補聴器の歴史から見えてくること

『市民研通信』第 5 号
通巻 132 号 2010 年 11 月
補聴器の歴史から見えてくること
瀬野豪志
(東京大学先端科学技術研究センター協力研究員)
「福祉」のための当然のテクノロジー?
「補聴器(hearing aid)
」といえば、多くの人は、耳につけられる小さな電子機器を思い
浮かべるのではないだろうか。いつか聞こえなくなったときには自分も補聴器のお世話に
なるのではないかと考える人も尐なくないだろう。それぐらい、聞こえる人にとっては、
補聴器というテクノロジーは、世の中にあって当然のようにみえる。それは「福祉」のた
めのテクノロジーというものが社会的に認識されているからであろう。補聴器は、よく聞
こえるようにするための機器であり、耳の丌自由な人の「福祉」のためのテクノロジーで
あるから、その目的については疑う余地はないと思われるのではないだろうか。
しかし、補聴器は、多くのユーザーから抵抗を受けてきた。その結果、補聴器の専門家
と一部の聴覚障害者との間には、いまでも根深い対立関係が残ってしまっている。聞こえ
る人々にとっては意外なことかもしれないが、補聴器を身につけて生きることは、聴覚障
害者にとっては簡単なことではなく、必ずしも当然ではないのである。
それは補聴器の性能の問題ではないのか。あるいは、適切に処方されていないからでは
ないか。そう思われるかもしれない。けれども、これまでの補聴器の歴史をみれば、一部
の聴覚障害者にとって補聴器が当然ではない理由は、そのような技術的な問題だけではな
いことがわかるだろう。
ここで、補聴器の「当然のようで当然ではなかった」ことをあげてみよう。
(1)
「電話=補聴器」という可能性
(2)誮が補聴器を使うのか
(3)
「小型化」の意味
(1)から見えてくることは、
「補聴器」というテクノロジーは、その性能による当然さ
からではなく、電話というものを政治的・文化的・教育的な手段としてとらえる観点から
当然のように考えられてきた、ということである。いいかえれば、新しいテクノロジーに
1
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よる「丌確かな可能性」にもとづく福祉の考え方が先行してきたということである。
(2)は、補聴器の専門家にとっては明らかなようだが、想定されていたユーザーから
の抵抗があり、補聴器の専門家とユーザーの関係は当然にはならなかった。そのため、「福
祉」のためのテクノロジーとはいえ、補聴器を使う生活がどのような意味において好まし
いのかについては、専門家でも説明することは難しく、聴覚障害者の間でも見解が分かれ
ているのである。
(3)は、専門家とユーザーが関わることによって、結果的に形成されてきた流れであ
る。福祉のテクノロジーに関してしばしば指摘されるように、個々のユーザーの特性とテ
クノロジーの性能が適切に合わせられるようにすることは重要であるが、適切に使えるユ
ーザーは、想定されている使い方を考えていないかもしれない。専門家とユーザーの関係
が社会的に広がっていくと、様々なユーザーが利用するようになり、そのテクノロジーの
あり方が変わっていく可能性があるのである。
以下、補聴器の「当然のようで当然ではなかったこと」について、詳しく見ていこう。
何が「電話=補聴器」を当然にしたのか
「補聴器」と呼ばれている小さな機器は、1876 年に発明された電話から発展してきたも
のである。小さい「送話器」が音声入力の部品で、
「回線」でつながれた「受話器」をイヤ
フォンとして使っているように、尐々乱暴な言い方をすれば、電話の形を変えて「補聴器」
といっているようなものである。新しい電話(電気通信)の技術が開発されると、補聴器
も新しくなる。
「電話=補聴器」の技術的な部分だけをみるならば、補聴器の歴史はこれで
おしまいでもいいかもしれない。
尐し技術的な観点の視野をひろげて、「電話=補聴器」の背景をみるなら、すでに使われ
ていた他の補聴器具からのアナロジーがあったといえるかもしれない。19 世紀は、金属製
のラッパのような器具が数多く作られていた時代であった。それは、
「イヤー・トランペッ
