花ギル時 - Textt

花ギル時
ギルガメッシュの手首あたりに、愛らしい緑が顔を出した。腹を満たしたあと、そのままじいッ
っとしていると、こうして芽が出てくる。持て余した養分を使ってしまおうと、どこか端の方か
ら緑の新芽がつぎつぎほころび出すのだ。もう少し放っておくと、蔦がくるくると肌を這って肌
に緑の模様を描き、さらにはあたらしい葉をつけはじめる。時臣はうっとりと、青い目をゆるめ
、芽吹き柔らかな葉を茂らせる王の裸体を眺めていた。なにがおもしろいのか、と目元に伸びて
きたかずらの先を払いながらギルガメッシュは眉を寄せている。金の絹糸に、細い蔦の先が絡ま
って束を作り、耳元をくすぐった。蔦に覆われつつある右腕は、ふたりが住まう古びた洋館の壁
を想起させた。時臣にふれるのを止めれば、生長はゆるやかになると知っているが、子どものよ
うに目を輝かせる時臣を思うと、そうするのもためらわれた。しかし、時臣。とひとつ名前を呼
ぶと、かれはおとなしく目を閉じる。ゆるく開かれたままの唇に、ギルガメッシュは己のそれを
重ねてやった。ころん。おのれの舌先にかたい感触を覚えた。つぼみだ。それをさらに舌から舌
へ、飴玉をやるように、時臣の口の中へ楽しみにしていたものをうつしてやる。目を開けよ。そ
う命じられて、時臣は目を開く。おおきく開かれた時臣の唇、その狭間からは、ギルガメッシュ
からうまれたまっかな満開のばらの花が絢爛と覗いていた。
おさなき日の(綺礼)
ぽっかりと地面に孔があいている。そこからぞろぞろと虫が這いだすのを見ていた。ひとりの亜
麻色の子どもはそれを気味が悪いねと笑ったが、もうひとりの黒い髪の子どもはそれを可愛いと
思って見ていた。連なる蟻共がなす黒い鎖は、可愛い。てんてんてん、とその列が続く先には、
なにか奇妙なかたまりがある。近づいてよく見れば、鳥の雛が潰れて死んでいた。蟻の群れはち
いさなちいさなあぎとでそれをちぎり、咥え、巣に持ち帰っているのだ。きゃあ、と隣にいた銀
髪子どもが引きつった声を上げる。靴の先にはぐれた蟻が数匹。やだあ、と震えた声が耳に入っ
た。
黒い瞳の子どもはそれをきくと裏の井戸へと走り水をくみ、如雨露に満たす。なみなみと清水を
湛えた如雨露をウサギの仔を抱くように両の腕で抱え、子どもは再び蟻の巣の前に戻る。変わら
ず、小さな黒い点は意志を持ってぐちゃぐちゃと動いていた。可愛い。如雨露をかたむけ、びし
ゃびしゃ、びしゃと細い隊列の上にさばきの洪水をもたらす。たちまちのうちに水たまりが出来
た。ぱたぱたと短くてほそい六本の脚がもがいて、くるくると踊っている。可愛い。なんて可愛
いんだろう。如雨露の水がなくなるまで、ひたすらに浴びせ続けると、やがてすべてがなくなっ
た。潰れた雛の死体だけが、ずぶ濡れになって泥にはまりかけている。うきうきと、隣の子ども
を見た。すばらしいね、と話しかけたかったが、亜麻色の髪の毛を風で揺らしながら、隣の子ど
もは「綺礼君ありがとう、アリを流してくれて」と、そういったから黙った。 急に、すべてど
うでもよくなった。あんなに可愛かったのに。巣穴をぐりぐりと踏み潰す。すべて平らになる。
なにもなくなる。なにも。なにも。可愛いものも、そうでないものも。なにも。
まるい(ギル時・グロ)
何を考えてそうしたのかはわからない。
わからないことがなければ愉しくないのだという。
たしかそういう話だった。人生というものは。
あっさりと落とすには幾分か惜しくて、台所にあった刃物を持ち出したのが悪かった。肉を切る
