照応する「身振り」と「音楽」 ―西日本の民俗芸能の調査から― 網干 毅 Corresponded world in folk entertainment ―Consideration of a few examples in West Japan― Tsuyoshi ABOSHI In Japanese folk entertainment ‘gesture/music’ relationship is strong. Specially in primitive performance such as ‘Jonsan-mai’ in Kamisumiyoshi shrine at Kato District, Hyogo, gesture corresponds with music. Melody of Fue(Japanese flute) changes to gesture of dance. In this way Hayashi(music in folk performance) is not the accompaniment in the sense of western music. Though we cannot prove, these phenomena suggest that in traditional musical thinking of Japan gesture and music should be conceived simultaneously. 日本の祭礼や宗教儀礼に伴う、いや、それこそが宗教的な意味を象徴的に担うと言って よい民俗芸能は、多くの場合その担い手が職業的な芸能者ではなく、その地域の生活者で あるため、そんなに長期のそしてたゆまぬ訓練を必要としないものが多い。観光化されて いるものはともかく、生活者はほとんどの場合年に一度か数度、そのときだけ表現者とな ってその芸能を演じるのであって、そのための練習は数日間行われるにすぎないのである。 だからというわけではないが、そのような芸能は、技術面からだけ見れば確かに単純さ が目につき、その単純さの奥に潜むものほとんどを観衆も研究者もなんらの疑問や問題を 感じずに見過ごしてしまいがちである。ところが、ふと立ち止まってそれらの芸能を直視 してみると、人間の音楽行為の根源的なあり方への関心へと導くものが存在する。とりわ け、「芸能」は純粋に演劇なもの以外、所作あるいは身振りと音とが一体化しており、両 1 者の関係性のあり方がそのような関心を生じさせるのである。 本論は、我々が大阪音楽大学音楽博物館の前身機構の一つである音楽研究所の研究とし て調査してきた、大阪天神祭を含む西日本のいくつかの民俗芸能を取り上げ、その「身振 り/音」関係の観察を通して、人間の音楽行為の根源的なあり方の一面についての考察を開 く試みである。 1.調査事例に見る「身振り/音」関係の諸相 a.祝島神舞におけるシャギリの場合 本『音楽研究』で数回にわたって報告してきた山口県熊毛郡上関町祝島の神舞神事では 初日、四年に一度の神舞を舞うため大分県国東半島の伊美別宮社から船に乗ってやってき た神楽師たちを迎えるため、祝島の人々が三味線や締太鼓を持つシャギリ隊を結成し岸に 立って囃子を奏するが、かつて我々はそれを次のように記した(1)。 譜例の通り、演奏は「ソーレー」の掛け声で始まる。以下は三味線による旋律部とそ の他の鳴り物によるリズム部との合奏であり、構造としては単純である。拍子は基本的に4 拍子であるが、最終小節が休符なしの3拍子で終わり、開始の「2拍子」であるため繰り返 すとその部分が4拍子の拍節にのらないのは自明である。その為であろうと思われるのだが、 この音楽を繰り返す際、演奏が最終小節に達すると一度そこで完結させ、新たに「ソーレ ー」から開始するという方法で行われていた。つまり、3拍で最終小節で終えて一度音楽を 集結させておき、シャギリ奏者の無言の合意による間合いで新しく演奏を始めていたので ある。この間合いが、拍節で数えた場合1拍以上になることはなかった。その微妙な間合い が複数のシャギリ奏者の間でうまく一致していたのは興味深い。 