ト(ear trumpet)」と呼ばれ、耳に差し込んで使う。大きさや形にも様々な種類があり、
晩年のベートーベンが使用していたとされる補聴器具もこのタイプのものである。その他
に、耳に入れる器具としては、聾学校などで使用されていた聴診器のようなチューブ式の
ものがあった。
しかし、補聴器具には大きな扇で集音するタイプのものや、歯に振動を伝える骨伝導式
の器具などもあり、そもそも、耳の後ろに手をかざすだけでも、それなりの効果は得られ
る。ようするに、尐し聞こえないぐらいであれば、聞こえやすくするための手段は、バッ
テリーの交換が必要な「電話=補聴器」に頼らなくとも、技術的には多様にありうるので
ある。
それでは、
「電話=補聴器」という発想を当然にしたのは何なのか。それは「音声言語が
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話せない」ことを克服させようとする考えであった。それは、聞こえる人による「福祉」
の考えであり、19 世紀後半からの「口話主義」といわれる聾教育者が掲げていた教育方針
であった。その運動の中心的人物が、電話の発明者として有名なアレクサンダー・グラハ
ム・ベル(Alexander Graham Bell)なのである。
ベルの電話の発明と事業化に出資していた実業家、ガーディナー・グリーン・ハバー
ド(Gardiner Green Hubbard)は、ボストンにおける口話主義を押し進めた人物であ
った。ハバードは、娘のメイベル(Mabel Hubbard)が 4 歳の時にしょう紅熱で聴力
を失ったときに、聾学校の幹部たちから、メイベルが英語を話せるようになることは難
しいといわれ、手話の習得を勧められたという。しかし、聞こえる人であり、父親であ
るハバードは、自分の娘が英語を話さなくなるのが丌満だった。彼は、ドイツの口話法
をアメリカで普及させようとしていた聾教育家サミュエル・ハウ(Samuel Gridley
Howe)と関わり、マサチューセッツ州の支援による口話主義の聾学校をボストンに設
立することを画策した。そして、ハバードは、ボストンで視話法の普及活動を始めてい
たベルのもとにメイベルを預けた。のちに、ベルの妻となったのは、このメイベルであ
る。
ベルが音声(雄弁術や発声法)の専門家だったことや、彼の妻が耳の丌自由な人だった
ということはよく語られるところであるが、それだけでは「電話=補聴器」という発想は
広がらなかったはずである。ベル自身が個人的に「電話=補聴器」を構想していたかのよ
うに語られがちであるが、実際のところ、聾教育の専門家の間で口話主義の考え方が支配
的になり、それによって電話を使うことによる効果が期待されるようになったのである。
聾教育史において「ミラノ会議」としてよく知られている第二回聾教育国際会議
(1880 年)で、口話主義の教育方針は支配的となった。この会議で「聾唖者を社会へ
復帰させるため、また言語の完全な知識を不えるためには、口話法は手話法よりもはる
かに優れている」
、
「スピーチと併せて手話を使うことは、スピーチ、読話、正しい思考
にとって妨げになる。ゆえに、[スピーチだけによる]純粋口話法こそ望ましいものであ
る」という宣言が決議されている1。この決議からも見えるように、口話主義は、手話
を問題視していた。ベルは、手話の使用が聾者同士で交流しやすい傾向をもたらしてい
ることを根拠にして、1883 年に「米国において聾者という人類の変種が形成されつつ
ある」という優生学的な議論もしていた。ベルの狙いは、聾者同士の交流・結婚を禁じ
るほどのものではないが、
「聞こえる人々との生活(統合)
」をうながす方策を提案する
ことにあったといえる。たとえば、ベルは、寄宿制が多かった聾教育施設を通学制へ変
更する案をあげている。この案は、寄宿制の聾学校で行われていた手話によるコミュニ
ケーションを制限し、家庭の健常者と「話をさせる」ことを意図している2。
1
上野益雄『聾教育問題史』日本図書センター 2001 年
アレクサンダー・グラハム・ベル『聾者という人類の変種の形成についての覚書き』
、石村多門訳『聾の
経験』東京電機大学出版局 pp. 377-395.