包丁だから、ヒトを切るにも使えるだろうと思ったが、とんだ見当違いだった。よく切れる、な
んて謳い文句で買ったのに、ステンレスの刃はあっという間に脂で鈍り、終いには刃こぼれして
しまった。ヒトの骨は案外丈夫にできている。
ほとんど圧し切るような形になってしまったので、辺り一面酷い有様だ。優雅な振舞いを信条と
していた筈なのに、それはひどく暴れ、砕けた花瓶の隣にばらの花が散らばっている。
「ああ、すまなかったなあ……」
青ざめた頬に掛かる巻き毛を払ってやる。生きていた。
「後の三つは、手早く落としてやろう」
頬に唇を寄せれば、思いのほか熱かった。生きている。
やはり、安物など使うものではない。とっておきを以て、大切に、かつ速やかに落とすのが好ま
しい。切り花と同じだ。もたもたしていれば、それだけ損なわれてしまう。彼が損なわれるのは
好くない。王の宝だ。剪定による整形以外に、余計な傷をつけるべきではなかったのだ。割れた
陶器の破片が掌を裂いてしまっているのを見て、溜息を吐いた。民草の刃を用いるなど、まった
く愚かな真似をしてしまった。次はうまくやらねばならない。
「さあもう一度、いや三度」
煌々と開く黄金の扉からずるりとつるぎを引き出して、ひた、と付け根に押し当てる。
それだけで落ちた。花の蕾が転がるように、それ――時臣の脚はみごとにころん、と転がった。
随分、美しい形になったように思う。円に近づいた。円こそが完全だ。
一度使ったつるぎを二度用いて、万が一先ほどの刃物と同じようにならぬとも限らない。新しい
ものを取りだして、同じように引いた。三本を使い捨てることになったが、惜しくない。時臣は
ますます美しい。美しい。ころ、と転がっていた腕をひろい、三本のつるぎと共に宝物庫に収め
る。不要と切り払ったものだが、断じて廃物などではない。
燃えるような憎悪を込めて、青い瞳がこちらを見ている。心が躍った。
「さて」
頬にもういちど、そして最後に口づけて、そのすぐ下にあらたな四本目を落とす。とん、首だ。
ころりと落ちて、それで終い。
円い。完全なものがそこにある。
15分のお題:悲観的な四肢切断・ラストで死ぬ
自然のあてのないうつくしさ
※時臣生きてる10年後
ずらり、と鏡の前にならんださまざまのマニキュアを眺めながら、凛はため息を一つついた。
あの金ぴかときたらいったい、わたしが何本の腕を持っていると思っているのだろう?
昔から、ギルガメッシュは凛になんらかを買い与えるのが好きだった。靴も、服も鞄も、香水
も口紅もマニキュアも、凛は山ほど持っている。使い切れぬ間に次がやってくる。——単に甘や
かしている、のとは違うようだ。どうもこれは、ギルガメッシュ自身の愉しみのうちであるらし
い。凛がとても使わないような「とんでもない」色合いのものも気にせずよこしてくるのがその
証拠だ。
そうしている間にもキイとドアが開いて、(相変わらず、遠慮がない。鍵をかければよいのだが
、そうする必要性を感じなかったのも事実だ。)紙袋を携えたギルガメッシュが揚々とやってきた
。またなにか買ってきたのだろう。今朝方、父を文字通り引きずってどこかに出かけていたよう
であったから。
「ああ、いたのか。見よ、新色だというので買ってきた」
「あのねえ、くれるのはうれしいけどそんなに次々使い切れないってば。わたしにそんなにいろ
いろ買って、どうしたいのよ」
呆れの色を織り交ぜて問えば、彼は紙袋やもろもろの箱を下ろしながら首を傾ぎ、さも不思議
そうな顔で「美しいものを飾りたいと思うのは、お前たちにはかわったことなのか?」と、答え
た。——うつくしいもの?
