和歌山県立図書館

ISSN 1 8 8 2 - 6 9 9 7
和歌山県立
もん
じょ
かん
文書館だより
第39号 平成26年3月
[写真]日高郡日高町津久野
かぶと
右端手前の小山は『紀伊国名所図絵』にある「甲山」
左端が安永3年 (1774) 6月 23 日に阿波国堂ノ浦清太兵衛船が破船した「ゑん崎」
を うら
つ
く うら
[図]
『紀伊国名所図会』後編巻 5 より「小浦・津久浦」
津久野は「津久ノ浦」、
「ゑん崎」は「エジサキ」と書かれています(画面中央)
て
阿◆ 州堂ノ浦・北泊の釣漁師
の古文書から見ていきましょう。
代々津久野浦の庄屋などを務めた塩崎家
迎え入れる津久野浦の人たちとの関係を、
彼ら阿波の漁師たちの活動と、彼らを
国堂ノ浦と北泊の漁師たちがいました。
な一本釣漁法を広めたことで名高い阿波
いいます。
)
。その中には、全国に先進的
出稼ぎの根拠地としていました(据浦と
すえ うら
か ら さ ま ざ ま な 人 々 が 例 年 長 期 滞 在 し、
日高郡津久野浦に来た阿波の釣漁師たち
日◆ 高郡津久野浦
日高郡日高町津久
野 は、 山 に 囲 ま れ、
紀伊水道に面した小
さな入り江です。か
つては津久野浦と呼
ば れ、 江 戸 時 代 に
入って関東地方への
鰯網漁業の出稼ぎで
急速に発展し、慶長
六年(一六〇一)には
一二戸であったのが
正徳三年(一七一三)
には四八戸二〇九
人まで増加しまし
た。その後関東漁業
の不振とともに減少
こ
し、隣の比井浦で発
か
展 し た 廻 船 業 の水 主
稼ぎなどで一時持ち
直しますが、比井廻
船の衰退とともに再
び減少します。明治
以降も海外移民など
によって漸次減少し、
現在、住家は二軒と
なっています。
はえ なわ
江戸時代、津久野
浦には延縄漁師や手
ぐり
阿 州 堂ノ浦・北 泊 は、 う ず 潮 で 有 名
な鳴門海峡にほど近い小鳴門海峡に面
いけす
をあけ生簀にした生ケ船が発明されて活
魚運搬技術が発達すると、彼らはより遠
くまで高級魚を求めて行きます。
テ◆ グス
表 津久野浦の戸数・人口推移
*人口は8才以上 磯崎てるみ「近世中後期、紀州浦方小村落の経済構造」
(『和歌山地方史研究』第 3 号)より
堂ノ浦の漁師たちは、先進的漁法とと
もにテグスを携え、瀬戸内海を中心に西
日本全国に出稼ぎし、ある場所ではその
ま ま 定 住 し、 ま た あ る 場 所 で は 土 地 の
人に釣漁法を伝授していきました。たと
えば、イカで有名な佐賀県呼子は彼らの
移住によって発展した漁村ですし、和歌
さわら
山県では、雑賀崎
(和歌山市)の一本釣も、
江戸時代中期に堂ノ浦漁師から鰆釣漁法
を習ったことから始まるといわれていま
じき
す。 津 久 野 浦 に や っ て き た 漁 師 た ち も、
きっとテグスを用いたはずです。
津◆ 久野浦への入漁
安 永 三 年( 一 七 七 四 )
、 堂ノ浦 直 船 頭
(船の所有者が船頭も務めること)
山屋清
太兵衛の生魚生ケ舟が強風に煽られ、津
潮流が早いため網漁や延縄漁には向きま
浦・北泊)
。最寄の漁場は鳴門海峡であり、
ら作られる糸のことです。中国からの輸
ますが、もとは楓蚕などと呼ばれる虫か
グスは、現在では釣糸全般のことをいい
の一つに、テグスの導入があります。テ
堂ノ浦漁師がもたらした釣漁法の発明
漁船は朝のうちに浜へ引き上げておいた
内 に 碇 泊 し て い た 山 屋 の 船 が 破 船 し た。
強まって二十三日には大時化となり、湾
「六月の土用を迎えてから南風が段々
五二〇。以下の資料番号は全て同家文書)。
た際の記録があります(塩崎家文書資料
久野浦内の荒磯に打ち上げられて破船し
せん。そこで漁師たちは、カンコ船と呼
入薬の包装に使われていたものを江戸時
した漁村です(現徳島県鳴門市瀬戸町堂
ばれる、小回りがきく三枚板の小舟に乗
ので無事であった。」などとあり、次のよ
し け
り、一本釣の技を磨きました。現在では
代はじめ頃に堂ノ浦漁師が見付け、半透
うな内容の、清太兵衛たちからの口書を
ふうさん
一般的な、釣針の近くに錘を付けて釣糸
明で弾力があることから釣糸として用い、
おもり
が早く海底に達するようにして、錘が着
目覚しい釣果を上げました。
ま
写しています。
底すると若干引き上げて上下させる「下
げ釣」漁法は、彼らが広めたといわれて
います。
一本釣は漁獲量が限られるために高値
で取引される魚を獲物とする必要があり
ますが、春先に釣れる鳴門の「桜鯛」は昔
から有名で、また一本釣の魚は活きが良
く、生きたまま大坂まで運べるので高値
どう
で売れました。大坂の発展により魚の消
費量が増えるとともに、船の胴の間に穴
2
◆
◆
繰網漁師など、他国
資料 520「安永三年午六月廿三日大風波
ニ付ゑん崎ニ而阿州堂野浦山屋清太兵衛
舟破船ニ付船頭水主口書ひかへ」(1774)
