THE GLAD TIDINGS ガラテヤ人への手紙にみる福音 よきおとずれ E・J・ワゴナー 井深光子訳 (2002 年 4 月改訂) 目次 Contents はじめに……………………………………………………………………… 1 ガラテヤ1章………………………………………………………………… 2 ガラテヤ2章……………………………………………………………… 23 ガラテヤ3章……………………………………………………………… 43 ガラテヤ4章……………………………………………………………… 73 ガラテヤ5章……………………………………………………………… 90 ガラテヤ6章……………………………………………………………… 107 はじめに はじめに 聖書のどの書について書くにしても、問題とする書についての「紹介」にいくらかの時間をとるの が普通です。その性質、書かれた時の状況、著者の目的と思われること、その他の多くのことを、あ る程度の推量を交えて述べます。一般に読者は、そうして書かれたことをすべて、書いた人の権威に たよって受け入れざるを得ません。自分ではまだその書を研究してないので、判断できないからです。 そういう人にとって最も良い紹介の仕方は、一度その書を自分で研究してみてくださいと言うことで す。だれでも誠実で忠実であれば、その書自体についてはその書が啓示しているということを、すぐ に学びとることでしょう。私たちはある人物についてだれかが話すのを聞くよりも、本人と話すこと で、その人物をもっとよく知るようになります。だから、何はさておきガラテヤ人への手紙の研究を 進めることにしましょう。そしてそれ自体に語ってもらいましょう。 聖書そのものにとってかわることができるものは何もありません。だれでも、祈りつつ、誠実に聖 書を研究し、すべての言葉に熱心に注意を払い、それらが神から直接来たものとして受け入れるなら、 他にどんな宗教書も必要はないはずです。本来宗教書に書かれていることは何であっても、人々の注 意をより鋭く聖書の言葉に向けるためであるべきです。人のどんな意見であっても、聖書に代わって 人々を満足させ、それ以上聖書そのものを研究しないでおかせるようなものは、無用というより有害 です。だから、読者に、まず最初に、聖句をきわめて誠実にまた注意深く研究することを勧めます。 そうすれば、それについての言及はすべて、親しく知っていることについての言及となることでしょ う。聖書は人を救いに至らせる知恵の書です。この小さな書物がみ言葉研究の助けとなり、すべての 読者が聖書全体に良く通じた者となられるように切に祈ります。 1 ガラテヤ1章 真の福音:イエス・キリストの啓示 人々からでもなく、人によってでもなく、 イエス・キリストと彼を死人の中からよみが えらせた父なる神とによって立てられた使徒 パウロ、ならびにわたしと共にいる兄弟たち 一同から、ガラテヤの諸教会へ。わたしたち の父なる神と主イエス・キリストから、恵み と平安とが、あなたがたにあるように。キリ ストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、 わたしたちを今の悪の世から救い出そうとし て、ご自身をわたしたちの罪のためにささげ られたのである。栄光が世々限りなく神にあ るように、アーメン。 いては、あなたがたはすでによく聞いてい る。すなわち、わたしは激しく神の教会を迫 害し、また荒しまわっていた。そして、同国 人の中でわたしと同年輩の多くの者にまさっ てユダヤ教に精進し、先祖たちの言伝えに対 して、だれよりもはるかに熱心であった。と ころが、母の胎内にある時からわたしを聖別 し、み恵みをもってわたしをお召しになった かたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、 御子をわたしの内に啓示して下さった時、わ たしは直ちに、血肉に相談もせず、また先輩 の使徒たちに会うためにエルサレムにも上ら ず、アラビヤに出て行った。それから再びダ マスコに帰った。その後三年たってから、わ たしはケパをたずねてエルサレムに上り、彼 のもとに十五日間、滞在した。しかし、主の 兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会 わなかった。ここに書いていることは、神の みまえで言うが、決して偽りではない。その後、 わたしはシリヤとキリキヤとの地方に行った。 しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には、 顔を知られていなかった。ただ彼らは、「かつ て自分たちを迫害した者が、以前には撲滅し ようとしていたその信仰を、今は宣べ伝えて いる」と聞き、わたしのことで、神をほめた たえた。 あなたがたがこんなにも早く、あなたがた をキリストの恵みの内へお招きになったかた から離れて、違った福音に落ちていくことが、 わたしには不思議でならない。それは福音と いうべきものではなく、ただ、ある種の人々 があなたがたをかき乱し、キリストの福音を 曲げようとしているだけのことである。しか し、たといわたしたちであろうと、天からの 御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福 音に反することをあなたがたに宣べ伝えるな ら、その人はのろわるべきである。わたした ちが前に言っておいたように、今わたしは重 ねて言う。もしある人が、あなたがたの受け いれた福音に反することを宣べ伝えているな ら、その人はのろわるべきである。 (ガラテヤへの手紙1章) 今わたしは、人に喜ばれようとしているの か、それとも、神に喜ばれようとしているのか。 あるいは、人の歓心を買おうと努めているの か。もし、今もなお人の歓心を買おうとして いるとすれば、わたしはキリストの僕ではあ るまい。 使徒らしいあいさつ ローマ書の初めの句を除けば、1~5節のこ の挨拶の形は聖書のどこにも他には見つかりま せん。したがってこの世のどこにも見つかりま せん。それは福音全体を包み込んでいます。取 兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っ ておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によ るものではない。わたしは、それを人間から 受けたのでも教えられたのでもなく、ただイ エス・キリストの啓示によったのである。 ユ ダヤ教を信じていたころのわたしの行動につ り組みやすい聖書の箇所が他になければ、ここ に世を救うのに十分なものが含まれていますか ら、このわずかな箇所を熱心に研究し、まるで これ以上のものはないかのように尊重するなら、 わたしたちは限りなく強められた信仰と希望と 2 ガラテヤ 1 章 愛を持つでしょう。そして聖書の他の箇所につ キリストを通して、人に嘆願されたように、彼 いての知識がぐんと増加するでしょう。この句 らも、神が彼らを通してそうなさるためのキリ を読むとき、ガラテヤ人だけに宛てられたもの ストの大使なのです ( 第 2 コリント 5:17-20)。 としないで、その一言一句を、今日神が使徒を これは神の使命を語る場合に味わう失望や恐れ 通して自分に語っておられる声と考えるように に対するすばらしい支えです。地上の政府の大 しようではありませんか。 使は、王あるいは彼らが代表する支配者の権力 に釣り合った権威を持っています。まして、ク リスチャンは王の王、主の主を代表するのです。 良き任命 使徒というのはつかわされた者という意味で す。パウロは、イエス・キリストと彼を死から 使徒は神の使徒である よみがえらせた父なる神との使徒でした。彼に 「神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、 は十分な裏付けがありました。使命を伝える者 は、自分をつかわした方の権威と力に対し持っ 第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわ ている確信と同じだけの確信をその使命に持っ ざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者……を ています。パウロは自分が主につかわされたこ おかれた」( 第 1 コリント 12:28)。これらす とを知っていました。また神の力とは死からよ べては、神ご自身によって教会の中に置かれた みがえらせる力であることを知っていました。 ということを心にとどめておきましょう。神の 「神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語 他にだれもそれをすることはできません。本物 る」( ヨハネ 3:34)。だから、パウロが権威をもっ の使徒や預言者を人間が作ることは不可能です。 て語ったことは、神の命令によったのでした ( 第 世には、人に向かって、あなたがたの教会の中 1 コリント 14:37)。ですから、わたしたちは にどうして使徒や預言者がいないのか、と言う この手紙を読む際、また聖書のどこを読む時で 人々がいるものです。パウロやその他の者の使 もそうですが、聖書記者個人の特性や偏見につ 徒職さえもたびたび否定されたように、神が今 いて気を使うことはないのです。神は、それぞ 日に至るまで、ご自分の教会にそうした人々を れに異なった人格であるからこそ異なった働き 持っておられることを彼らは知りません。それ をするように、色々な人々を記者として選ばれ からまた、自分たちにはこれらすべてがあると ました。ですから、彼らの個性が書いた物の中 主張する団体が幾つかあります。彼らは聖書を に留められているのは確かです。しかし、すべ 読んで、真の神の教会には使徒、預言者その他 ては神の言葉であり、その使命には権威があり がいるはずだということを知ります。そこで彼 ます。記者の偏見や受けた教育のせいにして、 らは自分たちで、ある者を使徒、ある者を預言者、 その使命の権威を引き下げる必要のあるものは ある者を教師に任命しておいて、これが、自分 ありません。 たちが真の神の教会である証拠だとするのです。 ところが、その事実こそは彼らが真の教会では ただ使徒ばかりでなく教会の中にいるすべて ないということの最も強力な証明です。もし彼 の者は「神の口として語る」ように命じられて らが神の教会であるなら、神ご自身が、使徒や いる、ということを覚えているのは良いことで 預言者を彼らの中に置かれます。しかし彼らが す ( 第 1 ペテロ 4:11)。キリストにある者はだ 自分たちで使徒や預言者を作らなければならな れでも、イエス・キリストにより神との和解を くなったという事実が、彼らは実際には何も持っ 受けて新しく造られた者です。そして和解を受 ていなかったことを示しています。彼らは単に けた者はすべて和解の言葉と勤めとを与えられ 本物が欠けていることを隠すために偽物を置い ています。だから、神が、ご自分と和解するよう、 ているにすぎません。しかし、偽物の存在は本 3 物がいないことを強調するだけです。 によって継承されていたのでそう呼ばれました。 彼らは自分たちの名前からとった名の領土に、 キリストの時代より 3 世紀前に落ち着きました。 人々からでなく 彼らはもちろん異教徒でした。彼らの宗教は、 福音の教えに関する権威の根拠は、すべてキ ブリテンの太古ケルト族の僧たちのそれとよく リストの神性という事実にあります。キリスト 似ていました。使徒行伝 16 章 6 節、18 章 23 が神であるから、福音の教えには権威があるの 節を読むと、パウロが最初に彼らにキリスト教 です。使徒や預言者たちにはこの真理が十分に を宣べ伝えた人物だったことがわかります。ガ しみこんでいたので、彼らの書いたものの随所 ラテヤ地方は、パウロがバルナバと共に最初の にそれが表われています。この手紙の第 1 節で、 伝道旅行で訪問したイコニウムのルステラおよ パウロは、人々からでもなく、人によってでも びデルベを含んでいます ( 使徒 14 章 )。 なく、「見えない神のかたち」( コロサイ 1:15) であり、また「神の栄光の輝きであり、神の本 恵みと平安とがあなたがたにあるように 質の真の姿」( ヘブル 1:1 ‐ 3) であるイエス・ キリストによっていると宣言していることがわ これは主の言葉です。そのことを思い出しま かります。キリストは、世が存在する以前、初 しょう。ですから人の言葉以上の意味がありま めに神と共におられ、また神であられました ( ヨ す。主は中身のないあいさつをなさいません。 ハネ 1:1、17:5)。「彼は万物よりも先にあり、 それは、その言葉が言っている事柄を伴ってい 万物は彼にあって成り立っている」( コロサイ 1: ます。神の言葉は創造します。創世記に、その 17)。 創造する言葉の真の様相が表われています。 父と御子 神は言われた、「光あれ、すると光があった」。 「イエス・キリストと、彼を死からよみがえら せた父なる神」と言うのと、 「わたしと父とは一 つである」( ヨハネ 10:30) は同じ言い回しで、 創造のどの場面でもそういうことが続きました。 「彼が言われた、するとそれがあった」。だから、 ここで「恵みと平安があなたがたにあるように」 関係があります。ふたりは共に一つの御座につ と神が言われると、そうなります。「すべての人 いておられます ( ヘブル 1:3、8:1、黙示録 を救う神の恵みが現れた」( テトス 2:11)。「わ 3:21)。ふたりの間には平和の一致があります たしは平安をあなたがたに残して行く。わたし ( ゼカリヤ 6:12-13)。イエスは肉によればダビ の平安をあなたがたに与える。わたしが与える デの子孫でしたが、その全生涯を通じて神の御 のは、世が与えるようなものとは異なる」( ヨハ 子でもありました。聖霊があらゆることにおい ネ 14:27)。「『遠い者にも近い者にも平安あれ、 てそのことを表してきましたが、神の御子であ 平安あれ、わたしは彼をいやそう』と主は言わ ることが決定的になったのは、聖なる霊による れる」( イザヤ 57:19)。神はすべての人に、た 復活においてでした ( ローマ 1:3、4)。この手 とえわたしやあなたがどんな者であっても、義 紙はパウロの使徒職と同じ権威を持っています。 と救いとをもたらして恵みと平安を下さいます。 それは死からよみがえらせる力を持つかた、死 ガラテヤ人への手紙第 1 章のこの第 3 節を読む からよみがえったかたからのものです。 ときに、あいさつの文句の一種、つまりこれか ら本題に入る前のただの一時的なあいさつとし て読んではなりません。そうではなく、あなた ガラテヤの諸教会 に個人的に、理解を越える神の平安という完全 な祝福をもたらす創造の言葉として読むべきで ガラテヤは小アジヤの一地方で、ゴール人(現 す。それは、わたしたちにとって、イエスがル 在フランスとして知られている国から来た人々) 4 ガラテヤ 1 章 カ 7:48-50 で女に語った言葉、「あなたの罪は てすべての人が罪に定められたように、ひとり ゆるされた」、 「安心して行きなさい」と同じも の義なる行為によって、いのちを得させる義が のです。平安はあなたに与えられるのですから、 すべての人々に及ぶ」からです ( ローマ 5:15、 「神の平安があなたの心を支配する」ようにさせ 18)。 ましょう。 キリストは分けられたのではない キリストの賜物 パウロは、「キリストはいくつにも分けられた この平安と恵みは、「ご自身をわたしたちの のか。パウロは、あなたがたのために十字架に 罪のためにお与えになった」キリストから来ま つけられたことがあるのか」( 第 1 コリント 1: す。 「キリストから賜わる賜物のはかりに従って、 13) と質問しました。答は明らかに「そうでは わたしたちひとりびとりに恵みが与えられてい ありません」です。キリストがすべての人に与 る」( エペソ 4:7)。しかしこの恵みは「キリス えられるというのは、ひとりひとりが彼全体を ト・イエスにある恵み」です ( 第 2 テモテ 2:1)。 受けるのです。神の愛は全世界を包み込みます ですから、キリストそのものがわたしたちすべ が、個々の人に向けられもします。母親の愛と ての者に与えられたのだということがわかりま いうものは子どもたちの間で分割されはしませ す。人々が生きているという事実が、キリスト ん。各自が母の愛の三分の一、四分の一、また が彼らに与えられていることの証拠です。とい は五分の一を受けるのではなく、それぞれが母 うのは、キリストは「命」であり、その命は人 親の注目を全部受けるのです。ましてどんな母 の光であり、この命の光が世にある「すべての 親にもまさる愛をもち、また愛そのものである 人を照らす」からです ( ヨハネ 1:4、9、14:6)。 神にとって、それはどれほどのことでしょう ( イ キリストにあって万物は成り立っています ( コ ザヤ 49:15)。キリストは世の光、義の太陽です。 ロサイ 1:17)。神が「ご自身の御子をさえ惜し しかし光は人間の群れの間で分けられることは まないで、わたしたちすべての者のために死に ありません。もし人で一杯の部屋が明るく照ら 渡された」のですから、神は無償で「万物をも されていれば、各自がまるでその人ひとりがそ 賜わらないことがあろうか」( ローマ 8:32)。「い の部屋にいるかのように光の益を全部受けます。 のちと信心とにかかわるすべてのことは、主イ 同様にキリストの命は世に生れたすべての人々 エスの神聖な力によって、わたしたちに与えら を照らし、すべて信じる者の心に、キリストは、 れている」( 第 2 ペテロ 1:3)。全宇宙がキリス 彼に満ちているすべてをもって宿られます。地 トにあってわたしたちに与えられています。そ に一つの種をまいてみなさい、それはやがて多 して、キリストの中に満ち満ちている力は、罪 くの種をつけます。一つ一つの種は蒔かれたも に勝利するため、わたしたちのものです。神は のと同じだけの命を持っています。ですから、 わたしたちひとりひとりの魂を、創造されたす 真の種であるキリスト、すべての価値あるもの べてのものと同じく価値あるものとしておられ を生じるキリストは、彼の生命のすべてをすべ ます。キリストは神の恵みによって、すべての ての人にお与えになります。 人のために死を味わわれた ( へブル 2:9) ので、 世のすべての人は「言いつくせない賜物」( 第 2 コリント 9:15) を受けました。「神の恵みと、 わたしたちの罪はあがなわれた ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物 とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれた」。 キリストは、「わたしたちの罪のためにご自分 むしろ、すべての人々に満ちあふれたと言って をお与えになった」。それは、彼はわたしたちの いいでしょう。なぜなら「ひとりの罪過によっ 罪を買いとり、その代価を支払われたというこ 5 とです。これは事実を単純に述べています。用 たが先祖伝来の空疎な生活からあがない出され いられている言葉は、買うということに関して たのは、銀や金のような朽ちる物によったので 普通に使われるものです。「そのためにいくら支 はなく、傷も、しみもない小羊のようなキリス 払ったのか」、あるいは「そのためにあなたはい トの尊い血によったのである」( 第 1 ペテロ 1: くら欲しいのか」とはよくある質問です。わた 18-19)。 したちが、ある人がある物にこれだけ支払った というのを聞く時、すぐにわかるのは何でしょ 「愛されて受けいれられた」 うか。その人がそれを買ったのだから、それは その人の所有物だということです。ですから聖 福音宣伝者は、だれかが次のように言うのを 霊がわたしたちに、キリストはわたしたちの罪 何回聞くことでしょう。「わたしはあまりにも罪 のためにご自分をお与えになったと言うのを聞 深いので、主がわたしを受けいれてくださらな く時、何が確実だとわかるでしょうか。彼がわ いのではないかと恐ろしいのです。」そしてクリ たしたちの罪を買ったということ、それらは彼 スチャンであると長年の間告白している人々で のものだということ、そしてわたしたちのもの さえ、自分が神に受けいれられている確証が持 ではないということです。それらはもはやわた てさえしたら、とたびたびつぶやくのです。主 したちのものではなく、わたしたちにはそれら はそのような疑いには何の根拠もお与えになり についての何の権利もありません。わたしたち ません。受けいれられたかどうかについての疑 が罪を犯す度に、わたしたちは主から盗んでい 問は、今読んだばかりのことによって永遠に解 るのです。なぜならキリストは、わたしたちが 決されています。キリストはわたしたちのすべ 犯した特定の罪の行為、過去にあった罪ばかり ての罪と共にわたしたちを買って、その代価を でなく、罪の行為が湧き出てくるわたしたちの 支払われました。そのことは、彼がわたしたち 内にある罪そのものを買いとられたからです。 を受けいれられたということを示しています。 このことを信じる信仰に義があるのです。 なぜ人は店に行って品物を買うのでしょうか。 それが欲しいからです。もし彼が、買おうとし ている物がどんな物か知るために調べた上で、 彼はわたしたちをも買われた その代価を支払ったら、商人は、彼がそれを受 彼がわたしたちの罪を買いとられたという事 けとらないのではないかなどと心配するでしょ 実から、その次にはわたしたちをわたしたち自 うか。そんなことはするはずがありません。そ 身から解放するということがわかります。わた の商人はできるだけ早く買手にその品物を手渡 したちの罪はわたしたちの一部です。いや、そ すのが自分の仕事であると承知しています。も れらはわたしたちのすべてです。なぜならわた し彼がその品物を買手に渡さなければ、詐欺だ したちの生れながらの命には罪のほか何もない と言われます。その買い手はそれを気にとめず のですから。だからキリストは、わたしたちを に、「ところで、わたしは自分の分を果たして支 買うことなくわたしたちの罪を買うことはおで 払いをした。そこで、もし彼が彼の分を果たす きになりませんでした。この事実についてはっ 気がなく品物を渡さなくても、その必要はない。 きりと語っている言葉が幾つもあります。彼が、 それだけのことだ。彼が欲しいならその品物を 「わたしたちのためにご自身をささげられたの とっておいていい」と言うことはないでしょう。 は、わたしたちをすべての不法からあがない出 それどころか、彼は店を訪れて、 「なぜあなたは、 ……すためにほかならない」( テトス 2:14)。 わたしの物を渡さないのか」とつめ寄るでしょ 「あなたがたは、もはや自分自身のものではない う。彼は自分の財産を手にするために精一杯の のである。あなたがたは、代価を払って買いと 手立てをこうじることでしょう。イエスにとっ られたのだ」( 第 1 コリント 6:19)。「あなたが てはなおさら、わたしたちが自分を彼に明け渡 6 ガラテヤ 1 章 すかどうかということは、どうでもよいことで くの泉に水差しをもって出かけました。岩には はないのです。彼はご自分の血で買いとられた 苔がはえており、たえず水が流れているので滑 魂を、限りない切望をもって求めておられます。 りやすくなっており、水差しを流れの下に置く 「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して と滑り落ちてしまいました。彼は置き直しまし 救うためである」( ルカ 19:10)。神は「天地の たが、また落ちてしまいました。2、3 回こんな 造られる前から、・・・. わたしたちを選」ばれ ことが繰り返され、その水差しを置きなおす度 ました。ですから「神はわたしたちに神の子の ごとに、彼はいっそう力みました。ついにその 身分を授けるようにと・・・定めて下さったの 世捨て人の忍耐は尽きました。「じっとしていな である。……その愛する御子によって」( エペソ いんだったら、見ていろ!」と叫んで、水差し 1:4 ‐ 6)。 を取り上げてたいへんな勢いでたたきつけたの で、粉々に砕けてしまいました。その場に自分 以外に非難すべき者はだれもいませんでした。 「今の悪の世」 彼には、罪を犯させるのは自分の回りの世界で キリストは、「わたしたちを今の悪の世から救 はなく、自分の内なる世界だとわかるだけの常 い出そうとして」、ご自身をわたしたちの罪のた 識がありました。疑いもなく多くの人々は、こ めにささげられました。キリストは買いとった の小さな物語の中に何らかの自分の経験を認め わたしたちから、わたしたちの罪深さを取られ るでしょう。 ます。そのようにして、彼はわたしたちを「今 ルターは、世から逃れるために行った修道院 の悪の世」から救い出されます。「今の悪の世」 の独居室で、それまで以上に悲しむべき自分の とは、とりもなおさずわたしたち自身の罪深い 罪を見出しました。わたしたちがどこに行こう 自我にほかなりません。それは「肉の欲、目の とも、自分と共にある世界を連れて行くのです。 欲、持ち物の誇り」です ( 第 1 ヨハネ 2:16)。 その重く押しつぶされそうな重荷をわたしたち それらの悪を作るわたしたち自身が世にいるの の心の中に持ち、背負っているのです。わたし です。世を悪としているのは人です。「ひとりの たちは、良いことをしようとすると、自分の中 人によって、罪がこの世にはいり、また罪によっ に「悪がある」のに気がつきます ( ローマ 7: て死がはいってきたように、こうして、すべて 21)。それは今です、いつも「今の悪の世」です。 の人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込 そしてついに絶望のあまり、「わたしは、なんと んだのである」( ローマ 5:12)。わたしたちは いうみじめな人間なのだろう。だれが、この死 だれか他の者に非難を投げつけようとすべきで のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」 はありません。わたしたちは自らの悪で十分に と叫びます。キリストでさえ、人の住んでいる 自分を損なっています。 ところからはるかに離れた荒野で最大の誘惑に 激しいかんしゃくに付きまとわれて悩んでい 会われました。これらのことはすべて、世捨て た一人の男の物語を聞きました。彼は何度とな 人や修道僧は神のご計画ではないことを教えて く激しく怒りました。彼は一緒に住んでいる人々 います。神の民は地の塩です。塩はどんな良い にあらゆる非難を浴びせました。彼らがしゃく 塩であっても、箱の中にしまい込まれていれば にさわるのでした。だれだってこんな連中の中 役に立ちません。保存したいものと混ぜ合わせ にいたら良いことなんて出来っこない、と彼は なければなりません。 言うのでした。そこで彼は多くの人々がやった ように「世を去る」ことで解決しようとし、世 解放 捨て人になりました。住まいとして、他の人間 の住む所からはるかに離れた森の中の洞穴を選 神は約束なさった事を「なし遂げることがお びました。朝、彼は朝食のための水を汲みに近 できになる」。神は「わたしたちが求めまた思 7 うところのいっさいを、はるかに越えてかなえ わたしの罪が、 て下さることができる」( エペソ 3:20)。神は、 ―ああ、この輝かしい考えの 「あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、 たとえようもない幸い― その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうち に立たせて下さるかた」です ( ユダ 1:24)。神は、 わたしの罪が、 ご自分をわたしたちの罪のためにささげられま 一部ではなく、全部、彼の十字架に した。それはわたしたちを解放するためであり、 くぎ付けられた。 むなしく死なれたのではありません。解放はわ だから、わたしはもうそれを たしたちのものです。キリストは「盲人の目を 負ってはいない。 開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座す る者を獄屋から出させる」ためにつかわされま 主をほめよ、主をほめよ、 した ( イザヤ 42:7)。ですから彼は、捕らわれ おお、わが魂よ。 人に向かって「自由!」と叫ばれます。縛られ ている者に、獄屋の扉は開かれていると宣言さ れます ( イザヤ 61:1)。すべての囚人に向かっ 神の御旨 て彼は、「出よ」と言われます ( イザヤ 49:9)。 だれでもそうしたければ、「主よ、わたしはあな この解放はみな、「わたしたちの父なる神の御 たの僕です。わたしはあなたの僕、あなたのは 旨にしたがっている」。神の御旨はわたしたちが しための子です。あなたはわたしのなわめを解 清くなることです ( 第 1 テサロニケ 4:3)。 「神は、 かれました」と言ってよいのです(詩篇 116: すべての人が救われて、真理を悟ることを望ん 16)。わたしたちが信じようと信じまいと、その でおられる」( 第 1 テモテ 2:4)。そして神は「御 事は真実です。たとえわたしたちがかたくなに 旨の欲するままにすべての事をなさる」( エペソ 仕える事を拒むとしても、彼はわたしたちを買 1:11)。「何と!あなたは万民救済を教えるつも いとられたのですから、わたしたちは主の僕で りか」と言う人があるかもしれません。わたし す。そしてわたしたちを買いとられたキリスト はただ、神のみ言葉が教えていることを教えよ は、わたしたちが彼に仕えることを阻むあらゆ うとしているのです。それは、「すべての人を救 る縄目を解いてしまわれました。わたしたちが う神の恵みが現れた」ということです ( テトス 2: 信じさえすれば、世に勝つ勝利を持つことが出 11)。神はすべての人のために救いを完成された、 来ます ( 第 1 ヨハネ 5:4、ヨハネ 16:33)。わ そしてそれをお与えになった、ところが多くの たしたちへのメッセージは、わたしたちの「服 者がそれをはねつけ、捨て去るのです。完全で 役は終わり」、わたしたちの「とがはゆるされた」 十分な救いがすべての人に与えられましたが、 という事です ( イザヤ 40:2)。わたしたちは、 失われた者は彼らの既得の所有権を故意に投げ イスラエルがエリコを前にした時のように、神 捨ててしまったのだという事実を、さばきは明 がわたしたちに与えてくださった勝利を見るた らかにするでしょう。こうしてすべての口は封 めに叫ぶだけです。「神はその民を顧みてこれを じられます。 あがな」われました ( ルカ 1:68)。救う者がシ オンからきて、ヤコブから不信心を追い払いま だから神の御旨とは、それを喜ぶためのもの した ( ローマ 11:26)。「主イエス・キリストに であって、顔をしかめて受けいれるようなもの、 より勝利をわたしたちに賜わる神は感謝すべき また、ただがまんするものではありません。た かな。」 とえ苦難を含んでいるとしても、それはわたし たちにとって良いものであり、「永遠の重い栄光 を、あふれるばかりにわたしたちに得させる」 ために計画されています ( 第 2 コリント 4:17、 8 ガラテヤ 1 章 ローマ 8:28)。律法の中に神の御旨は現わされ わたしたちにはその力がないからです。しかし ています ( ローマ 2:18)。ですから、わたした 神は全能ですから救うことがおできになるし、 ちはキリストと共に、「わが神よ、わたしはみこ 救って下さいます。もしわたしたちがすべての ころを行うことを喜びます」( 詩篇 40:8) と言 栄光は神に属すると告白するのなら、虚栄心の いつつ、それを学ぶべきです。 強い想像とか誇りにふけらないようにしましょ う。そうすれば神はわたしたちにあって栄光と ここに神の御旨を知ることの慰めがあります。 されるでしょう。「あなたがたの光を人々の前に 彼は罪の束縛からわたしたちを解放して下さる 輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこ つもりなのですから、絶対の確信をもって、ま ないを見て、天にいますあなたがたの父をあが た感謝をもって、祈ることができます。なぜなら、 めるようにしなさい」( マタイ 5:16)。 「わたしたちが神に対していだいている確信は、 こうである。すなわち、わたしたちが何事でも 神のさばきの時が来たと知らせる「永遠の 神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを 福音」の宣告の主旨は、「神を恐れ、神に栄光 聞き入れて下さるということである」( 第 1 ヨハ を帰せよ」、「天と地と海の源とを造られたかた ネ 5:14-15)。幸いな保証を喜びつつ、へりくだっ を、伏し拝め」、ということです。( 黙示録 14: た心で、「みこころが天に行われるとおり、地に 6-7)。こうして、「栄光が……神にあるように」 も行われますように」といつも祈りましょう。 と言っているガラテヤ人ヘの手紙は永遠の福音 を述べているのだということがわかります。そ して、それは特別に最終時代のためのメッセー 神に栄光があるように ジです。研究し、大切にしましょう。そうすれ ばわたしたちは「海が水でおおわれているよう 「神に栄光があるように」とは、ただ一般の訳 に、地は主の栄光の知識で満たされる」時代を における「彼に栄光があるように」というので 早めることができるかもしれません ( ハバクク なく、改定訳での「栄光であるおかたに」、また 2:14)。 「国と力と栄えとはあなたのものです」という意 味です。すべての栄えは、たとえ人がそれを認 めようと認めまいと、神のものです。神に栄光 危機の場合 を与えるとは、神にはない何かを与える事では 使徒が彼の主題の中心に突入した唐突さは、 なく、事実を認めることです。わたしたちは、 この手紙を書かせた問題がどれほど急を要して 神は力あるおかただと認めることで、彼に栄光 いたかを示しています。彼の魂はまるで火の上 を与えます。 「われらを造られたものは主であっ にあるかのようであって、筆を握り、滅びに突 て、われらは主のものである」( 詩篇 100:3)。 進しようとしている魂への重荷を心に感じてい 絶大な神の力によって、キリストは死からよみ る人だけが書くことができるような書き方です。 がえらせられた、と告げているエペソ 1 章 19、 20 節や、「キリストが父の栄光によって、死人 の中からよみがえらされた」事がわかるローマ だれが人を招くのか 6 章 4 節によると、力と栄光は同じです。また イエスが驚くべき力により水をぶどう酒に変え 「神は真実なかたである。あなたがたは神に られたとき、奇跡を行う事で彼は「その栄光を よって召され、御子、わたしたちの主イエス・ 現わされた」とあります ( ヨハネ 2:11)。だか キリストとの交わりに、はいらせていただいた ら、神は栄光あるおかただと言うときには、あ のである」( 第 1 コリント 1:9)。 「あなたがた らゆる力は神から来ると言っていることなので をキリストにある永遠の栄光に招き入れて下 す。わたしたちが自分を救うのではありません。 さったあふるる恵みの神」( 第 1 ペテロ 5:10)。 9 「この約束は、われらの主なる神の召しにあずか れるのに代理者をお用いになるのは確かであり、 るすべての者、すなわちあなたがたと、あなた パウロはその一人でした。それにもかかわらず がたの子らと、遠くの者一同とに、与えられて 召されるのは神です。「神はキリストにあって、 いるものである」( 使徒 2:39)。だから、近く 世をご自身に和解させられた」 。わたしたちはキ にいる者、遠くにいる者、世界にいるすべての リストの大使です。だから今は、キリストによ 者を含む、あらゆる人を神は召されます。とこ らずわたしたちを通して、神は人々に神との和 ろがすべての者が来るのではありません。「どう 解を嘆願しておられます。語る口は多くあるか か、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよ もしれませんが、声はただ一つです。 めて下さるように。また、あなたがたの霊と心 とからだとを完全に守って、わたしたちの主イ エス・キリストの来臨のときに、責められると ころのない者にして下さるように。あなたがた を召されたかたは真実であられるから、このこ とをして下さるであろう」( 第 1 テサロニケ 5: 23-24)。人を召されるのは神です。 人と結び付いたり、離れたりするのはたいし たことではありませんが、神につながることは とても重大な事です。多くの人々は、この教会 またはあの教会で立派にやっている教会員であ りさえすれば安全であると考えているようです。 しかし、考えなければならないのは、わたしは 主につながっているだろうか、その真理の内を 歩いているだろうかということだけです。もし 神から離れて ガラテヤの兄弟たちが彼らをお招きになった かたから離れたということ、そして神があわれ み深くも人を招かれるかたであることから、彼 らは神から離れたのだということが明白です。 そこで、この手紙を書くに至った事情はささい なことではなかったことがわかります。パウロ の兄弟たちは致命的な危険の中にいたのでした。 だから彼はただのあいさつに時間をとることは できず、すぐに主題に入り、できるだけはっき りと率直な言い方で提示する必要がありました。 ガラテヤの兄弟たちを招いたのは自分である 人が主につながっていれば、自分が神の民の中 にいることがすぐにわかるでしょう。神の民で ない者たちは、熱心でないし、神に従う者を自 分たちの間にそれほど長くとどめておこうとは しないからです。イザヤ 66 章 5 節、ヨハネ 9 章 22 節、33 節、34 節、15 章 18 ‐ 21 節、 16 章 1-3 節、第 1 テモテ 3 章 1-5 節、12 節を 見てください。バルナバは、アンテオケに行っ たとき、「主に対する信仰を」揺るがない心で持 ちつづけるようにと兄弟たちを励ました」( 使徒 11:22-23)。それが必要なことの全部です。も しそうするなら、わたしたちは間違いなく神の 民と共にいることになるでしょう。 とパウロが考えていて、その彼から彼らは離れ て行っていたという意見を持つ人が時々います 神なしに が、それについて考察してみるのもいいかもし れません。少し考えてみれば、この考えの誤り 神から離れていた者たちは、神から遠ざけら にだれもが気づくに違いありません。まず、す れた状態、「世にあって神のない」状態にありま でに見た決定的な証拠、すなわち召されるのは した。しかし、そういう状態にいる者たちは異 神であるということを少し考えて下さい。また、 邦人または異教徒です ( エペソ 2:11-12)。で パウロ自身、弟子たちを自分の方にひっぱり込 すから、ガラテヤの兄弟たちは異教に逆戻りし もうとする者は背教者となると言っている事を ていたことが明らかです。それ以外にはありえ 思い出して下さい ( 使徒 20:30)。キリストの ません。クリスチャンが神から離れると、かつ 僕としての彼は、自分に人を引きつけようとす て自分がそこから救い出された古い生活に、い る可能性の最も少ない人物です。神が人を召さ つも決まって、しかも気のつかないうちに戻っ 10 ガラテヤ 1 章 てしまうからです。背教者はそれぞれ、以前自 んでした。ある訳では 6 節、7 節が次のようになっ 分が奴隷となっていた特定の習慣を再びするよ ています。「わたしはあなたがたがこんなにもす うになります。神なしにいるという状態以上に ぐに違った福音の方に動かされたことに驚いて 望みのないことは世にありません。 いる、大体そんなものなどないのに」。今、別 の福音などというものはないのだから、かつて も別の福音があったはずがありません。神は変 違った福音 福音は、「すべて信じる者に、救いを得させる 神の力」です ( ローマ 1:16)。神ご自身が力で すから、神からの離反は、神の力であるキリス トの福音からの離反を意味しています。救いを 与えると公言するものでないかぎり、福音と呼 べるものはありません。死より他に提供できな いというのは、福音ではありえません。「福音」 とは「喜ばしいニュース」、「うれしい知らせ」 化することのないかただからです。したがって、 パウロが、コリント人に伝えた福音すなわち「十 字架につけられたキリスト」と同じく、ガラテ ヤ人に宣べ伝えた福音は、エノク、ノア、アブ ラハム、モーセ、またイザヤによって宣べ伝え られたものと同じです。「預言者たちもみな、イ エスを信じる者はことごとく、その名によって 罪のゆるしが受けられると、あかしをしていま す」( 使徒 10:43)。 という意味であり、その言うことに、死に関す る契約は口を封じられるのです。間違った教義 「のろわれる」 が福音としてあらわれるのには、それが命の道 であると見せかける必要があります。そうでな もし、だれでも、それがたとえ天からの御使 ければ人を欺くことはできません。だから、ガ いであったとしても、パウロが宣べ伝えた福音 ラテヤ人たちは神以外の力による、言い替えれ とは別の違った福音を語るなら、その者はのろ ば自分自身の力による命と救いを約束するもの われます。善と悪の標準は、二つとはありませ によって、神からそらされていたことが明らか ん。今日のろいをもたらすものは、五千年前に です。この違った福音は単なる人間の福音にす も同じ結果を引き起こしました。こうして、救 ぎません。問題は、どちらが本当の福音かとい いの道はどの時代でもまったく同じであったこ うことでしょう。それはパウロが宣べ伝えたも とがわかります。御使たちがつかわされて、福 のか、それとも他の者が述べ立てているものか。 音がアブラハムに宣べ伝えられ ( ガラテヤ 3:8)、 だから、この手紙は、あらゆる間違った福音か また、預言者たちがその福音を宣べ伝えました ら区別される本当の福音を強く提示しているに ( 第 1 ペテロ 1:11-12)。しかし、もし彼らが宣 違いないということがわかります。 べ伝えた福音が、パウロが宣べ伝えた福音と違っ ていたら、彼らはのろわれていたことでしょう。 他には福音はない イエス、キリストだけが神の力であって、救 いを得させる名はイエスの名以外に人には与え られていません。だからただ一つの福音しかあ りません。 「力は神に属する」、そして神にのみ 属します。詩篇 62 篇 9 ‐ 11 節を見てくださ い。まがいものはむなしい。仮面は人ではあり ません。だからガラテヤの兄弟たちがそそのか されていた別の福音は、ただゆがめられた、偽の、 まがいものであり、全然福音などではありませ なぜ、違った福音を宣べ伝えると人はのろわ れるのでしょうか。そのわけは、その人は、実 際には何もないものに力があると語って、救い のためにそれに依り頼むようにさせることで、 他人をのろいに定める役目を果たすからです。 ガラテヤ人たちは神から離れて行ったのだから、 彼らが、誤って考えていた人間の力、すなわち 自分自身の力に救いを依存していたことは明ら かです。しかし、だれも他人を救うことはでき ません ( 詩篇 49:6-7)。だから、「おおよそ人 11 を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が あらじ」( イザヤ 8:20 文語訳 )。神の言葉をしっ 主を離れている人は、のろわれる」( エレミヤ かりとつかんでいるかぎり、だれも欺かれる必 17:5)。人をのろいに導く者は、もちろん自分 要はありません。そうです、神の言葉をつかん ものろわれます。 でいるあいだは、だれも欺かれるはずがありま 「盲人を道に迷わす者はのろわれる」( 申命記 せん。神の言葉は道の光です。 27:18)。もし身体的に盲人である人をつまず かせる者にとってそうであるなら、魂を永遠の 人を喜ばせない者 破滅に向けてつまずかせる者にとっては、なお さらあてはまることでしょう。救いについての 偽の望み-彼らを解放することの出来ないもの に依り頼むようにさせること-で欺く者以上の 悪人がいるでしょうか。それは人に底なしの穴 の上に家を建てさせるようなものです。使徒が 故意にのろいを繰り返しているのは当然です。 ここでまたもや、この手紙を書くことになった 状況の容易ならないことがわかります。 教会は最初の 3 世紀に異教を混入したこと、 改革にもかかわらず今なお多くの異教の考えが 残っているということは、諸教会の人々が認め ています。ところで、これは人を喜ばせようと した結果です。監督たちは、福音の原則の厳格 さをいくらかゆるめることによって、異教徒に 感化を及ぼすことが出来ると考えました。そし て彼らはそうしました。その結果が教会の腐敗 でした。人をなだめ、喜ばす努力の底には、い つでも自己愛があります。監督たちは ( ときには、 天からの御使 しかし、ただ一つの真の福音以外のものを、 おそらく意識せずに ) 常に人を自分に引きつけ ていたいと願いました ( 使徒 20:30)。人々の 好意を得るためには、彼らは妥協し、真理を曲 天からの御使が宣べ伝えるという危険と可能性 げねばなりませんでした。これがガラテヤで行 があるでしょうか。疑いもなく、今天からやっ われていたことでした。人々はキリストの福音 て来る御使のことではないでしょう。「罪を犯し をゆがめていました。しかし、パウロはそうい た天使」( 第 2 ペテロ 2:4) や、また「自分たち う種類の人間ではありませんでした。彼は人で の地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨 はなく、神を喜ばせようとしていました。彼は て去った御使たち」のこと、また彼らのおるべ 神の僕であって、彼にとっては、喜ばす必要の き所とは天であって、そこから投げ落されたこ あるのは神だけでした。人を喜ばそうとする者 とが聖書に書いてあります ( 黙示録 12:7-9)。今、 は、神の僕ではなく、人の奴隷です。 「サタンも光の天使に擬装する……。だから、た といサタンの手下どもが、義の奉仕者のように 擬装したとしても、不思議ではない」( 第 2 コリ ント 11:14-15)。自分たちは死んだ者の霊であっ て、上なる国 ( 死んだ者はそこにはいない ) から 新しいメッセージを持ってきたと公言し、イエ ス・キリストの福音とは違う「別の福音」を宣 べ伝えるのはきまって彼らなのです。彼らに注 意しなさい。「愛する者たちよ。すべての霊を信 じることはしないで、それらの霊が神から出た ものであるかどうか、ためしなさい」( 第 1 ヨハ ネ 4:1)。「ただ律法と證証とを求むべし。彼等 のいうところ此言にかなわずば晨光(しののめ) この原則はあらゆる段階の奉仕においても真 実です。人を喜ばすためにだけ働く家事手伝い 人や商店の雇人は、忠実な僕ではありません。 というのは、彼らは見られている所だけで良い 仕事をしようとしますが、雇主の目の届かない ところではわずかの仕事もしようとはしないか らです。だからパウロは、「僕たる者よ、何事に ついても、肉による主人に従いなさい。人にへ つらおうとして、目先だけの勤めをするのでは なく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。 何をするにも、人に対してではなく、主に対し てするように、心から働きなさい。あなたがた 12 ガラテヤ 1 章 が知っているとおり、あなたがたは御国をつぐ いうことをきわめてはっきりとさせています。 ことを、報いとして主から受けるであろう。あ 生れながらに、また教育によって彼は福音に敵 なたがたは主イエス・キリストに仕えているの 対していました。そして彼が回心したのは天か である」( コロサイ 3:22-24) と熱心に勧めます。 らの声によったのでした。使徒 9 章 1 ‐ 22 節、 神に仕え、神を喜ばせることだけを考える者は、 22 章 3 ‐ 16 節、26 章 9-20 節にある彼の回心 人に最高の奉仕を捧げるでしょう。 の記事を読んでください。神の聖徒たちに対し これはすべての人に印象づけられる必要が あります。クリスチャンの働き人には特にそれ て脅迫、殺害の息をはずませていた時の彼に、 主ご自身が現れたのです。 が必要です。影響力のある裕福な人物の好意を 回心の経験が全く同じ人は二人といませんが、 失うまいとして、真理の縁を鈍くする傾向があ 一般的な原則はみな同じです。事実上、すべて ります。金銭や地位を失うのを恐れて、どれほ の人がパウロと同じように回心すべきです。そ どの人たちが確信をもみ消してしまったことで の経験が彼の場合ほど衝撃的であることはめっ しょう。「もし、今もなお人の歓心を買おうとし たにないでしょうが、もし真正なものであれば、 ているとすれば、わたしはキリストの僕ではあ 同じように必ずや天からの啓示であるはずです。 るまい」ということを覚えていましょう。しか 「あなたの子らはみな主に教えをうけ」る ( イザ しこれは頑固で無礼になることではありません。 ヤ 54:13)。「父から聞いて学んだ者は、みなわ わざと人の感情を害することではありません。 たしに来るのである」( ヨハネ 6:45)。「あなた 神はだれに対しても良いかたです。神は感謝の がたのうちには、キリストからいただいた油が 無い者にも、清くない者にも、親切です。イエ とどまっているので、だれにも教えてもらう必 スは愛と慰めの言葉を語りつつ、良いわざをし 要はない。この油が、すべてのことをあなたが ようとして出て行かれました。わたしたちは魂 たに教える。それはまことであって、偽りでは を勝ち取る者なのだから、それに成功するやり ないから、その油が教えたように、あなたがた 方をしなければなりません。しかし、神のため は彼のうちにとどまっていなさい」( 第 1 ヨハネ に魂を勝ち取るのですから、愛するおかた、十 2:27)。 字架にかけられたおかたの魅力だけが現わされ るべきです。わたしたちは、彼の霊が自分を支 配するがままにさせることによって、キリスト に仕えるのです。 「彼の柔和なくびきをもっともよく負う者が、 彼にもっともよく仕える。」 これは福音宣伝に関して人間の代理者を一 切必要としないことだ、と憶測する間違いをし てはなりません。もしそうすれば、使徒たちは 自分自身を非難していることになります。なぜ なら彼らは福音を宣べ伝えていたからです。神 は使徒、預言者、教師その他を教会内にお立 てになりました ( 第 1 コリント 12:18)。しか し、彼らすべての内に働いているのは神の霊で 人間によらず この手紙が、福音は人間によるものでなく、 神によるものだという事実を強調していること に注意してください。最初の 5 節で、使徒は、 自分は人につかわされた者でもなければ、だれ かの代理人でもないと明言しています。重ねて 彼は、自分はただキリスト以外どんな人をも喜 ばすつもりはないと言います。そしてここで、 彼が伝えるメッセージは全く天からのものだと す。「神がおつかわしになったかたは、神の言葉 を語る」( ヨハネ 3:34)。ですから、最初にだ れから真理を聞いたかは問題でなく、人はそれ をまるで天から直接来たものとして受けいれま す。聖霊は、神の御旨を行いたいと望んでいる 人たちに、彼らがそれを見たり聞いたりすると き、すぐに何が真理であるかを告げることがで きます。すると彼らはそれをもたらした人間の 権威のゆえではなく、真実な神の権威のゆえに 13 受けいれるのです。わたしたちはパウロと同様 キリストは遠く離れて立っていながら、わたし に、わたしたちが把握し教えている真理につい たちに従えと言って正しい原則を示されるので て確信をもってよいのです。しかし人が、自分 はなく、ご自分をわたしたちに印象づけ、そこ の信仰を正当化するために、または真理そのも でわたしたちが彼にゆだねると、わたしたちを のより彼が確信を持つ人物の方に重きをおくた ご自分のものとし、その命をわたしたちの死ぬ めに、高い評価を受けている説教者のだれかれ べき体に現わされます ( 第 2 コリント 4:11)。 の名前を引合に出すようなときはいつでも、そ この命が輝き出なければ、福音の宣教はありえ の人は自分が告白している真理についてわかっ ません。イエスがパウロに啓示されたのは、パ てはいないのです。それは真理かもしれません ウロが異邦人の間にキリストを宣べ伝えるよう が、彼はそれが真理であることを自分ではわかっ にするためであったことに気をつけて下さい。 ていません。真理を知るのはすべての人の特権 彼はキリストについて宣教するのではなく、キ であり ( ヨハネ 8:31-32)、人が神から直接に リストご自身を現わしたのです。「わたしたちは 真理をつかむと、万の万倍の数の偉大な名前も、 自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリ その真理の権威に一枚の羽ほどの重さも加える スト・イエスを宣べ伝える」( 第 2 コリント 4:5)。 助けにはならないし、たとえ地上の偉大な人々 がすべてそれに反対しても彼の確信は少しもゆ るぎません。岩の上に建てることはたいしたこ とです。 神はキリストをすべての人に啓示しようと待 ち、かつ切望しておられます。「不義をもって真 理をはば」む者たちのこと、また、「神について 知りうる事がらは、彼らに明らかであり」、神は 「神の永遠の力と神性」が明らかに認められるよ イエス・キリストの啓示 それはただイエス・キリストによる啓示であ るばかりでなく、「イエス キリストの啓示」で あることに気をつけて欲しいのです。キリスト がパウロに何かを語られたというばかりでなく、 キリストはご自身をパウロに現わされたのです。 そして彼の中に真理があり、彼は真理です。こ こで言おうとしていることは 16 節からわかり ます。そこには、神が御子をパウロに啓示された、 またそれは彼が異邦人の間にキリストを宣べ伝 えるためだったと書いてあります。福音の奥義 は、信じる者の内にいますキリスト、栄光の望 みです ( コロサイ 1:25 ‐ 27)。聖霊はキリス トの個人的な代表者です。キリストは、わたし たちと永遠に共におられようとして聖霊を送ら れます。世はそれを受けません、それを見よう としないからです。しかし「あなたがたはそれ を知っている」とキリストは言われます。「なぜ なら、それはあなたがたと共におり、またあな たがたのうちにいるからである」( ヨハネ 14: 16-17)。そうであるときにのみ、神の真理を理 解することができ、理解させることができます。 うになさったということが書いてあります ( ロー マ 1:18 ‐ 20)。さて、キリストは真理です ( ヨ ハネ 14:16)、また彼は神の力であり ( 第 1 コ リント 1:24)、神でした ( ヨハネ 1:1)。です から、不義なる者がはばんでいるのは、キリス トです。彼は神の言葉です。彼は人の内にあっ てその言葉を行うのです ( 申命記 30:14、ロー マ 10:6-8)。キリストはすべての人の内にいま すということは、すべての人が生きているとい う事実から確かです。しかし、キリストはあま りにも阻まれ、押さえ込まれているので、彼を 見分けるのが困難です。それどころか、ほとん どの人の中には、反対の品性が現わされており、 多くの場合、ただ生きて息をしているという事 実だけがキリストがそこにおられる証拠である にすぎません。しかし、キリストはそこにおら れます。現わされるのを忍耐強く待ちつつ、神 の言葉が思うままに事を成し、栄光を帰せられ、 ナザレのイエスの完全ないのちが死ぬべき肉体 に現わされる時の来るのを待ちこがれておられ ます。これは、その人が今どれほど罪深く、堕 落していようとも、「だれでも望む者」の内に実 現します。今そうすることを、神は喜ばれます。 14 ガラテヤ 1 章 だから抵抗するのをやめましょう。 ろの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やり に神を汚す言葉を言わせようとし、彼らに対し てひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、 個人の経歴 第 1 章の 12 節から 2 章の中ほどまで、個人 の経歴の物語が明瞭な目的をもって語られてい ます。パウロの経験から、福音の真理と、それ が人からは何も取らないで、すべてを与えるも のだということがどういうことなのかがわかり ます。使徒は、彼の生涯の初期に、福音に反対 することを学んだので、福音に感化されること を拒んでおり、激しく反対しました。それから、 近くにだれもクリスチャンがいなかった時に回 迫害の手をのばすに至りました」( 使徒 26:9 ‐ 11)。彼の生活を知っていたエルサレムのユ ダヤ人に向かって、彼は、「この道を迫害し、男 であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを 死に至らせた」( 使徒 22:4) と言いました。彼 がこのようなことをしたのは、前の聖句で言っ ているように、彼が「神に対し熱心であった」 からです。彼はこのような熱心でいっぱいだっ たので、ただただ「脅迫、迫害」の息をはずま せていたのです ( 使徒 9:1)。 心しました。その後何年間かクリスチャンとの 関係は無いも同然でした。こうしたことをすべ て、ガラテヤ人たちは前から知らされていまし たが、パウロは、だれか別の人間の発案を彼ら にもたらしたのではなかったということをみん なに明らかにするために、自分の経歴を繰り返 すことが必要でした。 今日ではあまり一般的ではない感覚で、聖書 の中に数回用いられている「行動」という言葉 に気をつけてください。別訳の聖書と比較する と、 「生活の作法」という意味だとわかります。 パウロの「過去における行動」は彼の初期の生 活でした。 真の神を礼拝すると公言する者が、そういう 奉仕が神を喜ばすと思い込んで、神についてそ れほどにも間違った考えを持つことがあるとは ほとんど信じられないように思われます。とこ ろが、かつてなかったほど最も苦く無慈悲なク リスチャンの迫害者、タルソのサウロは、何年 か後に、「わたしは今日まで、神の前に、ひたす ら明らかな良心にしたがって行動してきた」と 言うことができました ( 使徒 23:1)。サウロは トゲを蹴り、クリスチャンの忍耐強さを目撃し、 彼らが死に際してする真理についての証を聞き、 自分に迫り次第に大きくなる確信を黙らせよう と努力しながらも、意図的に良心の声にかたく なになったのではありませんでした。それどこ ろか、彼は良心を保とうと努力していたのです。 熱心の点では教会の迫害者 これはパウロがピリピ人への手紙の中で、自 そしてパリサイ人の言伝えをあまりにも深く教 え込まれていたので、これらの都合の悪いトゲ は、抑え込むべき悪の霊のそそのかしにちがい 分について言ったことです ( ピリピ 3:6)。彼 ないと感じたのです。それで神の霊のトゲは、 はどんなに熱心であったか自分で語っています。 当面、クリスチャンに反対する彼の熱心さを倍 彼は、神の教会を「激しく」迫害し、 「荒らし回っ 加させるだけでした。世にあるすべての人の中 た」。使徒 8 章 3 節も見てください。アグリッ で最も自己を義とするサウロには、キリスト教 パの前で彼は、こう言いました。「わたし自身も、 に傾くものは何もありませんでした。しかし、 以前には、ナザレ人イエスの名に逆らって反対 彼の間違った方向への熱心さは「神についての の行動をすべきだと、思っていました。そして 熱心」でした。そしてこの事実が、彼をクリスチャ わたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長 ンの働き人として良い人材としたのです。 たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを 獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、これに 賛成の意を表しました。それから、いたるとこ 15 パウロの益 パウロは、彼の時代の同国民である同輩の多 くにまさり、「ユダヤ人の宗教において」卓越し ていました。彼は、ユダヤ人の若者にとって可 能な限りのあらゆる有利さを持っていました。 「ヘブル人の中のヘブル人」( ピリピ 3:5)、そ ればかりか、彼は生れながらにローマの自由市 民 で し た ( 使 徒 22:26 ‐ 28)。 生 れ つ き 機 敏 で知性が豊かな彼は、最も賢い律法学者の一人、 ガマリエルの指導を楽しみ、「先祖伝来の律法に ついてきびしい薫陶を受け」ました ( 使徒 22:3)。 彼は、ユダヤ人たちの間の「最も厳格な派」に 従い、パリサイ人として生活しました。「パリサ イ人の中のパリサイ人」であり、彼の階級のだ れよりも先祖の「言伝えにきわめて熱心」でした。 彼は成人すると、ユダヤ人の大議会サンヒドリ な間違いを犯しています。新約はローマカトリッ ク主義を教えているのではないように、旧約は ユダヤ主義を教えているのではありません。旧 約の宗教はイエス・キリストの宗教です。使徒 たちが後に宣べ伝えたのと同じ福音を提示する ように預言者たちを感動させたのは、キリスト の霊でした ( 第 1 ペテロ 1:10-12)。パウロが「ユ ダヤ教」だった時、毎日読んだり聞いたりして いた旧約聖書を彼は信じていなかったと言える でしょう。理解していなかったからです。もし 彼が理解していたら、キリストを信じていたで しょう。「エルサレムに住む人々やその指導者た ちは、イエスを認めず、安息日ごとに読む預言 者の言葉も認めなかったからである。彼らはイ エスについての預言を成就した」( 使徒 13:27 英訳 )。 ンの一員になりました。それは、彼がクリスチャ ンを死に定めるとき賛成の意を表したとあると おりです ( 使徒 26:10)。これに加えて、彼は、 大祭司の信任を得ており、大祭司は、全国の会 堂司たちに宛てた、「異端者」としてとがめられ た者を捕えて縛りあげる権威のある紹介状を、 ただちに彼に与えました。彼は実際に出世しつ つある若者であり、ユダヤ人の指導者たちは、 彼がユダヤ国民と宗教の回復に関し、今までの 偉人をさらに上回る貢献をするだろうと信じ、 誇りと望みをもって彼を見ていました。世的な 観点からみれば、サウロの前途には約束された 将来がありました。しかし、彼が得たこれらの ものを、彼はキリストのために損とみなしまし た。キリストのために彼はいっさいのものを損 と思うようになりました ( ピリピ 3:7-8)。 先祖の言伝えは神の戒めを破棄するようにさ せました ( マタイ 15:3)。神はユダヤの人々 ( 全 体としての ) のことを次のように言われました、 「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心 はわたしから遠く離れている。人間のいましめ を教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」 ( マタイ 15:8-9)。安息日に指導者たちは会堂 で聖書を読み、その教えについては非難すべき ことはありませんでした。イエスは、「律法学者 と、パリサイ人とは、モーセの座にすわっている。 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな 守って実行しなさい。しかし、彼らのすること には、ならうな。