二度の再発、二度の無菌室を乗り越えて

~私からのメッセージ~
からのメッセージ~ 上野 創さん
「二度の
二度の再発、
再発、二度の
二度の無菌室を
無菌室を乗り越えて」
えて」
アストラゼネカ株式会社 『がんになっても』 http://www.az-oncology.jp
上野 創(うえの・はじめ)
1971 年生まれ。東京都育ち。94 年、早稲田大学
政経学部政治学科卒業。朝日新聞社入社、2007
年5月から東京本社・社会グループ員兼天声人語
補佐。
1997 年に睾丸腫瘍・肺に転移、退院後も二度再
発。 2000 年 10 月から約1年間、朝日新聞神奈川
版で、闘病体験の手記「がんと向き合って-一記者
の体験から」を連載。同じ題の本も出版し、第 51
回、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
【目 次 】
Vol.1 出会いのある
出会いのある仕事
いのある仕事にひかれて
仕事にひかれて新聞記者
にひかれて新聞記者に
新聞記者に
東京育ち、のびのびと/駆け出しの長野支局で松本サリン事件とぶつかる
Vol.2 26 歳で病気の
病気の発見、
発見、思いもかけず
風呂で異常に気づく/ワンクッション置く告知に医師の配慮知る/
特異な体験その一、精子の冷凍保存/特異な体験その二、手術直後の病室で入籍
Vol.3 抗がん剤治療
がん剤治療に
剤治療に託した肺転移
した肺転移
睾丸腫瘍発見時にはすでに転移/「今夜が峠」
Vol.4 闘病を
闘病を通じて感
じて感じた、
じた、思った、
った、考えた
副作用には負けたくない/妻に普通の結婚生活を贈りたい/
胸に響いた同病経験者からのひと言ひと言/医療には不確定なこと多い
最終回 がんを経験
がんを経験して
経験して得
して得たもの
家族の支えは大事、だが笑顔の定期便でいい/鈍感な強者の自分にきづく
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Vol.1 出会いのある
出会いのある仕事
いのある仕事にひかれ
仕事にひかれ新聞記者
にひかれ新聞記者に
新聞記者に
■東京育ち
東京育ち、のびのびと
――上野
――上野さんは
上野さんは東京生
さんは東京生まれの
東京生まれの東京育
まれの東京育ちだそうですね
東京育ちだそうですね。
ちだそうですね。
それがいちばん困った質問です。正確にいうと、生まれて数カ月、名古屋にいたはずなんです。た
だ、もちろん記憶もないし、大学を卒業して朝日新聞の長野支局にいくまで、ずっと東京だったもので
すから、東京育ちということで・・・。
――小学校
――小学校から
小学校から中学
から中学、
中学、高校へかけて
高校へかけて、
へかけて、つまり少年時代
つまり少年時代から
少年時代から思春期
から思春期にかけての
思春期にかけての日々
にかけての日々は
日々は、どういうものだ
ったのですか。
ったのですか。
理屈っぽくて、けっこう扱いにくい子供だったのではないかと思います。特別、勉強の出来がよかった
わけでもないし、運動に秀でていたというわけでもありませんね。ただ本を読むのは好きでしたし、体を
動かすのも好きでした。だから、のびのびと過ごして、引きこもりもなく、大きな怪我や病気や挫折もな
く、わりと平和に過ごしていました。
――大学
――大学を
大学を 卒業して
卒業して新聞記者
して新聞記者を
新聞記者を 選ばれるわけですが、
ばれるわけですが、その理由
その理由はとの
理由はとの質問
はとの質問にはどうお
質問にはどうお答
にはどうお答えになりま
すか。
すか。
毎日、違うことができる、違う出会いがあるというイメージがあったので、そういう仕事をしたいという
理由でした。ずっと同じ人間関係のなかで、まったく同じ業務を定年まで勤めるという仕事はあまり向
かないだろうと思っていました。
――いつごろから
――いつごろから新聞記者
いつごろから新聞記者を
新聞記者を志したのですか。
したのですか。
実は、就職活動の直前まで、ずっとアルペンスキーをやっていたものですから、ろくに勉強もしない
で運動ばかりの日々でした。いまの就職活動ではちょっと考えにくいと思いますが、3 年生の終りの 3
月末まで雪山にいたんですね。4 年生の 4 月になって、みんながとっくに走り出しているというので、自
分も何か考えようということになり、具体的に職種を調べていったら、おもしろそうで、自分に合いそう
なのが商社マンか新聞記者という結論でした。どっちかにいけたら幸い・・・という程度の感覚で、周到
な準備も、高い志といったものもありませんでした。
■駆け出しの長野支局
しの長野支局で
長野支局で松本サリン
松本サリン事
サリン事件とぶつかる
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――駆
――駆け出しは長野支局
しは長野支局ということで
長野支局ということで、
ということで、三年でしたか
三年でしたか。
でしたか。
二年半です。
――それで
――それで横浜支局
それで横浜支局へ