34
38
37
39
48
堂浦のカンコ船(重要有形民俗文化財)
テグス
31
42
43
156
147
150
150
146
155
209
30
12
132
(1839)
戸数
昭和時代のものですが、構造は江戸時代のものと変わり
ません。堂浦・北泊の漁師は、この小舟でどこまでも釣
りに行ったそうです。
(瀬戸内海歴史民俗資料館提供)
これは「荒テグス」というもので、こ
れを磨き、太さを均一にして釣糸にし
ました。
(徳島県立博物館提供)
124
43
31
41
124
天保 10
人口
◆
明治6
天保7
慶応元
(1836)
享和元
(1741)
正徳3
延宝6
(1601)
年代
◆
(1873)
(1865)
(1801)
(1799)
安永2
寛政 11
(1773)
宝暦元
寛延元
(1751)
(1748)
寛保元
(1713)
(1678)
慶長6
( 西暦 )
第 39 号(平成 26 年 3 月発行)
和歌山県立文書館だより
和歌山県立文書館だより
第 39 号(平成 26 年 3 月発行)
紀 伊 水 道
神谷
津久野
由良湊
春 夏 に 漁 稼 ぎ に 来 て お り ま す。 ま た、
私 共 は、
「 親 代 々」八、九 〇 年 も 毎 年
なことはなく、かたじけなく存じます。
りました。
「御介抱」いただき、不自由
衆もお越しになり、次第をお尋ねにな
出てくださり、助かりました。大庄屋
る「私共仕入漁舟乗組之者共」が残らず
た。 庄 屋・肝 煎 衆 や 当 浦 に 止 宿 し て い
磯に打ち上げ、
「くだくだ」になりまし
綱が切れ、当浦内の「ゑん崎」という荒
り、五頭下ろしていた碇のうち四頭の
たところ、昨二十三日に風波が強くな
へ漁稼ぎに来ており、船掛かりしてい
ケ釣 仕 入 漁 舟 」一 四 艘 を 引 い て、 当 浦
舟」六反帆四人乗は、当年四月から「下
堂ノ浦 直 船 頭 清 太 兵 衛 の「 生 魚 生ケ
徳島
「私仕入之船」も当浦に多く滞在中で、
来る七月初めには例年ど
おり国元へ帰りますので、
が分かります(資料一)。
な◆ ぜ、津久野浦に?
送のコストを考えると、消費地に近い方
がより有利なのはいうまでもありません。
それは、近くに「良い漁場」があったこと、
浦 を 出 稼 ぎ の 拠 点 と し た の で し ょ う か。
国内外からの入漁者の据浦を奨励してい
入 漁 料 の 収 入 に よ っ て 浦 が 潤 う と し て、
では、なぜ、多くの漁師たちが津久野
た )私 共 も、 そ の 時 ま で
ました(資料四一〇。『和歌山県史近世史
たことが分かります。
野浦に入漁し、据浦してき
毎年春から夏にかけて津久
日ノ岬沖は潮の流れが速くて有名ですか
や 日ノ岬 沖 な ど で 釣 っ て い た よ う で す。
から分かる限り、彼らは津久野浦の沖合
た漁場であることが挙げられます。文書
うか。まず、彼らの持つ技術にマッチし
「良い漁場」とは、どのような所でしょ
四八四頁)があります。
容の文書
(資料四一四。『県史近世史料五』
百姓以下三九名が連印した次のような内
(一七四三)、津久野浦の庄屋、肝煎、頭
を 得 な い 事 情 が あ り ま し た。 寛 保 三 年
は、より積極的に入漁者を受け入れざる
ま た、 そ れ に 加 え て、 津 久 野 浦 に
もともと紀州藩では、入漁者の宿代や
このまま逗留し、稼がせ
漁師にとって津久野浦が「歓迎される環
料三』一六七頁)。
歓迎される環境
2
ていただきたく存じます。
境」であったことが考えられます。
生ケ舟に「下ケ釣仕入漁舟」
ら、彼らの持つ技術が発揮でき、また彼
商人と思しき清太兵衛は、
のカンコ船一四艘を連結し
らにふさわしい魚が掛かる場所であった
もや
一 六、七 年 前 か ら 関 東 出 漁 が 不 漁
(舫い)、曳航して阿波から
と な り、 藩 へ の 御 役 金 は 滞 り、 ま た
ショウヌシ(商主)などと呼ばれました。
を 持 ち、
「 仕 入 漁 舟 」を 引 き 連 れ る 者 は
津 久 野 浦 沖 で 餌 の 入 手 が 難 し く な る と、
に し た よ う で す が、 後 に 述 べ る よ う に、
積み込んでおり、小エビなどを曳いて餌
とも重要です。彼らはカンコ船に小網を
彼らから技術を習得した者もいないの
か ら 釣 漁 師 が 春 夏 に 据 浦 し て い る が、
地元で漁をする者もいない。古来他国
人数もなくなってきた。田畑も少なく、
少し、藩の御役を務めることができる
五七、
八軒あった家は三二、
三軒まで減
帰 国 し な く な っ た 者 も あ り、 か つ て
ショウヌシは漁師に出資し、その見返り
他所で据浦せざるを得なくなる場合も生
清太兵衛のように生ケ舟
に漁師が釣った魚を仕入れる権利を得ま
じてきます。