「美しいって、わ、わたしが?」
「ああ、お前たちは美しい」
とんとんとん、とドレッサーの前になにやらまた色とりどりの瓶をならべながら、鏡越しにギ
ルガメッシュは笑んでみせる。上弦の月をかたちどった唇に、血の赤が透けていた。痘痕のひと
つもない磁器のような肌が温かい灯りのいろをほんのすこし浮かせている。
「お前も時臣も美しい。生きたものの美しさだ」
「よくわからないけど……美しいって、きっとあんたみたいなのに使う言葉だわ」
幼い頃から、父のサーヴァントはなにより美しいと思っていた。その身が父によってつくられ
ているとなればなおさら、輝かしいものに思えた。けれどギルガメッシュはゆるく首を振って、
星の光のようにとおい光を瞳に宿す。
「我は変わらぬ故に、生けるものの美には敵わぬ。生きるお前たちにはあてがない。行く先のし
れぬものこそ美しい」
凛の豊かな長い髪をそっと撫でて、ギルガメッシュはそう言った。かつて永遠の命を求めたと
いう男の台詞にはとうてい思えなかったが、ずっと共に暮らしているうちに、この英霊は随分と
自分たちに近しくなったようだ。――だとすれば、こうしてうつりかわる表情のひとつひとつも
自然で、彼の言い方を真似るなら、生きている、と言えるのではないか。凛はひそかにそう思っ
ている。そうでなければ、これほど美しくあたたかく、自分や父に微笑みかけるはずがない。
「さあ凛、手を出せ。あたらしい色を試してみようではないか。お前に似合いのよい赤だぞ。我
が手ずから塗ってやろう。なに、失敗はせぬ。時臣が我にするようにやればよいのだろう」
「なによあんた、そんなことまでお父様にさせてたの?」
「我が命じているのではない。あれもまた、美しいものは飾りたいと、そういう性質であるらし
くてな、日々実に楽しそうだぞ」
サーヴァントの癖に生意気よ、と憤慨しながらも、凛のほそい指は存外素直に差し出された。
あてのないものは美しい。その言を信じて、まずはこの十指の行く末を成り行きに委ねてみよう
と思ったのだ。
お題を無視し、15分ルールを無視する。そういう女だ。すみません25分かかりました。
角が痛くて眠れない臣
眠ろうと目を閉じている。しかし視覚を立てばなお鋭敏になるその他の感覚の煩わしさに、時臣
はひどく疲れた様子の溜め息を洩らした。頭が重い。火鉢の底をあさるような嫌な熱を帯びてず
くずくと痛い。そろそろと側頭部に手を伸ばして、それに触れた。こつん、と爪が当たり、頭蓋
に響く鈍痛に思わず顔をしかめる。そこには大きく巻いた一対の角がひたすらに硬い感触のみを
返していた。これが熱の原因だ。日毎によく育つこの角は、美しく伸びゆくが熱と痛みを伴って
時臣の眠りをことごとく妨げる。もうしばらく眠れぬ夜は長かった。眠ることを諦めて閉じてい
た目を開けば、時計の針はあまりに遅々として進まない。寝台に腰掛け、角の捻れにふれて確か
めながら窓の外を眺めている。「眠れないのか?」ふと聞こえた声に顔を向ければ、金の砂を撒
くような光粒と共に、ギルガメッシュが部屋に姿を現していた。慌てて顔を上げると、慣れぬ角
の重さに首が傾いで、あ、と間の抜けた声を上げてしまう。「そう急がずともよい」とギルガメ
ッシュは愉快そうに笑う。赫々と瞬く星の瞳が細まって、優美な双角の造形を愛でていた。今日
もやはり痛んだかとギルガメッシュが訪ねると、項垂れて時臣が「全く困りもので」と不満を漏
らす。美しい角だったが、時臣はこれをどうにも疎んじているようだった。「もうしばらく辛抱
せよ」と宥めるように言って聞かせながら、ギルガメッシュの指先が静かに角に延びて、大きく
捻れた中心から、付け根までをやさしくいたわるように撫でてやる。じくじくと時臣を苛んでい
た熱が、そこから解れてゆくようだった。夜毎痛む角を癒すのはギルガメッシュの仕事だった。
