薩摩街道 - jswork.happywinds.net(自費出版ネットワーク)

街道を歩く
電子版
中山高安著
(山家ー鹿児島)
薩摩街道
─シニア世代の退屈しのぎと
健康のために─
20
はじめに
山陽道で本州縦断を終えたら次は九州に渡り、長崎と鹿児島まで
歩いて十九巻目と二十巻目にして、一応シリーズを完結したいと思
っていた。ところが長崎までの資料は多い反面、鹿児島までの資料
が意外に少ないことが分かった。
さて薩摩街道を調べ始めると、小倉から長崎街道を進み、山家で
分岐するものと、田代で分岐するものとがあり、熊本城下を経て鹿
児島に達するものである。ただ長崎街道から分岐して熊本城下まで
は豊前街道で、熊本城下から鹿児島までが薩摩街道というものがあ
り、豊前街道も調べる必要があることを知った。
更に鹿児島まで歩く積もりで調査を進めると、熊本県と鹿児島県
の道筋が分かるのは﹁歴史の道﹂しか見つからず、しかも長崎街道
から分かれて熊本県へ入るまでの福岡県内の道筋が分からない。
そこで八方に手紙を出し手がかりを求め、同時並行的に集めてき
た資料を読んで、その文章から通過する町名や寺社名が分かるよう
になり、おおよその断片的な道筋は推測できるようになったが、ま
だ歩くには不十分で確信がもてるような状態でなかった。
出した手紙の返信がほとんどない状況の中で、九州の或る新聞社
から﹁分からない﹂と丁寧な返信を頂いた。もう諦めようかと思っ
ているとき、或る図書館から手を尽くした返信を頂き、これで山家
から分岐して筑後川までの地図を手に入れた。
この図書館に礼状を書くと、更に詳しい大学の先生を紹介して貰
えることになった。先生からは何度も手を差し伸べる手紙を頂き、
当方で推測した道筋を書いた地図を送って添削して貰い、最後はお
会いし協力を頂いて熊本県までがつながった。
その点で、その図書館と先生と先生からご紹介頂いた方々に本当
に感謝している。一生懸命やっていると手を差し伸べて下さる方々
がいて、いつものことながら有り難いことだと思っている。
尚、ここでは小倉から山家までを省略したが、これはシリーズの
⑲ ﹁ 長 崎 街 道 ︵ 下 関 ー 山 家 ー 長 崎 ︶﹂ と 重 複 す る た め で あ る 。
目次
薩摩街道とその里程
山家から御井へ
道を間違えて︵閑話︶
御井から羽犬塚を経て尾島へ
尾島から南関へ
南関から山鹿へ
山鹿から上熊本へ
上熊本から川尻を経て宇土へ
宇土から松橋を経て小川へ
小川から八代へ
八代から日奈久を経て二見へ
二見から田浦を経て佐敷へ
佐敷から津奈木を経て新水俣へ
新水俣から出水へ
七
一六
三一
三五
四八
六七
八五
一〇三
一二〇
一二九
一四六
一五五
一六九
一八五
出水から阿久根へ
阿久根から西方へ
旧道を探す︵閑話︶
西方から川内へ
川内から市来へ
市来から伊集院へ
伊集院から鹿児島へ
終わりに
二〇二
二一三
二二二
二二六
二三九
二五二
二六三
二七六
薩摩街道とその里程
山陽道の終点から九州に渡って、鹿児島までの旧街道は幾つかあ
るようだが、ここでは長崎街道の山家で分岐して山鹿を経て、熊本
城下を通る薩摩街道を取り上げる。
だ い り
豊前国小倉または門司に近い大里を起点として、薩摩国に達する
街道を薩摩街道と呼ぶのは、向かう方向の終点が多くの場合に街道
名 と な っ て い る た め だ ろ う 。だ か ら 熊 本 県 教 育 委 員 会 の﹁ 歴 史 の 道 ﹂
にもあるように、熊本城下の札の辻から薩摩国へ向かう道は薩摩街
道と呼び、札の辻から豊前国へ向かう道は豊前街道と呼んでいる。
この熊本から向かう豊前・豊後・薩摩・日向の四つの街道は、い
づれも新町一丁目御門︵新一丁目︶前の札の辻を起点としていた。
せいそうえん
その場所は清爽園入口に﹁史跡 元標跡﹂の標識が立てられている
辺りである。
また、この街道は長崎街道から分岐または合流するようになって
いるが、小倉の方からは山家宿で分岐するように書いてあり、熊本
-7-
の方からは田代宿で合流するように記したものもある。これは熊本
の方から長崎の方へ進むとき田代で合流する方が近道だから、そう
いう旧道もあったということだろうか。
筑前六宿の一つである山家は今でこそ取り残されたような街だが、
古くは太宰府から大隅の国府︵鹿児島県国分市︶へ向かう途中にあ
り、後の藩政時代には長崎街道の要衝としてにぎわった。
また、この街道を歩いていると道標に旧防津街道︵薩摩街道︶と
ぼうのつ
あるが、これは今の鹿児島県南さつま市にある防津のことである。
ここはリアス式海岸の入江にできた古くからの天然の湊で、鎖国令
以降は密貿易の拠点として蔵が建ち並ぶほどにぎわった。
少なくとも以上のことを頭に置いておかないと、途中で出会う道
標に違和感があるかも知れない。
〇
この筑前・筑後︵福岡県︶から熊本を経て鹿児島を結ぶ道は、農
産物などの流通路としてにぎわっただけでなく、鎌倉時代に薩摩国
などの守護となった島津氏が、周辺領主と合戦を繰り返すための軍
-8-
用道路でもあっただろう。
その後、関白となった豊臣秀吉は九州の大半を勢力下に置いて、
残る敵は関東の北条氏と薩摩の島津氏となったとき、天下統一を目
指して天正十四年︵一五八六︶九州制圧を決意し、諸国の大名に出
陣を命じ軍勢二十五万を動員した。翌年には大阪を発ち大軍を率い
こ う ら
て九州小倉に上陸した秀吉は、秋月から高良山を経て薩摩街道を南
下し島津を降伏させた。
秀吉は領国内の支配権を確立するため道路や橋の整備に力を注ぎ、
九州平定の際には毛利氏に九州の街道整備を命じた。その結果、当
時は部分的に極めて狭かった薩摩街道も大きく開かれ、この街道も
大きな変ぼうをとげることになった。
関ヶ原戦後に覇権を握った徳川家康は、五街道を中心にして交通
体系の整備を行ったが、諸藩における主要な脇往還でも同じような
整備が行われた。その一つの事例は各藩に札の辻が設けられ、一里
塚が築かれ一里木︵里程標︶が立てられた。
更に寛永十二年︵一六三五︶参勤交代制度が始まると、ますます
-9-
街道整備が必要になり、薩摩藩主も当初は主に海路を利用していた
ようだが、藩主や随行者が休泊する御仮屋や御茶屋などと道路が整
備され、陸路の利用が中心になったようである。
ここで鹿児島藩主が参勤交代で江戸へ向かう陸路を見てみたい。
その一つは鹿児島から加治木・横川・大口の大口筋で、もう一つは
むこうだ
い ず み
鹿 児 島 か ら 市 来 ・ 向 田 ︵ 今 の 川 内 ︶・ 阿 久 根 ・ 出 水 の 出 水 筋 で 、 こ
の二つは水俣へ入ったようである。それ以外に高岡筋と呼ばれる日
向路線があり、鹿児島ー加治木ー福山ー高城ー細島から出港してい
る。ただ、ここでは今回の薩摩街道に近い出水筋を取り上げる。
みつかん
鹿児島の鶴丸城を発した島津氏は、西田町から水上坂を上り伊集
院に出て、薩摩焼ゆかりの美山を経て市来から向田に達し、ここに
あった御仮屋に滞留した。ここからは二つのコースがあって、一つ
ととんぐち
は向田町の渡唐口から川舟で対岸の渡瀬口に渡り、川内大小路町か
ら陸路を進むコースと、もう一つは川舟で川内河口へ下る海路のコ
ースとがあった。
陸路は阿久根・出水を経て小倉へ目指し、小倉から船で大阪に行
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き、大阪からは東海道沿いに江戸へ向かった。また海路は川内河口
の京泊に下り、対岸の久見崎軍港に用意した御座船に乗り換えて、
長崎・玄界灘・瀬戸内海を経て大阪まで行き江戸へ向かった。
さて、参勤交代も海路から陸路が中心になり、戦国時代から泰平
な江戸時代に移行すると、商人や文化人などの民間人や物資の移動
も盛んになり、問屋や人馬継立所や旅籠や木賃宿や商家や茶店など
も充実して、これがまた経済活動を活発化させることになった。
やがて時代も進み明治維新の折りには、西郷隆盛を擁する薩摩軍
と 政 府 軍 が 衝 突 し 、薩 摩 街 道 の 各 地 で 西 南 戦 争 の 激 戦 地 と な っ た が 、
この痕跡はこの街道を歩いていると随所に残っている。
ところで、この街道を利用した民間人として、外国人ではフラン
シスコザビエルが古く、江戸時代では医術を施しながら多くの旅行
記 を 残 し た 古 河 古 松 軒 や 、勤 王 家 と 知 ら れ る 高 山 彦 九 郎 や 頼 山 陽 や 、
大阪天満の商人で薩摩藩との関係が深い高木善助や、伊能忠敬も通
っている。また明治時代になると、水俣生まれの徳富蘇峰や蘆花の
兄弟が江戸との間を行き来している。
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里程︵キロ︶
三里︵十一・八︶
三里︵十一・八︶
〇
以 下 の 里 程 は ﹁ 大 日 本 道 中 行 程 細 見 記 大 全 ﹂︵ 享 保 二 年 ︶ に よ る
もので、本文とは若干違う所があるようだが、これを取り上げる。
なぜなら他に里程を記したものは少ない上に、記したものでも違い
が大きいように感じられるからである。
ただし歴史書でないから里程については余り追求せず、歩く人の
参考にして貰うため取り上げたが、他の資料との大きな相違点や疑
問点は最後に注釈した。尚、一里は三・九三キロで換算した。
また小倉から山家までは長崎街道と重複するため省略して、山家
からだけを記載した。ただし一回を二十キロ足らずで区切ることに
したものの、色々な理由から行程間の距離としては短い所が多くな
っている。
宿場名
小倉ー黒崎︵福岡県北九州市八幡西区︶
黒崎ー木屋瀬︵北九州市八幡西区︶
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木屋瀬ー飯塚︵飯塚市本町︶
飯塚ー内野︵筑穂町内野︶
内野ー山家︵筑紫野市山家︶
山家ー追分
追分ー久留米︵久留米市︶
久留米ー府中︵久留米市︶
府中ー勢高︵みやま市瀬高︶
勢高ー南関︵熊本県南関町︶
南関ー山鹿︵山鹿市︶
山鹿ー熊本︵熊本市︶
熊本ー川尻︵熊本市川尻︶
川尻ー小川︵宇城市小川町︶
小川ー高田︵八代市︶
高田ー日奈久︵八代市日奈久︶
五里︵十九・七︶
三里︵十一・八︶
三里︵十一・八︶
小計十七里︵六十六・八︶
二里半︵九・八︶
五里︵十九・七︶
一里︵三・九︶
四里︵十五・七︶
三里︵十一・八︶
五里︵十九・七︶
六里︵二十三・六︶
小計二十六里半︵百四・二︶
二里︵七・九︶
五里︵十九・七︶
四里︵十五・七︶
二里︵七・九︶
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日奈久ー田浦︵芦北町︶
田浦ー佐敷︵芦北町田浦︶
佐敷ー水股︵水俣市佐敷︶
水股ー米津︵鹿児島県出水市︶
米津ー井手水︵出水市︶
井手水ー高風野︵出水市︶
高風野ー野田︵出水市︶
野田ー阿久根︵阿久根市︶
阿久根ー西肩︵薩摩川内市西方︶
西肩ー高城︵薩摩川内市︶
高城ー水引︵薩摩川内市︶
水引ー向田︵薩摩川内市︶
向田ー串木野︵いちき串木野市︶
串木野ー市来︵いちき串木野市︶
市来ー伊集院︵日置市伊集院町︶
伊集院ー鹿児島︵鹿児島市︶
三里︵十一・八︶
二里︵七・九︶
四里半︵十七・七︶
一里︵三・九︶
一里︵三・九︶
一里︵三・九︶
一里︵三・九︶
二里半︵九・八︶
三里半︵十三・八︶
三里︵十一・八︶
一里︵三・九︶
半里︵二・〇︶
三里︵十一・八︶
一里︵三・九︶
三里半︵十三・八︶
三里半︵十三・八︶
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小計四十八里︵百八十八・六︶
山家ー鹿児島=七十四里半︵二百九十二・八︶
小倉ー鹿児島=九十一里半︵三百五十九・六︶
①山家ー府中で、追分や久留米は何処を指しているのか分からない
から、本文の道筋と合致しているか否かは疑問で、松崎経由の山家
ー府中の里程はもっと短いものと思われる。
や ま が
②勢高から山越えに原町・南関・山鹿と進む本道と、海沿いに江浦
こ の は
・三池・高瀬・木葉と進む道とがあって、この二つの道は熊本で合
流したとあるが、ここでは前者を取り上げる。
③高城ー水引ー向田で、水引のどの辺りを指しているのか分からな
いため、本文の道筋と違うかも知れない。
④府中ー南関、米津ー井手水、市来ー伊集院では、二本の道が存在
するため、どちらの里程を取り上げているのか分からない。この二
本の道は時代によって付け替えられた道もあるが、城下町や屋敷町
を通らないようにした道もある。
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み
い
山家から御井へ
長崎街道を冷水峠の方から進んできて山家宿に入る。四つ辻の左
角に山家宿問屋跡があり、右側に長崎街道山家宿の掲示がある郵便
局の前を通る。次の辻の旭化成入口とある所で長崎街道は右へ曲が
るが、昔の薩摩街道は、そのまま直進してJR筑前山家駅の辺りを
通過して、山家川の手前に出たというが、今その道は消えている。
そこで長崎街道で山家宿を通過して、国道二〇〇号線に突き当た
る間片交差点まで進む。この右角に山家宿番所跡があり、長崎街道
はすぐ右へ曲がるが、ここで左へ曲がって間片交差点を横断し、そ
のまま直進して山家川に達する。この辺りからが旧道である。
田んぼの中を進み、山家川を間片橋で渡ると、間もなく民家が並
ぶ道になる。左側に第七十五番札所善通寺①と猿田彦大神などがあ
り、その三十メートルほど先にも猿田彦大神がある。
国道二〇〇号線を蔵役交差点で越えると、田んぼの終わる右側に
古市彦太夫の墓②があり、その先に民家が並び始める。古市彦太夫
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は、秋月藩の老職宮崎織部の家人で、島原の乱で負傷して中牟田に
着任し、中牟田地区の灌水不足を補うため井堰を造築したため、中
牟田区民は恩人として崇めている。
最初のT字路の右角にある電柱の裏に、南中牟田停留所という石
碑があるが、どういうものかは知らない。小川を渡ると左側に金光
教教会がある。
ずっと民家が続き、右側の立派な家を見ると、その先左奧に中牟
田小学校がある。その百五十メートルほど先にT字路があり、その
右 角 に 追 分 石 が あ っ て 、こ の 追 分 石 ③ に は 、左 豊 後 ・ 秋 月 ・ 甘 木 道 、
右肥後・薩摩道と刻んであるらしい。
この追分石で右へ曲がり、そのまま直進すると左側に道路改修碑
いしひつ
があり、この辺りは石櫃地区で、いしひつ交差点で国道三八六号線
を渡る。田園の右側に溜池を見て、点滅信号の四つ辻を越えると民
家が並び始め、県道五九三号線を越える。
道なりに進むと畑の中の一軒家に向かっていくが、その舗装道路
は県道五三号線まで続いている。ただしこの一軒家辺りから田園の
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墓
の
夫
太
彦
市
古
る
あ
と
後
肥
右
・
後
豊
左
は
に
石
分
追
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中 を 通 っ て い た 道 は 消 え て い る た め 、県 道 五 三 号 線 を 目 指 し て 進 む 。
九月のこの時期は畑に勢いよく茎と葉を延ばしているものがあり、
枝 豆 ら し く 見 え る が 花 は 付 け て い な い 働 い て い る 女 性 に 訊 く と﹁
豆です﹂と言うが、枝豆も大豆も同じものだから作る時期と収穫法
が違うのだろう。
県道五三号線を進むと左手の田んぼの中に墓地があり、更に教覚
寺は左という標識を見て、すぐ曽根田川を曽根田川橋で渡る。渡る
と前方に交差点が見えるが、旧道は右へ曲がって川沿いに進み、左
へカーブして民家が始まる寸前に、河工事記念碑と架橋記念碑と奧
に水神社④がある。
右側からくる道と合流する寸前、左側に 駄祭記念碑
とあるが、駄
とは馬などのことで、これを祀ったものらしい。その合流点の右角
に雑貨屋があって、右へ曲がれば斜め向かいに天満宮⑤がある。
。
大
旧道は左へカーブして馬市橋を渡る。左手にパチンコ屋を見て右
へカーブすると、左側に大樹が目に付き、向かい側に大きな国境石
⑥が二つあるが、これには従是北筑前国、従是南筑後国とある。そ
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の先左側の溜池で小エビをすくっている人がいる。
乙隈地区も民家が並び左側に天理教教会があり、その先のT字路
の右角に祠がある。その二百五十メートルほど先で乙隈交差点を渡
り、草場川を御原川橋で渡る。
県 道 五 三 号 線 に 近 づ い て 、ま た 離 れ 始 め る と 上 茶 屋 バ ス 停 が あ る 。
小 郡 市 干 潟 地 区 に 入 る と 、右 か ら く る 道 と 合 流 し て 左 に カ ー ブ す る 。
次の四つ辻に干潟バス停があり、ずっと家が並んでいる。
左側に赤松医院、右側に警察があり、やがて一里木バス停があっ
て、その百メートルほど先右側に一里塚跡⑦の掲示がある。ここの
一里塚も昭和の中頃までは大きな榎の名残が見られたが、今は昔を
しのぶものは残っていない。
右からくる県道一三二号線に合流して、五十メートルほど先の交
差点で右へ曲がる。するとまた民家が並び右側にJAがあり、左側
に商店が数軒ある所に立石バス停がある。
そ の 先 、緑 の 小 川 を 越 え る と 、交 差 点 の 右 側 に 立 石 小 学 校 が あ り 、
左側に立石中学校があって、この角に大きな立石原畑地潅漑記念碑
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がある。その敷地が切れると両側に溜池がある。
広い道との交差点に三軒家バス停があり、交差点を越えた左角に
山崎瑞松園があって、ここには日本列島植木植物園がある。その植
木園の向かい側には田中常緑園があり、長崎街道でも薩摩街道でも
植木屋が多いことを感じる。
高速道路をくぐり、薬師町バス停のすぐ先左側に地蔵堂があり、
右側に霊鷲寺⑧があるが、ここには稲次因幡公彰徳碑がある。享保
十三年︵一七二八︶農民は重税に耐えられず総勢五千七百余人によ
る一揆を起こした。若年の稲次因幡は単身で首謀者と会見し、農民
の要求をまとめて解散させたが、家老仲間の反対や藩公の怒りをか
い、幽閉され二年後に没した。
ここから二股で左へ進む。甘木鉄道を渡り、二百メートルほど先
で国道五〇〇号線を渡って、すぐ国道より斜めに並行して進むと、
松崎宿北構口⑨がある。
松崎宿は、北は太宰府を経て博多に、南は久留米より柳川を経て
熊本に通ずる大公道即ち松崎道で、この街道は北は山家宿、南は府
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国
後
筑
南
・
国
前
筑
北
−
石
境
国
碑
徳
彰
公
幡
因
次
稲
と
寺
鷲
霊
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中宿に至る江戸時代の天下道︵幹線道路︶だった。松崎宿の南北の
入口に、高さ一間︵約二メートル︶縦横二間︵約四メートル︶の堅
固な石積みの構口があり、宿場の出入口は意図的に屈曲させて敵の
侵入を阻止するようにしていた。
〇
北構口の前を通り、突き当たって右へ曲がって、またすぐ左へ曲
がるが、この右側の家は旧家だろう。その先で車の多い道に出る寸
前、左側にエビス像と御堂があり、並びの角家も白壁の家である。
車が多い道に出て左へ曲がると、左側に松崎宿旅館の油屋⑩があ
る。ここは松崎宿で唯一完存する江戸時代の旅籠建物で建築年代は
十八世紀だが、大きく分けて主屋と角座敷からなり、主屋には一般
の旅人客を、角座敷には武士など身分の高い賓客を泊めた。この旅
籠は非常に大型で、松崎宿の中では本陣・脇本陣に次ぐ扱いを受け
ていたと考えられ、幕末から明治期には主屋部分と角座敷部分が独
立し、油屋と中油屋と二軒が並ぶ現在の形になった。
右側にも白壁の豪邸があり、交差点を渡ると左側に松崎郵便局が
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ある。その先左側の真浄寺⑪まで行く手前、四つ辻で右へ曲がると
右側にエビス像があって左へカーブする。すると右側に松崎宿南構
口があって民家が終わる。
右側に養護学校⑫があり、下岩田公民館バス停を過ぎると、すぐ
先に天満宮⑬がある。その百メートルほど先右側に一里塚跡があっ
て小川を渡る。一里塚については五街道で一里毎に塚を作り、塚木
を植えさせて以来、各藩でも主な街道に一里塚を設けたが、この地
にも有馬藩により造られた。
下岩田交差点から旧道は消えているため、交差点から県道を南へ
向かい、二百メートルほど先の四つ辻で右へ曲がり、次の辻で左へ
曲がる。この辺りからが旧道で、その先右側に御堂と墓地がある辺
ふ る え
りは古飯地区だろう。左手の車の多い県道に近づきながら直進する
と、左側に高松凌雲と古屋佐久左衛門の碑⑭が立っている。
高松凌雲は天保七年︵一八三六︶古飯の庄屋である高松家の三男
として生まれ、久留米藩家老の養子となったが二十四才で脱藩して
医学の道へ進む。江戸で医学を修行し、緒方洪庵塾︵適塾︶に入門
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並
家
の
宿
崎
松
碑
の
門
衛
左
久
佐
屋
古
と
雲
凌
松
高
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を許され、一橋家に仕官して徳川慶喜の奧詰医師を命じられた。戊
たけあき
辰戦争では榎本武揚らと行動を共にして箱館で負傷兵の治療に当た
った。後に一介の町医者として開業し、同愛社を設立して貧民施療
に 努 め た 。凌 雲 八 十 五 才 で 死 ん だ 後 も 同 愛 社 は 昭 和 二 十 年 ま で 続 き 、
戦前の日本における社会福祉医療の一端を担った。
古屋佐久左衛門は天保四年︵一八三三︶高松家の次男として生ま
れ、最初は医学を志したが、後に尊皇攘夷の時勢でも徳川の天下を
挺身し支えようとして、五稜郭では榎本武揚を助けて歩兵隊総指揮
官になって骨を埋めた。
〇
すぐ先の古飯交差点の手前右側に諏訪神社⑮がある。交差点を渡
って民家の並びが切れると稲と大豆畑である。
やがて右側に郡境碑⑯と説明板を見て、また民家が並び始める。
ここの郡境碑は、当時の御井郡と御原郡の境界を示すため文政十二
年︵一八二九︶に立てられたが、この松崎街道は参勤交代をはじめ
筑前と筑後を結ぶ主要街道だった。
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民家が切れた所に竣工記念碑⑰があり、その四つ辻を直進する旧
道は消えているから、やむを得ずに左手の県道を進む。国道三二二
号線を平方陸橋で渡り、約三十メートル先で右へ曲がると集落があ
り、ここに光行茶屋があったのだろう。
この先で国道三二二号線を横切り、国道沿いの 桜並木
を歩く。し
ばらく行くと今度は国道の反対側に道が現れ、国道を渡って国道沿
いに進む。また国道に合流すると車道の向かい側辺りに一里塚があ
ったらしいが、車が多くて渡れず確認できない。この桜並木もやが
て終わり、二股で旧道は直進し三二二号線は右へカーブしていく。
車が少ない旧道を直進するが、これが大刀洗川沿いの光行土居だ
ろうか。右下に見えるのが宮の陣用水というらしく、この用水を古
賀茶屋橋で渡ると、左側に八丁島駐在所がある。
間もなく突き当たって左へ曲がると、左側に模範耕地整理之碑が
あって若松橋を渡り、その先で西鉄甘木線の踏切を渡るが、このと
き左手を見ると古賀茶屋駅がある。大刀洗川を西宮橋で渡り、右側
の北野天満宮⑱の前で十郎丸交差点を渡る。
- 29 -
新川を灰塚橋で渡ると間もなく民家が切れて、旧道の両側にビニ
ールハウスが多くなる。中に見えるのは小松菜やウリもあるようだ
が、スイカは収穫されずに残っている。
くましろ
左からくる道と石崎三差路交差点で合流して、今は神代橋で筑後
川を渡る。川沿いに天満宮⑲の脇を通って、左へカーブすると右側
に祠があるが、昔は神代橋を渡る所からここへ渡河したらしい。
神代バス停の百メートルほど先左側に地蔵堂があり、その五十メ
ートルほど先右側に石碑がある。更に進むと野口交差点の手前に戦
没者慰霊碑⑳がある。
野口交差点を渡ってから斜めに進む旧道は消えているから、どの
道を通っても良いのだが、右へ曲がりエネオスのGS︵ガソリンス
タンド︶の手前で左へ曲がって沓型橋で渡る。この辺りに旧道が出
てきたはずで、その先にはラブホテルが目に付く。
前方に高速道路が見えてきて、その薄暗いトンネルをくぐるのが
旧道だが、ここから左へ進めばJR御井駅があり、またタクシーで
も久留米駅まで近い。
- 30 -
道を間違えて︵閑話︶
その日はなぜか続けて間違いを犯したが、こういう日もあるとい
う事例で、その代償として四ー五キロ余計に歩くことになった。
松崎宿下町にある真浄寺の手前で右へ曲がるとは知らず直進し、
真浄寺を左側に見ながら進んでしまったのが間違いの最初である。
いくら行っても目印にしている養護学校が出てこない。一キロぐ
らい行って県道五三号線に達して、おかしいのではないかと思い始
める。ちょうど角のコンビニに椅子があるのを見つけ、早朝の食事
で空腹にもなっていたこともあって、パンを食べながら地図を確認
することにした。
改めて地図を見て、何処で間違えたのか、やっと気づいて元に戻
ることにしたから、往復で約二キロは余計に歩いたことになる。
〇
ところが、その先で下岩田交差点から古飯へ向かうとき、下岩田
交差点で南へ行くべき所を西へ向かってしまった。
- 31 -
田園の中の旧道というのはよくあることだから、余り不審にも思
わずに歩いていたが、五百メートルも行ってから直角に曲がり、そ
の先でも筋違いで曲がるようになって、おかしいのではないかと思
い始める。それでも進むと宝満川に出てから間違いに気づいたもの
の、何処で間違えたのかがハッキリしない。
途中で出会う人がいないから確認できない。車に手をあげても止
まってくれないのは、何かと勘違いされているのだろう。やっと止
まってくれた宅配業の女性は、私が納得するまで訊くから応対が大
変だったかも知れない。
ただ、これで何処で間違ったのか分かって、そこまで戻ることが
できたが、ここでも往復で二キロばかり余計に歩いてしまった。
歩く旅をしていると、途中で訊きたくても人に出会わないため、
車を止めて訊こうとするが、ヒッチハイクと勘違いされて車を止め
て貰えないことが多い。特に歩く方向と同じ車はダメだが、歩いて
いる方向に向かってくる車の方がまだ止まってくれる。
〇
- 32 -
もう一つは光行土手へ出る道で、郡境碑の先で消えているとは知
らず苦戦した。近辺を歩き回っても訊こうとする人に出会わない。
やっと止まってくれた車の運転手は若者で、やはり若者は知らな