彼らは言うだけで、実行しな いから」と言われました ( マタイ 23:2-3)。イ エスはモーセと彼の書いたものを一言も非難さ れませんでした。彼はユダヤ人に向かって、「も し、あなたがたがモーセを信じたならば、わた キリストの宗教でなく、先祖の言伝え パウロは、「同国人の中でわたしと同年輩の多 くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たち の言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心で あった」と言っています。「ユダヤ教」が神とイ エス・キリストの宗教ではなく、人間の言伝え であった事はたやすくわかります。人々は、「ユ ダヤ主義」を旧約の宗教だと考えるという大き しをも信じたであろう。モーセはわたしについ て書いたのである」( ヨハネ 5:46) と言われま した。だから学者たちがモーセの書いたものか ら読んで命じたことはみな、実行すべきことで した。しかし、読んだ者たちは聖書に従ってい なかったので、彼らを模範とするのは避けなけ ればなりません。キリストは、「( 彼らは ) 重い 荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動 かすために、自分では指一本も貸そうとはしな 16 ガラテヤ 1 章 い」と言われました ( マタイ 23:4)。これらは 者である」と言われました ( 使徒 9:15)。サウ 神の戒めではありませんでした。というのは「( 神 ロが迫害の狂気に捕えられていた時に、神は彼 の ) 戒めはむずかしいものではない」( 第 1 ヨハ をとどめられました。彼を使徒としてお選びに ネ 5:3) からです。そして重いものはキリスト なったからです。それで、彼が蹴っていたトゲは、 のものではありません。彼の荷は軽いからです 彼が召された働きに彼を向けさせようとする聖 ( マタイ 11:30)。 霊の訴えであったことがわかります。 わたしたちはガラテヤ人たちをそらそうとし しかしこの時よりどれほど前から、サウロは た「ユダヤ教の教師たち」について多くを聞き、 主の使命者として選ばれていたのでしょうか。 「違った福音」を教えていた人々はユダヤ人だっ 彼は自ら、生れた時から「選び分かたれていた」 たことを知っています。しかしこれらの「ユダ のだと言っています。生れた時から生涯の仕事 ヤ教の教師たち」が、新しい回心者たちに聖書 をするために選ばれていたと記されているのは またはその一部を提示していたとか、モーセに 彼が最初ではありません。サムソンの場合を思 よって書かれた聖書に彼らを従わせようとして い出して下さい ( 士師 13:2 ‐ 14)。バプテス いたと考える間違いを犯してはなりません。そ マのヨハネは生れる何ヶ月も前から名前を与え れどころか、彼らは人々を聖書から引き離し、 られ、彼の品性と生涯の仕事について説明され その教えの代わりに人間の戒めに導いていまし ていました。主はエレミヤに、「わたしはあなた た。これがパウロの精神を奮起させたのです。 「ユ をまだ母の胎内につくらないさきに、あなたを ダヤ教」は、律法や預言者や詩篇で教えられて 知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを いる神の宗教とはまったく違ったものでした。 聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」 と言われました ( エレミヤ 1:5)。異教徒の王ク ロスは、彼が生れる百年以上も前に名を呼ばれ、 「神の福音のために選び分かたれた」 「神の福音のために選び分かたれ、召されて使 神のわざの一端をになう働きが彼のために定め られていました ( イザヤ 44:28、45:1 ‐ 4)。 徒となった」。これはローマ人への手紙の中でパ ウロが自分の事を説明している言葉です ( ロー マ 1:1)。また彼はここで、神が「母の胎内に ある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわ たしをお召しになった」と言っています ( ガラ テヤ 1:15)。サウロが自分でもクリスチャンに なることなど全然考えなかった以前から、神は 彼を使徒とするためにお選びになったというこ とは、この神聖な物語によって明白です。彼は「脅 迫と迫害の息をはずませ」ながら、ダマスコへ の途上を、男も女もすべてのクリスチャンを獄 に入れるために捕え、縛り、ひきずって行くだ けの権限をもって進んでいました。サウロは突 然、人の手によってではなく、主の圧倒的な栄 光によって止められたのです。三日後に、サウ ロの視力を回復させるためにアナニヤを遣わさ れたとき、主は、 「あの人は、異邦人たち……に、 わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ これらは特別な事例ではなく、この世におけ る神の支配をわたしたちに示す目的で記録され たのです。テサロニケ人たちについて、「神が」 彼らを「初めから選んで、御霊によるきよめと、 真理に対する信仰とによって、救いを得させよ うと」されたとあるのは、すべての人々にとっ ても同じく真実です ( 第 2 テサロニケ 2:13)。 その召しと選びを確実にするのは、すべての人 次第です。そして「すべての人が救われて、真 理を悟るに至ることを望んでおられる」かたは ( 第 1 テモテ 2:3)、また「それぞれ仕事を割り 当て」ておられます ( マルコ 13:34)。無生物 の創造においてさえ、ご自分をあかししないで はおられないかたは ( 使徒 14:17、ローマ 1: 20)、地上における最高の創造である人間が、人 間の知性によってだけできるような証を進んで するのを喜ばれるでしょう。すべての人は神の 証人として選ばれ、各々仕事が割り当てられて 17 います。聖霊は、神が召された働きに用いられ ことがおできになります。そしてもし彼らが神 るのを各自が認めるよう、その人の一生を通じ のおっしゃることを聞きたくないというのなら、 て説得に努めます。たださばきの日だけが、ど たとえわたしたちが彼らを正しい道に導くこと れほどすばらしい機会を人が無謀にも放り投げ ができるとしても、彼らは耳を傾けようとはし てしまったかを明らかにすることでしょう。ひ ないでしょう。 「人の道は自身によるのではなく、 どい迫害者であったサウロは力強い使徒となり 歩む人が、その歩みを自分で決めること」はで ました。人々に及ぼす大きな力を悪のためだけ きません ( エレミヤ 10:23)。だから、まして、 に発揮していた人が、もし聖霊の感化に身をゆ だれか他人の歩みを決めることなどできるで だねるなら、どれほど大きな善をすることがで しょうか。 きるか、だれが想像できるでしょう。すべての 人がサウロではありませんが、神がお与えにな 血肉との相談 る力に従って各々が神を証するために神から召 され、選ばれているという考えがいったん把握 されるなら、それはその人の生活に新しい意味 を与えることでしょう。 その真理を知ると、わたしたちは神のみここ ろを個人的に知りたくなり、神がわたしたちの ために計画された働きに用いていただけるよう に、全的に神に服すようになり、生活がもっと 現実的になるばかりでなく、もっと他人の事を 思いやるようになり、小さい者を無視すること がなくなることでしょう。各自すべきこととし て神に与えられた働きにつこうとしている人々 を見るというのは、何とすばらしく、喜ばしい、 しかも厳粛な思想でしょうか。彼らは至高なる 「わたしは直ちに、血肉に相談もせず」 。この 声明は、使徒パウロは福音をどの人間からも受 けたのではないということを示す目的でなされ ています。彼はキリストを見、そして彼を受け いれました。それからアラビヤに行き、その後 ダマスコに戻り、回心から三年後までエルサレ ムに上りませんでした。エルサレムに彼はわず か十五日間しか留まらず、ただ二人の使徒に会っ ただけです。そればかりでなく、兄弟たちは彼 を恐れ、最初は彼が弟子であることを信じよう とはしませんでした。だから、彼が福音を人間 から受けたのではないことははっきりしていま す。 神の僕であり、それぞれが特別な奉仕を割り当 てられています。それは驚くべき特権であり、 また驚くべき責任でもあります。神が彼らにさ せたいと思っておられる働きをしているのは、 なんとわずかな人々にすぎないことでしょう。 わたしたちだれもが、天が彼に与えた責務から ほんのわずかでもそれないように厳重に注意し なければなりません。 わたしたちが覚えていなければならないもう 一つのことは、全ての人に仕事をお与えになる のは神であるということです。それぞれが神か ら指図を受けるのであって、人からではありま せん。だからわたしたちは他人の義務に関して しかし、パウロが血肉に相談しなかったとい うことからは、さらに学ぶことがあります。彼 には主ご自身の言葉があったので、自分の召し を確かめる必要はありませんでした。しかし彼 のような成り行きは決してありふれたことでは ありません。たとえば、ある人は聖書の中に或 る事を読むと、それを思いきって信じる前にだ れか他の人の意見を聞かずにはいられません。 もし友人がだれも信じなければ、それを受けい れるのを恐れます。もし牧師あるいは何かの注 釈がその聖句を釈明すると、それで終わってし まいます。血肉は、聖霊とみ言葉に反対させる ことになります。 指図することに慎重でなければなりません。神 は、わたしたちに、わたしたちの義務をはっき りと教えてくださるように、彼らにもそうする あ る い は、 そ の 戒 め が た い へ ん 明 白 で、そ の意味をだれかに聞くまでもないこともあるで しょう。すると、わたしはそれができるだろうか、 18 ガラテヤ 1 章 多大な犠牲を払うに価しないのではないだろう りませんか ( 詩篇 119:32)。 かと自問するのです。人が相談し得る血肉でもっ とも危険なのは自分の血肉です。他人にたよら 異邦人―異教徒 ないということだけでは十分ではなく、人は、 真理のことでは自分にたよらないことが必要で す。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識に たよってはならない」( 箴言 3:5)。 「自分の心 を頼む者は愚かである。」( 箴言 28:26)。法王 というのは、神だけに権利のある、相談を受け る立場をあえてとる者です。自分自身の勧めに 従うことによって、自分を法王とする者は、他 人を指図する人と同じくらい悪く、自分以外の 法王に従う人よりもいっそうさまよい出て行く 傾向があります。もし人がそのような法王に少 パウロは、異教徒に宣べ伝えるため、自分に キリストが啓示されたと告げています。別訳で は「異教徒」の代わりに、「異邦人」という言葉 が使われています。違いはありません。英語の 聖書中では、この二つの言葉はどこで用いられ ていても、相互に交換できる言葉として使われ ています。どちらも一つのギリシャ語から訳さ れているからです。なお、旧約ではヘブル語か ら訳されています。2、3 の例を見てみましょう。 しでも従うなら、なおさら、なんの矛盾も感じ 第 1 コリント 12 章 2 節に、「あなたがたがま ることなくローマ法王を受けいれることでしょ だ異邦人であった時、誘われるまま、物の言え う。なぜなら、彼は他のだれよりも法王として ない偶像のところに引かれて行ったことは、あ 多くの経験があるからです。しかしわたしたち なたがたの承知している通りである」とありま には神の言葉があるのだから、だれもそんな必 す。これは「異教徒」のことを言う通常の言葉 要はありません。神が語られる時、知恵の役目は、 から来ており、この聖句自体が、異邦人とは偶 自分の心にさえ相談せずにすぐに従うことです。 像礼拝者、すなわち異教徒であることを示して 主のみ名は「議士 ( 相談者 )」であって ( イザヤ 9: います。コリント人は「異邦人であった」こと 6)、彼は「霊妙なる議士」です。彼に聞きなさい! に注目して下さい。彼らはクリスチャンになる 彼はとこしえにわたしたちの導き手となられる ことで、そのような者ではなくなりました。「だ でしょう。 から、記憶しておきなさい。あなたがたは以前 には、肉によれば異邦人であって、手で行った 直ちに この言葉に気をつけてください。パウロは交 渉するために立ち止まりませんでした。彼は時 間を無駄にしませんでした。彼は教会を迫害し ていた時、神に仕えているのだと考えていまし た。そして彼は自分の間違いに気がついた瞬間 肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割 礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリ ストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束 されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中 で希望もなく神もない者であった」 (エペソ 2: 11、12)。異邦人であることは、少しも羨まし くない状態であることは確かです。 にぐるりと向きを変えました。ナザレのイエス を見た時、彼を主と認め、ただちに、「主よ、わ たしは何をしたらよいでしょうか」と叫びまし た。彼はその瞬間からすぐ仕事につく用意があ りました。これは十分模範に価します。だれも が、「わたしはあなたの戒めを守るのに、すみや かでためらいません」( 詩篇 119:60)、また、 「あ なたがわたしの心を広くされるとき、わたしは あなたの戒めの道を走ります」と言おうではあ 使 徒 15 章 14 節 で は、「 神 が 初 め に 異 邦 人 たちを顧みて、その中から御名を負う民を選び だされた」と告げられています。そしてヤコブ は、アンテオケその他の信者のことを「異邦人 の中から神に帰依している人たち」と言いまし た。神の民は異邦人の中から取り出されました が、取り出されていることで異邦人ではなくなっ ています。イスラエルの父アブラハムは、異教 徒の中から取り出されました ( ヨシュア 24:2)。 19 だから、すべてのイスラエルは異邦人の中から いますが、彼は行くところどこでも、聞いても 取り出されています。こうして異邦人が全部救 らえるかぎり、まずユダヤ人に宣べ伝えました。 われる時、「イスラエル人は、すべて救われるで そのことは、キリスト以前も同じでした。多く あろう」( ローマ 11:25-26)。 の代表者によって、神は、すべての国民にご自 詩篇 2 篇 1 ‐ 3 節に、次のことを読んでわた したちは正当だと思います、「なにゆえ、もろも ろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなし い事をたくらむのか。地のもろもろの王は立ち 構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主 とその油そそがれた者とに逆らって言う (「油注 がれた者」とはキリストのことなのだから、こ れはキリストに逆らってという意味である )、 『わ れらは彼のかせをこわし、彼らのきずなを解き 捨てるであろう』と」。このことが個々人の場合 に成就するのを、何度見ることでしょう。彼ら はむなしい勝利を得て叫ぶのです、「異邦人が十 戒を守るように命じられている箇所があるなら われわれに示して見よ!」と。彼らはそう言う ことで、自分たち異邦人は神の律法から除外さ れていると考えます。彼らが自分を置いている 立場はほめられたものではありません。異邦人 は、異邦人としては戒めを守るように命じられ ていないことは確かです。それは不可能だから です。キリストと、彼にある命の御霊の法則と を受けいれたとたんに、彼らは異邦人ではなく なります。神が、どれほど熱心に人々を異邦人 の状態から救おうとされているかは、彼らをご 自分のところに来させるために、使徒パウロを おつかわしになったことに示されています。彼 身が知られるようになさいましたが、エレミヤ は特に、異邦人あるいは異教徒のための預言者 として選ばれました。エレミヤ 1 章 5 節に、 「わ たしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、 あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、 あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者 とした」とあります。「万国」と訳されている言 葉のヘブル語は、普通「異教徒」と訳されてい るものと全く同じです。「何ゆえもろもろの国人 は騒ぎ立ち」( 詩篇 2:1)、「もろもろの国民の 中に宣べ伝えよ」、「周囲のすべての国民よ、急 ぎ来て、集まれ」、その他 ( ヨエル 3:9 ‐ 11)。 これらの聖句において、 「異邦人」とか「異教徒」 という言葉はエレミヤ 1 章 5 節の「万国」と同 じ言葉です。これは別訳と比較してみるとわか ります。それで、主はエレミヤに、「わたしは、 あなたを聖別し、あなたを立てて万国 ( 異邦人 ) の預言者とした」と言われました。神は、いつ の時代でもユダヤ人であれ異邦人であれ、ただ 一つの国民だけに真理を与えると限定していた などと、だれも言わないようにしましょう。「ユ ダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主 が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての 人を豊かに恵んで下さるからである」( ローマ 10:12)。 はキリスト以外のことは言いませんでした。 宣べ伝えている新しい回心者 異邦人のための預言者 これに関連して、神は三千年前と同じく、今 日も異邦人の回心を熱望しておられるというこ とにしばらく注意を払う値打ちはあります。福 音は、キリストの初臨後と同様に、それ以前も 彼らに宣べ伝えられていました。パウロは、特 別に異邦人につかわされたのですが、キリスト 以後、異邦人に宣べ伝えたのは彼が最初ではあ りません。彼は異邦人への使徒として知られて パウロは回心すると、「ただちに諸会堂でイエ スのことを宣べ伝え」ました ( 使徒 9:20)。彼 がただちに、しかもそれほど力強く宣べ伝える ことができたとはまったく驚きです。誰であっ ても、キリストを宣べ伝えることができるとは 驚きです。誰であれ、真理そのものであるキリ ストを宣べ伝えることができるということは、 肉の内にキリストが現わされる以上の神秘を含 んでいます。しかし、パウロは何も研究しない で、即座にその知識を得たのだとは思わないで 20 ガラテヤ 1 章 いただきたい。彼は生涯を通して聖書の忠実な である」( 第 1 コリント 9:16) と感じ、他の人々 研究者であったことを考えてみてください。ラ にその恵みを現わす事ができないことは、すべ ビが、ヘブル語聖書のかなりの部分または全体 て時間の無駄としました。彼は回心するとすぐ、 を暗唱できるのは珍しいことではありませんで アラビヤに行く前に、ダマスコの会堂で説教を した。彼の同年輩の者にまさって有利な立場に しました。だから、彼がアラビヤ人に福音を宣 いたパウロが、掛け算九々の表を暗記する利発 べ伝えたと結論づけるのはごく自然なことです。 な生徒のように、聖書の言葉に通じていたのは 彼はそこで、ユダヤ人の間で常に受けたような 確かだと思われます。しかし同時に彼の心は、 反対を受けることなく説教することができまし 教練された先祖の言伝えによって盲目になって た。だから、そこでの働きは、彼の前に開かれ いました。ダマスコへの途上で、光に照らされ た新しい世界のことを思いめぐらすのに、それ て彼に起った盲目は、彼の心の盲目が表われた ほど多くの障害とはならなかったことでしょう。 にすぎませんでした。そして、アナニヤが彼に 話しかけたときに落ちた目のうろこのようなも 説教する迫害者 のは、彼の内にみことばが輝き出たこと、また、 言伝えの暗闇が追い払われたことを示してもい ました。パウロの場合は、聖書を読んだことも なく、研究したこともない新しい回心者の場合 とはとても違っていました。実のところ、その ような人は、キリストが自分のためにして下さっ たこと、それゆえにこれからも良いことをして 下さるということを告げることはできます。し かし、人々に命の道を完全に示し、義の道へと 導くことができるには、聖書研究がもっともっ と必要です。 「以前には撲滅しようとしていたその信仰を、 今は宣べ伝えている」のを聞くのは、本当にす ばらしいことでした。タルソのサウロの場合を 見てください。そして福音のどんな反対者であっ ても、その人をどうしようもない者だとは見な いようにしましょう。反対する者を柔和に導く 必要があります。なぜなら、神以外のだれが、 彼が悔い改め、真理を認めるようになることを 知っているでしょうか。パウロはおよそ人の持 ち得るだけのはっきりとした光を持っていた、 と言う人がだれかいるかも知れません。彼にあ アラビヤのパウロ らゆる機会がありました。彼はステパノの霊感 にみちた証を聞いただけではなく、多くの殉教 多くの人々が、パウロがすばらしい啓示を受 者たちの死に際しての告白を聞きました。当時 け、天にあげられて「人間が語ってはならない の彼は、どんな良いことも期待出来ない無慈悲 言葉を聞いた」( 第 2 コリント 12:4) のは、ア な恥知らずでした。しかし、最も苦々しい迫害 ラビヤに彼がいたときのことだと考えています。 者であったサウロ、その同じサウロが福音の最 彼の天についての幻をその時に限定するのは意 も偉大な宣教者になりました。真理に対する悪 味のないことではあるけれども、そう考えても 意ある反対者があなたの周囲にいるでしょうか。 よいでしょう。一生を通じて、使徒は天との緊 彼と争ってはなりません。彼を非難してはなり 密な交わりを持っていたので、「天の幻」は決し ません。神の言葉と祈りにすがって、その間に、 て彼の視野から隠されたことはなかったと確信 彼が自分をまったく苦々しく思い、自分自身と していいのです。それに、宣教が彼の一生の仕 争うようにさせなさい。そうすれば、今は彼に 事だったので、彼はアラビヤで研究と黙想に全 よって汚されている神が、彼にあって栄光とな 時間を費やしたのではないことも確かだと思わ るまでそう長くはかからないでしょう。 れます。彼はひじょうに厳しい迫害者であった のに、神の恵みを非常に豊かに受けたので、「も し福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわい 21 神をほめたたえる 「わたしのことで神をほめたたえた」と言っ たパウロの場合と、「神の御名は、あなたがたの ゆえに異邦人の間で汚されている」( ローマ 2: 24) と言われた人々の場合とはどんなに違って いたことでしょうか。神に従うと告白する者は すべて、神の御名に栄光をもたらすものとなる べきです。それなのに、多くの者は神を汚す道 をたどります。そして、わたしたちを通して神 の御名が汚されることは、わたしたちが自分の 口であからさまに神の御名を汚すのと同じくら い悪いことです。わたしたちはどうしたら御名 から離れており、信じる者をすべて救う神の力 であるただひとつの福音の代わりに、キリスト の福音を曲げてまやかしの福音を宣教している 人々によって迷わされていました。その驚くべ きことは、エレミヤ 2 章 12、13 節に表現され ていることと同じです、 「『天よ、この事を知っ て驚け、おののけ、いたく恐れよ』と主は言わ れる。『それは、わたしの民が二つの悪しき事を 行ったからである。すなわち生ける水の源であ るわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。そ れは、こわれた水ためで、水を入れておくこと のできないものだ』」。 をあがめることができるでしょうか。「あなたが たの光を人々の前に輝かし、そして、人々があ なたがたのよいおこないを見て、天にいますあ なたがたの父をあがめるようにしなさい」( マタ イ 5:16)。 それから次の二つの聖句 (8、9 節 ) では、使 徒が宣べ伝えた以外の別の福音をあえて教える 者は、使徒自身であろうと、天からの御使であ ろうと、のろいが宣告されているということが わかりました。このことは状況の深刻さを示し ています。ガラテヤの兄弟たちは偽の福音を宣 総括 この章全体を簡単にまとめてみましょう。 最初の 5 節を含むあいさつの言葉は、書簡を 書いた人の名前と召しと権威とを告げています。 それは、キリストは神であるという事実に注意 を向けさせます。祝福が、父なる神と御子キリ ストから告げられています。キリストは、わた したちを今の悪の世から解放するために、わた したちの罪のためにご自身をささげられました、 つまりそれらを買いとられました。わたしたち べ伝えた忌むベき説教者たちによってのろいの もとに置かれていました。 これに続いて、10 ‐ 12 節では、使徒は、自 分は人ではなく神を喜ばそうとしているのだか らキリストの僕だと言っています。人の方に魂 をそらす説教者は、自分に弟子を引きつけよう として、なめらかなこと、人の性質と調和する ことを口にします。パウロは人からではなく、 直接神から受けた、神についての簡潔な真理だ けを宣べ伝えました。 の罪はこの世の悪を作っています。わたしたち 後半では、第 2 章の半ばまで続く個人的な経 の罪は、わたしたちにではなく、キリストに属 験の小さな物語が始まります。ここでパウロは、 します。だから、彼がわたしたちの罪のために 教会を迫害していた回心前の生活について述べ、 ご自身をささげられた死と復活の力により、わ 彼の内にキリストが啓示された回心のことに触 たしたちは罪から離れることができます。わた れ、彼がなぜ召されたのか、どれほど速やかに したちを救うのは神の御旨ですから、わたした それに応じたかを語っています。そして最後に、 ちが神に受けいれられることを疑うことはでき 回心の後何年間も信者たちと交わりがなかった ません。栄光は神に属します。なぜなら御国と ので、彼が望んだにもかかわらず、先輩の信者 力は神のものだからです。 たちの兄弟や使徒たちから福音を受ける機会が 続く二つの聖句は、この手紙が書かれた当時 の、ガラテヤの諸教会の状態を示しているので、 なかったことを示しています。その主旨は、先 に進むにつれてさらに明らかになるでしょう。 なぜこれが書かれたのかわかります。彼らは神 22 ガラテヤ 2 章 ガラテヤ2章 キリストを信じる信仰による命 福音の真理 ガラテヤ人への手紙について他の人はどう考 えているのかという好奇心からではなく、聖書 の中でも多くの議論がなされるこの書を理解し ようとして、その参考にとこのささやかな書物 求め、隠れた宝を尋ねるように、これを尋ねる ならば、あなたは主を恐れることを悟り、神を 知ることができるようになる。これは、主が知 恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るから である。」( 歳言 2:1-6)。 を読んでいる人々が多くいることでしょう。そ 神がソロモンに現れたのは夢の中でした。そ のような人たちに、この研究を先に進める前に、 して、彼に知恵をお与えになると約束なさいま わたしの個人的な話を少ししたいと思います。 したが、その知恵が来たのは、何もせずただ夢 聖書のどの部分も他のすべての部分とつながり 見ていたからではありませんでした。ソロモン があります。わたしたちがあることを徹底的に は知識にたいへんあこがれたので、夜毎にそれ 学んで自分の一部にしたとたん、さらに知りた を夢見ましたが、同時に日々そのために努力し い欲求が出てきて、学んだことがそのために役 ました。先の聖書の言葉が彼の経験を物語って 立ちます。ちょうど、わたしたちが食べて消化 います。 する一口一口の食物が、日毎のパンのための仕 事をする助けとなるのと同じようです。だから、 これまでわたしたちがガラテヤ人への手紙の研 究を正しいやり方で進めて来たのであれば、聖 書全体への広い扉が開かれたことと思います。 あらゆることに関する知恵と知識は、神の言 葉の中に見出されるはずです。もしあなたが神 の言葉を理解したければ、それを研究しなけれ ばなりません。地上の誰もその知識をあなたに 与えることはできません。他人の経験があなた 真理を知る道はとても単純です。あまりにも の助けになることはあるかもしれませんが、そ 単純なので多くの人は無視します。しかしそれ の人を捕えたものが、あなたを捕えるとはかぎ は無視してはならないことです。 りません。他人はどこをどのように学べばよい か教えることはできますが、何らかのことを本 当に知るためには、自分で追求しなければなり 知識に至る王道 ません。あなたがある道路を千回歩けば、そこ にいくつの曲がり角があっても全部わかってし 知識に至る王道などはないとよく言われます まうし、頭の中でその道全体を想い描くことが が、それはあり、その道は全ての人に開かれて できます。ですから、あなたが聖書のある箇所 います。ここに、それが正しい道であることを を何回も何回も考え抜くなら、しまいには少し 証明なさった、いと高き王による教えがありま 見ただけで、全体と、その中の個々の叙述が全 す。 部わかるようになるでしょう。そしてそれがで 「わが子よ、もしあなたがわたしの言葉を受け、 わたしの戒めを、あなたの心におさめ、あなた の耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、 きると、地上のだれもあなたに語ることのでき ないことを、あなたはその中に見ることでしょ う。 特別難解な叙述だけを取り出して、それに関 しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、 あなたの声を上げ、銀を求めるように、これを 連した個所を照らし合わせることもなく理解し 23 た人たち」には個人的に示した。それは、わ たしが現に走っており、またすでに走ってき たことが、むだにならないためである。しか し、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリ シャ人であったのに、割礼をしいられなかっ た。それは、忍び込んできたにせ兄弟らがい たので―彼らが忍び込んできたのは、キリス ト・イエスにあって持っているわたしたちの 自由をねらって、わたしたちを奴隷にするた めであった。わたしたちは、福音の真理があ なたがたのもとに常にとどまっているように、 瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。そして、 かの「重だった人たち」からは―彼らがどん な人であったにしても、それは、わたしには 全く問題ではない。神は人を分け隔てなさら ないのだから―事実、かの「重だった人たち」 は、わたしに何も加えることをしなかった。 それどころか、彼らは、ペテロが割礼の者へ の福音をゆだねられているように、わたしに は無割礼の者への福音がゆだねられているこ とを認め、(というのは、ペテロに働きかけて 割礼の者への使徒の務につかせたかたは、わ たしにも働きかけて、異邦人につかわして下 さったからである)、かつ、わたしに賜わった 恵みを知って、柱として重んじられているヤ コブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバ とに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わ たしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に 行くことになったのである。ただ一つ、わた したちが貧しい人々をかえりみるようにとの ことであったが、わたしはもとより、この事 のためにも大いに努めてきたのである。 ようとするのは無理です。もし、わたしがあな たに一通の手紙を持ってきて、終わりに近い部 分を指し示し、相手は何を言いたいのだろうか と尋ねたなら、あなたはすぐに、「彼は何につい て書いているのですか。前の部分では何と書い てあるのですか」と質問することでしょう。も しわたしが、手紙の主題は教えたくないし、最 初から読ませることもしないと答えれば、あな たは「それでは、わたしはあなたをお助けでき ない」と言うにちがいありません。しかし、わ たしがその手紙をあなたに手渡して、難解な文 を理解できるように手伝って欲しいと言えば、 あなたはまず、最初から注意深く読んで、読ん だこと全部を理解したことを確かめた上で、先 の難解な文を十分念頭に置いて、その文自体を 理解しようとするでしょう。聖書を扱うのには なおのこと、このように理にかなったやり方が 必要です。 ですから、一人一人の読者に言うのですが、 聖句の言葉そのものを研究しなさい。何回も何 回もやり直しなさい。そして新しい個所の研究 を始める度に、最初に戻り、すでに研究したこ とを復習しなさい。それが王者の方法であり、 輝かしい結果をもたらします。 ガラテヤ書第 1 章は、福音とは何かについて、 ガラテヤの兄弟たちの状態はどのようであった か、またパウロの個人的経験について、簡潔に わかりやすく見せてくれます。第 2 章は、パウ ところが、ケパがアンテオケにきたとき、 彼に非難すべきことがあったので、わたしは 面とむかって彼をなじった。というのは、ヤ コブのもとからある人々が来るまでは、彼は 異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきて からは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を 引いて離れて行ったからである。そして、ほ かのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、 バルナバまでがそのような偽善に引きずり込 まれた。彼らが福音の真理に従ってまっすぐ に歩いていないのを見て、わたしは衆人の面 前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であ るのに、自分自身はユダヤ人のように生活し ないで、異邦人のように生活していながら、 どうして異邦人にユダヤ人のようになること ロの回心から17年後のエルサレム会議に言及 し、論争の主題はなんであったか、パウロとの 関わりはどうであったかを語っています。使徒 の唯一の重荷は、兄弟たちの間に「福音の真理」 を守ることでした。第 1 章の内容をしっかりと 念頭において、第 2 章に進みましょう。これは 第 1 章の続きであることを忘れないでいてくだ さい。 その後十四年たってから、わたしはバルナ バと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサ レムに上った。そこに上ったのは、啓示によっ てである。そして、わたしが異邦人の間に宣 べ伝えている福音を、人々に示し、「重だっ 24 ガラテヤ 2 章 をしいるのか」。 わたしたちは生れながらの ユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではない が、人の義とされるのは律法の行いによるの ではなく、ただキリスト・イエスを信じる信 仰によることを認めて、わたしたちもキリス ト・イエスを信じたのである。それは、律法 の行いによるのではなく、キリストを信じる 信仰によって義とされるためである。なぜな ら、律法の行いによっては、だれひとり義と されることがないからである。しかし、キリ ストにあって義とされることを求めることに よって、わたしたち自身が罪人であるとされ るのなら、キリストは罪に仕える者なのであ ろうか。断じてそうではない。もしわたしが、 いったん打ちこわしたものを、再び建てると すれば、それこそ、自分が違反者であること を表明することになる。わたしは、神に生き るために、律法によって律法に死んだ。わた しはキリストと共に十字架につけられた。生 きているのは、もはや、わたしではない。キ リストが、わたしのうちに生きておられるの である。しかし、わたしがいま肉にあって生 きているのは、わたしを愛し、わたしのため にご自身をささげられた神の御子を信じる信 仰によって、生きているのである。わたしは、 神の恵みを無にはしない。もし、義が律法に よって得られるとすれば、キリストの死はむ だであったことになる。 (ガラテヤ人への手紙第2章) 新しい福音 ガラテヤ書第 1 章 (6、7 節 ) で、ある人たち が偽の福音を真の福音であるかのように装って 提示し、キリストの福音を歪めて、兄弟たちに 問題を引き起こしていたという事を学びました。 使徒 15 章 1 節には、「ある人たちがユダヤから 下ってきて、兄弟たちに『あなたがたも、モー セの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救 われない』と、説いていた」とあります。わた したちが承知しているように、これは別の福音 でした。とは言っても、本物はただ一つだから、 別のものというわけはなく、真の福音だと言っ て兄弟たちを欺いていたにすぎません。この教 えをもってきた者たちが、自分たちは福音を伝 えているのだと言っていたことは、救われるた めに何をしなければならないかを人々に教える と言っていた事実から明らかです。パウロとバ ルナバは、その新しい教えに隙を与えず、「福音 の真理があなたがたのもとに常にとどまってい る」ようにとガラテヤ人に教えて、偽りに反対 しました ( ガラテヤ 2:5)。使徒たちと彼らとの 間に「少なからぬ紛糾と争論とが生じた」( 使徒 15:2)。その争論はどうでもいいことではなく、 真の福音と偽物を扱う論議でした。その問題は 新しい信者にとって重大であり、わたしたちに も、大いに関係があります。それはわたしたち エルサレム再訪問 の救いに関わる問題です。 「十四年後」 、物語の自然な成り行きに従えば、 キリストの否認 これはガラテヤ書 1 章 18 節に記録されている、 使徒パウロの回心から三年後になされた最初の 訪問から十四年後、という意味です。だから、 二度目の訪問は彼の回心から十七年後のことで した。又は、使徒行伝15章に記録されている エルサレム会議の年として意見が合致している 紀元 51 年の頃でした。ガラテヤ書第 2 章が扱っ ているのは、その会議で何があったか、その会 議を開くに至った理由、その後の展開について です。だから、この章を読むときは、使徒行伝 15章を理解し、念頭に置く必要があります。 偽りの新しい福音が持ち込まれたアンテオケ の教会を一瞥(いちべつ)すると、それは最も 直接的にキリストの救いの力を否定したことが わかってきます。福音は、ステパノの死をきっ かけに起きた迫害で散らされた兄弟たちによっ て、初めて彼らのところにもたらされました。 これらの兄弟たちは「アンテオケに行って…… 主イエスを宣べ伝えていた。そして、主のみ手 が彼らと共にあったため、信じて主に帰依する ものの数が多かった」( 使徒 11:19 ‐ 21)。そ 25 れから使徒たちは働きを助けるためにバルナバ 示もないのに」とも言いました(24 節)。つまり、 をつかわしました。そして「彼は、そこに着いて、 これらの教師たちは、使徒たちから教師とは認 神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を められてはおらず、弟子たちを自分に引きつけ 揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんな るために物事を歪曲して話している「にせ兄弟」 の者を励ました。彼は聖霊と信仰に満ちた立派 だと言っているのです。その時以来、そのよう な人であったからである。こうして主に加わる な者たちがたくさん出てきています。彼らのや 人々が大ぜいになった」( 使徒 11:22 ‐ 24)。 ることがあまりにもあくどいので、使徒は「彼 それからバルナバはサウロを見つけ、共にアン らはのろわれるように」と言いました。彼らは テオケの教会で一年以上働きました (25、26 節 )。 キリストの福音の土台を故意に破壊し、信じる その教会には預言者と教師がおり、彼らが主に 者たちの魂を滅ぼそうとしていたのです。 礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「バ ルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、 「割礼のしるし」 彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告 げ ま し た ( 使 徒 13:1 ‐ 3)。 だ か ら、 そ こ の 教会は神の事柄において多くの経験を持ってい たことがわかります。彼らは、主と、彼らが神 の子供である事実を証しする聖霊の声とをよく 知っていました。そして今、こうしたすべての ことの後、この人々は彼らに、「あなたがたも、 モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、 救われない」と言ったのです。ということは、 まるで、割礼のしるしがなければキリストにあ るあなたがたの信仰も、また聖霊の証も皆むだ であると言っているようなものでした。信仰を 抜きにした割礼のしるしが、外見のしるしをも たないキリストにある信仰よりも高められまし た。新しい福音は福音への最も直接の襲撃であ り、露骨にキリストを否認するものでした。 これらのにせ兄弟たちは「モーセの律法にし たがって割礼をうけなければ救われない」と言 いました。本当のところ、あなたには自分を救 う力はありません。彼らは、救いを単なる人間 の事柄、人間の力を働かせることから生じる結 果にすぎないとしました。彼らは割礼が実際は 何であるのか知りませんでした。「外見上のユダ ヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉に おける割礼が割礼でもない。かえって、隠れた ユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によら ず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほ まれは人からではなく、神から来るのである」 ( ローマ 2:28-29)。アブラハムが神を信じた後 で、彼は神の言葉ではなくサライの言うことを 聞いた時がありました。そして彼自身の肉体の 力によって神の約束を成就させようとしたので 「にせ兄弟」 パウロが、この教えを述べた人々のことを、 した。創世記十六章を見てください。その結果 は失敗でした。後を継ぐ子の代わりに拘束され た奴隷を生み出したのです。それから、神は再 デンマーク人のような手厳しい表現で、「忍び込 び彼に現れ、全き心で神の前を歩むように訓戒 んできたにせ兄弟」と称しているのも不思議で なさり、神の契約を繰り返されました。自分の はありません ( ガラテヤ 2:4)。ガラテヤ人に対 失敗、そして「肉は無益である」ということを し彼は、にせ兄弟達は「あなたがたをかき乱し、 思い起こすものとして、アブラハムは「割礼の キリストの福音を曲げようとしている」と言い しるし」を受けました。割礼とはまさしく肉を ました ( ガラテヤ 1:7)。使徒たち及び長老たち 切り取ることですが、これは肉の内には「良い は手紙で、それらの人々について、「こちらから ものが宿っていない」ので、肉の罪の体を処理 行ったある者たちが、……あなたがたを騒がせ、 することによってだけ、霊によって神の約束が あなたがたの心を乱した」と言いました ( 使徒 実現することを示すものです。「神の霊によって 15:24)。さらに彼らは、「わたしたちからの指 礼拝をし、キリスト・イエスを誇りとし、肉を 26 ガラテヤ 2 章 頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である」 ために割礼を受けさせようとしたのです。しか ( ピリピ 3:3)。だからアブラハムは、神への信 しペテロは、「主イエスのめぐみによって、わ 仰によって聖霊を受けいれると、すぐ真の割礼 れ わ れ は 救 わ れ た 」 と 言 い ま し た ( 使 徒 15: をしたのです。「そして、アブラハムは割礼とい 11)。同様にパウロも、「人は心に信じて義とさ うしるしを受けたが、それは、無割礼のままで れ、口で告白して救われる」と書きました ( ロー 信仰によって受けた義の証印であっ ( た )」( ロー マ 10:10)。「すべて信仰によらないことは、罪 マ 4:11)。外見上の割礼は、決して心に受けた である」( ローマ 14:23)。だから自分の力で 真の割礼のしるしを超えるものではありません。 神の律法を守ろうと努める人間の努力はすべて、 心の割礼が欠けているなら、しるしはごまかし たとえ彼らがどれほど熱心、かつ真剣であって です。しかし真の割礼があるなら、しるしが施 も、不完全、すなわち罪よりほかの結果は何も されてもよいのです。アブラハムは、「無割礼の 得ることはできません。「われわれの正しい行い ままで信じて義とされるに至るすべての人の父」 は、ことごとく汚れた衣のようである」( イザヤ です。アンテオケの教会を訪れたその「にせ兄 64:6)。 弟たち」は、弟子たちの信仰をくつがえしまし た。その後、キリストの福音をゆがめてガラテ 「奴隷のくびき」 ヤ人たちを悩ませた人々の仲間になった者たち は、むなしいしるしを本物の代わりとしていま した。彼らには、殻のついていない木の実よりも、 実の無い殻のほうが大切でした。 エルサレムに問題が持ち上がってきたとき、 キリストを信じる代わりに自分の力で義とされ ることを求めようとした人々にペテロはこう言 いました。「諸君はなぜ、今われわれの先祖もわ 「肉はなんの役にも立たない」 れわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの 弟子たちの首にかけて、神を試みるのか」( 使徒 「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役 15:10)。「にせ兄弟ら」が「キリスト・イエス にも立たない。しかし、わたしがあなたがたに にあって持っているわたしたちの自由をねらっ 話した言葉は霊であり、また命である」とイエ て、わたしたちを奴隷にするため」に忍び込ん スは言われました ( ヨハネ 6:63)。アンテオケ できたとパウロが言ったように、このくびきは とガラテヤの人々は救いのためにそれまでずっ 奴隷のくびきでした ( ガラテヤ 2:4)。キリス とキリストに信頼してきましたが、今、肉に信 トは罪からの自由を与えて下さいました。彼の 頼を置くように彼らを説得しようとする者たち 命は「自由の完全な律法」です。「律法によって が現れました。彼らは罪に対して自由であると は、罪の自覚が生じる」( ローマ 3:20)。律法は、 は言いませんでした。そうではなく、律法を守 罪からの自由は与えません。それを非難するこ るべきだと言ったのです。そうなのです、自分 とによってはただ罪の自覚が生じるからこそ、 自身で律法を守らなければならない、キリスト 「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖で 無しで自分を義としなければならないと教えた あって、正しく、かつ善なるものである」( ロー のです。割礼が律法を守ることにあたりました。 マ 7:12)。それは道を示す道標ですが、わたし ところで、真の割礼とは、霊によって心の中に たちがその道を歩けるようにしてくれるもので 書かれた律法です。しかし、これらの「にせ兄 はありません。しかし、キリストは道ですから、 弟たち」は霊の働きに代わるものとして、割礼 彼だけがわたしたちがその道を歩けるようにし という外見の形に信者たちが信頼を置くことを てくださいます。罪は人をその奴隷にします ( 箴 欲しました。信仰による義のしるしとして与え 言 5:22)。神の戒めを守る者たちだけが自由で られた割礼が、単なる自己義認のしるしとなり あり ( 詩篇 119:45)、戒めはキリストを信じる ました。このにせ兄弟たちは、義と救いを得る ことによってだけ、守る事ができます ( ローマ 27 8:3-4)。だからキリストなしで義を得ようと ら唯一の神に回心したので、真理は一つであり、 し、律法に頼ることを人々に説く者はだれでも、 すべての人にとってただ一つの福音のみがある 彼らにくびきを負わせ、奴隷状態に縛りつける という保証を必要としていました。 だけです。人がもし法により犯罪者とされ、獄 に入れられた時、その法は彼を鎖から解き放つ 魔術ではない福音 ことができません。だからといって、その法に 間違いがあるのではありません。それが良い法 律だからこそ、有罪の者を無罪とすることはで きないのです。それで、これらガラテヤの兄弟 たちは、律法をお与えになったおかた、その内 にのみ義が見出されるおかたを否定することに よって神の律法を高めようとして、愚かにも虚 しい努力をしていた人たちにより、奴隷状態に させられていたのです。 この経験によってパウロがガラテヤ人に教え た大きな教訓は、恵みと義を人に与えることが できるものも、また救いをもたらすために人に できることも世には無いということです。福音 は救いを得させる神の力であって、人の力では ありません。像であれ、絵であれ、またその他 どんな物であっても、それに信頼させたり、ま た最も称賛に価する目的に向けられる努力で あっても、救われるために自分の努力やわざに なぜパウロはエルサレムに行ったのか 依存するように導いたりする教えは、福音の真 理を曲げるもの、偽の福音です。キリストの教 使徒行伝の記録は、パウロとバルナバと他の 会には、ある種の魔術的なわざによって、受け 者たちがこの件についてエルサレムに行くべき る者に特別のめぐみを与える「秘蹟」というよ だということが、アンテオケで決められたと言っ うなものはありません。しかし主イエス・キリ ています。ところがパウロは、自分は「啓示に ストを信じる者、また彼にあって救われ義とさ よって」行ったと宣言しているのです ( ガラテ れた者が、その信仰の表明として行う事柄はあ ヤ 2:2)。パウロはただ彼らに推薦されたから行っ ります。この世において、救いの道のために効 たのではなく、同じ聖霊が彼と彼らの双方を動 力ある唯一のものは、キリストにある神の命で かしたのでした。彼は福音に関する真理を学ぶ す。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みに ためにではなく、それを維持するために行きま より、信仰によるのである。それは、あなたが した。彼は、真の福音はどんなものか見つける た自身から出たものではなく、神の賜物である。 ためではなく、自分が異邦人のあいだで宣べ伝 決して行いによるのではない。それはだれも誇 えてきた福音を知らせるために行きました。会 ることがないためである。わたしたちは神の作 議のおもだった人々は彼に与えるものは何もあ 品であって、良い行いをするように、キリスト・ りませんでした。彼は確信のないことを17年 イエスにあって造られたのである」( エペソ 2: 間宣ベ伝えていたのではありません。彼は自分 8 ‐ 10)。これが「福音の真理」であり、パウロ の信じているかたを知っていました。福音を人 はこれを擁護したのです。これはあらゆる時代 から受けたのではなかったし、それが真正なも のための福音です。 のであるかどうかを誰かに証される必要もあり ませんでした。神が語られた時は、人による裏 ガラテヤ人と福音 付けは不適切です。主は、エルサレムの兄弟た ちがパウロの証を必要としていることをご存知 でした。また新しい回心者たちは、神がつかわ された人々は神の言葉を語るということ、そし てそれゆえその人々は皆同じことを語ることを 知る必要がありました。彼らは、多くの神々か この章で、使徒は、今彼らを誤った方向へ導 いている偽物の教えに反対し、「福音の真理」が ガラテヤの兄弟たちの間で保たれるように努め ました。これを、第 1 章の導入の言葉、及び彼 らに宣ベ伝えてきた福音に関する彼の熱烈な主 28 ガラテヤ 2 章 張、また彼らが今はそれを捨ててしまったとい せるような法王的行為をする人物のことであり、 う彼の驚きと比べていただきたい。そうすれば そういう者に反対しているのです。仮に彼が本 この手紙は最も力のこもった表現で福音そのも 当に真理を持っていたとしても、そういうふる のが語られており、その目的以外何も含んでい まいをすることで、その真理を失ってしまいま るはずがないことがおのずと明らかになります。 す。真理と法王的なものは共存できません。法 多くの人たちはそれを誤解しているので、そこ 王、あるいは法王のような立場に立つ者は、真 から個人的に得るものを引き出せないでいます。 理を持ってはいません。人は真理を受けるとた というのは、この章は、パウロ自身が兄弟たち だちに、法王であることをやめます。もしロー に警告していたことに反すること、すなわち「律 マの法王が回心して、キリストの弟子になるな 法についての論争」に貢献したにすぎないと教 ら、まさにその時、彼は法王の座を退くでしょう。 えられてきたからです。 最大のものが常に最高ではない 真理の独占はない 「彼らがどんな人であったにしても、それは、 真理の独占者である人はだれもいないので、 それを見つけるために行かねばならない場所な わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔 どというものはありません。アンテオケの兄弟 てなさらないのだから」。地上には真理を独占す たちは、真理を学ぶためにエルサレムに行く必 る人とか団体などはありません。ですから、真 要はなかったし、彼らが持っていたものが本物 理はどこかへんぴなところで、与えられるに違 であるかどうかを見出すためにも、そこへ行く いないと思いがちな人にはだれにでもそう言っ 必要はありませんでした。真理が、ある場所で ておきたいのです。真理は人には依存しません。 最初に宣言されたという事実は、それはその場 真理は神のものです。なぜなら神の栄光の輝き 所でだけ見つけることができるとか、そこで全 であり、神の本質の真の姿であるキリスト ( へ 部を見つけることができるといったことを証明 ブル 1:3) が真理だからです。真理を得る者は するものではありません。実際、真理を見つけ だれでも、ちょうどパウロが福音を受けたのと て学ぶことを期待して行くべき、この世におけ 同じように神から得るのであって、人からでは る最終的な場所があるとしたら、それはエルサ ありません。神は、人を器あるいは通路として レム、アンテオケ、ローマ、アレキサンドリヤ 使われるかもしれないし、実際お使いになりま その他のような、キリスト以後の第一世紀に福 すが、真理をお与えになるのは神だけです。名 音が宣ベ伝えられた町々です。しかし、パウロは、 も数も、何が真理であるかを決めるのに全く関 彼より前から使徒であった人々のいる所、エル 係がありません。真理は権力などではないし、 サレムには行かずに、すぐに宣教を始めました。 ただの身分の低い労働者によって保たれてきた 場合よりも、一万人の王子たちによって提示さ れるときに受けいれやすいというようなもので もありません。それにまた、真理は一人の人が 持っているより、万人の人が持っていると考え られる証拠はありません。地上のすべての人が、 その人が利用しようとするだけの真理を持つか もしれませんが、それだけのことにすぎません。 ヨハネ 7 章 17 節、12 章 35-36 節を見てくださ い。ここで扱われているのは、真理の独占者だ と思い込み、人々を自分のところに強いて来さ 法王教は幾分かこのようにして起りました。 使徒たち、あるいは彼らのうちの幾人かが宣教 した場所に純粋な真理があるに違いないから、 だれもがそこで真理を見つけるベきであると思 われました。また、都市の人々の方が、田舎や 村の人々よりも多くを知っているに違いないと も思われました。それで、もともとは平等であっ たすべての監督たちのうちで、まもなく、「いな かの監督」は、都会で役割を負っている監督に 比べ、二流の者として位置付けられるようにな 29 働かれるのは神である りました。それから、そういう精神が入り込むと、 もちろん次の段階は、だれが最も偉い者である べきかを知ろうとする都市の監督たちの間での 競争でした。そして、不潔な争いが続き、つい にローマが権力の貪欲な座を得ました。 しかしイエスは、「ユダの部族のうちで小さい 者」( ミカ 5:2) だった場所、ベツレヘムでお生 れになって、生涯の大部分をナザレで生活され ました。その場所は、そこには賢い者がいない ので、 「ナザレから、なんのよいものが出ようか」 ( ヨハネ 1:45 ‐ 47) という貧弱な風評のある 小さな町でした。その後、イエスはカペナウム の町に住むようになりましたが、いつも「ナザ レのイエス」として知られていました。最も小 さな村や、草原の小さなわびしい小屋は、最大 の都会、または監督の邸宅に比べて天から遠く あるのではありません。そして、「いと高く、い と聖なる者、とこしえに住む者、その名を聖と となえられる」神は、心砕けて、へりくだる者 と共に住まわれます ( イザヤ 57:14-15)。 「ペテロに働きかけて割礼の者への使徒の務に つかせたかたは、わたしにも働きかけて、異邦 人につかわして下さった」。神の言葉は生きてい て活動します ( ヘブル 4:12)。福音の働きにお ける活動は何であれ、もし何事かがなし遂げら れたなら、それはすべて神のわざです。イエスは、 「神が共におられるので、よい働きを……された」 ( 使徒 10:38)。彼自ら、「わたしは、自分から は何事もすることができない」(ヨハネ 5:30)、 「父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっ ているのである」( ヨハネ 14:10) と言われま した。それでペテロは彼の事を、「神が彼をとお して、……行われた数々の力あるわざと奇跡と しるしとにより、神につかわされた者である」 と言ったのです ( 使徒 2:22)。弟子は主よりも 偉大ではありません。ですからパウロとバルナ バはエルサレムでの会議で、 「彼らをとおして異 邦人の間に神が行われた数々のしるしと奇跡の こと」を語りました ( 使徒 15:12)。パウロは、 「す べての人……がキリストにあって全き者として 立つようになるため……わたしのうちに力強く 外見は無である 神は、人がどんな者であるかをごらんになる のであって、どのように見えるかをごらんには なりません。どのように見えるかというのは、 人が彼をどのように評価するかということです。 そしてその評価の仕方は、彼を見る人の目次第 であることが多いのです。彼がどんな者である かというのは、彼の中にある神の力と知恵をは かることです。神は役職のある地位によって階 級差をつけることはなさいません。権威を与え るのは地位ではなく、権威が真の地位を与える のです。その名にどんな肩書も持たず、地上で は身分の低い貧しい多くの人間が、地の全ての 王にまさる偉大な権威によって、真に高い立場 で働いてきました。権威とは、神が何の束縛も 働いておられるかたの力により苦闘しながら努 力している」と明言しました ( コロサイ 1:2829)。これと同じ力を持つことが、最も身分の低 い信者にとっても可能であり、また特権なので す。「あなたがたのうちに働きかけて、その願い を起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、 それは神のよしとされるところだからである」 ( ピリピ 2:13)。イエスの御名はインマヌエル、 「神われらと共にいます」です。イエスと共にお られる神が、良いことをするために彼を出て行 かせられました。神は変わることがありません。 だから、もしわたしたちが本当にイエスを持っ ているなら、神はわたしたちと共におられます。 わたしたちも同じように、良いことをするため に出て行くでしょう。 受けずにその人の魂の内に臨在しておられるこ とです。 賜物を認識する エルサレムの兄弟たちは、パウロとバルナバ に与えられた恵みを認めることで、彼らが神と 30 ガラテヤ 2 章 結び付いていることを示しました。バルナバは に」、わたしたちは「全き人となり、ついに、キ 最初にアンテオケに行ったときに、そこに働い リストの満ちみちた徳の高さにまでいたる」と ていた神の恵みを見て喜びました。「そして、主 いうことなのです。主はただひとりであるよう のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰 に、ただ「ひとつの信仰」( エペソ 4:5)、キリ 依するものの数が多かった」( 使徒 11:21-24)。 ストの信仰だけがあります。そしてその信仰を 神の霊に動かされる人々はいつも、他の人々の もたない人々は当然、キリストの外にいます。 内に働いている神の霊をすばやく見抜きます。 真理に関する問題では、たとえわずかの違いで ある人が聖霊について個人的には何も知らない も全くあってはなりません。真理は神の言葉で という最も確かな証拠は、その人は聖霊の働き あり、神の言葉は光です。盲目の人以外はだれ を認めることができないということです。他の でも、輝いている光を見るのになんのさしつか 使徒たちは聖霊を持っていたので、神がパウロ えもありません。人が夜の明かりとして獣脂の を異邦人の間での特別の働きのために選ばれた ろうそく以外の明かりは生涯見たことがないに ことに気がつきました。そして、彼の働きの方 しても、初めて電球の光を見た瞬間、その明る 法は彼らの方法とは違っていましたが、神が彼 さを認めるのに少しもさしさわりはありません。 に特別な働きの賜物をお与えになったので、彼 もちろん、真理の知識の程度には違いがありま らは彼に友好の手を差し伸べました。ただ、自 すが、それら程度の違う知識の間にくいちがい 分たちの国民の間にいる貧しい人々を顧みるこ は決してありません。すべての真理は一つです。 とを求めましたが、これはすでにパウロが、す すんでそうする気持ちのあることを示していた ペテロに反対する ことでした ( 使徒 11:27-30)。そこで、パウロ とバルナバは、アンテオケでの仕事をするため に戻って行きました。 「ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼 に非難すべきことがあったので、わたしは面と 向かって彼をなじった」。ペテロ、または他の 完全な一致 どんな善人であれ、その過ちを大きく見せたり、 こだわったりする必要はありません。なぜなら パウロがエルサレム会議に関して考えていた それはわたしたちにふさわしいことではないか 目的を見失ってはなりません。それは、福音が らです。しかし、ペテロは決して「使徒たちの 何であるかについて、使徒の間にも教会の中に 第一人者」などと思われてはいなかったし、そ も違った意見はないことを示すことでした。