THE GOOD FIGHT Why Liberals—and Only Liberals– Can Win the War on Terror and Make America Great Again By Peter Beinart HarperCollins 288 pages $25.95 1 はじめに 著者のピーター・ベイナートは 1971 年生まれの大変若いジャーナリストである。イェー ルで教育を受け、オックスフォード(ローズ奨学金)で国際関係論の修士を得て、リベラ ルな時事週刊誌ニューリパブリック誌の編集長を 2006 年初めまで 7 年間務めていた。熱心 にイラク侵攻を支持していたことで知られている。本書は若い世代が戦後の民主党の思想 的潮流を回顧して、イスラム全体主義と戦うことをリベラル派の最大の外交課題に挙げ、 それに向けた指針をトルーマン時代のマーシャル・プランを支えた冷戦リベラル派の思想 に求めようとした試みである。ベイナートの主張はイスラム原理主義のテロとは軍事的に 対抗する一方で援助によってイスラム圏での民主主義を拡大し、併せてアメリカ国内での 経済不平等の縮小を図るというもので、共和党ともリベラル左派の考え方とも異なること が副題からもうかがわれる。 2 マーシャル・プランと冷戦リベラル 終戦直後の民主党の主導権を握ったのは容共的なニューディール世代の商務長官ヘン リーウォレスであった。しかし、1946 年の中間選挙で大敗し、共和党が両院を支配するこ とになった。この危機の中から 1947 年ワシントンのウィラード・ホテルに参集したヒュー バート・ハンフリー、自動車労連のルーサー、ハーバードの歴史家シュレジンジャー、エ レノア・ルーズベルトと神学者ラインホルト・ニーバーなどから、全体主義に反対するリ ベラルの団体 ADA(民主的行動のためのアメリカ人)が誕生する。共産主義のゲリラの 脅威下にあったギリシャ王制を支援するか否かで民主党が割れるという時代である。1947 年マーシャル国務長官はハーバードの卒業式で欧州援助計画を打ち上げる。ウォレスは マーシャル・プランを反動的な政府を支持するウォール街を益するだけと批判し、新党で の大統領選出馬を図ることになる。しかし、ADA からみても政党人トルーマンの政権は 死に体だった。1948 年の年頭教書は国民医療皆保険(これは今日に到るまで実現してい ない)、最低賃金の引き上げ、年金の引き上げ、課税最低限の引き下げと企業課税強化の 税制改革と公民権への取り組みなどほとんど ADA の提案を盛り込んだものとなった。ト ルーマンにとって幸運だったのは労働組合の下層を占めるカトリック信者(アイルランド 移民を想起せよ)が東欧におけるスターリンのカトリック弾圧によってウォレス支持から トルーマン支持に回ったことである。トルーマンは予想を覆して僅差で共和党のデューイ 候補を破る。 ベイナートは冷戦リベラリズムが公民権問題を共産主義との戦いの中に位置づけたこと に注目する。しかし、これは南部白人層の民主党からの離脱、共和党の南部支配という伏 線となる。1957 年 10 月のソ連のスプートニク打ち上げの衝撃はアメリカの威信の再建、 1 教育制度改革などリベラル派をナショナリストに変えていく。ジョン・ケネディは国内の 貧困が共産主義との戦いで障害となることと、ニーバー的な「私的な利益から公共的な犠 牲へ」の価値観の転換(リベラルが「価値観」をリードしていた時代だった)を国民に求 め、テキサスのジョンソンを副大統領候補に選ぶ。キング牧師ほかの公民権運動家がアト ランタで逮捕されるという事件が 1960 年 10 月に起こる。ニクソンは公民権運動に理解 を示した人物であったが、南部の白人票を恐れて介入しなかったの対し、ケネディはキン グ夫人と連絡をとり、キング牧師を保釈させる措置を取った。この件は白人メディアでは 報道されなかったが、黒人メディアで大きく取り上げられ、ニクソン支持(共和党はリン カーンの党である)だったキング牧師の父キング・シニア師は直ちにケネディ支持に回り、 わずか 12 万票差でケネディが 1960 年に勝つ。