いらしく答えが役に立たない。
次に止まってくれた男性の年寄りは、モグモグ言うだけで話しが
通じない。目が悪いのか、字が読めないのか、見せた地図の字をい
ちいち読むように要求する。ついにしびれを切らせて﹁分かりまし
た﹂と言って別れる。
更に、誰か会わないか歩き回っていると、運転手が中年の男性ら
しいので手をあげる。止まった車の横腹を見ると﹁運転代行業﹂と
あるから期待できる。質問してみると﹁旧道は耕地整理で消えてし
まったのです﹂と言って、代替経路を教えてくれたので救われる。
ただ、この男性について教えて貰っている最中に気になったこと
は、赤ら顔で明らかに酒を飲んでいるように見えることである。や
っと教えてくれる人を捕まえて、気持ち良く教えてくれているのだ
か ら 、﹁ 酒 を 飲 ん で 運 転 し て は い け ま せ ん よ ﹂ と も 言 え ず に 別 れ る 。
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- 34 -
み
い
はいぬづか
おしま
御井から羽犬塚を経て尾島へ
ラブホテルが目に付く所を過ぎて、薄暗い高速道路のトンネルを
くぐり、御井旗崎二丁目に入る。旗崎交差点で県道を渡り、更にJ
Rを渡る。
左側に溜池を見ながら右へカーブすると道標が立っていて、今度
は左へカーブすると左側に金光教教会がある。すぐ脇の標識に山川
招魂社①は左三十メートルとあるため、どんなものか左へ曲がって
向かってみると、実際には約百メートルほど先である。
山川招魂社は、明治二年︵一八六九︶久留米藩主により高山彦九
郎はじめ明治維新に身を投じた志士三十八の霊を祀る招魂所が設け
られ、その後の戦役における郷土出身の戦没者も祀られている。
〇
良山中学校入口交差点を渡り、右側に安養寺②を見て前方の点滅
こ う ら
信号を直進するのが旧道だが、左へ曲がれば高良大社の大鳥居③と
大きな常夜灯があり、左側の御井小学校は本陣だったという。
- 35 -
この大鳥居は高良大社の一の大鳥居で、高さ六・八m、柱間四・
五mの花崗岩製の典型的な大形の明神鳥居である。承応四年︵一六
五五︶に久留米藩主有馬忠頼の寄進によって建立された。
点滅信号を直進する旧道には、左側に小さな御井郵便局があり、
すぐ左側に高良下宮社④がある。高良下宮社は、上宮︵高良大社︶
と 同 じ 履 中 天 皇 元 年︵ 四 〇 〇 ︶或 い は 天 武 天 皇 の 白 鳳 二 年︵ 六 六 四 ︶
の創建といわれる。上宮を遙拝する位置にあり、平安時代には国司
がつかさどる名社だった。
高良社の門前町が府中宿だというから、この辺りが宿場だったの
だ ろ う 。高 良 下 宮 社 の 百 メ ー ト ル ほ ど 先 左 側 に 旧 家 ら し い 家 が あ り 、
斜め向かいに狛犬が守る石仏があって、そのすぐ右側には源正寺⑤
がある。
そこから百五十メートルぐらい先左側に愛宕神社の石鳥居があり、
その先の矢取交差点の右角に小さなエビス像がある。更に進んで左
側に信愛女学院があり、斜め向かいに天理教教会がある。
学院の百メートルほど先右側に高牟礼市民センターがあり、ここ
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小
井
御
に
側
左
と
居
鳥
大
の
社
大
良
高
跡
所
砲
鉄
と
−
タ
ン
セ
民
市
礼
牟
高
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ひさしげ
には田中久重鉄砲所跡⑥の石碑がある。
田中久重は、からくり儀右衛門として親しまれているが、寛政十
一年︵一七九九︶に生まれ幼い頃から才能を発揮して、水からくり
などの新しい仕掛けを次々に考案した。後に西洋技術を学び、嘉永
四年︵一八五一︶には当時の時計の最高傑作である万年自鳴鐘︵国
指定重要文化財︶を完成させた。嘉永六年には蒸気船や鉄砲の製作
などを行い、ここでアームストロング砲を鋳造し、ここから三千メ
ートル先の飛岳へ向け試射された。
〇
その百メートルほど先で高良川を下川原橋で渡る。その先は自衛
隊で旧道は消えているから、時計回りで自衛隊の反対側へ進む。
消えた同じ位置からスタートすると、右側に久留米大学医療セン
ターがあり、その先左側に御奉載記念館⑦がある。左側に明星中学
校がある先で右へカーブすると、前方に白衣の大観音像が現れる。
そして桃太郎川を千束橋で渡り、二股は左の急坂でなく右へ進み
右からくる道と合流し、右へ左へ蛇行して国道三号線に合流する。
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- 39 -
振り返ると白衣の大観音像⑧の正面が見える。
左へ曲がって二軒茶屋交差点で渡り、国道と分かれて南西に上り
坂を進むと、国道との三角地に上津小学校がある。その先は自衛隊
高良台演習地の脇を通るが、この道は県道八六号線である。
野添川を桜尾橋で渡ると、その先左側に下草道が口を開けている
のは消えた旧道の入口ではないだろうか。右側に大きなミラーがあ
る二股を左に進むと六差路で、左右の道は無視をして前方にある二
本の左の道を進む。右の道は国道二〇九号線の東山交差点に出る。
車も少なく歩道もない旧道を進むと、副島産業⑨という会社で突
き当たり、東山交差点からくる道と合流して左へ曲がる。この先か
らは道が細い割に車が増えて、すれ違うのに注意が必要である。
やがて国道二〇九号線に合流すると相川バス停があり、JR荒木
駅まで右へ二㎞とある。そのすぐ目の前に相川交差点があり、ここ
からは国道二〇九号線を歩く。
永代橋を渡り、やがて筑後市に入って西原交差点を過ぎると、左
側に保険学校とあるが、入口にドラえもんの石像があるのはなぜだ
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ろうか。既に一条地区に入っていて、右側の茂みの中に原田万吉生
家跡とあるのはどういう人だろうか。
右側に地方卸市場を見て進むと、左側に筑後一条郵便局があり、
すぐ目前に一条交差点がある。横断した所に一条バス停があり、そ
の脇に御堂⑩がある。
盛徳交差点の標識には石人山古墳が左とある。その先は右側に筑
後北小学校があり、大谷短大交差点を越えると右側に九州大谷短大
がある。更に蔵数赤坂交差点の左側高台の建物は寺だろうか。
旧道は左側にコンビニがある所から右斜めに国道と分かれ、その
先の大堤交差点でまた国道二〇九号線に合流する。次の上原々向山
交差点で左へ曲がり、百メートルほど先の生鮮市場の前で右へ曲が
って、国道二〇九号線に並行するように進む。
右 側 に 小 さ な 公 園 が あ り 、左 側 の 小 高 い 森 が あ る の は 何 だ ろ う か 、
入口に灯籠と地蔵堂がある。その先の倉目橋を渡ると、閑静な石塀
の家並みが続く。
途中の左側に小さな地蔵堂を見て、広い道と交差するとき右手を
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像
音
観
大
の
衣
白
へ
右
で
前
の
ニ
ビ
ン
コ
先
の
点
差
交
数
蔵
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見ると上原々交差点が見える。左側に熊野神社⑪があり、その二百
メ ー ト ル ぐ ら い 先 で 国 道 を 渡 り 、反 対 側 に 出 て 国 道 と 並 行 に 進 む が 、
間もなくまた国道と合流する。
玄ヶ野交差点を過ぎて、羽犬塚上町交差点を過ぎると、左側に社
日神社⑫と地蔵堂があり、ここの茂みに山頭火についての木標があ
る。これによると、北側に喜楽屋という木賃宿があって、ここに漂
泊の俳人山頭火が昭和五年に宿泊したとある。
免許試験場交差点を越えると右側に宗岳寺⑬があり、この境内に
は六地蔵と羽犬の墓がある。羽犬塚の地名は、天正十五年︵一五八
七︶豊臣秀吉が九州平定のためこの地を通ったとき、召し連れた羽
のある犬が死んでこの地に墓を築いたからという。
その先右側の羽犬塚小学校があり、街道沿いに御茶屋跡の掲示が
ある。御茶屋とは、大名居城の御殿に対して、遊猟・領国内巡覧な
どのとき休泊する本陣のことで、久留米藩直営の施設だった。間口
十七間余、奥行二十八間余で五百坪以上あった。
六所宮前交差点の左側に六所宮⑭参道入口があり、百メートルほ
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ど奧に神社がある。ここの石祠は享保十八年︵一七三三︶地元の人
たちが奉納したもので、神像は男女双体で裏面に正平十二年︵一三
五 七 ︶の 銘 が あ る 。江 戸 時 代 中 期 に は 恵 比 須 神 と し て 祀 ら れ て い た 。
その交差点から二百メートルほど行くと、右へ曲がるのが旧道で
ある。すると藤島橋の手前に、この街道で初めて見る立派な旧防津
街道︵薩摩街道︶の石標⑮があり、山頭火の句碑がある。
橋を渡ると趣のある家が所々にあり、前方に十数階建てビルが現
れる。その間を抜けると車の多い道を横断するが、ここで左手を見
ると駅入口交差点となっていて、右へ進めばJR羽犬塚駅がある。
その広い道を横断すると、マンションのような建物の前に一里塚
送跡とあるが、この送跡とは何だろうか。その先の山ノ井交差点を
斜 め に 横 切 る 形 で 進 む が 、こ の 交 差 点 に は 羽 の あ る 犬 の 像 ⑯ が あ る 。
山ノ井交差点を斜めに横切ると旧道はすぐ二股になり、右の国道
に平行するような形の道を進む。二本松橋を渡り、右へカーブする
角に旧防津街道︵薩摩街道︶の石標⑰がある。
次に左へカーブして百メートルも行くと、四つ辻の右角に小さな
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碑
句
の
火
頭
山
と
標
石
の
道
街
津
防
旧
像
の
犬
る
あ
が
羽
の
点
差
交
井
ノ
山
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道標があるが、風化しているため読めない。その五十メートルほど
先に交差点がある。
その百メートルぐらい先の二股は右へ進み、野町地区でまた二股
は国道へ出ない左の道を進む。鶴田地区を進むと旧防津街道︵薩摩
街道︶の木碑⑱があり、奧に大きな石灯籠がある。その先の尾島上
町交差点で国道と合流する。
左側に天満宮⑲があり、右側に小さなエビス像と観音像の祠に気
づく。尾島十字路バス停の右側にも祠があり、尾島交差点の左側に
興満寺⑳があるが、ここの五差路は中央に国道をはさんで旧道が二
本ある。左斜めに進む旧道が元禄十三年︵一七〇〇︶以前の近道と
も呼ばれ、右へ曲がる旧道が元禄十三年以降の瀬高通りである。
〇
この尾島まで足を伸ばしたのは、翌日と翌々日の距離を考えて少
し稼いでおくためで、ここから羽犬塚へはバスが走っているし、タ
ク シ ー も 多 い よ う で あ る 。ま た 更 に 右 へ 一 ・ 五 キ ロ も 旧 道 を 進 む と 、
JR船小屋駅まで四百メートルぐらいの所へ出る。
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- 47 -
尾島から南関へ
尾島交差点の五差路を右へ曲がって瀬高通りを進む。南西に右へ
左へカーブして大門橋を渡り、水洗橋を渡ると右側に水洗小学校が
ある。ここで車が多い広い道を渡るが、この広い道を西へ一キロも
行けばJR船小屋駅である。
更に南西に進むと田んぼが続いて、間もなく民家が並び始める。
すると右側の駐車場のような場所に帰舟庵とあり、句碑や歌碑が七
つばかり立っている。その先は右側に用水が流れている。
左側の大きな彰功碑の前に旧防津街道︵薩摩街道︶の木標①があ
る。その先でJR鹿児島本線を渡るが、右手の四百メートルほど先
にJR船小屋駅が見える。ここからは田園で所々に民家がある。
左側の大きな駐車場と奧の建物は体育館だろうか、筑後広域公園
という名称らしい。その先に交差点が見えてきて、手前に余り大き
くない派手な色の御堂②が見えてくる。
交差点で左へ曲がり行基橋を渡ると、左側にJAバンクがあり、
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右側に消防団と神社がある。そのすぐ先の本郷交差点で右へ曲がる
と民家が並んでいる。右側に墓地と廟があり、その隣に地蔵堂があ
って、右へカーブすると社日神の御堂がある。
交 差 点 が 見 え て き て 、そ の 五 十 メ ー ト ル ほ ど 手 前 に 地 蔵 堂 が あ り 、
この脇に二里の石標③が立っている。これは柳河の札の辻からの里
程だという。この交差点を越えると左角に稲荷神社がある。
ヤスナカという会社の脇にも社があり、右側に中山小学校があっ
て、すぐ右側に小さな稲荷神社がある。その二百メートルほど先左
側に天満宮④がある。
交差点を越えると、左手の向こうに見えるのは山門高校らしい。
右手に真っ赤な神社を遠望すると、左側に宝満神社がある。更に上
庄小学校があり、国道四四三号線を御茶屋前交差点で横断する。
すると左側の一角は御茶屋があった所で、突き当たったT字路は
重要な追分である。ここを右へ曲がれば柳河へ行く柳河街道で、こ
の右角に立っていた大きな道標は、この角にある近藤重一宅の庭に
保存されている。
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標
木
の
道
街
津
防
旧
つ
立
に
前
の
碑
功
彰
程
里
の
ら
か
河
柳
は
標
石
の
里
二
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追分を左へ曲がると酒造所が多い所で、現役のものや廃業したも
のが所々にある。ここは米が美味くて水が良く舟運が発達していた
ため、酒造所が多かったらしい。
右側に御堂があり、その向かいの御茶屋跡にある家も面白い。左
側に正覚寺があり、更に続いて慶長年間︵一五九六ー一六一四︶創
建という祇園宮⑤もある。その隣も酒造所らしく、向かい側は北原
白秋の姉の嫁ぎ先だという菊美人酒造所である。
矢部川を今は瀬高橋で渡るが、昔の渡河地点は向こう側の渡河地
点で分かる。瀬高橋から右手を見ると雲仙が雲をかぶっていて、左
手を見ると池泉の銘柄を持つ池田酒造がある。
橋を渡って次の辻を右へ曲がると、左角に吉開かまぼこ製造所が
あり、突き当たりにも廃業したらしい酒造所がある。この道を矢部
川の方に延ばした所が渡河地点だった。
旧道を進むと左側に光源寺があり、伊能忠敬測量基点之地の石標
がある。伊能忠敬は寛政十二年︵一八〇〇︶から十七年をかけて全
日本地図を完成させたが、この地にも測量して回り、この地点を測
- 51 -
量基点とした。
更に右側の尊壽寺⑥はなかなか立派な寺で、柳河立花藩より賜っ
た 御 籠 が 玄 関 に あ る 。尊 壽 寺 は 永 保 二 年︵ 一 〇 八 二 ︶金 傳 寺 が 基 で 、
文明五年︵一四七三︶柳河領内最初の寺となって、大友家・立花家
の両藩にわたる由緒がある。
右側に田代町公民館があり、点滅信号を越えると右側の家も立派
で、左側に松尾宮があり、元町交差点で国道二〇九号線を渡る。
更に点滅信号の手前の小川にエビス像があり、橋を渡って広い道
を進む。その先の鹿児島本線で旧道が途切れているため、左手の踏
切で渡るが、このとき左手を見るとJR瀬高駅がある。踏切を渡っ
て旧道に戻ると、角家に小さな二里石がある。
右側に用水路があり、国道四四三号線に並行して進むが、その先
は消えているため左へ曲がって国道を進む。ただし本来の旧道は、
ゼネラルのGSの手前で右に曲がると旗立の石柱が立っていて、こ
の二本の石柱を結んだ延長線上にあったらしい。この畦道を進んで
みるとゼネラルのGSの裏を通って、満福寺⑦の脇に出てくる。
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所
造
酒
人
美
菊
寺
壽
尊
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旧道は満福寺の前で左へ曲がり、右側に小さなエビス像があり、
旧家がある左側に地蔵堂があり、すぐ右側にも御堂がある。
川を二ノ丸橋で渡って右へ曲がると、橋のたもとに御堂があり、
その先にも御堂が二つ続いている。その先で直進して国道に出ない
はずの旧道は消えているため、やむを得ず国道四四三号線を進み、
大根川を渡って左へ曲がって川沿いに進む。ただし消えた旧道は、
次の橋で右折する旧道に直結していたのかも知れない。
次の橋まで進んで右へ曲がると、左側に古賀午太郎先生之碑があ
る。そこからは趣のある旧道で、特に車が多い道を横断すると薄暗
い上り道になり、下り始めると右側に墓地があって、国道四四三号
線に合流する。
その先で県道七七四号線が左から合流してくるが、これが近道と
呼ばれる元禄十三年以前の旧道である。その先左側に三里石⑧につ
いて掲示がある。
三里石は、筑後藩主田中忠政が全国にならって慶長十七年︵一六
一二︶柳河城札の辻を起点に一里塚を設けた。南関街道は肥後国と
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- 55 -
を結ぶ重要な道路で、柳河札の辻から松風の関を経て湯谷国境石ま
で全長四里二十一町余︵約十八㎞︶あった。尚、旅人の便宜を図る
ため宿駅とお茶屋が置かれ、この山川の地には宿駅︵馬継所︶とし
て原町と、お茶屋として野町・原町・三峰・北関が置かれた。
〇
更に寺号の分からない寺があって尾野交差点に達する。右角に野
町郵便局があり、左角に警察署と天満宮と祇園宮⑨が並んでいる。
野町宮前バス停を過ぎると、この辺りには商店が並んでいて、左
側にも御堂がある。次の交差点は左側にコーポとJAがある。
更に山川中前交差点には右側に山川中学校があり、左側に山川支
役所があって、ここには山川町役場バス停がある。右側に竹の子の
モニュメントがあるのは竹の子の産地だからで、この奧には山川会
館前バス停があり、この奧には体育館や町民センターがある。
竹の子のモニュメントがある国道の向かい側に日当川地蔵堂⑩が
ある。これは戦国時代︵一五七九︶肥後領内で一つの領地を巡り、
隣接する隈府城主赤星氏と隈部氏との間で争いが起こり、肥前の竜
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宮
園
祇
と
宮
満
天
の
点
差
交
野
尾
堂
蔵
地
川
当
日
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造寺氏と結んだ隈部氏側が勝利したため、赤星氏は長男を竜造寺氏
のもとに人質を出して和睦した。しかし赤星氏は竜造寺氏の意にあ
くまで叛くため、見せしめに長男ほか従者ら十四人を処刑した。そ
の供養に地元の人が地蔵尊を祀ったのが日当川地蔵である。
筑 後 原 町 バ ス 停 の 辺 り は 原 町 の 宿 場 で 、右 側 に 原 町 郵 便 局 が あ り 、
右側には神社のようなものがあり、左手に西楽寺や奧に七霊の滝が
ある。この七霊の滝は要川の決戦に敗れた平家方の七人の女官が身
を投げ、鯰に化身したといわれる滝である。
やがて中原バス停の手前︵左側の廃業された養蜂園の前︶から、
国道と分かれ右へ斜めに入るのが旧道だが、〇・五メートルぐらい
の細い道で民家の中を歩いている感じである。途中で国道の方から
くる道と合流して一メートル以上の道幅になる。
待居川を渡ると要川公園⑪があり、ここは源平最後の決戦場であ
る。古戦場要川とは、文治元年︵一一八五︶壇之浦で生き残った平
家ゆかりの者たちが九州へと落ち延びたが、源氏の追討の手はゆる
まず太宰府で敗れ、筑後尾島でも敗れ、ついに松風の関を背にして
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要川の要衝で最後の決戦を試みたが、多くの死者を出して敗れた。
〇
公園から先は旧道らしさが見られ、物見塚交差点で国道に合流す
るが、ここには物見塚バス停がある。その先右側に山川南小学校が
あり、三峯バス停の先左側にはかさ地蔵⑫がある。かさ地蔵は田尻
因幡守種貞の供養塔である。
高 速 道 路 を く ぐ る と 左 側 に 四 里 石 ⑬ が あ り 、北 関 バ ス 停 を 過 ぎ る 。
やがて国道の右側に錆びた松風の関の標識⑭があり、背の高い草の
中に掲示板がある。松風の関とは、古代から筑後の国と肥後の国を
結ぶ唯一の街道が通っていて、その中で背戸坂と呼ばれた最も峻険
な要害の地で、平家物語では大津山の関と出ている。戦国時代は合
戦の度に肥後領になり筑後領になったが、慶長六年︵一六〇一︶に
は松風の関から北を筑後領とした。
は え
ここから国道と分かれ下り坂を進み、飯江川を井手の元橋で渡っ
て二股は右へ進む。八女九十四のトンネルをくぐらず、高速道沿い
に進む。途中の左側に地蔵堂と松風の碑がある。
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道
旧
な
う
よ
の
道
民
へ
関
の
風
松
の
手
右
て
れ
か
分
ら
か
道
国
- 60 -
- 61 -
よく草刈りがされていて歩きやすく、右側に高速道路が接近して
いる。その先の八女九十六のトンネルをくぐり、高速道路沿いに進
ゆ や
む。間もなく高速道路と離れると湯谷柳川領境界石⑮が現れ、歴史
の道について掲示してある。
湯谷柳川領境界石は二本立っているが、古い方は江戸初期のもの
で三つに折れて中断と下段だけが残っていて、新しい方は古いのが
折れたため江戸末期に取り替えられた。
豊前街道ー参勤交代の道には次のように掲示してある。近世肥後
国の主要街道は、熊本城下の札の辻を起点とする豊前街道・豊後街
道・薩摩街道・日向街道の四街道で、天正十六年︵一五八八︶加藤
清正により整備された。このうち豊前・薩摩街道は小倉から鹿児島
までを結ぶ唯一のルートで、熊本城から北を豊後街道、南を薩摩街
道と称した。熊本藩主細川氏は参勤交代の際に豊後街道を通ること
が通例だったが、元禄年間から豊前街道も利用するようになった。
〇
境界石のすぐ先に二股があり、左の道に小さな豊前街道の道標が
- 62 -
立っていて、ここから下り道になる。最後の上りは車一台が通れる
程度の道になり、カーブして少し広い道を横断する。すると間もな
く十一里木跡⑯があるが、これは先ほどの境界石からも分かるよう
に、熊本城下の札の辻から十一里目である。
やがて突き当たりの二股は、右へ行くのが旧道で高速道路をくぐ
り、道の駅の手前で国道に合流するという。ただし、この道の今は
夏草におおわれ、地元の人は蛇で危険だから歩けないという。
そこで先ほどの二股に戻り、左へ進んで高速道路をくぐると国道
に出るが、道の駅までは少し距離がある。更に道の駅の手前に出て
く る と い う 旧 道 の 先 は 、資 料 で も 境 界 石 に 立 つ 掲 示 で も 消 え て い る 。
そこで道の駅の先に南関宮前バス停があり、ここから高速道路を
くぐる。二股の角に南関御番所跡の碑⑰が立っていて、ここから右
へ進むと右側に天満宮入口や御典医屋敷跡があり、更に右側の御茶
屋跡⑱はきれいに再建されている。
その先に二本の石柱が立つ門があり、その中に町役場と公民館が
あるが、この右の石柱に高札場跡、左の石柱に手水会所跡とある。
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石
界
境
領
川
柳
谷
湯
跡
所
会
水
手
に
左
跡
場
札
高
に
右
の
柱
石
- 64 -
門を入って右側の公民館の前を通り、図書館を右側にして左へ曲が
ると、右へ曲がる所に南関宿の石碑が立っている。
しょうしょうじ
新道は左へカーブするが、旧道は直進する。すぐ右側に正 勝 寺⑲
があり、突き当たって左へ曲がると左側の新道との間にバスターミ
ナルがある。ここからは瀬高駅行きのバスが走っている。
正勝寺は室町時代の創立といわれ、明治十年︵一八七七︶西南の
役に官軍の本営が置かれた由緒ある寺で、二層の山門は征討総督
ありすがわたるひと
有栖川熾仁親王殿下が進軍を指揮された高楼である。
〇
その先の旧道は右側に眞光寺⑳を見て南関の商店街に入る。右側
に肥後銀行と向かい側に南関郵便局があり、その先に面白い屋根の
家などがある。
T字路の右角に南ノ関宿構口の石標があるから、ここで宿場は終
わりである。
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南関から山鹿へ
南ノ関宿構口の石標の先で関川を南関橋で渡り、すぐの二股では
右が旧豊前街道である。また二股があって左の上りになる。その一
段高い所に小さな地蔵堂があり、右側に金光教教会がある。
やつづか
左側に八塚の碑①とあるのは、南関城代加藤清兵衛が朝鮮での戦
いの折、嫡子が助かったのは忠死した八人のお陰だとして塚を作り
弔ったものである。その先は杉や雑木林の上り道で素晴らしい。
平坦になると左手が開けてくる。左側が畑になり、前方に国交省
のアンテナが見えてきて、間もなく右側に姫塚の碑②がある。これ
は戦国時代、小原氏は大友氏に攻められ小原城は落城したとき、小
原氏は再興を期して娘を密かに城外に抜け出させた。しかしこの地
で小原城が焼け落ちるのを見て娘は自害して果てたため、従者や村
人はその死をいたみ塚を設け地蔵尊を建てた。
そこから百五十メートルほど先に追分石③があり、右たかせ道・
左やまか道とあるから左へ進む。細い道が少し広い道に続いて、追
- 67 -
分石から四百メートルほど先右側に十里木跡の碑が立っている。
左からくる道と合流する所に小さな豊前街道の道標があり、この
後もこの小さな道標が随所に現れて、旧道に間違いないことを保証
してくれる。
その先の二股は左へ進み、下りきると旧道の入口に小さな豊前街
道の道標があり、左へ曲がって高速道路をくぐる。突き当たって県
道四号線を右へ曲がる。百メートルも行くと左斜めに県道と分かれ
るが、ここにも小さな豊前街道の道標がある。
左側に南関町交流センターがあり、その先左側に商店があって、
前方に赤白のガードレールが半分さえぎっている道へ進むが、この
角にも小さな豊前街道の道標がある。次の二股は右へ行けば臨光寺
で、旧道は左へ進む。
右からくる道と合流して直進すると左側にJAバンクがあり、そ
の先の南関第三小学校で国道四四三号線に合流する。すぐ右からく
る南関東部工業団地入口の道があり、その脇に右斜めに急な坂道を
下るのが旧道である。平坦な道になって右へカーブし、左へカーブ
- 68 -
道
か
ま
や
左
・
道
せ
か
た
右
石
分
追
へ
左
て
れ
か
分
と
道
県
- 69 -
すると車が走れる道に出る。
右側に一字一石笠塔婆とあるのは、左手頭上の二つの石柱だろう
か、右側には緑青にしては青い屋根の八幡神社④がある。その先右
