巻第三秦一

戦国策巻第三
秦一
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四十、衛鞅亡魏入秦
衛鞅、魏を亡げて秦に入る。孝公以て相と為し、之を商に封じ、號して商君と
曰う。商君、秦を治め、法令至って行なわれ、公平無私にして、罰は強大を諱
まず、賞は親近を私せず、法、太子にも及び、其の傅を黥劓(ゲイ・ギ、顔に
刺青をし、鼻をそぎとる刑)す。期年の後、道に遺(おちる)たるを拾わず、
民、妄りに取らず、兵革大いに強く、諸侯畏懼す。然れども刻深にして恩寡し、
特だ強を以て之を服するのみ。孝公之を行うこと十八(姚校:一本、下に「十」
の字有り)年、疾みて且に起たざらんとし、商君に(位を)傳えんと欲す。辭
して受けず。孝公已に死し、惠王代りて後、政に蒞(のぞむ)み、頃く有りて、
商君告歸す(王に告げて魏に帰ろうとした)。人、惠王に説きて曰く、「大臣の
太だ重きは國危うく、左右の太だ親しきは身危うし。今、秦の婦人嬰兒皆、商
君の法を言うも、大王の法を言うもの莫し。是れ商君反って主と為りて、大王
更って臣と為るなり。且つ夫れ商君は固より大王の仇讎なり。願わくは大王之
を圖れ。
」商君歸還す。惠王之を車裂す。而して秦人憐まず。
四十一、蘇秦始將連橫
蘇秦、始め將に連橫せんとし、秦の惠王に説きて曰く、
「大王の國は、西に巴・
蜀・漢中の利有り、北に胡貉(コ・カク)
・代馬の用有り、南に巫山・黔中の限
り有り、東に肴・函の固め有り。田は肥美に、民は殷富に、戰車は萬乘、奮擊
百萬、沃野千里、蓄積饒多にして、地勢形便なり(地形が攻守に便利なこと)。
此れ所謂天府にして、天下の雄國なり。大王の賢、士民の衆、車騎の用、兵法
の教えを以てせば、以て諸侯を并せ、天下を呑み、帝と稱して治む可し。願わ
くは大王少しく意を留めよ。臣請う、其の效を奏せん。」秦王曰く、「寡人之を
聞く、毛羽、豐滿ならざる者は以て高く飛ぶ可からず。文章(法令)成らざる
者は以て誅罰す可からず。道德、厚からざる者は以て民を使う可からず。政教、
順ならざる者は以て大臣を煩わす可からず、と。今、先生儼然として(厳かで
いかめしいさま)千里を遠しとせずして、之を庭教す(朝廷に来て親しく教え
る)
。願わくは異日を以てせん。
」蘇秦曰、
「臣固より大王の用うること能わざる
を疑えり。昔者、神農は補遂を伐ち、黄帝は涿鹿を伐ちて蚩尤(シ・ユウ)を
禽にし、堯は驩兜を伐ち、舜は三苗を伐ち、禹は共工を伐ち、湯は有夏を伐ち、
文王は崇を伐ち、武王は紂を伐ち、齊桓(斉の桓公)は戰に任じて天下に伯(ハ、
覇に通ず)たり。此れに由り之を觀るに、惡んぞ戰わざる者有らんや。古は使
車、轂擊して馳せ(轂と轂がぶつかり合うほどに繁く使者の車が往来した様子
を言う)
、言語相い結びて、天下を一と為さんとし、従を約し橫を連ぬるも、兵
革は藏(おさまる)まらず。文士並びに餝(たくみ)に、諸侯は亂れ惑う。萬
端俱に起こり、勝げて理(おさめる)むる可からず。科條(法令、規則などの
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箇条書き)既に備わり、民、偽態を多くし、書策(書物、公文書)稠濁(チュ
ウ・ダク、稠は多、濁は乱)して、百姓は(食べるものも)足らず。上下(君
臣)相い愁いて、民は聊(たよる)る所無し。明言章理(明らかなる道理)に
して、兵甲愈々起こる。辯言(口先がうまい)偉服(服装が立派)にして、戰
攻息まず。繁く文辭を称して、天下治まらず。舌敝れ耳聾しても、成功を見ず。
義を行い信を約しても、天下親まず。是に於いて乃ち文を廢し武に任じ,厚く
