ドイツ南西部における分割相続・家産・ 世帯構造、遺産目録による実証

【抄訳】
機会あるいは強制?:ドイツ南西部における分割相続・家産・
世帯構造、遺産目録による実証
ジャニーネ・マエグレイス(ケンブリッジ大学)
1
2
3
4
はじめに
文脈
分割相続
史料:遺産目録
1
はじめに
ドイツ南西部・ヴュルテンベルグ公領における相続制度は分割相続が主要であった。分割相続と
は、不動産および動産を男子および女子すべての相続者の間で平等に分割するものと定義される。こ
の分割相続は学説史上しばしば批判的に取り上げられ、土地および農場の無制限な分割の原因とされ
ている。例えば Angelika Bischoff-Luithlen は、分割相続を「民主的な強制」と見て次のよう
に書く。
「ヴュルテンベルグにおいては、分割相続の民主的強制が行き渡っていた。分割相続は兄弟すべてお
よび他の相続者の間でなされ、死亡者の相続は相続者の数だけ分割してなされたのである。農場保有
地がさらなる存在には関係なく...」
しかし、この「民主的な強制」はいつでもネガティブな結末となったのであろうか。あるいは平等な
財産譲渡は相続者たちに機会を生み出したのであろうか。これらの問いはさらに以下の点も照射す
る。
・分割相続はどのように実践されたのか。
・不動産はどのように取り扱われたのか、
・「家族の土地」に匹敵するものはあったのか。
・家産はどう定義づけられるのか。
・分割相続の実践は家族戦略および世帯構造にどのような結果をもたらしたのか。
・家産・世帯構造、遺産目録による実証
17 世紀から 19 世紀初めまでのヴュルテンベルグに焦点をあて、とくに当地のヴィルドベルグおよび
アウインゲンという2つのコミュニティの個人遺産目録からのデータを用いて議論したい。
本報告は、報告者が関わる科研研究プロジェクト「人間の幸福および『勤勉革命』:ドイツの開発途
上経済における消費・ジェンダー・社会資本」からの研究を発展させたものである。
2
文脈
1 ヴィルドベルグおよびアウインゲンのコミュニティ
ヴュルテンベルグ公領:神聖ローマ帝国において 1495 年−1806 年存在
1534 年にプロテスタント導入。1806 年以降、王国となり、ついで 1815 年以降ドイツ連邦に編入。
ヴィルドベルグ:シュバルツバルト(Schwarzwald), ドイツ南西部の森林山岳地帯の小都市
アウインゲン:シュワーベン地方ミュンジンゲン市近郊の小農村
双方、首府シュトゥットガルト市から 50−60 キロメートル
ヴィルドベルグ:職業は農業経営・日雇い労働・輸出用梳毛織業の’プロト(源基的)工業’・伝
統的手工業の最大 4 種に集中。多くの世帯は零細農地の経営と手工業ないしプロト工業的作業場とを
組み合わせである副業に依存。
アウインゲン:フルタイムの農業経営者の比率がより高く、農業色がより濃い。手工業との組み合
わせ、および亜麻織の形でプロト工業が、とくに 1750 年代以降出現した。
1
人口動態上の主特徴
Sheilagh Ogilvie
ヴィルドベルグの諸世帯のほとんどは婚姻家族(conjugal family)からなる。娘および息子は 15
歳から 30 歳の間に世帯を去り、奉公人として働きに出る。この地での男女は 20 代後半に結婚する
が、とくに女性は高い確率で一生独身であった者がみられた。同居親族についてはあまり見られな
かったが、奉公人や一員(inmates)などの非親族との同居は頻繁に見られたのである。
2
世帯および家産
「世帯」および「家族」はどう定義づけされるか。ヴュルテンベルグでは、family は 1806 年のい
わゆる家族登録の導入以前の法制文書にはほとんど登場しない。史家は代わりに household の使用に
ついて論じる。この場合の household とは核となる家族 core-family と非親族同居者 non-kin coresidents である。
農業社会におけるこうした世帯の経済的特徴はなにか。
ヴュルテンベルグ史の Andreas Maisch→前工業化経済は家族経済に似ていた。土地と資源は家
