを離れたが、そのような人々がなかでも 出された「劇作家の作品について」が『国際文学』誌(モ 多く集まった場所がソヴィエト・ロシアだった。当地で スクワ)の 5 月号に掲載される。同誌は当時、国際革命 は、ドイツという国は、なるほど自国の革命を実現させ 作家同盟(ロシア語の略称は MORP)の編集で、露・ はしなかったが、価値観の近い人々が多くいる国として 独・仏・英の四か国語で刊行されており、ドイツ語版は 認識されており、ナチスに追われた人々は、守るべき同 事実上、ソヴィエト作家同盟のドイツ部門が編集してい 胞として迎えられた。 た。トラーのテキストは、政治体制の違い(革命を成功 本解題で取り上げるテキストの書き手である四人、ト させたか否か)による、ドイツとソヴィエト・ロシアの ラー、ヴォルフ、ピスカートア、ライヒも、そのような 作家の立場の違いを前提とし、両者の連帯を唱えるもの 背景からソヴィエト・ロシアに身を置いていた、いわゆ で、またトラーはこのテキスト発表から間もなく、8 月 る亡命ドイツ人だった。 に開催された第 1 回全ソ作家大会に参加してもいる。 トラー「劇作家の作品について」(1934) 劇作家・詩人のエルンスト・トラー(1893-1939)は、 第一次世界大戦に従軍後、ミュンへンで文学に親しむ一 ヴ ォ ル フ「 フ ァ シ ズ ム の ド ラ マ ト ゥ ル ギー、反ファシズムのドラマトゥルギー」 (1934) 方、労働運動に関わって一時収監され、1919 年にはミュ かたや、この『国際文学』1934 年 5 月号には、同じ ンへンの左翼革命政権であるバイエルン・レーテ〔「評 くドイツから亡命していた劇作家のフリードリヒ・ヴォ 議会」〕共和国の議長に就任し、革命指導者として名を 「ファシズムのドラマトゥ ルフ(1888-1953)による、 成した。しかしこの革命は失敗し、彼は 24 年まで再び ルギー、反ファシズムのドラマトゥルギー」も掲載され 収監される。この二度の収監中、彼は平和主義革命や労 ている(同テキストは戦後の 1967 年、東ベルリーンお 働者運動(とその挫折)、反ファシズムなどをテーマと よびヴァイマルのアウフバウ社刊『ドイツの社会主義文 する五つの戯曲を執筆し―『転変』(1918 成立、19 初 学の伝統について:ドキュメント選』に再録)。そして、 演)、『群衆 人間』(20)、『機械破壊者』(22)、『ヒンケ このヴォルフもトラーと同様、亡命する前に、前出の演 マン』(23、24 年改題)、『解放されたヴォータン』(24) 出家、ピスカートアと接点を持っていた。 ―、これらが成功を収めて、彼はドイツ表現主義演劇 を代表する劇作家としての地位を確立した。 ヴォルフは医者としての活動と並行して創作を開始し たが、特に 1929 年、労働者層の貧困と堕胎問題を扱っ また以上にくわえ、失敗した革命後の同時代のドイツ た戯曲『青酸カリ』を発表し、これが大きな反響を呼ん に対するトラーの観察が反映された、自伝的内容の戯曲 だ。一方、同年、同じテーマを扱ったカール・クレデ作 『どっこい、おれたちは生きている!』(27、以下『どっ の『刑法 218 条』をピスカートアが演出しており、そし こい』)も注目される。これは後述する演出家のピスカー てヴォルフもピスカートアも、それぞれ当局の目の敵に トアが、自分の劇場(劇団でもある)〈ピスカートア・ された。ヴォルフは『青酸カリ』が堕胎禁止法に抵触す ビューネ〔「ピスカートア舞台」〕〉のこけら落とし公演 るという理由で逮捕され、ピスカートアは数年前の税金 として同年に演出した作品だが、演出のさい、第一次世 滞納を理由に一時拘留された。二人とも彼らの支持者に 界大戦中の光景を撮影したスナップショットや記録映画 よるデモで解放されたが、これが縁だったのか、間も が大量に使われたことで知られる(渡独して間もなかっ なく両者の共同作業が実現する。