現代モンゴル概観 ― 民主化から 20 年 Shinichi Koibuchi 亜細亜大学 教授 動くモンゴルの政治、経済 鯉 渕 信 一 化が進み、経済は急成長して新たな国造りは成功裏に モンゴル社会は 1990 年以降の約 20 年間に眼を見張 進んでいるかにみえる。しかし内実はいまだ国産みの らされる変化をみせた。その動きは内容といい、幅広 陣痛の中にある。経済は一時の混乱期を脱して成長を さといい、進捗度といい、実に見事でドラスチックで 続けてはいるが、実態は地下資源やカシミヤの輸出に さえあった。 偏り、新産業の創出はなく、貧富格差が拡大している。 モンゴルは建国以来 70 年間、旧ソ連など他の社会 また自由は獲得したが、一方で自由のはきちがえ、金 主義国家同様に一党独裁の中央集権的政治、経済運営 銭万能主義の横行もあって犯罪が増加し、利権をめぐ によって国民の労働意欲は低下し、マンネリ化が進 る汚職なども跡を絶たない。国民は新しい価値観を求 み、経済は停滞して社会の活力は低迷した。これ以上 めて模索し続けているかのようだ。 の低迷は許されない状況が充満する中で、80 年代半 ば以降、中国の改革・開放政策とソ連のペレストロイ 中ロの狭間の宿命を越えて ―― 新たな対外関係 カが国民を強く刺激した。とりわけ最大援助国のソ連 モンゴルが中国とロシア(旧ソ連)という強大な国 が援助の見直しを迫り、経済的自立を求めてきたこと 家に挟まれた人口わずか 300 万人にも満たない小国 で改革は待ったなしとなった。しかし一党独裁下での であることを考えれば、その国内政治、経済、外交と 改革では一向に進展しなかった。 いったものが簡単な図式では解けない複雑さのうえ 1990 年に入ると状況が一変した。東欧の激変、中 に成り立っていることは容易に想像されよう。 国の天安門事件などの衝撃を受けて 89 年 12 月、民主 近代以降、モンゴルは中ソ両国にとって戦略上の足 化運動が発生したのである。当初は 300 人足らずの小 場であり、角逐の場であった。モンゴルは、そうした さな集会であったが運動は急拡大し、わずか3ヵ月後 両大国の動静から一瞬たりとも目を離せない立場に の 90 年3月には憲法を改正して一党独裁を放棄し、 置かれつつ、その力の拮抗の上に国家建設を進めるこ 5月には多党制による自由選挙を実施するという大 とを余儀なくされてきた。中ソ両国の政治的思惑、動 展開を見せた。翌 91 年 1 月には市場経済移行への第 静いかんで自国の運命が決定づけられてしまうとい 一歩として統制価格を廃止し、そして遂には 92 年 2 う宿命を背負いつつ、いかに独立を維持・強化し、自 月、新憲法を発布して社会主義を破棄し、国名さえも 身のアイデンティティを守るかが建国以来の基本課 「モンゴル国」に変更したのである。流血の惨事もな 題であった。 く、1 人の逮捕者も出さない見事な体制転換であった。 そうした状況の中で、モンゴルは一貫してソ連側に 以降、法律を次々と整備して民主化を強化し、市場 立ってその全面的な支援のもとに国家建設を進めて 経済化を推進した。為替を自由化し、企業、家畜、土 きた。ソ連型社会主義をモデルとし、対外面でも常に 地などの国有財産の私有化を押し進め、教育内容の抜 ソ連と同一歩調をとってきたために、時にはソ連の 本改正も行った。ソ連の抑圧で否定されてきた民族文 「傀儡政権」視されたりもした。 化の復権も果たした。チンギス汗、伝統的モンゴル文 しかしゴルバチョフによる中ソ和解呼びかけ後(86 字、チベット仏教などがそれである。人々は今、チン 年)、懸案であったモンゴル駐留ソ連軍が撤収し、そ ギス汗を称え、モンゴル文字を学び、寺院に自由に参 れを契機に対立関係にあった中国と関係改善が進み、 拝している。国民が自己の権利を明確に主張するよう 一方でソ連関係に見直しの機運が高まった。特にこれ にもなった。 までのソ連の抑圧に対する反発、民族自立への思いが 民主化から 20 年、民主主義は行き渡り、市場経済 沸騰し、「脱ソ連」が民主化運動の一主題となり、一 -3- 気にソ連離れを果たしたのである。 モンゴルの気候風土は過酷である。