側に官軍墓地があり、御茶屋跡や肥猪町郵便局記念碑がある。
官軍墓地は、明治十年の西南戦争で戦死した政府軍の軍人や軍夫
や警察官を埋葬した墓地で、県内に二十一ヶ所作られている。ここ
の墓碑数は百八十基を数え、熊本・広島・大阪・名古屋の各鎮台及
び近衛所属の将兵が埋葬されている。
〇
左側に史跡旧道豊前街道の木碑⑤があり、ここから左斜めに進む
のが旧道で、右側には日露戦争戦没者碑や道路改修碑がある。それ
らは新道の方に向いているから、旧道は碑の裏側を見て進む。この
道も素晴らしい眺めで、急坂を下って新道を横切るが、この新道を
左へ進めば国道に出る。
旧道の右側に塚があり、そこの碑に豊前街道・九里木跡⑥、左が
山鹿・熊本城とある。二股は左へ進むが、途中に豊前街道の道標が
- 70 -
ある。左側の三棟のハウスは何かと近づくと、巨大な扇風機から流
れ出る風は鶏糞の臭いがするから鶏舎だろうか。
その三百メートルぐらい先に道標があり、やがて四つ辻を越える
が、ここには左へ行けば野中ファームとある。この季節は栗の収穫
が始まっていて柿は未だ早い。
右側に六本松の掲示⑦を見て下り始める。ここには昭和二十年ま
で 六 本 の 大 き な 松 が 枝 を 伸 ば し 、旅 人 の 休 憩 の 場 所 と な っ て い た が 、
松食い虫の被害で枯れてしまい、その後は楠を六本植えている。
六本松から六百メートルほど先、小川にかかる小さな橋が盲落し
というらしく、幅二メートルばかりの川にかかる橋で、昔ここを通
りかかった目の不自由な旅人が落ちて死んだという。
橋を渡ると広い道に出るが、この右角に道標があり、この広い道
を横断して進む。すると右からくる道と合流して左へ下り、下りき
った所に白坂の掲示板⑧が立っていて、この豊前街道や豊後街道を
利用して参勤・下国した藩主の利用回数が掲示してある。
和仁川を平野橋で渡るが、昔この橋は眼鏡橋だったという。右へ
- 71 -
川沿いに下って、すぐ四つ辻を直進する。左側に道標があり、吉田
松陰通過の地とある。車の多い道に出て直進するが、このクロスす
る左角に参勤交代道⑨の掲示がある。
上り道が突き当たると左角に小さな道標があるから左へ下る。そ
の先は急角度で曲がるから肘曲というらしく、ここで車が走る道に
出る。八里木跡の掲示がある所から光行寺までは旧道が消えている
から、車が走る道を歩かざるを得ない。
光行寺⑩の隣には下岩官軍の墓地があり、光行寺は参勤交代の御
茶所となった所で、門の軒瓦には細川家の九曜紋が用いられ、細川
光尚の位牌も安置されている。ここの官軍の墓地には戦死者百四十
九人を祀ってある。
やがて左側に歴史の道の石碑と腹切坂の掲示⑪があり、ここから
初 め て 下 草 道 に な る 。間 も な く 赤 い ア ン ツ ー カ ー の よ う な 上 り 道 で 、
余 り に も 急 な た め 何 度 も 立 ち 止 ま り 、上 り き る 寸 前 に 下 草 道 に な り 、
上り口と同じ歴史の道の石碑と腹切坂の掲示がある。腹切坂とはこ
の 約 二 百 メ ー ト ル の 急 坂 で 、道 幅 三 メ ー ト ル の 右 側 は 深 い 侵 蝕 谷 で 、
- 72 -
跡
木
里
九
坂
切
腹
が
道
草
下
の
左
- 73 -
- 74 -
左側は急崖となっている。腹切坂の名称には幾つかの伝えがある。
腹切坂の百メートルほど先に右からくる道が合流するが、ここに
も豊前街道・永ノ原の石標がある。その先右側に西南の役薩軍の墓
地がある。車坂を攻め上ってきた薩軍は、この台地北端の腹切坂を
駈け下り、政府軍を南関方面に追い上げた。その激闘の中で倒れた
味方を塹壕を掘って埋めて前進した。
更に右側に西南の役古戦場跡とハゼ並木⑫について掲示してある。
西南の役の際この付近で激闘が繰り返された。またハゼはウルシ科
の落葉樹で暖地山地に自生し、高さは十メートルに達するが、果実
からはロウが取れ、樹皮は染料となった。細川藩はロウの需要が増
大したことから、本格的にハゼ栽培に乗り出し、十八世紀半ば頃に
植えて並木にした。
ここの旧道には栗と未だ小さく青い柿が散乱し、車でつぶされた
ものもある。左側に玉名・山鹿郡境碑があるが、永野原・永ノ原台
地の中央地点を郡境としていた。
民家が数軒現れると豊前街道の石碑があり、この碑にも参勤交代
- 75 -
と西南戦争について記載してある。その先の二股は左へ進むが、こ
の辺りは田園の中を貫く道である。
左側に後藤グランドとある先から急な下りで、竹と杉にはさまれ
た坂道は素晴らしく、これを車返し坂というらしい。この途中の右
側に西南の役政府軍の台場⑬という碑があるが、西南の役の際ここ
の斜面を利用して政府軍は襲いかかる薩軍を猛攻した。
下りきると国道四四三号線を横切るが、ここには梅迫バス停があ
り、横切ると右側の畑にスイカが収穫されずに放置されている。
県道に出る寸前の右側には第二次大戦に対する平和之碑があり、
左側に西南の役・山鹿口の戦いの碑⑭がある。西南の役の主戦場は
吉次越と田原坂と山鹿口だったが、ここには山鹿口の戦いについて
詳細が刻まれている。
市立博物館に通じる道を横断すると、右側に薩軍飫肥隊奮戦の地
とあり、そこから特養チブサン荘の前を通って坂を下る。左へカー
ブすると道路改修記念碑と豊前街道の碑があり、国道四四三号線に
合流して鍋田橋を渡る。
- 76 -
木
並
ゼ
ハ
と
跡
場
戦
古
役
の
南
西
碑
の
い
戦
の
口
鹿
山
・
役
の
南
西
- 77 -
右側に市民スポーツセンターや浄水センターと続く。その先右側
に山鹿天龍会館があり、その先で右へ入る道は資料にあるように旧
消防署の裏を通っているから、昔は多分これがそのまま土手に上っ
て吉田川を渡河したのだろう。
今は国道四四三号線と一緒に吉田川を渡り、国道三号線を渡って
豊前街道入口の標識で右へ曲がる。すると旧道らしい趣のある道に
なり、すぐ左側に西南の役官軍墓地⑮と地蔵堂がある。
交差点を越えると復元された趣のある建物が並び始め、その中に
旧池田屋質屋がある。これは山鹿の質屋第一号で、道に面した店舗
は江戸末期の建築である。住居部分は明治三十三年︵一八九一︶造
築されたが、明治の屋号は亀屋で古着商だった。
次の辻を左に入ると右側に売店があり、左側に白壁の旧江上屋の
蔵があって、その隣に八千代座⑯がある。
旧江上屋の蔵は、山鹿の富商で製糸業を営んでいた江上屋の蔵と
して弘化二年︵一八四五︶に建築され、明治後半に呉服商江上屋本
店の歴代番頭の住居となった。
- 78 -
八千代座は江戸時代の芝居小屋の姿を残す全国でも数少ない貴重
な文化財である。ます席・桟敷や人力で回す廻舞台・花道・すっぽ
んと呼ばれるセリなど日本の伝統的な様式を伝えている。明治四十
三年に当時の実業界の有志が出資して建設したが、十三年余り閉鎖
された後、昭和六十三年には国の重要文化財に指定され、平成十三
年に大改修工事が終わった。
〇
その次の四つ辻には、右角に豊前街道山鹿宿・人馬継所跡の碑が
あり、向かい角に灯籠と休憩所があって、ここには豊前街道につい
て 次 の よ う に 書 い て あ る 。藩 主 細 川 公 は 参 勤 交 代 で 江 戸 に 上 る と き 、
熊本を出て鹿子木・味取・広町を通って山鹿で一泊し、翌日は鍋田
原を横切り平野・肥猪を通って南関で大休止して瀬高で二泊目、更
に原田・飯塚を経て六日目に小倉に着いた。
そのすぐ右側に山鹿灯籠屋と金剛乗寺⑰の参道があり、奧に珍し
い形の山門がある。金剛乗寺は、天長二年︵八二五︶弘法大師が九
州に密教を広めるため、山鹿にも錫をとめ地を選んだという。この
- 79 -
座
代
千
八
門
山
の
形
い
し
ら
珍
の
寺
乗
剛
金
- 80 -
参道にある眼鏡橋築造技術を活かした石門は県下でも数少なく、製
作は文化元年︵一八〇六︶湯町橋などを造った地元の石工である。
その先右側のレトロな建物は、旧安田銀行山鹿支店の建物で、今
は 伝 統 工 芸 資 料 館 に な っ て い る 。こ の 建 物 は 大 正 十 四 年︵ 一 九 二 五 ︶
に建てられた山鹿における洋館第一号である。昭和七年から四十八
年までは肥後銀行山鹿支店として使われ、その後は山鹿市が譲り受
けて伝統工芸資料館として、山鹿灯籠の展示と山鹿温泉の歴史と文
化を紹介している。
次 の 車 が 多 い 県 道 と の 交 差 点 は 、手 前 の 左 角 の 公 園 に 足 湯 が あ り 、
越えた左角に温泉プラザとショッピング街があって、隣奧に薬師堂
⑱がある。山鹿温泉は、宝暦十三年︵一七六三︶に製作された山鹿
湯町絵図で、湯屋と周辺の塀や門や水路が描かれている。明治三年
︵一八七〇︶と明治三十一年などに山鹿温泉の大改築が行われ、昭
和四十九年に市街地再開発事業で温泉プラザの建築が始まった。
ここから旧道にはビッシリ商店が並んでいる。その途中の左側に
火除け地蔵や光専寺⑲がある。
- 81 -
こ の 火 除 け 地 蔵 尊 は 今 か ら 千 年 の 昔 か ら あ る も の で 弘 化 三 年︵
八四六︶の大火や昭和四十三年の大火にも難をまぬがれ、火除け地
蔵尊と祀られるようになった。
光専寺は激戦だった西南の役で、開戦当初は薩軍の兵站基地であ
ったが、後に野戦病院に使用された。本堂に死体が運び込まれて会
葬され、庫裡には負傷者を収容して看護し
、た 。
一
〇
その先の交差点を渡ると趣ある建物が目に入る。左側の千代の園
酒造所⑳は江戸時代からの造り酒屋で、右側の木屋本店は天保年間
︵一八三〇︶創業の甘酒・味噌・麹の店で、前方に菊池川がある。
菊池川流域に広がる肥沃な平野は、昔から米どころとして知られ
ていて、ここで生産された米は菊池川から大阪まで運ばれ、天下の
米相場を左右した。菊池川を利用した水運は物流の大動脈として、
山鹿も米などの物産の集散拠点として栄え、河畔には米を船積みす
たわらころが
るため俵 転しも造られた。当時は米を材料にする造り酒屋や糀屋
などが立ち並んだ。
- 82 -
堂
師
薬
の
脇
ザ
ラ
プ
泉
温
家
商
の
前
手
川
池
菊
- 83 -
- 84 -
山鹿から上熊本
趣のある建物にはさまれた旧道を進むと菊池川に突き当たり、今
は山鹿大橋で菊池川を渡る。向こう岸の渡河地点まで土手の上を歩
くと、これから進む道へ下りる石段がある。ここから川の向こうに
歩いてきた道を望み、これから歩く道を見下ろす。
土手から下りて真っ直ぐな道を進むが、この旧道は国道三号線に
並行している。特に見るものもないが右側に米田練武場があり、間
もなく左側に六里木跡①がある。
そ の 先 で 国 道 を 横 切 る が 、そ の 手 前 左 側 に 南 原 菅 原 神 社 ② が あ る 。
国道を横切るとスーパーの敷地が切れた所に、農魂の碑という記念
碑があり、そこからもほぼ真っ直ぐな県道を進む。
城ヶ花バス停がある所に豊前街道の木標があり、そのすぐ先で岩
原川を頼萩橋で渡って県道と分かれ、川沿いの県道と徐々に離れて
いく。右からくる道と合流して、すぐ左と右に分かれるが、その中
間に山道のような上り坂がある。
- 85 -
上りきるとすぐ前方が開け畑地に出て、T字路は突き当たり右へ
曲がって次を左へ曲がるが、この畑地の中の旧道はどれほど残って
いるのか分からない。十メートルばかり行ってすぐ左へ曲がり、ま
た突き当たるから左へ曲がって畑地を歩くのを止め、右へ進み広い
自動車道に出る。
すると、そこには三十三番観音菩薩③があり、郷原簡易水道創設
記念碑があるから、ここが郷原地区に間違いないと知る。ほぼ予定
していた場所に出てきたようで、大体この先は旧道だろう。
左側に持松塚原古墳入口という標識があり、更に進むと前方に坂
が見えてくるが、その上り口に豊前街道比丘尼坂④の木標がある。
右側にNTTがあり、その四つ辻の右奧に鹿央町役場があって、
更に四つ辻を越えると右側にエネオスのGSがある。
右側に一里木団地は右とあり、一里木跡は先にあるという標識を
見て進む。浦大間古墳入口とあり、やがて右側に塚木はないが塚が
残る五里木跡⑤がある。この道は明治中期頃まで熊本と福岡を結ぶ
大幹線道路で、ここの五里木には道の両側に榎の大樹が枝を張り、
- 86 -
社
神
原
菅
原
南
跡
木
里
五
- 87 -
道の両側にはハゼの木が続き涼しい緑陰をつくっていたという。
右側に元広地区と掲示してあり、左側に隈部酒店がある四つ辻の
左右に祠や御堂があって、そこを右へ曲がれば善行寺⑥があるが、
ここは参勤交代の殿様が休んだという。
旧道を進むと右側に公立広小学校の分校跡とあり、先ほどの四つ
辻から百五十メートルほど先に四つ辻がある。この右側に立つ豊前
街 道 の 標 識 ⑦ に 、﹁ こ の 辺 り は 商 店 が 並 び に ぎ わ っ た ﹂ と あ る が 、
今は先ほどの酒店以外は面影もない。
この四つ辻を左へ曲がり、斜めに進む形でやがてガードレールに
突 き 当 た り 、右 へ 曲 が る と 急 坂 で 豊 前 街 道 ・ 乙 貝 坂 の 木 標 ⑧ が あ る 。
グルッと回って下りきると豊前街道・水飲場の木標がある。そこ
から左へカーブすると、前方に長い白壁の塀を持つ旧家があり、こ
こに立つ豊前街道の木標は字が読めなくなっている。
その旧家の前を通って県道を横断すると、左斜めに入る山道が現
れる。普段は余り歩く人がいないらしく、クモの巣を払いながら歩
くが、小学生が行事で歩くというから道の状態は悪くない。
- 88 -
上りきると平坦になり、民家が並び始め右からくる道と合流し、
更に左からくる道との合流点に祠と灯籠⑨がある。この辺りが三十
六地区だろうか。
右側に鬼迫横穴跡調査現場とあり、この辺りはビニールハウスが
並んでいる。ハウスの中はスイカが終わって、メロンや長ナスやオ
クラがあり、白い大きなキノコは白霊茸だろうか。
そのビニールハウスの途中、右側に丸山入口とあるから丸山地区
だろう。左側に一本榎跡があって高速道路の上を渡るが、この辺り
にあるはずの四里木跡は見落としたのだろうか。
間もなく子育て支援センターと幼稚園が並び、山本小学校で突き
当たって左へ曲がり、県道一一九号線を進む。山本小前バス停に肥
後山本郵便局があり、その向こう隣に山本公民館がある。この公民
館の前に三本の道があり、右端の歩いてきた県道でなく、左端の下
り坂を進む。
下りきると田んぼの中を白いガードレールに沿って、右へカーブ
した突き当たりに山本地区圃場整備事業記念碑がある。そこから左
- 89 -
り
下
ら
か
標
木
の
坂
貝
乙
籠
灯
と
祠
の
先
た
っ
上
を
道
山
- 90 -
へ曲がると右側に放牛地蔵⑩がある。
放牛地蔵は江戸時代中期に作られたもので、僧の放牛が熊本市を
中心に町角や道路の分岐点に建てた石地蔵の一つである。熊本の鍛
冶屋の貧しい親子がいて、貞享三年︵一八六八︶折悪しくも酒代が
なく、怒った父はかまどにあった燃えさしの薪を投げつけた。そこ
を通りかかった武士の眉間に当たり、父は無礼討ちとなった。息子
は自分のせいだと嘆き、出家して放牛と名を改めた。三十余年の修
行の後、享保七年︵一七二二︶から十年間に百体の石仏を建立して
父の菩提を弔う悲願を立てた。この地蔵は七十四体目である。
〇
そこから上りで国道三号線に接触して左へ曲がるが、この接触点
か ら 右 へ 国 道 を 横 断 す れ ば 内 空 閑 城 址 入 口 ⑪ と あ る 。内 空 閑 城 址 は 、
室町から戦国時代に内村の地を中心に山本郡一帯を支配した内空閑
氏の居城である。菊池氏の有力な家臣だったが、菊池氏末期の内紛
と共に分離し、その滅亡と共にこの地域の支配者として自立した。
三号線に接して左へ曲がった旧道は、旧道らしい家並みの中にあ
- 91 -
る。最初の二股は右へ進んだ後、蛇行しながら下ると左側に簡易水
道配水場がある。ここから直進する道は消えているが、前方のほぼ
同じ位置に田んぼの中を抜ける道が見えるから、これを目指す。
田んぼの中を抜けて平田橋を渡ると上りになり、車が走る広い道
に出るが、ここにも石標があるものの風化して読めない。ここの筋
違いの四つ辻を直進すると、右側にJA物流センターの脇に出るか
ら間違いない。
そのまま道なりに進むと会社に突き当たって、ここから右か左か
迷うが左の方が道なりに見える。そこで左へ進むと左側に山頭火が
み と り
堂守をしたという味取観世音⑫があり、その先に味取交差点に出て
しまうから間違いである。
山頭火は明治十五年︵一八八二︶山口県防府に生まれ、早稲田大
学文学部を中退し、父と共に家業に従ったが失敗し、これから流浪
の生涯が始まった。熊本に来たのは大正五年︵一九一六︶で、その
後 も 奔 放 な 生 活 を 続 け て い た 。大 正 十 三 年 に は 出 家 し て 禅 僧 と な り 、
翌年には味取観世音の堂守をしていたが、永くは続かなかず一年二
- 92 -
口
入
址
城
閑
空
内
音
世
観
取
味
た
し
を
守
堂
が
火
頭
山
- 93 -
ヶ月後には放浪生活に戻っていった。
〇
間違いに気づいて戻り、突き当たりから右へ進むと、すぐ左へ曲
がる寸前に味取町の掲示⑬がある。味取町は豊富な湧水もあって、
かなり以前から集落が形成された。寛永九年︵一六三二︶味取町が
形成され、参勤交代の際には茶屋が置かれ商家も軒を並べていた。
右側に光勝寺があり、右へカーブして坂を上ると、豊前街道・ほ
たて坂入口の標識⑭があって県道に出る。ここから左へ戻れば国道
三号線に出るが、戻るのは不自然だから右へ進む。
この道は国道に並行して南下するが、国道との間に商店が並んで
背中を見せている。右からくる県道三号線との合流点に祠があり、
その五十メートルほど先右奧に消防署がある。更に三十メートルほ
ど先右側に専福寺⑮があって、ここには山本高等小学校記念碑入口
の碑がある。
植木町一木交差点から国道三号線に合流し、右側にロボットシス
テムの平田機工を見ながら植木町岩野バス停を過ぎ、右側に五霊中
- 94 -
- 95 -
学校がある辺りに五霊中バス停がある。この道には熊本へのバスの
本数が多いようである。
役場前交差点から国道は右へカーブし旧道は直進する。植木五丁
目 バ ス 停 、植 木 三 丁 目 バ ス 停 と 続 き 、左 側 に 植 木 郵 便 局 が あ る 先 で 、
車が多い道に出て右折し、すぐ左折して南下する。
植木バス停を過ぎると、左側に小さな地蔵があり、その五十メー
トルほど先に植木一丁目バス停があって、その三十メートルほど先
右側の寺らしいものは無住だろうか。
左側の石鳥居に菅原宮とある植木天満宮⑯には、官薩両軍緒戦の
地と掲示してあり、そこから左斜めに分かれる道に豊前街道とある
から、この左の道を進む。
左側に佛嚴寺があり、右側に西南の史跡河原林少尉戦死の地とあ
る。更に進むと左側に山田青果卸と右側に植木自動車学校がある。
ラブホテルの間を抜けると左側に県警自動車訓練所があり、その
四つ辻の左角に豊前街道旧道の木標があって、左折すれば明徳官軍
の墓地⑰という標識がある。そこで左へ曲がり寄り道をするが、寄
- 96 -
り道というほど遠くない。
明徳官軍墓地には百二十三基の墓碑が存在するが、熊本・大阪・
東京の各鎮台及び近衛所属の将兵の墓碑である。
〇
この四つ辻を直進する旧道は、国道三号線に合流して熊本市に入
る。楠野町交差点を渡り、左手に北部脳神経外科の建物を見ながら
進む。古関小屋バス停の右側に地蔵堂があり、門司から一七九㎞の
標 示 が あ る 先 の 二 股 に 、左 が 豊 前 街 道 の 標 識 が あ る か ら 左 へ 進 む が 、
すぐまた国道と合流する。
右側に緒方小四郎屋敷跡とある奧にはウナギ屋があり、左側には
川上小学校が現れ、すぐ北部支所入口交差点がある。
右側に北部郵便局があり、御馬下バス停がある。この先の街道は
バスの本数が多いようだから、疲れたらバスで熊本のバスセンター
や熊本駅に出たらよいだろう。
よ も ぎ
やがて左側に四方寄六地蔵付庚申塔があり、その裏側の立派な白
み ま げ
か ど ご や
壁の建物は御馬下の角小屋⑱である。裏側の入口に向かうと阿蘇宮
- 97 -
宮
満
天
木
植
る
あ
と
地
の
戦
緒
軍
両
薩
官
塔
申
庚
付
蔵
地
六
と
屋
小
角
の
下
馬
御
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がある。ここには四方寄バス停があり、四方寄町交差点を越える。
四方寄六地蔵付庚申塔とは、地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天
上を六道というが、この石艟型の六地蔵は室町時代のもので、大き
さは県内有数のものである。横の庚申塔も江戸時代の庚申信仰を知
る貴重な文化財である。
御馬下の角小屋は江戸時代後期の建築で、その構造は建築史上貴
重なものである。特に奥座敷は島津・細川藩公の参勤交代などの休
息所にも用いられた。
〇
四方寄交差点を越えて門司から一八一㎞とあり、南原バス停があ
る。大窪二丁目交差点で国道三号線は左へ進み、旧道である県道三
〇三号線は直進すると、昇立バス停がある。
大窪二丁目バス停から大窪バス停を経て、左側に小さな地蔵堂が
あり、その百五十メートルほど先に五戸窪バス停がある。馬々鋏バ
ス停という面白い名前から、清水台団地バス停という平凡な名前に
なる。
- 99 -
左上に高平台小学校があるらしく、小学生が左手の高台に上って
いく。その先右側の徳王バス停の一段高い所に、豊前街道一里木跡
⑲という白い標識が立っている。
山伏塚前交差点を過ぎると山伏塚バス停で、この辺りの沿道には
緑が多い。NTT研修センターバス停の右側に消防署があり、次の
バス停との中間辺りの右奧に熊本電鉄池田駅がある。池田町バス停
の右側に小さな御堂があり、更に進むと右側に小さな縦長の地蔵堂
がある。
右側にコンビニがあり、左側に京町台郵便局があって、そのすぐ
先に立派な御堂がある。岩立小路バス停を過ぎると、左側に両厳寺
があり、出町三丁目バス停に達するが、何も見るものがない。
出町交差点を渡り、往生院前バス停を過ぎると、左側に大樹と奧
に小さな社があり、その奧に妙教寺⑳が見える。そのすぐ先右側に
光永寺入口とある。
右側に大樹が並ぶ中に熊本大付属小・中学校があり、向かい側に
京 町 本 町 郵 便 局 が あ る 。こ こ か ら 右 へ 向 か え ば J R 上 熊 本 駅 で あ る 。
- 100 -
跡
塚
里
一
道
街
前
豊
道
旧
た
見
ら
か
停
ス
バ
塚
伏
山
- 101 -
- 102 -
上熊本から川尻を経て宇土へ
熊本大付属小・中学校の脇を通り、京町本丁バス停を過ぎると、
すぐ先右側の二股の角地に地蔵堂①がある。その前で左へカーブす
るとき左角に公園があり、県道はスムーズに左へカーブするが、旧
道は直角に左へ曲がって、また県道に合流する鍵形のようである。
左側に仏厳寺があり、右側に寛政四年︵一七九二︶創業という味
噌・醤油の池田屋醸造があって、ここは建て直してはいるようだが
趣がある。
その先に裁判所前バス停があり、左角に検察庁があって、奧に見
えるレンガの建物が裁判所だろうか。右側には京町郵便局がある。
次の京町一丁目交差点で右へ曲がり、すぐ左へ曲がると右側に愛
染院②があり、その先で新堀橋を渡ると熊本城である。
右 側 に 熊 本 市 役 所 別 館 の 前 を 通 る 辺 り に 、百 間 石 垣 の 掲 示 が あ り 、
右側には三の丸の掲示がある。
百間石垣は、熊本城北側の重要な守りとして築かれた石垣で、高
- 103 -
造
醸
屋
田
池
の
油
醤
噌
味
邸
川
細
旧
に
方
前
・
垣
石
間
百
の
城
本
熊
- 104 -
さ約五間、長さ百一間あるから百間石垣と呼ばれるようになった。
三の丸は本来は二の丸の一部で、百間石垣を境に一段下がってい
るため、後に三の丸といわれるようになったが、藩政時代は上級武
士の屋敷跡である。
〇
そのまま進めば左側に駐車場があり、向かい側に旧細川刑部邸が
あって、その奧には熊本博物館がある。ただし、その駐車場まで行
く手前に道標が立っていて、ここで左へ曲がり石段を上る。
右へ曲がり、左へ曲がると熊本城公園で、右側の県立美術館の前
を通ると、次の道標が立っている所で右へ曲がる。すると前方に県
営野球場が見えて、宮内神社に突き当たるが、ここには軍旗血染之
跡がある。
ここから左へ曲がり野鳥公園の前を通ると、前方に車が走る道に
せいそうえん
突き当たって右へ曲がる。すると四つ辻の右側に清爽園があり、入
口に里程元標跡と札の辻③の石標がある。即ち、ここから山家に向
かう豊前街道と鹿児島へ向かう薩摩街道の基点である。
- 105 -
清爽園には、明治十一年︵一八七八︶西南戦争を戦い抜いた熊本
鎮台の将兵が、これまでの戦没者を祀り記念碑をここに建立した。
里程元標跡とは、この札の辻を起点にして豊前・豊後・薩摩・日
向の街道の里程が測られ、一里毎に榎を植えて里数木と称した。
〇
札の辻がある交差点の右角にYMCAがあり、この東端で左へ曲
がるのか、西端で左へ曲がるのか、ハッキリしないが両方とも特に
見るものはない。 資料によってはYMCAの西端とあるから、これ
に従う。直進すると一新幼稚園④に突き当たって右へ曲がるが、こ
の幼稚園がある場所は藩政時代の御茶屋だった。
またすぐ突き当たると土塀に諸毒消丸・吉田松花堂とあり、ここ
で左へ曲がると市電道路で、新町バス停の先の新町交差点で市電と
分かれる。
その先に坪井川にかかる明八橋があり、これは眼鏡橋である。明
八橋は、この橋を渡って新町に入る所に新三丁目御門があり、明六
つに開き暮六つに閉ざされた。この門も明治八年に撤去され、橋も
- 106 -
辻
の
札
と
跡
標
元
程
里
と
園
爽
清
道
旧
る
渡
を
橋
八
明
が
左
- 107 -
板橋から石造の眼鏡橋にかけ替えられた。
橋を渡ると突き当たりの清水産業は趣ある建物で、左へ曲がって
出田眼科の前を通ると、この道には紙屋のように江戸時代の商家風
な 建 物 が 幾 つ か 見 ら れ る 。前 方 の 交 差 点 に 出 る 一 つ 手 前 の T 字 路 は 、
左側に古荘本店があるが、ここを右へ曲がると右側に純正寺と光岸
寺⑤が並んでいて、その先の市電道路の交差点を渡る。
白川を左手の長六橋で渡り、右へ百五十メートルぐらい行って左
へ曲がるが、これは長六橋から二つ目の辻で、この右側には向栄尋
常小学校跡の石碑が立っている。すぐ目の前に酒屋があるから確認
すると間違いない。
熊本駅から真っ直ぐ延びている県道二二号線を越え、国道三号線
に出る手前の右側に薩摩屋敷跡がある。これは薩摩藩主島津公が参
勤交代の途中、休息などに立ち寄った建物で、ここにあった屏風・
衝立などは現在は県立美術館に保管され、格天井に描かれていた花
の絵は向山校区歴史文化保存会により保管されている。
〇
- 108 -
さて、この辺りの旧道がハッキリしないのは、資料に記載されて
いる文章と添付されている地図との間に差異を感じるからである。
文章では﹁薩摩屋敷の南側を右折して右手に放牛石仏があり、こ