こうして中国革命を た千田是也がこの演出の準備作業に関わっていることも 興味深い)。 テーマにしたヴォルフの戯曲『タイ・ヤンは目覚める』 (1930)が、ピスカートアの演出で、1931 年 1 月、ベル そして 1933 年、ナチスが政権を奪取するとトラーは リーンの労働者街にあったヴァルナー劇場で初演され 亡命、同年、ナチスによる最初の焚書が行われ、トラー た(なお同年、千田是也はヴァンゲンハイムの〈劇団 ― 1 ― 1931〉で旗揚げ作品『鼠落とし』の制作に携わるが、国 ゼーガースの同名の小説。以下『漁民の反乱』)を撮影 際労働者演劇同盟(略称はドイツ語で IATB、ロシア語 するために、ソ連へたびたび赴いており、当地では、 で MORT)の書記局員に選出されて日本での活動を求 ドイツで活動していたラトヴィア人女性演出家のアー められたために、 『鼠落とし』の初演前に帰国、入れ替 シャ・ラツィス(1891-1979)が通訳兼助監督を務めた。 わりに佐野碩がやってくる)。 そして 1933 年、ヒトラーが政権を掌握すると、ピスカー そしてヴォルフは、これもトラーと同じ 1933 年、ナ トアのソ連滞在は、そのまま彼の亡命生活となった。 翌 1934 年、『漁民の反乱』を完成させた(10 月封切 チス治下のドイツを離れ(3 月)、オーストリアとスイ スを経由してフランスへ入国、11 月にソ連に入った。 り)ピスカートアは、国際革命演劇同盟(前出の国際労 またこの道中のフランスで、ナチスによるユダヤ人医師 働者演劇同盟から改組。略称はドイツ語で IRTB、ロシ への迫害を描いた『マムロック教授』が成立したが、こ ア語では「労働者」と「革命」の頭文字が変わらないの れは翌 34 年、『マンハイム教授』の表題で初演される で MORT のまま。以下 MORT)の代表に推され、これ (のち、38 年にはソ連で映画化され、世界的な反響を得 を引き受けた。その就任演説が、今回訳出された「過去 るに至る)。つまり、この『マムロック教授』初演と同 の教訓と未来の課題について」であり、そのテキストは じ年、今回訳出の「ファシズムのドラマトゥルギー、反 同年の『国際演劇』誌(モスクワ)2 巻 5/6 号に掲載さ ファシズムのドラマトゥルギー」は書かれた。トラーの れた(また戦後、東ベルリーンのヘンシェル社刊『エル テキストと同じ雑誌の同じ号に掲載されていることが示 ヴィーン・ピスカートア テキスト集 第 2 巻 論考・ すように、内容は同様、ドイツとは政治体制の異なるソ 演説・対談』(1968)にも収められている)。 この『国際演劇』は MORT による編集で、1932 年、 連の人々へ、近年のドイツの歩みと作家たちの創作につ いて伝え、また両国の作家の、アンチファシズムでの連 国際労働者演劇オリンピアーデ組織委員会の機関誌とし 帯を訴えるものである。 て刊行を開始した雑誌である(この編集部に佐野碩がい ピスカートア「過去の教訓と未来の課題 について」(1934) た)。日本から土方与志と佐野碩が参加したこのオリン ピアーデの開催後、同誌は衣替えし、34 年、「演劇・音 楽・映画・舞踊のための雑誌」と副題を掲げた。そして 以上のふたり、トラーとヴォルフに代表される同時 同年 MORT 代表に就任したピスカートアは、同誌に掲 代の劇作家の作品を、あるいはシラーのそれを始めと 載されたこの演説で、ナチス台頭前後の反対勢力が互い する古典を、1920 年代後半から 30 年前後にかけてベル に団結して闘うことを怠っていたことを反省するととも リーンで演出し、当時のドイツの指導的演出家のひとり に、かつてのしがらみをこえて共闘することを、そして、 として活動していたのがエルヴィーン・ピスカートア そのうえでアンチファシズム闘争を世界へ呼びかけるこ (1893-1966)である。 とを説いている。 