「に うではありませんでした。また彼自身自分を法 せ兄弟たち」がいた、それは事実です。しかし、 王であるとは考えてもいなかったという、この 彼らはにせ者である限り、真理であるキリスト 確実な証拠に注目しなければなりません。レオ のからだなる教会の一部ではありませんでした。 13 世 ( 現代ならヨハネ・パウロ 3 世:訳者注 ) に、 クリスチャンだと公言するまじめな人たちの中 公の集まりで反対をしている司祭、主教または に、教会の中に違いのあるのはほとんど必要な 枢機卿を思い描いて見てください。仮に法王の ことだと思っている人が多くいます。普通言わ 警備人が彼を生きたまま取り逃がしでもしたら、 れるのは、「すべてのものが同じようではない」 「神の御子の代理人」だと自らふるまう法王にず ということです。だから、彼らはエペソ 4 章 13 うずうしくも反対した彼は、全く運がよかった 節を読み、神は、「わたしたちすべての者が、… と思われるでしょう。ところでペテロは過ちを 信仰の一致…に到達するまで」、わたしたちに賜 犯しました。彼は無謬ではなく、その過ちは決 物をお与えになったのだというようにして、間 定的な教理に関するものでした。そして、誠実 違って解釈しています。そのみ言葉が教えるこ で謙遜なクリスチャンだった彼は、パウロの譴 とは、「信仰の一致と彼を知る知識の一致のうち 責を柔和に受けいれました。もしも当時の教会 31 にだれかひとり、人間の頭たるものがいたとし かしされた後、そして、異邦人の回心者と共に たら、物語全体からそれはペテロではなくパウ 食事をして忠実に自分の方向を弁護した後、さ ロだったように見受けられます。パウロは異邦 らにユダヤ人と異邦人との間に神はなんの分け 人につかわされ、ペテロはユダヤ人につかわさ へだてもなさらないと会議であかしした後、し れました。しかし、ユダヤ人は教会の中でわず かも彼自身も分けへだてをしなかったその直後 かな割合を占めていたにすぎません。異邦人か に、急に、そういう自由を認めないと思われる らの回心者たちがすぐに彼らユダヤ人の数を超 人々がやってきたとたん、ペテロは分けへだて えてしまったので、彼らの存在はかろうじて認 をし始めました。「彼は…割礼の者どもを恐れ、 められるほどでした。これらのクリスチャンは しだいに身を引いて離れて行った」。これはパウ 皆、ほとんどがパウロの働きの実であって、彼 ロが言ったように偽善であり、それ自体が間違 らは自然と他のだれにもまして彼を尊敬しまし いだったばかりでなく、弟子たちを混乱させ誤 た。だからパウロは、「日々わたしに迫って来る らせることでした。はっきりしていること、つ 諸教会の心配ごとがある」と言ったのです ( 第 2 まりこれが偽善だったという事実は、兄弟たち コリント 11:28)。しかし誰も自分には絶対に の間に本当は分けへだてはなかったという事実 誤りがないとは言えないし、パウロ自身そんな を強調するものです。いっときペテロを支配し 主張はしませんでした。キリストの教会で最も たのは信仰ではなく、恐れでした。 偉大な人は、最も弱い者の上にさえも支配権を 持ったりしません。「主は一人、キリスト、そし 福音の真理に相対するもの てあなたがたはみな兄弟である。」「互いに謙遜 を身につけなさい。」 恐れの波がユダヤ人の信者たちを通りすぎた ようです。というのは、「ほかのユダヤ人たちも 分けへだてをするもの ペテロはエルサレムでの会議における彼の説 彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがその ような偽善に引きずり込まれた」からです。こ のこと自体、もちろん、 「福音の真理に従ってまっ 教を通じて、異邦人によって福音が受けいれら すぐに」歩いていないことを表していますが、 れたことについての事実を次のように語りまし 偽善という事実だけが福音の真理をさまたげる た。「人の心をご存知である神は、聖霊をわれわ 全てではありません。その状況下では、それは れに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼ら キリストを公然と否定することでした。それは に対してあかしをなし、また、その信仰によっ まさしく、以前に一度ペテロが恐れのせいでし て彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間 たことと同じ罪でした。わたしたちは皆、さば に、なんの分けへだてもなさらなかった」( 使徒 きの座につくことを自分にゆるすことで、同じ 15:8-9)。神は心の清めという事において、ユ 罪に問われることがあまりにもよくあります。 ダヤ人と異邦人との間に分けへだてをなさいま わたしたちはただ自分自身への警告として、こ せん。なぜなら、神は心を知っておられ、「す の事実と結果とに注目できるだけです。 べての人は罪を犯したため、神の栄光を受けら れなくなって」いるので、すべての人にとって 「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエス によるあがないによって義とされる」より他に 道はないことを知っておられるからです ( ロー マ 3:22 ‐ 24)。ところが、主によってこの事 実が示された後、また、異邦人に宣教がなされ、 彼らにユダヤ人の信者と同様に聖霊の賜物があ ペテロ及び他の者たちの行動が故意ではな かったにしても、これがどれほど事実上のキリ ストの否定であったかを見てください。ちょう どその頃割礼の問題をめぐって大きな争論があ りました。それは、キリストを信じる信仰によっ て救われるのか、それとも外見のしるしによる のかという、義認と救いの問題でした。救いは 32 ガラテヤ 2 章 信仰のみによるという明瞭なあかしがそれまで て神の前に皆同じく、罪ある者として立ってい なされてきました。そして今、「にせ兄弟たち」 るのです。しかしどんな人種や階級の者であっ がいまだに彼らの間違いを宣伝しており、その ても皆、「このかたは罪人を受けいれ、彼らと食 争論がまだ残っていた時に、これらの忠実な兄 事を共にしてくださる」と言って、それを受け 弟たちが急に異邦人の信者たちに向かい、割礼 いれることができます。割礼のある罪人は割礼 がないからといって分けへだてをしたのです。 のない罪人にまさるのではなく、一教会員とし それは、事実上、あなたがたは割礼なしには救 て立つ罪人は教会外の罪人にまさるのではあり われないと言っているようなものでした。彼ら ません。バプテスマという形式を通った罪人は、 の行動が語っているのはこういうことでした。 宗教に関する告白をしたことのない罪人にまさ すなわち、わたしたちもまた人が救われるのは るものではありません。教会内にいてもいなく キリストを信じる信仰だけによるというのは疑 ても罪は罪であり、罪人は罪人です。しかし神 問に思う、本当に救いは割礼と律法の行いに依 に感謝しましょう、キリストは全世界の罪のた 存すると思う、キリストを信じることは結構だ めであるのと同様に、わたしたちの罪のための がその他にまだすることがある、信仰だけでは あがないです。キリストの名を口にしたことの 不十分だ。彼らが福音の真理をそんなふうに否 ない罪人にも、宗教の告白に不忠実な者にも望 定することにパウロはがまんできず、すぐさま みがあります。世界に宣べ伝えられるのと、教 問題の根に体当たりしました。 会に宣べ伝えられる福音は同じはずです。ただ ひとつの福音があるだけだからです。それは教 会員である罪人同様、世界の罪人たちを回心さ 「異邦人なる罪人」とユダヤ人なる罪人 パウロは、「わたしたちは生れながらのユダ せると同時に、真にキリストにある者たちを新 しくするのです。 ヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが……」 とペテロに言いました。彼は、だからユダヤ人 「義とされる」 は罪人ではないという意味で言ったのでしょう か。そんなことを言ったのではありません。な 「人の義とされるのは律法の行いによるのでは ぜなら彼はすぐに、彼らはキリストを信じる信 なく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によ 仰によって義とされると付け加えているからで ることを認めて、わたしたちもキリスト・イエ す。彼らはユダヤ人なる罪人であって、異邦人 スを信じたのである」と使徒は言いました。「義 なる罪人ではありませんが、ユダヤ人として誇 とされる」という言葉の意味は、 「義人とされる」 るべきことは全て、キリストのゆえに損とみな ということです。これは他の言語に見られるそ されます。キリストを信じる信仰以外には、彼 のままの言い方で、適当でない言い方はしない らにとって益となるものは何もありません。そ 言葉です。義に相当するラテン語は justitia です。 ういうわけだから、異邦人なる罪人は、ユダヤ 正しくあることは、義であることです。英語で 人たちの不信仰の結果与えられたところの、多 は、その語の終わりに fy、ラテン語の「~にする」 くの死んだ形式を踏襲することなしに、直接キ という意味のものを加えて、「義とする」という リストを信じる信仰によって救われることがで 意味の、より単純な言い方でまったく同じ言葉 きるのでした。 (justify) があります。それにふさわしい意味で、 「 『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこ の世にきて下さった』という言葉は、確実で、 そのまま受けいれるに足るものである」( 第 1 テ モテ 1:15)。「すべての人は罪を犯した」、そし わたしたちは「正しいとされる」という言い方を、 ある人がとがめを受けていた事柄に関して実は 何も悪いことはしていなかった場合に使ってい ます。しかし厳格に言えば、そういう人は彼が もともと正しかったのだから、正しい人とされ 33 る必要はありません。彼の正しい行いが彼を正 善なるものである」( ローマ 7:12)。わたした しい者としており、彼は彼の行いにおいて正し ちは書かれた律法を読み、その中にわたしたち いとされています。しかし神の前には、すべて の義務が明らかにされているのを見ます。しか の人が罪を犯したので、正しい人あるいは義人 し、それを行わなかったから、わたしたちは有 は一人もいません。ですから彼らは神の前に義 罪です。「すべての人は罪を犯したため、神の栄 とされる、または義人にされる必要があります。 光を受けられなくなっており、」「善を行う者は それは神のわざです。ところで、神の律法は義 いない。ひとりもいない」( ローマ 3:23、3: です。ローマ 7 章 12 節、9 章 30-31 節、詩篇 12)。そればかりでなく、律法を行う力を持って 119 篇 172 節を見てください。ですから、律法、 いる人はひとりもいません。その要求はあまり もちろんそれは石の上あるいは書物に書かれた にも大きいのです。そこで、律法の行いによっ 律法という意味ですが、その律法によって人は て義とされる者はだれもいないことははっきり 義とされることはできないと述べているにもか しすぎるほどはっきりしています。そして失敗 かわらず、パウロは律法をけなしはしませんで は律法にではなく、個々人にあることも同様に した。そんなことはしませんでした。彼は律法 明らかです。人が信仰によってキリストを心に に非常に高い感謝の念を持っていたので、律法 持つようにさせましょう。そうすれば律法の義 が要求してはいるが与えることはできない義の もまたそこに存在するでしょう。なぜならキリ ために、キリストを信じたのです。「律法が肉に ストは、「わが神よ、わたしはみこころを行う より無力になっているためになし得なかった事 ことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心 を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、 のうちにあります」と言われたからです ( 詩篇 罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において 40:8)。悪を善とは呼ばないからといって律法 罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、 を捨て去る者は、神は「罰すべき者をば決して 肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、 ゆるさない」( 出エジプト 34:7) からと言って、 満たされるためである」(ローマ 8:3 - 4)。す 神を拒むことでしょう。しかし神は、律法との べての人を罪人であると宣言する律法は、罪を 調和の内にあって、罪のとがめを取り去り、罪 罪ではないと宣言しないかぎり彼らを正しいと 人を義とされます。そして、以前には彼らをと することはできませんでした。そしてそれは律 がめたその律法が、彼らの義であることをあか 法の自己矛盾以外の何ものでもなく、正義にか しするでしょう。 なうことではありませんでした。 「キリストの信仰」 律法は義とすることができない 聖書を読む際に、そこで言われている通りに 「律法の行いによっては、だれひとり義とさ 受けとらないせいで、多くの人たちが失われま れることがない」。では律法を取り除いてしまお す。ここに、黙示録 14 章 12 節にある「キリス うと言うのでしょうか。それは、罪に定められ トの信仰」と同じ「キリストの信仰」という文 た犯罪人がだれでも考えることです。しつこい 字があります。キリストは信仰の導き手 ( 創始者 ) 法律違反者は彼らを有罪だとし、悪を正義とは であり完成者です ( ヘブル 12:2)。神は、すべ 言おうとしない法律を取り除いてしまうのを喜 ての人にキリストをお与えになることで、各自 ぶことでしょう。しかし、神の律法は神のみこ に、量りにしたがって信仰を分け与えられまし ころの声明だから、取り消すことはできません た ( ローマ 12:3)。「信仰は聞くことによるの ( ローマ 2:18)。まったくのところ、律法は神 であり、聞くことはキリストの言葉から来るの の命であり、品性です。「律法そのものは聖なる である」( ローマ 10:17)。また、キリストは言 ものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ 葉です。すべてのものは神のものです。悔い改 34 ガラテヤ 2 章 めと罪の許しをお与えになるのは神です。 それだから、自分の信仰は弱いと言って、言 い訳をする余地はだれにもありません。賜物を 受けいれずに役立てていない人はいるかもしれ ませんが、「弱い信仰」などというものはありま せん。ある人は「信仰にあって弱い」かもしれ ません。それは信仰に依存することを恐れてい るのであって、信仰自体は神のみ言葉と同じく らい力強いものなのです。キリストの信仰のほ かに、信仰はありません。それ以外に信仰と言 じることは、彼の名は「神われらと共にいます」 なので、彼は肉、人の肉、すなわちわたしたち の肉の中に来られたと信じることです。だから、 彼の名を信じることは、彼がすべての人の内に、 すべての肉の内に個人的に住まわれることを信 じることを意味します。わたしたちが信じるこ とによって、そうさせるのではありません。わ たしたちが信じても信じなくても、それはそう なのです。わたしたちはただすべての自然が啓 示している事実を受けいれるだけです。 われているものは、皆まがいものです。キリス だからそのようにする結果として、つまりキ トだけが義です。彼が世に勝利なさって、彼だ リストを信じる結果として、わたしたちはキリ けが勝利する力を持っておられます。彼の内に ストの信仰によって義とされます。なぜなら、 神の満ち満ちたものが宿っています。なぜなら、 わたしたちは自分の内にキリストを個人的に宿 律法、すなわち神ご自身が彼の心におられたか らせて、彼自身の信仰を働かせていただくから らです。彼だけが律法を完全にお守りになった です。天と地にあるすべての力は彼のみ手の内 し、また守ることがおできになります。それだ にあります。そしてそれを認めて、わたしたち から、彼の信仰-生きた信仰、それはわたした はただ彼ご自身のやりかたで、彼ご自身の力を ちのうちにある彼の命-によってのみ、わたし わたしたちの内に働かせていただくだけです。 たちは義とされることができます。 神は、 「わたしたちのうちに働く力」によって、 「思 しかしこれで十分です。彼は「試みを経た石」 いをはるかに超えて」働かれます。 です。彼がわたしたちに与えて下さる信仰は、 彼がご自分で試みて証明したものであって、ど キリストは罪に仕えるかたではない んな争闘においても負かされることはありませ ん。わたしたちは彼がなさったと同じほどのこ とをやってみるようにとか、彼の持っていたほ どの信仰を働かせてみるようにとは、勧められ ておらず、ただ彼の信仰を受け取り、それが愛 によって働き、心を清めるがままにさせるよう にと勧められているだけです。そうすれば、そ れはその働きをするでしょう。それを受けとり なさい。 イエス・キリストは「聖なる正しいかた」で す ( 使徒 3:14)。「彼は罪を取り除くために現 れたのであって、彼にはなんらの罪がない」( 第 1 ヨハネ 3:5)。彼は罪を犯さなかっただけでな く ( 第 1 ペテロ 2:22)、 「罪を知らなかった」( 第 2 コリント 5:21)。だからどんな罪も彼からく ることはありえません。彼が罪をお与えになる ことはありません。その傷つけられた脇腹を通 り、キリストの心臓からあふれでる命の流れの 中には、不純なものは何もありません。それは 信じることは受けること 「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信 じた人々には、彼は神の子となる力を与えたの である」( ヨハネ 1:12)。ということは、彼の 名を信じた者は彼を受けいれたということです。 彼の名を信じることは、彼が神の御子であるこ とを信じることです。彼が神の御子であると信 「水晶のように透き通った、いのちの水の清い川」 です。彼は罪に仕えるかたではない、というこ とは、彼はだれの罪にもつかえることはなさら ないということです。だれでもキリストによる 義を求め、求めるばかりでなくそれを見出した 人が、その後罪を犯したら、それはその人が流 れを堰き止めて、水をよどませてしまったから 35 です。み言葉は自由な道筋を与えられなかった 打ちこわされます。罪のからだは、わたしたち ので、栄光とされることができなかったのです。 がその力から自由になり、もはやそれに仕える 活動のないところには、死があります。このこ 必要がなくなるために打ちこわされます。それ とのゆえに、その人自身をさしおいて責められ はすべての人のために打ちこわされます。キリ るべき人は他にだれもいません。クリスチャン ストはご自分の肉において、 「恨み」、肉の思い ( そ だと公言する人々は自分の不完全さを弁護して、 れは彼のではなくわたしたちのものです、彼は クリスチャンにとって罪のない生活をするのは 持っていなかったのだから ) を滅ぼしてしまわ 不可能だと言わないようにしましょう。真のク れたからです。わたしたちの罪、わたしたちの リスチャン、信仰に満ちている人にとっては、 弱さは、彼の上に置かれました。すべての人の 罪のない生活以外の生活をするのが不可能なの ために勝利は得られ、敵は武器を奪われました。 です。「罪に対して死んだわたしたちが、どうし わたしたちはただ、キリストが勝ち取られた勝 て、なお、その中に生きておれるだろうか」( ロー 利を受けいれるべきです。すべての罪に対する マ 6:2)。「すべて神から生れた者は、罪を犯さ 勝利はすでに現実のものです。それを信じるわ ない。神の種が、その人のうちにとどまってい たしたちの信仰が、勝利をわたしたちにとって るからである」( 第 1 ヨハネ 3:9)。だから「彼 の現実にするのです。信仰をなくすことが、そ につながっていなさい。」 の現実の外にわたしたちを置くことになり、古 い罪のからだが再び現れてくるのです。信仰に よって打ちこわされたものが不信仰によって再 何が打ちこわされたのか 「もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、 再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者 であることを表明することになる」。もう一度お び建てられるのです。この罪のからだの破壊は、 すべての人のためにキリストによってなされま した。しかしながら、これは個々人においては 今現在の個人的な事柄である事を覚えましょう。 尋ねします、それを立て直せばわたしたちは違 反者であることを表明することになる何が打ち 「律法に対する死」 こわされたというのですか。パウロが、イエス・ キリストにあって信じた人々はキリストの信仰 多くの人々が、「律法に対する死」というのは によって義とされるということについて語って 律法が死んだのと同じ意味だと、なんとなく思っ いることを思い出せば、質問に対する答を次の ているようです。律法は力に満ちていなければ み言葉に見つけることができます。「わたしたち なりません。そうでなければ誰もそれによって は、この事を知っている。わたしたちの内の古 死ぬことはありえません。どのようにして人は き人はキリストと共に十宇架につけられた。そ 律法に対して死ぬようになるのでしょうか。そ れは、この罪のからだが滅び、わたしたちがも の罰である死を完全に受けることによって彼は はや、罪の奴隷となることがないためである」 律法に対して死ぬのです。しかし彼を殺した律 ( ローマ 6:6)。また、「あなたがたは、キリス 法は、なお別の罪人を殺す用意があります。と トにあって、それ ( 満ち満ちているいっさいの ころで、はなはだしい犯罪のために死刑を執行 神の徳 ) に満たされているのである。彼はすべ された人が、なにか奇跡的な力で生き返ったと ての支配と権威とのかしらであり、あなたがた 仮定してみましょう。彼はそれでも法に対して はまた、彼にあって、手によらない割礼、すな は死んではいないでしょうか。確かに、以前の わち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを 彼の犯罪を法によってとやかく言うことはもう 脱ぎ捨てたのである」( コロサイ 2:10-11)。打 できません。しかし、もし彼が再び罪を犯せば、 ちこわされるものは罪のからだであり、それは、 法は再び彼に死刑を執行するでしょう。しかし、 ただキリストの命の個人的な臨在によってのみ それは別人として、です。そこでわたしたちは、 36 ガラテヤ 2 章 神のために生きることができるように、律法に 宙にたった一つの罪、またはたったひとりの罪 よってわたしは律法に対し死んでいると言いま 人でも存在するかぎり、終わらないでしょう。 す。キリストのからだにより、わたしは、自分 今でさえ、キリストは全世界の罪を負っておら の罪のゆえに律法によって死んだその死からよ れます。「彼のうちにすべてのものは含まれてい みがえっており、今は「新しい命の内」を、神 る」からです。そして最後の時に、義人となら に対する命の内を歩いているのです。昔のサウ なかった悪人を火の池で滅ぼすことを神が余儀 ルのように、わたしは神の霊によって「変わっ なくされるとき、彼らが苦しむ苦悩は、彼らが て新しい人」とされたのです ( サムエル上 10:6)。 拒んだキリストが十字架の上で苦しまれた苦し これがクリスチャンの経験なのだということが みにほかなりません。 次のことによって示されています。 十字架はどこに キリストと共に十字架につけられた キリストは木の上でわたしたちの罪をご自分 「わたしはキリストと共に十字架につけられ の身に負われました ( 第 1 ペテロ 2:24)。彼は た。生きているのは、もはや、わたしではない。 木にかけられたことで、「わたしたちのためにの キリストが、わたしのうちに生きておられるの ろいとなられた」( ガラテヤ 3:13)。十字架の である」。キリストは十字架につけられました。 上で、彼は人の弱さと罪ばかりでなく、地の弱 彼は、 「わたしたちの罪過のために死に渡され、 さをも負われました。いばらはのろい、つまり わたしたちが義とされるために、よみがえらさ 地の弱められた不完全な状態のしるしです ( 創 れたのである」( ローマ 4:25)。しかしわたし 世紀 3:17-18、4:11-12)。そして十字架の上で、 たちが彼と共に十字架につけられなければ、彼 キリストはいばらの冠をかぶられました。それ の死と復活はわたしたちに何の益ももたらしま だから、あらゆるのろい、そのすべての形跡は、 せん。もしキリストの十字架がわたしたちから キリストが負われました、つまりすべてはキリ 切り離されて、たとえほんの一瞬、ほんの髪の ストによって十字架にかけられました。だから、 毛一筋ほどの隙間であっても、わたしたちの外 わたしたちがのろいを見る所いずこにも、ある に置かれるなら、わたしたちにとって彼はあた いはのろいのある所どこにでも、わたしたちに かも十字架にかかられなかったかのようになっ 見えても見えなくても、そこにはキリストの十 てしまいます。立てられるはずの十字架と、ま 字架があります。このことは次のことからもわ た将来の定められた時に十字架にかけられるは かります。のろいは死であり、死は殺します。 ずのキリストを、ただ将来に見ることによって のろいはあらゆるものの中にあります。しかし 救われた者はだれもいません。また、過去のあ ながら、わたしたちはあらゆるところに命を見 る時キリストが十字架にかけられたことを、た ます。ここに十字架の奇跡があるのです。キリ だ信じるだけで今救われる人もいません。いい ストは死というのろい受けて苦しまれましたが、 え、もし人が十字架につけられたキリストを見 しかし復活されました。彼だけが、そうするこ るとするなら、彼らは将来または過去ではなく、 とのできたただ一人のおかたです。それゆえに、 上を見るべきです。なぜなら、カルバリーに立 のろいはあらゆるところにあるにもかかわらず、 てられた十字架の腕は、失われたパラダイスか どこにでも、自分の内にさえも命を見るという ら回復されたパラダイスにまで達しており、罪 事実は、十字架にかけられたかたの十字架がそ の全世界を抱きかかえているからです。キリス こでそれを負っておられるのだということの決 トの十字架はただ一日の出来事ではありません。 定的な証明です。ですから、すべての草の芽、 彼は「世の始めからほふられた小羊」( 黙示録 森にあるすべての木の葉、わたしたちが食べる 13:8) であり、カルバリーの激しい痛みは、宇 パンの一切れ一切れすべての上に、キリストの 37 十字架の印が押されています。そればかりでな く、とりわけわたしたちにとって、それは同じ 罪に縛られる ことなのです。堕落し、罪に傷ついた、みじめ な人間がいるところにはどこでも、その人のた めにまたその人の内にあって神が十字架につけ られたキリストもまた、そこにおられるのです。 十字架上のキリストはすべてのものを負われた のだから、人の罪は彼の上に置かれています。 不信仰と無知のゆえに、人は重い荷の重量を全 部感じるかもしれませんが、しかしそれでも重 荷はキリストの上にあるのです。それはキリス トには負えますが、その人にとっては重い。も しその人が信じれば、彼はその重荷から解放さ れるでしょう。要するに、キリストは十字架上 で全世界の罪を負われました。それゆえに、罪 が見出されるところではどこでも、そこに十字 架があるということをわたしたちは確信するの です。 「悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の 罪のなわにつながれる」( 箴言 5:22)。「『たと いソーダをもって自らを洗い、また多くの灰汁 を用いても、あなたの汚れは、なおわたしの前 にある』と主なる神は言われる」( エレミヤ 2: 22)。わたしの罪は、わたしがわたしのうちで犯 し、わたしはそれを自分から引き離すことがで きません。それを主に投げつけるのですか。あ あ、その通り、それがいいでしょう。だが、ど うやってそうするのですか。わたしはそれを手 に集め、わたしから投げ出して、彼にくっつけ る事ができるでしょうか。できません。もし罪 を髪の毛一すじほどの隙間であっても、自分か ら引き離すことができれば、わたしは安全なは ずです。それがどうなろうとも、それはわたし の中には見つけることはできないからです。そ ういう場合には、わたしにはキリストは要らな 罪はどこに いと言えるでしょう。もし罪がわたしの中に見 つけられなければ、それがどこで見つけられよ 罪は個人的な事柄です。人は、他の人が犯し うと問題ないからです。もしわたしが自分の罪 た罪ではなく、自分自身の罪の責めを負います。 を集め、それを、わたしからは離れた所で十字 ところで、わたしはわたしがいる所以外で、つ 架につけられたキリストの上に置くことができ まりわたしのいないところでは罪を犯すことは るのであれば、わたしはそれをあえて彼の上に できません。罪は人の心の中にあります。「すな 置く必要などはないのです。罪を自分から引き わち内部から、人の心の中から、悪い思いが出 離すことができれば、わたしはきれいになるこ て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貧欲、邪 とでしょう。しかし、わたしを救うことができ 悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。こ るわたしのわざは何もありません。だから、わ れらの悪はすべて内部から出てきて、人を汚す たしの罪から自分を引き離そうとするわたしの のである」( マルコ 7:21-23)。「心はよろずの 努力のすべてはむなしいのです。 物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっ ている」( エレミヤ 17:9)。生れながら、罪は わたしたちの存在のすみずみにまで及んでいま キリストはわたしたちのうちで す。わたしたちは罪の中に生れ、わたしたちの 罪を負われる 命は罪です。だから、わたしたちの命を取るこ となしに、わたしたちから罪を取り去ることは できません。わたしが必要とするのは、わたし の罪からの解放です。その罪というのは、わた しが個々に犯した罪ばかりでなく、心の中に宿っ ているもの、わたしの命全部を構成している罪 です。 今まで語ってきたことから、わたしの罪を負 う者は誰でも、わたしのいるところに来なけれ ばならないことが明らかです。そう、わたしの 中に来なければならないのです。そして、実に これこそキリストがなさったことです。キリス トは言葉です。そして、神が何を要求されてい 38 ガラテヤ 2 章 るか自分たちには分からないと言って、言い訳 はなんと栄光に満ちた思想でしょうか。彼は罪、 をするすべての罪人に対し、彼は、「この言葉は すべての罪、世の罪を負われました。罪はすべ あなたにはなはだ近くあってあなたの口にあり、 ての肉のうちにあります。だからキリストはそ またあなたの心にあるから、あなたはこれを行 の肉の中に来られました。キリストは地に住む うことができる」と言われます ( 申命記 30:11 すベての人の中で十字架にかけられます。これ ‐ 14)。だから彼は、「自分の口で、イエスは主 が真理、救いの福音、すべての人に伝えられる であると告白し、自分の心で、神が死人の中か べきことです。そして、それを受けいれる者は らイエスをよみがえらせたと信じるなら、あな みな救われるのです。 たは救われる」と言われるのです ( ローマ 10:9)。 わたしたちはイエスのことを何と告白すべきな 信仰によって生きる のでしょうか。なぜ、彼はあなたの近くにおられ、 あなたの口に、あなたの心におられるという真 理を告白し、彼は死からよみがえられたと信じ るのでしょうか。「さて『上った』と言う以上、 また地下の低い底にも降りてこられたわけでは ないか」( エペソ 4:9)。よみがえられた救い主は、 十字架につけられた救い主です。だから、キリ ストが罪人の心の中にあってよみがえられると き、そこには十字架につけられたキリストがお られるのです。もしそうでないなら、だれにも 望みはありません。ある人は、イエスは千八百 年前 ( 現在から約二千年前:訳者注 ) に十字架に かけられたことを信じ、自分の罪のうちに滅び るかもしれません。しかし、キリストは自分の 内で十字架にかけられ、そしてよみがえったと 信じる者は救われます。 世界中のだれもが救われるためにしなければ ならないことの全ては、真理を信じることです。 それは事実を認知すること、物事を実際のあり のままに見ること、そしてそれを告白すること です。キリストは自分の中で十字架につけられ たという、あらゆる人の場合におけるその事実 を信じ、その十字架にかけられたキリストがま たよみがえられたこと、そしてその復活の力に よって、またその力をもって、キリストが自分 ローマ十章で、すでに注意して見たように、 キリストはすべての人の内におられるというこ と、「悩めるときのいと近き助け」( 詩篇 46:1) であることを学びました。罪人が罪から義に転 じるためにあらゆる刺激 ( 動機 ) と便宜を持てる ように、キリストは罪人の中におられます。彼 は「道であり、真理であり、命である」( ヨハネ 14:6)。彼の命以外に命はありません。彼は命 です。しかし、彼はすべての人の内におられま すが、すべての人が自分の命の内に彼が現わさ れた義を持っているのではありません。ある人 たちは「不義をもって真理をはば」んでいるか らです ( ローマ 1:18)。さて霊の感動を受けた パウロの祈りは、人の内に住む神の霊によって わたしたちが強められるようにということでし た。「信仰によって、キリストがあなたがたのう ちに住み」、 「神に満ちているもののすべてをもっ て、あなたがたが満たされるように」( エペソ 3: 16 ‐ 19)。では罪人とクリスチャンとの違いは 何かというと、それは、すべての人の中に十字 架につけられてよみがえったキリストがおられ るのですが、罪人の内では彼は認められず無視 されており、一方クリスチャンの内では信仰に よって宿っておられます。 のうちに宿っておられることを信じる者は、罪 から救われます。そして、その告白をしっかり と持ち続けるかぎりその人は救われるでしょう。 これだけが真の信仰告白です。 罪のあるところにはどこにでも、キリストが おられます。罪からの救い主がおられる、これ キリストは罪人の中で十字架にかけられまし た。罪やのろいのある所ではどこでも、彼はそ こでそれらを負っておられるからです。今必要 なことのすべては、罪人の滅びゆく肉のなかに イエスの命が現わされるために、その人がキリ ストと共に十字架にかけられること、キリスト 39 の死がその人の死となるようにすることです。 啓示して下さったのである」( 第 1 コリント 2: 神が造られたすべてのものの中に見られる、神 9-10)。だから、ナザレの大工だったその人をい の永遠の力と神性とを信じる信仰は、だれにで くらよく知っていたとしても、御霊によらなけ もこの奥義をとらえることができるようにする ればだれも彼を主と呼ぶことはできませんでし ことでしょう。種は「死ななければ」発芽しま た ( 第 1 コリント 12:3)。御霊、すなわち彼自 せん ( 第 1 コリント 15:36)。「一粒の麦が地に 身の個人的な臨在によって、彼は地に住むすべ 落ちて死ななければ、それはただ一粒のままで ての人の内に宿ることがおできになり、肉にあ す。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶ るイエスにはできなかったひとつのこと、すな ようになる」( ヨハネ 12:24)。だから、キリス わち天をも満たすことがおできになります。そ トと共に十字架にかけられた者は、すぐに生き れゆえに、去って行くこと、そして慰め主をお 始めます。しかし、それは新しい人として、です。 送りになることは彼にとって適切なことでした。 「生きているのは、もはや、わたしではない。キ 「彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成 リストが、わたしのうちに生きておられるので り立っているのである」( コロサイ 1:16-17)。 ある。」 ナザレのイエスは、肉において現わされたキリ ストでした。しかし、その肉がキリストだった 世界のいのち のではありません。なぜなら、「肉はなんの役に も立たない」からです。初めにあったのは、そ 「だが、キリストはほんとうのところ千八百年 の力がすべてのものをささえているところの言、 以上も前 ( 現在からは二千年前 ) に十字架にかけ 神のキリストでした。キリストの犠牲は、この られたのではないか」。確かにそのとおりです。 世に関するかぎり、世の初めから始まっていま 「では、どうしてわたしの個人的な罪が彼の上に す。キリストはユダヤやガリラヤで、良いこと 置かれたということがありうるのか。また、わ をするために出ていかれた一方で、世界の罪の たしが今彼と共に十字架にかけられるというこ ためのあがないをしながら父のもとにおられま とがどうしてありうるのか」。わたしたちはその した。 事実を理解することができないかもしれません が、だからといってそれは事実そのものを変え はしません。しかし、キリストは命、「永遠のい のち…父と共にいましたが、今やわたしたちに 現れたもの」( 第 1 ヨハネ 1:2) だということを、 わたしたちが思い出す時、わたしたちは理解が できることがあるのではないでしょうか。「この 言に命があった。そしてこの命は人の光であっ た」。「すべての人を照らすまことの光があって、 世にきた」( ヨハネ 1:4、9)。 カルバリーでの場面は、罪が存在するかぎり 何が起るのか、また救われたいと思う人がすべ て救われるまでは何が起るのかを現わすもので した。キリストは世の罪を負っておられます。 彼はそれらを今負っておられます。わたしたち が考えているのは永遠の命なのだから、一人の 死と復活がどんな時のためにも十分でした。で すから、犠牲が繰り返される必要はありません。 その命がすべてのものにみなぎり、ささえてい るので、信仰によってそれを受けいれる者はだ キリストは、人が見ることのできた人間ナザ れでもキリストの払われた犠牲すべての益をこ レのイエスよりも大いなるかたです。肉と血、 うむるのです。ご自分で彼は罪の清めとなられ すなわち目に見えるものは、「生ける神の子、キ ました。命を拒む者、または自分が持っている リスト」をあらわすことはできない ( マタイ のはキリストの命であることを認めようとしな 16:16-17)。「『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、 い者はだれでも、もちろん、その犠牲による益 人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、 を受け損ないます。 ご自分を愛する者たちのために備えられた』。そ して、それを神は、御霊によってわたしたちに 40 ガラテヤ 2 章 神の御子の信仰 なり、またわたしたちを栄光あるものとします。 キリストは神によって生活なさいました ( ヨ ハネ 6:57)。世におられた彼に、神がお与えに わたしのための贈り物 なった信仰は、彼が死なれるとき三日目によみ がえるべきことを、確固として繰返し言われた 「わたしを愛し、わたしのためにご自身をささ ことに示されているような性質のものでした。 げられた神の御子」。これはなんと個人的な事柄 この信仰にあって、「父よ、わたしの霊をみ手に でしょう。わたしは、彼が愛して下さった者で ゆだねます」と言って彼は死なれました ( ルカ す。世界中の者が皆、各自、 「彼はわたしを愛し、 23:46)。罪に対する完璧な勝利を彼に与えた わたしのためにご自身をささげてくださった」 ゆえに、死に対する勝利を彼に与えたその信仰 と言うことができます。この句を読むとき、パ は ( ヘブル 5:7)、信仰によって彼がわたしたち ウロのことは問題外としておきましょう。パウ のうちに宿られるとき、彼がわたしたちのうち ロは死んだが、彼が書いた言葉は今もなお生き で働かして下さる信仰です。「彼はきのうも今日 ています。それはパウロにとって真実でしたが、 もまた永遠に変わることがない」からです。生 ほかの人々すべてにとっても全く同じです。そ きているのはわたしたちではなく、キリストが れは、わたしたちが受けいれさえすれば、聖霊 わたしたちのうちにあって生きておられ、わた がわたしたちの口に置いて下さる言葉です。キ したちをサタンの力から解放するためにご自分 リストの賜物はすべて、一人一人のために、そ の力をお用いになるのです。わたしたちは何を してわたしのためにあります。キリストは分け しなければならないのかとお聞きになるなら、 られませんが、だれもが皆、彼のものを全部受 こうお答えします。キリストがわたしたちのう けます。それぞれが輝いている光を全部受ける ちにあって、キリストのやり方で生きるように のです。太陽が何百万人もの人々の上に光を輝 していただきましょう。「キリスト・イエスのう かしているという事実は、わたしのための光が ちにあったのとおなじその思いがあなたのうち いくらかでも少なくなることを意味するもので にあるようにしなさい」。どうしたらわたしたち はありません。わたしはその益を十分に受け、 は彼にそうしていただけるでしょうか。ただ彼 たとえ世界にいるのがわたしただ一人だとして を認めることによって、彼を告白することによっ も、それ以上受けることはできないほどです。 てです。わたしたちは理解することはできない それはわたしのために輝いているのです。キリ し、栄光の望み、わたしたちのうちにいますキ ストはわたしのためにご自身をささげられまし リストという奥義を説明することはできません た。それは世界でただわたし一人が罪人だった が、わたしたちの命をささえるために奉仕して としても同じです。そして、この事実は他のす いる自然界のすべてのものがその事実を教えて べての罪人にとっても同じです。あなたが一粒 います。わたしたちの上に輝く日光、吸う空気、 の麦をまくと、より多くの同じ穀粒を手に入れ 食べる食物、そして飲む水はみな、わたしたち ます。その一つ一つが同じ命を持っており、そ に命をもたらす手段です。それらのものがわた れは元の種が持っていたのと全く同じものです。 したちにもたらす命は、キリストの命にほかな だから、真の種、キリストにおいてもそうなの りません。彼は命だからです。このようにわた です。わたしたちも同じ真の種を持つことがで したちは、キリストがわたしたちのうちに生き きるようにと、彼はわたしたちのために死んで、 ることがおできになるという事実の証拠を、わ わたしたち一人一人にご自分の命を全部与えて たしたちの前にも、またわたしたちの内にも常 下さいました。「言いつくせない賜物のゆえに、 に持っているのです。もしわたしたちが、み言 神に感謝せよ。」 葉に、わたしたちの内にあって自由な道筋をと らせるなら、それはわたしたちのうちで栄光と 41 むだではないキリストの死 「わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、 義が律法によって得られるとすれば、キリスト の死はむだであったことになる」。これが、問題 としてきたことの要約であり、先に述べてきた ことの本質です。もし義が律法によって得られ るなら、キリストの死は無益であったことにな ります。律法自体は、人の義務を指摘する以外 のことはできません。だから、律法によって義 が得られると言うことは、わたしたちの働きに より、わたしたちの個人的な努力によって得ら れるという意味です。ですからこの聖句は、も しわたしたちが自分自身で救いを得られるなら、 キリストは意味のない死をとげたのだ、得なけ ればならないことは救いなのだから、と言って いるのと同じなのです。ところで、わたしたち は自分で救いを得ることはできません。そして キリストは無駄に死んだのではありません。だ から、彼のうちに救いがあるのです。ですから、 約束は確実です。「彼が自分を、とがの供え物と なすとき、その子孫を見ることができ、その命 をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼 の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみに より光を見て満足する」( イザヤ 53:10-11)。「だ れでも望む者は」その数に入れられるでしょう。 彼は無駄に死んだのではないのだから、「神の恵 みを無にはしない」ようにしましょう。 42 ガラテヤ 3 章 ガラテヤ3章 のろいからあがなわれて、アブラハムの祝福へ すでに学んだガラテヤ書の二つの章は、書全 なし得なかったことをしました ( ガラテヤ 2: 体の思想を十分に示していたので、実際、ガラ 21、ローマ 8:3-4)。しかしまさにその事実が テヤの兄弟たちのことはさておいても、わたし 律法の義をあかしするのです。もし律法が間違っ たちに宛てられているものとして考えることが ていたのなら、キリストはその要求を満たそう できます。この手紙を書かせることになった状 とはされなかったでしょう。彼は、ただわたし 況は、福音を受けいれてきたガラテヤ人たちが、 たちのためにばかりでなく、わたしたちの内で、 「違った福音」を提示したにせ兄弟たちによって 律法が要求することを満たすことによって、あ 道を離れて行ったことにありました。いつの時 るいは律法を行うことによって、その義を示さ 代にも、だれにとっても、本物はただひとつし れました。キリストにある神の恵みは、律法の かないのだから、その福音というのは偽物でし 偉大さと神聖さを証明しました。わたしたちは た。彼らに提示された道というのは、「モーセに 神の恵みをむだにしません。もし義が律法によっ 従って割礼を受けなければ、救われない」とい て得られるなら、キリストはむだに死なれたこ うことでした。目に見える割礼は、その人がす とになります。しかし、律法は取り消すことが でに信仰によって持っている義のしるしとして できるとか、その要求をゆるめることができる 与えられたのです ( ローマ 4:11)。割礼は、律 とか主張して、律法をないがしろにするのは、 法が聖霊によってその心に書きつけられた、と キリストはむだに死んだと言うことです。繰り いうしるしでした。だから律法が犯されるなら、 返してみましょう。義は、キリストを信じる信 それは笑い草また恥であるにすぎませんでした 仰による以外、律法によって得ることは絶対に ( ローマ 2:25 ‐ 29)。しかし、救われるため できませんでした。しかし律法の義が、わたし に割礼を受ける人にとっては、それはつまり、 たちの内におけるキリストの十字架と復活の命 キリストにではなく自分の行いに信頼をおくこ による以外の方法では獲得できなかったという とでした。さて、今日では救われるために割礼 事実は、律法の無限の偉大さと神聖さを示して という特別な儀式に服すべきかどうかという問 います。 題はありませんが、救いは人の行いによるのか、 ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十 字架につけられたイエス・キリストが、あな たがたの目の前に描き出されたのに、いった い、だれがあなたがたを惑わしたのか。わた しは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞 いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、 律法を行ったからか、それとも、聞いて信じ たからか。あなたがたは、そんなに物わかり がわるいのか。御霊で始めたのに、今になっ て肉で仕上げるというのか。あれほどの大き な経験をしたことは、むだであったのか。ま さか、むだではあるまい。すると、あなたが たに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの 間でなされたのは、律法を行ったからか、そ れとも、聞いて信じたからか。 それともキリストだけによるのかという問題は、 どの時代にもあるように、今もあります。 彼らの間違いを攻撃したり、むずかしい議論 で争ったりするかわりに、使徒は経験を示し、 それと関連して、当面の問題を描き出すのでし た。救いは全ての人にとって同じで、全く信仰 によるのであり、ほんのわずかにでも行いには よらないことを示す理由が、彼のこの物語の中 にあります。キリストはすべての人のために死 を味わわれたので、救われるすべての人はキリ ストの死と復活と命に関する個人的な経験を持 つべきです。肉において、キリストは、律法が 43 このように、アブラハムは「神を信じた。 それによって、彼は義と認められた」のであ る。だから、信仰による者こそアブラハムの 子であることを、知るべきである。聖書は、 神が異邦人を信仰によって義とされることを、 あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたに よって、すべての国民は祝福されるであろう」 との良い知らせを、予告したのである。この ように、信仰による者は、信仰の人アブラハ ムと共に、祝福を受けるのである。 いったい、 律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。 「律法の書に書いてあるいっさいのことを守ら ず、これを行わない者は、皆のろわれる」と 書いてあるからである。そこで、律法によっ ては、神のみまえに義とされる者はひとりも ないことが、明らかである。なぜなら、「信仰 による義人は生きる」からである。律法は信 仰に基いているものではない。かえって、「律 法を行う者は律法によって生きる」のである。 キリストは、わたしたちのためにのろいとなっ て、わたしたちを律法ののろいからあがない 出して下さった。聖書に、「木にかけられる者 は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、 アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリス トにあって異邦人に及ぶためであり、約束さ れた御霊を、わたしたちが信仰によって受け るためである。 兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言 おう。人間の遺言でさえ、いったん作成され たら、これを無効にしたり、これに付け加え たりすることは、だれにもできない。さて、 約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してな されたのである。それは、多数をさして「子 孫たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あ なたの子孫とに」と言っている。これは、キ リストのことである。わたしの言う意味は、 こうである。神によってあらかじめ立てられ た契約が、四百三十年の後にできた律法によっ て破棄されて、その約束がむなしくなるよう なことはない。もし相続が、律法に基いてな されるとすれば、もはや約束に基いたもので はない。ところが事実、神は約束によって、 相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。 それでは、律法はなんであるか。それは違 反を促すため、あとから加えられたのであっ て、約束されていた子孫が来るまで存続する だけのものであり、かつ、天使たちをとおし、 仲介者の手によって制定されたものにすぎな い。仲介者なるものは、一方だけに属する者 ではない。しかし、神はひとりである。では、 律法は神の約束と相いれないものか。断じて そうではない。もし人を生かす力のある律法 が与えられていたとすれば、義はたしかに律 法によって実現されたであろう。しかし、約 束が、信じる人々にイエス・キリストに対す る信仰によって与えられるために、聖書はす べての人を罪の下に閉じ込めたのである。 しかし、信仰が現れる前には、わたしたち は律法の下で監視されており、やがて啓示さ れる信仰の時まで閉じ込められていた。この ようにして律法は、信仰によって義とされる ために、わたしたちをキリストに連れて行く 養育掛となったのである。しかし、いったん 信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養 育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、 キリスト・イエスにある信仰によって、神の 子なのである。キリストに合うバプテスマを 受けたあなたがたは、皆キリストを着たので ある。もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、 奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなた がたは皆、キリスト・イエスにあって一つだ からである。もしキリストのものであるなら、 あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束 による相続人なのである。 (ガラテヤ人への手紙第3章) 占いの罪 使徒は、神とその真理から離れている者たち に、「だれがあなたがたを惑わしたのか」と問い かけています。「見よ、従うことは犠牲にまさり、 聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは 占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等し いからである」( サムエル上 15:22)。聖書のこ の句を見ると、どちらの場合にも、「に等しい」 という言葉がつけられています。文字通りのヘ ブル語は、「そむくことは占いの罪であり、強情 は偶像礼拝である」というものです。明らかに、 強情とそむきは神の否定であり、神を否定する 44 ガラテヤ 3 章 者は、自分を悪の霊の支配下に置きます。あら ゆる偶像礼拝は悪魔礼拝です。「人々 ( 異教徒 ) キリストはわたしたちの目前で が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ 十字架につけられた 者に供えるのである」( 第 1 コリント 10:20)。 「十字架につけられたイエス・キリストが、あ 中間地帯というものはありません。キリストは、 「わたしの味方でない者は、わたしに反対する者 なたがたの目の前に描き出されたのに、いった ……である」と言っておられます ( マタイ 12: い、だれがあなたがたを惑わしたのか」。パウロ 30)。ということは、不服従すなわち主を拒む が説教した時、イエスはあたかも彼らの目の前 のは、反キリストの霊です。すでに見たように、 で十字架につけられたかのように、彼らに宣ベ ガラテヤの兄弟たちは神から離れ、その結果、 伝えられました。その呈示があまりにも鮮明だっ 彼らは明らかに、おそらくは無意識にではあっ たので、彼らは本当に十字架につけられたキリ たけれども、偶像礼拝に逆戻りしていました。 ストを見ることができました。それはパウロの 側での言葉巧みな表現のせいでもなければ、ガ ラテヤ人の想像だったのでもありません。もし 心霊術に対する安全地帯 心霊術は古代の占いや予言の別名にすぎませ ん。それはごまかしだが、ほとんどの人々が思っ ているような種類のごまかしではありません。 その中には現実があります。死者の霊からの交 信を受けていると公言しますが、それは悪霊と 交信しているにすぎないということが、ごまか しなのです。「死者は何事も知らない」からです。 心霊術の霊媒となるためには、自分を悪霊の支 配下に渡さねばなりません。ところで、これに 対してはただ一つの防御があり、それは神のみ 言葉に堅くすがることです。神のみ言葉を軽々 しく扱う者は、神との交際を自ら断ち、サタン の影響の中に自分を置くのです。たとえ人が、 強い言い方で心霊術を公然と非難しても、もし 彼が神のみ言葉にすがっていなければ、遅かれ 早かれ強力な惑わしに心を奪われてしまうで しょう。キリストの忍耐の言葉を守ることによっ てのみ、全世界にやってくる誘惑から守られる ことができます ( 黙示録 3:10)。「不従順の子 らの中に今も働いている霊」( エペソ 2:2) は、 サタンの霊、反キリストの霊です。そして神の 義を啓示するキリストの福音 ( ローマ 1:16) は、 それから救う唯一のものです。 そうなら、それはただの見せかけにすぎなかっ たことでしょう。そうではなく、それは本当の 事でした。キリストが彼らの目の前で十字架に つけられて、そこにおられました。そしてパウ ロは聖霊によって彼らにキリストを見せること ができました。彼らが十字架を見たと思うのを 可能にさせたのは、絵を描くような美しい言葉 をあやつるパウロの技術ではなかったことを、 わたしたちは知っています。他の場所でパウロ は、イエス・キリストしかも十字架につけられ た彼以外のことは知るまいと決心した、と言っ ているからです。また彼は意図的に、知恵の言 葉を用いることを注意深く控えていました。キ リストの十字架の効力を無くしてしまうことを 恐れたためです ( 第 1 コリント 1:17-18、2: 1 ‐ 4)。このことにおけるガラテヤ人の経験は、 彼らに特有なことではありませんでした。キリ ストの十字架は現在のことです。「十字架に来 よ」という表現は、空虚な形式的な言葉ではな く、文字通りにあてはめることのできるわたし たちへの招きです。キリストはわたしたちの前 で十字架につけられており、一つ一つの草の芽 や森にある一枚一枚の木の葉が、その事実を啓 示しています。そうなのです、わたしたちは自 分のからだの中にその証を持っています、罪深 く堕落しているにもかかわらず、わたしたちは 生きているという事実の内に。人は、十字架に つけられたキリストを目の前に見ることができ ないうちは、また至る所にキリストの十字架を 45 見ることができないうちは、福音の現実がわかっ てはいません。ばかにしたい者たちにはさせて 始めたことを堅く保て おきましょう。盲目の人が太陽を見ることがで きずに、それが輝いていることを否定するとい う事実は、それを見ることのできる人に、その 栄光について語るのを思いとどまらせるもので はありません。キリストはガラテヤ人の目の前 で十字架につけられた、と使徒が言う時、言葉 の形以上の何かがあることを証しできる多くの 人がいます。彼らはその経験をしました。ガラ テヤ書の研究が終わる前に、もっと多くの人た ちの目が開かれ、彼らが十字架につけられたキ リストを目の前に見ることができ、彼らの内で、 彼らのために十字架につけられたキリストを知 るようになることを神はよしとされます。 「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいの か。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げ るというのか」。この場合、物わかりがわるいと いうのは、あまりにも控え目な言い方です。仕 事を始める力のない人に、それを完成する力が あるなどとは!片足をもう一方の足の前に出す 力のない者が、いやそれどころか、立つ力さえ ない者が、競争に勝つ力があるとは!そんなこ とは不可能です。だれに自分を生み出す力があ るというのでしょうか。だれにもありません。 わたしたちは自分で自分を生み出して、この世 に来たのではありません。わたしたちは力を持 たずに生れました。だから、わたしたちの中に 現れた力は、皆わたし以外のところから来たの 良き始まり 「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行っ たからか、それとも、聞いて信じたからか」と いう質問には、ただ一つの答の余地しかありま せん。それは、聞いて信じたことによる、です。 信じる者たちに聖霊が与えられます ( ヨハネ 7: 39、エペソ 1:13)。その質問はまた、ガラテヤ 人は聖霊を受けていたことを示しています。ク リスチャン生活を始めるのに、他の方法はあり ません。「聖霊によらなければ、だれも『イエス は主である』と言うことができない」( 第 1 コリ ント 12:3)。初めに、創造において、聖霊が水 の面で動き、命と活動を生じさせました。聖霊 なしにはなんの動きもありません、何の命もな いからです。「これは権勢によらず、能力によら ず、わたしの霊によるのである」( ゼカリヤ 4: 6)。神の霊だけが、神のみ旨を完璧に果たすこ とができます。そして、魂のなかに聖霊をもた らすことができる働きは、死人が生きて動くた めに呼吸を作り出すことができないのと同様に、 です。それは、すべて与えられたものです。生 れたばかりの赤ん坊は、人の標本です。「ひとり の人が世に生れる」。だれの場合でも、赤ん坊と して、最初の呼吸で産声を発するときに見られ るのが、そのうちにある力の全てです。そして、 その弱い力でさえも、彼自身のものではありま せん。霊の事柄においては、なおさらです。「父 は、……真理の言葉によって御旨のままに、生 み出してくださったのである」( ヤコブ 1:18)。 わたしたちが自分を生れさせることができない 以上、自分の力で義なる命を生きることはでき ません。霊によって始められた仕事は、霊によっ て完成されなければなりません。「もし最初の確 信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、 わたしたちはキリストにあずかる者となるので ある」( ヘブル 3:14)。「そして、あなたがたの うちに良いわざを始められたかたが、キリスト・ イエスの日までにそれを完成して下さる」( ピリ ピ 1:6)。そして、彼だけがそれをすることが おできになります。 人には何もありません。パウロがこの手紙を宛 てた人たちは、彼らの目の前に十字架につけら 福音における経験 れたキリストを見、そして聖霊によって彼を受 けいれました。あなたもまた彼を見て、受けい れたでしょうか。 「あれほどの大きな経験をしたことは、むだで あったのか。まさか、むだではあるまい。すると、 46 ガラテヤ 3 章 あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなた 分たちはアブラハムの子孫であることを証明す がたの間でなされたのは、律法を行ったからか、 るものとして割礼に依り頼んだこと自体、実は それとも、聞いて信じたからか」。この質問は、 彼らはそうではないという事を証明していまし キリストが自分たちの目の前で十字架につけら た。なぜならば、「アブラハムは神を信じた。