横浜支局へ移られました。
られました。警察担当グループの
警察担当グループの事件記者
グループの事件記者として
事件記者として、
として、そろそろ脂
そろそろ脂がのり始
がのり始め
るころだったと思
るころだったと思いますが、
いますが、病気が
病気が見つかりました。
つかりました。
そうでした。長野支局では松本サリン事件を皮切りに、さまざまな事件や裁判の担当をしました。い
わゆる事件屋、事件記者できたものですから、横浜支局でも 自然な流れで神奈川県警を担当し、
サブキャップの立場となって、これからいろんな記事を書けるぞというような気になっていたところでの
病気発見でした。
――長野時代
――長野時代の
長野時代の仕事で
仕事で一番記憶に
一番記憶に残ることといえば、
ることといえば、やはり松本
やはり松本サリン
松本サリン事件
サリン事件でしょうね
事件でしょうね。
でしょうね。
まったくの下っ端でしたので、上司、先輩から右へいけ、左へいけと言われながら、捜査の動きを追
いかける毎日でした。夜討ち、朝駆けはもちろんです。毒ガスで死者多数という大きな事件だったこと
に加え、異常な宗教が絡むということで、特異な取材でした。また犯行に加わった若者や信者の精神
の闇を垣間見る事件でしたし、一方で誤報が提起したメディアの倫理、責任という課題にも直面しまし
て、反省すべき点も含め、非常に勉強になる事件でした。
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Vol.2 26 歳での病気発見
での病気発見、
病気発見、思いもかけず
■風呂で
風呂で異常に
異常に気づく
――病気
――病気のことに
病気のことに入
のことに入りますが、
りますが、異常に
異常に気づかれたきっかけは。
づかれたきっかけは。
睾丸腫瘍という私のがんと、乳がんは、自分で触ってわかる病気と言われていますが、実際、風呂
でなんの気なしに触って異常に気づきました。こぶのようなものがだんだん大きくなっていくのが気が
かりでしたが、忙しさにかまけ、また、場所的に微妙で恥ずかしさもあり、どうしていいのかわからないま
ま放っておいたんです。
――どのぐらい
――どのぐらい放
どのぐらい放っておかれたんですか。
っておかれたんですか。
4 カ月ぐらいだったと思います。
――病院
――病院に
病院に行くべきですが、
くべきですが、部位が
部位が部位ですし
部位ですし、
ですし、行きにくいですね。
きにくいですね。
そうですね、医者に限らず、他人には相談できませんでした。
――それを
――それを押
それを押して病院
して病院に
病院に行ったのは、
ったのは、相当おかしいな
相当おかしいな、
おかしいな、ということだったのですか。
ということだったのですか。
具体的にいうと、会社の定期健康診断があって、最後に問診となりました。女性医師に「何か気に
なることはありますか」と聞かれ、赤面しながら思いきって話したら、「泌尿器科へ」ということだったの
で、近くの開業医を訪ねました。そしたら、大きな病院に紹介状を書くからといわれまして、市立大医
学部の附属病院に行くことになったのです。市大病院で睾丸腫瘍の告知を受けた日に「至急、肺の
レントゲン精密検査を受けよ」という会社の定期健康診断の結果も来て、事態がいっぺんに動き出し
たわけです。
■ワンクッション置
ワンクッション置く告知に
告知に医師の
医師の配慮知る
配慮知る
――睾丸腫瘍
――睾丸腫瘍の
睾丸腫瘍の告知と
告知と診断内容の
診断内容の説明はどういうものだったのでしょう
説明はどういうものだったのでしょう。
はどういうものだったのでしょう。
主治医は最初に「がんです」と言ったのではなくて、「腫瘍ができてます、悪性の可能性が高い」と言
いました。私が「それは、がんということでしょうか」と聞くと、「そうです」との答え。それが告知になりまし
た。どういう告知がいちばんいいかというのは、個人差もあり、永遠のテーマだと思いますが、私にとっ
ては言葉の運びにワンクッションあったのはありがたかった。あとになって思い起こすと、ということです
が。
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――それは
――それは腫瘍
それは腫瘍で
腫瘍で、悪性か
悪性か良性かまだよくわからないが
良性かまだよくわからないが、
かまだよくわからないが、という言
という言い方のことをおっしゃっているので
すか。
すか。
そうではなくて、いきなり「あなたはがんです」と言われなかったこと。こちらのほうから聞き、それに対
して肯定の答えがあったという形のクッションの置きかたですね。今の時代でも、「がん」という言葉は
圧倒的で、凶暴ですから。
――告知
――告知を
告知を受けて、
けて、まずあなたが最初
まずあなたが最初にしたこと
最初にしたこと、
にしたこと、考えたことはどういうことでしたか。
えたことはどういうことでしたか。
当然のことながら、告知は素直に受け入れられませんでした。あの段階で自分が、がんを発病する