いささか長い引用であるが、ここで述べられている最終小節における拍の「端折り」に 関しては、日本の民俗音楽のリズム感においては旋律エネルギーの解放点以降は、それま で反復されてきた二拍子系の拍節構造における裏拍が重要視されないという、小泉文夫の 説(2)がその事象を最もよく説明しうるかもしれない。 さて、4年振りに催された2004年の神舞の初日(8月16日)でもシャギリは上記のリズム感 で奏されていたのだが、頭の「ソーレー」で微妙なテンポの伸びと、間合いを入れるリズ 2 ム感は、祝島で生まれ育った人々にとっては、たとえ4年に一度でもなじみ深いものであり、 また練習でも確認するであろうから、奏演者たちは皆一致してそれに乗ることができるの であろう。言い換えれば、奏者たちは自らの外にすでに存在している音楽を学習し、身に つけた結果そのようなリズム感を奏でることができると考えられる。 ところが、今一度このリズム感に着目し、掛け声「ソーレー」と五線譜化して6小節の旋 律から成り立つ「祝島シャギリ」が生まれた時点のことを想像してみよう。おそらく、拍 節リズムによる三味線の旋律の反復だけでは確かに祭りの場の音楽としてふさわしくない と判断されーもちろん感性的な判断ー、反復ごとに掛け声が加えられることになったと思 われるのである。 が、この音楽の誕生を、そのように三味線か先で掛け声が後と、時系 列的な接合の結果として捉えていいのだろうか。そうではなく、このごく単純な音楽の内 に、掛け声と器楽を同時に構想する、つまり掛け声と器楽が互いに包摂しあう(3)音楽思惟 の存在を仮定することはできないであろうか。掛け声の部分と器楽の部分とのテンポの違 い、両者の転換の間合いは初めからイメージされていたのではないか、と。ちなみに、掛 け声とは、同じ人の声による活動でも概念を伝えあう通常言語ではなく、詩的機能とまで は言わないまでも、感情伝達を伴う声の身振りというべきものであろう。 ほんの小さな事例だか、声の身振りと音楽とが一体化したイメージのあり方をここから 考えたい。 b.大阪天神祭における催太鼓の場合 我々は、大阪の天神祭における催太鼓の奏演のあり方については、すでに詳細に報告し、 3人ずつが棒鼻、棒尻と呼ばれる太鼓台の前後に座り、6人一組となって太鼓を打つ願人た ちの打ち方に10種類のものがあることを指摘した(4)。そしてそこでも触れたのだが、催太 鼓の場合、耳に聴こえてくる音の次元でのリズムの違いでそれら10種の打ち方をグルーピ ングできるものの、そのことよりも、むしろ願人たちのそれらを打つ際の身振りの違いこ そがそれぞれの打ち方の存在を支えているものであることを明らかにした。 たとえば、宮出、宮入の際表門を通過するとき打たれる〈総立ち〉と渡御などで四ツ辻 にきたとき打たれる〈ヨイヨイ〉は、5つの太鼓の音が連続して聴こえ聴き手には同一の音 像をもたらすが、実際には〈総立ち〉では棒尻・棒鼻と分かれた願人がどちらもバチ(ブ チ)を束にして5拍打つのに対して、〈ヨイヨイ〉では最初の2拍は棒鼻の願人は打たず、 3 また4拍目は打つ振りをするだけなど、両者に身振りでの大きな違いが生じている。 そもそも、これらの身振りはそれらのパターン化された打ち方が、その打たれる「場」 と強く結びつき、宗教的あるいは呪術的な意味を担って案出されたのかもしれないが、い すせれにせよ、これらの音像については、西洋音楽についての「リズム型」と言った音楽 的概念は使えず、まさにパターン化あるいは型化された打ち方としか言えないものなので ある。 このように、催太鼓の奏演においてはそこで生み出される音像よりも、太鼓を「打つ」 という行為とその身振りが重要視されているのであり、「打つ」という行為の中に打たれ た結果現れる音の世界は包摂されてしまっていると考えられる。とはいえ、「打つ」とい うことが祭りでの太鼓の音に宗教性を与え、そしてその「音」が象徴的なかたちで、祭り の場に集った人々に神威を知らしめるのであることは確かで、その意味では決して身振り は音の世界と切り離されているわけではない。とすると、催太鼓のような音楽行為のあり 方は、「身振り/音」関係において「打つ」→「音」という結果論的にそれを理解すること への違和感を抱かせていまうのである。 かくして、ここでも「身振り/音」が一体化した音楽的思惟のありようを見ることもでき るのではないだろうか。 c.