そ れるのを見た者たちに期待してよいだけの、深 して神はそれを義と認められた」からです。彼 く真実な経験を、ガラテヤの兄弟たちがしてい は割礼の前に信仰の義を得ていました ( ローマ たことを示しています。キリストは彼らの目の 4:11)。「だから、信仰による者こそアブラハム 前で十字架についておられました。聖霊が彼ら の子であることを、知るべきである」。アブラハ に与えられました。奇跡が彼らの間でなされて ムは行いによって義とされたのではなく ( ロー きたし、それが彼ら自身によってなされたこと マ 4:2-3)、その信仰が「義とされた」のです。 さえありました。聖霊という賜物は、種々の聖 霊の賜物を伴うからです。そして、彼らの間に おける、この生きた福音の結果として、彼らは 迫害に苦しみました。「いったい、キリスト・イ エスにあって信心深く生きようとする者は、み な、迫害を受ける」からである ( 第 2 テモテ 3: 12)。こうしたことは問題をいっそう深刻にしま す。キリストの苦難を共にしていたのに、彼ら は、今はキリストから離れているのです。そして、 義はただキリストからだけ与えられるのですか ら、キリストからの分離は、真実の律法への不 服従という特長を見せました。彼らは、避けよ うもなく徐々に、彼らが救いをそこに望んでい た律法を犯しつつありました。 同じ問題が今なお存在しています。人々はし るしを本質と、手段を目的と取り違えます。彼 らは、義は良い行いの中に現わされるのを見て、 良い行いが義をもたらすものと仮定します。信 じることにより得られる義、骨折ることなくな される良いわざは、彼らにとっては実際的でな く、空想的に思われます。彼らは自分たちを「実 際的な」人間だと呼び、物事をなし遂げる唯一 の方法はそれをすることだと信じています。し かし本当は、そういう人々は非常に非実際的で す。全く「力のない」人には、何もできません。 差し出された薬を取るために起き上がることさ えもできません。だから、そういう人にやって みるようにと勧めるのは非実際的なことになる でしょう。主のうちにのみ、義と力があります ( イ アブラハムは神を信じた 3、4 節及び 5 節で問いかけられていることは、 それ自体が答を暗示しています。律法の働きに はよらず、 「信仰の言葉を聞いたこと」によって、 聖霊が働き、奇跡がなされました。それは信仰 の服従によりました。信仰は神の言葉を聞くこ とから来るからです ( ローマ 10:17)。このよ ザヤ 45:24)。「あなたの道を主にゆだねよ。主 に信頼せよ、主はそれをなし遂げ、あなたの義 を光のように明らかに……される」( 詩篇 37: 5-6)。アブラハムは、義とされるために信じる 者すべての父であり、そういう者たちだけの父 です。ただ一つの実際的なことは、彼がしたよ うに信頼することです。 うに、パウロの働きとガラテヤ人の最初の経験 は、その信仰が義と認められたアブラハムの経 ガラテヤ人への福音 験と全く同列のものでした。「違った福音」、す なわち行いによる義という偽の福音を宣べ伝え た「にせ兄弟たち」は、ユダヤ人であって、ア ブラハムは彼らの父だと主張していました。彼 らがアブラハムの子孫だということは、彼らの 誇りでした。そして彼らは、その事実の証明と して割礼を宣伝しようとしました。しかし、自 「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされ ることを、あらかじめ知って」。この句は多くの 読みに耐えるでしょう。それを理解すれば多く の過ちから守られるでしょう。そして理解する のはむずかしいことではありません。ただそれ が言っていることをつかみさえすれば、あなた 47 アブラハムと共に祝福される はそれを手にします。 「このように、信仰による者は、信仰の人アブ (a) 一つは、この句は、福音は少なくともア ブラハムの時代には、早くも宣教されてい ラハムと共に、祝福を受けるのである」。これと、 たことを示しています。 その前の句との間の密接な関連に気をつけてく (b) それを言われたのは神でした。ですから それが本当の唯一の福音です。 (c) それはパウロが宣べ伝えたのと同じ福音 でした。だから、わたしたちはアブラハム が持ったものと違う福音を持っているの ではありません。 ださい。福音は、「あなたによって、全ての国民 は祝福されるであろう」との言葉でアブラハム に宣べ伝えられました(ついでながら:改訳聖 書における「異教徒」または「異邦人」という 言葉と、8 節の「国民」は、全く同じギリシャ 語から来ている事を覚えるべきです。)「あなた がたは預言者の子であり、神があなたがたの先 (d) 福音は、アブラハムの時代にあったもの 祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラ と今も何の変わりもありません。彼はキリ ハムに対して『地上の諸民族は、あなたの子孫 ストの日を見たからです ( ヨハネ 8:56)。 によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。 神は、当時要求なさったことと全く同じこと を要求しておられ、それ以上ではありません。 そればかりか、福音は当時異邦人に宣べ伝え られました。アブラハムは異邦人、または言い 替えれば異教徒だったからです。彼は異教徒と して教育されました。「アブラハムの父、テラ」 は「ほかの神々に仕えていた」( ヨシュア 24:2) からです。彼は、福音を聞くまでは異教徒でした。 だから異邦人への福音の宣教は、ペテロやパウ ロの時代に目新しいことではありませんでした。 ユダヤ民族は異教徒の間から取り出されたので あり、イスラエルが建てられ、救われるのは、 ただ異教徒への福音の宣教によります。使徒 15 章 14 ‐ 18 節、ローマ 11 章 25、26 節を見て ください。イスラエルの民の存在そのものが、 神の目的は、常に、また今もなお、人々を異教 から救うことにある、というきわだった証拠で す。イスラエルの存在は、この目的の成就です。 神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、 おつかわしになったのは、あなたがたひとりび とりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずか らせるためなのである」(使徒 3:25-26)。この 句から分かるように、この祝福はキリストを通 しての義という祝福です。神が、「あなたによっ て、全ての国民は祝福されるであろう」と言わ れ、アブラハムに福音をお宣べになったので、 信じる者たちは信仰を持ったアブラハムと共に 祝福されます。アブラハムが受けた祝福以外の 祝福はなく、彼に宣べられた福音だけが天下の あらゆる人のためのただ一つの福音です。なぜ ならアブラハムが信じたイエスの名をおいては、 「わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、 天下のだれにも与えられていないからである」 ( 使徒 4:12)。彼によって「わたしたちは…あ がない、すなわち、罪のゆるしを受けているの である」( コロサイ 1:14)。罪のゆるしと共に すべての祝福がもたらされます。 こうして、使徒は、ガラテヤ人を、またわた 逆・のろいの下に したちを、源泉、すなわち 神ご自身がわたした ち異邦人に福音を宣べ伝えられた場所にまで、 9 節と 10 節の鋭い対比に注意してください。 連れ戻します。アブラハムが救われた以外の方 「信仰による者は……祝福を受ける」。しかし「律 法、またそれ以外の福音で救われる希望を持つ 法の行いによる者は、皆のろいの下にある」 。信 ことのできる異邦人はいません。 仰は祝福をもたらします。行いはのろいをもた らす、というよりむしろ、人をのろいの下にお いたままにします。のろいは全ての者の上にあ 48 ガラテヤ 3 章 ります。 「信じない者はすでにさばかれている。 なくては、だれもガラテヤ 3 章 10 節を注意深 神のひとり子の名を信じることをしないからで くまた考え深く読むことはできません。神の律 ある」( ヨハネ 3:18)。信仰はのろいを取り除 法に対する不従順それ自体がのろいです。なぜ きます。 なら「ひとりの人によって、罪がこの世にはい だれがのろいの下にあるのですか―「律法の 行いによる者は、皆」です。律法を行う者はの ろいの下にある、と言っているのではないこと に注意してください。それでは、黙示録 22 章 14 節の、「いのちの木にあずかる特権を与えら れ、また門をとおって都に入るために、自分の 着物を洗う者たちは ( 神の戒めを行う者たちは: 英語訳 ) さいわいである」とか、「おのが道を全 くして、主のおきてに歩む人はさいわいです」( 詩 篇 119:1) というのと矛盾することになります。 だから、信仰を持つ者たちは、律法を守る者 です。信仰を持つ者たちは祝福され、いましめ を行う者たちは祝福されるからです。信仰によっ て彼らはいましめを行います。福音は人間の性 質に反するから、わたしたちは行うことによっ てではなく、信じることによって、律法を行う 者になれます。もしわたしたちが義を得るため に行うなら、ただ自分の罪深い人間の性質を働 かすだけで、義に近づくどころか遠ざかるだけ です。しかし「尊く、大いなる約束」( 第 2 ペテ ロ 1:4) を信じることによって、わたしたちは 神性を分け与えられた者となります。そのよう にして、わたしたちのすべてのわざは神によっ てなされます。「義を追い求めなかった異邦人 は、義、すなわち、信仰による義を得た。しかし、 り、また罪によって死がはいってきた」からで す ( ローマ 5:12)。罪はその中に死を包み込ん でいます。「死のとげは罪である」のだから、罪 なしには死はありえません ( 第 1 コリント 15: 56)。「律法の行いによる者は、皆のろいの下に ある」。なぜか。律法がのろいだからでしょうか。 そうではありません。「律法そのものは聖なるも のであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善 なるものである」( ローマ 7:12)。では、なぜ 律法の行いによる者はのろいの下にあるのです か。そのわけは、「律法の書に書いてあるいっさ いのことを守らず、これを行わない者は、皆の ろわれる」と書いてあります。よくよく注意し てください。のろわれる者は律法を行うからで はなく、行わないからのろわれるのです。そこで、 律法の行いによる者というのは、律法を行って いる者のことではないことがわかります。そう ではなく、 「肉の思いは神に敵する……すなわち、 それは神の律法に従わず、否、従い得ないので ある」( ローマ 8:7)。すべての人はのろいの下 にあり、自分自身の行いによってそこから出よ うと考える者は、そこに留まります。のろいとは、 律法に書かれてあるいっさいのことを守らない ということにあります。ですから、祝福とは律 法の完全な遵守という意味です。これが一番簡 単な言い方です。 義の律法を追い求めていたイスラエルは、その 律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によ らないで、行いによって得られるかのように、 祝福とのろい 追い求めたからである。彼らは、つまずきの石 「見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に につまずいたのである。『見よ、わたしはシオン 祝福と、のろいとを置く。もし、きょう、わた に、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それ しが命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従 により頼む者は、失望に終わることがない』と うならば、祝福を受けるであろう。もしあなた 書いてあるとおりである」( ローマ 9:30-33)。 がたの神、主の命令に聞き従わない ( ならば )… のろいを受けるであろう」( 申命記 11:26-28)。 のろいとはなにか のろいとは律法の違反だということを理解し これは、わたしたち一人―人に個人的に宛てら れた神の生きたみ言葉です。 「律法は怒りを招く」 ( ローマ 4:15) が、神の怒りは不従順の子らに 49 及ぶだけです ( エペソ 5:6)。もしわたしたちが の主イエスを、死人の中から引き上げられた平 本当に信じれば、わたしたちはとがめられませ 和の神が、イエス・キリストによって、みここ ん。しかし、それは信仰だけがわたしたちを律 ろにかなうことをわたしたちにして下さり、あ 法、すなわち神の命と調和させるからです。「完 なたがたが御旨を行うために、すべての良きも 全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人 のを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々 は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に 限りなく神にあるように、アーメン」( ヘブル 行う人である。こういう人は、その行いによっ 13:20-21)。 て祝福される」( ヤコブ 1:25)。 正しい者はだれか 良い行い 聖書は良い行いを軽んじていません。反対に、 それを高めています。「この言葉は確実である。 わたしは、あなたがたがそれらのことを主張す るのを願っている。それは、神を信じている者 たちが、努めて良いわざを励むことを心がける ようになるためである。これは良いことであっ て、人々の益となる」( テトス 3:8)。パウロは、 「この世で富んでいる者たちに」、「良い行いを し、良いわざに富」むように命じることをテモ テに熱心に勧めました ( 第 1 テモテ 6:17-18)。 そして使徒パウロは、わたしたちみんなが、「主 のみこころにかなった生活をして真に主を喜ば せ、あらゆる良いわざを行って実を結」ぶよう にと祈りました ( コロサイ 1:10)。さらに、神 は確かに、キリスト・イエスにあって、わたし 頻繁に引用される「義人 ( 英語では正しい人: 訳者註 ) は信仰によって生きる」という言葉を 読むときに、「正しい人」という言葉が何を意味 するかということについて、はっきりとした考 えをもっている必要があります。同じ聖句を改 訂訳で読めばわかるでしょう。それには「義人 は信仰によって生きる」となっています。信仰 によって正しい者とされるとは、信仰によって 義人とされることです。「不義はすベて、罪であ る」( 第 1 ヨハネ 5:17)、そして「罪は不法で ある」( 第 1 ヨハネ 3:4)。ですから、すべての 不義は律法の違反であり、当然すべての義は律 法への従順です。それで正しい者、あるいは義 人とは、律法に従う者であって、正しい者とさ れるとは、律法を守る者とされることだとわか ります。 たちを「良い行いをするように」、「良い行いを して日を過ごすように」造られました ( エペソ 2: どのようにして正しい者となるか 10)。 神は、ご自分で、これらのわざをわたしたち のために備え、整え、神に信頼するすべての者 のためにたくわえておられます ( 詩篇 31:19)。 「神がつかわされた者を信じることが、神のわざ である」( ヨハネ 6:29)。良い行いをするよう に命じられているが、わたしたちにはできませ ん。それは良いかた、つまり神だけがすること がおできになります。もしもわたしたちの中に 何か良い行いがあるとすれば、それは神がわた したちの内で働いておられるのです。彼がなさ ることに非難すべきことは何一つありません。 「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたち 義は最終的に到達すべきことであり、神の律 法がその標準です。 「律法は怒りをもたらす」。 「全 ての人が罪を犯した」からです。そして「神の 怒りは不従順の子らに及ぶ」。わたしたちはどう したら律法を行う者になり、怒りあるいはのろ いを免れるのでしょうか。その答は、「義人は信 仰によって生きる」、です。行いによってではな く、信仰により、わたしたちは律法を行う者と なります。「人は心に信じて義とされ」る ( ロー マ 10:10)。律法によって神の目に義とみなさ れる者はだれもいないことは、はっきりしてい ます。何からそれはわかりますか。「義人 ( 正し い人 ) は信仰によって生きる」ということから 50 ガラテヤ 3 章 わかります。もし義が行いによって来るなら、 信仰によるのではありません。「恵みによるので 命は活動である あれば、もはや行いによるのではない。そうで ないと、恵みはもはや恵みではなくなるからで ある。」( ローマ 11:6)。「働く人に対する報酬は、 恩恵としてではなく、当然の支払いとして認め られる。しかし、働きはなくても、不信心な者 を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と 認められるのである。」( ローマ 4:4-5)。そこ には例外はありません。中途半端はありません。 正しい人のうちの何人かは信仰によって生きる とか、信仰と行いとによって生きる、とは言っ ておらず、ただ「正しい人 ( 義人 ) は信仰によっ て生きる」と言っているのであって、そのこと は彼ら自身の行いによるのではないことを明ら かにしています。正しい人 ( 義人 ) は皆、ただ信 仰によってのみ造られ、保たれます。これは律 法がきわめて聖なるものだからです。それは人 が守ることができないほど偉大です。ただ神の 力のみが成就することがおできになります。そ れだから、わたしたちは信仰によって、主イエス、 すなわち、わたしたちの内にあって律法を完全 に生きることがおできになるかたを受けいれる のです。 「律法を行う者は律法によって生きる」。しか し、人は行うためには生きなければなりません。 死んだ人は何もすることができません。ですか ら「不義と罪のうちに死んでいる」人は、義を 行うことはできません。その内に命があるかた は、キリストだけです。彼は命だからです。そ して彼だけが律法の義を行ったし、行うことが おできになるのです。わたしたちが、キリスト を拒んだり抑圧したりせずに、受けいれる時、 彼はわたしたちの内でその命の満ち満ちたもの すべてをもって生きることがおできになります。 だから、もはや生きているのはわたしではなく キリストであり、わたしたちの内における彼の 従順が、わたしたちを義とします。わたしたち の信仰は義とみなされ、ただその信仰のゆえに、 生けるキリストに満たされるのです。わたした ちが信頼して自分の体を神の宮として明け渡す と、生ける石キリストは、神の御座となる心の 中に大切に保存され、そこで生きた律法がわた したちの生活となります。心の中から、命ある ものが出てくるからです。 論争における本当の問題 信仰によらない律法 「律法は信仰に基づいているものではない」。 もちろんここで述べられているのは、本の中あ るいは石の板に書かれた律法のことです。その 律法はただ「これをせよ」、または「あれをして はならない」と言うだけです。「律法を行う者は 律法によって生きる」。それが、書かれた律法が 提供する命を得るためのただ一つの条件です。 行い、行いだけがその意にかなうのです。どう したらそれらの行いができるかということは、 律法にとっては重要ではありません。現在のこ とが条件です。しかし律法の要求することを行っ た者はだれもいません。ということは、その生 涯に完全な従順の記録を示すことのできる者は だれもいないということです。 この手紙の中では、律法に従うべきか、そう でないかという議論はされていないという事実 に、読者は特に注意を払いましょう。律法は取 り消されたとか、変更されたとか、その効力を 失ったとか主張する者はだれもいませんでした。 手紙の中にはそのようなことをほのめかすもの は何もありません。問題は律法を守るべきかど うかということではなく、どのように守るべき かということでした。義認 - 義とされること - は、必要と認められていました。問題は信仰 によってなのか、それとも行いによってなのか、 でした。偽兄弟たちは、自分の努力で義とされ ねばならないと、ガラテヤ人たちを説得してい ました。パウロは聖霊により、そのような企て はすべて無益であって、罪人にもっと確実なの 51 ろいをくくりつけることになるだけだというこ とを示しました。イエス・キリストを信じるこ のろいからのあがない とによる義が、唯一の真の義として、すべての 時代の、すべての人のために用意されています。 偽教師たちは律法を彼らの誇りとしたが、それ を破って神の御名を汚しました。パウロはキリ ストを誇りとし、それゆえに彼が服した律法の 義によって、神の御名が彼のうちであがめられ るようにしました。 「キリストは、…わたしたちを律法ののろい からあがない出して下さった」 。あがないの方法 については後で考えることにして、ここで立ち 止まってこの事実をよくよく考えてみましょう。 わたしたちはこの叙述を非常に注意深く考える 必要があります。なぜなら、ある人たちはこれ を読み、まるでこの聖句が、キリストは服従の のろいからわたしたちをあがない出したとでも 罪のとげ 死がのろいであるということは 13 節の後半 から明らかです。「木にかけられる者はすべての ろわれる」。キリストはわたしたちのために、木 にかけられて、つまり十字架にかけられて、の ろわれました。しかし罪は死ののろいです。「ひ とりの人によって、罪がこの世にはいり、また 罪によって死がはいってきたように、こうして、 すべての人が罪を犯したので、死が全人類には いり込んだのである」( ローマ 5:12)。 「死のと げは罪である」( 第 1 コリント 15:56)。だから、 10 節の真意は、律法に書かれたことをすべて行 わない者は死ぬ、ということです。つまり、不 従順は死であるということです。そして聖書は 言っているかのように考えて、「キリストがその のろいからあがない出してくれたのだから、わ たしたちは律法を守る必要がないのだ」と狂っ たように叫んで、そのまま走り出してしまうか らです。そういうふうに聖書を読むのは無益で す。すでに見たように、のろいというのは不服 従のことです。「律法の書に書いてあるいっさい のことを守らず、これを行わない者は、皆のろ われる」。だから、キリストはわたしたちを律法 に対する不服従からあがない出してくださった のです。「律法の要求が、…わたしたちにおいて、 満たされるために」( ローマ 8:4)、神はその御 子を罪の肉の様で罪のためにおつかわしになり ました。 このことを、「欲がはらんで、罪を生み、罪が熟 するとすぐに、だれかが、「では、わたしたち して死を生み出す」と言っています ( ヤコブ 1: はみな正しいのだ。わたしたちはあがなわれた 15)。罪は死を含んでおり、キリストの外にい のだから、わたしたちがすることは皆、律法に る人は「不義と罪のうちに死んでいる」のです。 関する限り正しい」と言うかも知れません。す 彼らがいくら命に満ちて歩き回っているようで べての者があがなわれたというのは本当ですが、 あっても、「人の子の肉を食べず、またその血を すべての者があがないを受けいれたのではあり 飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と ません。多くの者たちがキリストのことを、「わ いうのがキリストの言葉です ( ヨハネ 6:53)。 たしたちはこの人に支配してもらいたくない」 「みだらな生活をしているやもめは、生けるしか と言います。そして神の祝福を押しのけます。 ばねにすぎない」( 第 1 テモテ 5:6)。そこにあ しかし、あがないはすべての者のためです。す るのは、生けるしかばね、死体です ( ローマ 7: べての者がキリストの尊い血― 命― で買いとら 24)。罪は律法の違反です。罪の報酬は死です。 れています。そして望むなら、だれでも皆、罪 だから、のろいは、最も魅力的な罪の中にも隠 と死から解放されます。その血によってわたし されて、運び回されています。「律法の書に書い たちは「空疎な生活」からあがない出されます ( 第 てあるいっさいのことを守らず、これを行わな 1 ペテロ 1:18)。 い者は、皆のろわれる」。 これは何を意味するのか立ち止まって考えて 52 ガラテヤ 3 章 みましょう。この宣言の持つ力のすべてを、あ の上に及んでいるのろいです。それだから、「キ なたの良心に印象づけるようにしましょう。「キ リストがわたしたちのためにのろわれた」時、 リストは、…わたしたちを律法ののろいからあ キリストは「わたしたちのために罪とされた」 がない出してくださった」。その義の要求を皆行 のです ( 第 2 コリント 5:21)。彼はご自分の身 うことから、ではありません。わたしたちはも にわたしたちの罪を負って、木にかけられまし はや罪を犯す必要がありません。キリストはわ た ( 第 1 ペテロ 2:24)。わたしたちの罪は「彼 たしたちを縛りつけていた罪の縄目を切り離し のおからだの中に」あったことに気をつけてく てしまったので、わたしたちが四方八方から押 ださい。彼が引き受けられたのは表面にあらわ し迫るあらゆる罪から自由になるためには、そ れた罪の行為だけではありませんでした。罪は の救いを受けいれる必要があるだけです。わた ただ比喩的に彼の上に置かれたのではなく、実 したちは、もはや、よりよい生活への熱いあこ 際に彼の内にあったのです。彼はわたしたちの がれに命を費やし、実現しない願望のために虚 ためにのろいとなりました。わたしたちのため しく悔やんだりしなくてもよいのです。キリス に罪とされ、その結果、わたしたちのために死 トはいつわりの望みをかかげるのではなく、罪 の苦しみに会われました。 をとりことするためにおいでになりました。そ して「自由だ!あなたの獄屋の扉は開かれた、 出て来なさい」と叫ばれます。それ以上何を言 うことができるでしょうか。キリストは「この 悪の世」、「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」に 対し、完全な勝利を得られました。そして彼を 信じるわたしたちの信仰が、その勝利をわがも のにするのです。わたしたちには、それを受け いれる必要があるだけです。 キリストはわたしたちのために のろわれた 「キリストは不信心な者のために死なれた」と いうことは、聖書を読むすベての者にとってはっ きりしています。彼は、「わたしたちの罪過のた めに死に渡され」ました ( ローマ 4:25)。罪の ないかたが罪のとがのために苦しみを受けられ、 正しいかたが正しくない者のために苦しまれま した。 「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、 われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみ ずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与 え、その打たれた傷によって、われわれはいや されたのだ。われわれはみな羊のように迷って、 おのおの自分の道に向かって行った。主はわれ われすべての者の不義を、彼の上におかれた」( イ ザヤ 53:5-6)。死が罪によって生じました。「す べての者が罪を犯した」ので、死はすべての者 ある人々にとってこの真理は不快であるよう です。ギリシャ人にとっては愚かさであり、ユ ダヤ人にとってはつまずきの石です。しかし、 「救われるわたしたちにとって、それは神の力な のである」。彼がご自分の身に負われたのは、彼 の罪ではなくわたしたちの罪であったことを心 にとめましょう。彼はわたしたちのために罪と されたと告げている同じ聖句が、彼は「罪を知 らなかった」ことを保証しています。彼が「ご 自分の身に」わたしたちの罪を負われたと告げ るその聖句が、彼は「罪を犯さなかった」とい うことをわたしたちに注意深く知らせています。 彼はわたしたちのために実際に罪とされ、ご自 分の中に、ご自分のものとして罪を負うことが できましたが、どんな罪も犯されなかったとい う事実は、彼の永遠の栄光のため、また罪から わたしたちが永遠に救われるためなのです。す べての人の罪は皆、彼の上にありましたが、彼 に罪の痕跡を見た者はだれもいません。彼は自 ら全ての罪を負われたにもかかわらず、彼の生 涯にどんな罪も現れませんでした。彼は、死を も呑みこんでしまわれました。尽きることのな い命の力で、罪を受けて呑みこんでしまわれた のです。彼は罪を負うことがおできになったが、 しかしそれに汚されることはありませんでした。 彼は、この驚くべき命によって、わたしたちを あがなってくださいました。彼はその命をわた したちに下さいました。だから、わたしたちは、 53 自分の肉の中にある罪のあらゆる汚れから解放 エスの名によって」神のもとに行く時、あなたは、 されることができます。 すべての罪は彼にあったし、今もなお彼にある 「その肉の生活の時には、激しい叫びと涙と をもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、 祈りと願いとをささげられた」キリストは、「そ の深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」 ( ヘブル 5:7)。しかし彼は死なれました!そう です。しかし、彼の命をだれかがとったのでは ありません。それを再び得ることができるよう にするために、彼がお捨てになったのです ( ヨ ハネ 10:17-18)。死の苦しみは離れ去りまし こと、そして彼は勝利者であることを覚えてい ればよいだけです。そうすればあなたはただち に、「わたしたちの主、イエス・キリストによっ てわたしたちに勝利を賜った神に感謝せよ」と 言います。「しかるに、神は感謝すべきかな。神 はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行 き、わたしたちを通してキリストを知る知識の かおりを、至る所に放って下さるのである」( 第 2 コリント 2:14)。 た。「イエスが死に支配されているはずがなかっ たからである」( 使徒 2:24)。彼が進んで死の 十字架の啓示 力にご自分を渡されたにもかかわらず、なぜ死 は彼を支配することが不可能だったのでしょう か。それは、彼が「罪を知らなかった」からです。 彼は自ら罪を負われたが、その力から救われま した。彼は、「あらゆる点において兄弟たちと同 じように」なられ、「すべてのことについて、わ たしたちと同じように試練に会われ」ました ( へ ガ ラ テ ヤ 3 章 13 節 で は、 ガ ラ テ ヤ 2 章 20 節と 3 章 1 節に提示された主題― 常に存在す る十字架― に連れ戻されます。その主題は尽き ることがありませんが、次に述べるいくつかの 事実がわたしたちの思いを広げてくれることで しょう。 ブル 2:17、4:15)。また、彼は自分からは何 1.罪と死からのあがないは十字架によって 事もすることができなかったので ( ヨハネ 5: なし遂げられました ( ガラテヤ 3:13)。 30)、死の力に負けてその支配下に下ることがな 2.福音は十字架の内に全部含まれています。 いように天父に祈られました。そして聞きいれ 福音は「すべて信じる者に、救いを得させ られました。彼の場合において、「主なる神はわ る神の力である」( ローマ 1:16)、また、 たしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じる 「わたしたち救われる者にとって」キリス ことがなかった。それゆえ、わたしは顔を火打 トの十字架は「神の力」( 第 1 コリント 1: 石のようにした。わたしは決してはずかしめら 18) だからです。 れないことを知る。わたしを義とする者が近く 3.キリストは、十字架につけられてよみが におられる。だれがわたしと争うだろうか」( イ えられたかたとして、堕落した人間にもっ ザヤ 50:7-8) という言葉が成就しました。 ぱら啓示されました。このかたによる以外 彼をこのように悩ましたのはだれの罪でしょ には人が救いを得ることのできる名は他 うか。また彼が解放したのはだれの罪なのでしょ にはありません ( 使徒 4:12)。ですから、 うか。彼には何の罪もなかったのですから、彼 神は人を混乱させようとは思われないの のものではありません。それはあなたの罪であ で、それが、神が人の前に示されたことの り、わたしの罪です。わたしたちの罪はすでに 全部です。「キリスト、しかも十字架につ 打ち負かされています。征服されています。わ けられたキリスト」が、パウロが知りたい たしたちは、ただ、すでに負けている敵と戦う と望んだことのすべてでした。それがすべ だけです。いたずらにイエスの御名を負うこと ての人が知る必要のあることの全部です。 なく、キリストがあなたの内に生きておられる このように、人が必要としているただ一つ のですから、その死と命に自分を明け渡し、「イ のことは救いです。もし人がそれを手に入 54 ガラテヤ 3 章 れるなら、すべてのものを手に入れるので ば、完全な盲人でもそれを見ることができ す。しかし救いはただキリストの十字架に ます。不完全はのろいです。そうです、そ だけ見出されます。だから、神は人の目の れがのろいです。そしてこの地に属するも 前にそれ以外のものを示されません。神は のすべてが不完全です。人は不完全です。 人が必要としているものだけをお与えに また地から生じる一番素晴らしい植物で なります。イエス・キリストは、神によっ さえ、本来あるべきほどに完全ではありま て、すべての人の目前で十字架につけられ せん。たとえ、わたしたちの鍛えられてい ました。だから、失われる者に言い訳は何 ない目がその重大な必要性を見ることが もなく、罪を犯し続ける言い訳もありませ できないとしても、改良の可能性を示して ん。 いないように見えるものは一つもありま せん。神が地を創造なさったとき、すべて 4.キリストは十字架につけられたあがない のものは「はなはだ良」かった、あるいは、 主としてのみ、人の前に示されています。 ヘブル語の表現にあるように、「とてつも そして人はのろいから救われなければな なく良」かった。神ご自身、改良の余地や らないので、彼はのろいを負う者とされま 可能性をごらんになることができません した。のろいのある所にはどこでも、それ でした。しかし今は違います。庭作りをす を負っておられるキリストがおいでにな る人は、手をかけて花や実を改良しようと ります。すでに、キリストはわたしたちの して、考え、働きます。そして地が生じる 罪を負うことで、わたしたちののろいを負 最高のものがのろいを現わしているのだ われたこと、また今もなお負っておられる から、ふしくれだっていじけた植物、しな ことを知りました。彼はまた、地それ自体 びて枯れた蕾 ( つぼみ ) や葉や実、また有 ののろいも負っておられます。それは彼が 害な毒草について何をいう必要があるで いばらの冠をかぶられたことに示されて しょう。いたる所で、「のろいは地をのみ います。そして地に宣告されたのろいと つくし」てしまいました ( イザヤ 24:6)。 は、「地はあなたのために、いばらとあざ みとを生じ」、でした ( 創世記 3:18)。だ 7.では、全体の結論は何でしょうか。失望 から今、のろいのもとでうめいている全被 ですか。いいえ、「神は、わたしたちを怒 造物は、キリストの十字架によってあがな りにあわせられるように定められたので われたのです ( ローマ 8:19-23)。 はなく、わたしたちの主イエス・キリスト によって救いを得るように定められたの 5.キリストがのろいを負われたのは、まさ である」( 第 1 テサロニケ 5:9)。のろい に十字架の上でのことでした。彼がわたし はあらゆる所に見えます―「回りのものす たちのためにのろいとされたのは、十字架 べての中にわたしは変化と衰えを見る」― に彼をかけることによって示されたから しかしながらそれらは生きており、人は生 です。十字架はのろいの象徴です。しかし、 きています。ところが、のろいは死です。 それは勝利者また解放者であるキリスト そして造られたものや人間は死を負い、な の十字架なので、のろいからの解放の象徴 おかつ生きていることはできません。死は でもあるのです。そういうわけで、のろい 殺します。しかし、生きて、死んで、未来 そのものが十字架を表わし、かつわたした 永劫 ( えいごう ) 生きるのはキリストです ちの解放を告げています。 ( 黙示録 1:18)。彼だけがのろい― 死― 6.どこにのろいがあるのですか。ああ、の を負って、なお生きることがおできになり ろいがない所はどこですか。もし自分の ます。それゆえ、のろいにもかかわらず、 感覚 ( 視覚 ) についての証拠 ( 心の目が見 地にも人にも命があるという事実は、キリ えないということ ) を認めようとさえすれ 55 ストの十字架があらゆるところにあると マ 8:37)。ほんとうに、神は人の内で証をなさ いう証拠です。すべての草の芽、森にある りたいと熱望しておられます。 「神を信じる者は、 すべての葉、すべての潅木 ( かんぼく ) や 自分のうちにこのあかしを持っている」( 第 1 ヨ 樹木、すべての花や実、わたしたちが食べ ハネ 5:10)。 るパンにさえも、キリストの十字架が刻み つけられています。わたしたち自身の体の のろいから祝福へ 中に十字架につけられたキリストがおら れます。どこにもその十字架があります。 そして十字架の宣教は、神の力、すなわち 福音なので、神の永遠の力は彼が造られた すべてのものの中に啓示されています。そ れが、「わたしたちのうちに働く力」です ( エペソ 3:20)。第 1 コリント 1 章 17 節 とローマ 1 章 16-20 節を比較すると、キ リストの十字架は、神が造られたものすべ ての内に― わたしたちの体の中にさえ ― 見られるということをはっきりと述べて いることになります。 わたしたちに祝福がおとずれることができる ように、キリストはのろいを負われました。彼 と共にわたしたちが祝福を経験し続けることが できるように、彼はわたしたちの前で、またわ たしたちの内で、十字架にかけられ、今ものろ いを負っておられます。彼にとっての死は、わ たしたちにとって命です。もしわたしたちが、 死んでいる主イエスを、進んで自分の体の中に 負おうとするなら、イエスの命もまたわたした ちの死ぬべき体の中に現わされるでしょう ( 第 2 コリント 4:10-11)。わたしたちが彼にあって 神の義とされることができるように、彼はわた 絶望からの勇気 したちのために罪とされました ( 第 2 コリント 5: 「数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義 したちが受ける祝福は何でしょうか。それは罪 がわたしに追い迫って、物見ることができない からの救いという祝福です。なぜなら、罪は律 までになりました。それはわたしの頭の毛より 法の違反なので ( ガラテヤ 3:10)、祝福は、わ も多く、わたしの心は消えうせるばかりになり たしたちが皆、不法から顔をそむけることにあ ました」( 詩篇 40:12)。しかしわたしたちは罪 ります ( 使徒 3:26)。「アブラハムの受けた祝福 の深みから確信をもって神に呼ばわってもよい が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶため」 ばかりでなく、神は限りないあわれみのうちに に、キリストはのろいの苦しみ、さらに罪と死 その深みを定められたので、深みそれ自体が確 の苦しみを受けられました。では、アブラハム 信の源です。わたしたちが罪の深みの中におり、 の受けた祝福は何ですか。アブラハムは信仰に しかも生きているという事実は、わたしたちを よって義とされた、と述べたこの手紙の筆者は、 解放するために、十字架上のキリストという人 それに加えて、「ダビデもまた、行いがなくても にあって神ご自身がわたしたちと共におられる 神に義と認められた人の幸福について、次のよ 証拠です。だからすべてのものが、のろいでさ うに言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわ えも― すべてのものがのろいのもとにあるのだ れた人たちは、さいわいである。罪を主に認め から ―、福音を宣べ伝えているのです。わたし られない人は、さいわいである』」( ローマ 4:6 たちの弱さと罪深さは、もしわたしたちが主を ‐ 8) と述べました。そして彼はこの祝福は、信 信じるなら、失望の原因となるのではなく、あ じるユダヤ人と同様に異邦人にも及ぶことを示 がないの保証となります。わたしたちは、弱い しています。アブラハムは、「信じて義とされる 者から強い者にされます。「わたしたちを愛して に至るすべての人の父となるため」に、割礼の 下さったかたによって、わたしたちは、これら 無い時にそれを受けたからです。のろいとは罪 すべての事において勝ち得て余りがある」( ロー の行いだから、祝福とは罪からの自由です。そ 21)。彼が負っておられるのろいを通して、わた 56 ガラテヤ 3 章 してのろいは十字架を啓示しているので、のろ されたのだ。…主はわれわれすべての者の不 いそのものが主によって祝福とされることがわ 義を彼の上におかれた」と証しました ( イザヤ かります。わたしたちが罪人であるにもかかわ 53:4-6)。また、「わたしはあなたのとがを雲の らず生きているという事実は、罪からの解放は ように吹き払い、あなたの罪を霧のように消し わたしたちのものであることの保証です。「命の た。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあが あるところに、希望がある」と言う格言があり なったから」( イザヤ 44:22) という神の言葉 ます。そうです、イエスの命はわたしたちの望 をしるしました。イザヤの時代のずっと以前に、 みだからです。祝福された望みのゆえに神に感 ダビデは、「主はわれらの罪にしたがってわれら 謝しようではありませんか。この祝福はすべて をあしらわず、われらの不義にしたがって報い の人にやってきました。「ひとりの罪過によって られない」、「東が西から遠いように、主はわれ すべての人が罪に定められたように、ひとりの らのとがをわれらから遠ざけられる」と書きま 義なる行為によって、いのちを得させる義がす した ( 詩篇 103:10、12)。 べての人に及ぶ」からです ( ローマ 5:18)。「人 をかたよりみられない」神は、「キリストにあっ て、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わた したちを祝福して…下さった」( エペソ 1:3)。 それを保っておくことが、わたしたちのすべき ことです。もし、だれかこの祝福を持っていな い者があれば、それはその人がこの賜物を認識 していないか、故意に捨て去ってしまったから なのです。 「わたしたち信じている者は、安息にはいるこ とができる」、 「みわざは世の初めに、できあがっ ていた」からです ( ヘブル 4:3)。わたしたちが 受けた祝福は、「アブラハムの祝福」です。わた したちには使徒たちや預言者たち以外の土台は ありません ( エペソ 2:20)。神がお備えになっ たのは、完全で十分な救いです。わたしたちが 生れると、それが待ち受けており、わたしたち には、それを拒否することで神をどんな重荷か らも解放することはできないし、それを受けい 完了したわざ 「キリストは…わたしたちを律法ののろいから れることで神のわざに何か加えることもできま せん。 ( 罪と死から ) あがない出して下さった」。この ことを彼は、 「わたしたちのためにのろいとなる 「約束された御霊」 こと」によってなし遂げて下さいました。それ でわたしたちは罪を犯さざるをえないすべての 状態から解放されました。もしわたしたちが無 条件で真実にキリストを受けいれるなら、罪は わたしたちを支配することはできません。これ がアブラハム、モーセ、ダビデ、またイザヤの 日に現代の真理であったように、今日もそうで す。カルバリーに十字架が立てられる七百年以 上前に、祭壇の生ける炭火で罪をぬぐわれたこ とで理解したことを、イザヤは、「まことに彼は われわれの病を負い、われわれの悲しみをになっ た。…彼はわれわれのとがのために傷つけられ、 われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみ ずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与 え、その打たれた傷によって、われわれはいや 「約束された御霊を、わたしたちが信仰によっ て受けるために」、キリストはわたしたちをあが なって下さいました。これを、 「約束の御霊を 受けることができるかもしれない」ようになる ため、とでも言っているかのように読み間違え てはなりません。そう言っているのではないし、 少し考えればわかるように、そういう意味でも ありません。キリストはわたしたちをあがなっ てくださいました。そして、彼が傷なき者とし てご自身を神にささげられたのは「永遠の聖 霊」によってですから、その事実が御霊という 賜物を確かなものとしているのです ( ヘブル 9: 14)。聖霊による以外には、わたしたちが罪人で あったことを知ることはなく、なおさらあがな 57 いについて知ることはありません。聖霊が罪と として選ばれたのである。それは早くからキリ 義について目を開くのです ( ヨハネ 16:8)。「あ ストに望みをおいているわたしたちが、神の栄 かしをするものは、御霊である。御霊は真理だ 光をほめたたえる者となるためである。あなた からである」( 第 1 ヨハネ 5:6)。「神の子を信 がたもまた、キリストにあって、真理の言葉、 じる者は、自分のうちにこのあかしを持ってい すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、 る」。キリストはすべての人の中で十字架につけ 彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおさ られています。それはもうすでにみてきたよう れたのである。この聖霊は、わたしたちが神の に、わたしたちは皆のろいのもとにあるという 国をつぐことの保証であって、やがて神につけ こと、そしてキリストだけが十字架の上で、そ る者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえ ののろいを負われたという事実に示されていま るに至るためである」( エペソ 1:10-14)。 す。しかし、キリストが地上で人々の間に住ま われるのは、聖霊を通してです。信仰はこの証 人のあかしをわたしたちが受けることができる ようにしてくれます。また、聖霊を持つ保証が されていることを喜べるようにしてくれます。 この嗣業については後にさらに話さなければ なりません。今は、それは、信仰によってわた したちがその子孫となるところのアブラハムに 約束された嗣業である、と言うだけにとどめて おきましょう。その嗣業とは、イエス・キリス もうすこし注意をはらいましょう。聖霊の約 トを信じる信仰によって神の子となっているす 束をわたしたちが受けるために、アブラハムの ベての者たちのことです。そして、わたしたち 祝福がわたしたちのところにきます。しかしそ が子であることを明らかにする聖霊が、約束、 の祝福がくるのはただ聖霊によってです。だか 保証、その嗣業の最初の実です。イエスが傷な ら、その祝福が、わたしたちが聖霊を受けるだ き者としてご自身を神にささげられたのは「永 ろうという約束をもたらすことはあり得ません。 遠の聖霊」によったからです。従順はのろいで わたしたちはすでに祝福と共に聖霊を持ってい はないので、律法ののろいからのキリストによ ます。しかし聖霊の祝福、言い替えれば、聖霊 る輝かしい解放とは、律法に従うことからのあ が義人に約束すること、すなわち永遠の嗣業を がないではなく、律法への不従順からのあがな 受けることは、義を持つわたしたちにとって確 いです 。この解放を受けいれる者は、聖霊にあっ 実なのです。神は、アブラハムを祝福して、彼 て、来たるべき世界の力と祝福を味わいます。 に嗣業を約束されました。そしてそれがよくわ かるように、「神の約束」、「神の賜物」と同じ意 約束はアブラハムにされた 味で、 「聖霊の約束」という表現が使われました。 それが、神がお与えになる賜物または約束です。 聖霊は、すべてのよきものについての保証です。 この章が中心にしているのはアブラハムであ るということがおわかりでしょう。世界に広が る救いの福音が、彼に宣べ伝えられたのでした。 嗣業の保証、聖霊 彼は信じ、その祝福、義とされる祝福を受けま した。信じる者はすべて、信じたアブラハムと 神の賜物には皆、それ自身の中にさらに多く 共に祝福されます。信仰をもつ者は、アブラハ の約束があります。そこにはいつも、さらに多 ムの子同様です。アブラハムの祝福をわたした くのものがついて来ます。福音における神の目 ちが受けるようにと、キリストは、わたしたち 的は、すべてのものを皆イエスの中にひとつに をのろいからあがない出して下さいました。 「約 集めることです。「わたしたちは、御旨の欲する 束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされ ままにすべての事をなさるかたの目的の下に、 たのである」。「もし相続が、律法に基づいてな キリストにあってあらかじめ定められ、神の民 されるとすれば、もはや約束に基づいたもので 58 ガラテヤ 3 章 二つの血統はない はない。ところが事実、神は約束によって、相 続の恵みをアブラハムに賜ったのである」。こ のようにわたしたちに対する約束とは、アブラ ハムに対してなされた約束 、すなわち相続の約 束であり、わたしたちは彼の子孫としてそれを 分け合います。わたしたちは義の相続を受ける ために、のろいからあがない出されました。キ リストは、わたしたちが生ける神に仕えるため、 死んだわざを取リ除いて良心をきよめるように、 永遠の御霊により傷のない者としてご自身を神 にささげられました。彼は「新しい契約の仲保 者…彼が死なれた結果、召された者たちが、約 束された永遠の国を受け継ぐため」と書いてあ るからです ( ヘブル 9:14-15)。 わたしたちは、アブラハムの「霊的子孫」と 「実際の子孫」とについて多くのことを聞きます。 もしその対比が何か意味をもっているなら、そ れは本当の子孫に敵対する者としての偽の子孫 という意味でしょう。霊的なものの反対は肉的 なものであり、後で見るように、肉的なものは 本当の子孫ではなく、相続には何の分け前もな く追い出されるべき奴隷にすぎません。だから、 アブラハムの肉の子孫というものはいません。 しかし、キリストが「命を与える霊」であって、 しかも最も現実のものであるように、霊による 子孫が、実際の、本物の子孫です。人がこの世 において霊的であるために、体をもって歩むこ とは可能であるし、そうでなくてはなりません。 「そして彼の子孫とに」 そうでなければ彼らはアブラハムの子孫ではあ りません。「肉にある者は、神を喜ばすことはで 「さて約束は、アブラハムと彼の子孫とに対し きない」( ローマ 8:8)。「肉と血とは神の国を てなされたのである。それは、多数をさして『子 継ぐことができない」( 第 1 コリント 15:50)。 孫たちとに』と言わずに、ひとりをさして『あ アブラハムの子孫の血統はただひとつです。そ なたの子孫とに』と言っている。これはキリス れは唯一の子孫たちの一派で、彼らは信仰によ トのことである」。ここには言葉の遊びはありま る者たちです。彼らは信仰によってキリストを せん。問題は重大です。救いの方法に関しては、 受けいれ、神の子となる力を受けます。 キリストだけによるのか、それとも他の何かに よるのか、あるいはキリストと何か別のことや 一つの約束の中にある多くのもの 別の人によるのかといった争論があります。多 くの人々は、救いは自分自身にかかっているの で、自分で自分を良くして救わなければならな いと思っています。また別の多くの人々は、キ リストは貴重な付属物であって、彼らの努力に 対する良き助け手だと考えています。一方他の 人々はなおもキリストを第一としようと思いま すが、唯一だとはしません。彼らは、自分のこ とを第一のものに劣らぬものだ、わざをするの は主とそして自分たちであるとみなしています。 しかし、み言葉はこの憶測と自己主張をすべて 締め出します。子孫たちにではなく、子孫に。 多くのものにではなく、一人に。「『そしてあな しかし子孫というのは単数ですが、約束は複 数です。アブラハムとその子孫とになされた約 束は、ただ一つの特定のものではなく、数々の 約束です。神はアブラハムに約束しなかったも のを人に与えられません。神の約束のすべては、 アブラハムが信じたキリストの中に移されてい ます。「なぜなら神の約束はことごとく、彼にお いて『しかり』となったからある。だから、わ たしたちは、彼によって『アーメン』と唱えて、 神に栄光を帰するのである」( 第 2 コリント 1: 20)。 たの子孫とに』……これはキリストのことであ る」、キリストがまさにそれです。 約束された相続 約束されたこと、そしてすべての約束の集 59 約は相続であるということは、ガラテヤ 3 章 ような相続をするのにふさわしくなるように、 15-18 節から明らかにわかります。16 節は、今 人をのろいからあがなわれます。これが福音の よく見たばかりですし、17 節では、約束がなさ 要点です。「神の賜物は、わたしたちの主キリス れ確認されてから四百三十年後にできた律法は ト・イエスにおける永遠のいのちである」( ロー 何の影響も及ぼすことはできないと告げていま マ 6:23)。この永遠の命という賜物は、相続の す。「もし相続が、律法に基づいてなされるとす 約束の中に含まれています。というのは、神は れば、もはや約束に基づいたものではない。と アブラハムとその子孫とに、 「永遠の所有」とな ころが事実、神は約束によって、相続の恵みを る地を約束されたからです ( 創世記 17:7-8)。 アブラハムに賜ったのである」(18 節 )。これが それは義の相続です。なぜならアブラハムが世 相続を約束したものだということは、今引用し 界を相続するという約束は、信仰による義を通 たばかりの聖句をローマ 4 章 13 節と比較する してだったからです。義、永遠の命、そして永 とはっきりとわかります。「なぜなら、世界を相 遠に住むべき場所、これらは皆その約束の中に 続させるとの約束が、アブラハムとその子孫と あります。そして、それらは、望むことのでき に対してなされたのは、律法によるのではなく、 るすべて、受けることのできる全部です。住む 信仰の義によるからである」。だから、今は「不 べき所を与えずに、人をあがなうことは、不完 信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で 全なわざとなるでしょう。わたしたちをあがな 焼かれる時まで、そのまま保たれている」天と う力は、創造の力、すなわち、天と地を新しく 地ですが、「天は燃えくずれ、天体は焼け失せて する力ですから、あがないと新しい天地という しまう」時に、わたしたちは「神の約束にしたがっ 二つの事柄は、全体の一部です。すべてが完成 て、義の住む新しい天と地とを待ち望んでいる」 される時、「のろわれるべきものは、もはや何ひ ( 第 2 ペテロ 3:7、12-13)。これがアブラハム、 とつない」( 黙示録 22:3)。 イサク、そしてヤコブが望み見た天のふるさと です。 約束の契約 のろいのない相続 神の契約と約束とは一つであって同じことだ というのが、ガラテヤ 3 章 17 節からはっきり 「キリストは、…わたしたちを…のろいから とわかります。そこでは、契約を無効にするこ あがない出して下さった。…約束された御霊を、 とは、約束をむなしくすることになると考えら わたしたちが信仰によって受けるためである」。 れています。創世記 17 章には、神は永遠の所有 この「約束された御霊」とは、新しくされた全 としてカナンの地を、そしてそれと共に全地を 地― のろいからあがなわれた地― の所有を意味 与えるために、アブラハムと契約をなさったと することを見てきました。「被造物自身にも、減 あります。しかしガラテヤ 3 章 18 節は、神は びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光 それを約束によって彼にお与えになったと言っ の自由に入る望みが残されているからである」 ています。神が人とする契約は、人に対する約 ( ローマ 8:21)。神の御手による新鮮で新しく、 束以外の何ものでもありません。「だれが、まず すべてにおいて完全な地が人の所有として与え 主に与えて、その報いを受けるであろうか。万 られました ( 創世記 1:27、28、31)。人は罪を 物は、神からいで、神によって成り、神に帰す 犯して、自らにのろいをもたらしました。キリ るのである」( ローマ 11:35-36)。人が相応の ストは、人と被造物すべてが負っているのろい 物を期待することなく何かするのはごくまれな を両方とも、ご自分に負われました。彼は、神 ので、神学者たちは神がお与えになるのもそれ がもともと計画されたような永遠の領地となる と同様だと受けとりました。それで彼らは、契 ように、地をのろいからあがなわれ、またその 約というものは、「あることを行ったり、または 60 ガラテヤ 3 章 差し控えたりするための、二人またはそれ以上 神はアブラハムを祝福して、「地上の諸民族は、 の人の間における相互の同意」であるという言 あなたの子孫によって祝福を受けるであろう」 い方で、神の契約に関する論述を始めます。し と言われました。そして、これはキリストにあっ かし神は人と取引をなさいません。なぜなら神 て成就しました。神は彼をおつかわしになって、 は人が自分の分を果たすことができないのをご わたしたちを悪から立ちかえらせ、祝福にあず 存じだからです。洪水の後で神は、地上のすべ からせて下さいました ( 使徒 3:25-26)。 ての獣と及び鳥たちと契約をされましたが、獣 も鳥たちもその代わりの約束を何もしませんで 神の誓いにより保証された した ( 創世記 9:9-16)。彼らはただ神の御手に ある好意を受けただけです。これがわたしたち にできることの全部です。神はわたしたちに必 要なもののすべてを、それもわたしたちが頼ん だり、考えたりする以上のものを、賜物として 約束しておられます。わたしたちは無に等しい 自分というものを神に与えます。そして彼はす べてのすべてであるご自分をわたしたちに与え て下さいます。あらゆる問題を引き起すのは、 人がついに神を認めようとしている時でさえ、 神と取引をしたいと望むことにあります。彼ら はそれを「相互の」業務にしたいと望むのです。 その取引において神と同等な者と思われたいの です。しかし、神と取引をする者はだれでも、 神ご自身の条件で取引をすべきです。それは事 実に基づいてということ、つまり、わたしたち には何もなく、また無であること、そして神が すべてを持っておられ、すべてであられ、すべ てをお与えになるということです。 「神がアブラハムに対して約束されたとき、さ して誓うのに、ご自分よりも上のものがないの で、ご自分をさして誓って……いったい、人間 は自分より上の者をさして誓うのであり、そし てその誓いはすべての反対論を封じる保証とな るのである。そこで、神は、約束のものを受け 継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっ そうはっきり示そうと思われ、誓いによって保 証されたのである。それは偽ることのあり得な い神に立てられた二つの不変の事がらによって、 前におかれている望みを捕えようとして世をの がれてきたわたしたちが、力強い励ましを受け るためである。この望みは、わたしたちにとって、 いわば、たましいを安全にし不動にする錨であ り、かつ『幕の内』にはいり行かせるものである。 その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデク に等しい大祭司として、わたしたちのためにさ きがけとなって、はいられたのである」( ヘブル 6:13 ‐ 20)。創世記 22 章 15-18 節と比較し 契約はあらかじめ立てられた その契約、すなわち、のろいからの解放後に 新しくされた全地を人に与えるという約束は、 「あらかじめ立てられた」。キリストが新しい契 約、永遠の契約の保証人です。「なぜなら、神の 約束はことごとく、彼において『しかり』となっ たからである。だから、わたしたちは、彼によっ て『アーメン』と唱えて、神に栄光を帰するの である」( 第 2 コリント 1:20)。彼にあってわ たしたちは相続を得ました ( エペソ 1:11)。と いうのは聖霊が相続の最初の実であって、聖霊 を持っているということは、信仰により心の中 にキリストご自身を宿していることだからです。 てください。 だから、アブラハムになされた契約を保証し たのは、神の誓いでした。アブラハムに対する 約束と誓いは、わたしたちの大切な望み、力強 い慰めです。それらは「安全で不動」です。な ぜならその誓いは、保証また保証人としてキリ ストをつかわすというものだからであり、そし て「彼はいつも生きておられる」からです。彼 はその力ある言葉をもって万物を保っておられ ます ( ヘブル 1:3)。「万物は彼にあって成り立っ ている」( コロサイ 1:17)。それだから、神が「ご 自分をさして誓われた」時、( その誓いの内容は、 罪からの避難所に逃げ込むこと、というわたし 61 たちの慰めと望みであるが ) 神は、わたしたち の時代にも完全かつ十分でした。アブラハムに の救いのためにご自分の存在、そしてそれと共 対して神が誓いをもってなされたことに、何も に全宇宙を担保となさったのです。確かに、わ することはできないし、その規定と条件を変え たしたちの救いのための堅固な土台が、神のす ることはできません。その約束はこのようにし ばらしいみ言葉の中に据えられています。 て存在しているので、そこから何も取り去るこ とはできないし、アブラハムに要求された以上 のことを何か一つでも、だれかに要求されるこ 律法は契約をむなしくすることは とは決してありえません。 できない 研究を先に進めていく際に、契約と約束とは 律法の役目は何か 同じで、それはアブラハムとその子孫とに、新 この質問は、ガラテヤ 3 章 19 節において、 しくされた全地を相続させることだというのを 忘れないでいただきたいのです。また、義人だ 律法不要論者たちの反対に先手を打つ目的のた けがアブラハムとその子孫とに約束された新天 め、また福音における律法の立場をより強調し 新地に住むので、その約束とは、信じる者たち て示すために、使徒パウロが問いかけているも を皆、義とするということを含んでいることを のです。