2
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また、
「訓練によって話せるようになる」と考える口話主義は、活用できる「残存聴力」
をクローズアップした。ベルは、
「電位・オーディオメーター(electrometer-audiometer)3」
を考案し、聾児にも残存する聴力があることを明らかにしようとした。そして、1884
年に、ベルは通常学級の児童の聴力も測定している。このような「聴力」測定は、聾者
と健常者の「聴力」が連続することを認めさせ、「電話=補聴器」の効果を信じる根拠
になる。たとえば、ベルの検査を受けたある聾者は、オーディオメーターの音を聞いて
から数日の間、それまで聞こえていなかった母音が聞き取れるようになった、と報告し
た。「この検査機器は、聴覚神経に効果を及ぼすことができるのだろうか。おそらく、
やがて、聾唖者を教育する問題は、音声を聞き分けるようにさせるこうした機器によっ
て解決されるだろう4」。実際の効果は、わからない。しかし、効果が信じられるように
なるのである。
1922 年のベルの死後、
「電話=補聴器」に対する信仰は、伝説的なものとなる。1925 年
に AT&T の技術部門とその子会社ウェスタンエレクトリック社の研究開発部門が「ベ
ル電話研究所」として統合された後、ベル電話研究所の音響研究者は「電話=補聴器」
をベルの遺志を受け継ぐものとして宣伝した。1925 年のアメリカ難聴者連盟(The
American Federation of Organizations of the Hard of Hearing)の会合で、ベル電話
研究所の音響研究のボスであったハーヴェイ・フレッチャー(Harvey Fletcher)は、
真空管を用いた補聴器の効果を実演し、マイクロフォンを通して参加者の耳に向かって、
次のように話した。
「皆さんは、今、この音響装置でよく聞こえていると思います、なぜなら、皆さんは
とてもよい状況にあるからです。私は今、マイクロフォンに近づけて話していますし、
大きな増幅器が音を強めているからです。おそらく、皆さんはどうやってこのような良
い結果が得られるのか、丌思議に思うでしょう。(中略)皆さんのなかには多尐なりと
もご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、時間があれば、電話の発明にさかのぼ
ってみるのは実に興味深いことだと思います。なぜなら、それは、この[難聴者のため
の]組織と実に興味深い重要な関係を持っているからです。ご存知のとおり、アレクサ
ンダー・グラハム・ベル博士は、電話の発明者でした。彼の発明は、主に話し方を教え
ることと聞くことができるようにする、難聴者を助けるための仕事を研究する熱望と熱
意によっていました。彼がつまずいた[難聴のための]研究においても―それは、よく計
画された研究だったので、つまずいたと言うべきではありませんが、彼が、その後に電
話をもたらした機器の組み合わせを得たのは全くの偶然でした。電話は、聾の教育者か
3
George W. Fellendorf, “Bell’s Audiometer,” ASHA, 18(1979), pp. 563-565
1879 年、ベルは、人間が聞き取ることのできる最も小さな音を、様々な周波数において測定する装置を考
案した。同僚のテインターと議論を重ねた後に、1879 年 12 月 20 日の研究ノートにその着想と「電位・聴
力検査器(electrometer-audiometer)」という装置について記述している。
4 Deaf-Mute Journal, October 9, 1886.
4
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ら発明されたのです。長い年月の後に、電話会社は、ついに、ベル氏がもともと難聴者
を助けるためにやろうとしていたことに戻り、発展させようと決心しました(会場内拍
手)5」。
ベル電話研究所の研究者は、研究所の外の人々と関わり、「音響技術」の効果をアピ
ールしていた。フレッチャーは、「電話=補聴器」の効果を見せて聞かせる活動を展開
したのである。
誮が補聴器を使うのか
~聴力検査による選別
フレッチャーは、アメリカ難聴者連盟との関わりを持ち続け、一時は会長を務めている。
難聴者連盟は、聴力の保護・予防のための運動が始まったことによる組織である。軍人や
産業労働者の間で聴力を失う人が増加していたことを受け、1916 年、ニューヨーク、ボ
ストン、シカゴで、聴力の保護、聴力の損失の問題に対処するための地方組織が設立さ
れ、次第に全国的な規模となり、1918 年には、アメリカ医学会の会長、ウェンデル・
フィリップスによって、アメリカ難聴者連盟が組織された。
聴力の損失に対する関心が高まっていたこの時期に、聴力損失を持つ児童の発見が重
要視されるようになり、新しい聴力検査の方法が必要とされた。アメリカ難聴者連盟は、
ニューヨーク市の公立小学校の校長や教育委員会の代表者と、学校での聴力検査の方法
についての会議を重ね、1924 年に開かれた第一回難聴児委員会で、聴力検査機器の開
発をフレッチャーに依頼することになった。
フレッチャーは、公立学校での聴力検査のためのオーディオメーター(ウェスタンエ
レクトリック 4-A)を開発した。4-A は、電気蓄音機で使われていたバネ式のターンテ
ーブル、マイクロフォン(電磁送話器)、そして 8 つの受話器から成っていた。受話器
を片側の耳にあてて、両耳それぞれの聴力を検査できるようになっていた。4-A をいく
つか使うことによって、学級別に 40 人程度の生徒を一度に検査することができた6。
フレッチャーのオーディオメーターには、ベル電話研究所で使われていた「デシベル」
という単位が「聴力損失」を示す尺度として応用されている。4A は「3 デシベルずつ」
音声が小さくなるように録音されたレコードを再生する。女性と男性の声が単純な数字
を話すようになっており、生徒は聞き取った数字を記録用紙に書き留めるように指示さ
れた。間違った数字を答えたときの提示音のデシベルの平均値が聴力損失の値として記
録された。
1926 年 4 月に、フレッチャーは、4-A による検査結果をまとめ、
「300 万人の聴力損
5
6
Harvey Fletcher, “How an Electrical Hearing Aid Works,” The Volta Review, 29(1925), pp. 607-609.
