神戸大学大学院国際文化学研究科 異文化研究交流センター 2013 年度 研究報告書 EU アイデンティティの構築とその政治的意義 2014 年 3 月 編集 坂井一成 ・ 岩本和子 研究部 第 1 回講演会 「ドイツ対外文化政策の変容――ヨーロッパ統合進 展の中で:新たな一歩か、原点回帰か」 第 2 回研究セミナー 「分断から統合へ?――ポーランド国境にお ける『分断された領域』のシェンゲン後を比 較する」 第 3 回講演会 「日独の文化交流政策の変遷と課題」 国際部 第 1 回講演会「北方フランス語圏文学の特徴と共通性」 第2回講演会 "European Vision of the global geopolitical dynamics in comparison with the Asian (and Japanese) perspectives" 第 3 回講演会〈Japanese Studies in Belgium, Belgian Studies in Japan〉「ベルギーの日本研究/日本のベルギー研究 の 現在」× 自由討論 第 4 回連続講演会「日独の地域再生のストラテジー―文化政策と環境政策の出会い」 「開港都市の交易と近代化ー― 南蛮屏風の表象から読む」 目 次 はしがき…………………………………………………………………………………………………………………………… iii 坂 井 一 成(神戸大学大学院国際文化学研究科教授) 岩 本 和 子(神戸大学大学院国際文化学研究科教授) I.論文 ドイツ対外文化政策の変容――ヨーロッパ統合進展の中で: 新たな一歩か、原点回帰か …………………………… 3 川 村 陶 子(成蹊大学文学部国際文化学科准教授) 分断から統合へ?――ポーランド西部国境における「分断された領域」のいま…………………………………………11 仙 石 学(西南学院大学教授) 日独の国際文化交流政策――その変遷と特徴…………………………………………………………………………………21 坂 戸 勝(財団法人ベルリン日独センター副事務総長) 北方のフランス語文学──定項と収束…………………………………………………………………………………………37 Jean-Marie Klinkenberg(リエージュ大学名誉教授) 訳:三 田 順(日本学術振興会特別研究員 PD) What kind of EUrope ? What kind of Japan ?: The European Vision of the global geopolitical dynamics in comparison with the Japanese perspectives………43 Fabrizio Eva(ヴェネツィア カ・フォスカリ大学契約教授) II. 講演概要 Japanese Studies in Belgium in the 21st Century: Framing the Impact of Popular Culture… ……………………………55 Dimitri Vanoverbeke(ルーヴァン・カトリック大学[ KULeuven ]人文学部日本学科教授) I I I . 講演会実施記録 研究部………………………………………………………………………………………………………………………………61 国際部………………………………………………………………………………………………………………………………62 IV. 国際ワークショップ Enlargement of the EU and Struggle to Coexist with Cultural Others ……………………………………………………67 坂 井 一 成(神戸大学大学院国際文化学研究科教授) Identifying the City Personality from Text Messages transmitted over SNS with Location Information………………75 村 尾 元(神戸大学大学院国際文化学研究科教授) 「イデオロギー大戦」の最前線を行く──ブリュッセル・キエフ・モスクワ ……………………………………………83 青 島 陽 子(神戸大学大学院国際文化学研究科講師) 〈EU 文化研修プログラム〉第 52 回 ベルギー研究会 ブリュッセル国際大会 プログラム… ……………………………89 V . 研究員プロジェクト報告 「コミュニティの『共創』戦略と市民的公共性」 ………………………………………………………………………………93 田 恩 伊(神戸大学大学院国際文化学研究科メディア文化研究センター学術推進研究員) 清 川 祥 恵(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター学術推進研究員) 松井真之介(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員) 山 田 勅 之(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員) 寺 尾 智 史(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員) 山 口 隆 子(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員) i ii はしがき 本報告書は、神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター(Intercultural Research Center、通称 IReC〔アイレック〕)の 2013 年度研究部プロジェクト「EU アイデンティティの構築とその政治的意義」、及び国際 部の活動をもとに編集した。 1.研究部プロジェクトについて プロジェクト名:EU アイデンティティの構築とその政治的意義 代表者:坂井一成(総括、フランスと EU アイデンティティの相克) 分担者:村尾 元(EU アイデンティティの構築について、社会システム科学の観点から) 岩本和子(文化のなかの政治、ベルギー・アイデンティティ) 藤野一夫(文化政策からみた EU アイデンティティ) 近藤正基(ドイツ・キリスト教民主同盟の移民政策) 齋藤 剛(地中海・北アフリカから見た EU) 青島陽子(ロシアから見た EU) 清川祥恵(イギリス・アイデンティティの位相) 本プロジェクトは、2008 年度から 5 年間にわたって IReC で蓄積してきたヨーロッパ研究プロジェクト(「多言語・ 多民族共存と文化的多様性の維持に関する国際的・歴史的比較研究」 「ヨーロッパにおける多民族共存と EU――多 民族共存への多視点的・メタ視点的アプローチ」「ヨーロッパにおける多民族共存と EU――その理念、現実、表象」 「ヨーロッパにおける多民族共存と EU――言語、文化、ジェンダーをめぐって」「EU の内と外における共生の模索」 ) の延長線上に位置付けられるものである。 本プロジェクトの目的と活動は以下のとおりである。 〔目的〕 EU は、戦争からの経済復興とともに仏独間の戦争再発を防止するという、すぐれて政治的文脈なかで進展してき た。昨今の通貨・信用危機においても、これをいかにして克服するかという政治的意図・行動が問われてきた。一方、 政治統合を推進する過程においては、うわべだけの技術的な統合にとどまることなく、政治的運命共同体の構築のた めに、アイデンティティをはじめとした文化的側面の凝集性を高めることの必要性も繰り返し指摘され、実際 EU と しても文化政策・教育政策を通じてそうした対応を推進してきている。ここにおいて EU は、文化面では「EU 文化」 を掲げて統一するような手法ではなく、逆に既存の国家レベル・地方レベルでの文化の多様性を最大限担保し、そう した文化的なリベラリズムを守るところにこそ EU の意義を強調してきた。 こうした過程で生み出されてきた「EU アイデンティティ」とはいかなるもので、いかなる政治的役割を担ってい るのか。換言すれば、EU 統合における政治と文化の関係はどのように理解することが適当なのだろうか。国家レベ ルで考えるならば、国内政治においては政治文化や文化政策、対外関係においては安全保障文化や文化外交という概 念において政治と文化の接合が論点となる。これを EU に照射するとき、どのような側面が出てくるのか。こうした 論点について、これまでの IReC の研究蓄積をふまえつつ、本研究プロジェクトでは掘り下げることとした。 〔活動〕 講演会(全 3 回)と、ブリュッセルでの国際ワークショップを実施した。 講演会は以下のとおりである。 1. 2013 年 7 月 25 日 川村陶子(成蹊大学) 「ドイツ対外文化政策の変容――ヨーロッパ統合進展の中で:新たな 一歩か、原点回帰か」 iii 2. 2013 年 8 月 1 日 仙石 学(西南学院大学) 「分断から統合へ?——ポーランド国境における「分断された領域」 のシェンゲン後を比較する」 3. 2013 年 10 月 31 日 坂戸 勝(ベルリン日独センター)「日独の文化交流政策の変遷と課題」 そして、神戸大学「平成 25 年度ブリュッセルオフィスを拠点とするワークショップ等助成事業」及び神戸大学国 際文化学研究科「平成 25 年度研究教育プロジェクト」の助成を得て実施した、日欧国際ワークショップ「ヨーロッ パアイデンティティの形成とその政治的意義——ヨーロッパ統合における政治と文化の接合」(2014 年 3 月 4 日、ブ リュッセル自由大学(フランス語系)欧州研究所)も、本プロジェクトの一環に位置付けられる。 本ワークショップでは、プロジェクトメンバーからは、岩本が司会を務め、坂井・村尾が研究報告を行い、青島が 討論者として参加した。報告は以下の通りである。 1. François FORET (Université Libre de Bruxelles: ULB) “Between Culture and Politics: Symbolic Communication in the EU” 2. SAKAI Kazunari (Kobe University) “Enlargement of the EU and Struggle to Coexist with Cultural Others” 3. MURAO Hajime (Kobe University).“Identifying the City Personality from Text Messages transferred over the City” 4. Juan DIEZ MEDRANO (Universidad Carlos III de Madrid) “From Marriage to Europe” 本報告書では、このうち坂井論文、村尾論文を掲載している。また、討論者を務めた青島が、ワークショップの成 果を踏まえ、クリミア問題で緊張が高まるなかで行ったウクライナ、ロシアの訪問調査に基づくエッセイを掲載した。 2.国際部の活動について 国際部では、海外の主に協定校から招いた講師による講演会等を行っている。今年度もヨーロッパの大学からが中 心であったが、世界の仏語圏文学、ヨーロッパの政治、日欧文化交流や文化・環境政策などの多様なテーマとなった。 学術交流の推進とともに、交換留学やダブルディグリープログラム留学への意識を高めることもできた。講演は以下 のものであった。 1. 2013 年 5 月 27 日 “La littérature francophones septentrionales: constances et convergences” 「北方フランス語圏 文学の特徴と共通性」 Jean-Marie Klinkenberg(リエージュ大学名誉教授) 2. 2013 年 10 月 1 日 “European vision of the global geopolitical dynamics in comparison with the Asian (and Japanese) perspectives” Fabrizio Eva(ヴェネツィア カ・フォスカリ大学契約教授) 3. 2013 年 12 月 24 日 “Japanese Studies in Belgium, Belgian Studies in Japan”「ベルギーの日本研究/日本のベル ギー研究の現在」 Dimitri Vanoverbeke(ルーヴァン・カトリック大学 [KULeuven] 教授) 4. 2014 年 3 月 3-4 日 連続講演会『日独の地域再生のストラテジー―文化政策と環境政策の出会い』 : 「丹生(三 重県多気町)から学ぶ持続性」 清水裕之(名古屋大学大学院教授、文化経済学会〈日本〉代表)、 「ドイツの人 口減少地域における文化的再生のストラテジー」マティアス・フォークト(ゲルリッツ大学教授、ザクセン文化 基盤研究所所長) 、 「開講都市の交易と近代化—南蛮屏風の表象から読む」ノラ・ウザノフ=ガイスラー(ベルリ ン自由大学研究員) IReC の共催、サン - ジョス区(ブリュッセル)文化委員会の後援、ブリュッ また、 昨年に続きブリュッセルにおいて、 セル王立音楽院声楽科の協力により国際研究会(ベルギー研究会、代表岩本)を開催し、本研究科教員およびグロー バル人材育成事業の一環として EU 文化研修で渡欧中の本研究科学生と、在欧のベルギー研究者や音楽院の教員、学 生との学術交流活動を行った。研究会第1部は神戸大学ブリュッセルオフィスを会場とし研究発表と討論、第2部は シャルリエ美術館を会場とし講演と演奏会を行った。EU の中心であり多言語・多文化状況のベルギーをめぐる社会・ 言語・文化状況や芸術文化の諸相に多様な視点からアプローチし、考察した。 iv 第1部 研究発表(日本語) 「我々と奴ら」の変容」石田まりこ(ブラッセルインター校) 1. 「 2. 「公的権力の存在を前提としない「事実上の正書法」の固定化」 石部尚登(日本大学理工学部助教) 3. 「独立後のベルギー王国におけるナショナル・アイデンティティー形成への音楽の関与――ブリュッセル王立音 楽院の音楽理論教育に焦点をあてて――」大迫知佳子(日本学術振興会海外特別研究員・ブリュッセル自由大学) 4. 「聖なる画中画――ペトルス・クリストゥス作《若い男性の肖像》に描かれた「聖顔」と贖宥――」 杉山美耶子(ヘント大学博士課程) 第2部 講演 1. 「 「ベルギー美術史」の諸相―初期フランドル派からシュルレアリスムまで―」(英語) 利根川由奈(京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程) 2. 「ブリュッセル芸術サロン<自由美学>とマーテルランクとその周縁」(フランス語) 正木裕子(ベルギー王立ブリュッセル音楽院声楽科講師) 演奏会 〈世紀末のフランス・ベルギー文学と音楽〉 ブリュッセル王立音楽院声楽科 正木研究室 以上のように、国際的な視野から多面的な研究活動が進められ、次年度以降への発展の見通しもたてられた。関係 各位に深くお礼申し上げたい。 坂井一成(国際文化学研究科教授、異文化研究交流センター研究部長) 岩本和子(国際文化学研究科教授、異文化研究交流センター国際部長) v vi I.論文 ドイツ対外文化政策の変容 ―ヨーロッパ統合進展の中で: 新たな一歩か、原点回帰か― 川村 陶子 はじめに 本講演では、ドイツの対外文化政策の展開を概観し、そこに表れる外交・文化政策関係者のアイデンティティの変 容を検討する。連邦共和国(西ドイツ)建国、さらに帝政期以来の経緯をふまえつつ、21 世紀初頭の対外文化政策 の最新情勢を分析する。そうした作業を通じて、ヨーロッパ統合の進展や展開が、対外文化政策や政策関係者のアイ デンティティとどのように関連しているかも検討したい。 本論では、最初にドイツ対外文化政策の概要とそこにおけるヨーロッパの位置づけを整理した上で(Ⅰ)、今日に 至る対外文化政策の歴史的展開を、戦前、西ドイツ時代、統一ドイツの三つの時期に分けて概観する(Ⅱ)。最後に、 21 世紀初頭の現代における対外文化政策のトレンドを挙げ、今日の政策の特徴を歴史的に評価する(Ⅲ)。 I. ドイツ対外文化政策の理念と制度 Ⅰ - 1.対外文化政策とは 対外文化政策(ドイツ語で auswärtige Kulturpolitik, 対外文化教育政策とも別称される)は、ドイツ政府が国外に 向けて行う文化政策である。外交的見地からみると、文化の領域における、あるいは文化的な資源や手段を活用した、 国際関係の運営の一形態ということができる。日本では戦後、国際文化交流と総称され、近年では文化外交、パブリッ ク・ディプロマシー等の用語でも表される政策分野である。 ドイツ連邦共和国における対外文化政策の統轄官庁は、連邦外務省である。ただし、関連予算は、外務省以外に複 数の連邦官庁も使用している(Ⅰ - 3で詳述) 。さらに、連邦制をとるドイツでは、国内の文化・教育政策の主権を 16 の州政府が有している。国際的な協定の締結やヨーロッパレベルでの政策の形成には州の協力が不可欠である。 対外文化政策は、自国の文化を国外に向けて紹介し、異文化と関わりあう政策である。換言すれば、国際社会にお ける自国のアイデンティティを構築する行為でもある。政策の理念や制度、事業内容には、 「自国は世界の中でどう ありたい(どのようにみられたい)か」に関する、外交・文化政策関係者の姿勢が反映される。ドイツのケースも例 外ではない。 Ⅰ - 2.目標・目的 以下、現在のドイツ連邦共和国が行う対外文化政策の概要を整理しよう。2011/12 年版の連邦政府報告書(2013 年 出版)によると、対外文化政策は外交の中核的目標を推進するものである。欧州統合の促進を支えるとともに、文化 間対話を通した紛争予防、紛争解決、平和政策に貢献するとされている。 具体的な政策目的は以下の通りである。外国におけるドイツ語の振興、グローバルな教育研究の移動促進および研 究立地としてのドイツの地位強化、文化交流とドイツの芸術文化の外国への紹介、ドイツへの共感獲得と今日的ドイ ツイメージの伝達。 Ⅰ - 3.実施体制 連邦共和国の対外文化政策の実施体制は、間接的で分権的である。外務省は政策の大まかな方針を決め、政府と契 )に具体的な事 約を結んだ分野別専門機関(Mittlerorganisationen、直訳すると「媒介団体」あるいは「仲介団体」 業の立案実施を委託する。たとえばドイツ語普及と文化交流はゲーテ・インスティトゥート、大学(院)の交流や留 学は DAAD(ドイツ学術交流協会)、 研究者支援はフンボルト財団、在外ドイツ学校の支援は在外学校センターといっ 3 た役割分担がなされている。外務省のウェブサイトでは、「対外文化政策のパートナー」として 12 の専門機関を紹介 している。 2011 年時点で、年間 14 億 7800 万ユーロ(当時の為替レートを1ユーロ= 110 円として約 1344 億円)の予算が対 、連邦政府文化メディア担当官(18.8%) 、連邦教育学術 外文化政策に投入された。省庁別にみると外務省(56.8%) 省(16.9% )の三つが主要な担当官庁で、このほか連邦経済協力省、連邦家族・高齢者・女性・青少年省、連邦内務 省にも予算が振り分けられている。用途別では、専門機関の組織運営費 34.5%、事業費 32.44%、在外学校向け基金 29.1%となっている。ちなみに平成 23 年度の日本政府予算をみると、外務省の「広報文化交流及報道対策費」が約 22 億 3213 万円、 独立行政法人国際交流基金の運営費が約 130 億 3162 万円、文化庁の「我が国の優れた芸術文化の発信・ 国際文化交流の推進」予算が 411 億 4000 万円、文部科学省の「大学の国際化と学生の双方向交流の促進」予算が約 394 億 3900 万円で、総計約 958 億 4275 万円である。ドイツと日本では政策分野の定義や事業内容が異なるが、予算 規模は日本のそれよりも大きいと判断してよいだろう。 施設や人員の面でも、多くの資源が投じられている。2011/12 年版の連邦政府報告書によると、政府予算で維持さ れる対外文化政策関連の在外施設や人員ポストは以下の通りである。ドイツ語教育と文化交流のためには、世界 92 カ国に 136 のゲーテ・インスティトゥート(ドイツ文化会館)と 10 の連絡事務所、世界各地に 1530 の「パートナー 学校」 (ドイツの卒業資格がとれる学校やドイツ語教育に力を入れている学校) 、ドイツ語教育のための派遣専門アド バイザー 86 名。学術・研究交流関連では、DAAD の在外支所 15 と情報センター 53、外国の大学での講師ポスト約 500、10 の人文系研究所(ドイツ日本研究所など)およびドイツ考古学研究所の支所 20 カ所。さらにドイツと特定 国の二国間交流を推進する協会が 170 協会存在する。ちなみに、日本でゲーテ・インスティトゥートに相当する国際 交流基金の在外事務所数は、2013 年現在、海外 21 か国に 22 箇所である。 Ⅰ - 4.理念的特徴: 「リベラルな原則」 ドイツの対外文化政策の理念的特徴は、以下の3つである。 「文化」の内容を広義にとらえ、交流事業にもアクチュアルなテーマを積極的にとりい (1)幅広い文化概念の採用( れる) (2)双方向のパートナーシップ(相手側と共同で事業を企画・実施し、交流相手のニーズをくみ取る) (3)分権的実施体制(個々の政策を複数の媒介機関に委託し、事業立案実施における媒介機関の裁量を尊重する) こうした「脱・自国中心的」な政策原則を、ドイツでは「リベラル(liberal)」と総称している。近代の国民国家 形成期に支配的だった教養的文化概念を採用したり、「ドイツ文化」の内容を政府が定義して強力に発信したりする のではなく、交流相手との相互関係や、交流現場の担い手の自主性が重んじられている。2011/12 年度版連邦政府報 告書では「文化間対話、ネットワーク構築、長期的パートナーシップ」を重視することを謳っている。対外文化政策 を「メディア文化政策」という視点から分析した植村(2012)は、このようなリベラル性を「ドイツ国民国家の無色 化」と表現している。 Ⅰ - 5.対外文化政策におけるヨーロッパ ヨーロッパは、連邦共和国の対外文化施策における最大の重点地域である。2011/12 年版連邦政府報告書によると、 2010 年の外務省対外文化政策予算の支出先は 「EU/ 西欧」が 24.4%でトップであり、これに「東欧・中央アジア」 (12.6%) が続いた。ゲーテ・インスティトゥートの在外拠点数は、2013 年 3 月現在、北西欧 9、南西欧 22、中東欧 9、南東欧 12(トルコ含む)、東欧・中央アジア 8 であり、総計で全在外施設の約 3 分の 1 にのぼる。 ヨーロッパ諸国との文化関係構築における特徴は2つある。第一に、独仏青少年交流、独ポーランド教科書プロジェ クトなど、国別に特化した二国間交流プログラムの存在である。とりわけ、フランス、ポーランド、チェコなど、歴 史的にわだかまりのある国々との交流に力が入れられている。第二に、EU や欧州審議会といったヨーロッパの枠組 みでの文化協力へのコミットメントである。連邦制を採用しているため、教育政策等の決定に機動性が不足すること もあるが、ゲーテ・インスティトゥートなどの公的専門機関は、文化会館の共同使用、多言語・複言語主義の提言作 成などの面で積極的に活動している。 4 II. 対外文化政策の歴史的展開 Ⅱ - 1.戦前 ドイツの対外文化政策は、 その歴史を通して、 ①「ドイツ人」向けの政策(移民やドイツ系少数民など世界中の「ド イツ人」のアイデンティティ維持を助ける) 、②「非ドイツ人」向けの政策(諸外国民のドイツに対する好感度を上 げ、国際的孤立を回避する)という二面性を一貫して帯びてきた。今日の文化外交やパブリック・ディプロマシーの 視点では、②の面が中心的に検討されることが多いが、19 世紀後半の帝国創建以来、第二次世界大戦期まで、ドイ ツの対外文化政策の核は①の「ドイツ人」向け政策であったといえる。なお、ここでいう「ドイツ人」は、少なくと も 20 世紀末頃まで、ドイツ語を話しドイツの血統を引く者というエスニック的定義に基づく概念であった。 ドイツ史上最初の対外文化政策予算は、外国におけるドイツ学校(ドイツ系住民やドイツからの移住者の子弟にド イツ語教育を施す学校)を支援するための帝国学校基金(1878 年設置)であった。ドイツ学校は「在外同胞」の支 援拠点としての機能に加え、急速に発展するドイツ帝国の先進的な教育や文化を外国の人びとに伝えるショーケース の役割も果たすようになり、今日に至るまで対外文化政策の重要な拠点施設となっている。 ドイツ学校の振興に加え、外国におけるドイツ語の普及や振興も、対外文化政策の柱として重視された。帝政期の ドイツが科学技術大国として世界の注目を集め、新興国には教育や諸制度の面でも範となったこと、ドイツ人が近代 以来「詩人と哲学者の民族(Volk der Dichter und Denker)」という自己意識をもっていたことなどが、その背景要 因になっている。ドイツ語は世界の「ドイツ人」をむすぶ絆であると同時に、 「ドイツ人」以外の人びとが学ぶべき 学術や教養のことば、世界に広がるドイツ「文化国民」の優秀性の象徴でもあった。 今日につながる対外文化政策の制度的基盤も形成された。ドイツ帝国期から戦間期にかけて、分野別の専門機関へ の事業委託が慣習化し、1920 年代にはゲーテ・インスティトゥートや DAAD などの専門機関の前身が誕生した。第 三帝国期にはフランスを皮切りに在外文化会館(インスティトゥート)の建設が進み、文化会館を拠点とした文化や 言語の伝達という文化関係運営のあり方が定着していった。 Ⅱ - 2.西ドイツ時代 西ドイツ時代の対外文化政策には、戦前との断絶と継続の両面が認められる。戦前に築かれた対外文化政策の基盤 は、敗戦によって数々の次元で破壊され、1949 年に成立した連邦共和国が政策を再開する際の障害となった。それ までの対外文化政策の基調をなした「ドイツ人向け政策」は、ナチスの人種政策や勢力拡張主義を連想させ、戦後は 内容と実施体制の両面で強く制約された。戦後処理においてドイツの国家は分断、領土も縮小させられ、冷戦で西側 陣営に組み込まれた西ドイツは、歴史的に深いつながりがあった中東欧圏との交流がほぼ不可能となってしまった。 連邦政府が東ドイツ国家や東部国境を承認しなかったこともあり、政策で扱う「ドイツ文化」の定義や内容も曖昧に なった。 断絶の背後で、戦前から引き継がれたものもあった。戦間期に誕生した文化交流専門機関の多くは西ドイツ地域で 1950 年代に復活(新生)しており、現場の人材や学校、研究所等の在外拠点の面でも継続が認められる。戦後西ド イツの課題は、冷戦の中で「もうひとつのドイツ」との差別化をはかりつつ、このような「遺産」を活用して国際社 会に復帰することであった。西側周辺諸国との関係改善にはとりわけ早くから力が入れられ、1963 年には独仏協力 条約(エリゼ条約)の枠内で独仏青年交流事業がスタートした。 戦後復興が終了し、社会変革の波を経た 1970 年代になって、対外文化政策においては上記の「リベラルな原則」 が公定化した。東ドイツやソ連圏諸国との間で一定程度の関係が運営できるようになり、連邦共和国が「ヨーロッパ 統合と世界平和に貢献する民主主義の国」というアイデンティティを確立していくのと同時進行の動きである。 西ドイツ時代を通して、事業の実施面では、戦後和解とヨーロッパ統合の進展に合わせ、西ヨーロッパ諸国との緊 密な文化関係構築が大きな重点となった。他方、ドイツ学校の支援は、戦後もソ連圏を除く世界各地で継続され、ド イツ語普及も対外文化政策の中核的事業分野であり続けた。 Ⅱ - 3.統一ドイツ ドイツ統一とそれに引き続く冷戦構造の崩壊は、対外文化政策をとりまく内外の環境を一変させた。東西ドイツが 一つになり、国境も改めて画定されたことで、 「ドイツ」や「ドイツ文化」の定義がより明確になった。旧ソ連圏の 開放と EU の東方拡大により、対外文化政策の「古くて新しい」重点地域が立ち現れた。他方で、グローバルな市場 5 競争の激化 により、アジアを中心とする新興経済圏との関係づくりも課題となった。民族や宗教の境界線に沿った 対立の増加、とりわけ「9・11」同時多発テロの発生は、紛争予防策としての文化交流の重要性を浮き彫りにすると ともに、 「西洋」対「非西洋」 (あるいは「イスラーム」)の対立構図を際立たせた。 このような中で、統一ドイツでは、西ドイツ時代に形成された対外文化政策の「リベラルな原則」を継続する一方、 新しい方針導入の動きもみられる。 新しい動きの一つは、人権、民主主義、法治国家といった西洋的価値の伝達をより強化することである。緑の党出 身のフィッシャー外相が発表した「対外文化政策 2000 年構想」では、統一ドイツがナチスや共産主義の過去と取り 組みつつ、国際的期待に応えて世界の新しい秩序を形づくるより積極的な役割を担うことが表明された。 もう一つは、ドイツ語普及や在外学校支援といった伝統的政策手段の強化である。ゲーテ・インスティトゥートは、 2006 年から 07 年にかけて、個人や社会の発展における言語の重要性に注目するプロジェクト「ことばの力」を実施 した。その枠内で、世界のドイツ語学習者から「最も美しいドイツ語」を募集するなど、ドイツ語の「価値」を再確 認する趣旨の活動も行っている。これに引き続き、2010 年には連邦政府が「ドイツ語―アイディアの言語」という スローガンを打ち出し、世界各地における積極的なドイツ語普及に乗りだした。学校支援の分野では、2008 年に、シュ 」の支援と連携を強化する タインマイヤー外相(当時)が、ドイツ語教育を行う「パートナー学校(Partnerschule) プログラム「PASCH-NET」を開始した。インターネットを活用して児童生徒の交流や教育技術の向上に取り組む、 優秀な生徒にドイツへの奨学金を供与するなど、早期からの「知独派」育成と人的ネットワーク形成に力が入れられ ている。 統一ドイツは、統合を拡大し深化させるヨーロッパの心臓というアイデンティティをもち、変化する世界の中でよ り積極的役割を果たす方向へとシフトしている。対外文化政策の新展開も、そうした政策形成者の姿勢変化を反映し ている。次節以降では、21 世紀初頭の今日における政策の三つのトレンドを紹介し、そこに象徴されるアイデンティ ティ「変容」の意味を考察したい。 III. 21 世紀のトレンド Ⅲ - 1.ヨーロッパ 今日の対外文化政策の大きな眼目は、 「ヨーロッパのドイツ」意識を国内外で強化し、ヨーロッパの統合と協力に 貢献することである。文化政策のヨーロッパ志向は、欧州連合成立以降の統合の拡大と深化に適応し、近年のユーロ 危機が生んだ EU 内部の相互不信に対処する必要性に裏打ちされている。 ヨーロッパ統合において、教育文化政策は長年各国の主権にゆだねられてきた。しかし、欧州連合創設以降は、共 通教育空間の構築、ヨーロッパ文化遺産の認定など、さまざまな具体的政策が打ち出されている。ヨーロッパの民主 主義諸国間の文化協力を戦後一貫して進めてきた欧州審議会では、EU とも連携しつつ多言語・複言語主義を推進し たり、域内の諸都市で交流志向の多文化共生政策(「インターカルチュラル・シティ」)を進めたりなど、独自の政策 を行っている。 ドイツは、こうしたヨーロッパの文化政策に積極的にコミットしている。ゲーテ・インスティトゥートや DAAD といった連邦の対外文化政策の専門機関は、EU 加盟国文化機関のネットワーク(EUNIC)で活動する、EU 文化 政策の実行主体となるといった形で、ヨーロッパレベルのアクターとしても活躍している。連邦政府は、EU や欧州 審議会における多国間文化政策への関与と並行して、ヨーロッパ各国との二国間文化交流にも力を入れている。 対外文化政策の 「ヨーロッパ志向」 の背景に、 ユーロ危機が続く中で EU 内の「勝ち組」ドイツに対する不信を払拭し、 加盟国の国民間関係を強化する必要性があることは確かである。しかし、具体的な事業展開に注目すると、文化面の ヨーロッパ協力を通して、いわゆる国際主義的な信頼関係強化のみならず、より実際的な国益が追求されていること が透けて見えてくる。たとえば、高等教育や職業研修の分野で、財政難に苦しむ南欧諸国からの人材受け入れを促進 することは、 少子高齢化に悩むドイツにとっても大きな利益である。また、ドイツは欧州審議会や EU における多言語・ 複言語主義推進の旗振り役になっているが、英語以外の言語の学習や使用を促すことは、ヨーロッパ域内で最大の話 者数を誇るドイツ語の普及に追い風となる。ゲーテ・インスティトゥートで「ことばの力」プロジェクト(Ⅱ - 3参照) を推進したユッタ・リムバッハ前総裁(在任 2002 ~ 08 年)は、欧州委員会委嘱の諮問グループで母語以外の二言語 6 修得( 「個人選択言語 personal adoptive language」の学習)を提言し、「英語は必要、ドイツ語はプラス」(“Englisch ist ein Muss, Deutsch ist ein Plus”)という名言を残した。 Ⅲ - 2.立地としてのドイツ 経済や教育がグローバル化する中、ドイツでは国の目指す方向として「立地(Standort)」という表現が好ん で使用されている。Standort は優秀な人や企業を惹きつける磁場のような場所を指すことばであり、教育立地 、研究立地(Forschungsstandort)といった複合語の形でも使用される。 「立地」のスローガンが (Bildungsstandort) 意味するのは、大学の国際化や教育研究力の強化を推進することにより、世界中のすぐれた人材をドイツに集めよう ということである。 対外文化政策における「立地」志向は、すでに 1990 年代に大学の国際化戦略などの形で始まっていたが、21 世紀 になってさらに強化されている。2011 年 9 月に外務省が発表した原則文書「グローバル化時代の対外文化教育政策」 は、 対外文化政策の具体的課題4点のうち、 「対話、 交流、協力」に次ぐ2番目の重要課題として「経済、学問、イノベーショ ンの立地ドイツの推進」を掲げた。2010 年に同省が始めた「ドイツ語—アイディアの言語」キャンペーンも、ドイ ツ語の学術語としての地位を強化し、優秀な人材をドイツの教育研究機関に集める意味をもっている。 「ドイツ語—アイディアの言語」という名称は、2005 年に始まった「アイディアの国ドイツ(Deutschland – Land der Ideen)」キャンペーンからヒントを得ている。「アイディアの国」は、連邦政府とドイツ産業界の協力で 2005 年 から進められている運動で、もとはサッカーワールドカップ開催(2006 年)にあたってドイツの肯定的イメージを 高めるために始まった。世界の主要各国、とりわけ中国やインドなどの人材豊富な新興経済国において、教育研究の 立地としてのドイツの魅力を広めるイベントが開催されている。 今日、「立地」志向は、優秀な人材のドイツへの留学や移住の促進という具体的な形を帯びている。次項でとりあ げる「移民国」への転換は、そうした新展開の背景要因の一つとなっている。 Ⅲ - 3.移民統合 原則文書「グローバル時代の対外文化政策」では、対外文化政策の課題の4つ目として、 「一時的あるいは永続的 にドイツに滞在したいと望む人びとを、ドイツに呼び寄せること」を挙げている。こうした目標設定は、同文書発表 の 15 年ほど前には考えられなかったものである。連邦共和国は、建国以来一貫して、血統主義的国籍原則を維持し てきた。戦後復興を助けたガストアルバイターたちが家族を呼び寄せ、居住を長期化させても、ドイツ社会の正式な 一員とは認められなかった。しかし、少子高齢化と多文化化が進行する中、徐々に法律が改正され、2005 年には移 住法が発効してドイツは正式に「移民国」となった。 こうした変化に伴い、対外文化政策の「ドイツ人向け」側面が新たな展開をみせている。 「ドイツ人向け」といっ ても帝国主義時代とは異なり、ドイツ語を母語とせず血統的にもドイツ系とは限らないけれど「ドイツ人」あるいは 「ドイツ社会の一員」になりたいと望む人びとを対象とした言語・文化政策である。 移住法の導入により、ドイツでの長期居住には一定程度のドイツ語能力修得が必須条件となった。語学講座とドイ ツの法律や歴史などのオリエンテーション講座から成る「統合コース」が国内各所で提供され、家族呼び寄せで来独 する配偶者などには同コースの受講が義務づけられている。「統合コース」の開発や実施においては、対外文化政策 」普及ノウハウや、文化交流のインフラが大いに活用されている。ゲー における「外国語としてのドイツ語(DaF) テ・インスティトゥートでは、国内で運営するドイツ語学校で「統合コース」を実施するほか、在外の文化会館で移 住希望者向け語学講座を整備し、 ネットでのドイツ語学習や異文化適応アドバイジングも強化している。2012 年には、 移民関連のサービスやトピックを一堂に閲覧できるポータルサイト「移住と統合」を開設した。 (後記:2013 年末に成立したメルケル大連立政権では、対外文化政策担当の外務政務次官に、首相府の移民・難民・ 統合担当官を 8 年間務めたマリア・ベーマーが任命された。こうした人選は、対外文化政策の移民統合機能を今後さ らに強化する連邦政府の意向の表れと考えてよいだろう。) Ⅲ - 4.対外文化政策の変容? 以上に挙げた 21 世紀の対外文化政策のトレンドを、どのように評価すべきだろうか。今日の対外文化政策は、歴 史の流れの中に位置づけてみると、 「新たな一歩」でもあり「原点回帰」でもあるという両義的な性格を帯びている。 21 世紀の対外文化政策に、従前の政策とは異なる新機軸がみられることは明らかである。教育文化政策のヨーロッ パ化や、対外文化政策の移民統合機能強化は、いずれも国民国家形成原理の変更を迫るものであり、帝政期以来対外 7 文化政策の基盤をなしてきたエスニック的ドイツ概念からの脱却を示唆している。 他方で、ドイツの国や教育、言語などに肯定的な価値を認め、外へ普及しようとする連邦政府の姿勢は、初期の対 外文化政策に特徴的だった「世界に広がる文化国民」の意識を彷彿とさせる。外国のドイツ学校を「質の高い教育」 への踏み台として、ドイツ語を「創造的な活動」への鍵として、それぞれ活用し普及する方針は、帝政期の態度と通 底している。立地論の隆盛が象徴するように、 「国としての好感度を上げる」ことが対外文化政策の主要目標となっ ている状況を、文化政策がナショナリズムの強化手段となっていると解釈することも可能であろう。 新たな一歩か、原点回帰か。両義的な政策状況のどちらにより重みがあるのか、あえて選ぶとするなら、現在の勢 いは後者にあるかも知れない。ヨーロッパの多言語・複言語主義の推進のように、国を越えた文化的多様性の擁護の ようにみえる行為の根底にも、ドイツ語の勢力拡大というナショナルな利益の追求が強く働いている。移民の受け入 れや統合も、結局はドイツの国家や社会の維持発展と不可分である。 とはいえ、 こうした傾向を、 帝政ドイツ、 まして第三帝国にみられたような、自民族優越主義や国家至上主義とイコー ルで結ぶのは誤りである。交流相手との対話や協力を重視する「リベラルな原則」は一貫して維持されているし、そ もそもヨーロッパ化とグローバル化の中で、ドイツの国や社会の内部が多様化し、「ドイツ文化」そのもののありよ うが1世紀前とは異なっている。文化政策の戦前回帰がもはやあり得ないことは、「ドイツ人向け対外文化政策」の 変容が明確に物語っている。 おわりに 最後に、講演の結びに代えて、今日の対外文化政策から透けて見えるドイツのアイデンティティの変容を、そこに おけるヨーロッパ統合の影響もふまえて概括したい。 対外文化政策における立地論の隆盛や移民統合機能の強化は、グローバルな競争の中、優秀な人材を惹きつけ経済 的技術的に発展していくために、ドイツは世界の中で「アイディアの国」として魅力的でありたい、そうなくてはな らないという意識を表している。しかし、その一方で、そこで追求される「ドイツの魅力」とは、ナショナルな枠の 一枚岩的な強さよりもむしろ、 「国際的な対話と協力を推進する国」「多様な人びとが社会の構成員となり、創造力を 発揮できる国」といった、調整役あるいは媒介の場としての魅力であるように思われる。 このようなアイデンティティの変化の裏には、ヨーロッパ統合の経験が影響しているといえる。ドイツは過去半世 紀以上にわたり、フランスをはじめとする周辺国と協力して統合を推進し、そうした過程の中で国際的不信を少しず つ克服してきた。青年交流や歴史教科書対話などの地道な文化交流は、国民間の信頼醸成の基盤づくりに役立った。 統合の成果だけでなく、協力のプロセスもまた—もしかすると成果以上に—重要であるという教訓は、対話と協力を 根気強く進め、多様な主体を調整し媒介する役回りこそ、現代のドイツに相応しいという意識を、政策関係者の中に 根づかせたのではないだろうか。 ドイツ東西統一は、戦後人工的に分断された「国民」の再統合であり、近代的国民国家の復活というイメージが強 い。しかし、この統一も、連邦共和国が戦後復興のシンボルであった通貨マルクを捨て、ユーロを導入する決定と引 き換えに達成されたことを忘れてはならない。ドイツの「強さ」は一国単独のものではなく、ヨーロッパの中心国と してのものである。連邦政府が昨今力を入れている南欧諸国からの留学生や研修生、若手研究者等の人材受け入れは、 ドイツの「立地」を強化すると同時に、若者たちの出身諸国に貢献し、ヨーロッパ全体の人材力を強める意味ももっ ている。アテネのゲーテ・インスティトゥートのドイツ語学校長が、朝日新聞の取材に回答して述べたことばは象徴 的である。 「ドイツにとって不可欠なのは、他国の力になる人材を育てるという謙虚さです。」 21 世紀のドイツが、ヨーロッパおよび国際社会でさらに「新たな一歩」を踏み出すには、ドイツの人びとが「ヨー ロッパの心臓」というアイデンティティに加え、さらにもうひとつ別の自己意識を持てるかどうかが鍵になるだろう。 それは、「非ヨーロッパ的な要素も含めた、多様な背景を持つ人びとが構成する社会」という意識である。グローバ ルな人の移動はますます進展し、ムスリム系を中心とする非ヨーロッパ系住民の増加が、ドイツのみならずヨーロッ パ全体で大きな問題となっている。排外主義の高まりも報じられるが、人の国際移動と社会の多文化化はもはや不可 逆的であり、移民系の人びとといかに「共に生きる」かが課題である。 本講演では、歴史的に対外文化政策の核となってきた「ドイツ人向け政策」が、現在その姿を変えつつあることを 8 紹介した。今後は、ドイツ社会の構成員になることを望む人びとの統合を後押しするのみならず、マジョリティ・ド イツ人の側でも外国語学習や異文化理解を進める方向へと、さらに内容を広げることが必要になるのではないだろう か。ドイツの国内文化政策や移民統合政策の関係者の間では、マジョリティとマイノリティの交流や文化の混淆・変 容を意識した「インターカルチュラル(Interkultur)」ということばが好んで用いられるようになっている。新しい 世紀を迎えた対外文化政策は、 「インターカルチュラル政策」へと変容を遂げていくのかも知れない。 【主要参考文献 】 Auswärtiges Amt (Hrsg.), Auswärtige Kultur- und Bildungspolitik in Zeiten der Globalisierung, Berlin, September 2011. Auswärtiges Amt (Hrsg.), Bericht der Bundesregierung zur Auswärtigen Kultur- und Bildungspolitik 2010/2011, Berlin 2012. Auswärtiges Amt (Hrsg.), Bericht der Bundesregierung zur Auswärtigen Kultur- und Bildungspolitik 2011/2012, Berlin 2013. 稲田信司「変わる人流:危機下の欧州」 ( 『朝日新聞』夕刊、2013 年 5 月 21 日~ 24 日) 。 Goethe-Institut (Hrsg.), Das Goethe-Institut und Europa, 2011. Goethe-Institut (Hrsg.), Sprache und Integration, 2012. 川村陶子「西ドイツにおけるリベラルな国際文化交流」(田中孝彦・青木人志編『〈戦争〉のあとに:ヨーロッパの 和解と寛容』勁草書房、2008 年、143-170 頁。 Jutta Limbach und Katharina von Ruckeschell (Hrsg.), Die Macht der Sprache, Langenscheidt, Berlin 2008. マティアス・マコフスキほか「ヨーロッパを結びつけるもの」 (『DE Magazin Deutschland』日本版、 2013 年第 2 号、 20 - 33 頁) 。 丸尾眞『ドイツ移民法における統合コースの現状及び課題』内閣府経済社会総合研究所、2007 年 8 月。 Netzwerk Deutsch (Hrsg.), Die deutsche Sprache in der Welt, 2010. Özlem Topçu, Alice Bota und Khuê Pham (Hrsg.), Wir neuen Deutschen, Rowohlt, Reinbek be Hamburg, 2012. 植村和秀「国民国家ドイツの『魅力』と民族メディア」(佐藤卓己・渡辺靖・柴内康文編『ソフト・パワーのメディ ア文化政策』新曜社、2012 年、64-89 頁。 」 ドイツ連邦共和国外務省ウェブサイト「対外文化教育政策(Auswärtige Kultur- und Bildungspolitik) 〈http://www.auswaertiges-amt.de/DE/Aussenpolitik/KulturDialog/ZieleUndPartner/ZielePartner_node.html〉、 2013 年 12 月 16 日最終更新。 9 10 分断から統合へ? ―ポーランド西部国境における「分断された領域」のいま― 仙石 学 I. ポーランド西部国境の「分断された領域」 2004 年に EU に加盟したポーランドを含む中東欧 8 カ国は、2007 年 12 月 21 日にシェンゲン協定にも正式に加盟 し、 その結果として加盟国相互間での国境コントロールは廃止されることとなった 1。これはポーランドの場合であれ ば、陸続きの国としては周辺の 7 カ国のうち、ドイツ、チェコ、リトアニア、およびスロヴァキアの 4 カ国との間で 相互に国境が開放されたことを意味する。本稿はこのうち、ポーランドとドイツの国境となっている「ポーランド西 部国境」における「分断された領域」に着目し、国境の移動が自由化される前後の「分断された地域」の状況および その変化について検討することを目的としている。 ここで西部領域の「分断された領域」とは、第二次世界大戦以前は旧ドイツの「同じ町」もしくは「同じ地域」で あった領域で、対戦の結果として旧ソ連の意向を反映する形で確定された、現在のポーランド西部国境となる「オー デル・ナイセ線(ポーランド語ではオドラ・ヌィサ線) 」により異なる 2 つの国(ポーランドと当時の東ドイツ)に 分断された地域を指すこととする。次に「分断された領域」をここで取り上げる理由としては、一度は国境で分けら れて交流も限定されていた地域が、ポーランドのシェンゲン協定加盟により再度自由な往来が可能となったことで、 分断されていた地域が再び「結びつく」可能性が生じたということがある。ドイツとポーランドの間では、ポーラン ドの EU 加盟前後で両国をつなぐ鉄道や道路が整備されたことで両国の間でのさまざまな形の往来が増加し、特に ワルシャワとベルリンの間を中心としたカーゴの通過量は大きく伸びているとされる(Komornicki 2008, 136-142)。 だが国境が開放されて交流が増えることが、果たして分断された地域の「再統合」に結びつくかどうか、また実際に 再統合への動きが存在している場合でもそれがどのような形で実現するかについては、必ずしも明確ではない。本稿 ではいくつかの「分断された領域」の事例を比較しながら、現在の状況とその背景について検討を加えていくことと したい。 以下第 2 節では、 「分断された領域」として 4 つの事例―「フランクフルト・オーダー(Frankfurt an der Oder) 」 、 「グベン(Guben)とグビン(Gubin)」、「ゲルリッツ(Göelitz)とズゴジェレッツ とスウビッツェ(Słubice) (Zgorzelec) 」 、および「ウゼドム島(Inzel Uzedom)(ポーランド名ウズナム島(Wyspa Uznam))」―をとりあげ 2、 それぞれの事例におけるシェンゲン前後の地域間協力をめぐる現状を整理し、多くの場合実質的・永続的な協力の形 成には困難が伴っていることを明らかにする。次いで第 3 節では、協力関係の構築が困難な理由として、地域間協力 を促進する枠組みが十分に整備されていないという制度的要因と、国境がソフト化しても「国の違い」は簡単には克 服することができないという心理的要因を整理した上で、それでもそれらの要因を克服して、新たな協力関係を構築 しつつあるように見える事例を紹介する。第 4 節では全体の議論をまとめた上で、それでも西部国境はポーランドの 他の国境(南部および東部)に比べるとはるかに相互協力のための条件は整っており、今後は協力が進展する可能性 は他の故郷地域と比べて高いことを、比較の視点から整理していく。 1 ただし空路に関しては、2008 年 3 月 29 日までは空港での国境検問が引き続き行われていた。 2 なお地名の記載順は、戦前はこの地域がドイツ領であったことを踏まえて、ドイツ語・ポーランド語の順で記載している。 11 II. 「分断された領域」の現状―4 つの事例から 先にも挙げたとおり、ここで事例とするのは、 「フランクフルト・オーダーと スウビッツェ」 、 「グベンとグビン」 、 「ゲルリッツとズゴジェレッツ」、および「ウ ゼドム島(ポーランド名ウズナム島」の 4 つの「分断された地域」である(それ ぞれの地域のおよその所在地は図 1 を参照) 。ここでこの 4 つの地域を事例とす る理由としては、ウズナム島をのぞいてもともとは「一つの町」であり、過去に は緊密な結びつきが存在していたこと並びにウズナム島も島としては一つの生活 圏にあったものがやはり国境変更によりそれが分断されたという点で他の町と同 じように考えることができること、現在ではこれらの町は国境地域における拠点 となっていて、それぞれが 4 つの町・島が属するユーロリージョンにおいて中核 的な役割を果たしていること 3、またこのような事情ゆえに、この地域における国 境を越える協力に関してはある程度の研究が蓄積されているということによる。 以下それぞれの町もしくは島における協力の現状について、簡単に整理していく こととしたい。 [図 1]4 地 域 の 所 在 地 A:ウゼドム島、B:フランクフルト・オーダー、B':スウビッツェ C:グビン、 C':グベン、 D:ゲルリッツ、 D':ズゴジェレッツ ( 出 典 ) h t t p : / / w w w. s e k a i c h i z u . j p / の 白 地 図 よ り 筆 者 作 成 a) フランクフルト ・ オーダー / スウビッツェ―「幹線」に存在することの不幸 最初の事例として取り上げるのは、ワルシャワとベルリンを結ぶ鉄道・道路の幹線上に存在するフランクフル ト・オーダーとスウビッツェである。スウビッツェは 1945 年まではフランクフルトの郊外の町でダムフォシュタッ ト(Dammvorstadt)と称されていて、フランクフルトの路面電車もオーダー川を越える路線が存在していた 4。1945 年の国境分断後は両都市間の交流は 1970 年代の一時期をのぞいて停滞していたが、社会主義体制が崩壊した直後 の 1990 年には、両都市の間で最初の協力協定が締結され、その後両都市の間では行政面での協力や産業開発、労 働者の移動、保健、教育などの面での協力が進展した。特に顕著な点として、1998 年のフランクフルト・オーダー にあるヨーロッパ大学ヴィアドリナとポズナンのアダム・ミツュケヴィッツ大学の共同教育機関となる “Collegium Polonicum” の設立(スウビッツェ)や(Herrschel 2011, 158)、2000 年の 2 カ国語教育を行う幼稚園 “Euro Kita” の 設立(フランクフルト・オーダー)の設立に見られるような、教育面での協力が進んでいることをあげることができる。 だが両都市の協力は、必ずしも全て順調に進んでいるとは言いがたい。基本的には両都市間の協力は定期的な協議 の開催のみで、これまでのところ専門の部局や機関が設置されているわけではない。また EU の資金投入によりベル リン・ワルシャワを結ぶ鉄道や道路の幹線が整備された結果、特に若年層が国境の町を離れて労働市場の大きな「自 国の大都市」に向かう傾向が現れていることも指摘されている(Herrschel 2011, 159) 。さらに現在では、フランク フルト・オーダーは人口減少に伴う「縮小都市(Shrinking City)」対策に重点が置かれているのに対して(Herrschel 2011, 158) 、スウビッツェの方は近隣の町コシュティンとともに「経済特区(Spesial Economic Zone Kostrzyn- Słubice)」に指定されていることで新規投資が増えているという対極的な状況にあることも 5、両都市のさらなる協力の 進展を難しくしているという側面がある。実際に市民レベルでの相互の交流は買い物での訪問などが中心で、またか なりの割合で「隣国の隣町」を訪問したことがないという層もかなり存在している(仙石 2007)6。 このような状況を反映していると考えられるのが、先に挙げた路面電車のスウビッツェへの路線の復活計画であ 3 ウゼドム島のシフィノイシチェはユーロリージョン・ポメラニア (Pomerania)、フランクフルト・オーダーとスウビッツェはプロ・エ ウロパ・ヴィアドリナ (Pro Europa Viadrina)、グビンとグベンはスプレヴァ・ヌィサ・ブブル (Sprewa-Nysa-bóbr)、そしてゲルリッツと ズゴジェレッツはヌィサ (Nysa) において、それぞれ中心的な役割を果たしている。 