その質問はごく自然なものです。相続 覚えていましょう。これはキリストにあってな は全く約束によるのであり、保証された契約は されました。キリストにあって約束は保証され 変えることができないのに― それから何かを取 ました。さて、「人間の遺言でさえ、いったん作 り去ることもできないし、何かを付け加えるこ 成されたら、これを無効にしたり、これに付け ともできないのに ―、なぜ四百三十年後に律法 加えたりすることは、だれにもできない」( ガラ はできたのでしょうか。「それでは律法はなんで テヤ 3:15)。このことは神の契約の場合、なお あるか」。もっとはっきり言えば、なぜ律法なの さらそうであるはずです。ですから、完全な永 でしょうか。何の用があるのでしょうか。どん 遠の義が、アブラハムとなされた契約によって な役を演じるのでしょうか。何の役に立つので 確実にされ、またそれは神の誓いによってキリ しょうか。 ストにあっても保証されたのだから、四百三十 年の後にできた律法が何か新しい側面を持ち 問に答えて 込むことはできませんでした。相続は約束に よってアブラハムに与えられましたが、もし 四百三十年後に、今度は何か別のやり方で相続 がなされるべきだといって変更されなければな らないとしたら、約束は効力を失い、契約はむ なしくなることでしょう。そのことは神の統治 を放棄することになり、神の存在を終わらせる ことになります。神は、アブラハムとその子孫 とに相続とそれに必要な義とをお与えになるの に、ご自分の存在を担保とされたからです。「な 「それは違反を促すため、後から加えられた」。 シナイ山で「律法が入ってきて」、そのとき初め て存在するようになったのではありません。神 の律法はアブラハムの時代に存在しており、彼 はそれを守っていました ( 創世記 26:5)。シナ イ山で律法が告げられる一カ月以上前に、神は、 彼らが神の律法を守るか守らないか、イスラエ ル の 子 ら を た め さ れ ま し た ( 出 エ ジ プ ト 16: 1-4、28)。 ぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラ ハムとその子孫とに対してなされたのは、律法 「それは加えられた」 によるのではなく、信仰の義によるからである」 ( ローマ 4:13)。福音はいつでもそうであり、 またこれからもそうであるように、アブラハム ここで「加えられた」と翻訳されている言葉 は、ヘブル 12 章 19 節で「耳にする ( 語られる )」 62 ガラテヤ 3 章 と訳されているものと同じです。「聞いた者たち がそれ以上、耳にしたくないと願った」と、申 自信は罪である 命記 5 章 22 節の七十人訳で使われている言葉 と同じで、そこには神が大きな声で十戒をお語 りになって、 「このほかのことは言われず」と書 いてあります。だから、「それでは律法はなんで あるか」との問への答を、「それは違反のせいで 語られた」と読むことができるでしょう。それ は罪をとがめるものでした。 「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しか し義人はその信仰によって生きる」( ハバクク 2: 4)。イスラエルの民は、神の導きに対するつぶ やきや、神が要求されることは何でもし、自分 たちは約束を果たす能力があると思い込んでい たことでわかるように、自信に満ち、神への不 信仰に満ちていました。彼らは、「神のわざを行 うために、わたしたちは何をしたらよいでしょ 違反のゆえに 「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加 わるためである」( ローマ 5:20)。言い替えれば、 「罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なもの となる」( ローマ 7:13)。不信仰のゆえに、約 束された相続を受け損なう危険の中にいること を、イスラエルの子らに警告するため、もっと う」と尋ねた彼らの子孫たちと同じ精神を持っ ていました ( ヨハネ 6:28)。神の義についてあ まりにも無知だったので、自分たちはかなりの 者で、自分の義を立てることができると考えま した ( ローマ 10:3)。自分の罪に気がつかない かぎり、約束の子となることはできませんでし た。だから、律法を語る必要があったのです。 も恐るべき厳かさという状況のもとで、それは 与えられました。彼らはアブラハムのようには 天使たちの奉仕 信じませんでした。「信仰によらないことは罪で ある」。しかし、相続は「信仰の義による」と約 束されました。だから不信仰なユダヤ人たちは それを受けることができませんでした。それで、 相続を受けるのに必要な義を彼らが持っていな いことを悟らせるために、律法が彼らに語られ ました。義は律法によってくるのではありませ んが、律法によってあかしされる必要がありま した ( ローマ 3:21)。まとめると、律法は、彼 らには信仰がないこと、だからアブラハムの真 実の子ではないこと、それで相続を失いそうな 状態にあるということを示すために与えられま した。もし彼らが信じるなら、神は、アブラハ ムの心の中に律法を置かれたのと同様に、かれ らの心の中にも置かれるつもりでした。しかし 彼らは、信じないのにまだ約束の子孫だと公言 したので、彼らの不信仰は罪であることを最も はっきりしたやり方で示すことが必要だったの です。律法は違反のゆえに語られた、あるいは 人々の不信仰のゆえに語られた、と言っても同 じことです。 「御使たちはすべて仕える霊であって、救いを 受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされ たものではないか」( ヘブル 1:14)。シナイ山 にいた「幾千もの天使たち」がどんな務めを果 たしたのか、わたしたちは知りません。しかし、 彼らのために福音が宣教される必要はなくても、 彼らが、人間に関することは何でも、深く親密 な関心を持っていることは知っています。地の 基が置かれた時、 「神の子らは喜び、呼ばわった」。 そして人間の救い主の誕生が告げられた時には、 天の万軍が賛美を歌いました。彼らは、「そのみ 言葉を聞いて、これを行」おうと待機している 王の王の従者たちです ( 詩篇 103:20)。律法が 宣言されたとき、彼らは警護者としてその場に いたにちがいなく、それはもちろん、ただの盛 観さや見せびらかしのためではありません。ス テパノは、殺意を持つサンヒドリンに、「ああ、 強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あ なたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、 あなたがたの先祖たちと同じである。いったい、 あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者 63 がひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来る ことを予告した人たちを殺し、今やあなたがた 仲介者としてのキリストの働き は、その正しいかたを裏切る者、また殺す者と なった。あなたがたは、御使たちによって伝え られた律法を受けたのに、それを守ることをし なかった」と言いました ( 使徒 7:51-53)。今 は敵である悪魔について、次のように言われて います、「あなたは…完全な印である」。完全と は、標準あるいは型としての完全です ( エゼキ エル 28:12)。セゴンドのフランス語訳は、「あ なたは完全に向けて印をした」と言っています。 そしてオランダ語では、「あなたはふさわしいお きてに印を押した」となっています。堕落する 前の彼は、印を持つ者と呼ばれていたこと、そ して、すべての法令を通過させるために印を押 すのは彼の務めであったことを示唆しています。 天使たちは「勇士である」、そして律法が付与さ れる時、皆その場にいたという事実は、それが 最大の重要性をもつ出来事だったことを証明し ています。 人は神からさまよい出て、神に反逆しました。 「われわれはみな羊のように迷」いました。わた したちの不義が、わたしたちと神との間を隔て ました ( イザヤ 59:1-2)。「肉の思いは神に敵 する…すなわち、それは神の律法に従わず、否、 従い得ないのである」( ローマ 8:7)。キリスト はわたしたちの平和ですから、その敵意を滅ぼ して、わたしたちを神と和解させるためにおい でになりました ( エペソ 2:14-16)。キリストは、 「あなたがたを神に近づけようとして、自らは義 なるかたであるのに、不義なる人々のために… ( あなたがたの ) 罪のために死なれた」( 第 1 ペ テロ 3:18)。彼によって、わたしたちは神に近 づきました ( ローマ 5:1、エペソ 2:18)。彼にあっ て、肉の思い、反逆心は取り去られ、そのかわ りに「律法の要求が、肉によらず霊によって歩 くわたしたちにおいて満たされるために」霊の 思いが与えられます ( ローマ 8:3-4)。キリス トの働きは失われた者を救い、壊れたものを回 仲介者の手によって さしあたり、「約束されていた子孫が来るま で存続するだけのものであり」という句に関わ る時間についての問をしてみましょう。今の研 究は、律法と約束の関係についてです。律法は、 復し、隔てられたものを結び合わせることです。 彼の名は「神われらと共にいます」。だから、わ たしたちの内に宿っておられるキリストによっ て、わたしたちは「神の性質にあずかる者」と されるのです ( 第 2 ペテロ 1:4)。 シナイ山から「仲介者の手によって」人々に与 仲介者としてのキリストの働きは、時間にも えられました。この仲介者とはだれのことでしょ 範囲にも制限されないことを理解しなければな うか。ただ一つの答えがあるだけです。「神は唯 りません。仲介者であることは、仲保者以上の 一であり、神と人の間の仲保者もただひとりで 意味があります。キリストは罪が世に侵入する あって、それは人なるキリストである」( 第 1 テ 以前、仲介者でした。そして宇宙に罪がなくな モテ 2:5)。「仲介者なるものは、一方だけに属 り、償いの必要がなくなっても彼は仲介者であ する者ではない。しかし、神はひとりである」。 ることでしょう。「万物は彼にあって成り立って 神が一方におられ、もう一方は人々であり、キ いる」。彼は見えない神のかたちです。彼は生命 リスト・イエスが仲介者です。その取引のため、 です。彼にあってのみ、また彼を通してのみ、 神が一方の側におられるのが確実なように、キ 神の生命はすべての被造物に流れていきます。 リストが仲介者でなくてはなりません。神と人 だから、キリストは、生命の光を宇宙にみなぎ との間にその他の仲介者はいないからです。こ らせる手段、媒介、仲介者、道です。彼は人が の人による以外に救いはありません。「わたした 堕落した時、初めて仲介者になったのではなく、 ちを救いうる名は、これを別にしては、天下の 永遠の昔からそうでした。キリストによらない だれにも与えられていないからである」( 使徒 4:12)。 では、本当に、誰ひとりとして、父なる神のみ 64 ガラテヤ 3 章 もとに行く被造物はいません。キリストにあっ 何ら新しい要素を持ち込むものでもありません。 てでなければ、神の前に立つことのできる天使 なぜでしょうか 。律法はただただ約束だからで はひとりもいません。罪が世に侵入したことに す。聖霊の約束は次のことを含んでいます。「わ よって活動を始めるように求められ、新たに発 たしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心 達した力もなければ、新しい機構組織もありま に書きつけよう」( ヘブル 8:10)。そして、ア せん。すべてのものを創造したその力が、ただ ブラハムが「割礼というしるしを受けた」時、 神のあわれみのうちに、失われたものを回復す 神は彼のためにそのことをなされたことをお示 る働きのために引き続き働いたのでした。キリ しになりました。ローマ 4 章 11 節、2 章 25-29 節、 ストにあって、すべてのものは造られました。 ピリピ 3 章 3 節を見てください。 だから彼にあって、彼の血により、わたしたち はあがなわれたのです ( コロサイ 1:14 ‐ 17)。 律法は約束を拡大する 宇宙一面に広がり支えている力は、わたしたち のために仕えて下さる力です。「どうか、わたし たちのうちに働く力によって、わたしたちが求 めまた思うところのいっさいを、はるかに越え てかなえて下さることができるかたに、教会に より、また、イエス・キリストによって、栄光 が世々限りなくあるように、アーメン」( エペソ 3:20-21)。 すでに見てきたように、律法は約束の中にあ るのだから、約束と相入れないものではありま せん。アブラハムとその子孫とが世界を相続す るという約束は、「信仰の義によって」でした。 しかし、「義を知る者よ、心のうちにわが律法を たもつ者よ、わたしに聞け」( イザヤ 51:7) と 神が言っておられるように、律法は義です。そ れで、律法が要求する義は、約束の地を相続す 約束と相入れないものではない律法 ることができるところの義だけですが、それは 律法のわざによってではなく、信仰によって得 「律法は神の約束と相入れないものか」 。どん られるものです ( ローマ 9:30-32)。ですから、 な意味においてもそうではありません。とんで 律法が要求するよりさらに偉大な義が神の約束 もないことです。もしそうだとすれば、それは の中に見られます。なぜなら、神はそれをすべ 仲介者、キリストの手にはよらなかったはずで て信じる者に与えると約束されたからです。そ す。神の約束はすべて、彼のうちにあるからで れどころか、神はそれを誓われました。だから、 す ( 第 2 コリント 1:20)。だから、律法と約束 律法がシナイ山で、「火の中、雲の中、濃い雲の がキリストにあって結合されたことがわかりま 中から、大いなる声をもって」語られたとき ( 申 す。神が約束と律法の両方をお与えになった事 命記 5:22)、神のラッパの響きを伴い、主と聖 実から、律法は約束と相入れないものではなかっ なる全天使の臨在に全地は震え、神の律法の想 たし、相入れないものではないことがわかるこ 像もできないほどの偉大さと卓越性が示されま とでしょう。また、律法を与えることは契約に した。それは神の誓いを覚えている者一人一人 何ら新しい要素を持込みはしませんでした。な に対する、神の約束の驚くべき偉大さの啓示以 ぜなら、それに加えたり、削除したりすること 外の何ものでもありませんでした。律法が要求 のできるものはないと確認されていたからです。 する義のすべてを、神に信頼するすべての者に しかし律法は無用のものではありません。そう 与えると誓われたのだから、律法が語られた時 でなければ神がお与えになることはなかったで の「大いなる声」は、山頂から神の救いの恵み しょう。それは、神がお命じになったのだから、 という良きおとずれを告げる大いなる声でした。 わたしたちが守っても守らなくてもどちらでも イザヤ 40 章 9 節を見て下さい。神の教えは約 よいという事柄ではありません。しかし、それ 束です。神は人には力がないことをご存知なの でもやはり、約束と相入れないものではないし、 だから、そうでなければなりません。神がお求 65 めになるすべてのことは、神がお与えになるも 人は詩篇記者と共に、「わたしは二心の者を憎み のです。彼が「あなたはしてはいけない」と言 ます。しかしあなたのおきてを愛します」と言 われるとき、もしわたしたちが神に信頼しさえ うでしょう ( 詩篇 119:113)。 すれば、神はご自分が警告なさった罪からわた したちを守って下さるという保証だととってよ 義と生命 いのです。神はわたしたちを堕落から守ってく ださるでしょう。 「もし人を生かす力のある律法が与えられてい たとすれば、義はたしかに律法によって実現さ 罪と義に目覚める れたであろう」( ガラテヤ 3:21)。これは、義 は生命であることをわたしたちに示しています。 イエスは慰め主について、「それがきたら、罪 それは、ただの形、死んだ教義の理論ではなく、 と義とさばきとについて、世の人の目を開くで 生きた活動です。キリストは命です。だから、 あろう」と言われました ( ヨハネ 16:8)。ご自 彼はわれらの義です。「霊は義のゆえに生きてい 分についても、「わたしがきたのは、義人を招く るのである」( ローマ 8:10)。二枚の石の板に ためではなく、罪人を招くためである」と言わ 書かれた律法は、律法が書かれた石が命を与え れました ( マルコ 2:17)。「丈夫な人には医者は ることができなかったのと同じように、命を与 いらない。いるのは病人である」。人は援助を受 えることはできませんでした。その教えはすべ けようとする前に、必要を感じなければなりま て完全ですが、汚れた品性はそれらを実行に移 せん。治療をするには、自分が病気だと知らな すことはできません。文字に書かれた律法だけ ければなりません。なおさらのこと、義の約束は、 を受けいれる者には、「罪を宣告する務め」( 第 自分が罪人だと認識しない人には、全然重要だ 2 コリント 3:9) と死とがあります。しかし「言 とは思われないでしょう。だから、聖霊の慰め 葉は肉となった」。生ける石、キリストにあって のわざの最初は、人に罪を自覚させることなの は、律法は命と平安です。キリストを通して「霊 です。ですから、 「約束が、信じる人々にイエス・ の務め」を受けいれると、わたしたちは律法が キリストに対する信仰によって与えられるため よしとする義の命を持つのです。 に、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたの である」( ガラテヤ 3:22)。「律法によっては、 罪の自覚が生じる」( ローマ 3:20)。自分が罪 人であることを知っている者は、それを認める 途上にあるのです。そして、「わたしたちが自分 の罪を告白するならば、神は真実で正しいかた であるから、その罪をゆるし、すべての不義か らわたしたちをきよめて下さる」( 第 1 ヨハネ 1: 9)。このように律法は、人が約束を完全かつ十 分に受けることができるように招く、聖霊の手 にある活動的な代理者なのです。自分が気づか ない危険を指摘して命を救ってくれた人を憎む 者はいません。それどころか、そのような人は 友人として重んじられ、いつも感謝をもって覚 えられます。律法はなおさら、やって来る怒り から逃れるようにと言う警告の声に促された者 から、重んじられることでしょう。そのような このガラテヤ 3 章 21 節は、律法を与えるこ とは、約束の重要性を強調するためだったこと を示しています。律法を与えるのに伴った状況 ― ラッパの音、恐ろしい声、地震、「火と暗闇 と暴風雨」、雷といなずま、それを越えると死 ぬという山の境界 ―、これらはすべて「不従順 の子ら」に「律法が怒りをもたらす」ことを告 げました。しかし、律法の働きがもたらす怒り は、ただ不従順の子らに及ぶという事実は、律 法は良いものであること、また「律法を行う者 は律法によって生きる」( ガラテヤ 3:12) こと を証明するものです。神は人々を失望させたかっ たのでしょうか。そんなはずはありません。律 法は守られなくてはなりません。だからシナイ の恐怖は、十字架につけられ、かつ、いつも生 きておられる救い主による義の保証として、あ 66 ガラテヤ 3 章 らゆる時代のすべての人々のために、それより わたしの個人的な経験から話させていただきた 四百三十年前に与えられた神の誓いに人々を引 い。もしまだだったら、いつの日か、あなたは き戻すように意図されたのです。 神の霊によって罪を鋭く自覚することでしょう。 あなたは自己防衛と答を用意し、疑問と言い逃 れで一杯になるかもしれないが、言うことが何 すべての人を獄に閉じ込めた ガラテヤ 3 章 8 節と 22 節との間の類似点に もないでしょう。そしてあなたは神と聖霊の現 実を疑うことはなく、それについてあなたに確 信を与えるための論議は必要としないでしょう。 目をとめてください。「約束が、信じる人々にイ あなたは、古代イスラエルが、 「神がわたした エス・キリストに対する信仰によって与えられ ちに語られぬようにしてください。それでなけ るために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込 れば、わたしたちは死ぬでしょう」と言ったよ めたのである」。「聖書は、神が異邦人を信仰に うに、魂に語りかける神の声がわかり、感じ取 よって義とされることを、あらかじめ知って、 るでしょう。それからあなたは獄に閉じ込めら アブラハムに、『あなたによって、すべての国民 れるということがどんなことかがわかるでしょ は祝福されるであろう』との良い知らせを、予 う ― 壁に封じ込められたかのように思え、すべ 告したのである」。わたしたちは、福音が、人を ての逃げ場が閉ざされるばかりでなく、窒息さ 罪の下に閉じ込めたものと同じもの― 聖書― に せられるように思える獄の中に閉じ込められる よって宣べられたのをみます。「封じ込めた」と ことが。律法の板であなたの命が押しつぶされ いう言葉の意味は、文字通り「閉じ込めた」と るように感じ、大理石の腕があなたの心臓その いうことで、ガラテヤ 3 章 23 節で使われてい ものを砕くかのように思われる時、重い石で生 るのと同じです。もちろん、律法によって閉じ き埋めにされる刑罰を受ける人々の話が、あな 込められる者は、獄の中にいます。人間の政府 たにとってひどく鮮明に現実的に思えることで では、法律によって逮捕できるとすぐ、犯罪人 しょう。それから、「イエス・キリストを信じる は閉じ込められます。神の律法はどこにでも存 ことによる約束」をあなたが受けいれるという、 在し、常に活動していますから、人は罪を犯す ただその目的のために自分は閉じ込められてい とすぐに閉じ込められます。これが全世界の状 るということを思い出して喜びが与えられるこ 態です。「すべての人は罪を犯し」、「義人はいな とでしょう。あなたがその約束 ― 疑惑城のどん い、ひとりもいない」からです。 な扉をも開く鍵 ― をつかんだとたんに、獄の扉 ノアの時代に、キリストが宣教した不従順な 者たちは、「獄にいた」( 第 1 ペテロ 3:19-20)。 しかし、すべて他の罪人と同じく、彼らは「望 みをいだく捕われ人」でした。( ゼカリヤ 9: は開き、あなたは、「われらは野鳥を捕えるわな をのがれる鳥のようにのがれた。わなは破れて われらはのがれた」と言うことができます ( 詩 篇 124:7)。 12)。神は、「その聖なる高き所から見おろし、 天から地を見られた。これは捕われ人の嘆きを 律法の下、罪の下 聞き、死に定められた者を解き放 ( つ )……ため です」( 詩篇 102:19-20)。キリストは、「民の 契約とし、もろもろの国人の光として」、「盲人 の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗き に座する者を獄屋から出させる」ために与えら れました ( イザヤ 42:6-7)。 主の喜びと自由をまだ知らないでいる罪人に、 聖書がすべての者を罪の下に閉じ込めたのは、 イエス・キリストを信じることによって、約束 が信じる者に与えられるためであったというこ とを、わたしたちは読んだばかりです。信仰が くる前、わたしたちは律法の下に監視されてお り、後に啓示される信仰の時まで閉じ込められ ていました。わたしたちは信仰によらないこと 67 は 罪 で あ る こ と を 知 っ て い ま す ( ロ ー マ 14: に」いるということを信じない人は皆、「律法の 23)。だから律法の下にあることは罪の下にあ 下に」「閉じ込められて」おり、律法は彼らの看 ることと同一です。わたしたちは律法の下にあ 守の役をしているのです。それは彼らを閉じ込 ります。まさに罪の下にあるからです。神の恵 め、解放しようとはしません。罪を犯すやまし みは罪からの救いをもたらします。だから神の さから逃れることはできないのです。神はあわ 恵みを受けいれる時、罪から自由にされるので、 れみ深く、慈悲深いのですが、そのやましさを わたしたちはもはや律法の下にはいません。で 消し去ることはなさいません ( 出エジプト 34: すから、律法の下にある人たちは律法の違反者 6-7)。それは、神が、偽って悪を善と呼ぶこと です。義人は律法の下にはいませんが、その中 をなさらないということです。しかし神は、罪 を歩んでいます。 を犯したやましさをなくす道を備えられました。 そうすれば、律法はもはや彼らに敵対しないで しょう。もはや彼らを閉じ込めはしないでしょ 看守、監督である律法 う。彼らは自由に歩くことができます。 「このようにして律法は、信仰によって義とさ れるために、キリストのための養育掛となった ただひとつの門 のである」。「わたしたちを連れて行くため」と いう言葉は、古い訳でも、新しい訳でも聖句に キリストは、「わたしは門である」と言われま 加えられたものとして註がついているから、こ した ( ヨハネ 10:7、9)。彼はまた羊の囲いであり、 れを抜かしました。本当のところ、それを残し 羊飼でもあります。囲いの外にいるのが自由で、 ても抜かしても、実際には違いはありません。 囲いの中に入るのは自由が減ることだと、人は また、新しい訳では、「教師」というのが、「家 わけもなく考えています。しかし、それはまっ 庭教師」となっていることにも気がつきます。 たく逆です。キリストの囲いは、「広い場所」で このほうがよいが、ドイツ語やスカンジナビア あり、一方、不信仰は狭い獄屋です。罪人は狭 語が、「家庭において矯正する先生」を意味する い範囲の考えしか持つことができません。真に ものとして翻訳して使っている言葉の方が、もっ 「自由な思考者」は、知識を伝えるもの、キリス とよく意味を伝えています。これに相当するわ トの愛の長さ、広さ、深さ、高さをすべての聖 たしたちの言語 ( 英語 ) の唯一の単語は、看守で 徒と共に理解する人です。キリストの外にいる しょう。ギリシャ語では、英語で「養育係」と ことは奴隷であり、キリストの内にのみ自由が されている言葉になっています。「養育係」と あります。キリストの外にいる人は、「自分の罪 は、少年たちがなまけて遊んだりしないように のなわにつながれ」( 歳言 5:22)、獄屋にいる 見張るために学校へついていく奴隷でした。彼 のです。「罪の力は律法である」( 第 1 コリント は、もし少年たちが逃げ出そうとしたら、彼ら 15:56)。彼を罪人だと宣告するのは律法であり、 を連れ戻し、その場にいさせるために打つ権威 彼の状態を気づかせます。「律法によっては、罪 さえ持っていました。その言葉には、ギリシャ の自覚が生じ」、「律法がなければ、罪は罪とし 語では教師という考えはまったくありませんで て認められない」( ローマ 3:20、5:13)。律 したが、「教師」という意味として使われるよう 法は実際に罪人の獄屋の壁を形づくるのです。 になりました。「監督」というほうがもっといい 彼を閉じ込め、彼を不愉快にさせ、彼の命を押 でしょう。ここにある考えは、むしろ獄の壁の しつぶさんばかりに罪の感覚でのしかかります。 外を歩きまわるのを許されている囚人に付き添 彼はそれから逃れるために、死にもの狂いに虚 う警護人ということです。表面上は自由ですが、 しい努力をします。それらの戒めは永遠の丘の その囚人は、実際は監獄の中にいるのと全く同 ようにしっかりと立ちふさがります。どちらを 様に自由を奪われています。事実は、「罪の下 向いても、「おまえはわたしから自由にはなれな 68 ガラテヤ 3 章 い、おまえは罪を犯したのだから」という戒め 放を見出すでしょう。キリストにあってのみ、 が見えます。彼がもし律法と友人になろうとし 律法の義が成就されるからです。また、キリス て、それを守ると約束しても、逃れることはで トによって、それはわたしたちのうちに成就す きません。彼の罪はなおも残るからです。律法 るからです ( ローマ 8:4)。ある人たちが考える は、彼をただひとつの逃れ道―「イエス・キリ ように、律法は人が救われるため、それを守る ストを信じることによる約束」に追いやります。 ように要求できるようなものではないので、「信 キリストにあって彼は本当に自由にされるので 仰 ― イエス・キリストを信じる信仰 ― による す。キリストにあって、彼は神の義とされるか 神の義」を持たない限り、だれをも救いにあず らです。キリストのうちに「完全な自由の律法」 からせることはありません。 があります。 信仰が現れる時 律法は福音を宣ベ伝える 「だが、律法はキリストについて何も言ってい ない」と言う人がいます。言ってはいませんが、 すべての被造物はその救いの力を宣言しつつ、 キリストについて語っています。キリストの十 字架、「キリストしかも十字架につけられたキリ スト」は、森の木の葉全部に、そして存在する ものすべての中に本当に見られるということを、 わたしたちは見てきました。そればかりでなく、 人間の全身はキリストを叫び求めています。人 はそれに気がついていませんが、キリストは「す べての民の望み」です。「生けるものすべての望 みを飽かせられる」のはキリストだけです。キ リストのうちにのみ、世の不安からの解放と切 望の満たしを見つけ出すことができます。さて、 「彼はわれらの平和」であるゆえに、その内に平 和を持つキリストが、弱い者、重荷を負う者を 探し求め、ご自身の所に来るようにと招いてお られます。またすべての者は、世の何物も満足 させることのできない憧れをもっています。だ から、もし人が律法により自分の状態について 鋭い知覚を呼び起こされ、そして律法が人に休 みを与えずに追いつめ続けて、すべての逃れの 道を閉ざしてしまうなら、人はついに安全な門 不思議なことに、多くの人たちが、信仰が現 れるのに、定められた或る時があったと考えて います。この経過は次のようであると「解釈さ れて」います。つまり、人は世界歴史のある時 代までは律法の下にいて、そのある時代に信仰 が現れ、それ以来、人は律法から自由になった と言います。彼らは、信仰の現れを、キリスト がこの地上に現れたことと同意語だとしていま す。そのような「解釈」はこの問題についての 考慮が全く欠乏していることを示しているので、 だれもが皆そう考えたとはわたしたちには言え ません。それは、その時代までは、皆、律法の もとにつながれていて、その時代以降、すべて の者は罪から自由になったと言うことになりま す。だから、この解釈の下では、人の救いはまっ たく誕生の偶然に依存することになります。も し、彼がその時代以前に生きていたら失われ、 それ以後であれば救われることになるでしょう。 そのようなばかげたことに、これ以上説明する 時間をとる必要はありません。使徒はここで、 二つのいわゆる「制度」に分けており、世界歴 史の定まった或る特定の時代について話してい るのだという考えをすぐに捨てなくては、真面 目に考えることなどできません。 を見つけるでしょう。それはいつも開いている では信仰はいつ現れるのでしょうか。「信仰は からです。キリストは逃れの町であり、血の復 聞くことによるのであり、聞くことはキリスト 讐をする者に追跡される人は、そこへ逃げ込む の言葉から来るのである」( ローマ 10:17)。人 ことができ、確実に歓迎されます。キリストの が神の言葉、律法の成就をもたらすその約束の うちにのみ、罪人は律法の激しい責めからの解 言葉を受けいれ、もはや反対して争わずに、そ 69 れにゆだねるといつでも、信仰が人に現れます。 ヘブル 11 章を読んでみてください。そうすれ バプテスマはわたしたちを救う ば信仰は最初から現れていたことがわかること でしょう。アベルの時から、人は信仰による自 由を見出していました。定められた唯一の時は、 「今」、 「きょう」です。「見よ、今は恵みの時、見よ、 今は救いの日である」( 第 2 コリント 6:2)。「今 日、み声を聞いたなら、……あなたがたの心を、 かたくなにしてはいけない」( ヘブル 3:15)。 翻訳されたのではなく、変換されたギリシャ 語である「バプテスマ」という言葉の主な意味は、 飛び込む、浸す、沈める、です。ギリシャの鍛 冶屋は冷やすために鉄を水に浸しました。主婦 はきれいにするために食器を水に浸しました。 そして同じ目的で、だれもが皆手を水に浸しま す。そうです、皆がバプテステリオン、つまり 浴場に行って、たびたび身を浸すのは、その目 バプテスマによってキリストを着る 「キリストに合うバプテスマを受けたあなたが たは、皆キリストを着たのである」( ガラテヤ 3: 27)。「あなたがたは知らないのか。キリスト・ 的のためです。わたしたちには「授洗所、洗礼槽」 と訳された同様の言葉があります。それは人々 が中に入って完全に水に沈められる場所であっ たし、今もそうです。 イエスにあずかるバプテスマを受けたわたした それ自体が「キリストのうちに沈められる」 ちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたの ということではないが、わたしたちが彼のうち である」( ローマ 6:3)。キリストが、わたした に沈められるときの、彼とわたしたちとの関係 ちを律法ののろいからあがない出してくださっ がそうでなければならないということを、それ たのは、彼の死によってです。しかし、わたし は示します。わたしたちは彼の命に飲み込まれ、 たちは彼と共に死ななければなりません。バプ その中に見えなくなってしまわなければなりま テスマは「彼の死の様」です。わたしたちは「新 せん。それから以後はキリストだけが見られる しいいのち」、すなわちキリストの生命に生き ので、 「もはやわたしではなく、キリスト」です。 るためによみがえらされました。ガラテヤ 2 章 「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマに 20 節を見てください。キリストを着て、わたし よって、彼と共に葬られた」からです ( ローマ たちは彼のうちで一つとなります。わたしたち 6:4)。バプテスマは、「イエス・キリストの復 はまったく彼と同一の者とみなされます。わた 活により」、わたしたちを死から救います ( 第 1 したちがわたしたちであることは彼の中にあっ ペテロ 3:21)。「キリストが父の栄光によって、 て消滅します。回心した人について、「彼はあん 死人の中からよみがえらされたように、わたし まり変わってしまって、あなたには彼だとわか たちもまた、新しいいのちに生きるため」 、「そ らないだろう。彼は別人だ」とよく言われます。 の死にあずかるバプテスマを受けた」からです そうです、彼は別人なのです。神は彼を「別の ( ローマ 6:4)。キリストの死によって神との和 人」に変えたのです。だから、キリストとひと 解を得たわたしたちは、「彼のいのちによって救 つになっている者は、キリストの持つ権利をな われる」( ローマ 5:10)。だから、単なる形式 んでも持ち、キリストが座する「天の場所」に ではなくて、本当にキリストに浸るバプテスマ 行く権利を有します。その人は、罪の獄屋から、 は、わたしたちを救います。 神の住まいに上げられます。もちろん、これは バプテスマが彼にとって本物であり、単なる外 見の形式ではないことを前提とします。彼が沈 められるのはただ目に見える水の中にではなく、 「キリストのなかに」、その命の中に、です。 このバプテスマは「明らかな良心を神に願い 求めることである」( 第 1 ペテロ 3:21)。もし 神に対する明らかな良心がなければ、クリチャ ンのバプテスマではありません。だから、バプ テスマを受ける人は、その問題についての良心 70 ガラテヤ 3 章 を持つだけの年齢に達していなければなりませ アブラハムの子孫であり、約束による相続人な ん。彼は罪と、またキリストによるゆるしを自 のである」( ガラテヤ 3:28-29)。「違いはない」。 覚していなければなりません。彼は、現れた命 これは福音の鍵句です。すべての者は皆、同じ を知っていなければならないし、義の新しい生 ように罪人であり、皆同じ方法で救われます。 命のために、罪の古い命を喜んで捨てるのでな 異邦人とユダヤ人とでは何か違いがあると主張 ければなりません。 して、民族性を根拠に距離を置こうとする者は、 バプテスマは、「からだの汚れを除くことでは なく」( 第 1 ペテロ 3:21) と謂われており、身 体の外側をきれいにすることではありません。 それは魂と良心の清めです。罪と汚れを清める ために開かれた泉があり ( ゼカリヤ 13:1)、そ れは血、キリストのいのちの泉です。その命は、 十字架上のキリストの脇腹から流れ出したよう に、ほふられた小羊がいる神の御座から流れ出 ています ( 黙示録 5:6)。「永遠の御霊によって」 彼がご自分を神にささげられたとき、彼の脇腹 か ら 血 と 水 と が 流 れ 出 し ま し た ( ヨ ハ ネ 19: 34)。「あかしをするものが、三つある。御霊と 水と血とである。そしてこの三つのものは一致 する」( 第 1 ヨハネ 5:8)。またこれらは、霊と 命であるところの言葉とも一致する ( ヨハネ 6: 63)。キリストは、「教会を愛してそのためにご 自身をささげられた」。「そうなさったのは水で 女は男と同じやり方及び同じ時に救われること はできないと主張して、性による違いを作ろう とするでしょうし、奴隷は主人と同じようには 救われないと言ったりします。そうではありま せん。ただ一つの道があるだけで、人種や条件 にかかわらずすべての人間は、神の前に皆等し いのです。「あなたがたは皆、キリスト・イエス にあって一つ」です。そしてキリストは一人です。 だからそれが、「多数をさして『子孫たちとに』 と言わずに、ひとりをさして『あなたの子孫と に』と言っている。これはキリストのことである」 ( ガラテヤ 3:16)。「あなたがたは皆、キリスト・ イエスにあって一つだからである。もしキリス トのものであるなら、あなたがたはアブラハム の子孫であり、約束による相続人なのである」。 ひとりの子孫しかいませんが、それはキリスト のものであるすべての人を包含しているのです。 洗うことにより、言葉によって、教会をきよめ て聖なるものとするため……である」( エペソ 5: ただひとりの人 25-26)。文字通りには、 「言葉のうちでの水浴」 です。父、御子、御霊の名において、水に葬ら れることで、自覚ある信者は、すべての罪から 清めるキリストの命、すなわち血という水を受 けいれること、そして以後は神の口から出るひ とつひとつの言葉によって生きるために自己を ささげることを表わします。その時から彼は見 えなくなり、ただキリストの命だけが彼の死す べき体に現わされます。 キリストを着て、わたしたちは「真の義と聖 とをそなえた神にかたどって造られた新しき人 を着」ます ( エペソ 4:24)。キリストは、「二 つのものをひとりの新しい人に造」るために ( エ ペソ 2:15)、その肉において敵意 ― 肉の思い ― を滅ぼされました。「人間キリスト・イエス」、 彼だけが真の人です。人という外見が本当の人 なのではありません。わたしたちは、「キリスト の満ち満ちた徳の高さにまで至る」ときにのみ、 「完全な人」となるのです ( エペソ 4:13)。時 子孫、キリストにあって一つ 「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷 も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは 皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。 もしキリストのものであるなら、あなたがたは が満ちると、神はすべてのものをキリストにあっ てひとつに集められるでしょう。子孫はただひ とりであるように、ただひとりの人しかおらず、 ただ一人の人の義しかありません。しかし「も しキリストのものであるなら、あなたがたはア ブラハムの子孫であり、約束による相続人なの 71 である」。 ( ルカ 19:14) と言った者たちを滅ぼすために おいでになる時には、彼は「無数の聖徒たちを 率いて」来られます ( ユダ 14)。 「子孫が来るまで」 「約束されていた子孫が来るまで」( ガラテヤ 3:19) という句がどんな意味か定めるのに、多 くの言葉はいりません。わたしたちはその子孫 とは何であるかわかっています。それは、キリ ストのものであるすべての人です。そして、そ の完全になった状態はまだ来ていないことを 知っています。はっきりさせておくと、キリス トは一度、地上に肉において現れたが、彼はア ブラハム以上には約束の相続を受けませんでし た。アブラハムは一歩の幅の土地すらも与えら れなかったし ( 使徒 7:5)、キリストには枕する ところもありませんでした。それどころか、ア ブラハムが相続するまでは、キリストは相続を その時、子孫は完全になり、約束は成就する でしょう。そしてその時が来るまで律法は、人 がキリストとまったく同一のものとなるか、そ れとも彼を完全に締め出してしまうまでは安息 を与えずに、罪人の良心をかきまわし苦しめる 務めをすることでしょう。あなたはその言うこ とを受けいれるでしょうか。あなたが致命的な 眠りに陥らないように救ってくれる律法に対し、 不平を言うのを止めるでしょうか。そしてキリ ストにあるその義を受けいれるでしょうか。そ うすれば、アブラハムの子孫として、約束に従い、 あなたは罪のなわめから自由になり、喜ぶこと ができます。そして歌います、 「わたしは王の子、王の子、わたしの救い主 イエスと共に、わたしは王の子です」 受けることがおできになりません。約束は、「ア ブラハムとその子孫とに」与えられているから です。預言者エゼキエルを通して主は、「かぶり 物を脱ぎ、冠を取り離せ。すべてのものは、そ のままには残らない。卑しい者は高くされ、高 い者は卑しくされる。ああ破滅、破滅、破滅、 わたしはこれをこさせる。わたしが与える権利 をもつ者が来る時まで、その跡形さえも残らな い」という言葉で、ダビデが地上の王座を代表 することが止む時の相続について語られ、バビ ロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの滅亡を予 言されました。 それでキリストは御父の御座に座し、「それか ら、敵をその足台とするときまで、待っておら れる」( ヘブル 10:13)。彼はまもなく来られま すが、人に救いを得させることのできるキリス トを、最後の魂が受けいれるまでは、そしてそ の可能性がいくらかでもあるかぎりおいでにな りません。神の霊に導かれる者は神の子であり、 キリストと共同の相続人ですから、キリストは、 彼らより前に相続を受けることはおできになり ません。子孫はひとりであり、分割できません。 キリストがさばきを遂行するために、また、「こ の人が王になるのをわれわれは望んでいない」 72 ガラテヤ 4 章 ガラテヤ4章 養子縁組 少し顧みて 聖書のどの個所であっても、研究し尽くすこ とは全く不可能です。研究すればするほど、多 くのことが見えてきます。それどころか、表わ れている以上のものがあるという事実にさらに 気づくようになります。神のみ言葉は、神ご自 身と同様、全くはかりしれません。聖書のある 個所に対する人の理解は、その個所に先立つ部 分についての知識がどれほど徹底しているかに よります。だから、この手紙の第 3 章の、子孫 のことを扱っている個所にもう少し注意を向け てみましょう。 るのでいっそう強くなります。「ユダヤ人もギリ シャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女も ない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあっ て一つだからである」( ガラテヤ 3:28)。クリ スチャンが戦争に参加するのが不可能なのは、 この理由によります。彼は国籍による差異を知 りません。すべての人を自分の兄弟だと思いま す。しかし彼がなぜ戦争に参加しないかという 主な理由は、キリストの命が彼の命であり、彼 はキリストと一つだからです。だから、キリス トのためであるかのようであっても、剣をつか み、自己防衛のためにそれをふるって戦うこと は、彼にとって不可能でしょう。そして二人の クリスチャンが互いに戦うことは、キリストが 子孫 最初に、キリストがその子孫である、という ことを念頭に置く必要があります。それは明瞭 に述べられています。しかし、キリストは自分 自身のためには生きられなかったので、彼は自 分自身のためにだけ相続をしたのではありませ んでした。彼は自分のためにではなく、その兄 弟たちのために相続を勝ち取られたのです。神 の目的は「ことごとく、キリストにあって一つ に帰せしめる」ことです ( エペソ 1:10)。神は、 最終的にはあらゆる種類の分裂に終わりを来た らせるでしょう。そして神を受けいれる者たち のためには、今、そうなさいます。キリストの うちには国民、階級、序列の差異はありません。 クリスチャンには、人をイギリス人、ドイツ人、 フランス人、ロシア人、トルコ人、中国人、ま たはアフリカ人として考える者はいません。誰 のことも、ただ一人の人間であり、それゆえに、 キリストを通して神の相続人となる可能性のあ る者だと考えます。もし、一方の人が ― 彼がど ご自身と戦うこと以上に不可能です。 とにかく、わたしたちはここで戦争について 議論しているのではなく、キリストを信じる者 たちの完全な一致を示しているだけです。彼ら は一つです。だから、一人の子孫がいるだけです。 真の信者が幾百万人いようとも、彼らはキリス トにあってただ一つです。各自が自分の個性を もっていますが、どんな場合でも、キリストの 個性のある局面だけが現わされているのです。 人間の体の中には多くの肢体があり、すべての 肢体が同じ役目をもっているのではなく、その 個性は異なっています。それでもすべて健康な 体にあっては、完全な一致と調和があります。 新しい人を着た者たち、すなわち彼らを創造さ れた方のみかたちにならう知識で新しくされた 者たちにとっては、「そこにはもはやギリシャ人 とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテ ヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストが すべてであり、すべてのもののうちにいますの である」( コロサイ 3:11)。 この国のどの民族であろうとも ― やはりクリ スチャンであれば、その絆は相互間のものとな 73 収穫 麦と毒麦のたとえについての説明の中で、「良 い種というのは御国の子たち」だとキリストは 言われました ( マタイ 13:38)。その人は麦の 中から毒麦を抜き取ることをゆるそうとしな かった、早い時期には麦と毒麦を完全に見分け しょう。それはすべての人の心の内にあるから です ( ヘブル 8:10-11)。では律法はなくなっ てしまうのでしょうか。決してそうではなく、 すべての人それぞれの心に、インクではなく生 ける神の霊によって書かれ、消すことができな いように刻みつけられているのです。 るのは困難なので、麦をいくらか殺してしまう かもしれないからです。そこで彼は言った、「収 穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の 時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束 子孫 ( キリスト ) に関する先の真理と共に、麦 と毒麦のたとえを鮮明に頭の中において、研究 をすすめましょう。 わたしの言う意味は、こうである。相続人 が子供である間は、全財産の持ち主でありな がら、僕となんの差別もなく、父親の定めた 時期までは、管理人や後見人の監督の下に置 かれているのである。それと同じく、わたし たちも子供であった時には、いわゆるこの世 のもろもろの霊力の下に、縛られていた者で あった。しかし、時の満ちるに及んで、神は 御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせ て、おつかわしになった。それは、律法の下 にある者をあがない出すため、わたしたちに 子たる身分を授けるためであった。このよう に、あなたがたは子であるのだから、神はわ たしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御 子の霊を送って下さったのである。 したがっ て、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。 子である以上、また神による相続人である。 にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、 と言いつけよう」。子孫が集められるのは収穫の 時です。だれも皆、そのことは知っています。 しかし、このたとえが特に示していることは、 子孫が完全な形で現れるのは収穫の時だという ことです。言い替えれば、その子孫は収穫の時 に現れるのです。収穫は子孫が完全に現れて熟 するのを待っています。しかし、「収穫とは世の 終わりのことである」(マタイ 13:39)。だから「約 束されていた子孫が来る」( ガラテヤ 3:19) 時 とは、世の終わり、新しい地に関する約束が成 就されるその時です。実際、子孫がその時以前 に現れることはできません。世の終わりは、キ リストを受けいれるようにと説得され得る最後 の人がそうすると、すぐに来るからです。そし て子孫はたった一粒でも欠けているかぎり完全 神を知らなかった当時、あなたがたは、本 来神ならぬ神々の奴隷になっていた。しかし、 今では神を知っているのに、否、むしろ神に 知られているのに、どうして、あの無力で貧 弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、また もや、新たにその奴隷になろうとするのか。 あなたがたは、日や月や季節や年などを守っ ている。わたしは、あなたがたのために努力 してきたことが、あるいは、むだになったの ではないかと、あなたがたのことが心配でな らない。 ではありません。 さて ( ガラテヤ ) 第 3 章の 19 節、律法は不義 のゆえに「約束された子孫の来る時まで」語ら れたというところを読んでみてください。わた したちはそこから何を学ぶでしょうか。単純な こと、つまりシナイ山で語られた律法は、一字 も変わらず、なくてならない福音の一部分だと いうこと、また世の終わりにあるキリストの再 臨まで、福音の中に表明されなくてはならない ということです。「天地が滅び行くまでは、律法 兄弟たちよ。お願いする。どうか、わたし のようになってほしい。わたしも、あなたが たのようになったのだから。あなたがたは、 一度もわたしに対して不都合なことをしたこ とはない。あなたがたも知っているとおり、 最初わたしがあなたがたに福音を伝えたのは、 の一点、一画もすたることはなく」( マタイ 5: 18) と書いてあります。では、天地が滅び、新 しい天地になる時はどうなるのでしょうか。そ の時、律法は、罪人に彼らの罪を示し、教えを 説くために書物に書かれる必要はなくなるで 74 ガラテヤ 4 章 わたしの肉体が弱っていたためであった。そ して、わたしの肉体にはあなたがたにとって 試錬となるものがあったのに、それを卑しめ もせず、またきらいもせず、かえってわたしを、 神の使かキリスト・イエスかでもあるように、 迎えてくれた。その時のあなたがたの感激は、 今どこにあるのか。はっきり言うが、あなた がたは、できることなら、自分の目をえぐり 出してでも、わたしにくれたかったのだ。そ れだのに、真理を語ったために、わたしはあ なたがたの敵になったのか。彼らがあなたが たに対して熱心なのは、善意からではない。 むしろ、自分らに熱心にならせるために、あ なたがたをわたしから引き離そうとしている のである。わたしがあなたがたの所にいる時 だけでなく、いつも、良いことについて熱心 に慕われるのは、良いことである。ああ、わ たしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリ ストの形ができるまでは、わたしは、またもや、 あなたがたのために産みの苦しみをする。で きることなら、わたしは今あなたがたの所に いて、語調を変えて話してみたい。わたしは、 あなたがたのことで、途方にくれている。 律法の下にとどまっていたいと思う人たち よ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法 の言うところを聞かないのか。そのしるすと ころによると、アブラハムにふたりの子があっ たが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の 女から生れた。女奴隷の子は肉によって生れ たのであり、自由の女の子は約束によって生 れたのであった。さて、この物語は比喩とし てみられる。すなわち、この女たちは二つの 契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、 奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。 ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のこ とで、今のエルサレムに当る。なぜなら、そ れは子たちと共に、奴隷となっているからで ある。しかし、上なるエルサレムは、自由の 女であって、わたしたちの母をさす。すなわち、 こう書いてある、 「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、 産みの苦しみを知らない女よ。 ひとり者となっている女は多くの子を産み、 その数は、夫ある女の子らよりも多い」。 兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのよう に、約束の子である。 しかし、その当時、肉 によって生れた者が、霊によって生れた者を 迫害したように、今でも同様である。しかし、 聖書はなんと言っているか。「女奴隷とその子 とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子 と共に相続をしてはならない」とある。だから、 兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではな く、自由の女の子なのである。 ( ガラテヤ人への手紙第4章 ) 事実を述べる 章の区切りは主題が変わったという意味では な い こ と は、 だ れ に も 明 ら か で す。 第 3 章 は 相続人である者たちに対する叙述で終わってお り、第 4 章は相続人とはだれかという質問で始 まっています。初めの 2 節はその句自体を説明 するものです。それは事実を簡潔に述べていま す。ある子供がおびただしい財産の相続人であっ ても、彼は一定の年齢に達するまではその財産 をどうすることもできない僕と同じです。もし 仮に彼がいつまでもその年齢に到達しなければ、 その実際上の相続をすることは決してできませ ん。彼は相続に関してはなんの分与もなく、僕 として、そこで一生を送るでしょう。 適用 「それと同じく、わたしたちも子供であった時 には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、 縛られていた者であった」。その先の 5 節を見れ ば、「子供」としてここに述べられているのは、 わたしたちが「子としての身分」を受ける前の ことを言っていることがわかります。それはわ たしたちが律法ののろいからあがない出される 以前の状態、つまり、わたしたちが回心する前 のことです。だから、それは俗世間から隔てら れた者としての神の子という意味ではなく、エ ペソ 4 章 14 節で使徒が、 「だまし惑わす策略に より、人々の悪巧みによって起る様々な教えの 風に吹きまわされたり、もてあそばれたりする」 75 と言っている「子供」のことです。言い替えれば、 いるかもしれません。答えは簡単です。収穫ま それは、「生れながらの怒りの子」であった時の では子孫を構成する人々が現れないという原則 こと、回心していないわたしたちの状態を言う によるのです。神は人類を捨て去ってはおられ のです。 ないので、最初に造られた人が「神の息子」と 呼ばれたのだから、すべての人がまだ、未成年 の相続人であるということになります。すでに 世の根本原理 「子供であった時」、わたしたちは世の根本原 理の奴隷でした。主についてわずかでも知って いる者なら、世の根本原理には主との共通点は 何もなく、また主から出たものは何もないと教 えるまでもありません。「すべて世にあるもの、 すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父 から出たものではなく、世から出たものである。 世と世の欲とは過ぎ去る」からです ( 第 1 ヨハ ネ 2:16-17)。世の友となることは、神に敵す ることです。「おおよそ世の友となろうと思う者 は、自らを神の敵とするのである」( ヤコブ 4:4)。 キリストがわたしたちを救い出しに来て下さっ たのは、「今の悪の世」からです。わたしたちは 学んだように、「信仰が来る前は」、すべての人 が神から迷い出ていました。約束を受けいれる ように導かれるため、わたしたちは律法の下に 捕らわれ、厳格な家庭教師に見張られ、「閉じ込 められて」いました。神が、罪の奴隷である者 たち、不信心な者さえも、神の子供 ― 迷ってい る者、放蕩息子、しかも子供 ― とみなして下さ るとはなんという祝福でしょう。神はすべての 者たちを「愛されて受けいれられる」者にお造 りになりました。今のこの恩恵の生命は、神を 父として認め、本当にその子孫となる機会をわ たしたちに授ける目的のために与えられていま す。だが、神のもとに帰らなければ、わたした ちは罪の奴隷として死んでしまうことでしょう。 次のように警告されています。「あなたがたは、 むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにさ 「時の満ちるのに及んで」 れないように気をつけなさい。それはキリスト に従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言 伝えに基くものにすぎない」( コロサイ 2:8)。 世の根本原理に縛られていることは、「この世の ならわしに従い」、「肉の欲に従って日を過ごし、 肉とその思いとの欲するままに行い」、「生れな がらの怒りの子」として歩いている状態です ( エ ペソ 2:1-3)。これが、ガラテヤ 3 章 22-24 節 で述べられている、信仰が来る前の、律法の下、 つまり「罪の下」にいた時と同様の奴隷状態です。 それは「キリストを知らず、イエスラエルの国 籍がなく、約束されたいろいろな契約に縁がな く、この世で希望もなく神もない者」である人々 の状態です ( エペソ 2:12)。 キリストは時満ちておいでになりました。こ れに類似した叙述がローマ 5 章 6 節に見つかり ます。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリ ストは、時いたって、不信心な者たちのために 死んで下さったのである」。しかしキリストの 死は、彼がユダヤで肉の姿で現れた当時生きて いた人々のためであったのと同じく、それ以前 に生きた人々や、今生きている人々のためでも あるのです。彼の死がしたことは、四千年前も 千八百年前も変わりはありません。その効力は その世代の人々にとっての方が、他の世代の人々 より大きいというのではありません。それはす べての人のためであり、それゆえ、あらゆる時 代において同じ効力があります。「時が満ちるに すべての人が相続人になれる もしそのようなことがここで「子供」と言わ れている者たちの状態なら、どうして「相続人」 として語られることがあるのか、と尋ねる人が 及んで」というのは、メシヤが現れると預言で あらかじめ告げられていたその時のことです。 しかし、あがないは、すべての時代のすべての 人々のためです。彼は世の初めから、あらかじ め備えておられました。しかし、「この終わりの 76 ガラテヤ 4 章 時に…現れたのである」( 第 1 ペテロ 1:20)。 られて、わたしたちの肩から荷を取り去ること もし今世紀、あるいは時の終わりの最後の年に によって、わたしたちをあがなってくださいま キリストが現れるのが、神のご計画であったと した。「神はわたしたちの罪のために、罪を知ら しても、福音になんの違いも生じないでしょう。 ないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、 「彼はいつも生きておられる」、そして彼はずっ 彼にあって神の義となるためである」( 第 2 コ と生きておられた、「きのうも、きょうも、いつ リント 5:21)。この言葉の意味そのままに、彼 までも変わることがない」( ヘブル 13:8)。彼 は完全に人の身代わりになられたのです。この がわたしたちのためにご自身をささげられたの 表現を人が使うとき、その完全さがどれほどの は、 「永遠の御霊によって」( ヘブル 9:14) で ものであるかめったに考えません。ここで言っ すから、その犠牲はどの時代にも、今でも、効 ていることは、キリストは、ご自分をすっかり 力があります。 わたしたちと同一視されているので、わたした ちに触れて影響を及ぼすものは、すべて彼に触 「女から生れ」 れて影響を及ぼすものとみなすほどに、わたし たちの存在の中に浸透しておられるということ 神は御子をつかわし、ひとりの女から生れさ なのです。キリストは、たとえば軍隊で、ある せ、まぎれもないひとりの人間としておつかわ 人がだれかの代わりになってどこか他の場所で しになりました。彼はこの地上で肉においては 他の任務につくように、ひとりの人が別の人の ごく普通の生活をなさり、「女から生れた人間」 身代わりになるという意味での、身代わりでは の多くの者たちにふりかかる病気や困難に苦し ありません。そうではないのです。キリストの まれました。「言葉は肉となった」。キリストは、 身代わりというのは、ぜんぜんそれとは違いま いつもご自分を「人の子」と呼ばれました。こ す。彼はわたしたちのためにご自分を身代わり のようにしてご自分を永遠に全人類と同一視し にするという意味での身代わりであって、わた ておられるのです。その一致のきずなは決して したちはもはや現れることがないのです。わた 断たれることはありません。 したちは永遠に消えてしまったから、「もはやわ たしではなく、キリスト」なのです。こうして わたしたちは自分の心配ごとを、それをつまみ 「律法の下に生れ」 女からお生れになったキリストは、当然なが ら律法の下にお生れになりました。