などとは夢にも思っていませんでしたから。それこそちょっと診察室に入って出てきたらがん患者にな
っていた。自分は何も変わってないのに病名がくっついて、がん患者になっている。じゃあ何か自分の
なかで大きな変化があったかと言えば、何もないわけです。ですから医師から言われたことを受け止
めようとはしているのですが、実感を伴わない。本当に自分はがん患者なの?と。それが告知を受け
た直後の状況でした。
――考
――考えてみればまだ非常
えてみればまだ非常に
非常に若かったですしね。
かったですしね。
26 歳でした。
――夢
――夢にも思
にも思わない、
わない、というのが当
というのが当り前です。
です。
ほんとうに夢にも、です。カンも悪いのでしょうけれど。
医師の診断結果の説明を聞きながら考えたことが他にもあります。医師のひと言ひと言は客観的事
実を告げているに過ぎないのに、自分の運命がシビアに決められていくように感じ、うろたえました。こ
の先、良くない結果が次々と告げられていくのではないか、という不安も高まり、逃げ出したい気持ちで
した。入院、手術となれば、仕事、買い物、食事、運動と全ての日常の行動が制限される。これまで
の自分は、健康、時間、季節などということについて雑に扱ってきた。行動の自由を意識することも、
健康の価値を考えることもなく過ごしてきた。無知ゆえの「浪費」、ということではないか。自問自答は
限りなく続いたように思います。
――結局
――結局、
結局、入院なさって
入院なさって、
なさって、まず睾丸
まず睾丸の
睾丸の方の手術を
手術を受けられるわけですが、
けられるわけですが、手術は
手術は比較的、
比較的、簡単だっ
簡単だっ
たそうですね。
たそうですね。
そうですね。拍子抜けするほど。しかし悪性度は高く、すでに肺に転移していましたし、それがかな
り広範囲に広がっていて、肺は手術不能ということでしたから、たちの悪いがんだったのだと思います。
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■特異な
特異な体験その
体験その一
その一、精子の
精子の冷凍保存
――ところで
――ところで治療前
ところで治療前に
治療前に精子を
精子を冷凍保存しましたね
冷凍保存しましたね。
しましたね。あなたの将来
あなたの将来のことも
将来のことも考
のことも考えて、
えて、医師から
医師から話
から話があり、
があり、
なさったことだろうと思
なさったことだろうと思いますが、
いますが、病気の
病気の場所が
場所が場所だけに
場所だけに、
だけに、ちょっと特異
ちょっと特異な
特異な体験をされました
体験をされました。
をされました。
そうですね、こういう体験をする人は、あまりいないと思います。抗がん剤治療が不可欠だった私の
場合、副作用で精子をつくりにくくなるということが予測できました。当時、私がお世話になった病院は、
半ばボランティア的に、半ば研究の意味合いも込めて、精子の凍結保存サービスをしていました。維
持費も含め特に費用はとらないけれども、万が一というときの保証もまたできないという条件で、冷凍
保存をすすめ、実施してくれました。子どもができたわけではないけれど、このことに関してはすごく感
謝しています。
ただ、こういう配慮がない医療機関も多いと聞きます。私が経験した十年前と比べても、そんなに大
きく改善されていないようです。病気を治すほうが先決だというのはもちろんですけど、とりわけ若い人
のがんに関しては、男性でも女性でも、退院したあとの人生を考えてくれるとありがたいのです。この種
のことは事前に、適切に対処してもらう必要があります。本人は動転してますし、知識がない場合が普
通で、後戻りできないことでもありますから。
■特異な
特異な体験その
体験その二
その二、手術直後の
手術直後の病室で
病室で入籍
――特異
――特異な
特異な体験と
体験と言えばもう一
えばもう一つ、手術の
手術の直後に
直後に、病室で
病室で奥様からプロポーズを
奥様からプロポーズを受
からプロポーズを受けて、
けて、そこで婚姻
そこで婚姻
届けに署名
けに署名なさいました
署名なさいました。
なさいました。そして、「
そして、「入院
、「入院した
入院した、
した、入籍した
入籍した」
した」というメールを送
というメールを送られご友人
られご友人たちがびっくりさ
友人たちがびっくりさ
れたとか。
れたとか。いまになってみれば、
いまになってみれば、大変思い
大変思い出深い
出深い闘病のひと
闘病のひと駒
のひと駒でしょう。
でしょう。
ええ。手術二日後のことでした。ベッドサイドに立つ彼女が満面の笑顔で「結婚しよう」と言いました。
彼女は、同じ横浜支局勤務の2つ上の先輩記者で、付き合ってはいましたが、結婚なんて話はまっ
たくありませんでした。正直言って驚き、すぐには言葉が出なかった。結婚について私自身は、「35 歳
くらいまでには」という程度のイメージしかなく、なによりがんで手術を受けた直後のこと。この先どうなる
か分からない「不良物件」でもあり、「マジですか? いや、そんな。もう少し落ち着いてから・・・」などと、
