第6章 ダーウィンの5つの進化理論 - So-net

何が生物学を独自なものにするのか(7)
What Makes Biology Unique? Ernst Mayr
第6章 ダーウィンの5つの進化理論
ダーウィンは根っからの理論家であり、大きいものから小さいものまで多数の進化理論
を打ち立てた。しかし、彼は自らの進化理論をいつも“私の理論”というふうに単数形で
呼び、種が不変でないことと共通の由来と自然選択を単一の分割できない理論として論じ
た。モーリッツ・ワグナーが自然選択を採用しなかったために彼の見事に説得力のある地
理的種分化理論(と隔離の重要性)をダーウィンが拒絶したことを発見したとき、私は若い
進化論者としていかに衝撃を受けたかをいまだに覚えている。私のヒーローであるチャー
ルズ・ダーウィンは、私がまったく非論理的だと思えることをいかに行うことができたの
だろうか? ダーウィンの進化パラダイムにおけるさまざまな理論の独立性を彼自身が認
識しそこなったことが、分岐の原理についての彼の議論に困難をもたらした(Mayr1992)。
私は最近、
ダーウィンがこのことを認識しえなかったことが 1859 年以降の進化生物学にお
ける果てしない論争の主要な原因の一つになったという結論に達した。しかし、今ではも
う、ダーウィンのパラダイムがいくつかの主要な独立した理論から成る、ということはす
っかり明確になった(Mayr1985)。驚くほどのことではないが、進化論者たちはそれらの理
論の妥当性について意見が一致せず、互いに対立する学派を形成した。1930 年代と 40 年
代に進化的総合が成し遂げられるまでほとんど 80 年間、
それらの学派は互いに反目しあっ
たのだ。
ダーウィンの多面的な理論を分析することによって、私はダーウィンのパラダイムが5
つの主要な独立した理論から成るという結論に至った。それらの理論が本当に互いに“論
理的に独立した”ものであるということは、いく人かの最近の著者によって確証された。
ある一人の学者が、このひとまとまりの5つの理論のうちのいくつかを受容し同時にいく
つかを拒絶しているということが、これらの理論の独立性をおそらくもっとも良く立証し
ている(表 6.1)。
1
私はここでは、ダーウィンの5つの理論のたいへん詳細な分析(Mayr 1985)を(いくらか
修正して)
簡単に述べるだけである。
それらの5つの理論についてのさらに詳しい情報は、
この論文を参照されたい。
表 6.1 進化論者によるダーウィン理論の受容
共通の由来
ラマルク
ダーウィン
ヘッケル
新ラマルク主義者
T.H.ハクスレー
ド・フリース
T.H.モーガン
否定
肯定
肯定
肯定
肯定
肯定
肯定
漸進性
肯定
肯定
肯定
肯定
否定
否定
(否定)
個体群的種分化
否定
肯定
?
肯定
否定
否定
否定
自然選択
否定
肯定
部分的
否定
(否定)
否定
重要でない
ダーウィン主義は単一の同質の理論ではあり得ないということについての、とりわけ的
を射た一つの理由が存在する。それは、生物進化が時間における変遷と(生態的地理的)
空間における多様化という2つの本質的に独立なプロセスから成っているということであ
る。この2つのプロセスは、最低限2つのまったく独立したきわめて異なる理論を必要と
する。それでもダーウィンに関する著述家たちがほとんど決まってそれらさまざまな理論
の組み合わせを単数形の「ダーウィンの理論」というふうに述べたのは、大いにダーウィ
ン自身に原因があった。ダーウィンは、進化説自体を「私の理論」と呼んだだけでなく、
自然選択による共通の由来説をも、まるで共通の由来と自然選択が単一の理論であるかの
ように「私の理論」と呼んだのである。
ダーウィンのさまざまな理論を区分けする試みは、彼が『起原』の第4章で自然選択の
下での種分化を論じ、多くの現象とくに地理的分布の現象を本当は共通の由来の帰結であ
るにもかかわらず自然選択の結果だとした事実によって妨げられた。
そういうことなので、
私は、ダーウィンの進化の概念枠組みを彼の進化思考の基礎を形成する主要な理論にばら
ばらに分離することがぜひとも必要であると思う。便宜上、私はダーウィンの進化パラダ
イムを5つの理論に分割した。
もちろん、
他の人がちがった分け方を選ぶこともあり得る。
ダーウィン以後の著者がダーウィン理論に言及するとき、彼らは下記の5つの理論のうち