こから日向街道と別れ専念寺・香福寺を通り﹂とある。これを現在
の地図でみると、薩摩屋敷を右手にして国道三号線に出て、すぐ右
折して進む道ではあるが、二つの寺の山門はこの順番で現れず、し
かも添付されている地図は薩摩屋敷が左手にあり、国道三号線まで
出ていないようである。そこで考えられるもう一本の道も歩いてみ
るが、これも文章と添付された地図に合致するものではない。
以上のように多少の疑念を残しながら、前者を旧道として取り上
げる。右側に薩摩屋敷跡を経て国道三号線に出て右へ曲がると、右
側に放牛石仏⑥がある二股は右へ進めば香福寺があり、左へ進むと
専念寺がある。この放牛石仏は享保七年︵一七二二︶から十年の間
に百体の石仏を建てたうちの四十三体目である。
専念寺を過ぎると四つ辻の右角に地蔵堂があり、その地続きに向
山幼稚園があって隣に向山小学校がある。更に真っ直ぐ進むと児童
- 109 -
る
あ
が
趣
は
屋
紙
な
ン
プ
−
オ
が
先
店
仏
石
牛
放
- 110 -
公園交差点で国道に合流するが、この三角地に地蔵堂⑦がある。
よやすまち
世安町北交差点を過ぎると、左側に熊本県民テレビ︵KKT︶が
あり、そこに門司から一九一㎞とあって、ここで左斜めに入る。間
もなく左側のセルモ熊本で国道三号線を斜めに横断する。
右手に世安町団地を見て、左側の飯塚電機の先にある二股で旧道
は左へ進む。車が通れない豊肥本線の踏切を渡る所に小さな安全地
蔵があり、渡って右手前方を見ると日吉神社が小さく見える。
車が通る道を横切り、日吉保育園に沿って右へカーブし、すぐ左
へカーブして用水路沿いに進む。右手と左手の車が多い道にはさま
れている割には、意外に閑静なたたずまいである。
国道に合流する百メートルほど手前、用水路を越えた所に一里木
跡⑧があり、国道と合流すると平田町バス停がある。そこから百メ
ートル強も国道を歩くと、高架橋の下に平田交差点があり、そこか
ら右斜めに国道を渡る。
上近見バス停があり、左側に近見町郵便局がある。そこから二百
メートルぐらい行くと左側に日吉小学校があるが、この辺りは車が
- 111 -
- 112 -
多いものの歩道があるから有り難い。右側に近見橋と刻んだ小さな
石柱があり、ここから用水路が地下に埋められている。その先百メ
ートルぐらいに商店が並んでいて、終わりにJAがある。
近見バス停と近見西交差点を過ぎ、刈草バス停を過ぎると鹿児島
本線が右側に接近してきてJR沿いに進む。左側に松之本神社⑨が
あ り 、合 志 町 バ ス 停 の 先 三 ー 四 十 メ ー ト ル に J R の 高 塘 踏 切 が あ る 。
踏 切 か ら 百 メ ー ト ル ほ ど 行 く と 、J R と の 間 に 民 家 が 並 び 始 め る 。
この右側に用水が現れ、南高江バス停と南高江郵便局が続き、この
辺りは右や左に商店が点在している。
白藤東原バス停を過ぎ、右側にまるしんタクシー、左側に消防署
がある先で、川沿いに進む旧道は消えている。そこで八幡町バス停
がある次の四つ辻を右へ曲がり、椎田屋敷第一号橋を渡って川沿い
に進むが、直進すると河尻神社⑩がある。これは川尻三郎源朝臣実
明が建久八年︵一一九七︶鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりだとい
われる。
川沿いの旧道を百メートルほど行くと、右側に御堂と六地蔵⑪が
- 113 -
あり、その先の二股は左へ進むのが旧道だが、右へ進めば河尻神社
の参道に出る。
その先は川沿いの道でなく車が多い道に合流する。若宮神社入口
バス停を過ぎ、天明新川を渡る。すると七差路というのか、五差路
というのか、この交差点を渡ると川尻駅前バス停で、川尻駅前交差
点があり、ここから右へ行けばJR川尻駅である。
川尻駅前交差点から直進する道には趣があり、右側に遍照寺⑫が
あり、左側の地蔵堂には鈴蘭燈建設記念碑がある。ここは車が多い
広い道ながら旧道らしい落ち着きを感じる。
右側に宮崎染織があり、左側に旅館や松本伝統工芸の刃物店があ
る。更に右側の西教寺や隣の御菓子処の天明堂、その向かいに浄行
寺⑬があり、隣に恵比須堂と並んで警察署がある。
交差点を渡ると右側にくまもと工芸会館⑭という立派な建物があ
り、その先右側にも肥後三代という刃物店があり、左側には建具店
と天理教分教と和菓子屋がある。
田町バス停を過ぎると、右側に天満宮と伝統工芸の満崎桶製作所
- 114 -
が あ り 、そ の 五 十 メ ー ト ル ほ ど 先 右 側 の 橋 の た も と に 地 蔵 堂 が あ る 。
ただ二里木跡がどの辺りかは分からなかった。
更に五十メートルほど先右側に西蓮寺⑮と梅園という和菓子屋が
あり、その道路沿いには川尻御船手の掲示がある。船手とは水軍の
意味で、川尻御船手は加藤清正時代にもおかれ、細川藩時代にも豊
後の鶴崎と肥後の川尻が共に御船手の所在地として名が知れていた。
川尻町バス停を過ぎ、川尻四丁目交差点は五差路というのか、旧
道は車が多い道と分かれて直進するが、右へ曲がれば右側に瑞鷹酒
造資料館があり、その先左側に西南戦争の薩軍本陣跡⑯がある。
西南戦争は、西郷隆盛ら明治政府に対する不平士族の最大で最後
の内戦である。明治十年二月十五日大雪の中で鹿児島を出発した先
鋒隊は川尻に到着し、二十一日には西郷も到着して、熊本城攻撃の
ためにここに本陣をおいた。
〇
川尻四丁目交差点から直進した旧道は、右側のまちづくり倉庫が
ある所で加勢川に突き当たる。昔はそのまま真っ直ぐ渡河したよう
- 115 -
館
会
芸
工
と
も
ま
く
園
梅
の
子
菓
和
と
寺
蓮
西
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だが、今は県道三号線と一緒に新町橋を渡る。すると右角に西楽寺
と左側に地蔵堂があり、左へ川沿いに進む。
旧道は向こう岸の渡河地点と同じ位置に真っ直ぐな道が現れる。
右側に大渡獅子保存会倉庫があり、T字路の左角に勅願所大慈禅寺
かんがんぎいん
道の石柱⑰がある。大慈禅寺は順徳天皇の第三子寒厳義尹禅師が、
弘 安 元 年︵ 一 二 七 八 ︶に 創 建 し た 曹 洞 宗 大 本 山 永 平 寺 の 直 末 寺 院 で 、
国指定重要文化財を数多く保有している。
この辺りは川尻六丁目で左側に正行寺がある。そこから二百メー
トル先で国道三号線と杉島交差点を渡り、県道五〇号線を三百メー
トルほど西へ行った所で緑川を渡河したらしい。今は国道と一緒に
緑 川 橋 で 渡 ら ざ る を 得 な い 。橋 の 上 か ら 見 る と 杉 島 堰 が 見 え る か ら 、
あの辺りを渡河したのだろう。
土手を歩いて国道をくぐり、工事中の新幹線をくぐり、鹿児島本
線を小岩瀬踏切で渡る。更に土手上を進むと左側に若宮神社⑱が見
えるから、その先で土手から下り、用水路沿いに進む。間もなく左
手が開けて工事中の新幹線が見え、ときどきJRが走り抜ける。
- 117 -
二股を右へ進むと用水路は左に移る。左へカーブすると右側に小
さな地蔵堂があり、その二百メートルほど先で国町橋を渡る。渡る
手前に小さな地蔵がある。
車が多い道を越えて百メートルほど先左側に志々水会館があり、
その百メートルほど先の四つ辻に三里木跡がある。左志々水・右古
閑の道標を見て、グルッと回り込むように進むと、左手に智円寺⑲
がある。
突 き 当 た っ て 右 へ 百 メ ー ト ル ほ ど 行 く と 、潤 川 を 三 拾 町 橋 で 渡 り 、
右側にミガキ食品がある。この先の旧道は消えているから、どの道
を 歩 い て も 良 い が 、二 股 を 右 へ 行 き 墓 地 に 突 き 当 た っ て 右 へ 曲 が る 。
最初の四つ辻を左へ行くと目指す西安寺⑳の脇に出るが、ここには
放牛地蔵がある。
西安寺に沿うように右へ曲がり、大坪川を観音橋で渡り、川沿い
に 進 む 。右 側 に 宇 土 東 保 育 園 が あ り 、右 へ カ ー ブ し て 国 道 に 出 る が 、
ここから左へ行けばJR宇土駅である。
- 118 -
- 119 -
宇土から松橋を経て小川へ
左へ曲がって宇土駅に向かうのとは反対に、右へ曲がって国道五
七号線を宇土市街入口交差点で渡ると、前方に道を横切る宇土市本
町通の大きな看板が目に入る。
西城の浦バス停を通り、城ノ浦踏切でJR三角線を渡って橋を渡
る。宇土本町六丁目バス停と本町六丁目交差点を越えると、すぐ左
側の円応寺に芭蕉塚①がある。これは熊本県内に三十五あるといわ
れている芭蕉塚の一つで、正面に﹁里の名を聞きたき夜の山の道﹂
とあり、細川六代藩主の家臣で俳人の一竿人の十三回忌である明和
四年︵一七六七︶に作られたらしい。
船場川を船場橋で渡るが、この橋は蔦を描いた焼き物で造られて
いる。その右手五十メートルほどに眼鏡橋と並木があり、その先に
武家屋敷跡②がある。左側に正栄寺③があり、地蔵堂がある。宇土
本町五丁目バス停の先右側に西念寺④と隣に米屋旅館がある。
本町三丁目交差点を越えると、右側にホテルベンデナートと隣に
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通
町
本
市
土
宇
橋
鏡
眼
と
橋
場
船
た
っ
造
で
物
き
焼
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善宗寺⑤があって、右側に法教寺がある。宇土本町二丁目バス停を
過ぎる。ここには昔栄えた街らしさがある。
右側に教会がある先は突き当たって枡形のようになっているが、
この教会⑥の手前で左へ曲がるのが旧道である。すると小さな御堂
があり、宇土本町一丁目宇土高入口バス停がある。この辺りに四里
木跡があるはずだが見当たらない。
バス停から二百五十メートルほど先左側に宗方小太郎屋敷跡があ
り、小川の橋を渡った左側のたもとに個人のものか祠がある。その
八 十 メ ー ト ル ほ ど 先 で 交 差 点 を 渡 る が 、左 角 に コ ス モ の G S が あ る 。
入地町バス停を過ぎて橋を渡り、更に交差点の先にある工事中の
高架橋は新幹線のものだろうか。その先の鹿児島本線を花園踏切で
渡る。
上松山バス停を過ぎ、左側のタクシー会社と小さな地蔵を見て、
左から来る県道一四号線と合流する松山町交差点に達する。交差点
のすぐ先左側には小さな地蔵がある。
右側に近藤クリニックがあり、すぐ左側にお弁当のヒライがあっ
- 122 -
う
き
て、宇城市に入る。左側に不知火御領簡易郵便局があり、嫁坂バス
停を過ぎる。右側にホテルグッドイン⑦があり、そのすぐ先でJR
るちゅうくだし
に接する。その左側の昇龍堂⑧には流注下し婦人調血湯とある。
御領団地前バス停を越えると左側に旅館一新があり、不知火町御
領交差点の二股で県道一四号線と分かれ、右へ直進する。左側に円
光寺裏参道とあり、この辺りは商店が点在している。
御領橋まで行く手前の交差点で左へ曲がるが、右を見れば突き当
たりにJR松橋駅がある。
〇
旧 道 の す ぐ 左 側 に は 旅 館 一 力 が あ り 、左 側 に 松 橋 タ ク シ ー が あ る 。
松橋町松橋交差点を渡り、栄町バス停を過ぎると左側に明覚寺⑨が
あり、また松橋町松橋交差点を渡る。
四ツ角バス停を過ぎると、左側に安武眼科があり、右側におがた
タクシーがある。更に左側に松橋町商工会があるが、その五十メー
トルほど先右側に五里木跡⑩と地蔵堂がある。
松島中学校入口バス停を過ぎると下りになり、大野橋を渡る辺り
- 123 -
には料理屋が多い。大野橋と前方の曲野交差点との中間に四つ辻が
あり、ここで右へ曲がる。
大野川を久具橋で渡ると五差路の交差点で、右からくる道と合流
して広い道へ直進する。するとすぐ左側に宇城警察署⑪があり、続
いて宇城総合庁舎と保健所があって、大野川を久具新橋で渡る。
橋を渡ってすぐ右斜めに入る道が旧道で、右側に上久具大明神⑫
と上久具観音菩薩があり、次の二股は右へ進む。すると右側に石仏
があり、その百メートルほど先左側に線画の石仏と日露戦役の碑⑬
がある。
その先の二股も右へ進む。やがて久具新橋で分かれた新道と合流
す る 。す ぐ 右 側 に ホ テ ル ウ ッ ド が あ り 、希 望 の 里 入 口 バ ス 停 が あ る 。
その先で左からくるバイパスと合流して国道三号線を進む。
右側に豊福自動車訓練所⑭があり、左側に鮮度市場などのショッ
ピングセンター⑮があって、熊本南病院入口バス停を過ぎる。
左側にエネオスのGSがある所で、右斜めに国道と分かれる。こ
こころよし
の左側の三角地に景行天皇御遺址と史跡心 吉⑯とある。この左側の
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跡
木
里
五
址
遺
御
之
皇
天
行
景
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石段を十段ほど上ると、祠と説明が掲示してある。
第十二代景行天皇の十八年五月、熊襲征伐の後に火の国へ向かっ
たが、日没で行先が分からなくなり、遙か前方に見える火を目指し
たところ岸にたどり着いた。そこで天皇はここを﹁火の国﹂とし、
し ら ぬ い
導かれた火を﹁不知火﹂とした。更に朝の海風が吹いて天皇が思わ
ず﹁快し﹂と言ったことから、この辺りを﹁心吉﹂と名付けた。
〇
左側に消防署と隣に豊福小学校があり、道をはさんだ高台に豊福
神社⑰があって、その道を右折すれば誠光寺がある。豊福神社は後
冷 泉 天 皇 の 永 承 二 年︵ 一 〇 四 七 ︶関 白 藤 原 道 隆 の 創 建 と 伝 え ら れ る 。
神社の向こう隣に宇城市民病院と向かいに豊福郵便局がある。田
園に出てきて小川を渡り、やがて国道に合流して、その百メートル
ほど先右側、下水道の上に小さな地蔵がある。その先にはレンタル
ショップがある。
この後は国道であるが故にたんたんと歩く。途中の右側にフジパ
ンがあり、左側にセブンイレブンと弁当のヒライがあり、また右側
- 126 -
に福岡金網工業などがある。
右側に記念碑⑱とマックスがあるすぐ先で、左斜めに入り国道三
号線と分かれるのが旧道である。左からくる道との合流点に大きな
クスノキがあり、根元に小さな地蔵堂が二つある。
左 側 に 三 軒 屋 公 民 館 が あ り 、橋 を 渡 る と 三 軒 屋 番 所 跡 ⑲ が あ っ て 、
小川を渡ると国道三号線に合流する。その先に見えてくる小川町北
新田交差点で右へ曲がる。
左側の 青果物集送センター
⑳の前を通って、三百メートルほど先
左側の用水調整装置がある四つ辻に達する。
この四つ辻を左へ曲がるのが旧道で、そのまま右側に墓地を見な
がら直進し、三百メートルほど先の交差点で右へ曲がればJR小川
駅がある。
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小川から八代へ
①がある四つ辻を左へ曲がって、百メートルほど先
用水調整装置
のT字路を右へ曲がるが、途中の左側にひがしだ歯科がある。右へ
曲がった二車線分の細い道は両側に民家が並び右側に消防団がある。
少し広い道になって左側は団地になり、次の小川駅からくる道に
合流して左折せずに直進する。ゆるく左へカーブすると右手をJR
が走り抜ける。
今はコスモスと彼岸花が満開で、国道三号線に出る百五十メート
ル ほ ど 手 前 左 側 に 墓 が あ り 、そ こ に は 七 里 木 跡 ② の 碑 が 立 っ て い る 。
その先の西北小川交差点で国道に合流して、すぐ反対側に入るから
国道を横断する形である。
県 道 三 二 号 線 と 出 て い る 道 を 進 み 、す ぐ 四 つ 辻 は 左 へ カ ー ブ す る 。
亀の町バス停とあり、左側に弁財天③がある。小川新町バス停の先
で正善寺④に突き当たり、右に曲がってすぐまた突き当たって左へ
カーブする。
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そのまま直進すれば妙音寺に突き当たるが、旧道はカーブして五
ー六十メートル先の小川中町バス停の辺りで右へ曲がる。そして砂
川を刈萱橋で渡るが、その寸前に祠がある。
橋を渡るとすぐ左側に白玉屋新三郎⑤という素敵な店があり、白
玉団子と飴を売っている。ただし、この県道一五五号線はひなびた
古い家並みである。
二股は左へすぐ右へ、また二股は右へ下りていく。この辺りは左
右に川は見られないが、右の草深い所に川があるのだろうか。左へ
行けば乱橋古戦場・高塚装飾古墳・高塚板碑と出ている。
右手に国道三号線が見えてきて、後方にコンビニと前方にシェル
のGSが見える。旧道は山すそに造られた家並みで、これは増水し
たときを考えてのものだろうか。
左側に小さな地蔵堂があり、大野交差点で国道に最接近するが、
旧道は氷川町ウォーキングとある下のトンネルをくぐる。トンネル
を出ると国道の右側に道の駅竜北があり、ここで国道三号線に合流
するが、ここを左へ上れば笹尾城・太尾古墳とある。
- 130 -
跡
木
里
七
郎
三
新
屋
玉
白
- 131 -
竜北町は熊本県のほぼ中央部に位置して、なだらかな丘陵地から
八代海につながる帯状の地形で、様々な農産物が栽培されている。
また九州最大級の前方後円墳四基からなる野津古墳群をはじめ、日
本三大窟といわれる大野窟古墳など多数の遺跡が点在している。
〇
国道を進むと右手に竜北東小学校が見える。門司から二一七㎞と
あり、右に氷川町役場とある。その次のT字路の交差点を右へ行け
ば町の公共施設があるらしい。
野津バス停があり、左角に自然観察コースとあり、その先右側に
も自然観察コースとあり古墳群もあるらしい。その先で国道は右へ
進み、旧道は直進するように分かれる。
分岐してから四百メートルほど先、左側に薩摩街道・八里木跡⑥
の碑と地蔵堂がある。更に小川を渡る寸前に野沢古墳は左とある。
左側に法導寺公民館と法導寺薬師堂⑦がある所に、二本の大きな
クスノキは樹齢六百年というが、これは平安末期建立の法導寺が廃
寺 に な り 、そ の 御 本 尊 の 薬 師 如 来 を 祀 る た め 新 た に 御 堂 が 建 て ら れ 、
- 132 -
クスノキが植えられたとある。
その先の二股で左へ小川を渡れば、左奧に川原大神社⑧があって
突き当たりは氷川で、その手前で右へカーブすると、前方に国道三
号線が見えてくる。
昔は国道の百メートルぐらい手前で氷川を渡河したらしい。今は
国道と一緒に氷川橋を渡らざるを得ず、向こう岸の国道より八十メ
ートルぐらい手前に旧道が現れるから、ここが渡河地点だったのだ
と分かる。
国道四四三号線との交差点で、右角には田河東洋男商会の味噌醤
油屋⑨があり、渡った左角には宮原郵便局がある。その斜め向かい
には旧家を利用したまちつくり酒屋と、隣の大正末期に銀行として
建てられたまちづくり情報館がある。その先右側に憩いの場と親子
地蔵⑩がある。
まちつくり酒屋は、天保三年︵一八三二︶に建てられ明治六年に
増築された民家を利用している。
親子地蔵とは、慶応二年︵一八六七︶この川の淵に夫を探す母子
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年
百
六
齢
樹
は
ス
ク
の
堂
師
薬
寺
導
法
屋
酒
り
く
つ
ち
ま
の
原
宮
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が座り、思案にくれているのを見た付近の人が、お腹をすかす女の
子にご飯をあげると母親は涙ぐみ合掌した。ところが翌日この淵に
二人は身を投げていたため、明治二年︵一八六九︶二人を供養する
ため親子二体の地蔵を建立した。
〇
点滅信号を越えると左角に宮原小学校があり、右手の国道三号線
が急接近してきて、左側に﹁今﹂文化財史跡案内⑪が立っている。
国道の向こうに八代医師会立病院が見える所で国道に最接近した
後、左へカーブする。二股の角に道標があり、熊本市新町にあった
と記された是従原標九里とあるのは何だろうか。その先左側の護念
寺は再建中のようである。
二股に左三〇〇m大里山古墳群とあり、すぐ川を渡る。更に進ん
かこい
で四つ辻の左角に早尾六地蔵⑫があり、すぐ右側に消防団と 栫 区民
館がある。
川を渡るとミニパークがあり、この地を公共に寄贈した碑文があ
る。そのすぐ先に四つ辻があり、右角に馬の神⑬がある。
- 135 -
八代市に入る。二股は右へ岡町小路公民館が右側にあり、国道の
方へ近づいて国道沿いに左へ曲がる。また国道から離れたT字路に
行西古墳は左とあり、ここに九里木跡⑭がある。
次の四つ辻には行西二号墳・三号墳とあり、その先の四つ辻には
谷川古墳とか古墳の名前があり、次のT字路には田中古墳とある。
この辺りには古墳が非常に多い。
右側の用水路の向こうに国道があり、左側に龍峯小学校があり、
次の四つ辻の右手に御堂があるが直進する。右へ曲がって興善寺町
交差点に出るとき、左へ曲がれば明言院︵興善寺跡︶⑮がある。
興善寺は奈良時代後半から平安時代まで存続した寺院と見られ、
法起寺式伽藍配置と南大門・中門を過ぎると右に塔・左に金堂・正
面に講堂が建ち、中門から左右に回廊が伸び講堂に達していた。
〇
国道三号線に出て興善寺バス停を通り、その先は高速道路をくぐ
るまで旧道は国道になってしまっている。高速道路の手前右側には
九州トラックターミナルがあり、同じ名称のバス停がある。
- 136 -
- 137 -
高速道路をくぐった先の旧道は、国道の右側にあったらしいが今
は見当たらない。ただし東川田バス停の手前から、右手に国道と並
行して民家が並ぶ道があるから、これが旧道の名残ではないだろう
か。この道も間もなく国道に合流する。
左側のコスモスのGSから右へ入る道があり、これも国道に並行
して南下している。ただ間もなく国道と合流するが、この民家が並
ぶ道も旧道の名残ではないだろうか。
高速道路をくぐる手前に東片町交差点があり、ここを右へ曲がる
のが旧道だが、直進すれば八代神社がある。八代神社は妙見宮とも
呼ばれ、上宮・中宮・下宮の三社よりなり、ここは下宮で文治二年
︵一一八六︶八代平野の要の位置に当たるこの地に建立された。現
在の建物は元禄十二年︵一六九九︶と寛延二年︵一七四九︶に本格
的に改築された。
〇
旧道が東片町交差点で右へ曲がる所に少しわびしい方見堂があり、
ここから旧道を百メートルほど進むと、左側に清傳寺は百メートル
- 138 -
左とある。更に二百五十メートルほど進むと、右側の理髪店の向か
いの用水路を越えた所に十里木跡⑯の木碑があるが、この根本の三
分の一は腐っているから心配である。
二股は左へ進み前方に見えていた高速道路をくぐると、旧道らし
い閑静な家並みである。筋違いの四つ辻は左手にバンビ保育園があ
り、今回はここから直進する道を進む。ただし、ここを左折する薩
摩街道の萩原通り︵殿様道︶は八代の城下町を通らない近道で、肥
後高田駅の前で二つの道は合流する。
前方に日本製紙の煙突が見えてくる。左へカーブしてから小川を
渡ると、左手に見えていた煙突は正面に見えてくる。そして用水路
を渡る。
福正橋を渡ると何軒かの民家が並んでいるが、その先で左側が日
本 製 紙 の 工 場 に な り 、右 側 は 民 家 が 並 ん で 裏 に 川 が 流 れ て い る か ら 、
川沿いに歩いていることになる。
交差点を越えると左側に日本製紙の工場が続き、この工場の日置
門が現れ、右側の川向こうにマンションが見える。その先に第二日
- 139 -
置門があり、JRをくぐる。JR八代駅はこの左手後方八百メート
ルにある。
右手の川向こうに鶴田医院があり、ここで前方の交差点まで行く
手前で左へ曲がって、すぐ六差路の交差点を直進する。これは左右
の車が多い県道一四号線にはさまれ、右角に八代木村郵便局を見な
がら、金物屋や畳屋が並ぶ細道である。
二股は右へ進み、横手町バス停を過ぎ、四つ辻は直進するが、右
斜め前方に八代東高校があるため、朝は自転車通学の学生が多い。
次の交差点も直進する。
右側の光徳寺⑰は西南戦争での官軍本陣跡で、次の交差点で県道
二五〇号線に合流する。ここから右へ進むのが旧道だが、左へ曲が
ればJR八代駅へ一番分かりやすい道である。
〇
県道二五〇号線を西へ向かって歩いていると、この両側にはコメ
ディアンや野球選手など有名人の手形が並んでいる。通町バス停の
右側に面白い建物の八代通町郵便局があり、そのすぐ次の四つ辻を
- 140 -
岐
分
に
方
二
は
道
旧
で
園
育
保
ビ
ン
バ
跡
陣
本
軍
官
の
争
戦
南
西
は
寺
徳
光
- 141 -
左へ曲がる。
左へ曲がるとすぐ右側に大きな岡川病院があり、次の交差点の手
前から本町一丁目に入る。交差点で右を見るとアーケードで、左へ
行けば浄信寺があり、旧道は右のアーケードへ進む。
ここでは資料の文章通りアーケードの商店街を旧道とするが、添
付された地図ではもう一本南側の道が旧道のようにも見えて、この
道には荘厳寺や本成寺⑱があり、ミニパークに木ノ場と膾町と笹堀
跡について掲示してある。
本城寺は慶長十三年︵一六〇八︶加藤清正が九才で亡くなった嫡
男忠正の菩提を弔うために宮地村に建立したが、寛永十一年︵一六
三四︶細川三斎が父幽斎の菩提寺泰勝院を建てるにあたって本堂を
献上し、八代城下の現在地に移転した。
戦国時代、相良氏が八代に進出していた頃、徳淵ノ津を中心とす
る一帯には、同氏の中島館や港湾場などがあり、内外交易の拠点と
して繁栄した。今の本城寺境内南側一帯は入江であったが、江戸初
期 に 堤 塘 で 締 め 切 ら れ て 堀 に な り 、町 が 葉 様 の 形 か ら 笹 堀 と 呼 ば れ 、
- 142 -
明治時代には埋め立てられて墓などになった。堀跡は隣接して木ノ
場や膾町と呼ばれた。
〇
アーケードの商店街を進むと、途中の肥後銀行八代支店があり、
この角に道路元標がある。ここから左へ曲がるのが旧道で、右手に
鳥居が見えて、これに向けて進めば八代神社⑲と八代城跡がある。
道路元標で左へ曲がると何となく趣を感じる道で、右側に大きな
河童の像があるが、ここは札の辻で十一里木跡とある。前川の土手
に上ると徳淵の津と河童渡来之碑⑳が立っていて、ここが渡河地点
だろう。
この辺りは徳淵の津と呼ばれる良港で多くの船が出入りし、中世
には海外との貿易も行われた。また仁徳天皇の時代には、九千匹の
河童が中国より泳いで渡ってきた上陸地と伝えられ、河童渡来之碑
がある。これは昔から海を通じて多くの人が行き来したことが、河
童伝説を生んだと思われる。
- 143 -
宮
代
八
の
跡
城
代
八
碑
之
来
渡
童
河
る
あ
に
点
地
河
渡
の
川
前
- 144 -
- 145 -
八代から日奈久を経て二見へ
渡河地点より少し右手の前川橋で前川を渡るが、これは自転車歩
行者専用道路で新前川橋の手前である。渡って渡河地点に戻ると祠
があり、左角の和久田家は大きな家だが、そこから見える看板に和
久田の名称の会社が多い。その先で前川橋からくる道と合流する。
