上流の色彩は常に咲きほこる 大寺眞輔 『アップストリーム・カラー』 Upstream Color (2013) 監督:シェーン・カルース 出演:エイミー・サイメッツ、シェーン・カルース シェーン・カルースは、ポール・トーマス・アンダーソンやデヴィッド・フィンチャー と同様、あるいはもしかすると彼ら以上に重要な現代アメリカ映画のハードコアであり、 その可能性の最先端である。 『ドクトル・マブゼ』のフリッツ・ラングや『ミュリエル』の アラン・レネ、『勝手に逃げろ/人生』や『ソシアリスム』のゴダール、『カリスマ』の黒 沢清など、その時代その時代において最も野心的な映画作家というものは、その映像と音 響と物語る技術の全てを動員して、映画によって世界を丸ごと描出する、再創造する、あ るいは焼き尽くすことをもくろむものであるが、シェーン・カルースの『アップストリー ム・カラー』もまた、そうした作品群のひとつとして見られるのが相応しい。彼らに共通 するのは、システムとは何かという問いである。そして、カルースもまた同じ問いを発し ており、そこにさらにもう一つの問いを重ねる。それは、システムからの逸脱、システム のオルタナティヴ、そしてインディペンデントとは何かという問いである。この壮大で精 緻な細密画、ミクロの決死圏に対し、一体どこからアプローチすべきだろう。手がかりと して与えられるものは沢山ある。いや、沢山ありすぎる。それらは、あたかも膨大な資本 主義社会のゴミと情報の山の中で常に散逸し続けるオリンポスであるかのようだ。神々は 1 常に散逸し続ける。消えるのではない。見失われる。そのドライな諦念は、現代アメリカ 文学の巨人であり、カルース同様に理系ストーリーテラーであるトマス・ピンチョンの諸 作を思い出させもするだろう。だが、浮動小数点回路のエラッタに欺かれることを怖れず、 私たちは作品の中で明確に提示されていたある一冊の書物からスタートすべきだ。そして それは、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの代表作『ウォールデン』である。 ジョナス・メカスがその日記映画をスタートさせることとなった 69 年作品のタイトルと しても引用された『ウォールデン』は、十九世紀前半の作家であり博物学者でもあるソロ ーが、ウォールデン池畔の山小屋に住み二年以上に及ぶ自給自足の生活を続ける中で書き 上げられたものである。ソローの盟友でもあったエマーソンから影響を受けつつ、都会に 群生するシステムにスポイルされた消費者の一人であることを否定し、マージナルな場所 における孤独で禁欲的なエコ・システム構築を目指したアメリカ的ロマン主義とも言える 超絶主義の思考と体験を濃密に綴ったこの書物は、 『アップストリーム・カラー』の中にも 様々な形でそのエコーを響かせているだろう。まず、書物それ自体が登場する。いや、こ の映画の中で唯一特権的に扱われているのが、この『ウォールデン』という書物の物理的 な体裁、そして言葉と概念であるのだ。だが、『アップストリーム・カラー』とは、一体ど ういう物語を語る映画であるのだろう。それを要約するのは容易ではない。確かに、中心 となる登場人物はいる。幾つかの出来事も起こる。しかし、それらの結びつきは極めて茫 洋としており、観客である私たちにゴールへと向けた明確な手がかりが与えられることは 一切ない。その解釈は観客の数だけ存在する可能性もある。しかし、にも関わらず私たち は、この作品に対する熱狂的な興味を一瞬たりとも削がれることがないだろう。それは、 思わせぶりな記号を配置し、ウェットな情動に瞳と脳を満たされた観客が勝手に誤読して くれるのを手ぐすね引いて待っているだけの(悪い意味での)「アート作品」とは全く異な るのである。謎は謎を呼び、物語は物語を生み、映像は映像を導き、色彩は色彩として咲 きほこり、音響は音響へと反響していく。その淀むことのないストリームを私たちの目と 耳と脳と共に、あるいは指先とつま先と下顎(『ウォールデン』に登場する豚の下顎のエピ ソードを思い出すこと、それは動物的活力のことだ)と共に遡っていくことこそが、この 作品を体験することの全てであり、私たちに与えられるそれら情報と記号と出来事の奔流 が止むことは一切ないからだ。川の上流(アップストリーム)へと遡ること。階級の上方 へと浮上すること。コピーのコピーのコピーの間からオリジンへと探求を続けること。だ が、そこに目的のものは本当に存在するだろうか。これはもちろん、コンラッドが著した 『闇の奥』の主題でもあるだろう。 二人の少年と一人の男がフィルムの冒頭に現れる。男の名は作品内で示されることがな い。だが、クレジット表記に従い、彼を取り敢えず「泥棒」と名付けておこう。 「泥棒」は、 二人の少年を使って蘭を栽培し、その色彩を青く染める寄生虫を収集している。寄生虫は、 どうやら人間の体内に侵入し、それを宿主として脳と思考を支配する特殊な能力を持つよ うだ。