のいくつかを組み合わせたものをいつも考えていた。ダーウィン自身にとってそれら5つ
の理論とは、進化それ自体と共通の由来と漸進説と種の増加と自然選択であった。人によ
っては、これら5つの理論は実際論理的に分離できないひとまとまりのものであり、ダー
ウィンがそういうものとしてそれを論じたのはまったく正しかった、と主張するかもしれ
ない。しかし、こうした主張は私が他で示したように(Mayr 1982b:505-510)、1859 年直後
2
のほとんどの進化論者、つまり種の可変性の理論を受け入れていた著者たちが進化自体以
外のダーウィンの 4 つの理論のうちの1つあるいはいくつかを拒絶したという事実によっ
て論破される。このことが、5つの理論は1つの不可分の全体ではないということを示し
ているのである。
進化それ自体
これは、世界は不変でも永遠に循環するのでもなく、着実にある程度方向性をもって変
化していて、生物もそれに合わせて変遷しているという理論である。19 世紀の前半、とり
わけイギリスにおいて、世界は本質的に不変でありまだあまり時間も経っていないという
信念がどれほどなお流布していたかを思い描くことは、
現代人にとってはなかなか難しい。
チャールズ・ライエルのように、地球の年齢の古さと生物絶滅の絶え間ない進行に十分気
づいていた人々さえほとんどが、種が変遷するということを信じるのを拒否した。進化の
信念はまた、種の可変説とも呼ばれた。
進化それ自体は、現代の著者にとってはもはや説というものではない。それは、地球が
太陽の周りを回っているのであってその逆ではないという事実と同じほどに明確な事実だ。
正確に年代を定められた地層に含まれている化石記録によって立証された変化が、われわ
れが進化と呼ぶ事実である。進化それ自体は、他の4つの進化理論が依拠する事実的基礎
である。たとえば、共通の由来によって説明される現象のすべては、もし進化が事実でな
かったら意味をなさない。
共通の由来
ガラパゴスの3種のマネシツグミの事例が、ダーウィンに重要な新しい洞察をもたらし
た。その3種が南米大陸の1つの祖先種から由来したのは明確だった。この結論から、す
べてのマネシツグミは共通の祖先から派生した―さらに言えば、生物のすべてのグループ
は1つの祖先種から由来した―と仮定することまでは、ほんの小さな一歩であった。これ
がダーウィンの共通の由来説である。
「共通の由来」common descent と「枝分れ」branching という2つの用語は、進化論者
にとっては正確に同じ現象を表しているということが強調されねばならない。ただ、共通
の由来は過去に遡る観点を、枝分れは未来向きの観点を反映している。共通の由来という
概念はダーウィンのオリジナルでは決してなかった。ビュフォンはすでにウマとロバのよ
うな近縁関係についてその概念を考えていた。
しかし、
彼は進化を認めていなかったので、
この考えを体系的に展開することはなかった。他にもダーウィン以前のかなりの数の著述
家が共通の由来ということをところどころで示唆していたが、歴史家はこれまで共通の祖
先という考えの初期の支持者について詳しく調べてはいない。これはラマルクによっては
明らかに支持されなかった理論であり、彼は“塊り”masses(高次分類群)の時折の分裂と
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いうことを提案したけれど、
種の分裂と規則的な枝分れということは決して考えなかった。
ラマルクは、自然発生と、系列ごとのより高次な完全性の段階へ向けての個々のたて方向
の変遷ということから、多様性を演繹した。彼にとって、由来とは各系統発生系列内部の
直線的なものであって、共通の由来という概念とは無縁なものであった。
ダーウィンの理論のうち、
共通の由来ほど熱狂的に受け入れられたものは他になかった。
ダーウィンの他の理論は、そのような大きな直接的な説明力をもたなかったというのがお
そらく正しい。自然史においてそのときまでは気まぐれであったり無秩序に見えたものす
べてが、いまや意味を持ち始めたのだ。オーウェンや比較解剖学者たちの原型というもの
は、いまや共通の祖先からの遺産として説明することができた。リンネ式階層全体が急に
