わが国の医療危機を救うためには国民的議論が必要

基調講演
わが国の医療危機を救うためには国民的議論が必要
折茂 肇
(健康科学大学学長、
医療法人社団「こころとからだの元氣プラザ」学術顧問)
はじめに
では世界の多くの国と比べて、国民の年間平
均外来受診者数が非常に多く、さらに1回受診
いま、わが国の医療は非常に危機的な段階
当たりの医療費も非常に安い。これは国民皆
にある。しかし、それをどれくらいの国民が
保険制度が適用され、医療費が保険でカバー
自覚しているのであろうか。日本の医療の実
されてきた結果といえよう。また、医療機関
態は、どうなっているのか。私はまずその全
による治療の現物支給、どの医師にもフリー
体像につき述べ、日本の医療の崩壊を防ぐに
アクセスで受診できることなどが外来患者数
はどうしたらよいかにつき
「医療は医療従事者
を多くしている要因と考えられる。
と患者との共同作業である」
という観点から考
えてみたい。
はじめに、①日本医療の成果、②日本医療
WHOの健康達成度総合評価(図2)では、ア
メリカでは国民の大多数が公的国民健康保険
に加入していないため、評価が非常に低い。
に対する世界保健機関
(WHO)
の評価、③わが
これに対して日本では国民皆保険制度が実施
国の医療従事者の数、勤務状態、④わが国の
されており総合評価では1位である。なおこの
医療費/国内総生産(GDP)、⑤わが国の医療
総合評価は健康寿命の長さ、医療サービスへ
崩壊の現状について述べる。
のアクセスのよさなどの基準により評価され
その後に、イギリスでの医療の崩壊の実態
たものである。国民全員が保険で医療費がま
について紹介し、日本がイギリスの轍を踏ま
かなわれるこの制度は、世界に誇るべき制度
ないようにするにはどうしたらよいか、そし
である。
て最後に、わが国の医療崩壊を防ぐためにど
うすべきかについて私の考えを述べる。
日本医療の成果とWHOからの高い評価
4
少人数の日本の医師・看護師と
その過酷な勤務状態
国際的なデータをみると、日本では人口当た
図1に示すように日本の医療の成果に対する
りの医師の数が少ない。日本の2004年における
評価は世界的にみても極めて高い。また日本
人口1,000人当たりの医師
(医療に従事している
図1
図2 WHOの健康達成度総合評価
日本の医療の成果(2002年WHOより)
メディカル・シンポジウム記録集
医師)
数は2.0人であった。この数は経済協力開
発機構
(OECD)
加盟国25ヵ国中23位であった。
表1 病院におけるベッド1床あたりの医療従事者数の
国際比較
次に、ベッド1床当たりの医師、医療従事者
。日本における
の人数の国際比較を示す
(表1)
1床当たりの医師数は0.15人でこれは調査対象
139ヵ国中、128位で、看護師数は0.6人で138ヵ
国中、113位であった。
日本の医師の勤務時間はどうであろうか。
現在、病院の医師は非常に過酷な勤務状況に
追い込まれている。病院の常勤医師1週間当た
りの勤務時間は非常に長く、国際的にみても
突出している。医師の需給に関する検討会報
日本の医療に満足していないのが現状である。
告書が2006年7月に厚生労働省から発表され、
その点からみてもわが国の医療は危機状態に
2004年に医療施設に従事する医師の数は25万
あり何とか改善しなければならない。わが国
7,000人で、週平均労働時間は63.3時間であっ
の医療危機については、小松秀樹博士(虎の
たとのことである。週48時間勤務を想定する
門病院)
が著書
『医療崩壊
「立ち去り型サボター
と、必要な医師数は26万6,000人で2004年の時
ジュ」
とは何か』
に的確に記述されているので、
点で9,000人の増員が必要となる。同様に計算
一文を紹介する。
すると、2040年には31万1,000人の医師が必要
「医療が進歩する一方で、医療への社会の要
となり、2004∼2040年の間に5万4,000人の増員
求が強くなった。患者は医療にはすべてのこ
が必要となる。明らかに医師を増やす必要が
とが可能であり、患者が死亡すれば、医療過
あるというのがこの報告書の結論である。
誤があったのではないかと猜疑の目で見るよ
うになった。医療が進歩するほど、紛争は増
国際比較では低い日本の医療費
えるという、皮肉な状況になっている。
医療の結果が期待通りでないとき、とくに、
次に医療費の問題について述べる。GDPに
小児科や産科では、死や障害が受け入れられ
対する医療費は一体どうなっているのであろ
ない。悲しみが医療への恨み、さらに、とき
うか。GDPに対する社会保障費の国際比較で
として、攻撃につながる。患者側からの攻撃
は、わが国の医療費は非常に低いことが明ら
の強い小児救急や、紛争の多い産科診療など
