ES研(「教会と社会」研究会-中近世のヨーロッパ-) 第 20 回例会(2009 年 1 月 10 日)報告要旨 「中世後期バレンシア都市ハティバにおけるムスリム-国王ハイメ1世にみるバレンシア 南部の征服-」 須田明博 本報告ではアラゴン連合国王ハイメ 1 世が 13 世紀のバレンシア征服でムスリムに対して 降伏条約を中心とした征服をしたとする見解に関して、バレンシア南部に関してはそれが どこまで共通点を持っていたのか、また相違点を持っていたのかをバレンシア南部最大の 都市ハティバのムスリムを対象として、ハイメ一世がどのような彼らにどのような措置を 取ってきたのかを通じて明らかにしようとしたものである。 ハティバはバレンシアの南部と北部をつなぐ交通の要衝にあり、ムスリムとキリスト教 徒の双方のもとで行政地域の中心を形成し、周囲には小城塞や町、村落などが点在してい た。当時からハティバは地中海世界に広く紹介されており、12 世紀半ばに地理学者イドリ ーシーはシチリアにおいて、ハティバを“力強さと美しさで評判になった堂々たる街”と 紹介している。ハティバの城塞はおそらくムワッヒド朝時代に強化されたと思われるが、 その過程は考古学的には未だ解明されていない。近代以降もなお城塞としての機能を有し、 近くはナポレオン戦争やスペイン内戦でも城塞として利用されたという。1238 年にハイメ 一世がバレンシアの中心都市たるバレンシア市を征服しバレンシア中部までを手中に収め るに至り、また同年ハティバを支配するバヌー・イーサ家が臣従していたムルシアのイブ ン・フードが暗殺されたことによって後ろ盾を失ったハティバはハイメ 1 世の次の標的と なった。 ハ テ ィ バ が ハ イ メ 1 世 に 降 伏 し た の は い つ で あ る の か と い う 問 題 は 、降 伏 後 に ハ テ ィ バ の ム ス リ ム( い わ ゆ る ム デ ハ ル )を ハ イ メ 1 世 が ど の よ う に 処 遇 し て い た の か と い う 本 報 告 の 主 題 と 、ハ イ メ 1 世 の ム ス リ ム に 対 す る 降 伏 政 策 と 照らし合わせる場合に、密接に関わってくる。 これまでの研究でハティバの降伏時期に関しては多くの研究者によって様々な仮説が立 てられ、降伏の年代で最も早いとされたのが 1240 年、他にも 1248 年、1249 年、もっとも 遅いもので 1251 年とばらつきがあるのだが、これは 1239 年からハティバが3回にわたっ てアラゴン王国の部隊に包囲されたことと無関係ではない。ハイメ 1 世の自伝『業績録』 にもハティバ包囲に関する記述があるのだが、ここからは時系列的な関係が判明するもの の直接の年代を特定しにくいという難点があった。 ハ テ ィ バ 降 伏 の 年 代 が こ の よ う に 諸 説 存 在 す る こ と に な っ た の に は 、実 は 他 に も 理 由 が あ っ た 。ハ イ メ 1 世 は バ レ ン シ ア 北・中 部 で ム ス リ ム の 支 配 地 が 降 伏 し た 際 に ム ス リ ム 住 民 に 対 し て 財 産 の 保 護 、居 住 の 自 由 の 保 障 、イ ス ラ ー ム の 実 践 を 認 め て い て 、通 常 、軍 事 的 征 服 か ら ご く 短 い 間 に 居 住 を 認 め る Carta- pueblaと 呼 ば れ る 文 書 が 作 成 さ れ て い た の だ が 、 ハ テ ィ バ の 場 合 Ca rta -puebla が 発 給 さ れ た の は 1252年 の 1月 だ っ た 。 そ の た め 、 ハ テ ィ バ の 降 伏 は 主 に 1240 年 代 末 以 降 と 考 え ら れ て き た の で あ る 。こ の 年 代 の 特 定 に は 1991年 に バ ル セ ロ ー ナ の ア ラ ゴ ン 王 国 文 書 館 で 発 見 さ れ た 一 枚 の 古 文 書( 城 塞 の 引 き 渡 し に つ い て ラ テ ン 語 と ア ラ ビ ア 語 で 内 容 が 併 記 さ れ 承 認 の 署 名 が 入 っ て い る )が 大 き な 役 割 を 果 た し 、 ハ テ ィ バ が 1244年 に 降 伏 し た こ と が 明 ら か に さ れ た の で あ る 。 では、この時期ハティバにどれくらいムデハルが残留していたのだろうか。アル=アン ダルスにおいてキリスト教徒に征服されたムスリムがどのようにすべきかという問題に取 り組んだのが 15 世紀のイスラム法学者、アル=ワンシャリーシーで、彼のファトワ集(イ スラームにおける個別事項に関する勧告)には異教徒に占領されたらその地を去るべきで あるという見解が示されているという。