2012年8月6日 「平和の日」NEWS LETTER 特別号 キルギス共和国日本人材開発センター (JICA プロジェクト発行) 2 0 1 2 年 平和宣言 当時16歳の少女は、大切な家族を次々と亡くしました。――「7歳だった弟は、被爆直 後に全身火傷で亡くなり、ひと月後には、父と母、そして13歳の弟と11歳の妹が亡くな りました。唯一生き残った当時3歳の弟も、その後、癌で亡くなりました。」――広島で は、幼子からお年寄りまで、その年の暮れまでに14万人もの尊い命が失われました。 深い闇に突き落とされたヒロシマ。被爆者は、そのヒロシマで原爆を身を以て体験し、 後障害や偏見に苦しみながらも生き抜いてきました。そして、自らの体験を語り、怒りや 憎しみを乗り越え、核兵器の非人道性を訴え、核兵器廃絶に尽力してきました。私た ちは、その辛さ、悲しさ、苦しみと共に、その切なる願いを世界に伝えたいのです。 2011年3月11日は、自然災害に原子力発電所の事故が重なる未曾有の大惨事が発 生した、人類にとって忘れ難い日となりました。今も苦しい生活を強いられながらも、前 向きに生きようとする被災者の皆さんの姿は、67年前のあの日を経験したヒロシマの人 々と重なります。皆さん、必ず訪れる明日への希望を信じてください。私たちの心は、 皆さんと共にあります。 私たちは、今改めて、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、この広 島を拠点にして、被爆者の体験と願いを世界に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の 実現に全力を尽くすことを、ここに誓います。 平成24年(2012年)8月6日 2012年「平和宣言」より一部抜粋 http://www.pcf.city.hiroshima.jp/declaration/Japanese/2012/index.html キ ル ギスからの 平和の メ ッセ ージ 8月6日(月)日本センターでは「平和の日」とい う催しを実施致しました。「平和の日」は長年日 本センターで毎年実施している催しです。原爆 に関する様々な資料展示や、関連映像上映、 平和を祈念し千羽鶴を折っていただく折り紙の コーナー、平和への思いを絵や文字で表現し ていただく書道のコーナー、福島原発に関する コーナーを設置しました。ビシュケク市民に広 島と長崎が原爆投下されたことを知ってもらい、皆で平和を祈る良い機会となりました。 皆さんと一緒に折った千羽鶴は、広島平和記念公園内の「原爆の子の像(サダコ像) 」に寄贈致しました。また、福島原発に関するコーナーでは、昨年の東日本大震災に よる福島原発事故で甚大な被害を受けた福島県南相馬市の人々を撮影したビデオを 見て、南相馬市の人々に宛てたメッセージを書いて頂きまし た。これらのメッセージは、9月に、日本の任意団体であるデ ジタルストーリーテリング研究会により、福島県南相馬市の仮 設住宅で暮らす人々に届けられます。 「平和の日」にお越しいただいた方の感想をご紹介します。 「教科書などで原爆のことについて読んでもらうことと、実際 にこの催しに来て、ドキュメンタリや写真展などを自分の目で 見るのとでは、全然違う印象を受けた。人間にとって一番必 要なのは、戦争がない世界だ」 今後もキルギスから、平和のメッセージである千羽鶴を送るこ とを続け、核兵器のない、戦争のない、平和で安らかな未来 が訪れることを、心よりお祈りいたします。 (ジョルプベコワ・カニケイ) 『平 和 の日 』 ‐ 折 り 鶴 の行 方 『平和の日』の催しに参加してくれたキルギスの小学生からの質問を2つ程紹介したいと 思います。 ・ 「日本人はみんな佐々木禎子さんを知っているの?」 日本人のみなさん、いかがでしょうか。「佐々木禎子」という名前を知らなくても、折り鶴 の起源はご存知の方が多いかもしれません。私は小学校の頃に授業で聞いたような記 憶があります。折り鶴、特に千羽鶴は日本では“病気平癒”“平和祈願”では言わずも がなの習慣ですよね。 現在、35ヶ国以上の国々平和を祈る物語として 禎子さんのお話は語り継がれています。 ・ 「折り鶴はどこへ行くの?」 もちろん、日本センターでは毎年、広島平和記 念資料館に寄贈しているのですが、その後どう なるのか、みなさん御存知でしょうか。 広島平和記念資料館には年間約1千万羽、重 さにして約10トン(広島市HPより)もの折り鶴が 寄贈されているそうです。以前は一定期間保存の後焼却も行っていたようですが、な かなか理解を得られず保管場所に困るばかり。 そこで、最近注目されているのが「NPO法人千羽鶴未来プロジェクト」の活動です。こ のNPO法人では、千羽鶴からノートやボールペンを作り、戦争で傷ついた世界中の子 どもたちに贈呈しているのです。まさに「原爆の子の像(サダコ像)」の理念にぴったり の活動ですね。今回寄贈する折り鶴も、いつか世界のどこかの子どもの未来を描くペ ンとノートに生まれ変わるかもしれません。 (石川敦子) フクシマ の部 屋 キルギスに来て4ヶ月、私を日本人とみると、優 しいキルギスの人々から「津波は大丈夫だった か」「福島に親戚はいないか」と、声をかけてい ただくことがあります。 