妻と登った石割山 −UTMFと関わった3年間− 記:鈴木 修 「パパがやらなきゃ、誰がやるの?絶対、ボランティアしなさいよ」と妻に言わ れたのは 2012 年のゴールデン・ウイークの竜ヶ岳の山頂でした。その夏に家族で 富士山に登ることになり、妻のトレーニングの第一弾の時のことでした。 5 月の第 1 回のUTMFへのボランティアの要請が県岳連から私の所に来てい たのです。しかし、当時の私は「二晩も掛けて 160 キロメートルも山を走るなんて考え られない。そして、そのボラを徹夜でやるなんて、嫌だなぁ」と思っていたので す。そんな時に 2 人で登った竜ヶ岳に下見のトレールランナーが来ていました。 山頂で少しだけ話しましたが、彼らは本当に素直で格好良く妻はすっかり「トレルランナー」の味方となり、私にボランティアを勧めたのです。結婚して二十余 年。初めて妻から山に行きなさいと勧められた私は本番に行く事に決めました。 2012 年 5 月 13 日。集合場所の本栖湖に着くと、山岳ボラが少ないとのことで、 急遽「雨ヶ岳」に向かいました。途中で出会ったトレランのトップ選手は本当に 格好が良く、トレランに対する私の考え方が変わっていきました。臨時山頂ボラ の帰りはトップ選手と一緒に本栖湖まで下山しました。楽しい時間でした。 私は 10 キロメートルも歩いていませんが、彼らたちは 120 キロメートルも走ったあとです。 しかし、ついていくのがやっとでした。本当にビックリして山を走る楽しさに目 覚めた時でした。その後、河口湖のゴールボラをした後は本栖湖のエイドで一般 ランナーを徹夜で応援しました。トップランナーと違い、彼らは仮眠しながら毛 無山塊を縦走してきます。汗と泥だらけのランナーたちですが、本当に充実した 良い顔をしています。私はすっかりトレランの魅力に嵌ってしまいました。 ボランティアから帰宅して、その魅力を妻に伝えました。5月末の「クリーン アップ」のボランティアに妻を誘うと乗り気で 2 人で参加することにしました。 集合場所の『山中湖きらら』から石割山にゴミ袋を持って向かいました。2 人で 楽しいハイキングでした。 途中の石割神社では謂れ通り 3 回岩の間を通ってお願い事をしました。 登りきった「石割山」は快晴でした。2 人で妻の作ったおにぎりを食べながら 富士山を望みました。アサギマダラも遊びに来てくれ長閑な日でした。 その後は「二十曲峠」方面 にもゴミ拾いに行きましたが、 この 1 年目の大会はランナー のマナーが良くゴミはほとん どありませんでした。すっか りトレランに魅了された私は、 その年 7 月は「北丹沢山岳耐 久レース」10 月には「日本山 岳耐久レース(通称・ハセツ ネ) 」と完走し、翌 2013 年 4 月はUTMFの半分のSTY (84 キロメートル)も無事完走しま した。 2013 年 7 月の「北丹沢山岳 耐久レース」を完走した後、 とんでもないことが起きまし <2012 年 5 月 26 日 石割山山頂> た。妻が肺がんと解り余命 1 年と宣告されたのです。妻は 2014 年 2 月に天に召されてしまいました。7ヶ月の あっと言う間の事でした。葬儀・納骨も無事済ませました。気がつくと第 3 回U TMFは目の前に迫っていました。トレーニング不足ですし、気持ちもレースに 向いていません。しかも、事前のコース変更で私の力では完走は無理と判断しま した。出場するか迷いましたが、妻と登った思い出の「石割山」までは行こうと いう思いを胸にスタートラインにつきました。 2014 年 4 月 25 日 15 時 河口湖。あの 2 年前のクリーンアップの時に妻が被っ ていた帽子を被ってスタートしました。事前のコース整備で顔見知りとなった実 行委員長の鏑木さんに「行ける処まで行ってください」と声を掛けられゆっくり スタートしました。トレランの関門時間というのはエイドを出る時間なのです。 第 3 回大会は富士山が世界遺産になった関係で『A-5 太郎坊』以降の関門時間が 凄くきつくなったのです。鏑木さんも私の完走は無理と予想したようです。 しかし、昨年のSTYを完走できたので『A-3 山中湖きらら』までは行けるだ ろうとふんでいました。そこまで 39.3 キロメートル。関門は 23 時 30 分、スタート後 10 時間半です。友人たちに来てもらうことにしました。こういった大きな大会で はエイドでの補給は認められているのです。 この考えは凄く甘かったのですが、 、 、 河口湖から浅間神社までは 3.7 キロメートル。ゆっくり、30 分掛けて走りました。その 後、一山越えて、18 時 13 分『A-1 富士吉田』に到着。ここはまだ 18.2 キロメートル です。 想定より 20 分ほど遅れていますが先は長いので少し休んでヘッドライトの 支度をして出発しました。ここから「杓子山」までは長い林道の登りです。序盤 の山場です。いつもなら私の得意な登りだったのですが、この日は力が入りませ ん。どんどん後続のランナーに抜かれました。やはり、トレーニング不足です。 20 時 40 分「杓子山」到着。少しだけ休んで、先に進みます。もう、次の関門 まで時間がなくなってしまいました。 『A-2 二十曲峠』の関門は 22 時です。あと たった 5 キロメートルですが、途中は岩場もあり関門通過は微妙と予測しました。しか も、 「子の神の岩場」は私の想像以上でした。そこまで走って 21 時前に到着した のですが 40 分以上渋滞しました。完全なキャパオーバーです。やっと、動きだし ましたがもう時刻は 21 時 40 分。 あと 4 キロメートルを 20 分で走り抜けることは私には 不可能です。でも、諦めずに走ることにしました。ゆっくり夜の山を楽しんで駆 けながら、「二十曲峠でリタイアとなっても思い出の石割山までは個人的に登ろ う」と思いました。そんな時、スタッフが逆走してきました。 「異常な渋滞のため、 A-2 の関門時間はなくなりました。その後の関門も 30 分延長となりました。 」奇 跡が起きたように感じました。石割山を目標にしていた私にとっては思いがけな い幸運です。天国の妻が石割山に登らせてくれるのだと疲れた頭で思いました。 23 時 3 分『A-2 二十曲峠』に到着。33.4 キロメートルスタートから 8 時間 3 分、関 門はなくなりましたが、私のレースはここで終了しました。あとは妻との思い出 の『石割山』までゆっくり登るだけです。2 年前に 2 人でゴミ拾いをした時の事 が思いだされました。たった 2 年の間に本当に色々なことが起きました。まだ、 信じられませんが現実です。 23 時 50 分 「石割山」到着。当たり前ですが、 富士山も見えません。アサギマダラも居ませんでした。で も、私は充分満足しました。妻の帽子を被って記念撮影だ けして、友の待つ『A-3 山中湖きらら』に着いたのは日付 の変わった 26 日 0 時 56 分でした。
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