こうした考え方が時代をさかのぼった 13 世紀当時 においてどのくらい浸透していたかは不明だが、実際のところ、この時期にムデハルが移 住するかどうかは当人の社会的経済的地位に大きく左右されていたようであり、経済的富 裕層や知識人層はグラナダもしくは北アフリカへ移住する傾向があった。それでも 1246 年 に城塞を割譲した直後にはムデハルの大規模な移住を示すような記述は見られず、征服後 でもハティバのムデハルに大きな変化はなかった状況が考えられるだろう。前領主である アブー・バクルが引き続きハティバに居住していたことも要因として考えられる。 しかし、1247 年になるとバレンシアでムデハル領主の反乱が発生した。バレンシアの有 力都市であるハティバが積極的にこの反乱に荷担した証拠はないのだが、この時期からハ ティバにも大きな変化が見られるようになる。1247 年 12 月にハイメ 1 世はバレンシア全 土のムデハルに対する追放令を出し、続く 1248 年 1 月にはアブー・バクルがモンテサの城 塞へと移されたという記述が残されている。こうして指導者であるアブー・バクルがハテ ィバを離れたこともあり、ハティバのムデハルの移住が始まっていく。一方、この 1248 年 と 1249 年の『分配記録』上にキリスト教徒入植者に対する土地財産の分配記述の増加が見 られるのである。その中にはアブー・バクルの一族の土地を細分して分配した記録も見られ、 旧支配体制の上層に属していた人々が所有していたハティバ周辺の土地が解体されはじめ ていたことを伺わせるであろう。 ハ テ ィ バ の キ リ ス ト 教 徒 植 民 は な か な か 固 定 し な か っ た よ う で あ る が 、そ れ でもこの時期のハティバではキリスト教徒人口が市街地では多数を占めるよ う に な っ て い っ た よ う で 、市 街 地 だ け で も 家 屋 に 関 す る 分 配 記 録 が 多 数 残 さ れ て い る 。こ う し た 市 街 地 に 住 む キ リ ス ト 教 徒 は 近 郊 に 与 え ら れ た 土 地 で 耕 作 を 行 い 、ハ テ ィ バ か ら 離 れ た 場 所 に 土 地 を 与 え ら れ た 入 植 者 は 、そ の 近 く の 集 落 に 住 む ム デ ハ ル を 小 作 人 と し て 雇 い 、年 に 数 度 農 作 業 の た め に そ の 土 地 へ 赴 く と い う 農 業 形 態 を 取 っ て い た と 考 え ら れ る 。そ し て 、ハ テ ィ バ の 市 街 地 に 関 し て 付 言 す る の で あ れ ば 、 1248年 以 降 キ リ ス ト 教 徒 住 民 が 増 加 し て い っ た 結 果 、 ハ テ ィ バ の ム デ ハ ル は ハ テ ィ バ 城 壁 の 外 側 へ の 移 住 を 余 儀 な く さ れ 、城 壁 外 に ラバルと呼ばれる居住区を形成していくのである。 ここでは 1252 年に至るまでに、ハティバ中の環境は短期間に大きく変化し、1252 年の Carta-puebla は 1248 年以降にキリスト教徒が主導権をにぎりつつあったハティバの現状 をハイメ1世が追認したものであったと言えるのではないだろうか。 一 方 で ハ テ ィ バ に 聖 堂 を 建 設 す る た め バ レ ン シ ア 司 教 は 1248年 に こ の 地 に 土 地 を 獲 得 し 、 続 く 1249年 3月 に は ハ イ メ 1 世 か ら 土 地 の 寄 進 を 受 け て い る 。 こ う し た ハ テ ィ バ へ の 教 会 組 織 の 進 出 に 関 し て 、ハ イ メ 1 世 は 2 つ の 目 的 を 持 っ て い た と 思 わ れ る 。一 方 で は 新 た な 支 配 地 を 迅 速 に 組 織 す る た め 教 会 組 織 の 存 在 に 期 待 し た こ と で 、ま た 他 方 で は カ ス テ ィ ー リ ャ の 影 響 か ら ハ テ ィ バ を 隔 離 す る 必 要 が あ っ た か ら と 思 わ れ る 。ハ テ ィ バ は も と も と 西 ゴ ー ト 王 国 時 代 に カ ル タ ゴ ネ シ ス 司 教 区 に 属 し て お り 、13世 紀 に お い て な お こ の 司 教 区 は カ ス テ ィ ー リ ャ に 属 し て い た 。だ か ら 、ハ イ メ 一 世 と し て は こ の ハ テ ィ バ を バ レ ン シ ア司教区の管理下に結びつけておこうという思惑があったと思われる。 ま た 、こ の ハ テ ィ バ に 修 道 士 を 派 遣 し て き た の が ド ミ ニ コ 会 や フ ラ ン シ ス コ 会 と い っ た 托 鉢 修 道 会 で あ る 。