今の球磨川を植柳橋で渡り、すぐ県道沿いに下ると御堂と祠①が
あるが、そこまで下りきる手前で左の土手道へ曲がる。植柳小学校
②を右手になるような右へ下る道を捜すと、植柳小学校を過ぎて和
久田建設製材家具工場の裏の道である。
昔は土手から真っ直ぐに下ったと思われるものの、今は少し戻る
ように進む。すると右側に協和石材と和久田建設が並び、その先に
植柳小学校があるが、そこまで行かずに協和石材③で左へ曲がる。
ここから真っ直ぐな道である。
国道三号線との合流点は旧道の方が真っ直ぐで、高下西町交差点
の右角には八代工業高校④があり、ここのバス停辺りに門司から二
- 146 -
三一㎞とある。
流藻川団地前バス停を過ぎ、本野町交差点の右側に医師会館病院
⑤があり、ここから左斜めに入る。オレンジ鉄道肥後高田駅に突き
当たる所で左からくる道が合流して、これが八代町手前で分かれた
萩原通りである。
旧道は肥後高田駅を横切る位置にあり、線路の反対側に出ると墓
地があって、ここに旧道がつながっていたらしい。この墓地の終わ
りに万年寺跡の御堂⑥と万年寺僧侶の墓がある。
そこから二百五十メートルほどで突き当たって右に曲がり、平山
踏切でオレンジ鉄道を渡って左へ曲がり、線路と用水路に沿って歩
く。右側に平山公民館があり、更に民家や柑橘類の畑で、その向こ
うに国道がある。
茶碗焼踏切を渡らずに右へ曲がって国道に出るが、この踏切を渡
れば山すそに高田焼き窯跡がある。これは細川氏の肥後入国に際し
あがの
て豊前上野から移ってきたという。
国道三号線に出ると門司から二三三㎞とあり、そのすぐ左側に八
- 147 -
る
通
を
脇
の
跡
寺
年
万
て
え
越
を
駅
田
高
む
進
に
い
沿
道
鉄
ジ
ン
レ
オ
- 148 -
代自動車学校⑦がある。高速道路をくぐる所に小田小屋バス停があ
り、八代食糧事業協同組合もある。そのすぐ先右側にコンビニがあ
るT字路の左角に、万葉遺跡・野坂の浦⑧の標識がある。
万葉集の歌枕である野坂の浦は、古来その所在をめぐり諸説があ
る。この山麓には古代の官道が通り、野坂の地名が残り、海浜は水
島を望む快適な場所である。近くの丸山には須恵器の窯跡や古代製
鉄所跡や丸山古墳群や地下式板石積石室がある。
〇
この辺りは国道の左側に道はなく、右側に八代南ICが見える。
丸山バス停があり、門司から二三四㎞とあって、右側のICへの入
出路を越える。オレンジ鉄道が接近して右へカーブするが、左側の
民家の裏に鉄道がある。
敷川内簡易郵便局があり、門司から二三五㎞で鹿児島まで一五五
㎞と出ている。左側に金剛小学校の敷川内分校⑨があり、敷川内バ
ス停があって、敷川内町交差点で左へカーブすると、左側に日奈久
変電所⑩がある。
- 149 -
鉄道が左側に接近して、日奈久温泉まで二㎞とある。左側の田ん
ぼの向こうに高速道路が見える。大坪バス停があり、右側に金光教
教会があり、門司から二三六㎞とある。
その五十メートルほど先左側の鉄道との間に、すわぶき地蔵尊⑪
があり、更に五十メートルほど先右側に交通安全地蔵尊がある。
次の日奈久大坪町交差点の五十メートルほど手前、右側に地蔵堂
があり、交差点の左奧には十三里木跡⑫と地蔵堂がある。この一里
木が元の位置のままなら、当時の旧道は国道三号線より十メートル
ぐらい左奧にあったはずだが、今はその辺りの前後に道はない。
そのすぐ先に大明神バス停と左側に消防団があり、その裏に日奈
久神社⑬がある。その先の左へ向かう道に田川内古墳は一六〇m、
田川内城跡は四〇〇mとある。
その先右側に山下町公民館と山下バス停と御堂⑭があり、門司か
ら二三七㎞とある。JAがあり、日奈久塩北町交差点があって、そ
の百メートルほど先左側にオレンジ鉄道日奈久温泉駅がある。
その二百メートルほど先で左斜めに国道と分かれる道があり、こ
- 150 -
こには日奈久温泉の由来⑮の掲示がある。日奈久温泉は応永十六年
︵一四〇九︶浜田六郎が父の傷を癒そうと神に祈ったところ、夢の
お告げで教わった所を調べてみると温泉が湧き出した。参勤途上の
島 津 侯 も よ く 利 用 し 、江 戸 初 期 に は 細 川 家 の 藩 営 温 泉 に 指 定 さ れ た 。
そのすぐ左側に八代市役所日奈久出張所があり、所々に山頭火の
句碑が下がっている。その先左側に高田焼上野窯の裏に足手荒神⑯
がある。この高田焼上野窯では江戸時代からの高田焼の伝統を受け
継いでいるという。
二車線分の細い道に商店が点在し、やっと温泉街らしくなってき
た。左側の近代的な建物は日奈久の湯で、手前に西宝寺⑰がある。
山すそと国道三号線にはさまれた温泉街の旧道は、間もなく国道
に合流する。すぐ下塩屋踏切でオレンジ鉄道を斜めに横切り、三百
メートルほど先で鉄道に突き当たって行き止まる。そこで国道の方
を進むと門司から二三九㎞の辺りに出てきたらしい。
この先の旧道は消えているため国道で鉄道を越えざるを得ず、右
手の高速道路の向こうに海が見え、国道の方には途中の左側に御堂
- 151 -
堂
蔵
地
と
跡
木
里
三
十
の
奧
り
よ
道
国
る
入
に
め
斜
左
り
よ
道
国
は
泉
温
久
奈
日
- 152 -
がある。国道を下りきった辺りに右から合流する道があり、これは
旧道らしい感じだが途中までしか見えない。
馬越バス停があり、右手の鉄道の向こうに海が見える。ゆるい上
りに入る寸前で左斜めに入るが、すぐ日奈久温泉のモニュメント⑱
で国道に合流する。門司から二四〇㎞の標識から百メートルほど先
に十四里木跡⑲があり、鳩山バス停がある。
白 鳥 バ ス 停 を 過 ぎ 、右 側 の 白 鳥 踏 切 が あ る 所 に 白 鳥 公 民 館 が あ り 、
ここには西南戦争政府軍上陸地⑳とある。政府軍上陸地とは、明治
十年︵一八七七︶西南戦争の折、政府軍は日奈久沿岸一帯に風雨の
中で上陸し、薩軍は反撃することなく敗走せざるを得なかった。
〇
門司から二四一㎞に二見駅前バス停があり、右へ曲がればオレン
ジ鉄道肥後二見駅がある。この鉄道の昔は鹿児島本線で第三セクタ
ーとして何とか生き残り、一時間に一本ぐらい走っている。ただ、
この鉄道と薩摩街道は絡まるように川内まで続いているから、薩摩
街道を歩くときには大事な鉄道である。
- 153 -
- 154 -
二見から田浦を経て佐敷へ
右手に肥後二見駅を見て真っ直ぐな旧道を進む。左へカーブする
と日奈久ちくわセンター①の隣はドライブインで、ここに二見水月
バス停があり、門司から二四二㎞とある。
右側に二見川が現れ、川の向こうに日奈久ゴルフセンター②があ
って、ここからの君が淵の旧道は消えているから国道を歩かざるを
得ない。その先に二見下大野町交差点があり、その右下に史跡眼鏡
橋③とあるが、ここにあった眼鏡橋はなくなったという。
そこから国道を進むと二見中学校は左とあり、ここで国道と分か
れ右へ曲がって川岸までくると、ここからの旧道は残っていて、高
速道路をくぐり、川を渡る。舗装道路から二股の左の砂利道へ進む
と、すぐ舗装道路に合流して右側に八代学園④がある。
やがて左へカーブして国道に近づいていき、左手の国道沿いのコ
ンビニを見ながら右へカーブする。すると嘉永六年︵一八五三︶頃
の新免眼鏡橋⑤があって、これを渡って国道に合流する。
- 155 -
跡
橋
鏡
眼
と
道
旧
の
淵
が
君
た
え
消
橋
鏡
眼
免
新
- 156 -
上赤松バス停から左へ入る道に十五里木跡⑥があり、ここには二
見城跡が左二・五㎞、赤松太郎峠が右〇・五㎞とある。その先の坂
を上りかけている途中で、国道から右斜めに下る道がある。そこを
進むと赤松第一号眼鏡橋⑦があり、これは欄干付きである。
これを渡って進むと四つ辻になり、ここで左へ曲がる。そこから
ゆるい下りが続き、百五十メートルほど先に大平眼鏡橋⑧がある。
これを渡ると二股になり、左の道を進めば橋を越えた先に国道三号
線に出るが、ここでは右の道を上る。
急な上りの後で下ると旧国道を横断する形になっているが、この
横断する手前に薩摩街道御籠据所跡入口⑨の標柱と、向かいに小さ
な砲弾型の道標があり、これには右田浦ヲ経テ佐敷とあるらしい。
薩摩街道御籠据所跡入口とは、薩摩街道のうち二見が属していた
江戸時代の田浦の手永︵地方行政区画︶に、塩釜坂・白島坂・君が
淵坂・赤松太郎坂など大小の坂道があり、道行く人は汗をかき息を
切らせながら越えてきた。これらの坂や峠の頂上には参勤交代の籠
を止め行列を休止させる場所があり、御籠据所と呼ばれていた。
- 157 -
橋
鏡
眼
号
一
第
松
赤
の
き
付
干
欄
橋
鏡
眼
平
大
- 158 -
〇
ここから今は旧国道を進まざるを得ないのだが、行き着ける所ま
で 旧 道 を 進 ん で み る 。旧 国 道 を 斜 め に 横 切 る と 小 藪 眼 鏡 橋 ⑩ が あ り 、
これはコンクリートで補強されて眼鏡橋らしさが少々欠けている。
そ の 先 で 国 道 三 号 線 に 合 流 す る と 、門 司 か ら 二 四 六 ㎞ の 標 識 が あ る 。
その先左側には小藪地蔵尊⑪がある。
高速道路をくぐり、真っ直ぐに進んで左へカーブして間もなく、
右斜めに下る幅二メートルほどの道がある。これを進むと二百五十
メートルほど先に須田眼鏡橋⑫があり、この橋は嘉永二年︵一八四
九︶頃とある。その先も進んでみたが地元の人が言う通り行き止ま
りで、旧道へ戻るのは大変な大回りである。
旧国道の右側に小さな地蔵があり、二股の右はクリーンアメニテ
ィという会社で、採石場の先左側に薩摩街道の道標に左江戸・右薩
摩とあり、ここからは下りになるから赤松太郎峠だろう。
やがて突き当たるように左へカーブすると二股があり、左の石畳
をコンクリートで固められた道へ進む。右側が開けて海まで見えて
- 159 -
橋
鏡
眼
藪
小
橋
鏡
眼
田
須
- 160 -
いたのが、クモの巣を払いながら歩くようになり、途中から背丈以
上の草で進めなくなって戻る。
やむを得ず林道のような道をたんたんと下る。下りきった所にも
先ほどと同じような薩摩街道の道標があって、左からくる道を指し
ているから、ここから逆に辿ってみる。
〇
左側に首塚⑬があるが、これは文禄元年︵一五九二︶加藤清正・
小西行長らが朝鮮出兵中、島津藩の部将梅北宮内左衛門が佐敷の城
を襲った。梅北の同僚である東郷と矢崎はこれと同時に海路、八代
麦島城を攻略し始めたが、梅北軍が敗北したとの情報で陸路転戦し
た。このいわゆる梅北の乱で敗れた東郷・矢崎軍が赤松峠を下りた
とき、待ち受けていた田浦城主の檜前軍と合戦になり、東郷・矢崎
は討ち取られ、その首がここに埋められた。
上り始めると左側に小さな地蔵堂があり、その先右側の広いスペ
ースに道標と奧に小さな地蔵堂がある。更に進むと左側のコンクリ
ートの貯水槽の向かいに道標があり、ますます急坂になって、やが
- 161 -
て左右からススキなどの草が道を狭くし、ついに背丈ほどの大きな
草が埋め尽くす。
〇
林道と旧道との合流点に戻る。ここから百メートルほど先右側に
石柱があるが、風化して字がよく読めない。上部は﹁明治﹂とも読
めるが、途中に﹁官軍﹂とも読める。
更に進むと左側に田浦なつみかん集積場があり、その向こうに田
浦斎場があって、この境界に薩摩街道の道標があり、薩摩の方向が
集積場と斎場の間を向いている。即ち、旧道はここで左へ曲がり、
すぐ右へ曲がって八幡神社⑭の方向に向かっていたのだろう。
八幡神社の鳥居の脇には塩屋眼鏡橋があるが、これは移転復元さ
れたものだという。八幡神社の正面に道標があるから、昔はここが
赤松川の渡河地点だったのだろう。今は八幡橋で渡って渡河地点ま
で戻ると、田んぼの中に道がある。
これを進むと八幡橋を渡ってきた新道との合流点に御堂があり、
ここからは旧道の上に新道ができたらしい。二百メートルほどで突
- 162 -
き当たるが、突き当たりの塀に薩摩街道は右の矢印だから間違いな
い。ここには田浦小学校は左の矢印となっている。
右へ百メートルほど先で田浦川を渡ると、ここにも道標があって
薩摩は右と出ているので田浦川沿いに進む。間もなくX型の四つ辻
に出るが、左の三角地に御堂⑮があり、ここにも道標があって川か
ら離れるようになっている。
船江交差点の手前から左斜めに入る道は旧道のようにも見えるが、
向こうに抜けられないと言うので、交差点から国道三号線に合流す
る。その百五十メートルほど先で左斜めに入る道が旧道である。
二百メートルも行くと、また国道に合流するが、ここにも道標が
あり、その後に小さな石仏がある。この先五十メートルぐらいは山
が削られているから、昔の道は違っていたのだろう。
塩屋橋バス停を越え、塩屋交差点の先で宮浦川を塩屋橋で渡る寸
前 、左 側 の 民 家 の 中 に 道 標 が あ り 、川 沿 い に 進 む よ う に な っ て い る 。
そこで民家の中を抜けるように進むと、次の橋のたもとにも道標が
あり、その先は直進できないから橋を渡らざるを得ない。
- 163 -
こ の 先 は 道 筋 が 分 か ら ず 、訊 い た 何 人 目 か の 古 老 が 教 え て く れ る 。
この辺りは新興住宅地で旧道の消えた部分があるが、橋を渡って次
の右折する道で国道に出てJAの先で左折する。
左折してから直進する道が旧道につながり、左側に天子宮⑯があ
るから間違いない。天子宮は景行天皇行幸船泊地跡で、藻掛けの松
跡とあり、ここにも道標がある。
右側にふれあいセンターを見ながら、民家が並ぶ細道を進むが、
左の山へ上る道が見つからず、国道三号線の田浦隧道の手前に出て
しまう。古老に訊くと岩鼻峠には上れなくなったと言う。
このトンネルの手前の交差点を右へ進めば、オレンジ鉄道肥後田
浦駅がある。このトンネルをくぐって、すぐ左へ曲がると、岩鼻峠
から下ってくる道があり、ここに地蔵堂と道標⑰がある。この大し
て高くもない岩鼻峠を逆から上ると頂上に地蔵堂と納骨堂があり、
その先には進めない。
小田浦交差点で国道に合流すると、間もなく左側に薩摩街道の道
標があり、この矢印通りに民家の中のような細道を進む。突き当た
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橋
鏡
眼
屋
塩
る
あ
に
脇
居
鳥
の
社
神
幡
八
跡
地
泊
船
幸
行
皇
天
行
景
は
宮
子
天
- 165 -
って右へ、更に突き当たって左へ行くと、すぐまた薩摩街道の道標
があり、右へ行くと国道に出るが、このような道は道標がなければ
歩けないだろう。
右側に水害復興記念碑があり、すぐ左側の阿蘇神社⑱には馬頭観
音もある。門司から二五三㎞とあり、その百五十メートルほど先に
志水バス停がある。ここにも薩摩街道の道標があり、左へ曲がって
山すそをぬうように大きく迂回して、また国道三号線に合流する。
その先の二股は左の道が旧国道で、ここから国道と分かれて急坂
を上る。上りになって右下に国道と鉄道が見える。右の分岐する道
は無視をして、上り続けると前方に隧道が見えてくる。
野添橋⑲を渡ると右側に道標があり、右へカーブして急坂を進む
が、本来の旧道は分からなくなっているとある。
蛇行しながら進むと右側に地蔵尊があり、ときどき右へ下る道が
現れても無視をして、白いガードレール沿いに進む。この辺りの斜
面は柑橘類の畑で、この作業のためのレールが完備されている。余
り急な上り下りがない蛇行する道をたんたんと進むと、右手の開け
- 166 -
た所で海が見える。ときどき右へ下る道は農道である。
やがて佐敷隧道が現れ、前後の入口・出口の明かりしかない真っ
暗な涼しい道を歩く。この五ー六百メートルのトンネルは、旧国道
のためレンガで造ったのだろう。ただし昔はこのようなトンネルが
あったわけでなく、佐敷太郎峠越えの旧道は別の道があったと推測
できるが、その道は入口さえ確認できなかった。
トンネルを出ると標識があり、徳富蘆花の﹁死の陰﹂に出てくる
とある。ここの二股は右へ下り、グルッと回り込むように進むと、
山が右手から左手に移り、右下から車の音が湧き上がってくる。
たんたんと進むと左側に採石場があり、その先では車の音が前方
から聞こえてくるようになる。ときには鉄道の音も聞こえて、前方
が開けるとドーム型の佐敷町の体育館が見える。
左側に金刀比羅宮参道という細道があり、下りきると船津橋を渡
る寸前に薩摩街道の道標⑳がある。この橋を渡ると交差点で左手に
芦北高校があり、逆に右へ進んでオレンジ鉄道をくぐって、左へ進
めば佐敷駅の方向である。
- 167 -
- 168 -
佐敷から津奈木を経て新水俣へ
山から下りてくると薩摩街道の道標があり、ここで左へ曲がって
乙 千 屋 川 を 船 津 橋 で 渡 る 。交 差 点 を 渡 る と 芦 北 高 校 前 バ ス 停 が あ り 、
右側に篠原医院があって、佐敷川に並行する旧道には趣のある家並
みが始まる。
左側に野坂屋旅館から趣のある家があり、この辺りは右側が佐敷
川で、左側に明専寺①・福島屋・薩摩屋・坂井饅頭と並び、蓮光寺
の先で相逢橋で佐敷川を渡る。
すると右角に岩永醤油店が目立ち、渡った所に薩摩街道の道標と
佐敷城跡は右とある。岩永醤油店の隣に地蔵堂②があり、この地蔵
は明和九年︵一七七二︶には既にあったらしく、昭和五年の佐敷町
大火の際、この地蔵堂を境にして類焼を免れたので、火除けの地蔵
として本町の守り神とした。
その数軒先に芦北郵便局があり、この辺りにも趣のある建物が並
んでいる。上町バス停に来迎寺があり、その先の左からくる広い道
- 169 -
並
家
の
い
沿
川
敷
佐
の
前
手
橋
逢
相
並
家
の
道
旧
た
っ
渡
を
橋
逢
相
- 170 -
の左角に道標と右側に豊臣秀吉宿泊地の標柱がある。ここは、天正
十五年︵一五八七︶豊臣秀吉が九州征伐の薩摩からの帰路に佐敷高
橋家に逗留して、正室の北政所に手紙を書いている。またこの宿泊
かたびら
のお礼として秀吉は高橋家に桐紋入りの帷子を贈っている。
ほうきょいんとう
その先左側に勝延寺参道入口とあり、中には町文化財の宝筐印塔
がある。そのすぐ隣に芦北町立児童館があり、向かいに天理教教会
がある。
更に進むと左側に薬師如来があり、この草創は鎌倉時代までさか
のぼると考えられる。そのすぐ先の五差路は、一番右の道は佐敷城
とあり、二番目の道は平等寺跡とあり、三番目はみかけ公園で戦没
者 慰 霊 碑 が あ る 。一 番 左 の 道 が 薩 摩 街 道 で 佐 敷 中 学 校 ③ の 脇 を 通 る 。
資料によると、旧道は佐敷中学校の中を抜けて、その先の田んぼ
の中を通るようになっているが、中学校の中を無闇に通れない。そ
こで中学校の先生二人に訊いたが、旧道のことを知らないようでは
話しにならない。やむを得ずみかけ公園の前を通って中学校の正門
の前を進むと、右側に実照寺がある。
- 171 -
実 照 寺 は 慶 長 十 七 年 一 六 一 二 ︶佐 敷 城 代 が 加 藤 清 正 へ の 福 報︵
福にむくいること︶のため建立した。ここの仁王像は平等寺の仁王
門にあったものだが、廃寺になったため移された。
〇
左側の田んぼの畦道が旧道だろうと想像しながら、工事中のコン
クリートの橋脚の脇を進む。すると五本松バス停があり、川の手前
の山すその高台に道標④が見えるから、この細道を上る。
そこを少し上ると、また道標があるから間違いない。急な上りで
右からくる道と合流する手前で左へ曲がる。すると山すそをぬうよ
うな道は下って、墓地と休憩所がある所に出るが、ここにも道標が
あるから間違いない。ただし、直線でたった二百メートルぐらいの
道だから、山の方へ上らないように注意したい。
四つ辻を越えた所に墓地の小さな地蔵堂があり、その墓地の前を
通る。山すその舗装道路はやがて上りに入る。山の間をぬう上りの
急坂になり、右側に石仏がある。
百八十度回り込んで、すぐまた百八十度回り込むと、湯浦の標識
幸
- 172 -
があり、ゴミ処理場の前を通る。右側に清掃センターがあり、向か
いには湯治坂の板碑⑤があるが、これは安山岩の自然石の中央に、
地蔵像が長い錫杖を持ち蓮座の上に立っている姿が線刻されている。
ここから下りに入り、下りきると川の右側に民家が並んでいる。
湯治川を渡り、オレンジ鉄道を外平踏切で渡って、国道三号線に接
して鉄道沿いに進む。
資料では、すぐまた鉄道を越えるように書いてあるが、今はその
ような道は見当たらない。ただし右側に湯東公民館を見て、その七
十メートルほど先の細い道で鉄道を渡る。三十メートルほど鉄道沿
いに進むと左の山すそに入る上り道があり、クモの巣を払い倒木を
越えて上りきると、左からくる道と合流して下る。
そこからは左側の民家と右側の鉄道にはさまれた下り坂で、ほぼ
下りきると左側に薩摩街道の道標と地蔵堂⑥があって、その百メー
トルほど先で鉄道を渡る。そこから百メートルほど先で湯浦川を湯
町橋で渡るが、渡る寸前に薩摩街道の道標がある。
湯町橋を渡ると薩摩街道ギャラリーが随所に掲示してある。国道
- 173 -
坂
り
下
の
側
東
の
道
鉄
は
道
旧
標
道
の
川
浦
湯
- 174 -
を湯浦交差点で渡った角に交通安全地蔵があり、その奧隣に温泉セ
ンターがあって次の四つ辻で左へ曲がる。すると右側に稲荷宮と湯
浦児童館が並び、次の辻を越えた左側に古い湯浦郵便局がある。
左側に多目的研修センターと保育園があり、右側に趣のある家と
警察署の間に大河内往還改修記念碑があり、その奧に星野富弘美術
館がある。逆に四つ辻で左を見れば国道との湯町交差点と、突き当
たりにヘルシーパーク芦北が見える。この裏の湯浦川を越えればオ
レンジ鉄道湯浦駅がある。
〇
星 野 富 弘 美 術 館 が あ る 四 つ 辻 は 、左 角 に 熊 本 中 央 信 用 金 庫 が あ り 、
ここにも薩摩街道の道標がある。左角にショッピングセンターがあ
り、旧道はそのすぐ次の橋を渡って川沿いの道を進むと、薩摩街道
の道標がある。
その先のT字路で突き当たるが、その右角に道標と地蔵がある。
そこを右へ曲がると二股になり、右の道は湯浦小学校⑦へ向かい、
左が旧道である。
- 175 -
山すそをぬうように、ゆるやかな上りに入る。芦北三十三ヶ所霊
場の二十四番山川観音堂⑧の前を通るが、この辺りにも民家が点在
している。
右側に薩摩街道の道標があり、その先で地元の古老に出会ったの
で訊くと、津奈木太郎峠は荒れて通れないという。半信半疑ながら
二十数年前の資料でも荒れているとあるから、諦めて大回りになる
が湯町交差点に戻り、国道三号線を歩いて旧道の出口に向かう。
すると右側に孝女千代塚⑨があり、奧には慰霊碑が立っている。
この千代は約三百年前の人で、七才で父と別れ、それから二年後に
母を亡くし、六十才を越える祖父母と九才の千代だけになったが、
祖父母を助け、後には一家を支え孝養を尽くした。このことが藩侯
にも聞こえ、千代が十八才のとき表彰され終身米十俵を賜った。
千代塚の前に薩摩街道の道標があるから山へ向かう。その二百メ
ートルほど先にも道標があり、この方向からすると右の石畳の急坂
でなく、江戸は左の藪の中だが先へは進めない。
念のため右へ進んでみると石畳の急坂も、百メートルほど先の小
- 176 -
屋 か ら 下 草 に な り 、ク モ の 巣 が 多 く 草 も 茂 っ て い て 進 む の を 諦 め る 。
〇
千代塚から国道に出ると千代塚バス停があり、国道を横切るとず
っと下りで南西に向かう。左からくる道と合流する左角に、農道竣
工記念碑と薩摩街道の道標がある。
右手に光明寺を見て、千代川を眼鏡橋の寺前橋⑩で渡る。その先
の旧道は資料によると﹁寺前橋から二百メートル余の所で、舗装道
路からそれて山手に入り、亀万酒造の裏に出る﹂とあるが、そうい
う道は見つからない。
寺前橋から四百五十メートルほど先に道標があり、その四十メー
トルほど先から山手に入る道の方がそれらしい。ただ、この道はク
モの巣の先は倒木と夏草で進むのを諦める。
そこで直進して国道三号線に出て左へ曲がると、この角に薩摩街
道の道標と祠があるから資料とは違うが、今はこれが正当化されて
いるのだろう。この道標は右奧に舞鶴城公園があるとも出ている。
国道の左側に日本最南端の酒造所といわれる亀万酒造⑪があり、
- 177 -
この裏に旧道が出てきたはずだが、訊くところによると、この裏道
は既に廃道化されているという。この先は国道を斜めに横切ってい
るが、このゆるい下り坂が旧国道らしい。
右側のグループホームがある二股には、木標が倒れていて残念だ
が、右手上方に日の丸の旗を立てた重盤岩⑫が見える。この二股は
左へ進むと橋を渡って国道に出てしまうため右へ進む。
熊本百景の一つである重盤岩は溶岩が固まってできた岩で、火砕
流の堆積物とも考えられている。頂上付近は津奈木城があった場所
で今は舞鶴城公園になっていて、頂上の国旗は現在の天皇陛下の誕
生を祝して立てられた。
すぐ右側の寺らしいものは資料によると大法寺らしい。更に進ん
で右側に稲荷神社があり、つなき美術館からモノレールが山に向か
っている。右側に阿蘇神社があり、左側の重盤岩眼鏡橋⑬を渡る。
この橋は岩永三平により嘉永二年︵一八四九︶にかけられた。肥後
の石工三平は兄三五郎に劣らぬ腕前で島津藩の架橋工事に携わった
が、完成後に秘密が漏れるのを恐れた追っ手により瀕死の重傷を負
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岩
盤
重
つ
立
え
び
そ
橋
鏡
眼
岩
盤
重
- 179 -
い 、そ の 三 平 を 介 護 し た 津 奈 木 の 村 民 の 恩 義 に 報 い て 造 っ た と い う 。
〇
一時的に国道に出て右へ曲がり、岩城交差点のすぐ先で左へ曲が
ると、善樹院⑭に突き当たって右へ曲がり、すぐ二股を右へ下る。
前方に見えてきた新幹線をくぐるとき、トンネルから出てきた鉄
道が左側に現れ、すぐ目の前はオレンジ鉄道津奈木駅である。
津奈木駅前には薩摩街道の道標があり、駅の高架橋で向かい側に
出て、すぐホームの端から左へ曲がってホームと別れる。
細道に浜崎貝塚跡⑮の標識があり、左からくる道との合流点に薩
摩街道の道標があるが、位置は少しおかしい。津奈木保育園の脇を
通って左へ曲がり用水路沿いに進む。
少し進んでみると右へ急坂を上る道があり、地元の人に訊いたら
進むのが難しそうなことを言う。それでも進んでみると初めはクモ
の巣を棒で払う程度だったが、前方の草を見ると、蛇が目の前を横
切った昨日のことを思い出して諦める。
この歌坂峠は冬場や春先なら歩けるのかも知れない。歌坂と呼ば
- 180 -
れるようになったのは、豊臣秀吉が九州征伐の折、先導役の深水宗
方の即興の歌に上機嫌だったためといわれる。
国道に出て歌坂ドライブイン⑯までくると、目の前に道標が現れ
る。すぐ町原バス停があるが、この先は国道の左右に入る道に気を
付けながら歩く。ただ資料でも、この先の旧道は田畑になったり、
廃道となった所が多いとある。
右側に食物屋が集まっている交差点に達するが、ここまでは左右
に 入 る 道 は な さ そ う で あ る 。そ の す ぐ 先 右 側 に マ キ オ マ ー ト が あ り 、
前方に水俣市の境界が見えてきて、すぐ左へ入る道を進む。
