ベトナム - 海外職業訓練協会

企業における人づくり
ベトナム
現地従業員の育成に関わる実施事例等のご紹介
財団法人 海外職業訓練協会
Overseas Vocational Training Association
〔ベトナム編〕
第一編
ベトナムとそのベトナム人を理解する(国情)
第1章
ベトナムの概要
1.国土と自然
ベトナムは、インドシナ半島の東の海岸線に沿って南北に 1,650km という細長い国土を
有する。国土の北部は中国に、中部は山脈を挟んでラオスに接し、南部はメコン河を共有
するカンボジアに隣接している。国土は S 字型をしており、最も東西に長い部分で 400km、
短い部分で 50km である。面積は 32 万 9,315k ㎡と日本の国土面積から九州を差し引いた
面積にほぼ等しい。
北部、南部にはそれぞれ紅河デルタ、メコンデルタという 2 つのデルタ地帯があり、米
をはじめとする農業が盛んである。
ベトナムの気候は全体的には熱帯モンスーン気候に属するが、南北に長い国土のため気
候は多様である。ハノイを中心とする北部は、正確に言うと亜熱帯気候で四季がある。1
∼4 月は涼しく日本の秋のようだが霧雨が降ることがある。5∼9 月が最も暑く 40℃以上
になることもあり、7∼9 月が雨期にあたるため多湿で不快指数が高くなる。そのため、訪
問のベストシーズンは 10∼11 月である。
中部と南部は雨期と乾期からなる。中部の雨期は 9∼11 月で、8∼9 月は台風の上陸が多
い。5∼8 月は暑く、ハイバン峠を隔てて南のフエは高温多湿だが、南のダナンでは空気が
乾燥しており気温が 40℃まで上昇すると日差しが痛いほどである。中部でも山岳高原地帯
は 1 年の平均気温が 20℃程度と涼しく、天気が変わりやすい。中でもダラットはベトナム
の軽井沢と呼ばれる避暑地で、野菜や花樹栽培が盛んである。
南部は 1 年を通じて気温の変化が少なく、25∼35℃程度である。雨期は 4∼11 月だが、
雨期以外にもシャワーのような雨が短時間降ることがある。
2.ベトナムの民族
ベトナムは多様な気候と同様、地域により国民性が異なる。例えば、北部は勤勉でまじ
め、中部は我慢強く、南部はおおらかな印象がある。
民族的に見るとベトナムには現在 54 の民族がいるが、50 年前の資料では 90 民族あっ
たとされている。人口減少や生活スタイルの同化などによりその数が減少したものと推測
される。
平地部に居住するキン族は全国民の 9 割を占めている。平地部にはそのほか、チャム族、
クメール族と中国系ベトナム人がおり、一方、山岳部にはムオン族、ターイ族、タイ族、
ヌン族などの少数民族がいる。中国支配下に置かれた間、中国文化を積極的に取り入れた
のが今のベトナム人の主流であるキン族で、あまり中国文化の影響を受容しなかった人々
が、ムオン族などになったと言われている。
キン族の言葉がベトナムの公用語となっているが、実際、各民族間が交流する際には通
訳が必要となる。ベトナム政府では少数民族の発展と保護を目的に少数民族委員会を設置
1
しており、組閣の際には必ず少数民族出身者を加えるなど少数民族の存在を常に意識して
待遇している。
<少数民族の写真>
ベトナムの民族の歴史は、諸外国からの支配の繰り返しであった。1,000 年を超える中
国支配と、その後 100 年にわたるフランス植民地時代、そして対米戦争(ベトナム戦争)
などを通じ、そこには常に抵抗と独立への戦いがあった。その体験が民族意識の根底に色
濃く残っている。中国とは国境を接しているだけに表面的には友好を持って接しているが、
嫌悪感は非常に強い。また、
「明日はどうなるかわからない」戦況下での経験から、ベトナ
ム人は相対的に長期的な視点で物事を見るのが苦手であり、それよりも「今どうするか」
という短期的な視点で考えることが得意である。明日 100 ドル儲ける話より、今 10 ドル
もらうことの方が確実であると見る傾向があり、また活況を呈する今日のベトナム株式市
場において毎日の株価の動向に一喜一憂する姿も、
「今儲ける」ことへの執念のように見え
る。
苦難の歴史を生き延びてきた経験から身につけたものとしては、粘り強く交渉する「タ
フな交渉人」としての顔もある。また、できなくても「できる」、知らなくても「知ってい
る」と言い、非を責められても謝らないといった戦時下で生き残るために身につけた態度
がベトナム人の特徴として残っている。
3.政治と経済
3.1 政治体制と国家組織
ベトナムの政治はベトナム共産党の一党体制である。また、社会主義体制だが、中国の
社会主義とは異なり、マルクス・レーニンの社会主義思想に加え、ホーチミン思想(自分
たちの力で独立を果たし、自由な国づくりに汗を流し、国民すべてが幸福になろうという
もので、
「独立」と「生きることへのこだわり」が優先する)がそのベースにある。これが
ベトナムという国の強さにつながっている。
2
ベトナム共産党は、国家の基本政策や方向性などを決定するなど国家を指導する立場に
あり、中央政府各省庁や地方政府等は党の指示を受けて具体的な法案作成、計画立案等を
行い、これを執行する。
党の組織は、5 年に1度開催される党大会により選出された中央委員(定員 150 名)か
らなる中央執行委員会が、書記長をトップとする政治局と書記局のメンバーを選出し、ま
た分野ごとの委員会等を置く形で運営されている。
図1: ベトナム共産党組織図(党の中央組織)
全国代表者大会(党大会)
5 年ごと開催
党の基本方針決定
中央執行委員会
定員 150 名、年 2 回開催
意思決定、政策決定、政策実施指導
政治局
書記局
14 名(トップは書記長)
10 名(うち 5 名は政治局員が兼務)
政策実施指導、重要外交方針の承認
政治局の決定第 45−QD/TW により、2007 年
各委員会
党中央事務局
党の日常活動指導、活動の調整
*1
中央監査委員会
4 月以降、党の各委員会は以下の通り統合さ
れた。
*1
中央組織委員会*2
党中央事務局=中央内政委員会+
教育宣伝委員会*3
中央経済委員会+中央財政管理委員会
大衆動員委員会
+党中央事務局
*2
対外委員会
中央組織委員会=中央内部政治防衛
委員会+党中央組織委員会
海外党幹事委員会
*3
ホーチミン国家政治学院
教育宣伝委員会=中央教育科学委員会
+中央思想文化
経済管理研究所
党機関誌ニャンザン
3
憲法によると、ベトナムの国家機関は国会、国家主席(大統領)、政府、人民委員会、
人民検察院、人民裁判所などからなる。
国営企業は国家組織に付帯する形で存在しており、いずれも省庁や地方人民委員会そし
て大衆組織(祖国戦線や婦人連合など)の傘下に置かれる。
祖国戦線とは、聞きなれない組織だが、99 年に制定された「ベトナム祖国戦線
法」によると「共産党によって主導されるベトナム社会主義共和国の政治システムの一部
であり、人民政権の政治的基盤である」と明記されている。祖国戦線は党・政府の方針や
政策を理解し、協力して遂行する組織である。当初はベトナム連合戦線や南ベトナム解放
民族戦線などが吸収合併して設立されたが、その後、様々な階層の利害を代弁する諸政党・
諸団体が当面する共通の問題を、階級的利害を超えて一体化した。多くの大衆組織(約 30
組織)から支持されている特別な権限と役割を付与された政治・社会組織である。
図2:ベトナムの国家組織図
祖国戦線
共産党
国会
大統領
副大統領
議長
中央執行委員会
国会常務委員
議長
国家防衛
保安評議会
民族評議委員
理事会
政治局
法律委員会
中央事務局
常務委員会
経済委員会
労働総同盟
党中央事務局
国防治安委員会など
政府
青年・児童団
中央監査委員会
首相
副首相
首相府
少数民族委員会及び
婦人連合など
最高
最高
人民
人民
裁判所
検察院
国防省など各省含む
中央組織委員会
など
地方祖国戦線
支部
地方人民評議
軍事
地方
軍事
地方
会
裁判
人民
検査員
人 民
所
裁判
検 査
所
員
地方人民委員
会
地方人民委員
会の各局
その他
4
3.2 経済
ベトナム経済は近年急速な発展を遂げ世界から注目されている。
GDP 成長率は、1990 年代は 4%台から 9%台を上下していたが、1997 年のアジア通貨
危機により 1999 年に一時大きく落ち込んだ後、2000 年以降は安定的に 8%前後で推移し
ている。政権が安定している限り、経済成長はこの先 10∼15 年は続くものと予想される。
1 人あたりの GDP は 2006 年現在、720 米ドル(2005 時点では年ホーチミン市は 1,850
米ドル)まで上昇している。
しかし、このような経済の急成長が 1986 年のドイモイ政策採択による市場経済の導入
からわずか 20 年しか経過していないことは驚きである。その間、街の景色だけでなく人々
の考え方も大きく変化し、また社会もダイナミックに変貌してきた。また、積極的な外資
導入により「世界の生産基地」として注目を浴びるようになり、全方位外交を展開する中
で国際社会での評価も高まっている。
現在では、ベトナムは単なる生産基地としての評価のみならず、新たな消費市場として
も注目されている。市民の所得向上による富裕層の誕生や、2020 年における人口予測が 1
億人を突破する見通しであることなどによるものだ。
また、今世紀には世界的に枯渇が心配されている食糧、エネルギー、金属の自給が可能
な国であることも大いに注目すべきであろう。食料自給率は 160%に達している。エネル
ギーに関しては、石油、石炭の埋蔵量が豊富である。原油産出量は現在 1700 万トンだが、
新規油田の発見で年産 3,000 万トンは期待できる(推定埋蔵量は 2,700 億トン)。
また、2009 年にはベトナム初の石油精製基地が完成の予定で、将来的には石油化学産業
も自国でまかなえるようになる。石炭は現在、年産 3,900 万トンである。金属としては、
金、銅、ボーキサイトなどが埋蔵されている。これだけ見ても、ベトナムの優位性がわか
るというものである。この事実を知ると、ベトナムを優秀な労働力を活かした生産基地に
とどめておくのはもったいないことがおわかりいただけるだろう。
ベトナムは 2007 年 1 月、WTO に正式加盟し国際経済の枠組みの中で勝負することを選
択した。国内企業にとっては生き残りをかけた厳しい競争となるが、西側諸国にとっては
新たな投資分野への門戸開放、また、より世界基準に近いビジネス環境が実現することに
なる。投資家の新たな関心を呼ぶところであろう。
ベトナムの現在のような急速な経済成長を支えている要因としては、次の 3 点が挙げら
れる。1つは、前述したが「外国投資の拡大」にある。昨年は新規・増資を含め初の 100
億米ドルを突破した。今後も同額もしくはそれ以上の外国投資が見込まれており、今後も
中国リスク、マレーシア、インドネシアなどからのイスラムリスクのヘッジ先としてます
ます注目されることだろう。2つ目は、
「ベトナム人実業家の台頭」である。最近、有力な
ベトナム人実業家が次々に誕生していることは見逃せない。昨年 7 月から施行されている
共通投資法、統一企業法により規定された「企業グループ」などが「財閥」のように多種
な事業を手掛けるケースが今後は増えていきそうである。ビジネスパートナーとしても考
慮に値する。3 つ目は、
「越僑(海外在住ベトナム人)からの送金」である。越僑からの送
金額は、正規なルートを通じたものだけで 2006 年は 43 億米ドルに達している。
地下銀行や手持ちで海外から持ち込まれた現金などを入れるとその額は計り知れない。
また、越僑からの投資は不動産やリゾート開発、株式投資などの間接投資を中心に増加
5
傾向にある。
90
80
70
・ W T O に 正 式加 盟 ︵ 07 年 ︶
・ 日越 共 同 イ ニ シアティ ブ が 第2 フ ェ ー ズに移 行
︵ 新 し い 準 拠法 は 共 通 投 資 法 と 統 一企 業法 ︶
・外国投資法 の法体系を 改革
な ど の ヘ ッ ジ 先 と して 注 目 さ れ 始 め る 。
・中国、マレ ーシア、インドネシア、
・工 業団地稼 動
・役人再教育
・工 業団地の 造成が進行
・ 法 律 整 備 、 制 度 見 直 しを 推 進
・ ア ジ ア 通 貨 危 機で 投 資 意 欲 減 退
O E M 生 産 ︵活 発 ︶
合弁 ︵トラ ブル多 く苦 労 山積︶
環
<境 E
>P Z ︵ 比 較 的 ス ム ー ズ ︶
理
<由 制
>度 不 安 定 、 法 律 未 整 備 、 役 人 横 暴 、 ワ イ ロ 横 行
・ 投資 へ の 関 心 が 高 ま る が 、 混 迷 を 極 め た 時 期
・ 米 国 が エ ン バ ー ゴ 1 次解 除 ︵ 9 2 年 ︶
・ 日 本が OD A 再 開 ︵9 2 年 ︶
・ 旧ソ 連崩 壊 ︵9 1 年 ︶
・外資法によ る投資がスタ ート︵88年 ︶
・外資法制定 ︵87年︶
・ドイモイ政 策︵86年︶
6
離陸期
助走期
休息期
混迷期
黎明期
100
0
20.2
15.7
0
19
200
108
69
37
7.4
12.8
3.2 5.3
10
300
22.2
25.9
285
311
358
274
16.2
25.9
20.3
20
367
40
37.5
197
151
30
400
39
371
41.4
387
500
408
50
600
523
48.9
60
700
68.5
800
投資総額
723
754 748
771
投資件数
78
900
833
89.8
100
(件)
ベトナムへの外国直接新規投資の推移
(億米ドル)
88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06
第2章
1.
雇用・労働事情
労働環境
ベトナム人労働者への評価として一般的によく知られているのは、「手先が器用(細か
い作業に向いている)」「目が良い(不良品の判別力が高い)」「勤勉(真面目に取り組む)
「向上心がある(自分の能力向上に熱心)」などである。その半面、ベトナムはグローバル
な市場経済に参加した 1995 年からまだ 10 年強しか経っていないため、会社組織の中で働
くことに慣れていない人が多く、そのため「組織」より「個」への意識が強い。また、企
業への帰属意識があまり強くなく、個人の業務範囲を他者と共有したがらないなどの傾向
にある。
労働者の周辺事情は、北部・中部・南部と地域によって異なる。90 年代に外国企業の投
資が集中した南部地域では、当時は現地及び周辺地域からの労働者で十分ニーズに対応で
きたが、現在は各地で雇用機会が拡大したことにより現地で労働者を雇用するのが難しく
なり、職の少ない地方省からの労働者を確保してその不足を補っている。しかし、最近は
それでも十分な労働者が得られない地域も出てきている。
一方、近年日本からの投資が増えている北部地域では、ハノイ近郊各省に外国企業が
次々進出しているが、現状ではまだ労働者には余力がある。中部地域は、北部や南部に比
較すると工業化が遅れているため、一般の労働者は多いが高度技術者や中間管理職などの
人材が少ない。
ベトナム全体に言えることだが、ベトナムの人口構成がピラミッド型のため、教育・訓
練を必要とする若く未成熟な労働者は多いが、中間管理職はもともとの人口が少ない上に
欲しい人材は更に少ないというのが現状である。高度技術者も同様に引く手あまたである。
また、現在、産業による住み分けが少しずつだが始まりつつある。省によっては、業種
により特定の工業団地への進出を進められることもある。これまではどこでもどのような
業種でもウエルカムだったが、状況は変わりつつある。ホーチミン市では先端技術や IT
産業、中部ズンクワット周辺では石油化学産業、北部では部品産業など地域の特色を活か
した産業のすみ分けが今後進むものと見られる。
2.外資企業の最低賃金
ベトナムにおける外資企業の最低賃金が 2008 年 1 月から引き上げられる。
外資企業の最低賃金(月額)の最高額は 100 万ドン(約 62 米ドル)で、この金額が適
用される地域はハノイ及びホーチミン市の区部である。最低賃金は 3 分類で決定され、①
ハノイ及びホーチミン市の区部、② ハノイ及びホーチミン市の郡部、ハイフォン市区部、
クワンニン省ハロン市、ドンナイ省ビエンホア市、バリアブンタウ省ブンタウ市、ビンズ
オン省(トゥーザウモット町、トゥアンアン県、ジーアン県、ベンカット県、タンウエン
県)、③ 上記以外の地域となる。
これらの分類は、地域の GDP や労働者数、消費者物価、貧困世帯人口、投資政策など
によるもので、外資企業の場合、①の地域が 100 万ドン、②の地域が 90 万ドン、③の地
域が 80 万ドンである。
7
表1: 外資企業の最低賃金推移
適用
最低賃金(月額)
地域
1999 年 7 月改正
①
62.6 万ドン(約 45 米ドル)
87 万ドン(約 55 米ドル)
100 万ドン(約 62 米ドル)
②
55.6 万ドン(約 40 米ドル)
55.6 万ドン(約 50 米ドル)
90 万ドン(約 56 米ドル)
③
48.7 万ドン(約 35 米ドル)
71 万ドン(約 45 米ドル)
80 万ドン(約 50 米ドル)
2006 年 2 月改正
2008 年 1 月改正
3.労働者の定着率
労働者の定着率は、企業の立地や周辺環境、企業文化、職種、賃金などによって異なる。
一般に、日系企業の間では賃金について暗黙の了解があるが、他国の外資企業の多い地域
では周囲の企業の賃金レベルの上昇に影響を受けやすい。仕事に対するモチベーションを
上げている企業では離職率は低いが、そうでないとせっかく教育した人材をあっさり他社
に引き抜かれるということもある。一方、家族的な企業では離職率が低い傾向にある。労
働者の家族も含めたコミュニケーションに努力を払っている企業も多い。
ベトナム労働者の中には、企業ブランドの安定感よりも少しでも給与の高い企業への転
職に関心が高い人もおり、人によっては企業から与えられる日本語学習のチャンスも時に
個人の能力を高める手段となり、次の転職に有利と見るような考えもないわけではない。
ただ、技能が高い労働者、技術者、中間管理職は仕事に対する忠誠心が他の ASEAN 諸国
よりは高い。
作業労働者の中には、毎年旧正月(テト)の時期になると帰省したまま元の職場に戻ら
ない労働者もいる。多くは出稼ぎであることから、故郷で就職口ができると多少給与がこ
れまでより安くても家族と暮らせる方を選ぶ傾向にあるからだ。
4.労働争議
近年、ストライキが頻発している。当初は賃金の未払いや労働環境の悪さなどを理由に
した韓国、台湾等の企業がほとんどであったが、現在は日系企業にも散見される。以前は
圧倒的に南部地域に多かったが、最近は北部地域や中部地域でも発生している。日系企業
の場合は
一般的に労使関係はよく、労働環境も賃金も平均以上であることからストライ
キは少ないが、それでも「ストライキを行えば賃金が上がる」というような誤った認識を
持つ労働者もいる。
2007 年 7 月から施行されている改正労働法(第 74/2006/GH11 号)では、集団的労働
争議及びストライキについて細かく規定されており、特に違法なストライキへの対処がこ
れまでより厳しくなった。
改正法では、「権利に関する集団的労働争議」と「利害に関する集団的労働争議」を分
けており、それぞれの争議により解決に当たる担当機関や解決方法が異なる。また、スト
ライキを実際に行う場合の順序や手続方法、違法ストライキに対する罰則や賠償について
も規定されている。
これまでは風潮に乗って安易にストライキが行われることが多かったが、今後は少し落
ち着くものと期待されている。労働者を雇用する際はベトナムがかつての日本のように高
8
度経済成長期にあり、物価が上昇し消費が上向きで賃金要求が高まっているということを
認識し、それに配慮する必要があるだろう。
9
第3章
教育制度、社会、文化
1.教育制度
ベトナムの教育制度は小学校(5 年間)、中学(4 年間)、高校(3 年間)で、義務教育は
中学校までである。学校の数が少なく生徒が多いことから、小学校などでは時間を区切っ
て授業を交代制にしているところが多い。教育に熱心で、他の発展途上国に比べ識字率が
90%以上と高く、都市部では共働きであることを反映して保育園や幼稚園など就業前保育
施設も充実している。
大学進学率は年々上昇しているが、大卒は「エリート」でありプライドが高い。
そのため、卒業後に適した業種、給与の職が見つからないと就職せず、短期アルバイト
をするケースも新卒の 25%程度に上る。就職している場合でも、大学の専攻と同じ分野に
就職する学生の比率は 10%程度で、30∼40%は専攻と異なる分野に就職している。また、
職場においては、たとえ能力のレベルが同じであっても、高卒や職業訓練学校卒とは別格
の扱いをしなければならない。
少数民族出身の場合は、大学や職業訓練学校に一定の入校枠が設けられており、少数民
族の高等教育機関への進学率も高くなってきている。
2.社会と文化
長年にわたる中国支配から、文化的には中国の影響を色濃く受けている。箸と米の文化、
年長者を重んじる、面子を大切にするなど(儒教の教え)、今は漢字を使用していないが、
もともと使用していたことから今のベトナム語にも熟語として多く残っている(漢字文化)
などである。しかし、国民感情としては中国に嫌悪感と恐怖心、また対抗心を持っている。
〈お寺の写真〉
宗教は、仏教徒が 80%だが、他にもキリスト教(主にカソリック 9%)、カオダイ教、ホ
アハオ教、その他の新興宗教も混在している。一般的には、先祖崇拝に大乗仏教、道教、
儒教の三教が加わる形がベースになっており、そこにアニミズムや各種の占い等が融合し、
10
現世利益を追求する民間信仰が発展してきた。日常生活においては、子供に恵まれない人
は観音菩薩を拝み、厄除けや結婚願望、家屋の増改築及び葬儀等など生活上の重要な問題
は、占い師や霊媒、呪術師、風水師等に相談するといったことも多く見られる。近年はク
リスマスやバレンタインも祝うなど、日本と同様に信仰が多彩である。
長きにわたる戦争の歴史や社会主義における男女平等の観念が根づいており、女性の発
言権が強い。「かかあ天下」が酒席での男性同士の共通の話題となる。
また、女性の社会進出が進んでいるため女性社長も多い。共働きは当たり前のことであ
り、女性が家族を残し単身で海外駐在や留学するというのも珍しいことではない。向上心、
向学心が旺盛で、仕事が終ってから語学や職業訓練など学校に通うケースも多い。
会社への思い入れは日本人とは異なる。仕事よりも家族を大切にする傾向があり、会社
や組織への帰属意識は低い。家族や血縁のつながりが就職や仕事の便宜など様々な場面で
重視される。日本のように組織で動くよりも個人が優先するため、場合によっては、日本
のように「日本企業対ベトナム企業」のつもりで話していることがいつの間にか「日本企
業対ベトナム個人」にすり変わってしまうこともある。
大学生はエリートであり、同級生や先輩・後輩といった学閥が存在している。
人脈や情報交換はそれぞれの学閥の範囲内で交わされ、異なった学歴の者同士がそれらを
共有することは少ない。
物事はトップダウンで決まることが多く、日本のように担当者から上げていくような意
思決定の方法ではいつまでも先に進まないことが多い。ベトナム企業と組んで仕事をする
には、先方のトップと会うことが重要になる。従業員は仕事に個人の創造性を発揮するよ
り、もっぱら上からの指示に従うという傾向が強い。
地域により異なるが、雇用機会の多い地域においては従業員の転職は日常的である。ベ
トナム人は情が通じる民族であることから、可能な範囲内で機会をみて家族のように従業
員に接し、情を交わしておくことが大切だ。
ベトナムでは情報の少なさから口コミが非常に発達している。噂の流れる早さは日本の
比ではないことを理解しておく必要がある。
11
第二編
職業能力開発事情
(作成年月:2006年12月)
第1章 職業能力開発の背景
1.1 社会経済状況
工業化と近代化により、とりわけ農村部において、各経済分野における経済・労働構
造が変化しており、その変化に多大な貢献をする職業訓練学校のネットワークの設立と
開発が必要である。
人口密度の差による経済分野、地域、地方の間での不均一な発展、地域ごとの人材、
都市化の度合い、経済状況や地域の特性により、職業訓練学校のネットワークの整備と
適切な配置が必要である。
社会経済開発戦略では、2010 年までに GDP を年平均 8.2%の成長により 2000 年の
2 倍とすることを目標としており、また、ベトナムが周辺地域と比べても高い技術を持
った国となることが出来るように、生産の技術革新と工業団地や輸出加工区の拡大のス
ピードアップが必要とされている。GDP における工業とサービス比率の増加と農業部
門の減少による経済構造の変化は労働構造も変化させ、2010 年までに総労働力におけ
る農業部門の割合は 50%に減少すると見られている
人口成長と人材開発に関する最近の予測によれば、労働人口の規模は、2005 年まで
に 5,210 万人(総人口の 62.5%)、2010 年までに 5,680 万人(64.1%)と、2000 年と比べて、
1,180 万人増加すると見られている。2001 年から 2005 年までに、平均で、年平均で
160 万人から 170 万人が労働人口に加わった。就学年齢と労働年齢(15 歳から 23 歳)の
人口は、2001 年から 2005 年の間増加し続けたが、今後、安定し、やがて減少すると見
られている。それゆえ、このグループは、依然として一般教育と職業訓練に大きな影響
を与えている。戦略目的を達成するために、生産過程にとって最も重要な要素である技
術訓練を受けた人材需要を満たすことが出来る適切な職業訓練学校ネットワークを構築
することが重要である。
労働年齢における就学者の比率は 2000 年の 9.8%から 2010 年には 15.7%に増加す