死士(勇戦の士)を養い、甲を綴り兵を厲(とぐ、礪に通ず)ぎ、勝を戰場に
效す。夫れ徒らに處りて利を致し、安坐して地を廣むるは、古の五帝、三王、
五伯の明主賢君が常に坐して之を致さんと欲すと雖も、其の勢は能わず。故に
戰を以て之に續(つぐ、備えるの意)ぐ。寬なれば則ち兩軍相い攻め(陣を構
えて攻めあう)、迫れば則ち杖戟相い橦き(接近戦、白兵戦)、然る後に大功を
建つ可し。是の故に兵は外に勝ち、義は内に強く、威は上に立ちて、民は下に
服す。今、天下を并せ、萬乘を凌ぎ、敵國を詘し、海内を制し、元元(人民)
を子とし、諸侯を臣とせんと欲せば、兵に非ずんば不可なり。今の嗣主は、至
道を忽(ゆるがせ)にして、皆教えに惛(くらい)く、治に亂れ、信に迷い、
語に惑い、辯に沈み、辭に溺る。此を以て之を論ずれば、王固より行う能わざ
るなり。
」秦王に説くこと、書十たび上れども説は行われず。黒貂の裘(貂はテ
ン、裘はかわごろも)は敝れ、黃金百斤は盡き、資用は乏絕し、秦を去りて歸
る。滕(トウ、脚絆)を羸(まとう)い蹻(キャク、くつ)を履き、書を負い
橐を擔い、形容は枯槁し(やせ衰える)
、面目は犁黑(黄色をおびた黒で、顔色
の悪いことを言う)なり、状、歸色(歸は愧、恥じている様子)有り。歸りて
家に至る。妻は絍(はたおり)を下らず、嫂は為に炊がず、父母は與に言わず。
蘇秦喟歎して曰く、
「妻は我を以て夫と為さず、嫂は我を以て叔と為さず、父母
は我を以て子と為さず。是れ皆秦(蘇秦)の罪なり。
」乃ち夜書を發(ひらく)
き、篋(キョウ、巻物の書物を入れる細長い箱)を陳ぬること数十、太公陰符
(太公望の兵書、今は存在しない)の謀を得、伏して之を誦し、簡練(簡はえ
らぶ、選択熟練)して以て揣摩(シ・マ、人の心を推理して知ること)を為す。
書を讀みて睡らんと欲せば、錐を引き自ら其の股に刺し,血流れて踵(王念孫
により、足を踵に改める)に至る。曰く、
「安んぞ人主に説きて其の金玉錦繡を
出ださしめ、卿相の尊を取ること能わざる者有らんや。
」期年して揣摩成り、曰
く、「此れ真に以て當世の君に説く可し。」是に於いて乃ち燕に烏集闕(宮殿又
は塞の名)に摩(せまる)り、趙王に華屋(山の名)の下に見説し、掌を抵ち
て(抵はうつ、掌を打ち付ける、興奮して話し込むさまを言う)談ず。趙王、
大いに悅び、封じて武安君と為し、相印を受(さずける)く。革車百乘・綿繡
千純(トン、束と同じで、束ねたものを数える単位、一束は十反)
・白壁百雙・
黄金萬溢(イツ、重さの単位、一溢で二十兩、二十四兩の説もある)
、以て其の
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後に随い、從を約し橫を散じ、以て強秦を抑う。故に蘇秦、趙に相となりて關、
通ぜず。此の時に當りて、天下の大、萬民の衆、王侯の威、謀臣の權、皆蘇秦
の策に決せんと欲す。斗糧を費やさず、未だ一兵をも煩さず、未だ一士をも戦
わしめず、未だ一弦(弓の弦)をも絶たず、未だ一矢をも折らずして、諸侯相
い親しむこと、兄弟より賢(高注:「賢」は猶ほ「厚」のごときなり。)し。夫
れ賢人在りて天下服し、一人用いられて天下從う。故に曰く、
「政を式(もちい
る)いて、勇を式いず。廊廟に式いて、四境の外に式いず。秦(蘇秦)の隆ん
なるに當りて、黄金萬溢を用と為し、轂を轉じ(車を轉がす)騎を連ね、道に
炫熿(ゲン・コウ、ひかりかがやく)し,山東の國、風に從いて服し、趙をし
て大いに重からしむ。且つ夫れ蘇秦は特に窮巷(むさくるしい巷)
、掘門(垣に
穴を穿って作った門)
、桑戸(桑の枝を編んで作った門扉)
、捲枢(ケン・スウ、