Ibid.
5
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失を持つ生徒(Three Million Deafened School Children)」という題名で発表した7。4-A
の開発と調査報告を受けて、1926 年にアメリカ医学会と耳科学に関連する組織は、公
立学校での聴力検査を実施することを決め、ローラ・スペルマン・ロックフェラー・メ
モリアル財団は、公立学校の生徒の聴力検査のための機関に資金の助成を行った。そし
て、アメリカ医学会の指揮のもとで、耳科学会、聾教師協会、アメリカ難聴組織連盟の
合同による、聾児に関する調査委員会が組織された。この委員会は、オーディオメータ
ーを紹介し、聴力検査を行うための人の養成と機器の開発に努めた。1928 年から 1929
年にかけて、4-A を使った聴力検査が全国的な規模で実施され、アメリカの公立小学校
に在籍する約 22 万 5 千人の生徒がテストされた8。
各地で聴力検査が行われたが、フレッチャーが「聴力損失を持つ生徒」の数として発
表していた「300 万」というセンセーショナルな数字は議論を呼ぶようになった。この
「300 万」という数字は、「9 デシベル」以上の聴力損失があった生徒の数を推定した
ものだった。フレッチャーは、検査をした 4112 人の生徒のうちの「14.4 パーセント」
にあたる 595 人が 9 デシベル以上の聴力損失があったという結果に基づき、全米の公
立学校の全生徒の約 2400 万人のうちの「12.5 パーセント」にあたる 300 万人以上の聴
力損失を持つ生徒がいると概算していた9。しかし、1928 年に行われた検査だけでみて
も、9 デシベル以上の聴力損失を持つ生徒の割合は、テキサス州フォート・ワースで行
われた検査の結果では「21.16 パーセント」、ニューヨーク州ロチェスターで行われた
検査の結果では「1.27 パーセント」と大きくかけ離れていた。このような結果につい
て、1940 年に、公衆衛生局による聴力検査の調査報告をしたベアズリーは、次のよう
に述べている。
「過去 12 年間、全米の都市部と地方において、何百万もの子どもたちが
この機器(蓄音機型オーディオメーター)で検査されている。(中略)異なる集団で得
られた聴力損失者の割合には大きな開きがみられるので、その理由を説明するための分
析が続けられているが、実際の[聴力損失者の割合の]問題に関係のある要因によるもの
と、検査における変動要因によるものとを見分ける方法はない10」。フレッチャーは、
300 万人という数字について「ある部分では、学校関係者の間にこの問題への関心を喚
起させ、教室にいる聴力損失を持つ生徒に手を差し伸べる動きを起こそうという宣伝の
目的で、我々がそういった表現を選んだのは確かである」と述べている11。
聴力損失の値についてのフレッチャーの考えは、補聴器の増幅能力に合わせたユーザ
7
Ibid.,
Max A. Goldstein, "Hard-of-Hearing Child," Oralism and Auralism, 10(1931), pp. 1-15. “Conference
of the National Research Council,” The Volta Review, 30(1928), pp. 125-136.
9 聴力損失があるとされた 14.4 パーセントのうち、3.2 パーセントは両耳に、11.3 パーセントは片方の耳
だけに聴力損失があった。
10 Wendell C. Phillips and Hugh Grant Rowell, Your Hearing: How to Preserve and Aid It, (The
Williams & Wilkins Company, 1932), p. vi.
11 Harvey Fletcher, “The Progress of Hearing Tests in the Public Schools of the United States,” The
Volta Review, 32(1930), pp. 1-4.