すっかり論理的になった。なぜなら、各高次分類群はもっとずっと遠い祖先の子孫たちか
ら成るということがいまや明白になったからである。それまでは気まぐれに見えた分布パ
ターンが、いまや子孫の分散ということで説明できるようになった。
『起原』でダーウィン
が列挙した進化の証明のほとんどすべては、実際には共通の由来のための証拠である。孤
立していたり逸脱したタイプの由来の系列を確定することが、
『起原』以降のもっとも流行
った研究プログラムになったが、比較解剖学者と古生物学者の研究プログラムの大部分は
ほぼ今日まで残されたままである。共通の祖先に光を注ぐために、比較発生学の研究プロ
グラムも流行した。厳密な反復説を信じなかった人たちでさえ、成体では消失してしまっ
た胚の類似性をたびたび発見した。それらの類似性は、たとえば原索動物と脊椎動物の脊
索や、魚と陸上四足動物の鰓弓のようなものだが、共通の過去の名残りと解釈されるまで
はとても不可解なものだったのだ。
共通の由来説の説明力以上に進化の急速な受容に役立ったものは他になかった。
じきに、
見たところ互いにたいへん異なる動物と植物さえが共通の単細胞の祖先から派生し得ると
いうことが例証された。
「すべての植物も動物も、命が最初に吹き込まれたある一つの形態
から(由来した)」(『自然選択』p.248)とダーウィンが示唆したとき、彼はすでにこのこ
とを予言していた。細胞学(減数分裂、染色体の受け渡し)と生化学の研究は、形態学と分
類学における共通の起源に関する証拠を十分に裏付けた。真核生物と原核生物が同一の遺
伝暗号を持っていることを立証し、したがってこれらのグループの共通の起源についても
ほとんど疑問が残されていないということは、分子生物学の勝利の一つであった。高次分
類群間、とくに植物と無脊椎動物の門の間にはなお確証されねばならないつながりが多く
あるとしても、今日地球上に見出される全生物が生命の単一の起源から由来したというこ
とを疑うような生物学者は、おそらく今や一人もいない。
共通の由来説の適用が強力な抵抗に出会った領域は、ただ一つしかなかった。それは由
来の全系列に人間を含めることであった。同時代の風刺漫画から判るように、他の霊長類
からの人間の派生ということ以上にビクトリア朝の人々に受け入れられなかったダーウィ
ン理論はなかった。しかし、現代においては、人間の由来は化石記録からきわめて十分に
確証されているだけでなく、人間とアフリカの類人猿の生化学的および染色体上の類似性
はたいへん大きいことが分っているので、両者の形態と脳の発達がなぜこんなにも異なっ
ているのかがまったく不可解なほどなのである。
4
漸進説対跳躍説
ダーウィンの第3の理論は、進化的変遷はたえず漸進的に進行し決して跳躍することは
ないということであった。あの時代のほとんど誰もが本質主義者であったということが分
かっていなければ、ダーウィンの進化漸進説の主張は決して理解できないだろうし、この
理論への強い反対も理解できないだろう。化石記録によって証拠が提供された新種の出現
は、新しい起源つまり跳躍によってのみ起り得たというのだ。しかし、新種は完全に適応
していたし、適応していない種がたびたび生まれたという証拠はなかったので、ダーウィ
ンは代替案を2つだけ考えた。完全な新種は全知全能の創造者によって個別に創造された
のか、それとも、こうした超自然的なプロセスを受け入れないなら、新種は既存の種から
適応が保持された各段階を経てゆっくりしたプロセスによって漸進的に進化したのか。ダ
ーウィンが採用したのはこの2番目の代替案であった。
この漸進説の理論は伝統からの思い切った飛躍であった。新種の跳躍的起源の理論は、
ソクラテス以前の哲学者からモーペルチュイやいわゆる天変地異説の地質学者の中の進歩
主義者までに存在した。この跳躍主義者の理論は本質主義と調和していたのだ。
ダーウィンによる進化の完全な漸進主義理論―種だけでなく高次分類群も漸進的変遷に
よって出現する―は、すぐに強い抵抗に出会った。ダーウィンのもっとも近しい友人たち
でさえそれには不満であった。T.H.ハクスレーは、
『起原』出版の前日に次のようにダ
ーウィンに書き送った。
「あなたは、
“跳躍なしの自然”Natura non facit saitum という
考えを無制限に採用することによって無用な困難を背負ってしまった」(Darwin F.
