1 迎 昭典 氏による 元鹿島市教育長 な べ し ま な お よ し 「最後の名君鍋島直彬公展」ギャラリートーク 平成25年1月19日(土)10:00~ エイブル2階 交流プラザ おはようございます。ご紹介いただいた迎昭典と申します。 まず最初に、直彬公の全体像を皆さんと一緒につかみたいと思 いますので、お手元の資料の「鍋島直彬公について」を読みなが ら説明をします。 ※1 直彬公は、旭ヶ岡公園の高台の方に大きな銅像がありますが、 ※1 あれは昭和40年代になってから作ったものです。それ以前の昭和10年に できたものは、戦争中に金属は全部国に出さないといけなかったので、その 時にあの銅像も出す事になって最初に作られたものは実はないのです。戦後 になって直彬公をしのんでもう一回つくろうという事でできたのが今の銅 ※2 像です。非常に立派なものです。その原型が、そこの床の間コーナーに飾っ てあります。 ※2 その銅像の裏に、今ではほとんど行く人はありませんが、し ゃがんで見ないと読めないような位置に、銅版で刻印をしてあ ります。それがお手元にもう一枚お配りした資料「鍋島直彬公 略歴」です。これが鹿島に伝わっている正式な直彬公の履歴で す。非常に要領良くまとめてあります。もしできれば、この銅 像の裏側に行って読んでいただきたいと思います。私は写真でも撮りましたし、実際書 き写してまいりました。そして、それをわかりやすく書いたものが、今から皆さんと読む「鍋島直彬 公について」です。 言うまでもなく直彬公は鹿島藩最後の殿様です。私達が見慣れている銅像や写真の顔は非常にいか めしい、歳をとった熟年の像ですが、実際は、この方が藩主になられたのは数え年 6 歳の時です。直 彬公は 12 月生まれですから、満でいえば4歳、まだ幼稚園も行くか行かないかという頃に藩主の跡 を継いだのです。 当時いろいろと事情があって、佐賀藩によって鹿島藩はつぶされそうになりました。佐賀藩は鹿島 藩をつぶして佐賀藩の領土の一部にしたい、そういう願いを幕府に出すのです。ところが幕府は本当 に鹿島には跡継ぎがいないのか、幕府自身の手によって江戸藩邸に行って調べるんですね。ところが 鹿島藩には直永公の子供が、まだ4歳だけど、いるじゃないか、それをなぜつぶしてまで鹿島藩を合 併するのかと。今度は佐賀藩が非常に慌てましてね、どうかすると佐賀藩は取り潰しにもなりかねな いので慌てて、これからはこの直彬公をたてて鹿島藩を存続させますということで残ったんですね。 それほどに直彬公というのは小さな時から大変利発な子供さんであったらしいです。 2 ちょっと読んでみますね、 「鍋島直彬公は、鹿島藩第13代の藩主で、天保14年(1843年ですから今生きておられれば か と く つ 170歳になりますね) 、鹿島で生まれて、嘉永元年、数え年6歳で家督を嗣いで藩主になりました。 」 それにはいろいろないきさつがありましたけれども、鹿島では藩主として家督相続をします。でも、 正式には江戸の徳川幕府によって認められないといけないんですね、それで認めてもらうために鹿島 で家督相続が済んだ後江戸へ行くのです。初めて江戸へ行かれたのが11歳、それから鹿島に帰って 来るまで、17歳ですから6年間は江戸で過ごすのです。鹿島の殿様はほとんどそうですよ。つまり じゅ 満18歳にならないと幕府からは正式な跡継ぎと認めてもらえない。18歳になると官位・官職、従 ご い び ぜ ん のかみ 五位とか備前 守 とか、それで正式な藩主になるのです。ただこの人は、なぜか18歳になる前、17 歳の時に初めて藩主として江戸から鹿島に帰ってきました。安政 6 年です。 ※3 ※3 さんきんこうたい (鹿島藩参勤交替図絵の写真を指して)幕府から新 藩主として認められて初めて鹿島に帰ってきた時を はつにゅうぶ 初入部と言いますが、 これはその時の絵巻 物です。非常に珍しいもので、実物は床の間コーナーに飾ってありま 佐賀県立博物館蔵「鹿島藩参勤交替図絵」(床の間展示) す。長い巻物で、佐賀県立博物館所蔵です。佐賀県の宝ですね。 これには、前置きがずっと書いてあって、その時ついてきたものの名前も ほうきひ ほうき ずっとあります。一番最初が「箒引き」です。