二メートルほどの幅の道が右へカーブする所に道標があり、更に
左高台の小津奈木神社⑰の下に道標があり、オレンジ鉄道に接して
二股は右の国道三号線の方向へ進む。
国道を越えると旧道は消えているようだが、水俣芦北森林組合の
敷地を抜けて川沿いに進み、国道まで行く手前に眼鏡橋⑱がある。
この眼鏡橋のたもとに薩摩街道の道標があり、歩いてきた道が江
戸へ通じ、橋を渡るのが薩摩へ通じるとある。橋を渡ると石段の上
- 181 -
る
通
を
前
の
社
神
木
奈
津
小
橋
鏡
眼
の
前
寸
る
出
に
道
国
- 182 -
が観音様で、その脇の平坦な道を進み、二股の細い道で国道に出る
寸前に道標がある。
国道を歩き始めると、すぐ左側に水俣市の大きな標識があり、そ
の裏に道標があるが、江戸が鉄道の方を向いているわけが分からな
い上、その方向には道がない。そのすぐ右側には馬頭観音がある。
石木田バス停がある所は鉄道を渡る寸前に追分地蔵とあり、ここ
の道標は薩摩の方向が金網でさえぎられているが、新幹線工事の関
係で消えたのか、何が理由か分からない。
その百メートルほど先に門司から二七五㎞とあり、ここに出てく
る道が先ほど消えた道の出口だろうか。次の民家へ入る道に道標が
あるが、民家の方向に旧道があったのだろうか。
その民家が切れた所から右へ入る道に薩摩街道の道標⑲があり、
初野川を渡らず川沿いに進み新幹線をくぐる。そしてコンビニの手
前で国道に合流するが、この出口にも薩摩街道の道標がある。すぐ
先の初野交差点の左角に水東小⑳入口の標柱がある。
その先左側にJR新水俣駅がある。
- 183 -
- 184 -
新水俣から出水へ
新水俣駅のホームの手前辺りで国道から分かれ、右斜めに進む道
は山すそで旧道らしい。用水路沿いに進み、自動車修理工場から道
は細くなるが、ここにも薩摩街道の道標があり、その先は藪で進め
なくなる。
そこで国道に出てみると、藪道はもう少し先まで続いてから国道
に接している。そしてまた国道に並行してレストランの裏を通って
いて、間もなく国道に出る手前に地蔵観音菩薩①があり、国道に出
る寸前にも薩摩街道の道標がある。
旧道は国道を斜めに横切って進むと、両側が畑で前方に山が見え
る。右側に木標があっても字が読めないのは、時を経て古くなって
いるためだろう。
前方にこつぜんと暗い細道が現れて覗くと、そこは滑り落ちそう
なほど恐ろしい急坂である。暗いから距離感がつかめないが、二百
メートルぐらいだろうか、坂道から出ると明るい陽光の中に民家が
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並び、右奧の水俣第一中学校②から歓声が聞こえる。
前方に新幹線を見ながらT字路の突き当たりに祠があり、右角に
木の道標はあるが薩摩の方向が折れている。ここを右へ曲がる。
その先は直進して陣内阿蘇神社参道で右折して、神社に突き当た
って左折する。ただし、折れた道標からすぐ先で右へ入る細道を進
み、中学校脇を通って陣内阿蘇神社③の前を通る方が自然な道筋だ
し、阿蘇神社に立つ薩摩街道の道標にも合致している。陣内阿蘇神
社は天和二年︵一六八二︶に阿蘇神社から勧請されて創立された。
〇
次の四つ辻にも右角に木標は立っているが、方向を示すものがな
い。右側の豪邸の脇に西南戦争で戦死した陣内官軍墓地④の立派な
石碑が立っているが、この墓所がある高台が水俣城跡だとある。こ
の城の城代を務めたのは歌坂に登場する深水宗方だという。
その五十メートルほど先の四つ辻に立つ木標は未だ生きている。
その百メートルほど先で車が多い道に合流するが、そこには田平入
口バス停があり、陣内一丁目とある。そのためか別系統のバス停は
- 186 -
陣内という名称になっている。
陣内の辺りはなかなか趣がある家が残っていて、右側に味噌・醤
油の中尾醸造所があり、国道三号線の水俣市役所交差点に達する。
き す い
水俣市役所の隣には蘇峰記念館⑤︵淇水文庫︶があるが、これは徳
富蘇峰が父一敬︵淇水︶を記念して建てられたもので、横に蘇峰の
像が立っている。尚、蘇峰の弟が蘆花で生家はこの地である。
ここから新水俣橋を渡らず水俣川沿いに進み、四十メートルほど
行くと薩摩街道の道標があるから、昔はこの辺りに出てきたのだろ
うか。この堤は桜並木である。
水俣の名の由来は、新水俣橋より約四百メートル上流で水俣川と
湯出川が合流しているが、江戸時代の湯出川は合流点で水俣川に接
し て 再 び 別 流 し て 西 へ 向 か い 、川 が X 字 形 に 流 れ て い た た め で あ る 。
〇
水俣川に右から湯出川が合流してきて、その角に浄水場がある先
の脇道が旧道だが、昔はここを飛び石伝いに徒渡りしたという。今
こ こ で は 対 岸 に 渡 れ な い の で 、前 方 の 鶴 田 橋 を 渡 っ て 浄 水 場 に 戻 る 。
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地
墓
軍
官
内
陣
の
で
争
戦
南
西
所
役
市
俣
水
と
館
念
記
峰
蘇
- 188 -
浄水場の脇の細道に入ると、畦道に薩摩街道の木標⑥が生きてい
る が 、そ の 先 の 道 は 鉄 道 で は ば ま れ る 。そ こ で グ ル ッ と 回 り 込 む と 、
先ほどの旧道は水俣高校のグランドと原精機産業で消えている。
対岸の旧道は湯出川の堰がある所で、すぐ四つ辻に出るが、ここ
にも薩摩街道の木標⑦が生きている。ここから急坂に入るが、これ
は石畳をコンクリートで固めたような感じである。
上りきると広い車が通る道に出て左へ曲がる。七十メートルほど
先で右へ曲がると木標があり、すぐ左側に白いガードレールに出る
寸前にも木標がある。これは新しい広い舗装道路で車も多い。
すぐ左側に白い鉄棒の手すりがついた細道が旧道らしく、上ると
広い道との合流点に木標が生きている。その五十メートルほど先右
上に地蔵堂がある。更に五十メートルほど先で左斜めに上るのが旧
道だろう。途中の左側に公徳碑⑧を見て、先ほどの広い道に合流す
るが、歩く人がいるためかクモの巣がない。
公徳碑とは、高山彦九郎が寛政四年︵一七九二︶に水俣を訪れ陣
の坂の途中まで上ったとき、大きな岩の上に小さな石を積んでいる
- 189 -
のを見て由来を尋ねると、道端のころび石を通る人が拾って乗せて
いくので、女子供たちが無事に通ることができるという話を聞いて
感激した。この話を保存するため徳富蘇峰にお願いして、昭和三十
五年に公徳碑を立てた。
〇
はぜ
ここには枦集荷場があるから、今もハゼが取引されているという
ことだろう。この辺り東西南北数キロに及ぶ山地一帯に、江戸時代
はロウを取るためハゼの木が植えていたが、最近はこのような天然
ロウがパソコンなどのプリンターに活用されているという。
そこを過ぎると、その先は下りになり、木標が立っている。やが
て二股になり、左に侍バス停があって右へ進む。急坂のすぐ途中に
侍街道はぜのき館⑨がある。坂口川を前平橋で渡ると、その先の木
標は死んでいるが直進する。
山の向こうに海が見えるが、オレンジ鉄道は海に近い所にあるか
ら、旧道とは山をはさんでいる。この辺りは柑橘畑が多い。右側の
道標は新しく、道標の八十メートルほど先に大きな薩摩街道の石碑
- 190 -
碑
徳
公
碑
石
な
き
大
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などがある。その先の四つ辻にも木碑が新しい。
その先は両側に民家が並んでいるが、左側は団地のようである。
次の四つ辻から細い下り道で木標が生きている。その百五十メート
ルほど先にも木標があり、その先にも木標があって歩道橋で鉄道を
渡る。左からくる道との合流点にも木碑があり、更に下る。
右側の公園の脇にも木碑があり、更に下る。小川を渡った所にも
木標があり、少し平坦になり、その百メートルほど先にも木標があ
って、国道三号線に合流するが、ここにも木標がある。
資料ではすぐ﹁国道に合流して、また国道の東に入り国道に並行
して南へ進む﹂とあるが、その道は気づかなかった。右手には袋小
学校と袋中学校が見える。
袋川を渡る辺りの旧道も現道とは違うはずで、警察の脇の細道か
ら入るか、次の民家の間を入るか、いずれも私有地のような細道だ
が、これで袋天満宮に達したのだろう。袋天満宮⑩を見ながら下り
きると木標があり、一度国道に合流する。
南袋バス停の先で右斜めに下る。畑の中を進むと民家が並び始め
- 192 -
るが、三ツ股があって川を渡らない左の道へ進む。下草道でビニー
ルハウスの横を通ると薩摩街道の木標⑪がある。クモの巣を払いな
がら進むと、徐々に草がひどくなり、ついに進むことを断念する。
そこで国道に戻って進むと鉄道の高架橋がクロスする所に薩摩街
道の木標があり、ここから逆に入ると途中までは問題ないが、やは
りその先は草がひどくなる。
ここの高架橋をくぐって国道を進むと、左側に斜めに入る道があ
り、これが多分旧道だと思われる。二十数年前の資料でも、百メー
トル先は分からないとあるが、今も同じ状態である。
袋駅前バス停を過ぎて交差点に達するが、ここを右へ曲がればオ
レンジ鉄道袋駅である。ただしこの交差点に左から合流してくる道
があり、これはすぐ二股で左へ進むと、民家が切れた先が下草道で
消えているが、これが先ほど旧道と推測された出口だろう。
旧道の出口と想像される道は交差点で斜めに横切り、民家と民家
の間に細道が続いていて、車が通る道に出る所に薩摩街道の木標⑫
が あ る 。そ の 四 十 メ ー ト ル ほ ど 先 の 左 斜 め に 入 る 道 に も 木 標 が あ り 、
- 193 -
進む途中に分譲中とあるから歩けるようになっている。
神の川配水池の脇にも木標があり、急な下りで国道に出る寸前に
も薩摩街道の木標が生きている。その六ー七十メートル先の鉄道を
くぐる手前で、国道を横切ると薩摩街道の木標が生きていて乙女塚
の標識もある。
そこから五十メートルほど先に乙女塚は左とあるが、百メートル
以上は上る必要がありそうだ。その先の線路際の真っ暗な細道が旧
道で木標が立っていて、下ると前方が突然明るく開ける。
その七ー八十メートル先に県境の境橋⑬があり、この太鼓橋は明
治十六年︵一八八三︶国道開通に際してかけられた。ここの境川は
小さな谷川で、昔からこの川をめぐって幾多の抗争が繰り返され、
き ず し
この先の地名に切通とあるのも﹁切るか、通るか﹂に由来するそう
である。
〇
ここの二股は右へ鉄道沿いに暗い細道を進むが、今回は一度もク
モの巣がないのは人が通っているためだろう。自動車が走る道を横
- 194 -
口
出
道
旧
に
所
る
す
差
交
が
道
鉄
と
道
国
橋
鏡
眼
は
橋
境
の
境
県
- 195 -
断する所にも新しい道標があり、直進でなく鉄道をくぐって鉄道沿
いに進むように地元の人から教えられる。
また新しい道標があり、道は左へカーブしているが、道標通りに
直進して柑橘畑の端を歩くと突き当たる。この新しい道標は熊本へ
向かう人のために立てられているのなら、分かるような気がする。
この先の旧道について地元の人に訊くと、この先の旧道は消えて
いて、切通小学校辺りに少し残っているという。従って、ここから
は国道三号線を歩かざるを得ない。
それでも左へ入る道がないか、道標がないか、気を付けて歩いて
い る と 、切 通 小 学 校 の 先 の 金 比 羅 宮 ⑭ の 前 に 薩 摩 街 道 の 木 標 が あ る 。
この脇から切通小学校まで細道があり、小学校のグランドで行き止
まりで、反対側も行き止まりだから、これは旧道の遺構だろう。
そこで国道に出て進み、前田バス停を過ぎて、前田交差点を越え
ると右側に御前水がある。御前水︵殿水︶⑮は昔からの湧き水で、
旅人たちがのどを潤したと伝えられているが、昔の出水筋近くの湧
き水も国道工事によって今の姿になった。
- 196 -
更に念のため国道をそのまま進んで、オレンジ鉄道の向こう側に
道がないか注意しながら歩くが、そういう道筋が見つからない。そ
こで前田交差点に戻って、オレンジロードでオレンジ鉄道の向こう
側の道に出る。
〇
国道とオレンジ鉄道の上を渡ると、すぐ二股は右の道を進むが、
また二つの道は合流する。東櫓木バス停を過ぎる前後も、鉄道との
間は断続的な農道しかないから、このオレンジロードが旧道に近い
のだろう。
櫓木川を櫓木橋で渡ると櫓木公民館があり、すぐ櫓木バス停があ
る。この辺りはミカンの生産と無人販売店が多くて、しかも値段が
安いのに驚く。針原公民館バス停を過ぎると、右側の一段高い所に
申野神社⑯がある。この道は高台にあるため、右手にしばしば素晴
らしい海景色を目にする。
関外バス停の先に野間の関跡は右とあるので右へ曲がる。百メー
トル強も行くと左側に有村雄助首実検の地⑰とある。更に進むと野
- 197 -
間の関跡バス停があり、左側に野間之関所跡⑱がある。
有村雄助兄弟は万延元年︵一八六〇︶水戸藩の志士と共に桜田門
の変に加わり、井伊大老を襲撃した弟治左衛門は深手を負い自刃し
た。兄雄助は連絡役として成功を京都の志士に伝える途中で捕らえ
られ、鹿児島へ護送され切腹を命じられ、野間の関外で首は幕府役
人に引き渡された。
野間之関所を薩摩藩と肥後藩の国境の要地に関ヶ原戦の前後に設
けたのは、西軍についた島津氏が東軍の加藤氏の侵攻に備えたとも
いわれ、島津藩から派遣された出水の地頭は代々国境の警備が重要
な任務であった。また藩政時代の領外への主要陸路は出水・大口・
高岡の三筋で、中でも出水筋が最重要視された。
〇
こ め の つ
こ の 辺 り 右 手 の 海 の 方 向 へ 進 む と 、オ レ ン ジ 鉄 道 米 ノ 津 駅 が あ る 。
野間の関跡のすぐ先の四つ辻を越えれば、左側に文政十一年︵一
八二八︶の馬頭観世音⑲がある。この道は旧道でも近道と呼ばれる
出水の武家屋敷を通らない道で、今回ここに取り上げるのは四つ辻
- 198 -
地
の
検
実
首
助
雄
村
有
跡
関
の
間
野
- 199 -
で左へ曲がる本道と呼ばれる道である。
四つ辻を左へ曲がり、二百メートルほど先の四つ辻で右へ曲がる
が、この道は車が多い。加紫久利住宅前バス停を過ぎ、加紫久利公
園前バス停があり、加紫久利神社⑳の前に出る。この神社の創建は
仁寿元年︵八五一︶とも貞観二年︵八六〇︶ともいわれる。
神社の前で右へ曲がると、神社前バス停がある広い道に出て左へ
曲がり、最初の辻を右へ曲がってオレンジ鉄道の踏切を渡る。ただ
し右折せず直進すれば左側に伝寺坂吉衛門の墓入口がある。
踏切を渡り高柳川を渡ると田んぼの中の道で、そのまま進むと左
手に新幹線とオレンジ鉄道が見える。点滅信号がある車が多い道を
横断すると、国道に近づいて民家が並び始める。
途中の左側に稲荷神社と石仏があり、右手に出水市役所がある辺
りの旧道は、左側の出水アルコールの工場に少し食い込んでいたよ
うである。
その先は少し右へカーブして、JR出水駅より国道に近い所に出
て 右 へ 曲 が り 、出 水 駅 入 口 交 差 点 で 左 へ 曲 が っ て 国 道 三 号 線 を 進 む 。
- 200 -
- 201 -
出水から阿久根へ
国道三号線を進み、米ノ津川を広瀬橋で渡ると、閑散とした商店
街に入る。諏訪神社入口交差点は左側に諏訪坂があり、ここから奥
へ進めば諏訪神社がある。その先の西照寺を見て、次は日本一の地
蔵堂①とあるが、台座を含めて四・二メートルは確かに大きい。
次の本町交差点で右へ曲がるのが旧道だが、この左側には鬼坂と
いう石柱があり、この坂を上った奧に武家屋敷群②が残っている。
江戸時代の薩摩藩は鶴丸城を本城とし、領内各地に百十三の外城
を築き領内全体で防御を固めるという、全国でも例を見ない体制を
整えていた。外城とは人をもって城となす武士の集落で、肥後との
国境に当たる出水外城は最も古く薩摩藩最大のもので、仮屋跡︵現
出水小学校︶を中心にして約百五十戸の武士が居住していた。現在
は重要伝統建造物群保存地区になっている武家屋敷群である。
〇
平良川を平良橋で渡ると右側に大きなホテルが三軒並んでいて、
- 202 -
向江町交差点の右角に蛭子神社建設記念碑が立っている。平良町バ
ス停を過ぎると、片側だけ並木が続いている。
向江町バス停の先に個人のものか小さな社があり、その百メート
ルほど先で国道三二八号線と交差する、その左角に宮下産婦人科病
院がある。石坂交差点を過ぎると両側は並木である。
左側にしもぞのクリニックがある所は、左角に祠と秋葉神社③や
記念碑があり、右側に廟がある。この辺りは右手に老人保健施設が
あり、病院が多いようである。
西出水バス停を過ぎ、花立交差点で右へ行けば出水工業高校で、
その五十メートルほど先左側に、白い塀がきれいな出水高校④があ
る。この校門の前に数本の松が植えられているのは、昔の松並木の
名残にするために植えたのだろうか。
出水高校の敷地が切れた所に西出水駅入口交差点があり、ここを
右へ三百メートルほど行けばオレンジ鉄道西出水駅である。
花立西バス停を過ぎ、西出水町交差点の辺りから植木屋が多くな
る。上大野原バス停の先右側に仁王の石像が立つ家は、寺名はない
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敷
屋
所
税
の
中
の
群
敷
屋
家
武
麓
水
出
木
並
松
と
校
高
水
出
- 204 -
が寺らしい。その隣に三百塚⑤がある。
ただとき
三百塚とは、文禄二年︵一五九三︶薩州島津家七代忠辰の遺骨を
守って朝鮮出兵より帰郷した出水の将士たちは、既に天領となった
出水五万石を目のあたりにして愕然とした。戦争時の不首尾のため
秀吉の怒りをかい、領地没収となった出水の地には、彼らの帰る場
所はなく、主君の遺骨を丁寧に葬った後、その近くで切腹して殉死
したが、多数の殉死者だったために三百塚という。
〇
太 鼓 橋 バ ス 停 を 過 ぎ て も 、相 変 わ ら ず 真 っ 直 ぐ な 道 が 続 い て い る 。
上り立バス停と上り立交差点を過ぎると、ここから下りで高尾野川
を矢房橋で渡る。工業団地入口交差点の次のT字路交差点で、右へ
行けばもみじ温泉⑥で、左側に高尾野医療センターがある。
坂を上ると左側に霧島神社⑦と隣に宝樹寺がある。上ノ原バス停
の先には千鶴を銘柄を持つ神酒造⑧がある。右側に墓地があり、左
側に大和旅館があって、支所前バス停の先から商店街になり、右側
に出水高尾野支所がある。
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高尾野駅前交差点を右へ行けばオレンジ鉄道高尾野駅で、高尾野
駅前バス停や高尾野中前交差点を過ぎる。大和町バス停の先に高尾
野郵便局があり、高尾野小前交差点がある。
並木団地前バス停を過ぎた石坂交差点の辺りは、昔にぎわってい
た と い う 。石 坂 バ ス 停 か ら 二 百 メ ー ト ル ほ ど 先 で 右 へ カ ー ブ す る と 、
左からくる道と合流してきて、すぐ先で左斜めに国道と分かれるの
が旧道である。薩摩街道・出水筋の標識⑨は新しい形だが、国道の
方からしか見えず、その国道の先は野田橋バス停が目印である。
新しい形の標識の裏を通る旧道は橋を渡り、更に川幅の広い野田
川を渡って、前方のエネオスのGSまで真っ直ぐな道だったが、農
地改良工事で消えてしまったと地元の古老は言う。そこで国道五〇
四号線を進むと、旧道の出口の道がエネオスのGSの前に合流して
くるが、ここには薩摩街道・出水筋の標識⑩が立っている。
左側の祐信寺⑪は割合に新しいようで、その先の八坂神社は建立
年代が不明だという。野田郷駅前バス停の先に野田郷駅前交差点が
あり、ここを右へ曲がればオレンジ鉄道野田郷駅である。
- 206 -
野田郷駅前交差点を左へ曲がると、野田医療センター前バス停が
あり、左側に野田小学校がある。この先は両側に石積の民家︵表紙
写真︶が整然と並んでいて、その光景は素晴らしいものだが、この
美しさは個人的に造ったものではないだろう。調べてみると、先ほ
どの野田郷駅前交差点から、この先の菅原神社までの約千メートル
く ま じ ん ば ば
の 道 路 は 熊 陣 馬 場 と い っ て 、郷 士 た ち の 武 芸 や 乗 馬 の 練 習 場 だ っ た 。
その途中の左側に薩摩街道の標識と庚申碑⑫があり、更に進むと
右側に大日の庚申碑と大日の仁王様⑬があるが、この大日とはこの
辺りの地名である。
庚申とは、暦の上で六十日及び六十年に一巡する庚申の日及び年
さ ん し
をいうが、その庚申の夜は人間の体の中にいる三尸の虫が体から外
へ出て、その人の罪を天帝に告げて命を奪うという道鏡の説から、
その夜は眠らず語り明かして三尸の虫が外へ出ないようにした。平
安時代には貴族社会で行われたが、その後一般的に行われるように
なり、江戸時代には各所で庚申信仰が盛んであった。
大日の仁王様は永林寺にあったもので、廃寺後ここに安置された
- 207 -
といわれる。この仁王像は宝暦二年︵一七五二︶の建立である。
〇
前方の赤い鳥居は菅原神社⑭で、ここの二股は右へ進むが、幅五
メートルほどの道には人も車も少ない。また車が多い道に出て右へ
曲がる。
野首バス停の前を通るが、旧道はこれより少し北側にあったらし
い。だから下りきった所に標識が立っていて、矢印は新道より北側
の山の方を指している。
大丸バス停があり、折口川を折口橋で渡ってからは上りで、高架
橋をくぐると下りに入る。小川内川を小川内橋で渡ると、また上り
になって、阿久根市に入る所にも標識があり、右へ曲がる。
上りから長い下りになる。下りきる辺りから民家が並び始める。
おおやまつみ
その右側に大山 衹
神社⑮があり、島津但馬守墓と庚申塚がある。こ
の角にはコンビニのような雑貨屋があり、パンを買って食べる。
あかはげはし
この先の旧道は赤剥橋の手前で右へ曲がったというが、今は民家
の中に入ってしまう。そこで内田川を赤剥橋で渡って、すぐ二股は
- 208 -
様
王
仁
の
日
大
に
中
途
の
並
家
の
積
石
社
神
原
菅
の
り
た
当
き
突
- 209 -
右へ曲がる。更に二股は右へ曲がる。
右側に御堂があり、左側に下桑原城公民館がある所が桑原城跡⑯
である。桑原城跡は鎌倉時代初期、島津氏初代忠久が高尾野の木牟
礼城に拠城した頃、阿久根の豪族に備えた山城の跡という。周囲は
天然の深い湿地帯に囲まれた天然要害の地であった。江戸時代には
阿久根の有力な一支城であった。
〇
ここから左へ曲がり、桑原城橋記念碑が立つ橋を渡り、二股は左
の道を進むが、すぐ先ほど分かれた道と合流する。上りきると、ぼ
くしん舎という農場とたまゆうという温泉がある。更に進むと四つ
辻の左角に御堂があり、その百五十メートルほど先の右上に神社が
ある。
四つ辻を直進すると、先ほどから見えていたコスモスのGS⑰の
前を通って、林道のような道を進む。左側が開けて二股になるが、
左折せずに少し右へカーブするように西へ進む。
間もなく右側に畑のような総合運動公園⑱があり、それが切れる
- 210 -
と左側に鶴翔高校⑲の大きな敷地が現れるが、これは高校の農業実
習場だろうか。そこから上って下ると、国道三号線を鶴翔高校入口
交差点で横断する。
資料によれば、国道三号線の鶴翔高校入口交差点から赤瀬川交差
点 を 経 て 寺 山 入 口 交 差 点 ま で 、国 道 北 側 の 百 メ ー ト ル ぐ ら い の 中 に 、
並行した旧道があったような地図になっている。
しかし、そのような道は見当たらず、僅かに寺山入口交差点にあ
るマリンボールの裏を通る道は、新しい団地のために造られたと思
われる新道から、ステンレスの手すりが付いた階段だけである。
寺山入口交差点の八十メートルほど北側に、車道から斜めに下る
道がある。これはオレンジ鉄道を寺山踏切で渡り、小川を渡って阿
久根市民病院⑳の前を通る道で、資料の道筋とそっくりである。
ここは右手に海が広がり、左手に国道三号線とオレンジ鉄道が見
える。四つ辻の左側の国道沿いにGSがあり、次の交差点で左手を
見ると、国道の向こうにオレンジ鉄道阿久根駅が見えて、右手に海
が迫っている。
- 211 -
- 212 -
阿久根から西方へ
左手の国道三号線とオレンジ鉄道に並行して進むと、次の交差点
を越えて間もなく突き当たりそうになる。そこまで行く手前の四つ
辻で左手を覗くと、外灯が並ぶ立派な商店街が見える。
ここを左へ曲がり、NTT前交差点を渡ると商店街である。前方
の国道三号線との本町交差点まで行く手前、鹿児島銀行①がある場
所に昔は大きな商館があったという。
その先は本町交差点で右へ曲がり、高松川を高松橋で渡るが、昔
は高松橋より少し下流で渡河したのではないだろうか。
高松橋を渡ると右側に阿久根商工会議所があり、この辺りから国
道の右側の百メートル以内に、旧道は並行していたようだが、この
辺りも戦災で焼失して変わってしまったようである。
〇
今は国道を進み、次の大丸交差点で左手を見れば四十メートルほ
ど先に鉄道が見えるが、ここを右へ曲がると次の辻に旧道らしい道
- 213 -
が続いている。鶴見川を鶴見三号橋で渡り、その先も本来の旧道な
ら 直 進 し た は ず だ が 、道 が な く 突 き 当 た る た め 国 道 三 号 線 に 出 る と 、
そこは中学校入口交差点である。
潟交差点の辺りで左側の鉄道を渡るのは、大橋踏切ぐらいしかな
く、この道は資料のようにすぐ戻ってくるような道でない。従って
消えたものと判断する。
次はまた右へ入る道だが、番所丘公園交差点で右へ行くと、二百
メートルほど先に左へ曲がる道があり、これは少し国道から離れす
ぎているようだが旧道かも知れない。あくね保育園と自動車教習所
②を左側にして、二股で左へカーブすると国道と佐潟口交差点で合
流する。
本来の旧道はその先でも国道の右側にあったようで、佐潟へ向か
う道の途中から国道沿いの道を探ってみたが、そういう道は見つか
らない。従って国道を進むことにするが、その先で右からくる道は
国道沿いに進むものでないから違うだろう。
香舎踏切③からは国道三号線と鉄道の左側が旧道らしく、この踏
- 214 -
切でオレンジ鉄道を渡って並行して進み、その先で鉄道を越えると
高ノ口交差点に出る。
国道を渡って百メートルほど先に細道があり、高之口自治会館の
脇に出る。その先は海だから左へ曲がって国道に出るが、本来の旧
道は国道の右側に続いていたように地図では見える。
この辺りはラーメン屋やうどん屋があり、門司から三一四㎞とあ
る。右側に西目小学校④と西目郵便局と西目バス停があり、国道の
左右に旧道らしいものは見当たらない。
次の田代へ向かうT字路の交差点の前後で、左へカーブする道は
旧道の名残だろうか。次の大川島交差点は車のパーキングエリアの
左端が旧道だろうかなどと想像する。
右手に光臨寺があり、その先の牟田平踏切⑤を渡って、国道と鉄
道の左側を歩くと、間もなく右側にオレンジ鉄道牛ノ浜駅がある。
このホームの陸橋で国道に出ると、雄大な海が広がっている。
〇
や ひ さ
その先へ進み、オレンジ鉄道を矢久踏切⑥で渡り、国道三号線よ