現実にも、トキソプラズマ症など類似例が存在することは知られているが、既にフ 2 ィルムが起動させたこのフィクションの強度は、奇妙にシンクロする少年たちの動作とい った映像的・音響的ディテールを通じて、作品を多元的に機能させているだろう。この寄 生虫を利用して、 「泥棒」は一人の女性クリスを誘拐する。都会の職場で働きミドルクラス に属する生活を営んでいた彼女は、 「泥棒」の元で自らの思考を奪われ、洗脳され、その行 動を支配される。自らを「太陽」と定義し、直視することを彼女に禁じた「泥棒」は、そ の存在をクリスの視野と記憶から消し去りつつ、彼女がその社会生活の中で築き上げてき た家屋や財産、職場の全てを奪っていく。そして、ここで「泥棒」が寄生虫と共にクリス に投与するもう一つのパズルのピースこそが、ソローの『ウォールデン』であるのだ。洗 脳され茫漠とそこに佇むだけのクリスに対し、「泥棒」は、 『ウォールデン』に書かれた言 葉を暗唱させ、そのページを折りたたむことでまるで染色体のような紙の鎖を作らせるの である。この一件無意味にも見える機械的行動の反復は、しかし、その後この作品全体の 催眠的リズムを形成していくことになるだろう。そしてまた、 「泥棒」が自らを定義した「太 陽」とは一体何であったのか。それは、そこに視線を向ければ瞳が焼かれる不可視の中心 であり、あらゆる光とエネルギーの発生源であり、そして『ウォールデン』の最も有名な 一節にもあるように、 「太陽とは夜明けの星の一つに過ぎない」のである。すなわち、それ は目覚めであり、気づきでもある訳だ。クリスは全てを奪われ、そして全てを与えられた。 これはこの映画において同じ意味を持つ。見つめる(Look)のではなく、眺める(See)こ と。探すのではなく待つこと。目に入ってくるものを受け入れること。これは『ウォール デン』のテーマそのものだ。そして全てはそこから始まるのだ。 「泥棒」は、やがて本当にいなくなる。少なくとも、目に入ってこなくなる。空っぽの 家の中で目覚めたクリスは、自らの体内を這いずり回る寄生虫を掻き出そうと、ナイフを 3 手に自らを傷つける。だがその試みに失敗した彼女は、やがて奇妙な音に惹き付けられる かのように、ある男の元へと辿り着く。彼の名もまた作品内で明かされることはないが、 同様にクレジット表記から「蒐集家」と呼ぶことにしよう。 「蒐集家」は音をサンプリング する存在だ。風の音や木の葉の音、エンジンが発するノイズ、そして自らが生み出す様々 な音を収集し、調音し、ある種の音楽を孤独に奏で続けている。彼は出来事に立ち会い、 手を加えず、ただそれらを集め、別のものへと変換する。「蒐集家」が出来事をいかに傍観 するか、その美しく素晴らしい場面が幾つも提示されている。そして、傷ついたクリスと 出会った「蒐集家」は彼女を助け、その体内から寄生虫を取り出す。しかし、彼はまた、 不思議なことにその寄生虫を自らが飼育する一匹の豚へと移植するのである。ベッドで目 覚めたクリスと豚の瞳を切り返した穏やかな一連のショットは、私たちに奇妙に倒錯的な 興奮を与えることだろう。そして、この「切除」と「移植」と「奇妙なリンク」という三 つの運動によって、 『アップストリーム・カラー』中盤以降の流れが生み出されていくこと になる。それまで自らが営んでいたミドルクラスの生活から「切除」され、孤独で質素な 生活の中へと「移植」されたクリスは、通勤電車の中でジェフという青年と出会い、彼と の間に「奇妙なリンク」を感じるようになる。彼らは恋に落ちると言うばかりではない。 やがて明らかとなるように、ジェフもまたかつて寄生虫に支配されたトラウマを抱えてい たのだ。住まいを持たず、孤独にホテルで暮らすジェフの暮らしぶりもまた、ソローのよ うな超絶主義者の生活、その現代資本主義社会バージョンそのものだと言って良いだろう。 そして、二人の間で反響し合う「奇妙なリンク」は、それら映像と音響の連なりの中、ま るで遺伝子のミッシングリンクを探し求めるかのように、風や石やダクトの異音、エンジ ンノイズ、豚、そしてついには「蒐集家」の気配へと密接に連なっていくことになる。「あ らゆる物事と出来事がメタファー抜きで会話し、それ自体豊穣で普遍的なものである言語」 (ソロー『ウォールデン』第四章)としての音響ばかりではない。あらゆる感覚とその記 号が継起的に表れつつ、その全体像を決して示しはしない触覚もまた、ここで大きな役割 を果たすことになるだろう。 『アップストリーム・カラー』とは、色彩と音響の映画である ばかりではなく、触覚の映画でもあったのだ。 しかし、フィルムの細部に及ぶ過剰な読み解きをこれ以上続けることはやめておこう。 それは、あらゆる観客に対して投げ掛けられた尽きることのない謎の渦であり、記号の奔 流であり、映像と音響の連なりであり、開かれたゲームであるべきだからだ。物語の結末 もまた謎に満ちている。その解釈は観客一人一人に委ねられているだろう。