ピスカートアも、トラーと同じく、第一次世界大戦に その後、このソ連でピスカートアがみずから舞台の演 従軍した。そしてその最中に起きたロシア革命に共鳴 出を手掛けることはなかったが、その代わりに彼が力を し、戦後、平和主義的共産主義者として、その世界観を 注いでいたのが、いわゆる〈エンゲルス計画〉である。 宣伝する〈政治演劇〉を構想し、これを展開する。舞台 これは、ソ連内のヴォルガ・ドイツ自治共和国(ドイツ 上の出来事と前後して、あるいは並行して、スナップ 系移民が多くいた)の中核都市エンゲルスにあった〈国 ショットや記録映画を大々的に活用するラディカルな 立ドイツ語劇場〉を拠点とし、ドイツから亡命していた 演出を、1920 年代半ば以来、社民党系の劇場(かつ観 人々を同市に集結させ、演劇・映画の制作や雑誌の編 客組織でもある)だったフォルクスビューネ〔「民衆舞 集・発行を通じて、アンチファシズム闘争の一大勢力を 台」〕で重ねる一方、ドイツ共産党大会の催しを〈政治 つくろうとするものだった。この実現のため、ピスカー レヴュー〉として演出し、やがて持ち劇場のピスカート トアは MORT 代表としての立場を生かし、ソ連当局に ア・ビューネを開場、前出の『どっこい』のほか、ハー コネクションを広げた。また同計画には、いわゆる演劇 シェク原作の小説に基づく『実直な兵士シュヴェイク』 人だけでなく、ドイツ共産党のソ連代表ヴィルヘルム・ (共同制作にブレヒトが関わっていることで注目される) ピークや、その息子のアルトゥーア・ピークといった など、数々の話題作を世に送り出した。 人々も関与していた。 ピスカートアはまた、こうした舞台演出活動を行うの と並行して、20 年代末からは独ソ共同制作の監督映画 『ザンクト・バルバラの漁民の反乱』(原作はアンナ・ ― 2 ― ヴォルフ「ドイツ・ファシズムの劇作」 (1936) 、ライヒ「ドイツ・アンチファシ ズムの劇作の方法について」(1937) エンゲルス計画には、実際、多くの演劇人が参加した が、前出のヴォルフもそのひとりだった。彼はピスカー トアと連れ立って、1935 年夏、この計画についてヴォ 作家の立場から、後者は劇場監督および演出家の立場か ら、ファシズムおよびアンチファシズムの演劇の作り手 たちの動きについて書き留めるとともに、これを分析 し、今後のアンチファシズム闘争に活かそうとしたもの である。 その他、関連テキスト ルガ自治共和国の当局と意見交換をしてもいる。そし ところで、ライヒの文が掲載された雑誌『ダス・ヴォ て、今回訳出されたヴォルフのもうひとつのテキスト ルト』は、1936 年 7 月から 39 年 3 月まで、ブレヒトや 「ドイツ・ファシズムの劇作」は、ちょうどこのエンゲ フォイヒトヴァンガーほかの編集で刊行された、亡命者 ルス計画が大きく展開されていたころに書かれたもので による文芸誌である。同誌は、エンゲルス計画と同じく、 ある(所収は前出の『国際文学』誌、1936 年 8 月号)。 左派勢力をアンチファシズムの共闘へ統一することを目 エンゲルスで、演劇を武器として、アンチファシズム闘 指したものだったが、統一どころか、仲違いを促す危険 争を展開するためには、敵となるナチス治下の演劇の動 を孕んだ、いわゆる〈表現主義論争〉の展開された場と きを知る必要があり、また知らせる必要がある。おそら してもよく知られる。 くヴォルフはこう考えて筆を執った。そして『ドイツ受 1934 年の第 1 回全ソ作家大会(トラーはこれに参加 難劇』に代表される作品の数々を示し、これらがナチス していた)で、ゴーリキーの提唱した社会主義リアリズ のドイツで生み出されている、その歴史的な背景を読み ムがソ連における芸術の基本方針とされたことを受け、 手にうかがわせる(第一次世界大戦敗戦後のヴェルサイ これに先立って展開された表現主義やアヴァンギャルド ユ条約によるラインラントの非武装化、1923 年のフラ 運動をどう評価するか―これが表現主義論争のテーマ ンス・ベルギーによるルール工業地帯の占領とそれに起 である。 