貧家)の士なるのみ。軾に伏し銜(ガン、くつわ)を撙(おさえる)えて、天
下を横歴し、諸侯の王に廷説し、左右の口を杜(ふさぐ)ぎ、天下、之に能く
伉する莫し。將に楚王に説かんとして、路、洛陽を過る。父母、之を聞き、宮
(室)を清め道を除(はらう)い、樂を張り飲を設けて、郊迎すること三十里。
妻、目を側てて視、耳を傾けて聽く。嫂、蛇行匍伏して、四たび拜して自ら跪
きて謝す。蘇秦曰く、
「嫂,何ぞ前に倨(おごる)りて後に卑きや。
」嫂曰く、
「季
子の位尊くして金多きを以てなり。」蘇秦曰く、「嗟乎、貧窮なれば則ち父母も
子とせず、富貴なれば則ち親戚も畏懼す。人の世上に生まるるや、勢位(権勢
のある地位)富貴、盍し忽(ゆるがせ)にす可けんや。
」
四十二、秦惠王謂寒泉子曰
秦の惠王、寒泉子(秦の処士)に謂いて曰く、
「蘇秦、寡人を欺き、一人の智を
以て、東山の君を反覆し(変心させる)
、從して以て秦を欺かんと欲す。趙、固
より其の衆を負む。故に先ず蘇秦をして幣帛を以て諸侯に約せしむ。諸侯の一
にす可からざるは、猶ほ連雞(闘鶏)の俱に棲(止まり木)に止まること能わ
ざるの明らかなるがごとし。寡人忿然として、怒りを含むこと日久し。吾、武
安子起(白起)をして往きて意を喩さしめんと欲す。
」寒泉子曰く、
「不可なり。
夫れ城を攻め邑を墮たんには、請う、武安子を使え。我が國家に善くし諸侯に
使いせんには、請う、客卿張儀を使え。
」秦の惠王曰く、
「敬んで命を受けん。
」
四十三、泠向謂秦王曰
泠向(レイ・キョウ、秦の臣)、秦王に謂いて曰く、「向、齊を以て王に事えし
めんと欲し、宋を攻めしむるなり。宋破るれば、晉國(魏を指す)危うく、安
邑は王の有ならん。燕・趙、齊・秦の合することを悪まば、必じ地を割き以て
王に交わらん。齊必ず王を重んぜん。則ち向の宋を攻むるや、且に以て齊を恐
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(おどす)して王を重からしめんとす。王何ぞ向の宋を攻むるを悪むや。向、
王の明を以て先ず之を知ると為せり、故に言わざりき。
」
四十四、張儀說秦王曰
張儀、秦王に説きて曰く(
『韓非子』巻第一初見秦に此れと同文有り。故に張儀
は韓非の誤りとする説もある)、「臣之を聞く、知らずして言うを不智と為す、
知りて言わざるを不忠と為す、と。人臣為りて不忠なるは當に死すべく、言い
て審らかならざるも亦た當に死すべし。然りと雖も、臣願わくは悉く聞く所を
言わん。大王、其の罪を裁せよ。臣聞く、天下、燕を陰にし魏を陽にし(高注:
「陰」は小、「陽」は大)、荊を連ね齊を固くし、余韓を収めて從を成し、將に
西面(札記:呉氏補に曰く、
『韓』は「面」に作る)し以て秦と難(高注:
「難」
は猶ほ敵のごときなり)を為さんとす、と。臣竊かに之を笑う。世に三亡有り、
而して天下之を得たりとは、其れ此れを之れ謂うか。臣之を聞く、曰く、
『亂を
以て治を攻むる者は亡ぶ,邪を以て正を攻むる者は亡ぶ、逆を以て順を攻むる
者は亡ぶ。
』今、天下の府庫は盈たず、囷倉(キン・ソウ、穀物庫)は空虛にし
て、其の士民を悉くし、軍を張ること數千百萬、白刃前に在り、斧質(斧と首
切り台)後ろに在り、而れども皆去り走り、死すること能わず。其の百姓死す
ること能わざるに非(札記:鮑は「罪」を改めて「非」と為す)ざるなり。其
の上、殺すこと能わざるなり。賞を言えども則ち與えず、罰を言えども則ち行
わず。賞罰行われず、故に民は死せざるなり。今、秦は號令を出だして賞罰を
行う。功有るも功無きも相い事とす(札記:
「不攻無攻相事」
、呉氏補に曰く、
『韓』
は「有功無功相事」に作る)