産であり、また家族構成員は労働力であり、その労働力はときに奉公人によって補完された。手工
業の形で副業の選択肢があり、もしも家族が土地を所有していて、季節賃労働の機会もあれば、一
つの家族が生計を維持することはできた。だが、その家族はコミュニティの内に統合され、社会的
制度的に束縛されたのである。
だが、この農村世帯構造は「家族の農場」には似ていない。この家屋および土地を含む財産は一体
として世代から世代に譲渡され、一つの家族内で保持されるとは限らなかった。そうではなく頻繁
に市場で売買されたのである。それゆえ、それは変化を余儀なくされていた。家産とは、主として
夫と妻からなる核-家族により所有される財産を指し、彼らの死後分割されるものであった。
財産はきわめて重要であり、結婚相手の選択において決定的であったようだ。相続法の規制および
実施はまた、その重要性を明らかに示す。Andreas Maisch は結論として、財産は責任と強く結
びつくものであり、自由とではない、とする。核となる家族は、家族構成員の逸脱に対応するこ
と、財産の取り分を守ることを期待された、のである。
3
分割相続
Michael Anderson→世帯経済を見る際に、相続とその多様な実践は重要な性格を形成する。相続は
財産の取得あるいは伝達の一部としてみなすことができ、相続はある人の「人生のチャンス」と定義
しえたのである。
分割相続制度においては、不動産および動産は相続者すべて、男女ともに平等に分割される。相続の
対象物は家産に等しい。他方、長(男)子相続は、所領全体を長子が相続する権利である。分割相続
の発達は、農業史においては最も議論されるトピックの 1 つであり、プロト工業化論で見られるよう
に相続制度・人口・経済発展との連関の可能性は依然として論じられている。
分割相続はヴュルテンベルグのほとんどで実践されていた。公領では分割相続が選好され、1555 年か
ら 1610 年の時期にはヴュルテンベルグ・コモン=ローの家族および相続法として制定され条文化さ
れた。女性はヴュルテンベルグにおいては分割相続に基づいて財産所有権を得たのである。もっと
も、女性の財産権は 2 つの点で制限を受けていた。まず婚姻法により制限を受けていた。そして未婚
であったり寡婦となった場合には女性は後見人を持たねばならなかったのである。すなわち、彼らは
財産については完全に独立しては振る舞えなかったのである。
興味深いことに、学説史において分割相続のこの部分の法解釈はほとんど論じられていない。もっと
も、相続の分散に基づくそのネガティブな特徴に照射する傾向は見られる。とくに 19 世紀の歴史家
達は、分割相続は人口増加と結びついて家族の保有地の細分化を導き、農業生産の減退を招いたと論
じたのである。ただ Warren Sabean のみが、家族の動態および財産伝達への分割相続の効果を主張
し、一般の細分化という見方に対して反論しているのである。分割相続の産物である私的遺産目録は
2
この相続の実践について何を語るであろうか。
4. 史料:私的財産目録
1. 法的枠組み
財産目録とは、所有物のリストである。不動産・財産(衣服・道具類・家財すべて・食糧・負債・
債権、他)。それらが書き留められたのは、財産分割の法的規制および相続における係争を避けるた
めである。
死亡財産産目録は 1555 年以降、ヴュルテンベルグのほとんどの住民が作成を強制された。1610 年以
降は婚姻財産目録が作成されるものとされた。それは、結婚にあたり嫁および婿双方によりもたらさ
れるものとされた。ヴュルテンベルグでは 1899 年・1900 年まで婚姻および死亡財産目録が義務づけ
られたのである。
財産目録は、ヴュルテンベルグではほぼ全員について作成された。
分割相続制度においては、財産目録の作成は不可欠である。相続対象物の特定をおこなうために、財
産目録は個人財産を個別に一覧とするからである。これは男性と女性の所有物を区別することを可能
とする。婚姻財産目録は通常嫁と婿の所有物を別々にリストアップするからである。それゆえ、ヴュ