8
6
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ーのカテゴリー分けに関わっていた。国家研究評議会の人類学と心理学の部門による聾
の問題についての会議で、補聴器の性能と補聴器の処方に関する方法を調査する委員会
に招集されたフレッチャーは、1928 年 1 月に、補聴器のタイプに関連付けながら、聴
力損失者を次のように分ける方法を提案した。
(1) 普通の会話が可能で、聴力損失が 30 デシベルよりも小さい人
(2) 聴力損失が 30 デシベルから 60 デシベルの人
(3) 聴力損失が 60 デシベルから 80 デシベルの人
(4) 聴力損失が 80 デシベル以上の人
フレッチャーは、電気的な増幅が理想的になされ、歪みがないことを仮定した上で、
初めの(1)から(3)までの三つのカテゴリーに入る人々は、30 デシベル増幅でき
る機器(音の物理的強さにして千倍の増幅が可能なもの)か、50 デシベル増幅できる
機器(音の物理的強さにして 10 万倍の増幅が可能なもの)の使用に適していると提案
した。(4)のカテゴリーに入る人々のための補聴器は、聾学校や、会議場、劇場など
に備え付けるような集団用の形態のものになるとした12。大雑把な話ではあるが、こう
して補聴器を処方される人々─「難聴」者─が特定される、と専門家は考えられるよう
になる。
しかし、「難聴」は、聴力損失の値や、補聴器の増幅の程度だけで決まらなかった。
たとえば、難聴者連盟の会議に出席していたある女性は、補聴器を使って話を聞いてい
たひとりの尐女を会議でみかけたが「彼女は話者が話す言葉を全く理解していなかった。
この尐女は、口話訓練を受けておらず、『聾』として育てられていて、会議に出席する
まで一度も補聴器を使ったことがなかった」。しかし、この尐女自身は話者の声質の特
徴を聞き分けることに熱心だった。彼女は、使ったことのない補聴器をつけて、みずか
ら難聴者連盟の会議に出かけ、話の内容が分からないのにもかかわらず、話者の声質を
楽しみ、補聴器のユーザーとして、すなわち「難聴」者として、出席していたのである
13。また、ある聾学校の校長は、
「難聴」と「聾」をどのようにして分けるのかという
質問に対して、「もし、生徒がすでに家庭において話すことを習得しているなら、たと
え聴力損失が 45 デシベルあったとしてもその生徒を難聴児とみなします。もし、生徒
が話すことができないのなら、たとえ聴力損失が 35 デシベルだったとしてもその生徒
を聾児とみなします」と答えた。そして、この校長は口話訓練のために導入した集団用
12
Harvey Fletcher, “Report of the Committee on Scientific Research,” The Volta Review, 29(1927), pp.
588-631. Harvey Fletcher, “Hearing Aids and Deafness,” Bell Laboratories Record, 5(1927), pp. 33-37.
“Conference on the Problems of the Deaf, Washington, D. C., January, 1928,” Oralism and Auralism,
5(1926), pp. 36-39. Horace Newhart, “Aids for the Hard of Hearing,” Oralism and Auralism, pp.
105-115. ここでの「聴力損失」は、オーディオメーターの検査において確かめられた、100 ヘルツから
3000 ヘルツにわたる音声の音域での、良い方の耳の聴力損失の平均値のことである。
13 Louise Fetzner, “The Line between Deaf and Hard of Hearing,” The Volta Review, 39(1937), p. 497.
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の補聴器が備え付けられた教室をこの質問者に見せて自慢した14。フレッチャーが述べ
たように、重度の聴力損失を持つ聾児は、大型の補聴器を聾学校での訓練で使用するよ
うになっていた。口話主義の聾教育者たちは、聴力損失の度合いに関わらず、大型の補
聴器によって聴取と口話の訓練を受けている児童を「難聴」者として扱っていくのであ
る。
また、聴力損失を持たないのにもかかわらず、難聴者になろうとする者がいた。いわ
ゆる「仮病」の難聴である。難聴者の数のばらつきが報告されるにつれて、仮病の難聴
者の存在が疑われるようになった。聴覚研究者のハロウェル・デイヴィス(Hallowell
Davis)は、聴力検査における仮病の可能性について次のように述べている。
「聴力検査
についての議論の中では、(中略)すべて患者側の完全な協力を考えていた。新生児や
年長の自閉児の例については、われわれは無関心を装っていた。しかし、積極的に欺く
ことがあるとは考えていなかった。経済的な利益、
『顔を立てる』、または危険から适れ
ることが問題になるようなとき、また、きこえに関する傷害、または兵役からの解雇に