内陸部にあって 一旦はソ連離れをしたが、改めて 93 年頃より新生 寒暖差が著しく、乾燥が激しい。冬は零下 40 度にも ロシアとの間の新たな関係構築に乗り出した。93 年 1 達し、降水量は年平均 300 ミリ、ゴビ地帯では 100 ミ 月にロシア、翌 94 年 4 月には中国との間にも新「友 リ前後という極端な乾燥世界。冬は地底から吹き上げ 好協力条約」を結んで新たな国家関係をスタートさせ るような吹雪が、春は大地を削り取るほどの砂嵐が、 たのである。中ロ両国との関係改善を図った上で、94 夏は大地を干し上げる日照りが続く。しかも大地は草 年 6 月には国会が「国家安全保障の指針」、「外交政 の根に辛うじて支えられた土が地表面を覆っている 策の指針」、「軍事ドクトリンの基礎」という外交政 だけ。家畜が草を根こそぎ食べたり、耕作で掘り返し 策の基本3文書を採択した。憲法に次ぐ重要文書と位 てしまうと雑草さえ生えてこず、乾いた烈風に大地は 置づけられているもので、いかなる軍事同盟にも参加 剥き出しになる。しばしば旱魃や大雪が大量の家畜を せず、領土・領空を他国への敵対目的で使用させず、 死に追いやる。家畜の死は人々の生活を脅かす。かと 外国の軍隊・兵器、特に核兵器、大量殺戮兵器を領土 いって人々は荒れ狂う圧倒的な自然の力の前に成す 内に設置もしくは通過させない、中ロ両国との友好関 術もなく、ただ畏れ、祈り、自然の怒りが静まるのを 係を外交政策の第一目標とし、第二に米国、日本など 待つ以外になかった。 先進諸国、アジア諸国との友好関係を拡大する等々を その畏敬すべき自然とは「天」であった。それは単 明示した。つまり中ロ両国のいずれにも偏らないバラ なる空ではなく、抽象的な天でもなく、モンゴル人自 ンス外交を基本に欧米諸国、アジア諸国と幅広く交流 身の頭上を覆う「天」そのもの、人々はそれを「テン を深めることで国家の安全、国際的地位の向上をはか グリ」と呼ぶ。そして天の対極として大地を、それに る道を選択したのである。モンゴルにとっては、中ロ 連なる属性として太陽、月あるいは山、湖水、火を崇 両大国に翻弄されない外交は建国以来の悲願であり、 めてきた。大地は家畜を養うエネルギーの源泉、人々 漸くその地位を築いたかにみえる。 は大地にも血管があると考え春に木を抜くこと、むや みに土を掘り返すことを厳しく戒めてきた。大地を傷 モンゴル人の自然観 ―― 変わる草原 つけることは自らの暮らしを圧迫することになる。死 前述したように、民主化運動の中で民族文化の象徴 者を葬るのに土葬を忌避したのも、草を根こそぎ食べ としてモンゴル文字やチンギス汗などが復権を果た るヤギを大量に飼うのを避けたのも厳しい自然の掟 したが、これらと並んで「自然保護」のスローガンが が生んだ自然観に根ざしている。こうして人々の暮ら 高々と掲げられた。社会主義時代に否定された「天崇 しを乗せつつモンゴルの草原は守られてきた。 拝」を中心とした民族古来の自然を尊ぶ心を取り戻そ しかし急激な市場経済化の波は、こうした自然観を うという運動であった。世界の民主化運動の中で、 薄れさせつつある。伝統的に羊の 4 分の1程度であっ 「自然保護」がその原動力として機能した事例は他に たヤギの数はカシミヤ需要の魅力に抗し切れずに増 ないのではないか。モンゴルでは新憲法に、「環境保 加の一途をたどり、今や羊を大幅に超えた。ヤギに食 護は国民の遵守すべき義務」(第 17 条)と明記され い尽くされ、縦横に走り回る車で傷つけられ、耕作し た。また 96 年には財政逼迫の中で中央省庁 13 省を9 ては放棄されて剥き出しになった草原が随所に目に 省に削減する大行革を断行したが、その中でも環境保 付くようになった。 護省は存続された。モンゴルは一、二の都市を除いて 自然以外には何もないような世界だが、こうした「自 モンゴル草原は今、悠久の歴史の中で初めての試練 を迎えているようだ。 然保護」の主張である。ここには所謂現代の環境問題 とは別次元の古来の自然観があるようだ。 -4-
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