4 フランクフルト・オーダー市の路面電車の歴史に関するホームページを参照 (http://magazin.tram-ff.de/tramnachslubice.php、以下ホー ムページはすべて、2014 年 1 月 22 日接続 )。 5 ポーランド情報・海外投資庁 (Polska Agencja Informacji i Inwetycji Zagranicznych: PAIiIZ) のホームページ (http://www.paiz.gov.pl/ investment_support/sez/kostrzyn)、および Gwosdz et al.(2008) および Dolata(2008) も参照。なおコシュティン = スウビッツェの経済特 区について検討したドラータは、この経済特区が地域の経済発展や労働市場に与えた影響はあまり大きくないことを指摘している (Dolata 2008, 181-183)。 6 2012 年の段階でも、フランクフルト・オーダーの市民の 18% はスウビッツェを訪れたことがないという指摘もある (https://www. diplomatie.diplo.de/index.php?option=com_content&view=article&id=1120:idp4-slubice&catid=192&Itemid=890&lang=en)。 12 る。これは EU の地域間交流に対する資金援助である INTERREG III を利用して、第二次大戦前には存在して いたスウビッツェの市街地までの路面電車の路線を復活 させる計画で 2005 年に提起されたが、フランクフルト・ オーダーで行われた住民投票で反対が多数となったこと でこの計画は中止された。その後 2009 年に再度路線延長 が提起されたものの、これも結局立ち消えとなっている 7。 住民の関心が低くまた経済的にも停滞している状況にお いては、地域交流をすすめるようなインフラを整備する ことそのものも困難になると考えられる。 [図 2] フランクフルト・オーダーとスウビッツェをつなく橋 (出典)著者撮影、対岸 の 街並みがフランクフルト・オーダー b) グベン / グビン―忘れ去られた街? 次に取り上げるのが、ナイセ川(ポーランド語ではヌィ サ川)とオーダー川(同じくオドラ川)が合流する地点の手前にある、グベンおよびグビンである。ここも本格的 な交流が再開されるのは体制転換後のことで、1990 年 に最初の協力協定が締結された後、やはり都市開発、観 光、教育、市民交流、教育などの面での協力が行われて きた。特に 1990 年代後半意向は、1998 年の共同事業に よる汚水処理を行う企業の設立(Musiał-Karg 2009, 250 注 28)8、「欧州都市実験モデルグビン・グベン(Model experiment Euro Town Guben/Gubin)」 と し て World Expo 200 へ の 共 同 立 候 補(1998 年 )、INTERREG III を利用した都市再生プランの策定(2000 年) 、あるいは 町の長期計画としての「グビン・グベン 2030」プランの 策定(2002 年)などを積極的に実施してきた。 だが当初は「ユーロタウン」のモデルとされた両都市 [図 3] グビン・グベン国境 (出典)著者撮影、奥がグベン(ポーランド)側 であるが、2000 年代に入るとそれ以上の協力の進展はみ られず、ここ数年は低迷した状態にあることが指摘されている(Dürrschmidt 2008)。この点については、グビン・ グベン地域は国境間の主要なネットワークから外れていて、また国境を越える鉄道も体制転換後に廃止されたことで、 両国の交流の蚊帳の外に置かれてることとなり、先のフランクフルト・オーダー / スウビッツェとは逆の形で住民が 地域に残らなくなっていること、主要な作業や観光などの拠点もなく、地域に人を引き留める要因が少ないこと、お よび住民の間で信頼が十分に構築されておらず、言語的な障害も大きいことなどが背景にあるとされる。この地域に ついては、ヴィアドリナ大学の存在がかろうじて学生を引きつけているフランクフルト・オーダーの事例と比べても、 より厳しい状況にある。 c) ゲルリッツ / ズゴジェレッツ―比較的交流は進んでいるが…… 次に取り上げるのが、ナイセ川流域の南部にあるゲルリッツ・ズゴジェレッツの事例である。ゲルリッツは 1950 年に当時の東ドイツとポーランドの国境をオーデル・ナイセ線と定めたゲルリッツ条約の締結地であるが、ここは 他の地域と異なり、1970 年代には国境が部分的に開放され、ポーランド側からドイツ側への通勤も見られるように なっていた。ポーランドで『連帯』運動が活発化した 80 年代初頭には一時国境は閉鎖されるものの、1980 年代後半 7 Märkische Oderzeitung Frankfurt 紙の 2009 年 5 月 12 日の記事による (http://www.moz.de/index.php?id=75&tx_rsmdailygen_ pi1%5Barticle%5D=68008&tx_rsmdailygen_pi1%5Baction%5D=show&tx_rsmdailygen_pi1%5Bcontroller%5D=Articles&cHash=4db04 6eed1e05d629a24029fe776cd81)。ちなみに 2012 年の 12 月 9 日からは、フランクフルト市の交通局(SVF)がスウビッツェの市内まで運行 するバス路線を開設している。 8 グビン・グベン下水処理公社 (Przedsiębiorstwo Oczyszczania Ścieków Gubin-Guben) について詳しくは、同社のホームページ <http://www.pos.zgora.pl/> も参照のこと。 13 には再度国境が開放され、2 つの町を結ぶ路線バスお よびタクシーも運行されるようになった(Ragut and Welter 2012, 68-70)。そして 1989 年にはビザなしでの 渡航が可能となり、1991 年には交流協定が締結され、 あわせて交流実施機関としての「ヨーロッパハウス・ 」が設立され ゲルリッツ(Europa-Haus Görlitz e.V) ることとなる(Ragut and Piasecki 2012) 。 2 つの町の協力は、1998 年の「ヨーロッパシティ・ ゲルリッツ / ズゴジェレッツ」を形成し、教育や文化、 経済、都市サービスなどで共同で問題に対処すること を決定してから、さらに進展することとなる。2002 年 」 には「都市 2030 年(Projekt miasta 2030/Stadt 2030) [図 4] ゲルリッツ・ズゴジェレッツ国境の橋 (出典)著者撮影、橋の向こうがズゴジェレッツ(ポーランド)側 プロジェクトを開始して、共通都市開発のための 2 都 市間の交流を強化するほか、2030 年までには両市の市議会や市の予算を一元化し、行政を効率的に運営することも 目標に掲げている。また 2006 年には災害や事故の際に相互協力を行う協定が締結され、協力の範囲も広げられている。 ただしこの両都市の間でも、必ずしも協力が順調に進んでいるわけではない。「都市 2030 年」プロジェクトの終了 後は 2 市の間の交流は減少しているし、また両市の市長および市の執行部からなる運営委員会も現在ではその活動が 停滞している。この両都市の場合、協力を推進するという方向では一致しているものの、協議から得られた頭囲が具 体的な成果を生んでいないことも指摘されている(Knippschild 2008, 109)。そしてこのように各種のプロジェクト が継続しない理由としては、両市の行政組織や権限に相違があることの他、言語の相違が交流を阻んでいること、あ るいはお互いに相手に対する偏見があることなどが指摘されている。またズゴジェレッツに関しては、やはり近くに ポーランドの経済特区(Legnica および Kamienna góra)があり、投資がズゴジェレッツよりもそちらに向いてしまっ ていることも、両市の交流を抑制する一因となっているという指摘もある(Ragut and Welter 2012) 。また両都市は 共同で 2010 年の欧州文化都市に立候補していたが、こちらは採択されなかったこともさらなる交流の進展を抑制し たとみられる。 d) ウゼドム島 / ウズナム島―「結節点」にあるが故の強み? 最後に取り上げるのが、オーダー川河口のシチェチン湾に存在するウゼドム島である。この島はドイツ帝国期には 「皇帝の海水浴場」とも称されたリゾート地であるが、第 2 次世界大戦期にはナチスによりミサイル基地が置かれ、 また体制後には国境が分断されるとともに、ポーランド側のシフィノウイシチェにソ連の海軍基地、ドイツ側のペー ネミュンデにミサイル基地がそれぞれ置かれるというように、体制転換の前までは軍事拠点として利用されていた。 この島の場合もともとが一つの町というわけではなかったこともあり、国境地域における協力の動きが現れるのは 他の地域より遅く、汚水処理プラントの共同運用が始められたのが 1997 年、ポーランドのシフィノイシチェ市と隣 接するドイツのヘリングスドルフ市の間で協力協定が締結されたのが、1998 年のことであった。その後は他の事例 と同様に、都市計画や環境保護、観光振興、行政協力などでの協力が協議されるが、特に「国境融合プロジェクト」 を通した遊歩道や自転車道の整備、イベントの実施、水族館や娯楽施設などの観光施設の整備、あるいは鉄道やバス の連絡網整備などが積極的に推進されている。2007 年にはシフィノイシチェとヘリングスドルフの間でパートナー シップ協定が締結され、EU の合同プロジェクトの実施なども含めた協力推進が検討されている。この地域に関して は、特に国境間における各種のインフラ整備や観光振興で一定の成果を上げている点が、他の地域と異なるところで ある。このようにこの地域では具体的な協力が進展している理由としては、当地が交通の結節点で、特にシフィノイ シチェはどこに移動するにしても必ずここに一度「立ち寄る」必要がある地域になっていること、またシフィノイシ チェはドイツのみならず北欧やバルト諸国ともフェリーの便があり、多面的な交流が可能となっていることをあげる ことができよう。 14 ただし両地域間の協力は、最初から順調に行われていた わけではない 9。ウゼドム島におけるドイツとポーランドの 国境は 2007 年までは基本的に閉鎖的で、国境を越えられ るのはヘリングスドルフのアールベックのみ、しかも移動 は歩行者か自転車のみで、自動車の通行は認められていな いという状況にあった。この点については、ウゼドム島の 内部では中核となるのがポーランド側のシフィノイシチェ 市であることから、ドイツ側には国境を開放すると党内に おけるシフィノイシチェ一極集中が進むのではないかとい う危惧が存在していたことが影響している。他方でシフィ ノイシチェの側は、2002 年に市の中核となっていた漁業会 社オドラが閉鎖されると、ドイツからの観光客およびおよ [図 5]シェンゲン後に一切の障壁がなくなったウズナム島 ( ウゼドム島 ) の国境 ( 出 典 ) 著 者 撮 影 び買い物客に地元経済の活路を見いだそうとして、ドイツからの客層を想定した商業施設や観光施設を整備するよう になった。その結果としてアールベックを越える人の流れが急増し、国境通行の増加に両国が対応する必要に迫られ ることとなった。 この段階においてもドイツ側は国境開放には積極的ではなく、国境における自動車通行の全面開放を求めるポーラ ンド側に対して、ドイツ側はバスのみの通行を認めるという態度をとっていた。だがドイツ側でも、ウゼドム島に路 線を展開するウゼドム海浜鉄道(UBB: Usedomer Bäder Bahn)は、ある程度の乗客の見込めるシフィノイシチェま での延長を希望していたが、これにはシフィノイシチェ側に、国境から市内までドイツからの訪問者を運んでいた馬 車業者などの関係者の反対が存在していた。最終的にこの問題は、鉄道の延伸と引き替えに道路を全面開放するとい うシフィノイシチェ側の提案が通り、アールベックの国境は完全に開放されることとなった。だがその結果として両 国間の移動・交流は増大し、シフィノイシチェからドイツに向かう観光客も増加したことで、国境開放はポーランド のみならずドイツ側にも一定の恩恵を与えることとなった。ただしシフィノイシチェの側はこれで必ずしも協力が十 分に進展するとは考えておらず、例えばドイツのメクレンブルク = フォアポンメルンの州議会で極右のドイツ国家 民主党(NPD)が一定の支持を得ていることには、不安を有しているとされる(Drzonek 2009, 271-272)。この点で この地域の協力がより進展するかどうかは、今後の動向も見る必要があろう。 III. なぜ「交流」はすすまないのか―制度的要因と心理的要因 前章では 4 つの「分断された領域」の現状を整理したが、ウゼドム島をのぞく地域では交流は必ずしも順調には進 んでおらず、ある程度の交流が見られるウゼドム島でも必ずしも全ての障害が克服されているというわけではないと いう状況にあることを、確認することができるであろう。ではなぜもともとは「同じ町(領域) 」であったはずのと ころで、国境が開放された後でも本格的な交流が進展しないのか。サルミェント = ミアバルトとロマン = カムハウ スは、地域間協力が進展するか否かについては(1)行政組織、 (2)法的基盤、 (3)経済および福祉レベルの差およ び地域間インフラの発達度、 (4)財政基盤、および(5)地域の文化やアイデンティティという 5 つの要因が作用す る可能性があることを指摘しているが(Sarmiento-Mirwaldt and Roman-Kamphaus 2013, 1625)、ここではこれを「制 度的な要因(上の(1) 、 (2)および(4) ) 」と「心理的要因(上の(3)および(5) ) 」とした上で、それぞれの要因 について検討していくこととする。 制度的な要因としては、以下のような点を上げることができる。まずドイツとポーランドの間で地方行政の制度お よび権限が異なり、その地域で決められることに違いがあること、特に連邦制を取るドイツでは地域(州)に相対的 に大きな権限があるのに対して、ポーランドの県は自治体ではあるもののその権限は限定的で、各種のプログラムの 実施などについて中東政府との協議が必要となる場合が多いこと、並びに両者の間での地方単位の相違のために、適 。行政に関しては制度的な面のみ 切なパートナーが存在しない場合があるということがある(Herrschel 2011, 157) 9 以下の記述は、基本的に Drzonek(2009) の内容に依拠している。 15 でなく、地域におけるスタッフの認識不足という問題も指摘されている(Ciok and Raczyk 2008, 39)。これは地域の スタッフが相手の国のことに詳しくなく、そのために地域間協力や INTERREG III の重要性を認識していないこと や、あるいは優秀なスタッフが国境地域から中央へと流出してしまうことなどに現れている。 次に現時点では多くの場合、地域間交流/協力が「定期的協議」や「一過性のイベント」にとどまっていて、恒常 的な制度を形成して交流を行うという場合が限られているという問題もある。このように協力がスポット的なもの となる理由としては、地域間協力に関する法制度が十分に定められていないという問題がある(Knippschild 2008, 112-113)。この点について、現時点では地域間協力について具体的な規定を行う公法ないし国際法は存在せず、私法 により組織や財政の管理を行うのが一般的となっている。そのために国境を越えて「公権力」を行使するような制度 を形成することは不可能であり、 そのために今のところ、ゲルリッツとズゴジェレッツが目指している「議会」や「予 算」の共同化は困難なものとなっている。 最後に地域間協力のために必要な資金を提供するはずの EU の枠組みが、地域にとって使いにくいものとなってい るということがある。例えば 2000 年から 2006 年の間は、国境間協力は主として INTERREG III からの資金提供が なされていたのに対して、ポーランドに関しては 2004 年の EU 加盟までは PHARE CBC からの資金提供がなされ ていたが、この 2 つの制度には互換性がない上に、特に INTERREG III の資金は EU 内でしか利用できないことで、 国境間協力での利用は限定的なものとなっていた(Ciok and Raczyk 2008, 35) 。その後ポーランドが 2004 年に EU に加盟したことでポーランドは INTERREG III に直接参加できるようになったものの、今度は INTERREG III の期間が中途半端となった上に PHARE CBC からのプロジェクトの転換で支障が生じるということとなった。さ らに INTERREG III およびその後の「欧州地域協力(European Territorial Cooperation, 2007-2013)」では資金額が 大きくなったことで、逆に地方の基層自治体やユーロリージョンには敷居が高くなったことも指摘されている(Ciok and Raczyk 2008, 38-40)。 次に心理的な要因としては、以下のようなものがあげられる。まず根本的なものとしては言語や文化、慣習の相違 がある(Rogut and Welter 2012, 79-80) 。特に言語に関しては、ポーランド側ではドイツ語がある程度受容されてい ても、ドイツ側ではポーランド語に対する抵抗感が大きくまたポーランド語を学ぶインセンティヴが弱いことでコ ミュニケーションに支障があること、英語が利用できる場合には英語を用いるものの、国境地域ではそれも難しい場 合が多いことが指摘されている(Asher 2005, 137-139; Rogut and Welter 2012, 76)。加えてドイツとポーランドの間 には「歴史問題」が存在しており(Knippschild 2008, 104-105)、これも相互の理解の妨げとなっている。 相手に対する「認識の差」の存在もある。例えば国境地域における企業家の認識を調査したログートとヴェルターは、 ドイツ側ではポーランドに対してスケジュール管理や品質の問題に疑問を呈していて、逆にポーランド側ではドイツ の製品に不審を抱いているというインタビュー結果を示している(Rogut and Welter 2012, 80-81)。またフランクフ ルト・オーダーとスウビッツェの調査を行ったアシェは、ドイツ側ではポーランドの人々を「二流市民」とみなして いて、ドイツの店舗でもポーランドから来た人は物取りに来たかのような差別的な扱いを受ける場合もあること、他 方でポーランドの側でも、ドイツに買い物に来る人は自国では物を買えない貧困層であるとみなしているというよう 。 に、相互に相手に対して「偏見」があることを指摘している(Asher 2005: 135-137) 市民が国境を越える交流・協力に強い関心を有さず、行政の側が積極的なイニシアティヴをとってもそれが受け入 れられない場合が多いということも指摘されている。この点についてグビンとグベンの国境間協力を検討したマー ティセンとバークナードは、公式のレベルでは国境間協力・ネットワークへの形成に積極的な対応が取られていたと しても、地域住民の間では国境間協力には関心が向かないばかりか、むしろ疑念や反感が存在する場合も多いこと、 特に事例としたドイツのグベンにおいてはエスニック的な言説や、あるいはポーランドとの経済的競争にさらされる ことへの危惧などでより強い反対が現れていることを示している(Matthiesen and Bürknerd 2001, 46-47)。実際に 国境地域の住民に対するアンケートにおいても、ドイツ側の回答者の 4 分の 3 は相手国に買い物に行くものの、相互 の交流に定期的に参加するという人は 20% 程度しかおらず、また地域交流プログラムが実施されていることを知っ ている人は半数以上でも、自分の住んでいる地域が地域間交流の枠組みであるユーロリージョンに参加していること を知る人は少なく、特にユーロリージョンの名称まで知っている人は 10% 程度しかいないということが明らかにさ 。 れている(Gorzelak 2007, 234) さらにはドイツとポーランドの間であれば、一般的にはポーランドに比べてドイツの方が経済水準が上と考えられ 16 ている。だがポーランド西部国境のみに関していえば、ドイツ側は旧東独の周辺で、今回取り上げたいずれの地域 においても体制転換後に大幅な人口減や失業率の急増を経験しているのに対して(Knippschild 2008, 103; Jóskowiak 2009. 16)、ポーランド側はいずれにおいても微減か現状維持にとどまっている上に、ポーランド西部はポーランド の中でも相対的に経済水準が高い地域で、先に述べた「経済特区」の効果もみられること、およびポーランドの EU 加盟後はポーランドでも物価が上昇していることから現在では両者の間の相違が相対的に小さくなっていて、これが 協力の効果を弱めているという指摘もある (Rogut and Welter 2012, 68, 79)。異なる相手と協力することによるメリッ トが小さくなれば、国境を越えて協力をより進展させようというインセンティヴも、当然小さくなることとなる。 このような心理的障壁が状況が生じた背景には、この地域が分断されてから半世紀以上の時間が経過し世代が交 代しているということももちろんあるが、ポーランドに関しては現在の住民で元々この地域に居住していた人の子 孫に当たる人は 3% 程度に過ぎず、逆に 40% 以上は第二次大戦後の「国境移動」によって、この地域が「分断され た」後で現在のウクライナに当たる旧東部領域から移住してきた人々の子孫であること、およびそのためにドイツと ポーランドの間で両者を架橋する共通の歴史や記憶が存在していないことも影響しているとされる(Herrschel 2011, 155-156)。ユスコヴャクは、地域間交流の発展には国境を越えた共通の関心と利益が必要であることを指摘している 、現状ではそれいずれもが国境の両側に十分に感じられていないことも、相互の協力を妨げ が(Jóskowiak 2009, 17) る要因として作用している ただしここであげたような障害については、これを乗り越えようとする動きも現れはじめてはいる。例えばグビン においては、第二次世界大戦の際に破壊されてその後廃墟となっていた教会の修復を訴えたポーランド人神父の呼び かけに対して、グビン・グベン両市の市民が寄付を行いそれをもととした基金が設立され、その資金により教会の塔 が修復されたという事例がある(Dürrschmidt 2008) 。またフランクフルト・オーダーとスウビッツェに関しては、 NGO 団体のスウブフルト協会による「スウブフルト・シティ・プロジェクト」を通して、「架空の 1 都市」として 両市の市民の交流を進めるという試みも存在している(Musiał-Karg 2009)10。制度的な面でも、ゲルリッツより南の チェコ・ポーランド・ドイツの 3 カ国国境地域に存在するチッタウ(ドイツ)、ボガティニア(ポーランド)、および フラーデク・ナド・ニソウ(チェコ)の 3 市による「都 市ネットワーク小トライアングル」においては、年間 で 20 回から 30 回という頻繁な定期的協議に加えて、 3 市による協議会を常設化して年 2 回重要事項を決定 する会議を行う、あるいは年間 6 万ユーロほどの 3 市 共通予算を設定し、国境協力に関する支援を行うとい う形で、協力を制度的なものとする試みを進めている (Knippschild 2008, 107-108) 。このような動きはまだ 限定的なものであるかもしれないが、市民の意識の変 革、および行政による協力の制度化が進展するようで あれば、今後の国境間協力の形、ひいては地域におけ るガバナンスの形にも、変化が見られるようになるか もしれない。 [ 図 6 ] グ ビ ン に お い て 尖 塔 の 部 分 が 復 興 さ れ た 教 会 ( 右 側 ) (出典)著者撮影 IV. 他の国境との比較―西部国境にはまだ可能性? ここまでの議論から、現在までのところポーランド西部国境における国境間協力は、ポーランドの EU 加盟および シェンゲン協定参加を経てもなお、制度的および心理的障害のためにその進展はもとは「同じ町(地域) 」であった 領域の間でも限られた範囲のものとなっていること、ただし近年はそのような状況に変化の兆しが現れつつあるが、 その動向はまだ明確でないことが、確認できたと考えられる。社会主義期に国境の交通、特に市民レベルでの交流が 10 スウブフルト・プロジェクトのホームページは http://www.slubfurt.net/en_start.html。なおムシャウ・カルグは、グビンとグベンの 間にも同様の「グビエン・プロジェクト」があることを記しているが (Musiał-Karg 2009, 255)、こちらは現時点では活動を行っていない ようである。 17 ほぼ一世代にわたり実質的に遮断されていたことで両者の間の「心理的距離」が大きくなり、それは短期間で克服す ることは難しいものとなっていることが、確認できるであろう。 ただしそれでも、西部国境は他の国境地域と比べるとまだ可能性があるとも言える。例えばポーランドの南部国境 に関してはチェコとスロヴァキアがあるが、この両国とは経済水準や物価水準が近いゆえに「買い物客の交流」のよ うなことが起こりにくく、またいずれの国も「西欧指向」があることで、隣接する東の国との交流に必ずしも熱心で はないということがあり、国境協力により実施されるプログラムは限られたものとなっていることが多い。この点に 関連して先に挙げたサルミェント = ミアバルトとロマン = カムハウスは、ポーランドとドイツおよびスロヴァキア の国境交流を比較した上で、文化の近いスロヴァキアとの関係の方が政策の決定や実施では優れているものの、相違 の大きいドイツとの間の方がプログラムを地域の実情に合わせる政策のイノベーションという点で優れているという 形で、西部国境の方が「文化が異なる」ゆえに協力を促進するための施策が追求される可能性が高いということを指 摘しているが(Sarmiento-Mirwaldt and Roman-Kamphaus 2013) 、これはまさに、十分に成功していないものも含 めて、様々なプログラムが西部国境では提起されていることと結びついているであろう。 これが北部および西部のロシアやベラルーシ国境に関しては、条件はさらに悪くなる。この点についてはポーラン ドのズゴジェレツと東部のベラルーシ国境にあるビャワ・ポドラスカ(Biała Podlaska)の事例を比較したラガート とピアセツキは(Rogut and Piasecki 2012) 、北部国境の場合相手側の地方組織および地域協力へのインセンティヴ が弱いこと、並びに「EU の境界」となったことで国境コントロールが厳格化されたことで、地域間協力の条件は非 常に悪くなっていることを指摘している 11。その中でウクライナとは近年国境交流が増加しているものの、国境地域 には拠点となる都市が存在していないこともあり、その量は西部領域に比べると圧倒的に少ないものとなっている。 ロシアとベラルーシの場合は政治体制の問題が、ウクライナの場合は国境地域の居住が少ないことが、この地域にお 。このような状況から考えた場合、ポーランド西部国境はまだ「相対的に」 ける地域間協力を制約している (Krok 2007) ではあるが、もっとも今後の協力の可能性が開かれている地域なのかもしれない。 〈付記〉 本稿は 2013 年 8 月 1 日に実施された、神戸大学異文化研究交流センター(IReC)研究部プロジェクト「EU アイ デンティティの構築とその政治的意義」2013 年度第 2 回研究セミナー「分断から統合へ?―ポーランド国境におけ る『分断された領域』のシェンゲン後を比較する」の報告内容を、修正の上とりまとめたものである。また本稿は、 (2012 年度~ 2014 年度、課 科学研究費補助金・基盤研究 C「中東欧諸国における福祉と経済との連関の比較分析」 題番号 24530163、研究代表者・仙石学) 、および同・基盤研究(B「マルチレベル・ガバナンス化するヨーロッパの 民主的構造変化の研究」 (2011~2013 年度、課題番号:23402019、研究代表者・小川有美立教大学法学部教授)の成 果の一部である。 〈文献〉 Asher, Andrew D., 2005, “A paradise on the Oder?: ethnicity, europeanization, and the EU referendum in a Polish-German border city,” City and Society, 17:1, 127-152. Ciok, Stanisław, and Andrzej Raczyk, 2008, “Implementation of the EU community initiative INTERREG III A at the PolishGerman border: an attempt at evaluation,” in Markus Leibenath, Ewa Korcelli-Olejniczak, and Robert Knippschild, eds., Cross-border governance and sustainable spatial development: mind the gaps! Berlin: Springer-Verlag, 33-47. Dolata, Michał, 2008, “The role of special economic zones in the socio-economic development of Poland's border regions: the case of the Kostrzyn-Słubice special economic zone,” in in Markus Leibenath, Ewa Korcelli-Olejniczak, and Robert Knippschild, eds., Cross-border governance and sustainable spatial development: mind the gaps! Berlin: Springer-Verlag, 175-183. Drzonek, Maciej, 2009, “Połoźenie przygraniczne a zachowania wyborcze: casus lewicz w Świnoujściu[ 国境外に関する立場と 有権者の確保:シフィノイシチェにおける左派のケース ],” in Jarosław Jańczak and Magdalena Musial-Karg. eds,. Pogranicze polsko-niemieckie po 2004 roku: nowa jakość sąsiedztwa? Torun: Wydawnictwo Adam Marszałek, 262-282. 11 この点については、北部および東部においては、西部国境に比べて国境通過ができるポイントが非常に少ないことも影響していると される (Krok 2007, 218-220)。 18 Dürrschmidt, Jörg, 2008, “Between Europianization and marginalization: 'nested urbanism' in a German-Polish border town,” in Marek Nowak and Michał Nowosielski, eds., Declining cities/developing cities: Polish and German perspectives. Poznan: Instytut Zachodni, 57-76. Gorzelak, Grzegorz, 2006, “Granica polsko-niemiecka: od napięcia do współdziałania w ramach programu współpracy transgranicznej Unii Europejskiej[ ポーランド・ドイツ国境:EU 国境間協力プログラムの枠組みにおける緊張か ら協働へ ],” in Grzegorz Gorzelak and Katarzyna Krok, eds., Nowe granice Unii Europejskiej: współpraca czy wykluczenie?. Warszawa: Wydawnictwo Naukowe SCHOLAR, 223-236. Gwosdz, Krzysztof, Wojciech Jarczewski, Maciej Huculak and Krzysztof Wiederman, “Polish special ceonomic zones: idea versus practice,” Environment and Planning C: Government and Policy. 26, 824-840. Herrschel, Tassilo, 2011, Borders in post-socialist Europe;: territory, scale, society. Farnham: Ashgate. Jóskowiak, Kazimierz, 2009, “Polsko-niemmiecka współpraca transgraniczna w peocesie integracji europejskiej[ 欧州統合過程に おけるポーランド・ドイツ国境間協力 ],” Sprawy Międzynarodowe, 62:2, 11-22. Knippschild, Robert, 2008, “Inter-urban cooperation in the German-Polish-Czech traiangle,” in Markus Leibenath, Ewa KorcelliOlejniczak, and Robert Knippschild, eds., Cross-border governance and sustainable spatial development: mind the gaps! Berlin: Springer-Verlag, 101-115. Komornicki, Tomasz, 2008, “Transborder transport: the case of Poland's present and future Schengen area boundaries,” in Markus Leibenath, Ewa Korcelli-Olejniczak, and Robert Knippschild, eds., Cross-border governance and sustainable spatial development: mind the gaps! Berlin: Springer-Verlag, 133-146. Krok, Katarzyna, 2007, “Współpraca przygraniczna jako czynnik rozwoju lokalnego[ 地域発展の要因としての国境間協力 ],” in Grzegorz Gorzelak, ed., Polska regionalna i lokalna w świetle badań EUROREG-u. Warszawa: Wydawnictwo Naukowe SCHOLAR, 212-235. Matthiesen, Ulf, and Hans-Joachim Bürkner, 2001, “Antagonistic structures in border areas; local milleux and local politics in the Polish-German twin city Gubin/Guben,” Geojournal, 54, 43-50. Miosga, Manfred, 2008, “Implications of spatioal development policies at European and national levels for border regions: the case of Germany,” in Markus Leibenath, Ewa Korcelli-Olejniczak, and Robert Knippschild, eds., Cross-border governance and sustainable spatial development: mind the gaps! Berlin: Springer-Verlag, 15-31. Musiał-Karg, Magdalena, 2009, “Słubfurt i Gubien jako nowa jakość kreowania miast podzielonych[ 分断された町の新機軸とし てのスウブフルトとグビェン ],” in Jarosław Jańczak and Magdalena Musial-Karg. eds,. Pogranicze polsko-niemieckie po 2004 roku: nowa jakość sąsiedztwa? Torun: Wydawnictwo Adam Marszałek, 238-261. Rogut, Anna, and Bogdan Piasecki, 2012, “Governance structures and practices in cross-border cooperation: similarities and differences between Polish regions,” in David Smallbone, Friederike Welter, and Mirela Xheneti, eds, Cross-border entrepreneurship and economic development in Europe's border regions. Cheltenham: Edward Elger, 211-234. Rogut, Anna, and Friederike Welter, 2012, “Cross-border cooperation within an enlarged Europe: Görlitz/Zgorzelec,” in David Smallbone, Friederike Welter, and Mirela Xheneti, eds, Cross-border entrepreneurship and economic development in Europe's border regions. Cheltenham: Edward Elger, 67-88. Sarmiento-Mirwaldt, Katja, and Urszula Roman-Kamphaus, 2013, “Cross-border cooperation in Central Europe: a comparison of culture and policy effectiveness in the Polish-German and Polish-Slovak border regions,” Europe-Asia Studies, 65:8, 16211641. 仙石学 , 2007,「ユーロリージョンの『限界』- EU 加盟前後のポーランド西部国境領域を事例として」宮島喬・若 松邦弘・小森宏美編『地域のヨーロッパ - 多層化・再編・再生』人文書院 , 248-272. 19 20 日独の国際文化交流政策 ―その変遷と特徴― 坂戸 勝 I. はじめに (1)本稿の意図 先の大戦の敗戦から産業を立て直し、民主主義・自由主義を標榜して国際社会への復帰を図ったドイツ連邦共和国 と日本の間には、その「対外文化政策」 (Auswärtige Kulturpolitik)と「国際文化交流事業」において、歴史的背景 や両国を取巻く政治状況からの異なる要素はあるものの、時代を共有するものとしての共通要素が多く見られる。本 稿は、第一次世界大戦後から百年間の両国の文化活動を通じた国際関係構築の軌跡を俯瞰的な視点から辿り、異なる 様相と類似する特徴を窺うことで、対外文化政策と国際文化交流事業と称する活動の展開を描くものである。対象と した時代の幅が長きにわたり、疎漏であることは免れないが、両国のこの種の活動の変遷と特徴の見取り図として参 考となれば幸いである。 (2)活動理念展開の素描 「ド ドイツの対外文化政策活動は、 クルト=ユルゲン・マース(Kurt-Jürgen Maaß)によると、ワイマール期において、 イツの国際社会への復帰、新たな友人とパートナーの獲得、ドイツの観方と立場への支持、尊敬と信頼そして共感の 再獲得に何よりも関わるもの」とされた 1。第二次世界大戦後もこの考え方が踏襲されたが、 1960 年代に「新しいドイ ツの民主主義と自らの困難な過去と向き合う(中略)像の伝達」が中心を占めるようになった。「70 年代には互恵概念、 すなわち双方向の文化交流」が加わり、近年はさらに「価値、規範や原則を伝達し、民主主義と社会的市場経済の方 向への個々の国の発展過程を支援することを促進し、さらには法治社会構造、政治や社会での参与的な意思決定過程、 制度形成等を進展させることにより紛争に立ち向かい解決する能力を促進すること」と解されている。対外文化政策 は、自国への理解・共感・信頼を促すことから出発し、後に他国への理解と関心も高めることが加わり、そして現在 においては、自らが文化的社会的に築き上げたもので他国に貢献する活動も対象としていると要約できよう。 この理念的なものの展開過程は、国際連盟脱退後に日本が「鞏固なる機関を組織し、官民力を協せて事に当る」2 た めに 1934 年に設立した財団法人国際文化振興会が、戦後を経て 1972 年にその中に「発展的解消をとげ」た 3 国際交 流基金と、その後独立行政法人となった国際交流基金の各々が掲げた目的の展開に通じる。国際文化振興会は目的に 「国際間文化ノ交換殊ニ日本及東方文化ノ海外宣揚」4 を掲げ、戦後はこれを「国際間の文化の交流特に日本文化の海 外紹介」5 に修正した。1972 年に生まれた特殊法人国際交流基金は、その目的を「わが国に対する諸外国の理解を深め、 「我が 国際相互理解を増進するとともに、国際友好親善を促進する」と掲げ 6、2003 年に独立行政法人となった後は、 国に対する諸外国の理解を深め、国際相互理解を増進し、及び文化その他の分野において世界に貢献」すると謳って いる 7。すなわち、国際文化交流事業の目的は、国際文化振興会と国際交流基金に窺える限りにおいては、国際間の文 1 Kurt-Jürgen Maaß Hrsg. “Kultur und Aussenpolitik”(Nomos Verlagsgesellschaft, 2005)。同段落の対外文化政策の解釈は P23-24 に拠る。 2 1934 年 4 月財団法人国際文化振興会設立趣意書 3 「国際交流基金 15 年のあゆみ」(国際交流基金、1990 年)P.18 4 1934 年国際文化振興会寄付行為第 4 条。 5 1962 年 8 月 29 日変更認可財団法人国際文化振興会寄付行為第 4 条。全文は「この法人は国際間の文化の交流特に日本文化の海外紹介 を図り、世界文化の進展及び人類福祉の増進に貢献することを目的とする」。 6 国際交流基金法(1972 年法律第 48 号)第 1 条。全文は「国際交流基金は、わが国に対する諸外国の理解を深め、国際相互理解を増進 するとともに、国際友好親善を促進するため、国際文化交流事業を効率的に行い、もって世界文化の向上及び人類の福祉に貢献すること を目的とする」。 7 2004 年法律第 137 号第 3 条。全文は「独立行政法人国際交流基金(以下「基金という」)は、国際文化交流事業を総合的かつ効率的に 行うことにより、我が国に対する諸外国の理解を深め、国際相互理解を増進し、及び文化その他の分野において世界に貢献し、もって良 21 化交流ないしは国際相互理解の増進という双方向性を掲げながら、その重点は自国文化(戦前は東方文化も)の「宣揚」 から「紹介」まで、 一貫して「わが国に対する(中略)理解を深め」るという基調があり、これに 21 世紀に入って「文 化その他の分野において世界に貢献」するという、ドイツと相似の活動が加わったものである。国際文化振興会及び 国際交流基金における双方向の交流、すなわち「日本文化の宣揚(紹介) 」に対する「他文化の受容」活動が長らく 限られた比重しか持ちえず、 目に見える形での導入が 1980 年代末になったことを考えると、自国への理解の促進から、 相互理解の増進を経て、他国(世界)への貢献という、国際文化交流事業の拡大過程は概ね日独間で共通していた。 ただし、芝崎厚士は日本の国際文化交流事業の目的意識の背景に独特の「文化的使命観」があることを指摘してい 「国際間文化ノ交換殊ニ日本及東方文化ノ海外宣揚」を図ることで、 「世界文化ノ る 8。国際文化振興会の目的規定は、 進展及人類福祉ノ増進二貢献スル」との二重構造になっていた。芝崎はこの二重構造に、「近代以前には東洋文化を 積極的に吸収し」 、 「近代以降は西洋文化を積極的に吸収し」て「独立自尊を保ち」、 「このような独自の来歴を持つ(中 略)世界に類をみない唯一の存在」である日本が、 「そのような役割を果たすことで(中略)人類文化、世界文化の 向上に貢献する使命を担っている」との意識が内在していると言う。 入江昭は、「さまざまな地域出身の個人や集団が文化的交流を通じて、国や民族とは異なる共同体を形成しようとし てきた」「努力」を「文化国際主義」と名付けている。それを「文化的交流」を通じた「脱国家的な行為によって平 和的かつ安定した世界秩序を希求する国際主義」とも述べている 9。この対極にあるものとして、国家という共同体が 「文化的交流」を通じ他国における自国への理解と自国の影響力の拡大の促進を図る形態が考えられる。これを仮に 「文化愛国主義」と名付ける 10。入江の「文化国際主義」の中の「平和的かつ安定した世界秩序」を「世界文化ノ進展 及人類福祉ノ増進」と読み替えると、芝崎のいう「文化的使命観」は、 「文化愛国主義」により世界文化の是正を図 ることで「文化国際主義」を達成する(入江の考えるような「脱国家的行為」を通じてではないが)と観念したとい う所説であると解釈できよう。 本稿は、両国の文化を通じた国際関係構築活動がどのような軌跡を辿ったのか、草創期、戦後期、転換期、冷戦後 の四つの時期においてその展開を見るものである。その際、 「自国への理解の促進」、相互理解の増進」、 「他国(世界) への貢献」という三つの目的形態、或いは「文化愛国主義」と「文化国際主義」という概念を参照し、ドイツについ ては「拡大された文化概念」を、日本については「文化的使命観」という特徴を観察する。 II. 草創期 (1)ドイツ対外文化政策の成立と展開 イ.ドイツ帝国の解体と対外文化政策の発生 第一次世界大戦に破れたドイツ帝国は約 13% に及ぶ領土を周辺諸国に割譲した 11。オーストリア・ハンガリー帝国 は民族自決によって解体し、かつて東部国境をなした地方はポーランド、ルーマニアに編入された。ドイツ及びオー ストリア領の大幅な縮小によって、領土とドイツ民族居住地の間に大幅な乖離が生まれ、1 千から 1 千 2 百万人と推 定されるドイツ系住民が両国の外に取り残された 12。 このような状況下で、ドイツ人の民族性を明らかにし、特に国境の外に取り残されたドイツ系住民の民族性を涵 養してゆくことがワイマール共和国の重要な課題になった。これは、1920 年に初めて設立されたドイツ外務省文 化局の正式名称が「外国におけるドイツ民族性と文化案件局」(Abteilung Deutschtum im Ausland und kulturelle Angelegenheiten)であったことにも伺える 13。 好な国際環境の整備並びに我が国の調和ある対外関係の維持及び発展に寄与することを目的とする」。 8 柴崎厚士「近代日本と国際文化交流」(有信堂、1999 年)44 ~ 47 頁、芝崎厚士「対外文化政策思想の展開―戦前・戦後・冷戦後」(酒 井哲哉編「岩波講座 日本の外交 第三巻 外交思想」、岩波書店、2013 年、125 頁) 9 入江昭「権力政治を超えて」(篠原初枝訳、岩波書店、1998 年)4 頁 10 類似の考え方として、川村陶子は「国家中心的」と「多様な社会集団重視」を挙げている。(川村陶子「文化交流政策の中の文化と国家」 〔平野健一郎編「国際文化交流の政治経済学」、勁草書房、1999 年、32 ~ 33 頁〕 11 オットー・ダン「ドイツ国民とナショナリズム」(末川清他訳、名古屋大学出版会、1999 年)175 頁 12 Eckhard Michels “Von der Deutschen Akademie zum Goethe-Institut” (R. Oldenburg Verlag, 2005) P. 23。ワイマール期の対外文化政 策の説明はこれに拠る。 13 同上 P. 23 22 在外ドイツ系住民の民族性を涵養し維持する数多くの団体の中で 1924 年にミュンヒェンの民間人が主体となっ て設立した団体が「ドイツ民族性の学術的究明と涵養についてのアカデミー / ドイツ・アカデミー」(Akademie zur wissenshaftlichen Erforschung und Pflege des Deutschtums/ Deutsche Akademie)である 14。ドイツ・アカデミーは、 既存の類似団体と競合するものと見做され、政府補助金や民間寄付の獲得に多くの困難を伴ったので、常に財政難に 悩むこととなった 15。そのような折に、1928 年にベルリンでドイツの民族性に取り組む諸団体が集まった会議で、外 国向けの文化活動は今後在外ドイツ系住民の民族性維持に限定されるのではなく、東方や南東ヨーロッパの非ドイ ツ系民族へのドイツ文化仲介活動に一層力を注ぐべきであると意見が一致した 16。ドイツ・アカデミーはこれに力を 得て、事業の重点を競合団体のない、南東ヨーロッパ諸国住民を中心とする外国人へのドイツ文化普及に移していっ た 17。 ロ.対外文化政策の民間仲介団体活用と中核としてのドイツ語教育 当初在外ドイツ系住民への文化政策に重点を置いてきたドイツ外務省も、外国人を対象とするドイツ文化普及に関 心を寄せるようになり、ドイツ文化普及は国策としての地位を占め始めた。その際、その実施は民間団体に委ねるこ とが経済的であり、専門性の蓄積も可能で、国策から遠い印象を与えることにより外国人に受容されやすいという理 由から、ドイツ・アカデミーという民間団体に事業を委ねる形式をとった 18。民間仲介団体の活用はドイツの対外文 化政策の特徴であるが、これはすでに戦間期から形成されてきたものである。 この際、 ドイツ語教育がドイツ文化普及の中核を占めた 19。分邦体制が久しく統一的な文化像を示すことが難しかっ たドイツにとって、ドイツ語はドイツ文化を担うものとしてだけでなく、ドイツ文化の本質として呈示できる唯一の ものであった 20。 ハ.ドイツ語教育の拡大と統制の強化 外務省は、ドイツ・アカデミーが行う外国人へのドイツ語教育へ 1929 年に初めて 5 万ライヒス・マルク(RM) の一時的な補助を与え、1931 年からは毎年国庫補助金を与えるようになった。ナチスが政権を取った 1933 年には外 務省文化局予算も大幅に拡大した。同年のドイツ語教育への補助金は 36,500RM であり、これはドイツ・アカデミー 総予算の約 1/4 を占めた。補助金は、1930 年代半ばには 65,000RM に達し、アカデミーの重要な収入源となった 21。 この間、ドイツ・アカデミーは 1930 年から外国人ドイツ語教師養成のための夏の講座を開始し、ゲーテ没後百年 にあたる 1932 年には外国人ドイツ語教師養成のための内部組織として「ゲーテ・インスティトゥート」(Goehte- Institut zur Fortbildung auslaendischer Deutschlehrer)を設立した 22。外国におけるドイツ語教育事業は順調に発展し、 1933 年には 20 講座に学習者 2 千人を数えるのみであったのが、1939 年には 15 ヶ国、45 講座、派遣ドイツ語教師 57 人、学習者 7 千人、1943 年には派遣ドイツ語教師 180 人、学習者 6 万人を数えるに至った。ドイツ・アカデミーの 予算規模も拡大し、1941 年には総予算 44 百万 RM に達したが、うち 3/4 の 33 百万 RM が補助金であった。海外ド イツ語講座は言語教育だけではなく、小文化会館的な機能も果たした。 当初、国家の直接の影響力行使の手段と見做されることを避け、民間団体の活動に意義を見出した外国人向けドイ ツ語教育事業であったが、この事業が国策として重視され、国庫補助金が増えるにつれて、国家の干渉と統制が強化 された。1936 年にはゲッベルス率いる宣伝省が対外文化政策に関与するようになり、対外文化政策がプロパガンダ 化してゆく。1943 年には外務省やドイツ・アカデミーに親衛隊(Schutzstaffel)が配属されている。在外ドイツ系住 民の民族性涵養活動から出発したドイツ・アカデミー内で、当初軽視されていた外国人へのドイツ語教育を一貫して 推進したフランツ・ティアフェルダー(Franz Thierfelder)23 は、早くから、外国におけるドイツへの強い不信感の中 14 同上 P. 28 15 同上 P. 36 ~ 39 16 同上 P. 50 17 同上 P. 61 18 同上 P. 62 19 同上 P. 54 20 同上 P. 76 21 同上 P. 75 22 同上 P. 80 ~ 82 23 フランツ・ティアフェルダーは 1926 年にドイツ・アカデミー広報担当となり、1929 年から 1937 年まで同アカデミー事務総長を勤めた。 