ることが見込まれており、経済活動に加わる労働年齢人口は 1999 年の 80.7%から
2010 年には 75%に減少すると見られている。労働力は、2010 年までに 4,340 万人に
達する見通しである。
訓練を受けた労働者比率は 2005 年には 30%であり、そのうち職業訓練学校に行った
ものは 18.6%である。2010 年までにはそれぞれ 40%、26%となる見通しである。
1.2 開発方向
職業訓練学校の配置は、国家の社会経済開発戦略に基づいて決定されるものであり、
国家の工業化と近代化のための人材要請を満たし、雇用機会を拡大し、労働輸出を促進
するものである。そのネットワークは、様々な技術水準での教育訓練の機会を提供し、
その技術水準と同水準の教育との連携を確保するものでなければならない。
技術学校のネットワークは、技術水準や訓練職種、各地域における訓練規模、継続性
12
の確保、社会と国家の投資力を重要視して適切な配置がなされなければならない。
職業訓練学校は、職業訓練における資格基準に従い開発・改善されなければならない。
職業訓練の社会化政策の実施、工場内での訓練や民間の職業訓練学校の開発、職業訓
練における国際協力の拡大と外国投資の奨励が必要である。
入学規模
最新の統計によれば、現在、ベトナムは、780 万人の職業訓練を受けた人材がおり、
全労働者の 18.6%に当たる。職業訓練を受けた労働者の配置には、地域区分及び人口
統計学的区分による不均衡が生じている。職業訓練を受けた労働者のおよそ 60%が、
都市部で働いている。紅河デルタと南東部で職業訓練を受けた労働者が多く(それぞれ、
28.3%と 19%)、中部高原と北西部は、それぞれ 3%と 1.4%のみである。
2010 年までに、ベトナムは、1,300 万人の職業訓練を受けた労働者(総労働人口の
26%)が必要であると推定されている。それゆえ、職業訓練学校の学生規模は、2005 年
までに 107 万人、2010 年までに 146 万人にまで拡大しなければならない。
職業訓練学校への入学者に占める技術者、専門職、大卒レベルの技術者は、現在の
17%から、2005 年には 22%、2010 年には 26%へ増加させることが必須である。平均
的な職業訓練学校への入学規模は、2005 年の 23.6 万人、2010 年の 39.5 万人までに年
間 11∼12%のペースで拡大する見込みである。そのうち、技術者の入学者は、2005 年
に 1.2 万人(約 5%)、2010 年に 3.95 万人(約 10%)となる見通しである。民間の職業訓
練組織の集中的な訓練コースへの入学者は、2005 年に 1.2 万人(約 5%)、2010 年に 5.9
万人(約 15%)となる見通しである。
2000 年と比べて、職業訓練学校の入学規模は、2005 年には 1.6 倍、2010 年には 2.3
倍に拡大しなければならない。
要約すると、一方で、既存の技術訓練学校の訓練容量を拡大する必要があり、他方、
職業訓練学校が存在しない省と職業訓練を受けた労働者に大きな需要がある省に新しい
職業訓練学校を設立する必要がある。全ての経済分野において、新たな職業訓練学校建
設への参加と投資が奨励される。
ベトナムにおける職業訓練の促進を制限するもの
農村部で職業訓練を受けたものの比率が極めて低く、加えて農村部の人口の大部分が
貧困レベルにあり、そして職業訓練へのアクセスが極めて限られている。この意味で、
職業訓練戦略において−ベトナム政府は、以下の3つの柱に努力を集中させなければな
らない。
第 1 の柱は、主要産業における高い技術水準の職業訓練である(主要産業と重要経
済地域における高い水準の技術労働者への訓練の実施)。このために、政府は 2010 年
までに 40 の中心的な職業訓練学校の建設と拡張のための努力と投資を集中的に行う。
政府の投資と同時に、大企業と工業団地も企業が要請する技術に対する高い技術水準の
労働者への訓練を実施する。
第 2 の柱は、労働者の作業能力向上を目的とした大規模な訓練である。結果として、
労働者は、賃金の高い職に就職することが出来、より多くの就職の機会にアクセスする
ことが出来る。
13
起業を行うことが可能となる。この訓練は、農村部の労働者に焦点を当てている。国
家は、職業訓練における農村の労働者への資金支援を行ってきた。例えば、労働人口に
あたる年齢にある農村の労働者は、職業訓練コースに参加した場合、最大 150 万ドンの
給付を受け取ることが出来る。加えて、省市も各省市の経済状況に応じて資金や職業訓
練への支援を行ってきた。政府も山岳地域での少数民族若年者への職業訓練への財政支
援を行う政策を行っており、また、同時に、これらの少数民族若年者への多くの関連す
る職業訓練プログラムを生み出してきた。
第 3 の柱は、作業を行うことが出来る障害者への政府による支援である。障害者は、
職業訓練だけでなく地域における就職斡旋にも支援を受ける。2006 年の職業訓練に関
わる法律では、障害者への職業訓練が規定されている。政府による支援とともに、農民
会、婦人会、退役軍人会、障害者支援組織などの社会組織は、職業訓練コース参加への
資金的・技術的支援と設備提供を行ってきた。
現在、失業者も労働力の一部とみなされているが、その多くが技術を持っていない。
彼らが労働市場で職を見つけることができるようにするために、政府は失業者に対する
職業訓練、再訓練、技術向上に関する政策を公布してきた。
出典:ベトナム政府 HP(http://www.vietnam.gov.vn)
14
第2章
職業能力開発を促進する国家政策
職業訓練を改善し発展させるために、近年ベトナム政府は、職業訓練に関する多くの
政策を公布している。
2.1 政策目的
労働市場の需要を満たすよう労働力全体に占める訓練を受けた労働者比率を増加させ
る。
雇用と起業を生み出すこと。
国家の近代化と工業化に対して高い質の人材を供給するために職業訓練の質を高める
こと。
2.2 政策の適用範囲
労働疾病兵社会問題省が規定した条件を満たす組織と個人は、職業訓練サービスとそ
のコンサルティングサービスの運営を許可されなければならない。有能であり職業訓練
への需要を持つ個人へ適用される。この政策はベトナム全土で適用される。
2.3 政策の主要な内容
2.3.1. 職業訓練を奨励する政策
職業訓練に参加する経済分野、組織、個人の奨励
国家は、非営利目的であり且つ国家計画とその運営に適した民間の職業訓練組織の広
範な開発を奨励する。民間の職業訓練組織の活動は高く評価されており、公的な職業訓
練組織と等しく取り扱われる。国家は、法律で規定されたように、教育開発のために全
ての形態の人材と組織を動員するよう組織及び個人に奨励する。特に、教育の普遍化に
関する政策は、訓練と生涯学習(長期、短期、定期訓練、不定期訓練、実地研修など)
及び、公共と民間による形態の職業訓練学校の開発と多様化に適用されてきた。
職業訓練組織への優遇措置
土地:
民間組織を含む職業訓練組織に対して土地が配分される。職業訓練学校、寮、
図書館建設に関する土地は、長期間、国家により配分され、土地税は免税される。
税金: 職業訓練組織は、法人税の優遇措置を受ける。土地を配分された民間職業訓練組
織は、建物税、土地税を免除され、土地使用権登録料も免除される。付加価値税も免税である。
職業訓練組織の教官への措置
職業訓練組織の教官への給与の 30%∼50%相当の手当てに関する規定がある(大学、
短大での教官は 30%、専門学校、職業訓練に関わる教官は 35%、教員養成の大学、短大、
職業訓練学校での教官は、50%)。
さらに、職業訓練組織における教官を奨励するために、教育へ貢献をした者への「人
民教官」「勲功教官」の称号や、「教育への貢献」メダルの授与がなされる。
15
実習生に関する規定
実習生に関する規定は、フェローシップと授業料に関する規定を含む。
フェローシップ
奨学金や好成績もしくは高い技術を得た職業訓練生への便益を含む
フェローシップは、少数民族の大学入学前の学生や少数民族学校の学生、中央政府によ
る戦争障害者の子息、障害者、その他の政策的優遇策の適用が必要である人に対して規
定されている。
授業料
少数民族や遠隔地における授業料に関する規定がなされており、人民委員会、
人民評議会、国家が管理する職業訓練組織の長に授業料に関する決定権が付与される。
職業訓練への資金
職業訓練への資金は、国家予算からの基金、人民からの拠出、企業の投資、訓練組織
の投資、NGO の支援、外国直接投資、外国からの援助(ODA)など、多様な資金から支
出される。
2.3.2 職業訓練組織を管理する政策
職業訓練組織の設立と運営規定
職業訓練学校、職業訓練センターを設立するための条件と手続きに関する規定、職業
訓練運営の登録に関する規定、職業訓練学校の合併、分離、及び公的職業訓練学校の民
営化に関する手順と手続きに関する規定、職業訓練組織の活動停止と解散に関する規定
を含んでいる。
職業資格と証明書の管理に関する規定
職業資格と証明書は、職業訓練組織によりベトナム全土で一貫して適用される。職業
資格と証明書は、職業訓練総局により印刷され、管理され、発行される。職業訓練学校
の学長もしくは職業訓練センター長は、規定に従い、訓練結果に基づいて職業資格認定
と卒業証書発行を行う。
職業訓練組織は、労働疾病兵社会問題省を通じて職業訓練総局から職業資格認定を受
け取る。
2.3.3 技術労働者の利用に関連した政策
これらの一連の政策の主な内容は、労働集約的な事業を行っている全ての経済部門、
組織、個人を奨励している。国家は、労働需要と供給関係を統制するマクロ政策を実施
する。
16
第3章
3.1
関連組織と全体のシステム
ベトナムにおける職業訓練の国家管理システム
1987 年以前、児童・母子保護委員会、教育省、高等教育・高等職業訓練組織、職業
訓練総局を含む 4 つの国家管理組織があった。しかし、国家建設の過程における職業
訓練活動を奨励するために、職業訓練総局は、政府の直接の管理下におかれた。
1987 年から 1990 年
ベトナムにおいて社会経済改革が始まったのは、1986 年である。多くの政策は、職
業訓練活動を含む、生産、ビジネス、科学研究、管理に広範な影響を徐々に与えるよう
になって来た。この期間、教育省(MOE)と高等教育高等訓練省(MHESV)、及び職業訓
練組織が、ベトナムの教育と訓練を管理し、高等教育高等訓練省(MHESV)と職業訓練
組織が、職業訓練活動を行った。
1990 年から 1998 年
1998 年 6 月以前、教育と訓練システムは多くの接点を持ち、重複する部分があり、
効率的に機能してこなかった。それゆえ、ベトナム政府は、このシステムの改革を決定
し、教育訓練省は、2 つの省(MOE と MHESV)に再構成された。新しい MOET は、
職業訓練の直接管理に責任を持つ。
1998 年以降
1998 年まで、ベトナムにおける職業訓練活動は、多くの理由により活動することが
出来なかった。1998 年に、訓練総局が再形成され、国家レベルでの職業訓練計画を作
成した。また、経済部門における訓練需要を満たすために、教育訓練省により管理され
ていた省庁の職業訓練システムが存在した。省市の教育訓練局は、専門学校以上の訓練
組織を管理していた。職業訓練学校は、労働疾病兵社会問題局により管理されていた。
また、県や各組織により運営される職業訓練センターもあった。
表 1:
1988 年以前
職業訓練の変遷
1988 年
1990 年
1998 年
児童・母子保護委員会
教
育
省
教育訓練省
教育省
教育訓練省
高等教育高等訓練省
高 等 教 育 高 等 訓 練 省
労働疾病兵社会問題省
職業訓練総局
17
政府は、職業能力開発に関する基金の設置と管理の基本的責任を有する。労働疾病
兵社会問題省(職業訓練総局)は、職業訓練計画を作成し、職業訓練政策全般一般を
制定する機関である。技術訓練総局の構造は、以下の通りである。
表2:職業訓練総局の組織図
職業訓練総局
技術
教官
財政
管
事
査
職 業 訓
職 業 訓
基準
訓練
計画
理
務
察
練 組 織
練 国 家
各職業訓練学校
労働疾病兵社会問題省に加えて、その他の省庁、部門、省市も職業訓練の管理と開発
に関与し、省庁と省市に属する職業訓練センターを設立する。
省庁の関係部局と省市の職業訓練総局
省庁は、84 の職業訓練学校を管理しており、職業訓練学校全体の 51.2%を占める。
そのうち、41 校が、総公司、もしくはその関連企業に関連するものである。
省庁によって運営されている職業訓練組織の大半が、当初は、その省庁のスタッフ教
育を行い、その省庁に属する部門や国営企業に人材を派遣することを目的として設立さ
れた。結果として、これらの学校は、しばしば、工業団地や企業が集中する地域に立地
している。
省市の職業訓練学校
省市には、80 の職業訓練学校があり、職業訓練学校総数の 48.8%を占める。そのう
ち、7 校が民間である。現在、43 の省市が、独自の職業訓練学校を有している。
18
図 3:ベトナムにおける職業訓練システムの管理構造
関係省庁(人材及び訓練局)
労働疾病兵社会問題省
省市
(職業訓練総局)
(労働疾病兵社会問題局)
国営企業
関連局
省・県の
人民委員
職業訓練学校(一部短大を含む)
省庁や部門は、必要な技術や職種における訓練カリキュラムを独自に作成してきた。
しかし、そのカリキュラムは労働疾病兵社会問題省が規定したプログラムの枠組み
に基づいている。職業訓練総局は、その系列の職業訓練学校が独自の訓練カリキュラ
ムを開発する基礎となるプログラムの枠組みの開発作業を果たすことを割り当てられ
た部局である。加えて、職業訓練総局も、上記の特別のターゲットグループ(少数民族、
短期の職業訓練を受ける農家、技術訓練を必要とする海外で働く者と障害者など)への
職業能力開発に関する政策と開発プログラムを策定してきた。
また、職業訓練総局は、先端作業における人材の高い需要に応じるために、北部、
南部、中部地域の経済成長の早い地域において職業訓練開発プロジェクトを準備して
いる。
これらの目的は、対象者の雇用、雇用継続、所得、及び技術の向上を促すことであ
る。これは、継続して、労働者の質を改善し、福祉への依存を低下させ、国家の生産
性と競争力を改善する。省の労働疾病兵社会問題局も、職業能力開発に関するプログ
ラムとプロジェクトに多大な貢献をしてきた。上述の分野を限定した短期の職業訓練
コースは、労働疾病兵社会問題局によって行われている。加えて農民会、婦人会、老
人会、障害者支援組織などの大衆組織も、これらのプログラムに参加してきた。コミ
ュニティ活動への財源は一部地方予算から拠出され、一部は企業からの支出や募金に
よる。
19
第4章
予算と資金
これまで、ベトナムは、職業能力開発に何千億ドンと費やしてきた。職業訓練への国
家投資は、1997 年の 5,230 億ドンから 2001 年には 1 兆 700 億ドン(社会投資の
3.77%)、2005 年には 1 兆 7600 億ドンへと増加した。2002 年に職業訓練におけるターゲット
プログラム 1への予算だけで 1,100 億ドン(4.7%)、2003 年 1,300 億ドン(5%)、2004 年
1,500 億ドン、2005 年 3,000 億ドン、2006 年 5,000 億ドンとなった。
しかし、職業訓練への投資は、職業訓練を受けた人材への需要の増加と比べて極めて
小さい(2000 年に職業訓練への国家予算は、訓練及び教育に対する予算の 4.7%を占め
るのみであり、2005 年でも 7.0%である)。その上、現在の職業訓練への国家予算は、教
育や訓練への予算と合算されている。結果として、職業訓練学校は、予算の活用、配分、
管理に関する決定を自由に行うことが出来ない。さらに、職業訓練への国内外の資本導
入は依然として限定的である(図 4 参照)。
(%)
図4:教育予算に占める職業訓練への予算の割合
8
7.3
7
6.5
6.5
7
6
6
4.9
5
4.7
3.8
4
3.5
3.6
4
3.9
5
4.3
3
2
1
0
1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005
出典:Annual Report of GDVT, 2006
2006 年に、国家は、職業訓練におけるターゲットプログラム、とりわけ下記の活動
に 5,000 億ドンを投資してきた。
-
36 の中心的な職業訓練学校への 1,570 億ドンの集中的な投資
-
遠隔地にある 30 の職業訓練学校(大部分が新規設立校)へ総額 750 億ドン投
資(各学校平均 25 億ドン)
-
県レベルの 111 の職業訓練センターに 857 億ドンの投資(各センター平均 8 億
ドン)
-
職業訓練組織への総額 503 億ドンの投資
-
上述のターゲットグループの職業訓練に対して総額 1,100 億ドンの投資(180 億
ドンは、障害者への訓練)
1
国家の職業訓練に関するターゲットプログラムは、2010 年までに政府により設立される
予定である。
20
-
職業訓練学校教官の訓練技術向上の為のプログラムとカリキュラムの開発に総
額 130 億ドンの投資
-
その他の能力拡大に関する活動に、90 億ドンの投資
ターゲットプログラムに対する予算に加えて、多くの省は、農村の労働者、少数民族、
障害者への職業訓練を実施する為に省の予算からも支出されてきた。例えば、バクザン
省(2,850 億ドン)、ハイズオン(540 億ドン)、ビンフック(150 億ドン)、ドンナイ(540 億
ドン)、カントー(30 億ドン)、ブンタオ(30 億ドン)、ハウジャン(150 億ドン)、ドンタ
ップ(20 億ドン)である。また、退役軍人への支出は、総額 225 億ドンとなっている。
職業訓練への財源の増加は、職業訓練システム全体の能力改善に貢献してきており、
多くの学校が、職業訓練の先進設備を導入してきた。結果として、およそ 130 万人が
訓練を受け、そのうち、26 万人が長期訓練を受け、その比率は、2005 年と比べて 11%
増加した。
21
第5章
外国と国際機関による支援
職業訓練に対する国内資金の導入のほかに、ベトナム政府は国際組織や諸外国からの
ODA や援助を利用している。アジア開発銀行、北欧開発基金、AFD、JICA、ドイツ、
韓国、オーストラリアなどによって資金提供されている多くのプロジェクトがある。こ
れらの資金は、職業訓練開発の発展に多大な貢献をなしている。
ADB は、職業技術協力プロジェクトに対して 1998 年 12 月に 5,400 万ドルの融資を
承認した。プロジェクトは、AFD(1,500 万ドル)、JICA(2,400 万ドル)、NDF(700 万ド
ル)により支援されている。2,100 万ドル相当のベトナム政府による基金も含めて、プロ
ジェクト総額は 1.21 億ドルと見積もられている。実施省庁は、労働疾病兵社会問題省
である。プロジェクトは、(1)市場順応能力の改善(2)15 の基幹学校の開発(3)政策改革の
導入、の 3 つ内容からなる。
5.1 市場順応能力の改善
この内容は、以下のように構成されている。
労働市場情報システム(LMIS):
職業科学研究センター(VSRC)は、LMIS、便益監視評価(BME)、教育管理情報システ
ム
(EMIS)の運営に責任を持つ。また、キャリアガイダンス、職業斡旋、マーケティング、
障害者支援、資金に関連した機能を支援する。プロジェクトの完成により、15 の基幹
職業訓練学校と省市の労働疾病兵社会問題局は、VSRC の監督のもと個別の事例調査
を実施することが期待されている。EMIS は、基幹学校、省市の人民委員会、職業訓練
総局における日々の活動に関する地方の管理システムを開発してきた。
労働市場調査:
施設調査と追跡調査などからなる 4 つの労働市場調査の実施が合意されている。
LMIS の結果は、職業訓練政策策定者に対する労働市場の年次報告書として出版されて
きている。
訓練プログラム開発:
コンサルタントは、以下に要約されるように、48 の職種に対する 103 の新たなカリ
キュ
ラムガイドの開発を完了した。
表1:訓練プログラム開発による 48 職種に対する 103 の新たなカリキュラムガイド
カリキュラムガイド
ガイドに含まれる職種
57 の長期プログラム(ADB)
35 職種
13 の長期プログラム(AFD)
6 職種
6 の長期プログラム(JICA)
7 職種
27 の短期プログラム(ベトナム政
府)
長期プログラムとは、通常、2、3 年間の訓練プログラムを意味する。各基幹学校は、
22
ガイドに基づき自身のカリキュラムと訓練プログラムを開発する。
指導教材とコンピューターによるコース:能力ごとのカリキュラムとなる教材には、
テキスト、マルチメディア教材、コンピュータソフトが含まれる。
キャリアガイダンスと就職斡旋サービス:基幹学校でのキャリアガイダンスと就職斡
旋を促進するために、労働疾病兵社会問題省は、(1)基幹学校でのキャリアガイダンス
と就職斡旋実施マニュアルを準備し配布する。(2)実施マニュアルを利用し導入訓練を
実施する。(3)援助機関、職業訓練学校、省庁、産業界及び専門機関を含む各関係者に
国家就職斡旋ガイドブックを作成し、配布する。その総数は、1,500 部である。VSRC
は、基幹学校レベルでの全てのキャリアガイダンスと就職斡旋活動の調整に責任を持つ。
キャリガイダンスと就職斡旋に関する導入訓練は、2,400 名の教官に対して 2003 年初
旬に 15 の基幹学校全てで実施された。
5.2 基幹学校開発
以下のような基幹学校開発計画が作成された。(1)主要な支出項目と資金ごとに各基幹
学校と職業訓練総局への投入を計画する。(2)プロジェクトを実施している訓練実施、
設備提供、資金提供ごとに機関学校を運営する。
基幹学校における ADB と AFD によって支出された活動は、総額 1,030 万ドルの支
出により完了した。
訓練設備:訓練設備調達の準備は 2002 年 1 月に開始された。調達計画には、12 のパ
ッケージからなり、そのうち、7 つは ADB から 1,240 万ドルが融資され、5 つは NFD
から 700 万ドルが融資されている。基幹学校においての訓練設備導入は、2007 年 1 月
に完成が見込まれていた。
労働疾病兵社会問題省職業訓練総局は、職業訓練への女性と少数民族の参加を促す
行動計画を準備してきた。この計画に基づき、職業訓練総局は、北部のビンディン省と
南部のカントー省での ADB の財政支援による縫製作業における 2 つのパイロットプロ
グラムを 2002 年 11 月に導入した。このパイロットプログラムに基づき、職業訓練総
局は、女性、少数民族、貧困者、障害者などに対して同様なプログラムを 15 全ての基
幹学校で行っている。ADB の支援により、職業訓練総局は、農耕、ヘルスケア、園芸、
農村電化、食品加工などの 27 の短期コースを提供するプログラムを提供してきた。そ
のプログラムは、女性と少数民族の訓練への参加を拡大するために 2005 年 1 月から実
施されている。
基幹学校での雇用前訓練と補充訓練は、ADB により支援されたプロジェクトの下で
開発された新たな訓練システムに移行した。2001 年から 2004 年の間、基幹学校は、お
よそ 107,980 人の雇用前訓練と準技術者と技術労働者、生産技術者の技能向上訓練を
実施してきた。
職業訓練プロジェクトに加えて、労働疾病兵社会問題省職業訓練総局は、4 段階で
700 万ドル支出されるスイス政府(SWITCONTAC)の援助により職業訓練センターの規
模を拡大するプロジェクトを実施している。このプロジェクトは、ベトナム全土の 30
の職業訓練学校における設備への投資と訓練カリキュラム策定を目的としており、この
プロジェクトは 2008 年に終了する。
23
現在、労働疾病兵社会問題省は、ドイツ政府から KWB を経由し 1,100 万ユーロの資
金支援により 11 の基幹学校の改良におけるプロジェクト実施を開始した。これらの学
校は、訓練生に対して最先端の設備と訓練容量改善の効果を享受させなければならない。
その他の重要なプロジェクトは、韓国政府が総額 1,500 万ドルの支援を行った 8 つの
新たな高水準の職業訓練学校の建設である。
24
第6章
職業能力開発政策の実施成果の評価
上述のように、近年、政府は、多くの職業能力開発に関する政策を公布し、その中に
は以下の重要なものがある。
教育法(2005)と労働法(2002)の詳細規定を公布した政府議定(2006 年 11 月 20 日付議
定大 139/2006/ND-CP)
この議定によれば、職業訓練は、基礎、中級、大学の 3 つのレベルからなる。職業
訓練の基礎レベルは、職業訓練大学、職業訓練高校、職業訓練センターで行われる。職
業訓練の中級レベルは、職業訓練大学、職業訓練高校で行われる。職業訓練の大学レベ
ルは、職業訓練大学で行われる。職業訓練カリキュラムは、各職種に関連するモジュー
ルと科目ごとの訓練を開発してきた。この議定も、訓練生、訓練提供者、技術訓練に関
する企業の責任を規定している。この議定は、職業訓練の開発とその能力改善の法的基
礎となる。しかし、新たに公布されこの議定の効果が完全に評価されるにはしばらく時
間が必要である。
農村労働の短期技術訓練を支援する政策
この政策の受益者は、労働年齢にある農村労働者である。国家訓練局により実施され
る職業訓練コースに参加する場合、これらの農村労働者は、1 コースにつき 30 万ドン
から 150 万ドンを受け取ることが出来る。
この政策は、農村の人々に訓練サービスへの参加機会を与え、起業を支援し、賃金労
働機会発見を支え、農村の雇用構造を確立し、最終的に貧困削減に役立つ。
障害者及び少数民族子息への職業訓練に関する政策
この政策の受益者は、これまで少数民族学校で教育を受けてきた少数民族の子息であ