というのは、 それがすべての人の状態であり、「イエスは、神 のみまえにあわれみ深い大祭司となって、民の 罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟 たちと同じようにならねばならなかった」から あげて彼に懸命に投げつけることによってでは なく、自分たちは何者でもないとして自分を低 くし、彼だけに頼り、荷を彼に預けて、追いやっ てしまいます。こうして、彼が「律法の下にあ る者をあがない出すため」においでになったの は、どのようにしてであったのかがわかりまし た。 です ( ヘブル 2:17)。彼はすべてのことをご自 分の身に引き受けられました。「彼はわれわれの 「律法の下にある者を 病を負い、われわれの悲しみをになった」( イザ ヤ 53:4)。「彼は、わたしたちのわずらいを身 あがない出すために」 に受け、わたしたちの病を負うた」( マタイ 8: キリストはそれを最も実際的かつ現実的な方 17)。 「われわれはみな羊のように迷って、おの おの自分の道に向かって行った。主はわれわれ すべての者の不義を、彼の上におかれた」( イザ ヤ 53:6)。彼は文字通りにわたしたちの所に来 法でなさいます。彼はだれをあがない出される のですか。「律法の下にある者たち」です。わた したちは、この「律法の下にある者たちをあが ない出すために」という表現を、ただ局部的に 77 しか適用できないとするある人たちの考えには した ( イザヤ 30:9)。しかし、イエスを信じ、 一瞬たりともがまんできません。彼らは、それ 子たる身分を授けられたわたしたちは、「従順な は、キリストがユダヤ人を犠牲のささげものを 子供として、無知であった時代の欲情に従わず」 する必要から解放し、あるいは戒めをそれ以上 と描写されています ( 第 1 ペテロ 1:14)。キリ 守る義務がないようにしたことを意味すると言 ストは、「わが神よ、わたしはみこころを行う います。では、それはユダヤ人だけ、それもキ ことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心 リストの初臨の時に生きていた人々に関するも のうちにあります」と言われました ( 詩篇 40: のだと仮定してみましょう。するとどうなるで 8)。ですから、彼は、さきほど説明したように しょうか。わたしたちが、自分たちをあがない わたしたちの代わりではなく、実際にわたした の計画から締め出すことでしかありません。も ちの立場をとって、わたしたちの中においでに し、律法の下にいたのがユダヤ人だけであった なり、わたしたちの内で、わたしたちのために、 なら、キリストは、ユダヤ人だけをあがなうた わたしたちの命を生きる身代わりとしておいで めにおいでになったことになります。ああ、あ になったのです。だから、子たる身分を授けら がないという事柄に及んで、わたしたちは取り れるわたしたちの心の中には、当然ながらその 残されたくはありません。であるなら、わたし 同じ律法があるということになります。 たちは「律法の下に」いること、またはその下 にいたことを認めなければなりません。キリス 聖霊のあかし トはとりもなおさず、律法の下にある者たちだ けをあがなうために来られたからです。「律法の 下に」というのは、わたしたちがすでにみてき たように、律法によって罪ありとされたという 意味です。キリストは、「義人を招くためではな く、罪人を招いて悔い改めにいたらせるために」 おいでになりました。しかし律法は、それに服 すべき者たち、それを遵守しなければならない 者たちでなければ、とがめたりしません。です から、キリストがわたしたちを律法からあがな い出してくださるのは、そのとがめだてからで す。したがって、彼はわたしたちが律法に従順 な生涯を過ごすことができるようにとあがない 出して下さるのです。 「そのあかしをするものは、御霊である。御霊 は真理だからである」( 第 1 ヨハネ 5:6)。 「あ なたがたは子であるのだから、神はわたしたち の心の中に、 『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送っ て下さったのである」。父よ、父よ。ああ、ただ の客としてではなく、唯一の所有者として、心 の内に永続して宿る者として聖霊が入ってくる と共に、なんという喜びと平安とがやって来る ことでしょう。信仰によって義とされ、わたし たちは主イエス・キリストを通して神との平和 を持つのです。それだからわたしたちは、患難 をも喜び、失望に終わることのない希望をもっ て、「神にあって喜ぶ」のです。「なぜなら、わ たしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛 「わたしたちに子たる身分を授けるため」 がわたしたちの心に注がれているからである」 ( ローマ 5:1-5)。そして、わたしたちは神が愛 「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子で されたように愛することができます。わたした ある」( 第 1 ヨハネ 3:2)。「彼を受けいれた者、 ちは同じ愛を持つのです。なぜならわたしたち すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の は神の性質を持つからです。「御霊みずから、わ 子となる力を与えたのである」( ヨハネ 1:12)。 たしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であ これはガラテヤ 4 章 3 節に「子供たち」として ることをあかしして下さる」( ローマ 8:16)。「神 説明された状態とは全く正反対のことです。そ を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っ こでの状態のわたしたちは、「そむける民、偽り ている」( 第 1 ヨハネ 5:10)。 を言う子ら、主の教を聞こうとしない子ら」で 78 ガラテヤ 4 章 らず、彼を息子として、したがって相続人とし 「もはや僕ではなく、子」 「あなたがたはもはや僕ではなく、子である」。 二種類の子供がいるので、僕も二種類あること がわかるでしょう。この章の最初の部分で、「年 が満たない」者たち、そして善悪共に見分ける ために自分の感覚を働かせない者たちをさして、 「子供」という言葉が使われていたのをみまし た ( ヘブル 5:14)。約束は彼らと、さらに「遠 くの者一同」( ローマ 2:39) とに対するもので す。しかし、それは彼らがそれを受けいれて神 のご性質を付与される者となり、本当に神の子 となりたいかどうかわかるまで保留されていま す。その間は、そのような怒りの子らは、罪の 奴隷であって、神の僕ではありません。神の御 子は僕であるが、ここで述べられている僕とは 全く違った意味での僕です。僕の性質は彼が仕 える主人次第です。この章における「僕」とい う言葉は、本当の神の子である神の僕にではな く、きまって罪の奴隷にあてはめられています。 そのような僕と子との間には、非常に大きな違 いがあります。奴隷は何も所有することはでき ず、自分に対する支配力がありません。そして これが彼のきわだった特徴です。自由人の子は、 反対に、創造当初においてと同様に、すべての 造られたものに対する支配力があります。なぜ なら彼は自分自身に勝利したからです。「怒りを おそくする者は勇士にまさり、自分の心を治め る者は城を攻める者にまさる」からです ( 箴言 16:32)。 て迎えました。それで、わたしたちも子と呼ば れる資格は失ってしまったし、相続したものを 使い果たしてしまったけれども、神はキリスト にあってわたしたちを本当の子として迎えて下 さり、キリストが持っているのと同じ権利と特 権を与えてくださいます。キリストは今、天で 神の右におられ、「すべての支配、権威、権力、 権勢の上」「また、この世ばかりでなくきたる べき世においても唱えられる、あらゆる名の上 に」おかれているけれども ( エペソ 1:20-21)、 彼はわたしたちと分かちあわないものは何一つ 持ってはおられません。それは、「あわれみに富 む神は、わたしたちを愛して下さったその大き な愛をもって、罪過によって死んでいたわたし たちを、キリストと共に生かし、キリスト・イ エスにあって、共によみがえらせ、共に天上で 座につかせて下さった」からです ( エペソ 2: 4-6)。キリストは、今の彼の栄光においてわた したちが彼と一つであるために、今のわたした ちの苦しみにおいてわたしたちとひとつであら れます。彼は「卑しい者を引き上げ」 られます ( ル カ 1:52)。今でさえ、彼は「貧しい者を、ちり のなかから立ちあがらせ、乏しい者を、あくた の中から引き上げて、王候と共にすわらせ、栄 誉の位を継がせられる」( サムエル上 2:8)。地 上の王であり、巨万の富と力を持ちながら、最 も貧しい小作人をしているような者はいません。 しかも引き上げてくださる主がわたしたちの父 なのです。 異邦人のくびき 「子である以上、相続人である」 放蕩息子が父の家から迷い出ていた時、彼は 最も卑しい骨折り仕事をする奴隷だったから、 奴隷となんの違いもありませんでした。その状 態で彼は、僕としておいてもらう以上のことは できないと感じつつ、昔の故郷に帰ってきまし た。ところが、彼がまだ遠くにいるのに、息子 を見つけた父親は、走って行って彼に会い、彼 が相続人としての権利を失っていたにもかかわ 使徒パウロは、コリント人に、「あなたがた がまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の 言えない偶像のところに引かれて行ったことは、 あなたがたの承知しているとおりである」と言 いました ( 第 1 コリント 12:2)。ガラテヤ人に とってはなおのことでした。彼らに対し、パウ ロは、「神を知らなかった当時、あなたがたは、 本来神ならぬ神々の奴隷になっていた」と書き ました ( ガラテヤ 4:8)。この事を念頭に置くな 79 ら、読者はこの手紙に関する意見を述べるにあ 新たにその奴隷になろうとするのか」( ガラテヤ たり、ごくありきたりの間違いに陥るのを免れ 4:9)。人が鎖につながれているのを愛するとは るでしょう。ガラデヤ人たちは異邦人であって、 奇妙ではありませんか。キリストは、「捕らわれ 偶像を拝し、最も堕落した迷信にとらわれてい 人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ」 ました。このくびきは、前の章で語られていた られ ( イザヤ 61:1)、捕えられた者に向かって こと、すなわち、彼らは律法の下に「閉じ込め 「出よ」と言われ、暗闇にいる者に「あらわれよ」 られて」いたのと同じであるということを頭に と言われました ( イザヤ 49:9)。ところがこの 入れておくようにしましょう。それは回心して 言葉を聞いて、出てきて、 「義の太陽」の光を見、 いないすべての人々のくびきと全く同じもので 自由のすばらしさを味わった者たちが、実際向 した。というのはローマ 2 章、3 章で、「そこに きを変え、獄屋に戻って行き、昔の鎖に縛られ はなんの差別もない、すなわち、すべての人は るのに服し、それを好みさえして、罪のきつい 罪を犯した」と告げられているからです。個人 踏み車でせっせと働くのです。いくらかでもこ 的な経験において、主を知らなかったユダヤ人 の経験を持ったことのない者がいるでしょうか。 たちは、同様のくびき ― 罪のくびき ― につな それはえそらごとではありません。それは人が、 がれていました。「すべて罪を犯す者は罪の奴隷 最もいまわしい事、死でさえも愛するようにな である」( ヨハネ 8:34)。そして「罪を犯す者は、 れるという事実です。知恵は、「すべてわたし 悪魔から出た者である」( 第 1 ヨハネ 3:8)。 「人々 を憎む者は死を愛する者である」と言っていま ( 異邦人 ) が供える物は、悪霊ども、すなわち、 す ( 蔵言 8:36)。ガラテヤ人への手紙の中には、 神ならぬ者に供えるのである」( 第 1 コリント 人間のなまなましい画像があります。 10:20)。もしある人がクリスチャンでなければ、 その人は異邦人です。そこには中間地帯はあり 異邦人のならわしに従う ません。もしクリスチャンが教えに背けば、た ちまち異邦人になります。わたしたち自身、か つては「この世のならわしに従い、空中の権を もつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働 いている霊に従って」歩いていました ( エペソ 2: 2)。そしてわたしたちは「無分別で、不従順な、 迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽 の奴隷になり、悪意とねたみで日を過ごし、人 に憎まれ、互いに憎み合っていた」( テトス 3: 3)。だから、わたしたちもまた「本来神ならぬ神々 の奴隷となっていた」のです。冷酷な主人であ ればあるほど、そのくびきはひどいものとなり ます。それ自体腐敗している者の奴隷にされて いる状態の恐怖を、表わすことのできる言葉が あるでしょうか。 「あなたがたは日や月や季節や年などを守っ ている」。これが、彼らが奴隷であるという証拠 でした。「ああ、彼らは昔のユダヤ人の安息日に 戻ったのだ。それが、パウロがわたしたちに警 告したくびきだったのだ !」と言う人がいます。 人々が、地上に住む者たちに共通のものとして、 主自らユダヤ人にお与えになった安息日に対し、 そのような突拍子もない憎しみを持つとは、何 と奇妙なことでしょう。彼らは安息日をくつが えすことのできるようなあらゆる言葉を捕えよ うとします。しかし、そうするためにはその周 辺の言葉には全て目をつぶらねばならないので す。ガラテヤ人への手紙を読み、読みながら考 える人はだれでも、ガラテヤ人はユダヤ人では なかったことがわかっているはずです。彼らは 奴隷であることを愛し 異教から回心しました。ですから、回心以前には、 彼らはユダヤ人が行っていたような宗教的習慣 「今では神を知っているのに、否、むしろ神 には何のかかわりもありませんでした。彼らに に知られているのに、どうして、あの無力で貧 は、ユダヤ人と共通するものは何もなかったの 弱な、もろもろの霊力に逆戻りして、またもや、 です。だから彼らがまたもやその奴隷となるべ 80 ガラテヤ 4 章 く、「無力で貧弱なもろもろの霊力」に逆戻りし 守ることをパウロがとがめていたとか、それに た時、彼らがユダヤ人のやっていることに戻っ 関することを何か述べていると言うのと同じよ ていったのではないのは明らかです。彼らは、 うに、神は、これらの事を禁じられた時、安息 昔の自分たちの、異教のならわしに戻ったので 日遵守に対する警告をイスラエルにしておられ す。「だが彼らを惑わしていたのはユダヤ人だっ たと言える、という人があるかもしれません。 たのではなかったか」。そうです。しかしこの一 しかし、それは間違った解釈です。ガラテヤ人 つの事、すなわち、あなたが人をキリストから があまりにも遠くまで逆戻りしてしまったので、 引き離し、キリストに代わる何かに向かわせよ パウロは彼らのために労したことが皆むだに うとする時には、その人が行き着くところを告 なってしまうのではないかと恐れました。彼ら げることはできないということを覚えていてほ は神を捨て、 「無力で貧弱なもろもろの霊力」す しいのです。あなたは彼に行ってほしい所で彼 なわち、敬虔な人が神と何か関係があるなどと を止めることはできません。もし回心した大酒 は考えないようなことに戻っていました。彼ら 飲みが、キリストを信じる信仰を失うと、彼は はその栄光を「益なきもの」と取り替えました 必ずや飲酒の習慣を始めるでしょう。たとえ主 ( エレミヤ 2:11)。「異邦の民のならわしはむな が彼からその欲望を取り去っておられたとして しいからだ」( エレミヤ 10:3)。 も、そうするでしょう。それだから、これらの「偽 兄弟たち」― キリストにある「福音の真理」に 反対するユダヤ人たち ― は、ガラテヤ人たちを だまして、キリストから退かせるのに成功しま した。しかし彼らは、ユダヤ人の儀式に彼らを とどめておくことはできませんでした。彼らは 避けようもなく、昔の異教徒の迷信に押し戻さ れてしまいました。 この点において、かつての人々にとってと同 様、わたしたちにとっても多くの危険がありま す。肉の内にある何かに確信を持ち、自分自身 に信頼をおく者はだれでも、刻んだ像を作って それに頭を下げる人と全く同様に、神の代わり に自分の手のわざを礼拝しているのです。人に とって、想像上の自分の鋭敏さや、「自分のこと は自分でする」といって自分の能力に信頼する こと、また賢い人の考えさえもむなしいことや、 禁じられた行い もう一度 10 節を読んでみましょう。それか ら申命記 18 章 10 節を読みましょう。「あなた がたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いて ささげる者があってはならない。また占いをす る者、卜者、易者、魔法使い……に問うことを する者があってはならない」。さて、彼らに臨も うとしている裁きから逃れようとする異教徒た ちに、主がなんと言われるか読んでみましょう。 「あなたは多くの計りごとによってうみ疲れた。 神以外の権威はないこと、これらのことを忘れ るのは容易です。「知恵ある人はその知恵を誇っ てはならない。力ある人はその力を誇ってはな らない。富める者はその富を誇ってはならない。 誇る者はこれを誇りとせよ。すなわち、さとく あって、わたしを知っていること、わたしが主 であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っ ている者であることを知ることがそれである。 わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」( エ レミヤ 9:23-24)。 かの天を分かつ者、星を見る者、新月によって、 あなたに臨む事を告げる者を立ち上がらせて、 私的に侮辱されるのではない使命者 あなたを救わせてみよ」( イザヤ 47:13)。この 言葉の中に、ガラテヤ人たちが逆戻りしていっ た事そのもの、すなわち、エジプトから連れ出 された時に、主がイスラエルに禁じられた事を 見るのです。ところで、ガラテヤ人が安息日を 「神がおつかわしになったかたは、神の言葉を 語る」( ヨハネ 3:34)。使徒パウロは、神と主 イエス・キリストとによってつかわされ、自分 自身の言葉を語ることはありませんでした。彼 81 は、人からのものではなく神からのメッセージ がお与えになったメッセージを伝えることに専 をたずさえていた使命者でした。その働きは彼 念するようになるでしょう。 のものでもなければ、他のだれのものでもなく、 神のものであって、彼は卑しい器、土の器、神 弱さの中の力 がその恵みの栄光ある福音を運ぶ方法としてお 選びになった者にすぎませんでした。ですから、 パウロは彼のメッセージが聞きいれられなかっ たり、拒まれたりしても、侮辱されたとは感じ ませんでした。「あなたがたは一度もわたしに不 都合なことをしたことはない」と彼は言ってい ます。彼はガラテヤ人のためにした働きを、ま るで自分の時間を浪費したかのように思って、 自分自身のために遺憾としたのではありません でした。しかし彼は、彼らに関するかぎり自分 の働きが無駄になったのではないかと思って恐 れたのです。心から「主よ、栄光をわれらにで はなく、われらにではなく、あなたのいつくし みと、まこととのゆえに、ただみ名にのみ帰し てください ( 詩篇 115:1)、と言うことのでき る人は、もし自分のメッセージが受けいれられ なくても、私的に傷つけられたと感じることは ありえません。自分の教えが軽んじられたり、 無視されたり、軽べつ的に拒まれたりする時に、 いらだったり、怒ったりする者はだれでも、彼 が語ったのは神の言葉であったことを忘れたか、 さもなければそれらに自分の言葉を交えたか、 または自分の言葉で代用したか、そのいずれか であることを示すのです。クリスチャンの教会 だと公言する者の面目を失わせてしまったあら ゆる迫害は、このような人間的精神がもたらし ました。弟子たちを自分たちの方に引きつけよ うとして、事をゆがめて語る人々が起り、彼ら の言うことややり方が重んじられないと気分を 害し、いわゆる異端者に自分たちの復警を浴び せたのです。いつの時代にも、神の戒めに従い 「最初わたしがあなたがたに福音を伝えたの は、わたしの肉体が弱っていたためであった」。 この手紙の中にあるいくつかの叙述から、ガラ テヤの兄弟たちの経験の歴史及び、それとパウ ロとの関係を容易に集めることができます。肉 体が弱っていたためガラテヤに引き止められて いる間に、彼は「霊と力との証明によって」( 第 1 コリント 2:4) 福音を宣べ伝えました。だか ら人々は彼らの間で十字架につけられたキリス トを見、そして彼を受けいれ、聖霊による力と 喜びで満たされました。主にある彼らの喜びと この上ない幸福は、公に証しされ、その結果彼 らは多くの迫害に苦しみました。しかし、彼ら はこれをなんとも思いませんでした。パウロは、 その見栄えのしない外見にもかかわらず ( 第 1 コリント 2:1-5、第 2 コリント 10:10 を比べ よ )、彼がもたらした喜ばしい知らせのゆえに、 神ご自身からの使命者として受け止められまし た。彼が開いて見せた豊かな恵みを、彼らはと ても深く感謝したので、彼の欠陥を補うために は自分たちの目を彼に喜んで与えようとしたほ どでした。これらすべてのことは、ガラテヤ人 たちが現在の不毛状態を思い見て、どこから落 ちたのかわかるように、また彼が自分を憂慮す ることには興味がないことを彼らが理解するこ とを目的として述べられました。彼は、かつて 彼らに真理を語り、彼らはそれを喜びました。 彼が引き続き同じ真理を語るせいで彼らの敵に なるなどということは不可能です。 そこねたせいで迫害に苦しんだ者はだれもおら しかし、これらの個人的言及にはもっと何か ず、彼らはただ人間のならわしと言伝えを無視 があります。わたしたちは、パウロが、彼の苦 したという理由で迫害されたのです。良いこと 悩や、彼が大きな不便のもとで働いてきたこと に熱心であるのはいつでも大切な事ですが、そ を述べた時、彼が個人的な同情を欲していたと の熱心を聖別された ( 神の ) 知識に従属させま 思うベきではありません。全く違います。一瞬 しょう。熱心な人は、自分ははたしてだれの僕 の間も、彼は、書いている目的、すなわち、「肉 だろうかと、度々自問すべきです。もし神の僕 は無益であり」、あらゆる良いことは神の霊から であれば、彼が属する神に復讐はゆだねて、神 82 ガラテヤ 4 章 来るということを示すことから目をそらしませ せたりしようとする時、光は消えていきます。 んでした。ガラテヤ人たちは「霊で始め」ました。 イエスは、 「わたしがこれらのことを話したのは、 パウロは生れつき小柄な体格であり、体に弱点 わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、 があり、初めて彼らに会った時には、特別な悩 また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためで みに苦しんでいました。しかしながら、全くと ある」と言われました ( ヨハネ 15:11)。彼は いっていいほどの無力さにもかかわらず、見え 悲しみにかえて喜びの油 ― 聖霊 ― を与えて下 ないけれども、現実に神が彼と共にあることを、 さり、それは永続的です。命はわたしたちが喜 だれひとり理解しそこなう者はないほどの力強 びで満たされるために現わされました ( 第 1 ヨ さで、福音を説きました。その福音は人からの ハネ 1:1-4)。いのちの泉は決して尽きること ものではなく、神からのものでした。それは肉 はありません。その供給は決して減ることがあ を通して彼らに知らされたのではないし、彼ら りません。ですから、もしわたしたちの光が弱 が受けた祝福は少しも肉に負うところはありま くなっていき、喜びが活気のない単調な骨折り せんでした。それなのに、神の力以外の何もの 仕事にとって代わられるとすれば、わたしたち も始めることのできなかったことを、自分の努 は命の道からそれてしまっているのだと知るこ 力で完成しようと彼らが考えるとは、なんとい とができるでしょう。 う盲目、なんという心の迷いでしょう。わたし たちはこの教訓を学んでいるでしょうか。 律法の下にいたいと思うこと 大いなる幸いはどこにあるか 主を知ったことのある人であればだれでも、 彼を受けいれると喜びがあることがわかってい ます。新しい回心者は輝くような顔をし、喜び に満ちた証をすることがいつでも期待されます。 それはガラテヤ人たちもずっとそうでした。し かし、今彼らの感謝の表現は口論と争いに代わっ てしまいました。ガラテヤ 5 章 15 節を見てく ださい。人々が、古くからのクリスチャンが若 い回心者たちと同じくらいの熱心さ持っている ことを期待せず、初めの喜びと初めの愛の暖か さが次第に衰えていくことを、当然のことだと しているのは奇妙なことではないでしょうか。 そういうことがあるかもしれませんが、そうで あるべきではないのです。神がその民に反論し ておられるのは、彼らが初めの愛を失ってしまっ たことです ( 黙示録 2:4)。「正しい者の道は、 夜明けの光のようだ。いよいよ輝きを増して真 昼となる」( 歳言 4:18)。これが正しい人の道 だということ、また正しい人とは信仰によって 「律法の下にとどまっていたいと思う人たち よ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の 言うところを聞かないのか」。「人が見て自分で 正しいとする道があり、その終わりはついに死 にいたる道となるものがある」( 箴言 16:25)。 自分以外の人から見れば、自分を死の方に導い ているとわかるような道を愛する者たちがどれ ほどいることでしょう。そうです、自分の目に 道筋の結果がはっきりと開けていると思う多く の人々は、義や日の長さよりも、「いっときの罪 の楽しみ」を故意に選んで、それに固執するで しょう。神の「律法の下に」いるということは、 死につながれるべく運命づけられた罪人として、 その有罪宣告を受けることです。しかし、ガラ テヤ人以外にも何百万という人々がその状態を 愛してきたし、今もなお、それを愛しています。 ああ、彼らがそれは何と言っているか聞こうと さえしたら ! それは雷鳴のとどろきの中で語ら れるのだから、彼らがなぜ聞こうとしないか、 その理由は何もありません。「耳のある者は、聞 くがよい。」 生きる人であることに注意してください。人が 信仰からそれたり、行いを信仰にとって代わら 83 「律法は何と言っているか」 律法はこう言っています。「女奴隷とその子と を追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共 に相続をしてはならない」。それは、世の貧弱な もろもろのものを楽しみとするすべての者に死 を告げます。「律法の書に書いてあるいっさいの ことを守らず、これを行わない者は、皆のろわ れる」。悪い奴隷はどんな場所に追い出されるの ですか。―「外のやみに追い出され、そこで泣 き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」( マ タイ 8:12)。 「見よ、炉のように燃える日が来 る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、 わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き 尽くして、根も枝も残さない」。ですから、「あ なたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわ ちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、 ハムのふたりの子のうち、ひとりは肉によって 生れ、もうひとりは約束によって生れた霊の子 です。「信仰によって、サラもまた、年老いてい たが、種を宿す力が与えられた。約束をなさっ たかたは真実であると、信じていたからである」 ( ヘブル 11:11)。ハガルはエジプト人で奴隷で した。奴隷女の子は、たとえその父親が自由人 であっても、常に奴隷です。だからハガルは奴 隷となる子供を産むことしかできませんでした。 しかしイシマエルが生れるずっと前に、主は、 僕エリエゼル ( アブラハムの家で生れた者でし たが奴隷ではありませんでした ) を後継ぎにし ようとしたアブラハムに、約束したのは自由の 子 ― 自由の女の子にほかならないことを、わか りやすくお告げになりました。神の御国に奴隷 はいません。 彼に命じた定めとおきてとを覚えよ」( マラキ 4: 1、4)。律法の下にいる者は皆、彼らがユダヤ人 「この女たちは二つの契約をさす」 と呼ばれようと異邦人だろうと、クリスチャン だろうとモハメッド教徒だろうと、サタンにつ 二つの契約とは何でしょうか。― 二人の女、 ながれているのです。「すべて罪を犯す者は罪の サラとハガルです。ハガルは「奴隷となってい 奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にい る」シナイ山だと書いてあります。ということ る者ではない。しかし、子はいつまでもいる」( ヨ は、ハガルは奴隷以外の子を産むことはできな ハネ 8:34-35)。ですから、 「子として養子縁組み」 かったということで、律法も同様です。神がシ して下さる神に感謝しましょう。 ナイ山で語られた律法さえ、自由な人を生れさ せることはできません。それは彼らを奴隷のく びきにつなぐことしかできません。「律法は怒り 「ふたりの子」 それらの偽教師たちは、キリストを全き心で 信じることからそれて、自分でできるわざに依 り頼むことによってアブラハムの子となり、し たがって約束の子となるということを兄弟たち に説きつけようとしました。彼らはアブラハム にはふたりの子がいたことを忘れていました。 わたし自身、アブラハムの子はひとりだけでは ないことを知らなかったユダヤ人と話したこと があります。また、確実に約束の相続にあずか る者となるのに十分だとしている、人種的には アブラハムの子孫だと思われている多くのクリ スチャンがいます。「肉の子がそのまま神の子な のではなく、むしろ約束の子が子孫として認め られるのである」( ローマ 9:8)。さて、アブラ を招く」( ローマ 4:15) からであり、 「律法によっ ては、罪の自覚が生じるのみである」( ローマ 3: 20) からです。これはシナイ山からの契約でも そうです。というのは、それはただ律法を守る 者たちに対する約束をしているだけだからです。 それゆえに律法は、彼らが奴隷状態の中で持っ ている力以上には、それ自体では人を自由にす る力を持ってはいませんでした。いいえ、むしろ、 そのすることは、自分の行いで自分を義とする 約束でしかなかったので、それは「奴隷を生じた」 のです。しかも人自身には「その力がない」の です。その状況を考えてみてください。人々は 罪の奴隷でした。彼らにはその鎖を断ちきる力 はありませんでした。しかし律法について語る ことは彼らの状態に何の変化ももたらしません。 84 ガラテヤ 4 章 それは何も新しい側面を生じません。もし人が そのような契約をするようにさせたことを証明 罪を犯して獄にいるなら、あなたが彼に法律を するのではなく、その逆です。神は彼らを奴隷 読んで聞かせても彼を解放することはできませ にするためではなく、奴隷から解放するために ん。彼をそこに入れたのは法律です。だから彼 導いてこられました。ところがシナイ山での契 にそれを読んで聞かせるのは、彼の捕らわれの 約は民が自分から奴隷となる以外の何ものでも 状態をいっそう痛ましいものにするだけです。 なかったと、使徒ははっきりと告げています。 「では神ご自身が彼らを奴隷となるようにし さらに、もしもエジプトから出てきたイスラ たのではなかったのか」。決してそうではありま エルの子らが、「われらの父アブラハムが無割礼 せん。神はシナイ山で、彼らにその契約をさせ の時に持っていた信仰の足跡を踏」んで歩んで ようとは考えておられませんでした。それより さえいたなら ( ローマ 4:12)、律法はシナイ山 四百三十年前に、神はアブラハムと契約をなさ から語られはしなかったでしょう。「なぜなら、 いました。それは目的に十分かなったものでし 世界を相続させるとの約束が、アブラハムとそ た。その契約はキリストにあって確実にされま の子孫とに対してなされたのは、律法によるの した。だから契約は天からのものでした。ヨハ ではなく、信仰の義によるからである」( ロー ネ 8 章 23 節を見てください。それは神の無償 マ 4:13)。信仰は義とします。義人にするので の賜物としての信仰による義を約束しました。 す。もし人々がアブラハムの信仰を持っていた またそれはあらゆる国民を含んでいました。イ なら、彼が持っておられた義を持ったことでしょ スラエルをエジプトの奴隷から解放することに う。そして、そうであったなら、「違反を促すた おいてなされた神の奇跡のすべては、罪の奴隷 め」律法が入ってくるようなことはなかったで から、彼らを、またわたしたちを解放する神の しょう。律法は彼らの心の中にあっただろうし、 力を実際に示すものでした。そうです、エジプ 彼らの状態に気づくために雷の音で覚醒される トからの解放はそれ自体神の力の実演であるば 必要はなかったはずです。神は、シナイ山で宣 かりでなく、シナイ山での契約が人を奴隷にし 言された律法によって人が義を得ることができ ていたその状態、罪の奴隷状態から彼らを導き るとは、決して期待されなかったし、今も期待 出そうとする神の希望の表われでもあるのです。 しておられません。そしてシナイ山に関連した シナイ山からの契約であるハガルはエジプト人 すべてのことは皆、それを示しています。しか だったからです。だから、人々がシナイ山に来 しながら、律法は真理であり、守られるべきです。 た時、神はただ、彼らに神がすでに何をなさっ 神は、「彼らが主の定めを守り、そのおきてを行 たかを述べられただけで、それから、「それで、 うため」に、人々をエジプトから解放されまし もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き た ( 詩篇 105:45)。わたしたちは戒めを守るこ 従い、わたしの契約を守るならば、あなたがた とによって命を得るのではありませんが、神は はすべての民にまさって、わたしの宝となるで わたしたちがそれを守ることができるようにな あろう。全地はわたしの所有だからである」と るために命をお与えになるのです。 言われました ( 出エジプト 19:5)。神がここで 言っておられるのはどちらの契約でしょうか。 並んでいる二つの契約 ― 明らかにすでに存在していた契約の方です。 すなわちアブラハムとの神の契約です。もし、 彼らが全地の所有者であられる神の契約、つま り神の約束を守りさえすれば、彼らには神が約 束されたことをすべてすることができたのです。 彼らが自己満足のうちに、あわてて自分で全責 任を負ってしまったという事実は、神が彼らに 二人の女、ハガルとサラのことを語っていた 時に、 「これらは二つの契約である」と使徒が言っ た事に注意しましょう。ということは、二つの 契約がアブラハムの時代に欠くべからざるもの として特に存在していたのでした。今日はなお 85 のことそうです。聖書は当時と同様今も、「女奴 りも鋭く、わたしたちには、恐ろしい結果を招 隷とその子とを追い出せ」と言っています。そ かずにそれを取り扱うことができないからです。 れで、ふたつの契約は時代に関わることではな しかし第二の場合では、わたしたちは「仲保者 く、状態に関わることだというのがわかります。 の御手にある」律法を持つのです。一方の場合 時代は過ぎたのだから、自分は古い契約の下に では、わたしたちは何をすることができるかで いることはありえないと、だれもうぬぼれない あり、他方の場合では、神の御霊には何をする ようにしましょう。その時代が過ぎ去るのは、 ことができるか、です。ガラテヤ人への手紙の 次のような意味あいにおいてです。「過ぎ去った 中には、律法を守るべきかどうかというような 時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまか 疑問はまったくないということを頭にとどめて せて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気まま おきましょう。唯一の質問は、どのようにして な偶像礼拝などにふけってきた」( 第 1 ペテロ 4: それがなされるか、です。わたしたち自身の行 3)。 いによるべきか、そうであるなら報いは恵みで はなく義理でしょうか。それともわたしたちの うちに神の喜ばれることをしようという思いを ふたつの違い その違いは、ちょうど自由の女と奴隷の女と 起し、それを行うために、神が働かれることな のでしょうか。 の違いです。ハガルの子供たちは、彼女が何人 の子供たちを持とうとも奴隷です。一方サラの シナイ山とシオンの山 子供たちは当然自由です。だからシナイ山から の契約は、それに固執する者すべてを、「律法の 「ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のこ 下に」いる奴隷として捕えておきます。一方、 とで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それ 上よりの契約は自由、律法に従うことからの自 は子たちと共に、奴隷となっているからである。 由ではなく、不従順からの自由を与えます。そ しかし、上なるエルサレムは、自由の女であっ の自由は律法から離れて見出されるのではなく、 て、わたしたちの母をさす。」二つの契約があっ 律法の中に見出されます。キリストはのろいか たので、それらに関係する二つの都があります。 らあがなってくださいました。そののろいとは 今あるエルサレムは古い契約に― シナイ山に― 律法に違反することです。祝福がわたしたちに 関係します。それは決して自由にはならないで 臨むようにと、キリストは、わたしたちをその しょう。しかし、神の都、「天から下って来る」 のろいからあがない出してくださったのです。 新しい都エルサレムがそれに代わるでしょう ( 黙 その祝福とは律法への服従です。「おのが道を全 示録 3:21、21:1-5)。それはアブラハムが待 くして、主のおきてに歩む者はさいわいです」( 詩 ち望んだ都、「ゆるがぬ土台の上に建てられた 篇 119:1)。この祝福は自由です。「わたしはあ 都」であり、「その都をもくろみ、また建てたの なたのさとしを求めたので、自由に歩むことが は、 神 で あ る 」( ヘ ブ ル 11:10、 黙 示 録 21: できます」( 詩篇 119:45)。 14)。大いなる望み ― 彼らの望みのすべて ― 二つの契約の違いを次のように簡潔に述べる ことができるでしょう。シナイ山からの契約に おいては、わたしたちは自分だけで律法を行わ なければなりません。一方上よりの契約におい ては、わたしたちはキリストにある律法を持ち ます。第一の場合では、わたしたちにとってそ れは死となります。なぜなら律法は両刃の剣よ を、今あるエルサレムに持つ多くの者たちがい ます。そのような人たちは、「古い契約を朗読す る場合、…おおいが取り去られないで残ってい る」からです ( 第 2 コリント 3:14)。彼らは現 に救いの望みをシナイ山と古い契約にかけてい ますが、そこには見出されないのです。「あなた がたが近づいているのは、手で触れることがで き、火が燃え、黒雲が暗やみやあらしにつつまれ、 86 ガラテヤ 4 章 また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、 から、雷鳴にもかかわらず、わたしたちは、恵 耳にしたくないと願ったような言葉が響いてき みの御座に座しておられるすべてのもののさば た山ではない。そこでは、彼らは『けものであっ き主である神から、恵みを与えられることを確 ても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ』 信して、大胆に近づくのです。それのみならず、 という命令の言葉に、耐えることができなかっ わたしたちは時機を得た助けを受ける恵み ― 罪 たのである。その光景が恐ろしかったのでモー の誘惑を受けるときに助けていただく恵み ― も セでさえも、『わたしは恐ろしさのあまり、おの またそこに見出します。御座の中心から、ほふ のいている』と言ったほどである。しかしあな られた小羊 ( 黙示録 5:6) から、命の水の川が たがたが近づいているのは、シオンの山、生け 流れ出て来て、キリストの心から、わたしたち る神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の に「いのちの御霊の法則」をもたらすからです。 祝会、天に登録されている長子たちの教会、万 わたしたちはそれを飲みます、それに身を浸し 民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新し ます、すると罪から清められることを見出すの い契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血 です。 よりも力強く語るそそがれた血である」( へブル 12:18-24)。 祝福を求めて現在のエルサレムを望み見る者 はだれでも、古い契約、シナイ山、奴隷のくび 「では、なぜ、主は人々を、ただ死だけしか見 出せないシナイ山ではなく、いのちの御霊の法 則を見出せるシオンの山に直接に連れて行かれ なかったのか」。 きを待ち望んでいるのです。新しいエルサレム に顔を向けて礼拝する者、そこからの祝福だけ を期待する者はだれでも、新しい契約、シオン の山、自由を待ち望んでいるのです。「上なるエ ルサレムは自由」だからです。それは何からの 自由なのでしょうか。― 罪からの自由です。そ して、それはわたしたちの母なので、わたした ちを新しく生れさせてくれます。だから、わた したちもまた罪から自由になるのです。律法か らの自由ですか。その通りです、たしかに律法は、 キリスト・イエスにある者たちを何もとがめだ てしないのですから。 それは、ごく当然の質問です。そして、答え やすい質問です。それは彼らの不信仰のせいで した。神がイスラエルをエジプトから導き出さ れた時、できるだけ直接彼らをシオンの山に連 れて行くのが、神の目的でした。紅海を渡りお わった時、彼らは霊感を受けて歌を歌いました。 その一部はこうです、「あなたは、あがなわれた 民を恵みをもって導き、み力をもって、あなた の聖なるすまいに伴われた」。「あなたは彼らを 導いて、あなたの嗣業の山に植えられる。主よ、 これこそあなたのすまいとして、みずから造ら れた所、主よ、み手によって建てられた聖所」( 出 しかし、今はもう神の律法 ― そのような恐ろ エジプト 15:13、17)。もしも彼らが歌い続け しい尊厳さの中でシナイ山から神ご自身が宣言 たなら、すぐにもシオンに来たはずです。主に された律法 ― を足の下に踏みつけてよい、など あがなわれた者たちは「歌うたいつつ、シオン と言う虚しい言葉で欺かれないようにしましょ に来」、そしてその頭にとこしえの喜びをいただ う。シオンの山 ― イエス、新しい契約の仲保 くからです ( イザヤ 35:10、51:11)。紅海が 者、注がれた血 ― に行き、わたしたちは罪から 分けられたことはその証拠でした。10 節を見て ― 律法を犯すことから ― 自由になります。シ ください。しかし彼らはすぐに主を忘れ、不信 オンにある神の御座の土台は神の律法です。そ 仰のつぶやきをしました。それだから、「律法は の御座から、シナイ山と同じように「いなずま …違反を促すため、あとから加えられた」のです。 と、もろもろの声と、雷鳴とが」発しています ( 黙 彼らがシオンの山ではなく、シナイ山に来たの 示緑 4:5、11:19)。全く同じ律法がそこにあ は、彼ら自身の過ち 、つまり罪深い不信仰の結 るからです。しかしそれは「恵みの御座」です 果でした。 87 それにもかかわらず、神はご自分の忠実さを があなたから追い出されるのをごらんになり、 証ししないままではおられませんでした。シナ あなたは「滅びのなわめから解放されて、神の イ山では、わたしたちがシオンの山に行く時に 子たちの栄光の自由に入る」でしょう ( ローマ 8: 行く仲保者イエス、その同じイエスの御手の中 21)。あなたを大いに恐れさせたその命令はまさ に律法がありました。そしてシナイのホレブの しく、悪霊に、離れ去ってもうあなたの中に入っ 岩から、生きた流れ、キリストの心から流れ出 てこないようにと命じる声なのです。それはあ る命の水が、あふれ出ました ( 出エジプト 17:6、 なたに罪からの勝利を告げます。信仰によって 第 1 コリント 10:4)。そこには、彼らにとって キリストを受けとりなさい。そうすればあなた 単なる観念ではなく、シオンの山の現実があり は神の子となる力を持ち、動かされることのな ました。そこで主に心を向けた魂は皆、モーセ い神の国を受け継ぎ、そこの人々と共に永遠に のようにおおいの取り除かれた栄光を見たこと 住むのです。 でしょう。そしてそれによって変えられ、罪を とがめられるかわりに、義の奉仕を見出したこ 「それだから堅く立ちなさい」 とでしょう。「彼の恵みは永遠にある」。律法が 語られたときの雷鳴といなびかりを発する怒り の雲の上にさえも、義の太陽の栄光の御顔が輝 き、約束の虹が作られていました。 わたしたちはどこに立つのでしょうか。「自由 を得させるためにキリストはわたしたちを解放 して下さったのである」。だから、その自由の中 に立つのです。ではそれはどんな自由でしょう 「子はいつまでもいる」 か。それはキリストご自身の自由です。彼の喜 びは主の律法にありました。それは彼の心に書 「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子 かれていたからです ( 詩篇 40:8)。「キリスト・ は、自由の女の子と共に相続をしてはならない」。 イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死と 「奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、 の法則からあなたを解放したからである」( ロー 子はいつまでもいる」( ヨハネ 8:35)。ここに マ 8:2)。わたしたちはただ信仰によって立ち すべての魂のためのなぐさめがあります。あな ます。 たは罪人です。あるいは、よくてもせいぜい「ク リスチャンであろうと務めている」にすぎませ ん。そして自分は奴隷であること ― 罪があな たをとらえており、悪習慣のなわで縛られてい ること ― を認めるとき、この言葉に恐れおのの くのです。ああ、あなたは主が語られるときに、 恐れないことを学ぶべきです。たとえ雷鳴を伴っ たとしても、主は平和を語られるからです。そ の声がおごそかであればあるほど、彼がお与え になる平和はさらに大きいのです。勇気を出し なさい。奴隷の女の子は、肉とそのわざです。 「肉 と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ち るものは朽ちないものを継ぐことがない」( 第 1 コリント 15:50)。しかし、神は、「女奴隷とそ の子とを追い出せ」と言われます。そして、も しあなたが、神の御旨が天になるごとくあなた の内でなるように望むなら、神は肉とそのわざ この自由の中には奴隷のくびきの形跡はあり ません。それは完全な自由です。それは、行動 の自由と同様に、魂の自由、思考の自由です。 わたしたちが律法を守る自由を与えられるだけ ではなく、律法を行う喜びを見出す心を与えら れるのです。刑罰をのがれるのに方法が他にな いのがわかって、わたしたちは律法に従うので はありません。それでは奴隷である苦しみを味 わうことになるでしょう。そうではありません。 神の契約がわたしたちを解放するのは、そのよ うな奴隷のくびきからです。神の約束を受けい れると、神は御霊の思いをわたしたちの中に入 れて下さいます。それでわたしたちは神のみ言 葉のすべての教えに服従することに最高の喜び を見出すのです。魂は山頂の上空高く翔んでい る小鳥のように自由です。それが、神の世界の 88 ガラテヤ 4 章 「広さ、長さ、深さ、高さ」の満ち満ちた広がり を持つ神の子らの栄光ある自由なのです。それ は見張られる必要が無く、どこにあっても信頼 されることができる人々の自由です。なぜなら、 彼らの歩みはどれも、神ご自身の聖なる律法を 行うものだからです。そのような無限の自由が あなたのものであるのに、なぜ奴隷のくびきに 甘んじるのですか。獄屋の扉は開いています。 神の自由の中に歩き出しなさい。 恥に満ちたわが過ちと喪失から脱し イエスよ、我は行かん、 イエスよ、我は行かん 汝が十字架の輝かしき益を こうむるため イエスよ、我は汝のもとに行かん 地上の悲しみから、 汝が慰めのうちへ 人生の嵐から、汝が静穏へ 苦悩から歓喜に満ちた聖なる歌へ イエスよ、我は汝のもとに行かん 不安とごうまんな誇りを捨て イエスよ、我は行かん、 イエスよ、我は行かん 汝が祝福された御旨に つらなるために イエスよ、我は汝のもとに行かん 自我を捨て汝が愛のうちに住むため 絶望から上なる喜びへと 鳩のような翼に乗って永久に イエスよ、我は汝のもとに行かん 89 ガラテヤ5章 肉にまさる霊の力 自由を得させるために、キリストはわたし たちを解放して下さったのである。だから、 堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれ てはならない。 ろう。 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。 そうすれば、決して肉の欲を満たすことはな い。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、 また御霊の欲するところは肉に反するからで ある。こうして、二つのものは互に相さからい、 その結果、あなたがたは自分でしようと思う ことを、することができないようになる。も しあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の 下にはいない。肉の働きは明白である。すな わち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、 敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、 分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのた ぐいである。わたしは以前も言ったように、 今も前もって言っておく。このようなことを 行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、 御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、 善意、忠実、柔和、自制であって、これらを 否定する律法はない。キリスト・イエスに属 する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十 字架につけてしまったのである。もしわたし たちが御霊によって生きるのなら、また御霊 によって進もうではないか。互にいどみ合い、 互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。 見よ、このパウロがあなたがたに言う。も し割礼を受けるなら、キリストはあなたがた に用のないものになろう。割礼を受けようと するすべての人たちに、もう一度言っておく。 そういう人たちは、律法の全部を行う義務が ある。律法によって義とされようとするあな たがたは、キリストから離れてしまっている。 恵みから落ちている。わたしたちは、御霊の 助けにより、信仰によって義とされる望みを 強くいだいている。キリスト・イエスにあっ ては、割礼があってもなくても、問題ではない。 尊いのは、愛によって働く信仰だけである。 あなたがたはよく走り続けてきたのに、だ れが邪魔をして、真理にそむかせたのか。そ のような勧誘は、あなたがたを召されたかた から出たものではない。少しのパン種でも、 粉のかたまり全体をふくらませる。あなたが たはいささかもわたしと違った思いをいだく ことはないと、主にあって信頼している。し かし、あなたがたを動揺させている者は、そ れがだれであろうと、さばきを受けるであろ う。兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を 宣べ伝えていたら、どうして、いまなお迫害 されるはずがあろうか。そうしていたら、十 字架のつまずきは、なくなっているであろう。 あなたがたの煽動者どもは、自ら去勢してし まうがよかろう。 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、 実に、自由を得るためである。ただ、その自 由を、肉の働く機会としないで、愛をもって 互に仕えなさい。 律法の全体は、「自分を愛 するように、あなたの隣り人を愛せよ」とい うこの一句に尽きるからである。気をつける がよい。もし互にかみ合い、食い合っている なら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだ ( ガラテヤ人への手紙第5章 ) ガラテヤ書 4 章と 5 章との関連は、他の二つ の間のものよりも緊密です。とても緊密なので、 いったいどうやって章を分けるという考えを思 いついたのか理解しがたいほどです。人はおそ らく 4 章を 35 節で読み終わることはできず、 わたしたちがしたように、5 章の 1 節まで読ま ずにはいられないでしょう。しかしわたしたち はその聖句から学べることを全部学びはしませ んでした。そこでさらにそのことを考えること にしましょう。 90 ガラテヤ 5 章 ( 箴言 5:22)。罪とはサタンがわたしたち を縛るなわです。 キリストがお与えになる自由 2.わたしたちは病気の霊をもっておリ、自 キリストが肉において現れたとき、その働き ら身を伸ばすことが全くできません。ある は「捕われ人に放免を告げ、縛られている者に いはまた、わたしたちを縛っている鎖から 解放を告げ」ることでした。彼がなした数々の 身をほどくことができません。キリストが 奇跡は、この働きについての実際的教示であっ わたしたちのために死んで下さったのは、 て、そのうち最もきわだったものの一つについ わたしたちが「弱かった」時でした ( ロー て、わたしたちの研究をこのあたりでじっくり マ 5:6)。さてこの「弱い」という言葉は、 と考えてみるのがよいでしょう。「安息日に、あ イエスがおいやしになった女の状態「病 る会堂で教えておられると、そこに十八年間も 気」と訳されているのとまったく同じ言 病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを 葉から翻訳されています。彼女は「弱かっ 伸ばすことの全くできない女がいた。イエスは た」。弱いということは、力が全然ないと この女を見て、呼びよせ、『女よ、あなたの病気 いう意味です。それがわたしたちの状態で はなおった』と言って、手をその上に置かれた。 す。 すると立ちどころに、そのからだがまっすぐに なり、そして神をほめたたえはじめた」( ルカ 13:10-13)。 イエスはわたしたちのために 何をして下さるのか それから偽善的な会堂司が、イエスがこの奇 跡を安息日に行ったと不平を言った時に、イエ スはそれに答えて、どのように牛やろばを解い て水を飲ませに引き出してやるのか、と言われ ました。そしてまた、「それなら、十八年間もサ タンに縛られていた、アブラハムの娘であるこ の女を、安息日であってもその束縛から解いて やるべきではなかったか」と言われました。 では、何をイエスはわたしたちのためにして 下さるのでしょうか。彼は弱さを取り去り、代 わりにご自分の強さをわたしたちに与えてくだ さいます。「この大祭司は、わたしたちの弱さを 思いやることのできないかたではない」( ヘブル 4:15)。「彼は、わたしたちのわずらいを身に受 け、わたしたちの病を負うた」( マタイ 8:17)。 この場合二つの目立った点が、特に注目する 彼は、わたしたちが全く彼のようになるために、 に値します。その女はサタンに縛られており、 わたしたちのようになられました。彼は「律法 病気の霊にとりつかれていました。また力があ の下に生れ」ましたが、「それは律法の下にある りませんでした。 者をあがない出すため」でした。彼は「わたし たちのためにのろいとなって、わたしたちを律 ところで、これはイエスに出会う前のわたし 法ののろいからあがない出して下さった」。彼は たちの状態をいかに正確に描写しているか、目 罪を知らなかったのに、わたしたちのために罪 をとめてみましょう。 とされました。それは、 「わたしたちが、彼にあっ 1.「悪魔に捕えられてその欲するままになっ て」( 第 2 テモテ 2:26)、サタンに縛ら て神の義となるためである」( 第 2 コリント 5: 21)。 れています。「すべて罪を犯す者は罪の奴 隷である」( ヨハネ 8:34)、そして「罪を なぜ彼はそれをなさるか 犯す者は、悪魔から出た者である」( 第 1 ヨハネ 3:8)。「悪しき者は自分のとがに 捕えられ、自分の罪のなわにつながれる」 なぜイエスはその女を病気から解放されたの でしょうか 。 彼女が自由になって歩けるように 91 なるためにです。明らかに、彼女が自分の自由 その知らせを遠く広く響かせましょう。キリス 意志で、以前余儀なくさせられていたことをし トはすべての捕われ人を放免したと、すべての 続けるためではありません。それではなぜイエ 人に聞かせましょう。その知らせは幾千もの人々 スはわたしたちを罪から自由にして下さるので を喜ばせることでしょう。 しょうか。わたしたちが罪から自由になって生 きることができるためにです。わたしたちの肉 の弱さのせいで、律法の義を行うことができな いので、肉において来られ、あらゆる肉に勝利 されたキリストは、内なる人にあって、彼の霊 による力でわたしたちを強めて下さいます。律 法の義が、肉によってではなく御霊によって歩 くわたしたちにあって成就されるようにするた めにそうして下さいます。彼がそれをどのよう になさるのかは、言うことができません。彼だ けがその力を持っておられるので、彼だけがそ れがどのようになされるのかご存じです。しか し、わたしたちはその実体を知ることはできる でしょう。 キリストは失われた者を回復するためにおい でになりました。彼は、わたしたちをのろいか らあがない出して下さるし、またあがなって下 さいました。だから、彼がわたしたちを自由に して下さったその自由は、のろいが生じる以前 にあった自由です。人は王として造られました。 王とされたのは最初に創造された者だけではな く、すべての人です。「神が人を創造された時、 神にかたどって造り、彼らを男と女とに創造さ れた。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、 その名をアダムと名づけられた」。アダムとは、 すなわち、人です ( 創世記 5:1-2)。「神はまた 言われた、『われわれのかたちに、われわれにか たどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、 家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這う 今の自由 この女がかがんだままで、まだ体を伸ばすこ とができないでいた時に、イエスが彼女に言わ れた言葉に特別の注意を払いましょう。「あなた の病気はなおった」。「あなたはなおっている」、 現在時制です。それこそまさに、キリストがわ たしたちに向かって言っておられることです。 すべての捕われ人に向かって、彼は解放を告げ ものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人 を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、 男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言 われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従 わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くす べての生き物とを治めよ』。」その統治権は、す べての人、すべての男と女とに与えられたこと を、わたしたちは知っています。 てこられました。その女は「からだを伸ばすこ この統治権は全人類のものでした。神が人を とのまったくできない」状態でした。それなの 造られた時、彼が「『万物をその足の下に服従さ にキリストの言葉で、彼女は立ちどころに、そ せて下さった』という以上、服従しないものは、 のからだがまっすぐになりました。彼女はそう 何ひとつ残されていないはずである」( ヘブル 2: することができませんでした。それなのに彼女 8)。その統治権はこの惑星に限られたものだけ はしました。人にとって不可能なことが神にとっ ではありませんでした。神が人に栄光とほまれ ては可能です。「主はすベて倒れんとする者をさ とを冠としてお与えになった時、その御手のわ さえ、すべてかがむ者を立たせられます」( 詩篇 ざすべての上に人を置かれたからです。( ヘブル 145:14)。信仰がその事実を作るのではありま 2:7)。またわたしたちは、「主よ、あなたは初 せん。それはその事実をとらえるだけです。サ めに、地の基をおすえになった。もろもろの天 タンが押しつける罪の重圧でかがめられている も、み手のわざである」と書いてあるのを読み 人で、キリストが立たせてくださることのない ます ( ヘブル 1:10)。これはのろいが生じる以 者はひとりもいません。自由はその人のもので 前、人がどれほど自由であったかを示すもので す。ただその自由を役立たせればよいだけです。 す。なぜなら、支配者には完全な自由があるこ 92 ガラテヤ 5 章 とは自明のことだからです。少なくとも彼の支 ののろいからあがない出して下さいました。も 配が及ぶ限りはそうです、さもなければ彼は支 しわたしたちが彼と共に十字架につけられるな 配者ではありません。 ら、また彼と共によみがえり、彼と共に天上に 今、すべてのものが人に服しているのをわた したちが見ていないことは確かです。