江戸からずっと箒 で掃いてい ほんじん くわけではなく、殿様が泊る宿(本陣)、或いは鹿島の城や江戸の屋敷に入る 時だけ箒で掃くわけです。 さきばこ はさ ばこ これは「先箱」というんですが、普通は挟み箱といって、竹で割って着 物など挟んで使います。なんで先箱というかというと、これは先にあって、 あ ばこ もうひとつ後ろにあるんですよ、これを「跡と箱」といいます。どっちも 挟み箱です。 や また、ここに「鎗り」がありますね。よくテレビでも出てきますが、真直ぐ立てると、3m ぐらい ありますよ。これを江戸から鹿島まで、或いは鹿島から江戸まで、真直ぐ立てていけるもんではない さおだけ ですね。普段はこれも竿竹のように肩にかついで、江戸へ着くときとか城へ行くときとかに、前後で 放り投げてやりとりするんですね。江戸時代は、武士の間で道具といえば鎗りの事ですから、道具を なぎなた 飾りたてています。「薙刀」もいろんな決まりがあって、誰もかれも同じ 鎗り、同じ薙刀を持っていいわけではないです。非常に厳しいきまりがあ りました。鹿島藩は、初代の鍋島忠茂さんが江戸に勤めて2代将軍秀忠の きんじゅう 近習として尽くしたので、特別に許されたのです。 こし か ご ひ ど この「輿」(駕籠)は、普通は引き戸といって横にすべらせて開けるの ですが、これは打ち上げの駕籠といって上に開ける方式のもので、これが上等だったのです。これが 3 許されている藩主は276大名ぐらいのうち30家ぐらいしかありません。鹿島藩は特別に許されて おります。だから非常に珍しいものです。 ひきうま くらおお これも現物は県立博物館にあると思いますが、引馬にかけている「鞍覆い」が、 とら かわ 虎の皮ですね。これを使っていい大名も非常に限られていました。大名は、自分 ひょう は虎の皮や豹 の皮を使いたいと思っても、勝手に使ってはいけない、幕府から許 可がないと駄目なのです、鹿島は非常に小さな、たった2万石の大名ですけど、 し づ さぶろう 幕府から特別に許可されていて、この打ち上げの輿、特別の志津三郎の薙刀、虎 の皮の鞍覆い、こういったものをつけていました。 ここまでがだいたい参勤交代の殿様の行列ですね。後は殿様の家臣のえらい人達、お医者さんや家 老などがついて、大体総勢120名ぐらいですね。 参勤交替するのに何日間ぐらいかかったかというと、この直彬公が安政6年に鹿島に帰ってくる時 は、40日間かかっています。若い人でもざっといかんですね。ちょうど梅雨時なんですよ。川を渡 れなかったり、歩けなかったりして途中留まることが多く、短くて大体32、3日、長い時には40 日以上、今計算すると江戸まで35日かかったとして、1日に歩く距離は40キロです。毎日ですよ。 しかも東海道といっても一番道が広いところで4m ぐらい、狭い所は2m ぐらいしかないんです。 テレビで見るより、坂道もあれば谷も沢もあって、非常に厳しい行軍で、それが毎日です。朝は大体 5時には出ます。そして日没まで歩き通しですね。フルマラソンぐらいの距離を毎日、江戸まで1日 もかかさず歩き通しですから、ざっといかんですよね。 資料に戻ります。 「公は、若い鹿島生まれの藩主として、鹿島の人々の期待を一身に背負い、いろいろな改革に取り こうぶんかん ゆ う び どう 組みました。当時、やや乱れていた政治の改革を断行し、特に文武を奨励し、弘文館や有備堂などで 率先して厳しく指導に当たりました。 」 直彬公は武術も学問も好きで、非常に若い藩主でありましたが、鹿島に帰ると早速学校を建てます。 それが弘文館で、その碑が今の鹿島高校の赤門の前にあります。 いた しゅう ら く て い 「一方では、一般庶民をもよく労わりました。例えば文久2年、1862年には、城内に衆 楽亭を しゅう ら く え ん 築き、そのそばに衆 楽園と称する遊園地を設けて桜を植え、毎年城下すべての家庭から人びとを招い て「衆楽の宴」という観桜の会を開いて日々の労働の労をねぎらいました。これが、今の旭ヶ岡公園 のもととなったものです。 」 しゅう ら く え ん ※4 まつかげ 「衆 楽宴の碑」を皆さん、ご存知でしょうか。