。其の父母の懷衽(ふところ)の中より出で、生ま
れて未だ嘗て寇を見ざるも、戰を聞かば頓足(足を激しくばたつかせ、勇み立
つさま)徒裼(ト・セキ、徒手で片肌脱ぎになって)して、白刃を犯し、煨炭
(ワイ・タン、灰の中に埋めてある火)を蹈み、死を前に斷ずる者は比(みな)
是れなり。夫れ死を斷ずると生を斷ずるとは同じからず。而るに民の之を為す
者は是れ奮(勇気)を貴ぶなり。一は以て十に勝つ可く、十は以て百に勝つ可
く、百は以て千に勝つ可く、千は以て萬に勝つ可く、萬は以て天下に勝つべし。
今、秦の地形は、長を斷ちて短を續(つぐ)がば、方数千里、名師數百萬なり。
秦の號令賞罰、地形利害、天下如く莫きなり。此を以て天下に與せば、天下兼
ねて有つに足らざるなり。是に知りぬ、秦戰いて未だ嘗て勝たずんばあらず、
攻めて未だ嘗て取らずんばあらず、當る所未だ嘗て破れずんばあらざるを。地
を開くこと数千里、此れ甚だ大いなる功なり。然り而して甲兵頓(やぶれる)
れ、士民病み、蓄積索(つきる)き、田疇(デン・チュウ、田地)荒れ、囷倉
虛しく、四鄰の諸侯服せず、伯王(覇王)の名成らず、此れ異る故無し(異は
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怪で、不思議なことではないの意)
、謀臣皆な其の忠を盡くさざればなり。臣敢
て往昔を言わん。昔者、齊、南は荊(楚)を破り、東(札記:呉氏補に曰く、
『韓』
の「東破」とする、是なり)は宋を破り、西は秦を服し、北は燕を破り、中は
韓・魏の君を使い、地廣くして兵強く、戰えば勝ち攻めば取り、天下に詔令す。
清濟濁河(札記;呉氏補に曰く、『韓』は「清濟濁河」に作る),以て限(へだ
て)と為すに足り、長城・鉅防(札記:
「坊」を鮑本は「防」に作る。鉅防で巨
大な堤防)以て塞と為すに足れり。齊は五戰の國なり。一戰勝たずして(燕と
の戦い)齊無かりき。故に此れに由り之を觀れば、夫れ戰いなる者は萬乘の存
亡なり。且つ臣之を聞く、曰く『
(禍の)株を削り根を掘り、禍と鄰する無くば、
禍は乃ち存せず。
』秦、荊人と戰い、大いに荊を破り、郢を襲い、洞庭・五都(史
記は都を渚に作り、
『韓非子』は五湖に作る。
)
・江南を取れり。荊王亡げて奔走
し、東して陳に伏す。是の時に當りて、荊に随うに(従って追跡すること)兵
を以てせば、則ち荊は舉ぐ可し。荊を挙げば、則ち其の民は貪るに足り、地は
利するに足り、東は以て齊・燕より強くし、中は三晉を陵ぎたりしならん。然
らば則ち是れ一舉にして伯王の名をば成す可く、四鄰の諸侯をば朝せしむ可か
りしなり。而るに謀臣、為さず、軍を引きて退き、荊人と和し、
(姚校:一に「令」
に作る)荊人をして亡國を収め、散民を聚め、社主を立て、宗廟を置かしめ、
天下を帥いて、西面して以て秦と難を為さしむ。此れ固より已に伯王の道無き
一なり。天下有(また)た志を比(あわす)せて華下(華山の下)に軍す。大
王、詐を以て之を破り、兵、梁郭に至れり。梁を圍むこと數旬ならば、則ち梁
は抜く可く、梁を抜かば、則ち魏は舉ぐ可く、魏を舉げば、則ち荊・趙の志(同
盟)絶え、荊・趙の志絶えば、則ち趙危く、趙危くして荊孤とならば、東は以
て齊・燕より強く、中は三晉を陵ぎたりしならん。然らば則ち是れ一挙して伯
王の名、成す可く、四鄰の諸侯、朝す可きなり。而るに謀臣、為さず、軍を引
きて退き、魏氏と和し、魏氏をして亡國を収め、散民を聚め、社主を立て、宗
廟を置かしめき。此れ固より已に伯王の道無き二なり。前者に、穰侯の秦を治
むるや、一國の兵を用いて、以て兩國(秦と魏)の功を成さんと欲せり。是の
故に兵は終身外に暴靈し、士民は内に潞病し、伯王の名は成らず。此れ固より