1963 年のケネディ暗殺でジョンソンの民 主党は両院で記録的な大勝を得て、公民権(黒人の選挙登録)法案を通過させる(本書で は触れられていないが連邦政府管掌高齢者医療保険、メディケアと低所得者医療扶助、メ ディケイドも発足する)。しかし、ケネディ・ジョンソンのヴェトナム戦争への介入がマッ カーシズムによる国務省内のアジア問題の専門家の追放によって、いわば目隠しされた状 態での意思決定だったという(ハルバースタムの作った神話をベイナートが借用したもの で、かばいすぎ)。 3 ニューレフトと民主党の退潮 ベトナム反戦と公民権での学生と黒人運動の過激化によって 1966 年の中間選挙で民主 党は大敗、ジョンソンの「偉大な社会」は実質的に終焉し、民主党の長期的な低迷が始ま る。1968 年南部民主党のジョージウォレスが南部の白人票と過激化する新左翼に反感を 持つ白人労働者を対象に大統領選に立候補、ニクソンが奇跡的なカムバックを果たして共 和党の指名を受ける。一方、新左翼の意向を体したミネソタの上院議員ユージン・カッカ シーはニューハンプシャーの予備選で 42% を獲得し、ジョンソンは予備選から降りるが、 これによって白人労働階級票は離れていく。「教育のあるものがわれわれに票を入れる」 とマッカシーが愚かにも自慢したとベイナートは書いている。こうした状況でシュレジン ジャーなどはロバート・ケネディ(赤狩りのジョセフ・マッカシーの助手を勤めた経歴を 持つ)を担ぎ、カリフォルニア予備選で勝利するが 1968 年 6 月暗殺される。結局指名を 受けたのは北ベトナム爆撃に反対し、ジョンソン政権内で完全に干された存在だった副大 統領のハンフリー。しかし、わずか 50 万票差で敗れる。前回選挙に比べ、1500 万票がニ クソンとウォレスに流れたことになる。これによって、冷戦リベラリズムは左右両派から の攻撃よって崩壊する。ベトナム戦争と国内の人種騒動、経済的不平等の顕在化によって リベラル派はフルブライトの言うところの「病める社会」となったアメリカに自信を喪失 する危機に陥いる。こうしたなかで、唯一ヘンリージャクソン上院議員(ワシントン州だ からボーイングの支援を受ける)のがタカ派であると共にニューディーラーという冷戦リ ベラリズムを固く維持した人物で、左からは戦争屋として、右からは公民権派として攻撃 された。彼にベイナートは惹かれているように思われる(パールやウォルフォヴィッツな どのネオコンが彼の下で育ったことにベイナートは触れていない)。 1972 年は新左翼を糾合して民主党を支配するようになったサウスダコタの上院議員ジョー ジ・マッガバンが指名を受ける。党大会の代議員は女性、黒人、上層中産階級が主流とな 2 り、白人労働者階級は民主党から流出してしまった。 「アイデンティティーの政治」は両刃 の剣であったことになる。ベイナートは公民権運動はアメリカの力を強めるのではなく、 黒人の力を強めるだけに終わったと総括している。マッガバンは予想された通りに大敗す る。しかし、ウォーター・ゲート事件でニクソンが辞任、1974 年の中間選挙では民主党が 大勝する。平均年齢 40 歳の若手議員、ネオリベラルと呼ばれる層が台頭する。1976 年に は外交政策に主要な問題がなく、ジョージア州知事のカーターが大統領となる。カーター 政権はイデオロギーの欠如というネオリベラルの浅薄さを露にすることになる。人権外交 の展開を図るが、軍縮交渉でソ連の協力を得るために親米政権内の人権抑圧のみを強調す ることになる。1979 年 12 月にソ連はアフガニスタンに侵攻、イランでシャーの政権が倒 れ、イスラム原理主義政権が成立する。カーターは大きな使命を持ちあわせず 1980 年レー ガンにカーター民主党は大敗を喫する。 4 民主党指導者会議(DLC) 「左派は墓場に再結集し」、調整型政治家のモンデールが 1984 年に指名される。この ときには民主党のジャクソン派と南部白人層は共和党に鞍替えしていたので支持基盤は縮 小していた。しかし、最大の問題はリベラルがアメリカの国内外における使命を語る言葉 を失っていたことである。これに対して「自信喪失の時代は終わった」と宣言したレーガ ンが圧倒的な勝利で再選される。民主党の反省会が始まる。