旭ヶ岡公園の松蔭神社 の方に向かって、その手前ちょっと右手の方に今も「衆楽宴の碑」とい う大きなものが残っていて、それにちゃんと書いてあります。当時一般 庶民を城の中に入れることさえ大ごとでしたが、一軒の家から一人ずつ ぶ れ い こ う 招いて無礼講でお酒をふるまい、池を作り、魚を放ちました。これが旭 ヶ岡公園のもととなっております。 ※4 4 「公は、かねてから勤王の大義を唱え、明治維新にあたっては新政府にあって大きな存在感を人々 に示しました。明治5年、1872年には率先してアメリカの政治経済の視察に出向き、帰国すると べいせいさつよう 『米政撮要』5巻を刊行してその英明さが新政府に感銘をあたえました。 」 日本の遣米使節、岩倉具視たちが行ったのが明治4年で、その翌年には自費で直彬公はアメリカに 渡っているわけです。このことが最近非常に見直されています。一地方のたかが2万石の藩主であっ た人が、明治時代になったとはいえ、自費でアメリカの政治経済の視察に行ったのですから。 はらただゆき む た ゆたか そのとき行ったのが3人で、鍋島直彬さんと原忠順さん、牟田 豊 さんです。牟田さんは後から文部 省に勤めて英語の通訳官になりますが、いま子孫は東京におられます。このまえ鹿島に来られました。 『米政撮要』という本は木版刷りで、いま祐徳博物館にあります。木版そのものも残っています。 か ぞ く 明治8年には華族子弟のための華族学校創設に尽力して、これがのちの学習院になります。そして じじゅう 34歳のとき明治天皇の侍従になっていきます。 それから明治12年37歳の時、直彬公は沖縄県最初の知事になります。大抜擢ですね。2年間で すが沖縄に行って、特に熱心だったのは教育とか衛生の普及ですね。沖縄から帰ってからは元老院議 官とか貴族院議員とかいろいろされて、大正4年(1915年)6月14日、直彬公は遂に亡くなり しょう に い くん に とう ます。朝廷からは正 二位勲二等が授与されました。再来年の2015年は、直彬公没後100年目に 当たります。 なんで直彬公は郷土の人々から慕われたのかというと、一つは鹿島におられた期間が非常に長いの ただしげ まさしげ ですよ。鹿島歴代の藩主、初代の忠茂、2代の正茂、その人達でも鹿島にいたのはわずか4年です。 ほとんどの人が江戸暮らしなのですよ。大体は6歳で行って18歳まで江戸にいないといけない。帰 ったとしても1年おきに参勤交代で行かなきゃなりませんから。廃藩置県で藩はなくなったとはいえ ですね、資料をちょっと読んでみます。 「明治維新にあたり、旧藩主ら華族は原則として東京に住居を定めるよう決められていましたが、 け ん ぎ し ょ 直彬公は旧藩主らは帰郷すべしという建議書を提出し、それが認められると真っ先に明治 23 年 せき (1890)東京から鹿島へ籍を移し帰ってきました。 」 ここが直彬公の非常に偉いところです。もとの藩主は300公ばかりいたわけですが、全部、明治 お ぎ はすのいけ 維新政府によって東京に住居が定められました。佐賀も、小城も、蓮池も、もちろん行くんですね。 そしてそのままです。ところが直彬公は、もとの藩主が東京にいても何にも仕事はしていない、もっ と自分の故郷に帰って、故郷の産業経済発展のためにつくすべきだという建議書を出すのです。それ ※5 が認められると真先に鹿島に帰ってきて、本籍も東京から鹿島に移して、その後 ずっと亡くなるまで鹿島におりました。そこのところが他の藩主とは違うし、え らいところだと思いますね。 ※5 銅像の裏の「鍋島直彬公略歴」には、非常に簡潔に要領良く直彬公の略歴が書 いてあります。その最後の部分を読んでみます。 し し つ ちゅう と く えいめい けんどう し こう 「公、資質 忠 篤にして英明、萱堂につかえて至孝、(萱堂とはお母さんのこと。 かや なぜ萱堂かというと、昔は隠居したお母さんは家の北の方に住み、そこの庭園に萱 5 ※6 けんたい をよく植えていたから萱堂ですね)君側に侍して純忠、出でては国事に勤めて献替の誠をいたし、入 ざ さ きんげん っては風を移し、俗をかえ力を郷土の振興に尽くす。加うるに詩文書画に長じ、日常の坐作謹厳にし たんせい いにしえ せいけん きょうとう しゅうしょ つ い ぼ かんおん うた せつ て端正、 古 の聖賢を目前に見るが如かりしと言う。