23 で信頼を得るためには外国での文化事業には互恵性と公明性が必要と主張していたが 24、在外ドイツ語講座での反ユ ダヤ宣伝に反対したことが原因で 1938 年にドイツ・アカデミーを去っている。 ニ.敗戦とドイツ・アカデミーの解散 ドイツ・アカデミーは、戦時においても同盟国、中立国や占領地でのドイツ語教育を継続して推進し、最盛期には 250 のドイツ語学校に 1 千人のドイツ語教師と職員を擁するまでに至ったが、ドイツの敗戦とともに解散させられた。 戦後の 1951 年に外国におけるドイツ語教育とドイツ文化を推進するためミュンヒェンで設立されたゲーテ・インス ティトゥートは、 ドイツ・アカデミーもその中に置かれたゲーテ・インスティトゥートも前身団体とは見做していない。 (2)国際文化事業の成立と展開 イ.国際文化事業の淵源 日本の国際文化事業の淵源には、 「東方文化事業」(事業開始時においての名称は「対支文化事業」)25 と「学芸協力 国内委員会」の二つの淵源があった 26。東方文化事業は、日本政府が国際文化事業を開始し外務省内にそのための組 織を作る契機となったが、事業自体は太平洋戦争の敗戦で終息した。 第二の淵源である学芸協力国内委員会は、国際連盟の下に設置された知識人の国際的委員会の活動を支援する日本 側組織として設立されたものである。設立に参加した日本の国際派華族の中には、1934 年に外務省からの補助金を 受けて設立された財団法人国際文化振興会に関与した者も多い 27。国際文化振興会は 1972 年の国際交流基金設立の際 に解散し、その「一切の権利と義務」は国際交流基金に「承継」された 28。国際文化事業のこちらの系譜は形を変え ながら現在に至っている。 ロ.東方文化事業 東方文化事業開始の背景には、大正期の中国人日本留学生の急減と米国留学の活発化がある 29。中国人留学生は 1905 年の科挙制度廃止以降急速に拡大し、1906 年には 1 万 3 千名を超えたと言われる 30 が、以降は急激な減少を見 た 31。その理由の一つは、日本の露骨な対中政策への中国人の反発にあった 32。 他方で、米国政府は 1908 年に義和団事件賠償金 33 の一部を利用した中国人の米国留学制度を発足させ、当初 4 年 間は毎年 100 名 , その後 29 年間は毎年少なくとも 50 名を招聘することとし、清国政府は留学予備教育機関として肄 業館(後に清華学堂)を設立した 34。 米国の積極的な対中教育攻勢と日本の対中政策に対する中国の強い反発を見るに及び、日本政府は 1923 年「対支 文化事業特別会計法」を制定した。これは、義和団事件賠償金及び山東省関係補償金を財源とする事業で、 「中国人 留学生への学資補給、研究機関での学術研究、東亜同文会や同仁会による医療・教育を主な内容とする。この事業は、 巨視的には、日本の対中進出を容易にするための懐柔策であった」35。 これに対し、中国の有識者は賠償金請求の放棄を根強く求める一方で、事業の発足にあたり、図書館・博物館・研 究所等学術振興の基礎となる施設の設立と日中共同の事業運営を求めた 36。これを受け日本政府は、1924 年に中国と 協定を締結し、日中共同委員会を設立するとともに、北京に図書館及び人文科学研究所、上海に自然科学研究所を設 24 “Von der Deutschen Akademie zum Goethe-Institut” P. 67 25 1923 年に制定公布された「対支文化事業特別法」に基づいて開始された事業の名称は、本稿では、山根幸夫「東方文化事業の歴史」 (汲 古書院、2005 年)に倣い「東方文化事業」を使用する。 26 「国際文化交流の現状と展望」(外務省、1972 年)6 頁、 「国際交流基金 15 年のあゆみ」(国際交流基金、1990 年)6 頁、岡村敬二「遺 された蔵書ー満鉄図書館・海外日本図書館の歴史」(阿吽社、1994 年)231 頁、「近代日本と国際文化交流」32 頁 27 1927 年に外務省文化事業部長を勤め、1934 年の国際文化振興会設立時に常務理事を勤めた子爵岡部長景は、東方文化事業と国際文化 振興会の両方に関与した。 28 「国際交流基金法」附則第 4 条第 3 項「振興会(筆者注:財団法人国際文化振興会)の一切の権利及び義務は、基金の成立の時におい て基金に承継されるものとし、振興会は、その時において解散するものとする」 29 阿部洋「『対支文化事業』の研究」(汲古書院、2004 年)6 ~ 7 頁 30 同上 30 ~ 34 頁。ただし、阿部は 1905 ~ 06 年の留学生数を確実なところで 8,000 人程度と推定している。 31 同上 48 頁 32 同上 7 頁 33 義和団事件とは、1898 年~ 1900 年に華北で起こった反列強・反キリスト教運動で、清朝政府は運動の中心となった拳法結社の義和 団を支持し列強に宣戦布告、伊、英、墺・洪、独、日、仏 , 米、露 8 か国による軍事行動の前に敗北した。1901 年辛丑和約を結んで、39 年年賦[年率 4%]で総額4億 5 千万両、元利合計 9 億 8 千万両の巨額の賠償金を払うこととなった。うち日本の取得割合は 7.7% であった。 34 同上 93 頁 35 三浦裕史「解説」(「岡部長景日記」、尚友倶楽部、1993 年、612 頁) 36 「『対支文化事業』の研究」221 ~ 224 頁 24 立して中国での学術振興を図る施策も導入することとした 37。 この日中共同事業は、中国の教育権回収運動に代表されるナショナリズムに翻弄されて難航した挙句、1928 年の 済南事件 38 により中国側委員が委員会から脱退し、中国政府が協定廃棄及び賠償金全面返還を要求するに至って、日 本政府の単独事業となった 39。その後、日本国内に東方文化学院東京及び京都研究所が設立され、満州事変後は「対 満文化事業」から「北支新事業」へと文化工作化を進めて行った 40。この間、1938 年には事業の主管が外務省から興 亜院に移管し、戦時色が深まるとともに統制が強化され、日本の敗戦とともに烏有に帰した 41。 阿部洋は、出淵勝次外務省対支文化事務局長が 1924 年の対支文化事業調査会第一回会合で事業の基本方針として 述べた発言、「事業其ノモノノ直接目的トスル処ハ日支親善二アラスシテ、畢竟東洋文化ノ淵源ヲ探究拡充シ、且之 レカ向上発展ヲ図リ、 (中略)進ンテ世界文化ノ為貢献セントスル二在リ」を引き、「同文化事業が直接目的とするの は『日支親善』といったところにはなく、 『東洋文化ノ淵源』を探求し、その向上発展により、(中略)世界文化の発 展に寄与するところにあり、 『日支親善』は随伴的なものとしていた」と述べている 42。 芝崎も、出淵の二代後の東方文化事業責任者坪上貞二の出淵と同様の発言を引いた上で、 「世界文化の統一や、世 界文化への貢献を目的とした東方文化の宣揚は、日本が中心的な役割を果たしてはじめて達成されるという論理は、 (中略)普遍主義的理念の真の実現が日本の国際的地位の向上、および東洋文化の世界文化への市民権の付与によっ てはじめて達成されるという論理と同一のものである」と述べ 43、この論理は国際文化事業のもう一つの淵源にも見 てとれるという。 ハ.国際連盟学芸協力国内委員会 国際文化事業の他方の淵源である学芸協力国内委員会が国際連盟協会内に設立されたのは 1926 年である。委員と して樺山愛輔伯爵、黒田清伯爵、岡部長景子爵、團伊能男爵等の国際派華族が参加した 44。学芸協力国内委員会は、 「人 間同士の知性の連合」を唱えたヴァレリー 45 を始めとする諸国の知識人を委員として 1922 年に国際連盟の一機関と して設立された「学芸協力国際委員会」に協力するために設立された組織であった 46。 しかし、学芸協力国内委員会は「人間同士の知性の連合」による平和の実現といった脱国家的な目的を追求するも のでなく、当時の世界で圧倒的な存在であった西洋諸国の中で正当に理解されていない東洋文化、特にその代表たる 日本の学芸技術を正しく理解させることで東西文化の融和と世界の平和につなげるという「思考の機制」を示すもの であるという 47、いわば文化愛国主義によって実現される文化国際主義を示すものである。東方文化事業は、その「機 制」の中で、東洋の盟主である日本による、西洋に向けて主張すべき「東洋文化ノ淵源ヲ探究拡充シ、且之レカ向上 発展ヲ図」活動と見做されうるのである。 ニ.財団法人国際文化振興会の設立 国際連盟脱退後の外交転換期に属する重要政策として民間の有力者を網羅し新たに組織された財団法人国際文化振 興会の設立は 1934 年である。多くの華族役員のうちで、理事長伯爵樺山愛輔、常務理事子爵岡部長景、同伯爵黒田清、 理事男爵團伊能等は学芸協力国内委員会委員も勤めた国際派華族であった 48。設立年度の予算は政府補助金 20 万円を 含め計 40 万 6 千円 49 で、東方文化事業の年間支出上限額 250 万円 50 に比べると遥かに少ない額であったが、その設立 37 同上 237 頁 38 山東省済南居留民保護を名目に出兵した日本軍が北伐軍と武力衝突した事件 39 「『対支文化事業』の研究」459 頁 40 同上 666 及び 667 頁 41 この事業は、東方文化学院京都研究所の建物が京都大学人文科学研究所として名残を留めるばかりである。なお、佐伯修「上海自然 科学研究所」(宝島社、1995 年)によれば、1991 年当時上海自然科学研究所の建物は中国科学院上海生理研究所として残存していた。 42 「『対支文化事業の研究』緒言注 43 「近代日本と国際文化交流」53 頁 44 「KBS30 年のあゆみ」(財団法人国際文化振興会、1964)12 頁 45 「権力政治を超えて」72 頁 46 事務局長は新渡戸稲造国際連盟事務次長。大学連携、図書目録、文学美術、知能権の 4 委員会を設置してジュネーブで年一回会合した。 47 芝崎は、「近代日本と国際文化交流」44 頁で学芸協力国内委員会委員長山田三良の発言を引いて、「『世界平和』や『東西文化の融合』 といった普遍主義的な理念の実像は、『我邦の文化に対する誤解』を解き、『我邦の学芸技術を世界各国に紹介』することにあった」と述 べている。 48 財団法人国際文化振興会役員名簿(昭和 9 年 6 月現在) 49 「近代日本と国際文化交流」92 頁 50 「『対支文化事業』の研究」200 頁 25 目的を大きく「本会ハ国際間文化ノ交換殊ニ日本及東方文化ノ海外宣揚ヲ図り、世界文化ノ進展及人類福祉の増進に 「我国並に東方文化の真義価値を世界に顕揚するは、 貢献スルヲ以テ目的トス」 と掲げた 51。芝崎によると、その裏には、 啻に我国の為めのみならず、実に世界の為めに遂行すべき日本国民の重要任務たるべし」という「文化的使命観」が あった 52。 事業は、海外に連絡員を置いた他、講師等の海外派遣、日本文化研究の支援、講演会・展覧会・演奏会の実施、知 名内外人及び団体の派遣及び招聘、出版物・映画・写真の作成・配布等であった 53。このうち、経費効率の良い資料 の作成・交換が事業の主体をなした。 「日本及東方文化の海外宣揚」を実現すべく殆どが欧米向けの事業であった。 国庫補助金も順次増え、 「昭和 12 年から太平洋戦争の突発に至るまでのこの期間は、組織、事業とも最も充実した 時代であり、活力あふれた最盛期の活動が繰り広げられた時代であった。」54 それと併行して総動員色は濃くなってゆ き、1940 年には外務省文化事業部が廃止され、国際文化振興会は「国策遂行の(中略)報道及啓発宣伝」を司る内 閣情報局へ移管された 55。 それに合わせ、 「設立当初の目標であった『国際間の文化交換』や『日本及東方文化の海外宣揚』は、『東亜新秩序 建設』 『東亜共栄圏の確立』と読み替えられ、 さらに昭和 15 年度の事業報告(中略)や昭和 16 年度の事業報告(中略) においても大東亜共栄圏の文化工作やその『共通語』としての日本語の普及といった言葉がとびかっている」56。さら に開戦とともに、南方諸地域向け日本語会話袖珍本計画、劇映画「燃ゆる大空」 (タイ語版)作成等文化工作色を深 めてゆき、1942 年以降は予算拡大の一方で、振興会が主体的に行動する余地を喪失して行った。「要するに戦争の宣 撫工作を担わされたに過ぎな」 (團伊能)かった 57。振興会が大正期以来の「文化的使命観」を体現して「日本及東方 文化ノ海外宣揚」を図ったのは比較的短期間であった。開戦は、 「文化的使命観」を発露すべき相手国自体を喪失させ、 「国際」文化事業の成立基盤を崩してしまったのである 58。 (3)戦間期の対外文化政策と国際文化事業 文化を通じた国際関係構築が国家自身又は国家の支援を得て組織的に開始されたのは、両国とも第一次世界大戦の 終結後である。大戦はその名の通り、戦線が欧州を中心に中東から極東に亘ったために、影響は広かった。ドイツも 日本も戦争によって大きな変化を経験する。 ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国は敗戦によって帝国が解体し、縮小した領土外に多くのドイツ系住民 が取り残されたことから、在外ドイツ系住民を対象とした対外文化政策が生まれ、敗戦ドイツの観方と立場への他国 の理解と支持を得ることを狙いとするドイツ文化の普及、特に民間仲介団体による外国人を対象とするドイツ語教育 を主軸とする政策に発展してゆく。 「自国への理解」促進活動の中において、ドイツ語教育及び在外ドイツ学校支援 という事業分野と民間仲介団体による実施を重視するドイツ対外文化政策の特徴が、ここに既に現れている。 他方で、大戦に乗じ中国と南洋におけるドイツ利権を獲得した日本は遅れて帝国主義へ参入する。日本は中国にお ける反帝国主義運動の対象となり、また中国人日本留学生の急減もあって、対策としての国際文化事業を日本に開始 させる一つの契機となった。ここには、中国等アジア諸国に対し近代化学習を提供する日本の留学事業の淵源を見出 すことができる。また、大戦後の平和を確保する方策の一環で設立された学芸協力国内委員会と財団法人国際文化振 興会には、東洋文化の代表としての日本文化の欧米に向けた宣揚を通じ「世界文化ノ進展及人類福祉ノ増進ニ貢献」 するという「思考の機制」を見出すことができる。日本においては、文化愛国主義の促進は文化国際主義の実現とい う意味を持つものであった。 日独は第一次世界大戦という共通の契機から始まった文化を通じた国際関係構築に異なる特徴を示す一方で、両国 とも文化事業の拡大と統制の強化という矛盾を経験する。ティアフェルダーは「文化事業はその使命の遂行において 自由であればあるほど、政治指導層に対し進む方向への影響力を強めることができる」と考えていたが、「国家のみ 51 財団法人国際文化振興会寄附行為第 4 条 52 財団法人国際文化振興会設立趣意書 53 1934 年財団法人国際文化振興会事業綱要 54 「KBS30 年のあゆみ」19 頁 55 「近代日本と国際文化交流」129 頁 56 「遺された蔵書―満鉄図書館・海外日本図書館の歴史」240 頁 57 「近代日本と国際文化交流」160 ~ 167 頁 58 芝崎厚士「財政問題からみた国際文化交流」(「国際文化交流の政治経済学」146 頁) 26 が資金を提供できるので、対外宣伝に影響を与えることに対する国家の権利は争えない」とも考えていた 59。国家の 影響から自由であろうとして民間からの寄付に頼ったドイツ民族性涵養事業の遂行が財政難に苦しんだ一方で、外国 人向けドイツ語教育への予算が戦争の足音が近づくにつれ拡大するとともに国家の宣伝事業としての統制が深まると いう、ドイツ・アカデミーの経験は、異なる部分はあっても日本の国際文化事業の体験でもあった。 III. 戦後期 (1)戦後ドイツの対外文化政策 イ.控えめな態度と過去との訣別 ヨハネス・パウルマンは、戦後ドイツの外交と対外文化政策を特徴づけたのは「控えめな態度」 (Haltung der Zurueckhaltung)であるとしている 60。それとともに、1949 年に生まれたドイツ連邦共和国が国際社会で認知と尊敬 を獲得するためには、過去と明確に訣別した文化国家であることを示すことが必要であった。その意思は、敗戦直 後の困窮にあったドイツを救う支援を行った米国の慈善団体等に感謝を示すため、テオドール・ホイス(Theodor Heuss)大統領の呼びかけで国民から 1953 年春までに 150 万マルクの寄付を集め、お礼のしるしとして合計 2 千 以上の芸術作品を寄贈した運動に現れている。選定・寄贈された作品はナチスに追われた芸術家の作品であった 61。 戦前の体制との訣別は、1951 年のドイツ外務省再興に時を同じくして生まれた「ゲーテ・インスティトゥート」 (Goethe-Institut e.V. zur Pflege der Deutschen Sprache und Kultur im Ausland)62 が、ドイツ・アカデミー内に設置 されていた同名の機関との関係を否定して生まれたことにも伺える 63。ゲーテ・インスティトゥートは、外務省の方 針によって、欧州 12 都市にあったドイツ大使館直轄施設、南米諸国等に現地団体として設立されていた 65 団体、 「ド イツ学術交流会」(Deutscher Akademischer Austausch Dienst)派遣専門家が管理する 30 の読書室等を 1959 年から 自身に統合することで、ドイツの対外文化政策の代表的機関に成長して行った 64。 ロ.国民文化像の呈示と模索 1960 年代にかけて経済が急速に復興するとともに、ドイツの対外文化政策の関心は、国際社会への復帰から発展 するドイツ経済の基礎にあるドイツ像の呈示へと展開してゆく。1965 年の施政方針演説でルートヴィッヒ・エアハ ルト(Ludwig Erhard)首相は、 「我々の対外文化政策はドイツへの理解を促すために、我々の文明、その偉大な伝統、 その伝統が現代に息づくことを知らせる。 (中略)我々は、貿易・産業国家として世界に知られたドイツ像を、その 一環でもある精神や人間的品性の特徴で補完したい」65 と述べ、ゲーテ・シラーに代表されるドイツの人文主義的な 文化伝統を外国に呈示することを重視した。 外国にどのような自国像を呈示するかは、自国の社会を、そしてその過去及び現在の特徴を考えることにつなが る 66。外国人に分かりやすい自国像を呈示することは、時に呈示しやすい国民文化像の創作にもつながった。その代 表的な例として、ウルリケ・シュトル(Ulrike Stoll)は 1961 年にアジア諸国に派遣されたバイエルン民俗バレー団 (Das Bayerische Trachtenballet)が巻き起こした論争を挙げている 67。アジアの大衆に受けるように、バイエルン風民 俗衣装でクラシック音楽を混ぜながらバレーと民俗舞踊を混淆させて演じられた無言舞踊劇は、親の決めた結婚に背 いて恋人との愛を貫くアジア向けの筋立てもあって、インドでは大いに好評を博した。しかし、この外国向けに分か りやすく作られたドイツ像の外国への投射は、国際性を備えた近代的なドイツ像を外国の知識人向けに発信すること を重視するゲーテ・インスティトゥート事業部長から強い反対を受けることとなる。こうした「国民文化の創造」に 59 “Von der Deutschen Akademie zum Goethe-Institut” P.51 60 Johannes Paul [Hg.], “Auswärtige Representationen” (Boehlau Verlag. 2005) P.1 61 同上 P.32, 35 62 正式名称は「外国におけるドイツの言葉と文化の涵養のための登録社団ゲーテ・インスティトゥート」 63 Steffen R. Kathe, Martin Meidenbauer “Kulturpolitik um jeden Preis” (Verlagsbuchhandlung, 2005) P.83 ~ 88 64 “Von der Deutschen Akademie zum Goethe-Institut” P. 234 65 “Regierungserklärung der Bundeskanzlers am 10. November 1965 vor dem Deutschen Bundestag in Bonn” 66 “Auswärtige Representationen” P.31 67 同上 P.279 ~ 288 27 は、戦後の世界を席巻したソ連のモイセーエフバレエ団の影響が見られるように思われるし、1960 年代から 70 年代 にかけて日本が海外に送り出した「日本民族舞踊団」の特徴にも通じるものがある。日本の場合も、各地に伝わる郷 土芸能を近代舞踊的な群舞にして、外国人に分かりやすい国民文化像を創作したものであった。 ドイツ文化像についての教養市民的な合意が崩れ始めたこの時代、統一的なドイツ文化像を求めるドイツ外務省と 自由で多様な現代像を希求するゲーテ・インスティトゥートの間にはしばしば摩擦が生じた 68。ドイツ社会は 1970 年 代の新しい対外文化政策方針の樹立に向けて動いていた。 (2)戦後日本の国際文化交流事業 イ.存続した国際文化事業団体 敗戦に伴って日本も主権を失った。これまでの政治体制が否定されるなかで、国際文化事業を担ってきた国際文化 振興会も大きな岐路を迎えた。敗戦の翌年早々に開催された国際文化振興会理事会は、「終戦後の新事態に顧み本会 前途の針路につき存続、改縮、解散等」の選択肢を検討した結果、 「現今既に米国進駐軍方面の要請に応じ(中略) 将来彼我接触蜜邇となることの予見せらるるにつき本会事業は時勢に鑑み幾分の調整は之を要すへきも(中略)創立 当時よりの目標を更へす同時に米国その他外国文化の国内紹介に一層の努力を増し邁進する」ことに決した 69。 ドイツと異なり、日本は戦前の国際文化事業団体が形式的にも、また組織目的においても、 「幾分の調整」を加え て存続したのである。ただし、国庫補助金の支給が停止されたことで職員を大幅削減し、出版・不動産売却・維持会 員からの収入で細々と、進駐軍関係者向けの文化行事、日本語辞典等の編集・出版、映画等の貸出、図書館運営等の 活動を続けることとなった。 ロ.留学生交流の構造 米国は、1949 年に占領地域の救済資金によって初めて留学生 50 名を訪米させた。1952 年にはフルブライト計画の 留学生交換を開始し、以後 66 年まで年平均 257 名を訪米させ、51 名を来日させた。平野健一郎によると「ほぼ一 方的に受信型の知的交流」70 である。他方で、日本政府の留学生事業は 1954 年に国費留学制度が 23 人の招聘を以て 復活し、1964 年には 200 人を招聘するまでになった。平野健一郎は、国費留学制度を東南アジア諸国等に対し「知 的交流において日本が与え手となる関係」を築くものと述べている。 この時代の留学生交流は、冷戦体制において米国等で自由・民主主義等の西洋近代化理念を学ぶと同時に、アジア に対し近代化の手本を示すことに特徴があった。明治・大正期の留学生交流の構造が、西洋で近代化を学び、アジア に近代化の手本を示すことであったことと変わらぬ姿を示している。 ハ.民間国際文化交流の役割 戦後の民間国際文化交流の再開において米国は強い影響力を持った。1952 年には高木八尺や松本重治他の知米 派知識人の手によって「知的交流日本委員会」が結成され、民間国際文化交流団体の設立に向けた活動を始めた。 その活動を支援した米国では、1953 年に大統領の直轄機関として「広報文化交流庁」 (United States Information Agency)が設立され、「諸外国の国民に対して、米国の目的と政策は、彼らの自由、進歩、平和に対する『正当な』 願望と合致するものであるという証拠を提供すること」71 を活動目的としていた。 デイヴィット・ロックフェラー三世の資金的協力で 1955 年に財団法人国際文化会館を設立した松本重治は、米国 との交流について「アメリカのイメージをよりよくするためには、超一流の学者や文化人に日本に来てもらったらど うでしょう」という意見を述べ、 国際文化会館を「海外から招く知識人たちと『朝食を一緒にしながら雑談するとか、 晩餐を食べ、ブランデーやコーヒーでものみながらゆっくり語り合う』インフォーマルな個人的接触の場」とするこ とを理想としていた 72。松本たちは民間交流の先駆者として、米国を始めとする西洋社会へ「自由、進歩、平和に対 する『正当な』願望」を示す代表者となり、戦後国際社会への日本の復帰を促進する役割を果たした。 ニ.政府の国際文化交流事業と国際文化振興会の役割 日本政府の国際文化交流事業は、 「国際社会において平和国家、文化国家としての役割を積極的に果すべきわが国 68 同上 P.25 69 財団法人国際文化振興会昭和 21 年 3 月 18 日第 141 回理事会議事録 70 賀来景英・平野健一郎編「21 世紀の国際知的交流と日本」(中央公論新社、2002 年)262 及び 263 頁、267 頁 71 渡辺靖「アメリカン・センター」(岩波書店、2008 年)41 頁 72 松本重治「〈聞書〉わが心の自叙伝」 (講談社、1992 年)185 頁及び 191 頁、加藤幹雄編著「国際文化会館 50 年の歩み(増補改訂版」 (財 団法人国際文化会館、2003 年)10 及び 32 頁 28 にとっては、対外文化活動の積極的推進が最も重要な国民外交の課題である」との認識のもと、「1953 年より国際文 、国際学友会等にふたたび補助を行うこととなり、就中前者はわが国の伝統芸術の紹介の中心的 化振興会(K.B.S.) 存在として世界各国に歌舞伎、能、民族舞踊等の公演を実施し、外国語による日本文化の文献を作成、配布して実績 をあげた。 」73 伝統芸能の海外公演は、1960 年代だけでも歌舞伎が 7 回、能狂言は 5 回に及び、その他文楽や雅楽の公演も含め 主に西洋諸国に派遣されて、 豊かな文化的伝統を誇る「文化国家」としての日本を印象づけた。オペラやバレーといっ た現代芸術公演も行っているが、 「団伊玖磨の『夕鶴』や黛敏郎の『曼荼羅』などは西洋のものを扱いながら、どこ かに西洋にはない東洋的象徴性ともいうべき魅力を有し」た作品であった 74。日本文化の精髄としての伝統芸能の国 の委託による西洋派遣は、 「日本及東方文化の海外宣揚」を掲げた国際文化振興会の使命が戦後に「幾分の調整」を 施してなお生き続けていたことを示している。 他方で、東南アジアには東方ダンシング・ティームや松竹少女歌劇団などの派遣を行っていたが、 「従来わが国の 文化事業は後進国向けが非常に小規模であったが、東南アジア地域の重要性、とくに同地域にゆがめられた対日イメー ジが広がりつつあること、経済協力と平行して文化協力を考えねばならぬこと等を勘案すれば、今後東南アジアを最 重点地域とすべきである」75 との意識が 1970 年代初頭にかけて高まっていた。 (3)戦後の日独における国際文化交流活動 敗戦による占領を経験した日独両国にとって、主権の回復と国際社会への復帰が最大の課題であった。この目的を 達成するためには、両国が平和と民主主義を希求する国家であることを訴えることが重要な手段であった。その意味 で、この時期に両国が辿った過程には共通点があると思われる。他方で、戦前の体制に対しての対応には大きな違い が見られ、それが 1960 年代以降の展開にも影響を及ぼしていることが見られる。 まず、ドイツにおいては戦前の国家社会主義体制の否定と訣別が形式的には明確に行われた。これに対し、日本に おいては冷戦体制下で戦前の体制について明確な評価と整理が行われないまま戦前の組織が多く存続したが、他方で 自由・民主主義等の西洋近代の理念を積極的に受容することで新しい時代と社会を海外に印象づけようとした。 国際社会への復帰のために次に取られた政策は、文化国家としての自国像を対外的に投射することであった。その 際に動員されたのが、ドイツにおいては人文主義的・教養市民的なドイツ文化像であり、日本においては西洋を意識 した日本の文化的伝統の呈示であった。それは、 「控えめな態度」ではあるものの、戦前の「日本及東方文化の海外宣揚」 を引き継ぐもので、 「文化的使命観そのものへの反省は閑却された」76。日独とも外国向けの宣伝に使われた国民文化 像には新たにアレンジされた想像上の「国民文化」も含み、ドイツでは海外に呈示される自国像についての論議を惹 き起した。 留学という形での文化交流については、日独ともに発展途上国への技術移転という意味を持っていたが、日本では 特にアジア諸国への近代化の手本の呈示という意味が籠められ、戦後の急速な経済発展を背景に引き続きアジアの リーダーという意識を残した。 1960 年代のドイツの対外文化政策におけるドイツ像の論争は 70 年代の対外文化政策変革への前兆であり、海外へ 急速に拡大する日本経済が惹き起す緊張は 70 年代の国際文化交流事業の変革をもたらす要因となった。 IV. 変革期 (1)ドイツにおける対外文化政策の変革 イ.ダーレンドルフの改革 1969 年、ヴィリー・ブラント(Willy Brandt)を首班とする連立政権が成立し、東側との緊張緩和を大きく進め 73 「国際文化交流の現状と展望」10 及び 7 頁。なお、この時代の外務省資金による国際文化交流事業は、海外での公演・展覧会の実施 等芸術分野の事業、外国語による日本文化関係出版物の製作・配布、外国人留学生の日本語教育、海外への日本語教育専門家派遣等は補 助団体を通じて行い、東南アジアの寄贈日本研究講座運営支援、文化人・専門家の派遣と招聘、国際機関を通じた事業は外務省直轄で行っ ていた。 74 「国際文化交流の現状と展望」61 ~ 67 頁 75 同上 10 頁 76 「対外文化政策思想の展開―戦前・戦後・冷戦後」135 頁 29 る東方政策に着手した。ブラントの改革姿勢は対外文化政策にも及び、同年の施政方針演説で「ドイツ文化の外国に おける呈示は今後、他国民に対し、過去に築いたものの今に息づく姿に加え、移りゆく現代においてドイツにもある 精神的な対立と実り多い不安の日々の現実の姿を伝えることをより強く指向する」と述べた 77。 ブラントの方針は、 行政分野では外務政務次官に就任した自由民主党(Freie Demographische Partei)のラルフ・ダー レンドルフ(Ralf Dahrendorf)による対外文化政策の見直しにつながり、また立法分野ではキリスト教民主同盟 (Christlich Demokratische Union Deutschlands)の連邦議会議員ベルトルト・マルティン(Berthold Martin)他に よる「対外文化政策調査委員会」 (Enquette-Kommission “Auswärtige Kulturpolitik” des Deutschen Bundestages)の 設置をもたらした 78。 ダーレンドルフが主導した初めての対外文化政策指針作りでは、ダーレンドルフ自身の言によると、改革を特徴づ ける二つの基礎的な決定があった。ひとつは、 「文化は一つの狭い秘教的な意味で理解されてはならない。文化で重 要なのは社会的な価値を持った現にある全体である」ということであり、ふたつ目の決定は、「対外文化政策は一方 通行であってはならない。他者を教化しドイツのものの価値を一方的に説得するのではなく、両方向に通じる橋を築 くことが大事である。対外文化政策は交流を目的とするのであって、影響を目指すものではない」ということであっ た。ダーレンドルフは、対外文化政策はこの改革によって、 「諸社会の相互理解が永続する平和的な関係をつくりだ すことができるという希望をもたらす時代において、文化は対外関係の核心である」ことができると考えた 79。 ダーレンドルフの主導による対外文化政策改革は、1970 年にドイツ外務省が発表した「対外文化政策指針」 (Leitsaetze fuer die auswärtige Kulturpolitik)に示された。指針は、文化概念を拡大する必要性を謳い、 「対外文化政 策は今後一層強く文化的・文明的な現代の問題に取り組む」と述べた上で、「文化は今日もはやエリートグループの 特権ではなく、万人に対して提供されるものである。文化は我々の社会における変化のダイナミックな進行過程の一 部であり、その進行過程は社会のあらゆるグループの国境を越えた共同作業への道を示す。」と述べている。「これま での考え方による文化関係の涵養」が「今後も我々の対外文化政策の本質的な要素として残る」としている一方、従 来の政策に大幅な改革を施したものであった。指針はさらに、「対外文化政策は国際性と世界に開かれていることを 意味する」とし、 「他国民及びその文化・学術・社会分野の諸機関・グループ・個人との関係を促進し深める」もの と述べて、その方法として「我々の文化についての情報だけではなく、交流と共同作業」を目指すものとした。対外 文化政策の中で重視されてきたドイツ語教育についても改革は例外でなかった。指針は、「伝統的なドイツ語使用地 域でドイツ語がさらに促進される」可能性を認めているものの、世界のその他の地域では「ドイツ語は外国における 我々の活動を担うものであって、その目的ではない」とした。 このドイツ語観は、ドイツ語教育が伝統的にドイツの対外文化政策の中心であったことを考えると画期的なもので あったが、果たして反発も強く、野党議員が主導して設置した連邦議会対外文化政策調査会の報告で揺り戻しを受け ることとなる。 ダーレンドルフに招かれドイツ連邦外務省において対外文化政策の調査と評価に携わったコンスタンツ大学のハン スゲルト・パイゼルト(Hansgert Peisert)によると、当時ドイツ連邦共和国の自己投影という一方的な施策はすで に疑わしいものとなっており、パートナーシップに基づいた交流と共同作業が必要という認識がゲーテ・インスティ トゥート等対外文化政策の現場で高まっていたという 80。川村陶子は、対外文化政策関係者の間で政策の見直しを求め る意識が高まっていた中で、社会政治の民主化を求める当時の「時代精神」を体現するキーパーソンとしてダーレン ドルフが政策過程に入ったことが変革を可能にしたと指摘している 81。ダーレンドルフの改革は長らくドイツの文化 交流政策の基調を形づくるとともに、他国の文化交流機関の事業概念にも大きな影響を与えた 82。 77 Regierungserklärung von Willy Brandt, Bonn, 28. Oktober 1969 78 Hansgert Peisert “Die Auswärtige Kulturpolitik der Bundesrepublik Deutschland” (Klett-Cotta, 1978) P.15 79 同上 P.16 80 “Die Auswärtige Kulturpolitik der Bundesrepublik Deutschland” P.23 ~ 24 81 川村陶子「ドイツ対外文化政策『改革』とダーレンドルフ政務次官」 (日本国際政治学会編『国際政治』第 125 号、2000 年 10 月、192 頁) 82 英国の国際文化交流団体であるブリティシュ・カウンシル (British Council) で長らく文化交流事業に従事した J.M. ミッチェル (J.M.Mitchell) は、その著書 International Cultural Relations でこの考え方を評価している。( 邦訳は「文化の国際関係」、田中俊郎訳、 三嶺書房、1990 年、85 頁 ) 30 ロ.連邦議会の参与と外務省方針 連邦議会に設けられた「対外文化政策に関する調査委員会」は 1975 年に「変わりゆく世界においてドイツを文化 国家として認知させる」ことが対外文化政策の目的のひとつとする報告を発表した。報告は、ダーレンドルフの主導 した対外文化政策方針とは異なるものがあり、ドイツ語教育は「文化外交の本質的要素」として見做され、 「需要と 受入れ態勢」のあるところではどこでも促進するべきものとされた。また、在外ドイツ学校についても、ドイツ語と 現実に近いドイツ像の伝達をする場、発展途上国ではドイツの教育援助プロジェクトと緊密に協力する手段として重 視され、従来の対外文化政策を引き継ぐものであった 83。 この報告に対しドイツ外務省は 1977 年にその見解を明らかにし、そこで次の五つの対外文化政策原則を表明し た 84。①外交において文化交流を政治・経済関係と同等と見做す。②ドイツ民族の国家として分断にも拘らず、ドイ ツ文化は一体である。③文化は政治的なもの或いは外交の「婢」ではないが、外交の目標は対外文化政策の領域での 方向を同じくする措置で支持される必要がある。④文化の交流及び他国との連携的共同作業が必要であり、その際互 恵に基づく拡張された文化概念を考慮する。⑤外国にはドイツの生活、思想及び過去について、均衡がとれ現実に近 く自己批判的な像を伝える。ここにもダーレンドルフの改革が色濃く反映していた。 ハ.対外文化政策と経済協力 1982 年には、自由民主党の外務政務次官ヒルデガルト・ハム=ブリュッヒャー(Hildegard Hamm-Brücher)が 主導した「第三世界諸国との文化的出会いと共同作業に関わる 10 の命題」(Zehn Thesen zur kulturellen Begegnung und Zusammenarbeit mit Ländern der Dritten Welt)が作成された。発展途上国のアイデンティティーの確立と「自 助への支援」の実現を重視するこの報告では、対外援助と対外文化政策を関連付け、文化的多様性と文化的アイデン ティティーの促進、相互理解の促進、自立した教育システムの確立、経済発展と社会文化の結びつきの強化を謳った。 このように、ブラント政権下の対外文化政策の変革は、従来のドイツ文化像の対外投影による「自国への理解」促 進政策に、「拡張された文化概念」に基づく相互に開かれた「共同作業」を持ち込むことで文化の社会的な効果も活 用され、文化が外交の主要な構成要素となった。ハム=ブリュッヒヤーの提唱した対外文化政策をより緊密に対外援 助に結びつける提言も、 「拡張された文化概念」に基づく「共同作業」の延長線上に成り立つ考え方である。これによっ て、ドイツの対外文化政策は、ドイツ語教育とドイツ文化像の対外投影を重視する文化愛国主義と、より広い文化概 念に基づく共同作業を重視する文化国際主義との混合形態をとるようになったと言える。 (2)日本における国際文化交流事業の変革 イ.国際交流基金の成立 高度成長のもたらした躍進する日本経済は日本人に「経済大国」の自覚を生み、日本企業が急速に進出した東南ア ジア諸国では「経済侵略」との声が生まれた。日本人に対し、経済活動にしか関心を持たない「エコノミック・アニ マル」との非難も寄せられるようになった。日米間の不充分な意思疎通から対米相互理解強化の必要性も認識される 「私 ようになった 85。国際交流基金設立準備会議第一回総会の席上で岩佐凱実富士銀行会長は次のように語っている。 ども日米間の貿易、経済の諸問題に触れているわけです。けれども、この両方の問題についての意見の衝突、対立は いまや経済問題としてのみ話し合ってもことが相すむ問題ではない。結局は広い意味の文化交流を一そう密接にして いくことが大切である」86。 こうした状況を受けて、佐藤内閣の外務大臣福田赳夫は、「わが国の対外活動が経済的利益の追求に偏するとの批 判や、日本軍国主義の復活を懸念する声」があるとの懸念に対し「平和国家、文化国家を志向するわが国の正しい姿 を海外に伝え、誤った認識の払拭につとめる」87 ために、国の手で「特殊な財団」88 を設立する決意を固めた。設立の 経緯から、国際交流基金には日本への理解を促す役割が強く期待され、事業の多くの部分を海外諸国への日本文化紹 介、日本語普及そして日本研究の援助が占めることとなった。その意味で、国際交流基金事業の多くは日本人が考え 83 “Kultur und Aussenpolitik” P.75 84 “Stellungnahme der Bundesregierung zu dem Bericht der Enquette-Kommission ʻAuswärtige Kulturpolitikʼ des Deutschen Bundestages”(Drucksache 7/4121) 85 「国際交流基金 15 年のあゆみ」(国際交流基金、1990 年)P.19 ~ 20 86 国際交流基金設立準備会議第一回総会は 1972 年 6 月 5 日に開催された。 87 1972 年 1 月第 68 国会福田外務大臣外交演説 88 1972 年 3 月 22 日衆議院外務委員会における福田外務大臣答弁 31 る日本像の対外投影という役割を担ったが、福田外相が国際文化交流に期待したのは日本文化の紹介だけに留まるも のではなかった。福田は、国際交流基金の設立を通じ、 「世界の平和の中にわが国の平和を求める、世界の繁栄発展 の中にわが国の繁栄発展を求める、そういう新しい国の生き方」89 を示すことを目指し、国際文化交流事業に広範な 分野での人物交流を期待するとともに、事業が狭い意味での「文化」分野に留まることを望まなかった 90。 設立準備会議第二回総会 91 では、米国から招かれた国務省教育文化担当次官補ジョン・リチャードソン(John Richardson, Jr.)が、双方向のコミュニケーションを重視すること、知識人たちは伝統的に政府に不信感を抱いてい るのでその協力をえるためには政府から独立した組織が必要、文化交流には外国人からのフィードバックが必要、批 判者とも付き合い事業によっては批判者にやらせることが有効、イメージをよくしようと努めるよりは知識のレベル を高める努力をせよと述べた。米国にも川村の言う「時代精神」を反映した人物がいたのである。この時代、知識人 や国際文化交流に携わる人々の間には国を超えて、自国文化の一方的な対外投影には慎重な観方をする人物も多かっ た 92。 他方で、「わが国に対する諸外国の理解を深め」る 93 役割を期待された国際交流基金の発足は、日本政府や国際文 化振興会が従来進めてきた海外における日本理解促進や日本文化紹介を日本経済の規模に見合うよう量的に拡充した ものと言える。1970 年代から 80 年代にかけての事業が、欧米からの著名文化人の招聘、1981 年から翌年にかけてロ ンドンで開催された「江戸大美術展」等の欧米での大型芸術事業、改革開放を掲げて経済発展を目指す中国に対する 日本語教育特別事業、東南アジア・中東・中南米等での国際会議に象徴されている 94 ことを考慮すると、欧米に対し 日本文化の独自性を訴えかけ、他方でアジア等に対して非西洋圏の近代化モデルを呈示するという日本の文化交流事 業の戦前からの構造は変わっていなかった。 ロ.双方向の文化交流 双方向の文化交流が日本とつながりの深いアジア諸国の間で本格的に実現するのはようやく 1980 年代末になって からである。1987 年竹下内閣発足直後にアセアン諸国に派遣された東南アジア文化ミッションは、双方向の文化交 流を実現するためアセアン文化受入れの拠点を日本に設置することを提言し、これを基に 1990 年に新設された国際 交流基金アセアン文化センターは主にアジアの現代文化を紹介するための演劇や展覧会、映画会を実施した。アセア ン文化センターは 1995 年にアジア文化センターに拡充され、文化紹介に留まらず、演劇の共同制作や共同展覧会な ど文化分野の共同作業に力を注いだ。1997 年にインドネシア、シンガポール、タイ、中国、日本、マレイシアの6ヶ 国演劇関係者によって上演された作品「リア」や、2001 年に 7 か国の学芸員により 43 人の現代美術家の作品で構成 された「アンダーコンストラクション:アジア美術の新時代」展はその典型である 95。 ハ.世界への貢献 国際交流基金事業では、1980 年代末にもう一つの大きな変化があった。1988 年竹下首相は、「内閣の最大目標」で ある「世界に貢献する日本」の建設のため、 「平和のための協力強化」 、 「国際文化交流の強化」及び「政府開発援助 (ODA)」の拡充強化を柱とする「国際協力構想」を発表した 96。また、 「文化、科学技術等多方面にわたって諸外国 との交流、世界への貢献を増大」することを「政策運営の基本方向」のひとつとする「世界とともに生きる日本ー経 済運営5カ年計画ー」を閣議決定 97 し、また私的諮問機関として「国際文化交流に関する懇談会」を設置することで、 国際文化交流は内閣の主要政策のひとつとなった。1989 年、懇談会は報告を発表し、国際文化交流を「安全保障に 不可欠」 、 「世界の文化の発展に貢献する」 、 「対日関心の高まりに対応する」、「日本の社会の国際化のため」と位置付 けることで、国際文化交流に「世界への貢献」という新しい理念を導入した。 1990 年、日米安全保障条約三十周年記念に米国を訪問した安倍晋太郎特派大使は、ワシントンにおいて「変化の 89 国際交流基金設立準備会議第一回総会における福田赳夫外務大臣挨拶 90 「国際交流基金 15 年のあゆみ」(国際交流基金、1990 年)P.18 には、外務省事務当局が新組織の名称として当初予定した「国際文化 交流事業団」から福田外相が「文化」の文言を削除させたことを記している。 91 国際交流基金設立準備会議第二回総会は 1972 年 8 月 17 日に開催された。 92 設立準備会での阿川弘之、江藤淳、衛藤瀋吉の発言参照。(「国際交流基金 15 年のあゆみ」P.23 ~ 26) 93 国際交流基金法(1972 年 6 月 1 日法律第 48 号)第 1 条 94 「国際交流基金 15 年のあゆみ」P.39 ~ 41 95 「国際交流基金 30 年のあゆみ」P.271 ~ 272 96 「国際協力構想」は 1988 年 5 月 4 日英国ロンドン市長主催午餐会席上での演説によって発表された。 97 1988 年 5 月 27 日閣議決定 32 時代と日米同盟関係」という演説を行い、その中で、「今後の日米関係の課題」に対応する方策のひとつとして、 「日 本と米国は、世界的な課題について大きな責任を分かち合うパートナー」であると述べ、 「日米親善交流基金」の創 「日米親善交流事業」実施のため国際交流基金に 400 億円を追加出資 設を提言した 98。政府は、90 年度の補正予算で、 した。日米親善交流事業は、 「日米両国が国際的責任を分かち合い、世界に貢献するため、世界的視野に基づく協力 を推進する」こと、及び「相互理解に基づく揺るぎない日米関係を実現するため、日米各界各層における対話と交流 を促進する」ことを目的とし、 「グローバル・パートナーシップ推進のための知的交流」と「地域レベル・草の根レ ベルでの相互理解の推進」を実施した 99。このうち知的交流事業は、政治・経済・社会等の広範な分野における日米 の共通関心テーマについての研究や会議を支援する事業であって、日本における「拡大された文化概念」に基づく「共 同作業」であると言える。 (3)変革期の日独の文化交流政策 1970 年代は、日独ともに文化交流政策上の大きな変化があった時期である。ドイツにおいては、ドイツ文化像の 対外投影を中心とした政策が 70 年代初頭に大きく見直され、文化概念の拡張と共同作業の重視という新たな理念が 導入された。しかし、すべてが変革された訳ではない。ドイツ語教育重視政策の見直しは定着しなかった。文化に社 会的な意味をより強く見出す考え方は、対外援助と対外文化政策をより緊密に結びつける 1980 年代の提言まで一貫 して対外文化政策の基礎となっており、外交における文化の役割を具体的な社会的効果に求める方向に進んで行った ことが窺える。 他方で、日本では 1970 年代初頭に国際交流基金が設立され、国際文化交流事業の実施体制が大幅に強化された。 それを主導した福田外相の構想では幅広い分野の事業を想定していたが、「誤った認識の払拭につとめること」に対 応する役割が期待されたために、事業としては日本理解の促進が中心となり、この限りでは「我邦の文化に対する誤 解の甚しき現代に於ては」 「国民相互の誤解を一掃する」ことを眼目とした大正期以来の「文化愛国主義」は本質的 には変わっていなかった。発展を遂げる日本経済の背景にある日本文化の特質に世界の関心が集まり、それに応える 事業を積極的に行っていたことを考えると、関係者がどの程度意識していたかはともかく「文化的使命観」の構造は 根強く生き残っていた。 1980 年代末からの双方向交流と、90 年代に入って始まった知的交流事業は、日本の国際文化交流に「相互理解の 増進」と「世界への貢献」という理念の拡大をもたらした。日本でもやはり、 「拡張された文化概念」に基づく「共 同作業」が重視されている。 2004 年に制定された「独立行政法人国際交流基金法」は、基金の目的の一つに「文化その他の分野において世界 に貢献」することを謳っている。ただし、そうした目的を通じて最終的に達成する大目的に「良好な国際環境の整備 並びに我が国の調和ある対外関係の維持及び発展に寄与すること」という、外務省設置法に定める「外務省の任務」 の一部を引いていることは注目される 100。 これは、 国の関与する国際文化交流事業においては、 「世界に貢献」することも最終的には「外務省の任務」である「国 際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図る」ことに回収されることを明らかにしている。国家が支援す る国際文化交流においては「文化国際主義」は「文化愛国主義」に帰着する。 V. 冷戦後 (1)ドイツの対外文化政策における価値概念の変化 イ.2000 年構想 ヨシュカ・フィッシャー(Joschka Fischer)外相率いる連邦外務省は、21 世紀に向けての新たな政策として発表し 「我々の外国における た「対外文化政策―2000 年構想」 (Auswärtige Kulturpolitik - Konzeption 2000)のなかで、 98 「日米親善交流基金」創設は 1990 年 6 月 20 日米国ワシントン D.C. での日米安全保障条約 30 周年記念昼食会席上での演説によって 発表された。 99 国際交流基金日米センター助成事業説明による。 100 「外務省設置法」(1999 年 7 月 16 日法律第 94 号)第 3 条「外務省は、平和で安全な国際社会の維持に寄与するとともに主体的かつ 積極的な取組を通じて良好な国際環境の整備を図ること並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国及び日 本国民の利益の増進を図ることを任務とする」 33 文化事業は単純に中立ではなく、価値を指向する。民主主義の促進、人権の実現、持続可能な成長、学術と技術の進 歩への参与、貧困との闘いや自然資源の保護については明白な立場をとることが必要」と表明した 101。この考えは同 (中略) 外相の基本的な所信で、雑誌「文化交流」 (Kultur Austausch)の前年のインタビューでも「我々ドイツ人は、 対外文化政策においても、民主主義、人権、開放性、批判的な寛容さ、対話に応じる用意などの中心的な価値を伝達 する義務を負っている」 、 「我々は価値相対主義を促進するのではなく、偏見と緊張を緩和するための実り多い討議を 行いたい」と述べている 102。この所信の表明は、同外相自ら認めるように、1970 年代初頭以来維持されてきたドイツ 文化交流政策のいわば価値中立的な理念を修正するものであった。 この理念修正をもたらした背景を考えることは興味深い。フィッシャー外相は 2000 年 7 月 4 日ベルリンで行われ たフォーラム「文化交流の将来」 (Forum: Zukunft der Auswärtigen Kulturpolitik)で次のように述べている。「経済 の変容を遂げながら近代への参入を摸索する国々の大きな問題は、経済・社会の持続的な発展は法の支配―民主主義 や法治国家―なしには保証されないということにある。文化交流は、公的な立場を離れて人権対話や各種交流プログ ラムなどを通じ市民社会の強化に貢献するという特別な可能性を秘めているので、本来、より顕著でより強く政治的 な役割を果たす使命を有している。 」103 フィッシャー外相の方針に対し、ゲーテ・インスティトゥートのアルフォンス・フーク(Alfons Hug)モスクワ 文化会館館長とベルトルト・フランケ(Berthold Franke)広報部員が「南ドイツ新聞」 (Süddeutsche Zeitung)紙上で、 「文化を人権政策の道具にすることは、 何よりも異なる文化の欠点に狙いを定め、弱点を補正しようとすることである。 しかし、その弱点と見えるところこそ、もし肯定的なイメージで取り組めばはるかに生産的なところであろう。これ が、同じ目の高さの交流を可能にすることである。」と反論し、 「文化の道具化」に懸念を表明した 104。文化の社会的 効果を追求することは、文化の道具化と裏腹の関係にある。 「2000 年構想」は、 「価値の伝達」以外に、 「対外文化政策は、ドイツ外交の一環として、その一般的目標と関心(平 和の確保、紛争予防、人権の実現、連携的共同作業)を指向し、それを支持する」、「ドイツからの文化を欧州文化の 一部として仲介する」 、 「外国での対話にドイツが参加するのと同様に国内での文化対話も促進する」という興味深い 政策変化を表明するものであった。すなわち、フィッシャーの構想は、対外文化政策が相互理解や共同作業を通じた 連帯感醸成といった外交の「基盤づくり」に留まるものではなく、より「具体的な外交目的を達成するための手段」 であること、そしてドイツが統合の進展する欧州の中に存在するという状況を対外文化政策に反映すること、また、 1990 年代の急激な移民の増加によって異文化対話が国内統合のためにも必要であるという国内状況を明示するもの であった。その意味で、フィッシャーの路線は対外文化政策において、政治優位、成果主義、欧州統合、ドイツ社会 の多様化を示すものであった。 ロ.対外文化政策の現在 現在のドイツの対外文化政策は、多様な文化活動の場としてのドイツの呈示、教育・学術・研究の立地国としての ドイツの強化、欧州と世界でのドイツ語の普及、教育機関再建援助等による世界の危機予防・紛争防止への貢献、E U共通の職業研修制度の導入による欧州統合の促進、開発途上国での文化遺産修復援助による世界の文化的多様性の 維持 105 を謳い、これまでのドイツの対外文化政策で開発されてきた理念を網羅するような形態を見せている。 (2)日本におけるパブリック・ディプロマシーへの関心 2005 年、小泉首相の設けた「文化外交の推移に関する懇談会」は、 「自国についての理解促進とイメージ向上」 、 「紛 争回避のための異なる文化間、文明間の相互理解と信頼の涵養」、 「全人類に共通の価値や理念の育成に向けての貢献」 を目的とする報告書「 『文化交流の平和国家』日本の創造を」を提出した。うち、第一の目的では、「ある国に対する 良いイメージが、信頼の形成に大きな影響を及ぼす」とし、 「世界の人々の関心と興味を『魅きつける』多様な文化 の力を総合的に用いながら日本イメージの向上を図ることが、ますます文化外交の重要課題」との認識を示した。ま た、 「発信」 ・ 「受容」 ・ 「共生」を柱とする理念を掲げ、第一の柱の「発信」では「『21 世紀型クール』の追求として、 (中 101 “Ziele und Grundsätze der Auswärtigen Kulturpolitik” (“Auswärtige Kulturpolitik- Konzeption 2000”) 102 “Trendwende in der Auswärtigen Kulturpolitik”(“Zeitschrift für Kulturaustausch” Nr.4/1998) 103 “Forum: Zukunft der Auswärtigen Kulturpolitik” (Auswärtiges Amt) 104 “Die Diplomatie der Kunst” (Süddeutsche Zeitung, 31. Juli, 2000) 105 ドイツ外務省ホームページ「対外文化教育政策の目的と使命」http://www.auswaertiges-amt.de/DE/Aussenpolitik/KulturDialog/ ZieleUndPartner/ZielePartner_node.html による。(2013 年 1 月 14 日) 34 略)世界における『日本のアニメ世代』の育成を積極的に図り、奥行きと広がりのある日本文化へのさらなる関心を 発展させ」ること、 「共生」では「 『和と共生を尊ぶ心』を普遍的な日本のメッセージとして世界に伝え、 『多様な文 化や価値の間の架け橋』をめざそう」と訴えた。「和」とは「文化交流を通して、古くはアジア諸地域に、近代以降 は主に西洋諸国に学び、そこから多様な文化や文明を吸収し、融合させながら今日の日本文化の土台となるものを築 き上げてきた」 「日本文化の成り立ちの姿そのものである」としている 106。 国際文化交流政策に関する首相の私的懇談会報告書が文化交流による日本理解の促進を訴えることは通常である が、この懇談会報告書の特色は「日本イメージの向上」を掲げ、その方法例として「『21 世紀型クール』の追求」を 挙げたこと、「対話を通した多文化の共生と価値の共有」を目指す活動そのものに「日本文化の成り立ちの姿」を見 出していることである。 」誌に発表した論文「日本の総精 ダグラス・マグレイ(Douglas McGray)が米国の「外交政策(Foreign Policy) 彩(Japanʼs Gross National Cool) 」107 で指摘した日本の現代文化の魅力は、外務省に設けられた海外交流審議会の政 策提言「日本の発信力強化のための 5 つの提言」108 でも日本からの発信強化のために利用することが提案されている。 1990 代から続く経済低迷によって世界における日本の関心は大きく低下した。東アジア諸国の経済発展によって、 かつては日本が独占していた非欧米圏で唯一の経済大国という地位も揺らいだ 109。こういう中で、大衆的な現代日本 文化は海外の関心を日本に引き寄せる上で貴重な魅力源として注目された。 外務省では英国ブレア政権や米国ブッシュ政権でのブランディングやパブリック・ディプロマシー政策に関心を深 め、2003 年に省内で広報と国際文化交流を合体して「広報文化交流部」を作った。同部は英語名称を「パブリック・ ディプロマシー部」としている 110。外国国民への働きかけを重視するパブリック・ディプロマシーの定義はさまざま なようであるが、北野充は「自国の対外的な利益と目的の達成に資するべく、自国のプレゼンスを高め、イメージを 向上させ、自国についての理解を深めるよう、海外の個人及び組織と関係を構築し、対話を持ち、情報を発信し、交 流するなどの形で関わる活動」を指すものとしている 111。 近年における発信の重視やパブリック・ディプロマシーへの関心を観察すると、発信という面では広報と文化交流 の区分が曖昧になり 112、パブリック・ディプロマシーという面では国益促進のために広報と文化交流を使って外国の 組織や国民に働きかけるという目的意識が高まっていると言える。日本の国際文化交流は、文化愛国主義がより鮮明 になり、広報に接近していると言える。 (3)冷戦後の日独の文化交流政策 冷戦後のドイツの対外文化政策は、人権等の基本的価値の伝達や文化活動を通じた紛争予防を使命として挙げるこ とで、対外文化政策が外交目的を達成するための具体的手段であることを明確にしたと言える。それとともに、進展 する欧州統合や社会の多様性というドイツの現在を対外文化政策にも反映している。いわば、文化が果たす多様な効 用に着目し、ドイツの国際関係の多様な形成に生かす目的指向を強めている。 他方で、21 世紀の日本の国際文化交流事業は、1980 年代末から 90 年代初頭に実現した双方向交流や「世界への貢 献」理念が、日本経済の停滞とともに影を薄め、日本への関心の低下を挽回するような「発信」という名の自己投影 が重視されてきた。それと併行して、外交における目的指向を強め、広報との近接化現象が見られる。 日独双方で外交が優越し文化が手段化する傾向にあることは、グローバルに進む競争の激化を反映した実利重視と 政策の成果指向を反映したものと思われるが、ドイツが文化活動の効果を多方向で考えているのに対し、日本はいわ ば対外自己投影への重視過程にあるように思われる。その際、日本の自己理解は「文化交流を通して、古くはアジア 106 報告書「『文化交流の平和国家』日本の創造を」は 2005 年 7 月 11 日に提出された。 107 “Japanʼs Gross National Cool”(Douglas McGray, Foreign Policy, May 2002) 108 報告書「日本の発信力強化のための 5 つの提言」は 2007 年 6 月 20 日に提出された。 109 報告書「日本の発信力強化のための 5 つの提言」は、現状認識として「有識者層においては、近年の中国の急成長等を背景に、諸外 国における対日関心が相対的に低下し、特に米国等の政策決定の中枢に入るような有力者の中で日本に対する強い関心を抱く者が相対的 に減少してことが懸念される」と述べている。 110 「日本の文化外交戦略」(近藤誠一著、「外交フォーラム」2005 年 12 月号所収) 111 「パブリック・ディプロマシー」(金子将史、北野充編著、PHP 研究所、2007 年)20 頁。因みに、渡辺靖は「外国の市民を理解し、 情報を与え、影響を与えること、ならびに、アメリカの市民や組織と海外のカウンターパートとの対話促進を通して、アメリカの国益と 安全保障を高めること」という USIA の定義を紹介しているが、「どの概念と重ね合わせるかによって、『パブリック・ディプロマシー』 という言葉のニュアンスやイメージは大きく変わってくる」としている。(『アメリカン・センター』〔渡辺靖著、岩波書店、2008 年〕76 頁) 112 前述の海外交流審議会報告書は提言の中で広報と国際文化交流事業の区分を設けていない。 35 諸地域に、近代以降は主に西洋諸国に学び、そこから多様な文化や文明を吸収し、融合させながら今日の日本文化の 土台となるものを築き上げてきた」という戦間期以来の国際文化事業における「文化的使命観」を依然として反映し たものであった。 VI. 終わりに 日独の文化交流政策は、第一次世界大戦を経験した後、一方は国外のかつての同胞に対する民族性の保持という課 題から、他方は中国での権益を拡大する行為への反撥から生まれた政策という、歴史や環境から由来する違いはある ものの、その後の展開には共通性も多くみられる。文化交流政策の歴史が両国の文化を通じた国際関係形成の軌跡で ある限り、狭小化した現代世界での歩みは概ね類似の相貌を見せると言える。文化交流政策が自国理解の促進、相互 理解の増進、共同作業を通じた世界への貢献という異なった理念に展開する上で、両国は時代精神をほぼ共有してき た。これが歴史を通じて見た一つの特徴である。もう一つの特徴は、 「文化事業」と「国家」の緊張を含んだ関係である。 そしてこの関係は、結局、その時代の国民が自らと世界をどう見るかに懸っている。 36 北方のフランス語文学──定項と収束 Les littératures francophones septentrionales : constantes et convergences Jean-Marie Klinkenberg 三田 順(訳) I. フランス語文学:中央集権システム 1. 中央と周縁 世界的に見ると、文化──より正確にいえば文学──は複数の大きな集団によって生産されている。この集団は 多くの場合同じ言語を使用しているが、同じ国である必要はない。例えば英語文学はアイルランドやカナダ、イギリ ス、あるいはアメリカで書かれた文学を含んでいる。また、オーストリア、スイスで書かれたドイツ語文学も存在す る。これらの集団はそれぞれ異なる規則を有しているため、様々なシステムを作り上げている。 フランスという集団の基本原理は中央集権化であろう。アメリカ文化の場合、どこに中心があるかを問うても意 味はない(映画の中心地はハリウッド、演劇であればニューヨークのブロードウェイ) 。しかしフランスの場合、中 心とは当然ながらパリである。パリには文化的、知的な業界を統べる諸機関のほぼ全てが集まっている。 とはいえ、パリという街全体が中心なのかと言えばそうではない。出版社や文学カフェといった機関は、セーヌ 河左岸の僅か数百メートル四方の一角に集中しているのである。この中央集権化の伝統は実に古くから存在し、政治 的あるいは言語的な形を取って社会の様々な場で機能している。 この中央集権化によって当然ある結果が生じる。すなわち、パリ以外の文学や文化に周縁的な性格が与えられる のである。 これら周縁の文学が中央に対して有する関係を説明するに当たって、太陽系の構造を比喩として用いることがで きる。各天体はそれぞれ中央に位置する太陽の周囲で軌道を描き、太陽の引力故にこの軌道から外れることはない。 同様に、周縁の文学の軌道は中央の文学との間で育まれた関係に従属している。つまり周縁の文学は(彼らを中央へ 引き寄せる)向心力を受ける一方で、 (彼らを中央から遠ざける)遠心力をも受けるのである。 歴史を通じてこれらの力は変化してきた。向心力が勝ると中央の文学に無条件に同化し、遠心力が勝るなら中央 の文学からほぼ完全に独立することになる。 このようにフランス語文学の集団は太陽系に似た関係として説明できる。影響を及ぼす種々の力は、中央である パリの文学に対して各フランス語文学がどのような立場を取るのかによって変わってくる。従って、この関係性を考 慮した上で各フランス語文学を分類することが重要となる。 2. 三つの同心円 このモデルを用いることで、各フランス語文学が有するパリからの地理的、制度的距離の度合いに応じてフラン ス語文学を以下の様に三つのカテゴリーに上手く分類することが可能となる。 (1)「フランスに隣接しているフランス語文学」 ここにはベルギー文学とスイス・ロマンド文学が含まれる。これらの文学が発展した地域は元々フランス文化の 形成過程に関与しており、 「伝統的にフランス的文化の地」と呼び得る。 (2)「地理的にフランスに隣接してはいないがフランス的伝統に属しているフランス語文学」 これらの文学はフランス人が本格的に入植した地域で発展した。アメリカのルイジアナ文学が消滅しつつある今 日、このグループに含まれるのはカナダのアカディア文学、ケベック文学位しかない。 (3)「主にフランスとベルギーによって植民地化された国々の文学」 37 これらの文学は、サハラ砂漠以南に位置するアフリカ文学と、マグレブ文学の二つの地域に大きく分けられる。 今日のこれらの地域の言語や文化には、フランスの言語、文化の影響が明瞭に認められる。 以上三つのカテゴリーに属する各文学が収束現象を示しているならば、それは中央と同一の関係を維持してきた からであり、この三つのカテゴリーの文学間に直接的な接触があったためではない。 本講演の主題である「北方のフランス語文学」がこれらのグループのどこに位置付けられるかといえば、上で見 た様にそれはまず、a) 伝統的にフランス的な文化圏で発展し、b) ずっと以前にフランスから政治的に独立している、 フランス国外の文学である。 この文学としては、フランス語によるベルギー文学、スイス・ロマンド文学(上の区分の一つ目のカテゴリー)、 そしてケベック文学(二つ目のカテゴリー)が挙げられる。 II. 五つの収束 以下では、これら三つの文学の収束という現象を考察して行く。収束という用語を使用するのは、 「共通点」とは 異なるためである。共通点とは、今取り上げている三つの文学に見出され得る完全に同一の性質だが、収束という語 で寧ろ言わんとしているのは比較可能な大きな要因で、それは時として差異や特異性をも生じさせるものである。 この収束には全五種類ある。密接に結び付いた五つの収束は、これらの文学の歴史的な発展に由来するタイプ(一 つ目と二つ目の収束)と、地理的な状況に由来するタイプ(三つ目と四つ目)に分けられる。五つ目の収束は横断的 な性質のもので、先の四つの収束を要約するものである。 1. 発展の後進性 良く注意していないと、これらの文学が長く豊かな伝統を有していると考えてしまうかもしれない。後にベルギー となる地域には、中世以降トルヴェールと呼ばれた吟遊詩人や年代記作家がおり、スイスからはジャン・カルヴァン やジャン・ジャック・ルソーが出ている。 とはいえ、これは過去に遡って歴史を再構築した結果である。これらの地域のフランス語文学が本当の意味で発 展を遂げたのは 19 世紀中頃のことで、この時期に「ベルギー」や「スイスのフランス語圏」ないし「スイス・ロマ ンド」 、あるいは「フランス系カナダ」といったまとまりが認められるようになってくる。 こうした文学が目に見える形になったことには政治状況が関わっている。これらの集団の文学的発展は、ほぼ同 時期に生じた政治的な安定と不可分である。 ──ベルギーは様々な国の支配を経て後、1831 年に独立を達成する。 ──スイス:小さな封建国家の集まりとしての「スイス連邦」は 14 世紀から存在するが、この「スイス連邦」は ナポレオンによる征服によって 1798 年に消滅する。スイスは 1815 年に確固たる独立を回復するが、アメリカ合衆国 の連邦制に倣った国家形態を真の意味で備えるようになったのは 1848 年のことである。 ──ケベック:16 世紀中頃からサンローラン河の周辺にフランス人が入植し始めたのが「ヌーベルフランス」の 始まりであった。ヌーベルフランスは 1763 年に崩壊し、フランスはカナダにおける領土(と臣民)をイギリスに譲る。 従って 18 世紀末以降のフランス系カナダ人の歴史とは、イギリスによる占領と社会経済的、文化的同化政策への絶 えざる抵抗の歴史であった。最終的にカナダが 1867 年に連邦国家になるとケベックは自治地域として認められ、フ ランス語が英語と並んで公用語とされた。 三つのグループはそれぞれ 1831 年、1848 年、1867 年に遅ればせながら政治的な安定を獲得するが、このことが 文学様式に二つの大きな影響をもたらした。 (1) 一つ目は文学に限定された影響である。新しい政治形態において生まれたこれらの地域の文学には、 「文学的母国」 (ないし文学的起源)である同時代のフランスで展開した文学に比して美学的な後進性が認められる。例として、 ──フランスにおいてロマン主義文学は 1830 年頃に展開する。 ──ベルギー文学の端緒であり、ロマン主義を受け継いだシャルル・ド・コステールの『ユーレンスピーゲル伝説』 38 は 1867 年に書かれた。またケベックでは 1860 年代に、偉大なロマン主義詩人ルイ・フレシェットが代表作を発表し ている。 このように、これらの地域には文学的な発展において後進性が見受けられる一方、この遅れを取り戻そうとする 試みも認められる。フランスで順次登場した様々な新しい美学は、これらの地域において同時期にまとめて受容され る。例として、ベルギーの最初の重要な文芸誌──『若きベルギー』誌──は、1880 年頃に高踏派と自然主義とい う美学を共存させようとしたが、フランスにおいてこの二つの美学は明らかに別のものであった。 (2) 二つ目の影響はより広い意味で文化的な形で現れた。これら新しい政治的集団の民族主義的、国民主義的言説は、 その存在を正当化する文学の発展に拠っており、ここから二つ目の収束が生じる。 2.「国民文学」を巡る問題 ここで考察しているロマン主義の時代の特徴の一つに、誕生した国家の文化的な遺産を称揚し、その民族の独自 性を主張するということがある。本稿で取り上げている三つの地域はドイツ・ロマン主義の影響を受け、各文化の特 殊性の高度な表現として文学的営為を企図する。 従って、安定した政治的まとまりを「強固なものとする」ために、ベルギーやスイス、フランス系カナダの文学 には国民性、民族性のレッテルがそれぞれ貼り付いている。この様な文脈で、 「ベルギー精神」や「スイス主義」 、あ るいは「フランス系カナダ精神」といった、極めて良く似た概念が生まれてくる。 ──「ベルギー精神」 。19 世紀初頭、ベルギーで文学に使用される言語はフランス語のみであった。というのも、フ ランス語はブルジョワ階級の言語だったからである。よってベルギー文学はフランス文学に対してどのように違いを 打ち出すかが問題となった。実際に人口の大部分が話していたのは、ヴラーンデレン(フランドル)語(ゲルマン系 言語である大衆的なオランダ語)であったが、 この言語の話者は当時ほとんど文学活動を行っていなかった。従って、 ベルギー精神はラテン性とゲルマン性の混合物、すなわちゲルマン的な謎めいた心情と、フランス語という言語の明 晰さを有するものとして定義されることになる。 それ故、この時期のベルギー文学の独自性は、フランス語を使用しながらもフランスからは離れようとする態度 にある。具体的には特にドイツ・ロマン主義が特に尊ばれ、古いゲルマン文学の技法が取り入れられた。 ──「スイス主義」とはスイスの風景の汚れなさと雄大さを称揚することにある。その独自の風景、文明から守られ た無垢の自然、さらにはプロテスタントという宗教的背景も重要な役割を果たしている(概括すれば、登山とプロテ スタント主義) 。 ──「フランス系カナダ精神」は、先祖伝来の古典的なフランス語表現の尊重とカトリック信仰、そしてカナダの大 地における労働の賛美が組み合わさったものである(ケベック文学の端緒である小説『マリア・シャプドレーヌ』は これらの要素を含む) 。 定式化の方法や内容に差異は認められ得るものの、その構造は同じである。いずれのケースでも決まり文句が繰 り返されて強固になり、そこに住む人々、そして彼らが生み出し、その文化の独自性を例証する文学作品の特徴とさ れるのである。 国民文学へのこの強迫観念は、当然のことながら、これらの文学の発展史の初期段階に認められる。 とはいえ、この傾向は後に消えてしまうわけではない。文学に国民性を求めるか否かは、これらの地域で問われ 続け、作家達はこれに対してどのような態度を取るのかが問われる。フランスの作家は自分が「フランス文学」に属 しているのかを問われることはない。彼らは「フランス文学」という概念を否定することも擁護することもないので ある。 これに対して、ベルギー、スイス、ケベックの作家達は、20 世紀の末までベルギー性、スイス性、ケベック性を 巡る二つの立場について態度を表明せねばならなかった。一方は、これらの文学をフランス文学に従属したもの(さ 39 らにはフランス文学に完全に同化したもの)と見なし、他方はこれらの文学の出現を認め、ひいては独立したものと 考える立場である。 例えば、偉大な作家アンリ・ミショーはパリに住み、ベルギーとの関わりの痕跡を完全に消そうと望んだ。こう してミショーは、 「ベルギー文学」という概念に相対する立場に断固属している。 従って、これら三つの地域出身の作家を研究する上で、国民性、民族性を巡る問題は極めて重要な鍵であり続け ている。 上では収束の二つの事例を見た。おおまかに言えば、この二つの収束はこれらの地域の歴史的な要因、すなわち、 文学とその地域の政治史に関わっていた。以下で紹介する二つの収束は、より文学的な実践に関わるもので、これら の文学がフランスに対して周縁的、従属的な状況にあることに起因している。 この特殊な状況は必然的に執筆活動に影響を及ぼし、新たな二つの収束を引き起こす。その一つは文学ジャンル、 もう一つは文体の選択というレベルで生じる。 3. 文学ジャンルを巡る問題 「文学ジャンル」という用語は、詩や小説、随筆といった大きな括りのために使用されるが、それだけではなく各ジャ ンル内での分類(幻想小説、推理小説、連載小説)にも使用される。また歌や漫画のような大衆的な文学ジャンルも 存在する。 どのジャンルで執筆をするのかには意味がある。例えば、詩を書くということは文学的に最も本質的なジャンル に属することを意味する。 ベルギー、スイス、ケベックの作家達は、フランスにおいて権威ある文学ジャンルにはあまり進出しようとしな い傾向がある。つまり、審査基準が非常に厳しく、競争が激しいが故、客観的に成功のチャンスが少ないと考えられ るジャンルである。周縁に位置する作家は、中央の文学がなおざりにし、かつ彼らが成功できそうなジャンルを戦略 として好む。ベルギーにおける漫画や幻想小説がその一例で、現在ではフランスで人気のなくなった詩というジャン ルも、ベルギーやケベックで依然好まれている。 4. 執筆言語を巡る問題 ベルギー、スイス、ケベックの周縁的、従属的状況は執筆言語にも及んでいる。 外国人はフランス語が難しい言語であることに直ぐに気付くが、フランス語はフランス語話者にとっても難解な 言語である。フランス語話者とは、文法が異常肥大した言語と共に生まれ、自分の言ったことが文法的に正しいかど うかを生涯自問し続ける人々である。文法に対するこの不安感は、周縁地域出身で標準語の規範に困難を抱えている 人ほど強く有している。その証拠として、フランス語の規範文法はこうした地域出身者によって作られている。 『Le Bon usage』という有名なフランス語の文法書を記したベルギー人のモーリス・グレヴィスがその一例である。 周縁地域出身の人々は自分を過小評価することが極めて多い。実際、こうした地域出身の批評家や歴史家は同郷 人の言葉遣いについて非常に厳しい見解を示すが、この傾向は作家間にも存在する。概括するとこれは文学作品にお いて過剰訂正と補完という、二つの戦略という形で現れる。 「過剰訂正」とは、その名の通り言語の規範を過剰なまでに重んじる傾向で、フランスの古典的な作家以上に古典 的な言葉遣いという形で現れる。とうに 20 世紀に入っているにも拘らず、18 世紀を思わせるエレガントな言語を使 用するようなベルギー人の作家がその好例として挙げられよう。 これと逆のもう一つの戦略は「補償 compensation」で、規範から逸脱した周縁地域の言葉遣いを誇張する傾向で ある。これによって規範的言語を敬っていないことを示し、言語的逸脱を他と区別するための識別標とする。「凝り すぎた文体」や「不規則」 、あるいは「言語的気取り」、「言語的冒険主義」等と呼ばれる文体の本質はここにある。 この傾向は周縁的地域の文学作品の多くに認められる。ベルギーのド・コステールは古風な言語を使用し、1960 年代のケベックでは、隠語と英語表現の混じった「ジュアル joual」と呼ばれる、ケベック特有の大衆的表現が文学 作品で積極的に使用されているのを見ることができる。スイスに目を向けると、20 世紀前半に地域主義的小説を執 筆した作家ラミュズが、土地の言葉を用いつつ、標準フランス語では文法の乱れと見なされる要素を誇張している。 ベルギーの漫画『タンタン』はこれらの問題点を示す好例である。この作品に登場する二人のデュポンというキャ 40 ラクターは言語的不能を象徴している。さらにこの作品には本節で指摘した二つの態度、すなわち、主人公タンタン の言語的純粋主義、彼の仲間であるハドック船長の冒険主義が見受けられる。 5. 横断的収束:メタ言説実践の重要性 これら周縁的な文学の特徴として最後に挙げられるのは、自分達の文学自体について多くの言説を生み出す点で ある。当然のことながら、この言説は前書や宣言、伝記的な覚書、批評言説、文学史といった様々な形を取り得る。 再びフランスの作家と比較するならば、彼らがフランス文学の状況を巡って議論することがあったとしても、そこで 何がフランス文学の本質を成しているかについて議論されることはない。 収束の最後のタイプ──メタ言説実践の重要性──は、私の考えでは、他の四つのものとは異なるレベルに位置し、 これまで紹介した四つの収束を要約する性質のものである。実際、これまで紹介した収束の差異に注意深くあるなら ば、周縁的な文学についての批評言説において、各収束が何らかの形で現れ得るということに気付くであろう。 従って以下では、メタ言説の実践という枠組においてこれらがどのように現れ得たのかを確認しつつ、手短に各 収束を再検討する。 a) 発展の後進性 ベルギー、スイス、ケベックの文学がある程度しっかりとした姿を現し始めた時、 「母国」 、つまりフランスの文 学は既に 10 世紀もの歴史を有していた。文学の発展が客観的に「遅れて」いたが故、自文学の長い伝統を復元する ことが周縁的な文学に関わった初期の人々にとっての問題となり、これらの文学が生まれた時期(19 世紀中盤)以降、 数多くの過去の作家、文学作品が、各国民文学に取り込まれることとなった。 この地域の初期の文学史家の意図は将にここにある。例えばスイス・フランス語圏でヴィルジル・ロセルのよう な人物が浩瀚な文学史を著しているが、この著書はスイス・ロマンド文学の歴史をローマ時代まで遡り、スイスの偉 大な作家の中には当然のことながらカルヴァンやルソーが組み込まれている。 b) 国民文学を巡る問題 こうして、文学的メタ言説が入り込んだ議論では、スイスやベルギー、ケベックの「国民、民族文学」という概 念を肯定、あるいは否定する表象を作り上げることで、文学作品における国民性の有無が問題となる。 例えば、20 世紀初頭にフランス系カナダの民族的文学を支持した人々は、カナダ・フランス語文学の健全さとい う特質に相対する形で、フランス文学を道徳的に堕落し、美学的に品位の落ちたものと位置付けて行くが、これは中 央のフランスから距離を取ることによってこそ獲得される特質であった。 逆にベルギーの国民文学という概念に反対する人々は、フランス語が他のあらゆる基準に勝る重要な絆であり、 ベルギー・フランス語文学はフランス語の大きな集団に結び付けられるべきだと主張する。 c) ジャンルを巡る問題 周縁の文学が中央で見捨てられているか、あまり評価されていない二次的な文芸ジャンルを好む傾向にあること は既に見た。 メタ言説は、(構造的な制約に起因する)文壇で高く評価されていないジャンルを選択することを弁護、正当化し ようと試み、それらが地域の「気質」 、すなわち、長い歴史を有する国民的、民族的伝統に固有の文学的本質にただ 合致しているのだと思わせる。 例として、スイスのフランス語圏における道徳的文学の存在感の大きさは、カルヴァン以来の文学作品を特徴付 ける「プロテスタントの系譜」への忠誠心として説明できる。 ベルギーの大衆的な文学ジャンルに見られる過剰な表現は、例えばヴラーンデレン(フランドル)文化の「露骨さ」 や「大衆性」と結び付いている。また、幻想文学が好まれる傾向は、ベルギー精神の本質的な構成要素である「陰鬱 さ」や北方性、神秘性と関連している。 d) 最後に挙げる執筆言語の特徴も多かれ少かれ同じメカニズムを有している。 41 メタ言説は、 (言語的な劣等感に対抗するためのメカニズムである) 「過剰訂正」と「補償」の間で選択された文体を、 フランスの文学史で用いられる美学的分類に対抗し得る新しい美学として再公式化する。例として、ベルギーでは 「不 規則な言葉遣い」を使用する流れが目立ったが、これは「補償」という手法による文学生産の一タイプであり、ベル ギーの文学を象徴する要素の一つである。 結論 ベルギー、スイス、ケベックという三つの文学グループを考察することで、文学という概念自体が大きく揺らい でくる。このアプローチによって、文学というものが単に美しい文章や記録の集積ではないということが明らかとな る。文学とは様々な規則を有するシステムであり、当然のことながら社会学の対象となる現象である。 42 What kind of EUrope ? What kind of Japan ? The European Vision of the global geopolitical dynamics in comparison with the Japanese perspectives Fabrizio Eva The global geopolitical dynamics are still framed by unbalanced power relations in which the so-called hegemonic states play a relevant role. The main actors are the USA and Russia (ex URSS) as former superpowers during the Cold War period, the former main colonial power UK and France, and the emerging China; all these countries are permanent members in the UN Security Council, with veto power, and all are nuclear military powers. Occasionally there are other countries which try to or have a (relevant) role in some specific geopolitical dynamics. This kind of status could confirm as valid in practice the power factors indicated by John Mearsheimer (2001) and his “offensive realism” theory: 1) having specific (material) resources, useful for building the military power, 2) the most efficient military power is the army (the only one which allows the control on the ground), 3) for having strong military power it’s necessary to have population and wealth. According to the military strategic theorization a military menace should be credible, i.e. the “menacing” state should have a military capability according to the kind of menace and should be trusted of the will to concretize it. The goals of the power (real and potential) by John Mearsheimer are: 1) Regional Hegemony, 2) Maximizing the control of the global wealth, 3) Dominating (hegemony) the global power balance, 4) Having (the superiority of) nuclear weapons. I add another characteristic of a global power, much more related to the issue of “prestige” and status symbol, i.e. being able to abuse the (international) rules and/or to force their interpretation with no judiciary/ retaliation consequences. But if in practice the current geopolitical dynamics are “inside” the Mearsheimer’s theoretical frame, this doesn’t mean that it is the best or the unique way to manage them; it is possible to consider geopolitics (and to act geopolitically) in different ways. My critical key concepts, which I used as points of reference, are as follows: • The concept of the state (see John Agnew’s Territorial Trap, 1998) is (also) a Mental Trap. • The territory becomes iconographic (in the sense of Jean Gottmann, 1952) and takes the name of state. • The intrinsic ambiguity of “nation” and “state” notions (actually state versus nation) is not (sufficiently) debated at the public opinion level and this is a source of confusion and also, sometimes, of conflict. • The generally accepted assumption is that the territory and the human groups who live on it are indissolubly bounded (forming the “identity” of a people), but this is the asserted (pretended) Iconography of the nation-state, still conceived along the Friedrich Ratzel’s triad: (bounded) soil, people, political structure. It is a taken for granted statement, not the truth. • The connection-link between human groups and specific territories is socially and “mentally” constructed from the bottom (see the Richard Dawkins “meme”, i.e. concepts-ideas [1995], the Elisée Reclus triad - language, history, genre de vie [1905] - and the Fabrizio Eva selfcaging [2012]). 43 • The common language is one of, or maybe the main factor of cohesion (the social “glue”) which drives the construction of the sense of the existence or simply to the acceptance of the existing lifestyle. • Human beings, when they live in groups, are able to self-organize their social relations, which take the shape of genre de vie – lifestyle – cultural island. The “natural” social relation of a human group is based on some human characteristics, producing spontaneous or instinctive memes which are asserted as Iconographies and Symbols: links by “blood” (consanguinity), group (the people I know, the traditional behaviors, religion), and site (the place I know). • The genre-de-vie, in the sense of imitation and/or day by day behaviors, becomes Iconography. (Actually no-one “explains” to the new generations the sense and the “articles” or the “clauses” of the social contract: this is, today and conceptually, taken for granted in the shape of the state.). The ordinary life continuously asserts and supports through the language the production and the diffusion of the memes which reinforce the asserted common principles-values. • First the space, then the family and finally the school (as institution and/or as the “school of life”), are also among the main vehicles of shaping the lifestyle. • I consider the space as formed by three overlapped and interlinked dynamics: 1) Physical Space, physic-biological, that is, everything that has no awareness of its own death, 2) Perceived Space, that is, everything that is subjective and emotional in each human being, 3) Represented/Symbolic Space, that is, everything that is told through narratives or asserted through the attribution of metaphysical or transcendent values (the discourse), including through symbols that require acceptance as (unquestionable) icons. Through these three concepts of space the geographer (but not only) should observe the world in order to try to understand it and its dynamics in relation to the human beings. The rigidity of the territorial trap in the shape of the state gives the borders a relevant, unavoidable role. After the end of the Cold War the geopolitical dynamics changed substantially their goals and most of their “narratives”; conflicts related to border disputes strongly decreased or remain “suspended”, while the internal secessionist claims and maritime disputes grew significantly. The disputes about maritime borders are in fact related more to the present (or probably present) natural resources on the seabed. This is also connected to the main differences in the physical characteristics of the land borders which the maritime ones haven’t: 1) the presence of fixed physical “natural” points of reference, which could avoid the necessity of marking the border, 2) the possibility to clearly evidence them, 3) the possibility to reinforce them, 4) the possibility of a durable permanence of military force and to augment it if the case. Thus the presence of islands is so important for the maritime borders and sovereignty claims. The main difference between Europe and Japan is the fact that the borders of Japan are totally maritime while for Europe there are also relevant territorial borders, but both European territorial and maritime borders are substantially stable (for a post WWII mental attitude and because of the EU enlargement process) and almost 100% undisputed. The issue of borders, the self-perception and the status/prestige are important in the still state-centered geopolitical dynamics. And for observing and evaluating the position and/or the aims of Japan it could be useful to do a comparison with Europe despite the differences: Japan is a nation-state, Europe is a supranational agreement. 44 Both Japan and Europe are still inside the post WWII mental and practical legacy; for Europe this means the partially forced acceptance of a reduced and dependent (from the USA) military role, but also the explicit will to overcome secular conflicts and to proceed towards a full economic and political integration for (almost) all the European countries, avoiding (at least theoretically) nationalistic discourses and narratives. Is this the same for Japan? The military dependence from the USA is still necessarily strong (stronger than the one of Europe) and also constitutionally framed, specially by art. 9. But in my opinion there is also a largely shared opinion among the Japanese people against the war and the use of force in the geopolitical dynamics. But the issue of the borders remain significant for every state as well as the “old” question related to what are the borders dependent on? From Nature? From History? From Language? From Religion? From Identity? Which one? Ethnic, National, what else? From Principles? Which ones? From differences? Which ones? The European Union partially solved the issue of borders through the enlargement of the Union and through the disappearing of the border controls in the Schengen Area. This is the consequence of one of the legacies of the European History: too many (and destructive) wars in the past. In a different way also for Japan the idea of war is linked to the dramatic end of the WWII and in this sense there is a sort of communality with Europe. After 1945 in Europe started and it is still alive a shared “discourse”, partially supported by coherent narratives. The main points of this discourse are: 1) no more wars, 2) negotiation as the main means to solve the problems, 3) the EU enlargement process made by free choice and not by force, 4) money for supporting the joining transition and/ or negotiations. But it’s possible to identify two kinds of Europes, living in parallel: the Europe-Society and the Europe-Institution. The Europe-Society is the one in action day by day through the ordinary lives of the Europeans. The construction of the European Union introduced a continuous process of small changes in the ordinary life of Europeans which the new generations (but largely also the old ones) accepted and perceive now as “normal”. “Europe is doing itself in the same moment in which it is thought, not merely by the philosophers, but from all the actors. In great measure it happens before and against every project of Europe” (Lévy, 1999, p. 312). The main characteristics of the Europe-Society are: 1) Circulation (in the sense of Gottmann), actors are the citizens, 2) it’s already existing as a result of the historical and integration process lasting since several decades, 3) it is still active thanks to exchanges of every kind, 4) it’s growing by voluntary choice. The Europe-Institution is the political structure of the EU as the result of the process of enlargement and of the sequel of administrative-economic agreements signed from 1950s until today. The main characteristics are: 1) Iconography (in the sense of Gottmann), actors are the governments, 2) an iconic Europe, as theoretical political and economic subjects. This Europe has yet to be defined completely in rules and principles, even if currently there is a building attempt in the economic realm. But this is a consequence of the 2008-2013 financial crisis effects which in some way obliged the European countries to find a common action in order to “save the money” (and banks: the lesson of the Japanese ’97-’99 financial crisis hasn’t be learned!); it is formally along the “unionist” ideas declared since the 1950s and (slowly) pursued until the failed attempt of approving an European Constitution in the early 2000s, but in fact the nation-states resist. The ideas for the future of Europe still remain related to the concept of a supranational (federalist) state while the practices of the single governments are still along the defense of the socalled “national” interests. Accepting these parallel conceptual lines (society and institutions) the considerations about