る。この政策は、生産と貧困削減を進めるのに村民にとって有益な村レベルのキーパー
ソンとなる子息を支援することが目的である。上述の農村の者への財政支援からの便益
と同様、クラスへの参加において、障害者や少数民族の訓練者も、奨学金、手当て、住
居、移動に関して支援を受けることが出来る。
しかし、多くの貧困水準にある少数民族が職業訓練にアクセスが出来ないため、この
政策実施には多くの困難が依然としてある。
加えて、近年、ベトナム政府は、海外で働く者に対する職業技術訓練と退役軍人に対
して職業訓練を国有化する政策を公布した。
国家予算からの資金とともに、地方も農村労働者や障害者に対する短期技術訓練を実
施するために数百億ドンの投資を行ってきた。職業訓練への直接の支援の他にも、省市
は、農村労働者や障害者に対して、生産手段や財政面における支援などを計画してきた。
職業訓練施設を増加させるために、労働疾病兵社会問題省は、2010 年までの職業訓
練ネットワークの計画と 2020 年に向けた方向性に関する決定を公布した。この中で、
2010 年までに、ベトナム全土に、90 の職業訓練短大、270 の職業訓練高校(そのうち
40 は高レベル学校に投資され、3 は高度な地域の基準を満たした学校)を整備する。
25
2010 年までに、ベトナム全土で、250 の職業訓練短大、400 の職業訓練高等学校(その
うち、80 校は高レベル、10 校は国際基準の高レベル)が存在するようにする計画であ
る。こうした訓練組織は、毎年 140 万人から 150 万人への訓練サービスを提供してお
り、2006 年から 2010 年には、訓練者総数は 750 万人規模とする見通しである。この
目的を達成する財源は、国家財政、ODA、大企業による投資によってまかなわれなけ
ればならない。国家予算からの財源では、2010 年までに、職業訓練への投資は教育・
訓練への予算総額の 11%を占め、職業訓練におけるターゲットプログラムからの投資は
6 兆ドンとなり、主に、40 の高レベルの学校、訓練インフラ、県レベルの職業訓練セ
ンターの施設(およそ 280 箇所)への投資に用いられる。
出典:Annual Report of GDVT, 2006、http://www.molisa.gov.vn
26
第7章
職業能力開発措置の実施
様々な形態の訓練や様々な水準での多様な職業訓練システムにより、学生の教育水準
も、小学校卒業、中学校卒業、高等学校卒業と多様である。現在の職業訓練システムに
おいて、専門学校は、主に、高等学校を終了した者の訓練を行ってきた。しかし、これ
らの専門学校も中学校を卒業したものに対する短期の職業訓練を行ってきた(専門学校
の 21%を占める)。その他の職業訓練学校は、応募し、専門教育を受ける十分な能力を
持つ全ての者に対する職業訓練コースを実施する。表 2 は、2004 年の短期訓練、長期
訓練、専門訓練の 3 つの段階ごとの職業訓練施設で訓練を行った技術労働者の教育水
準を示している。短期の職業訓練の場合、34.5%の学生が高等学校を終了し、長期の職
業訓練の場合、56.55%の学生が高等学校を終了しており、専門訓練の場合、その比率
は 78.7%である。
表2:教育レベルと資格ごとの技術労働者比率
最終学歴
資格
短期教育
長期教育
専門教育
中学校卒業以下
6.08
2.42
0
高等学校卒業以下
59.36
41.03
21.3
高等学校卒業以上
34.56
56.55
78.7
合計
100.00
100.00
100
出典:VHLSS 2004, GSO
職業訓練を普遍化する国家の奨励により、多くの職業訓練モデルが開発され、高い効
率性を達成してきた。現在、ベトナムの職業訓練モデルは以下のようなものである。
-
企業における職業訓練モデル
-
県や市レベルでの職業訓練センターモデル
-
総合的な技術教育、職業訓練、キャリアガイダンスセンター
-
民間モデル
-
職業訓練学校での短期訓練コース
-
農村労働者に対する職業訓練モデル
職業訓練の帰結
訓練生の数は、毎年、顕著に増加している。入学生数は、1998 年の 525,600 人から
2005 年には 1,207,000 人とおよそ 2.3 倍に増加した。年間平均成長率は約 16%であり、
中でも、長期訓練コースの卒業生は、年間 20%近く成長している。職業訓練学校の平
均卒業率は、96%以上である。
27
表3:年間の職業訓練規模
年次
入学生数
長期職業訓練
短期職業訓練
合計
1998
75,600
450,000
525,600
1999
97,100
592,900
690,000
2000
130,200
662,000
792,200
2001
126,100
761,200
887,300
2002
146,500
858,500
1,005,000
2003
176,360
897,740
1,074,100
2004
202,700
956,400
1,159,100
2005
230,000
977,000
1,207,000
出典:General Department of Vocational Training, 2006
年間の訓練者総数のうちおよそ 2∼5%が、企業や総公司の職業訓練組織で訓練を受
けている。この種の訓練は、企業の職種、生産、ビジネス構造に適当である技術労働者
の需要を満たすものである。
近年、省庁やとりわけ省市の関連部局は新しい職業訓練学校建設に多大な関心を持ち
投資を行っており、職業訓練学校の配置の不均等な配置を徐々に克服し、訓練能力を高
めている。
最近、郵政通信、航空、石油・ガス、建設、建設資材、運輸、縫製、皮革、機械、電
機、電子といった職種において、設備と施設の更新、カリキュラムや教育内容の近代化、
職業訓練学校の訓練スタッフの再訓練のために投資が行われている。結果として、職業
訓練の質は、際立って改善されてきた。
職業訓練活動への投資や社会化への政策メカニズムは、職業訓練学校ネットワーク開
発にとりわけ貢献してきた。
過去数年にわたり、職業訓練政策の実施は、訓練を受けた労働者を増加させ、主要経
済分野における技術労働者を提供し、そして、起業のための職業訓練需要を一部満たし
てきた。
訓練されたる労働力は、2002 年の 6,088,200 人から、2005 年には 1,103.3 万人へと
1.8 倍となった。平均で、訓練を受けた労働者数は、1 年間で 93.8 万人増加(12.9%増)
した。
今後、訓練を受けた労働者数は、顕著な増加を続ける見通しであり、訓練の質も、3
つの職業技術レベルにおける職業訓練に関する 2005 年の新しい教育法の修正の結果、
向上する見込みである。
残された問題
(1)職業訓練学校ネットワークは、質(専門的技術)と量、訓練職種と技術レベルの構
造(技術労働者と高度な技術を持った労働者の不足)の点で、依然として、要求を満た
すものではない。そのうえ、いずれの技術レベルにおいても、実際の技術と技術訓練の
関連が低く、その為、中学校や高等学校終了後の学生の格付を妨げている。
初期の職業訓練ネットワークの改良にもかかわらず、要求は満たされず、県の 3 分
の 1 のみが職業訓練センターを持つ。加えて、これらの組織は地域間で等しく分布し
28
ておらず、8 つの地域の中で、中部高原と北西部は、職業訓練組織が最も少ない地域で
ある。各地域でも、職業訓練組織は都市部に位置しているだけであり、それゆえ、ベト
ナム全土の 80%の労働力が集中する農村部の労働者は職業訓練へのアクセスが難しい。
各地域の人口密度に合致していない職業訓練組織の配置は、地方の需要を満たす技術
労働者の訓練を不十分なものとし、地方の労働市場の需要と供給の不均衡と予期せぬ労
働流出を引き起こす。
(2)ほぼ全ての職業訓練学校が、省庁や地方の関連部局の特別な要請により中央集権
的に計画されて設立されてきた。配置のマスタープランはなく、職業訓練学校の配置に
は、地区ごとに重複や不適切な配置が残存している。訓練の質を改良し、労働市場の需
要を満たすための主要な職業訓練学校ネットワークは、依然として未開発である。
(3)職業訓練学校の訓練は、とりわけ地方の職業訓練学校において、小規模なままで
ある。職業訓練学校の資格基準は依然として普及しておらず、職業訓練学校建設への投
資と設立認可がなされているものの、職業訓練学校の管理には多大な困難が依然として
残存している。職業訓練設備と施設は大きく不足しており、また、今日の発展した技術
水準と比べて、遅れた状態である。職業訓練学校の教官も不足しており、実技指導力が
不足している。さらに、教官が知識を向上させ、新たな技術の実践に触れる機会も不足
している。カリキュラム、プログラム内容、訓練手段も、再構築が遅れており、生産の
実態が変化していることに対応できていない。
(4)職業訓練活動の社会化政策は、大半が短期の訓練コースとして実施されており、
長期コースの試みはわずかである。民間の職業訓練学校は、稀である。
29
第8章 公的職業訓練開発組織
8.1 目的、組織、設備
過去数年間にわたって、職業訓練学組織のネットワークは、急速に発展してきた。職
業訓練組織の数は、1998 年には 129 校のみであったが、2005 年には 1.83 倍となり
236 校に増加した。2005 年末現在、全国に 166 の公的職業訓練学校、70 の民間職業訓
練学校(そのうち、7%が集中職業訓練コースを持つ)、212 の高等技術専門学校と職業訓
練を行う技術短大、404 の職業訓練センターがある。それ以外に、800 の雇用サービス
センター、職業訓練(短期コースのみ)を行う生涯学習センター、伝統的工芸村、企業、
組織、個人により設立された多くの職業訓練クラスがある。
現在の職業訓練システムは、ある程度は、国家の社会経済開発により必要とされる職
業訓練需要を満たしており、自営業などへの職業訓練への要求を満たしている。
表4:地域ごとの公的職業訓練学校の配置
地域
職業訓練学校数
比率(%)
紅河デルタ
55
33.13
北東部
29
17.47
北西部
3
1.81
北部沿海地域
15
9.04
南部沿海地域
13
7.83
中部高原
4
2.41
南東部
33
19.88
メコンデルタ
14
8.43
合計
166
100.00
出典:General Department of Vocational Training, MOLISA, 2005
業種ごとに見た場合、公的職業訓練学校は、工業(58 校)、輸送(33 校)、農林水産業(16
校)、サービス(17 校)、建設(30 校)、文化情報郵便サービス(9 校)、その他(3 校)である。
訓練業種ごとに見た場合、公的職業訓練学校は、大部分が人気のある職種に集中して
いる。全職業訓練学校の 69.4%が電気工学コース、63.7%が組立コース、54%が金属加
工コース、42.7%が建設コースを持つ。一方、現在の公的な職業訓練学校では、ほとん
ど行われていない訓練業種もある。
公的な職業訓練学校の大部分が、少数の入学者数に限られている。
- 公的な職業訓練学校の2.55%のみが、1500人以上の入学者数である。
- 公的な職業訓練学校の 12.74%が、300 人以下の入学者数である。
- 公的な職業訓練学校の 43.95%が、300 人以上 500 人以下の入学者数である。
公的職業訓練学校の実際の入学者は、定員の 1.18 倍である。全体として、地方の職
業訓練学校の入学者は、省や部門に属する職業訓練学校と比べて少なく、その 86.3%
が、1 学年 500 人以下の規模である。
表 5:職業訓練学校の定員と訓練規模
30
地域
紅河デルタ
北東部
北西部
北部沿海部
南部沿海部
中部高原
南東部
メコンデルタ
合計
定員
640
760
760
600
750
600
570
640
650
訓練規模
実際の学生数
760
920
920
660
1040
660
660
570
770
定員に対す
る比率(%)
119
121
121
110
139
110
116
89
118
短期コース
16.93
11.76
16.71
25.54
42.65
17.41
38.43
45.24
24.56
訓練比率(%)
長期コース
73.86
81.07
75.75
67.24
48.0
82.59
46.83
51.76
66.59
専門教育
9.21
7.17
7.53
7.22
9.35
0
14.74
3.0
8
出典: General Department of Vocational Training, MOLISA, 2004
技術訓練組織の設備は、不足しており、質的にも遅れている。現在の職業訓練学校の
19%のみが、現在の生産過程と技術にとって十分であると考えられている。一方、
15%以上が、老朽化しており、時代遅れである。設備の 10% 以上が、1975 年以前に製
造され、16.23%が 1975 年から 1985 年の間、そして、37.15%が 1986 年から 1995 年
の間、35.81%だけが 1996 年から 2000 年の間に製造されたものである。
8.2 主要な教材
現在、公的職業訓練学校では、管理職及び事務員が 46.07%を占めており、教官は
53.93%を占めるのみである。政府の決定により公布された「労働と賃金計画における
算出基準」に規定された比率によれば、管理職及び事務員の標準比率は 33%であり、
教官は 67%である。標準的な比率と比べて、現在の職業訓練学校における管理職と事
務員の比率は、許容範囲を超えている。
現在、職業訓練組織において契約を行っている教官は、大学や短大の教官、高等職業
訓練学校や職業訓練学校の教官、産業界や企業からの技術スタッフ、高い技術を持った
労働者、などである。
公的職業訓練組織における集中的な職業訓練全体(約 13 万人の学生)において、学生
15 名に対して教官 1 名の比率(UNESCO と UNDP の推奨及び国際的経験に基づく)で
計算した場合、職業訓練学校は、2000 年から 2001 年にかけての学期において 2200 名
の教員が不足していた。
近年、様々な手段を利用することで、いくつかの公的職業訓練組織は、徐々に、訓練
の質を改善するようインフラや広報手段を改善してきた。また、少数ではあるが、多数
ある外国のプロジェクトからの支援を受ける公的職業訓練組織もある。結果として、こ
れらの組織の基本インフラや設備は、(量的、質的両面で)改善された。しかし、ベト
ナム全体の職業訓練学校、とりわけ、遠隔地、山間部、諸島部では、依然として訓練設
備が不足しており、また、極めて古いものが使用されている。
8.3 典型的なカリキュラムとその開発法、及び、教材とその開発法
ベトナムにおける職業訓練カリキュラムは、労働疾病兵社会問題省により公布された
枠組みに基づき職業訓練学校において主に実施されており、長期の職業訓練に用いられ
31
ている。職業技術訓練の枠組み内で、48 の労働者のグループに対する 103 のカリキュ
ラムが、開発された。これらのプログラムは、国内で統一されたものであり、まず、プ
ロジェクトの 15 の職業訓練学校で試験的に導入され、その後、全国に拡大される。
ほとんどの短期間の職業訓練組織は、自ら訓練プログラムを開発してきた。短期間の
訓練組織における短期コースに対する標準的な訓練プログラムは存在しない。
公的な職業訓練組織では、訓練設備やカリキュラムの面で劣っている。多くが、教官
の水準を超えた高い水準の訓練カリキュラムを利用している。自己のカリキュラムや教
材を持つ職業訓練組織はまれである。
8.4 コース終了後の資格証明とアフターケア
規模が小さいことは、カリキュラムから訓練施設にいたるまで、訓練の質に悪影響を
与えている。結果として、訓練を受けた労働者数は少数であり、質量共に労働市場の要
求を満たしていない。訓練を受けた労働者の中で、80%以上が短期間の訓練を受けたも
のであり、職業訓練学校で受けた訓練は極めて脆弱である。それゆえ、職業訓練学校の
卒業生の大部分は、企業の需要を満たしていない。
訓練の質が低いため、職業訓練学校の卒業生の就職率が低くなっている。労働需要を
評価するために労働疾病兵社会問題省により行われた 843 の大企業における雇用に関
して 2002 年 8 月に行われた調査によれば、雇用者が技術を持った労働者を採用できな
い 最 大 の 理由 は 、 候 補者 が 訓 練 を受 け て き た技 術 の 要 求を 満 た さ ない こ と で ある
(80.3%を占める)。
ベトナムにおける熟練労働者の訓練構造は、依然として、訓練水準や訓練領域におい
て非合理的であり、労働市場の需要を満たしていない。
職業訓練に関して、1992 年に教育訓練省により規定された業種のリストには 200 業
種が含まれるが、実際には、職業訓練組織において現在行われている訓練は約 300 業
種である。訓練業種は、機械、電機、縫製などに集中しており、訓練が行われているも
のの、その他の業種の訓練の参加者は少ない。長期訓練が少なく、経済の需要に応じた
技術訓練は不足しており、技術労働は非効率であり、一般の市場傾向では、需要が減少
している産業における技術労働者の過剰を引き起こしている。
訓練レベルの構造は、基本的に、技術を持たない労働者の多い発展途上経済の構造で
ある。
2004 年の労働雇用調査の結果によれば、技術を持つ労働者と学歴(短大卒以上、専
門学校、その他)との関係は、国営企業では1:0.95:3.68 であり、民間企業では1:
0.73:3.68 であり、外国企業では 1:0.64:1.53 である。
不適切な訓練構造が、労働市場での技術を持つ労働者の不足と過剰を引き起こし、結
果として、不適な職業で働く労働者の比率が、極めて高い。2005 年に職業訓練総局に
より行われた「技術労働者市場情報」プロジェクトの下での 15 の基幹学校における
2001 年、∼2003 年の卒業生に関する調査によれば、職業訓練学校を卒業した 570 人の
訓練者のうち、13.1%が訓練を受けた分野以外の職に就いている。
32
第9章
民間企業による職業訓練への支援
9.1 公的職業能力開発組織への支援
被雇用者が訓練を受ける際、この訓練に要求するものは、企業の必要によるものであ
る。それゆえ、技術の全ての知識は、被雇用者と雇用者にとって有益であるだろう。企
業の設備を利用することも、資金と効率性の面で重要である。被雇用者は、職業訓練学
校で理論的知識を習得し、企業で実習を行う。 このため、職業訓練学校と企業の関係
は、両者にとってより効率的なものとなり、学校は訓練設備への投資を行う必要がなく、
他方、企業は、訓練チームを心配する必要がない。
企業の中には、被雇用者や社会の要求に応じる訓練プログラムを行う独自の訓練セン
ターを持つ企業もある。その他の多くの企業は、独自の訓練センターを設立することが
出来ないが、実務での訓練を行い、訓練組織に労働者を派遣している。
民間企業は、被雇用者の質を高めるためだけでなく、技術労働者を訓練する国家への
責任も果たす目的において優れた企業内訓練を行っている。
ベトナムには 121 の工業団地があり、およそ 100 万人の労働者が働いている。労働
者の中には、公的職業訓練学校を卒業した者もおり、彼らの作業は極めて良好である。
しかし、多くの被雇用者は、都市近郊部から来ており、新しい技術を必要とする作業を
行う能力に乏しい。その上、工業団地の拡大は、土地と家を失う農民の拡大を引き起こ
している。企業がこうした人々を雇用するよう政府は措置を打ち出しているが、彼らは
企業で働く能力に欠けている。この問題は、解決策を見出さなければならない雇用者と
当局にとっても大きな問題の一つとなっている。工業団地(ズンクワット工業団地やビ
ンズオン省の工業団地など)の中には、独自の訓練学校や訓練センターを設立している
とこもある。しかし、工業区に立地する学校数は、依然として少なく、訓練需要を満た
していない。
結論として、産業界は職業訓練に多大な貢献をしてきたが、期待されているほどでは
なく、将来ベトナム政府にとって大きな問題となるであろう。
職業訓練に対する企業の貢献を推進するために、以下の多くの措置が行われている。
- 職業訓練に関する国家、社会、産業界の義務を明確にする。企業は、必要に応じ
て被雇用者を独自に訓練しなければならず、実施が可能な場合、その企業は国家
から奨励を受ける。行うことが出来ない場合、企業は、訓練費用を税金の形で納
めなければならない。
- 訓練の形態を、フォーマル、インフォーマル両面で多様化する。また、新たな資
格認定メカニズムを開発しなければならない。
- 税金、雇用地、資金(借入、補助金)に関する政策などにより、職業訓練に多くの
投資をする産業を奨励する具体的な政策の策定
- 産業と学校間の関係強化
9.2 その他
職業能力開発における企業の責任を高めるために、国家は、2006 年 11 月 20 日付議
定第 139/2006/ND-CP と 2006 年 12 月に職業訓練に関する法律を制定した。この議定
によれば、企業は、企業内で訓練生に実習訓練を行うために職業訓練組織を設立するか、
33
あるいは、職業訓練学校と協力することが出来る。また、企業は、技術基準策定とその
技術基準評価に参加することが出来、職業訓練学校における基金と訓練設備を支援する
ことが出来る。企業は、実習生として職業訓練組織から送られる技術訓練生を受け入れ
なければならない。そして、企業は、実習期間中企業において生産活動に携わったなら
ば、訓練生に報酬支払いを行わなければならない。加えて、企業は、労働者の要求と技
術革新、労働者の再訓練の為により高いレベルの技術水準を持つ。
34
第三編
ベトナムの日系企業における人づくりの現状
第1章
金型製造産業
1.はじめに
協伸工業は、東京都港区に本社を構え、埼玉県川越市、栃木県宇都宮市、青森県五所
川原市に工場を有し、タブ端子やそれを高速マウンターで実装できるようにテーピング
した表面実装端子、端子を電極にした端子台、更にボビン成形、巻き線、外装までをイ
ンライン製造するソレノイドコイル等を製造している。製造にはプレス加工と樹脂成形
加工プロセスが必須であり、それに要する金型も内製するメーカーである。
近年高まり続ける国際化の時代の要請に応えるべく、進出先として中国を始めアジア
諸国を調査の上、フィリピンに進出することに決めていた。そこへ主力銀行が主催する
ベトナム投資視察団への参加を勧められ、念のためオーナーが出かけて一度でベトナム
の虜になり、フィリピン計画を反故にして進出を決めた。心変わりの最大の要因はベト
ナムの、夜も女性が外出できる治安の良さであった。そこで、1995 年ホーチミン輸出加
工区に独資で進出し、プレス加工と樹脂成形事業を展開することとなった。
筆者は、そのベトナム子会社に日本人の現地代表者として約 4 年間奉職し、ベトナム
人のポテンシャルを活かして事業の拡大に努めてきた。その航跡をお伝えすることで現
地の人材の強み、更にその有効活用の方向性を伝えられればと思う。
筆者は、前後 2 回にわたるアメリカ駐在中に定年を迎えた。そのまま年金生活入りする
には元気すぎるような気がしたので、次なる仕事を探した。幸いベトナムでの仕事のオ
ファーに接した。協伸ベトナムは創業 7 年、初代の日本人現地責任者は交替の期を迎え
ていた。親会社の社員の中にはベトナムまで赴任を希望する者はいないので初代に続き、
次も外部調達ということであった。実を言うと、以前日本から赴任したのに 1 カ月しか
持たなかった人がいたのだそうで、先進国のアメリカ帰りの筆者なら、半年も持てば良
い方との下馬評であった。それが 4 年近くの任期を全うしようとは、周囲の期待を裏切
って申し訳なかったが、それほどベトナムは住みやすく魅力に富んだところであるとい
うことであろう。40 年近く過ごした初めの会社は化学会社であった。それが全く畑違い
のプレス・樹脂成型事業、それも後には金型を自製したり、親会社もやっていないメッ
キにまで手を染めるようになったのだから、ベトナムは大変な可能性を秘めた国である
ということだ。
(協伸ベトナム第1工場玄関)
35
2.日本の進出先としてのベトナム
投資先としてのベトナムの評価
ベトナムは共産党一党独裁体制ながら市場経済を志向することにより、近年ではアジ
アでは中国に次ぐ高度経済成長を遂げ、現状ではまだ世界の最貧国の域を脱しきれては
いないものの、2020 年には工業国の仲間入りを果たそうとしている。
その目標実現を可能にする条件である、資本、労働力、技術のうち現在持ち合わせて
いるものは労働力だけで、残りの資本と技術の蓄積が出来ていないので、国を挙げて外
資導入を図っているところである。そのためには税を中心とした投資優遇策を用意し、
外資の言い分にもよく耳を貸している。
投資先としてのベトナムの評価はほぼ固まっている。その優位性として挙げられるの
は政治的、社会的安定であり(協伸のオーナーはこのカントリーリスクの低さを第一に挙
げた)、ハイポテンシャルで低廉な労働力、アセアン諸国の中に占める地政学的優位性、
高い経済成長力、通貨の安定性、投資優遇策、良好な対日感情といったところである。
一方、留意点としては、不透明で整合性を欠く政策運営、インフラの未整備、裾野産
業の未成熟、管理者・熟練労働者の不足、土地所有の不可、国際慣行への未適用等が挙
げられている。
DNA の共鳴する国
全ての条件を満たした国というところへは、世界中の国が進出してきて競争が激化し、
事業はしやすくとも過当競争ゆえに収益的には厳しくなることは避けられない。ベトナ
ムへの投資はその高いポテンシャルのゆえに、その強みを最大限に活かし、欠点は自ら
の努力で補う覚悟で進出すれば十分なリターンが得られるところである。
ただ、こちらがいかにその気になっても、ホストカントリーが日本とまったく波長の
合わない国であれば、せっかくの努力も水泡に帰することになるであろうが、幸いにし