ルテンベルグ財産目録は特に消費態様および家産構成を調査するのに好適である。
2.異なるタイプの財産目録
ヴュルテンベルグの財産目録は主として 3 つの型に分けられる。婚姻財産目録、不確定相続財産目
録そして事実相続財産目録である。また、死後財産伝達文書および判決財産目録も含まれる。
a 婚姻財産目録
婚姻財産目録は、婚姻がなされてから 3 ヶ月以内に作成されるべきものとされた。構成は、導入部
分、婿の財産目録、嫁の嫁資の 3 部からなる。再婚の場合にも。財産目録が作成され、その時点での
詳細な家族関係を記録し、生存する子どもや死亡した婚姻上のパートナーも含まれるのである。
b 不確定相続財産目録
不確定財産目録は配偶者の死後に作成された。これも 3 つの部分からなる。まず、導入部分で、こ
こには公式諸手続きおよび関係者についての必要な情報が記される。関係者とは、死亡した配偶者、
彼および彼女のパートナー、そして生存する子どもたちである。次の部分は、婚姻カップルの所有物
があげられる。そして、最後に貸借対照表が打ち出され、中間相続分割が確立される。生き残った配
偶者は所領を保持する。そこには彼ないし彼女の「用益権」にある子ども達の相続取り分も含まれ
る。その保持は、やがて、ないし彼あるいは彼女の死亡時までに彼ないし彼女が処分を決定するもの
とされた。
c 事実相続財産目録
事実相続財産目録は、寡婦ないし独身者が死亡した際に作成され、相続分割分も含む
d 死後財産伝達文書
配偶者の死亡後、残る配偶者はその財産の部分を彼もしくは彼女の死亡以前に成人した子どもに譲
渡することを決定できる
e
判決財産目録
あるケースでは、当局が財産目録を作成するように命ずることができる。たとえば夫婦が大きな負
債を負っており、なおかつその返済が疑わしい場合などである。
すべての型の財産目録では、生存している方の署名がなされた。署名できない場合には後見人が代
わって署名した。この文書は法的文書であり、修正が認められていたので、しばしば後の変更が見ら
れる。
3
3
財産目録からのデータ
財産目録は、家産・相続実践・家族戦略についてどのようなことを語るであろうか。
1. 不動産
すべての世帯が家屋を所有していたわけではない。若い夫婦が最初から自分たちの家屋を持ってい
ることは希であった。想定するに、幾人かは世帯構造が示すには寄宿人であった。分割相続につい
ての否定的な見方では相続者の間で家屋は厳格に分割されたということになるであろう。しかし、
財産目録が示すには、ごくわずかの家屋が半分に分けられ、さらに僅かの事例でさらに小さく分割
されただけである。両親はその子ども達の 1 人に家屋を渡すことの方を好んだようである。また、
婚姻財産目録で両親と結婚する子ども達との間で建築物の購入についての金融上の同意がなされて
いるのも見受けられる。他の子ども達はその上で「平等」に取り扱われたものと考えられる。この
ことは、住居についてのみならず、仕事場や小屋、あるいは付属する庭や追加的な供給あるいは所
得においても機能した。結果として、家屋は、世帯の負債を見る場合には最も重要な資産なので
あった。
土地の各地片は相続者に個別に譲渡された。したがって、数世代にわたり一体としてではなく、よ
り小さな地片に分割されたのである。家産として一体性はなかったので、相続者は土地の個別の地
片を受け取り、両親の死後それらを留めておく、あるいはより近い土地を購入するためにその土地
を市場で売却することもできた。ときに、彼らはその土地を親戚に売り戻す、あるいは買い戻すこ
ともありえた。それゆえ、不動産は 1 つの家族の中で保持されたのではなく、頻繁に市場で売買さ
れたのである。
2
婚姻財産目録:嫁資産の起源
婚姻財産目録は、配偶者同士が彼らの結婚に持ち寄るもので成立する。これらの資産は部分的に
その両親が子どもの結婚にあたって与えるものからなる。また部分的には、子ども達自身がたと
えば奉公入りしている間に蓄えたお金だったりする。
両親の部分は、死後財産伝達で平等化され、原則として、両親が死亡するあるいは最終的な相続
