ムッチがゆく59!

□校長だより□
ムッチがゆく !
59
□ H26. 1.27□
ゆ う
き
や り 返 さ な い 勇 気
かた
私がまだ小学生だったころ、母はことあるごとに、私にこう語ったものでした。
「 い い か い ...。 た と え 人 に い じ め ら れ て も 、 人 を い じ め る よ う な 人 に な っ ち ゃ ダ メ だ よ 。
い じ わ る
かえ
それから、たとえ人に意地悪をされるようなことがあっても、意地悪を返すような人になっ
ち ゃ ダ メ だ よ ...。」 と 。
こ くじんせん しゆ
1 9 4 7 年 4 月 1 5 日 、「 ジ ャ ッ キ ー ・ ロ ビ ン ソ ン 」 と い う 黒 人 選 手 が 、 黒 人 選 手 と し て は じ め て
大リーグの「ブルックリン・ドジャース」のグラウンドに立ちました。
それまでのアメリカには、白人ではない選手は大リーグではプレーできないという高くて厚い
じんしゆさべつ
かべ
「 人 種 差 別 」 と い う 壁 が あ っ た の で す が 、 こ の 「 ジ ャ ッ キ ー ・ ロ ビ ン ソ ン 選 手 」 は 、『 や ら れ て も 、
ゆ うき
しんねん
み ごと
やぶ
決してやり返さない』という勇気と信念を持って、その壁を見事に破っていった人なのです。
ふ し め
そこで、ちょうど「ジャッキー・ロビンソン選手」の大リーグデビュー「50周年」の節目にあた
こうせき
る1997年4月15日から、彼の功績をたたえ、この日は「ジャッキー・ロビンソン・デー」とし
せばんごう
て、大リーグの全ての選手が彼の背番号「42」をつけてプレーすることになっていったのです。
ぜんじゆつ
にゆうだん
と う じ
前 述 し た よ う に 、「 ジ ャ ッ キ ー ・ ロ ビ ン ソ ン 選 手 」 が 、 大 リ ー グ に 入 団 し た 当 時 の ア メ リ カ に は 、
はだ
さ べ つ
しゆうほう
人を肌の色で差別するきまり(州法)がありました。
たとえば、今では信じられないような話ですが、野球場や劇場では白人と黒人の入り口がキッチリ
く べ つ
へ
や
ゆる
区別されていましたし、白人と黒人が同じ部屋で食事をすることすら許されていませんでした。
の
じんしゆ
また、電車やバスに乗るときは、人種ごとに席を分けなければなりませんでした。さらに学校では
もう
ありさま
もちろんのこと、トイレや水飲み場までもが別々に設けられているような有様でした。
かつやく
こ ん な 時 代 で し た か ら 、大 リ ー グ と は 白 人 選 手 が 活 躍 す る 場 所 で あ り 、黒 人 選 手 は「 二 グ ロ リ ー グ 」
と言って、黒人選手だけのリーグで戦っていたのです。
1 9 4 5 年 、「 ブ ル ッ ク リ ン ・ ド ジ ャ ー ス 」 の 「 ブ ラ ン チ ・ リ ッ キ ー 」 ゼ ネ ラ ル マ ネ ー ジ ャ ー は 、
うば
当時「二グロリーグ」で活躍していた「ジャッキー・ロビンソン選手」のプレーに目を奪われます。
かた
そしてついに、リッキーは「ジャッキー・ロビンソン選手」にこう語りかけるのでした。
ほ
そうぞう
ぜつ
ふ ゆ か い
「君がぜひとも欲しい。でも君は黒人だ。だからこの事実は、きっと君の想像を絶するうな不愉快
な出来事を起こすことだろう。つまりドジャースに入団すれば、
てき
まわ
敵は相手チームだけではなく、周りの人間すべてが敵になるか
もしれないということだ。
お
こうげき
しかし、これから起きるに違いないあらゆる攻撃やいじめに
対 し 、 や り 返 さ な い 勇 気 を 持 つ と 約 束 し て 欲 し い ん だ 。」
「 わ か り ま し た 。 き っ と 、 や り と げ て み せ ま す ....。」
しかし、頭の中でわかってはいたものの「ジャッキー・ロビンソン選手」を待っていたのは、
「黒人なんか出て行け!