1887:2,27)と。ハクスレーやゴールトンやケリカーや他の同時代人がダーウィンを説得し
たにもかかわらず、彼は進化の漸進性を執拗に力説した。ダーウィンはこの概念の革命的
な本性に十分気づいていたのだ。ラマルクとジョフロア〔サンチレール〕を除いて、生物
の世界の変化について考えたおよそすべての者が本質主義者であったし、跳躍ということ
に頼っていた。
ダーウィンの漸進説への強い信念の源は、あまりはっきりしていない。問題はいまだに
十分分析されていない。もっともありそうなのは、漸進説はライエルの斉一説の地質学か
ら生物世界への拡張だというものである。ライエルがそのような拡張をしなかったことは
ブロンによって正確に批評された。もちろんダーウィンは、漸進説の主張のための厳密に
経験的な根拠を持っていた。家畜の品種についての研究、とくにハトについての研究や動
物育種家とのやり取りが、ゆっくりした漸進的な選択が最終産物にどれほど顕著なちがい
を生じ得るかを彼に確信させた。このことは、ガラパゴスのマネシツグミとゾウガメの彼
の観察とよく一致していた。それらは、漸進的変遷の結果としてもっともうまく説明され
たのだ。
最終的に、ダーウィンは 、むしろ小さなステップのゆっくりとした累積を強く主張する
ための教訓的な根拠を持った。彼は、自然選択による進化的変化を「観察する」observe
ことができるはずではないかという反対者の議論に対し次のように答えた。
「自然選択は、
わずかだが継続的な好ましい変異の積み重ねによってもっぱらはたらくので、大きいある
いは急な変化を生み出すことはできない。それは非常に短くゆっくりとしたステップによ
5
ってのみはたらき得る」(『起原』P.471)。ダーウィンの中に個体群思考が全面的に出現し
たということが、彼を漸進説に強く固執させるようになったのだということは、ほとんど
疑いがない。進化は個体群において起りそれをゆっくりと変移させるという概念―これは
ダーウィンがだんだんと信じるようになったことだ―を採用するなら、たちまち自動的に
漸進説を採用することも強いられるのである。漸進説と個体群思考はおそらく、ダーウィ
ンの概念枠組みにおいては元来独立した構成要素であったが、しかし結局、それらは互い
に強化し合うことになった。
ナチュラリストが漸進的進化の主な支持者であった。彼らはあらゆるところで地理的変
異に出会ったのだ。結局、遺伝学者も、ごく小さい突然変異や多元発現と多面発現の発見
によって、同じ結論に至った。その結果、ゴールドシュミットとシンデウォルフによる継
続的な反対があったにもかかわらず、漸進説は進化的総合の中で完全なる勝利を祝うこと
ができた。
個体群的進化として漸進説を定義することで―これはもともとダーウィンが考えていた
ことだが―、われわれは次のように言うことができる。あらゆる反対にもかかわらず、ダ
ーウィンは最終的にこの3番目の進化理論に関しても勝利を得た。漸進説の明確な例外に
は、
(異質四倍体のような)異種交配なしに生まれ得る安定的な雑種や細胞内共生(Margulis
and Sagan 2002)がある。
漸進説の理論では、変化の起る速さについては何も言わない。ダーウィンは進化がとき
に非常に急速に進むということに気づいていたが、アンドリュー・ハクスレー(1981)が最
近まさに正しく指摘したように、完全なる停滞の時期もあり得る。
「その間はそれら同じ種
がどんな変化もこうむることなしに存続している」
。
『起原』のよく知られた図表で(p.117
の向かい側)、ダーウィンは、1つの種(図中F)を1万4千世代の間あるいは一連の全地層
を通してさえ変化させないままにした(p.124)。
漸進性と進化速度が別個のものであること
の理解は、断続平衡理論の評価にとって重要なことである(Mayr 1982C)。
種の増加
ダーウィンのこの理論は、生物の莫大な多様性の起源を説明することに関係している。
地球上には、500 万から 1000 万種の動物と 100 万から 200 万種の植物が存在すると見積も
られている。
ダーウィンの時代にはこれらの数のほんの一部分しか知られていなかったが、
なぜこんなにも多くの種が存在し、それらがいかに起源したのかという問題はすでに存在
していた。ラマルクは、
『動物哲学』(1809)で種の増加の可能性を問題にしなかった。彼に
とって、生物の多様性は他と異なる適応によって生み出されるものだった。新しい進化系
列は自然発生によって生じると彼は考えた。ライエルの定常状態の世界では、種の数は一
定であり、新種は絶滅してしまったものに代わって導入されるものだった。一つの種をい
くつかの娘種に分離するといういかなる考えも、
こうした初期の著者には存在しなかった。
種の多様化の問題に答えを見い出すにはまったく新しいアプローチが必要であり、ナチ