てベトナム人は日本人と波長の合うことで知られている。お互いにモンゴル系で 8 割以
上の子供に蒙古斑が現れるのも共通している。
(同じアジア人でも蒙古斑の出現率が 5%
以下、10%以下の民族もいる)全体的に痩せ型であるが、顔や姿かたちは日本人に似て
いる。実際、私がアメリカ在住中にベトナム人に同胞と間違えられてベトナム語で挨拶
され、反対に日本に来たベトナム人研修生が日本語で話しかけられたりしている。
考え方も近い。1999 年の宗教センサスによると仏教徒は人口のわずか 9%に過ぎない
が(ベトナムは信仰の自由を謳っているが、本来共産主義は宗教を認めないせいか、調
査では 80%が無宗教と回答、実際ベトナム人従業員の宗教の欄にはクリスチャン以外は
none(無し)と記載されているのに驚きもした)、実生活では大乗仏教の生活様式が顕
著である(日本のベトナム案内書には大体仏教徒が 80%と書いてある)。家庭や店に仏
が祭られ花が供えられ線香もたかれている。
朝早くから挙行される派手な葬列のために、朝の通勤時に交通渋滞に巻き込まれるこ
とも一再ならずある。お寺で鳥を買って、すぐその場で自然に放し功徳を積む「放生(ほ
うじょう)」と言う習慣も未だ健在である(日本では明治時代にすたれた)
。また、かっ
て同じ儒教の影響を受けた日本の美徳でもあった「年寄りを敬い、知識習得を尊ぶ国民
性」は、今日我々の方が学ぶ必要があるほどである。
36
教育に熱心で、外来の優れた技術を進んで摂取する。勤勉で向学心に富み、器用で、
協調性があり、凝り性(筆者はこれを日越互恵にかけて 5K と呼んでいた)といったベ
トナム人の特質は、日本の戦後の復興期に外国人を感心させた日本人の形質を思い起こ
させる。ベトナムは我々と多くの良い肉体的・精神的 DNA を共有し、親日的である世
界でも唯一の国であると言っても過言ではない。
意外に古い日本とベトナムの関り
日本は古くからベトナムとの関りを持っている。 天の原ふりさけ見れば、春日なる、
三笠の山にいでし月かも
という望郷の歌で知られた阿倍仲麻呂は、中国の科挙の試験
に合格し、唐の地方長官としてハノイに赴任していたことがある。
仲麻呂は中国人官吏としてのいわば間接的官吏であるが、直接的にも、仲麻呂在越の
10 年程前の 752 年に、当時ベトナムの中部を支配していたチャンパ国から奈良東大寺
の大仏開眼供養会に林邑楽(りんゆうがく)を奉納し、日本の雅楽の源流の一翼を担っ
ていると言う。
また、ベトナム中部の都市ホイアンには、日本人町が築かれ、今も日本橋と言う橋が
残っている。又、更に沖縄には想夫恋と言う夫婦愛を謳った歌があるそうであるが、こ
れと同じ歌が、ベトナム最後の王朝の首府フエに存在すると言う。歌詞も曲も全く同じ、
唯一の違いは、日本語で歌われるかベトナム語で歌われるかであると聞く。
日本を尊敬するベトナム人
ベトナム人は日本人に対し親近感を抱き尊敬してくれてさえいる。日本が日露戦争で
勝利した頃、ベトナムからフランスの植民地支配を脱するための軍事支援を求める動き
があった。日本は軍事支援を断り、代わって人材育成の支援をしたという。
(これがいわ
ゆる、東遊運動(日本に学べ)である)また日本が大東亜共栄圏樹立とやらでベトナム
に進駐したおりには、あの植民地の宗主国フランスを戦闘らしい戦闘もせず駆逐して大
変尊敬された。その日本は現地で米を調達し、そのせいでベトナム人が 2 百万人も餓死
したと歴史の教科書で教えられるそうであるが、どこかの国々と違いベトナム人に「だ
からこれ位してくれて当然だ。」とか「だから日本人はけしからん。」と詰め寄られたと
言う話は聞かない。
心の深層は計り知れないものの、極めて穏やかな人たちであると言えよう。第二次大
戦後、ベトナムがフランスの植民地支配から独立を果たすに当たり、日本は正史には決
して載らない貢献をしたと聞き及ぶ。つまり、先の大戦に敗れた在越日本軍が武装解除
されるに当たり、日本の武器弾薬は連合軍に差し出したが、フランス軍からの戦利品は
ベトナムへ引き渡したと言うのである。また、日本の将兵の中には、日本が新型爆弾(原
爆)などで灰燼に帰したことを知って帰国する希望も持てずに現地に残り、ベトナム人
に武器の使い方、兵員の訓練の仕方、軍事作戦の立て方を指導した者もいたと言われて
いる。そのせいもあってベトナムはフランス軍との戦闘に勝利することが出来た。
更に、戦後の日本の驚異的な経済復興は、かのロンドンエコノミストも「ライジング
サン、ジャパン」の特集記事を組み、大いに賞賛してくれたほどであったが、ベトナム
も日本の経済成長に憧憬の念を抱き、日本に学びたいとしている。
37
ベトナムは 1978 年カンボジアを侵攻して世界から経済制裁を受けて困窮した。
その苦しい時代に唯一のスポンサーとして支えてくれたソ連が 1991 年に崩壊したた
め疲弊しきっていたベトナムに、1992 年世界に先駆けて政府開発援助(ODA)を再開した
のは日本である。ベトナム政府はそれが今日の経済成長の出発点になったと日本を高く
評価していると言う。
日本の ODA は援助供与国の中で、国としては常に最大である(地域としては EU の
方が上回ることもある)。その成果が大いに発揮されたのが SARS(重症急性呼吸器症候
群)への対応であった。どこかの国が、事実を隠蔽して流行を広げ国際的に非難を受け
たのに反して、ベトナムは WHO(世界保健機関)の賞賛を受けるほどの早期終息を実
現した。
なぜならば、日本の ODA で建設されたハノイのバクマイ病院に患者を集中隔離して
流行を押さえ込み、日本が伝授した感染症対策のノウハウを十二分に駆使したからであ
る。
そのほか、ハノイやホーチミンの国際空港、道路、橋、港湾と言ったインフラ整備に
日本の ODA が貢献し、感謝されている。
3.ベトナムでの工場生産
ベトナム人労働者 日越対等
ベトナム人は優秀である。それは、フランスの植民地時代フランス政府の中級・下級
官吏として東南アジアの他のフランス植民地に派遣されていた事実を見ても明らかであ
る。
今後日本は急速に高齢化と人口減少に見舞われ、これまでの経済力を維持し、望むら
くは、成長を継続していくためには、このような海外の高いポテンシャルを活用してい
くほかは無い。この点でベトナムは格好なパートナーであると思料する。
事実、どのベトナム投資案内書を見ても、ベトナム人ワーカーは若く、優秀で向学心
に富み、目が良くて器用であり、定着率が良くて賃金は低廉であると記されている。
しかし、さるベトナム投資セミナーで、ベトナム在勤 11 年の経歴を有する大企業駐
在員のベトナム人評価は「モラルはなきに等しい。ルールは守れない。言われたことし
かやらない。応用力無し。約束は守らない。時間の観念なし。原材料の横流し、横領が
横行。
何事も他人のせいにする、、、」と大変厳しいものであった。筆者の体験とは随分異なる
気がするがこういった側面があることも事実であろう。参考になればと敢えて引用させ
てもらった。このほかにもグローバルスタンダードに不慣れなあまり、彼我の慣習の違
いに驚かされることがあるのも否めないが、ルールに無知であることと、無能であるこ
ととは別であり、きちんと教育すればポテンシャルを現実の力に引き出すことが出来る。
ベトナムの日系企業の中には、ベトナム人をさす時に
ヤツラは、、 と言って憚らな
い人が結構いて驚く。このような会社は、勤勉で安い働き手としかベトナム人を見てい
ないので、ポテンシャルを活かす教育とか、それを活用して業務を改善し会社を強くし
て行こうとかには思い至らないようである。人間として日越対等の視点に立ち、彼らの
ポテンシャルを素直に認める。立派な原石を手段を尽くして磨き宝石にする、更に宝石
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に育ったらそれにふさわしい処遇をする覚悟で当たれば、ベトナムは宝の山に満ちてい
る。
共創か協創か
シャープの町田前社長が素材メーカー等との協創が日本の強みであると話した(日経
新聞 2006 年 2 月)。筆者は、同じようなコンセプトで共創と言う言葉を使うようにして
いた。
中小企業が大企業と共同で新しい物を作り上げた時、協力すると言うと、強者に奉仕
させられるイメージが拭いきれないので、売り買い対等というコンセプトから、敢えて
辞書にも載っていない共創と言う言葉を使用した。
これは、日越対等、売り買い対等を強く意識して使った言葉である。
内なる共創 :日本の親会社から技術移転を受けると言わずに、この言葉を使う。
赴任して驚いたのは、製造について質問すると、「それについては教わっていない」、
「分からない。」と言う答えが頻繁に返ってきた。
「そんな馬鹿な。」と思われることがし
ばしばだった。つまり教わった条件、状況から一寸外れると、確かに厳密に言えば具体
的に対処法を習っていないわけで、「出来ない」、「聞いていない。」と言うのも嘘ではな
いことになる。技術移転、技術導入と言うと、あくまで受身になり、自分で工夫すると
言う心構えにならないようである。優秀なベトナム人に主体性を持って技術の習得、改
善に努めてもらうには、親会社からの技術指導は単にノウハウ(具体的にどうしたら出来
るか)ではなく、なぜそうするのが良いのか(ノウホワイ)を教えてもらい、日々の製造
実践の中で遭遇する事象に対処できるようにした。つまり、親からはあくまで技術のコ
アーである、ノウ
ホワイをキチンと学び取り、ベトナムの諸条件に合わせた操業方法を確立するという
意味を込めている。ベトナム人の主体性を鼓舞する考えを込めたのである。
一方、顧客と共に新しい技術製品を作ることは
究極の共創
と言うことにした。こ
れは顧客との間で双方のエクスパティーズ(専門知識・技術)を上手くかみ合わせて、
顧客のニーズに対応することである。ここにも売り買い対等と言う矜持があるのはもち
ろんであるが、こうして共創の上に作り上げた製品は、そうやすやすと顧客が内製を始
めたり、第三者に転注することも無くなるに違いないと言う打算が働いていることも事
実である。
顧客からの新製品製作の打診には、これまで作った経験が無くとも積極的に入札に参
加することにした。他社が出来ることが出来なくては、ビジョンに掲げた世界企業にな
れないとの強い思いが突き動かすのである。私が、
「時間をいただければ何とか仕上げて
見せます。今足りない要素技術は買って来てでもやります。」と言う側で、なまじ日本語
の出来るベトナム人工場長が「そんなのデキナイヨ。」と後ろから鉄砲を撃つ。
「やりも
しない内に出来ないとどうして分かるのか。やったことが無いと言いなさい。それなら
正しい。」と何度か注意するうちに、「それはまだやったコトが無い、がやってみたい。」
と発言するようになった。こうして新しいことにチャレンジを重ねていくうちに、親も
手がけたことが無いような金型も作れるようになってきた。
進取の気性を活かせるには、裏付けとなる知識・技術力の涵養が肝心である。その基
39
礎知識レベルを上げ応用力を強化するため、親会社のエンジニアによる OJT はもとより、
社外セミナーへの参加、ホーチミン工科大学教授陣による社内での生産管理等の研修、
奨学金を出しての夜間大学への通学、語学研修、他社の見学、リーダーの部下の教育、
AOTS の補助金制度を利用した日本での研修等、考えられる手段は全て尽くした。
インターン制度とトップテン「親切は他人の為ならず」
ベトナムは教育に熱心な国である。中学までが義務教育、しかし貧乏国のこととて教
育までなかなかお金が回らない。日本の戦後がそうであったように、校舎が足りないせ
いで,授業は午前と午後に同じ校舎を使って行われることがあるほどである。後に、ア
ジアの大学ロボット・コンテストで優勝したホーチミン工科大学もその例外ではない。
ある日、新聞に同大工学部の設備が古くてベトナム戦争が終わった 1975 年以前に購入
した設備を使って授業をしている。従って、卒業して会社に入っても直ぐには最新の機
械操作は不慣れで役に立たないといった内容の記事が掲載されていた。当社は中小企業
のゆえに、世界最新鋭の設備を備えているわけではないが、大学の 30 年前の古めかしい
設備よりはましと思われるので、会社の設備を使ってインターン制度を実施することを
大学に提案した。直ちに工学部長が 10 名ほどの教職員を連れて見学に来て、気に入っ
てくれインターン制度が始まった。
それからしばらくして、日本で開催された第 1 回アジア太平洋大学ロボット・コンテ
ストで同大学が優勝し超エリート校としての名声を得ると、多くの会社が奨学金制度を
設けたりして、大学との連携を深めていった。しかし、われわれは連携が早かったため、
工学部のパンフレットの提携先の欄には他の大会社を差し置いて最初に当社の名前を載
せてくれ、工学部学生の 1 番から 10 番までを推薦してくれる事になった。文字通り他
人への親切はわが身に返ってきた訳である。ただし中小企業の身、そんなに沢山雇える
はずも無く、他の企業にもお裾分けをし、感謝されている。
4.ベトナムでの金型作り
金型王国計画(KINGDOM プロジェクト)
親会社は、標準サイズの金型を作るのに 40 日掛かるという事になっていた。しかし
単純に計算してみると半分で出来ても不思議ではないと思われる。そこで、キャノン社
に売り込みに行った時、発注後 3 週間で納品できると言った所、それを聞いた親会社に
叱られた。
親会社からは、金型は先ず作ってから色々調整して仕上げていくと言う物だと教わっ
た。更にどんな順番で作るのかが、又、難しいのだとも。
金型(それもプレス型)の設計には想像力・創造力が必要である。その想像力・創造
力も無からいきなり生み出される物ではない。色々な工夫も過去の事例や経験を巧みに
組み合わせて形作られていく物がほとんどである。過去のデータの記憶や活用、更に、
デザインルールの適用は、うまく使えば人間よりコンピューターの方がはるかに優れて
いる。この特色を活かしてデザインすれば、独創的な型作りはムリとしても、誤りの無
い、従って作り直しのチャンスが少ない型作りが出来るはずである。事実、金型製作時
間の 3∼4 割の時間が最後の微調整を含む修正作業に費やされている。しかし、はじめ
40
からキチンとしたデザインに基づいて、機械による正確な仕上げをするならば、調整の
時間は限りなくゼロに近づくはずである。
素人の筆者には金型作りこそ IT と CAD/CAM、NC マシーンの活用でドラスチックに
速く、正確に出来るのではと思われた。すなわち、過去のデータを最大限に利用して金
型設計・製作モデルを構築することで対応できると考えたのである。データの蓄積のな
い取っ掛かりの頃は、各デザインの要素ごとに実績値の二点間は単純内挿することで、
まず要素技術のモジュール毎のモデルを作る。どういう順序で作るかは、コンピュータ
ーの最も得意とするシミュレーションで最適解に近い近似値が得られるはずである。こ
れで作った物を始めのうちは修正も必要であろうが、その仕上がりの実績値をモデルに
取り込んでリファインを重ねていけば、データベースの充実とモデルの精度向上により、
最後の最後に人手が係わるであろうフィニシング・タッチを除けば、金型も自動設計・
自動製作で大幅な時短とコスト削減が計れると考えられる。
1 週間の目標設定は無謀であると言う向きもあろうが、当時の日経新聞に新宿のイン
クス社が試作金型を 10 日間で仕上げることを謳い、業容を幾何級数的に伸ばしている
と言う記事が掲載されていた。従って、後発で出る以上もっと時間短縮を図る必要を感
じて一週間と設定した。実を言うと、金型製作モデルを構築するにはデータ(実績数値)
が必要であるが、ベトナムでは金型を作り始めたばかりでありデータの蓄積がない、ま
た、日本の親会社にもデータの集積がなかった、そこで、同社にデータベースを分譲し
てもらえないか尋ねたことがある。当然のことながら、データベースは販売しない。た
だし、プログラム開発は実施してあげても良いという返事。モデル構築こそがこのプロ
ジェクトの命であるので、今度は此方が譲れない。おまけに、先方のプログラム開発フ
ィーは目の玉の出るように高かった。先方からは、
「お宅(=当社)のアプローチが正鵠
を得ているので自分で出来るはずだ。」と励まされて?完全自前主義にした次第である。
そこで、インターン制度でなじみになったホーチミン工科大学と金型を速く作るため
の産学協同プロジェクトを立ち上げた。その名前を KINGDOM プロジェクトとした。
私の計算では、全ての条件が整えば、160mm のプレス標準型は3日ほどで出来るはず
である。
3週間と言っただけで叱られるのであるから、3日と言えば気違い扱いされかねない。
そこで目標は1週間とした。ベトナムは 19 世紀半ばにフランスの植民地になる前は、
中部のフエに首府がある王国であった。つまり、ベトナムに金型の王国を作ろうと言う
意気込みである。
実際は、Kyoshin INtegrated Global Design Optimization & Manufacturing System
の頭文字をとったアクロニム(頭字語)である。ただし、相手は国立大学であり、私企業
の 名 前 を 冠 す る の も 憚 ら れ る の で 、 先 方 に は 、 同 じ KINGDOM で も Kanagata
INtegrated Global Design Optimization & Manufacturing System と言って、二枚舌
を使ってある。
工学部に 5 台のワークステーションを寄付し、学生を募った所、40 数名の応募があっ
た。
コンピューター1 台に 2 名が適切なサイズであるので、途中止める人も考慮して 12
人の学生を選んだ。工学部に限らず、IT 学部やロボコンチームの学生もいた。その中に、
41
たった一人女子学生がいたが、彼女を除き全員が卒業したら協伸ベトナムに入りたいと
言っていた。彼女は見るからに聡明な学生であったが、卒業後は、大学院へ進学し、大
学教授になりたいとのことであった。男女平等のベトナムでも、実業界では差別があり
女性が昇進するのは難しいことを反映しているのではとも思われた。男女平等といいな
がら、労働法に定める定年は男性 60 歳に対して、女性は 55 歳。男性による家庭内暴力
を体験する女性は 40%に達しているという調査もある。現実は女性に厳しい社会という
面もあるようである。
大学に金型を教える先生は居ないので、会社の金型セクションのリーダーを非常勤講
師として大学に提供した。国立大学には金が無いので、講師料が支給されるわけではな
い。
そこで、プロジェクト決定時、そのリーダーに講師料の支給を伝えた所、要らないと
断られた。愈々プロジェクトが開始される月の初めに再度昇給を伝えたら、又、断られ
た。
実際の給与支給日は月末なので、一方的に職務給の 20%アップ(=30 万ドン=20 ド
ル、因みにホ−チミン市の地元企業の最低賃金は当時 29 万ドン、2006 年 10 月からは
45 万ドンへアップ、外資系企業の当時の最低賃金は 62 万ドン、2006 年 2 月からは 87
万ドン)を支給したら今度は黙って受け取ってくれた。
しばらく経って彼から「自分には他所の会社からこんなオファーが来ている。」と 5
割以上も高い金額の誘いを見せてくれた。人間は金だけで働くのではないと言うことを、
このホーチミン工科大学を優秀な成績で卒業し、マイクロソフトのコンピューターカレ
ッジを首席で卒業した男が教えてくれた一コマであった。
(プレス工場
協伸ベトナム第1工場内部)
42
(金型工場
協伸ベトナナム第1工場内部)
(鍍金工場
協伸ベトナム第2工場内部)
四方一両得
親子間で最初に開発したノウハウは、日越間でシェアー(共通に使用)しようというの
が内なる共創である。ベトナムで ISO9001(製造品質)、 ISO 14001(環境品質)、SA 8000
(社会責任)、ISO 9000/TS 16949(自動車関連事業の品質マネジメントシステムで ISO
9001 より厳しい規格)の認証を B 社から取得してきた。
日本の親会社では 600 社と取引しているが、これまで何とかこれらを取得しないで凌
いできていた。しかし、環境問題への対応が厳しく要求される中で、ついに ISO 14001
(環境)を取得しないのなら取引停止すると通告する顧客が現れたので流石に親もこの
43
取得を決意することになった。
そこで共創の精神に則り、ベトナムの子会社が親会社の ISO 14001 取得を指導するこ
とになった。一方、認証会社はロンドンに本拠を置く世界的に有名な B 社であり、当然
日本にも事務所があるが、日本の監査費用が高いのが難点である。
幸いなことに、そこの日本事務所のライセンス条件には、B 社ジャパンとして認証す
る場合は日本人しか監査できないと書いてある。それでは「B 社ジャパンでなく B 社本
部の認証を貰うのならばどの国籍の人が日本で監査しても良い理屈になるが?」と確認
した所、「その通り。」と言うことである。そこで、ベトナム人監査人に日本で監査する
気持ちがあるか照会した所、
「やりたい。」と言う。これで困るのは B 社ジャパンである、
自分の庭が汚されることになる訳であるから。
「ベトナム人監査人は日本の環境法に明るくないので手伝う。」とのご親切な申し出に
接した。それでは費用が嵩んで困る、何しろ、日本人のエントリーレベルの監査人のフ
ィーが、一番高いベトナム人監査人の何倍もするからである。この申し出に対しては、
「親会社の所在する地域の環境法は、県庁とか市役所の環境保全課が詳しいのでそこか
らのインプット・アシストを貰うことにする。」から結構であると丁重にお断りした。
B 社本部は、その役人たちに監査補助資格があるか保証を求めてきた。親会社の工場
のある 3 つの市の環境保全課に電話をすると、「何で貴方に名前を名乗らなければなら
ないのか!?」から始まり、監査は英語で行われることもあって、
「協伸に迷惑をかけて
はいけないから。」と逃げ回る(聞くと、英文のパンフレットも用意して無いとの事であ
った。空洞化・空洞化と騒ぎながらも、開いた穴を海外から企業を招致して埋めようと
いう発想がないということである。日本はまだまだ余裕があるということか)
。そこを何
とか説得して、大学の専攻、入庁後の担当した仕事等を聞き出した。さすが日本の官庁、
大学で環境関連の科目を履修し、環境問題に携わってきた立派な役人揃いである。無事
英国本部の資格審査も通り、地元役人の協力で無事認証を取ることが出来た。
お陰で、このプロジェクトに関与した全ての人が喜ぶ結果に終わった。
先ず第一に、ベトナム人従業員が喜んだ、
「親を教えた」と。第二は、B 社ベトナム人
監査人が喜んだ、「先進国で監査した」と。三番目は、当初逃げ回ったお役人が喜んだ、
「良い勉強になった」と。最後に最も得をしたのは親会社である。ベトナム人の監査人
は、日本人ほど細かくないので時間が短くて済み、かつ、単価も安いので監査費用は桁
違いの安さであった(取得後年一回のフォローアップ監査、三年毎の認証の更新を考え
ると莫大なセービングになる)。大岡越前の三方一両損に倣って、これを四方一両得と言
うことにした。
B 社からは、かかるインターナショナルな試みはベトナムで初めてであると(通常は
先進国から発展途上国の子会社に出向く)、特別表彰をしてくれ、立派なプラック(記念
の額)を贈ってくれた。これはお金を出して取得した国際認証状の額の列の真ん中に燦
然と輝いている。
その後、親会社は ISO 9001 の認証を取得した。この場合は、地方官庁の役人が絡ま
ないので、正に三方一両得になる。
ついでながら、ベトナム人従業員を、深絞り技術の習得のため日本に派遣したが、技
術指導の見返りに受け容れ企業の ISO 9001 取得支援をこの方式でやることにした。受
44
け容れ企業の社長とは 4 時間にわたって話し合い、最後の頃には、「ベトナム人に自分
の技術を指導するのは、自分の社会的使命です。技術料は要りません。」とまで言ってく
れたのであるが、只貰いはいやなので、三方一両得とクロスライセンスと言う格好にし
た次第である。
5.WTO 加盟のインパクト
2007 年 1 月ベトナムは 10 年来の夢が叶い WTO への正式加盟を果たすことが出来た。
この加盟に伴うプラスのインパクトは輸出市場の拡大、輸入原材料のコストダウン、
経済成長の加速、国内市場の拡大等が考えられる。しかし、加盟条件の一つである輸出
奨励措置の廃止のインパクトをどう凌いでいくかはベトナム進出の三種の神器(独資、
外資系工業団地、輸出加工)を信じて進出した企業にとって大きな課題である。現に、
アパレル産業への優遇措置は加盟と同時に廃止され、残りの産業も 5 年間の猶予期限が
切れる 2012 年 1 月には廃止されることになる。
2006 年 7 月に施行された統一企業法以前の外国投資法に基づいて進出した企業にと
っては、外資法で保障された進出後の不利な政策条件変更への補償を勝ち取る交渉はこ
れから始まるところである。
何れにせよ海外では日本人の 3S(スマイル、サイレント、スリープ)を脱却して
自己の権利を守らなくてはならない。諺に、「沈黙は『金』、雄弁は『銀』」と言うの
があるが、海外ではむしろ「沈黙は『禁』、雄弁は『義務』」ですらある。
一方、WTO 加盟に伴い、諸外国からのベトナム投資が活発化しており、外資への開
放分野が増えるに従い、この増勢は当面やむことはないと思われる。日本企業は先進国
の中で、海外出向者に対する待遇が国内に比べてよくないことは有名である。
一方、欧米の企業は手厚い待遇をしないと従業員が海外勤務に応じない傾向があるの
で、海外勤務者の経費は高くなる。かつ、コスト管理が厳しいので、本国からの派遣者
の数を抑え、出来るだけ優秀な現地人を登用して収益を上げようとする。こうした背景
で、現地人に対して日本の企業から見ると破格の待遇をして人材を集めることとなる。
こういった情勢の変化を良く織り込んで優秀な人材の確保に努めないと、せっかく手間
とコストをかけて育成した人材を外国企業にさらわれることになりかねない。かかる人