彼らが入漁しはじめた頃には、釣漁師は
少 な い こ と も 重 要 で す。 津 久 野 浦 に は、
い る 釣 漁 師( つ ま り 堂ノ浦・北 泊 の 漁
に 背 く こ と で あ る が、 長 年 入 漁 し て
そこで、他国者を留めることは国法
で甚だ困窮している。
いませんでした。競合相手がいなければ、
師)の中には村の女性となじみになっ
次に、地元に競合する漁師がいないか、
たのに、生ケ舟はそうしていなかったの
トラブルなく入漁できます。
熊野など相当遠い所から活魚を運ぶこと
所にあります。もちろん生ケ船があれば、
坂や和歌山などの大都市に比較的近い場
す。釣魚は鮮度が命です。津久野浦は大
また、消費地に近いことが挙げられま
とによって家職が成り立つようになれ
る。また、彼らから釣漁を習得するこ
段々と親類が増えるようなことにもな
ることによって、一軒でも家が存続し、
認してもらえれば、浦に
「足留メ」
させ
ている者もいるので、この「内縁」
を黙
ま で 文 書 で 確 認 で き ま す が、 寛 政 四 年
以上のような彼らの入漁の様子は幕末
を惜しんだためだと思われます。
(一七九二)
には、津久野浦と比井浦合わ
はできますが、魚の「活き」
、それから輸
を陸上げして魚を死なせ、値が下がるの
漁船は朝のうちに陸上げして無事だっ
は、既に生簀にいくらかの魚があり、船
に売ったものと思われます。
りに行くか、あるいは買いに来る出買船
した。魚は生ケ舟で生かしておき、ころ
釣の場合には、餌の入手がしやすいこ
のでしょう。
~一七〇三)の頃から代々、
らは貞享・元禄(一六八四
この文書によると、彼
良い漁場
1
(破船した船に乗ってい
◆
やって来たのでしょう。
地図 津久野浦と阿波国北泊・堂浦
あいを見計らって大坂や和歌山などに売
唐子
せて七〇艘もの入漁・据浦があったこと
3
湯浅
沼島
比井
日ノ岬
伊島
和歌山
雑賀崎
堂浦
加太
友ヶ島
淡路島
北泊
で生活してもらうことによって現在の糧
といえましょう。漁師を引き留め、ここ
況が、堂ノ浦・北泊漁師の入漁を促した
れ、引き留めざるを得ない津久野浦の状
このような、積極的に入漁者を受け入
てもらいたい。
るので、何とか内縁と引留めを黙認し
ば、少しでも御役金が上納しやすくな
家は、どうやら裁量でこれをある程度見
税・徴収しなければなりませんが、塩崎
分口銀は、本来全ての漁獲物について課
定額を上納して請け負っていました。二
浦の御口前所の運営は、塩崎家が藩に一
である二分口銀を徴収しますが、津久野
口前所」という役所は、魚などの流通税
す。紀州藩内の多くの浦方にあった「御
た魚は生ケ船を持つショウヌシに売りま
ぜい四人乗って操業したようです。釣っ
で捕ってきました。
昔から捕ってきた場所である由良湊内
当 地 で 全 く 捕 れ な く な り、 や む な く、
先年から、七月末から八月にかけては
沖 で 彼 ら が 小 網 で 捕 っ て い ま し た が、
て助けになることです。
けの商売も生じることから、浦にとっ
稼ぎをすることは、宿泊料や、彼ら向
堂ノ浦・北泊の釣漁師が三ケ浦で漁
漁師の据浦が近年は少なくなっていると
不漁と諸物価高騰のために他所からの釣
三九七のうち、「慶応弐年御用達控」)に、
慶 応 二 年( 一 八 六 六 )の 文 書( 資 料
現れたりすると、このような
「外圧」を契
り、あるいはより条件の良い場所が他に
の漁場や沖合で餌や魚が捕れなくなった
古来の仕来りがあったとしても、据浦
漁師たちは、ショウヌシとの取決めの
に据浦しなければ網を曳かせなくなり、
い ま し た が、 四、五 年 前 か ら は 神 谷 浦
ま し た。 最 初 は 話 し 合 い で 解 決 し て
が入漁を拒んで漁船を引き上げたりし
し か し、 七、八 年 前 か ら 神 谷 浦 の 者
伝える文書はありません。
津久野浦での堂ノ浦・北泊漁師の足跡を
ることが分かる(資料一八八)ほかには、
(一八七二)に北泊に嫁入りした女性がい
の記述があります。その後は、明治五年
てくるのでした。
機に据浦する場としての優位性が失われ
を、漁師の技術を習得するによって将来
逃していたようです。このことも、津久
な い 季 節 に は、 自 由 に 操 業 す る こ と も
やむなくモヤイのうち一艘だけを神谷
釣漁の餌にする小エビは、三ケ浦の
この後、津久野浦では少しずつ釣漁師
の糧を、それぞれ得ようとしたのです。
あったようです。その場合でも、モヤイ
浦に据浦させ、曳いておりました。
いきました。
入◆ 漁生活
入漁者の
「据浦」
生活は、一体どのよう
て、彼らはより良い漁場の近くに拠点を
優遇や、時には塩崎家から借銀などもし
は自由であっても、先に述べた税制上の
ことになったため、七月末から九月ま
は一艘たりとも網を曳かせないという