分割が事実相続財産目録が作成されるまで家産の一部であった。
農業経営者 Hanß Hürning および Barbara Herrenmann の婚姻財産目録(1682 年アウインゲンで
結婚)では、嫁資産(婿資産)の性格は注意深く定義されている。婿は彼の婿資産を両親から受
け取り、彼自身のものは何一つ認められない。だが、犁耕ないし農業用の道具のほとんどはその
半分のみ受け取る。
この嫁は嫁資としては彼女の父親から何も受け取っていない。だが、彼女は奉公人として貯金し
ていた「以下の衣服は、少しずつ、彼女が奉公人として得た給金からこしらえたものである」彼
女が母親から受け取っていた他の世帯道具は、牛や家禽を除いては彼女自身のものとされてい
た。それゆえ、嫁の嫁資とは、2 つの部分からなる。彼女自身のものと、母親から受け取ったも
のである。
ヴィルドベルグの梳毛織業者 Johann Michael Kleinert と Christiana Margaretha
Schmalzlenin(1806 年結婚の事例)
嫁の母親と嫁との間の詳細な合意事項
嫁の母親は、彼女の全財産をひとりっ子である彼女の娘に渡すことを決めていた。その財産に
は、嫁の父親の財産もまた含まれていた。嫁の死亡した父親の財産は彼女のものとなるが、彼女
の母親の財産は母親の死亡まで貸与という形で取り扱われるものとされた。
3
仮相続および家産の定義
配偶者の死亡の場合、不確定相続財産目録が作成された。タイトルが示すように、相続者の「想定
される」取り分はもう 1 人の配偶者の死亡時にとされ、同数の相続者とともに最終的な分割がされる
4
ものとなっていた。
(以後、複雑なため、訳を割愛)
やもめとなった配偶者の相続については、夫婦で平等であった。同様に子ども達の間でも男女平等で
あった。しかしながら、生存し続けた方の配偶者の死亡によってのみ所領は相続者の間で実際に分割
されたのである。
ヴィルドベルグの事例:6 名の未婚の子どもをもつ寡婦の不確定相続財産目録
1739 年 10 月、Heinrich Rockenbauch、市民およびパン屋死亡、その寡婦 Anna Margretha
(以後、複雑なため、訳を割愛)
4. 事実相続財産目録および相続取り分の最終計算
5. 再婚
ヴュルテンベルグでは、寡婦(夫)は6ヶ月後には再婚できた。再婚は極めて頻繁に起こった。そ
れは特に子どもが幼少な場合に顕著であった。そして最初の婚姻にしたがって、婚姻財産目録が作成
されたのである。
(以後、複雑なため、訳を割愛)
6.子どもが生存しない場合の相続手続き
しかし、もしもその夫婦が子どもを残さなかった場合、どうなるであろうか。この場合、彼らの両
親がもしも生存していれば、相続するか、あるいは兄弟が相続した。もしも兄弟も死亡していれば、
彼らの子ども達が相続する。
(複雑な例)
7.判決財産目録
8.貧困および財産目録
財産目録を作成する人物があまりにも貧乏で彼もしくは彼女の負債を支払えない場合やそもそも遺
贈するものが何もない場合にはどうか。その場合には財産目録を省略する、という事例もいくつかあ
る。
結論:機会あるいは強制
学説史では、分割相続のネガティブな性質や強制に照射する傾向がある。そのネガティブなものと
は、たとえば、19 世紀ヴュルテンベルグにおける農業用地の細分化の進行やとそれによる農業生産性
の減退などである。学説史が示すのは、農村コミュニティの多くの人々が彼らの生計を確保するため
に副業を持っていたということである。なぜなら、農地はあまりにも小さく、あるいはあまりにも乏
しくそれだけでは生存がままならなかったのである。だが、より注意深いアプローチの必要な事例も
ある。
財産目録が示すのは、家屋は全ての相続者の間で分割されることはなかった、ということである。か
わりに、それらは、1 人の相続者に譲られ、他の者たちは、なにかで補われた。あるいは、家屋が 2
つに分割されることもありえた。これと同様に土地や耕作地も無制限に分割されたのでもなかった。
この経済においては「家族の農場」は存在しなかったという事実が、相続者に彼らが相続した土地を