材の流動化対策としては、単に給与を上げればよいといったものではなく、長期安定雇
用、人材教育といった日本企業の持つ強みを良く理解してもらう努力はもちろんのこと、
中小企業であっても、会社の目標と経営理念を明示し、現地人材の昇進限界(現地人は
どんなに頑張っても部長にはなれないと言った、文書には書いていないが実感されるい
わゆるグラスシーリング)を高めたり廃止して、現地従業員に将来の希望が持て誇るに
足る会社経営をする必要があろう。
45
第2章
菓子製造販売業
1.担当業務の紹介
1.1
所属している企業の紹介及びベトナムの業界全体の実情
私の所属する会社は、ニャットアイン・トレーディング・プライベート・エンタープラ
イズと言い、菓子製造販売業を生業とするベトナム会社法によって 1996 年 9 月に設立さ
れたローカル企業で、今年創業 11 年目を迎えた。表向き会社の代表者はベトナム人の妻
であるが、実質の経営は日本人である私が行っている。
一般的に外国人がベトナムで法人を設立する場合、1)現地駐在事務所2)合弁企業3)
100%外資企業
この 3 つが主たる方法として知られているが、私のケースは、この何れ
にも当てはまらないことになる。元々、日系企業の駐在員としてベトナムを訪れた私だっ
たが、ベトナム人配偶者を将来の伴侶としてめとり、かつ、勤務先の撤退が決まると私に
残された選択肢は、 起業
することだった。
もっとも起業すると言っても、潤沢な資金があるわけでもなく、結果的に妻を名義人と
して立ててローカル企業として弊社は立ち上がった。
冒頭でも書いたように、弊社は菓子製造販売業を行っている。菓子と言っても、ビスケ
ットやチョコレートなどの西洋菓子の部類ではなく、ベトナムに古くからあり、当地で栽
培されたカシューナッツ・ピーナッツ、それに胡麻などをふんだんに使い水飴で固め煮詰
めた岩おこしに似たものを扱っている。なぜならば、前職を辞した後、新たな商売を自ら
立ち上げるために、妻と二人で商売のネタを探して回った期間が 3 ヵ月ほどあって、これ
を見つけたのである。当時、ベトナムは第一次投資楽園ブームと呼ばれており、毎日多く
の日本からの視察団がこの国を訪れていたのだが、よくよく観察していると日本人がお土
産に好むような温泉饅頭的な商材がこの国にないことであった。
そこで、妻とホーチミン市内の市場をしらみつぶしに巡り、当地の菓子類を探って見た
ところ、現在、弊社が扱うお菓子の原型を見つけたのである。早速、口にしてみたところ
少し甘さが強いものの、日本人にとって懐かしい歯触りと風味が口いっぱいに広がった。
しかし、衛生観念の劣ったそれには砂や髪の毛などの日本では到底考えられない異物混
入がごく当たり前に見られたばかりか、包装もビニール袋に入れたものを輪ゴムで巻いて
簡単に止めた程度でしかなく、そのままでは絶対に商品になりえない代物であった。それ
でも、メーカーを突き止めて、業務提携をしたのである。形はこうだ。我々の要求する甘
みを付け、商品をバルクで卸して貰う。それを弊社で検品し、自社で作ったオリジナルボ
ックスに詰め込み、市中の外国人が立ち寄る土産物店に商品として置かせてもらい販売す
るといった具合である。
メーカーと提携し半年は順調に売上を伸ばしていった。メーカーも売上が伸びてゆくほ
どに、弊社の高い要求を呑み、協力を惜しまなくなってきた。そんなある日、妻から商品
つまりお菓子を自ら製造するようにしたらどうかと提案を受けたのである。当初、私はこ
の案に反対で彼女に耳を貸さなかった。今提携しているメーカーに対し、道義的に日本人
としてそれは許されるものではなかったからに他ならない。しかし、妻はここは日本では
ないという。いずれメーカーは我々の販路を断ち切るために商品供給を止めるだろうと言
って聞かない。妥協案として、取り敢えずノウハウは学ぶことに決め、メーカーが反旗を
46
翻すまでは封印するというものだった。
ところが、妻の話がそれから半年後に現実のものとなって我々を襲ったのである。これ
までの商品の供給先であったメーカーは自社販売に踏み切り、商品の供給が絶たれたので
ある。既にノウハウを準備していた我々は、直ぐさま会社近くに 120 平米余りの民家を借
り、そこを急場しのぎであるが工場に改造し、一週間後にはそれまでのただの卸売業者か
らメーカーとして歩き出した次第である。以上が、弊社の黎明期の出来事なのだ。
さて、弊社は日本人の私が運営しているので、事実上
日系企業
と呼ぶことが許され
るかも知れないが、企業そのものは完全なローカル企業であること、そこには外資を呼び
込むためのいわばよそ行きの顔はなく、あくまでもベトナム人企業家と目線と同一線上に
あることを念頭に読者の方々に読み進めて頂くことにより興味を深めて頂けると思う。
この国の業界全体の実情は、菓子そのものに関して言えば、有望市場であることは言を
待たない。人口の半数が 30 歳未満を占め、2025 年までにはベトナム総人口が一億人を超
すと言われており、菓子に対する需要は今後右肩上がりに上昇してゆくことだろう。
しかしながら、これは西洋菓子を扱うメーカーに限定され、弊社が扱う伝統的なベトナ
ム菓子の需要は今後、西洋菓子に押され衰退の一途を辿ることになるだろう。故に、弊社
は生き残りをかけ、日本の和菓子業界で広く行われている手法、いわゆる、高級贈答菓子
路線への将来的な転換の他、ベトナム菓子の総合メーカーを目指し、他社との商品差別化
を進めてゆく方向で現在着々と動いている。ベトナムは大きく分けて、南部・中部・北部
の 3 つの地域があるが、それぞれ昔ながらに伝わる銘菓を持っている。それらを弊社でま
とめ、総合的に生産し世界への供給地とするのが現在の目標である。
ただ、ベトナムの菓子生産における問題点を指摘しておきたい。それは原料の追跡可能
性(トレーサビリティ)が、ほとんど不可能という点である。例えば、弊社の場合
原料
を農産品であるカシューナッツ・ピーナッツ・ゴマなどを使用するのだが、ベトナムの流
通慣習として、原料は仲買人という人々が農家からそれぞれ買い集め、それらのサイズを
分けた後に、メーカーへ供給するため、原料の出所が特定出来なくなってしまうのである。
よほど大規模な原料需要があれば、農家と作付け契約を交わし、細かい取り決めなども
可能になると考えられるが、通常、我々のようなベトナムの菓子メーカーが必要とするボ
リュウムは年間せいぜい 100 トン未満で、有り物を 分けて 貰うことしか他に術がない
のだ。年々日本を含む世界の先進国の追跡可能性は厳しさを増す中において、ベトナム政
府を巻き込んだ法整備による流通システムの再構築が求められている。
1.2
担当業務から見たベトナムの紹介
ベトナムのローカル企業である弊社は、経営面については全面的に私が監督しているわ
けだが、ベトナムの役所などが絡んでくる場合は、妻の出番となる。彼女が登記上の会社
の代表者だからにほかならない。そこから見えてくるものは、まさにベトナム人同士の慣
習から生じる利害関係のそのままの姿が浮かび上がってくるのである。特に、ベトナムが
WTO へ 150 番目の加盟国になる前までは、何事に付け賄賂をあらゆる関係機関から要求
され、それを支払わないと意図的な妨害をされたり、認可を下ろして貰えなかったりする
ため、是非もなく、それが役人との潤滑油の役割を果たしていたのである。この頃は、以
前に比べれば随分是正されたものの、それでもそれは主に外国人投資家に対する不正を減
47
らしただけで、対ローカル企業に対する扱いはほとんど変わりないと言える。
メーカーになって、一年目のエピソードなのだが、ある日の午後、突然 10 数人もの税
務職員が弊社に上がりこんできて、強制捜査を行った。間の悪いことに、丁度、その時当
時のチーフ経理が不適切な帳簿をつけている現場で、資料が机一杯に広げられていた。全
ての書類・帳簿類が押収された。摘発を受けた後に、私と妻が会社に戻るとチーフ経理は
呆然自失となっており、盛んに困惑していた。
日頃
妻の陰に隠れて表に出ないようにしていた私だったが、この時ばかりは会社の存
続が掛かっている。摘発した税務署は区の管轄であり、ホーチミン市税務署ではないこと
を確認すると、妻と二人でウィスキーを買って、所轄の税務署長の自宅へ乗り込んで行っ
たのだった。まず、税務署長へ自己紹介をした私は、今回の件につき謝罪した。相手は、
30,000 米ドルの追徴課税を要求してきた。もちろん、細かい計算をして出してきた数字で
はなく 言い値 だ。夕方 6 時から深夜 0 時まで税務署長のところで粘り、交渉を続けた。
署長も疲れたのか、結局、300 米ドルで手を打って了承して貰うことでこの場を納めた
のだ。何と言い値の 100 分の 1、しかし、これは端的にベトナムビジネスが人治国家に影
響される一方、妥協点を見いだす上でオールウェイズネゴシャブルが有効であることを示
していると言えよう。もっとも当時私自身なけなしの資金を集めて作った会社であり、そ
う簡単に潰されて堪るか!という勢いも加勢して、たまたま運良く進んだだけなのかも知
れない。
2.業務を進める為の人作りの留意点
人間関係、指導面で特に注意すべき点(成功例、失敗例及び改善方法)
これもやはり、メーカーになって一年が経った頃の出来事になるが、それまで私は全て
スタッフとワーカーを日本的発想で
同じ釜の飯を食う
仲間と見なし、気持ちよく彼ら
に働いて貰うために何が必要かを絶えず考え、そして実践してきた。当時、工場では私も
時間があれば、率先垂範すべく自ら工場でワーカーと働き、荷物を運んだり一緒に汗をか
いたりもしていた。それに半年に一度は、貸切バスを仕立て日帰りで近くの観光地へ連れ
て行ったりして、ワーカーから受けの良い社長と思われ、私自身もそう思われることに満
足していたのである。その一方で、メーカー1年目では、仕事量もまだまだ不安定であり、
シーズンオフになれば、ワーカーの仕事にも事欠く日があった。
仕事が無いのはワーカーの責任では無いし、だからといってワーカーの首を切ったり自
宅待機にさせるような人間は経営者として失格だと信じていた私は、兎に角仕事が繋がる
よう精力的に営業を行った。それが功を奏し、輸出の仕事を得ることが出来た。ただ、納
期までは時間がない。そこで、ワーカーに対し、出荷が完了するまでの間、日曜出勤を要
請した。もちろん、休日出勤は会社の内部規定で、150%増しの賃金を支払うことになっ
ているので、ワーカーに異論は無かろうと思っていたが意に反し、当時 30 名ほどいたワ
ーカーの内 20 名までが、日曜出勤拒否をしたのであった。この時、私はハンマーで頭を
思いっきり殴られたように彼等から裏切られたような思いに陥った。しかも、その 20 名
の中の数人が日曜出勤中止を求め他を煽動し、要求が通るまで出社拒否をする始末で、そ
の場で職場放棄が始まったのだ。
私自身も、当時は若かった。出社拒否を敢行したワーカー全員に対し、その場で解雇を
48
命じた。残ったワーカーだけでは当然仕事にならないので、結局、自宅の近辺のベトナム
人に声を掛け、人数を揃え、翌日から働いて貰うことにした。幸い、弊社のお菓子は半日
も学習すれば誰でも作れるようになる簡単な作業なので、やり始めこそ手間取ったものの、
それ以降は翌日の日曜日から順調に作業効率が上がっていったのだった。そして月曜日の
朝になると、解雇したはずの 20 名の元ワーカーが出社して来て、その中の代表が職場復
帰をさせて欲しいと要求してきたのである。確かに、その場しのぎに近所から借りてきた
人手で、作業をこなしている身にとって彼らの要求は有り難いものではあったが、なぜか
この時、私の心の中で悪い前例を残してはならないという思いと、恩を仇で返されたとい
う気持ちが強く支配し、妻は盛んに要求を受け入れるように求めるも、退けたのであった。
3 ヵ月間の冷却期間を設け、それでも職場復帰を願う元ワーカー15 名は最終的に許した
が、この事件以来、私の中でベトナムのワーカーに対する見方・接し方が劇的に変わった
のである。まず、当たり前といえば考えるまでもないのだが、ここは日本ではないという
こと。次に、社長自らの率先垂範は素晴らしいのだが、多くのベトナム人ワーカーにはこ
のことが理解できない。ご存じの通り、ベトナムも中国の儒教文明圏の中にあり、いわゆ
る、大人は小人が行うような肉体労働はしないものであるという考え方が支配していて、
現業職の前で会社の代表者が汗を掻くことは美徳でも何でもなく、寧ろ自らを小人の仲間
と化し、結果的にワーカーたちからバカにされることに繋がるというわけだ。話が解る=
与し易いと勘違いを起こすだけなのに気づいた次第なのである。
それ以降、ワーカーとは一線を引き、ワーカーの管理は、ベトナム人工場長の指揮下に
置き、監督権を完全に移譲し、極力私が工場へ出ることを減らした。実際、それまでワー
カーの採用・解雇に関する人事権は全て私の元にあり、工場長は単なる中間管理職として
製造現場での生産ラインの管理だけを任せていたが、これも工場長に全面的に任せたので
ある。人は顔を会わせていれば情が湧くものである。故に、元から断ち切る決断が必要だ
った。その上で、ワーカーの存在を
消耗品
と考えることにした。人に対し、消耗品な
どと同列に扱うのは私自身、今現在でも抵抗を感じるものの、弊社のような単純作業用ワ
ーカーに業務を依存する工場では、出来る限り若くて、低賃金で働くワーカーの循環が企
業の高いコストパフォーマンスに繋がるので、誤解を恐れずに言うならば、定期的に人の
入れ替えがあった方が良いわけである。ところが、それまでの私は、全ての従業員を平等
に扱い
同じ会社の仲間
=
我が子も同然
とばかりに接してきたため、結果的に本来
ベトナムではごく普遍的な感覚であるワーカー=消耗品の姿が見えなかったのである。
ワーカーに対する考え方を改めて以降、ワーカーサイドと経営者サイドの関係は稀薄に
なったが、その分、ベトナム人工場長の号令一下ワーカーたちが纏まり、ワーカー個々の
トラブルは時折発生するものの、全体的な職場放棄やストライキを起さずに過ごしてきて
いる。とは言うものの、後に3項の企業内能力開発の実施事例の中で詳しく述べるが、優
秀なワーカーについては昇級以外のインセンティブを弊社では用意し、職能向上に役立て
ている。
さて、ワーカーは消耗品!衝撃的な言葉であるが、それでは管理部門に籍を置くマネー
ジャーたちを私がどう扱っているかというと、ワーカーとは完全に対局の位置に置いてい
る。経験から、彼らは割と日本人と似た思考法があり、そこには責任感や義務感の他に創
意工夫などが含まれ、自ら仕事をクリエイトする高い能力を持っている。故に、彼らに高
49
いパフォーマンスで働いて貰えるように、ローカル企業としては平均を超えた高収入を提
供するほか、経営サイドと密接な人間的繋がりを持ち、働く職場での居心地の良い環境を
与えることが肝要なのだ。昨今、WTO にベトナムが加盟し、今までに増して多くの外国
企業の進出が加速してきている中、どこの企業も管理職の保持・獲得に血道を上げており、
た
か
後からベトナムに進出してくる企業は常に高給優遇を提示してくる。中には給料の多寡に
釣られて会社を去る者もいるのは確かだが、このクラスのベトナム人はそれ以上に仕事の
中身・満足度、あるいは職場環境に重点を置く傾向があるので、給与も大切な要因だが、
それだけでは無いということを知っておくのも良いだろう。
さて、ここでマネージャーの弊社でのインセンティブに関しお話しさせて頂く。収入の
た
か
多寡がメインでは無いとはいえ、やはりお金にプラクティカルなベトナム人にとって実収
入が幾らなのかということは関心事の大きなウェイトを占めるのはやむを得ない。マネー
ジャー各員の給与が平均以上ということと、それ以外に彼らのモチベーションを高める為
に、弊社が採り入れている方法は次のようなものである。
弊社にはマネージャー職が4名いる。先ず、工場長、次にチーフ経理、そしてセールス
マネージャーとハノイ支店長という具合。営業職の色合いが強いセールスマネージャーと
ハノイ支店長のインセンティブは、やはり売上を伸ばすことで実入りとなるコミッション
制が大きいだろう。一般のセールスマンも基本的に販売額に応じたコミッションを得るシ
ステムになっているわけだが、セールスマネージャーやハノイ支店長はセールスマンとコ
ミッションをシェアする形を採り入れているのだ。この形式を用いることにより、マネー
ジャー職とセールスマンの間に共通利害が生じ、利益について運命共同体となるため、双
方に強い絆が出来上がるという具合だ。
営業職の場合
コミッション制は誰でも理解しやすく判断基準が明確にしやすい、その
一方で、内勤の経理職は評価がしづらいのだが、弊社ではこれも数値化して彼らのやる気
に応えているのだ。
そこで、経理のインセンティブを弊社では、次のようにしている。毎年、会社の所得税
を払うことになるのだが、その額の節税分の 30%をチーフ経理を始めとした経理職員で分
配させるのだ。例えば、昨年支払った所得税額が二百万円だったとして、今年はその額が
半分の百万円で納まれば、30 万円が経理全体の取り分となる。もちろん、この内チーフ経
理が 6 割ほど取り、チーフ自ら残りを仕事の貢献度に照らし合わせて、経理職員で分配す
るといったやり方。特にベトナムの企業では優秀なチーフ経理を持つほど、直接お金を扱
うだけに最も職員による不正が起こりやすい部署でもある。このため、高給で処遇するこ
とのほかに、魅力的なインセンティブを用意し、詰まらぬ不正で会社のお金を流用したり
するのは愚かなことだと考えさせることが肝要なのだ。その一方で、節税が進めば会社に
とっても相乗効果が増し、双方が WinWin の関係になり、まさに一石二鳥となるのだ。
工場長にいたっては、会社創業以来勤務してくれており、既に書いたとおり過去ワーカ
ーたちとの確執を乗り越えてから、私は工場の人事・現場での生産作業を全面的に工場長
に任せることにした。日々の生産量管理は、本社が受注状況に応じて工場にその指示を出
し、工場長の号令の下、生産活動が行われる。故に工場長に対するインセンティブはその
50
職責に見合う収入を支払うことで賄っている次第だ。
以上の事柄から、弊社での場合、ベトナムの一企業としての立場からすると、ワーカー
クラスとマネージャーでは、明確な差を設けることから始まる。その上で、マネージャー
クラスは、彼らの仕事に対する意欲を引き出すため、同業他社と比較して高給などで優遇
し、さらにインセンティブとも言える副収入制を採り入れることで、それぞれのセクショ
ンでプラス・アルファのやる気を引き出すようにしている次第である。ベトナム人は計数
に長け、物事をプラクティカルに考える人々なので、確かに実務的指導を与え、育ててゆ
くことは生産活動を行う上で不可欠なのだが、収入とリンクさせることにより、ダブルで
彼らにモチベーションを植え付けられるということを覚えておくことが肝要である。
3.企業内能力開発の実施事例
3.1 具体的な日本人派遣者への人材育成の方法
弊社は日本人といえば、私ひとりであり、後は全てベトナム人のため、育成も何も創業
時より暗中模索で、失敗を繰り返しながら頭より身体で覚え学んできたと言える。日系企
業関係者に知人は多くいても、彼らの所属する企業の事例がベトナムローカル企業である
弊社に 100%適用出来るものでもなく、結局、手探りで自分で一つずつ見つけ理解してゆ
くほかないのである。ただ、その中において私が人材育成で心懸けた点を上げるとするな
ら、まずベトナム語の習得に時間を割き、従業員と意志の疎通が図れるように努力してき
たことだろう。自分の言葉で直接相手に伝えるというのは、通訳というフィルターを通さ
ずに済む。指示を明確に伝え、理解させることが重要だと思う。この様な点からすると、
ベトナムへ派遣される日本人は、専門知識の他に多少のベトナム語力をつけておくことが
大切だ。あるいは、ベトナム語やベトナムの風土に精通した日本人を現地採用し、その代
わりとしても好いが、それでも仕事を教える本人が現地の言葉を使い従業員を指導してゆ
く方法に優るものはない。
次に、ベトナム人について少し書いてみたい。一般的に日本では彼らは手先が器用で真
面目だと言った論調で書かれることが多いようだが、だからといって一般的な日本人と同
一レベルで語ってはいけない。確かに
のの、それは何れも
管理・監督
資質としては二つとも彼らの中に備わっているも
をきちんとしていればという「但し書き」がついての
ことでしかない。少しでも目を離したり、気を抜けば必ず手を抜いてくるものなのだ。故
に、こちらから手を抜かせない方法を仕事や作業の中に随時採り入れておくことが必要と
なる。先に、弊社ではセールスマネージャー・営業職・経理職などのやる気を引き出すた
めに給与面の優遇にインセンティブを掛け合わせていると書いたが、インセンティブにつ
いてはワーカーにも当てはめることが出来る。
工場で実際に菓子を生産するワーカーたちには、持ち場毎に一日当たりの生産量を課し
ているわけだ。これをクリアーすることにより、給与以外にいわば臨時ボーナスとも言え
る報奨金が支給されるため、彼らは与えられた目標を黙々とこなすことになる。このよう
にすると、生産性が向上するのみならず、工場管理者は製品の品質面に神経を集中させる
ことが可能となり、一石二鳥の効果を生み出す。この方法を導入する以前は、管理者が僅
かでも離れたり隙を見せたりすると、私語が始まり生産スピードが極端に落ちたものだっ
たが、導入後はそれらがほぼ消滅した。繰り返しになるが、ベトナム人を使う場合、各職
51
能毎に彼らの利益と生産性をリンクさせることを常に考え実行すべきだと思う。彼らの利
益というと高い経費に繋がるかと思われるかも知れないが、実際 100 円程度の違いであっ
てきめん
ても彼らは非常に貪欲になり、効果覿面は疑う余地がないほどなのだ。手作りの菓子を製
造する弊社の例を挙げれば、例えピーナッツの皮むき一つにしても、1 日当たり何キロこ
かくはん
なしたか。調理の攪拌係であれば、1 日当たり何杯の菓子を煮詰めたか、同様に菓子の成
形であれば何枚仕上げたのか、という具合に、常に結果を伴い、客観的に本人も判断が出
来るようにしてあげるのがベトナム人ワーカーを使用する上で、最も効果的な方法と言え
よう。
そしてもう一つ大切なことは、インセンティブのみに頼るとそこには弊害が生じ
やすく、自分さえよければ後はどうなろうと構わないという考え方が支配しやすい。そこ
で、チームを編成し、互いに助け合い協力させるようにしているのだ。また、ワーカー全
員が纏まってやらなければならないような掃除なども基本的にチーム単位で持ち場を決め、
取り組ませている。チームは概ね 3 人一組で構成している。
さて、ワーカーとは違うが営業職について、も少しこの場を借りてお話ししておきたい。
先ほど、弊社は彼らの報酬にコミッション制を採り入れていると書いたが、ホーチミン
市とハノイ市で、対応は異なっている。ホーチミンの営業職は基本給を高めに設定してあ
る一方、ハノイ支店はその半分、仮に前者の基本給が 100 米ドルとすると後者は 50 米ド
ルしかないことになる。しかし、商品販売ごとに支払われるコミッション率は逆に前者は
低く、後者に厚くしてある。故に、トータルでの支給額は実際、ハノイ支店の営業職の方
がホーチミンのそれの上を行くのが実情なのだ。これは北部と南部の人の考え方の違いに
起因しており、北部の人間はある意味、裏の数字を読み込むことが出来、南部の人間はそ
の反対且つ、どちらかというと安定志向と言えるのかも知れない。
営業職は実際、仕事の中で現金を扱うだけに金銭的不祥事もしばしば発生する。これは
地域に限ったことではなく、南でも北でも起こることなのだが、弊社ではそれに対する措
置を講じている。尤も、これはこの会社に限ったことではなくベトナムのローカル企業で
営業職があるところならどこでも行っているので別段目新しいものではないが、先ず外資
系企業では無い事例などでご紹介したい。営業職を採用する際、一定額のデポジットを採
用する人間から預かるのである。弊社の場合、ホーチミン市は 200 万ドン(約 15,000 円)
で、ハノイ支店は 300 万ドン(約 22,700 円)を保証金みたいな形で受け取り、尚かつ本人の
ID カードもしくは運転免許証などを雇用期間中会社で預かるのだ。ID カードも運転免許
証も日常生活で不可欠な公文書なのだが、ベトナムにおいてこの方法は一般的なので、会
社が ID カードや免許証のコピーを取り、公証人役場か会社の社印を押捺し、そのコピー
の方を営業社員に渡すのである。何かそれらの提示が必要な場面では、コピーはそのまま
公的機関で認められるのがごく普通の日常風景なのだ。
話を元に戻そう。職を求めに来た人間からいか何に採用するとはいえ、保証金を取るな
んて言うのは全く非人道的と日本の常識では思われるだろう。ただ、やはり集金の横領な
どが横行しているこの国では、残念ながら公文書預かりも含め自衛手段なのである。また、
販売方法として現金の他、掛け売りがここベトナムでも行われているが、売掛金額に規制
を掛けることがしばしばある。これも、営業の金銭的不祥事に繋がる要素になるため、あ
52
る一定の売掛金額に達すると未収金を回収するまでは現金売りだけに専念させるのだ。結
果的に掛け売りが多くなればなるほど、順に回収も心懸けなければ商品供給が出来なくな
るためこの方法をとらざるをえないのが現状なのだ。
3.2 現地労働者の具体的な養成事例や技能評価方法
既にご存じの通り、弊社はベトナム菓子の製造販売をしており、現状ほとんど手作りに
頼っている。このため、ワーカーに対する評価方法は、生産性の高さが全てといえる。し
かも、全幅の信頼を置くベトナム人工場長にワーカーの評価一切を委ねているので、彼の
査定により昇級の幅や昇格などを決定している。ベトナム人管理者である工場長の査定を
100%信用できるのか?と、ベトナムで少しでも工場経営に携わった人なら疑問に思われ
るかもしれないだろう。ベトナム人責任者はその立場を利用し、その配下から賄賂を取り