「ほら、これで眠れるだろう」そう言って、硬い角の表面に唇を触れてやれば、ようやく時臣に
おだやかな眠りが落ちてくるのだ。
改行は旅にでた
ロ凛と綺礼
じいじいじい、と蝉が鳴いていた。
アスファルトのむこうにゆらゆらと不思議な模様が出ている。夏休みのまんなか頃は、いつも
とても暑くてたまらない。わたしのほんの少し前に、夏の濃い影みたいな綺礼が歩いている。わ
たしをプールまで送ってくれるというのだ。もちろん頼んでない。一人でも行けるわ、と言った
けれど、せっかくの親切を無碍にしてはだめよとお母様に言われてしまうともうどうしようもな
かった。綺礼はわたしだけに見える場所で意地悪く笑っていた。わたしはせめての仕返しに、水
着の入った手提げかばんをゆらゆら揺らしながら、目の前の影を踏んで歩いていた。いつも高い
ところにある綺礼の頭をこれでもか、とばかりに踏んでいる「つもり」になっている。
綺礼は夏でも大抵黒い服を着ていて(お父様は好きな服を着てもいいと言ったにもかかわらず、
だ)目を回しそうな暑い日でも、ひとりだけ涼しげな顔をしているのがあたりまえだった。神父っ
てみんなそうなの、と訊ねたら、笑われたことを覚えている。くやしいことを思い出して、わた
しは小石を蹴って、綺礼のほうに転がした。綺礼はそれをうまく避けてしまう。やっぱりくやし
い。
「……ねえ綺礼、暑くないの? わたしは暑いわ。その恰好、すごく暑苦しい」
「なんだ、暑いのかね。それなら私の影に入っていなさい」
綺礼がゆっくり振り向いて、そう言ったものだから、わたしはすこし面食らってしまった。あ
んたそれでわたしの前を歩いてたの、と聞こうと思ったけれど、どうせまたくやしいことになる
ので、それは止めておいた。そうじゃないわよ、とだけ返事をして、わたしはさっきまで踏んづ
けていた綺礼の影の中に入る。
アルバトロス・シアター(CCC/BB)
「ねえセンパイ、アルバトロスって知ってますか? あてはまる言葉はいろいろありますから、
そのうちのなんでもいいですよ。例えばぁ、ゴルフとか、お好きですか?アルバトロス。または
ダブルイーグル。とーっても珍しいから、実際にお目に掛かれたら嬉しいですよねぇ。見たいで
すかぁ? BBちゃんに土下座してお願いするなら、スーパーゴルファーBBちゃんがすばらし
いショットを見せてあげなくもないんですけどぉ。……まあ今BBちゃんが言いたいのはアホウ
ドリの話ですけどね。英名はアルバトロス、なんてとってもかっこいいのに日本語ではアホウド
リなんてびっくりですよね。
そう、阿呆のアホウ、です。やだー、センパイのことを言ったんじゃないですよぉ。鳥のお話で
す。空を飛ぶ羽根が大きすぎて、地上ではあっさり捕まっちゃうお馬鹿さんなんです。人間への
警戒心もとっても薄いものだから、もう捕まえ放題取り放題で絶滅のピーンチ!なんですよ。な
んか今の誰かさんみたーい。いくら空が飛べたからって、それまでに捕まっちゃダメですよねえ
? 警戒心って大事ですよねえ? ……でも安心してくださいね。ここにいる限りは、ちゃ~ん
と自然環境の保護に熱心なBBちゃんが守ってあげます。よかったですねえ。わたし、おバカさ
んは嫌いじゃないんです。本当ですよ。鳥かごが狭いからって、暴れちゃイヤですよ。それじゃ
あ、おやすみなさい。」
冷たい塊の話
絶望的なものほど美しいのだと、その男は言う。
私はいつも眠い目(我が身は眠りを未だ欲する。馬鹿馬鹿しい話である。未練がましい)を擦りな
がら、そのどうしようもない与太話に耳を傾けてやるのだ。彼はいつも絶望的な目をしている。
それこそが美であるというのであれば、わが胸に去来するこの言い表しようのない悲しみ、ある
いは寂しさ、あるいは憂いは一体なんだと言うのだろうか。私は呼吸を忘れた男の姿を見ている
。私の屍を抱いて眠る、死人のような男を見ている。「私」という存在がありながら、彼は「私