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街
店
商
の
で
ま
点
差
交
町
本
の
根
久
阿
色
景
海
た
見
ら
か
駅
浜
ノ
牛
- 216 -
り海側に道はないから国道を歩く。ここには道の駅阿久根まで三㎞
と出ている。
長 迫 入 口 バ ス 停 が あ り 、長 迫 入 口 交 差 点 か ら 国 道 は 右 へ 川 を 渡 り 、
旧道は左へ川を渡らず鉄道沿いに進む。所々に空き地や畑地はある
が、民家が並んでいる。
右側に長迫公民館の白い標識⑦が立っている。この辺りは右側の
川向こうが山で、左側の民家の裏は鉄道の向こうに山があり、ちょ
うど両側の山すそを通る道である。右からくる道とのT字路を過ぎ
ると民家が切れ、その先で鉄道は左のトンネルに入っていき、旧道
は右へカーブする。するとまた民家が現れ始める。
少し上りながら高架橋をくぐるが、また民家がなくなる。変則四
差路は右へ進むと、左下に民家が見える。左手に墓地を見ながら右
へカーブする。下り始めると民家が現れる。右から続けて二本の道
が合流してくるが無視をして、左へ右へカーブして更に下る。また
右からくる道が合流してくるが、右へカーブして下る。
前方が開けて山の間に海が見えるが、まだ下る。前方に見える建
- 217 -
物は学校で、海の左手の山に鉄道のトンネルが見える。
坂を下りきると二股になり、右へ行くと大川小学校⑧・大川中学
校の間を通って、広い道に突き当たる。ここで間違いに気づいたの
は、前方に海があり、左側に鉄道のトンネルが見えて、しかも薩摩
大川駅は左後方だからである。
旧道は薩摩大川駅の手前を横切るはずだから、先ほど下りきった
二股から、右の小中学校の方でなく左へ行くことにする。すると川
に突き当たり、大川駅は右手前方である。
ここで渡河したのか否かは分からないが、今は川を渡って鉄道を
寺下踏切で渡り、大昭寺⑨の門前に出る。そこから鉄道沿いに進む
と二股になり、旧道は左の道を上るが、右へ進めばすぐオレンジ鉄
道薩摩大川駅である。
〇
旧道を上りきると右側に松岡神社⑩があり、ここには雪渓の墓が
あるが、神社そのものは鉄道のトンネルの上にあるらしい。松岡神
社には、弘治三年︵一五五七︶島津義虎と東郷重治の軍が深迫と尻
- 218 -
無の間で戦ったとき、義虎軍で戦死した雪渓和尚のほか七名が合祀
されている。
下りに入ると前方が開け、右手に海が見えて、海の手前に国道と
鉄道がある。右側に竹之迫公民館があって、大きく右へカーブし、
下りきって尻無川を竹之迫橋で渡る。ここからまた上りである。
この辺りも民家が点在していて、上りきると右手が開けて海景色
が素晴らしい。下り始めると右からくる道と合流するが、その右上
に見える二つの小さなコンクリートの建物は廟だろうか。
下り坂の両側に家が並んでいる。やがて二股になり、右は国道三
号線と掲示してあり、左は上りで右は下りだが、どちらへ行くべき
か迷った末、両方とも歩くことにする。
右の道は鈴木段踏切⑪で鉄道を渡って国道に出るが、この先の国
道は切り通しになっているから旧道でない。左の道は少し上ってか
ら二股を下り、鈴子踏切⑫で鉄道を渡って国道に出る。従って後者
が旧道だろう。
この先も国道三号線より少し左側だったようだが、今は国道を進
- 219 -
み、鉄道をくぐって国道は左へカーブして、旧道は鉄道の右側を直
進する。
その先の深迫二号踏切⑬でオレンジ鉄道を渡って、旧道は鉄道の
左側に移り、次に鉄道を越えて右へ曲がるが、鉄道沿いに直進すれ
ば国道に合流してオレンジ鉄道西方駅に達する。
〇
旧道の右手から波の砕ける音が聞こえてきて、雑草や木々の間か
ら海景色が見える。前方には雄大な海が広がり、右手は断崖絶壁の
絶景である。この見晴らしが抜群に良いことから、昔は異国船の通
航を監視する遠見の番所⑭が設置されたのだろう。
墓地の中を通ると下りになり、国道の方へ向かうが、その左側に
民家のような西方寺がある。西方橋を渡る所で左手を見ると、百メ
ートルほど先にはオレンジ鉄道西方駅が見えて、右手には海が見え
る。その先に潮見寺⑮がある。
阿久根から西方までは少し距離が短いが、これは次の西方から上
川内まで鉄道の最寄り駅がないためである。
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落
集
迫
之
竹
る
れ
流
が
川
無
尻
色
景
海
た
見
ら
か
台
高
の
宿
方
西
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旧道を探す︵閑話︶
君ヶ渕で国道を歩いていると、君ヶ淵駐車場バス停辺りから左の
山が削られているのは、国道を造るため切り通しにしたのだろう。
ということはゴルフセンター辺りから川向こう辺りに旧道があった
のだろう。日奈久ゴルフセンターの入口まで戻るが、二見川辺りに
旧道は見つからない。
国道を進むと、二見下大野町交差点の左角にエネオスのGSがあ
るから、この辺りの旧道について訊くため立ち寄ると、ちょうど来
店していた顧客が詳しく教えてくれる。
ここにあった君ヶ淵の旧道もなくなり、眼鏡橋も崩れてなくなっ
たことや、この先の二見中という掲示がある所から右へ行くと川の
手前に旧道があることや、その先の赤松地区で旧道は国道に合流す
ること、などが分かる。
〇
須田眼鏡橋を渡る所に農作業をしている男性がいた。この道が旧
- 222 -
道だが行き止まりだと教えてくれる。ただ、やはり自分の目で確認
したいので先へ進んでみるが、間もなく消えていることを知る。
それを確認して戻ってくると、先ほどの男性と嫁さんか母親かは
分からない女性が待っていてくれて教えてくれる。
﹁ここから旧国道へ戻るのは大回りで大変ですよ。この右上に見え
る 白 い ガ ー ド レ ー ル が 旧 国 道 だ か ら 、こ こ か ら 上 っ た ら ど う で す か ﹂
指さす崖上の白いガードレールまで十数メートルは、大げさに言
えば見上げるような急斜面で腰が引ける。
ただ確かに旧道まで戻るのは大変な大回りだし、そこまで女性に
けしかけられて尻込みもできない。そこで手に持ったものを全て服
のポケットに入れて、足場と手に捕まるものを求めて這い上がる。
白いガードレールを越えて、下から見ていた先ほどの人たちに手を
振って別れる。
これは赤松太郎峠越えの話しだが、佐敷太郎峠と津奈木太郎峠と
の三つの太郎峠では、地元の人から聞いた話が参考になる。これ以
外にも熊本県には小さな岩鼻峠や歌坂峠などがあり、ここでも地元
- 223 -
の人から話を聞いた。
〇
阿久根の旧道は本文に記載した通りだが、資料ではNTT前交差
点から本町交差点までの旧道は、もう一本南側の道のようにも感じ
られる。
そこで地元の何人かの古老に訊いたが、会話がかみ合わない。そ
して意外にも国道三号線が旧薩摩街道だという高齢者が何人かいた。
しかし色々な人たちと会話しているうちに分かってきたのは、こ
の辺りが戦災で焼失して道筋がハッキリしなくなっているというこ
とである。
終戦後もう六十年以上経つから、男性でもそれ以前のことを覚え
ているのは稀で、ましては女性で六十年前に嫁入りした人は相当な
年になっているはずである。しかも家並みが残っているのならまだ
しも、家並みが焼失してしまうと、大人でも道筋が記憶に残ってい
るのは稀だろう。
- 224 -
- 225 -
西方から川内へ
西方の道には旧道らしさがあり、左側に潮見寺とすぐ先に西方御
仮屋①がある。御仮屋とは参勤交代のとき藩主以下随行の人たちが
宿泊した場所で、川内地区には西方町と向田町にあった。西方御仮
屋は慶長七年︵一六〇二︶に当時の藩主島津家久により設置され、
現在の潮見寺を含む一帯にあった。この北西約二百メートルには、
異国船の通航を監視する遠見番所が設置された。
二百メートルほど先は国道との西方小前交差点で、ここには薩摩
街道の道標がある。ここから国道を歩くと西方バス停があり、左斜
めに行く県道三三九号線に川内高城温泉まで四㎞の掲示がある。
国道には鹿児島まで六十六㎞とあるが、この辺り右側は海水浴場
で人形岩がある。国道を進むと門司から三二四㎞とあり、人形岩バ
ス停で左へ曲がってオレンジ鉄道をくぐる。
ここは白滝地区で、祠がある所の二股は川を渡らず右へ進むと民
家が点在している。次の二股は左が旧道だが、一軒の民家の先で進
- 226 -
めなくなる。尚、この二股の右の道は山に上る途中に石の太鼓橋な
どがあり、頂上には松下先生の墓が立派である。
〇
旧道は消えているため、先ほど国道から分かれた県道三三九号線
を歩かざるを得ない。県道を上りながら右から合流してくる道に目
を光らせていると、これではないかと思う下草道が現れる。
更に陰陽石は右という掲示の先の県道は切り通しだから、右斜め
に上る白い鉄柵の細道が旧道だろう。ただし、この時期は草が多く
て歩く気になれず、下り口まで来て歩かなくて良かったと思う。
そのすぐ先に薩摩街道の道標②があり、右へ斜めに下る石段が旧
道である。今は通学路にもなっているというこの道は、緑の中の下
り坂で素晴らしい。広い道に突き当たると薩摩街道の道標があり、
左手を見ると諏訪神社③があって、ここから右へ進む。
百 メ ー ト ル ほ ど 先 の 二 股 に﹁ 湯 田 町 伊 勢 美 山 に よ う こ そ ﹂と あ る 。
左の道は薩摩街道で上湯田橋があると出ているから左へ進む。する
とすぐ先で上湯田橋を渡り、右側に橋梁架設記念碑がある。
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道
旧
の
宿
方
西
る
あ
が
寺
見
潮
に
側
右
道
旧
の
坂
り
下
う
行
へ
町
田
湯
- 228 -
右側に湯田小学校と幼稚園が同じ敷地にあり、左側に高城石塔群
④と道標がある。高城石塔群は、この付近に野積みされていたもの
を昭和五十二年に復元された。この地は鎌倉時代初中期には湯田氏
が居住し、鎌倉時代後期から室町時代には高城氏・白浜氏並びに島
津氏の家臣などが居城していたから、これらに関するものだろう。
石塔群と道をはさんで川内宮司簡易郵便局がある。すぐ右側の湯
田中学校⑤には菅原神社跡とある。菅原神社は、今から六百四十年
ほど前に城主高城氏が創建したが、明治十四年︵一八八一︶に他の
神社と共に諏訪神社に合祀された。
この先の旧道はハッキリしないため、湯田中学校の敷地が切れた
所に川があり、左へ曲がって川沿いのコンクリートの土手を歩く。
この土手道から左手を見ると田んぼの向こうに新道が並行している。
やがて土手道から新道に合流する。そこからの上りは急で何度も
立ち止まるが、上りきって二股は左へ進む。更に二股は右角に薩摩
街道の道標⑥があり、右の砂利道や下草道へ進む。六ー七十メート
ル先の二股に道標があり、左へ向かう。
- 229 -
クモの巣を払いながら歩くが、充分に歩けるようになっている。
民家の脇に出てきて、ここが一条殿地区であることを確認する。
左から車が走る道が合流してきて進むと、その先右側に一条神社
⑦と馬頭観音があり、向かい側に薩摩街道の道標がある。一条神社
は、一條天皇の長保︵九九九ー一〇〇三︶の頃、新田宮の夏越祭へ
院使を差遣されたが、院使は役を終えて帰京する途中で亡くなった
ため、村人はその霊を祀って一條妙見と称したと伝えられる。
〇
一条神社の前で左へ曲がり、すぐ橋を渡って右へ曲がり、県道三
四〇号線を進む。高野バス停を過ぎて、県道が左へカーブする手前
に薩摩街道の道標⑧があり、左へ曲がって県道と分かれる。
四牧広場は高城青年学校跡とあり、そのまま道なりに進むと左側
のブロック塀にも薩摩街道の道標があって、右手に見える県道と並
行して進む。左側に一条公墓地入口、右側に浄水場があり、右手の
県道に竣工記念碑を見て県道に合流するが、合流点にも薩摩街道の
道標⑨があり、そのすぐ先に並松バス停がある。
- 230 -
左へカーブすると、すぐ左に招魂碑と薩摩街道について掲示して
ようせいちょう
ある。陽 成 町は薩摩街道がほぼ縦断する形で通っていて、この先の
陽成小学校⑩が藩主の休憩された御茶屋跡である。この付近は松並
木が見事であったため、今でも並松の地名が残っている。
右側に陽成郵便局と斜め向かいに高城商工会がある。更に百メー
トルも行くと、左側の陽成小学校は創業百二十八年とあり、向かい
側に体育館がある。左側のコミュニティーセンターは高城町役場跡
で、宮小平バス停の先百メートルほどで民家がなくなる。
広い道同士が交差して旧道は南下する。鎌倉期のものといわれる
中麦石塔群の掲示と、その裏に薩摩街道跡の標柱があり、跡とつく
標 識 は 初 め て で 、し か も 道 が ハ ッ キ リ し な い か ら 遺 構 か も 知 れ な い 。
寺前バス停に妙徳寺⑪があり、樋ノ口バス停までくるが、ここま
で左に入る道はない。右側にヒキレ神社⑫の掲示があり、子供が百
日咳にかかったとき、子供の歳の数だけ火吹き竹を作って、持って
行って拝むと治ると言われている。
鞘脇バス停に薩摩街道の案内とイボ神様の掲示があり、人に知ら
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社
神
条
一
寺
徳
妙
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れないように夜か朝暗いうちに﹁私のイボを取ってくれたら歳の数
だけ豆を煎ってあげます﹂と言って拝むと治るという伝承がある。
下草道を進むと、イボの神様から百メートルほど先で左へカーブ
するが、ここにも道標がある。車が通る道に出てくると、ここにも
薩摩街道の道標があり、矢印が次の下草道へ向いている。
次の下草道を進むと、車が通る道に出てきて植囿産業という会社
の脇を通り、また二股で左の下草道へ進む。百メートルほどで西郷
ど ん の 腰 掛 石 が あ り 、そ の 百 メ ー ト ル ほ ど 先 に 耳 切 坂 の 標 識 が あ る 。
X字型四つ辻にも道標があり、直進すると舗装道路の広い上りに
なる。下り始めると梶蔵跡の掲示があるが、これは江戸時代の薩摩
こうぞ
藩は紙の原料となる 楮 を畑の土手に植えることを奨励し、楮の皮を
納めることで税の代わりとした。乾燥した楮の皮を入れる蔵がこの
かじ
辺 り に あ っ て 、楮 の こ と を 方 言 で 梶 と い う こ と か ら 梶 蔵 と 呼 ば れ た 。
ちょうずばち
県道に出る百メートルほど手前に西郷どんの手水鉢⑬がある。こ
れは弘化三年︵一八四六︶岩永三五郎の設計で石造の美しい眼鏡橋
の妹背橋をかけるとき、この工事に座書役として従事したのが十八
- 233 -
才 の 西 郷 隆 盛 で 、竣 工 ま で の 三 年 間 こ の 手 水 鉢 を 使 っ て い た と い う 。
県道に出る所にも道標があり、右を向いているのは高城保育園で
道がない。左奧の光明坊の辺りが渡河地点かとも思ったが、道標は
高城川を妹背橋で渡った所にある。
の ま ち
ここで左へ曲がって百メートルほど行くと、高城郷の野田跡⑭の
掲示がある。この通りは江戸時代に薩摩藩公認の野町︵商業町︶が
あ っ た 所 で 、 紺 屋 ︵ 染 物 屋 ︶・ 人 形 屋 ・ 焼 酎 屋 ・ 旅 籠 な ど が 軒 を 並
べ、にぎわっていた。
その先で右へカーブする所に祇園神社跡⑮がある。祇園神社は承
応三年︵一六五四︶高城郷の人々により創建された。野町の入口に
あ っ た こ の 神 社 は 、野 町 の 繁 栄 な ど を 願 っ て 人 々 に 崇 拝 さ れ て い た 。
前方に京セラが見えてきて、二股は右に道標があり、京セラ工場
沿いに進む。やがて四つ辻にも道標があり、呑まぬが溝の標識があ
り、ここで右へ曲がって、すぐ左へ曲がる。ここまで本来の旧道は
京セラの中にあったのではないかと想像する。
次の二股にも道標があり、急に鉄道が右手に現れたらオレンジ鉄
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道上川内駅が右手後方にある。その先にも薩摩街道の道標があり、
すぐ本城踏切⑯でオレンジ鉄道を渡って国道に向かう。
国道まで行く手前で左へ曲がるが、ここには違った形の道標があ
る。大きなミラーがある四つ辻を越え、直進して川内高校⑰に突き
当たって右へ曲がると、国道の川内高校前交差点に出てしまう。
その先の高校の敷地が切れた所で左へ曲がり、先ほど突き当たっ
た位置と同じ所に右へ曲がる道があるから、高校で旧道は消えてい
た こ と に な る 。こ の 道 を 真 っ 直 ぐ 進 む と 可 愛 小 入 口 交 差 点 に 出 る が 、
資料の地図によれば旧道は国道まで出ていないようだから、この辺
りの旧道も現道として残っているのか分からない。
国道の方は国道二七六号線入口交差点と中央公民館入口交差点を
越えて、右側の川内大小路郵便局がある先、T字路の交差点にふれ
あい歴史の散歩みちという石柱が立っている。多分この辺りの旧道
は、もう一本東側の妙顕寺⑱の前を通る道だったのだろう。
その先の太平橋北口交差点で左へ曲がると、次の四つ辻で旧道と
思われる妙顕寺の前を通ってきた道がクロスするが、ここからは間
- 235 -
違いなく旧道が残っている。
この道を国道に並行して進むと薩摩街道の道標があり、その先で
土手を上ると川内川で、ここには薩摩街道の掲示⑲があり、向こう
岸のほぼ同じ位置にNTTがある。
ととんぐち
江戸時代の参勤交代の薩摩藩主は、対岸の渡唐口からこちら側の
渡瀬口に川舟で渡り、陸路で小倉を目指し、小倉から船で大阪に行
き、東海道沿いに江戸に向かった。尚、渡唐口から川舟で川内川河
口 の 京 泊 へ 下 り 、対 岸 の 久 見 崎 軍 港 に 用 意 し た 御 座 船 に 乗 り 換 え て 、
長崎・玄界灘・瀬戸内海を経て大阪まで行き、そこから江戸に向か
う海路もあった。
〇
川内川を今は太平橋で渡って土手を進み、NTTの脇で土手下の
旧道に下りる。次の交差点の百メートルほど先左側に光永寺⑳があ
るが、この辺りが向田本町である。
かんまち
その先の上町アーケードの終わりに薩摩街道の道標があり、この
交差点で左手を見るとJR川内駅がある。
- 236 -
標
道
の
道
旧
た
き
て
っ
通
を
脇
の
ラ
セ
京
道
旧
が
ド
−
ケ
−
ア
町
上
の
内
川
- 237 -
- 238 -
川内から市来へ
左手に川内駅が見える交差点を渡り、少し斜めに進むと土手に突
き当たり、ここには水神の碑があるが、昔はここが平佐川の渡河地
点で、対岸の福昌禅寺①の脇に出たのだろう。今は土手沿いに進ん
で日暮橋を渡り、福昌禅寺に突き当たって左へ曲がる。福昌禅寺は
応永元年︵一三九四︶島津元久の開基である。
日暮バス停を過ぎ右側に本国寺を見て、鹿児島本線を巣山踏切②
で渡る。この先の旧道は前方の新幹線をくぐって、県道に合流する
までの間は消えたらしい。
今は巣山踏切を渡ったら新幹線沿いに進み、宮崎排水機場がある
トンネル辺りで新幹線をくぐり、県道三六号線のエネオスのGS③
とコンビニがある辺りを目指す。
県道三六号線に出てきて、二ー三百メートル進むと左右に分かれ
る道があり、右の道に薩摩街道の道標④があるから右斜めに国道と
分かれる。左側に用水路が続いて、間もなく五差路が現れるが、前
- 239 -
方には広い道と細い道があって、このうちの広い道を進む。
すぐ二股が現れ、右の用水路沿いに進むと、左側に二体の石仏は
石の帽子をかぶっている。新幹線が近づくと左側に耕地整理記念碑
が立っていて、その先に県道三三六号線との交差点がある。ここの
左角にも道標があり、右角に水神の碑があって、この交差点で新幹
線をくぐり右へ曲がる。
隈の城川を仏生橋で渡ると、右側に隈之城小学校があり、直進す
れば国道三号線に出るが、旧道は橋を渡って左へ曲がると道標があ
り、そのまま川沿いに進む。次の橋にも薩摩街道の道標⑤があって
橋を渡るが、直進すれば行き止まりである。
右手の国道沿いに建つプテッセというスーパーを見ながら、勝目
川にかかる坪塚橋のたもとにも道標があり、この橋は渡らず川沿い
に進む。
車が多い道に出て左側の勝目橋を渡らずに右へ曲がり、国道三号
線の勝目入口交差点の方へ進む。すると橋から百メートルほど先左
側に薩摩街道の道標⑥があり、ここを左へ曲がる。
- 240 -
る
通
を
前
の
仏
石
の
体
二
る
あ
が
標
道
と
る
が
曲
て
っ
渡
を
橋
生
仏
- 241 -
アミューズメントスペース・ニューヨークの駐車場があり、その
の終わりにも薩摩街道の道標があり、ここから先には民家の所有物
と犬が邪魔をして、旧道を進むのは難しくしている。
そこで国道三号線に出て、旧道を逆から入ってみると下草道は残
っていて、その民家の所有物だけが我が物顔で旧道をさえぎってい
る。そして旧道の出口から反対側に、国道を横切るような道が続き
薩摩街道の道標⑦が立っている。
上りながら旧道らしさを感じ、下りは右側が並木で国道三号線に
合流するが、ここにも薩摩街道の道標がある。ここから本来の旧道
は国道より東側に入り込んでいたようだが、そのような道は見つか
らない。ただ次の交差点で左へ曲がると、その旧道の片割れらしい
道があり、勝目川を川永野橋で渡る寸前に国道と合流する。
右へ大きくカーブすると旧道は右斜めに進むが、ここにも薩摩街
道の道標⑧があり、すぐ二股になるが左の道を選び国道に並行して
進 む 。突 き 当 た っ て 左 へ 曲 が る と 、国 道 に 出 る 寸 前 に も 道 標 が あ る 。
国道沿いの前田酒店に突き当たり、すぐ鹿児島本線の高架橋をく
- 242 -
ぐる。この先の旧道はJRよりも左側に回り込んでいたようだが、
今はそのような道は見当たらない。そこで国道三号線を進むと左側
こ ば ん ち ゃ や
に鹿児島本線木場茶屋駅がある。
JRより東側に回り込んだ旧道は、間もなく現在の国道に出てき
たようである。国道の左側には薩摩街道の掲示⑨と道標があり、そ
の右側に勝目川一級河川の起点の標柱がある。
この先からいちき串木野市に入り境橋を渡る。この橋から国道の
右側に道が現れるが、これは旧道でないのだろうか。左側の山下家
は御駕籠茶屋⑩の由来が掲示してある。この御駕籠茶屋とは参勤交
代のとき休憩してお茶を飲み、駕籠屋を交代させていた所である。
〇
芹ヶ野交差点の左側の芹ヶ野公民館があり、そこに宿駅問屋場⑪
の由来が記してあって、ここに問屋場が設置されていたとある。こ
の辺りから国道は右へカーブしていて、旧道はJRとの間を蛇行し
ていたようだが、今はそのような道が見当たらない。
高速道路をくぐるとき左側に旭初等小学校跡の石碑があり、すぐ
- 243 -
側の北国屋橋⑫は、嘉永五年︵一八五二︶岩永三五郎の技術でかけ
られた眼鏡橋である。ここの掲示には旧道と国道の位置関係が記載
してある。
旧道は分からなくなっているので国道を進み、鹿児島まで四三㎞
を見て藤沢バス停を過ぎる。金山峠バス停を歩き過ぎてから間違い
に気づいて戻る。
金山峠バス停の右側を見ると、消防団と芹ヶ野郵便局と旭区公民
館⑬が並び、ここから国道と分かれて右斜めに下る。右側に創立百
二十八年の旭小学校があり、モダンな青い木造建築は痛み出してい
るのが旧郵便局で、昔旅の途中で訪れた山下清が休んだ所らしい。
鹿児島本線はトンネルに入るが、その上を通って国道三号線に合
流する。左手に高速道路が最接近して金山川を金山第一橋で渡る。
金山第二橋を渡ると角石バス停で、ここで左の畑に入って民家の前
を通って出てくる道は旧道のように感じる。
金山第三橋を渡る所の左側に金山下公民館があり、金山第四橋を
渡ると、左からくる道は旧道の名残かも知れない。門司から三四九
- 244 -
る
あ
が
示
掲
の
屋
茶
籠
駕
御
に
め
斜
右
て
れ
分
と
道
国
ら
か
こ
こ
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㎞とあり、右高台にJRが走っている。
旧道は金山橋を渡らず左へ曲がり、すぐ右の細道を下るのが旧道
のようだが、そのまま国道を進み金山橋を渡れば、右側に焼酎の薩
摩金山蔵があり、すぐ先の左側に薩摩練り揚げ家がある。
ここの旧道も大きな川を余り渡らないようになっていて、右手に
川と国道と高台にJRがあり、旧道沿いには民家が点在している。
二股は右へ進み、やがて国道に合流するが、この先の旧道も国道よ
り東側にあったようである。
国道の左手に串木野コンという会社があるが、旧道はこの先辺り
で国道を左から右へ、右から左へ横切ったようだが、そのような道
はなく国道を進む。薩摩山下バス停⑭辺りで国道と分かれる。
道なりに進んで、やがて国道からくる道と合流して本来は直進す
るが、家が建っていて直進できず、少し左折し右折すると五反田川
を五反田橋で渡る。この橋の五十メートルほど右手に新道の麓橋が
あり、また五反田橋はもう一つあるらしいから気をつけたい。
橋を渡って直進すると串木野郵便局跡⑮の掲示があるが、これは
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串 木 野 最 初 の 郵 便 局 が 明 治 十 一 年︵ 一 八 七 八 ︶に 開 局 し た 所 で あ る 。
ここの二股は右へ進むが、左へ進めば石積みの家が多い武家屋敷
跡や串木野城跡がある。二股を右へ進むと交差点があり、左右の道
は無視をして直進する。
すぐ針原バス停⑯から左へ上り、袴公民館があり、その遙か向こ
うに見えるのは串木野中学校だろう。五差路は真っ直ぐに急な下り
坂で、川を渡ると今度は急な上りになる。上りきるとまた急な下り
で、その後は平坦になる。二股は右へ進むと、スーパーが見えてく
るから国道に近づいている。次のT字路で突き当たって左へ進む。
点滅信号を越えると右手二百メートルにJRが走り抜ける。左へ
行けば西薩火葬場とあるが、無視をして真っ直ぐ南下し続け、右手
三ー四百メートルに神村学園が見える。
突き当たったら右手に見える国道に出ず左へ曲がり、串木野養護
学院が左という掲示を見て右へカーブする。左側に秋葉神社入口の
標柱があり、湊川を渡ると左側に八房神社⑰がある。
天神町交差点で右へ曲がり、最初のT字路で左へ曲がって、次の
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二股を左へ曲がる。国道を越えて突き当たりを右へ曲がると、町門
の跡⑱の掲示がある公園の角に達する。しかし本来は二股から斜め
に進む真っ直ぐな道があり、湊町に出入りする町門の跡がある所に
通じていたらしい。
町門の跡から斜めに国道を越えて、西村寺⑲へ向かう道も消えて
いるから、今は次のT字路まで進んで白壁の豪邸で右へ曲がる。国
道を越えて斜めに進むと市来庁舎前を通る。
西村寺の前から左斜めに若松蔵の前を通って、市来交差点で国道
を横断して民家に突き当たる。ここから斜めに進む本来の旧道は、
市来郵便局などで消えているから、濱田伝兵衛に突き当たって右へ
曲がり、湊町交差点を渡って斜めに進む。