「ただ、 『し ばらくの間、御使たちよりも低い者とされた』 イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれ とを冠として与えられたのを見る。それは、彼 が神の恵みによって、すべての人のために死を 味わわれるためであった」( ヘブル 2:9)。こう して、すべての人を統治権の喪失というのろい からあがなって下さったのです。「栄光とほまれ とを冠として与えられた」。冠は王であることを さしていて、キリストの冠は人が神のみ手のわ ざを治める者とされた時に持っていたものです。 ですからキリスト ( 人としてのキリスト、よく 聞いて下さい、肉においてのキリストのことで す ) は、復活後天に昇ろうとされていたまさに その時、 「わたしは、天においても地においても、 いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あ おける座につくようにされ、すべてのものを足 の下におくのです。もしわたしたちがこのこと をわかっていないなら、それはわたしたちが聖 霊に、それを啓示させていないからにすぎませ ん。「神に召されていだいている望みがどんなも のであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいか に栄光に富んだものであるか」を知ることがで きるように、わたしたちの心の目は聖霊によっ て明るくされる必要があります。キリストと共 に死に、共によみがえる人々に、「あなたがたの 死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情 欲に従わせることを」しないようにと勧められ ています ( ローマ 6:12)。これは、わたしたち が主人であることを示しています。わたしたち には罪に対する権威があります。それは、罪は わたしたちを支配することはないということで す。 なたがたは行」きなさいと言われました ( マタ わたしたちはキリストの血によってあがなわ イ 28:18-19)。これは同じ力が彼にあってわた れ、罪のゆるしを得ました ( エペソ 1:7)。そし したちに与えられるということを示しています。 て彼は、「その血によってわたしたちを罪から解 そしてこのことは、信じるわたしたちにとって 放」してくださった時、「わたしたちを、その父 の神の絶大な力をわたしたちが知るようにとの、 のために、御国の民とし、祭司として下さった」 次のような霊感を受けた祈りによって、保障さ のです ( 黙示録 1:5-6)。栄光ある支配!栄光 れています。 「神はその力をキリストのうちに働 ある自由!のろいの力からの自由、たとえそれ かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上 に取り囲まれていたとしても自由なのです。「こ においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべて の悪の世」―「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」 の支配、権威、権力、権勢の上におき、また、 からの自由!世全体 ( 天と地の権力 ) からの自由。 この世ばかりでなくきたるべき世においても唱 だから「空中の権を持つ君」も「闇の世の主権 えられる、あらゆる名の上におかれたのである。 者」も、わたしたちを支配することはできませ そして、万物をキリストの足の下に従わせ…」。 ん!これはキリストが、「サタンよ立ち去れ」と さらに続けてこの祈りは、「キリスト・イエス 言われたとき持っておられた自由です。そのと にあって、共によみがえらせ、共に天上で座に き悪魔はただちに彼から離れました。それは「敵 つかせて下さった」と ( エペソ 1:18-22、2: のあらゆる力に打ち勝つ権威」です ( ルカ 10: 1-6) と言い、神は、わたしたちがキリストの内 19)。それは、天と地にある何ものも、わたした に生きるようにして下さったという声明をして ちの意志に反して何事かをさせるためにわたし います。 たちを強制はできないという自由です。神はそ キリストは、人として、わたしたちのために 死を味わわれ、十字架によってわたしたちをそ れを試みようとはなさいません。わたしたちは その自由を彼からいただいているからです。だ から他のだれもそうすることはできません。そ 93 用のあるなし れは自然を越える力です。だからそれらは、わ たしたちを支配するのでなく、わたしたちに仕 えます。わたしたちはあらゆるものの中に、キ リストとその十字架を認めるようになることで しょう。ですから、のろいはわたしたちに対し 無力になり、わたしたちの心と体は状況のどん な変化にも屈することはなくなるでしょう。イ エスの命がわたしたちの減ぶべき肉に現れるの で、健康はすみやかに湧き出ることでしょう。 そのような栄光ある自由を説明できる舌も筆も ありません。聖霊がそれをわからせて下さる時、 信じなさい。そしてその中に堅く立ちなさい。 そうです、堅く立ちなさい! 「堅く立ちなさい」 「もろもろの天は主のみことばによって造ら れ、天の万軍は主の口の息によって造られた。 主が仰せられると、そのようになり、命じられ ると、堅く立ったからである」( 詩篇 33:6、9)。 天の万軍をお造りになったのと同じみことばが、 わたしたちに向かって語られます、「堅く立ちな さい!」と。それは、それまでと同じ無力な状 態にわたしたちをおいたままにしておくような 命令ではなく、命令と共に行動を起すものです。 手足のきかない人がいやされた場合を思い起こ し な さ い ( ヨ ハ ネ 5:5-9、 使 徒 3:2-8、14: 8-10)。その命令は命じたことをなしました。天 はおのずと出現したのではなく、主のみことば によって存在させられたのです。だからそれら をあなたの教師としなさい。「目を高くあげて、 だれが、これらのものを創造したかを見よ。主 は数を調べて万軍をひきいだし、おのおのその 名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、ま たその力の強きがゆえに、一つも欠けることは ない」( イザヤ 40:26)。主は「弱った者には力 を与え、勢いのない者には強さを増し加えられ る」( イザヤ 40:29)。「堅く立ちなさい!」と の言葉を聞きなさい。 「もし割礼を受けるなら、キリストはあなたが たに用のないものになってしまう」。ここには、 単なる割礼の儀式以上のことが含まれているこ とを理解しなければなりません。その証拠は、 割礼について非常に多くのことを言っているこ の手紙が、主によってわたしたちのために保存 されてきて、あらゆる時代に向けての福音の使 命を含んでいるという事実の中にあります。し かし現在は、儀式としての割礼はきわめてなま なましい問題というのではありません。クリス チャンに、肉体に割礼の儀式をほどこすように 求める者はだれもいません。 考えねばならない問題は、どのようにして義、 すなわち罪からの救いと、義の相続を獲得する か、です。事実は、それはただ信仰、つまり心 にキリストを受けいれて、わたしたちの中で彼 の命を生きるように彼にさせることによって獲 得することができるということです。アブラハ ムはイエス・キリストを信じることにより、神 の義を与えられたので、神はその事実のしるし として彼に割礼をさせられました。それはアブ ラハムに対し、神の約束が実現するように肉の 手段を試みた時の失敗を彼に思い起こさせると いう特別の意義を持っていました。それについ ての記録は、わたしたちにとっても同じ目的を もっています。それは、「肉はなんの役にも立た ない」から、それに頼るべきではないというこ とを意味しています。割礼を受けているという 事実だけが、キリストを用のないものにするの ではありません。パウロ自身割礼を受けていた し、便宜上彼はテモテに割礼を受けさせたこと があります ( 使徒 16:1-3)。しかし、パウロは、 彼の割礼にも、またその他の外見上のことにも 何ら価値を置かなかったし ( ピリピ 3:4-7)、救 いに必要だからという理由でテトスに割礼を受 けさせるよう提案された時には、彼はそれをさ せませんでした ( ガラテヤ 2:3-5)。 すでにあった事実のしるしであるにすぎな かったことが、世代を重ねるにつれて、事実を 作り上げるための手段ととられるようになりま 94 ガラテヤ 5 章 した。ですから、割礼は、この手紙の中では、 イエスを喜ぶこと、肉に何の信頼も置かないこ 義を獲得するという見解でなされるあらゆる種 とです ( ピリピ 3:3)。 類の人間のわざを代表するものとしてあります。 ユダヤ主義の教師たちが、救いのための重要な 律法を行う義務 手段として、異邦人から信者になった者たちに 押しつけていた肉における外見の割礼は ( 使徒 「割礼を受けようとするすべての人たちに、も 15 章 1 節を見てください )、聖霊に反するもの う一度言っておく。そういう人たちは、律法を としての肉のわざを表わしています。 全部行う義務がある」。 さて真理は、もしある人がそれによって救わ 「そこだ!それが律法は除かれるべきものだと れることを期待して何事かを行う、つまり自分 いうことを示しているのだ、パウロは割礼を受 自身のわざで救いを得ようとするなら、彼にとっ ける者は律法の全体を行わなくてはならないと てキリストは用のないものになる、ということ 言っているのだから。だからパウロは割礼を受 なのです。もしキリストが完全なあがない主と けないように警告しているのだ」と叫ぶ人がい して受けいれられないなら、彼は全然受けいれ ます。 られてはいないのです。ということは、もしキ リストがあるがままの彼として受けいれられな いなら、彼は拒まれている、ということです。 キリストはキリストである以外の者であること はできません。彼は分けられません。また彼は、 救い主であるという誉れをだれか別の人や物事 と分けあうことはなさいません。それだから、 だれかがそれによって救いを受けようとの考え で割礼を受けたかどうかを知るのは簡単です。 そのような割礼は、すべてを満たすものとして の、また人類の唯一の救い主としてのキリスト を信じる信仰に欠けていることを示すからです。 友よ、そんなにあわてないで下さい。聖句を もう少し詳しく調べてみましょう。もう一度読 んでください。そうすれば悪いのは律法でもな いし、律法を行うことでもなく、避けるべきこ ととは律法を行う義務を持つ者になることだと いうことがわかるでしょう。そこにたいへんな 違いがないでしょうか。食べる物があり、着る 物があるのはよいことですが、それらの必需品 のために負債 ( 義務 ) を負うのはなさけないこと です。だが、もっとなさけないことは、それら のために負債を負ったにもかかわらず、手に入 れることができないということです。 神は、割礼をキリストにある信仰のしるしと してお与えになりました。ユダヤ人はそれを信 仰の代替にすりかえてしまいました。ですから ユダヤ人が割礼を誇ったとき、それは自分自身 の義を誇っていたのです。これは 4 節に示され ています。「律法によって義とされようとするあ なたがたは、キリストから離れてしまっている。 恵みから落ちている」。これは律法の非難ではな く、律法を守ることについての人間の能力をと がめているのです。きわめて聖なるものであり、 その要求が非常に大きいので、人はだれもそれ を完全に守ることはできない、それが律法の栄 光です。キリストにあってのみ、律法の義は、 わたしたちのものとなるのであって、真の割礼 とは霊によって神を礼拝すること、キリスト・ 負債を負う者とは、何か借りがある者のこと です。律法に負債を負う者は、律法が求めること、 すなわち義に借りがあります。ですから、律法 に負債があるものはのろいの下にいます。次の ように書かれているからです。「律法の書に書い てあるいっさいのことを守らず、これを行わな い者は、皆のろわれる」。だからキリストにある 信仰以外の方法で義を得ようとすることは、永 遠の負債をこしらえることです。その人は払え るべきものは何もないのだから、永遠に負債を 負うのです。しかし、律法に対する負債を負う 、つまり律法の全部を行うべき負債者となると いうことは、律法を全部行わなければならない ことを示しています。彼はどうやってそうした らよいのでしょうか。「神がつかわされた者を信 95 じることが、神のわざである」( ヨハネ 6:29)。 言っています。このことについての細かい点を、 その人に自分自身に頼ることをやめさせ、彼の 簡潔にまとめてみましょう。もうすでに学んだ 肉の内におられるキリストを受けいれさせ、告 ことだから、そう長くはかかりません。必要な 白させましょう。そうすれば律法の義はその人 のはわたしたちの頭を刷新することです。 のうちに成就されるでしょう。なぜなら、彼は 1.神の御霊は「約束の聖霊」です。約束さ 肉によらず御霊によって歩くようになるからで れた聖霊ではなく、聖霊を持つ者、すなわ す。 ちわたしたちに神の約束をもたらす聖霊。 2.アブラハムの子としてのわたしたちに神 「信仰によって義とされる望み」 が約束されたことは、相続です。聖霊は、 「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によっ したちに与えられるまで、この相続の保証 て義とされる望みを強くいだいている」。この聖 あるいは証印となります ( エペソ 1:13- 句を一回読むだけで過ぎてしまってはなりませ 14)。 買いとられた財産があがなわれて、わた ん。さもないとあなたはこの句が言ってはいな 3.約束されたこの相続は「義人の住む」新 いことを、まるで言っているかのように考えて しい天と地です ( 第 2 ペテロ 3:13)。 しまうでしょうから。そしてこの句を読む場合 4.聖霊は義をもたらします。なぜなら聖霊 には、あなたが御霊の約束についてすでに知っ はキリストの代理者であり、わたしたちの ていることについて考えてみなさい。 義であるキリストが、わたしたちの心の中 この聖句が、御霊を持つこと、そして義とさ に来て、宿られる方法だからです ( ヨハネ れることをわたしたちは待ち望むのであると、 14:16-18)。 教えていると思ってはなりません。全然そうい 5.ですから聖霊がもたらす望みは義を持つ うことではないのです。御霊が義をもたらすの ことがもたらす望み、すなわち新しくされ です。「霊は義のゆえに生きているのである」 た地、神の国を相続する望みです。 ( ローマ 8:10)。聖霊が来たら、それは罪と義 6.聖霊がわたしたちにもたらす義は、石の について世の人の目を開きます ( ヨハネ 16:8)。 だから、聖霊を受ける者はだれでも、罪に対し 板にではなくわたしたちの心に、聖霊によ て目が開かれて、彼に義が欠けていることを示 り書かれた神の律法の義です ( ローマ 2: され、聖霊だけが義をもたらすことができるの 29、第 2 コリント 3:3)。 だということについても目が開かれます。 7.だから全体を要約するとこういうことで す。もしわたしたちが自分に全く頼らず、 聖霊がもたらす義とは何でしょうか。それは わたしたちのうちには何もよいものがな 律法の義です。このことをわたしたちは知って いこと、従ってわたしたちからは何のよい います。「わたしたちは、律法は霊的なものであ ものも生じないことを認め、だから、自 ることを知っている」( ローマ 7:14)。 分には力があるから律法を行うことがで では、御霊の助 け に よ り、 わ た し た ちが 強 きるとは考えないで、聖霊がわたしたちの くいだいている、「信仰によって義とされる望 うちに満ちるようにさせ、律法に義を成就 み」についてはどうでしょうか。わたしたちは することができるようにさせるなら、わた 御霊の助けによって義を望んでいる、とは言っ したちは自分のうちに宿っている命ある ていないことに注意してください。そうではな 望みを持つようになるでしょう。聖霊の望 く、わたしたちは信仰によって義とされる望み、 み、すなわち信仰による義の望みには、不 つまり義を持たせる望みを強くいだいていると 確かな要素は何もありません。それは確実 96 ガラテヤ 5 章 な保証です。しかしそれ以外に何の望みも かが途中から彼らの邪魔をしました。「だれが邪 ありません。「信仰による神の義」を持た 魔をして、真理にそむかせたのか」と、パウロ ない者には、どんな望みもありません。わ は彼らに問いかけています。神の律法は真理で たしたちの内なるキリストだけが、「栄光 あり ( 詩篇 119:142)、ガラテヤの兄弟たちは の望み」です。 それに従い始めていました。彼らは、最初はう まくいっていたが、後になってその前進を邪魔 信仰による以外力はない 「キリスト・イエスにあっては、割礼があって もなくても、問題ではない。尊いのは、愛によっ て働く信仰だけである」。ここで「問題」と訳さ れている言葉は、ルカ 13:24、使徒 15:10、6: 10 で「~できる」と訳されている言葉と同じで す。ピリピ 4 章 13 節では、 「することができる」 されました。なぜでしょうか。「信仰によらない で、行いによって得られるかのように、追い求 めたからである。彼らは、つまずきの石につま ずいたのである」( ローマ 9:32)。キリストは 道であり、真理であり、命であって、彼の中に はつまずきはありません。彼はわたしたちのた めに義とされました。彼の命が律法なので、律 法の完全は彼の中にあります。 と訳されています。だから、この声明は要する にこうです。割礼はなにもすることができない 「十字架に関するいらだち」 し、また割礼がなくても何もすることはできな い。しかし愛によって働く信仰だけが何でもす 十字架は不名誉の象徴であるし、いつでもそ ることができる。この愛によって働く信仰は、 うでした。十字架につけられることは、最も恥 ただキリスト・イエスの内にだけ見出すことが ずべき死として知られている刑に処せられるこ できます。 とでした。使徒は、もし彼が割礼、つまり行い しかし、行いについて話されているのは何な のでしょうか。他でもない神の律法のことにつ いてです。どんな状況や状態にあろうとも、律 法を行うことはだれにもできません。割礼のな い人には律法を守る力はなく、割礼には人に律 法を守らせる力はありません。ある人は割礼を 誇るかも知れない、また別の人は割礼のないこ とを誇るかもしれない、しかしどちらも同様に むなしいのです。信仰の法則により誇りは締め 出されます ( ローマ 3:27)。キリストを信じる 信仰だけが律法の義を守ることができるので、 わたしたちには自分が何かをしたなどとは言え ないからです。 による義を宣べ伝えたら、十字架についての気 まずさは止んだことだろうと言いました。十字 架についてのいらだちは人間の虚弱さと罪、ま た何もよいことのできない無能力さを告白する ものです。キリストの十字架を取るということ は、すべてのことをキリストに依存することを 意味し、これは人間の誇りを全部失墜させます。 人は自分を独立している者だと欺きたがります。 彼らは自分にできる善というものに何の異議も はさみません。ある人が盗賊の群れ、あるいは 異教徒に向かって「道徳」を説教するかも知れ ません。そして、それはよく受けいれられるか もしれません。ただし自分自身の努力でそれを 得るように勧めるかぎりにおいて。そのような 「わたしは一切をキリストに負っている」 説教は、まったく彼らにうぬぼれを感じさせ、 彼らのうちにすでに義があるかのように思わせ るからです。しかし、十字架を宣教するようにし、 邪魔をした ガラテヤの兄弟たちは、「霊によって始めた」 人の内にはよいものは何もないこと、すべては 賜物として受けなければならないことを知らせ ると、すぐにだれかが気分を害します。 から、出だしはよかったのです。ところが何者 97 であるということを示しています。キリストの 御国においては、偉大な人とは自分の魂を治め る者です。王として、人より低く造られたもの、 自由は奉仕のため、罪のためならず 「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実 に、 自 由 を 得 る た め で あ る。 た だ、 そ の 自 由 を、肉の働く機会としないで、愛をもって互い に仕えなさい」。先の二つの章は奴隷のくびき、 獄に捕らわれることを語っています。信仰がく る前には、わたしたちは罪の下に閉じ込められ ており、律法に対し負債を負う者となっていま す。キリストの信仰がわたしたちを自由にしま すが、自由にされる際に、「行きなさい、もう罪 を犯さないように」と言う忠告がわたしたちに 与えられます。わたしたちは罪から自由にされ ているのであって、罪を犯す自由を与えられた のではありません。どれほど多くの人々が、こ こで間違ってしまったことでしょうか。多くの まじめな人々が、律法の違反が罪であることを 忘れ、キリストにあるわたしたちは律法を顧み ず、無視する自由があると想像しているのです ( 第 1 ヨハネ 3:4)。肉に仕えることは罪を犯す ことです。「なぜなら、肉の思いは神に敵するか らである。すなわち、それは神の律法に従わず、 否、従い得ないのである」( ローマ 8:7)。それで、 使徒がわたしたちの自由を肉の働く機会としな いようにと警告する時、彼は、キリストが与え て下さった自由を誤用して、律法に違反し再び 自分を奴隷状態にさせないようにと警告してい るのです。わたしたちは愛によってお互いに仕 え合わなければなりません。愛は律法の成就だ からです。 自然の力、自分自身の体のうちに、服させるべ きものを見つけるのであって、同胞たる人にで はありません。彼らには仕えるべきなのです。 キリストは天の宮廷におられたときには「神の かたちであられたが」、「しもべのかたち」をと られました。その時、彼の心にあったのと同じ 思いをわたしたちは持たなければなりません ( ピ リピ 2:5-7)。キリストはこの地上においでに なるのに、その性質を変えることはなく、ただ そのかたちを変えただけでした。ですから彼は、 シオンの油そそがれた王として、しもべであら れました。彼は、自分は師であり主であり、神 から来て神に帰ろうとしていることを十分に承 知しておられながら、弟子たちの足を洗われた ましが、この事を通して、イエスはしもべとし てあられたことがいっそうはっきりとわかりま す ( ヨハネ 13:3-13)。そればかりか、すべて のあがなわれた聖徒たちが栄光のうちに現れる 時、キリスト自ら、「帯をしめて僕たちを食卓に つかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう」 ( ルカ 12:37)。最大の自由は、仕えること、す なわち、イエスの名によって仲間に対して尽く された奉仕の中にあります。その偉大な奉仕を する者を、人は偉大と認めず、最も卑しいと呼 ぶかもしれません。しかし彼らこそが、最も偉 大です。わたしたちはこれをキリストから学ぶ のです。彼は王の王、主の主です。なぜなら彼は、 他にはだれもしようとせず、また出来ない奉仕 をなさる、すべてのものの僕だからです。神の 僕は皆、王です。 キリストがわたしたちを自由にして下さった その自由のことを考えているこの章で、何が言 愛は律法を満たす われているかを思い起こしましょう。彼は当初、 統御の自由をわたしたちにお与えになりました。 しかし、神がその統御を人間に与えられたのだ ということ、そして、すべての者はキリストに あって王とされるのだということを思い出しま しょう。これはクリスチャンが統御する権利を 持つ相手の人間というのは、ただ自分自身だけ 愛は律法を守ることにとって代わるものでは なく、それを完成するものです。ここで、第 1 コリント 13 章を読んでみるのがいいでしょう。 「愛は隣り人に害を加えることはない。だから、 愛は律法を完成するものである」( ローマ 13: 10)。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎 98 ガラテヤ 5 章 む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛 の愛、主によって彼と彼の民を表わすものとし さない者は、目に見えない神を愛することはで て用いられた愛、夫と妻の愛でさえ、本当の愛 きない」( 第 1 ヨハネ 4:20)。だから、もし人 というより利己的なことがよくあります。社会 が隣人を愛するなら、その人は神を愛するはず での富や地位を得る目的でなされる結婚は注目 です。「愛は神のものである」、また「神は愛で に価せず問題外ですが、ほとんどの場合結婚す ある」からです。ですから、愛は神のいのちで る者たちは、相手の幸福よりも自分個人の幸福 す。もし、そのいのちがわたしたちの内にあっ の方を多く考えることは、注意すればだれもが て、自由な道筋を与えられるなら、律法は必ず 皆認める事実です。もちろん、物事においてこ わたしたちの内に存在するようになるでしょう。 のような状態は様々な形で存在するし、利己的 神のいのちはすべての被造物のための律法だか でない本物の愛があればあるだけ、本当の幸福 らです。その愛のいのちは、世のためにご自分 があります。真の幸福は、自己のために求める という賜物をお与えになったことの中に現わさ のをやめて、他の人を幸福にしようとする時に れました。「それによって、わたしたちは愛とい だけ見つかるということは、世がなかなか学ぶ うことを知った。それゆえ、わたしたちもまた、 ことのない教訓です。 兄弟のためにいのちを捨てるべきである」( 第 1 ヨハネ 3:16)。 「愛はいつまでも絶えることがない」 愛は利己的でない ここにまた、愛と呼ばれているものの多くが 実は愛ではないことを示すテストがあります。 これは前述のことからわかります。奉仕は他 愛はいつまでの絶えることがない、この声明は 人のために何かをすることで、愛は仕えるとい 絶対的であり、そこに決して例外はなく、環境 う意味です。だから、愛は自分のことは考えな の情状酌量はありません。愛は環境に影響され いということ、愛する人は、どのように人を祝 るものではないのです。わたしたちは人の愛が 福したらよいかということ以外には考えないと 冷えることについてよく聞くが、そういうこと いうことが明らかです。だから次のように書い は決して起きえないことです。愛はいつも暖か てあります。「愛は寛容であり、愛は情深い。ま く、いつもあふれ出ます。愛の泉を凍らせるも た、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇 のは何もありません。愛は絶対に尽きず、変わ らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、 ることがありません。なぜならそれは神のいの いらだたない、恨みをいだかない」( 第 1 コリン ちであるからにほかならないのです。神の愛以 ト 13:4-5)。 外に愛はないから、真の愛が人類の間に現わさ 世のすべての人々が過ちを犯しており、しか も、まさにこの重要な点において間違いを犯し れるための唯一つの可能性は、聖霊によって心 に神の愛があまねく注がれることだけです。 ました。幸福なのはその間違いに気がついた者 たちであり、本当の愛を理解し、実行するよう なぜ愛するか になった者たちです。「愛は自分の利益を求めな い」。それだから、自己愛は、その言葉の正しい 意味においては、愛などでは全然ありません。 それは単に卑しい偽物にすぎません。しかしな がら、世の中で愛と呼ばれているもののほとん どは、お互いに対する本当の愛ではなく、自分 を愛する愛です。地上で知られている最高の形 愛の告白がなされると往々にして、恋人は、 まるでだれかが愛する理由を言えるかのように、 「どうしてあなたはわたしを愛するのか」と尋ね ます。愛はそれ自体が理由です。もし恋人が相 手になぜ愛するか告げることができれば、その 答そのものが彼は本当には愛していないことを 示しているのです。愛する理由として彼があげ 99 ることは何であれ、それらはいつかなくなるか 合によって愛がより効果的に他の人々に現わさ もしれません。そうすれば彼が愛だと思ったも れるように制定されたものだからです。「ひとり のも終わることでしょう。しかし、「愛は絶える で千人を追い、ふたりで万人を敗る」( 申命記 ことがない」から、愛は環境に依存することは 32:30) という言い方に示されているように、 ありえません。ですから、なぜ愛するかという 強さは結合によって二倍になるだけではなく、 問に答えられる返事は、 「だから」です。「愛だ 十倍にも増し加わるという原則による二人の人 から」愛します。愛は愛します。それが愛だか の結合は、愛の働きの価値を倍加します。もし、 らにほかなりません。愛は、愛する者個人の資 それぞれが人類全てに対する無我の愛を持って 質であり、その人には愛があるから、対象の人 いる二人の人が、愛によって結ばれるなら、彼 物いかんを問わずに愛するのです。この真理は らの結合は他の人々に十倍もよく仕えることが わたしたちが、愛の源である神のところに戻る できるようにします。もしだれかこれは高すぎ ときにわかります。神は愛であり、愛は神のい る標準だと考える人がいれば、わたしたちは非 のちです。しかし神の存在の説明をすることは 常に高尚なこと、宇宙で最も高尚なことについ 不可能です。愛についての、人間のもつ最高の て考えているところだということを思い出しま 概念は、わたしたちは愛されたから愛する、ま しょう。地の泥の中を引きずり廻されてきたも たは、愛する対象が愛すべきだから愛する、で のについてではなく、天から来た愛について語っ す。しかし、神は愛らしくない者を愛され、神 ているところなのです。あわれな、かよわい人 を憎む者たちを愛されます。 「わたしたちも以前 間には、確かにその最上のものが必要です。 には、無分別で、不従順な、迷っていた者であっ て、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪 意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互い に憎み合っていた。ところが、わたしたちの救 主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたし たちの行ったわざによってではなく、ただ神の あわれみによって、…わたしたちは救われたの である」( テトス 3:3-5)。「あなたがたが自分 を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあ ろうか」。「それだから、あなたがたの天の父が 完全であられるように、あなたがたも完全な者 となりなさい」( マタイ 5:46、48)。 クリスチャンの愛とは、これまで見てきたよ うな愛以外の愛ではありません。愛は隣人に害 を加えないのだから、戦争や、争いをゆるしま せん。人を殺すことが何か人によいことをする ということを思わせることができる哲学はあり ません。バプテスマのヨハネに、彼が指し示し た神の小羊に従う者としてどうしたらよいです かと、兵卒たちが尋ねた時、彼は答えて、「人を おどかしてはいけない」と言いました ( ルカ 3: 14)。改訂訳聖書の欄外にあるように、質問した のは、服役中の兵卒でした。その欄外のところ にはまた、ヨハネの答の別訳があり、それは「人 を恐れさせてはならない」というものです。こ 害を加えない の命令が守られる戦争は、さぞかし穏やかなも 「愛は隣り人に害を加えることはない」( ロー ン、つまりキリストの本当の従者たちで構成さ マ 13:10)。「隣り人」とは、だれでも近くに住 んでいる人のことを意味します。だから、接す る人々すべてが隣人です。愛する人は、当然す べての人々を愛するはずです。愛は区別するも のだと言って反論し、夫と妻、あるいは家族の だれかれの場合を引合に出す人がいるかもしれ ません。しかし、その反論を受けいれることは できません。正しく理解された家族関係は、結 のとなったことでしょう。もし軍隊がクリスチャ れていたら、彼らは敵と接触すると、打つ代わ りに、彼らに必要なものは何かを探し出し、そ の供給にあたるでしょう。「もしあなたの敵が飢 えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ま せなさい。そうすることによって、あなたは彼 の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのであ る。悪に負けてはいけない。かえって、善をもっ て悪に勝ちなさい」( ローマ 12:20-21)。 100 ガラテヤ 5 章 ながら、だれも自分の正統性あるいは、信仰の 「気をつけるがよい」 固さをうぬぼれることがないようにしましょう。 「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い ば、不和や争いは、信仰から離脱したしるしで 合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされて しまうだろう」。悪い勧めに従って、ガラテヤ人 たちがなんという危険の中に走り込んでいった かわかるではありませんか。信仰の単純さから 離れることで、彼らは自分たちをのろいの下に、 また地獄の火という危険の中に連れ込みました。 というのは、 「舌は火である。不義の世界である。 舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえら れたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を 燃やし、自らは地獄の火で焼かれる」( ヤコブ 3: 6)。舌は剣にまさる破滅をもたらしてきました。 制御しがたい舌のせいでなかったなら、剣は決 して抜かれることはなかったでしょうから。舌 を抑制することの出来る人はだれもいませんが、 神にはできます。ガラテヤ人の口が祝福と賛美 で満たされていた時には、神が彼らにそうさせ ておられました。しかし、なんという変化が起 きてしまったことでしょう。彼らが受けいれた その後の教えの結果として、彼らは祝福から口 論へと下降し、啓発のために話す代わりに、お 互いを破滅させようとしていました。 もしその人がそれまで信仰の内にいたのであれ す。なぜなら、「わたしたちは、信仰によって義 とされたのだから、わたしたちの主イエス・キ リストにより、神に対して平和を得ている」( ロー マ 5:1) からです。わたしたちはただ単に神と 平和にやっているだけではなく、神の平和をも 持っているのです。だから、争いと、清くない 火の舌で互に滅ぼし合うようなことに導いたこ の新しい勧誘は、彼らを福音へ召してくださっ た神から来たものではありませんでした。たっ た一歩それるだけのことが、広い分岐に導くこ とがよくあります。二本の鉄道の線路は平行に 置かれているように見えるかもしれませんが、 わずかに分岐していて、やがて反対の方向に導 かれます。「少しのパン種が粉のかたまり全体を ふくらませる」( 第 1 コリント 5:6)。それが何 であろうとも、「わずかな失敗」と見えることの 中に、あらゆる邪悪の菌があります。「律法をこ とごとく守ったとしても、その一つの点にでも 落ち度があれば、全体を犯したことになるから である」( ヤコブ 2:10)。わずか一つの偽の原 則に固執すると、生活と品性全体を破壊してし まいます。小さなきつねがぶどう園をだいなし 「悪意と邪悪のパン種」 にしてしまいます。 「だれが邪魔をして真理にそむかせたのか」と 肉の働き いう質問に続く 8 節 9 節は、同じくここでも明 らかにあてはまります。かみ合い、滅ぼしあう ことは真理に従わないことのきわめて強力な証 拠です。「そのような勧誘は、あなたがたを召さ れたかたから出たものではない」。神は平和の神 です。平和の君キリストについては、「彼は争わ ず」( マタイ 12:19) と言われました。だから 「主の僕たる者は争ってはならない」のです ( 第 2 テモテ 2:24)。イエス・キリストの福音は「平 和の福音」です ( エペソ 6:15)。教会の中に口 論や争いがあるときには、福音が悲しくもゆが められてきたことを認めなさい。争論好きな性 質を持っていたり、口論に挑発されたりしてい 肉の働きは何ですか。ここにその見本のリス トがあります。「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、 まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、 分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽。」心地よい 響きのリストではありません。しかし、使徒は、 「および、そのたぐい」と付け加えていますから、 これで全部ではありません。「このようなことを 行う者は、神の国をつぐことがない」との言明 と結び付けて、このリストについて考えてみる のは大いに意味があります。このリストを、マ ルコ 7 章 21-23 節で、人の心の内側から出てく るものとして、主があげられたものと比べてみ てください。それらは生れながらの人間の生活 101 そのものです。それらは生れつき人間に属して います。これら二つのリストを、神を認めたが 「および、そのたぐい」 らなかった異教徒がした事として、ローマ 1 章 28-32 節であげられているリストと比べてみて ください。それらは主を知らない者たちだれも がすることです。 肉の働きのリストをもう一度読んでみましょ う。それらのうちのいくつかは普通非常に悪い こと、あるいはとにかく体裁のよくないものだ と思われています。ところがその他のものはた では、これらの罪のリストを、第 2 テモテで いてい、極端なものでないなら、深くとがめる 使徒パウロがあげている、終わりの時代に信心 には及ばない罪だとみなされています。ところ 深い形をとっている人々がすることのリストと がいずれにしても、ここで名をあげられたすべ 比べてみてください。これらのリストは皆、本 ての事が性格を同じくすることを指し示してい 質的に同じであることに気がつくことでしょう。 る「およびそのたぐい」という言葉に注意して 信じるすベての者に救いを得させる神の力であ ください。聖書は、憎しみは殺人であると言っ る「福音の真理」に背を向けると、人は決まっ ています。「すべて兄弟を憎むものは人殺し」で てこれらの罪の力の下に落ちてしまいます。 す ( 第 1 ヨハネ 3:15)。そればかりでなく、マ タイ 5 章 21、22 節で救主によって示されてい 「差別はない」 地に住む者はすべて一組の両親、アダムとエ バの子孫だから、唯一つの人の肉があるだけで す ( 第 1 コリント 15:39)。「ひとりの人によっ て、罪がこの世にはいり」( ローマ 5:12) とあ るように、世にある罪はどれもすべての肉に共 通のものです。だから、救いの計画においては、 「ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の 主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべて の人を豊かに恵んで下さるからである」( ロー マ 10:12)。ローマ 3 章 21-24 節も見てくださ い。地上のだれひとりとして、他の人に対して 誇れる者、あるいはまた罪深い堕落した状態に あるからといって他の人を軽蔑する権利を持つ 者はいません。人々の中の卑劣な罪悪を見たり 知ったりすることは、自分たちのすぐれた道徳 るように、怒りもまた殺人です。あまりにもあ りふれているねたみもまた、その中に殺人を含 んでいます。しかしだれが競い合いを罪あるこ とだとみなすでしょうか。競争はどこでも奨励 されてはいないでしょうか。子供は幼い時分か らだれか他の者にまさるように努力することを 教えられるのではないでしょうか。競争はあら ゆる種類の学校ばかりでなく、家庭や教会でも 奨励されてはいないでしょうか。安息日学校で、 競争はよく記録を読み上げることによって奨励 されます。極端だと罪になると思われているこ とが、それほどでなければ、かえって養われて います。しかし神の言葉は、それは不品行、姦淫、 殺人、泥酔と同じ種類の罪であること、またそ のようなことを行うものは神の国をつぐことは ないとわたしたちに確信させます。それは恐る ベきことではないでしょうか。 性に自己満足を感じさせるのではなく、その逆 に、悲しみと恥でいっぱいにするはずなのです。 それは、わたしたち人間の性質が何であるのか を思い起こさせる以外のなにものでもないから です。その殺人者、その酔っ払い、その放蕩者 の中に姿を現わしている働きは、わたしたちの 肉の働きにほかなりません。人類の肉にはこの 章で説明されているような働き以外のことをす る力はないのです。 人にまさりたいという自己愛は、あげられて いるその他すべての罪の源です。そこから数え 切れないほどの殺人が生じました。ところが多 くの母親たちは無意識のうちに子供たちにその 大変な悪を訓練しています。彼らを正しく育て 上げようと努めているときでさえ、「さあ、だれ だれさんよりいい子でいられるかどうかやって ごらん」。「だれだれさんより上手に読めるよう に、がんばってごらん」。「衣服を、だれだれさ 102 ガラテヤ 5 章 んと同じようにすてきに見えるようにしてみて と考えましたが (3 章 3 節 )、それは地中を掘る ごらん」と言うことで、自己愛を奨励している ことで星に到達しようとするのと同様に、不可 のです。何千という家の中での日常語であるこ 能なことです。あまりにも多くの者たちが正し のような言い方はすべて、偽の標準をおいての いことをしたいと願いながらも、聖霊に決定的 競争を教えています。子供は正しいことと間違 に完全にゆだねていないので、したいと願うこ いとを見分けて、正しいことを愛するように教 とができません。聖霊は彼らと争っていて、部 えられるのでなく、だれか他の者よりもよく見 分的な支配をしているか、あるいは時にはかな えるようになることを教えられるだけなのです。 り完全にゆだねられることがあり、その時には これは自己欺瞞とパリサイ人へと導きます。当 彼らは豊かな経験をします。それから再び、肉 然ながら、教えられることはすべて、心は腐敗 が自分を主張するので、彼らは別人のように見 していても外観を他の者に比べてよく見せるよ えます。そこで再び聖霊は嘆かされるのです。 うにということだからです。他の人たちという 彼らは、時には御霊の思いにゆり動かされ、ま のは、それほど高い品性の持ち主ではないでしょ た時には肉の思いに動かされます ( ローマ 8:6)。 うから、競争は、不完全な努力でも、自分より だから、二心を持っている彼らは、いつでも不 はなはだしく悪い者よりはましに見えるという 安定です ( ヤコブ 1:8)。それは一番満足出来な だけで満足してしまいます。全部のリストを一 い立場です。 通り吟味しなさい。そして一つ一つの言葉を注 意深く研究しなさい。ああ、肉の忌まわしい働 御霊と律法 きは、多くの者がささいな事ではないかと思っ ているところに潜んでいます。それは人の肉の あるところには、どこにでもあって、肉が十字 架につけられていないところでは、あれやこれ やの形で現わされます。罪が戸口で構えていま す。 「律法は霊的なものである」から、「もしあな たがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはい ない」( ローマ 7:14)。肉と御霊とは反対です。 しかし御霊の実を否定する律法はありません。 ( ガラテヤ 5:22-23)。ですから律法は肉の働き を否定するのであるし、肉の思いは「神の律法 争う肉と霊 に従わない」のです。だから肉にある者は神を 喜ばすことができず、「律法の下」にいます。こ 肉と神の霊には共通性は何もありません。そ れは「律法の下」にいる事は、それに違反をす れらは「互いに相さからい」、つまり、二人の精 る者であるという事の、もう一つのはっきりと 力的な敵同志のように、互いに相手を押しつぶ した証拠です。「律法は霊的である」。だから、 す機会を熱心にねらいながら、完全に敵対して 御霊に導かれる者は皆、律法と完全に調和し、 います。肉は腐敗していて、神の国をつぐこと その下にはいません。 はできません。朽ちるものは朽ちないものを継 ぐことはできないからです ( 第 1 コリント 15: 50)。肉は勝つことはできません。それは滅ぼさ れなければなりません。肉の思いは「神に敵す る…それは神の律法に従わず、否、従いえない からである」( ローマ 8:7-8)。ここにガラテヤ 人の背教の秘密があり、あまりにも多くの人々 が、クリスチャン生活を生きることの中に見出 す困難さの秘密があります。ガラテヤ人たちは 御霊で始めたのに、肉によって完全に達しよう こ こ でま た も や、論 争 は、 律 法は 守 られる べきか否かではなかったことがわかります。そ ういうことは、その当時信仰があると告白する 者たちは考えもしませんでした。問題は、どの ようにして守ることができるかでした。神によ る使徒は、それは御霊による以外には守ること はできないということを熱心に固守していたの に、ガラテヤ人たちは、自分で守る力があると うぬぼれさせる教えによって道からそらされて 103 しまいました。パウロはこのことを聖書から、 喜ぶのである」( ローマ 5:1、11)。キリスト アブラハムの歴史から、そしてガラテヤ人自身 は聖霊の油そそぎを受けました ( 使徒 10:38)。 の経験から示しました。彼らは御霊によって始 あるいは他の個所で言われているように、「喜び め、そして彼らが御霊によっているうちはうま のあぶら」を注がれました ( ヘブル 1:9)。神 くいっていました。ところが御霊の代わりに自 の奉仕とは喜ばしい奉仕です。神の国は、 「義 分自身に頼るようになると、すぐさま彼ら自身 と、平和と、聖霊における喜びである」( ローマ の姿、すなわち律法とはまったく逆の働きが現 14:17)。たまにではなく、いつも、順境の時の れ始めました。聖霊は神の命です。神は愛です。 ように逆境においても、喜んでいない者は、ま 愛は律法を満たします。律法は霊的です。それ だ主を知るべきほどに知っていません。キリス だから、だれでも霊的であろうとする者は、律 トの言葉は、喜びに満ちあふれるようにと導き 法によってあかしされたのではあるが、ただイ ます ( ヨハネ 15:11)。 エス・キリストを信じる信仰によってのみ得ら れる神の義に服さなければなりません。御霊に 導かれる者はだれでも、聖霊を受けるための条 件としてではなく、当然の結果として律法を守 るのです。 愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、 自制が、真にキリストに従う者の心から自ずと 生じてくるはずです。それらを強制することは できません。しかし、それらはわたしたちの中 に生れながらに宿ってはいません。わたしたち 自分たちはとても霊的で、完全に御霊によっ にとっては、反対を受けた時、穏やかで寛容で て導かれているので、律法を守る必要がないと あるのでなく、怒り、しゃくにさわるのが自然 公言する人々によく会います。彼らは、自分た です。肉の働きと御霊の実との対比に注目して ちは律法を守っていないことを認めるが、自分 ください。前者は自然に生じます。だから良い たちがしているようなことに導くのは御霊だか 実を結ぶためには、わたしたちは全く新しい者 ら、たとえ律法に反するとしても罪ではありえ に造り変えられなくてはなりません。「善人は良 ないと言います。そのような人々は、御霊の思 い心の倉から良い物を取り出」します ( ルカ 6: いを肉の思いと取り違えるという大変な間違い 45)。善はどんな人間からも生じることはなく、 を犯しています。彼らは御霊と彼ら自身とを混 その人の内に宿り続けるキリストの御霊から生 同して、神の立場に自分を置いています。これ じるのです。 は最悪の法王教です。神の律法に敵対して口を 開くことは、聖霊に敵対して語ることです。彼 十字架によりキリストに属するもの らはひどい盲目であるので、 「わたしの目を開い て、おきてのくすしきことを見させてください」 と祈るべきです。 「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を その情と欲と共に十字架につけてしまったので ある。」わたしたちがキリストと結び付くように 御霊の実 なるのは、死によってです。キリストに合うバ プテスマを受けた者は皆、キリストを着たので 御霊の最初の実は愛であり、「愛は律法を満た あり ( ガラテヤ 3:27)、キリスト・イエスにあ す」。次に喜びと平和が来ます。「わたしたちは ずかるバプテスマを受けた者は皆、彼の死にあ 信仰によって義とされたのだから、わたしたち ずかるバプテスマを受けたのです ( ローマ 6:3)。 の主イエス・キリストにより、神に対して平和 「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字 を得ている」からです。「そればかりではなく、 架につけられた。それは、この罪のからだが滅 わたしたちは、今や和解を得させて下さったわ び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となること たしたちの主イエス・キリストによって、神を がないためである。それは、すでに死んだ者は、 104 ガラテヤ 5 章 罪から解放されているからである」( ローマ 6: なんというすばらしい可能性がここに置かれ 6-7)。 「生きているのは、もはや、わたしではない。 ていることでしょう。肉が霊であるかのように キリストが、わたしのうちに生きておられるの して肉のうちに生きること。「肉のからだがある である。しかし、わたしがいま肉にあって生き のだから、霊のからだもある」。「最初にあった ているのは、わたしたちを愛し、わたしたちの のは、霊のものではなく肉のものであって、そ ためにご自身をささげられた神の御子を信じる の後に霊のものが来るのである」( 第 1 コリント 信仰によって、生きているのである」( ガラテヤ 15:44、46)。わたしたちは今、肉のからだを 2:20)。これが、真の神の子らすべての者の経 持っています。霊のからだは真にキリストに従 験です。「だれでもキリストにあるならば、その う者たちが復活のときに受けます。第 1 コリン 人は新しく造られた者である」( 第 2 コリント 5: ト 15 章 42-44 節、50 ‐ 53 節を見てください。 17)。その人は肉にあって生きていて、だれの目 しかしながら今のこの命にあって、肉のからだ にも外見は他の人々と同じに見えます。しかし にあって、人は霊的でなければなりません。つ ながら彼は、肉におるのではなく、霊におるの まり、彼らが将来霊のからだにあって生きるよ です ( ローマ 8:9)。その人は肉のものではない うに生きるべきです。「神の御霊があなたがたの 命を肉にあって生きており、肉は彼に何の力も 内に宿っているなら、あなたがたは肉におるの 及ぼしません。その働きに関するかぎり、死ん ではなく、霊におるのである」( ローマ 8:9)。「生 でいます。 「からだは罪のゆえに死んでいても、 れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれな 霊は義のゆえに生きているのである」( ローマ 7: い。それは彼には愚かなものだからである。また、 10)。 御霊によって判断されるべきであるから、彼は それを理解することができない」( 第 1 コリント 2:14-15)。 御霊によって歩く 「もしわたしたちが御霊によって生きるのな ら、また御霊によって進もうではないか」。わた したちは御霊によって生きるのか否かに関して、 何か疑問の余地があるでしょうか。全然ないし、 また暗にそのように思わせるようなものもあり ません。なぜなら、わたしたちは御霊のうちに 生きており、必ず御霊に服する義務があるから です。御霊、始めに淵の面をおおっていて形の ないところから秩序を造り出したのと同じ御霊 の力によってのみ、人は生きることができます。 「神の霊はわたしを造り、全能者の息はわたし を生かす」( ヨブ 33:4)。その同じ息によって、 天は造られました ( 詩篇 33:6)。神の霊は全世 界の生命です。わたしたちの鼻に神の息がある 間、わたしたちは生かされます。御霊は神の普 遍的な臨在です。その中に「わたしたちは生き、 動き、存在する」。わたしたちは生きるために御 霊に依存しているのだから、それに従って歩む べきであり、またその御霊に導かれるべきです。 これがわたしたちの「霊的な礼拝」です。 「だれでも新しく生れなければ、神の国を見 ることはできない」。「肉から生れる者は肉であ り、霊から生れる者は霊である」( ヨハネ 3:3、 6)。わたしたちは生れながらに、ガラテヤ 5 章 に列挙されているあらゆる悪および「そのたぐ い」を受け継いでいます。わたしたちは肉的です。 腐敗がわたしたちの内を支配しています。新生 によってわたしたちは、「世にある欲のために滅 びることを免れ、神の性質にあずかる者」となり、 神の満ち満ちたものを受け継ぎます ( 第 2 ペテ ロ 1:4)。「情欲に迷って滅び行く古き人」( エ ペソ 4:22) は、十字架につけられ、「この罪の からだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷 となることがない」ように ( ローマ 6:6) 脱ぎ 捨てられました。御霊につながり、御霊にあっ て歩くとき、情欲を持つ肉は、実際にわたした ちが死んで墓の中にいる場合と同様に、わたし たちに対し力を持つことはもはやありません。 それで、からだにあって生きているのは神の御 霊だけです。御霊はその肉を義の器として用い ます。肉はなおも滅びゆくものであり、なお情 105 欲に満ちていて、なお御霊に逆らう用意があり ます。しかしわたしたちが神に自分の意志をゆ だねるかぎり、御霊は肉を阻止します。もしわ たしたちがぐらつき、内心でエジプトに逆戻り し、あるいは、もしわたしたちが自己に信頼を 置くようになって、御霊への依存がゆるむと、 わたしたちは打ち壊したものを再び建て、再び 自分を、罪を犯す者とするのです。しかし、そ うなる必要はありません。キリストは、「あらゆ る肉を支配する力」を持っておられ、彼は人間 の肉にあって霊的な生活を生きる彼の能力を実 際に示されたからです。 キリストは肉となった言です。神はその肉の 中に現れました。それは「神に満ちているすべ てをもって、わたしたちが満たされるようにと のキリストの愛」の啓示です。愛と柔和のこの 御霊がわたしたちと共にあり、支配するなら、 わたしたちは互いにねたみ、互いを怒らせる傲 慢を望もうとはしないでしょう。すべてが神に 関する事となり、これを認めるので、だれも他 の人に対し誇ろうとはしなくなります。 キリストにあるこの命の御霊、キリストの命 は、すべての人に無償で与えられます。「命の水 がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」( 黙 示録 22:17)。「この命が現れたので、この永遠 の命をわたしたちは見て、そのあかしをし、か つあなたがたに告げ知らせるのである。この永 遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわた したちに現れたのである」( 第 1 ヨハネ 1:2)。 「言 いつくせない賜物のゆえに、神に感謝する」( 第 2 コリント 9:15)。 106 ガラテヤ 6 章 ガラテヤ6章 十字架の栄光 5 章の最後の部分と 6 章とで、この手紙全体 を教えるものです。 が実際的なものであるという特徴がわかります。 性急な読者はそこには区別があって、6 章の一 部分が実際的な霊的生活のことを扱っており、 一方 5 章は、神学的な教理にあてられていると 考えようとします。これは大きな間違いです。 聖書には、理論だけという部分はなく、全部が 事実です。霊的また実際的でないものは聖書の どの部分にもないばかりか、すべては教理です。 教理とは教えのことです。山上での群衆に対す るキリストの話は教理と呼ばれます。「イエスは 口を開き、彼らに教えて言われた」からです。 ある人々は教理に対しある種の軽べつを表わし、 それがまったく神学領域に属し、実際的でなく、 日常生活に益をもたらすものではないかのよう に、そのことを軽んじて語ります。そのような 人は、教理以外の何ものでもなかったキリスト この手紙の目的はこの最後の部分にはっきり と見えます。それは争論の場を提供するのでは なく、読者を、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、 善意などの実をみのらせる聖霊に服するように 導くことによって、争論を鎮めることです。そ の目的は、「自分の無力な方法」でキリストに仕 えようと努力することで神に敵対し、罪を犯し ている者たちを改心させ、彼らを真に「御霊に 新たにされ」て仕えるように導くことです。こ の手紙のこれまでのいわゆる議論は、ほかでも なく、キリストの十字架の割礼とは御霊にあっ て神に仕えること、そして肉にいっさい依り頼 まないことであり、罪である「肉の働き」はこ の事によってのみ脱することができる、という 事実を現わすためでした。 の教えを無意識のうちに侮っているのです。彼 兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥って いることがわかったなら、霊の人であるあな たがたは、柔和な心をもって、その人を正し なさい。それと同時に、もしか自分自身も誘 惑に陥ることがありはしないかと、反省しな さい。互に重荷を負い合いなさい。そうすれ ば、あなたがたはキリストの律法を全うする であろう。もしある人が、事実そうでないのに、 自分が何か偉い者であるように思っていると すれば、その人は自分を欺いているのである。 ひとりびとり、自分の行いを検討してみるが よい。そうすれば、自分だけには誇ることが できても、ほかの人には誇れなくなるであろ う。 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべ きである。 はいつも人々にお教えになりました。すべて真 の教理はきわめて実際的です。それは、人によっ て実行されるという目的以外のためには与えら れていません。 お説教は教理ではない 人々は言葉の誤用のせいで、この点で間違う ことになったのです。彼らが教理と呼ぶもの、 非実際的だというものは、実は教理のことでは なくお説教のことです。お説教は非実際的で、 福音のうちになんの位置も占めてはいません。 福音の宣教者はだれも「お説教」をしません。 もし、彼がそうすれば、福音宣教以外のことを 御言を教えてもらう人は、教える人と、す べて良いものを分け合いなさい。まちがって はいけない、神は侮られるようなかたではな い。人は自分のまいたものを、刈り取ること になる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉 から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から 選ぶことがよくあるからです。キリストは決し てお説教などせずに、人々に教理を与えられま した。つまり、彼らを教えられたのです。彼は「神 からつかわされた教師」でした。ですから、福 音はみな教理です。それはキリストにある生活 107 永遠のいのちを刈り取るであろう。わたした ちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。 たゆまないでいると、時が来れば刈り取るよ うになる。だから、機会のあるごとに、だれ に対しても、とくに信仰の仲間に対して、善 を行おうではないか。 で律法を引下げ、それで裁きにのぞめるだろう ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、 こんなに大きい字で、あなたがたに書いてい ることを。いったい、肉において見えを飾ろ うとする者たちは、キリスト・イエスの十字 架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、 あなたがたにしいて割礼を受けさせようとす る。事実、割礼のあるもの自身が律法を守ら ず、ただ、あなたがたの肉について誇りたい ために、割礼を受けさせようとしているので ある。しかし、わたし自身には、わたしたち の主イエス・キリストの十字架以外に、誇と するものは、断じてあってはならない。この 十字架につけられて、この世はわたしに対し て死に、わたしもこの世に対して死んでしまっ たのである。割礼のあるなしは問題ではなく、 ただ、新しく造られることこそ、重要なので ある。この法則に従って進む人々の上に、平 和とあわれみとがあるように。また、神のイ スラエルの上にあるように。 をし始め、その人がもし彼の判断に―神にでは だれも今後は、わたしに煩いをかけないで ほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯 びているのだから。 はそれを治めなければなりません」と言われま 兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリ ストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるよ うに、アーメン。 ( ガラテヤ人への手紙第6章 ) と考えます。それで、それが自分のはかりにか なうかどうかみるために、自分自身と同じく兄 弟たちをも検討するという誘惑に逆らえません。 もしその批判の目が、彼の規則に従って歩んで いないだれかを見つけると、すぐに「違反者扱い」 なく―謙遜に屈服すると申し出なければ、教会 から締め出すべきだ、さもなければ「わたした ちの義」の衣は彼との接触によって汚されると 言います。自己を義とする人は、自分を兄弟た ちの見張り人とし、彼らの仲間になると面目を 失うと言います。この章を開くと、教会におい てあまりにもありふれているこの精神とは全く の反対のことがかかげられています。人を非難 するためにあら探しをするのではなく、救うた めに罪人を探すべきです。 「罪が門口に待ち伏せている」 カインに向かって神は、「もし正しいことをし ていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せてい ます。それはあなたを慕い求めますが、あなた した ( 創世記 4:7)。罪は、隠れて潜み、跳びか かる機会を狙って、油断している者に勝とうと している陰険な獣です。その欲望はわたしたち に向けられていますが、わたしたちにはそれを 治める力が与えられています。「だから、あなた がたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだね」な いようにしましょう。