査定にお目こぼしのようなことを平気で行うからだ。もちろん、100%信用など出来るわ
けがない。ただ、工場長のこれまでの 10 年に亘る会社への貢献度を考えれば彼自身、社
内で責任ある立場であるのは重々承知しているし、私自身、そんな彼に万が一裏切られた
とすれば、それは経営者としての私の不徳の致すところと諦めるしかないと考えているの
である。
ところで、ワーカーの指導並びに評価を全面的に工場長に任せているのだが、弊社では
工場長推薦制度というものを設けており、ワーカーからこれはと思う人材を発掘している
のだ。これはどういうことかというと、基本的にベトナムでワーカーには大きく二つのタ
イプに分けられる。ひとつは、学業より働くことが好きなタイプ、もう一つは家が貧しく
進学の夢が果たせなかったタイプである。後者はいわばダイヤモンドの原石のようなもの
で、元々優秀であるにも拘わらずやむなく就職の道を選ぶしかなかった者たちで、そうい
うワーカーには会社として本人が望めば学習する機会を提供し、また積極的に本社に登用
して活用する制度なのだ。一般工場ワーカーの場合、条件は最低一年の就労経験を持ち、
本人に意欲があり、且つ能力が際だっていると工場長が判断した者にそのチャンスが与え
られる。
過去の例を挙げれば、運転免許を取らせてトラックの運転手として登用したり、または
経理学校・外国語学校に通わせ仕事に役立てて貰っている。ただ、通わせるといっても、
会社が経費の面倒を全てみるわけではない。各種学校では当然、資格試験などを行ってお
り、最初に掛かる費用は貸し出して、試験に合格したら返済免除という措置をとっている。
こうすることによって、本人の更なるやる気と懸命さを促すのである。もちろん、業務
終了後夜間に学んで貰うのが原則だが、学校のある日は残業はさせず、学業を優先して貰
うよう会社もバックアップしているのだ。ここ数年は、工場のある地域が工業団地として
の開発が進み、地方から多くの人々がワーカーとして仕事を求めて来るようになるのに従
い、相対的にダイヤモンドの割合も減ったことも手伝い、該当者はない。もちろん、この
制度は工場だけでなく、ホーチミン市の本社で働く従業員にも適応しており、所謂叩き上
げ作りに役立てている次第だ。
4.担当業務から見たその分野の技術レベル
菓子作り自体、いわゆるローテクの労働集約型産業を地で行く弊社の場合、技術レベル
53
がどうこうという問題ではない。しかも、西洋菓子でもなくベトナムの伝統的な菓子は、
同業他社も機械化とはほど遠く、やはり人力に頼っている。もっとも、機械を導入するよ
りも人件費が安上がりという側面も見逃せない。弊社の他に、同業他社は設立当時2社有
り、この 10 年で 4 社増え、現在全国に 7 社ある。内 5 社は完全なベトナム資本のベトナ
ム企業だが、弊社の他に1社韓国資本の韓国現地企業がある。現在のところ、弊社のベト
ナム国内での市場規模は後発ながら老舗のベトナムメーカーに次いで第二位につけている。
小売価格を平均値で見てみると他社と比べて 3 割ほど弊社のそれが高くなるため、主た
る現地での客層はベトナム人新興中産階級と外国人観光客となっている。当初、他社との
価格差から販売にはかなり苦戦を強いられたものの、丁度ベトナムに中産階級を顧客とす
る新しい小売り形態のスーパーマーケットが、弊社がメーカーへ転換後間もなく、後を追
うように都市部を中心に営業を開始し、価格より品質志向を目指すそれらの要求に応える
形で弊社の菓子が、その市場に受け入れられていったのである。
メーカーとなって 4 年後には、ホーチミン市の北東に隣接するビンジュン省タンウエン
村に 1 万平米の敷地に 1,000 平米の新工場を建設した。既に、ベトナムローカル企業の当
時の衛生概念については、1.1 項で述べたよう異物混入は当たり前。当初、業務提携した
ベトナム第一のメーカーですら、床はコンクリートの打ちっ放し、原料や完成した商品は
そのまま床の上に置いた状態。ワーカーはユニフォームも帽子もなく、もちろんエプロン
や手袋・マスクもない状況で生産に従事しており、外から戻った人々は手も洗わぬまま菓
子作りを始めるような有様で、製造現場を見たらとてもではないが食べられたものではな
かった。そこで、弊社も提携後は、ただ単に弊社へ卸して貰う菓子の味付けだけでなく、
生産時にこちらから供給したエプロン・帽子・マスク・手袋を着用して貰うように相手メ
ーカーに依頼したものの、実際そうして製造してくれたかどうかは疑わしかった。こちら
から管理者を送り見張りをさせたいと思ったのだが、結局、製造方法が漏れる可能性があ
るとメーカー側は心配し、我々の申し出を拒否したからである。
故に、自社工場を立ち上げた際、兎に角、衛生面についてはどこにもひけをとらないよ
うにした。基本的に手作り菓子なので、完全機械生産という先進国の食品工場のようには
いかないまでも、まずは異物混入の根絶を念頭に工場を設計したのであった。また、包装
はいち早く機械による自動包装を採り入れ、それも異物混入防止に一役買った。これらに
かつ
より、お陰様で弊社は未だ嘗て異物混入などのクレームは創業以来一度も頂いておらず、
このことを大いに誇りとしているところだ。コスト高について別の観点からも述べてみた
い。設備投資がコスト高に反映されるのはある程度仕方がないが、実はベトナム独自のコ
スト高の原因を弊社は持っている。実は、これまでベトナム菓子メーカーのほとんどは弊
社のような法人格を持たず、全くの個人商店経営で行われている。
個人商店の場合、所属する最小単位の自治体(村・町)の管理下に置かれる一方で、法
人格を持つ弊社は国と市の管理下に置かれている。前者は、地元の強みと人治国家ならで
はの賄賂に拠るナ∼ナ∼の関係で済ませる事が出来るのだ。これは何を意味するかという
と、わずかばかりの金品を渡すことで、本来
申請・手続きをしなければならない公的許
認可等の取得が実際の検査・確認がなされない状態で、済まされるということで、これは
取りも直さず、相当の経費節約に繋がるのである。ところが、後者の場合(弊社以外に外資
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100%企業・合弁企業も含む)は、きちんと全ての許認可を取得する義務が課せられ、結局、
その費用は消費者に負担して頂かなければならず、小売値の差になって表れるというわけ
なのだ。一般的な常識の中では、後者が当然の行為なのだが、ここではそうならないので
ある。
本来、ここでは製造技術について語るセクションだが、弊社商材自体、技術力と呼べる
ものが残念ながらなく、結果的にベトナムのビジネス環境と、ベトナム人とはについて書
き連ねてしまった。しかし、私個人の経験の範囲でしかないものの、行間から生のベトナ
ム
そして生のベトナム人というものをわずかでも読者の皆さまに感じて頂けたなら嬉し
く思う。
なお、以下、5項において筆者が 15 年の在越生活の中で感じているベトナムの将来性
を文章で表すことにした。何かの一助にでもなれば幸甚だ。
5.その他(筆者が考えるベトナムの将来性)
私がここベトナムに会社を設立してから早くも 11 年目になった。設立当時、人も街も
何もかもゆっくりとしか流れず、業務面においては遅々と進まないお役所の対応にイライ
ラしながらも、その一方で全てに余裕があったと思う。しかし、昨年ベトナムが WTO を
批准すると、これまでのベトナムが嘘のように生まれ変わり始め、国中が発展に向けて猛
烈に動き出したのである。この一年間に見られたこの国の変化は、私の残りの1滞在歴1
0 年を全部ひっくるめて更にその 4∼5 倍のそれに匹敵するものである。
初めて、私がベトナムに来た当時、この国は外国投資分野で中国の後塵を拝する国でし
かなかった。このため、知り合った日系駐在員たちは生活物資も乏しくインフラの立ち遅
れたベトナムに赴任してきたことを社命とは言え快く思っているのはごく少数派に過ぎな
かったそんな時代だった。
しかし、今、ベトナムは大きく舵を切り、社会資本主義化に乗り出し、WTO 加盟とい
う推進力を得て、今後の発展の道筋が誰の目から見てもはっきり見えるようになってきた。
最近、友人の商社マンから嬉しい話を聞かせて貰った。彼は既に 5 年ほど前にベトナム
から東京本社に戻った男だが在越当時から数少ないベトナムを高く評価するひとりだった。
その彼が言うには、現在彼の会社の若手社員に人気の赴任先は
ベトナム
なのだそう
だ。以前はあれほど煙たがられていたというのに、40 年前の高度成長期の日本の姿が今の
ベトナムにあり、これから伸びゆく国で自分の力を試したいということらしい。
日々、証券投資市場は整備され、外国の直接投資も拡大の一途を辿り、次々と新しい工
業団地や輸出加工区が造成され、計画段階から敷地が外国企業によって押さえられて行く。
今後、ベトナムの発展を私は順風満帆に進むとは言わない。当然紆余曲折を伴うだろう。
しかしながら、この国には確立されたビジネスよりそうでないものが圧倒的に占めてい
る。つまり成功の機会が先進国などに比べると非常に高くて豊富にあるわけだ。
また、拠点をベトナムに据えることで、これまでのビジネスの世界観が変わるだろう。
例えば、日本に居れば、どうしてもそこを中心としてビジネス展開を考えてしまうもの
だが、ベトナムでは同国内はもちろんのこと、近隣アセアン諸国が商圏となるばかりか、
インドシナ半島を扇の要とすれば、対米・対日・対中・対中東・対欧
そして要の真下の
対豪とグローバルなビジネス展開が視野に入ってくるようになる。是非、これらのことを
55
踏まえ、これからこの国に駐在する人あるいは事業を立ち上げようとする人々には、いよ
いよ面白いベトナムでの事業展開に広がりを見せてくることになるだろう。
56
第3章
鉄鋼販売のための社員育成
1.ベトナム鉄鋼業の現状
鉄鋼産業の発展は、その国の経済発展に従って、段階的に発展していくのが理想であり
そこには順序がある。
ベトナムが、世界の注目を集めるようになり主に東南アジア諸国から産業投資が爆発的
に増大したのは 1995 年ごろだった。これは異常ともいえるほどの加熱状態だったが、1997
年7月のタイを起源に発生した通貨危機の余波が、インドネシア、韓国へと飛火し、その
結果、東南アジア全域をその経済不況のどん底に落とし込んだことで一応収束した。
この第一次ベトナム投資ブームが、世界でも最貧国の一つに数えられていたベトナム経
済の底上げに大いに貢献した。しかし、このアジア全域に吹き荒れた経済不況の嵐のため、
この国に対する新規の投資は 2001 年 12 月の「米越二国間通商協定」が発効し、また、時
を同じくして東南アジア経済が、ようやく立ち直りを見せる頃までは、この国の経済状況
は火が消えたような状態であった。
ここで、そのベトナム経済の黎明期のおける鉄鋼業界を取り巻く経済環境について、ま
ず振り返ってみたい。
当時のベトナムの経済界は、資金調達に大変苦労をしていた。そのため、インフラ整備
や機材・資材の製作に必要な鋼材の入手が容易ではなかった。
すなわち、当時のベトナムでは、長らくつづいた戦争とその後 18 年間におよぶ厳しい
経済制裁のため、国土の復興にどうしても欠かすことのできない鉄鋼とセメントの生産が
増えつづけていく需要にどうしても追いつくことができなかった。鉄鋼に関して言えば、
必要なのは量であり高度な品質のものではない。
そこで、親しくしていたベトナム鉄鋼総公社の副総裁や業界関係者に提案したのは、日
本の鉄鋼の格落ち品や二級品、あるいは鉄のスクラップの調達を進めることだった。この
事業を、ベトナム事務所の柱の 1 つに育てようと考えたのである。
鉄鋼公社で、実務の実権を握っているこの副総裁は、全面的に私の提案を受け入れてく
れたお陰もあり、この取引は大々的に発展していき、毎月、二・三隻の本船をチャーター
してそのような鉄をベトナムに売り込むことができた。
二級品の鉄鋼やスクラップ等の取引に関しての具体的な話だが、日本の一流メーカーの
二級品の場合は、メーカーの検査証明書が付いていないだけのものであり、その品質は一
級品とほとんど変わらない場合が多い。それは、発展途上国の鋼材の一級品と比べても決
して劣らず、まだ充分に使えるものである。このような品物は、日本では非常に安く入手
できるのだが、ベトナムでは重宝されて高値で取引されている。
一方、鉄のスクラップの場合は、日本では廃棄処分として取り扱われて、電気炉などで
溶解されてしまう。しかし、例えば高炉ミル発生の鉄板スクラップや条鋼スクラップなど
は、溶解炉に入るよう、そのサイズに合わせて小さく切断する必要がある。多くの人手と
コストがかかる。日本ではスクラップや鉄屑と呼ばれるこれらの鋼材を、書類上、鉄板や
条鋼の製品という名目でベトナムに輸出すれば、商品価値が上がり大切に使ってもらえる
のである。
57
2.従業員の新規採用とその育成
弊社は東京に本社をもつ、大手鉄鋼専門の商社である。ベトナム事務所は,アメリカを中
心とする西側諸国による厳しい経済制裁が解除された、1993 年にホーチミン市とハノイの
両市で開設された。私が現地の総支配人として赴任したのは、その2年後の 1995 年だっ
た。
ところが、現地のホーチミン事務所に入ってすぐにわかったことは、事務所の空気がよ
どんでおり、緊張感がないことだった。社員と話してみても、覇気がないし、まともに英
語で意思の疎通ができない。バイヤーに出向いて商談するにも、しっかりと通訳ができな
いし、仕事に使える人材がいないのである。
私は、それまでマレーシアやシンガポールで、8 年近く駐在経験があるし、アメリカに
は 5 年間、広いアメリカ大陸を走り回って鉄を売っていた。通訳など必要がないのだが、
ベトナムは違う。
ベトナムの地場の大手企業の責任者で、しっかりとした英語が話すことができる人はい
ないといってよい。また、ベトナム語は世界でも最も難しい言語であるため、こちらとし
てもちょっと勉強したくらいではものにならない。どうしても優秀な中間管理職と通訳が
必要だ。私は大いに焦った。
ハノイにも出張して、社員と話をしたところ、こちらは比較的しっかりしており、まず
心配はなさそうだ。しかし、具体的な仕事はなく、みんな時間を持て余しているようだっ
た。前任者は何をしていたのだろうか、と恨めしく思ったが、彼はすでに定年退職してお
り、会社とは関係がない。
ホーチミン事務所では、あらゆる手段を頼って優秀な人材を探すことをはじめたのだが、
そのような動きに対して、危機感を持った社員は次つぎと辞めていった。そのため、最後
には事務所として借りていた庭付きの一軒家の庭師と女中、三人の警備員、それに運転手
だけになってしまった。
幸か不幸か、事務所の活動はほとんどなく停止状態だったため、仕掛りの取引は、不合
理で小さなクレームが一件あるだけで、他には何もなかった。具体的な商社としての活動
は、当時は困難だったこともあったのか、ほとんどしていなかったと言ってもよい。
ホーチミン事務所は、社員探しからの出直しだ。情報社会で噂社会のベトナムのこと、
日系企業が人材募集をしていると聞きつけた人たちが、履歴書を携えてたくさん集まって
きてくれた。幸いにして、その中から外国語大学や貿易大学、経済大学卒で英語ができて
素直そうな若者を若干名採用することができた。
彼らの中で、一人だけ貿易実務がほぼ完璧に理解している若い女性がいた。彼女を中心
にして、海外取引の基本や、危険性、代金回収の問題点などを、徹底的に教育していった。
その当時のベトナムにおける最大の問題点は、社会主義体質から抜け出していないこと
と、外国人との付き合い方がわからない人が多かったことだ。それは、わが社の社員だけ
ではなく、相手にする国営の大会社の社長たちでも同じだった。長い戦争で徹底的に痛め
つけられ、その後につづく厳しい経済制裁のため鎖国状態に置かれていた。長い間、外国
人との付き合いは公安の監視の目が光っていたため、自由にできなかったからである。
具体的な例を挙げれば、1995 年当時でも、私たち外国人がベトナム人の家庭の夕食会に
招かれた場合、乗用車は遠いところに留め置いて歩いて来てほしいといわれた。また、そ
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の家には事後、公安が事情聴取に訪れるのが普通だった。それだけではなく、ベトナム人
が外国人と数人で、ホテルの部屋のドアーを締め切って話すことも疑惑の対象となってい
た。
社会主義というのは、中央政府による集中管理の下、すべての行動は上からの指示によ
るものであり、個人が自由に判断して実行すること自体制限されていたため、どうしても
指示待ちの受動的行動となる。一流大学を出た若い世代でも、未だにその傾向は残ってい
る。国立大学での教育が、マルクス・レーニン主義から抜け出ていないためである。
ところで、会社は営利団体であり学校ではない。いくら私が着任したばかりの総支配人
といえども、本社側は売り上げと利益の追求を容赦なく要求してくるし、日本の本社や関
係先のお客さんが連日出張してくる。それだけではなく、具体的な商談が休みなく入って
くる。事務所は南北に二ヵ所だ。それに対応する日本人は、私一人である。日々の取引や
来客をこなしながらの、OJT による社員教育がはじまった。
社員教育の基本は、海外取引の危険性で、次いで鉄鋼を中心とした建設資材に関する教
育だが、選び抜いた優秀なベトナムの若者のこと、その知識吸収力はすばらしい。彼らの
知識欲とその謙虚な姿勢は、他の国では見られないことで、一度教えたことは、驚くほど
理解し記憶してくれた。
3.取引き現場の実態
新規に採用した社員に対する、鉄鋼の二級品とスクラップ商品についての育成だが、そ
れは、現場に連れて行って品物を見せることである。彼らには、鉄に関する知識は皆無と
言っていいほどなかった。
取引される鉄板のスクラップなどは、日本では大小のサイズを取り混ぜて鉄くずの山と
して販売されているのだが、ベトナムでは、このような鉄板一枚ずつを人手をかけて選別
している。それも、厚み別、大きさ別に作業員が手作業で、それぞれの小さな山を作って
仕分けている。大きな鉄板は、数人で担いで指定の場所に運んでいく。人件費の安いベト
ナムだからこそ、できる作業である。
丸棒の場合も同様で、品種、長さや径ごとに、あるいは成分規格ごとに選別して保管す
る。そして、最後に地面に散らばった鉄の破片は、箒で集めて袋に詰めて本当のスクラッ
プとして販売されるのである。
何故、これほど鉄のスクラップが大切に取り扱われるか、と言えば、それは人件費にあ
る。
例えば、スクラップ1トンの値段 3 万円とすれば、大体 10 トン分が日本人の現場作業
員一人当たりの月収に相当する。ところが、ベトナムではこのような作業員の月収は、30
ドル程度なので、スクラップ1トンが、作業員 10 人分に相当するのである。
すなわち、鉄は市況商品であり、国際的にどの国でも大体同じ価格で取引されているの
だが、そのため、鉄の価格を中心として労働市場を見た場合、日本ではスクラップは人件
費を消費する邪魔者として取り扱われるのに対して、ベトナムでは、立派な商品となる。
これが、小さな鉄の破片までもが大切にされる所以である。
さて、このように大切に仕分けされた鋼材は、立派な商品に変身して在庫業者のヤード
に保管される。一般的にベトナムの鉄鋼加工品は、それほど高い精度が要求されないため、
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品質よりも値段の方が追及される傾向にある。そのため、彼らは何も高い一級品を買う必
要はなく、現金を懐にこのような在庫業者の野積みのヤードにやってきて、自分の目で確
かめて、必要な鋼材を少しずつ買うのである。
また、在庫業者はお客さんの要求にしたがって、これを秤で計量して現金販売している
が、その値段は一級品より多少安い程度であり、業者は莫大な利益を懐に入れる。このよ
うなことは、人件費の高い日本や他の先進国では到底考えられない現象である。
その理由は、社会主義体制が残るこの国のこと、企業利益や効率性を追求するというよ
うな意識は程遠いもので、その上、従業員の職場の確保のためである。
このようにして社員の知識と能力向上のため、OJT を繰り返した結果、少しずつ仕事を
任すことができるようになってきた。ところが、彼らの客に対する態度が横柄で、どうも
違和感を持つのである。ベトナム語だから微妙な内容はわからないが、長い経験から、お
かしいのではないかと気にかかる。
社会主義体制の中では、生産者、すなわち商品を持っているものの立場が上にくるから
であり、お金を持って買いにくる者は、頭を下げて買わせていただく、という立場にある
のである。体制下では、バイヤー・イズ・キングなどという言葉はあり得ない。体制の高
等教育を受けてきた人たちにとって、払拭しがたい配分思想の名残だ。
このような姿勢は、国営企業で保守的思想に固まった経営者から、何れ問題視されるだ
ろう。徹底的な教育で改めさせる必要があると感じて、次のような標語を社内に掲げた。
(1)バイヤー・イズ・キング
(2)プライドを持って仕事をするが、卑屈になるな
(3)顧客には、決して買って下さい、とは言わないこと
(4)我われと付き合っていれば必ずよいことがある、と説得すること
(5)仕事を通して自己研磨に励むこと
そして、私は改めて、販売するときの姿勢について何度か話をし、商談の席には、社員
教育を目的に同席させて、一緒になってお客さんに対応するようにした。さらに、これか
らの世の中、古い配分思想は存在しないのであり、お客さんがいかに大切かということを、
何度も言って聞かせたのである。
4.取引きの危険性とその教育
順調に商権を伸ばしてきつつあった鉄鋼二級品とスクラップの取引だが、実は、この商
いには一つ間違えば取り返しのつかないほどの、大きな危険が隠れている。
一般的に、メーカーが生産する鉄を買ってそれをお客さんに販売する場合、その鉄の品
質と数量はメーカーが発行する、ミルシートと呼ばれる品質証明書によって保障されてい
る。
ところが二級品となると、それはまったく違う。何らかの理由があって格落ちとなった
品物であり、メーカーがノーと言ってはね除けたものである。誰もその品質評価の責任を
取ってくれない物である。街で集められたような、スクラップにいたっては言うに及ばず
だ。そのため、『クレーム』という危険が潜んでいる。
その品質評価基準がないこのような商品は、絶えずクレームの対象となる。その上、こ
のような鉄の取引は、その取り扱い金額は大きい。単価が安いため、一度に大量に運ぶこ
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とにより運賃を引き下げる必要があるからだが、そのためには、本船をチャーターして満
船にして運ぶのである。一件の取引で、数千万円から一億円である。
このような危ない商品を、ベトナム事務所の取り扱い品種の三本柱の1つとして確立す
るため、事務所の存亡にもかかる大問題に発展することもあり、その危険性の教育の徹底
が必要である。
しかし、それらの留意事項を事務所で幾ら話をしたり、写真を見せて説明しても解って
もらえない。社員はほとんどすべて若い女性である。その彼らを引っ張って、港に到着し
た商品を何度も実地検分をさせるのである。また、お客さんのヤードに連れて行くことも
あるが、炎天下で山積みされたこのような鉄の現場は、その上を歩くだけで靴の底を通し
て焼けただれた鉄の熱気が足裏を焦がす。それだけではなく、山が崩れる危険性もある。
そのような汚く激しい現場に、アオザイを翻した若い女性を引っ張っていくのであり、
化粧品や衣料品のような綺麗な商品を、エアコンの効いた商店で販売するのではない。最
初は、多少躊躇したが、彼らは黙ってついてきてくれた。
予想されるクレームを回避するため、商談が成立した段階で、お客さんに自分の目で商
品を確認してもらうため、日本へ出張してもらうこともあった。当社の若い女子社員も同
行して、客と共に日本での検品に立ち会うのだが、これも立派な教育の一環である。
このような努力の結果、半年もすれば社員は単独で商談をまとめてくれるようになり、
少しずつクレームも処理してくれるようになった。このような仕事を、なぜ女性に任せて
いるかといえば、それはベトナムでは、女性の方が真面目でよく働くからである。それに
しても、鉄のスクラップや二級品の取引を、可愛い妙齢の女性が第一線でやっているよう
な国は、ベトナム以外では私は知らない。
ここで、典型的なクレームの例を述べることで、社員育成の苦労の一端を紹介する。
それは、鉄鋼製品の二級品を、ベトナム国営の一流の鉄鋼輸入業者に輸出販売したとき
に発生したクレームである。数量は 3,000 トンで、契約金額にして約一億円程度のものだ
った。
この種の商品は、メーカー発行の検査証明書がつかないため、クレームの対象となりや
すい。そのため、日本の製鉄会社の工場から出荷される前に、ベトナム企業の責任者を日
本に送りこんで検品をしてもらっていた。当社の社員も同行の上である。ところが、その
荷物がベトナムの港に到着すると、品質が違うというクレームがついたのである。
同様のクレームは、よくあることなので決して珍しいことではない。我社の販売責任者
を同行し、軽い気持ちで双方立会いのもと港で商品の検品をした。実地教育の絶好の場で
ある。そして、バイヤーの事務所を訪れたところ、相手は社長以下 3 人だ。すべて国家公
務員でたぶん共産党員だろう。話合いは、午後 2 時ごろからはじまった。
客は品物が違う、と言い張って引き下がろうとしない。一方、メーカーは世界でも名の
通った日本の一流企業であり、客が日本へ出張して検品をし、出荷前に確認した商品を、
船積み段階でそれを入れ替えるはずはない。誠意を尽くして説明するのだが、相手は劣悪
な商品を送りつけてきたから、と言って、具体的に約 100 万円のクレーム金額を提示して
強行に迫ってくる。態度は必死である。
この時期、この我が社の社員は未だなれていなかったので、こちらの交渉の主役は私で