おける補償のようなときには、われわれは逆の動機付けに出会うかもしれない。被検者
はきく努力をしないどころか、まったくきこえないふりをするか、彼が実際にきこえる
よりもずっと悪くきこえるふりをするであろう15」。仮病の患者は、多くの場合、兵役
适れや補償目当ての目的で「難聴」を装っていたとされる。
補聴器を処方する専門家は、抵抗する患者を説得することに悩まされていた。ある耳
科医は、あまりにも多くの患者が補聴器の使用を嫌がったため、「補聴器を使おうとし
ない患者の心理的な側面を解決することが補聴器の普及において最も重要であり、耳科
医はその患者の心理にも通じなくてはいけない」ということを述べている16。他の耳科
医も次のように述べている。「補聴器の効果に疑いの余地はない。我々が直面している
問題は、処方した後も補聴器を着けるよう患者に促すことだ。彼らは、身体的障害の印
になるものを身に着けたがらない」。アメリカ難聴者連盟でオーディオメーターと補聴
器の宣伝活動を行っていたウェンデル・フィリップスとロウウェルは、次のように述べ
ている。「聴力損失を持つ者に補聴器の使用を説得することほどうまくいかないことは
ない。彼らや彼らの家族は、補聴器が価値のあるものというよりは、それによって社会
的なハンディキャップが明らかになることを恐れるので、補聴器を使いたがらないので
ある。結果的に、なんらかの方法を彼らに吹き込む詐欺師の手に落ちてしまう。また、
ある難聴者たちは無関心になっていき、実際のところ、ほとんどは心理的なスランプに
入ってしまう。このような理由から、彼らは、きくことの疲れや、心理的な抵抗ゆえに、
彼らは補聴器を使おうと思わない。またある難聴者は、補聴器で聴覚がよくなるはずは
14
Ibid.
Hallowell Davis, and S. Richard Silverman, Hearing and Deafness, (New York: Murray Hill Books,
1947)
16 Walter Hughson, “Hearing Aids,” Transactions of the American Academy of Ophthalmology and
Otolaryngology, 48(1944), pp. 187-189.
15
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ない、と自分自身を欺き、補聴器で得られることを認識できない17」
。
ユーザーの抵抗は、補聴器の専門家にとっては、消極的態度にしか見えなかった。し
かし、事態は、抵抗運動によって聴覚障害者のなかで「聾」と「難聴」の分離が生じて
いたのである。1930 年代から口話主義に反対する聾者たちは、口話主義の聾学校の校
長を更迭する運動を展開していた。特に、ジョージア州の聾学校での聾者の運動は激し
く、彼らは口話主義者の校長を更迭するのに成功し、1939 年には、この聾学校の生徒
は、授業で手話を使うことができるようになった。彼らは、補聴器に対する丌満という
だけでなく、聴力損失の度合いにかかわらず、みずからの判断で口話主義の成功者とし
ての「難聴」者になることに抵抗し始めていたのである。補聴器によって「難聴」者に
なることを強要されたことへの抵抗という動機から 、手話の使用を基盤にする聾
(Deaf)の社会が確立されていくのである18。
「小型化」
専門家とユーザーの関係の結果として
19 世紀のイヤー・トランペットを見てみると、腕の長さぐらいの大きなものもあるが、
目立たないように椅子の肘掛についていたり、ステッキの先にあったり、帽子の中に入っ
ていたりする。この頃から「隠して使いたい」という要求があったようである。
初期の補聴器では、
「携帯できる」小型のものが開発されている。しかし、ユーザーが満
足できるものではなかったようである。たとえば、1900 年にウィーンの有名な耳科医ポ
リツァー(Adam Politzer)の助手だったファーディナンド・アルト(Ferdinand Alt)
が開発した小型補聴器は、60 センチ以上離れてしまうと効果がないとアルト自身が説明し
ており、軽度の尐し聞こえないぐらいの人が会話で役立つ効果があるぐらいのものだった。
「隠して使いたい」というニーズがあったためか、通信販売などのいかがわしい詐欺療法
にも、粗悪な小型補聴器が存在した。この頃の小型補聴器は、隠すためのデザインとして
はよくても、その性能についてはよくわからない。
1920 年代になるとウエスタンエレクトリック(ベル電話研究所)で真空管補聴器が開発
されるが、その「増幅」の性能は革新的であったものの、高性能にすれば大型になってし
まうものであった。そのために、デスクや部屋に備え付ける大型の補聴器が開発されてい
る。口話主義の聾学校では、音声言語を習得するための訓練を行うための機器として、大
型の真空管補聴器が教室に備え付けられた。
一方、ベル電話研究所の研究者は、持ち運びができるボックス型の真空管増幅器を研究
所の外に持ち出していた。たとえば、演説のための拡声機器や、電話回線のメンテナンス
17
Wendell C. Phillips and Hugh Grant Rowell, Your Hearing: How to Preserve and Aid it, (1932), p.