の屍」とばかり眠りを分ける。故に夜ごと私は一人で眠り、死体と眠る男のことばかりを考える
羽目になる。冷え切った私の肉は未だ穢されぬ。全く不気味な姿であったので、それをなぜ埋め
ないのか、と聞いた事があるが、なぜ埋めなければならぬのか、と問い返されたので問答はそこ
で終了した。この問答に価値を見い出せぬ。そうしているうち、彼が夜の色した僧衣を脱ぎ、疵
のはしる肌を冷たい死体に押し当て床に就くのを、なんとなく許したことになっている。私の眠
る寝台はここにはない。私は硬い椅子に座し、今日も彼と話をしてやる。胸の孔をしずしずと撫
でながら、その孔をあけた男と話をするのだ。かつてのように何かを教えることはもうあまりな
い。私はただ聞いている。低く神の庭の夜を揺らす男の声を、昼間訪れる信心深いひとびとのよ
うな真剣な面持ちで、私はひたすら聞くのみだ。彼の妄言こそが、いまやこの空虚を埋めるひと
つきりの手段となってしまった。私の肉は腐らず、私の魂は還らず、私はただ彼を眠らせるだけ
の、彼を寝かしつけるだけの、どうしようもない亡霊になっている。
絶望的だ、まったく先がない、けれど彼はそれを美しいと笑う。そうして、永遠に眠れない私の
眼前で、水に溶ける様に、安寧に眠るのだ。
幽霊臣と綺礼と死体臣
正しい子(捏造・ステクラ少年期知り合い設定)
もうずっと昔の話だ。その頃のクラウスは未だ成長期を迎えていなくて僕よりも背が低かった。
小さな頃の彼は今よりずっと内気で、僕と目を合わそうとしては、厚い前髪の奥から緑色をした
瞳がこちらをそろそろと見上げてくるのが癖だったけれど、弟のいない僕には、そのいかにも幼
い仕草はそれはそれは気分のいいものだった。だからよく、何かにつけては世話を焼いていたな
。カメオのついたクラバットの角度を、丁寧に両手で直してやると、「ありがとう、スティーブ
ン」とはにかんで、クラウスはいつも嬉しそうな顔をしたんだ。さして歪んでもいなかったのに
、ただ僕が兄貴分ぶりたくてそうしただけだとそのくらいクラウスにだってわかっていたろうに
、それでもクラウスは僕に構って貰えるのが嬉しかったんだろう。彼の二人の兄はそれぞれ、習
い事だのなんだので忙しかったから。
クラウスは僕のすぐ後ろを歩きたがったけれど、まだ歩幅が狭いものだから、僕の足に追い付け
なくてよく転んでいたものだ。転んで、膝を擦りむいて、マスカットみたいな小さな瞳を涙に潤
ませて、こちらに手を延ばしてくるクラウスが、僕は密かに好きだった。だからわざと早歩きを
して、クラウスの歩幅にあわせてやらないこともあった。意地が悪いだろう、クラウスが転ぶの
を待っていたんだ。転んだクラウスが、「スティーブン、待ってくれ」と僕の名前を呼ぶのをね
──今にして思えば、まったく大人げない行いで、お恥ずかしいことだ。けれどまあ、大人げな
いもなにも、僕はその頃大人ではなかったから、仕方のないことだろう。「スティーブンは脚が
長いから、私より歩くのがはやい」抱き上げたクラウスが、赤くなった膝を悲しそうに睨みなが
らそう言うのを、僕がどんな気持ちで聞いていたか、わかるだろう。「大きくなって強くなれば
、転ばなくなるし、僕の隣で歩けるさ」僕はいつもそうやってクラウスのことを宥めていた。「
本当に私はスティーブンくらい大きくなれるだろうか?スティーブンより強く?」「なれるよ、
君ならね」
ああ、ある時……クラウスが野良犬を拾ってきたことがあった。あれは、いつのことだっただろ
うか。育ちきって気難しい、薄汚い犬だったけれど、事故にあって倒れていたところを心優しい
クラウス少年は見捨てきれずに連れ帰ったのだそうだ。家の方々は随分難色を示されたようだけ
れど、『かわいいクラウスお坊ちゃま』のお願いを断れるものはそういなかったらしくて、いつ
の間にか庭の片隅にその犬ころのための空間が出来上がっていた。クラウスの花壇の隣くらいに
