2016 年 3 月 6 日(日)主日礼拝説教 『ラザロの甦り』井上隆晶牧師 詩編 88 編 9~19 節、ヨハネ 11 章 17~27、38~44 節 ❶【ラザロの死】 ベタニアの村にラザロという人がいました。ラザロとは「神はわが助け」とい う意味です。ヘブライ語の「エレアザル」という名前がギリシャ語化した名前 です。ラザロにはマルタとマリアという姉妹がいました。姉妹たちは「主よ、 あなたの愛しておられる者が病気なのです」とイエス様に使いを出しますが、 イエス様は「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神 の子がそれによって栄光を受けるのである。 」と言って、すぐに出かけようと せず、二日ほど同じ所に滞在してからベタニアに向かいました。他の福音書で は遠くに離れていても言葉ですぐに癒した例があるのに、なぜ、イエス様ラザ ロの病をすぐに癒さなかったのでしょう。 「わたしがその場に居合わせなかっ たのは、あなたがたにとって良かった。あなたがたが信じるようになるためで ある。 」 (ヨハネ 11:15)とあります。神は祈りを聞いてもすぐには行動され ません。わざと動かないのです。彼らに悲しみを与えるのは、神が無力だから ではなく、死や病を取り除くことができないからでもありません。神はあえて 「病、悲しみ、苦しみ、死」をこの世に残されます。それがあっても信じるこ との方が大切であることを教えるためです。目的は 15 節にあるように「信じ るようになるため」です。もし、それらの悪(病、悲しみ、苦しみ、死)が速 やかに取り除かれたら、人間は高慢になって、神を求めず、信じなくなるでし ょう。イスラエルの民が約束の地に入った時、神様はあえて「異民族」を一度 に追い出しませんでした。 「あなたの神、主はこれらの国々を徐々に追い払わ れる。あなたは彼らを一気に滅ぼしてしまうことはできない。野の獣が増えて、 あなたを害することがないためである。 」 (申命記 7:22)どんな状況でも、信 じることこそ大事なのです。そうでないと、状況にいつも振り回されるように なるでしょう。それこそ状況の奴隷だからです。 ❷【死のリアルな様相】 イエス様一行がベタニアに到着したのは、ラザロが死んで既に四日たち、墓に 葬られた後でした。ユダヤの気候が暑いので、埋葬は死後できるだけすみやか に行われました。葬儀に出る人は多い方がよく、葬儀は七日間続き、最初の三 日間は泣く日と定められていました。その後三十日間喪中が続きました。当時 の人たちは、死人の霊魂は、死体にもう一度入るために墓の周りを四日の間さ まようが、四日目には、霊はどこかに去ってしまうと考えていました。ですか ら四日というのはもう絶望的な数字だったのです。多くのユダヤ人が姉妹たち 1 を慰めるために弔問に来ていました。イエス様が来られたとの知らせを聞いた マルタは出迎え「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死なな かったでしょうに。…しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はか なえてくださると、私は今でも承知しています。 」 (21~22 節)といいました。 マルタはおそらくこう言いたかったのです。 「知らせをお受けになった時、ど うしてすぐに来てくれなかったのですか。でも、あなたがどんなことを願って も、今でも神はかなえてくださるでしょう。 」これは彼女の口を通して語った 教会の信仰告白です。イエス様は言われます。 「あなたの兄弟は復活する」 。す るとマリアは「終わりの日の復活の時に、復活することは存じています。 」 (24 節)と答えます。旧約聖書の時代は、まだ死後の命についての信仰ははっきり していませんでした。初期には、善人も悪人もすべて陰府の国(シェオル)に 行くと信じていました。陰府の国は死者の国であって、地獄(滅びの国)では ありません。人々はそこでぼんやりとした、力も喜びもない沈黙の生活を生き、 すべての人は忘れ去られると考えられていました。 ●詩編 88 は死に近づいた人が詠んだとてもリアルな祈りです。 「私の命は陰府に近づきます。穴に下る者のうちに数えられ、力を失い、死人 の中に放たれ、墓に横たわる者となりました。彼らは神の手から切り離されま した。あなたは地の底の穴に、深い淵に、暗闇の地に私を置かれます。あなた は私から親しい者を遠ざけました。私は閉じ込められて出られません。あなた は死んだ者に奇跡を行われるでしょうか。死んだ人の魂が起き上がって、あな たを讃美するでしょうか。あなたの憐れみが墓の中で伝えられるでしょうか。 主よ、朝毎に私はあなたに祈ります。なぜ、私の魂を突き放し、顔を避けられ るのですか。今は死を待ちます。愛する者も、友人も私から去って行きました。 今、私に親しいのは暗闇だけです。 」 (詩編 88:4~18、意訳) しかしバビロン捕囚以後、神は命であって、必ず死を滅ぼし、人から涙をぬぐ って下さる、神は必ず陰府から人を救い出し、神を礼拝させて下さるという復 活信仰が芽生えてきます。 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、つ いには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をも って私は神を仰ぎ見るであろう。 」 (ヨブ 19:25~26)イエス様の当時、既に この復活信仰はありました。マルタも終わりの日に復活して新しい生命をもら えると信じていたのです。 ❸【復活は死後始まるのではない】 このマルタの考えに対してイエス様は「わたしは、復活であり、命である。私 を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬ ことはない。このことを信じるか。 」 (25~26 節)と言われます。イエス様は 「自分が復活であり、命である」と断言されます。マルタは、復活は来世です べての人に起こると思っていました。