215.
18 Susan Burch, “Reading between the Signs: Defending Deaf Culture in Early Twentieth-Century
America,” The New Disability History, (New York University Press, 2001), pp. 223-224.
9
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のための機器などのような、屋外で使うことができる「ポータブル」の機器である。病院
や小学校で使うためのオーディオメーターもそのひとつであった。このような「ポータブ
ル」の機器として、片手で持てるぐらいの大きさのボックス型の真空管増幅器をつないだ
補聴器も開発されている。しかしながら、持ち運びができるとはいえ、この「ポータブル」
タイプの真空管補聴器は、のちに「ラジオ受信機」にカムフラージュしているデザインで
出回るようになる。持ち運びながら使うのではなく、出先でも使うぐらいの使い方だろう
か。
したがって、1920 年代の段階では、補聴器にはいくつかの異なる用途が考えられていた
ことになる。
1920 年代
隠して使いたい(携帯できるカーボン・マイクロフォン小型補聴器)
「ポータブル」?(手持ち型の真空管補聴器)
デスク用、聾学校の訓練用(大型の真空管補聴器)
1930 年代後半
「個人用(individual)」
(携帯できる真空管補聴器)
いくつかのタイプの補聴器があるなかで、1930 年代後半に、携帯できるぐらいの小型の
真空管補聴器が開発される。これは、真空管の小型化や、バッテリーを身体に「隠して」
装着する方法などがその技術的な理由としてあるが、この頃から「個人用」補聴器という
考え方が検討されている。その考えによれば、こどもが装用できるぐらい小型の補聴器で
も効果があるならば、個人的な生活において使用されつづけるようになり、
「聞こえ」以上
の効果が期待できるというのである。たとえば、アメリカの国家研究評議会の聴力損失
(deafness)の問題に関する委員会(1940~1944 年)では、フレッチャーを含む委員らに
よって、小型の「個人用」補聴器を使用している児童の追跡調査が行われ、ユーザーの「パ
ーソナリティ」の変化との関係に注目した報告が作成されている。口話主義の聾教育者に
とってみれば、小型の真空管補聴器は「隠して使える」以上のものであり、このときの「小
型化」は、幼尐の頃から個人的な友人関係や家庭のなかで音声言語に習熟でき、聾児のパ
ーソナリティや生活の質が向上する、ということを意味している。
しかし、携帯できる小型補聴器のユーザーは、聾学校の児童だけでなく、聴力検査とい
う場から生まれるようになる。一般的な場所で聴力検査が実施されるようになり、聾教育
とは異なるところから、いろいろな「難聴」者があらわれてきたのである。第二次世界大
戦の後、米軍のリハビリテーションセンターから小型の真空管補聴器が支給されるように
なり、AT&T は万国博覧会(1939 年、1940 年)などで一般向けに聴力検査を実演してい
る。社会のいたるところで、誮しもが「聴力」の健康状態を知るようになり、自分の聞こ
えがどの程度なのかという関心が高まってくる。
「聴力」は加齢を示すものにもなり、20 世
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『市民研通信』第 5 号
通巻 132 号 2010 年 11 月
紀後半の先進諸国における高齢化は、聾学校には関係しない難聴者のグループの成立に大
きな影響を不えるようになった。
難聴者のグループの成立によって起こったのは、もともと音声で話せる人々が「ほどほ
ど」の性能の小型補聴器を使うようになったということである。難聴者のグループには、
聾教育を受けている人々だけでなく、退役軍人や、高齢者、軽度の聴力損失を持つ人など
の「中途失聴」の人々が多く含まれるようになった。彼らは、聾学校で音声言語を習得す
るための訓練を行うのではなく、これまでの生活のコミュニケーションを維持するために、
みずから補聴器を選択して「ほどほど」の性能のものを使い続けようとする。
「小型化」しながらも性能が上がってきたことは否定しないが、福祉においても先端技
術の目的とは異なる用途にスピンオフして普及するケースがあるということは、これから
の開発者にとっても重要なことであろう。
これまでの補聴器、これからの人工内耳
~科学技術と生活者の関係を考えるためのモデルケースとして
補聴器は、生活のなかでのコミュニケーションのあり方にかかわるテクノロジーである
ため、科学技術と生活者の関係を考えるうえでひとつのモデルケースとして多くの示唆を