市場で売ることを可能にし、それゆえもしも可能であれば、その土地を再編成することを可能にした
のである。これはまた、「細分化の進行」についての議論に、すでに土地が細分化されていたために
新たな疑問をなげかけるのである。
学説史で議論されていなかったのは(1 つの例を除いて)、いかに分割相続は財産移転および蓄積、
女性の財産権、家産の定義、相続者の間で相続対象物ががどのように分割されるかその手続きに貢献
することができたか、つまり機会についてなのである。
財産目録を作成する法的手続きは、家産の意味を定義することを可能にする。家産は夫と妻の財産の
組み合わせからなる。それは、彼および彼女の嫁・婿資産、彼らの各々の両親および親戚からの相続
資産、あるいは他のあらゆる得失により構成されるのである。この家産のある部分は、結婚する子ど
5
もへその婚姻資産として譲渡され得た。ある部分は、生前財産移転としてもまた、渡された。だが、
それは、両親がすべての生存する子ども達が平等な取り分への要求をしうる時点まで法的には家産と
してとどまるのである。
これは、どう解釈できるだろうか。原則として、両親および子どもの両側が、財産権、責任、期待に
より縛られのである。両親は彼らの財産を共に保持することを期待され、あるいはそれを責任ある形
で管理して、彼らの子どもに譲渡するのである。彼らがこれを怠った場合、その所領は財産目録にす
ることを命じられるということがあり得た。
他方、子ども達は財産伝達を両親の生存中に受け取るときに、両親の世帯から十分に独立するように
なるのではなく、協働することを期待されていた。家産は、漸進的にだけであるが、子どもおようび
両親は互いに依存し続けていた。父親は依然として商売および農業上の重要な道具を手元に留めてお
り、息子や娘は彼らの労働を提供した。あるいは、彼らは両親を彼らの家に住まわせる、あるいは住
み込みをすることを期待された。それは 1806 年の同意が示している。
家産と結婚資産との結びつきはまた、婿と嫁とは双方彼らのそれぞれの資産の所有権を保持すること
を意味していた。これは、配偶者が彼らの資産を責任をもってやりくりしなければならないというこ
とである。もちろん、これはいつでもそうであったわけではないが。だが、理論上、妻は夫の失策を
法廷で訴えることもできた。それを当局が取り上げたかどうかはまた別の問題である。
Andreas Maisch の提言である、財産は責任と結びつくものであり、自由とではない、は正当化されて
いる。この責任は法的制限と結びつくことは否定できないが、報告者は分割相続は相続者へ考慮に値
する機会を与えたと論じるものである。
分割相続および財産移転の漸進的実践は、彼ら自身の生計の資を貯めるべく奉公人として働きに出る
ことと相まって、若い人々に彼ら自身の世帯を持ち、独身者に経済的資源を持つことを可能にした。
また、女性が所有権をもち、男性と等しく相続した、ということも意味している。もっとも、彼らの
権利は男性の後見人により制限を受けていたのではあるが。
【抄訳】
英国勤勉革命における家族収入の役割:1650 年-1780 年
クレイグ・マルドルー(ケンブリッジ大学)
要約
本報告は、労働者家族の生活水準の変化および労働態様を理解するために、子どもを含めた家族構成
員すべての労働と収入とを詳細に考慮することが必要であることを論じるものである。確かに David
Davies および Frederick Eden が 1780 年以降の食料価格の大インフレーションにより生じた貧困につ
いて書き始める時代までは、鍵となる分析道具は家計であった。彼らは、価格上昇、そして出産数の
増加以前は織物産業あるいは農業改良での労働入手可能性は家族労働を通して得られる収入の増加を
もたらしていた、とした。本報告者は、1660 年以降、農業および工業生産が増加するにつれて、いか
に家族収入が増加していたかを、主張するものである。それはまた、短銃に賃労働について計測する
ことを超えていくことがいかに重要かを示すものでもある。農業史家は穀物収穫高が上昇した時点に