控 」)。 こ の 漁 師 た ち は、 か つ て 阿 波 の
ち、「 明 治 五 年 申 年 よ り 明 治 八 年 御 用 達
漁師が一五名いました(資料三九七のう
し か し、 明 治 六 年、 津 久 野 浦 に は 釣
野浦での据浦を促した一因でしょう。
で
(数艘でグループを組んで)操業しまし
が出て、
「廻船稼ぎと釣漁の浦」
となって
た。ただし、据浦はいつもの浦でしなけ
す。 そ し て 津 久 野 浦 と、 隣 接 す る 比 井
での間、全ての漁師が神谷浦に据浦し
漁師たちが技術を教えた人たちの子孫
移してしまったのでしょうか。
浦・唐子浦に分散して船掛かりし、いく
ていることがあったからです。たとえ据
てしまい、三ケ浦の宿や漁師との小商
で す。 阿 波 の 漁 師 の 血 を 引 く 者 も い た
なものだったのでしょうか。
明治になり、「据浦」の縛りがなくなっ
堂ノ浦・北泊漁師は、先述したように
ればなりませんでした。ショウヌシから
らか宿賃を払って各浦の
「宿」
に宿泊しま
浦近くで不漁になったり、遠くに好漁場
漁師たちは昔から三ケ浦で据浦して
いをしている者は難儀しております。
そうすると去年は、据浦しない者に
ショウヌシに率いられて毎年やって来ま
す。宿賃は、津久野浦住人にとって貴重
を見付けたりしても、据浦を替える「浦
かもしれません。 (藤隆宏)
替」
は簡単には許されませんでした。
おり、不漁で難渋している漁師などに
な収入源でした。排泄物なども、畑の肥
江◆ 戸時代後期以降の動向
やしになったことでしょう。なお、
「宿」
は、彼らの身元引受人にもなります。
南の海域に好漁場を見付けた堂ノ浦の漁
の仕来りどおり、三ケ浦に据浦するこ
卒、「御上之御威光を以」って、昔から
外浦へ据浦されては甚だ難儀です。何
日本常民文化研究所
『日本水産史』
宮本常一
『海に生きる人びと』
落の経済構造」
磯崎てるみ「近世中後期、紀州浦方小村
師が、例年の宿に据浦せず、「抜釣」して
との障りをなくし、由良湊内での餌漁
*参考文献
ある塩崎家が藩から特別に許可をもらい、
いるのが見付かり、詫び状を出していま
は「仕出銀」なども出しておりますので、
他 国 漁 師 に 提 供 す る た め に 酒 を 仕 入 れ、
す
(資料二)
。
文化四年
(一八〇七)、津久野浦沖より
販売していました
(資料三六九。
『県史近
津 久 野・比 井・唐 子 の 三 浦 の 庄 屋・肝 煎
神谷浦に据浦しなければ餌が取れない
ますよう、お願い申し上げます。
周辺地域の漁撈用具と習俗』
瀬戸内海歴史民俗資料館『瀬戸内海及び
『和歌山縣海草郡誌』
と
「宿総代」
が連名で大庄屋宛てに願書を
を拒ませないよう、仰せ付けください
三八一)
。 松 葉 の こ と で、 船 底 を 焼 い て
ので、漁師たちは「浦替」せざるを得なく
その二〇年後の文政十年(一八二七)、
消毒する
「船たで」
に用いられたのだと思
出しています。
(資料三九七のうち、「文
塩崎昇『塩崎家文書一・二』
われます。
なっていたのです。
彼らは、カンコ船一艘に三人か、せい
政十年御用達控」
)。
に「松」を販売した記録もあります(資料
世史料五』
四八八頁)
。また、堂ノ浦漁師
津久野浦では、庄屋であり、商人でも
◆
4
◆
第 39 号(平成 26 年 3 月発行)
和歌山県立文書館だより
最先端技術です
広告1は、
「煮炊厨炉」とあることから、
ばい かい
てん
すこぶ
さ ら に は「 炉ノ効 要 及 経 済 上ノ比 例 右 之
もうすべく
(広告文)
一
蓄音機 大新進工歩夫至
の 急広告
蓄音機は更に新工夫を加へて一大進歩を為し目下其品漸く本堂に
着荷したり●従来の蓄音機に比ぶれば其特色の要点は左の如し
(蓄音機の図)
●音声非常に高朗にして従前の如く低声にあらず
●喇叭ハニッケル鍍なれば少しも音声を案ずる事なし
●機械の要部に塵除を附けたれバ塵埃の入る憂なし
●蝋管の製造ハ従前に比ぶれバ堅硬にして肉厚し故に如何なる炎
暑にても溶解することなく志かも永遠に保存して変調する事なし
甲種 金六拾円
価格ハ 乙種 金四拾八円
丙種 金三拾八円
●市外 送料金五十銭
新工夫一大進歩の蓄音機第一着荷ハ員数に限りありを以て御望
の紳士閣秀早々御来需あそばされ度後れてハ人手に渡るべく候
早々頓首
さん
さい む
そうりょう
せいふう
驚きを禁じえません。 (松島由佳)
が、あくまでも、「室内用」であることに
と涼しさを感じることが出来るようです
颯々」となり、「全身の爽涼言ふべからず」
さっさつ
て 奮 飛 昇 騰 し。 散 じ て 細 霧 を 生 じ 清 風
ふ ん び しょうとう
暑 い 夏 に 使 用 す れ ば「 爆 水 轟 然 と し
ば く す い ごう ぜん
広告文によると「軽便瀑布」とあります。
けいべん ば く ふ
広告3は、簡易型の噴水でしょうか?