郷党の衆庶今に及びて追慕感恩の情、転た切な じ じ ん はか え い し るものあり。誠に故ありと言う可し。昭和10年時人あい謀りて、その銅像を建て英姿を永遠に伝え おも んとす。ここにその略歴を記して後人公を憶うの一助となす。 」 今ある銅像は昭和44年頃できたものですが、その前に同じものができた時に書かれたものです。 [※6 献替…主君を補佐し、 善を勧めて悪をいさめること。] なおよし 次に、 「鍋島直彬公関係年表」を見てください。 なおさが 13代の直彬公は誰の子供かというと、12代直賢さんの子供ではないのです。直賢さんももちろ ようじょう ん江戸に家督相続を認めてもらうために行きますが、病弱なため、官職を得ないまま、養生のために なおはる なおのり 佐賀に帰ってきます、鹿島ではなく。その前の直晴さんは9代直彛さんの子供で、非常に期待された 若き藩主でした。しかし、初めて家督相続の許しを得るために江戸に向かう途中、京都の伏見で一夜 の内に死んでしまいます。鹿島の者は残念このうえなしです。英明な期待された藩主でしたが、参勤 交替もせぬまま家督相続を認めてもらいに行く途中で亡くなりました。 な お なが あさ やなぎおか 直彬さんは10代直永さんの子供なんです。直永さんの奥さんの朝さん、鹿島の人にとっては柳岡 さんという名で非常に有名ですね。この人は大変長生きしています。大体お母さんがえらいと息子は が く し ろ う 良いですね、今でもそうですが(笑)。この直永さんと朝さんの間には、実際は長男の学四郎という 人がいました。しかし、学四郎は朝さんの子供ではないんですね。だから佐賀藩に養子にやります。 くま じ ろ う 朝さんの本当の長男というのは早死しました。直彬公は幼名を熊次郎といい、実際は3男です。直彬 公は直永さんと朝さんの間の子供です。12代直賢さんが病気でどうもこうもならないときに佐賀藩 は鹿島藩をつぶそうとしたんですね。 天保14年(1843)に直彬公は生まれました。そして嘉永元年(1848)、第12代藩主直賢公 が職を退きます。それで、熊次郎改め直彬が13代藩主となるのです。直賢公は15歳ぐらいで引退 したんじゃないですかね。安政元年(1854)には実父の直永さんが亡くなります。この人も大体病 そくしつ 気がちでした。鹿島は佐賀藩からおしつけられた藩主ばかりですが、ほとんど佐賀藩主の側室の子で すね。それから病気がちですね。鹿島藩ももてないはずです。いま鹿島はしっかりしておりますが、 直彬さんが跡を継いだ頃は乱れ切っておりました。政治も経済もですね。そりゃそうでしょ、幼かっ さむらい たり病気がちの君主ばかりですからね。そのうえ上級 侍 、執政職はよいように悪の限りをつくして いましたから。そういうのを一掃したのがこの直彬さんです。その頃の鹿島の藩政というものはもう 見られたものじゃないです。本当に政治らしい政治は行われていない状況ですね。 ※7 けいどうこう じ け い ろ く それから「絅堂公自警録」ですが、昭和10年銅像ができた頃に当 時の鹿島中学校の生徒たちに配ったものですね。だからもうごくわず かしか残っていない。その時一回きりですから。直彬公が心にとめて ※7 6 じ か い ろ く 自分のために自戒録として書き留めた物、メモが見つかったのですよ。それを鍋島家から特別に許可 を受けて、もとの鹿島中学校の国語と漢文の先生が、生徒にもぜひ読ませたい、聞かせたい、という ことで本を出されたんです。これは沢山ありますから、ここで全部読むわけにはいきません。皆さん、 ざっと御覧ください。何か心に響くことがあるはずです。 直彬公のえらさは、自分に対して厳しく、人に対して謙虚ですね。常に反省を怠らない。やっぱり 殿様ですから、どんなにいばっても、無理難題を言っても貫くことができるはずですね。ところがこ の人は常に自分を磨く、自分を鍛える、自分を顧みる、それを忘れない、そういうところがこれに表 れています。非常に珍しいものです。ここの中に自らの諌めとしての自警録と、それから漢詩ですね、 この人は生涯にたくさん漢詩、漢文を作っているので、主なものを収めてあります。