しかしイエス様はそうではなく、復活は 2 人間が自然に持っている能力なのではなく、キリストと一体になった者に起こ るのであると言われたのです。キリストが復活であり、唯一の命だからです。 キリストと一体になった者は、復活し命を持つのです。いくら来世に行っても、 キリストから離れていたら復活しませんし、命もないのです。キリストと一体 になるのは、この世から始まりますから、復活もこの世から始まり、来世で完 成するのです。だから主は「私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を 信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 」と言われたのです。あなたは今、 復活していますか。生きていますか、死んでいますか。 ❹【あなたの石を取りのけなさい】 この後、イエス様はマリアや多くの人が泣いているのを見て「心に憤りを覚え て、…どこに葬ったのか」 (33~34 節)と言われたと書かれています。墓に来 られた時も「心に憤りを覚えて」とあります。なぜ、イエス様は憤られたので しょう。死の力が及ぼす絶望の力を怒られたのではないのでしょうか。イエス 様は「涙を流されました。 」神は人間の死を泣かれます。神は死を創造されま せんでした。自分が造らなかったものが、今、人を支配し、破壊しているのを 見て、主はどれだけ悲しまれたことでしょう。人間は死に慣れましたが、神は 慣れないのです。決して慣れないのです。 「ああ、こんなものだ」と思われな いのです。私たちはあまりにも罪と死に麻痺しています。私は『シンドラーの リスト』という映画を見て、初めてユダヤ人が虫のようにあっという間に殺さ れるの見て、心が高ぶり憤りを覚えました。人間なのに、そう扱われていない 姿に憤りを感じたことを今でも覚えています。人間の命は、神の命と結ばれ、 生き生きと生きるはずでした。死を作り出したのは悪魔です。神の創造された 命を毎日、死が破壊しています。それでも神は毎日毎日、命を生みだします。 悪魔はそれを次々と破壊しようとします。そして神が造られたこの世界に絶望 と暗黒と崩壊が蔓延しています。それを止めるためにキリストは来たのです。 神は決して死に負けません。 イエス様は墓に来られます。墓は洞穴で、石でふさがれていました。やがて御 自分が横たわり、死と、悪魔と地獄と対決することになる場です。この墓はこ の世の象徴でもあります。イエス様は命じます。 「その石を取りのけなさい」 (39 節)マルタはいいます。 「主よ、四日もたっていますから、もう臭います。 」 イエス様はいいます。 「もし、信じるなら、神の栄光が見られると、言ってお いたではないか。 」神の栄光とは神の現れです。神は本当におられるという体 験です。神の業、神の栄光、神の現れは、信じて行動することによって現れ るのです。だから私たちも石を取りのけましょう。マルタの信仰は、石に潰さ れた信仰でした。私たちもいろんな石を自分の目の前に置いていませんか。そ れに潰されていませんか。 「もう駄目だ、いろいろやったけど無駄だった」と、 自分の可能性に蓋をしてはいませんか。知識では自由を手に入れることはでき 3 ません。知識が多くなると、よけいに怖れに支配され不自由になります。先日 の、人権侵害公開学習会でも「病気の知識が増えると、そういう目で人を見て、 レッテルを貼ってしまい、そのままの人を見られなくなる」とAカウンセラ ーが言っていました。その通りです。自分にも他人にもレッテルを貼ります。 信じることが大事です。まず、石を取りのけなければなりません。それは人間 の業です。信じるのは人間の業だからです。その後は神の業です。人々が石を のけると、イエス様は大声で言われます。 「ラザロ、出て来なさい!」イエス 様の声が、墓の中に響きます。死の世界、固くなった自分、恐れやこの世の知 識でがんじがらめに縛られている自分に響きます。 ●昔の祈祷書はこう書いています。 ・ 「主よ、息のない者は、あなたの声を聞いて直ちに生きる者となり、死から 復活してあなたを讃美しました。 」 ・ 「地獄は言います。ラザロよ、何をぐずぐずしているのですか。あなたの友 であるイエスは外に立って出て来なさいと呼んでいます。すぐに行きなさ い。私も楽になります。私はあなたを飲み込んだ時から、吐き出すように促 されています。 」 ラザロは死んで四日も経ち、陰府に行き、そこで無数の死んだ者たちに会った でしょう。しかし、墓の外で命であるキリストが呼んでいるのです。この声を 聞く者は、墓から出て行くことが出来ます。キリストの言葉は、あなたを死か ら命へ、闇から光へと出すことができます。それともあなたは死の友、暗闇と 悪魔の友になりたいのですか。キリストはラザロを友と言われました。あなた もキリストの友なのです。友なら、親友のキリストの言葉を信じて出て行きな さい。命は外にあります。命は後ろにはありません。前にあります。信じて、 前に出ることにあります。 ●林(イム)牧師は、創立 98 年になる御坊教会に赴任しました。当時 20 名の 信徒でしたが、8000 万の幼稚園を建て、3000 万かけて古い会堂を改修し、6000 万かけて三階建ての牧師館を新築しました。成長する教会の特徴は、伝道を止 めないことだといいます。私たちは小さいけれど、神様は大きい。教会の業は まず信仰によって行うことだ、お金は最後だ。この世はお金がまず先だ。目標 を決めることだ。自分の状況に安住し、満足してはいけない。固まってはいけ ない。伝道する教会に神は共にいて下さる。 御坊教会と同じようになれるかどうかは分かりません。最初から条件が違うか らです。でも信じるなら、別の栄光を見ることが出来るでしょう。 「もし、信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。 」栄 光を見たくはありませんか。私は見たいです。神を見たい。キリストの声に従 う時のみ、命があるのです。栄光も命は後ろにはありません。前にあります。 それを信じて、キリストにいきましょう。 4
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