二グロに帰れ!」
ほんきよち
の 大 合 唱 で し た 。し か も 、そ の ヤ ジ は 相 手 チ ー ム か ら だ け で は な く 、本 拠 地 の「 ド ジ ャ ー ス タ ジ ア ム 」
の ス タ ン ド か ら も 聞 こ え て く る の で し た 。 さ ら に チ ー ム メ イ ト か ら も 、「 ジ ャ ッ キ ー ・ ロ ビ ン ソ ン 」
き よ ひ
たんがんしよ
を選手として拒否する「嘆願書」まで提出される有様でした。
くつ
しかし「ジャッキー・ロビンソン選手」は、すべてを敵にまわす中、何ものにも屈せず、やり返さ
もくもく
こんしん
い ば し よ
ず、ただ黙々と渾身のプレーを続けることで、彼は「大リーグこそが自分の居場所である」ことを自
ら証明して見せていくのです。
と
ま
かくじつ
そして「ジャッキー・ロビンソン選手」を取り巻く人々は、少しずつ、かつ確実に変わっていくの
でした。
あ
あ る と き 、「 ジ ャ ッ キ ー ・ ロ ビ ン ソ ン 選 手 」 に 、 ひ ど い ヤ ジ が 浴 び せ ら れ た こ と が あ り ま し た 。
すると、ショートを守っていた「ピー・ウィー・リース選手」が「ジャッキー・ロビンソン選手」
かた
の と こ ろ へ 歩 ん で い く と 、「 ロ ビ ン ソ ン 選 手 」 の 肩 に 手 を 回 し 、 観 客 に 向 か っ て こ う 言 っ た の で す 。
た
が まん
「正直に言って、今まで君が耐えてきたようなことがもしも自分に起こったとしたら、とても我慢
みな
で き な か っ た 。で も 君 は 、や り 返 さ な か っ た 。
皆 さ ん 、ヤ ジ り た け れ ば 、好 き な だ け ヤ ジ る が い い 。
おれ
しかし、俺たちは野球をしにきているんだ!」
すみずみ
とど
と
「 リ ー ス 選 手 」の 声 が 観 客 席 の 隅 々 に ま で 届 く と 、も う ヤ ジ を 飛 ば す 者 は ひ と り も い ま せ ん で し た 。
と
こ
ど う じ
そんざい
かつやく
そ の 後 、「 ジ ャ ッ キ ー ・ ロ ビ ン ソ ン 選 手 」は 、チ ー ム に 溶 け 込 む と 同 時 に 、彼 の 存 在 と そ の 活 躍 は 、
こうけん
その年の「ドジャース」の優勝に大きく貢献していくのでした。
く な ん
た
え
「ジャッキー・ロビンソン選手」は、苦難の中から耐えて得ることを学び、アメリカ国民は、一番
ひとがら
大 切 な こ と は 肌 の 色 で は な く 、能 力 や 人 柄 で あ る こ と に 気 づ か さ れ ま し た 。さ ら に 彼 の 活 躍 と 人 柄 は 、
あた
マスコミにも大きな影響を与えていったのです。
「 ブ ル ッ ク リ ン ・ ド ジ ャ ー ス 」 に 入 団 す る 前 、『 黒 人 は 、 大 リ ー グ で は 成 功 で き な い ! 』 と 書 い た
えら
新聞記者たちは、その年の投票で「ロビンソン選手」を新人王に選ぶと共に、こう書きました。
「今年のドジャースの優勝のために、ジャッキー・ロビンソン選手ほど貢献した選手はいない。
こ れ は 、 彼 を 見 い だ し た ブ ラ ン チ ・ リ ッ キ ー 氏 の 勝 利 で も あ る ....。」 と 。
こうれい
さ て 、 去 る 1 月 2 3 日 ( 木 )、 毎 年 恒 例 の 「 長 縄 集 会 」 が 行 わ れ ま し た 。
へ い さ
残念ながら当日は、インフルエンザのため1年2組と6年生が学級・学年閉鎖で参加できませんで
ぞんぶん
は つ き
かんせい
かん ど う
したが、それ以外の子どもたちは日頃の練習の成果を存分に発揮し、新記録続出の、正に歓声と感動
いっぱいの集会となりました。
特 に 、私 が 一 番 素 晴 ら し い な ぁ ..と 感 じ た の は 、閉 会 式 で も 話 を し ま し た が 、長 縄 の 練 習 期 間 中 、
と
せ
上手に跳ぶことができないお友だちを責めるような子がひとりもいなかったことです。
今回の「ムッチがゆく!」に書いた「ジャッキー・ロビンソン選手」
は、やられてもやり返さない人のお話でしたが、今回の長縄集会に向け
ての練習で、上手に跳ぶことの出来ないお友だちを決して責めなかった
平岡小のみなさんには「ジャッキー・ロビンソン」以上の素晴らしさが
あったと思います。
こ れ か ら も 、「 仲 良 く 、 楽 し い 平 岡 小 」 に し て い き ま し ょ う 。