改めて自警録を 読んでみて、この人の人間としてのえらさ、単に藩主としてだけじゃなくてですね。そういうところ た ざ わ よ し は る た な か てつさぶろう かて に田澤義鋪さんとか田中鐡三郎さんとかも感銘をうけて、それを糧として人間をつくっていったんじ ゃないでしょうか。非常に難しい言葉もありますが、直彬公が自分に対して非常に厳しい自省するこ とを常に怠らなかったということがよく表れています。その時その時に書いたものをまとめたもので、 心のこもったものとなっております。 展示品の説明の前に、質問があれば受けます。 こうぶんかん ゆ う び ど う (質)先ほど弘文館は教えてもらいましたが、有備堂というのはどこにあったのでしょうか? (答)実ははっきりわかりません。そのころの藩校というのは全部民家を借りていて、普通の家なん ですよ。弘文館も、弘文館跡と書いてありますが、先ほどの柳岡さんの家の一室を借りていま した。有備堂は、どちらかというと剣道などの武術の稽古をするのが主だったんです。弘文館 こうぶんてんのう という名前は2年間ぐらいしかありませんでした。弘文天皇という天皇の名前に差しさわりが あるということで、名前が変わります。 はらただゆき む た ゆたか (質)原忠順さんは史跡がありますが、牟田 豊 さんの史跡は残っていますか? (答)私達がその頃の人をいろいろ調べる時は、一番最初は墓に行くのですよ。それからその頃の家 臣録を見ると、牟田豊さんは住所は浜になっていて、非常に優秀で長崎で英語を勉強したらし い。直彬さんについてアメリカに行きます。特に英語力が認められてそのまま文部省に召し抱 えられて、その事例などが残っております。晩年は少し不幸に終わっているようですが、もう 一度幕末に鹿島で活躍した人として、牟田さんを調べ直さなければいけないと思っています。 また、原忠順さんと直彬さんは水魚の交わりと いうくらい深い関係でしてね。原さんがいなか ったならば自分はなかっただろうというくら そんのう い信頼して、尊王に直彬が変わったのも原さん きんのう し し おおくましげのぶ の影響、原さんは鹿島で今の東大に初めて行った人で、そこで勤王の志士達と交わる。大隈重信 もそうですね、いま原邸は残っておりますが、鹿島最後の家老の屋敷です。原さんの大きな碑 7 なおただ も旭ヶ岡公園にあります。誰が書いたかというと直彬さんの息子の直縄さんが書いたものです。 原さんの影響は無視できないですね。 (質)私共の小さい頃、今の郵便局の所に牟田屋敷というのがありましたね。 む た まん じ ろ う (答)あれは実業家の牟田万次郎さんです、鹿島というよりも佐賀県が生んだ明治時代最大の実業家 です。鹿島選出の最初の県会議員でもあります。20代で議員をさっとやめて産業界に行き、 九州電力事業とか水道事業とかいろんな事業をされています。 (質)直彬さんが先人に学ぶという姿勢をもっておられて、先人を大切にされたようですが、当時ど ういふうにして先人のことを勉強されたのですか。 じ こ う じ い (答)だいたい藩主には侍講という家庭教師がつきます。藩主付きのお医者さんは侍医といいますね。 幼い期間鹿島の藩主は江戸で暮らしますが、そこで多くの学者と接する機会があるんですよ。 また他の大名と行き来する。そこでいろんなことを勉強する。それで直彬さんはこの際鹿島の か ふ 歴史をはっきりさせようということで、残っている資料を全部集めさせて、家譜を作成するん です。そのことで直彬さんは、鍋島家に残されている資料も膨大なものですけど、各藩士の家 に残されている資料も見て、鹿島の歴史を遡って調べています。だから学者としてもこの人は たいしたものだろうと思います。鹿島の歴史を明らかにしたという意味でもですね。折にふれ なおただ て息子の直縄さんに鹿島のことを書いていますよ。今回展示している直縄さんあての手紙にも、 鹿島の歴史を書いて、伝えていますね。 ※紙面の都合上、展示品の説明については省略させていただきました。(楽修大学事務局) 床の間コーナー展示風景(前期) 床の間コーナー展示風景(後期)
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