已に伯王の道無き三なり。趙氏は、中央の國なり。雜民の居る所なり。其の民
は輕くして用い難し。號令、治まらず、賞罰、信ならず、地形、便ならず(険
固無きをいう)、上、能く其の民力を盡くすに非ず。彼は固より亡國の形なり。
而も民氓(ミン・ボウ、民は土着の民、氓は流亡の民)を憂えず。其の士民を
悉くし,長平の下に軍し、以て韓の上黨を争う。大王、詐を以て之を破り、武
安(武安君趙括)を抜けり。是の時に當り、趙氏の上下、相い親しまず、貴賤
(卿と士)、相い信ぜず。然らば則ち是れ邯鄲は守られざるなり。邯鄲を抜き、
河間を筦(
『韓非子』により完を筦に改め、つかさどると訓ず)り、軍を引きて
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去り、西して修武を攻め、羊腸を逾え、代・上黨を降さば、代の三十六縣、上
黨の十七縣は、一領の甲をも用いず、一民をも苦しめず、皆な秦の有なりしな
らん。代・上黨は戦わずして已に秦と為り、東陽・河外は戰わずして已に反っ
て齊と為り、中・呼沲(コ・ダ、札記:鮑は「池」を改めて「沲」と為す)よ
り以北は戰わずして已に燕と為らん。然らば則ち是れ趙を舉ぐるなり。則ち韓
は必ず亡びん、韓亡びば則ち荊・魏は獨立する能わず。荊・魏、獨立する能わ
ずんば、則ち是れ一舉にして韓を壞り、魏を蠹し、荊を狭(挟を狭に改め、せ
ばめると訓ず)め、以て東のかた齊・燕を弱め、白馬の口を決し、以て魏氏に
流さば、一舉にして三晉亡び、從者敗れん。大王手を拱きて以て須たば、天下
遍隨して伏し、伯王の名は成る可かりしなり。而るに謀臣、為さず、軍を引き
て退き、趙氏と和を為す。大王の明、秦兵の強、伯王の業を以てして、地は曾
て(札記:呉氏正に曰く、
『韓』は「尊」を「曾」に作る)得可からず。乃ち欺
(あなどり)を亡國(趙)に取れり。是れ謀臣之の拙きなり。且つ夫れ趙當に
亡ぶべくして亡びず、秦當に伯たるべくして伯たらざるは、天下固に秦の謀臣
を量る一なり。乃ち復た卒を悉くして以て(姚校:一に「以」に作る)邯鄲を
攻めて、拔くこと能わざるや、甲兵・弩(
『韓非子』は「棄甲兵弩」に作る)を
棄て、戰慄して却く、天下固に秦の力を量る二なり。軍乃ち引きて退き、李下
(邑の名)に并す。大王、軍を并せて與に戦うを致せども、能く厚(おおいに)
に之に勝つに非ざるや、又交々罷めて却く。天下固に秦の力を量る三なり。內
は吾が謀臣を量り、外は吾が兵力を極む。是れに由り之を觀れば、臣以うに天
下の從は、豈に其れ難からんや。內には吾が甲兵頓(やぶる)れ、士民病み、
蓄積索(つきる)き、田疇荒れ、囷倉虛し。外には天下、志を比(あわす)す
ること甚だ固し。願わくは大王以て之を慮る有らんことを。且つ臣之を聞く、
戰戰慄慄として、日一日慎む、と。苟(高注:
「苟」は誠なり)に其の道(王た
る道)を慎まば、天下、有つ可きなり。何を以て其の然るを知る。昔者、紂、
天子と為りて、天下を帥いて甲百萬に将として、左は淇谷に飲(みずかう)い、
右は洹水に飲い、淇水竭きて洹水流れず。以て周武と難を為す。武王、素甲(白
いよろい、父文王の喪中であったので甲を白にした)三千領を将いて、戰うこ
と一日、紂の國を破り、其の身を禽にす。其の地に據りて、其の民を有ち、天
下、傷む莫かりき(姚校:劉 「不」の字無し)
。智伯、三國の衆を帥い、以て
趙の襄主を晉陽に攻め、水を決し之に灌ぐこと三年なり。城、且に拔けんとす。
襄主、龜を錯(おく)き、策(めどぎ、占いの筮竹)を數え兆(龜兆)を占な
い、以て利害を、
『何れの國か降す可き』に視、而して張孟談を使いとす。是に