ュラリストだけがその発見のための適所にいた。カナリア諸島のL.フォン・ブッフ、ガラ
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パゴスのダーウィン、北アフリカのワグナー、アマゾンとマレー群島のウォレスがこの試
みのパイオニアであった。それまで進化思想を占有していた垂直的次元に水平的(地理)次
元を加えることによって、彼らはみな、地理に対応する(異所性の)種や発端の種を発見す
ることができた。しかし、それ以上に、これらのナチュラリストは、種形成の考えうるす
べての中間段階のたくさんの異所的個体群を見い出した。ジョン・レイやカール・リンネ、
そのほか無次元的立場の研究者(地方のナチュラリスト)にそうした印象を与えた種間の明
確な不連続性はいまや、地理的次元を組み込んだ種間の連続性によって満たされたのであ
る。
もし種を単に形態的に異なる型として定義すると、種の増加という現実の問題を避ける
ことになる。種分化問題のより実際的な定式化は、生物学的種概念(K.ヨルダン,ポール
トン,シュトレーゼマン,マイアー)が展開されるまでは不可能だった。そのときついに、
現実の問題は同時的に存在する種間の生殖隔離の獲得にあるということが分ったのだ。時
間次元での一つの系統発生系列の変遷(その後明示されたような漸進的な系統発生進化)は、
多様性の起源には何の光も照らさない。では、それをするのは何なのだろうか?
ダーウィンは、生涯にわたって種の増加の問題に取り組んだ。ガラパゴスのそれぞれ異
なる島に新しい3種のマネシツグミを発見してはじめて、ダーウィンは完全に首尾一貫し
た地理的種分化概念を展開した。その時期の彼の考えは、もっぱら動物学の文献から引き
出されたもののように見える。
しかし、やがてダーウィンは、とくに友人の植物学者フッカーを通して植物の多様さに
精通するようになった(Kottler 1978, Sulloway 1979)
。ただ、この新しい情報は事態を
複雑にするように見えた。ダーウィンが理解していなかったことは、植物学者は変種とい
う用語を動物学者のように地理的品種(亜種)としては使わず、まったく異なる種類の変
異体に使用していたということであった。
植物学者にとって変種とはよく、
個体群内の個々
の変異体(
“形”morph)のことであった。そのときまで地理的品種である(動物の)変種
は発端の種であったので、ダーウィンは植物を含めてどんな変種もそれが当てはまると考
えた。それによって、植物の個々の変種は発端の種になったのである。ダーウィンによる
地理的な変種から個々の変種へという用語法の拡張があるまで、種分化は地理的なプロセ
スであった。しかし、同一地域に共存しているいくつかの個々の変種がもし同時に異なる
新種になり得るならば、そのとき種分化は同所的プロセスであることになる。そこでダー
ウィンは、彼の新たな「分岐の原理」に助けられて同所的種分化の新しいシナリオを展開
した(Mayr 1992)
。ダーウィンのシナリオは見たところたいへん説得力があったので、1860
年代以降、分岐の原理に基づく同所的種分化が、地理的変種(亜種)の隔離に基づく地理
的種分化と同じほどに流布することになった。分岐の原理の種分化プロセスへの適用は複
雑であり、私はその説明のために特別な分析をしている(Mayr 1992)
。
『起原』におけるダ
ーウィンの種分化の扱いは、種と種分化についての彼の混乱を明らかにしている。この問
題は、1940 年代の総合説までは解明されなかった。
ダーウィンはウォレスと共に種の増加の問題をはじめて具体的に述べたという栄誉に値
するけれど、彼が提案した解答の多元性が、まさに今日までつづくまったく終わることの
ない絶え間ない論争をひき起こした。最初、1870 年代から 1940 年代は、同所的種分化が
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おそらくより普及した種分化理論であった。とはいえ、いく人かの著者は、とくに鳥類学
者と、強い地理的変異を示す他の分類群の専門家は、もっぱら地理的種分化を強く主張し
ていた。しかし、ほとんどの昆虫学者とさらにはほとんどの植物学者は、地理的種分化を
認めてはいたけれど、同所的種分化がより一般的でより重要な種分化のあり方であるとみ
なしていた。1942 年以降は、異所的種分化がおよそ 25 年間多かれ少なかれ勝利を得たが、
その後、同所的種分化のよく分析された事例がとくに魚と昆虫で非常に多く見い出された
ので、
今日、
同所的種分化がしばしば起きたことにもはや何の疑問も呈されないのである。
古生物学者は概して種の増加の問題をまったくかえりみなかった。たとえば、G.G.