ついて議論してきた。だが確かに 1700 年までには英国は、ひとたび人口が安定するとほとんどの年
度でヨーロッパ大陸へ余剰を輸出し始めるほどに十分な生産をしていたのである。農業により生産さ
れた食料エネルギーの入手可能性が増加したことは、第一次産業以外の部門で働くことのできる人々
の数を増やしもしたのであった。E.A. Wrigley は、第一次産業に従事する人口の割合は 1520 年の
76%から 1801 年には 36%のみに減少したと見積もりを出している。絶対数でみれば、このことは、
1800 年には農業従事人口は約 314 万人であり、比して 1600 年の 287 万人となる。これは、耕作地の
規模が著しく増大し、穀物収穫高がずっと高まっていた上でのことである。くわえて、織物産業は当
該時期に成長し、雇用を提供し続けていた。この時期、労働への需要は著しく増加し、その雇用の多
くを占めていたのが女性および子ども達なのであった。
6
本報告は、労働者家族の生活水準の変化および労働態様を理解するために、子どもを含めた家族構成
員すべての労働と収入とを詳細に考慮することが必要であることを論じるものである。
農業史家は穀物収穫高が上昇した時点について議論してきた。だが確かに 1700 年までには英国は、
ひとたび人口が安定するとほとんどの年度でヨーロッパ大陸へ余剰を輸出し始めるほどに十分な生産
をしていたのである。農業により生産された食料エネルギーの入手可能性が増加したことは、商売や
織物生産第一次産業以外の部門で働くことのできる人々の数を増やしもしたのであった。
E.A. Wrigley は、第一次産業に従事する人口の割合は 1520 年の 76%から 1801 年には 36%のみに減
少したと見積もりを出している。絶対数でみれば、このことは、1800 年には農業従事人口は約 314 万
人であり、比して 1600 年の 287 万人となる。これは、耕作地の規模が著しく増大し、穀物収穫高が
ずっと高まっていた上でのことである。
1650 年以降「改良」を提唱する多くの論者があらわれ、彼らは改良のために必要として労働の「勤勉
性」を促したのである。より多くの雇用が結果としてより多くの生産、そして労働する人々を含めて
すべての人たちにとってのより多くの富をもたらしたのである。下記の引用により示されるように、
くわえて、織物産業は当該時期に成長し、雇用を提供し続けていた。この時期、労働への需要は著し
く増加し、その雇用の多くを占めていたのが女性および子ども達なのであった。
John Houghton {英国の偉大な幸福
あるいは満足と不満との対話} (1677)
生活水準における傾向はこれまで賃労働の計測が主要であった。それは貨幣賃金の購買力の時間的変
化ということである。だが、本報告者は労働の性質についてより詳細に見てみたい。
生活水準の問題に関する研究のほとんどは、一連の賃金の時系列的変化を示す最善の方法に焦点をあ
ててきている。典型的なものとしては、日々の食料消費を衣服・燃料・家賃・その他の世帯経費とを
組み合わせたデータを観察するというものである。それは、一定規模の 1 家族が 1 年を通じて購入す
る、典型的な「消費財のかご」を創り上げる、ということになる。
これらの財の価格が異なる年度の変化する経費を算定することで吟味される。そして、貨幣賃金支払
いのデータが時系列上で集積される。さらに 1 年間に 1 家族が購入する消費財のかごについてのパー
センテージというかたちで実質賃金が算定される。
スライド 10
・ 典型としては、奉公は 15 歳から 29 歳の範囲にわたり、世帯(家内)奉公人といわゆる農業作業
者としての農業奉公人とがあった。
・ 他人という権威は親という権威よりもずっと適当であった。それは、親は親切すぎて、子どもが
独立する、または自分のことに責任を取る準備をする妨げとなりがちであったからである。
スライド 11
・ 奉公人はより貧しい家族から来ていた。労働人口の 81%は奉公あがりであるか、奉公人であっ
た。
スライド 13