於いて潛行して出で、智伯の約に反して、兩國の衆を得、以て智伯の國を攻め、
其の身を禽にし,以て襄子の功を成せり。今、秦の地は長を斷ち短を續がば、
方數千里、名師數百萬あり。秦國の號令賞罰、地形利害は、天下、如くもの莫
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きなり。此れを以て天下に與せば、天下、兼ねて有つ可きなり。臣、昧死して
大王を望見し、挙げて天下の從を破り、趙を舉げ韓を亡ぼし、荊・魏を臣とし、
齊・燕を親しみ、以て伯王の名を成し、四鄰の諸侯を朝せしむる所以の道を言
わん。大王試に其の説を聽き、一舉して天下の從破れず、趙舉がらず、韓亡び
ず、荊・魏臣たらず、齊・燕親まず、伯王の名成らず、四鄰の諸侯朝せずんば、
大王、臣を斬り以て國に徇うるに、主謀して(
「以主為謀」を「以主謀為」に改
める)忠ならざる者と為すを以てせよ。
」
四十五、張儀欲假秦兵以救魏
張儀、秦の兵を假り以て魏を救わんと欲す。左成、甘茂に謂いて曰く、
「之を予
えんには如かず(札記:今本「子不」を「不如」に作る)
。魏、秦の兵を反さず
んば,張子、秦に反らじ。魏、若し秦の兵を反さば、張子、志を魏に得て、敢
て秦に反らじ。張子、秦を去らずんば、張子は必ず子より高からん。
」
四十六、司馬錯與張儀爭論於秦惠王前
司馬錯、張儀と秦の惠王の前に争論す。司馬錯、蜀を伐たんと欲す。張儀曰く、
「韓を伐つに如かず。」王曰く、「請う、其の を聞かん。」對えて曰く、「魏に
親しみ楚に善くし、兵を三川に下し、轘轅(カン・エン)
・緱氏(共に山の名)
の口を塞ぎ、屯留の道に當り、魏は南陽を絶ち、楚は南鄭に臨み、秦は新城・
宜陽を攻め、以て二周の郊に臨み、周主の罪を誅(せめる)め、楚・魏の地を
侵さば。周自ら救われざるを知り、九鼎寶器は必ず出でん。九鼎に據り、圖籍
を按じ、天子を挾み以て天下に令せば、天下、敢て聽かざる莫けん。此れ王業
なり。今、夫れ蜀は西辟の國にして、戎狄の長なり。兵を弊らし衆を勞するも、
以て名を成すに足らず、其の地を得るも、以て利と為すに足らず。臣聞く、名
を爭う者は朝に於てし、利を爭う者は市に於てす、と。今、三川・周室は、天
下の市朝なり。而るに王、焉に争わず、顧って戎狄に争う。王業を去ること遠
からん。」司馬錯曰く、「然らず、臣之を聞く、國を富まさんと欲する者は、其
の地を広むるを務め、兵を強くせんと欲する者は、其の民を富ますを務め、王
たらんと欲する者は、其の德を博むるを務む。三資の者備わりて、王(王の位)
之に隨う、と。今、王の地小にして民貧し、故に臣、願わん、事に易きに從わ
んことを。夫れ蜀は西辟の國なり、而して戎狄の長なり、而して桀・紂の亂有
り。秦を以て之を攻めば、譬えば豺狼をして群羊を逐わしむるが如きなり。其
の地を取らば、以て國を廣むるに足り、其の財を得ば、以て民を富まし、兵を
繕うに足る。衆を傷わずして、彼已に服せん。故に一國を抜くも、而れども天
下以て暴と為さず。利、西海を盡くすも、諸侯以て貪と為さず。是れ我一舉し
て名實兩つながら附き、而して又暴を禁じ亂を正すの名有り。今、韓を攻め天
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子を劫やかす、天子を劫やかすは惡名なり。而して未だ必ずしも利あらざるな
り。又不義の名有り、而して天下の欲せざる所を攻むるは、危うし。臣請う、
其の故を謁げん、周は天下の宗室なり。齊は韓の(札記:丕烈案ずるに、~。
當に是れ『策』文は「周」の字を衍すなるべし)與國なり。周自ら九鼎を失う
を知り、韓自ら三川を亡うを知らば、則ち必ず將に二国(周と韓)力を并せ謀