かに示されている。OECD発表のGDPに対す
脆弱な部分から医療が崩壊し始めた。
る医療費の国際比較(1993年)では、日本は
さらに、2002年前後より、医療事故を警察
7.5%で18位である(1位はアメリカで12.9%)。
が取り締まることが多くなり、善意の看護師、
日本では医療費が高いから削減しろという経
医師が犯罪の被疑者として取り扱われ、運が
済的な議論ばかりがなされているが、国際的
悪いと犯罪者の烙印を押されるようになった。
にみると日本の医療費はむしろ低いというの
こうした中、医療従事者の勤労意欲が維持
が現状である。
できなくなり、病院勤務、とくに、業務の過
わが国の医療は、少ない医療費にもかかわ
酷な急性期病院から離れはじめた」
( 小松秀
らず、医療従事者の献身的努力により支えら
樹:医療崩壊「立ち去り型サボタージュ」とは
れ、WHOから高い評価を受けてきた。これが
何か.東京:朝日新聞社;2006.p.4)
。
これまでの日本の医療の実態である。
以上、やや長くなったが、臨床現場に携わ
る医師の偽らざる肉声として紹介した。
わが国の医療クライシス
WHOからの評価は高くても、国民は決して
マスメディアでも忍び寄る医療崩壊の足音
を意識せざるを得ない情報が数多く取り上げ
られている。例えば、福島県の産科医が起訴
5
事実を認否した妊婦死亡事件の初公判、勤務
本の状況は医療後進国以外のなにものでもな
医の26%が医事紛争を経験し診療が萎縮がち
い。新薬の臨床治験も日本では非常にコスト
になる医師が7割もいるとの事実、お産の現場
がかかり、症例収集が容易でないため、治験
はパンク寸前で医師不足に過失起訴の影響が
実施時間が長くなり、日本の製薬企業は海外
出ているなどの記事があげられる。
で治験を行わざるをえない状況にある。この
また現場医師は10年ほど前までは勤務医に
治験の空洞化に対応するため、厚生労働省で
なろうという人が多かったが、近年急激に開
は新薬の承認体制の見直しを始めている(図
業医志向に移行している。儲けるために開業
。
この見直しでは新医薬品の承認にかかわる
4)
するわけではなく、自分の生活と人生を守る
医薬品医療機器総合機構の常勤人数の増員が
ために、開業医になっていく医師が増え、病
計画されており、待機審査中が増えている承
院から中堅医師が立ち去りつつある。
認審査状況
(現在医薬品医療機器総合機構で合
日本はいまや医療後進国であることも見逃
せない事実である。なぜ後進国であるのか、
計156品目が審査中である)が改善されること
が期待されている。
その理由の1つとして新しい医薬品・医療機器
の開発および認可に時間がかかり過ぎること
があげられる。特に医薬品の問題についての
データを紹介したい。
医療費抑制と医師離れにより
崩壊したイギリス医療
新薬の発売までの期間の欧米比較を図3に示
次にイギリス医療の崩壊の現状について紹
す。日本では他国で承認済みの新薬承認審査
介する。イギリスの医療の実態を表2に示す。
に平均4年間もかかり、世界で売上上位の医薬
イギリスでは患者は開業医や一般医
品の約30%は日本では未承認である。この日
(general practitioner;GP)
の中から主治医を
選択して登録するというシステムを取り入れ
ており、専門医の診療が必要と判断された場
合は、GPの紹介を経て専門医を受診する。つ
まり患者は受診する医療機関を自由に選べな
いのである。このシステムではさまざまな問
題が生じ、2001年では専門医の受診待機者が
28万人、入院待機患者が約100万人に達すると
いう事態を生んだ。待機時間が長引いたため
に、肺がん患者の20%は、待機中に病状が進
行して手術不能になったとのことである。
このような悲惨な状況に患者が怒り、多く
図3 新薬発売までの期間の欧米比較
表2 イギリスの医療の実態
図4 治験の空洞化に対する厚生労働省の取り組み
6
メディカル・シンポジウム記録集
の医療従事者が暴力をふるわれた。この状況
さらに、医療現場に警察が立ち入ることが
にイギリスの医師は失望し、大量に海外、特
多くなり、善意の医療も結果次第では犯罪と
にアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに
して扱われる点や、患者の権利意識が肥大化
移住した。新規登録医師数は、1995年には
している点も似かよっている。患者と医師、
11,000人だったが、2000年には8,700人と、5年
相互の考えに違いが表面化する場面で、多く
間で医師がかなり減ってしまった。
の医師はものをいえない状況にある。
このような医療の崩壊の原因として、①医
日本でも勤務医は厳しい労働条件の中で、
療費の抑制政策、②NHS(National Health