右側の天狗面が付いた建物は天狗桜を銘柄に持つ白石酒造⑳で、
その前を通り、ハッキリしないが次か或いはその次の四つ辻で左へ
曲がる。そして国道二七〇号線に出て右へ曲がる。
すぐ薩摩渡瀬橋を渡ると、次で左折すればJR市来駅だが、旧道
は直進する。右側に市来中学校があり、更に市来小学校がある。
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る
が
曲
に
角
直
で
寺
村
西
る
通
を
前
の
造
酒
石
白
た
い
つ
が
面
狗
天
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- 251 -
市来から伊集院へ
国道の右側に市来中学校・小学校を見ながら進むと、隣には立派
な慰霊塔①がある。その先で右へ行く道に国民宿舎吹上浜荘や市民
ふれあい温泉センターとある。そこからしばらくたんたんと進む。
松山バス停を過ぎ、次の払山バス停②の奧に払山公民館があり、
このすぐ先から右斜めに入るのが旧道で、国道と合流する百メート
ルほど手前の右側に御霊神社③がある。
左側に川南地区公民館があり、県道三〇六号線とクロスするが、
この道を右へ行けば戸崎漁港に出る。旧道はクロスした所から国道
二七〇号線と分かれて右斜めに進む。この辺りの国道は切り通しに
なっているが、旧道は消防団④の右側で山すそを通っている。
上りきった所で国道を横断して二股は直進し、次の二股は左へ曲
がると堀公民館の前を通る。
その先の変則四つ辻は左端の下り坂を進んで、国道二七〇号線を
横断する。そこから今の道は右へグルッと回り込む形になっている
- 252 -
塔
霊
慰
の
隣
の
校
学
小
・
中
来
市
社
神
霊
御
- 253 -
が、昔の道は真っ直ぐつながっていた痕跡が残っている。
この先は崖を削っているようだから、昔はもっと細い山すその道
だったのかも知れない。
上 り き っ た 右 側 に 中 原 の 治 水 溝 ⑤ の 掲 示 が あ り 、水 神 の 碑 が あ る 。
これは嘉永五年︵一八五二︶に完成したもので、中原のシラス台地
がたびたび崩れ、住民の生活や参勤交代でも使用された出水筋にも
被害をもたらすため、藩の直営として施工された。
その先は右へ曲がる旧道が歩けなかったら、治水溝の掲示から左
へ道なりに進んで、高速道路に突き当たる道を歩くように地元の人
に言われている。
歩けるか否かを確認するため右へ曲がり、人一人しか歩けない細
道を上った後で、すぐ下りになって田園に出てくる。
この先はどの道も治水溝の掲示から高速道路に向かう道に出てし
まい、資料のような高速道路と国道二七〇号線の中間で、県道三〇
六号線を突き抜ける道は見つからない。
一番それらしい道は、細道から田園に出て最初の二股を左折して
- 254 -
次を右折する道で、これは薄暗い道ではあるがクモの巣も草もない
立派な道である。ただ道なりに相当歩いた積もりでも、中原の治水
溝から高速道路へ向かう道に出てしまう。
逆に県道三〇六号線の出口と思われる道を探してみるが、一つだ
け途中から草深くなって歩けなくなっている道以外、該当するよう
な道は存在しない。だからこの草深い道が、先ほどの立派な道と何
処かでつながっていたのかも知れない。
いずれにしても、この辺りはいちき串木野市と日置市の市境だか
ら、何処でもあるように手入れがされず歩けなくなっているのかも
知 れ な い 。や む を 得 ず 中 原 の 治 水 溝 か ら 高 速 道 路 に 出 て 右 へ 曲 が り 、
高速道路沿いに進んで堀内公民館の先で県道三〇六号線を横切る。
出会った地元のシニアの男性に訊くと、この歩いてきた高速道路
沿いの道が参勤交代道だと子供の頃に聞いたと言う。しかもこの後
に彼が話す高速道路で消えた参勤交代道の痕跡は見つかるが、資料
の県道三〇六号線を横断する旧道とつながる道は見つからない。
〇
- 255 -
総合運動場公園の南端で高速道路を越えると、旧道の出口⑥が残
っている。向かい側にJA葬祭場⑦があり、ここの金網を横切って
向こう側の旧道の入口につながっている。この出口と入口を結んだ
JAの金網の中だが、右側に馬頭神と横枕清太郎の頌徳碑がある。
蛇行する旧道を進むと、民家が並ぶ先に前方も右折も行き止まり
と出ている。自動車だけが対象かと思って直進すると、民家があっ
て最後は畑で行き止まる。そこで右へ曲がる方へ進むと石段で新道
に出る。本来はもう少し先に下りてきたはずで、その右手高台には
高速道路があり、左下には坂之上下公民館がある。
新道を横断して川を渡る。右からくる道と合流して右へゆるくカ
ーブすると、右側に鶴城寺⑧があり、城ノ下バス停がある。その先
で左斜めにグルッと回って、二百メートルほどで元に戻るのが旧道
である。
戻ってすぐ右へ曲がると百メートルほど先で、分かれた道に並行
する旧道がある。突き当たって右へ曲がり、左へカーブして直進す
るとJRに突き当たる。
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本来の旧道は右へ曲がってJR東市来駅を左側に見ながら、この
辺りで線路を横切る位置に旧道はあったらしい。ただ今は線路を渡
れないから戻って鹿児島本線をガードでくぐり、国道三号線に出て
右側にJR東市来駅を見ながら進む。
この辺りは民家が並んでいる。民家が切れると間もなく門司から
三六四㎞とある。美山入口バス停を過ぎて橋を渡ると水神の碑があ
り、高架橋をくぐると美山入口交差点である。
ここから二ー三百メートル先に、美山へ向かう旧道があったはず
で 探 索 す る と 、二 百 五 十 メ ー ト ル ほ ど 先 に J R を く ぐ る 道 が あ る が 、
畑 の 先 に 道 は な い 。他 に J R を 越 え る 道 は な い よ う で 探 索 を 止 め る 。
そこで美山入口交差点に戻り、左へカーブして国道とJRをまた
ぎ、県道二四号線を進む。上りきると民家が並び始めて、右側に玉
山神社⑨の石鳥居がある。これは朝鮮から連れてきた陶工たちが望
だんくん
郷の念から、朝鮮国の始祖とされる壇君の霊を祀ったものである。
この旧道には美山焼の窯元が多く、その直販店も点在している。
美山バス停を過ぎて右角に酒屋があり、その先に右側に美山陶遊館
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⑩がある。
下伊集院郵便局と隣に美山自治公民館があり、すぐ美山上バス停
がある。ここに掲示してある薩摩焼のふるさとには、第十七代薩摩
藩主島津義弘は慶長三年︵一五九八︶朝鮮から陶工約八十人を連れ
帰り、そのうち四十人余りが串木野市島平に着船した。その後慶長
八年には串木野から伊集院の今の美山に移住し、島津藩の庇護のも
とで開窯したのが薩摩焼の始まりである。
友愛学園前バス停と左側に児童養護施設の友愛園⑪がある。その
先の牧角入口バス停から五十メートルほど先に交差点があり、この
交差点から四百メートルほど先に、コンクリートで固めたような道
路が現れ、これを左へ曲がる。
四つ辻の左側に寺脇公民館があり、更に真っ直ぐ下る。突き当た
って右へ曲がると畦道に出て、その先に神之川の大渡橋がある。橋
の手前に寺脇バス停があり、そこの石仏は双体道祖神だろうか。
大渡橋で神之川を渡ると大渡橋記念碑⑫があり、左手をJRが走
り抜けるのが見える。大田簡易郵便局があるすぐ先の筋違いの四つ
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い
多
が
元
窯
は
に
道
旧
の
山
美
神
祖
道
体
双
の
前
手
橋
渡
大
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辻に、神之川移川開田之碑がある。右側の用水路が右へカーブする
先で、ここから右へ曲がる道が旧道らしく、百メートルほど行くと
右側に大田中公民館と神明神社⑬が並んでいる。
そこから七ー八十メートル進んで左へ曲がり、更に五ー六十メー
トル先で左へ曲がり道なりに進む。旧道はもっと西側を大回りする
道 だ っ た よ う だ が 、山 が 迫 っ て い て 旧 道 が あ っ た の か が 分 か ら な い 。
そこで疑問を感じながら、グルッと回り太田鉱泉⑭の前を通って
分かれた道に合流すると、太田鉱泉の掲示と大田バス停がある。
その先の大田交差点を越え、大田口バス停を過ぎると、左へ曲が
る道に左は城山公園・ザビエル会見の地の標識がある。旧道はここ
で左へ進み、上り坂で途中から城山への道と分かれ、グルッと回り
込んで左側に護国神社⑮を見ながら、先ほど分かれた道と交差点で
合流する。
この交差点で旧道は左へ曲がるが、直進すれば伊集院小学校であ
る。更に次の交差点で旧道は右へ曲がるが、直進すればJR伊集院
駅があり、この駅の北側に徳重神社と妙円寺⑯がある。
- 261 -
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伊集院から鹿児島へ
電報局前バス停を過ぎると、左側に小さなえびす神社があり、そ
なりおき
の先の永平橋を渡る。江戸時代の永平橋は土橋だったが、島津斉興
の と き 石 造 の 眼 鏡 橋 に 改 造 さ れ 、嘉 永 四 年︵ 一 八 五 一 ︶に 竣 工 し た 。
しかし、この橋も自動車が通るようになると幅が狭く、昭和八年に
は鉄筋コンクリートの橋に改造された。
向馬場踏切で鹿児島本線を渡り、猪鹿倉南交差点を渡る。この辺
りの両側の石塀に歴史的な絵①が描かれているのも珍しい。
更に小諏訪バス停を過ぎる。坂を上りきった右側にヒガシマル食
品があり、伊集院IC入口バス停がある。右からくる道を越えて、
ベスト電器の前を通る。
大迫バス停から下りになり、右側に春日神社②がある。清藤バス
停の右側に清藤公民館がある。右側に基盤整備完成記念碑があり、
その先で右へカーブ寸前で右へ曲がり、突き当たって左へ曲がる。
左側に消防団があり、清藤橋を渡ると久しぶりに薩摩街道の標識
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があって、ここから川沿いに進む。圃場整備事業記念碑の二股は左
へ進むが、ここにも標識があるから間違いないだろう。
両側に雑木林の中の道③が始まり、砂利道や粘土質の道でデコボ
コな所もある。やがて突然民家が現れるが、また林間の道である。
この道に入ってから急に標識が増えだして、分岐点にもあるから道
を間違えることもなく、気持ち良く歩けるだろう。
太陽化学という会社の脇に出てきて、県道二〇六号線と合流する
所に道標と妙円寺詣り街道の石標④があり、右へ曲がる。
妙円寺詣りとは、島津義弘が伊集院の妙円寺に自分の木像を納め
菩提寺としたが、関ヶ原の合戦では筆舌に尽くしがたい苦難の末、
鹿 児 島 に 帰 り 着 い た 。後 年 、鹿 児 島 城 下 の 若 侍 は 義 弘 の 武 勇 を 讃 え 、
苦闘をしのぶと共に士気を鼓舞し心身を鍛練するため、甲冑を身に
つけ夜を徹して妙円寺へ参詣するようになった。
〇
この先に立つ薩摩街道の標識は、鹿児島からくる人に旧道の入口
までの距離を表示している。新村下バス停を過ぎると、この広い道
- 264 -
は桜並木で、特にラバーのような歩道は歩きやすい。
左側には小さな石仏があり、その先右側の願立寺⑤の山門は面白
い。新村バス停と竹ノ山バス停を過ぎると下りに入るが、この辺り
の県道二〇六号線は歩道と車道が同じぐらいの幅である。
次の交差点の左側に都市農村交流施設⑥チェスト館があり、この
交差点を越えると右斜めに入る道があって、これが旧道のようにも
見えるが、これも二ー三百メートルで合流する。
この辺りから鹿児島市だろうか。沿道には野菜の直販店が並んで
いる。左側に横井公民館があり、T字路の交差点を過ぎて、間もな
く下りに入り右へカーブする。その左側に御堂がある。
次に左へカーブして前方の交差点まで下りが続く、その交差点で
左へ曲がれば伊敷・小野とある。ここには西別府バス停があり、こ
こから歩道が始まる。また歩道がなくなり左へカーブして、また右
へカーブする寸前から歩道が現れる。すると右側に北部清掃工場⑦
が現れ、ここからまた下りに入る。
横井埋立処分場交差点を過ぎ、番屋下バス停があって、やがてま
- 265 -
道
旧
の
藤
清
院
集
伊
寺
立
願
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- 267 -
た歩道がなくなり、道が狭くなるから要注意だが、それもほんの一
時のことで、また歩道が現れる。
右側にストークのGSがあり、そこから歩道が消える。この辺り
は緑が多い道ではあるが、リサイクル業者が点在して、時には廃棄
物が目に付くのはつや消しである。
左側にエコフロント西部という会社があり、この辺りには産業廃
棄物工場が幾つかある。右側に武岡ゴルフ練習場があり、ここから
下り始める。交差点と武岡台養護学校入口バス停が現れ、ここを左
へ行けば武岡台高等学校と養護学校⑧があるため、朝の時間帯はス
クールバスが多い。
右側に社会福祉法人済生会があり、武岡ハイランド東口交差点で
は右へ行けば武岡中学校とある。左側にコスモスのGS⑨がある所
で、車の多くが直進するのは新道で、旧道は右へ曲がる。
武岡六丁目町内会集会所を左側にして、右側のおおとり幼稚園の
前を通る。武岡台公園に沿うように左へカーブして、右側に本願寺
和岡出張所⑩があり、市営アパートのマンション群の先の交差点で
- 268 -
新道と合流する。
どうしてこのような大回りだったのかを想像すると、ヒントは新
道の下の武岡台小学校との間の細道に見られる。この急な下り坂の
左側は山肌だったようだから、多分この辺りは山を切り開いて団地
を造り、新道を造ったのだろう。その急な山肌をさけた旧道は大回
りして、歩きやすい道だったのだろう。
〇
原良配水池前交差点の左角は配水池で、その先の三つ目の辻で左
斜めに入る道へ進む。そして三百メートルほどで分かれた新道と合
流する。
武岡団地常磐口交差点から左へ曲がり、団地を右手にして右へカ
みつかん
ーブする。この急坂は水上坂⑪と呼ばれ、切り通しになっているよ
うだから、昔のままの道かどうかは分からない。
この常盤地区は両側から山が迫っていて道が狭く、車の行き来に
も気をつかっているから歩くときは要注意だが、逆に一本道だから
間違う恐れはないだろう。
- 269 -
その左側に阿弥陀井戸⑫があるが、これは水上坂の水場で、参勤
交代の藩士が小休止するときや旅人の送迎するとき、お茶用に使わ
れたという。
常磐一丁目二十四番のT字路で右へ入ると、八田和紀大人幽閉地
跡・桃ヶ岡公園という石標があるが、どういうものか分からない。
右側に日枝神社⑬があり、次の交差点を過ぎると、その百メート
ルほど先に常磐町入口交差点がある。ここからは旧道も広くなり、
歩道も両側について商店も並ぶようになる。
左側に西本願寺西田出張所があり、西田町交差点を過ぎて、更に
西田中ノ丁交差点で前方にJRのガードが見えてくる。ガードをく
ぐると左角に小さな秋葉神社があり、前方に西田橋が見える。
次の四つ辻を右へ曲がればJR鹿児島中央駅で、西田橋を薩摩街
道の終点にしているものもあるようだが、もう少し先まで足を伸ば
すことにする。
〇
甲突川を西田橋で渡り、千石馬場交差点を渡る。右側に大中寺⑭
- 270 -
坂
上
水
の
り
下
な
急
戸
井
陀
弥
阿
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があるが、ここには薩摩義士の墓がある。薩摩義士の墓とは、宝暦
三年︵一七五三︶徳川幕府が洪水や悪水停滞で困窮している木曽・
長良・甲斐三川流域の住民救済のため、大規模な治水工事を計画し
て、薩摩藩にお手伝い普請を命じた。この命を受けた藩主島津重年
は窮乏する藩財政に苦慮しながら、約千人の藩士を美濃に赴かせた
が、難工事の上に地域住民との対立や悪疫の流行で、数多くの犠牲
者を出して葬られた。
三官橋通り交差点を越えると、右側に山下小学校がある。更にザ
ビエル公園前交差点を越えると、左側にザビエル教会、右側にザビ
エル公園⑮があって、ここにはザビエル・ヤジロウ・ベルナルドの
像がある。天文十八年︵一五四九︶イスパニアのフランシスコザビ
エ ル は 、日 本 人 の ヤ ジ ロ ウ︵ 鹿 児 島 出 身 ︶の 案 内 で 鹿 児 島 に 上 陸 し 、
日本へのキリスト教布教の第一歩をしるした。
この辺りには病院が多く、右側には東千石郵便局があり、左へカ
ーブする所に照国町交差点がある。ここは右手を見るとピラモール
というアーケードの商店街で、左へ行けば右側は中央公園と県立博
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園
公
ル
エ
ビ
ザ
社
神
国
照
- 273 -
物館と旧博物館の建物があり、突き当たりに照国神社⑯がある。
なりあきら
照国神社の御祭神である島津斉 彬は、文化六年︵一八〇九︶薩摩
藩主島津斉興の嫡男として誕生し、西洋文明を積極的に取り入れて
日本の近代化の基礎を築いたが、四十九才で惜しまれて亡くなり照
国大明神の神号が贈られた。
〇
旧道は照国町交差点から直進するが、左側に中央公園があり、右
側に西本願寺がある。それらの敷地が切れる交差点の角に鹿児島県
里程元標⑰があり、向かい側の宝山ホールがある所に、明治維新の
推進者の一人である小松帯刀の銅像⑱がある。
この小松帯刀と向き合う形で、国道一〇号線に面して西郷隆盛の
銅像⑲があり、その国道を進んで市立美術館の敷地が終わると、そ
の交差点の左角に市里程元標⑳がある。
その交差点を越えた所に歴史資料センター黎明館があるが、ここ
が鶴丸城本丸跡である。
ここで薩摩街道を終わることにする。
- 274 -
標
程
里
県
た
し
に
ク
ッ
バ
を
寺
願
本
西
像
盛
隆
郷
西
- 275 -
終わりに
二〇〇七年は二冊を書いて目標の二十巻を達成する積もりで始ま
った。そして十九巻目の﹁長崎街道﹂は、予定通り梅雨入り前の六
月中に終えることができたが、夏休みを終える九月以降に回した二
十巻目の﹁薩摩街道﹂は、実行可能か否かが疑問になってきた。
なぜなら今年は梅雨入りがないまま水不足が心配され出したとき、
七月に入ると雨が降り始めて激しいものになり、特に九州は豪雨が
続いて、熊本県や鹿児島県は各地で川が増水し、土砂崩れで道路も
寸断される状況が放送されていたからである。
しかし八月になってから逆に全く雨が降らなくなり、九月上旬に
は薩摩街道をスタートすることができた。
ところが歩き始めてから連日三十五度以上の猛暑が続き、熊本県
に入って四日も経たないうちに熱中症になって、熊本城を過ぎた所
で継続することを断念して帰宅した。
十月に入って暑さも少しやわらいでいるようなので再開したが、
- 276 -
ほとんど雨らしい雨の日もなく、珍しいことに全く台風が来ないの
は幸いだった。これも異常気象の現れだろうか。
そして逆に歩き終わる鹿児島県に入ってから、朝の肌寒さは異常
なぐらいで、最終日にはホテルも冷房から暖房に切り替わり、半袖
で過ごしてきたこともあって風邪を引いてしまった。
〇
この街道の福岡県は資料が見つからず諦め掛けながら、伝を求め
て方々へ手紙を出した結果、紹介された半田隆夫先生には大変お世
話になり、先生に紹介された関係者にも迷惑をかけてしまった。
薩摩街道の南関から山鹿の道を歩いていると、旧道の整備状態が
良いことを感じるのは、地元の旧道に対する熱意であると共に、生
活道路として使われている部分が多いからだろう。ただ豊前街道だ
から熊本の方からくる人に対して、分岐点になる所に道標が多いよ
うである。
逆 に 熊 本 県 と 鹿 児 島 県 と の 道 筋 を 書 い た も の は 教 育 委 員 会 の﹁
史 の 道 ﹂し か な く 、し か も 縮 尺 が 五 万 分 の 一 と い う 粗 い も の だ か ら 、
- 277 -
道を探索しながら歩かざるを得なかった。
この道筋を捜す苦労は過去にも経験してきたことだが、シリーズ
の目標である二十巻目を飾る旅に花を添えて、かえって楽しさを倍
加してくれた。更に最後の方は逆に良く整備された旧道で、間違え
ることのない気楽な街道歩きを提供してくれたので、それを二つば
かり街道の特徴の中に紹介しておきたい。
〇
いつものように、この街道の特徴を書いてみたい。
①薩摩街道を歩いて思うのは、道筋を書いた資料が少ない割には手
入れがされていたり、道標や標識が立っている所が多いということ
だろう。勿論その点に関しては場所によって温度差があり、もう少
し何とかならないのかという所もあった。
その一つの事例は、他の街道では余り意識しなかった蛇のことだ
が、今回は地元の人から﹁旧道は蛇が出るから、歩くなら冬にしな
さい﹂と言われたり、現実に蛇が横切るのを見たからである。それ
だけ手入れされていない所もあったということである。
- 278 -
②ただ鹿児島県の最後の方では、良く整備された旧道らしい道を楽
し ま せ て く れ た 。そ の 一 つ は 西 方 か ら 陽 成 を 経 て 川 内 に 至 る 旧 道 で 、
下草道や石のゴロゴロした所が多い道だが、草が茂ることもなく充
分に歩けるようになっていた。また山が崩れた所は迂回路を作った
り、危険な所はロープを張ったりしていたが、これも街道保存会の
方々の努力と功績で、歩く人たちがいる証拠でもあるだろう。
もう一つは伊集院から先の県道に並行する旧道は、緑の中に歩き
す い 素 晴 ら し い 道 が 残 さ れ て い る 。こ れ も 妙 円 寺 詣 り を 始 め と し て 、
歩く人がいるからだろうと想像する。またこの先で県道に合流した
後も、車道と同じぐらいの幅がある歩道は整備されていて、特にラ
バーが敷かれている所などは歩きやすかったが、鹿児島市に入ると
歩道が少なく車に注意しながら歩かざるを得ないのは残念だった。
③この街道との鉄道に関して言うなら、薩摩街道は鹿児島本線︵オ
レンジ鉄道も元鹿児島本線︶一本で、色々な鉄道が絡む長崎街道と
違って単純である。しかも街道と鉄道が一部分を除いて絡まるよう
に南進しているから、天候や体調によっては歩きをいつでも止めら
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れて、鉄道に乗って宿泊地に戻ることができるだろう。
④この街道は海際に接している所が多いため、随所で海景色を見る
ことができる。これほど素晴らしい海がしばしば見える街道も珍し
く、従って美味しい魚にもありつける。
陸地の景色では、福岡県を中心に植木屋が多いように感じたが、
熊本県を中心にスイカやメロンその他のビニールハウスが多く、鹿
児島県へ向かう山間地は柑橘類の果樹園が多いことだろう。そして
農家の直販店が並び、ミカンなどの値段が安いのに驚いた。
⑤熊本県辺りから石造りの眼鏡橋が多く、また野田のように石積み
の家が整然と並らぶ美しさにも驚いた。更に出水の武家屋敷のよう
な家並みも素晴らしい。
⑥ 途 中 で 出 会 う 何 人 も の 方 々 か ら 、﹁ 私 に で き る こ と は あ り ま せ ん
か﹂という言葉を頂いた。ただ人様に迷惑をかけるのは本意でない
ため、一部の方を除いて感謝しながらお断りしたが、冷たい麦茶を
頂 い た り 、ご 飯 ま で 頂 い た の は 、忘 れ ら れ な い 思 い 出 に な る だ ろ う 。
︵平成十九年九ー十月︶
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︵参考資料︶
︵ 一 ︶﹁ 大 日 本 道 中 行 程 細 見 記 大 全 ﹂ 宇 野 修 平 編 集 人 物 往 来 社
︵ 二 ︶﹁ 新 修 五 街 道 細 見 ﹂ 岸 井 良 衛 編 集 青 蛙 房 刊
︵ 三 ︶﹁ 歴 史 の 道 調 査 報 告 書 出 水 筋 ﹂ 鹿 児 島 県 教 育 委 員 会
︵ 四 ︶﹁ 歴 史 の 道 調 査 報 告 書 薩 摩 街 道 ﹂ 熊 本 県 教 育 委 員 会
︵ 五 ︶﹁ 歴 史 の 道 調 査 報 告 書 豊 前 街 道 ﹂ 熊 本 県 教 育 委 員 会
︵ 六 ︶﹁ 週 刊 日 本 の 街 道 薩 摩 街 道 ﹂ 講 談 社 発 行
︵ 七 ︶﹁ 薩 摩 街 道 の 文 化 財 マ ッ プ ﹂ 小 郡 市 教 育 委 員 会 発 行
︵ 八 ︶﹁ 日 本 の 街 道 ﹂ 吉 川 弘 文 館 発 行
︵ 九 ︶﹁ 街 道 と 宿 場 ﹂ ア ク ロ ス 福 岡 文 化 誌 編 纂 委 員 会 編
︵ 十 ︶﹁ 肥 後 ・ 筑 後 の 舊 道 史 ﹂ 三 城 祥 象 著
︵ 十 一 ︶﹁ 日 燃 ゆ る 九 州 ﹂ 丸 山 雍 成 著 者 他 集 英 社 発 行
︵ 十 二 ︶﹁ 九 州 路 ﹂ 毎 日 新 聞 社 発 行
︵ 十 三 ︶﹁ 薩 摩 街 道 を 往 く ﹂ 水 俣 芦 北 地 域 観 光 推 進 協 議 会
︵ 十 四 ︶﹁ 日 本 の 街 道 ハ ン ド ブ ッ ク ﹂ 三 省 堂
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(著者経歴)
中山高安
(なかやまたかやす)
1939年 東京都に生まれる
1964年 慶應義塾大学工学部卒業
鐘紡㈱に入社
コンピューター関係のSEから営業部長まで歴任
1987年 コンピューターネットワーク会社の取締役として出向
1990年 コンピューターソフトウェアー会社の代表取締役として出向
1995年 定年退職後、経営コンサルタント会社を設立
第二の人生を模索しながら文筆活動
随筆「第二の人生」、小説「マンマシン」、
随筆「人生いろいろだから楽しいだから生きてく」
紀行文「ウォーキング旧中山道(日本橋ー分去れ)」
「絵のない絵本ー私は猫です(1)(2)」
2002年 紀行文「街道を歩く」のシリーズを始める
「中山道(日本橋ー分去れ)」「中山道(分去れー大井)」
「中山道(大井ー京都)」「北国街道」「川越街道」「日光道中」
2003年 「日光御成道と日光西街道」「日光例幣使街道」「千人同心日光道」
2004年 「水戸道中」「奥州街道(宇都宮ー白河)」
2005年 「奥州街道(白河ー古川)」「奥州街道(古川ー龍飛崎)」
「陸前浜街道(水戸ー仙台)」
2006年 「出羽三山参詣道(仙台ー鶴岡ー新庄)」「山陽道(京都ー西宮)」
「山陽道(西宮ー三原)」「山陽道(三原ー下関)」
2007年 「長崎街道(門司ー長崎)」「薩摩街道(山家ー鹿児島)」
2008年 「北陸道(鳥居本ー金沢ー石動)」「北陸道(石動ー高田ー出雲崎)」
2009年 「全国の街道を歩く」
2010年 「関東の旧鎌倉街道(上道・山ノ道と中道・下道)の地図」
街道を歩く
薩摩街道(山家ー鹿児島)
2011年8月25日 電子版 発行
著者・注文出版 中山 高安
〒350-1151:埼玉県川越市今福1472-20
TEL&FAX:049-248-2674