だがそこで、 一点だけ指摘しておくべきことがあるとすれば、それはこの映画のエンディングにおける 「泥棒」の不在である。つまり、この作品は、その難解な皮膚の下に最初に垣間見えるで あろう物語のうっすらとした蠢動とは異なり、単なる因果応報、ハリウッド式物語経済、 感情総量の熱力学的不変性、決まり切った復讐譚の形式に収まることは決してないという ことだ。 「泥棒」は「太陽」でもあった。彼は全ての熱と光を放出し、夜の帳を引き上げ、 あらゆる物事をはじめる存在であった。 「蒐集家」が実践した「切除」と「移植」と「奇妙 4 なリンク」はそもそも「泥棒」がスタートさせた運動の円環であった筈だ。 「泥棒」は盗み、 クリスとジェフは誘拐され、 「蒐集家」は移植し、豚は溺死し、青い蘭は咲き誇り、やがて 現れる「栽培者」がそれらを摘み取る。そして同時に、色彩と音響と触覚と物語の断片に よるそれら運動の円環は、様々な場所でバトンを受け渡し、結びつき、染色体の鎖として 継起し続ける。一つのリンクは閉じられても、また別なリンクが生み出されていく。した がって、出来事は全て複数の円環の中でそれぞれ矛盾した意味合いを持ち、アンビバレン トで歪んだ力学を作品全体へと回帰させ続けることになるのだ。こうした絶え間なき存在 と記号のストリームに身を浸しつつ、私たちは、私たちの行動と存在全てを支配する流れ の上流へと遡り続ける。しかし、 「闇の奥」は常にそこにあり、同時にそこにはない。「泥 棒」は「蒐集家」ではない。見つけることは、奪われることでもある。流れの上流を断ち 切ったところで、それはまた別の円環を生み出すだけなのかも知れない。青色の円環は、 黄色の円環に置換されただけなのかも知れない。したがって、これはクリスとジェフいう 一組の男女の物語であり、そうではない。これはクリスの復讐譚であり、そうではない。 これは恋愛に関する物語であり、そうではない。これは私たちが住む現代資本主義社会の 物語であり、そうではない。これは孤独と失望と救済に関する物語であり、そうではない。 わたしたちは救済され、救済されることはない。そして、上流の色彩は常に咲きほこる。 ソフトウェア・エンジニアという前歴を持つシェーン・カルースは、二00四年に製作 した処女長編『プライマー』の世界的成功によって一躍注目されることとなった。製作・ 監督・脚本・音楽・編集・出演など映画作りに関わるありとあらゆる作業を自ら手がける ことで、わずか七十万円のバジェットで作り上げられたこの完全にインディペンデントな 作品の志と製作スタイルは、そのまま九年後の第二作『アップストリーム・カラー』にも 受け継がれている。製作費こそ増額されることになったが、それでも数百万円程度だと噂 されるこの作品(カルースは製作費ばかりが話題に上ることを好まず、この作品のバジェ 5 ットを公表していない)は、それ以上に、再び製作・監督・脚本・音楽・編集・出演など あらゆる作業をカルース自らが担当し、さらには作品の権利から配給に関わる殆ど全てを 支配下に置くことによって、ハリウッドから限りなく遠い場所に自らの小さなエコ・シス テムを築き上げているのだ。それはまさに、現代資本主義社会におけるソロー主義者、超 絶主義者の姿そのものだと言って良いだろう。『アップストリーム・カラー』とは、まさに この作品そのもののことだ。それはタイトルを示すにとどまらず、そこで語られる物語に もとどまらず、その物語を語るスタイルであり、色彩であり、音響であり、触覚であり、 そしてそれを作り上げた経済システムそのものであるのだ。作風的に見れば、カルースは、 ハリウッドからインディペンデントへと連なる、言い換えるなら、ポール・トーマス・ア ンダーソンからデヴィッド・フィンチャー、デヴィッド・ゴードン・グリーン、ショーン・ ダーキン、ザル・バトマングリ、ジェフ・ニコルズへと連なる現代アメリカ映画の最良の 部分を引き継いでいると言えるだろう。いやむしろ、それらを脱構築し、新たな映像と音 響の可能性の連なりへと組み替えることを目論んでいるように見える。つまり、ここでも またカルースは新たなエコ・システムを構築しようとしているのである。アメリカ映画と して生まれ、アメリカ映画に誘拐され、アメリカ映画を移植し、全く異なる現代のアメリ カ映画を作り上げること。アメリカ映画に対する批評性を備えたアメリカ映画を、アメリ カ映画の内部における外部として作り上げること。そして、そのための経済システムを構 築すること。そして最後に、このシステムを駆動させるカルースの野心とエネルギーは何 であるのか。それはおそらく、ソローとハリウッドの間に存在するもの、身体と精神、唯 物論的な世界と私たちの魂という古くて新しい問題であるように私には見える。太陽は夜 明けの星に過ぎない。太陽は焼き尽くし、夜の帳を引き上げ、私たちを目覚めさせる。目 覚めるべき時なのだ。 6
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