もごもご言っていると、「嫌なの」と切り込まれた。「もちろん嫌じゃないよ」「じゃあ、いいじゃない」となっ
て、病室で私たちの結婚は決まりました。もう、いっぺんに人生の転機というか、分岐点がやってきた
ような体験でしたけれども、本当に人生というのは何が起きるのかわからないもんだなというのが、当
時の実感でもありました。同時にピンチに助け船を出してくれた彼女の支えのおかげでこちらも頑張ろ
うという気持ちになり、彼女もまた私との闘病を通じて人生をつくっていくというような、お互いに支え合
って頑張ったという不思議な新婚生活が始まりました。幸い、10年、仲良くやってきました。
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――披露宴
――披露宴をやったのは
披露宴をやったのは結局
をやったのは結局、
結局、一年後、
一年後、双方のご
双方のご両親
のご両親は
両親は病院のなかで
病院のなかで初対面
のなかで初対面されました
初対面されました。
されました。
そうでした。入籍は手術直後で、一週間したら抗がん剤の治療が始まる予定という本当にあわた
だしい中でした。両家の顔合わせみたいなものは病院のロビーで したし、最初の記念写真もロビーで
撮りました。パジャマ姿というわけにもいかず、私は上だけシャツにジャケット、下はどうせ写らないだろ
うというので、パ ジャマのままで、足元はサンダルという格好でした。式と披露宴はその1年後。退院
にこぎつけた後です。
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Vol.3 抗がん剤治療
がん剤治療に
剤治療に託した肺転移
した肺転移
■睾丸腫瘍発見時にはすでに
睾丸腫瘍発見時にはすでに移転
にはすでに移転
―― さて、
さて、肺に転移していたがんの
転移していたがんの話
していたがんの話に移りたいと思
りたいと思います。
います。進行がん
進行がん、
がん、それもがん細胞
それもがん細胞があちこち
細胞があちこち
に広がっていて手術
がっていて手術ができず
手術ができず、
ができず、抗がん剤
がん剤による化学療法
による化学療法しかないとの
化学療法しかないとの診断
しかないとの診断でした
診断でした。
でした。治療では
治療では大変
では大変な
大変な
苦しみをなされたようですね。
しみをなされたようですね。
がんの大変さというのは、一つは精神的な面への影響、打撃が非常に強いということですね。同時
に、副作用による肉体的な負担も非常に大きいわけです。これには個人差があり、おそらく私は影響
が相当ひどく出る体質のようで、相当悩まされました。吐き気が非常に強くて、何度も容器を抱えて
吐き続ける状態でしたし、発熱もひどく、倦怠感とかめまいとか、いろんな副作用に悩まされました。
――無菌室
――無菌室の
無菌室の体験が
体験が二回、
二回、さらに肺
さらに肺に二度の
二度の再発、
再発、それを乗
それを乗り越えての生還
えての生還ということでしたが
生還ということでしたが、
ということでしたが、無
菌室での
菌室での体験
での体験はどんなものだったですか
体験はどんなものだったですか、
はどんなものだったですか、変な質問ですけど
質問ですけど。
ですけど。
普通の体調で入れば、特段なんてことない個室だと思いますが、私は超大量化学療法という形で
入りましたし、治療も半年近くに及んで、精神的にもかなりきつくなっていた時期でしたので、入る前か
ら不安感は強かったです。実際のところ、普通のケースよりかなり多くの抗がん剤を使いましたので、
副作用も激烈に出まして、ほとんど記憶も飛び飛びになるような過酷な状況に陥りました。感染症に
かかって高熱が出たし、肺水腫にもなった。命の危険と精神の危機と、相当に過酷な経験をしまし
た。
――このころですか
――このころですか、
このころですか、うつの嵐
うつの嵐に見舞われたというのは
見舞われたというのは。
われたというのは。
そうですね、無菌室から出てからです。「絶対に病気に負けないぞ」とずいぶん頑張った裏で、絶望
感にさいなまされていった時期がありました。おそらく薬の副作用もあると思いますが、圧倒的な虚無
感の襲来、心が弱気と空しさの嵐に支配された時の怖さを知りました。がんになっただけで十分に精
神的な負担は大きいわけですけど、治療が続くものの必ずしも順調な回復が見られなかったり、先々
への不安が押し寄せたりすると、うつになって普通なのかもしれないな、ぐらいの気持ちで、いまは受
け取っています。当然ですが、精神的にギリギリまで追い込まれるがん患者はとても多いはずです。
■「今夜が
今夜が峠」
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――先
――先ほど、
ほど、死線をさまよわれたという
死線をさまよわれたという趣旨
をさまよわれたという趣旨のお
趣旨のお話
のお話がありましたが、
がありましたが、実際、
実際、医師が
医師が奥様に
奥様に「今夜が
今夜が峠
だ」と告げたことがあったそうですね。