昨年の東日本大震災の後、世界中で福島第一 原発事故は大変インパクトのある映像と共に報 道されました。ですが、その後の福島県の状況 は海外にいるとなかなか情報を得にくいもので す。今回は、福島県南相馬市の人々がデジタル ストーリーテリング研究会と共に、自分の心を整理する意味を込めて作成したビデオ作 品を3作品紹介致しました。 『ふるさと南相馬』: 震災後、南相馬市で再度働き始めた若い女性の作品です。震災で癒えることのない 傷もあるけれど、それでも1年が経ち、街には少しずつ笑顔が戻ってきているので、こ れからみんなで力を合わせて街を元の姿にしたいと語っています。 『僕の夢』: 当時、小学校5年生だった少年の作品です。彼の家は流されてしまい、学校も立ち入り 禁止区域内のため、全校生徒が転校を余儀なくされました。現在は仮設住宅に暮らし ながら、またみんなで同じ学校で学べる日を夢見ています。 『こころをつなぐモノづくり~南相馬から~』: 南相馬市、物産振興会の方の作品です。幸い、家も店も無事だった作者は、国内外 からのたくさんの支援に大変感謝しています。また、これからも東北、福島を音連れて くれる人が増えるよう、必要な支援をしてもらえるように呼びかけています。 みなさん、ビデオを観て(ロシア語要訳付)教室にある福島原子力発電所の本(ロシア 人作家によるロシア語の本)を真剣に読んで、心をこめてメッセージを書いてくれまし た。メッセージは現在も南相馬市で仮設住宅での生活を余儀なくされている人たちに 届けさせて頂きます。 (石川敦子) KNU, Building 7, Floor 2, 109 Turusbekova Street. Bishkek www.krjc.kg tel. +996 (312) 906580, 906581 サダ コ の物 語 1945年、アメリカによって広島に原爆が落とされたとき、佐々 木禎子さんという女の子はまだ2歳でした。原爆が落ちた瞬 間、朝ごはんを食べるために家の中にいたため助かりまし た。その後、禎子さんを抱えたお母さんは壊れた家からなん とか逃げ出し、川へと急ぎました。川にはたくさんの人が集ま っていました。みんな、熱い熱いと言っていました。その時、 空から雨が降ってきました。真黒い雨でした。それでもみんな 熱くて、大きな口を開けて雨を飲みました。 それから9年が経ちました。今後100年は草木も育たないと言 われた広島も、徐々に街として活気を取り戻し始めていまし た。禎子さんは11歳、小学校の6年生になっていました。その 年の春、禎子さんのリレーチームは運動会で負けてしまいま した。悔しくて、悔しくて、放課後にはみんなで練習して、秋の運動会で優勝することが できました。禎子さんはアンカーでした。 年が明けて、禎子さんは突然入院することになりました。秋の運動会の後、風邪をひい て腫れたリンパ腺が良くならなかったからです。いろいろな検査の結果、1955年2月に 禎子さんは「白血病で余命1年」を宣告されてしまいます。 8月、名古屋の高校生たちから広島の原爆後遺症で入院している子どもたちにお見舞 いの折り鶴が送られてきました。この後、家族や両親から「鶴を千羽折ったら病気が良 くなる」と励まされて、禎子さんは鶴を折り始めました。熱があり、頭が痛くて眠れない日 も、禎子さんは一生懸命、必死で鶴を折り続けました。 1955年10月15日、リレーで優勝した日から1年が経ちました。この日、佐々木禎子さん は永遠の眠りにつきました。たくさんの折り鶴は思い出として禎子さんの友だちに配ら れたり、禎子さんと一緒に埋葬されたりしました。当時は紙が貴重で、薬を包んであっ たセロファンなども折り鶴に使われていました。原爆投下から10年が経っていました。 禎子さんは国語と音楽が大好きで、運動が得意で、とても優しくて、何より普通の女の 子でした。 禎子さんが亡くなって、小学校6年生の時の同級生たちは話し合いました。 「何か禎子さんのためにできることはないか。」 「いつでもお参りできるようにお墓を建てるのはどうか。」 「それなら、原爆で犠牲になった子どもみんなのために銅像はどうか。」 これに、全国から思いがけなくたくさんの反応がありました。 1957年1月、広島平和記念公園内に「原爆の子の像」を建てることが正式に決まりまし た。像が完成したのは、1958年5月5日、禎子さんが亡くなった2年半後の子どもの日 です。 禎子さんと折り鶴の物語は、絶対に繰り返してはいけない戦争の物語として、日本で はもちろん、世界中でいろいろな国の言葉に翻訳されて語り継がれています。現在で は、年間1千万羽の折り鶴(千羽鶴にして1万セット)が毎年毎年、広島平和公園の「原 爆の子の像」に寄贈されている(広島市HPより)そうです。 (※「広島平和記念資料館」キッズ平和ステーションヒロシマ HP「サダコと原爆」より http://www.pcf.city.hiroshima.jp/kids/KPSH_J/top.html の情報をもとにまとめたものです。) (石川敦子) ジョルプベコワ・カニケイ作成
© Copyright 2024 Paperzz