}
パネル展示の紹介
び�くり!
今のコンロのことでしょうか。
まき
当時は台所に備え付のかまど(へっつい
ていたようです。そこでこの「煮炊厨炉」
いたため天井が煤や煙などで汚れたりし
明治の 新聞広告
明治時代に発行された新聞から、そこ
すす
さん)が主流でしたが、燃料に薪を使って
に掲載されていた広告をとりあげ、展示
くすぶ
に取りかえれば、木炭を使うので、「家ノ
燻リ又ハ煤 灰ヲ點スルコトナシ 」、 と な
しました。
明治に生きた私たちのご先祖様たちが、
り、また熱効率もいいのでしょうか、「飯
そのあじ
ヲ炊クニ幾 升ニテモ十 五 分 間 乃 至 廿 分 間
ないし
暮らしの中で日々目にしたであろう新
聞広告の一部をご覧いただけます。
うれ
ニテ足レリ、 且 不 熟ノ憂ヒナク其 味 頗ル
じゅく
時 代 の 最 先 端 を 行 く も の か ら、
「 え?
美ナリ」と、 そ の 効 果 を 売 り 込 ん で い ま
ふ
こんなものがあったのか」とびっくり!
す。 さ ら に 燃 料 費 の 節 約 に も な る こ と を
通ニ御 座 候 付 御 試 験 御 所 望 之 諸 君 御 一 報
従来の「改良釜」と具体的な数字で比較し、
解なものもありますが、新しい技術や知
くだされそうらわ
ります。当時は郵便はがきが一枚一銭五
う。価格は三種類で、甲種で六拾円とあ
普及するには至っていなかったのでしょ
ることから、この時期はまだ一般家庭に
劇場のような場所でお披露目されてい
大々的に広告されています。
「 蓄 音 器 新 工 夫 一 大 進 歩 の 至 急 広 告 」と
より古い型とみられます。しかしながら
であることから、一般に普及した円盤式
が、音を再生するレコードの部分が筒型
広告にある蓄音機の動力はバネ式です
一八九六年(明治二十九年)頃でした。
され、日本へ商品として輸入されたのは
ンによって一八七七年(明治十年)
に発明
広告2は蓄音機です。蓄音機はエジソ
広告2 『牟婁新報』
明治 34 年 1 月 2 日他
厘、封書は三銭(四匁ごと)でした。
(広告文)◎暑しらず =
夏わすれ●
炎帝威を逞ふし、身は釜中に在るが如く。恰も蒸すに似
たり、此時に際し本器を室内に置かば、巧妙なる機械の
装置により。爆水轟然として奮飛昇騰し。散じて細霧を
生じ清風颯々として来り、満室頓に冷を感じ、全身の爽
涼言ふべからず。実に是れ当代の好具、夏時必須の要器。
全部金属製外部黒漆塗金蒔絵頗美麗高尚室内装
飾適当●正価甲号壹円五十銭●乙号壹円●荷造
費送料共各壹個ニ付金参拾銭為替高槻局宛●取
次販売望の方は至急御申込みを乞
5
今日の私たちからすれば、相当に不可
識を臆することなく吸収していった明治
被下候ハ早速持参御説明可申候」と、何と
広告1 『和歌山日日新聞』
明治 23 年 8 月 8 日他
ごしょもう
という時代の風潮を感じ取っていただけ
も熱の入った宣伝がなされています。
ござそうろう
( に)つき
ればと思います。
(広告文)専売特許煮炊厨炉広告(中略)
火焔散逸セザルヲ以テ火災ノ憂ナシ
厨炉ノ効要ハ
厨炉ノ効要ハ 薪材ヲ要ゼザル故ニ家ノ燻リ又ハ煤
灰ヲ點スルコトナシ
厨炉ノ効要ハ 飯ヲ炊クニ幾升ニテモ十五分間乃至
廿分間ニテ足レリ且不熟ノ憂ヒナク
其味頗ル美ナリ
厨炉ノ効要ハ 飯ニ不限何成共煮焼自由ニシテ且持
運ニ至極便利ナリ
釜鍋ハ是迄御使用ノ者ヲ用ユルヲ得
厨炉ノ効要ハ
厨炉ノ効要ハ 場所ヲ取ラズ且従来ノ薪材ノ置場ハ
他事ニ使用スルヲ得
厨炉ノ効要ハ 炊煮ノ時間内ニ他ノ仕事カ出来ル
厨炉ノ効要ハ 木炭ヲ使用シテ旧法薪材ノ三分ノ二
以上ノ利益アリ
経済比例(人口七八人ノ家内)
従来ノ改良釜一日分平均 厨炉一日分平均
薪材二貫目此代三銭
木炭三百目此代九厘
此三六五日分金拾壱円 此三六五日分金三円三拾銭
差引七円七拾錢ノ利益
但木炭ハ三銭ノ阿波炭ヲ用ヒ薪材ハ壱貫目壱銭五厘ノ小割
木ヲ用ヒテ試験セリ
炉ノ効要及経済上ノ比例右之通ニ御座候付御試験御所望之
諸君御一報被下候ハ早速持参御説明可申候(以下略)
広告 3『紀伊毎日』
明治 32 年 7 月 11 日他
するものを抜粋しました。
和歌山県立文書館だより
第 39 号(平成 26 年 3 月発行)
譜、文政十三年(一八三〇)から安政五年
文 書 三 六 点 を 追 加 寄 贈 い た だ き ま し た。
所在した父川家(屋号「鍋屋」)に伝わった
平成二十四年度に続き、橋本市東家に
どですが、同家は、長教・信教直系とい