不えるだろう。
補聴器の専門家とユーザーの関係について、これまでの流れを整理してその特徴をまと
めてみよう。
① 電話による可能性=「話せるようになる補聴器」が考案される
② しかし、ユーザー(聾者)にとっては、やはり音声言語の習得は難しかった
③ ユーザーの抵抗が知られるようになる
④ 適切な処方の方法(
「聴力」検査)やデザイン(「個人用補聴器」
)が考慮される
⑤ 「ほどほど」の性能で十分なユーザー(話せる中途失聴者)が利用するようになる
補聴器は、高性能の増幅技術による未知なる可能性が信じられていたことから出発しな
がらも、ユーザーにとって「ほどほど」の性能のものに落ち着いてきたテクノロジーとし
てみることができる。
その一方で、現在の「人工内耳」というテクノロジーは、かつての「電話=補聴器」と
同じように、きこえない児童に音声言語を習得させるためのものとして考えられている。
つまり、新しいテクノロジーの可能性を根拠にしてきた口話主義の考えが、ふたたびあら
われているわけである。見方によっては、人工内耳を装用している聾児のほとんどが音声
言語を習得できるようになれば、音声言語を話すことができない「聾」はなくなってしま
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うはずだと考えられるかもしれない。本当にそのような結果になったとき、それは口話主
義の最終的なゴールを意味するだろう。
しかし、そうはならないように思える。なぜなら、「電話=補聴器」が開発されて以来、
かえって「聾文化」のアイデンティティとしての手話の重要性が再認識されてきたからで
ある。これは、文化的な対立になっている。補聴器や人工内耳は、
「聴力」の損失を補うだ
けでなく、むしろ「聾」の人々のコミュニケーションのあり方を変えようとする目的をも
っているがゆえに、手話をアイデンティティとする聾者による「文化的な抵抗」を受けて
いるのである。手話という言語にもとづく「聾文化」が社会的に認識されている今日では、
聾教育の現場においても、手話と音声を併用する「バイリンガル」や「バイカルチュラル」
を目指すのが現実的であろう。その結果、聾者のコミュニケーションにおける手話と音声
の割合には個人差があるだろうし、最終的には、言語は彼らが選ぶものである。手話にも
とづく文化が存在する以上、人工内耳のあり方は、手話とは異なる「もうひとつの言語」
を習得する可能性を支援することにとどまるように思われる。
したがって、今後も、「難聴」と「聾」を選択できる社会的状況は続いていくであろう。
場合によっては、その選択の判断が難しいケースもあるかもしれない。重度の聴力損失の
検査結果に直面したとき、生き方を左右するような判断が求められるときがあるかもしれ
ない。たとえば、自分のこどもが幼尐時に聴力損失があることが判明したとき、親である
自分はどのように判断するべきか。現在では、音声言語の習得の観点から、新生児聴覚ス
クリーニング(聴力損失の早期発見)が重要とされており、日本でも、0 歳児から補聴器を
装用させることが推奨され、人工内耳を頭部に埋め込む施術は 1 歳半以上であれば可能と
されている(日本耳鼻咽喉科学会「小児人工内耳適応基準」2006 年)
。それゆえ、聴力検査
や補聴器・人工内耳の装用は、本人の判断ではなく、専門家や両親などの周囲の人間の判
断によることが多いのである。北欧諸国などの一部の国々では、ほとんどの聾児に対して
無償で人工内耳の装用がなされている。ハバードの娘であり、ベルの妻だった彼女は、も
し今の時代に生きていたら、当然、人工内耳を装用しているのだろうか。それとも、みず
から人工内耳に対して判断することがあるだろうか。
補聴器は、専門家や健常者が使っていることばを「話せるようになるため」に勧められ
てきたが、それに対して、補聴器を勧められたユーザーは、専門家や周囲の人々とのやり
とりを重ねながら、どのようなコミュニケーションを望み、どのような文化的生活を築い
ていくのかを考える。このような個人的な考えに深くかかわるために、補聴器は「聴力損
失」があるだけでは当然のテクノロジーとはならないのである。
福祉のテクノロジーに関してしばしば指摘されるように、個々のユーザーの特性とテク
ノロジーの性能が適切に合わせられるようになることは重要であるが、適切に使えるユー
ザーは想定されている使い方を必要としないかもしれない。このような専門家とユーザー
のダイナミックな関係が社会的に広がっていくと、様々なユーザーが異なる目的から利用
するようになり、そのテクノロジーの目的や姿かたちも変わっていくのである。■
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