あり、彼女は通訳として使った。しかし、彼女はこの客に同行して日本で検品をしている
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ため、間違いなく注文通りの品物です、と主張するが、相手を説得するだけの迫力がない。
商品の性格からして、第三者機関による検査証明書の発行は不可能だし、仲裁を求める
こともできない。あくまでも、売り手と買い手双方の信頼関係に基づく取引であり、クレ
ームの解決は両社による話し合い以外に解決の道はない。
クレーム金額そのものは、事務所の規模からして、問題になるようなものではない。し
かし、解決を誤ればクレーム金額どころか、さらに大きな問題に発展する危険性があるが、
同時に、社員教育のための絶好の場でもある。
決済は L/C (銀行保障の信用状)で船積み書類に問題はないので、当方の代金回収の心
配はない。そのため、今後の取引はやらないと宣言し、一方的に交渉を打ち切ってもよい
のだが、当社の名前が業界で間違った噂が立つことが気になる。
それだけではなく、相手は党の主要メンバーかもわからない。クレームは全額受けても
よいし、また、仮に半分の 50 万円をキャッシュで払い、残は今後の取引で返すというよ
うなことを言えば、即、解決だということは解かっている。
しかし、こちらとしては何等落ち度がないことがはっきりしているので、引き下がりた
くない。それよりも、このような習慣をつけさせたくはないので、こちらとしても気長に
交渉のテーブルに着くことにした。
このような場合、決して感情的になってはならない、不合理な話だが怒ったほうが負け
である。感情を抑えて、ニコニコしながら、同じ説明の繰り返しである。私の実力も社員
の手前、なんとなく試されているようでもあった。
しばらくの後、
「日本人は金持ちでしょう。取引金額の1%くらい何とか考えてもらって
もいいのではないでしょうか」という意味のことを言ってくる。こちらとしては、
「何を甘
いことを言っているのか。そのような考えで国際舞台で、堂々と渡り合えるのですか」と
言いたいところだ。
夕方、5 時を回っても同じ話の繰り返しで、6 時を過ぎた頃になると、あたりが暗くな
ってきた。あいにくこの時、周辺一体が停電となり、事務所のエアコンが止まり扇風機も
回らならなくなった。熱帯のホーチミン市でのことでもあり、全身に汗が噴き出してくる。
太陽が沈み、お互いの顔も見えなくなってきたが、相手は強行で引き下がろうとしない。
真っ暗な部屋の中で、双方とも、同じ主張の平行線の繰り返しである。
さすがに、この頃になると相手に疲れが見えてきて、結局、彼らはうやむやの内に、ベ
トナム語で捨てせりふを残して引き下がった。社員教育とはいえ、こちらは予想外の長時
間、冷静に対応した。この客とはその後も取引をつづけたが、この件については、一切話
題にもならなかった。
相手はダメで元々という積もりか、あらゆる理由をつけて無理難題を押し付けてくる。
強引なこじつけであり、自分でも無理かなと分かっているはずだ。恥ずかしくないのか、
と思いたいくらいだ。
その後の経験からわかったことだが、不合理で生々しい話し合いの場には日本人は出な
いほうがよい。できるだけ教育し育成したベトナム人に対応させるべきである。
その背景の実態をさらに説明すると、それは、取引には必ず裏金が動くのであり、特に
クレームがついた場合、その解決金は領収書なしで支払われて、それは彼らの懐に入るの
である。売買取引は経理台帳に記入されるがクレームは表に出さなくてもよいからだろう。
62
5.その他
ベトナムだけではなく、社会主義体制の国は、旧ソ連でも中国でもそうだったが、われ
われが自由に仕事をしようとする場合の弊害が多く見られた。その第一は、硬直したもの
の考えかた。第二に笑顔とサービス精神に欠ける。第三に指示待ちで独自に考えて意見を
言わない。この傾向は、同じベトナムでも戦争中、社会主義政策を続けてきたハノイのほ
うがホーチミン市より強い。それは、つぎに述べるこの国の特殊性にあるようだ。
ベトナムの場合は、特に、過去 2000 年にわたる中国との抗争の歴史があり、また、フ
ランスによる徹底した搾取的植民地政策。そして、第二次大戦後三十年にわたる言語を絶
する熾烈なフランスとそれにつづくアメリカとの独立戦争があった。それだけではなく、
ベトナム戦争に勝ったものの、中国とアメリカを中心とする西側諸国による徹底した経済
制裁がつづいた。そのため、この国の国土も経済もその疲弊のきわみにあり、1993 年経済
制裁が解除されて外国人が来だして海外投資が始まるまで、国民は生きていくのに精一杯
だった。
社会主義体制が崩壊していく中、いまだにベトナム政府は共産党一党独裁、社会主義
体制を国の基本方針として変えていない。ベトナム戦争後、北ベトナムから大挙して優秀
な官僚が数十万人単位で南下してきて、ホーチミン市の行政機関や教育、公共事業、国営
企業の中枢を押さえることで、南部ベトナムの社会主義体制を確立していったのである。
これは、われわれが普通にこの国で仕事をしている限り分からないのだが、何か社会的
問題などが発生した場合は、必ず公安が現れる。このような体制下にあるということは、
絶えず意識の隅に残しておく必要がある。
63
第4章
広告関連産業
1.はじめに
このレポートは、ベトナム南部、ホーチミン市の広告会社で副社長兼クリエイティブ
ディレクターとして働いていた「北村隆志氏」と、同じくホーチミン市で CM 制作会
社の責任者を永年務めた「加藤繁美氏」の二人の話をもとに編集されたものである。
2.まず始めに、ベトナムの広告業界全体の実情がどのようになっているのか、
この対談の中で触れて頂きたいと思います。
北村:
それぞれ、もう少し詳しい自己紹介が必要ですね。
私は美術大学のグラフィックデザイン科を卒業以来、ずっとこの広告会社で海外向
けの広告制作に携わってきました。その間、シンガポールの現地法人に赴任した経験
もあります。そこではクリエイティブの責任者として 3 年間過ごしました。その後、
東京に戻り、ヨーロッパ・アメリカ向けの英文広告を制作する仕事を続けてきました。
もう一度海外で働きたいとの希望でベトナムへ来たわけです。主に広告制作部門を
担当しました。海外で働くことの抵抗はありません。苦
労も楽しみのうち、という
より、苦労を上回る勢いで仕事を楽しみました。3 年半後に定年退職し、現在は千葉
市在住です。
加藤:
私は、千葉大学写真工学科を卒業後、すぐに TVCM 制作の仕事に入りました。以
後、企画演出の仕事を続けてきました。2003 年ベトナムで TVCM 制作会社の設立に
参画。その後 3 年半、責任者として経営に携わり、現在はフリーのディレクター。そ
の間、VJCC(ベトナム日本人材協力センター)において半年間、TVCM 制作のワー
クショップ形式の講座をもち、2007 年 11 月より、ホーチミン演劇映画高等専門学
校(短期大学)で広告についての講座を開講します。
北村:
では、「担当業務の紹介」ということでベトナムの広告業界全体の実情について、
併せて関係する皆さんの技術レベル・学校教育などについてお話しましょう。
広告業にとって、とても重要なのがマスメディアとの関係です。ベトナムのマスメ
ディアのほとんどは政府、または地方の省政府の所有です。TV 局・新聞社・雑誌社
だけでなく、新聞・雑誌などを印刷する大手印刷会社もすべて官営です。日本では考
えられないことですが、ここは社会主義の国、政府がマスコミを掌握しておくため、
そして外国資本に支配されるのを防ぐためでしょう。それ故に、それぞれのメディア
間の競争意識が希薄なのも現実です。TV 番組の質、新聞の印刷のクオリティーなど、
64
私たちの目からは十分とはいえません。雑誌の種類は少なく、内容の掘り下げもまだ
まだ。競争を勝ち抜いて、それぞれの媒体の価値を高め、広告収入を増やす、という
発想はこれまであまり見当たらないようです。
TV 局は、ハノイ発の全国ネット局が 1 局、ホーチミンTVなど地方をカバーする
局が 5 局、ほかに、全国 61 省(県)が所有する局、あわせて 64 の TV 局がありま
す。みなさんの想像よりも多いでしょうね。その結果でしょう、メディア別の広告売
り上げの比率はおおよそ、TV が半分の 50%、続いて新聞 15%、雑誌 8%、屋外広告 4%
となり、やはり TV の比率が高いことがわかります。
一方、広告会社の現状ですが、主流を成すのは欧米系の企業が 10 社程度。そして
主な日系の広告会社が 6 社、といったところです。100%外国資本の広告会社は直接
メディアを扱うことができません。現地資本との合弁会社なら OK です。これも政
府がマスメディアに対する外国資本の影響力を排除しようとする考えからでしょう。
日系の広告会社ではどこも日本人は 1 人か 2 人、現地社員を含め、20 人∼40 人程
度。タイ・マレーシアに比べても、未だ小さな規模です。
広告に携わる人の中で、リーダーとなる人達は、まだまだ外国人で占められている
のが現状です。ヨーロッパ、アメリカ、日本のほかにタイ、シンガポール、フィリピ
ンなど、多彩な顔ぶれの人達で成り立っています。海外でマーケティングやデザイン
などの教育を受けたベトナム人(その多くが 1975 年以降、ベトナム南部からボート
ピープルとして海外へ逃れ、最近帰国した人達)も中堅のポジションとして活躍が目
立ってきました。とはいえ、そんな貴重な人材を確保し、長く働いてもらうのは簡単
ではありません。
カメラマンの技術水準も広告のクリエイティブには大切です。残念ながら今はほ
んの一握りの外国人カメラマンに頼っている状況です。ベトナムでは結婚式の写真
アルバム作りが盛んで、ベトナム人カメラマンは、多くはその仕事からの出身です。
それがゆえに人物の写真は何とか撮れても、商品写真をきちんと撮れるカメラマ
ンはほとんど見あたらないのが現状です。
印刷の技術については、かなり低いと言わざるを得ません。民間の小さな製版・
印刷会社が日本の中古印刷機を輸入して仕事を始めるケースが目立ってきました
が、印刷のクオリティーで勝負するという状態には至っていません。
広告に携わる人たちの学校教育などについては、加藤さんがお詳しいと思います
ので TVCM 制作の現状とあわせてお話いただけますか?
加藤:
確かに北村さんのおっしゃる通り、広告のクリエイティブの分野でもメインの人
65
達はみな外国人ですね。
私はこのことに長い間疑問を持っていました。と言うのは、ベトナムで流す広告
ですから、ベトナム人の感性や文化的な背景、生活習慣などを考慮しなければ広告
として成り立たないのではないか・・。でも、何故?そんな疑問を持ちながら、こ
こベトナムでの広告制作活動をスタートしたわけです。
ベトナムで TVCM の制作が始まったのは、今から約 11 年前だということです。
当時ベトナムには制作会社というものがなく、最初の制作会社を立ち上げたのは
タイの会社でした。当初どのように人材をリクルートしたのかと言うと・・・。
新聞や口コミで人材募集をした。採用側は、自分たちの経験から、ちゃんとした
ポジション・仕事内容を提示するが、ベトナム人側はそれがどんな仕事か、どんな
力量を要求されているのかわからないまま応募する。とにかく、見よう見まねでプ
ロデューサーやプロダクションマネージャー・アシスタントディレクターの仕事を
始めたわけです。もっとも、プロデューサーの仕事と言うのは、人脈と言う大切な
要素をいかに使っていくか・・という面もあるわけですから、これに関しては上手
くいったかもしれません。経験を要するディレクターやコピーライターなどは、も
ちろんタイ人の役目でした。そのようなわけで採用されポジションが決まってしま
うと、それが出来て当然という考えから社内教育などなかなかしない。仕事が出来
なくて、そのポジションにふさわしくないと分かったら首をすげ替えるか、その前
に本人が出て行ってしまう。
残念ながらこの状況は今も変わっていないようです。日本では会社に入ってから
長い時間をかけて仕事を覚えていくわけですが、ベトナムではそうでは無いようで
す。もっとも、毎日仕事に追われて教育どころではない・・ということなのかもし
れませんが。
ベトナムには、映画を教える大学がハノイに一校、ホーチミンには私が教え始め
る演劇映画高等専門学校(短期大学)が一校と聞いています。ハノイには数年前に
映画専門の学校が政府管掌の下に設立されたそうですが、残念ながら先生がいな
い・・ということで、開校後、活動が止まっているようです。でも、広告となると、
ベトナムには大学というレベルでは存在していません。広告全般ではないのですが、
コピーライターの養成や、マーケティングを教える専門学校がホーチミンに一校あ
ります。これは、常時開校しているというわけではなく、ある程度まとまった生徒
の人数が集まった時に講座を二ヵ月間という短い期間で開くという、変則的な状況
で教えています。それからホーチミン市内に、デザインを一つの授業科目として教
66
えている大学があります。デザインの力や広告のスキルなどは、そう簡単に身に付
くものではないのですが、この短い期間しか教育をしていないというのが現状です。
3.業務を進めるための人づくりの留意点について(人間関係、指導面で特に注意
すべき点
3.1
など、成功例、失敗例及び改善方法等を含めてお願いします。)
大切な人間関係―ファミリーになろう
北村:
ベトナムで印象的だったことは、お年寄り・年長者は皆からとても敬われ大切に
されています。おかげで私などは、若い人たちの中で大変いい思いをしてきました。
食事のテーブルではどこでも皆が競って、最年長の私に一番おいしいところを盛
り付けてくれました。レストランで得意先と同席の場で、いつも私からサービスさ
れるので困ったこともたびたびでした。そしてそれぞれの家庭では年長者を頭に家
族の絆を何よりも大切にしています。仕事の中でも同様に、仕事の仲間・友人など
と小さなコミュニティーを大切にしながら仕事をしているようです。おそらく、ず
っと前の日本もこうだったんだろうと思うところがあります。
今ベトナムで、仕事を円滑に進め成功するには、そうしたベトナム人が大切に思
う「人との絆」と、そしてどうしても避けて通れない「ビジネスの合理性」を、ど
のようにバランスをとるべきかを考えることが結構大切なことです。
私たちの会社では、徹底的に家族主義で行くことにしました。23 名の小さな会社
では、厳しい仕事も力をあわせて助け合えば頑張れる。楽しいこともみんなで楽し
めばもっと楽しめる、と考えたからです。
「ビジネスの合理性」は技術と考え、勉強
すればよいと割り切りました。それに、ベトナムでビジネスをスタートさせる日本
の会社として、ベトナムの社会に家族のように受け入れてもらいたい、という気持
ちもあったんでしょうね。
毎月一回、レストランで誕生日会のランチョンパーティー。会社へ戻ってからケ
ーキとお茶、みんなからのプレゼントも楽しみでした。時々何かと理由をつけて、
おやつの時間に全員で会議室に集まり、ちょっとした軽食などを楽しんだこともた
びたびです。私たちが日本へ一時帰国する折にはスタッフ一人一人に小さなお土産
を買ってくることにしていました。ちょっと大変でしたが皆の喜んでくれる顔を見
るのも楽しみでした。年末のパーティーは家族や友人も一緒に参加してもらい、社
員の皆さんがどんな仲間と仕事をしているかを知ってもらうのも、家族にとっては
安心出来るようでした。
いずれも、小さな規模だから出来たというのもホントですが、おかげで駐在員事
67
務所としてスタート以来最初の 10 年間に退社したのは、結婚して海外へ移住した
受付嬢一人だけという、ジョブホッピングの激しいベトナムでは驚きの結果となり
ました。優秀な社員が辞めればその補充には高いコストがかかるだけでなく、日常
業務の効率にはたいへんな重荷となります。特にスタートしたばかりの小さな規模
の会社ではそのハンディはとても大変。優秀なスタッフには長く居てもらい、社内
が澱まないよう気をつけていくのが、ここでの落ち着いた経営の基本であると思い
ます。それは日本人には得意のパターンです。またどこの国より、ベトナムではう
まくいく方法だと思います。
加藤さんのご意見はいかがですか?
加藤:
私も仕事の中で同じようなことを感じています。
ベトナムの人達は人と人のつながりをとっても大切にしますね。ここベトナムで
は仕事を円滑に進めていくためには、この家族的な付き合いが必要になることもし
ばしば。事務所ではなかなか話してくれないことも、職場を離れた場所で一緒に飲
んだり食べたりしながら話すと、意外に本人が考えている本音の部分が見えて来る
ものです。ある時、社員の様子が何かおかしくて、本人に聞こうとしたことがあっ
たのですが、なかなか話してくれない。それで、職場の皆んなをつれて夕食会を開
きました。その場では、もちろん仕事の話はしません。とにかく楽しく食事をして
家路につきました。すると、その翌日のこと。当の本人がやって来て「実は・・」
と重い口を開いてくれたことがありました。真剣に社員のことを思って厳しく仕事
を教え、そのことが信頼関係に結びつくかというと、ベトナムでは一概にそのよう
なことは言えないような気がします。家族的な付合い方が、お互いの距離を縮め、
それが仕事の場にも良い影響として表れる・・そんな気がします。もっとも、この
家族を大切にする考え方が時には、どういうこと?という問題に発展してしまうこ
ともあるのです。特に広告の仕事では、自分の時間を犠牲にして仕事に専念しなく
てはいけない状況が、よく発生するのですが、この家族思いが災いして、時に仕事
を途中で放り出して家に帰ってしまうという、そんな場面がよくありました。日本
人のように仕事第一、家族は二の次的な考え方も問題ですが、ベトナム人の家族思
いの強さも時に仕事上のネックになったりしますね。家族を大切にするように、仕
事ももっと大切に思ってもらえるといいのですが。
3.2 率直でドライな若者―サインを見逃すな
加藤:
先に話題になったように、ベトナム人は転職をすることがよくあります。平均
68
すると 2∼3 年で転職をすると聞いたことがあります。これは、転職することで本
人のキャリアアップにつながり、収入を増やすひとつの方法だと考えているようで
す。会社としては、仕事を覚えてバリバリとこなしていってもらいたいと考えるわ
けですが、急に会社に来なくなってしまい、そのまま・・ということもあるようで
す。
社員が何を考えているのか、コミュニケーションがとても大切なのですが、ベト
ナムの人達はシャイなのか、言っても仕方が無いことだと考えているからなのか、
なかなか本人の口から話を切り出すことはしません。私が常に心がけていたのは、
とにかく話すこと。こう見えても、私はとても口数が少ない男なんですよ(笑)。
でも事務所や移動の車の中では、いつも何か社員達と話していました。もしかした
ら、私が社内で一番騒がしい男だったかもしれませんね(笑)。仕事には関係ない
のですが、ベトナム語を教えてもらったり、映画の話をしたり・・。そんなことを
しているうちに、社員のちょっとした変化も見えるようになりました。私が居たの
は少人数の会社だから出来たことかもしれませんが。すると、雑談の中にポロッと
本人が考えていることが出てくる。そういった、初期の変化を見逃さないようにす
ることが大切なんだと思います。
北村:
実は私には苦い経験がありまして、、、。私のアクションが遅れて残念な結果にな
ってしまったことです。
当社には以前、大変有能な女性のアートディレクターが居りました。イギリスで
デザイナーとしての教育を受け、将来もっと上のポジションで頑張れる人だと期待
していました。その後、彼女の下にデザイナーを新たに採用することになりました。
当時給料の水準がどんどん上がっている時期で、新規採用するに当たっては古く
から居る彼女とあまり変らない額の給料が必要でした。そのことを知った彼女が、
「違うポジションで、自分の方がはるかに仕事の内容も高度なのに、給料がほとん
ど変らないのは理解できない」との不満を直接私に、率直に話しに来ました。私は
状況を説明し、あと半年、次の昇給の時期に考慮すると約束し、理解してくれたと
思っていましたが、彼女はしばらくして退社してしまったのです。給料の額は、自
分のポジション、自分の評価を表す大事な物差しであり、同業他社の同じポジショ
ンといつも比較し、会社が自分をどう評価してくれているか、敏感に計っているよ
うです。そんな彼女の出したサインを見逃さず、すぐに私がアクションを起こして
いれば問題の解決はたやすい事だったと、今でも悔やまれます。
私はこの失敗から、実に大きな教訓を学んだと思っています。それは、ベトナム
69
の人達のメンタリティーとして、家族的な「和」とか、儒教的な考え(今の日本よ
りもしっかりとした)を大切にしながら、ビジネスの世界では欧米の価値基準も併
せ持つ、ということです。私たちの場合は、欧米の広告会社・CM 制作会社が力を
持っている業界だからという理由もあります。しかし今後どんな業種においても、
欧米で教育を受けた若い人達を幹部として採用する場合、彼らの考えや行動を一面
的な見方では捉えられないケースが起こるはずです。
4.企業内能力開発の実施事例について(現地従業員の具体的な養成事例や技能評価
の実施方法等についてお願いします。)
北村:
私たちが初めてベトナムで仕事をスタートさせた時、仕事の現場では驚くことが
いっぱいありましたよね。ベトナム人の皆さんが打ち合わせの時間を守らないとか、
必要な情報が伝わってなくて、「えっ?そんなこと聞いてないよ!」なんて、日本
ではほとんど意識しなくてすむようなことが、仕事のネックになっていたことが多
かったみたい。
加藤:
そうそう、私の場合も、CM を作る上での技術的なことももちろん苦労はありま
したけど、北村さんが言われるようにこの国で仕事をするには、特にベトナムの人
達の生活の考え方・価値観、大きく言えば根底の「文化」という面から理解して取
り組まなければ、ということ。ま、これはずいぶん後になってから実感したことで
すけどね。
北村:
広告を創る仕事はまさにその国の人たちの「価値観」「文化」に根付いたもので
すからね。ここでは私たちにとって、仕事の上で難しい状況をいくつか挙げてみて、
それにどう働きかけ、結果どうなったか、を話し合ってみたい。それがこのレポー
トの目的である「人材育成」の実例になればいいと思います。それはとりもなおさ
ず、現地従業員のコミュニケーション能力を養成するということにほかなりません。
製品の生産や販売が主である業種なら、生産技術や販売手法の習得・能力開発が
大きなテーマになるでしょう。しかし私たちの場合、いわゆる「技術養成コース」
といったものでは解決できない問題が多いのです。現在まで日々の仕事の中で一緒
に解決しながら共に学ぶ、という形で問題に対処してきました。評価制度について
も同じことが言えます。技能試験とか成績を数字で評価するより、各人が目標設定
し、その目標達成の成果を評価する方法がふさわしいと思っています。私たちの場
合、目標の設定は自由に考えてもいいが、会社へどのような貢献ができるかという
ことを明確にすることが必須でした。その機会をうまく使って、マネジメントの考
70
えを直接スタッフに伝えることもできました。うまくいったことばかりではありま
せんし、いまだ試行錯誤の真っ只中、ということもあるでしょうが、それでも私た
ちが学ぶべき優れた点もたくさんあったと思います。
まずは、加藤さんからスタッフの人材育成という視点からいくつか経験を聞かせ
てください。
加藤:
はい。最初から大きな話になってしまいますが、「仕事に対するモチベーション、
情熱」みたいなもの、これがなかなか見えないこと。若い皆さんにはそれさえあれ
ば後は怖くない、くらいに期待していたんですけど、一緒に仕事をしていて、共有・
共感できるものがうすい。とても心細いものでした。「時間を守る」意識に欠ける
ところがあることにも苦労しました。「好奇心」は創造力の源ですが、もっと強く
持ってもらいたかった。会社への「定着率」は仕事に対するモチベーションにもか
かわることですが、なかなか解決が難しい。
北村:
そうですね、私も同じことを感じていますね。他には、ベトナム人のスタッフの
皆さん、「協同作業が苦手」というのがかなり大きなポイントだと私は思っていま
す。
広告の仕事は、今までなかった新しいものを、みんなの手作業で創り出すこと、
と言ってもいいと思います。営業、マーケティングプランナー、メディアプランナ
ー、コピーライター、デザイナー、CM プランナー、それにカメラマンなど、その
ほかの多くの人たち一人一人が違った役割を持っての作業ですから、
「協同作業」が
うまくないと救いようがないわけですね。そのため「情報の共有がうまく出来ない」
とか「必要な報告・レポートのタイミングを逃してしまう」
「長いスパンでプロジェ
クトのスケジュールをうまく立てられない」
「大きな概念でプランニングするのが苦
手」
「ジュニアスタッフの指導がうまくない」などの結果となって、日常業務がスム
ーズにいかないことになります。
4.1 創造力の源「好奇心」を鍛える
加籐:
私はこのベトナムに来てからというもの、何を見ても何を聞いても面白くて仕方
が無い時期がありました。これって、好奇心っていうものだと思うのですが、ベト
ナム人に対して「あれっ?」と思うことがあったんです。もしかしたら、ベトナム
人には「好奇心」というものに弱いのではないかと・・。仕事を一緒にしていても、
一緒に街中を歩いていても、何かを示しながら「あれって、どうしてこうなってい
るの?」とか「あれ、面白いね?」とか言っても眼をキョトンとさせている。仕事
71
をしている時に、皆さん意外に物事を知らないなぁ、と感じさせられることによく
ぶつかったのです。好奇心と言うのは、創造力の原動力になっていると言っても言
い過ぎではありませんよね。この好奇心が無い、弱いというのは、広告制作にあた
っては結構致命傷だったりする。
何故、ベトナム人は好奇心旺盛で無いのか・・?