を合わせて、以て齊・趙に因りて、解(秦との和解)を楚・魏に求めんとす。
鼎を以て楚に與え、地を以て魏に與うるとも、王、禁ずる能わざらん。此れ臣
が謂所危きなり,蜀を伐つの完きに如かざるなり。」惠王曰く、「善し、寡人、
子に聽かん。」卒に兵を起こし蜀を伐ち、十月にして之を取り、遂に蜀を定む。
蜀主、号を更めて侯と為し、而して陳荘をして蜀に相たらしむ。蜀既に属して、
秦益々強く富厚にして諸侯を軽んず。
四十七、張儀之殘樗裡疾也
張儀の樗裡疾を残わんとするや、重んじて楚に之かしめ。因りて楚王をして之
が為に相とせんことを秦に請わしむ。張子、秦王に謂いて曰く、
「樗裡疾を重ん
じて之を使とするは、將に以て國交を為さんとすればなり。今、身は楚に在り、
楚王因りて為に相とせんことを秦に請う。臣其の言を聞くに、曰く『王、儀を
秦に窮めんと欲せんか。臣請う、王を助けん。
』楚王以て然りと為す。故に為に
相とせんことを請うなり。今、王誠に之を聽かば、彼必ず國を以て楚王に事え
ん。
」秦王大いに怒る。樗裡疾出で走る。
四十八、張儀欲以漢中與楚
張儀、漢中を以て楚に與えんと欲す。秦王に謂(札記:呉氏補に曰く、
「請」は
當に是れ「謂」の字なるべし)いて曰く、
「漢中を有つは蠹(ト、きくいむし)
なり。樹を種えて處ならざれば(不適当なところに木を植えたならば)
、人必ず
之を害し、家に不宜の財有れば、則ち本を傷う。漢中は南に邊して楚の利を為
す。此れ國の累なり。」甘茂、王に謂いて曰く、「地の大なるは、固より憂い多
きか。天下に變有らば、王、漢中を割き以て楚に和するを為せ。楚必ず天下に
畔きて王に與せん。王、今、漢中を以て楚に與えば、即し天下に變有らば、王
何を以てか楚を市(かう)わん。
」
四十九、楚攻魏張儀謂秦王
楚、魏を攻む。張儀、秦王に謂いて曰く、
「魏に與して以て之を勁くせんには如
かず。魏、戰いて勝たば、復た秦に聽きて、必ず西河の外を入れん。勝たずん
ば、魏、守ること能わず。王必ず之を取らん。
」王、儀の言を用いて、皮氏(魏
の邑)の卒萬人・車百乘を取り、以て魏の犀首に與う。戰いて威王に勝ち、魏
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の兵罷弊し、秦を恐畏し、果して西河の外を獻ず。
五十、田莘之為陳軫說秦惠王
田莘(シン)之、陳軫の為に秦の惠王に説きて曰く、「臣、王の郭君(虢の君、
名は醜)の若くならんことを恐る。夫れ晉の獻公、郭を伐たんと欲して、舟之
僑(郭の賢臣)の存するを憚る。荀息(晋の上卿)曰く、『周書に言える有り、
美女は舌を破る、と。
』乃ち之に女樂を遺り、以て其の政を亂す。舟之僑、諫む
れども聽かれず。遂に去る。因りて郭を伐ち、遂に之を破る。又虞を伐たんと
欲して、宮之奇(虞の大夫)の存するを憚る,荀息曰く、『周書に言える有り、
美男は老(老臣)を破る、と。
』乃ち之に美男を遺り、之をして宮之奇を悪らし
む。宮之奇以て諫むれども聽かれず。遂に亡ぐ。因りて虞を伐ち、遂に之を取
れり。今、秦自ら以て王と為す。能く王者の國を害する者は楚なり。楚、橫君
(秦の将)の善く兵を用うると(姚校:銭・劉は只だ一の「用兵」の字のみ)、
陳軫の智とを知(姚校:一本「知」の字に作る)る。故に張儀を驕らすに五國
を以てす(五国の実権を与えておだてている)
。來たれば、必ず是の二人を悪ら
ん。願わくは王、聽く勿れ。
」張儀果して來たり辭し、因りて軫を言う。王、怒
りて聽かず。
五十一、張儀又惡陳軫於秦王
張儀、又た陳軫を秦王に悪りて、曰く、
「軫、楚と秦の間を馳す。今、楚、秦に
善きを加えずして、軫に善くす。然らば則ち是れ軫自ら為にして、國の為にせ