Europe, and what it will be, it could also be useful for the people who like to meditate on the current (geopolitical) Japan and its future. Even if apparently the issue of different nationalities in Europe seems not to involve Japan, in fact it’s possible to 45 do so, at the internal level of every state, a parallel with the different concepts of national interests and/or national pride. It’s possible to consider as in action the Japan-Society and the Japan-Institution. Here is a 5-point list of what kind of (f)actors could be considered as a pillar for Europe; I added to each point also a critical question in order to suggest a possible field of reflection. So, what kind of Europe could be forecasted? • The one of the Nation-states (A mighty Europe competing with the USA?) • The one of economy (the Europe of money: competing with USA , China and the emerging states?) • The one of the “peoples” (the Europe of the self-affirmed identities: everyone has “its” territory, “its” culture? With boundaries or not?) • The one of the citizens (the Europe of the individual rights: granted by supranational European institutions?) • The one of the “visions”? (No War, libertè-egalitè-fraternitè, rules are always to be negotiated, etc.: with a written European Constitution?) It is now more and more relevant to what kind of institutional model is better for the future of the European Union. The compulsory necessity to find a shared institutional exit from the financial-economic crisis brought to the agreement in December 2013 about the definition of the kind of control over the European banks by the ECB (European Central Bank, seated in Frankfurt, Germany). This restarted at least a debate about the possible political, institutional structure of the Union. • 1) Nation-states federation (USA strong presidential model) • 2) Nation-states federation (German parliamentary model, with two representative chambers differentiated in terms of power) • 3) Nation-states (con)federation (Switzerland model, with large decentralized autonomies) • 4) The Switzerland model could be applied also to a Regions (con)federation model But it’s relevant to underline the connections with what now are considered by political leaders, not only by Mearsheimer, as geopolitical power assets: 1) military power (being able to intervene everywhere), 2) control of the global financial fluxes and being the geographical basis for the main liquidity managing societies, 3) control over the global industrial production sectors, 4) being advanced in Hi-Tech and R&S. This taken for granted conceptual points reduce the ability to think critically the institutional structure of Europe. For example saying that Europe should be a strong military power, able to intervene by force of arms everywhere, means: 1) going out of NATO, 2) organizing a professional European army (multi-corps and unified as the recruitment), 3) being self-sufficient and having a integrated-standard production of weapons, 4) having a satellite electronic integrated control system (i.e. Galileo), 5) having military bases abroad in strategic points. And …. run a risk to be conflicting with the USA about some geopolitical issue (i.e., Middle East dynamics). In the realms of the global financial fluxes (investment/commercial banks and liquidity managing societies) and the global industrial production the presence and control of Europe is already in action, but it would be necessary to be more competitive with the USA finance operators (i.e. Goldman Sachs and the others in the group of the so-called Big Nines) and more active in supporting the European industrial system as well the Hi-Tech and R&D sector (for being competitive with USA, China and other emerging countries). 46 Europe already has a “good” position in the global supranational institutions, but it’s strong in the challenge in this realm of new players like China, India and Brazil. Only in the UN Security Council, with United Kingdom and France as permanent members with veto power, the status quo seems undisputable, but … until when? The Europe of the “peoples” (the Europe of the self-affirmed identities: everyone has “its” territory, “its” culture?) is now decreasing as a theoretical appeal. The period of the electoral success of the separatist/autonomist parties seems to be finished while the dissatisfaction “against” the Europe and the euro currency (because of the economic crisis) now takes the nationalist path. But, in my opinion, this is with only a partial possibility of success because what I named Europe-Society is sufficiently strong and well-established. The weakness of this political position is also due to the fact that the concept of “people” is very ambiguous and disputable in defining who is in and who is out, and it is also conceptually the same used by the nationalists. What about the Europe of the “visions”? Along ideas like No War, libertè-egalitè-fraternitè, rules are always to be negotiated, etc., maybe with a written European Constitution? These visions are still present in the European societies; but politically represented only by small minority parties. Oddly those are all European generated ideas, good to be used by politicians in formal official discourses, but put in practice with many contradictions and resistance by state bureaucrats and officials. But these visions are also unconsciously shared by many Europeans; I think that it’s possible to statue that the European cultural island and its Iconography (what I called Europe-Society) works in the ordinary life along those ideas and that there is a perceived ascription to the space-territory of Europe of them. Human beings mentally (and mainly unconsciously) ‘build’ their relationships with the space by imitation and social and cultural conditioning; after that there is a symbolic processing/theorization which gives sense to individual characteristics and to life. This psychological dynamics are instinctive, “natural”, acting within each human group and so, unfortunately, they can be used for political (nationalistic, exclusive, xenophobic) purposes when they are presented as “not negotiable”. The sense of belonging to a “culture”, to a specific human group and to a specific territory, the process of building the national identities has been studied by several academics and scholars. Here I use the criteria of Anthony D. Smith (1992), but also stressing that in this realm it is not important to “quest the Truth” because we must accept as valid only the ideas-opinions which the persons consider significant (Barth, 1969, cited in dell’Agnese E., Geografia Politica Critica, Giappichelli, Torino, 2005) not our personal opinion about them. Smith’s criteria for a human group identity existence are as follows: • Link with a territory (typical sentences: “this is our land, the cradle of our culture, there is a special relation with this land, etc.”) • Myth (“we descend from ……”; “this symbol always was our symbol”, etc. ) • History (some [or many] specific historical events are asserted as unique and/or with a special value) • Diversity (“we are special … from the very beginning, …. because … we are special!!”) • Genre de vie - Lifestyle (“our behavior is best than the one of the ‘others’”; we are civilized ... , people with different customs/values in our territory are a danger”, etc.) 47 I suggest an Europe-Japan comparison along these criteria: Characteristics Europe Japan Link with a territory • Europe: yes, but locally different • Japan: yes Myth • Europe: partially and differentiated • Japan: yes History • Europe: not as a whole, only by “nations”. Common “past of wars” • Japan: yes Diversity • Europe : yes, but locally different • Japan: yes Genre de vie (Lifestyle) • Europe: yes (locally and in general) • Japan: yes According to this comparison, obviously Japan, being furthermore a state-nation with the physical condition of an “island” with only maritime borders, seems as “built” and more stable than Europe. But perhaps, despite the appearance, both Europe and Japan share the condition of outsiders in the so-called World Order working along the Mearsheimer’s power factors. In my opinion this could be an advantage, but only if Europe and/or Japan decide to take a leading role in changing the current ideological/mental frame of the geopolitical world leaders. Hereunder a list of points stressing the current situation of Europe from the point of view of economics, politics and sociology. It’s possible for a Japanese reader to do an autonomous comparison in order to evaluate if there is a similar situation or a gap in Japan: • The EU institutional structure is under pressure because of the crisis; but this could be a possible stimulus to significant changes (or, at least, to a larger public debate). • Europe has a stable political system (no relevant changes in the internal policy of the states between center-right and center-left governments). • It is relevant to the role played by what I call the “Mass media party”, in the sense that mass media orients (too much and often too badly) the political debate and are the main “leaders-makers”. • Substantially the public demonstrations in the streets/squares are non influential in changing the government decisions. • European Union has an international role, but with some important members (UK, France, increasingly German) with an old (neo-colonialist) style in managing geopolitics (governments, top-down decisions, contracts, weapons, commerce [services and bank agencies, financial movements of capitals], tourism). 48 With these premises Europe is facing a progressive geopolitical irrelevance, due also to the reduced direct financing capability. • The economic/financial crisis shows how much the so-called “international investors” and “markets” (actually who control the money fluxes) are the main actors. More and more the ordinary life and its spatiality is considered only if economically valuable. • Because the still dominant conceptual frame that the model of (capitalist) economy is good everywhere, in Europe, after the collapse of the URSS, is largely shared by the political acceptance by the people of the socio-economic pyramid along the differences in the private property as the selecting criterion. Europe is living today an historical phase in which the “Society” and the “Institutions” are conceptually overlapped, and perceived vaguely by the ordinary people. The missing public (and political) debate over the political future of Europe and the dramatic economic effects of the financial crisis 2008-2013 (still in action in Europe) bring part of the EU peoples to be critical of the process of construction of the Union and even with the utility of the euro currency. But these ideas are affecting only a minority part of the Europeans: the next European elections could be a good testing desk for this statement. My forecast is that the Europe-Society is still stronger than the nationalist claims. Paradoxically the weakness of the Myth of Europe foster a sort of coolness regarding the nationalistic fury which fuels the process of mental and spatial caging (Eva 2012). For Japan, being a single country, it is easier and more psychological comfortable for the ordinary people looking for a power perspective and consider the nationalist option; the territorial trap is strong (for every state) and limits the imagination. The growing power of China, the characteristics of the already mentioned maritime boundaries, the Iconography of not “losing face” support the use of nationalistic iconography by the government and by part of the mass media. Is it not by chance that the prime minister Shinzo Abe is popular and he is now politically explicit in his claim for a stronger role of Japan in the geopolitical realm; this along the ideas of his booklet published in 2006. So in the guide-lines of the official document Strategy for the National Security (17th December 2013) is cited a “pro-active contribute to the peace” [sekkyokuteki heiwa-shugi - kokusaikyouchoushugi ni motozuku sekkyokuteki heiwa-shugi] with a mode of expression not so far from the “pro-active pacifism” which was invented in 1941 by an Italian journalist Mario Appelius in his book related to Japan titled “Cannoni e ciliegi in fiore (il Giappone moderno)” (“Guns and flourishing cherry-trees. The modern Japan”, quoted in an article by Stefano Carrer, Il Sole 24ore, 27th December 2013). The government support to a nationalistic narrative is a sociologically relevant factor, but I hold my opinion that the nationalistic appeal should be evaluated looking also (or mainly) at what is already present as shared ideas/behavior among ordinary people. For an external observer and also for internal self-interested players it is easy to misunderstand or to manipulate some traditional Japanese social tidy-attitude behaviors presenting them as nationalistic attitude or ideas. Maybe other memes (Dawkins, 1995) and Iconographies are still acting in the Japan-Society. For example the media success of the Shiono Nanami opinions and descriptions of the Italian Rinascimento, but overall of the Roman Empire as in some way conceptually similar to Japan (Miyake, 2010) could be more influential in supporting the feeling that it’s necessary for Japan to rescue its pride and to play a “pro-active” geopolitical role along the Mearsheimer’s power factors. In a different way in Europe the Roman Empire is not so up to date as a possible conceptual model; actually it has an appeal only for a very minority of Europeans. But the spreading appeal of the USA political-institutional model could be considered as an indirect appreciation, because the Roman Empire is an explicit model for the neo-con, the Right Wing and Tea Party sectors of the US Republican Party, who consider as obvious the Manifest Destiny of the USA to guide the World Order. 49 “Japanese students are not active to issues on politics and overseas” (Takagi-Eva, 2013); this sentence was made by prof. Akihiko Takagi at the IGU Kyoto International Conference as one of the final conclusions after having presented the temporary results of a joint work in progress, with questionnaires distributed to Japanese and Italian students. This attitude on one hand could be positive because there isn’t animosity concerning geopolitics, but on the other hand this could be also evidence that “young generation go with the flow” (Takagi-Eva, 2013). “Spatial distance is also an emotional/perspective distance” (Takagi-Eva, 2013); this is for sure for Italians about the Far East Asia territorial disputes, but this could be valid also for Japanese (students or not) when the geopolitical problem is related to small, uninhabited, far away islands unless nationalistic symbols and Iconographies are regularly stimulated by influential subjects. But I think that the article 9 of the Japanese Constitution (very similar to the art.11 of the Italian one) is still (and luckily) a strong iconographic limit with positive effects and symbolic value at the Japanese sociological level. It would be stimulating to transform it in Circulation (Gottmann, 1952) , that is to say a dynamic conceptual element useful to be used both by the European Union and Japan as a geopolitical action tool. In this field there is no competition, no countries or international organizations are really active in this sense. This action could be (emotionally) gratifying and with possible positive, democratic, pacifist effects for the whole (geopolitical) world. But the current “ideological” and iconographic points of reference of the “world order” are different. In my opinion the current situation sees the spread of three main political-institutional models. The USA Presidential one (more and more spreading in the West, which is looking for “stability” and “governance”), i.e. more power to the government, political career through the “mass media party”, usually about 50% of voters over the eligible amount. The China “guided democracy” with a dominant party (also through elections like in Putin’s Russia). The Sheik-Emir or Ideologic-Theocratic one with an undisputable Iconography which rules the institutions and the society (but this model could accept the guided democracy in the future). Perhaps in the future is coming a “merging” model, similar to the current one in Hong Kong: strong decisional power to the government, parliament with two constituencies (55% elected with a multiparty system, 45% designed by economic and professional constituencies), political role of the “mass media party” in order to canvas the consensus, and no discussion about the Western style economic system. This “model” is formally democratic, with some granted individual liberties, but no possibility to change the socio-economic pyramid which is the “discourse”, supported by the political-economic rhetoric and the mass media narratives. I’d like that human groups, countries and leaders would have a totally different vision for managing the geopolitical dynamics. As a very brief conclusion I introduce hereunder some points inspired by the conceptual frame of the Barcelona Declaration, signed in the year 1995 between the European Union and the countries surrounding the Mediterranean Sea , with the aim to build a pacific, economic and geopolitical friendly area. The points are a little modified because of the substantial failure of the project as a consequence of the collapse of the URSS bloc and the pressure of USA for orienting the (geo)policy of EU toward the East instead of toward the South (Eva, 1999). This kind of policy followed the conceptual power lines of Mearsheimer and of the traditional Geopolitics as well as the one of economic power (which is also compatible with the Mearsheimer one). The theoretical ideas of the Barcelona Declaration are still good, but they must be supported not only economically (and today it’s not so easy), but overall politically and supported by the narratives of the mass media (party). 50 A new Barcelona Declaration (without the previous mistakes): • Not all the (international) investors are good (the “big” aren’t). Banning the OTC exchanges and supporting (allowing only?) corporate bonds and private equity funds for small-medium enterprises. • Give regular state aid directly to local communities (for doing schools, hospitals, community centers, cultural associations, etc.). • Avoid the state-bureaucratic intermediation. • Finance directly the projects (along the ONG model, i.e. Action Aid etc.); ask support through crowdfunding. • Transfer of efficient, ecological, low cost technologies and knowledge for an autonomous local management (“small is beautiful”). • Exchange of TV broadcasting, movies and docs, broadcasted by main state TV channels. • Compulsory to host a United Nations TV channel with a multilateral-multilinguistic management and broadcasting, following the model of Euronews, the joint European TV-news channel, and the Italian one, significantly named Babel. For Europe and Japan dealing with these ideas and trying to spread them at the international level as the geopolitical conceptual mainstream could be an interesting geopolitical challenge. References Agnew J., Geopolitics. Re-visioning World Politics, Routledge, London-New York, 1998. Barth F., Ethnic Groups and Boundaries, Little Brown and Co., Boston, 1969. Dawkins R., Il gene egoista, Mondadori, Milan, 1995 (Orig. ed. The Selfish Gene, revised edition 1989). Eva F., “South or East? Europe’s dilemma in its search for preferential geopolitical and geoeconomic relations”, in The Arab World Geographer, volume 2, n.1, Spring 1999, pp.56-69. Eva F., “Caging/self-caging: Materiality and Memes as Tools for Geopolitical Analysis”, in Human Geography. A New Radical Journal, Vol. 5, N. 3, Nov. 2012, pp. 1-14. Gottmann J., La politique des Etats e leur géographie, Colin, Paris, 1952. Lévy J., Europa. Una geografia, Edizioni di Comunità, Torino, 1999. Mearsheimer J., La logica di potenza. Università Bocconi Editore, Milano 2001. Miyake T., Occidentalismi, Casa Editrice Cafoscarina, Venezia, 2010. Reclus E., L’Homme et la Terre, Librairie Universelle, Paris, 1905–08. Smith A. D., The Ethnic Origin of Nations, Blackwell, Oxford, 1986 (ed. Ital. 1992). Takagi A., Eva F., “Students’ understanding of the contemporary geopolitical situations around Japan: A comparative analysis of surveys to Italian and Japanese students”, presentation at the IGU Kyoto International Conference, 4-7 August 2013. 51 52 II.講演概要 Japanese Studies in Belgium in the 21st Century: Framing the Impact of Popular Culture Dimitri Vanoverbeke The initial idea when some courses on Japan were taught and when the first institutions for Japanese studies were established in the world, was that institutions should offer language training plus area courses that surveyed history, literature, and social science disciplines such as political science and economics. The development of the language and area studies paradigm coincided with the rise of modernization theory and functionalist social science ideas. These approaches came to be widely questioned in the 1980s and a more critical approach to Japanese studies transformed the study of Japan and was probably at the background of the reforms here at the KU Leuven where in 1986 Japanese studies was established as an independent curriculum. From the mid 1980s rising economic power and at the same time the increasing presence of Japan on the international political scene (Nakasone, WTO and G7) apparently caught general attention and general books and articles suggested that Japan had found better ways of approaching society and the economy than many European and American nations facing socio-economic crisis. Japan specialists were for the first time taken seriously in their analysis of the reasons and context this highly successful society. This period marked the rise of an economic competition and politics paradigm for Japanese studies. By the late 1980s and the early 1990s, the transformation of the study of Japan into something of economic value meant that there was a demand for different types of training than in the traditional language and area studies curriculum. Business schools added courses and programs on Japan because of the perceived need for specialists in this field. We saw some schools in Brussels actually offering a master course in Japanese business and economics and felt some competition from these schools. The traditional integrated language and area studies approach to the study of Japan was also under attack in the 1990s because, for example social science disciplines regarded culture and even language as not really necessary. Non-Japan specialists in those disciplines considered their students able to study Japanese society, politics and economics using quantitative datasets and the standard tools of the disciplines and they did not need excess baggage of language and area studies. The number of students drawn into Japanese studies in the 1990s declined compared to the high watermark of the bubble economy at the end of the 1980s paralleling the decline of Japan’s economic position in the world best summarized in the world-wide tendency of ‘Japan-passing’ rather than the ‘Japan-bashing’ of the 1980s that was reflecting America’s frustration and jealousy at the rise of Japan’s economic prominence. Interesting to see is that the so-called cultural studies approaches were already visible in Japanese studies in the early 1990s but these were somewhat overshadowed by the salience of the economic and politics approach. I use the cultural studies paradigm in the sense defined by Patricia Steinhoff as “intellectual currents that first arose in the humanities as an interest in the construction of meaning and then entered the social sciences through critical structuralism and post-structuralism, postmodernism, feminism and the Birmingham School’s interest in subcultures, media and language.” This approach to culture is totally different from the functionalist idea underlying modernization theory as it 55 encourages the widest possible range of cultural representations, past and present, of subgroups, minorities, social movements and social groups rather than assuming one monolithic “Japanese” culture. This approach requires a high level of language skill and deep understanding of Japan. I want to expand this paradigm the 21st century where the prominence of popular culture developed rapidly. As a bottom-up development in Japanese society various aspects of pop-culture became an interesting topic for research also because it provided insights into subcultures and subgroups of Japanese society. But the way that the cultural studies paradigm in Japanese studies was probably influenced most was by the increasing globalization of the pop-culture movement. Japanese culture in whatever facet did no longer remained confined within the borders of Japan. The globalisation of the paradigm allowed for a new step in the development of the Japanese studies paradigms and influenced teaching of language, social sciences and of area studies in the 21st century. Please allow me to introduce some of the ways that Japanese studies at the KU Leuven has acknowledged this paradigm shift in teaching methods and let me stress that this is still a process that has just started. Japanese studies? At the turn of the century the rise of china became obvious; increasing GDP and finally in 2010 it surpassed Japan as the second largest economy in the world. Growing importance of China; even the former Flemish minister of trade enrolled in Chinese studies here at the KU Leuven in 2010. Would the number of students enrolled in Japanese studies decline? Not really. The number of students enrolled continued to increase since the start of the 21st century to reach 78 students enrolled in 2005-6; 113 in 2006-7; 133 in 2007-8; 176 in 2008-9; 211 in 2009-10; 237 in 2010-11; 215 in 2011-12 and 204 in 2012-13. Why? Surveys in 2008, 2009, 2010 and 2013 2008: 88% fascinations for Japanese culture in general; more than half were motivated by pop-culture. 