ベイナートは種々のマイノリ ティを結集した、特に黒人層に偏ったことが問題だと考えているようだ。こうしたなかで 州知事、上院議員から構成された LDC が設立され、退潮が著しい南部への訴えかけ、タ カ派、文化的に保守的な白人層の獲得が民主党の生き残り策とした。テネシーの上院議員 アル・ゴアを候補者に選ぶが、予備選で南部では善戦したが、今や高等教育層、文化的リ ベラル、ハト派が主流となった民主党が 1988 年に指名したのはマサチューセッツ州知事 のデュカキスであった。デュカキスを ABC のピーター・ジェニングスは「世界で一番ス マートな事務官」と呼んだ人物であり、イデオロギーとは無縁であった。ベイナートは選 挙結果にも触れていない。 1989 年 LDC の委員長にアーカンソーのクリントン知事が選ばれ、全国行脚によって知 名度を高めた。クリントンの 1992 年の勝利の背景には冷戦の終結により外交政策に争点 がなかったこと、 「成長の美名の下での経済的公平の先送りは許さない」という経済ポピュ リズム、黒人層に対し権利ではなく、責任を求める人種政策があった。クリントン大統領 の一期目の安全保障では民主主義の拡大」政策が取られ、二期目ではさらにボスニアへの 介入などタカ派的な積極策が取られた。 5 9.11 後の外交政策 (ベイナートは 1 章を割いてアルカイダの成立史とハナ・アレントに依拠してジハード をイスラム全体主義とする議論を展開しているが省略する)。同時テロの直前までラムズ フェルトはアルカイダを軽視し、最大のテロの脅威はサダムフセインだと語っている(こ 3 れはおろかなイラク学者ローリー・ミルロイの影響である1 )。この背景にはテロは主権国 家が後ろ盾にない限り有効でないという考えが強固に存在していた。テロ後ラムズフェル トはイラクとの関係を直ちに調査させることになる。しかし、ブッシュはパウエルの進言 を入れ、アフガニスタン攻撃を決定するが、気迷いがあった。ブッシュ政権がイラク侵攻 に早くからこだわった理由はなにか。第一にサウジに代る原油供給国であること、第二に 国連制裁で弱体化していること、第三にイラクの民主化が中東のモデルとなること。しか し、ブッシュは一、二には触れず、第三のみに言及した。イラク侵攻はその後の占領政策 を欠いていたが2 、これは共和党の「国づくりを忌避する」根深い外交思想に原因がある として、冷戦リベラルのマーシャルプランとレーガンの反共軍事支援との違いを強調する。 ベイナートはイラク侵攻に反対し、急成長するウェブサイト「ムーブオンピース」など の「反帝国主義者」をヘンリー・ウォレスの子孫、あるいは「意気地なしリベラル」3 と してとりあげ、民間人を殺傷するから敵の爆撃は認められないとするような考えかたは現 実の選択を回避するものだと批判する。2004 年の選挙では民主党はイラクを争点とする ことを避けたために、多くのリベラルは棄権した。さらに拙いことに民主党は安全保障政 策についても語らなくなった。ベイナートはリベラルが自身の「偉大な国家の使命」4 を 持たないがゆえに脆弱だと主張する。ケリーが敗れたのは白人労働者階級、特にその女性 票を失ったことである。しかし、大統領選挙後に情勢は変わり、「反帝国主義者」はもは やマージナルな存在ではなくってきた。ヴェトナム戦争がリベラルを反戦にしたように、 イラクはリベラルを対テロ戦争に反対するようにしてしまっている。 イスラム全体主義との戦い 6 グローバルなジハードに対する新たな戦略が求められているとベイナートは主張する。 ブッシュを敵視するだけで、「反イスラム全体主義を良きアメリカ、良き世界への希望の 中心に置かなければ、9.11 以後のリベラルはリベラリズムの最良の伝統であるアメリカの 心情からかけ離れるというリスクを犯すことになる」と警告する。まず、グローバル化し た世界での全体主義に対するリベラリズムの対応は「より拡大された自由(リバティ)と 機会の均等という自由(フリーダム)である。そのためには東アジアの二倍の中東の女性 の文盲率を引き上げることである.... 根本的な経済改革への支援が必要になる... 独立した 司法、自由な新聞、複数政党制、最終的には自由な選挙によってムスリムが暴力に訴える ことなく不満を表現できるようになる」。