・ グロスター州兵士徴収名簿が示すのは、この州では男子労働者の 66%が奉公人として雇用されて
いた。
・ 10 月婚のデータが示唆するところではこのパーセンテージがその後下降するが、1650 年以降回復
する。
・ Arthur Young の数値は、1760 年代農業労働者の 60%は奉公人であった。
スライド 14
・ 食料を提供される労働者にとっては、食料価格のインフレは農業経営者の負担であった。
・ 農業経営者にとっては、彼らの農業労働者に仕事場で食事を提供することは、彼らが求める労働
がしっかり成し遂げられるために、ということで普通のことであった。
7
スライド 15
・ 奉公入りする前、年齢で言えば 7-9 歳からだが、男子は成人の半分以下の賃金で雇われることが
期待された。
・ 搾乳婦や家内召使いになる前、年少の女子は同様の年齢から粗糸紡ぎにより家族の所得の足しに
し始めることができた。
・ 子守によっても年少の女子は母親を助けることができた。それにより、母親は賃稼ぎの労働に従
事する自由を与えた。
スライド 16 糸紡ぎと他の仕事
異なる時点での糸紡ぎからの総収入見積り
スライド 17 家内生産
・ 賃稼ぎのための仕事に加えて、多くの労働家族はある種の家内農業生産にもまた従事していた。
・ だが、これは時間がたつにつれて減退した。家内生産物を販売するよりも、むしろ次第に家族が
労働市場に参加することからより多くを稼ぐようになった。
スライド 18
・ 1700 年以前にでも農業収穫物を有している労働者は 30%だけであったが、その後はさらに 20%に
減じた。
・ 加えて、その穀物が耕作されている面積はきわめて小さかった。
・ ほぼ半分が 1.9 エーカー(1 エーカーは約 4047 平方メートル)。
これは、16 世紀でさえも、労働者の大多数は彼ら自身の農場を経営してはいなかった。
・ 牧畜農業は労働者にとっては、明らかに耕作農業よりも重要であった。
・ 労働者の遺産目録の半分以上は牛をリストにいれており、そのほとんどが雌牛であった。
スライド 21
・ 以下の表は、7 歳から 12 歳の年齢の子どもが 1 人、1 年のうち約 80 日、10 代の息子 2 人とともに
働くことを想定している。より多くの子どもが働いていれば稼ぎはより大きくなっただろう。雌牛・
豚・燃料・ビールの価値の上昇は、関連する生産物の価格の上昇に基づいている。また、共同用益権
にアクセスできる家族、あるいは賃貸料が安い小農場を持つ家族は収入はより大きくなっただろう。
スライド 23 勤勉革命
・ Jan de Vries は、近世期の世帯は、その労働から得られるお金で新たな消費財を買うために、労
働市場への参加を増やした、と論ずる。この、仕事の増加はより多くの異なるやり方で達成された。
個々人がより多くの時間働くことで。あるいは 1 日の労働時間でより集中的に働くことで。さもなく
ば、仕事に参加する家族構成員の数を増やすことで。
スライド 24 結論
・ 以上、夫の賃金に家族の収入を加えることの重要さを見ることができる。これは de Vries の、家
族労働が次第に増えることで、家族収入に所得を加えることになるという理論を支持するデータであ
る。
・ 18 世紀までには、家族収入の増加は価格の下落との組み合わせで、労働者が彼らの世帯の財の質
を改善するための支出を増やし続けることを可能にしたのである。紅茶や砂糖など新しい外国製品を
購入したり、衣服への支出を増やすこともまたそうなのである。
・ これらのことの大部分は、雇用の新たな機会を提供する織物業での紡績への需要が増大したこと
から来ていた。だが、酪農や他の農業労働が雇用のための機会を提供し続けていた
【抄訳】
8
ピレネー地方における家制度:近世期以来の伝統と慣行
年日本
2011
マリー=ピエール・アリザバラガ(セルジ・ポントワーズ大学)
スライド2
1 家制度
1定義
・家族の単位:1世帯と1家族。家系・血統・家名
・社会単位:1つのコミュニティにおける1つの個人集団
・経済単位:長い時間を経て生存するための、家屋・建築物・土地つきの労働および生活空間