宮社司を勤めた保の神職に関する記録な
保寺見廻り役の役職や明治期に紀州東照
(一八五八)
まで遊佐内記正教が勤めた長
た川端家に伝わった文書約二〇点ですが、
う由緒をねつ造して仕官したようで、由
父川家文書(橋本市東家)
そのほとんどは、和歌山市元寺町一丁目
今回寄贈分には、文政期(一八一八~)か
緒のねつ造・修正の過程が分かる興味深
平成二十五年度新収古文書の紹介
よって新収した古文書の概要を紹介しま
にあったという
「佐野家」に関する文書で
い文書群です。
平成二十五年度に当館が寄贈・寄託に
す。これらについては、これから番号付
ら明治後期に至る父川兵五郎に係る田畑
賀郡孟子村、同年からは北野上村の大字、
海南市孟子は、明治二十二年までは那
本紙「日高郡津久野浦に来た阿波の釣漁
塩崎家文書(日高町津久野)
予定です。
とともに和歌山県立博物館に寄贈される
茶道具、神主装束、和歌祭の祭礼具など
作成を終え、同家に伝わった刀・脇差し、
既 にマイクロフィルム撮 影 及 び 複 製 物
なお、これらの文書は、当館において
名寄帳や証文類のほか、東家村会議員当
心二〇人分の武具に係る「請取申御道具
もう こ
文書などがあります。
選証書(明治十七年)、
「明徳講」に関する
す。現在のところ、両家の関係は分かり
内容は、佐野家が営んでいた煙草小売
ません。
業の計算書や習字の手本などのほか、佐
け、目録作り、複製物作成など、皆様に
ます。なお、整理中の文書は、出納に時
野藤祐なる紀州藩家臣の関係文書である
ご利用いただくための整理を進めていき
間がかかったり、ご利用になれない場合
之事」
、明治二年に藤祐ら二〇名から鮎
そして昭和三十年(一九五五)からは海南
孟子区有文書(海南市孟子)
沢三郎右衛門に提出された「就切支丹宗
市の大字として続く地域です。
嘉永元年
(一八四八)の三上林右衛門預同
があります。ご利用にあたっては、事前
に当館にご連絡ください。
門御改一札之事」
、同十年に藤祐の隠居
海部郡和歌村役場
「蠣海苔及漁業其他必用書類留」
及びうめの家督相続が認められた和歌山
孟子区有文書は、江戸時代の孟子村か
明治五年
(一八七二)
から同三十年まで
検地帳(慶長六年(一六〇一))の写し(元
がれてきた約二〇〇点の文書群で、慶長
を務めました。また、紀州藩の流通税を
業を行うとともに、代々津久野浦の庄屋
塩 崎 家 は、 江 戸 時 代、 農 業・商 業・漁
師たち」で取り上げた文書約七〇〇点です。
禄十年(一六九七)作成)などの近世文書
取り立てる役所である御口前所の運営も
ら現在まで代々作成・取得され、引き継
のほか、明治四十年頃から現代に至る大
請け負いました。
0
の海部郡和歌村役場(同二十九年からは
県庁からの証書などがあります。
平成二十四年度に続いて追加寄贈され
字(区)の運営に関する記録がまとまって
かき
資料目録第三集』
(一九五一年)の資料番
財団法人日本常民文化研究所『漁業制度
6
0
海草郡。現和歌山市)の水産業関係公文
た文書約五〇〇点です。今回寄贈分には、
残っています。
や二歩口役所・御口前所の運営実態、関
やつ い
活動、蠣・海苔業及び和歌公園成立に係
地主経営や質業の関係文書のほか、谷井
東地方への出漁を含む漁業・漁村の発生・
谷井家文書(和歌山市関戸)
る重要資料として既に知られています
勘蔵が株式会社四十三銀行取締役、紀陽
特に、戦中・戦後期の区会の記録や区
展 開 に 関 す る 第 一 級 の 研 究 資 料 で あ り、
明治期における和歌の浦の景観保全
が、旧蔵者の和歌川漁業協同組合が平成
へ の 通 達 な ど は 貴 重 で あ る た め、
『海南
書がまとめられた文書一冊です。
二十六年三月をもって解散するため、当
貯蓄銀行
(紀陽銀行の前身)頭取、和歌山
市史史料編Ⅲ』に多く翻刻されています。
既に『和歌山県史』をはじめ多くの研究で
同家文書は、紀州藩における浦方支配
館に寄贈されました。
県農工銀行頭取等を歴任した時期におけ
遊佐家文書
内守長教・信教親子の直系の子孫である
号で原本の出納が可能です。
な お、 同 家 文 書 は 現 在 未 撮 影 で す が、
取り上げられてきました。
として、寛永十三年
(一六三六)に紀州藩
戦国時代の有名な河内国守護代遊佐河
に召し抱えられ、以後代々藩士として明
などもあります。
なお、当館のほか、一部の古文書は和
については、次号でご紹介します。
※平成二十六年二月以降の新収古文書
歌山市立博物館、濟一の考古学関係の資