私なりに原因を考えたのですが、とにかくベトナムの皆さんには(日本に比べ)驚
くほど情報量が少ない。個人にとっても将来の可能性がそれほどオープンではない。
などによるのかなと思いました。好奇心を持ったところで仕方が無い。知ったとこ
ろで、何の役にも立たない。そんな考えがあるのではないのかと思ったりしました。
だから、好奇心がなくても仕方が無いのかも知れないという面もあるけれど、私はも
っともっと毎日目をキラキラさせて、いろんなものを吸収していって欲しいと思いま
すね。それからもう一つ考えられる原因としては、勉強はあくまでも学校でするも
のであり、日常生活から勉強するものではないと思っているふしもあります。「これ
は学校で勉強したことが無いから、わからない。」という言葉をよく口にしています
ね。
で、好奇心を持ってもらうために、いろんなことを経験してもらうために、一緒に
街中を歩き回ることをしました。私にとっては面倒なことではあるけれど、何か面白
いことを見つけた時に、何故私が興味を持ったのかとか、調べたいから一緒に調べて
欲しいとか、その辺の人に聞くとか・・そういったことをしました。わからないこと
があったら、人に聞くように仕向けました。何度も同じことを聞くのは恥ずかしいこ
とですけどね。そうこうしている内に、興味を持ったのかいろんなことを見たり聞い
たりするようになりました。それからと言うもの、様々なものを吸収するスピードが
速くなったような気がします。
4.2 「情報の共有」――生かしてこそ情報
北村: 「情報の共有がうまくできない」、という状況で何をしたか。それについてお話し
します。情報の共有と言ってもいろんなレベルがあります。実に初歩的なことです
が、ここではストックされた資料(情報)などをどう整理してみんなで使うか、と
いう程度のもので、日本ではことさら悩まなくてもいいような事柄です。
私が赴任してすぐの頃、過去の企画書のファイルを参考にしたくてスタッフに尋
ねました。それは○○さんだとか、××さんが持ってるとか、一人一人に自分のキ
ャビネットを開けてもらい探したことがありました。ひとつのプロジェクト、たと
72
えば「新しい洗顔フォームの市場導入」があったとして、記録として残しておきた
い資料は A4 の書類ファイルだけに収まるものではありません。新商品の見本、パ
ッケージデザイン、マーケットリサーチの記録、競合商品の見本・分析データ、企
画書、新聞・雑誌広告のサンプル、商品ディスプレイの記録、TVCM のテープ・DVD
など。それらの担当者が自分のパートだけを個人的に、物置に放り込むように保管
していたんです。私が皆さんに解かってもらいたかったのは、情報は再度使うため
に保存する。みんなが有効に使ってこそ価値があるということ。それ以来、個人で
しまいこむな!鍵などかけるな!と。プロジェクトごとに、個人ではなく、それぞ
れのチームで保管することに決めました。
ちょっと話はそれますが、べトナム人にとって「利権」はとても大事なもので、ベ
トナムは長い間「利権」で成り立っている社会のようです。かつて南ベトナム軍将軍
がたびたびクーデターを起こし、次々と政権トップの座に着いたのも、実は当時の軍
が経済的な、おいしい利権を握っていたからだと言われています。現在もベトナムで
は、個人の間でも仕事を世話してリベートをやりとりするなど、あちこちで、民間の
ビジネスでもよく耳にすることです。リベートなど期待できなくても、仕事の情報が
あれば誰に依頼するのが適切か?と考えるより、先ず親戚縁者とか、親しい友達を推
薦するのは当たり前のこと。つまり、個人で得た情報は自分にとって大切な財産、利
権のもとと考えるのもここでは自然のようです。日常の仕事の上でも情報を積極的に
人に渡して協同作業を円滑に進める、などが苦手なのはそんなところからきているの
じゃないかと考えると辻褄が合いそうです。
話が大げさになってしまいましたが、そんな皆さんのメンタリティーを理解した上
で、仕事上の資料(情報)の扱いでは、個人で保管するよりも、オープンにして必要
な時に、必要な人が活用できる方がはるかに自分たちの「利益」になる。ということ
を解ってもらったのです。そうでなければ、仕組みや決まりごとを作っても本当の目
的に届かない。ということですね。
4.3
レポートのタイミング
加藤: 「報告する」ということは、仕事を進める上でとても重要なことです。もちろんそ
の本人に仕事を任せるわけですから、結果が出るまではその仕事を預けておかなくて
はいけません。でも、コミュニケーションとなると話は別ですね。常にコミュニケー
ションを取り合っておかないと、何か問題が発生した時には手遅れになってしまい、
手当をすることも出来ません。実は私は、問題が起こらないと当の本人には危機管理
73
の意識が生まれないのではないかと思ったこともありました。もちろん、問題が起こ
った時には、私自身が問題の収拾に走り回ったわけですが。それでも当の本人は「何
かあったの?」とケロリとした顔をしていたこともありました。仕事を任せるからに
は任せた人間の責任はある。しかし、任されて受けた人間にも責任があるということ
を、本当に時間をかけて話しました。また、社員全員に「ほうれんそう」を教えまし
た。「報告・連絡・相談」この言葉は、日本人は皆が知っていることだと思います。
何故、「ほうれんそう」が必要なのか、そんなことを常に意識し実行すれば、問題
が大きくなってしまう前に解決法が見つかると言うことを根気よく話しました。ベト
ナム人は、先ほどお話ししたように、自分ひとりで抱え込んでしまって、人と情報を
共有することが苦手のように思います。責任感が強いということならいいのですが、
実はそういうことではなく、失敗を恐れるあまりそのことから身を離れたところに置
いている・・、そんなふうに疑ってしまうこともありますね。問題が起こった時は、
そっと離れた場所にいて、時が解決するのを待っている・・そういった傾向があるの
ではないかと思ってしまいます。「ほうれんそう」を徹底するためには、とにかくこ
ちら側から聞くこと。その度に、「ほうれんそう」の実行を促していくこと。忍耐強
く相手に理解させる・・そのことにつきるのではないでしょうか。
北村: 「ほうれんそう」は実にわかりやすくていい方法ですね。大切なのは、レポートは
危機管理の第一歩だ、ということをしっかり理解してもらうことだと思います。
たとえばこんなケース。得意先への請求ミスがあり、金額を少なく請求書を出し
てしまいました。あとで気がついた担当者がすぐに報告しなかったために、請求書
はベトナムの得意先の会社から日本の本社の経理まで通ってしまい、結局訂正する
タイミングを逸してしまった。もし 1 日早く報告していたら、ベトナム側で食い止
められたのに。とこんなことが起こった時には「ほうれんそう」のタイミングがい
かに大切かを理解してもらえることが必要です。報告しにくいことほど早く報告す
る。結果よければそれでよしと、いい意味でスタッフに逃げ場を作ってあげること
にもなりますね。
4.4
プロジェクトのスケジュールを管理する
加藤:
なぜスケジュール表が大切なのか・・。先ずそのことを、理解させました。いざ
仕事を一緒にスタートしてみると、スタッフの皆さんはスケジュール表の書き方す
らわからない、どう制作作業の段取りを組んでいったらいいのかわからないという、
74
基本的な問題にぶつかりました。そこで、制作作業をする時には、数多くのスタッ
フが関わること、そのためにはレールを敷く必要があることを説明し、私自らがス
ケジュール表を書いて全ての作業を進めていきました。そんなことを繰り返すうち
に、まずスケジュール表を書き、それから行動に移すという当然と言えば当然の制
作業務が出来るようになりました。ベトナム人には(特に南部の人たちは)イマジ
ネーション能力というか、先々の計画を立てる力・・、そういったものが弱い気が
します。この先どんなことが起こりそうなのか、そのためにはどういった準備をし
なくてはいけないのかという、先を見据えた行動を考える能力。それを培っていく
には時間がかかるかもしれませんね。でも、このスケジュール表の効果は、結構大
きなものでした。スケジュール表に従って作業を進めていけば良い結果が得られる
という自信につながったこと、さらにはコミュニケーションをお互いにとっていく
ための、ツールとなったからです。今では、私が何も言わなくても、スケジュール
はこうなっているけれども、この先何をしていくべきか・・という一歩進んだコミ
ュニケーションがとれるようになっています。
北村:
私もまったく同感です。それぞれのプロジェクトのプランを作り、スケジュール
表におとし込んでゆくというのは、とりもなおさず、大勢の共同作業を円滑に進め
るための指針作りをしている、という理解をもってもらいたいものです。それぞれ
の立場、力量、作業の順序、コスト、不測の出来事などあらゆる可能性をイメージ
することが出来れば、共同作業のリーダーになれるわけです。
私のところでは、それまで社内で各自・各部署がばらばらに、好き勝手なスケジ
ュール表を作っていました。それを使いやすいひとつのフォーマットに統一するこ
とで、スケジュールの突き合せや、スケジュール表の修正など、共同作業がより円
滑に進むよう考えました。でも理解はしても、それぞれ使い慣れたフォーマットを
変えるのは抵抗があるらしく、目下、変革途上というところです。
4.5
クロスオーバー人間になる
加藤: ご存知のように、TVCM の制作では数多くのスペシャリストが一つの作品づくり
に携わっています。違った役割で、協力しあって一つの作品を完成するわけです。
それぞれの作業をつなぎ合わせるのではなく、どこかで融合するところが必要で
す。スペシャリストが仕事に携わっているわけですから、自らがその専門家になる
必要は無い。でも、一つの作品を仕上げていく過程で共同作業はどうしていったら
いいのか、を知っておいてもらいたいのです。時間がある時には、とにかく自ら広
75
く経験をしてみること。能力の幅を広げることが共同作業を引っ張っていく力にな
るということ。やはり、前にお話しした「好奇心を持って事に当たろう」というと
ころに戻ってゆくのかもしれませんね。
北村: 「クロスオーバー人間になる」というのは二つの側面があると思います。
ひとつは、加藤さんにお話いただいた、プロジェクトの共同作業のリーダーになる
ための素質を高めること。もうひとつは一人一人の専門分野をより高度に強固にする
ために、能力の裾野を広げること。いずれにしろ、新しいことへの好奇心と、ちゃん
と判るまでやってみようという粘りが必要ですね。
私はスタッフの一人にある可能性を見つけました。経験の浅い、若いデザイナーで
したが写真が好きで無理をして高価なデジタル一眼レフを持っていました。彼に自社
の卓上カレンダーの制作を丸ごと任せたのです。それまでは毎年、ベトナムの有名な
風景写真作家の作品でカレンダーを作っていました。デザイナーの彼にとって、自分
の写真でカレンダーを作るなんて、もちろんやったことはない、考えてもみなかった
チャンスです。かなり荷が重い仕事で、ずいぶん苦しみました。大変なときだけ私が
ちょっと手助けはしましたが、写真のアイディア・撮影・デザイン・印刷の管理まで、
幅広い初めての経験を何とかやり遂げ、いいカレンダーが出来ました。彼はその後の
仕事の中で、写真のアイディアを出したり、カメラマンといい打ち合わせができるよ
うになり、デザイナーからアートディレクターになる第一歩を踏み出しました。
可能性を見つけ、心配でもどーんと任せて、困ったときにはこっそり助ける。こう
すればスタッフの皆さんの、いろんな可能性を高めてあげられますね。
5.その他
「人材育成」がテーマでありながら、スタッフの皆さんの、「仕事に必要なスキルをど
う向上させるか?」という点に触れなかったのは、日常そうした問題がなかったからでは
ありません。しかしそれよりも、ベトナムの皆さんの「価値観」とか「生活の考え方」な
どを背景とした話が多くなってしまいましたが、それは私たちにとって「どうしてそう考
えるの」「なぜそうするの?」といった疑問が半透明のカーテンのように、いつも私たち
の視界や行動をさえぎっていたからです。
私はそうした疑問に自ら答えを出すための、考え方のバックボーン、判断基準の軸とい
うものを持とうと一生懸命探しました。表題にあった「日本人の派遣者が知っておくべき
ベトナムの事情」という問いに対する答えとして、困ったときにいつでも立ち戻れる、考
え方のバックボーンを持ちたかったのです。
76
考えた結論は、ベトナムの「農業社会のメンタリティー」です。ベトナムは 1986 年の
「ドイモイ」宣言で初めて「工業化社会」への一歩を踏みだすことになりますが、それま
では「農業社会」の骨組みがベトナムを支えてきたと考えます。明治以後、近代工業化社
会を目指してきた日本人にとって、何世代も前のこととして理解できないことが多いのも、
むべなるかな、でしょう。ベトナム戦争の中で、ゲリラ戦は得意でも組織戦はからきしダ
メというのは、ビジネスの世界で「共同作業が苦手」「情報の共有が苦手」というのと、
どこか共通しているのも納得ができます。「好奇心が持てない」のも「長いスパンでプラ
ンが立てられない」のも、メコンデルタの豊かな水と太陽の大地では「好奇心」も「長期
プラン」なども必要なく、お米と果物と川の魚があれば家族が支え合って十分に生きてこ
られた。そこに遠因がありそうです。
思い込みは危険ですが、何かを考える時、何かを判断する時に、過去まで遡ってみて、
よりどころの軸を持つのは悪くないと思います。
誰かが仕事上の問題や事故を起こしても、考えをめぐらせるうちに、そのスタッフのお
父さんやおじいちゃんの顔までが想像できて、なかなか面白い!と思ったこともありまし
た。
組織的に・体系的に「人材育成」が出来たわけではありませんが、ベトナム人の皆さま
のことをもっと深く知りたいと思う気持ちは、いい「人材育成」の力になったかもしれま
せん。
77
第5章
美術工芸品製作のアーティスト育成
1.工芸美術品製作の夢
私がこの業界に関心を持って、本気で取り組もうと思ったのは、ベトナムの経済の舵取
りを大きく変えた、
「ドイモイ」の生みの親、故グエン・スアン・オアィン博士(注:参照)
に、大きな衝撃を受けたからであった。
たまたま親しくなったオアィン氏はつぎのような話をした。
「ベトナムは、ドイモイを採択したので、これからの経済は大変な勢いで発展していく
ことでしょう。しかし、見てください。ベトナムには立派な伝統的な工芸作品があります
が、どうも美術品として洗練されていません。ベトナムの将来を考えた場合、一次産品の
輸出だけではなく、何とか、ベトナムのこのような工芸品の芸術性を高めて、美術品とし
て海外へ輸出できないものだろうか」
1995 年、私は長らく働いていた事務用機器メーカーを定年退職して、顧問の立場でベト
ナムに駐在していた。しかし、時間的に余裕ができており、つぎに何をしようか、と考え
ていたころだった。博士のお話のとおり、ベトナムの通りに面するお土産屋にはたくさん
の伝統的な工芸品が並んでいるが、どれも芸術性という点からは、あまりにもかけ離れて
いた。
そこで、私はベトナム人を指導して工芸美術品を製作し、それを私がつくったショール
ームで展示販売しようと決意した。それは、ベトナムの街中の土産物屋で見られる伝統的
工芸品とはまったく違うものである。
2.ベトナムにおける美術工芸品業界の実態
ベトナムの街中に多く並ぶ画廊の片隅では、カンバスに向かって懸命に絵筆を奮ってい
る何人もの若者の姿がよく見られた。長らくつづいたフランス植民地時代から残された芸
術に対する姿勢だろう。彼らの芸術に対する意欲と残された伝統工芸を結びつければ、必
ず素晴らしい工芸美術品ができるのではないか。また、それは結果としてベトナムの芸術
のレベルを引き上げることにも貢献するだろうと確信した。
たしかに、この理想は気高いもので、可能性は十分にある。しかし、ベトナムにおける
このような理想と現実は、まったく違うものであることを、その後、十数年間、思い知ら
されることになるのだが、意気に燃えていたそのころの私は夢にも思わなかった。
古い歴史をもつベトナムの伝統工芸の現実だが、長らくつづいた抗仏独立戦争とその後
の熾烈きわまるベトナム戦争のため、それは壊滅的な状態にあった。それでも地方の田舎
町に行けば、いろいろな伝統工芸技術が残っている。たとえば、陶磁器製品やローソク、
扇子、紙製品、袋物、履物、食器、金属製品、籐や竹製品、線香など。これら商品は、そ
れぞれ専門の村で数百年も前から、子々孫々引き継がれてきたその土地に残る伝統技術で
ある。
ら で ん
ベトナムの中でも特徴的で、しかも比較的洗練されている、刺繍絵と漆と螺鈿の絵によ
る額の製作を二大プロジェクトとして取り上げることにした。当時の私には、ベトナムに
78
おけるこの分野に対する具体的な予備知識も何もない。ただ街中には、外国人の目から見
れば駄物としか思えないようなお土産品に混じって、何となく垢抜けしない刺繍絵や漆絵
が並んでいるだけだった。
中国の影響を、過去 2000 年にわたって受けつづけてきたこの国のこと、その文化も中
国の枠を出ておらず、絵画は漢字らしい文字入りの中国風の景色絵や、悲しみに耐える農
民、寂しそうな老人の姿など何となく暗い作品が多く、とても日本の事務所や家庭で飾れ
るものではない。
私は小さいころから、絵画に興味を持って自身でも描いてきた、という経験から、何と
かなるだろうと思いで真剣に取り組むことにした。
まず漆と螺鈿による絵だが、私はホーチミン市の北にある、小さな村落とのつながりを
強化していた。ここでは、数十軒もある家の奥にはどことも立派な工房を持っており、そ
こでは数十人の若い男たちがほとんど裸で、螺鈿用の貝の削りだしや、材木の切断、貝の
貼り付けと研磨、漆塗りにつづいてその乾燥、などの工程を繰り返している。適当に手抜
きをしているような職人は見当たらない。
大通りから村へ入り込んだ周辺の道路は、捨てられた貝殻で真っ白になっており、いか
にも漆と螺鈿の伝統工芸の村、といった雰囲気をもっている。このような工房の中で、素
直で芸術性のセンスのある若者の発掘をはじめた。
もう一つのプロジェクトである刺繍については、ベトナム北部のやはり、刺繍専門の村
に入り込んで、そこの工房で働く人たちの中から、真面目で素直そうな職人を選んだ。
その職人たちは、その村に住む若い女性ばかりであり、他に仕事のないこのような田舎
町では刺繍はその村唯一の産業なのである。
ところで、ベトナムで刺繍といえば、日本の軽井沢と呼ばれる高原の避暑地、ダラット
が有名である。現にダラットの刺繍絵は、ホーチミン市内の多くのお土産屋で売られてい
る。しかし、私は敢えて純朴で素直で、しかもまだ外国の風に汚染されていないベトナム
北部のハノイ近郊の刺繍村に照準を当てて、その職人を育成することにした。
刺繍職人といっても、それはほとんどが学歴のない若い女性なのである。彼女たちが、
一日中、薄暗い工房の椅子に座ってサンプルを見ながら、一針ずつ色の付いた絹糸を刺し
つづけている。これは、30 センチ四方の作品を作り上げるのに数ヵ月もかかるというよう
な、根気のいる作業の繰り返しであり、人件費の安いベトナムだからこそできる仕事であ
る。そしてこの事業は、ベトナムでは誰もやっていないことであり、成功すれば、それは
画期的な教育プロジェクトである。私の趣味にも通じるものであり、その成功のためには
時間と労力とさらには資金がかなり必要で、その資金回収は容易なことではないだろうこ
とは最初から予想していた。
ところが、前述の通りベトナムには、伝統的な工芸村がありベトナム風美術品を製造し
ているが、それは芸術性という観点からすれば、かなりかけ離れたものである。手先の器
用なベトナム人であるはずなのに、作品に洗練された美しさがない。
漆絵は中国画風であり、日本人の感覚からは大きくかけ離れている。商品として展示す
るに耐えない代物ばかりである。また、刺繍絵のその目的は、もとはテーブルクロスであ
り、ハンカチなのである。芸術とは、とてもいえるものではない。
それは、彼らの従来の仕事が伝統的な商品を作ることであり、芸術性を磨き上げるとい
79
うような教育は受けてきていないからである。それだけではなく、そのような需要がなか
ったからでもある。このような人たちが、世界の一流芸術作品を理解して、本当に商品を
作り上げることができるのだろうか、と多少不安もあったが、根気よく教えれば必ずわか
ってくれるものと確信していた。
3.「職人」を「芸術家」への能力開発の実施事例
ここで、このプロジェクトの内容について改めて説明すると、まず、日本画や西洋画の
ほか写真などからデザインをおこし、ベトナム伝統の漆絵や刺繍の技術を生かして、オリ
ジナルの漆絵や刺繍絵を制作する。そして、ホーチミン市内にある私のショールームで、
これら製品を展示して、主に外国人相手に販売するのである。
ベトナムの職人にまず行なったことは、できるだけたくさんの世界的に有名な絵を見せ
ることだった。彼らの芸術的センスを、素晴らしい絵を見せることによって養成するので
ある。このようなセンスは、言葉でいくら説明してもわからないものだ。
技術はたしかに高いということは認めるが、芸術性ということからすれば疑問が残る。
技術と芸術はまったく違うものなのである。彼らの中にはホーチミン芸術大学を卒業し
たのではないか、と思われるような芸術家肌の人もいるが、ほとんどは、小さいころから
毎日、職人として働いている人が多く、その教養レベルもあまり期待できない。
従来、観光客相手のお土産としての商品をつくって日銭を稼ぐ、ということはしてきた
が、そこに芸術性を求める、というような考え方はなかったし必要もなかったのだ。
一方、お客さんの要求だが、欧米人と違い日本人の場合は、その要求レベルは格段に高
く、完璧を期待するのが普通だ。さらに、日本画の特徴は、その繊細な筆のタッチにある。
一般的に、日本人さえ受け入れてくれるような作品であれば、その他の国のお客さんは
間違いなく喜んでくれるので、まず日本人の目を満足させるためにも、芸術的感性の育成
と熟練を積む職人のトレーニングを連日行なった。感性は持って産まれた素質に左右され
るものだが、素晴らしい作品を繰り返し、繰り返し数多く見せることによって、それは磨
き上げることができるものである。
4.実務上から見た、その分野の技術レベル
教育を繰り返していると、いくら説明しても彼らにはわかってもらえない大きな壁があ
ることに、気がついた。それは、四季がはっきりしている日本や西洋とちがい、熱帯のホ
ーチミン市や大陸性気候のハノイでは、原画に描き込まれた背景や風土がわからないので
ある。芸術性を高めるためには、どんなことがあっても原画の作者の意図や、作品の意味、
そしてその内容を理解する必要がある。
これは、特に日本画に多い花鳥風月にあらわれる、雪や紅葉、桜など、ベトナムでは見
ることができない自然現象に顕著であり、その説明に時間と労力を注いだ。ベトナムの職
人が、このような背景をしっかりと理解してくれないことには、芸術性の発揮は困難とな
る。鋭敏な感性の育成のため、場合によっては、日本からサンプルを取り寄せて現物を見
てもらうこともした。
作品によっては、いくら説明しても理解してもらえない。理想とする製品ができてこな
いことがある。何日も工房に泊り込んで、指導をする日がつづいた。また、少しでも目を
80
離すと、違うことをはじめているのだが、これは何も悪意でやっているのではなく、彼ら
は結果さえ良ければ良いだろう、と勝手に解釈して、途中の工程を省略しようとするから
である。これは、ベトナムのどこででも見られる現象だ。
基本的な原則を繰り返し教え込むことだ。本当に繰り返し繰り返し何度も教えて、出来
上がってきた製品を、徹底的にチェックしてさらに教え込む。気の長い作業の繰り返しで
ある。こちらの根気もなくなりそうになるような毎日だが、教えられる相手にとっても根
気のいる作業だったはずだ。
しかし、現場に張り付いていつまでも管理監督をしているわけにはいかない。これは、
営利事業なのであり無料奉仕活動ではない。商品を販売して、資金を蓄えるという大切な
仕事が一方では控えている。そのため、そのような作業を繰り返して教え込んだ後は、ベ
トナム人を信頼して彼らの自主性に任せる以外に方法がない。
ところで、ベトナムでは本当の意味での、「職人気質」という言葉は存在しない。仕事
はお金を稼ぐための手段以外ではなく、日本のように損得抜きで立派な仕事を仕上げよう、
というような考え方をもつ職人はまず、いないと考えた方がよい。残念なことだが、それ
がベトナムの現状なのである。
5.事業の安定化
苦節十年目にしてようやく安定した商品ができるようになり、ベトナムで最初に手掛け
られたこの事業も軌道に乗ってきた。都市からかけ離れた田舎で引き継がれてきた伝統工
芸の職人を、長い間かけて教育して、彼らをアーティストのレベルに引き上げて、ようや
くその作品を芸術品、と呼ばれるところにまで到達することができた。
私が長年かけて育てた北と南の二つの村の事業だが、その従業員の家庭だけではなく、
村全体が豊かになってきた。今では村人全員が私を「村繁栄の恩師」として受け入れてく
れている。
当面の心配は、たくさん抱えるこのような従業員に絶えず仕事を与えつづけることであ
り、そのためにも安定した販売をする必要があることだ。それが、今後私に与えられた使
命と理解している。
しかし、何が起こるかわからないのがベトナムの常、これからも安心はできない。技術
レベルの引き上げのための切磋琢磨はつづく。
81
(工芸美術作品の写真)
注: オアィン博士は、ベトナム北部の豪農の出で、若いころ日本に憧れ私費で来日した。
そして、第3高等学校を出て京大を卒業し、敗戦下の日本でしばらく暮らした。その後、
米国に渡りハーハード大学で国際経済を専攻し博士号をとって、しばらく同大学の教壇に
立っていた。彼は、アメリカの大学で教えた最初のベトナム人といわれている。
その後、11 年間 IMF のシニアーアドバイザーをしていたが、ベトナム戦争が激しくな
る中、南ベトナム政府からの度重なる要請に従って帰国し、財務大臣や中央銀行総裁、一
時は首相代行をしていた。
サイゴン陥落を前にして、政府高官や高級将校は大挙して海外逃亡をしていったが、彼
は、
「私は何も悪いことはしていない」との強い信念のもと、そのまま母国に留まった。そ
のため、戦後、しばらくは自宅軟禁という不自由な状態にあった。
その間、新政府が強行にすすめる社会主義政策にもとづくベトナム経済は、凋落の一途
を辿っていたのだが、これに見かねて IMF 時代の仲間とともに、農業・工業面での開放
経済のテストを繰り返し、その結果をハノイ政府に提案したのが、「ドイモイ」(日本語で
刷新)である。
ベトナムは、1986 年 12 月、開催された第六回共産党中央委員会で、この社会主義体制
を維持しながら資本主義の良いところを取り入れるという市場経済を導入することにより、
今日の経済回復を軌道に乗せることができるようになった。
1997 年、日本政府から勲三等旭日中綬章を叙勲。2003 年 8 月、波乱万丈の人生を閉じ
られた。
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