兵庫県播磨地方の鼻高舞の場合 本学音楽学部楽理専攻を卒業した石合恭子さんの卒業研究によると(5)、たとえば兵庫県 の加東郡上住吉神社が10月初旬に行う祭りにおける「リョンサン舞」は、顔には鼻高面を 付け、頭には鳥兜をかぶり、手に鉾を持って舞う舞人とその舞いに寄り添う笛と太鼓の奏 楽によって奏演されるものであるが、その舞いのゆっくりとした前半に奏される音楽は、 笛の旋律は3音のみのすこぶる単純なものであり、太鼓も時折トントンと二つずつ打たれる にすぎない。 ところで、この音楽は旋律音高の採譜は可能でも、リズムの採譜はほとんど不可能なも のである。なぜなら、太鼓の打点は笛の奏でる旋律の動きにしたがってその旋律のしかる べきところに置かれるのであるが、旋律はというと舞人の所作と密接に関わりながら奏さ れているからである。たとえば、長い音の後音高の変化に伴って、舞人の身振りもへんか するように。もちろんこの場合、どちらが主でどちらが従ということは言えず、旋律の身 4 振りと舞の身振りが互いにいわば間合いをはかりながら、切り結び、かつ一体となってい るのである。 このような旋律の動きと舞いの連携は播磨地方の様々な鼻高舞に見られるという。ただ、 この事例が先に挙げた二つの事例と大きく異なっているのは、こうした鼻高舞の場合、身 振りで表現する舞人と音楽の奏者が分離していることであろう。それため音楽の奏者はこ こでは「囃子方」と呼ばれることも多く、舞いが主、囃子が従と捉えられやすい。しかし、 はたしてそのように捉えていいのであろうか。今ではこの舞いに流れる「音楽的なるもの」、 すなわち流れとしてのリズムを包み込んだ「旋律の身振り/舞いの身振り」を、舞人と囃子 方は幼い時からの体験や練習によって体得しており、それにもとづいて奏演を行っている のだろうから、現実の奏演における主従関係はないであろう。 今問題にしようとしていることはそのことではなく、音楽行為における主従関係の捉え かたなのである。 祝島の神舞のシャギリの考察でのように、ここでもこの「旋律の身振り/舞いの身振り」 をその発生時に遡ってイメージしたい。発生時とは歴史的な意味で言っているのではなく ー歴史的な意味では他の場所からの伝播などいろいろなことが考えられるー芸能発生の根 源的な場ということなのであるが、そうしたとき、これも舞いの身振りが先にあり、その 後囃子が付けられたものと考えていいのであろうか。さすがに、音楽の単純さゆえに囃子 が先に生まれ、それをもとに舞いが振り付けられたとは考えにくいものの、舞いの身振り と音楽の身振りの対峙そして一体化は、それらが同じ根源から生み出されてきたと思わせ てはしないだろうか。具体的な歴史上の問題としては、両者の誕生に時差はあるのだろう が、旋律の身振りの萌芽は舞いの身振りが生み出された時点で可能性として存在したので はないか。とすると、この場合両者は互いに包摂しあっており、笛と太鼓の音は舞いの身 振りの「口唱歌」ならぬ「音唱歌」とさえ理解されるのである。舞い人が舞うとき、笛の 奏者も太鼓の奏者も舞っている。 2.「身振り/音」関係についての一般化 ほんのわずかであるが、上のような調査例を踏まえて民俗芸能における「身振り/音」関 5 係を一般化しておきたい。その際先に、表現のありようとして身振りと音楽が密接に関わ りながらも歴史的にそれぞれ独自の表現体系を持つに到り、それらが再度結合するかたち で成立している西洋の近代バレエの場合を簡単に見ておこう。 バレエの一演目は、踊り、音楽どちらがが先に生み出されて成立するのだろうか、とは よく提出される問いである。この問いは、答えるのが決して容易な問いではない。バレエ が生み出される手順を考えれば、バレエの演出家が、表現したいイメージをまず抱き、つ いでそこからストーリーもしくはプロットを案出するのであろう。その後音楽家に作曲を 依頼するのだろうが、演出家はおそらくもうその時点で具体的な身振りのイメージも思い 浮かべているであろうから、その意味では踊りが先に生まれると考えられるのである。そ して、音楽を依頼された作曲家の方は件の演出家の意向を汲みつつ、身振りの伸縮、静動、 間合いを考慮して音楽を作りをすすめるに違いない。ところがその過程で、演出家も出来 上がりつつある音楽を聴いて、演出構想を変えることも多々あろう。とすると、舞踊が先 で音楽が後とは一概に言えなくなるのである。