い ず れ も バ レ ン シ ア の 土 地 分 配 記 録 中 に 土 地 を 与 え た 記 述 が あ り 、こ う し た 托 鉢 修 道 会 に と っ て 、交 通 の 要 衝 に あ る ハ テ ィ バ は バ レ ン シ ア 、ム ル シ ア 、グ ラ ナ ダ 、カ ス テ ィ ー リ ャ へ 続 く 街 道 の 分 岐 点 と し て魅力的であったが、同時にその教育活動を見逃すことはできない。 例 え ば す で に ド ミ ニ コ 会 で は ム ル シ ア 、バ レ ン シ ア 、バ ル セ ロ ー ナ 、そ し て チ ュ ニ ス で ア ラ ビ ア 語 と ヘ ブ ラ イ 語 を 学 ぶ 学 校 を 設 置 し て お り 、13世 紀 末 以 降 ハ テ ィ バ で も こ う し た 活 動 が 見 ら れ る よ う に な る が 、そ の 目 的 は イ ス ラ ー ム や ユ ダ ヤ 教 の 文 献 を 読 め る 素 養 を 身 に つ け 、教 義 を 理 解 し て 彼 ら に 対 抗 で き る よ う に す る こ と で あ る と い う 。同 時 に そ う し た 素 養 を 身 に つ け る こ と は 、修 道 士 が ユ ダ ヤ 教 徒 や ム ス リ ム に 改 宗 を 勧 め る 説 教 を 行 う 際 に も 有 用 と な る 。キ リ ス ト 教 徒 の 共 同 体 が 確 立 さ れ て い く 中 で 1263年 以 降 、ム デ ハ ル や ユ ダ ヤ 教 徒 を 改 宗させようとする試みが行われる。 興 味 深 い の は 、ハ イ メ 1 世 が キ リ ス ト 教 徒 と ム デ ハ ル の 役 人 双 方 に 、説 教 の た め に 街 に 来 た 修 道 士 を 歓 迎 し 、ム デ ハ ル と ユ ダ ヤ 人 が 説 教 に 耳 を 傾 け る よ う 説 得するよう要求し、説教を聴くことを拒んだ者は罰すると命じていた点ある。 だ が 、彼 は 改 宗 が 引 き 起 こ す 問 題 点 に も 気 づ い て い た よ う で あ り 、イ ス ラ ー ム か ら の 改 宗 者 を 保 護 す る 命 令 も 出 し て い る の で あ る 。こ う し た 修 道 士 の 活 動 に も か か わ ら ず 、バ レ ン シ ア で は 13世 紀 に 集 団 改 宗 が 起 き た と い う 事 例 は 確 認 さ れ て い な い 。国 王 の 側 に は 修 道 士 に よ る 改 宗 運 動 を 支 援 し よ う と す る 動 き を 見 せ る も の の 、改 宗 が も た ら す 混 乱 に も あ る 程 度 の 理 解 が あ っ た こ と が 伺 え る か と思われる。 し か し 、 1260年 代 以 降 、 ハ テ ィ バ の キ リ ス ト 教 徒 の 共 同 体 が 拡 大 す る 中 で 、 ハティバの以前の支配者アブー・バクルがなおモンテサで健在であったこと、 またハティバのムデハルがグラナダのムスリムとの結びつきを持っていると い う 状 況 は 、ハ テ ィ バ の ム デ ハ ル に 対 す る キ リ ス ト 教 徒 の 疑 念 を 深 め 、キ リ ス ト教徒民衆によるムデハル襲撃という事態が発生するようになった。 こ う し た 事 例 は 他 に も バ レ ン シ ア 各 地 で 発 生 す る の で あ る が 、実 は 南 部 で は 北 部・中 部 ほ ど に は 見 ら れ な い 。こ れ は バ レ ン シ ア 北 部・中 部 に 較 べ れ ば ま だ ハティバを含む南部ではキリスト教徒社会の組織化が進んでいなかったこと、 ハ テ ィ バ が ハ イ メ 1世 の 軍 の 最 前 線 基 地 の 役 割 を 担 っ て い た こ と が そ の 理 由 と して考えられるかもしれない。 今回の報告では 1246 年までのハティバ社会の変化は乏しいが、度重なる反乱を契機とし て都市ハティバが一方では急速な変化を経験することになった一方で、長いタイムスパン でハティバにキリスト教徒を中心とした社会が形成されていった可能性が浮き上がってき た。また同時に、ハイメ一世の行動が改宗を図ろうとするなどキリスト教徒の価値観を色 濃く残しながらも、一方で改宗が行われた際に発生する問題点を考慮するなど一定の合理 性を持っていたことと、必要とあれば行動原理に変更が加えられていた点も興味深く、こ の点も今後の検討課題としたい。
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