、見窄らしい犬には不釣り合いな小屋まで建ってね。けれどまあその犬の懐かないことときたら
……野良でいた時間が長すぎたのだろう、ロッティ、とクラウスに立派な名前まで貰っておきな
がら、元気になったその犬はいつもクラウスを見る度に唸っていた。もちろん僕にもな。けれど
もクラウスは決してそれを叱らず、その目に慈愛すら浮かべながら、「ロッティはこれまで沢山
つらいことがあったのだから、すぐに心を開いてもらおうなんて思っていない」なんてのたまう
のだ。その様子と来たら、まるきり天使のようだった。会う度会う度、懐きもしないで可愛げな
いその犬ころの話を聞かされる僕は、退屈で死んでしまいそうだったけれど。
ああそれで、日曜日の昼だったかな。程よく気のゆるむ時さ。悲鳴が聞こえたんだ。よほどびっ
くりしたんだろうな、転んだときにあげるのより、ずっと大きな声だった。ともかくクラウスの
悲鳴で、訪れていた僕も、ラインヘルツの使用人たちも、弾丸のようにすっ飛んでいった。庭の
片隅、鎖に繋がれたロッティの前で、ぼろぼろ涙をこぼしながらうずくまるクラウスのほそい腕
にはっきりと赤い咬み傷が見えて、「ああとうとうやらかした」とその場の誰もが思っただろう
。もちろん僕も思ったさ。ワクチンは打ってあったけれど、当然それで済む話でもない。クラウ
スは可哀想に、驚いて尻餅をついたんだろう、ズボンの尻を土で汚しながらぶるぶる震えていた
。けれどもクラウスときたら、それでも勇敢に立ち上がって、未だ性懲りもなく唸っている馬鹿
犬の前に立って、「私は大丈夫、ロッティを責めないでやってほしい」なんて言うんだ。使用人
たちは困っていた。ああ困り果てていた。だから僕は助け船を出してやった、クラウスにじゃな
い。使用人たちにだ。僕は幼いクラウスを見下ろしてこう言ったんだ──「クラウス、クラーウ
ス。それじゃあいけない。クラウス、君はそいつに舐められたんだ。だから咬まれた。これは君
のせいだ。君がロッティの主でいたかったなら、君はロッティを叱るべきだった、君が弱かった
から、君が甘やかすばかりでそいつを正さなかったから、ロッティはこれから殺される」殺され
る、その強い言葉に、クラウスの白い喉が、ひくりとひきつったのをよく覚えている。林檎のよ
うな頬がみるみるうちに青ざめて、震える唇から小さな牙をかちかちと鳴らして……「やめてく
れスティーブン、私なら、本当に大丈夫だから、お願いだ、やめさせて、ロッティを殺さないで
」……クラウスが僕に祈ったのはその時くらいじゃなかったかな。両手を合わせて、教会でする
ように真剣に。
犬か?もちろん処分したとも。何より僕が許さなかった。ラインヘルツの血を無為に流させて、
無事でいられる生き物なんてあるものか。クラウスはずいぶん落ち込んだけれどね。宥めるのに
は骨が折れた。知っているだろう、クラウスはあれで頑固なんだ。使用人や教育係には荷が重す
ぎたってんで、僕が連日慰め役に徹したよ。「君を責めても仕方がないけれど」とうなだれなが
らも、抑えきれずにクラウスは僕の胸を小さな拳で何度も何度も叩いて、あの犬の名を呼び、そ
れでも終いには「私が間違っている、正しいのはスティーブンのほうだとはわかっている」なん
ていじらしいことを言うんだ。優しいクラウス。「君が強くなれば、今度は大丈夫さ」そんな酷
い慰めを謳いながら、僕はすっかりよれよれになった彼のクラバットを、今度こそ心から丁寧に
直してやった。そうして、何度も胸を叩かれながら、「でも、でも」と繰り返すクラウスが僕に
向ける、その心からの恨み言を永遠に聴いていたい気持ちでいた。……ああ、もうこんなに経っ
てしまったか。長い割に実のないのが思い出話というやつだ。まあ犬は、それ以来結構好きだな
。
クラウス坊ちゃま8さい スティーブン少年14さいくらいのつもり フェチ弁当デラックス