シンプソンの著作にはその議論は一つも見い出されない。古生物学者は最終的には種分化
を自らの理論に組み入れたが(Eldredge and Gould)
、彼らの結論は現生の生物を扱う人た
ちの種分化研究に基づいていた。
『起原』出版後 145 年間、種分化がなおもかくのごとく問題である理由は3つある。第
1 に、進化研究の非常に多くの場合と同様、進化論者は過去の進化プロセスを分析し、推
論によって結論に至らざるを得ないことである。その結果、歴史的継起の再構成で出会う
よく知られた困難のすべてに遭遇することになる。第2の困難は、遺伝学の進歩にもかか
わらず、われわれは種分化の最中に遺伝的に何が起きているのかについてほとんどまった
く無知であることだ。第3に、さまざまな種類の生物がさまざまな環境の下で起こす種分
化には、かなりちがった遺伝のしくみが伴っているということが明らかになってきたこと
である。
1970 年代のかなり予期せぬ発見が、それ以降の同所的種分化の幅広い受容に役立った。
私が 1963 年に指摘したように、同所的種分化の成功は、2つの新しい要因すなわちニッチ
選好と配偶者選好の同時的な協同がある場合にだけ可能である。同所的種分化に対する私
のかつての反感は、これら2つの選好が自然選択に対してばらばらにはたらくだろうとい
う私の仮説に基づいていた。しかし、とくにカメルーンのカワスズメ科の魚についての近
年の研究によって、2つの選好が結び付けられ得るということが示された。たとえば、も
し雌が特定の採食ニッチをもつ雄―底生動物食者―を選好し、しかも雄の表現型によって
この選好を示している雄を選ぶならば、この共同の選好は新しい同所的な種を急速に生み
出すことができる。つまり、この2つの選好の分離した遺伝という私の仮定は、妥当では
なかったのだ。私が知る限り、哺乳類や鳥類の同所的種分化の例は一つもない。しかし、
昆虫の寄主特異的な集団においてはおそらくたびたび起きている。たとえばカミキリムシ
科やタマムシ科などの科内の近縁種の地理的な分布範囲の地図を描くことが、一つの答え
を提供するだろう。
自然選択
ダーウィンの自然選択説は、彼のもっとも革新的でもっとも斬新な理論であった。それ
は進化的変化のメカニズム、とりわけこのメカニズムが生物の世界の見かけの調和と適応
をいかに説明できるかを論じた。それは、自然神学の超自然的説明の替わりに自然的説明
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を提供する試みであった。この自然のメカニズムのためのダーウィンの理論は比類ないも
のであった。ソクラテス以前の哲学者からデカルト、ライプニッツ、ヒューム、カントま
での哲学文献全体において、それに似たものは何一つなかった。それは自然における目的
論を、本質的に機械論的説明によって置き換えた。
わたしは、第5章で自然選択の詳細な分析を提出した。重複を避けるため、この章では
選択の2、3の側面だけに話しを限る。ダーウィンにとって、そしてその後のすべてのダ
ーウィン主義者にとって、自然選択は2段階で進行するものであった。変異の産出と、選
択と排除によるその変異の仕分けである。
わたしは自然選択説をダーウィンの第5の理論と呼んでいるが、それは本当は諸理論の
小さい束である。そこには、生殖上の余剰の絶え間ない存在(過剰多産性)の理論、個体
差の遺伝性の理論、遺伝の決定因子の離散性、その他いくつかの理論が含まれている。こ
れらの多くはダーウィンによって明示的には述べられておらず、彼のモデル全体の中に潜
在している。しかし、それらはすべて選択の個体群的な本性と適合している。すべての選
択は個体群の中で起り、世代から世代へ個体群ごとに遺伝的構成を変化させる。これは、
生殖隔離された個体を通しての跳躍進化の不連続的性格とまったく対照的である。
しかし、
いつも無視されているのは、連続的進化でさえも世代の継続にしたがってやや不連続的で
あるということだ。世代ごとに、その世代の選択の標的になるよう引き出される個体によ
って、まったく新しい遺伝子プールが再構成されるのである。
自然選択説はダーウィンの全理論の中でもっともひどい抵抗を受けた。いく人かの社会
学者が主張したように、自然選択説が 19 世紀前半のイギリスの時代精神、産業革命、アダ