2009: 75% manga, anime, music are the main motivations for choice 2010: again more than 70% mentions anime and manga (58%) 2013: again 65% manga; 44% anime; 42% music but options for the students to choose from were extended and included ‘history’ (27/38) and ‘fashion’ (8/38): option ‘economy’ (1/38) Replies are diffuse and motivated by culture and mostly by one aspect of culture. A possible explanation for the fact that Japanese studies still attracts many students is the fact that the three paradigms exist parallel to each other and pop-culture but also other aspects of Japanese culture such as martial arts makes the gap between the every-day world of the generation that graduates from high school and university education, not too wide. The Japan Expo took place for the 14th time. The Japan Expo is an event dedicated to Japanese culture and popculture mainly focussing on manga, animation, music, videogames, “cosplay,” etc. The first edition in 2000 attracted 3200 people and was organised on 2500 square meters while in 2013 the event attracted 232876 people who could enjoy Japan Expo on 125000 square meters. 56 The KU Leuven has become a forerunner in Japanese Studies among European Universities by its interactive approach to teaching. The Japanese studies section is developing an electronic learning environment that combines training and testing of Japanese language skills through a web-interface, computer-mediated communication and collaborative learning facilities. Many of these innovations offer resources for teaching area-related subjects, and reflect a newly emerging teaching culture that is centred on the student rather than on the instructor. Three problems have to be addressed in the area studies curriculum. First, how to efficiently develop specific language skill in the student’s field of choice. Second, how to integrate the various courses that make up the curriculum. Third, how to adjust teaching to changing social needs. Computer mediated teaching methods go a long way to providing answers to these questions. The infostructure under development at the Katholieke Universiteit Leuven, Japanese Studies section rests on three pillars; a portal site, a docbase, and a next-generation online dictionary. The portal site features multiple levels of access. At the outset, students, researchers and members of the general public interested in “things Japanese” will be able to find a transparent overview of, as well as original material pertaining to, new developments in their specific field of interest. The second pillar of the infostructure is a docbase where teaching and research material can be stored in a uniform format, and accessed through a single interface. This docbase collects and shares what is collectively “known” in the participating institutions and becomes the main tool in the self-directed learning effort. The third pillar is a next-generation online dictionary being developed with special attention to vocabulary in specific fields. On-the-fly translation of jargon will lower the threshold to understanding the subject-matter. The online character of the dictionary allows it to continuously “learn” new vocabulary itself. The instructor of a specific course can gradually develop the vocabulary connected with his field. More recently Japanese studies at the KU Leuven is embracing the growing importance of pop-culture its teaching related projects to link the three paradigms on Japanese studies. A project labelled ‘Let’s Manga’ but this is different from Manga de nihongo: how to innovate the curriculum? Use real manga and other popular media How? 1. by developing on-line material to help students acquire insights in Manga; its history, different styles, social functions and languages used. 2. By developing a contextual dictionary 3. Linking academic content to manga in i.e. history, politics, economy 4. discourse analaysis: how communicate? 5. Language used at various levels and groups = living culture 6. Social analysis beyond academic research Goals? 1. Foster Independence 2. Foster Interactive 3. Foster Collective effort 4. Help students memorize more easily 5. Stimulate creativity 6. Structure study materials through manga 7. Stimulate an enthusiastic approach >>> importance of the Manga Library 57 Conclusion The globalization of Japanese studies has developed with the intermediary of popular culture. Pop-culture has a considerable impact on the Japanese studies community including all stake-holders (students and staff alike) by influencing research methodology, publishing techniques and teachings methods. I have the feeling that we only are at the dawn of more developments related to the cultural studies and popular culture paradigm. 58 III.講演会実施記録 研究部講演会 第1回 実施要領 日 時: 2013 年 7 月 25 日(木)17 時~ 18 時 30 分 場 所: 大学院国際文化学研究科E棟 4 階大会議室 講 師:川村陶子(成蹊大学文学部国際文化学科准教授) 報 告:「ドイツ対外文化政策の変容―ヨーロッパ統合進展の中で:新たな一歩か、原点回帰か―」 ※内容については、第I部に掲載された論文をご覧ください。 第2回 実施要領 日 時:2013 年 8 月 1 日(木)17 時~ 18 時 30 分 場 所:大学院国際文化学研究科A棟 4 階中会議室 講 師:仙石学(西南学院大学教授) 報 告:「分断から統合へ――ポーランド国境における『分断された領域』のシェンゲン後を比較する」 ※内容については、第I部に掲載された論文をご覧ください。 第3回 実施要領 日 時:2013 年 10 月 31 日(木)17 時~ 19 時 場 所:大学院国際文化学研究科E棟 4 階大会議室 講 師:坂戸勝(財団法人ベルリン日独センター副事務総長) 報 告:「日独の文化交流政策の変遷と課題」 ※内容については、第I部に掲載された論文をご覧ください。 61 国際部講演会 第1回 実施要領 日 時:2013 年 5 月 27 日(月)17 時~ 19 時 場 所:大学院国際文化学研究科E棟 4 階大会議室 講 師: Jean-Marie Klinkenberg(リエージュ大学名誉教授) 報 告:“Les littératures francophones septentrionales : constantes et convergences” 「北方フランス語圏文学の特徴と共通性」 ※内容については、第I部に掲載された論文をご覧ください。 第2回 実施要領 日 時:2013 年 10 月 1 日(火)17 時~ 19 時 場 所:大学院国際文化学研究科E棟 4 階学術交流ルーム 講 師: Fabrizio Eva(ヴェネツィア カ・フォスカリ大学契約教授) 報 告:“European Vision of the global geopolitical dynamics in comparison with the Asian (and Japanese) perspectives” ※内容については、第I部に掲載された論文をご覧ください。 第3回 実施要領 日 時:2013 年 12 月 24 日(火)17 時 30 分~ 19 時 場 所:大学院国際文化学研究科E棟 4 階学術交流ルーム 講 師: Dimitri Vanoverbeke(ルーヴァン・カトリック大学[ KULeuven ]人文学部日本学科教授) 報 告:“Japanese Studies in Belgium, Belgian Studies in Japan” 「ベルギーの日本研究/日本のベルギー研究 の現在」×自由討論 ※内容については、第 II 部に掲載された概要をご覧ください。 第4回 実施要領 〈1日目〉 日 時:2014 年 3 月 3 日(月)15 時 30 分~ 17 時 30 分 場 所:大学院国際文化学研究科E棟 4 階学術交流ルーム 講 師:清水 裕之(名古屋大学大学院環境学研究科都市環境学専攻教授) Matthias Theodor Vogt(ゲルリッツ大学教授、ザクセン文化基盤研究所所長) 報 告:「日独の地域再生のストラテジー―文化政策と環境政策の出会い」 〈2日目〉 日 時:2014 年 3 月 4 日(火)15 時 30 分~ 17 時 場 所:大学院国際文化学研究科E棟 4 階学術交流ルーム 講 師: Nora Usanov-Geissler(ベルリン自由大学美術史研究所学術研究員、神戸大学国際文化学研究科客員研究者) 報 告:“Nanban byobu as Visualization of Littoral Contact Zones and Port Cities” 「開港都市の交易と近代化-南蛮屏風の表象から読む」 62 IV.国際ワークショップ 国際ワークショップ 3月4日 日欧国際ワークショップ「 ヨーロッパアイデンティティの形成とその政治的意義――ヨーロッパ統合における政 治と文化の接合」( 2014 年 3 月 4 日、 ブリュッセル自由大学 ( フランス語系 ) 欧州研究所) EU 文化研修プログラム 3 月 5 日研究会 第一部 神戸大学ブリュッセル・オフィスでの研究会の様子。 3 月 5 日研究会 第二部 左上)利根川由奈氏(京都大学 大学院人間・環境学研究科博士 課程)による講演 右上)シャルリエ美術館でおこ なわれたベルギー王立ブリュッ セル音楽院声楽科講師・正木裕 子氏と、学生による演奏 右)同音楽院修了生による演奏 Enlargement of the EU and Struggle to Coexist with Cultural Others Kazunari Sakai Introduction Arab Spring, which began in 2010, brought about large numbers of immigrants, crossing the Mediterranean Sea and pouring into the European Union. As a result, a great confusion arose in both Italy, which turned into a main point of entry for immigrants, and the neighbouring France. On the Italian island of Lampedusa, the frontline of the migratory flows, shortage of facilities that could accommodate migrants as well as political and administrative confusion caused by issuing humanitarian temporary residence permits to large numbers of people left migrants frustrated, producing chaos and public disorder. The crucial point here seems to be the fact that basic to this chaos is the problem of cultural differences between the south of the Mediterranean Sea (North Africa) and the north (EU) as well as identity conflict, which might hinder tolerance of those differences and peaceful coexistence. Moreover, this issue did not emerge suddenly during the Arab Spring but rather has escalated rapidly since immediately after the oil crisis of 1970 when Western European countries like France stopped accepting foreign workers from Arab and other countries. For a long time the Western world has been internalizing the matter. The problem with a large influx of immigrants and refugees is that if they are accepted as new members of the community, processes of culture contact, cultural resistance and acculturation will inevitably occur. Both host society and migrants experience acculturation and their coexistence results in a common identity that leads to changes in the society. However, as political history of Western Europe since 1970 has shown, it is not an easy process. Not only changes in society after a rapid increase of immigrants and refugees cause an alteration of identity due to accepting new members. The same phenomenon occurred to a different degree after the enlargement of the EU. The question is to what extent this change is possible and what institutional adjustments are necessary to enable this process. This paper will try to examine the internal creation of a new identity due to acculturation and cultural contact with new members in regard to the concept of identity as well as the cultural phase underlying European integration in the context of culture contact, friction and coexistence with (potential) new members that have increased on the EU’s external borders. I. Types of cultural frictions arising in the EU The following section will study the existing types of cultural frictions arising in the EU. One type covers frictions occurring within the EU. Firstly, it includes the problem of ethnic regions: regions with minority languages and cultures. As of January 2014 the EU comprises of 28 countries with 24 official languages. However, languages like Spain’s Catalan and Basque, France’s Breton and Corsican or Great Britain’s Scottish have not been included. Regions using such minority languages have been repeatedly demanding preservation and development of concerned languages from central governments; occasionally resorting to terrorist-like violent actions. Secondly, there is an internal immigration problem concerning especially immigrants from outside of Europe. Frictions occur mainly with immigrants from Arab and Islamic circle; concrete examples being Arab immigrants from North 67 Africa in France or Turks living in Germany. Another type of frictions occurs on the borders and externally, due to management of Middle East and North African immigrants’ entry to the EU among others. In June 2004 a resolution to create VIS (Visa Information System), which would allow member states to share visa information, was adopted. The system prevents individuals whose visa application to an EU state had been rejected from submitting a visa request to another member state. Moreover, VIS made it possible to detect fraudulent visas or check backgrounds of illegal residents. Next, in May 2005 FRONTEX (European Agency for the Management of Operational Cooperation at the External Borders of the Member States of the European Union) was established. FRONTEX started to operate in its headquarters in Warsaw1. Policies on area entrance management system tackle the issue of deportation of illegal residents as well. Concrete measures are collected in “Communication from the Commission to the Council and the European Parliament on a Community return policy on illegal residents” formulated by the European Commission in October 2002 and in “Proposal for a Directive of the European Parliament and of the Council on common standards and procedures in Member States for returning illegally staying third-country nationals”2 presented in September 2005. Additionally, European Pact on Immigration and Asylum adopted in 2008 mentions a “comprehensive partnership with the countries of origin and of transit”. However, what can be observed there is the system that shifts responsibility for the EU area entrance management onto candidating countries and their immediate neighbours. Under the name of “encouraging the synergy between migration and development”, the task of guarding the EU’s external borders is forced on those countries in return for political and financial support (Morice et Rodier 2010, pp.16-17). Moreover, management of immigration through embassies and consulates located in immigrants’ countries of origin is largely gaining importance whereas the EU borders are shifting to more remote areas and control over them is continuing to externalize (Wihtol de Wenden 2013, pp.70-71). Third type of frictions relates to reactions to the EU new member states. Accession of 12 Eastern European countries came into effect in 2004 and 2007; Croatia joined in 2013. These countries, once communistic in the Cold War era, underwent democratization and in result, after meeting the Copenhagen criteria, were granted a membership. It can be said that there was a certain prior understanding among member states about the accession of those 13 countries. That is to say, they are geographically located in Europe and belong to Europe historically and culturally as well. However, there was a common feeling that after having been temporarily alienated by a political wall during the Cold War, they, in a sense, returned to Europe. This situation differs clearly from the current discord over the accession of Turkey. However, even though in Eastern European EU member states European unity is presented symbolically as originating from the European value system and the end of the Cold War, behind this unity lies the problem of multiple ethnic relations and cultural frictions. Examples include German minority in Hungary and Poland or the case of Slovenia and Croatia which share a common history of being one country under former Yugoslavia, which failed to deal with the problem of multiethnicity (For example, McGarry and Keating 2006). Enlargement of the EU presents a challenge to achieve both increased diversity and the sense of unity; two essentially contradictory trends at once. As shown above, when talking about cultural frictions arising in the EU both the growing internal multiculturalism as well as reinforcement of external borders and “externalization” of border management can be observed. 1 Council Regulation (EC) No 2007/2004 of 26 October 2004 establishing a European Agency for the Management of Operational Cooperation at the External Borders of the Member States of the European Union, Official Journal of the European Union, L 349, 25/11/2004, pp.1-11. 2 COM(2005)391 final http://eur-lex.europa.eu/LexUriServ/LexUriServ.do?uri=COM:2005:0391:FIN:EN:PDF, access: 26 November 2013. 68 II. The meaning of EU enlargement II-1 EU enlargement and cultural phase The end of the preceding paragraph briefly mentioned EU enlargement and this passage will investigate the matter further. The meaning of EU enlargement can be approached from various points of view, including political and economic perspectives. Politically, overcoming the Cold War division and creating a political community founded on the value system of democracy, rule of law and respect for human rights leads to an enhanced presence of the EU, or rather member states, in the international politics. From the perspective of economics, economies of scale point to the significance of overall economic growth and development due to the expansion of the market. For both politics and economy maintenance of the EU internal stability is of the biggest importance. Hence, what could be said from the point of view of culture? Preamble of the Lisbon Treaty states that Europe is “united in diversity” and Article 3(3) of the Treaty provides that “It shall respect its rich cultural and linguistic diversity, and shall ensure that Europe’s cultural heritage is safeguarded and enhanced”. Thus, according to the fundamental principles of the EU, growing diversity brought by the enlargement appears as a positive aspect. However, if negative concerns over political and economic consequences brought about by intercultural contact (i.e. concerns over public order or employment) are taken into account, it is clear that the perception of threat from potential cultural others is being on the rise. So to speak, culture, being something that needs to be protected, it itself becomes a source of threat. In other words, it could be said that the pursue of “cultural security” and “securitization of culture” appear simultaneously. II-2 Formation and reinforcing strategies of European identity This section will focus on the formation of European identity and strategies reinforcing this identity. The question of identity was first raised in the Declaration on European Identity published in December 1973 at the EU summit in Copenhagen (Kraus 2008, p.43). After that, in the beginning of the 1980s, when the scope of integration advanced from economic to political integration, measures that would form and reinforce European identity through educational and cultural policies were being developed. One example includes the European Capital of Culture initiative started in 1985. In the field of education, proposals such as introduction of a “European dimension” into primary and secondary education curricula and increase of mobility through Erasmus programme oriented at university students can be mentioned (Kawamura 2007). Having undergone aforementioned processes, European identity was popularized and established among EU citizens. However, EU enlargement challenges the understanding of European identity from a static point of view. “Unity in diversity” stands as EU’s principle and this diversity increased due to the enlargement process. For this reason it can be said that EU expansion poses a challenge to a static European identity and a more dynamic understanding is needed. According to the results of Eurobarometer opinion poll conducted among EU citizens in 2008, factors most crucial to the formation of European identity are as follows: 1) single currency (euro) (40%), 2) democratic values (37%), 3) history (24%), 4) success of European economy (23%), 5) culture (22%), 6) geography (17%), 7) European flag (15%), 8) Unity in diversity motto (12%) (multiple-choice poll, up to 3 answers allowed). As the euro currency is part of everyday life its symbolic meaning is understandable but democratic values coming in 2nd demonstrates an important point. Eurobarometer offered a following analysis: “Some 37% of European citizens then mentioned democratic values as a key element of the European identity. It should be borne in mind that in order to join the European Union today candidates must satisfy not only the conditions for the adoption of the euro (in the medium term) but also a certain number of democratic values” (Special Eurobarometer, 303, p.34). 69 In the situation when EU enlargement continues and culture underlying the EU diversifies, analysis of the foundation of European identity indicates the difficulty to point out a static factor forming the identity core. In contrast, Checkel and Kaztenstein suggest a valuable viewpoint that European identity can be understood from the perspective of “projects”, “processes” and “contexts”. While negating a simple dichotomy of nationalistic tendencies on the local level and cosmopolitan ones on the European level, they recognize European unity or EU enlargement as political projects and on this account perceive concrete unifying processes as serving a function of connecting EU citizens together. Moreover, they identify the context the EU was put in, i.e. what kind of unity is being demanded or what is needed in order to overcome obstacles the EU is facing in a specified point of time. Their conclusion is that policies and trends created in regard to those questions is where the core of European identity lies and manifestations of European identity are visible (Checkel & Kaztenstein, 2009a & 2009b). Related to this argument is the study of the EU’s public sphere and politics by Díez Medrano. He looks from the perspective of whether the idea of “EU as a project” gains support and points out the consensus over the project between European political elites on one hand, and the scale of the gap between EU citizens on the other. Disparity between old and new members of the EU is mentioned as well. Here, the analysis indicates that, rather than focusing exclusively on the single market, it is multi-level governance reflecting varied expectations that fits into the EU image and structure (Díez Medrano 2009, p.106). From the perspective of EU citizens’ identity, static understanding of the EU is difficult and a dynamic angle is suggested. Those arguments brought up by Checkel and Kaztenstein as well as Díez Medrano, which are all in accordance with the constructivist perspective, indicate a dynamic approach to understanding European identity and contribute to the analysis of characteristics of the EU as a political community that is different from the state. III. Culture underlying EU political legitimacy The previous section tried to identify the foundation of the European identity and indicated that, while it does not have any static form, the key to approach to it might lie in democratic values. It can be observed that during the process of enlargement, the cultural diversity of the EU grew even further and the need to find a unifying element exceeding cultural barriers emerged. “United in diversity” is EU’s basic principle. In other words, political legitimacy is confirmed by the emphasis on the preservation of cultural diversity. The important point here is to what extent diversity should be accepted. Does it entail recognizing national diversity solely or embracing ethno-regional diversity as well? Furthermore, should immigrants from outside the EU be subsumed here as well? The real problem is that, as non-Europeans (and saying Muslims instead would not be an overstatement here) are approaching the outer edge of the EU, religion has become a point at issue in regard to the European identity (Byrnes & Katzenstein 2006). For instance, it could be assumed that the accession of new member states to the European Union would mean accession to the Schengen area as well; however, the dispute over Bulgaria and Romania proves otherwise. Bulgaria and Romania joined the EU in 2007 but as they did not complete preparations to join the Schengen area, the transition period till the end of 2013 was established. Hence, once the transition period is over in January 2014 both countries were to become full members of the Schengen area but France expressed a strong opposition. On September 30th 2013, French Foreign Minister Fabius explained that there is a concern over insufficient border management in both countries, which might harm the rest of the Schengen zone3. Here, in the context of France’s opposition, the growing apprehension over Syrian refugees passing Turkey and entering the zone via Bulgaria (Le Monde, 9 octobre 2013) can be pointed out. Nevertheless, the concern is not only about the rapid increase in the number of immi3 “La France ne veut ni de la Roumanie ni de la Bulgarie dans lʼespace Schengen” http://abonnes.lemonde.fr/societe/article/2013/09/30/ paris-oppose-a-l-entree-de-la-roumanie-et-la-bulgarie-dans-l-espace-schengen_3486989_3224.html, access: 3 December 2013. 