かくして、バレエもまた身振りと音楽との 照応correspondance(相互交流)の要素を強く持っていると考えられる。その結果、踊りが 先、音楽が後というかたちで成立するバレエでは、その前後関係が、音楽なしにバレエは 見れないが、バレエ音楽は舞踊なしでも聴くことができるという主従関係に逆転する場合 も多い。 今バレエを例に出したのは、それぞれ分離して発展したものの再結合としてのバレエで さえ、身振りと音が関わるとき、簡単な主従関係をその中に見ることはできないというこ とを見るためであったが、身振りと囃子が分離しない、またはきわめてプリミティヴなか たちで結びついている日本の民俗芸能における「身振り/音」関係の整理はバレエ以上に複 雑である。 まずは、身振りと囃子との奏演者が分かれている場合。この場合太鼓を「打つ」、笛を 「吹く」、鉦を「叩く」という囃子方の演奏動作は、見られるべき対象とならず、そのた め音楽だけが独自の発展をしそうなものだが、そうはならないままのものが多い。身振り も音楽も洗練や複雑化の度合いを高めない。ここでは両者の結びつきがそれほど強いとし か解釈しようがないのである。 能楽の囃子、歌舞伎舞踊の長唄などはその点で希有な例であるが、それらは芸術化され た舞台芸能だからであろう。また、龍踊りが踊られる、大阪天神祭の地車囃子も高度に洗 6 練された音楽だが、これは残された地車が一台のみになって以来、その地車がステージと なって発展したからに違いなく、龍踊りはそれに合わせて踊られるようになったと考えら れる。 さて、二つ目は、本論では取り上げなかったが、滋賀県や兵庫県に伝わ風流系統の太鼓 踊りのように、舞い手自身が太鼓等を身につけ、宗教的、呪術的な意味を抱いているので あろう舞踊の身振りの中に「打ち」「吹く」「叩く」といった楽器演奏の動作が組込まれ ている場合である。 この場合もまた、音楽も舞踊も洗練や複雑さを高めてきたとは思われない芸能がほとん どであるが、楽器の演奏の動作と舞踊との結合があまりに強いため、変化させようがなか ったのであろう。 以上、日本の民俗芸能における「身振り/音」関係の二つの様態を見たが、どちらにせよ、 音楽が身振りと、そして身振りが音楽と奏演される限り、舞踊、音楽ともに洗練や複雑さ を高めてきたとはいえない。とりわけ、音楽は身振りを捨象して自立化できないのである。 その意味で、これら二つの様態は、身振り表現と音表現は実は分かちがたいものであると いう、根源的に同じありようを共有していることを示唆しているのではなかろうか。とす ると、一般的に身振りが主で、それが従とされている「囃子」の理解の仕方に変更を迫ら れるに違いない。 3.「囃子」について 先の1-cで例示したように、民俗芸能では身振りを演じる人と、音を奏でる人すなわち囃 子方とが分離している場合が圧倒的に多いため、人々はそれを念頭に置いて両者の関係を 考えてきた。吉川英史は、そのようなとき人々は身振りを主、囃子を従とする見方に陥り がちだとし、次のように述べている。「これらの囃子は結局、(中略)「栄やす」もので あって自らは従属的な位置に甘んじているのである」そして「この囃子という言葉の中に、 打楽器を主とした器楽合奏の副次性、ひいては、声楽や舞を尊重する精神が間接にみられ るのである」(6)と。確かに囃子という言葉は、「囃子たてる」という派生語が思い浮かぶ ように、主なるものがあってこそその存在価値を発揮できるものという意味合いがつきま 7 とっているものであろう。また、囃子という言葉にこだわらずとも、演劇や舞踊といった 身振りと音楽が「分離/結合」したバレエやオペラを語る場合でも、人々は音楽の素晴らし さに敬意を払いつつストーリーの面白さやストーリーに導かれた歌や舞について先に触れ るのである。ただ、西洋のように、個々の芸術が時代がくだるにつれて純粋化して発展し たものについてはとちらが主でどちらが従といったかたちで捉えられないものとなっては いるが。 さて、吉川英史の言葉は、日本人一般の「囃子」理解としては首肯できるものであり、 日本伝統音楽において純粋器楽が発展しなかったのは、囃子を従属的なものとしておくこ とによって音楽そのものへの関心が高まらなかったとする言外の主張も理解できなくはな い。 