それでも、多くの熱心な 者たちが負かされてしまうことがあります ( 必 ずしもではありませんが )。「これらのことを書 徹底的な変化 人が自分を義とすると、その結果は誇り、競 い合い、傲慢、自慢、批判、あら探し、そして 人前での争論に導く陰口です。だから、それが ガラテヤ人に起ったことであったし、また常に 起ることでもあるのです。こうなるのは当然で す。ひとりびとりそれぞれが律法について自分 の観念をもっているので、律法によって義とさ れようと決心して、自分自身の思いの標準にま きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないよう になるためである。もし罪を犯す者があれば、 父のみもとには、わたしたちのために助け主、 すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供 え物である。ただ、わたしたちの罪のためばか りではなく、全世界の罪のためである」( 第 1 ヨ ハネ 2:1-2)。だから、人がどんな罪に負かされ ても、彼は回復されるはずであり、遠くへ追い 108 ガラテヤ 6 章 やられはしません。 せ、その罪過の責任をこれに負わせることをし ないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられ たのである」( 第 2 コリント 5:19)。キリスト 福音は回復ということ 「人の子は、滅びる者を救うためにきたので ある。あなたがたはどう思うか。ある人に百 匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれ ば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出 ている羊を捜しに出かけないであろうか。もし それを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わな いでいる九十九匹のためよりも、むしろその一 匹のために喜ぶであろう。そのように、これら の小さい者のひとりが滅びることは、天にいま すあなたがたの父のみこころではない」( マタイ は「わたしたちの罪をご自分の身に負われた」( 第 1 ペテロ 2:24)。彼はわたしたちの罪をわたし たちに負わせず、全部ご自分の身に負われまし た。「柔らかい答は憤りをとどめ」( 歳言 15:1)、 キリストは、わたしたちの心をとらえるために、 荒々しく叱りつけるのではなく、穏やかな言葉 をもっておいでになります。彼は、わたしたちに、 ご自分のところに来るように、そしてわたした ちの苦しい奴隷のくびきと重荷を、彼の負いや すいくびきと軽い荷とに取り替えて休むように と招いておられます。 18:11‐14)。キリストは、「万物更新の時まで」 は、すなわち今は天におられます。 キリストの代わりに すべてのクリスチャンはキリストにあってひ 一匹を救う 主はご自分の働きを、迷い出た一匹の羊を捜 し求める羊飼いの場合として表現なさいます。 福音の働きは、個人的な働きです。一つの講演 の結果として、福音の宣教で一日に何千もの人々 がそれを受けいれても、それはひとりびとりの 心に及んだ効果のせいです。宣教者が何千とい う人々に向かって話す時にも、ひとりびとりに 向けて話すなら、彼はキリストの働きをしてい るのです。だからもしある人が過ちに負けてし まったなら、柔和な精神でそのような者を回復 しましょう。それはきわめて尊いことなので、 たったひとりの救いのためにささげるのであれ ば時間の浪費になってしまうというようなこと はありません。キリストがお語りになったこと の記録のうち、最も重要で光栄ある真理のいく つかは、たったひとりの聞き手に向かって語ら れました。群れの中のたった一匹の子羊を捜し 世話をするのが、良い羊飼いです。 とつです。ただ一つの種だけしかなく、すべて の者は人間を代表するキリストのうちに包含さ れています。ですから、「わたしたちもこの世に あって彼のように生きている」( 第 1 ヨハネ 4: 17)。キリストは、人はどのようでなくてはな らないか、また、真のキリスト者が彼に全く献 身したらどのようになるのかという模範として、 この世に存在されました。彼は弟子たちに、「父 がわたしをおつかわしになったように、わたし もまたあなたがたをつかわす」と言われました ( ヨハネ 20:21)。そしてその後、彼は聖霊を 通してご自分の力を彼らに吹きかけられました。 「神が御子を世につかわされたのは、世をさばく ためではなく、御子によって、この世が救われ るためである」( ヨハネ 3:17)。だからわたし たちはさばくためではなく、救うためにつかわ されるのです。だからその命令はこうです、「も しもある人が罪過に陥っている…なら、正しな さい」。これは教会の場でわたしたちと交わって いる人々に限られません。わたしたちはキリス トの大使として、キリストの代わりに、神と和 和解のつとめ 「神はキリストにおいて世をご自分に和解さ 解するよう人に懇願するためにつかわされます ( 第 2 コリント 5:20)。全宇宙もこれより偉大 な働きを与えることはありません。最も卑しく 109 最も見捨てられた魂でさえも神と和解させられ えになって ( マタイ 18:10-18)、救い主は、「よ るのだと告げるのが務めであるキリストの大使、 く言っておく。あなたがたが地上でつなぐこと これ以上に高貴な務めは天にも地にも見つける は、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解 ことはできません。 くことは、天でもみな解かれるであろう」と言 われました。これは、自らを神の教会だと呼ぶ 人間の集まりがした決定に神が拘束されると 「霊の人であるあなたがた」 このような人だけが過ちに陥っている人を正 すように招かれており、他の人々にはできませ ん。叱ったり、譴責したりする者たちを通して、 聖霊だけが語るのでなければなりません。なさ れねばならないのはキリストご自身の働きであ り、だれでも聖霊の力によってだけ、キリスト の証人となることができます。しかしそれでは、 正すために兄弟の所に行く人は、たいへんあつ かましくはないでしょうか。まるで自分は霊的 誓っておられることなのでしょうか。全く違い ます。地上でなされることで、神の意志を変え ることができるものはありません。千八百年近 くにわたる教会の歴史は、自分たちの取決め及 び自分たちを神の立場に置くという間違いと失 敗の記録です。だれが教会会議の歴史を読んで、 神がそれらの中におられた、あるいは神がそれ らの法令のいずれかを作らせるように導いたり、 また是認なさったりしたと言うことができるで しょうか。 であると主張しているようなものではないで しょうか。堕落した人間にとってキリストの立 場に立つのは軽いことではありません。そして 神の計画は、一人一人が「もしかしたら自分自 身も罪に陥ることがありはしないか」と反省す べきだということです。ここに定められている 規定は、教会の信仰復興のわざをなすためにも くろまれていることが明瞭です。人が過ちに陥 るとき、各々の義務は彼のことについてすぐに だれかにそのまま話すのでもなければ、過ちを 犯した者の所に直接行くことでもなく、わたし はどうなのかと自分に問いかけることです。わ たしには責めはないのか、もし同じことでない にしても何か同じような悪いことはないだろう ではキリストは何を言おうとしておられたの でしょう。彼が言われたことそのままのことで す。彼の教えは、教会は霊的であるべきだ、柔 和な精神で満たされているべきだという意味だ とわかります。そして語る者はみな、「神の口と して語る」べきです。キリストの言葉だけが、 罪人を扱う者すべての心と口にあるのでなけれ ばなりません。神の言葉は永遠に天で定められ ているのですから、人がキリストの言葉を語る ときにのみ、地上でつながれることは何でも当 然天でもつながれるということになるのです。 しかし、聖書に文字通りに心から厳密に従うの でないかぎり、そのようにはならないでしょう。 か。わたしは御霊によって歩いているだろうか、 彼を回復することができるだろうか、彼をさら 「キリストの律法」 に遠くに追いやるようなことはないだろうか。 そうすれば、だれか過ちを犯した人のところに 行くための条件を得る前に、彼もまた自分自身 悪魔のわなから逃れることができることでしょ う。教会内の完全な改革がなされると、その結 果はこうなることでしょう。 これは互いの重荷を負うことによって成就し ます。なぜならキリストの命の法則は重荷を負 うことだからです。「われわれはみな羊のように 迷って、おのおの自分の道に向かって行った。 主はわれわれすべての者の不義を、彼の上に置 かれた」( イザヤ 53:6)。「まことに彼はわれわ れの病を負い、われわれの悲しみをになった。」 天につながれる 罪を犯した者をどう扱うかという指示をお与 彼の律法を成就する者はみな、今なお迷い堕落 した者のために同じ働きをしておられるキリス 110 ガラテヤ 6 章 トの命を、その内に持たねばなりません。 「イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な 大祭司となって、民の罪をあがなうために、あ らゆる点において兄弟たちと同じようにならね ばならなかった。主ご自身、試練を受けて苦し まれたからこそ、試練の中にある者たちを助け ることができるのである」( ヘブル 2:17-18)。 彼はひどい誘惑に会うことがどんなことかを 知っておられ、また、それにどのように勝利す るかを知っておられます。確かに彼は「罪を知 らなかった」けれども、わたしたちのために罪 とされました。それはわたしたちが彼にあって 神の義とされるためでした ( 第 2 コリント 5: 21)。彼は、わたしたちすべての者の罪を負われ、 神のみ前に、それらをご自分のものであると告 白されました。さらに、彼はわたしたちの所に まで来られました。罪のためにわたしたちをと がめるのではなく、その心をわたしたちのため リサイ人をたった一人だけ使徒としてお選びに なりました。しかし彼は、自分が罪人の頭であ ると認めるまではつかわされることはありませ んでした ( 第 1 テモテ 1:15)。罪を告白するこ とは、自尊心を傷つけます。それは確実ですが、 しかし、救いの道は十字架の道です。キリスト が罪人の救い主となることができたのは、ただ 十字架によったのです。だから、もしわたした ちが彼の喜びを分ちあいたいなら、恥にもかか わらず、彼と共に十字架を忍ばなければなりま せん。この事実を覚えてほしい、わたしたちが 人を救うことができるのは、ただわたしたち自 身の罪を告白することによるだけです。そのよ うにしてのみ、わたしたちは彼らに救いの道を 示すことができます。というのは、罪からの清 めを受けるのは、その罪を告白する者であり、 だからこそ人をその泉に導くことができるから です。 にお開きになり、ご自分が同じような弱さをもっ てどれほど苦しまれたかを語られます。またあ 人は何ものでもない らゆる困難、苦痛、悲しみ、辱めをご存じであ ると語られます。こうして彼はわたしたちをご 自分の方に引き寄せられ、わたしたちの信頼を 勝ち取られるのです。彼がわたしたちと同じ経 験をされたこと、底の底まで下られたことを知っ て、わたしたちは、彼が逃れの道について話さ れる時に彼の言われることを聞く用意ができま す。わたしたちには彼がご自分の経験から話し ておられることがわかります。 「もしある人が、事実そうでないのに、自分 が何か偉い者であるように思っているとすれば、 その人は自分を欺いているのである」。「事実そ うでないのに」という言葉に気をつけてくださ い。これは、わたしたちが何か偉い者になるま では自分のことを偉い者であると考えるべきで はない、と言っているのではありません。そう ではなく、これは、わたしたちは何者でもない と宣言しているのです。ただ個々人のみならず、 それだから、罪人を救う働きにおいて最も重 すべての国民は、皆、神の前にあっては何者で 要な部分は、自分自身彼らと一つだということ もありません。どんなときでも、もしわたした を示すことです。つまり、他人を救うというこ ちが自分のことを偉い者であると考えるとすれ とは、わたしたち自身のあやまちを告白するこ ば、それは自分を欺くことです。そしてわたし とにあるということです。自分には罪がないと たちはしばしば自分を欺き、こうして主の働き 感じている人は、罪深い者を回復する人ではあ を損なうのです。キリストの律法を思い出しま りません。何かあやまちに陥った人のところに しょう。キリストはすべてであられたにもかか 行って、「この世の中であなたはそんなことがよ わらず、ご自分をむなしくされました。キリス くもできたものだ。わたしは生涯あんなことは トはご自分を跡形もなくされましたが、それは したことがない。自尊心のある人がどうしてそ 神のみわざがなされるためでした。「僕は主人に んなことができたのかわからない」などと言う まさるものではない」。神だけが偉大であられ、 人は、家にいたほうが断然良いのです。神はパ 「最高の状態にある人が全員集まっても全くむ 111 なしい」のです。神だけが真実です。しかし人 告白し、自分が見えなくなるように沈め、もう は皆嘘つきです。わたしたちがこのことを認め、 自分を欺かないようにする時、その時にわたし そのことを自覚して生活する時、神の霊がわた たちは重荷をキリストにゆだねる事になるので したちを満たすことのできるところにいるので す。主はその重荷をどうしたらよいかご存じで あって、神はわたしたちを通して働くことがお す。だから彼と共にくびきを負って、人の重荷 できになります。「罪の人」は、自分を高める者 をどのように負ったらよいか、わたしたちは学 です ( 第 2 テサロニケ 2:3-4)。神の子は自分を ぶのです。 低める者です。 自分の重荷を負いなさい 「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきで ある」。これは 2 節と矛盾するのではないでしょ うか。そうではありません。聖書が、わたした ちに互いの重荷を負いなさいと告げる時、それ は自分の重荷を人に投げつけるようにと言って いるのではありません。それぞれが各自の重荷 を主にゆだねるのです ( 詩篇 55:22)。主は全 世界のすべての人の重荷を、集団としてではな く、個人個人のものとして負われます。わたし たちは自分の重荷を主にゆだねます。それは、 自分の手でそれらを集めたり、自分で考えたり、 少し離れたところにおられるかたに自分から投 では、自分の重荷を負うことについてはどう なのでしょうか。ああ、それを負うのは「わた したちの内にあって働く神の力」です。「わたし はキリストと共に十字架につけられた、生きて いるのは、もはや、わたしではない。キリスト がわたしのうちに生きておられるのである」。そ れはわたしであるが、わたしではなく、わたし の内なるキリストです。このキリストの教訓を まだ学んでいない人が世には多すぎるほどいま す。だから神の子どもは皆、常に、他人の重荷 を負うということに、なすべき働きを見出しま す。自分の心だけで精一杯な者をさがすために、 彼自身のものは主に預けます。わたしたちの肩 に落ちる重荷の下には、常に「力あるかた」が おられるというのは祝福ではないでしょうか。 げつけたりしてそうするのではありません。そ んなことはできるはずがありません。多くの人 たちが自分の罪や苦痛や心配や悲しみを取り除 こうとしては、失敗してきました。そしてつい には絶望にほとんど沈むばかりになり、再び頭 の上に積み戻したものが今までにないほど重く 感じています。何がむずかしいのでしょうか。 こういうことです、つまり彼らは、キリストを 自分たちから離れた所においでになるかただと 思い、その間に自分で橋をかけなければならな いと感じているのです。しかし、それは不可能 です。「無力な」人間は、その重荷を自分の腕の 長さほどの距離も投げることはできません。そ して、腕の長さだけでも主を引き離しているか ぎり、自分を疲れさせる重荷から逃れて休むこ とを、わたしたちが知ることはないでしょう。 それは、唯一つの支え、わたしたちの命、あら ゆる行為をさせる力あるかたとしてキリストが 自分の内におられることを、わたしたちが認め て告白し、またそれゆえ自分は何者でもないと この教訓をわたしたちはキリストの生涯から 学ぶのです。彼は良いことをしようと出て行か れました。神が彼と共におられたからです。彼 は嘆く者を慰め、傷ついた心をいやし、悪霊に 悩まされていた者を皆いやされました。悲しい 話や病気に悩んで彼のところに来た者で、だれ ひとりとして救われないで戻った者はいません でした。「これは、預言者イザヤによって『彼は、 わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたち の病を負うた』と言われた言葉が成就するため である」( マタイ 8:17)。それから夜がきて群 衆が眠りにつくころ、キリストは山や森に行か れ、天父との交わりを求められました。父によっ て彼は生きておられました。彼は、ご自分のた めの命と力の新鮮な供給を見出すためにそのよ うにされました。「ひとりびとり、自分の行いを 検討してみるがよい」。「あなたがたは、はたし て信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を 吟味するがよい。それとも、イエス・キリスト 112 ガラテヤ 6 章 があなたがたのうちにおられることを、悟らな 良いものを分け合う」べきです。相互の助け合 いのか」( 第 2 コリント 13:5)。「彼は弱さを通 いがこの章の要点です。「互いの重荷を負い合い して十字架につけられたけれども、神の力によっ なさい」。教えている者から支えられる教師でさ て生きておられる。わたしたちもまた彼と共に、 えも、また他の人の金銭的な面を援助しなけれ 弱いけれども神の力によって彼と共に生きるた ばなりません。キリストは貧しい者のうちでも めである」(4 節欄外註 )。だからもしわたした 最も貧しかったし、弟子たちは彼に従うために ちの信仰が、キリストがわたしたちのうちにお すべてを捨てたのですから、自分の物は何も持っ られることを証明するなら― そして信仰は事の ていませんでした。それでも、彼らはわずかな 現実をわたしたちに確証します―、わたしたち 蓄えから貧しい者に施しました。ヨハネ 13 章 は他の人の内にではなく、ただ自分自身の内に 29 節を見てください。 喜びを持ちます。わたしたちは主イエス・キリ ストを通して神を喜びます。そしてわたしたち の喜びは世の何ものにも依存しません。だれも があやまちを犯し、失望するけれども、わたし たちは立つことができます。なぜなら神の土台、 キリスト は堅く立っているからです。 ですから、自らをクリスチャンと呼ぶ者は、 弟子たちが、空腹な者たちに自分で食べ物を 買いに行かせてほしいとイエスに言ったとき、 彼は、「彼らが出かけて行くには及ばない。あな たがたの手で食べ物をやりなさい」と言われま した ( マタイ 14:16)。キリストは、彼らをか らかったのではありません。彼は言葉通りの意 味で言われたのです。キリストは、彼らが人々 だれか他の人に頼って満足を得ようとするので に与えるべきものを何も持っていないことを はなく、自分自身弱い者の中でも最も弱い者か 知っておられました。しかし、彼らにも持って もしれないが、重荷を負う者、神と共に働く者 いる物はありました。彼らは主の言葉の力に気 となりましょう。キリストにあって、不平を言 がついていなかったので、主ご自身が少しのパ わずに自分の重荷を静かに負い、そして隣人の ンをとって弟子たちに分け与えられ、このよう 重荷をも負う者になりましょう。そういう人は にして彼らは実際に空腹な者たちを養われまし 何も言わない兄弟の重荷を何か見つけることが た。しかし彼らに対する主の言葉は、彼らはキ でき、それを負うのです。また他の人も同様に リストがなさったとおりの事をすべきであると するでしょう。だから弱い者の喜びは、このよ いうことを意味していたのです。キリストの言 うなものとなるでしょう、「主はわが力、わが歌 葉に対するわたしたちの信仰の欠如が、良いこ であって、わが救となられた」( 詩篇 118:14)。 とをし、分けあい、神を喜ばせるような犠牲を 払うことをどれほど妨げてきたことでしょう ( ヘ ブル 13:16) 良いものを分け合うこと 「御言を教えてもらう人は、教える人と、す べて良いものを分け合いなさい」。これは、主が この世での支えのことを言っていることに疑い はありません。「働き人がその報いを得るのは当 然である」( ルカ 10:7)。もしある人が自分を 全的に御言の奉仕にささげるなら、彼の生活を 支えるのに必要なものは、教えられる者たちか ら来るべきだということは明らかです。しかし、 これはどうみても命令の意味ではありません。 御言を教えてもらう人は、教える人と「すべて 教える者は御言葉ばかりでなく、この世にお ける支えにも同様に貢献するのだから、御言葉 を教えてもらう者たちも、この世に必要な物に 関する施しだけに限るべきではありません。福 音に奉仕する者は霊的刷新の必要はないとか、 それを群れの中の最も弱い者から受けるような ことはないと考えるのは、間違いです。御言葉 を聞いた人々の口から出る信仰と主にある喜び の証しによって、教えた者の魂がどれほど励ま されるかは誰にも言えないほどです。教えた者 が、自分の働きがむなしくはなかったと知るだ 113 けではありません。その証しは彼がしたことに なら、キリスト・イエスを死人の中からよみが は何もふれないかもしれないが、神が何をして えらせたかたは、あなたがたのうちに宿ってい 下さったかという謙遜な魂の喜びの証しは、御 る御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだ 言葉の教師に刷新を与えることによって、し をも、生かしてくださるであろう」( ローマ 8: ばしば何百という魂を強める手段になることで 11、13)。すばらしいではありませんか。もし しょう。 わたしたちが生きるなら、わたしたちは死にま す。もしわたしたちが死ぬなら、わたしたちは 生きます。これがイエスのあかしです。「自分の 種まきと刈り入れ 「人は自分のまいたものを、刈り取ることに なる」。これは、どんなに多く語っても、これ 命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのた めに自分の命を失う者はそれを見いだすであろ う」( マタイ 16:25)。 よりわかりやすくすることはできない単純な事 実を述べたものです。世の終わりである収穫 は、まかれたものは麦であったのか毒麦であっ たのかを明らかにします。「自分の肉にまく者 は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊 から永遠のいのちを刈り取るであろう」。「あな たがたは自分のために正義をまき、いつくしみ の実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今 は主を求むべき時である。主は来て救いを雨の ように、あなたがたに降りそそがれる」( ホセ ア 10:12)。「自分の心を頼む者は愚かである」 ( 歳言 28:26)。そして次の聖句からわかるよ うに、他の人に頼る者も同様に愚かです。「あな たがたは悪を耕し、不義を刈りおさめ、偽りの 実を食べた。これはあなたがたが自分の戦車を 頼み、勇士の多いことを頼んだためである」( ホ セア 10:13)。「おおよそ人を頼みとし肉なる者 ( それが自分自身であれ、あるいは他の人であれ ) を自分の腕と」する者はのろわれます。「おおよ そ主にたより、主を頼みとする人はさいわいで ある」( エレミヤ 17:5、7)。 永続するものはすべて御霊から生じます。肉 は腐敗しており、また腐敗させます。ただ自分 自身の楽しみだけを考える者、肉と精神の欲望 でいっぱいになっている者は、滅びと死という これは、今現在の喜びをすべてなくすという 意味ではありません。また、何か他のものを得 るために、わたしたちの望みを退けて、その後 に続く損失をこうむり、難行苦行をするという ことではありません。それは今現在の生活が、 生きながら死ぬ程の苦悩を長く味わい続けるこ とを意味するのではありません。まったくそう ではないのです。それはクリスチャン生活につ いての、すなわち死の中に見つけだされる命に ついての、粗野で間違った考え方です。そうで はありません。キリストのもとに来て御霊を飲 む者はだれでも、その人自身のうちに「永遠の 命に至る水がわきあがる泉」を持つのです(ヨ ハネ 4:14)。永遠の喜びが今やその人のもの です。彼の喜びは日毎に満ちあふれます。彼は、 神ご自身の喜びの川から飲んで、神の家の豊か さに大いに満ち足ります。彼は望むものをすべ て持っています。なぜなら彼の心と彼の肉とは、 その中にすべての満ち満ちたものがある神だけ に叫び求めるからです。かつて彼は「自分は命 を見ていた」と思っていたが、今では、その時 は墓の中、堕落の穴を見ていたにすぎないこと を知っています。今彼は本当に生き始めたので あり、新しい命の喜びは「言いつくせず、栄光 に満ちている」ので、彼は歌います。 収穫を刈り取るでしょう。しかし「霊は義のゆ えに生きている」、そして御霊の思いだけを考慮 今はキリストの他にわたしを満たすものは する者は永遠の栄光を刈り取るでしょう。なぜ なら「もしイエスを死人の中からよみがえらせ 何もない たかたの御霊が、あなたがたの内に宿っている わたしにとって他の名はない 114 ガラテヤ 6 章 主、イエスよ、あなたのうちに愛と命と、 なたは自由を与えられたのではなかったのです そして永遠の喜びがあるのを見つけた か」。「ああ、そうです」と彼は答えます。「わた しは自由です。でもわたしは、以前のわたしの 犯罪を思い出ださせるものとして、この玉と鎖 抜け目のない将軍は常に最強の地位を占めよ うとします。だから信じる者たちに対する豊か をつけていなければならないのです。」そのよう な「自由」をそんなに欲しいと思う者はいません。 な約束があるところではどこでも、サタンはそ れをゆがめて、失望の原因にしようとします。 したがって、彼は多くの者たちに「自分の肉に まく者は、肉から滅びを刈り取り」という言葉は、 人の全生涯は、御霊によって生れた後でさえも、 以前の罪の生活の結果に苦しまなければならな いという意味だと信じさせてきました。ある者 たちは、「もしわたしが決して罪を犯さなかった ならどうであったかという状態になることは、 決して望めない」と言って、古い罪の傷跡を永 遠に負わなければならないと考えてきました。 聖霊に感じた祈りはすべて神の約束です。そ してその中でも最も恵みあふれるものの一つは これです、「わたしの若き時の罪と、とがとを思 い出さないでください。主よ、あなたの恵みの ゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わ たしを思い出してください」( 詩篇 25:7)。神 がわたしたちの罪をおゆるしになって、それら を忘れてくださる時、彼はわたしたちにそれら から逃れる力を与えて下さるので、わたしたち はかつて一度も罪を犯さなかったかのようにな るでしょう。「尊く、大いなる約束」により、わ これは、神の恵み、またキリスト・イエスの たしたちは「世にある欲のために滅びることを うちにあるあがないに対するなんという侮辱で 免れ、神の性質にあずかる者」とされます ( 第 しょうか。それは、キリストがわたしたちを解 2 ペテロ 1:4)。人は善悪を知る木から取って食 放して下さったことに伴う自由ではありません。 べたことにより堕落しました。福音は、罪の黒 キリストの勧めは、「あなたがたは、かつて自分 い記憶はすベて消されるという、堕落からのあ の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法 がないを提示します。そしてあがなわれた者は、 に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕とし てささげて、きよくならねばならない」という 「罪を知らなかった」キリストのように、善だけ を知るようになります。 ものです ( ローマ 6:19)。しかし、もしこうし て自分を義にささげる人が、以前の悪い習慣の ゆえにいつも不利な立場におかれなければなら ないとしたら、義の力は罪の力に劣ることにな ります。しかしそうではありません。恵みは罪 よりもはるかに大きく、また天国のように力強 いのです。 そうです、わたしたちが皆、自分のうちに確 認しているように、自分の肉にまく者は、肉か ら滅びを刈り取ります。「しかし、神の御霊があ なたがたのうちに宿っているなら、あなたがた は肉におるのではなく、霊におるのである」( ロー マ 8:9)。御霊には肉の罪および、そのすべて の結果からわたしたちを解放する力があります。 ここにはなはだしい犯罪のために一生牢獄に キリストは「教会を愛してそのためにご自身を 入れられることになった一人の人がいます。牢 ささげられた」。「そうなさったのは、水で洗う 獄に入って 2、3 年後に彼は恩赦を受けて、自由 ことにより、言葉によって、教会をきよめて聖 にされました。その後しばらくしてわたしたち なるものにするためであり、また、しみも、し は彼に会い、その足に 50 ポンドのカノン砲の わも、そのたぐいのものがいっさいなく、清く 玉が大きな鎖でつながれているのを見ます。そ て傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎える のせいでひどい困難さを伴ってしか動き廻るこ ためである」( エペソ 5:25-27)。「その傷によっ とできないでいます。「どうして、こうなのです てわれわれはいやされたのだ」。罪の記憶―個々 か」と、わたしたちはびっくりして尋ねます。「あ の罪の記憶ではありません― は、わたしたちの 115 完全な印であるキリストの手足と脇腹の傷跡に いばらの中に落ちて、ふさがれてしまうかもし よって、永遠に覚えられるだけです。 れない。しかし一つのことは確かです。それは、 わたしたちは刈り取るであろうということです。 わたしたちには朝まくものと、夕べにまくもの うみ疲れてはならない さらに続く勧告はどれほど当然なことでしょ う。「わたしたちは、善を行うことにうみ疲れて はならない。たゆまないでいると、時が来れば 刈り取るようになる」。わたしたちは良いことを するのに、あまりにうみ疲れやすい。それは、 イエスを見ていないからです。ちょっとした休 憩をとりたがるのは、たゆまずに善を行うこと は、あまりにも骨折りが多すぎるように思える からです。しかしそれは、うみ疲れることのな いようにすることのできる力である主の喜びを、 わたしたちがよく学んでいない時だけです。「主 を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように 翼をはって、のぼることができる。走っても疲 れることなく、歩いても弱ることはない」( イザ ヤ 40:31)。 しかし文脈が示すように、特にここで言って どちらが実るのか、また両方共に良いものであ るのかわからない。しかし、どちらも悪いもの だということはありえません。これかあれかど ちらかだけが実るかもしれない、さもなければ 両方とも良いかもしれない。これは、善を行う ことにうみ疲れることがないようにわたしたち を勇気づけるのに十分ではないでしょうか。そ の地は肥沃ではないかもしれない、また季節は 最適ではないかもしれない、だからおそらく収 穫の見込は最も少ないかもしれない。それだか ら、働きは皆無駄であると考えるよう誘惑され るかもしれません。しかしそうではないのです。 「たゆまないでいると、時が来れば刈り取るよう になる」。「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立っ て動かされず、いつも全力を注いで主のわざに 励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦 がむだになることはないとあなたがたは知って いるからである」( 第 1 コリント 15:58)。 いることは、ただ単にわたしたちの肉において 誘惑に抵抗することだけではなく、他の人を助 同じことである けるということです。ここでキリストから教訓 を学ぶ必要があります。彼は「衰えず、落胆せ ず、ついに道を地に確立する」( イザヤ 42:4)。 キリストがお助けになった者十人のうち九人が、 全然感謝のしるしを見せなくてもなお、彼にとっ ては同じことです。キリストは良いことをする ためにおいでになったのであって、感謝される ために来たのではありません。ですから、「朝の うちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。 実るのは、これであるか、あれであるか、ある いは二つともに良いのであるか、あなたは知ら ないからである」( 伝道の書 11:6)。わたした ちにはどれだけの刈り入れがあるのかわからな いし、まいた種のどれから収穫を得るかわかり ません。ある種は道端に落ちるかもしれない、 そして根を張る間もなく奪い去られてしまうか もしれない。またあるものは石地に落ち、そこ で枯れてしまうかもしれない。またあるものは 「機会のあるごとに、だれに対しても、とくに 信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」。 ここでは、使徒がこの世における援助について 語っていることがわかります。なぜなら信仰の 仲間でない者たちには、み言葉を宣べ伝えるよ うにと特に勧める必要はないからです。彼らは 特別に宣ベ伝えられるべき人々です。しかし、 「価 する」と呼ばれる人々に慈善を限定する、生れ ながらの傾向があります。ここでわたしは生れ ながらの、と言っているのであり、霊的な、と 言っているのではありません。わたしたちは「当 然保護の対象になる貧民たち」についてよく聞 きます。しかしわたしたちは皆、ほんのわずか の神の祝福を受けるにも価しません。それなの にキリストは、絶えずわたしたちに祝福をお与 えになります。「自分によくしてくれる者によく したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人で 116 ガラテヤ 6 章 さえ、それくらいのことはしている。また返し をいたずらに受けてはならない」。最後に言いま てもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄 す、「聖霊を受けなさい」。 になろうか。罪人でも、同じだけのものを返し てもらおうとして、仲間に貸すのである。しか しめくくりの言葉 し、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、 また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれ ば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き 者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知 らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである」( ル カ 6:33-35)。 この最もすばらしい手紙の最後にきました。 福音全体がそのあいさつの中に含まれているの で、最後にそれを見ることにします。使徒は文 字通り、イエス・キリスト、十字架につけられ た主以外のことは知りませんでした。彼は友に 対し、そのことに触れないであいさつをするこ 機会をさがしなさい とはできませんでした。この手紙のどの章から も、特に最後の 2 章から、それがどれほど直接 10 節の始めに特に注意しましょう。「機会の 的にわたしたちに宛てられているかがわかりま あるごとに」、すべての人に善をしましょう。他 す。だれもが 1 節、7、節、10 節を、ガラテヤ の人々に善を行うことは、放免されるべきやっ 人のことは全く考えに入れずに、今適用できる かいな義務ではなく、楽しむべき特権だと考え ものとして用います。しかし、まるでガラテヤ なければなりません。人は不愉快な事を機会 人はいなかったかのようであるほどに、この聖 (チャンス)だとは言いません。だれも自分を傷 句がわたしたちに意味のあるものであることは つけるチャンスがあったなどという者はいない 確実です。だからこの手紙全体をその様に扱う し、お金をいくらか損するチャンスがあったと のです。 も言いません。反対に、お金を儲けるチャンス があったとか、ある恐ろしい危険から逃れるチャ ンスがあったと言います。必要のある者に対し てわたしたちが善を行うことを考えるというの は、そういうことです。しかし機会というのは、 絶えず探すものです。人は常に利益を得る機会 をうかがっています。だから使徒はわたしたち に、いつも人を助ける機会を探すべきだと教え るのです。これをキリストはなさいました。彼は、 「良いことをしようと出て行かれた」。キリスト は、だれかに何かよいことをする機会を求めな がら、国を歩いて旅をして回り、彼らを見つけ 出しました。キリストはよいことをなさいまし た。 「神が共におられたからである」。彼の名は インマヌエル、その意味は「神われらと共にい ます」です。さて、彼は世の終わりに至るまでも、 いつもわたしたちと共におられます。だから神 は、わたしたちに良いことをなさりながら、わ たしたちもまた良いことをするようにと、共に いて下さいます。「わたしたちもまた、神と共に 働く者として、あなたがたに勧める。神の恵み この手紙を書く際の、使徒パウロの燃えるよ うな熱心さが、彼のいつもの習慣に反して、自 分の手で筆を取り手紙を書いたことにうかがわ れます (11 節 )。4 章でそれとなく言われていた ように、使徒は目の弱さに苦しんでいました。 それは彼の働きをかなり妨げ、神の力が彼にと どまっていなければ、彼を損なったことでしょ う。だから彼には、彼のために力を貸してくれ る者、筆記者として働く者がいつも一緒にいて くれることが必要でした。テサロニケ人への第 2 の手紙 2 章 2 節から、ある者がパウロの名前 で諸教会に手紙を書くためにこの事を利用して いたことがわかります。それは兄弟たちを困ら せました。しかし、手紙の最後に ( 第 2 テサロ ニケ 3:16-18) パウロは、手紙が彼から来たも のかどうかをどうやってわかるかを彼らに示し ました。彼はあいさつと署名は自分で書いたの です。そういうわけで彼がこの手紙を全部自分 で書いたということは、この件がいかに緊急を 要するものであったかということです。 117 世がわたしたちに対して、またわたしたちが世 見栄にすぎない わたしたちは神を欺くことはできません。ま た自分あるいは他人を欺くことは無益です。「わ たしが見るところは人と異なる。人は外の顔か たちを見、主は心を見る」( サムエル記上 16:7)。 「にせ兄弟」がガラテヤ人に、割礼を頼りにする に対して十字架につけられたからです。手紙は 始まったところ、すなわち「今の悪の世」から の解放で終わっています。そして解放を完成す るのは十字架だけです。十字架は謙遜の象徴で すから、わたしたちはそれを誇ります。なぜな ら謙遜の内に高揚があるからです。 ように説得しようとしていたことは、信仰によ る義ではなく、自己を義とすることを意味して 神は十字架のうちに啓示された いました。彼らは律法をただ「義と真理の形式」 として持っていただけでした。自分の行いをもっ エレミヤの口から語られた主の言葉を読みま て、彼らは「肉において見えを飾」ることがで しょう。「知恵ある人はその知恵を誇ってはなら きました。しかし、それは単にむなしい見せか ない。力ある人はその力を誇ってはならない。 けにすぎず、何の実体もありませんでした。彼 富める人はその富を誇ってはならない」( エレミ らはキリストの十字架のために迫害に苦しむこ ヤ 9:23)。 となく義人と思われることができました。 どうして知恵ある人はその知恵を誇るべきで 彼らは本当には律法を守りませんでした。決 はないのですか。それが彼自身の知恵であるか して守ってはいませんでした。なぜなら肉は御 ぎり、愚かしさに過ぎないからです。「この世の 霊の法則に反するからです。そして、「肉にある 知恵は、神の前では愚かなものだからである。」 ものは神を喜ばすことはできない。」しかし、非 「主は知者たちの論議のむなしいことをご存じで 常に多くの人々が、自分のとらえている特定の ある」( 第 1 コリント 3:19-20)。誇れるほど 教理を「わたしたちの信仰」と呼んで、それに の知恵を持つ者はだれもいません。というのは、 他の人を改宗させようと欲するのです。キリス その人自身の知恵は愚かだからです。そして神 トは、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あ が与える知恵は、誇るのではなく謙遜にさせる なたがたはわざわいである。あなたがたはひと ものです。 りの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩 く。そして、つくったなら、彼を自分よりも倍 もひどい地獄の子にする」と言われました ( マ タイ 23:15)。そのような教師は自分たちの「改 宗者」の肉を誉れとします。もし「わたしたち の教派」に属するものが非常に多いとか、過去 何年かにどれほど「獲得」したか数えることが 力についてはどうでしょうか。 「人はみな草だ」 ( イザヤ 40:6)。「すべての人はその盛んな時で も息にすぎません」( 詩篇 39:5)。「低い人はむ なしく、高い人は偽りである。彼らをはかりに おけば、彼らは共に息よりも軽い」。しかし「力 は神に属する」( 詩篇 62:9、11)。 できると、彼らは道徳的な幸福を感じます。数 と外見は人間には大きく評価されますが、神に とっては無です。 富についてはどでしょうか。それは「たより にならない」( 第 1 テモテ 6:17)。人は「積み たくわえるけれども、だれがそれを収めるかを 知りません」( 詩篇 39:6)。「富はたちまち自ら 現実の不滅の栄光 「わたしたちの主イエス・キリストの十字架以 外に、誇とするものは、断じてあってはならな 翼を生じて、わしのように天を飛び去るからだ」 ( 箴言 23:5)。ただキリストのうちにのみはか り知れないほどの富、永続する富が見つかりま す。 い」。なぜ十字架を誇るのですか。それによって 118 ガラテヤ 6 章 だから人には誇るべきものはまったくありま せん。富と呼べるようなものは何もなく、知恵 十字架につけられる らしきものもなく、そして全くの無力であるな ら、いったい人に何が残るというのでしょう。 人の持つものや人にあるものはすべて神から来 ます。だから「誇る者は主を誇れ」( 第 1 コリン ト 1:31)。 十字架はわたしたちを世から切り離し、その うえで、わたしたちを神に結び付けます。なぜ なら世と親しむことは神に敵することだからで す。「世を友とするのは、神への敵対であること を知らないのか」( ヤコブ 4:4)。その十字架を さてこの聖句をガラテヤ 6 章 14 節と一緒に 通してキリストは敵意を滅ぼされました ( エペ 見てみましょう。同じ霊が両方ともに働いたの ソ 2:15-16)。「世と世の欲とは過ぎ去る。しか だから、そこには何の矛盾もありません。一方 し、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」( 第 の聖句は、わたしたちはただ主を知る知識を誇 1 ヨハネ 2:17)。だから世は過ぎ去らせましょう。 るべきだと言っています。もう一方の句はわた したちの主イエス・キリストの十字架以外に誇 るものはないと言っています。だから結論は、 「消えゆけ、消えゆけ世の楽しみ、 十字架のうちに、わたしたちは神の知識を見つ イエスは我がもの。 けるということです。神を知ることは、永遠の もろい鎖を断ちきれ、イエスは我がもの。 命です。だからキリストの十字架を通してでな ければ、人間にとって命はありません。だから、 闇は荒れ野、地に休息の場はあらじ、 ここでもまた、神について知ることのできるこ イエスだけが幸いを与えうるのみ、 とはすべて十字架のうちに啓示されるというこ イエスは我がもの。」 とが明らかにわかるのです。十字架をほかにし て、神の知識はありません。 これはわたしたちに、十字架はすべての被造 高められる十字架 物のうちに見られることをもう一度示すもので す。永遠の力は神が造られたものの中に見られ るからです。神について知りうる事柄、神の永 遠の力と神性とは、被造物において知られてい るからです。神の力は被造物において知られ、 十字架は神の力です ( 第 1 コリント 1:18)。神は、 弱さの中から力を引き出されます。彼は死によっ て人をお救いになる、だから死ぬ者でさえ希望 をもって休むことができるのです。あまりにも 貧しく、あまりにも弱く罪深く、あまりにも堕 落し、さげすまれるので、十字架を誇ることが できないという人はだれもいません。十字架は その人を、その人がいる現実の場所に連れて行 きます。なぜならそれは恥と堕落の象徴であり、 その人の中に神の力が啓示され、そのことの中 に永遠の栄光の根拠があるからです。 イエスは、「わたしがこの地から上げられる時 には、すべての人をわたしのところに引き寄せ るであろう」と言われました ( ヨハネ 12:31)。 これを彼は、ご自分がどんな死を遂げるかとい うこと、つまり十字架での死を意味して言われ ました。彼は死に至るまで、しかも十字架の死 に至るまでおのれを低くされました。「それゆえ に神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる 名を彼に賜わった」( ピリピ 2:8-9)。彼はまず 「地下の低い底に降りてこられた」、「降りてこら れた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちる ために、もろもろの天の上にまで上られた」( エ ペソ 4:9-10)。キリストが天の王の右にまで上 げられたのは、死を通してでした。彼を地から 天にまで引き上げたのは十字架でした。ですか らわたしたちに栄光をもたらすのは十字架だけ であり、それだけが誇るべきものです。十字架、 すなわち世からあざけられ辱められるものを意 119 味するものが、わたしたちを世から引き上げ、 はないこと。(4) 神は被造物の中に啓示されてい キリストと共に天の地位につけるのです。そし て、神の力を現わす創造もやはり十字架を示す てこれをする力は、「わたしたちのうちにあって こと。なぜならキリストの十字架は神の力であ 働く力」です。それはわたしたちの内にあって り、それによって知られるからです。わたした 働き、宇宙のすベてのものを支える力です。 ちには何があるのですか。これです、世を創造 するのに用いられた力、あらゆるものがその中 にある力、あらゆるものの存在を保つために働 創造する十字架 キリストにあっては、「割礼のあるなしは問題 いている力、この力はそれを信じる者を救う力 です。これが十字架の力です。 ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重 要なのである」。これは、割礼にも割礼のないこ とにも、何の力もないということです。その人 の状態や環境がどうであっても、彼が何をしよ うとも、救いは人からは来ません。割礼のない 状態で人は失われることがあるし、またもしそ の人が割礼を受けていても、それで救いに近い わけではありません。ただ十字架だけに救う力 があります。価値あるただひとつのことは新し く造られること、あるいは「新しい創造」です。 「だ れでもキリストにあるならば、その人は新しく 造られた者である」( 第 2 コリント 5:17)。そ してそれは、わたしたちが死を通して彼に結ば れることによってのみ成されます ( ローマ 6:3)。 だから、十字架の力は、それによってのみ救 いがもたらされるのですが、それは創造する力 であり、あらゆる被造物のうちで働きつづける 力です。ところで、神があるものを創造されると、 それは「はなはだよい」のです。だからキリス トにあって、すなわちその十字架にあって、「新 しく造られたもの」であるわたしたちについて 言えば、「わたしたちは神の作品であって、良い 行いをするように、キリスト・イエスにあって 造られたのである。神は、わたしたちが良い行 いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備え て下さったのである」( エペソ 2:10)。この新 しく造られるということがなされるのは十字架 においてです。というのは、その力は、「はじめ に神は天と地とを創造された」時のその力なの です。これはのろいの下にある地球を究極的な 「わたしが手にして行くものは何もないあなた の十字架にただすがるのみ。」 十字架は新しく造ります。だから、そこにも また十字架を誇る理由を見ます。初めに神の御 手から新しく造られたものが生じたとき、「明け の星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ば わった」のですから ( ヨブ 38:7)。 破減から守っている力です。それは四季の変化 をもたらし、種まきの時と収穫の時をきたらせ、 ついには地の面を新しくします。だから、「荒野 と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花 咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、か つ喜び、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与 えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与 えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神 の麗しさを見る」( イザヤ 35:1-2)。 十字架のしるし 読んできた聖句を総合してみましょう。それ は次のことを示しています。(1) キリストの十字 架だけが誇るべきものだということ。(2) 誇る者 はただ神を知っていることを誇るべきこと。(3) 神は強い者をはずかしめるために世の弱い者を 「主のみわざは偉大である。すべてそのみわざ を喜ぶ者によって尋ね窮められる。そのみわざ は栄光と威厳とに満ち、その義はとこしえに失 せることがない。主はそのくすしきみわざを記 念させられた。主は恵みふかく、あわれみに満 ちていられる」( 詩篇 111:2-4)。 選ばれたので、だれもキリストのほかに誇る者 ここで、すばらしい神のみわざは、神の恵み 120 ガラテヤ 6 章 とあわれみと同様にその義をも啓示しているこ キリストと共に十字架につけられるということ とがわかります。これは神のみわざはキリスト は、自分は無に等しい事を認めて、自己を完全 の十字架を啓示しているということのもう一つ にあきらめ、キリストに完全に頼ることです。 の証拠です。十字架には限りない愛とあわれみ 彼のうちにわたしたちは休みを得、安息を見出 とが集中しています。 します。十字架はわたしたちを初めに連れ戻し しかし、「主はそのくすしきみわざを記念さ せられた」。なぜ神は人が主の力あるわざを覚え て宣言してほしいと願われるのですか。それは、 彼らが忘れることなく、神の救いに頼るように なるためです。主は、絶えず神のみわざに思い ます。「最初からあったもの」へと連れ戻すので す。週の第七日に休むことは、創造に見られる ように、神の完全なみわざの中に、十字架の中 に わたしたちが罪からの休みを見出すという事 実のしるしなのです。 をはせ、十字架の力を知るようになる人々をお 「だが安息日を守るのはむずかしい、わたしの 持ちになります。わたしたちが喜ぶのは神のみ 仕事がうまくいかなくなるだろう」。「わたしは 手のわざです ( 詩篇 92:4)。だから、六日の間 安息日を守っては生活することができない」。 「そ に天と地とあらゆるものを創造された時、「神は れはあんまり人気がない」。ああ、そうです。十 第七日にその作業を終えられた。すなわち、そ 字架につけられることが格別うれしいことだと のすべての作業を終わって第七日に休まれた。 言った者はだれもいません。「キリストでさえ 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。 ご自分を喜ばせることはなさらなかった」。イザ 神がこの日に、そのすべての創造のわざを終わっ ヤ 53 章を読んでみてください。キリストはあ て休まれたからである」( 創世記 2:2-3)。 まり人気がありませんでした。それに彼が十字 十字架はわたしたちに神の知識を伝えます。 なぜならそれは創造者としての神の力を示すか らです。十字架を通してわたしたちは世に対し て死んだのであり、世はわたしたちに対して死 にました。ということは、十字架によってわた したちは聖別されているのです。しかし聖とす ることは神のわざであり、人のわざではありま せん。ただ神の力だけがその大いなるわざをな し遂げることができます。はじめに神は、その 創造のわざの完成として、みわざが終わったこ とのしるしとして、完全の印として、安息日を 聖別なさいました。だから神は、「わたしはまた 彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間の 架につけられた時にはとりわけ人気がなかった のです。十字架は死を意味します。しかしまた それは命への入り口をも意味します。キリスト の傷にはいやしがあり、彼が負ったのろいに祝 福があり、彼が苦しんだ死に命があります。も し、この世におけるわずかの年月の期間の生活 のためにキリストに頼ろうとしないならば、だ れがあえて永遠の命のために彼に頼ろうと言う でしょうか。主の安息日を受けいれなさい。そ うすれば、あなたはかつて夢にも思わなかった ほどにまで十字架の意味がわかるでしょう。そ れはあふれるばかりの「永遠の重い栄光」であ るということが。 しるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖 さあ、もう一度言いましょう、心から言いま 別したことを、彼らに知らせるためである」と しょう。「わたし自身には、わたしたちの主イエ 言われるのです ( エゼキエル 20:12)。 ス・キリストの十字架以外に、誇りとするもの それでわたしたちは安息日、第七日目は十字 架の真のしるしだということがわかるのです。 それは創造の記念であり、あがないは創造、す なわち 十字架を通しての創造です。十字架に、 わたしたちは完璧かつ完全な神のわざを見ます。 そして十字架は神のわざでおおわれています。 は、断じてあってはならない。この十字架につ けられて、この世はわたしに対して死に、わた しもこの世に対して死んでしまったのである」。 もしあなたがこれを真実に言うことができるな ら、苦難と苦悩を栄光あるものとすることはい とも簡単であることがわかるでしょう。 121 「ハレルヤ、なんという救い主だろう!」 われみとがあるように。また、神のイスラエル の上にあるように」。栄光の法則!何という偉大 な法則によって歩くのでしょうか。ここで二つ 栄光 すべてのものが支えられているのは十字架に よります。彼のうちにすべてのものが結合して いるからです。そして彼は十字架につけられた かたという以外の形では存在なさいません。し かし十字架のゆえに全世界の死があります。も し十字架のゆえでなければ、人はだれも息をす ることはできないし、植物は成長できず、天か ら一筋の光も輝くことはありません。さて、「も ろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手 のわざをしめす」( 詩篇 19:1)。それらは神が 造られたもののうちのいくつかです。天のくす しい栄光を説明できる筆はなく、描写できる絵 筆もありません。しかしながら栄光は十字架の 栄光の他にはないのです。これはすでに学んだ ことからわかります。神の力は造られたものの 中に見られ、十字架は神の力です。神の栄光は 神の力です。「神の力強い活動によって働く力」 は、キリストの死からの復活に見られるからで ある ( エペソ 1:19-20)。そして「キリストは 父の栄光によって、死人の中からよみがえらさ れた」( ローマ 6:4)。イエスが栄光と誉れを着 せられたのは、死の苦しみのゆえでした ( ヘブ ル 2:9)。ですから、わたしたちには数えきれ ないすべての星の栄光、その様々な色、虹の栄 光のすべて、沈みゆく夕日に映える雲の栄光、 海の栄光、花咲く野原と緑の野辺の栄光、芽吹 きの時と実りの収穫の栄光、開く蕾 ( つぼみ ) と 完全な果実の栄光、キリストが天で持っておら れるあらゆる栄光、聖徒たちが永遠の星の栄光 のように、父の御国で太陽のように輝き出る時、 彼らのうちに現わされるのと同じ栄光は、すべ て十字架の栄光なのです。その他に誇りとする の階級について言われているのですか。いいえ、 それはありえません。この手紙は、もっぱらイ エス・キリストにあってすべてのものはひとつ であるということを示すために書かれたからで す。「そしてあなたがたは、キリストにあって、 それに満たされているのである。彼はすべての 支配と権威とのかしらであり、あなたがたはま た、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、 キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨 てたのである。あなたがたはバプテスマを受け て彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中から よみがえらせた神の力を信じる信仰によって、 彼と共によみがえらされたのである。あなたが たは、先には罪の中にあり、かつ、肉の割礼が ないままで死んでいた者であるが、神は、あな たがたをキリストと共に生かし、わたしたちの いっさいの罪をゆるして下さった」( コロサイ 2: 10-13)。「神の霊によって礼拝をし、キリスト・ イエスを誇りとし、肉を頼みとしないわたした ちこそ、割礼の者である」( ピリピ 3:3)。この 割礼がわたしたちを神の真のイスラエルにする のです。というのは、これが罪に対する勝利だ からです。そして「イスラエル」とは勝利者と いう意味です。もうわたしたちは「イスラエル の国籍」を持つ者であり、「もはや異国人でも宿 り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、 神の家族なのである。またあなたがたは、使徒 たちや預言者たちという土台の上に建てられた ものであって、キリスト・イエスご自身が隅の かしら石である」( エペソ 2:12、2:19-20)。 それでわたしたちは、「東から西からきて、天国 で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の 席につく」多くの人々に加わるのです。 ものをどうして考えることができるでしょうか。 キリストの焼き印 神のイスラエル 「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほ 「この法則に従って進む人々の上に、平和とあ しい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びて 122 ガラテヤ 6 章 いるのだから」。「焼き印」と訳されているギリ げるからです。十字架に新しい創造があります。 シャ語は、わたしたちの言語 ( 英語 ) に取り入れ それは神ご自身が「はなはだよかった」と言明 た「不名誉の印」の複数形です。それは恥と不 されたことです。そこに天におられる父の栄光 名誉を意味し、昔、それは罪人、または捕えら のすべて、永遠にわたる栄光のすべてがありま れた逃亡奴隷の体に、彼らがだれに属するもの す。ですから神は、わたしたちが主イエス・キ かを示すために焼き付けられた印のことでした。 リストの十字架以外のものを誇ることを禁じら そういうものがキリストの十字架の印なのです。 れます。その十字架によって世はわたしたちに 十字架の焼き印がパウロに押されました。彼は 対して死に、わたしたちは世に対して死にまし キリストと共に十字架につけられましたから、 た。 彼は釘跡を身に負っていました。それは彼の体 に焼き付けられました。それは彼を奴隷、主キ リストの奴隷として特徴づけました。だから、 崩壊を超えてそびえ立つ だれも彼に口出ししないようにしましょう。彼 キリストの十字架をわたしは誇る は人の奴隷ではないのです。彼は、彼を買いと 聖なる物語の光はすべて られたキリストだけに忠誠を尽くすべきでした。 その気高い頭の回りに集められている だれも彼を人または肉に仕えさせないようにし ましょう。イエスが彼にご自分の印を焼き付け られたからです。彼は他の者に仕えることはで それゆえに ― きませんでした。そればかりではなく、人々が キリストにある彼の自由をいかに阻害しようと したか、また彼をどのように取り扱ったか気を 滅ぼされ、失われていたわたしが その御名とみことばによってゆるされたので つけましょう。彼の主人は彼ご自身のものを確 わたしの主、キリストの十字架のほかには かに保護なさるからです。あなたはその焼き印 誇るべきものはない を身に帯びているでしょうか。そうならあなた はそれを誇りとすることができます。そのよう わたしはどこへ行こうともこの物語を語ろう な誇りはむなしくはなく、あなたをむなしくす 十字架の、十字架の物語を ることもないからです。 十字架の、十字架のほかには ああ、十字架にはなんという栄光があること わたしの魂は何も誇らない でしょう。天の栄光のすべてが、さげすまれた 十字架にあります、十字架の形にではなく、十 字架そのもののうちに。世はそれを栄光とは認 イエスはわたしのために死を味わわれた めません。しかし世は神の御子を知りませんで 十字架の、十字架の上で した。また聖霊を知りません。世が彼を知るこ これがわたしの絶えざる主題となるだろう とができないからです。神がわたしたちの目を とこしえに 開いてその栄光を見させてくださるように。そ うすれば、わたしたちはその真価を見ることが できるでしょう。わたしたちが彼と共に十字架 イエスはわたしのために死を味わわれた につけられることに同意できるように。そうす 十字架の、十字架の上で れば十字架がわたしたちを栄えある者としてく れます。キリストの十字架に救いがあります。 そこに、わたしたちを堕落から守る神の力があ ります。それはわたしたちを地から天に引き上 123
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