70 grants and refugees, but rather, what is implicitly apprehended is that in case those individuals arrive in France, they would bring with them their Islamic culture (Le Monde, 31 decembre 2013). “[Bulgaria and Romania] are not yet fully-fledged members of the Schengen area; border controls between them and the Schengen area are maintained until the EU Council decides that the conditions for abolishing internal border controls have been met”4. Regarding these regulations the following indication has been expressed repeatedly: “both Bulgaria and Romania fulfil the criteria to apply in full the Schengen acquis, further measures were implemented which would contribute to their accession. Still, the Council has not yet been able to decide on the lifting of control at the internal borders to these countries”5. Then at the Council meeting of Justice and Home Affairs on December 5-6th 2013 the decision of full entry into the Schengen framework of both countries was postponed6. Furthermore, at the following meeting of the European Council on December 20th, where the issue of migration flows was raised, means to prevent a tragedy like the one in Lampedusa where a boat with around 500 African immigrants on board sank causing many casualties were discussed. As a result, prompt implementation of concrete counter-measures proposed by a Task Force of the European Commission commencing with the reinforcement of border control in the Mediterranean with FRONTEX was emphasized. However, there was no reference to the accession of Bulgaria and Romania into the Schengen zone at the meeting7. In reference to the above-mentioned case, it is important to note that recent years showed more emphasis put on the linkage between internal order and external security. The Internal Security Strategy of the EU adopted in March 2010 states that the influx of people into the Union and concurrent questions of supervision of illegal residents and crime constitute the main factor inducing insecurity. Consequently, according to the document, the border management of EU’s outer edges is of extreme importance. It insists that internal security and external security are inseparable and the impact brought about by the influx of illegal residents must be dealt with in such a context (Council 2010, pp.26-30). France’s opposition towards the accession of Bulgaria and Romania into the Schengen area can be viewed like this dispute within the EU from the perspective of cultural frictions on one hand and security guarantee aspect on the other. EU’s basic principle of emphasizing and securing cultural diversity, and cultural frictions occurring due to the growing cultural diversity, which is closely related to the problem of security guarantee, endorse “securitization of culture”. In other words, according to the EU model culture has been “something that needs to be protected”, however, recently it has manifested itself as a “source of insecurity” as well. Consequently, it might be said that culture carries a responsibility to achieve both “liberty” and “security” (van Munster 2009, p.21). In case when within the process of removing external borders and ensuring “liberty” of human mobility and interaction, a situation threatening peaceful coexistence occurs, culture is used as a control valve and a mean to protect internal “security”. While looking at the continuing promotion of “Unity in diversity” and an ongoing accession of Eastern European states, following points related to the connection between culture and politics in the EU can be discerned. Firstly, culture plays a role in creating and maintaining shared value system. Secondly, there are strategies aimed at maintaining a “secure” space with “liberty” through securitization of culture. Culture gives legitimacy to politics. In the first case culture supports politics in the abstract forms of a value system and ideals. On the other hand, in the second case culture is not a vague and difficult to grasp issue but due to securitization it becomes a main point at issue in politics. Administrations which adopt concrete political actions to deal with the “factor threatening security” achieve legitimacy because of culture. 4 The European Union, “The Schengen area and cooperation” <http://europa.eu/legislation_summaries/justice_freedom_security/free_ movement_of_persons_asylum_immigration/l33020_en.htm>, access: 3 January 2014. 5 For example, Fourth bi-annual report on the functioning of the Schengen area, 1 May - 31 October 2013, Brussels, 28 November 2013, COM(2013)832final, para.3.5. 6 The Council of the European Union, Press Release, 3279th Council meeting, Justice and Home Affairs, Brussels, 5 and 6 December 2013. 7 European Council Conclusions, Brussels, 20 December 2013, para.41. 71 Thus, it is possible to say that along these two directions European identity is forming and strengthening through “projects”, “processes” and “contexts”. If the culture underlying EU unity is viewed from the perspective of identity based on coexistence, it is conceivable that through political “projects”, “processes” and “contexts” providing a secure space manifesting both democratic and liberal values, EU citizens’ support towards the EU will increase. Conclusion This paper examined the way culture functions within the EU politics in the process of enlargement. It can be said that culture functions in different contexts: 1) as “something that needs to be protected”, 2) as “ideals and value systems” which confer legitimacy to the politics and 3) as a “source of insecurity” which brings together both liberty and security. In today’s European politics and society where “cultural diversity” increases due to a large influx of Muslim and Eastern European immigrants in particular, the subject of internal and external coexistence presents a severe challenge to the development and maintenance of European unity. Regarding security guarantee, while clarifying the intention to make internal public order and external security policy coherent, it can be observed that in this process European identity based on “projects”, “processes” and “contexts” has been strengthening. Furthermore, it could be said that on the one hand European identity has the potential to form a common “security culture” (including internal public order). Consequently, in times of the Eurozone crisis, Arab spring or similar incidents, it might reinforce internal unity even if only on the elite level. References Bindi, Federiga, and Angelescu, Irina, eds. (2012), The Foreign Policy of the European Union: Assessing Europe’s Role in the World, 2nd Edition, Brookings Institution Press. Byrnes, Timothy, and Katzenstein, Peter J., eds. (2006), Religion in an Expanding Europe, Cambridge University Press. Checkel, Jeffrey T., & Kaztenstein, Peter J. (2009a), “The Politicization of European Identities,” in Id., eds., European Identity, Cambridge University Press. Checkel, Jeffrey T., & Kaztenstein, Peter J. (2009b), “Conclusion – European Identity in Context,” in Id., eds., European Identity, Cambridge University Press. Council of the European Union (2010), Internal security strategy for the European Union - Towards a European security model, Publications Office of the European Union. Díez Medrano, Juan (2009), “The Public Sphere and the European Union’s Political Identity,” in Checkel, Jeffrey T., & Kaztenstein, Peter J., eds., European Identity, Cambridge University Press. Kawamura, Yoko (2007), “EU’s educational and cultural policies”, in Sakai, Kazunari, ed., European Integration and International Relations, 2nd Edition, Ashi-Shobo Publishers (in Japanese). Kraus, Peter A. (2008), A Union of Diversity: Language, Identity and Polity-Building in Europe, Cambridge University Press. McGarry, John, and Keating, Michael, eds. (2006), European Integration and the Nationalities Question, Routledge. Morice, Alain et Rodier, Claire (2010), “Comment l’Union européenne enferme ses voisins ?” Le Monde diplomatique, juin 2010. Special Eurobarometer No.303 “The 2009 European Elections (Fieldwork: October – November 2008)” (2009). van Munster, Rens (2009), Securitizing Immigration: The Politics of Risk in the EU, Palgrave Macmillan. 72 Weller, Marc, Blacklock, Denika, and Nobbs, Katherine, eds. (2008), The Protection of Minorities in the Wider Europe, Palgrave Macmillan. Wihtol de Wenden, Catherine (2013), La question migratoire au XXIe siècle : Migrants, réfugiés et relations internationals, 2ème édition, Presses de la Fondation nationale des sciences politiques. 73 74 Identifying the City Personality from Text Messages transmitted over SNS with Location Information Hajime Murao [email protected] Introduction This study tries to develop a novel method to identify city personality, which characterizes a city to distinguish it from other cities. It is important for city development. Activities in cities fitting their personality will attract people and vitalize cities themselves. The city personality is also important from the political, economic, and social point of views. However, it is always underlying as a principal problem how to identify the city personality. A promising method is taking survey by questionnaire, but is labor-consuming. I have tried to utilize social networking services (SNSs). That is, text messages transmitted over SNSs originated from a city are used to identify the city personality instead of taking survey by questionnaire. A score of each questionnaire item is automatically calculated from messages according to how many words relating to the questionnaire item appeared in the messages. I would like to note here that the proposed method is not limited to calculate city personality but can be used in other cases of taking survey by questionnaire. A Big Five personality test has been used as a base questionnaire, which measures degrees of five factors representing human personality. It is well studied in psychology and there have been a variety of questionnaire items proposed. I have used 32 popular questionnaire items in experiments. The proposed method automatically calculates scores for each of the 32 questionnaire items from text messages in a city, which are used to evaluate degrees of five factors of personality. Resulting traits do not represent personality of single person but people staying in the city where text messages have been exchanged. It might be called the city personality. There are several major SNSs to be able to choose, such as Facebook, Twitter, LinkedIn, Instagram, Google+, etc. In many services, users can add location information to text messages to indicate where the messages are sent from. I can use any of them but here have chosen Twitter. There have been studies trying to utilize Twitter to detect special events in a specific area like earthquake [ 1,2] or festivals [3,4]. The Proposed Method Generating Word-Collection using Google I define a score of a questionnaire item corresponding to text messages as a function of the 75 number of words related to the questionnaire item appeared in the text messages. To calculate the score from text messages, a collection of words related to the questionnaire item is necessary in advance. I utilize Google search system to generate the collection. The procedure to collect words related to questionnaire items is shown in Fig. 1. Keywords are extracted from questionnaire items of the Big Five personality test firstly. For example, “rich vocabulary” is chosen as a keyword for a questionnaire item “I have a rich vocabulary.” Each keyword is then searched through Google. Obtained search results are segmented and converted into a set of lemmas. A part-of-speech utility named TreeTagger is used for segmenting a text into words and converting them into lemmas. As a result of the procedure, keywords extracted from and therefore characterizing questionnaire items, and corresponding word-collections can be obtained. Calculating Personality Scores for Text Messages The procedure to deploy the word-collections generated above to calculate scores for questionnaire items for the Big Five personality test is as follows. Text messages transmitted over Twitter originated from a specified area are collected using Twitter API explained below. These are segmented and converted into a set of lemmas using TreeTagger. Each lemma is then searched in pre-generated word-collections. A point is given to a keyword when the lemma is found in a word-collection corresponding to the keyword. In this way, scores of keywords are accumulated. A score of the each factor is calculated as an average of scores of keywords corresponding to the factor. Figure 2 shows the procedure. Fig. 2 The procedure to calculate personality scores from text messages. 76 Employed Techniques Twitter Twitter is a SNS created in 2006 where users can send and receive text-based messages called “tweets” of up to 140 characters. Users can attach geo-location tags to tweets when sending them from GPS-enabled devices like smartphones. By using it, we can specify the location where the tweets are sent from. There is a report saying that only 4.83% out of all tweets are geo-tagged[5]. However, Twitter has over 500 million registered users as of 2012, generating over 340 million tweets per day. 4.83% of 340 million tweets per day are not small. To collect public tweets from the specific area, we can use “application programming interfaces” (APIs) officially provided from Twitter service. “Public tweets” here means tweets from non-locked users, which anyone can retrieve using official APIs. Twitter APIs are web APIs defined as a set of standard HTTP request. For example, the following request retrieves up to 10 tweets with a keyword “#brusselsws” posted at the center of Kobe City. https://api.twitter.com/1.1/search/tweets.json ?q=%23brusselsws&geocode=34.7,135.2,1km&count=10 Where the location and the area are specified by 34.7 in latitude, 135.2 in longitude, and 1km in radius. We use a streaming API which enables to track tweets matches one or more filters in real-time. There is a location filter, which enables to track tweets only within a specified bounding box on the earth. TreeTagger A part-of-speech utility named TreeTagger is used to divide obtained tweets into a set of words and convert each word into lemma. TreeTagger was originally developed by Helmut Schmidt in the TC project at the Institute for Computational Linguistics of the University of Stuttgart[6]. It can be used to annotate texts with part-of-speech and lemma information. A sample output of TreeTagger is like the following: Word The TreeTagger was developed by Helmut Schmidt . POS DT NP VBD VVN IN NP NP SENT 77 Lemma the TreeTagger be develop by Helmut Schmidt . Big Five Personality Test A Big Five personality test is a questionnaire to measure degrees of five factors describing human personality. The five factors are “ openness to experience ” , “ conscientiousness ” , “ extraversion ” , “agreeableness”, and “neuroticism”. It is well studied in psychology and is known that each factor is correlating specific traits of personality without overlapping. For example, “extraversion” is related to traits of “sociability”, “activity”, “warmth”, and “positive emotions”. It is also known that the fivefactors structure can be found across a wide range of human in different ages and in different cultures. Thousands of different questionnaire items in different languages have been proposed so far, each of which is corresponding to one of the five factors. An example of questionnaire items is shown in Fig. 3. Usually, there are dozens of questionnaire items in a single test and a respondent gives a grade to each item in five levels according to its fitness. Resulting score of each of the five factors is calculated as an averaged sum of grades of corresponding questionnaire items. Python Programming Language Python programming language is used to gather all above techniques. Over 1,000 line programs can do the following automatically: retrieving tweets in target area, converting words in the tweets into lemma, looking up into word-collections preliminary generated using Google, and calculating scores of Big Five personality factors. They have also been used to search keywords extracted from the Big Five test through Google to generate the word-collections in advance. Settings of Experiments Target Cities I have chosen eight cities: New York, Los Angels, Chicago, Salt Lake City (U.S.A.), London, Oxford (U.K.), Paris (France), and Brussels (Belgium). Detailed bounding boxes shown in Table 1 taken using Google Map are used in experiments. Figure 4 shows how Brussels was specified. City New York Los Angels Chicago Salt Lake City London Oxford Paris Brussels Table 1 Bounding boxes of observed cities. Upper Left Lower Right Latitude Longitude Latitude Longitude 40.6 -74.1 40.9 -73.8 33.7 -118.5 34.2 -118.0 41.6 -87.9 42.2 -87.5 40.7 -112.1 40.8 -111.8 51.3 -0.5 51.7 0.3 51.7 -1.3 51.8 -1.2 48.8 2.2 48.9 2.5 50.8 4.3 50.9 4.4 78 Fig. 4 How Brussels was specified. Bounding box is drawn as a dark rectangle. Observed Period I have collected tweets in the specified area above for about 4 months from Oct. 22, 2013 to Feb. 25, 2014 in JST. I have obtained 2,176 to 860,817 tweets depending to the city shown in Table 2. In total, 2,205,804 tweets have been obtained. Table 2 The total number of obtained tweets City # of tweets New York 180,428 Los Angels 828,180 Chicago 97,972 Salt Lake City 5,686 London 224,746 Oxford 5,799 Paris 860,817 Brussels 2,176 Total 2,205,804 Results Big Five Personality of the Cities There have been multiple languages used in collected tweets. Above all, English has been mostly used in U.S.A. and U.K, and French in Paris and Brussels. So, in the experiments, English and French versions of Big Five personality test are used to calculate degrees of five personality factors. Resulting degrees of five personality factors normalized between [0,5] are shown in Table 3. There are differences between cities but characteristics of cities are not so clear. Chicago Salt Lake City New York Los Angels London Oxford Paris Brussels Table 3 Resulting degrees of Big Five personality factors for selected cities. Agree. Cons. Extraver. Neuro. Openness 2.96 2.60 1.78 4.81 3.36 3.18 2.80 1.98 5.00 3.51 2.72 2.36 1.62 4.27 3.07 2.17 1.88 1.19 3.66 2.48 3.00 2.66 1.83 4.74 3.43 2.80 2.49 1.67 4.57 3.31 1.28 1.01 0.32 3.32 3.27 0.85 0.55 0.00 2.49 2.53 79 Personality Differences between Cities Principal Component Analysis (PCA) has been applied to clarify differences of personality between cities, where cities as original variables and personality factors as observations. Cumulative importance of principal components reveals that using the first three principal components are reasonably enough to distinguish cities. Loadings of each of the five personality factors to the three principal components are shown in Fig.5. It can be used to estimate the meanings of each component. For example, “openness” has a large negative loading in the first principal component (PC1) and PC1 can be thought to relate to “openness”. In the same way, PC2 can be thought to relate to “neuroticism”. PC3 is somehow difficult to resolve its meaning where “agreeable” has a large negative loading and “conscientiousness” a large positive loading. I interpret PC3 as relating to “stubbornness”. Figure 6 is cities drawn on PC1-PC2 plane and PC1-PC3 plane respectively. As shown in Fig. 6 (left), Los Angels is located at far right while Paris at far left. This implies Paris is more open while Los Angels less. Looking into the vertical direction, New York, London, and Brussels are located at upper position while Chicago and Los Angels at lower. This implies Chicago and Los Angels are more neurotic or nervous cities while New York, London, Brussels are more optimistic. Figure 6 (right) shows rather clear segmentation between two groups of cities. Oxford, London, Los Angels and Paris belong to the same group. They are located at upper position while other cities at lower. This implies Oxford, London, Los Angels, and Paris are more stubborn than others. 80 Conclusion I have proposed a method to apply questionnaire to text messages transmitted over SNS originated in specified area. Which can be used to evaluate city characteristics instead of taking survey by the questionnaire. I would like to emphasize that the method is independent to languages. That is, the proposed method can be applied to text messages in different languages simultaneously to evaluate any areas in the world. The proposed method has been applied to evaluate city personality for 8 cities of U.S.A., U.K., and two continent cities. English and French versions of questionnaires from well-known Big Five personality test have been used for the purpose. Experiments clarify the differences between the cities while deeper investigation is till required to figure the cultural differences out. References [1] T. Sakaki, M. Okazaki, and Y. Matsuo, “Earth- quake shakes twitter users: real-time event de- tection by social sensors,” in Proceedings of the 19th international conference on World wide web. ACM, 2010, pp. 851– 860. [2] M. Cataldi, L. Di Caro, and C. Schifanella, “Emerging topic detection on twitter based on temporal and social terms evaluation,” in Pro- ceedings of the Tenth International Workshop on Multimedia Data Mining, ser. MDMKDD ’10. ACM, 2010, pp. 4:1–4:10. [3] R. Lee, and K. Sumiya, “Measuring geographical regularities of crowd behaviors for Twitter-based geo-social event detection,” in Proceedings of the 2nd ACM SIGSPATIAL International Workshop on Location Based Social Networks, 2010, pp. 1–10 [4] K. Watanabe, M. Ochi, M. Okabe, and R. Onai, “Jasmine: a real-time local-event detection system based on geolocation information propagated to microblogs,” in Proceedings of the 20th ACM international conference on Information and knowledge management, 2011, pp. 2541-2544. [5] Y. Arakawa, S. Tagashira, and A. Fukuda, “Re- lational analysis between user context and input word on twitter (in japanese),” IPSJ SIG tech- nical reports, vol. 2010, no. 50, pp. 1–7, 2010. [6] H. Schmidt, “Probabilistic part-of-speech tag- ging using decision trees,” in Proceedings of In- ternational Conference on New Methods in Lan- guage Processing, vol. 12, no. 4, 1994, pp. 44–49. 