しかし、日本人が囃子を従と考えてきたから、西洋のような純粋器楽が発展してこなか ったのだろうか。そうではあるまい。ここまでの我々の考察によれば、囃子は、それが寄 り添う身振りとあまりに一体化しているため、そこから自らを切り離すことができず、そ れゆえヨーロッパ音楽のような独自の歩みを得ることがなかったのではないかと思われる のである。 われわれと考えを同じくし、「囃子」ということそのものについて、非常に興味深いこ とを述べているのは郡司正勝である。彼は、「日本舞踊の場合の音楽は、伴奏音楽ではあ りませんからね。あれは舞踊との立ち会いであって、音楽自体が一種の踊りであるとみな ければ成立しないんですよ」(7)と語っているが、これは日本の芸能における「身振り/音」 関係に関して極めて本質をついた考察と言えよう。 事実、祝島の神舞でも奏楽と奏舞の役割が分離しているわけではなく、交代して二つの 役割を務めているし、神楽師たちはまず舞いから習い、その身振りを身につけたものとし て太鼓、鉦、笛を奏でるのである。先に記したように、神楽を舞う人とともに奏楽する人 もまた舞っているのである(8)。 彼はまた、吉川と同様「囃す」は「生やす」「栄やす」に通じるものと述べているもの の、吉川とは正反対に囃子を身振りと音楽を共通の生命力の場に位置づけており、敷衍す れば、両者を共通の根源から生まれてきたものと理解しているようである。 8 4.終わりに 本論の主張するところはすでに明らかであるが、後段いささか日本音楽における音楽の 自立性について言を費やし過ぎたようである。また、その自立性について否定的なニュア ンスで語り過ぎたようである。それらはまず、訂正したい。 本論はそうではなく、むしろ日本の民俗芸能における「身振り/音」関係の見直し、再発 見、そしてそのありようの積極的な評価を提案することであった。そのありようとは、身 振る人と奏でる人が分離しようが、同じ人であろうが、さらに身振りが声の身振りであろ うが、それらにおいて「身振り/音」はきわめて強く結びついており、その発生時をイメー ジするとそれらは「一つのもの」として発想されたとしか考えようがないというものであ った。 そして、この「一つのもの」は大きく考えれば人間の音楽的思惟の根源についての考察 に誘うものと思われ、また「身振り」と結びついているという意味ではその根源的思惟が 「身体」と密接に関係していると考えても、ことの本質からはそんなに遠くないはずであ る。 だが、これらの場合「打つ」「吹く」「叩く」といった行為が身体によるもので、音楽 を生み出すという主体の根源的な行為だとはいえ、反面、客体化された抽象的な音を「手 ごたえ」として身体に引き寄せる行為でもあるため、そのような音楽行為のありかたと身 振りとの関わりかたをさらに詳細に分析する必要があろう。そのためそんなに簡単に「身 体性」を持ち出すことは、今のところ控えておきたい。 我々としては、これまでと同様民俗芸能の構造分析を進めつつ、そこから浮かびあがっ てくることについてさらに考察を重ねたい。 注 (1)網干毅・株本真里・宮西桐子・村田明美「山口県祝島の神舞」 大阪音楽大学音楽研 究所年報『音楽研究』第14巻 (2)小泉文夫「日本のリズム」 1997年 p.15 『音楽の根源にあるもの』青土社 1977年 pp.43f. (3)包摂と言う言葉は、哲学用語で広辞苑によれば「ある概念がより一般的な概念に包括 9 される従属関係」ということであるが、ここでは、単に包み込むという意味で用いて いる。 (4)井野辺潔・網干毅共編『天神祭』創元社 1994年 pp.103f. (5)石合恭子「播州地方における鼻高舞についての一考察」 大阪音楽大学音楽学部作曲 学科楽理専攻平成7年度卒業論文 (6)吉川英史『日本音楽の性格』音楽之友社 1979年 p.187-188 (7)郡司正勝・渡辺守章「舞踊は何を表現するか」『ユリイカ』1983年11月号 p.111 (8)神楽師たちが舞いと囃子とをどのように習得し、そのとき身体及び意識にどのような 変化があるか、といった考察は、小林正佳『踊りと身体の回路』青弓社 1991年 に 詳しい。 【2004.9.10.受理】 10
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