内 容 は、 同 家 及 び 養 子 の 実 方 の 家
治まで続いた家の文書約一五〇点です。
れています。
料は和歌山県立紀伊風土記の丘に寄贈さ
に衆議院議員選挙に立候補した際の資料
者であった濟一が大正十三年(一九二四)
せいいつ
ます。また、勘蔵の子息で著名な考古学
る各社役員らとの往復書簡が多く含まれ
川端章子氏寄贈文書
海南市下津町で代々煙草商を営んでい
明治五年六月ヨリ
蠣海苔及漁業其他必用書類留
海部郡和歌村役場
第 39 号(平成 26 年 3 月発行)
和歌山県立文書館だより
平成二十五年度 歴史講座
月 日
(土)
幕末城下町和歌山に暮らした人々
第1回 本町編
第2回 四丁町編
月 日
(土)
月 日
(土)
回 その他
アンケートより抜粋
・和歌山に生まれそして育った、私の
平成二十五年度 古文書講座Ⅱ
「入門者向け」アンケートより
・基 本 的 な
えていただい
くずし方を教
二回に分け開催しました。その二回目と
て、 な る ほ ど
今 年 度 の 古 文 書 講 座 は Ⅰ・Ⅱ と し て、
ら、その面影はあまり無く、心細かった
して、十一月から十二月にかけて、古文
郷土ではあるけれど、城下町でありなが
のですが、この講座を聴講して息がつけ
だと思いまし
ない字にも興
た。 全 く 読 め
味がわいてき
昨年度完成しました『諸家文書目録二』、
書講座Ⅱを開催しました。
その中の中筋家文書には大庄屋を務めた
ました。
・須山先生の熱心な講義が心に残りま
た思いがします。
した。和歌山市内に長く住んでいながら
際の古文書が残っています。この大庄屋
各回の講座内容は、次のとおりです。
農兵砲術稽古
入門者向け
けい こ
た人独特の表
わ し や、 書 い
独特の言いま
・江 戸 時 代
「初級・中級者向け」アンケートより
ので、ギブアップしませんでした。
したが、わかり易く説明していただいた
古文書講座で
・初 め て の
文書を使って、遊佐教寛研究員がわかり
て認識を新たにしました。
様子も興味深かった、出火のてんまつ話
やすく解説しました。
「幕末の和歌山」
を殆ど知らない私にとっ
・表に出る歴史というよりも、城下町
しの中の情報が頂けて有難かった。城案
第
今年度の歴史講座は、きのくに志学館
内の際にも小話的に使える事も多々あっ
に住む人々の日常がわかるような、くら
講 義・研 修 室 を 会 場 に【 幕 末 城 下 町 和 歌
・橋の大破や架け替え工事の話は面白
た。
などから、町人の暮らしも見えてくる。
第1回 稽古はじめ
月 日(火)
第2回 農民進級
月 日(火)
現 が、 読 解 を
更に分かりに
くくしている
が、 そ れ も な
かなか面白い
ものですね。
7
回にわたって開催しました。
ちょう じ
の「御用留」をはじめ、さまざまな史資料
かった。治宝死去後の停止事項・解禁の
を参考として、町人町の両替商・質屋・本
・
「御用留」等からこれだけ当時の生活
当 館 の 須 山 副 主 査 が、 幕 末 期 の 城 下 町
屋・酒屋等を可能なかぎり掘り起こし、そ
が見えてくるのかと嬉しい喜びでした。
初級・中級者向け
日(火)
・記 さ れ て
・国史は大好きでよく読んでいるので
回 人相書き
いる事柄の意味状況、背景など、ていね
「入門者向け」講座には、延べ八二名、
すが、古文書に触れたことは余りなかっ
日(火)
方 か ら「 興 味
名の出席があり、アンケートでは半数以
「初級・中級者向け」講座は、延べ一一五
月
深くおもしろ
たので、江戸後期の農兵についての実際
いにわかりやすくご指導下さり、文書へ
か っ た 」と の
上の方から「興味深くおもしろかった」
と
に触れ得て、興味深く受講できました。
の関心が深まりました。
回答をいただ
第
第2回 ミニエール銃
第1回 空砲火入れ調練
26 19
日(火)
月
3
月
10
の回答をいただきました。
みじかに感じられてきました。
・新しい知見が得られました、幕末も
の実態をイメージできるようにしました。
雨で足元の
悪い日もある
中、三日間で、
延べ一三九名
17
2
の方が受講さ
11 11
9
れ、受講後の
12
23
アンケートで
12
10
は半数以上の
12
10
きました。
3
10
3
山 に 暮 ら し た 人 々】をテーマと し て、 三
和歌山県立文書館だより
第 39 号(平成 26 年 3 月発行)
和 歌 山 県開立館文二書十館周 年 記 念