我慢して患者のためにがんばることを放棄し
Service)の組織が巨大になりすぎ官僚化した
始めた。日本において病院から医師が離れ始
こと、③医療従事者の士気の低下などが考え
めたという状況はイギリスの轍を踏み始めた
られている。そしてイギリスでは現在、政治
という警報ではないだろうか。
家・マスメディア・国民・医療従事者のすべ
てが、
「長年の医療費抑制政策のために医療は
荒廃した」
という認識を共有するに至ったので
ある。
わが国の医療危機を救う
ための提言
「なぜ医師はこれほど不幸なのか」という論
日本の医師はまだ幸いに完全にギブアップ
文がイギリスの医学会誌に2001年に発表され
しているのではない。わが国の医療危機を救
た。本論文によるとその理由として第一に為
うためにはどうすべきか、提言書「医療の未
政者の無策、第二に医療システムが医師を支持
来、日本の未来─なぜ日本では高度先端医療
しないこと、第三に過剰な労働、医務量の増加
が遅れているのか?」に記載されているもの
と患者からの過度の期待と要求があげられて
も含まれるが、私が特に重要と思うことにつ
いる。また
「患者は医師があらゆる問題を解決
き述べたい。
できると過剰に期待している。それが叶えら
れないと、医師を攻撃する。医師は、医療に
1.患者と医師で医療の本質を共有する
限界があること、危険であることを患者に伝
まず最も大事なことは医療の本質を患者に
えてこなかった」
など、医師側の反省点も浮き
正しく認識してもらい、医師と患者の信頼関
彫りにされている。さらに、医師と患者は共同
係を築くことであろう。両者の間には、医療
作業をする仲間であり患者は自分の問題をす
とはどういうものであるかという概念と考え
べて医師に押しつけるべきではないし、医師
方に大きな違いがあるように思う。
は自らの限界は伝えるべきであり、政治家は
まず医師の立場からみると医療とは不確実
現実の解決に対応すべきであると訴えている。
なものだということである。これは、生命が
イギリスでは医療費の抑制と医療への攻撃
複雑かつ有限であること、各個人の多様性、
が続き、医師の士気が完全に崩壊した。イギ
医学には限界があることなどに関係がある。
リスの医療事情は日本の医療の近未来を暗示
医療行為というものは生体に対するストレス
しているのではないだろうか。なぜならわが
を伴い、基本的に危険なものである。100%の
国の医療の現状はイギリスの医療と酷似して
安全を求めると、医療そのものが成立しなく
いる点があるからである。わが国の病院勤務
なる。
医は、自らの知識や技量に対する自負心と、
一方で、患者の多くは医療は万能であり、
病者に奉仕することで得られる満足感のため
病気は直ちに発見され治療できると思ってお
に働いている。大病院の勤務医の収入は決し
り、医療に限界があることを理解していない。
て多いものではない。
また、患者の多くは病院は100%の安全・安心
理不尽な攻撃を受けながら黙って患者に奉仕
せざるをえない状況が続けば、人間の誇りと
士気は大きく損なわれる。
の保証をすることが可能で、さらに保証する
義務を負っていると思っている。
医療というのは社会的共通資本である。社
7
会的共通資本とは
「一国ないし特定の地域に住
むすべての人々が、豊かな経済生活を営んで、
優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会
を維持することを可能にする社会的装置」
であ
る。具体的にいうと、①資源環境
(大気、森林、
河川、水、土壌)
、②社会的インフラストラク
チャー(道路、交通機関、上下水道)、③医療
を含む制度資本(教育、司法、金融制度)など
が社会的共通資本である。国民がこのような
考え方をもつことも非常に重要である。
2.医療の質を管理する機関の設置の必要性
図5 医事関係訴訟事件の状況
(1992∼1993年)
表3 医療保険システムの全体像
次にわが国の医療崩壊を防ぐために、医療
の質を管理する機構および医療事故補償機構
を創設するべきである。医療の質を管理する
機構というのが日本にはない。医療事故が起
きるのは、やはり医療の質に問題があるから
である。さらに医療事故の保障機構の創設も
必要である。近年日本における医療訴訟は増
加傾向にあり、その数はアメリカのそれに迫
るものである
(図5)
。ドイツ医師会では医事関
係訴訟事件の問題解決に向け、自らが主導し
表3の医療保険システムをみると、日本では
医師と患者の間の争いの調停に努めている。
国民健康保険によって国民の医療費はまかな
医療過誤あるいは医師の責任・義務問題に対
われている。混合診療を導入する際には、あ
して、医師会が「調停委員会」や「鑑定委員会」
くまでも国民健康保険を堅持するという前提