げたことがあったそうですね。
そうです。抗がん剤の副作用に骨髄抑制というのがありまして、白血球や赤血球がつくられなくなっ
てしまう。そのせいで抵抗力が落ちる。それが無菌室に入った理由です。無菌のはずなのに、感染を
起こして「今夜が峠」という事態にまでいってしまった。本人は、熱が 41 度を越えて、それまでの苦しさ
から逃れられたようなぼおっとした状態。夢うつつの中、ふっと楽になっちゃうというような瞬間もありま
した。本人の感じ方としては、このまま死んでいくなら、それはそれできっと楽なんだろうなという状態
でした。あとで聞いた話ですが、白血球が相当減り、肺に水がたまって、感染を示す数値が上がり、さ
らに抗生剤をいくら入れても効かないという事態に陥った私のような場合は多臓器不全、敗血症で死
亡というケースがあるのだそうです。妻と母は医師に呼ばれ、「今夜が峠だ」と告げられました。
――その
――その後
その後、肺の方は二度の
二度の再発を
再発を見、上野さんの
上野さんの闘病
さんの闘病は
闘病は 1997 年晩秋から
年晩秋から 2000 年の夏まで約
まで約 3
年に及びました。
びました。2 度目の
度目の再発は
再発は、ひと際厳
ひと際厳しかったようですね
際厳しかったようですね。
しかったようですね。
手術は内視鏡によるもので、そう辛いものではありませんでした。しかし主治医の手術後の話は脳天
に響きました。「二度、再発したというのは深刻です。かなり厳しいことも予想しておかなくてはならない
でしょう。今後、これが絶対という治療はなくなってくる可能性もあります」。
二度目の再発を機に、ワープロで書いていた日記を手書きに戻しました。下手くそな字は、上野創と
いう人間が生きていた確かな証拠になると考えたからです。おおげさな、と思われるかも知れません
が、二度目の再発は私にとって、それ程の出来事だったのです。
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Vol.4
Vol.4 闘病を
闘病を通じて感
じて感じた、
じた、思った、
った、考えた
■副作用には
副作用には負
には負けたくない
―― 長いあいだの闘病
いあいだの闘病を
闘病を通して心
して心の安らぎとか、
らぎとか、病気と
病気と闘おうという勇気
おうという勇気、
勇気、心の支えとなったものは
何だったのでしょうか。
だったのでしょうか。
家族の支えは非常に大きかったです。告知と同時に入籍すると言ってくれた妻がいるわけですし、
そのあとも両親や妹、妻やその家族、友達もずっと自分を支えてくれているわけですから、「このまま
では死ねない」と思いました。また元気になった姿をみんなに見せることがいちばんの恩返しだと思う
と、何としても生きるぞという気持ちが沸き上がり、奮い立ちました。
もう一つは新聞記者の仕事に戻りたかった。報道の第一線にもう一度戻って、闘病体験をもって、
あるいはバックにして記事を書く。新聞記者には元気で優秀な人が多いが、読んでくれる人は必ずし
もみんな元気なわけでも恵まれているわけでもないので、私のような体験をした者が、報道の現場の
片隅で、何を書くか、書くべきか、紙面をどうつくるか、つくるべきかを改めて考え、ささやかでも貢献し
たいという気持ちが強かったです。
もちろん副作用に負けたくないという気持ちも強いものでした。がんとの闘いというのは多くは病気の
症状との闘いというより、副作用との闘いです。副作用にはいろいろな種類があります。私の場合、先
ほどお話したように、吐き気や倦怠感、発熱、骨髄抑制の末の白血球の低下ということでした。ほかに
もしびれたり、腎臓、肝機能が悪くなったり。それはがんの症状ではなく、それを治すための副作用で
す。さらに、それのもたらす不安感と闘っていくというのが、がん闘病の現実の姿だと考えます。がんと
闘っているのか、味方であるはずの薬の副作用と闘っているのかわからないという側面があるのです。
今日では大きく改善されていると思いますが、10 年前の私のときは薬の量も多く、副作用もばっちり出
てしまう体質だったので、苦しみました。同時に、病気に負けるなら仕方がないけれど、副作用では死
にたくないという強い思いがあったことは強調したいと思います。
■妻に普通の
普通の結婚生活を
結婚生活を贈りたい
――そういう
――そういう精神的
そういう精神的な
精神的な力というか、
というか 、その源泉
その源泉となったのは
源泉となったのは、
となったのは、本に書いておられますけど、
いておられますけど、奥様の
奥様の笑顔
の定期便。
定期便。それがいちばん大
それがいちばん大きかったのでしょうね。
きかったのでしょうね。
そうですね、なんでそんな副作用まで引き受けて、なお治りたいのか、こんな思いまでして元気にな
りたいのかということを突き詰めていくと、退院して日常生活を取り戻したい、妻と一緒に過ごしたいと
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いう願いでした。結婚してから、私は病院でずっと治療、妻は家と職場、病院を行き来という状況に置