ざるなり。且つ軫は秦を去りて楚に之かんと欲す,王、何ぞ聽かずや」王、陳
軫に謂いて曰く、
「吾聞く、子、秦を去りて楚に之かんと欲す、と。信なるか。
」
陳軫曰く、
「然り。
」王曰く、
「儀の言、果して信なり。
」曰く、
「獨り儀のみ之を
知るに非ざるなり。行道の人皆之を知れり。曰く、『孝己(殷の高宗の子)、其
の親を愛し、天下以て子と為さんと欲し、子胥、其の君(呉王夫差)に忠にし
て、天下以て臣と為さんと欲す。僕妾を賣るに閭巷に售(うれる)るる者は、
良き僕妾なり。出婦(出戻り)の郷曲(片田舎、出婦の郷里)に嫁する者は、
良き婦なり。
』吾、君に忠ならずんば、楚も亦た何ぞ軫を以て忠と為さんや。忠
にして且つ棄てらる。吾、楚に之かずして、何くにか適かん。」秦王曰く、「善
し。
」乃ち之を止(札記:今本「必」を「止」に作る)む。
五十二、陳軫去楚之秦
陳軫、楚を去り秦に之く。張儀、秦王に謂いて曰く、「陳軫は王の臣と為りて、
常に國情を以て楚に輸(いたす)す。儀、與に事に從うこと能わず。願わくは
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王、之を逐え。即し復た楚に之かば、願わくは王、之を殺せ。」王曰く、「軫、
安んぞ敢て楚に之く。」王、陳軫を召して之に告げて曰く、「吾、能く子が言を
聽かん。子、何くにか之かんと欲する、請う、子の為に車を約せん(札記:今
本「車約」を「約車」に作る)。」對えて曰く、「臣願わくは楚に之かん。」王曰
く、
「儀は子を以て楚に之くと為せり。吾又た自ら子の楚に之くを知る。子、楚
に非ずんば、且に安くにか之かんとする。」軫曰く、「臣出でば、必ず故(こと
さらに)に楚に之き、以て王と儀との策に順い、而して臣の楚と與にするか不
かを明らかにせん。楚人に兩妻を有する者あり、人、其の長(としたける)け
たる者に誂(いどむ、口説くこと)む、長けたる者(姚校:一本更に「長者」
の二字有り)
、之を詈る。其の少き者に誂む、少き者之に許す。居ること幾何も
無く,兩妻を有する者死す。客、誂みし者に謂いて曰く、
『汝、長けたる者を取
らんか、少き者か。
』
『長けたる者を取らん。
』客曰く、
『長けたる者は汝を詈り、
少き者は汝に和す、汝、何為れぞ長けたる者を取る。』曰く、『彼、人の所に居
らば、則ち其れ我に許さんことを欲す。今、我が妻と為れば、則ち其れ我が為
に人を詈らんことを欲す。』今、楚王は明主なり。而して昭陽は賢相なり。軫、
人の臣と為りて、而して常に國を以て楚王に輸さば、王必ず臣を留めず、昭陽
は將に臣と與に事に從わざらんとす。此れを以て臣の楚と與にするか不かを明
らかにせん。
」軫出づ。張儀入りて、王に問いて曰く、
「陳軫果して安にか之く。
」
王曰く、
「夫れ軫は天下の辯士なり。寡人を孰視して曰く、
『軫必ず楚に之かん。
』
寡人遂に奈何ともする無し。寡人因りて問いて曰く、
『子必ず楚に之かんか、則
ち儀の言は果して信ならん。』軫曰く、『獨り儀のみの言に非ざるなり。行道に
人皆之を知れり。昔者、子胥は其の君(呉王夫差)に忠にして、天下皆以て臣
と為さんと欲し、孝己、其の親を愛し、天下皆以て子と為さんと欲す。故に僕
妾を賣りて、里巷を出でずして取らるる者は、良僕妾なり。出婦の郷里に嫁す
る者は、善婦なり。臣、王に忠ならずんば、楚、何ぞ軫を以て忠と為さんや、
忠(姚校:一本更に「忠」の字を添う)にしてすら尚お棄てらる。軫、楚に之
かずして、何くにか之かん。
』
」王以て然りと為し、遂に善く之を待てり。
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