を発足させている。患者もこれを受け入れ、
のうえで、どのように導入するかにつき知恵
医師と患者間の関係を修復する手段として機
をしぼる必要がある。
能している。これらの委員会は、裁判による
混合診療に対して、厚生労働省では
「患者負
係争に発展する以前の段階における調停と原
担が増える。特定療養費制度で対応すべきで
因解明に大きく貢献しているという。
ある」と反対している。日本医師会も「公的保
それに対して日本では医療事故があると警
険の縮小、皆保険の崩壊、患者負担の増加、
察が立ち入ってくる。これでは医療は成り立
貧富の差による不公平が生ずる」
という理由で
たないと思う。
反対している。一方で、規制改革・民間開放
推進会議は「患者の選択を尊重する」と賛成し
3.医療保険制度の見直し
現行の診療報酬制度では医師の能力や技術
や経験の評価が適切に行われておらず、不平
ている。混合診療については賛否両論でまだ
決定していないのが現状である。
厚生労働省のいう「特定療養費制度」とは、
等で、資源配分に著しいゆがみを生じている。 「通常では保険の対象とならない特別に定めら
8
そのために手間のかかる小児科、老人科、産
れたサービス、高度医療を含んだ医療では、
科では医師離れが続いている。
全額保険給付外にするのではなくて、基礎的
また、患者の要望に応えて、混合診療を導
な保険の対象となっている部分については保
入する必要がある。混合診療の導入を認める
険給付をし、保険の対象となっていない特別
際には「医療の質管理機構」を創り、そこでそ
サービス部分
(差額ベッドや、高度先進医療な
の適否を評価するべきであると考えている。
ど)
を自費負担とすることによって、患者の選
メディカル・シンポジウム記録集
択の幅を拡げようとするものである。
高度先進医療とは、
「大学病院などで実施さ
れている先端医療で、厚生労働大臣の承認を
受けた」
もので、その種別ごとに実施可能な病
院が承認される。現在、109種の高度先進医療
が認められている。高度先進医療の特別料金
の部分は本来保険対象外のため患者が全額を
支払うが、通常の保険診療との共通部分は保
険診療となる。このような制度が、現在の健
康保険制度でも使えるのである。
「混合診療」という名前こそ使われていない
図6 サミット7ヵ国の公共事業費(1995年)
が、実際は歯科領域ではすでに行われている
し、差額ベッドもある。今後2つの制度を使っ
ていける領域をうまく拡げていくことが大き
な課題であると思う。
4.病院と診療所の病診連携
病院と診療所の機能分化と連携を推進する
必要がある。病院は高度な医療および入院医
療を原則とし、診療所は外来で初期医療
(プラ
イマリケア)
を行って、必要な場合には病院へ
の紹介業務を行う。必要なときだけ病院を受
診するようにすれば、勤務医の過剰な労働は
図7 公共事業と社会保障への国庫支出額/国内総生
産(GDP)
避けられる。この機能分化は大変重要である。
そのために、まず厚生労働省が主導し、各
る割合をみると
(図7)
、日本ではGDPに対する
省庁、都道府県、市町村と調整を行い、小規
公共事業費が各国に比べ非常に多く、一方で、
模な国公立病院は統廃合し大規模なセンター
社会保障費は日本が現在一番少ない。先進国
病院に組織変えする必要がある。次に、不足
の中で社会保障への支出を減らしているのは
している医師および医療従事者の充実を図り、
日本だけなのである。このようなデータによ
医療の地域格差を改善する。そのために医学
り明らかなことは、わが国の医療費抑制政策
教育システムの抜本的見直しを行い、プライ
を見直す必要があるということである。そし
マリケア医を育てるような医療教育システム
て、この国の医療費と社会保障費を増やすこ
を作ることが必須である。
とを国の政策として考えるべきだと思う。
5.医療費抑制政策を見直す
医療の質を確保するためには、医療費抑制
政策を見直し、社会保障への国庫支出額を増
やすことが極めて重要である。
サミット7ヵ国の公共事業費の調査(図6)で
おわりに
わが国の医療危機を救うためには、医療費
抑制政策をまず見直すこと、そして社会保障
への国庫支出額を増やすことが必須である。
明らかにされたことは日本の公共事業費の総
そうでなければ日本はイギリスと同じ轍を踏
額が、カナダ、アメリカ、フランス、イギリ
むことになる。本講演が、日本医療の現状を
ス、イタリア、ドイツ、6ヵ国の合計額よりも
理解したうえで日本国民として何が必要なの
多いという驚くべき事実である。また、公共
かを考え、それを政策に反映させるための活
事業と社会保障への国庫支出率、GDPに対す
動の一助になれば幸いである。
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