『 古 文 書 徹 底 解 釈 紀 州 の 歴 史 』の 刊 行
収蔵史料目録一三
『 紀 美 野 町 福 田 岡 本 家 文 書 目 録 』の 刊 行
文書館の利用案内
うち九三〇点は和歌山県指定文化財で
年にかけての約四、〇〇〇点の文書群で、
検 索 し、閲 覧 申 請
な 資 料、文 書 等 を
ある目録等で必要
■利用方法
の開館二十周を記念して、平成八年以来、
す。このたび刊行した目録収録の各文書
◆閲覧室受付に
百数十回にわたって開催してきた古文書
書に記入のうえ受
岡 本 家 文 書 は、 江 戸 時 代 か ら 昭 和 初
講座で取り上げた資料の中から古文書を
は、一部のものを除き、複製物による閲
那賀郡神野組福田村は、江戸時代を通
の受付は閉館 分
さい。文書等利用
代にわたって書き継がれた日記が残って
和歌山駅・南海電鉄和歌山市駅から
■交通のごあんない
◆
号
バスで約 分
◆和歌山バス高松バス停下車徒歩約3分
和歌山県立文書館だより 第
20
平成五年七月三十一日に開館した当館
厳選し、徹底的に読解しました。
付に提出してくだ
じて高野山寺領でした。岡本家は、高野
こう の
覧・複写が可能です。
古文書の写真にその読みや現代語訳を
添 え た ば か り で な く、 歴 史 用 語 に つ い て
の 解 説 は も ち ろ ん、 敬 語 や 補 助 動 詞 な ど
前までです。
参考資料は自由に閲覧してください。
◆ 閲 覧 室 書 棚 に 配 架 し て い る 行 政 資 料、
同家文書には、
「万代日並記」(写真)と
請書に記入のうえ受付に提出してくだ
◆複写を希望される場合は、複写承認申
山から地士という格を与えられ、庄屋役
名付けられた、天明六年(一七八六)から
や触頭を務めた家でした。
教 材 は、 二 つ の 物 語 に 仕 立 て ま し た。
文久三年
(一八六三)までの七七年間、三
語法についても疑問の余地のないように
古文書を読み、近世の歴史が分かります。
詳しく説明し、文意を徹底的に解釈します。
・つるの嫁入り
海士郡塩津浦の百姓の娘つるが、天保
います。その日の天気や、その日誰が何
開 館 時 間
さい。複写サービスは有料です。
八年
(一八三七)
に梅田村の武兵衛に嫁入
をしたのかを中心に、イエの行事、高野
0
り し ま す。 嫁 入 り の 手 続、 土 地 の 売 買、
山や近隣の人々とのやりとりなどが公私
0
息子の元服、お救い米の願上げ、大風雨
◆火曜日~金曜日 時~午後6時
◆土・日曜日・祝日及び振替休日 時~午後5時
午前
にわたって書かれているほか、安政の大
地震
(一八五四)
や、文久三年の天誅組の
午前
の被害など、つるが没するまでの約三〇
年 間 に わ た る、 つ る・武 兵 衛 一 家・村 の
乱 な ど の 大 事 件 に つ い て の 記 載 も あ り、
貴重な記録となっています。
暮らしを覗きます。
・偽一九と書物屋喜一郎
■休館日
◆月曜日(祝日又は振替休日と重なると
こ の ほ か、 同
家が発端となっ
城下町和歌山の書物屋坂本屋喜一郎・
大二郎兄弟は、天保五年
(一八三四)
以降、
た 安 永 五 年
揆 や、 寺 領 内 の
・1月4日
ひとり
買い物ガイドブック
『和歌山買物独案内』
きは、その後の平日)
◆年末年始 月 日~1月3日
◆館内整理日
を願いますが、なかなか認められません。
地士・帯刀人らで
8
JR
平成 年 月 日 発 行
編集・発行 和歌山県立文書館
〒六四一 〇〇五一
和歌山市西高松一丁目七 三八
きのくに志学館内
電 話 〇七三 四三六 九五四〇
FAX 〇七三 四三六 九五四一
印 刷 株式会社ウイング
39
-
( 一 七 七 六 )の 一
その間、有名な江戸の戯作者十返舎一九
組織された「高野
(月曜日のときは、5日)
・2月~ 月 第2木曜日
日間(年1回)
(祝日と重なるときは、その翌日)
・特別整理期間 --
30
の出版を企て、町奉行所にたびたび許可
も現れて、全く同じ企画を江戸で進めて
隊」に関する記録
などがあります。
いるといわれ、慌てふためきます。とこ
ろが一九は、四年前に既に没しているの
です。
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3
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第 39 号(平成 26 年 3 月発行)
和歌山県立文書館だより