1 0 8 昭和 4 7 .1 0 第1 3 号 鋳鉄管 私と水商売 武島繁雄 豊中市助役(前下水道部長) 私は、子供の頃から発電水力に大きな夢を の町村の中で二番目に公共下水道をはピめた 9年 、 京 城 抱いていた。そして、運よく昭和1 ことである。その上、当初から合理的方式を 工専の土木を卒え待望の朝鮮電業の設計課に 採用し、緩速ろ床による中級処理を実施した。 入った。毎日の仕事が楽しかった口しかし入 私の入った時は事務所もなく、炊事場の裏の 営、終戦、そしてヲ│き揚げと、めまぐるしく 一部を改造して鶏小屋と併設した三坪程度の 人生の輪転はどん底をはい続けた。その中、 小屋であった D ひょんな事から今度は同じ水商売でも、水道 屋として再出発することになったのである。 その因となったのは、間半且にいた頃、この 職員も新卒の者ばかりで、と言っても総員 私を入れて 5人 で あ っ た が 、 中 に は 未 だ 学 生 帽をかぶって通勤する者もいた。しかし、 「若 方面の設計をさせられたことにはじまるので さだよ、ヤマちゃん.ゲ」ではないが、全員ク ある口勉強しながらの設計、懐かしい思い出 リエーティヴな気概に燃えていたのである口 である。 昭 和3 1年 、 私 は 水 道 課 長 に な っ た が 、 ま っ このあと、昭和 24年 、 防 府 市 の 水 道 課 に 入 たくの新課長兼係長兼平職員と同じであった。 ったのが私の地方公務員出発のはじまりであ 私自体は水道に経験があったが、下水道は る。この当時は、鋳鉄管がチケット制であり、 不馴れのため、部下に教えるどころではない。 文字通り鋳鉄管の確保が最大の業務であった。 私自体、勉強の明け暮れであった。 私の買いあさりがはじまった。どこそこに鋳 小郡町という町の財産は、何といっても清 鉄管のわ古があると聞くと、すぐ飛んで、行っ らかな地下水である。私の赴任直後、私の家 て入札に応りた。ある時は呉沖の旧海軍の燃 の 裏 に 直 径 3.5m、深さ 5mの 浅 井 戸 を 掘 っ た 料給油管もまとめて買った。そしてそのパイ が、なんとこの井戸一本で一日に 3 5, 0 0 0r r iの プを持ち帰り、タールを焼きつけ再生して使 取水量を確保できたのである。その上、水質 ったこともある口また異形管についてはもっ の良いのも天下一品、このため山陽線を通過 とひどく今日は大牟田、大分、明日は京都へ する機関車はこぞって小郡駅で給水したもの と飛び歩いた口 である。 例 え ば そ の 量 が 5 トンとか 1 0トンの少量で その中、機関車も電車に替わる時期がきた。 も使えるものは全て買った。しかし、ある日 折角の水という財源を無駄にするわけにもい 山口で買った鉛塊には、中に砂詰めのいかさ かないので、山口市、遠く海岸よりの秋穂町 ま物を買わされ、処置に泣いた経験も思い出 にまで分水することにしたのである。 されるのである。それだけに、一本の幹線毎 の竣功は別の意味で感激あらたなるものがあ ったのである D 小郡町の下水道事業は、この水道財源を活 用することではじまったのである。 しかし、水道会計の利益だってしれたもの O その後、私の人生過程においてずい分と勉 まったく財政的には苦しいやりとりの連続だ 強 で き た の は 、 昭 和 29年からの人口 1 5, 0 0 0人 った。このため、設 計もタトi 主なんてまったく という小さな小郡町在職の 9年間であった。 想像もつかないことであった。その上、職討 この町での快挙は、何と言っても当時全国 J の数も少なく、私の兼務業はこんなことから 1 0 9 随筆 はじまったので、ある。 と探知した思い出も懐かしい口そして、漏水 忘れもしな ~)o 水道課の裏にある量水器修 理倉庫が、和、の設計・すーる場所であった。日常 個所を当てようものなら無精に喜び、合い、焼 酎で祝杯を重ねたものである。 業務はまったく部下まかせ、夜になると積算 ハアー にはいるのだが、管渠の中でマンホールの数 白梅香る中領の山で のt 合ぃ出しなんか事務屋さんにやってもらっ 清き植野の町々見れば たD 水でみがいた小町娘の 図面でも、最初は T定規に頼っていたので ずい分と手間がかかった。その中、いつだっ たか、 ドラフターを買ってもらった時は今更 の如く文明の利器に感銘し、その配慮をして くれた上司に感訪tしたものである。 ソレ 明るい笑顔がチラホラ見える 私の当時の自作の小郡町水道小唄の一一部で、 ある。この歌を歌いながら、先刻の私の設計 部屋は一瞬の中に祝杯場と変わるのである D そして私自身、将来の自分の運命に、子供 また小郡町の水道も歴史は古し可 。このため の時と同様大きな夢をふくらまし、焼酎の祝 老朽管が多く漏水も多かった。冬の寒い晩な 杯をコップで重ねた 30才 前 半 の 私 だ っ た の で ど、主失キ奉の先にレシーパーをつけた木当に幼 ある。 准な探知器で、夜泣きそばを食べながら職員 河原安治 株式会社大阪上下水道設計事務所 取締役副社長(前堺市土木局長) 0年 8月 1 5日正午、天皇陛下の玉音放 昭和 2 日本人はこの時より休みなく生命の危険に曝 3 送を聞いたのは、満州製鉄本渓湖支社の本音1 されたのである。門扉を堅く閉ざしての虚脱 事務所働であった。時あたかもソ連軍戦車部隊 した生活はいいようもなく重苦しく、暴動説、 が内蒙古から奉天、本渓湖へと侵入してくる 日本人虐殺説、移動収容説等々、身も心もえ 公算大であるとする駐とん部隊の判断で、停 ぐるようなデマが乱舞する日々が続いたもの 5人を動員して日露役の古戦場に 虜苦力約 17 で、ある。 対戦車壕を構築すべく、社員の約90%が現地 収入の道を失って、早くも売り食いの生活 に出動していた。したがって、この時玉音を を始めた者も出てきた十月初旬、約 1個 大 隊 聞いたのは百名前後の社員に過ぎなかった。 のソ連工作部隊がモンゴルからトラックでや 懸命に膨ましていた風船が突然破れた後のよ ってきた。目的は、火力発電設備その他重要 J本人のだれしも うな虚脱感とその衝撃は、 r 機械を取り外し、ハルピン方面ヘ輸送するた が受けた終生忘れえぬ苦い体験である D めである。ソ連軍の進駐で治安はいくぶん良 早速、現地の日本人社員に連絡して引揚げ くなったが、兵士たちの酒、女に関する無軌 前人は させねばならないのであるが、すでに j 道ぶりがまた深刻な苦痛をもたらすことにな ウスウス感づ、し Eているようでもある;[犬;兄の中 った。水道はもちろん、電気までその電源を で 、 10km以 kも離れた山地ヘ連絡に行ってく 切られ、遠方にある満人の井戸まで水汲みす れる引受手はひとりもいなし」苦力の大半は ることが、欠かせない重要な日課と化した。 中華民国軍の捕虜であるだけに、連絡も引揚 そのソ連軍は約 2カ 月 で 任 務 を 終 え 、 入 れ 替 げも慎重の上に慎重を要するわけで、外地の りに中共軍の出現である。
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