かれ、とても普通の日常ではありません。ごく平凡な結婚生活をプレゼントしたいし、それを一緒に味
わいたい、という気持ちが強かったです。
26 歳でがんになって入院して、転移が進んでいて、半年後どうなるかわからないという人はあんま
りいないでしょう。周りはみんな仕事バリバリの中堅の手前ぐらいにいて、ひととおりの仕事に慣れて、
力を発揮し始めるころでした。プライベートの面でも早い人は結婚し、子供が生まれたり、留学してス
キルアップしたりしながら、人生を切り開いていくときなのですが、そういうときに自分一人だけこういう
不遇をかこっているという印象が、ふっと浮かんでくる。昼間病室から何げなしに外に目をやり、夜の
街の灯を眺める。外泊時のタクシーからクリスマス間近な賑わう街を、楽しむカップルを目にする。そ
うした時ほど疎外感や孤独感が募るものです。それが半ば自己憐憫になるのもいやだったし、自分だ
けどうして、という気持ちに埋没していくのもいやだったので、なるべく、考えないようにはしていました。
■胸に響いた同病経験者
いた同病経験者からのひと
同病経験者からのひと言
からのひと言ひと言
ひと言
――安
―― 安らぎとか支
らぎとか 支 えについてもう一
えについてもう一 つ 。同 じ病棟に
病棟に 入院中の
入院中 の同病の
同病の方々との
方々との触
との 触れ 合いはありました
か。
最初の入院のときは同じ病気の人はいませんでした。睾丸腫瘍という病気は十万人に一人か二人、
しかも、40 歳代以上の人はほとんど罹らないとされる病気ですから、同じ病気の人にそうそう行き当
たらないのです。でも、ある時、妻が、同じ病気で、再発も経験して、なお職場復帰している人にコンタ
クトをとってくれて、メールをいただきました。これは大変な支えで、書いてあるひと言、ひと言が胸に
響いてきました。全く知らない人でしたが、同じ経験をしている人の言葉はこんなに強いものかと、驚き
ましたね。
■医療に
医療に不確定なこと
不確定なこと多
なこと多い
――医師
――医師と
医師と患者との
患者との関係
との関係について
関係について何
について何か考えたことはありますか
えたことはありますか。
りますか。
告知を受けた主治医と、化学療法を担当してくれた主治医と、超大量化学療法を受けたときの血
液関係の専門の先生の三人に主としてお世話になりました。私の場合は、間違いなく医師には恵ま
れていたと思います。皆さん、ほんとに患者本位でやってくださっているのがよくわかりましたし、暴言
を吐いたり、投げやりだったりしたことは一度もありませんでした。むしろていねいな説明と、いつでも何
かあったら聞いてください、気になることがあったら言ってくださいという真摯な姿勢と、自分たちは全
力を尽くすので、あなたも頑張ってくださいという、力強い言葉をもらいました。一方で、なかなか患者
は医師にものを言えないというか、質問したくともちょっと考えてしまう。「こう思うんですけれども」と自
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分の気持ちを伝えるのも、おずおずという調子になる。要するに、忙しい医師を煩わせてはいけないな
と思ってしまったり、どこか卑屈になったり、気をつかいすぎたりして、上手なコミュニケーションは本当
に難しいなと実感しました。
―― 関連することでもう
関連することでもう一
することでもう一つ、ご自分が
自分が体験なさった
体験なさった医療
なさった医療の
医療の現実につき
現実につき考
につき考えたことはありませんか。
えたことはありませんか。
がんになって初めてわかったことが色々ありました。医師との関係でいえば、医師にとっては病人を
前にするのが毎日の業務なわけで、何人もの患者を診て、治療して、うまくいく人もいれば亡くなる人
もいるというのが、医師の日常ですね。他方、患者にとっては、がんになって入院するというのは大変
な非日常なわけです。そこからくるギャップは避けられないのだなと痛感しました。だから医師がいいと
か悪いとかの問題ではない。でも、その前提を認識したうえで、双方が関係を考える必要はあります。
同時に、医療は非常に不確定なことが多くて、金づちで卵を叩けば割れるという百パーセント確実とい
うようなものはない。だから治療に関しても、副作用の出現にしても、それへの対処にしても、わりと不
確定のなかで、でもそれぞれが最善だという方法を探して、日々やっているのでしょう。病院のベッド
の中で到達した私の一つの結論は、がんとの闘いは結局、病気そのものを相手にする前段で、副作
用や精神の管理という問題に直面するということです。ああ、こんなに副作用で苦しむのかと常に思っ
てましたし、同時に、死を突きつけられ、毎日、生き死にについて考えざるを得ませんでした。
とりわけ、うつ状態の時には、苦しさと不安で死んでしまいたいと思ったこともありました。自殺した後の
自分の死体を、家族や友人が見る場面を想像して、なんとか衝動を抑えました。自分の尊厳や誇り、