マーシャルプランでは国家予算の 15% が援助に 支出されたが、現在では先進国でも最低の 1% 以下に過ぎない。したがって、アメリカの 気前良さが求められることになる。そして、マーシャルプランと同様にイスラム国家に自 主性を持たせた援助が望ましいと主張する。アメリカと富裕な同盟国は国連、世銀、IMF などと共に「われわれはアラブ諸国の改革の努力に資金を援助する用意がある」と宣言す ればよいとベイナートはいう。イスラム国家がこのような援助を受け入れるだろうか。も 1 Benjamin, Daniel and Steven Simon The Next Attack: The Globalization of Jihad Hodder and Stoughton, 2005 p. 144 2 Miller, Christian, Blood Money: Wasted Billions, Lost Lives, and Corporate Greed in Iraq Little, Brown and Co., 2006 を取り上げる予定である。 3 ”doughface liberalism”はシュレジンジャーが「全くやましさがないときにのみアメリカは敵に戦うべき だ」とする考え方を揶揄するために創った言葉。 4 ”national greatness vision” 4 し受け入れなければ(マーシャルプランを受け入れなかったソ連のように)「受け入れ拒 否は国民の広範な不満に火をつけ、世界でもっとも抑圧的な地域でそのような不満は改革 の原因をさらにますことになるから、この努力はむだではない」という。これはナイーブ な考えだとベイナートも認めるが、気前良さと人間性にたって得られた自由のみが聖戦を 打破できると言い切る。さらに、崩壊国家に巣食うジハーディストを駆逐し、国家の再建 のために軍を駐留させる必要があるとし、「今日のリベラルを分かつ中心的な問題はリベ ラルな価値観がアメリカの右翼によってと同様にイスラムの世界から起こった新たな全体 主義によって危険にさらされていると考えるか否かである。もしテロとの戦いがわれわれ の戦いでもあるとするなら、リベラルは道徳的に不完全であったも、テロと戦う経済的、 政治的な努力と同じく軍事的な努力も支持しなければならない」というのがべイナートの 結論的な主張である。 しかし、これではリベラルの主張として片手落ちと考えたのか、ベイナートは最後に 2 点を指摘する。まず、今日のアメリカの民主主義にはシュレジンジャーの「行動における 共同体」5 が欠けていることである。第二次大戦後とヴェトナム戦争の間の冷戦リベラリ ズムを産んだ時代は「市民の政治参加の黄金時代」6 と呼ばれていた。アメリカ人の投票 率は高かったし、議員とも接触し、選挙運動にももっと関わっていた。しかし、黒人差別 がこの輝かしい時代に影を投げかけ始めていたが、この時代の終わりには南部にまで民主 主義の精神は広がりを見せ、経済的な平等も進んでいたという認識を示す。次にアメリカ における不平等の拡大傾向に警鐘をならす7 。この 2 点の相関を証明することは難しいと 思われるが、1960 年代以降、企業の影響力が圧倒的になり、政府から得られるものが少な くなると低所得層の投票率は傾向的に低下するという悪循環に陥っていったとしている。 ハーバードの政治学者パットナムの「われわれはますます投票所には行かなくなり、まと まりがなく、与えることも、信頼することも、公的な事柄に時間を費やすこともなくなっ ている...「われわれ」は確実に縮小している」という言葉を引用している。国家安全保障 は経済的保障とワンセットであるというのがベイナートの基本的な考え方である。 5 ”communion in action” ”the golden age of civic engaement” 7 Hacker, Jacob, The Great Risk Shift, Oxford UP, 2006 イェールの政治学者ハッカーの典型的なリベラ ルの分析に基づいている。 6 5
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