1936 年 6 月、ゴーリキーが没し、『ダス・ヴォルト』 因するハイパーインフレなど)。 またこの 1936 年、ヴォルフは戯曲『トロイの木馬』 9 月号は、当時プラハに亡命中だった作家でジャーナリ を完成させ、これがまさにエンゲルスで初演された。そ ストのクルト・ケルステン(1891-1962)による「マク してこのときの演出家というのが、本稿でとりあげる シム・ゴーリキー:勝利の予言者」(今回訳出)を掲載 四人の書き手の最後のひとり、ベルンハルト・ライヒ したが、ここからは、ゴーリキーに対する当時の評価の (1894-1972)である。前出の映画『漁民の反乱』でピス 高まりがうかがえる。そして翌 37 年、同誌上で、ドイ カートアの通訳兼助監督を務めていたアーシャ・ラツィ ツ共産党の文化活動家、アルフレート・クレラ(1895- スの夫でもある。 1975)―ベルンハルト・ツィーグラーの名で発表され ライヒはこのエンゲルス計画で、いわばピスカート た「マクシム・ゴーリキーの遺産」(1937)が今回訳出 アの右腕として活動していた。そして今回訳出の、彼 されている―や、作家のクラウス・マンほかの人々の のテキスト「ドイツ・アンチファシズムの劇作の方法 あいだで、論争は開始された。 について」は、同計画が一定の形を成した時点で書かれ クレラによれば、表現主義はファシズムを導くものと たものだと言っていい。掲載された場は、雑誌『ダス・ 位置づけられるが、これをクラウス・マンは否定した。 ヴォルト〔「言葉」 〕』(モスクワ)の 1937 年 1 月号であ このマンはまた、表現主義の詩人として知られ、ファシ る(同テキストはまた、『時代の批評 アンチファシズ ズム支持に至った、ゴットフリート・ベンを批判する。 ムのドイツの文学批評 1933-1945』(中部ドイツ出版 1938 年には論争にルカーチが介入し、表現主義の前衛 社(Mitteldeutscher Verlag、ハレおよびライプツィヒ) 、 性を拒んだが、これを積極的に評価しようとするブロッ 1981)に再録された)。ライヒはここで、同時代の(一 ホと対立した。この二人の対立に代表されるように、論 部はエンゲルス計画に参加していた)アンチファシズム 争は、表現主義の政治性がファシズムを準備したとして の劇作家たち、および彼らの作品を紹介し、そこに描か これを否定する立場と、表現主義を擁護する立場とに分 れる世界や人物が、変化した同時代の状況をふまえ、か かれ、着地点を見ないまま、アンチファシズム勢力の分 つてのアンチファシズムの作品のそれと異なっているこ 裂を案じたブレヒトが、論争に関連する文章の掲載を打 とを解説している。 ち切ったことで終結した。 つまり、さきのヴォルフのテキストと、このライヒの またこの関連では、上のベンと並んで、ヴァイマル共 テキストは、エンゲルス計画を念頭に置いて、前者は劇 和国期の初期に戯曲『父親殺し』を発表し、同じくナチ ― 3 ― ス寄りになっていったアルノルト・ブロンネンも注目 に似て、反フランコ平和運動の成果を上げることができ される。さらに、ブロンネンは 1930 年、ナチス宣伝相 なかったこともおそらくあって意気消沈し、そして、彼 ゲッベルスとピスカートアのラジオ対談を準備してもい 自身が著した『どっこい』の主人公の元革命家が辿った るが、ここでピスカートアを気に入ったゲッベルスが、 結末を、まるでなぞるかのように、当地で首つり自殺を のちにイギリスの演出家ゴードン・クレイグをメッセン 遂げた。 ジャーとして、モスクワのピスカートアにドイツへの帰 還を打診していることもまた興味深い。 