過去と未来を自分の手で破壊することになるから、自殺はしたくない。でも、こんな苦しさが続くなら早
く楽になりたい。気持ちが揺れました。
――医療
――医療は
医療は不確定なことが
不確定なことが多
なことが多いというお話
いというお話に関連してですが
関連してですが、
してですが、情報をあまりもたない
情報をあまりもたない患者
をあまりもたない患者さんたちは
患者さんたちは、
さんたちは、
そういうことになかなか気
そういうことになかなか気づいていないというか、
づいていないというか、医師の
医師の言うことを信
うことを信じるとか、
じるとか、本などに書
などに書いてあるこ
とを信
とを信じるケースが多
じるケースが多いと思
いと思います。
います。そういうなかで情報
そういうなかで情報を
情報を見極めるという
見極めるというか
めるというか、どういう情報
どういう情報が
情報が患者とし
患者とし
て大切なのか
大切なのか、
なのか、どんなことがポイントなのか。
どんなことがポイントなのか。また例
また例えば自分
えば自分はこう
自分はこう生
はこう生きたいから、
きたいから、こういう生活
こういう生活のため
生活のため
にはどういう医療
にはどういう医療を
医療を求めるべきなのか、
めるべきなのか、ということを知
ということを知り、理解する
理解する必要
する必要があると
必要があると思
があると思うのです。
うのです。この点
この点に
ついてのアドバイスをいただけましたら・・・。
ついてのアドバイスをいただけましたら・・・。
10 年前はネット社会は未発展でした。携帯メールすらなかったですね。この 10 年間でがんの闘病
の環境は激変していると思います。もちろん情報が増えて素晴らしい点はたくさんあります。いま国立
がんセンターのホームページを見れば、標準的治療がわかりますし、もっと発信しようとがん対策情
報センターも動き出しています。医師の先をいくような海外の最先端治療の情報だって、英文でとる
ことも可能な時代になっています。しかし、残念ながら、ネットの海は玉石混淆なんですね。あまりにも
情報が多すぎて戸惑い、何を信じていいかわからない、というのが現実だと思います。
結局、見極めるという意識を明確に持つことが一つのポイントですね。専門家、関係者、体験者らの
複数の意見をよく聞くことしかない。それに尽きるのだと思います。どこか一ヵ所へのアプローチで完全
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な解決法が見つかるというようなことは、おそらくありません。まずは、自分の信頼している主治医に、
それでもなお迷うようであればセカンド・オピニオンをうけたり、患者会、体験者にもう一度あたってクロ
スチェックをしていくということでしょう。おそらくどんなに情報をとっても、最後は迷うと思います。選択
肢は一つではなくなっていく。同時に、その後、いったい何が起きるかという可能性を書き出すと、とて
もたくさんの恐ろしい可能性も出てくるでしょう。迷うのはむしろあたり前です。患者はその不確実性の
中で、最後は自分なりに判断し、引き受ける覚悟を要求されている、そういう時代なんです。
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最終回 がんを経験
がんを経験して
経験して得
して得たもの
■家族の
家族の支えは大事
えは大事、
大事、だが笑顔
だが笑顔の
笑顔の定期便でいい
定期便でいい
――すでに
――すでに一部
すでに一部お
一部お話いただいていますけれども、
いただいていますけれども、いま、
いま、がんと向
がんと向き合っておられる患者
っておられる患者さんやご
患者さんやご家族
さんやご家族
に、改めて伝
めて伝えたいメッセージがありましたらどうぞ。
えたいメッセージがありましたらどうぞ。
一つは、家族はすごく大事な存在だということです。それを支えてくれる友人も、です。がん患者を
抱えるのは家族にとっての苦しみでもあり、戸惑いでもあるのでしょう。とりわけ本人とは別の苦しみが
家族にはあるはずです。私の妻は相当きつかったと思いますが、前にも触れたように妻の元気と、笑
顔の定期便は何ものに代えがたい安らぎを与えてくれました。そういう意味で思うのですが、患者を元
気づけねば、支えねばと自分を追い込まないことが肝心です。家族自身がこうしなきゃとか、ああしな
きゃと自分をせき立て、落ち込んだり悲しんだりしても、事態はよくならないのではないでしょうか。言葉
が正しいかどうかわかりませんが、時にはどこか棚上げして、どこか預けちゃって気楽になることも必要。
そのような時に、家族の外側を取り巻く輪のような存在、親戚とか友人、同僚が支えてくれるはずです。
家族はとりあえずいま元気でいるとか、いま生きていることに目を向けるとか、もう一つは自分自身の
人生も大事にして、その延長線上で患者を支えるというぐらいのほうが、つぶれなくていいのではない
かなと、体験を通して確信しました。
患者さん本人へのメッセージとしては、私の一つの例でしかありませんが、がんの治療は本当につら