ム・スミスやその時代のさまざまなイデオロギーの必然的帰結だということがもし正しい
ならば、自然選択説はほとんど誰からもすぐに受け入れられたことだろうと思われる。本
当のところはまさに逆だ。自然選択説はほとんどあまねく拒絶されたのであった。1860 年
代においては、ウォレス、ベイツ、フッカー、フリッツ・ミュラーなど少数のナチュラリ
ストだけが一貫した選択主義者と呼ばれ得た。ライエルは決して自然選択説を相手にしな
かったし、公然と自然選択説を擁護したT.H.ハクスレーさえそれにはっきりと不快感
を示し、おそらくそれを実際信じてはいなかった(Poulton 1896, Kottler 1985)。1900
年以前、イギリスでもどこか他所でも実験生物学者でこの説を採用したものはただの一人
もいなかった(ワイズマンは基本的にナチュラリストであった)
。もちろん、ダーウィンで
さえ全面的な選択主義者ではなかった。というのは、彼はいつも用不用のはたらきや環境
の偶発的な直接的影響を考慮していたのだ。断固とした抵抗の最たるものは、自然神学の
イデオロギーのもとで育った人たちに現れた。彼らは、神によってデザインされた世界と
いう観念を捨て去りその代わりに機械論的プロセスを受け入れるということがまったくで
きなかった。より重要なことは、自然選択説の首尾一貫した適用はすべての宇宙的目的論
の拒絶を意味したことである。セジックとK.E.フォン・ベアは、目的論の排除に対し
特に明確な抵抗を示した。
自然選択は、超自然的な起源を持ち得るいかなる目的因の拒絶を意味するだけでなく、
生物の世界におけるすべての決定論をも拒絶する。自然選択は、G.G.シンプソンがそ
う呼んだように徹底的に“ご都合主義的”opportunistic であり、
“間に合わせの修繕屋”
9
tinkerer である(Jacob 1977)
。それは上述したように、いわば各世代ごとの引っかき傷
から出発する。19 世紀を通してずっと、物理科学者は決定論的な見地を持ちつづけており、
自然選択のような非決定論的なプロセスは容易には受け入れがたかった。物理学者がダー
ウィンの
“めちゃくちゃな法則”
にいかに強力に反対したか(F.Darwin 1887:2,37; Herschel
1861,p.12)を理解するには、その時代のもっとも良く知られた何人かの物理学者が書いた
『起原』についての批評(Hull 1973)を読みさえすればよい。ギリシャ時代から現代まで、
自然の出来事が偶然によるのかあるいは必然によるのかという果てしない議論がつづいて
いる(Monod 1970)。奇妙なことに、自然選択に関する論争においては、そのプロセスはし
ばしば“純粋な偶然”として(ハーシェルや他の多くの自然選択の反対者)か、あるいは厳
密に決定論的な最適化プロセスとして記述されている。しかし、どちらの部類の主張者と
も、自然選択が2段階の本性を持っているということと、その第1段階では偶然的現象が
支配し第2段階は決定的に反偶然的本性を持っているという事実を見落としている。セウ
ォール・ライトがたいへん正しく述べたように、
「ランダムなプロセスと選択的なプロセス
が互いに絶え間なく影響し合うダーウィン的プロセスは、純粋な偶然と純粋な決定論の中
間なのではなく、その帰結においてどちらからも質的にまったく異なっている」
(1967,p.117)
。
進化それ自体は誰もがごく早期に受け入れたけれど、一貫した選択主義者になったのは
最初は少数の生物学者とごく少数の非生物学者だけであった。このことは進化的総合の時
代まで当てはまった。代わりに、他の人たちは究極目的論や新ラマルク説や跳躍説を採用
した。自然選択に関する論争は決して終わったわけではない。進化論の文献では今日でさ
え、選択と適応の関係が熱心に議論されており、
“適応主義プログラム”を採用すること―
つまり生物の種々の形質の適応的な意味を探ること―がはたして妥当かどうかに疑問が呈
されている(Gould and Lewontin 1979)
。しかし、本当にわれわれの前にある問いは、自
然選択が今日進化論者によって単に広く採用されているかどうか―この問いに対してため
らうことなく肯定的に答えられる―ではなく、むしろ現代の進化論者の自然選択概念がい