スライド3
2 諸慣行による家制度
・小財産所有権および限定的環境資源
・兄弟間の分配なし
・単独相続
・一子への家屋および土地の譲渡
・家系およびコミュニティの環境-人口動態均衡を維持すること
・分配=破産
・諸規制:相続者は1人。配偶者の嫁資。両親および相続から排除された兄弟の扶養
スライド4
3 単独相続者の選択
・Basque country, Lavedan, Bareges:男子あるいは女子単独相続
・Bearn and Baronies:男子単独相続
・French Catalunia:男子いずれでも
スライド5
4 相続者の結婚および配偶者の嫁資
・結婚により完全相続
・« Maître jeune » ou « maîtresse jeune »
・新旧の主人が諸決定を共有
・配偶者は嫁資を(現金で)持ち込む
・彼あるい彼女の身分は平等:族内婚
・嫁資は兄弟をもう1つの家屋に住まわせるのに用いられる
・第1子の誕生後にのみ用いられた
・「試し婚」
・« Couvades »
スライド6
5 諸慣行による諸義務
・ 家屋の維持および瑕疵無しの譲渡
・ 兄弟を落ち着かせるために貯蓄を
・ 両親の家屋・供食・扶養
・ 相続外で独身の兄弟の家屋・供食・扶養
・ 直系家族世帯の形成
スライド7
Ⅱ 直系家族制度
1 直系家族世帯形体
・ 両親・相続者・配偶者・子ども・独身の兄弟の同居
9
・
・
・
年老いる家族構成員の若い世代による世話
死亡まで全ての人間がその家屋に住む
死亡までの世話および保護
スライド8
2 直系家族形体の安定化効果
・ 多世代にわたる自己再生産
・ 1世代Ⅰ相続者
・ 家長権および相続権
・ 独身兄弟は潜在的代替要員
・ 独身兄弟は事故あるいは死亡の場合に家を継続することを保障した
・ コミュニティの環境-人口動態的安定
・ 安定的経済要因
スライド9
Ⅲ 家制度
1 1804年民法
・ 1789年8月4日における全ての特権の廃止
・ 単独相続の違法化
・ 兄弟間での平等な分配の義務づけ
・ 家制度および直系家族の終了
・ Frédérick Le Play
不平等相続
・ ピレネー住民は単独(不分割)相続を続けるために法律を迂回した
・ どのように?いくつかの事例研究
スライド10
2 相続者の選定のための新戦略
・ 過去と同様の完全な相続はなし
・ 家と血統を守るために家族内の新たな戦略および新たな規則
・ 各々の子どもが彼あるいは彼女の取り分を要求する恐れ
・ 子どもの数を少なくする。2・3人の子どもで完全相続を守るため
・ 単独の相続者が受け取ったのは、
1/4 結婚にもとづく取り分(子どもが3名の場合)
1/4 配偶者の嫁資による取り分
1/4 法的な取り分
1/4 独身の兄弟からの取り分(寄付として)
・ 子どもの数が増えると困難が増す
・ 早期の代償=より安価な代償
スライド11
3 相続から排除された兄弟への代償
・ 子どもが4名以上いた場合
・ 相続についてより低い代償、しかし人生の早い段階で
・ 貯蓄あるいは借金による代償
・ 早期の、低い代償は制度を守った。
・ アメリカが制度を救った。
・ 女性の犠牲
・ すべては分配すなわち破産を避けるため
スライド12
Ⅳ 家制度についての結果
1 相続者に関する法律についての結果
10
・
・
・
・
・
・
・
両親は彼らが死亡するまで家について完全な管理権を持っていた。
相続者:部分的な所有であり、完全な所有ではない
相続者は両親の死亡までは相続を待たねばならなかった
彼らは兄弟が結婚のため家を去るまで待たねばならなかった
代償により、負債が増大
女性による相続が増えた(第1子あるいは末子)
だが、制度は今日まで残る
スライド13
2 相続から排除された子ども達をめぐる法律についての結果
・ 平等相続への権利授与
・ より大きい自由
・ 都市化・工業化・移出
・ 男性はアメリカへ
・ 女性はフランス諸都市へ
・ 全ての者がより大きな独立性を有した
・ その結果ピレネー地方では人口減
・ だが、家制度が死に絶えるほどではない。
11