81 82 「イデオロギー大戦」の最前線を行く -ブリュッセル・キエフ・モスクワ- 青島 陽子 ブリュッセル自由大学で開催される第 4 回日欧ワークショップに参加するために欧州入りした後、自らの専門であ る歴史資料の調査のためにキエフ・モスクワに立ち寄ることを計画したのは、2013 年の秋であった。その頃キエフ では、2013 年 11 月 29 日に EU との「連合協定」の署名を見送ったことに端を発したデモが発生し、情勢は次第に 不穏となっていた。とはいえ、2014 年 2 月 7 日から 23 日の日程で行われるソチ・オリンピックが閉幕する頃には状 況は落ち着くであろうと考えていた。ところが、オリンピック開催中の 2 月 18 日に事態は急転した。独立広場の反 体制派と警察の間で武力衝突が起き、ウクライナには新政権が誕生した。筆者がブリュッセル・キエフ・モスクワと いう三都市を巡ったのはその直後である。意図せずして紛争の舞台と、その綱引きの両端を短期間で移動することに なったのである。三都市の異なる様相を記憶に留めようと筆をとったが、当エッセイは、専門的な観点から状況を分 析したものではなく、偶然に居合わせた第三者の視点から現場の印象を書きとめるものにすぎない。 I. EU のアイデンティティとその境界―ブリュッセル 現在、ヨーロッパの中核的な政治組織は EU である。EU はその内部に多様な問題を孕みつつも、「ヨーロッパ」 としての凝集力を保ち続けており、 「首都」のブリュッセルはその中心の一つである。2014 年 3 月 4 日、神戸大学大 学院国際文化学研究科が主催するワークショップがこの「首都」のブリュッセル自由大学で開催されたが、その主題 は「ヨーロッパ・アイデンティティ」であった。まさに、 「ヨーロッパ」がもつ求心力の大きな要因である文化の問 題を解明しようとする試みである。 EU はそもそも機能的な組織であり、かつ、設立以来常に拡大を続けてきた。近年では 2004 年、2007 年、2013 年 と旧共産圏を包含し、大きく東方へ拡大した。坂井一成氏が報告の中で論じたように、EU がそのダイナミズムとそ れに伴って生じる多様性を維持しつつも内外の安定性を担保するために、文化政策・アイデンティティの形成が重要 となる。 (ワークショップの内容については先の報告を参照されたい。) ヨーロッパのアイデンティティがあって EU の境界が引かれるのか、EU の境界をもとにアイデンティティが形成 されるのか、そこは難しい問題だが、いずれにせよ、EU 加盟国になれば共通の物語構築のプロセスに組み込まれて いくことは間違いない。ワークショップに先立って、 2012 年にオープンした EU 議会付設展示場(パーラメンタリウム) に立ち寄ってみたが、その展示はこのことを明確に示している。パンフレットは加盟国の言語のものがすべて用意さ れ、展示も多言語で展開される。EU の歴史は、1919 年のフィンランドから始まり、各時代における EU 加盟国の 苦境が共感を持って語られ、それをヨーロッパの協働によって乗り越えていくという形で提示される。各所では EU 市民として EU の政治への参加が謳われる。文化的多様性を担保しつつ、参加と協働のプロセス自体が重視されてい るという印象だ。坂井氏が報告の中で指摘したとおり、民主主義的な決定とその価値を共有するプロジェクトとして の EU が見えてくる。パーラメンタリウムの入り口には美しい民族衣装を着たブルガリアの舞踊団が訪問していた。 その伝統文化は今後 EU の文化的総体のなかに組み込まれていくことになるのだろう。 とはいえ、そうした EU の境界はどこで引かれるのかは明確ではない。現在、懸案のウクライナはその境界線上に 位置している。2012 年の著書の中でエレナ・コロステレヴァは、EU 加盟への保証がない状態で、EU 規範の一方的 な受け入れを主張する東方パートナーシップの枠組みの問題点を指摘する。ウクライナについては、「ソ連の長年の 支配と(当地域における)ロシアの根深い存在感」のために EU と異なる部分が多く、 EU とウクライナの協働にとっ 83 て障害となり続けるであろう、という。こうしたことからコロステレヴァは、ウクライナは、EU 加盟のために大き な変容を迫られるものの、実際には加盟という短期的な成果は見込めないため、長期的なヨーロッパ化をめざすため に、 短期的な利益を求めてロシアとの連携を進めるという選択肢をとることになるだろう、と予測した 1。前大統領ヴィ クトル・ヤヌコーヴィッチが「連合協定」署名を見送った時点まで、事態は予想されたとおりに推移したと言える。 付け加えるならば、ウクライナの EU 加盟への見通しの暗さには、その政治体制や文化的相違だけではなく、ユーロ 危機や移民問題などから、東方へのさらなる拡大への合意が困難であるという EU 内的事情も影響を与えているであ ろう。ブリュッセルで会ったロシア問題の専門家は、この EU 内の合意の問題を非常に難しい問題だと眉を顰めた。 コロステレヴァの調査からは、ヨーロッパのエリートにとっては、旧ソ連圏やロシアには、EU の「共通の価値」 である「民主主義・法の支配・人権尊重」は不十分であるか存在せず、旧ソ連圏やロシアは EU とは異質な価値観を もつ圏だと捉えられていることが分かる。一方で、EU とウクライナの「連合協定」のなかでは、ウクライナは EU と「共通の価値」をもつヨーロッパの国家であり、 「EU はウクライナによるヨーロッパの選択を歓迎」すると述べ られている 2。こうした言説は、ウクライナに対して長期的な EU への近接化を促すものだが、それは当地域の「脱ロ シア化」と同義とみなせるものでもあった。さらに「共通の価値」が公共善を謳うものである以上、この問題は良し 悪しや善悪という価値判断を帯びるものとならざるを得ない。そんなことを考えながらパーラメンタリウムの展示を 見終えたが、出口に置かれた各国語の新聞の一面にはどれもクリミアにロシア軍を派遣したプーチン大統領が掲載さ れており、あたかも EU 共通の敵といった姿に見えた。 II. 境界領域の多文化―キエフ ウクライナはキエフを中心とした独自の文化遺産をもつ大国である。しかし地政学的な理由から、ロシア、ポーラ ンド、オーストリア、ドイツなど多様な国家の支配を受け、正式に独立国家となったのはソ連崩壊時である。現在で も、境界領域らしく、多様な文化がモザイク状に構成される。 筆者がキエフに到着したのは 3 月 6 日である。キエフの街中は驚くほど平穏であり、美しく着飾った女性たちが楽 しそうに歩いていく。独立広場(マイダン)付近の駅も含め、交通機関も平常に運行している。洒落たカフェが立ち 並び、 繁華街ではレストランやバーが通常通り営業し賑わっている。物価はヨーロッパより若干安いと感じる程度で、 飲食店などでは物価の格差は感じない。路上を行く人の様子も穏やかで、豊かとは言わないまでも比較的穏当な生活 が成立しているように見えた。ただ、地下鉄料金はモスクワの 6 分の 1 であり、公共的な料金は全般に安く設定され ているようだ。IMF の融資条件には公共料金の引き上げなどの社会経済的改革が条件とされていたが、そのプログ ラムを受け入れれば、一時的にせよ生活はむしろ混乱するかもしれない。それはロシアが 20 年近くかけて通ってき た道でもある。 キエフの人々はとても穏やかで人懐っこい。街中では、外国人であるということを意識する様子もなく、気さくに 対応してくれる。3 月 8 日は国際女性の日であったが、街を歩くと男性から何度か「おめでとう!」と言われた。全 体に紛争の緊張感は感じられないのだが、マイダンに近づくと雰囲気が若干変わっていく。道にはタイヤがそこここ に積まれ、あちこちに花やキャンドルが置かれている。マイダンに到着すると、ビルが黒く焼け焦げ、広告の燃え滓 がまだ垂れ下がるままになっている。広場全体がバラックで覆われており、昼食時だったため何カ所かで炊き出しが 行われ食事が振る舞われていた。広場では自警服を着た人々を始め、まだ相当数の人が生活しているようであった。 尋ねてみると 3 か月前頃から各地から出てきて広場に留まっている人が多いようだ。バラックには各地域の名が付さ れているが、現在でもそれが出身地ごとの詰め所となっているかどうかは不明だ。というのも、ドネツク・バラック にいた人に話しかけたところ、明らかにロシア語が話せない様子だったので、本当に東部から来た人かどうかは分か らないと思ったためである。 マイダンの周りを歩く人々は、おそらく一般のキエフ市民と訪問者であろう。マイダンの居住者たちとは風貌が異 なる。彼らは各々、犠牲者の写真に花を手向けている。設置されたステージでは、ウクライナ正教と思われる司祭が 1 Elena Korosteleva, The European Union and Its Eastern Neighbours-Towards a more ambitious partnership?, Routledge, 2012, 1-19, 82-103. 2 EU-Ukraine Association Agreement – the complete(http://eeas.europa.eu/ukraine/assoagreement/assoagreement-2013_en.htm、2014 年 3 月 23 日閲覧) 84 読経と詠唱を行っており、 「ウクライナに栄光あれ!」の声が繰り返し響く。マイダンの周りでは風刺漫画展が開か れていたり、その前で声高に政治論議をしている婦人たちがいたりと、喧噪感がある。さらに、何カ所かでロシア側 が「ファシスト」と呼ぶ政治団体「右派セクター」が勧誘所を設け、若者をリクルートしている様子が見られた。彼 らは赤と黒のユニフォームを着て、あちこちにステッカーを貼ったり、瓦版を配布するなど政治活動をしているよう であったが、市民はもちろんのこと、マイダンの人々とも雰囲気が異なる。 マイダンからドニエプル河方面に行くと「ウクライナ・ジム」という公民館があり、そこがユーロマイダンの詰め 所となっているようだった。美術展示や情報提供のブースが設けられ、メディア対応なども行われていた。自警服の 男性に声をかけてみると、一人は地元キエフの人で一人はオデッサから来たという。ここは何?と聞いてみると、 「な んだろうな……?自警団のヘッドクオーターだよ!」と言う。確かに二階の部屋の窓には手書きで「自警団」と書か れていた。日本から来たというと、 「南クリル(北方領土)問題を抱えてるだろ、二正面作戦で行こうぜ」と明るい 調子で冗談を言われた。 キエフの市民は今回のマイダンの「革命」をどう捉えているのだろうか。立場は多様だろうが、彼らはある種の気 分を共有しているように思える。一つは、前大統領ヤヌコーヴィッチは絶対に許せない、というものだ。彼の豪邸は 公開されているが、キエフの人によれば、豪奢な私邸は一か所だけではなく町々に建てられているのだ、という。ヤ ヌコーヴィッチのイメージは、二度の犯罪歴をもち、公金を私物化する不正政治家でしかない。もう一つは、プーチ ン政権に対する拒否感である。 ヤヌコーヴィッチを裏で操りウクライナを常に恫喝する、クリミアも含め欲しいと思っ たものは何でも手に入れようとする、というイメージだ。 では市民革命としてマイダンに熱狂しているかというと断言が難しい。マイダンでの死者に対して、同胞の犠牲に 対する真摯な共感の気持ちを抱いているのは間違いない。しかし、革命の高揚感は感じられず、皆比較的平静である。 ある若い女性は「とにかくさっさと解決してほしい、普通に戻りたい」と言い、ある若い男性は「もう国を出ていく。 人が人を殺すような国にいる理由ないからね。もちろん、自分は愛国者なんだけど」と言う。別の人は、車椅子にのっ たユリヤ・ティモシェンコの演説に「もう彼女歩けるのよ」と苦笑していた。ある博物館勤務の女性に、表示がウク ライナ語だけなので残念ながら読めません、 というと、 「上から指示があるのよね」と言い、 「今はイデオロギー大戦(б ольшая идеологическая война)が起こってるのよ。ウクライナとロシアは二つの独立国 家ってだけのことなのに、政治が話を複雑にしているのよ」とシニカルに語った。EU やアメリカに対しても、「い つも助けてくれる」という言い方はするが、ただちに EU に入りたいという声は聞かれなかった。テレビでは、多様 な民族的・言語的・地域的背景や経歴をもつ人々が「にもかかわらず、ウクライナは祖国、ウクライナは一つ」と語る、 比較的穏やかな未来志向の公共広告が流れていた。キエフの人々は、冷静に事態の推移を見守っているように見えた。 プーチン政権に対するアレルギーは明らかだったが、彼らはロシア人に対しては特段の嫌悪感を抱いていない。そ れどころか、日常生活の中にロシア人やロシア的なものは溢れている。2001 年のセンサスでは、キエフの人々は 8 割以上がウクライナ人と申告しているが、街で使用されている言語の多くはロシア語だ。(表示はウクライナ語がほ とんどである。)ロシア語に対しての忌避も感じられず、マイダンの人々も気軽にロシア語で答える。また、多くの 人はウクライナ語もできると答える。先に挙げた若い男性は、家庭環境はロシア語で、ロシア語を 100%とするとウ クライナ語は 95%ぐらいできる、と言っていた。ちなみに、宿泊先の老夫婦は、婦人がハルキウ(東部ウクライナ) 出身のバイリンガルな「ウクライナ人」で、ご主人はベルゴロド(西部ロシア)出身でロシア語しかできない「ロシ ア人」であった。 (とはいえ、彼のロシア語は強いウクライナ語訛りが感じられた。)タクシーの運転手はキエフ近郊 の出身で、ロシア語はあまり話せないと言うが、問題なく会話が成立するほどはロシア語ができた。彼は「プーチン 政府は嫌だけど、ロシア人とは何の問題もなく仲良くやってるよ」と言った。マイダンで掲げられるスローガンにも 「ロシアとは血を分けた兄弟だが、兄弟だからって奴隷じゃないぜ!」というものもあった。 しかし、新政権成立後、ウクライナ議会がただちにロシア語を公用語から外そうとしたように、言語が何らかの民 族アイデンティティやナショナリズムを象徴する方向性は加速しつつある。住民投票直前に行われた BBC のインタ ビューに対して、あるクリミアの男性は、ロシアへの編入に賛同すると述べた後、 「これは経済の問題じゃない。ロ シア語話者としての権利の保護とセキュリティの問題だ」と答えていた(3 月 15 日の BBC ラジオ放送) 。ウクライ ナには境界領域ではよく見られるような多言語環境があり、使用言語それ自体が深くアイデンティティと関わってい たわけではなかっただろう。しかし、政治的潮流の変化のなかで、人々は、単一の言語、民族・国民的アイデンティ 85 ティ、政治的忠誠心を選ばされていく可能性もある。境界領域でこの傾向が進めば、その文化的豊かさを損ねること になろうし、さらなる衝突を準備することにもなりうる。 III. 正当性を巡るレトリック―モスクワ 3 月 9 日にモスクワに到着した。モスクワを訪問したのは 2004 年以来 10 年ぶりである。大都会モスクワの賑わい には想像がついていたが、非常に驚いたのはメディアの攻撃的なトーンである。どの局も論調は統一されており、扱 われるニュースや言葉遣いまで歩調を揃えているかのようであった。筆者の滞在中はクリミアの住民投票の直前であ り、それに向けて、クリミア、東ウクライナ、ロシア国内で、クリミアのロシア系住民に対する「支援」のデモが行 われている様子が繰り返し流された。 「私の祖国はいつもロシア、やっと祖国に帰るのよ!」というクリミアでのデ モ参加者の言葉や「ロシア!ロシア!」の大合唱が放映される。キエフについては、ファシストに乗っ取られている かのような暴力的で陰惨な映像ばかりが映し出される。まさに、プロパガンダである。筆者は毎年ロシアに調査に赴 くが、こうした戦闘的モードはプーチン政権の常態というわけではなく、明らかに極端で常軌を逸した状況である。 3 月 5 日にブリュッセルで会ったロシア出身の研究者は、現在、ロシアの世論は極端に流れている、一般の人が煽ら れているのは「プロパガンダの犠牲者」だから仕方がない側面もあるが、問題はある程度ものの分かっている人さえ もロシア政府に一定の理解を示していることだ、と述べていた。ロシアを捉えている気分は何であろうか。 滞在時に見た政府プロパガンダの骨子は次の二点である。①ウクライナの新政権は違法な暴力革命により政権奪取 したものであり、正当性が認められない。②クリミア半島のロシアへの「回帰」は住民投票で民意を問うているため 合法であり、正当性がある。このとき、何度も引き合いに出されていたのはコソヴォとスコットランドである。クリ ミアの併合は、実益もさることながら、①に対してのリアクションとして、 (少なくとも中短期的な)利益計算を度 外視して行われている側面もあるように見える。おそらくプーチン政権も、クリミアを奪い取ればウクライナ全体を ロシアから永遠に遠ざけることになることや、国際社会の苛烈な批判を受けることは理解していただろう。実際、併 合前後から、欧米メディアはヒトラーのズデーテン併合を引合いにだしてナチス・ドイツの再来と批判し、ウクライ ナのみならず周辺国はどこまでこのやり方を広げるのだろうと強い恐怖を感じているようである。それは当然であろ う。いかにも性急で極端な政策である。 クリミア併合については、ロシア世論も不安を感じていることは、3 月 15 日(クリミアでの住民投票の前日)に 行われた「平和の行進」に数万人が集まったことからも分かる。一方で、ロシア世論は欧米に対するある種の被害者 意識を共有しているようにも見える。民主主義や法の支配を謳う欧米が、なぜ「違法」な実力行使による「革命」を 支援し、支持したのか。旧政権と反体制派は 2 月 21 日にいったん「停戦」に合意したにもかかわらず、反体制側が 実力行使をやめず、大統領府を占拠して政権を奪取した。ロシア側がこの点を強く批判する一方で、欧米はこぞって 新政権の成立を勇気ある行為と称賛した。このことは、ロシアの市民感情に欧米に対する不信感を与えている。モス クワで会ったあるエコノミストAさんは、ロシア社会はチェチェン戦争以来、周辺国での混乱とそれに伴う国内での テロなどの暴力事件の頻発に強いトラウマを感じており、今回も、実力行使による政権転覆や、右派団体を含む新政 権の樹立には強い「アレルギー」反応を示している、と説明した 3。 現在、連邦議会上院議長を務めるヴァレンチナ・マトヴィエンコは、3 月 11 日にロシアテレビ・ヴェスチの単独 インタビューのなかで、クリミアでのロシアの政策が「合法的」で「正当」であることを繰り返し主張し、アメリカ にはそれを批判する権利はないと述べた。 (ちなみに彼女自身はウクライナの出身者である。)もちろん、混乱の最中 に武力を背景として行われた住民投票である以上、説得力は感じられないのだが、欧米の「ダブルスタンダード」 (メ ディアで頻繁に使われていた言葉)を揺さぶるための逆襲というつもりかもしれない。ソ連崩壊以降、勢力圏は解体 され、ロシア自体も長く貧困と混乱に苦しんだ。全体主義的体制からの解放感よりも、西側社会の最下層に位置付け られ、資本主義と民主主義への永遠の移行期のなかに置かれた苦難の記憶の方が大きかっただろう。その意味で、そ こからの復活をアピールするオリンピック開催中にこの事態が生じたことは政権の威信も市民感情も傷つけたであろ うし、それがもっとも近しい「兄弟国」であったことも大きなショックだったであろう。ロシア周辺国の混乱を歓迎 3 彼自身は、チェチェン戦争について、「色々と問題があったのだけど、最終的にはあの地域の安定化にはつながったんだ」と述べた。 86 する欧米に対し、ロシアを弱体化させようとしているという被害妄想に囚われているところもある。マトヴィエンコ は、先のインタビューの中で、 「ロシアが弱体化している時にユーゴスラヴィアはバラバラにされたけれど、今は違 います」と述べている。事実、ユーゴスラヴィアや中東でも民主化や政変に続いてテロや内戦などの混乱が生じ、欧 米が軍事介入するという事例は記憶に新しい。ロシアの「兄弟国」で同様のことが起きるのではないかという恐怖感 を、政権も世論も共有しているところもあるだろう。ロシアは、領土的な野心というより、防御的な動機で行動して いる側面も強い。 こうした被害者意識と不信感がロシア政府と社会の硬化を生んでいる。先にあげたAさんは、政府の政策やプロパ ガンダのトーンには非常に批判的であった。彼は、クリミア併合の「結果」を考えるべきであり、プーチン政権は 地政学的なゲームに興じるばかりではなく、経済的発展を優先した方がいいと思う、と主張する。そして、「でも、6 割かそれ以上の人は政府の言い分を信じているし、僕は少数派だよ」と呟く 4。そのような彼でも、欧米の言う「民主 主義」はイデオロギーにすぎないと言う。実際、暴動も特に起きず、選挙に行って指導者を選び、時に反政府デモも 行い、レストランで反政府的な話を大声でするとき、なぜ自分たちの国がそこまで非民主的で法の支配がないと批判 されるのかは分かりにくいだろう。その意味でも、現在のロシアに対する批判的言説はイデオロギーと化してしまい、 ロシアにいる対話可能な市民の意識を遠ざける結果に陥っているように思える。 クリミアの併合が今後どのような事態を招くのか予断を許さないが、いずれにせよ、現在の国際秩序の根底を揺る がす出来事であることは間違いない。 ロシアの領土の拡大に対して、ソ連の復活、帝国主義の復興、ナチスの再来といっ た形で過去の経験が引用されているが、どれも批判と制裁のための参照軸であり、必ずしも現在のロシアの行動原理 を内在的に説明するものでもなく、冷戦後の世界秩序の変化を言い当てたものでもない。どのサイドも合法性、民主 主義、正当性、住民の自決、文化的諸権利の保護、多様性の尊重を訴え、相手にそれが欠けていると主張する。一般 の人々もそれに煽られ、 冷静さを失っている。この中で SNS は「非常に奇妙な役割」 (Aさんの言葉)を果たし、 人々 を結びつけるのではなく、人間関係を破壊している。まったく同じような用語を用いながら互いを糾弾し、どちらか を徹底的に批判し尽くさなければ、相手のプロパガンダに汚染されていることになり、それ自体が罵りの対象となる。 中立的でニュートラルな見解は入る余地がなくなっている。 強国による武力を背景とした領土の併合に対しては、何らかの形で国際社会が対応しなくてはならないだろう。民 主主義や法の支配などの価値基準は重要性を失ってはいないし、失ってはならない。しかし、現在の状況の中でそれ らの言説は「イデオロギー大戦」の武器として使用され、互いがその排他的に正当な保持者であることを主張し合う ことで、奇妙な形で実質的意味を弱めてしまっている。これは健全な状況とは言えない。暴走しつつあるロシアを国 際社会に留めるためにも、ロシアをある程度の合理性をもった地域的なパワーであると認識しつつ、ロシアを内在化 したかたちでの国際秩序のあり方が論じられなければならないのではないかと感じる。新しい世界秩序の語りや政治 的言説が求められているのであり、それはロシア、ウクライナ、欧米の市民社会が互いに論じあえる、批評のフォー ラムになりうるものであることが望ましいだろう。 4 3 月 20 日の世論調査でプーチン大統領への支持率は 75.7%にのぼり、過去 5 年で最高水準を示した。ちなみにクリミア併合に対して は 91%が賛同している。(http://itar-tass.com/politika/1061088、3 月 23 日閲覧) 87 88 神戸大学 国際文化学研究科 異文化研究交流センター( IReC )共催 サン - ジョス区文化委員会(collège échevinal de Saint-Josse-ten-Noode)後援 神戸大学国際文化学部・研究科〈EU 文化研修プログラム〉 第 52 回 ベルギー研究会 ブリュッセル国際大会 プログラム 日 時:2014 年 3 月 5 日 ( 水 ) 13 時~ 19 時 30 分 第一部(13 時~ 16 時 30 分) (企画・運営責任者:中條健志) 会場:神戸大学ブリュッセルオフィス 研究発表 • 石田まりこ(ブラッセルインター校) 「 「我々と奴ら」の変容」 • 石部尚登(日本大学理工学部助教) 「公的権力の存在を前提としない「事実上の正書法」の固定化」 • 大迫知佳子(日本学術振興会海外特別研究員・ブリュッセル自由大学) 「独立後のベルギー王国におけるナショナル・アイデンティティー形成への音楽の関与――ブリュッセル王立音 楽院の音楽理論教育に焦点をあてて――」 • 杉山美耶子(ヘント大学博士課程) 「聖なる画中画――ペトルス・クリストゥス作《若い男性の肖像》に描かれた「聖顔」と贖宥――」 第二部(18 時- 19 時 30 分) (企画・運営責任者:正木裕子) 会場:シャルリエ美術館 講演 • 利根川由奈(京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程) 「 「ベルギー美術史」の諸相―初期フランドル派からシュルレアリスムまで―」(英語) • 正木裕子(ベルギー王立ブリュッセル音楽院声楽科講師) 「ブリュッセル芸術サロン〈自由美学〉とマーテルランクとその周縁」(フランス語) 演奏会 :ブリュッセル王立音楽院声楽科 正木研究室 -Henri Duparc(1848-1933) / Charle Baudelaire(1821-1867), « Lʼinvitation au voyage » (C.1870) -Henry Février (1875-1957) / Maurice Maeterlinck(1862-1949), Extrait dʼopéra « Monna Vanna » (1909) -Claude Debussy (1862-1918) / Maurice Maeterlinck, Extrait dʼopéra « Pelléas et Mélisande » (1902) -Claude Debussy / Pierre Louÿs (1812-1889), Chanson de Bilitis (1897) -François August Gevaert ( 1828 - 1908 ) / Victorien Sardou ( 1831 - 1908 ) , Extrait d ʼ opéra « Le Capitaine Henriot »(1864) 89 研究発表要旨 「我々と奴ら」の変容(石田まりこ) 本発表では、ベルギーの労働組合に焦点を当て、1997 年と 2001 年、2010 年という時系列で、日系企業におけ る組合との労使関係の事例研究を報告する。 日本的雇用システムの一つとされる企業別労働組合による労使関係を有する日本企業が、ベルギーの子会社で戸 惑うことの一つが、労使の対決的な要素を含む労働組合との関係である。日本本社の中には、ベルギーの労働組合 は、既得権にしがみつく利己的な集団と捉える場合もある。 欧州の労働組合の組織率は、低下傾向にあると指摘されている。しかし、ベルギーの労働組合は、ドイツやオラ ンダの労働組合がストライキの回避を特徴とし、組織率が 19%台であるのとは異なり、組織率は 50%台を維持し ている。しかし、企業を超えて横断的に組織された労働組合が、2014 年にホワイトカラーとブルーカラーが同一 の労働組合となり、現在、変容している。 労働組合の変容と、日系企業の中での労働組合が、どのような新たな労使関係を築くに至るのかを今後の研究課 題としたい。 公的権力の存在を前提としない「事実上の正書法」の固定化(石部尚登) 正書法の確定は言語計画の重要な一段階であり、通常それは公的権力またはそれに準ずる言語アカデミーを通 して行われる。しかし、多くの少数言語では、そうした公的権力の介入とは無縁であった。本発表では、ベルギー のワロン語を事例に、正書法不在の時期とされる 18 世紀においても、繰り返される辞書の刊行により「事実上の」 正書法の収斂がみられたことを示し、公権力の介入も言語運動の存在も前提としない規範化の一端を明らかにする。 独立後のベルギー王国におけるナショナル・アイデンティティー形成への音楽の関与 ――ブリュッセル王立音楽院の音楽理論教育に焦点をあてて――(大迫知佳子) ブリュッセル王立音楽院は、革命を受けて一次的に閉鎖された王立音楽学校を引き継ぐ形で、1832 年に開校した。 この開校には、国王レオポルド一世、ベルギー政府、そして音楽院初代院長フランソワ=ジョゼフ・フェティスが ともに目指す音楽文化の在り方が関わっていた。すなわちそれは、かつて芸術分野においてこの地域が占めていた 。従って、新しい国家を打ち立てて 高い地位を新国家の下で回復させるというものであった(Vanhulst 2008: 127) いく際に重要視された事柄のひとつとして、音楽院を拠点としたベルギー独自の音楽文化の再興があったと考える ことができる。 本発表は、ブリュッセル王立音楽院でフェティスが行った音楽理論教育に着目し、独立後のベルギーにおける ナショナル・アイデンティティーの形成に音楽がどのように関与したのかを探る試みである。このため発表では、 1832 年の音楽院開校から 30 年間の 1) 規約、2) 運営に関する行政記録、3) コンクールの受賞者名簿、4) コンクー ル受賞者によるコンサートのプログラム、5) 附属図書館蔵書カタログ、という5種の資料中の音楽理論関連事項に 見られる、ベルギーと諸外国の関係を通して考察を行う。 聖なる画中画――ペトルス・クリストゥス作《若い男性の肖像》に描かれた「聖顔」と贖宥――(杉山美耶子) 本発表では、ペトルス・クリストゥスによる《若い男性の肖像》(1460 年頃、ロンドン・ナショナル・ギャラリー 所蔵)に画中画として描かれた「聖顔」に着目し、その機能を贖宥という観点から検討する。贖宥とは、現世で犯 した罪の重さに応じて、死後に煉獄で受けなければならない懲罰の時間軸における軽減を意味する。贖宥と芸術作 品の関係は、近年になり徐々に注目されるようになったテーマであるが、初期フランドル絵画の領域においては等 閑視され続け、未だ体系的な検討は成されてはいない。ペトルス・クリストゥス作品に関しても、この画中画と贖 宥との関係は一部言及されては来たものの、 詳細な検討は試みられては来なかった。そこで本発表では、はじめに 「聖 顔」の基本情報及び図像的特徴を確認した上で、この図像に関連付けられた贖宥祈祷文について検討する。その後、 本作品に描かれた「聖顔」が、画中の祈祷者の私的礼拝時における贖宥図像として機能したと同時に、作品全体の 意味内容にも関連している可能性を提示する。 V.研究員プロジェクト報告 「共創」社会研究会 研究プロジェクト コミュニティの『共創』戦略と市民的公共性 田恩伊・清川祥恵・松井真之介・山田勅之 寺尾智史・山口隆子 I. プロジェクト概要 1 研究目的と概要 本研究プロジェクト 「コミュニティの 『共創』 戦略と市民的公共性」は、グローバル化による急激な社会変容と、コミュ ニティをめぐって近年共通して見られるようになった「共存共生」および「『共創』社会志向」という新しい動きに 注目し、ヨーロッパ及びアジアにおけるコミュニティの変容を「グローカル」な視野でとらえ、その歴史的なプロセ スと現状を詳細に分析検討することを目指すものである。それによって、これから求められるであろう、コミュニティ ベースの市民的公共性の可能性を展望し、それを提示することを目的とする。なお、研究期間は 2013 年 8 月~ 2015 年 3 月とし、研究メンバーは現在(2014 年 3 月)以下の 4 名である。 田 恩 伊(研究代表者) :神戸大学大学院国際文化学研究科メディア文化研究センター学術推進研究員 清 川 祥 恵(研究分担者) :神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター学術推進研究員 松井真之介(研究分担者) :神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員 山 田 勅 之(研究分担者) :神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員 以下、本稿では、本研究プロジェクトの概略と各メンバーの研究内容、2013 年度の活動について報告する。 2 研究の学術的背景 「コミュニティ」という言葉が使われて久しいが、それが意味する内容はますます多種多様化している。民族集団 や宗教集団、あるいは地域集団という「自明的」、「自然発生的」だと思われがちな従来型のコミュニティはもちろん のこと、近年ではインテンショナル・コミュニティなど、共通目的を掲げて意識的に建設していく目的型の新たなコ ミュニティが注目されている。それらは地域分権、種々の規制緩和等、国家の後押しや援助があるからこそ発展した 部分もあれば、逆に国家の管理や圧力が強まったからこそ目立ちはじめた部分もある。 いずれにせよ、新旧問わず、 「コミュニティ」というものは、取り巻く環境(社会体制)がどのように変化しよう とも存在し続け、 かつますますその存在感を強めつつあるといえる。その背景には、コミュニティ自身の変容とともに、 コミュニティが外部の社会状況に応じて関わり方を変化させているという状況がある。これは、コミュニティがかつ てのようにコミュニティごとに閉鎖的かつ自律的に併存している状態から、コミュニティ間の共同活動を模索・展開 したり、地域活動や社会活動に積極的にコミットしたりする状態に変化しつつある新しい動きだといえる。そして本 プロジェクトではこの変化を、社会におけるコミュニティのプレゼンスや生存能力を高める戦略として注目すべき現 象であると考えており、さらにコミュニティ内部の目的や利益だけを追求するのではなく、コミュニティを取り巻く 環境と積極的な共存共栄を目指し、そこから新しい社会や秩序を『共創』しようとする動きに注目し、これを詳細に 分析検討しようと試みるものである。 この新しい動きこそ、これからの社会に求められるであろうコミュニティベースの市民的公共性となるのではない かと我々は考えている。 93 3 研究分担・研究内容 本プロジェクトでは、多種多様の形態を持つコミュニティを 1. 「意図的につくられる新しいコミュニティ」(日韓の事例を中心に) 2. 「コミュニティ間の協同・協働を模索する従来型のコミュニティ」(フランスの事例を中心に) 3. 「コミュニティ内の変容を模索する従来型のコミュニティ」(中国とイギリスの事例を中心に) の 3 点に分類し、それぞれの事例研究をもとに分析検討を行う。同時に近代的な「コミュニティ」概念の発展過程に ついて、一例として 19 世紀イングランドの事例を参照することで、歴史的な視点からも考察し、前述 3 つの事例研 究を補強する予定である。各人の研究内容は以下の通りである。 1.「意図的につくられる新しいコミュニティ」 (日韓の事例を中心に) 田恩伊「市民的公共性の新たな展開――日韓の『つくられる共同体』の現場から」 近年親密圏と公共圏の交差する新しい領域としてコミュニティが注目されており、日韓両国において、例えば日 本では「コミュニティ・デザイン」 、韓国では「マウル共同体づくり」といった形でコミュニティをめぐる新しい社 会的実践が行われている。しかも韓国においては、2007 年制定の「社会的企業育成法」から 2012 年制定の「マウ ル共同体づくり支援条例」と「協同組合基本法」、2013 年施行の「多文化家族支援法」に至るまで、多文化共生を含 む市民主導の様々なコミュニティづくりと結びつく政策的介入が本格化し始めた。本研究会では、最近韓国のソウ ル市が新しい政策として打ち出した「マウル共同体づくり(=ムラづくり) 」に、 「つくられる共同体(Intentional Communities)」の実践モデルなどが反映されていることに注目し、本来「親密圏」の領域から成り立っていくコミュ ニティが公共政策の中で、どのような道を辿っていくのか検証する。 また、日本では、東日本大震災を契機に生活共同体に対する官民の関心が高まっていることに注目し、日韓におけ るコミュニティに対する公共政策・公共性の接近から今後のコミュニティのあり方を展望する。そのために、コミュ ニティづくりや「共同体・共同態」思想の実践や政策に詳しい日韓両国の専門家を招き、共同研究を行い、このよう な社会現象を実証的に解明することを目指す。 2.「コミュニティ間の協同・協働を模索する従来型のコミュニティ」(フランスの事例を中心に) 松井真之介「コミュニティの公共性――マイノリティはいかに国家管理と共存共栄しうるか」 フランスのマイノリティ・コミュニティにおける事例を取り上げ、特に彼らが自主運営する学校の運営について事 例研究を行う予定である。 フランスは国家原理的にはマイノリティが存在しないことになっているものの、実際のところ地域言語や民族、宗 教に基づいたいわゆる従来型のマイノリティ・コミュニティが存在する。それらは各自独立した活動を展開していた コミュニティであったが、特に 2000 年以降、コミュニティ間の協同・協働を目的とした動きが活発化してきている。 ここから以下の 3 つの視点、 ① 長きにわたって存在し続けたこれらのコミュニティが今になって協同・協働を模索し、連帯を表明しはじ めたのはなぜか? ② その動きはコミュニティをとりまく社会――地域社会、フランス国家、そして EU――にどのような影響 をもたらしたのか? ③ そしてここから考えられる新しい市民的公共性とはどのようなものか? を中心に、参与観察によるデータをもとに、分析検討を行う予定である。 学校を例に取り上げるのは、教育というものが公共性の高い分野であるということと、学校運営に関しては地方行 政および国民教育省といった、国家機関との折衝が必須であり、コミュニティと外部の接点が顕著に浮き彫りになる 点を持つからである。 3.「コミュニティ内の変容を模索する従来型のコミュニティ」(中国とイギリスの事例を中心に) 山田勅之「中国少数民族の生存戦略――観光産業の動態を事例に」 現在、国家主導による経済開発や社会政策などが強力に押し進められる中国では、例えば少数民族のコミュニティ といった従来型のコミュニティは崩壊の危機を迎えており、存続のためにコミュニティ内の変容と再建・再構築を余 儀なくされている。 94 本研究では中国少数民族のうち、チベット・ウイグル・モンゴル 3 民族を取り上げる。これら 3 民族は独自の言語、 文化を有し、かつ過去に「国家」を有した記憶を持つなど、中国内の他の民族と比べて差異が大きい。それゆえ彼ら の持つ文化は観光資源として政府から注目され、経済発展の起爆剤として観光産業が重視されてきた。 現代中国の政治経済問題に関する一次資料の入手は常に困難性を抱えているが、観光は社会の安定と開放を前提とす るものであり、観光産業の動態分析を通じて、これら民族のコミュニティ変容と再建・再構築に向けてどのような模 索が行われているのか、といった問題の検討に切り込むことができると考えられる。そこから、さらにコミュニティ の生存戦略について考察することができると考えられる。 清川祥恵「19 世紀イングランドにおける『復興』運動と市民的公共性」 ヴィクトリア時代のイングランドでは、建築を中心に、ゴシック様式の復興運動が起こった。この「ゴシック・リ ヴァイヴァル」はイングランド特有の現象ではなく、 18 世紀以降ヨーロッパ各地でナショナリズムと連関して隆盛し、 国家的様式としてゴシック様式を採用することで、世俗権力の権威を確立しようとした動きであったと言える。しか し同時にこれは、イングランドの「国教会」であるイングランド教会(Church of England)の霊的刷新運動等とも 連動しており、ゴシック建築によって象徴される中世的価値を、実効的な近代批判として呈示し、復興しようとする 運動でもあった。 ゴシック様式は、中世、ひいてはカトリック教会の象徴でありながら、「国教会」たるイングランド教会の建築物、 さらに公的空間(議会、庁舎)や私邸にも積極的に導入された。当時の人々は、ナショナル・アイデンティティに限 らず、さまざまな所属コミュニティにおいてアイデンティティを模索していたことが窺える。ゴシック様式自体にコ ミュニティ再生の契機となる確固たる公共性を見いだし、その復興によって社会改革を推進しようとした同運動に注 目することで、旧来のコミュニティと新たなコミュニティの差異および変化を歴史的に遡って観察し、その変化が現 在のコミュニティ形成にどのような影響を与えたかを検証する。 4 期待される成果 本プロジェクトは、研究担当者自身のコミュニティ理解の深化だけではなく、地域を基盤とする研究者・活動家及 び市民社会の交流を活発化させることにより、コミュニティ研究の国際的ネットワーク形成をも目的として活動する ものである。同時に、神戸大学という研究拠点から「グローカル」な視野を提示できる、新しい学術的基盤づくりを 目指している。またこの研究プロジェクトは、継続的に科研などの外部資金研究プロジェクトへ発展させることを想 定している。 II. 活動報告 本研究会では、2013 年度に計 5 回の研究発表会、さらに 1 回の国際シンポジウムを以下の通り実施した。 第1回「共創」社会研究会 2013 年8月6日(水) 黒川伊織「ベトナム反戦から内なるアジアへ―ベ平連こうべの軌跡―」 ※発表内容は『メディア文化研究』第 2 号(神戸大学大学院国際文化学研究科メディア文化研究センター、2014 年 3 月刊行予定)に掲載。 第 2 回「共創」社会研究会 2013 年 10 月 30 日(水) 植朗子「グリム兄弟『ドイツ伝説集』における神話的樹木と〈人間が生る木〉伝承」 松井真之介「越境するフランスの地域語学校―アルザス語の ABCM 学校をめぐって」 ※発表内容は、 『メディア文化研究』第 2 号に掲載。 第 3 回「共創」社会研究会 2013 年 12 月 6 日(金) 沼田里衣「障害のある人と音楽家による即興音楽―3 領域を巡るイギリスツアーを終えて」 山田勅之「チベット、新疆、内モンゴル 3 自治区における観光産業発展の動態」 ※発表内容は、 『メディア文化研究』第 2 号に掲載。 95 第 4 回「共創」社会研究会 2014 年 1 月 23 日(木) 清川祥恵「19 世紀イングランドにおけるゴシック復興の社会的意義 ――ウィリアム・モリスの『人知れぬ教会の物語』を手がかりに」 19 世紀イングランドでは、旧来のコミュニティの崩壊に伴って発生した諸問題に対処しようとする運動が活 発化したが、それはかならずしも実際的な貧困問題への取り組みや衛生環境の改善のみによってではなく、問題 の原因となる社会構造の理論的改革の提唱も同時に行なわれた。本発表では、理想の社会の象徴としてゴシック 様式を再興する運動(Gothic Revival)と、その影響を多大に受けたウィリアム・モリスによる小説 The Story of the Unknown Church (1856) を題材に、当時の人びとが希求した「公共性」を検討した。モリスは、中世の教会 をモティーフとして扱いながらも、主題をキリスト教の教義そのものとはせず、人間の営為を記録する芸術とし て礼賛した。ゴシック建築をひろく「民衆の建築(芸術) 」とみなすことで、無名の人びとの手でつくられる社 会と文化を擁護しようとする動きが、19 世紀後期に展開されていったと言える。 田恩伊「 「つくられる共同体」の社会学的地平―親密圏と公共圏の交差」 最近「共同性・共同体」 、 「連帯」 、 「つながり」という言葉が目立つようになった。「ムラ」や「ファミリー」 、 「エ コ・ヴィレッジ」 、 「コレクティヴ」や「コーポレーティヴ」、「共同・シェア」、「もう一つの別の暮らし」、「定住・ 居住にこだわらぬ」 、 「人が集まる『家』 」 、 「コミュニティ・デザイン」 、 「トランジション・タウン」など、さま ざまな表現のもとで共同体的連帯の実践が行われている。 こうした「共同性・共同体・コミュニティ」をめぐる新しい動きが、韓国で活発に展開しはじめたのは 1990 年代前後からである。この時期からの韓国の市民社会は国家や政治に対する変革の眼差しを個人と生活世界へ向 けるようになったのである。 「共同体」という言葉が韓国社会に広く定着し、コミュニティ及び親密圏に関わる 制度、法的装置が著しく変化し始めたもこの時期からである。韓国社会のこうした動きを理解するには、 「圧縮 的な近代」を成し遂げてきた韓国社会の歴史的な変遷過程を知る必要がある。 第 5 回「共創」社会研究会 2014 年 2 月 13 日(木) 寺尾智史「1926 年、真陽小学校(神戸市長田区)刊『方言の調査と矯正方案』を読む」 1926 年(大正 15 年) 、 神戸市立真陽小学校(現・長田区)の教員によって刊行された『方言の調査と矯正方案』は、 「日本の玄関としての神戸言葉に一日も速く品位と権威とを備へしめる」(同書はしがき)ために、列島各地で発 行された同種の印刷物の中でも、 最も苛烈に地元ことばを排斥し、標準語を崇拝する内容を含んでいた。特に 「 『自 分はとても矯正が出来ぬ、だから児童の矯正に努力しても無駄だ』といふ様な考を持つてはいけない。よし自分 は方言が改らなくても、国語統一の大理想に向つて突進するの意気を以て児童に対し不断の努力を怠つてはなら ぬ」(同書 9 ページ)とまで思い詰める、教員自身の母語忌避感は、どのように醸成されたものだったのか、当 時の日本における社会情勢、すなわちマクロ的視点と、少なくとも当時は住吉川以西の神戸市域のほとんどで話 されていた播磨ことば(いわゆる「播州弁」 )が負わされたスティグマの影響、すなわちミクロな視点から読み 解いた。 山口隆子「 『ホームステイのメカニズムを観光人類学から読み解く』ための試論①」 観光人類学は 1970 年代末以降、地方色豊かな文化や人びとの暮らしが観光商品の対象となっていかに変容し たかを観光開発の功罪と共に問うてきた。とりわけ、ホストとゲストの相互関係や文化のみせかたに関する議 論は、ゴッフマンの『行為と演技』論[Erving Goffman (1959) The Presentation of Self in Everyday Life]でもっ て議論が試みられたものの、参与観察や聞き取り調査に基づいた議論が十分におこなわれてきたとは言い難い。 本発表では、一過性の観光ではなく、ある期間を共に過ごすホームステイにおいて、ホストとゲストのいずれ もが互いの本質主義的な視点や要望を汲み取って、それに応える形で文化をみせ合う様相を示しながらも、そ の事前イメージが崩される過程などを示す。その上で、ゴッフマンを援用して分析した 6 段階を再考し、ゴッ フマンの理論に新たな視点を投げかける。事例は、ホームステイの仕組みを考え出した組織 The Experiment in International Living と大人のためのホームステイ組織 F を扱った。 96 第 1 回国際シンポジウム「コミュニティの『変容』と『共創』——グローカルな視点から生み出す市民的公共性」 日 時:2014 年 3 月 1 日(土) 13 時~ 16 時 45 分 場 所:神戸大学大学院国際文化学研究科 F301 教室 講 師:ユ・チャンボック(ソウル市マウル共同体総合支援センター長) 内山節(NPO 法人・森づくりフォーラム代表幹事、立教大学文学部教授) パネリスト:田恩伊(神戸大学大学院国際文化学研究科メディア文化研究センター学術推進研究員) 清川祥恵(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター学術推進研究員) 松井真之介(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員) 山田勅之(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員) 司 会:寺尾智史(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員) 〈講演 1〉ユ・チャンボック「マウル、市民社会の微視的再構成と協力的ガバナンスのために ―ソンミ山マウルの事例とソウル市マウル共同体政策を中心に―」 「ソンミ山マウル」は住民が主体になって都会に形成した代表的な「bottom-up」方式の住民主導型「マウル(ム ラ・村)の事例だ。これは住民たちが自分たちの生活の中で必要とするものを行政などの財政的な支援に頼らず、 自らの資源を動員して築き上げた成果である。ソウル市のマウル共同体支援政策は、こうした生活世界における 住民主導の「bottom-up」の主体をより広く形成していく民間の革新と従来の「top-down」方式の行政を変える 行政の革新、この二つの革新を目指すものである。これは市民社会の微視的な再構成と新しい市民主体を形成し ていくプロセスを意味する。生活世界を基礎とする住民たちの協同生活の関係網構築にマウルがあり、これには 民と官がお互いのリスクを一定部分背負いながら協力的なガバナンスを構築して行く事が求められる。 〈講演 2〉内山節 「未来の共同体と風土の文化」 人々がバラバラになった社会から、結び合い、支え合う社会へ。この課題は今日では世界共通の目標になりつ つある。とともにこの課題の奥には、近代以降の世界を主導した巨大な経済システムや技術システム、国家シス テムなどに振り回されて生きるのではなく、それぞれの人々が自分たちの生きる世界をさまざまな他者とともに 再構築し、このローカルな世界を足場にして広く連帯、交流していく世界を創造することによって、現代世界を 変革していこうという意志が込められている。とすると、私たちはどのようにしてこれからの関係性の世界をつ くりだしていったらよいのか。おそらくその姿は風土の相違によって異なったものになるだろう。なぜなら風土 とは、自然と人間の関係や人間と人間の関係の時間的蓄積の上に形成されたものであり、再び私たちがさまざま な他者と手を結び合うような関係の世界をつくりだそうとすれば、それは風土と調和した関係的世界の再創造に 向かわざるを得ないからである。本シンポジウムではそのことを踏まえて、日本の共同体とはどのようなもので あり、いかに日本の風土と結ばれていたのかを報告した。 ※なお、パネリストコメントを含む本シンポジウムに関する詳細な報告については、別途報告書を作成予定である。 97 98 執筆者(掲載順) 坂 井 一 成(神戸大学大学院国際文化学研究科教授) 岩 本 和 子(神戸大学大学院国際文化学研究科教授) 川 村 陶 子(成蹊大学文学部国際文化学科准教授) 仙 石 学(西南学院大学教授) 坂 戸 勝(財団法人ベルリン日独センター副事務総長) Jean-Marie Klinkenberg(リエージュ大学名誉教授) 三 田 順(日本学術振興会特別研究員 PD) Fabrizio Eva(ヴェネツィア カ・フォスカリ大学契約教授) Dimitri Vanoverbeke(ルーヴァン・カトリック大学[KULeuven]人文学部日本学科教授) 村 尾 元(神戸大学大学院国際文化学研究科教授) 青 島 陽 子(神戸大学大学院国際文化学研究科講師) 田 恩 伊(神戸大学大学院国際文化学研究科メディア文化研究センター学術推進研究員) 清 川 祥 恵(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター学術推進研究員) 松井真之介(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員) 山 田 勅 之(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員) 寺 尾 智 史(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員) 山 口 隆 子(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター協力研究員) EU アイデンティティの構築とその政治的意義 発行日 2014 年 3 月 31 日 編 集 坂井一成(神戸大学大学院国際文化学研究科教授) 岩本和子(神戸大学大学院国際文化学研究科教授) 制 作 清川祥恵(神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター学術推進研究員) 発行者 神戸大学大学院国際文化学研究科異文化研究交流センター(IReC) 〒 657-8501 神戸市灘区鶴甲 1-2-1 電話・FAX 078-803-7650 [email protected] http://web.cla.kobe-u.ac.jp/group/IReC/ © Intercultural Research Center, Kobe University 2014 Printed in Japan
© Copyright 2024 Paperzz