まだダーウィンの概念のままなのかあるいは著しく修正されたものなのかということであ
る。
ダーウィンが最初に自然選択説を練り上げていたとき、彼にはまだ自然神学の精神の中
でほぼ完全な適応を産み出すことが可能であると考える傾向があった(Ospovat 1981)
。し
かし、より深い思索と、生物の構造と機能における多数の欠陥についての理解―おそらく
とくに、完全性を産み出すメカニズムが絶滅と両立しないこと―が、彼の選択に対する主
張を弱めることになった。それゆえ、彼が『起原』で要求したことは、
「自然選択は、各々
の生物各々の生き物を、生存闘争しなければならない同じ土地に棲んでいる他の生物と同
じくらい完全かあるいはわずかにより完全にするだけだ」
(p.201)ということであった。
今日われわれは、自然選択にとって完全さを実現すること、あるいはもっと現実に即して
言うならばいくらかでも完全さに近づくことを不可能にする多くの制約が存在することを
一層良く知っている(Gould and Lewontin 1979, Mayr 1982a)
。
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ダーウィンの5つの理論のそれぞれ異なった命運
今では、上で議論したダーウィンの5つの理論それぞれのその後の命運を簡潔に述べる
ことができる。進化それ自体は、共通の由来説と同様にごく早く採用された。
『起原』の出
版から 15 年以内に進化論者にならなかった有能な生物学者はほとんどいなかった。
それに
対して漸進説は闘わねばならなかった。なぜなら、個体群思考は、ナチュラリストでない
ものが採用するにはとても難しいような概念であったからだ。今日でさえ、断続平衡の議
論においては、個体群思考の核心をいまだに理解していないことを示す著述も一部見受け
られる。重要なのは個体の突然変異の大きさではなく、進化的に新しいものの導入が、個
体群へのそれらの漸進的な取り込みによって進むのか、それとも新種や高次分類群の創始
者になる 1 つの新個体の産出によって進むのかという問題である。
種の増加の理論が、最初にウォレスとダーウィンによって言明されたように進化理論の
本質的で実際不可欠な要素であるということは、今日当然とみなされている。しかし、種
の増加がいかに進むのかは今だに論争の的になっている。異所的種分化、とくにその特殊
な型である周縁的種分化(Mayr 1954,1982c)がもっとも一般的な様式であるということは、
多くの人々に想定されている。植物においては、倍数体による種分化が一般的であるとい
うことも同様に受け入れられている。同所的種分化や側所的種分化のようなその他のプロ
セスがどれほど重要なのかは、なお論争がつづいている。
最後に、自然選択についてだが、現代の生物学者がダーウィン主義について語るとき通
常それが意味するこの理論の重要性は、今日ほとんど誰もがしっかりと受け入れている。
それに対抗する理論―終局目的論、新ラマルク主義、跳躍説―は徹底的に論破されてしま
ったので、もはや本気で議論されることはない。現代の生物学者がダーウィンとおそらく
もっとも異なっているところは、ダーウィンと初期の新ダーウィン主義者がしたよりもは
るかに大きな役割を確率論的プロセスに割り当てていることにある。偶然は、自然選択の
第 1 段階、つまりこれまでにない遺伝的に新規の個体の産出に役割を演ずるだけでなく、
それらの個体の繁殖成功を決定する蓋然論的プロセスでも役割を演ずる。
にもかかわらず、
1859 年と 2004 年の間にダーウィン理論になされたすべての修正を見ると、ダーウィンの
パラダイムの基本構造に影響を及ぼすような変化は一つもないということが分かる。ダー
ウィン・パラダイムは誤りが証明され何か新しいものによって置き換えられねばならない、
という主張を正当とする理由は何もない。1859 年のダーウィンが 145 年後にもほぼ妥当と
みなされるようになったことは、ほとんど奇跡のように私の心を打つ。そして、この並外
れた安定性のために、ダーウィン・パラダイムは生物学の哲学の正当な基礎として、また
とりわけ人間の倫理の根拠として広く受容されていることが認められるのである。
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