ヴォルフは 1937 年、粛清を避けてノルウェーのオス ロへ、さらにフランスへ移るが、当地で逮捕・収監され る。しかし 41 年 3 月、米ソの支援を受けてソ連へ戻り、 テキストの書き手たちのその後 以後、赤軍のもとで、ビラやラジオ講演を通じたプロパ 以上、テキストの数々を挙げたが、これらが書かれた ガンディストとして活動した。そして 45 年の終戦とと 最後の年、1937 年は、ヴァイス『抵抗の美学』の十代 もにソ連占領地域のドイツへ帰還、創作を続けるととも 後半の主人公がベルリーンで友人たちと語り、内戦中の に(『女村長アンナ』(50)、『トーマス・ミュンツァー』 スペインへ義勇兵として出立しようとしているところ (53))、49 年に成立したドイツ民主共和国(東ドイツ) で、一方、40 代半ばだったトラーはこの年、まさにこ のポーランド大使を務めもした(50 ~ 51 年)。 のスペインの反フランコ平和運動に尽力していた。 かたや、ニューヨークのピスカートアは演劇学校〈ド 一方、このころのピスカートアはパリにいた。フラン ラマティック・ワークショップ〉を 1940 年に開校し、 ス人民戦線政府の成立(1935 年)を受け、関連組織と 約 10 年にわたって活動したが、戦後の 1951 年、マッカー コンタクトをとるために、彼はアルトゥーア・ピークと シズムから逃れ、故郷の町のあった西ドイツ(当時)へ ともに 36 年 7 月、パリへ出張したのだが、それから間 渡る。それからさらに約 10 年、長い招聘演出家の時期 もなくの 10 月、ソ連に戻らないようにとの連絡をヴィ を経て、ベルリーンの壁建造の翌年に設立された西ベル ルヘルム・ピークから受け、以来、当地にとどまってい リーンの劇場、フライエ・フォルクスビューネ〔「自由 た(おそらく、ソ連当局からスパイの容疑をかけられる 民衆舞台」〕の劇場監督を任されると、晩年、いわゆる 可能性が高く、危険だと判断されたため。また MORT 〈記録演劇〉―記録文書を活用し、近過去と現在の政 も同時期に解散させられた)。エンゲルスに残された彼 治・社会問題を観衆に直視させる―の記念碑的な演出 の右腕、ライヒは、1937 年、ラツィスとともに国外へ をいくつも手がけた。そのひとつである、フランクフル 追放された。またこの年以後、『国際文学』誌に編集部 ト裁判を扱った『追究』 (1965)の作者は、ほかでもない、 『抵抗の美学』の著者、ヴァイスである。 メンバーの名は記されていない。 ピスカートアはその後、ソ連に戻ることはなく、約 2 年半をパリで過ごす(ちなみに、1938 年 9 月、つまり 彼がいたころのパリへ、スペイン人民戦線の瓦解から失 意の底にあった『抵抗の美学』の主人公は戻ってくる)。 そしてパリ滞在中、今度はフランスへナチスの影響が及 んできたために、38 年末、ピスカートアは次の新天地 であるアメリカ・ニューヨークへと向かった。翌 39 年、 彼はかの地を踏むが、この年、先にニューヨーク入りし ていたかつての僚友トラーは、『抵抗の美学』の主人公 【参考文献】 池田浩士(2004):虚構のナチズム「第三帝国」と表現文化(人 文書院) Trapp u.a.(1999) (Hg.): Handbuch des deutschsprachigen Exiltheaters 1933 - 1945. Herausgegeben von Frithjof Trapp, Werner Mittenzwei, Henning Rischbieter und Hansjörg Schneider. 2 Bde. München(Saur) Willett, John(1978): The Theatre of Erwin Piscator. London (Methuen) ― 4 ―
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