いし、精神的に追い込まれていきます。半年後、一年後に自分はどうなっているかということだけを考
えていると、どんどん予期不安に取り込まれてしまうと思うのです。難しいかもしれませんが、過剰に思
い詰めることを避け、ときに視点を変えたり、少し俯瞰してみてみたりして気分を変えることが大切です
ね。がんに自分の人生のすべてを取り込まれてしまうのは残念ですし、がんになった自分を卑下した
り、まわりの目を気にしすぎたりする必要もまったくないはずです。むしろ全部引き受けて、自分の人生
の一部にしていければいいのではないですか。ちょっとブラックですが、お見舞いに来てくれる人も、百
年後はみんな死んでいますから。この人、がんになって可哀想にと、もし思っている人がいたとしても、
行く先はみんな同じです。がんに支配されない方がいいに決まってますから。
■鈍感な
鈍感な強者の
強者の自分に
自分に気づく
―― ドイツの宗教改革者
ドイツの宗教改革者のマルティン・ルターは
宗教改革者のマルティン・ルターは、「
のマルティン・ルターは、「たとえ
、「たとえ世界
たとえ世界が
世界が明日終わりでも
明日終わりでも、
わりでも、私は樹を植える」
える」
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との言葉
との言葉を
言葉を残しています。
しています。こんな完璧
こんな完璧な
完璧な生き方はなかなか普通
はなかなか普通の
普通の人間にはできないのですが
人間にはできないのですが、
にはできないのですが、しかし
あなたは非常
あなたは非常な
非常な苦しみに耐
しみに耐え、乗り越えて、
えて、仕事にも
仕事にも復帰
にも復帰されています
復帰されています。
されています。大病した
大病した方
した方に変な言い方に
なりますが、
なりますが、得るものは大
るものは大きかったのではないでしょうか。
きかったのではないでしょうか。
そうですね、べつに克服したとか生還したというおこがましい気持ちはないのです。それから何か偉
いことをしたということでもなくて、ただ病気になって、副作用に耐え抜いて、とりあえずいま元気になっ
たというだけのことなのです。しかし、元気なときには見えなかったものや、順調なときにはわからない
ものが、いざ、けつまずいて、うずくまってみて、見え、分かってくる。とても印象的です。世の中という
のはバラエティー番組を見ていれば、おもしろおかしくて楽しいことばかりに見えますけれども、表皮を
一枚、二枚めくって実相を見れば、人生というのは辛いことや苦しいことで溢れていると言えるでしょう。
そのなかで、さはさりながら、どうやって生きようかというのは、各人次第ですし、結局、一人で死なな
きゃいけない孤独感というものは絶えずあるわけです。他方やっぱり一人では生きられないという部分
もあって、結局は自分というのは人とのつながりのなかでしか存在しえません。そういうこともがんの経
験で学んだ、とても大きなことだったと思います。
もう少し理屈をつければ、二度と味わいたくない試練ではありましたが、自分の弱さと向き合わされ、
人生を真剣に考える機会でありましたし、あらゆることに鈍感な強者になっていた自分に気づかせてく
れた、と私なりに感じています。
―― 言葉では
言葉では言
では言い表せないほどの辛苦
せないほどの辛苦をなめ
辛苦をなめ、
をなめ、死線をさ
死線をさ迷
をさ迷ったあなたが、
ったあなたが、元気溌剌で
元気溌剌で話をされる
姿には感動
には感動します
感動します。
します。
ありがとうございます。最後にもう一つだけ話したいことがあります。私の親しい同僚の奥様が肺がん
で亡くなられました。しかし、彼女は、抗がん剤の投与により一時期、ずいぶん元気になられました。
私はいくつかの抗がん剤のおかげで、ここまで元気になったわけで、医師、看護師、薬剤師、放射線
照射、病理検査も含めた医療を支える人々、製薬会社の方々、輸血に応じてくださっている幾多の
人々に対し深く感謝しております。彼女と話したときも、薬の大切さが話題となり、ここまで元気になっ
たのは薬のおかげと喜んでおられました。亡くなったあと夫君も、あのおかげで一年は寿命が伸びて、
大変意義ある大事な時間を持てたと、感謝の気持ちを話しておられました。一方で、今日も副作用
の話もいっぱいしましたが、それは非常に重く、悩ましい問題です。有害事象を伴うのが薬だし、リスク
があるのが医療行為なわけですから、そこの見極めも繊細に、細心の注意をもってやっていかないと、
薬害のようなことが繰り返し起きて患者家族を苦しめたり、説明がなかったじゃないかというトラブルや
訴訟になるのではないかと思うのです。これはお互いに不幸なことで、製薬会社や医療従事者は、繊
細過ぎるほどの注意、念押し、責任感があってほしいという気持ちです。また、抗がん剤のメリット、デ
メリットをよく理解し、ご自身が納得できる治療に取り組むことが大切なことだと思います。
上野さん、ありがとうございました。
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