934.「ピッチャーというのは、ノーマルな人間(で)は大成しませんね

…
934.「ピッチャーというのは、ノーマルな人間(で)は大成しませんね」。こう言って長嶋茂雄…
日本経済新聞「春秋」2021.29.
(傍線・カッコ内:吉田祐起引用)
「ピッチャーというのは、ノーマルな人間は大成しませんね」。こう言って長嶋茂雄さんが続けた。
「われわれ(打者)は逆に、ノーマルじゃないと仕事ができないんです。相手があって商売が始まり
ますから」。ある対談での発言を意外に感じつつ読んだ記憶がある。
▼ほどなくこの人を思い起こして得心した。松井秀喜選手の、たったワンシーンでもノーマルでな
かったことがあっただろうか。その姿勢は引退を明かした記者会見までまったくぶれなかった。「長
嶋監督と二人で素振りした時間」を野球人生いちばんの思い出にあげたが、学んだのはバットの
振り方だけではなかったのだ。
▼お尻から体つきから一回り二回り違う猛者にまじっての大リーグの10年が、次々脳裏から立ち
あらわれてくる。ヤンキースタジアムのデビューで放った満塁本塁打。ぼてぼてのゴロ。手首を折
ったスライディングキャッチ。ワールドシリーズの活躍。ただ、ノーマルすぎるがゆえに痛々しく見え
ることも、最近は多かった。
▼2年前の9月8日、スタンドに赴いた。エンゼルスのMATSUIは八回に代打で登場、と思う間もな
く、相手投手が左腕に代わると「代打の代打」を送られた。わずか10メートルほど、打席へと歩んで
引き返すうつむきがちの後ろ姿が目に焼きついている。その屈辱と引退とを二重写しにすると、浮
かぶのは矜恃(きょうじ)の一語である。
ヨシダコメント:
身障者の立場で、かつ多忙・変化の大きな人生を歩んできたせいか、ヨシダは世間オンチの一面
が否定できない自身を自覚したものです。野球オンチはそのひとつ。あの英雄・長嶋茂雄大人物に
対する認識もお粗末千万だったと深く反省します。
松井秀喜選手のことは、つい数日前に本コラムに取り上げた始末です。野球ド素人の私の松井さ
ん印象は「華やかさ」でなく、文字通り「ゴジラ」のごとき、逞しさ一本の強烈のイメージでして、好感
を抱いた一人です。先日、パソコンで同氏の引退会見の弁でそれを印象強くしたものです。本コラ
ム直前のNo.932:「後悔なし」 ゴジラ引き際の言葉引退表明の松井会見から」がそれです。
「代打の代打」の意味することは、いくら野球オンチでも理解できます。「屈辱と引退とを二重写しに
すると、浮かぶのは矜持である」に深い想いを禁じ得ません。「矜持」とは「自信と誇り。自信や誇り
を持って、堂々と振る舞うこと」とあります。ミスター松井に相応しい人物像と見受けます。
さて、「ミスター」と言えば、スポーツ神話になっている「ミスター・長嶋」です。失礼を弁えずのことで
お許し願いますが、ナガシマさんの話される「ニッポン語」は独特のモノがあったとか。そのまま文
章化したらちょっと、オカシイという類の日本語表現と認識したものです。そういえば、ラジオ(当時)
のインタビューをよく聴くと、???と思ったこともあります。御大だけに許される独特「ナガシマ節」
とでも言ったほうがイイでしょう。私の分析はそれを計算された御大の言葉とみます。
さもあらん、と思ったのは本稿「春秋」のタイトル「「ピッチャーというのは、ノーマルな人間は大成し
ませんね」です。「・・・というのは、・・・は大成しませんね」というくだりです。本稿筆者は忠実に御大
の言葉を再現されたものであり、そこに御大の御大たる所以があると受け止めます。かくいうヨシ
ダは失礼を百も承知で「(で)を挿入した(させていただいた)次第です」。
この師にしてこの弟子あり、が野球オンチのヨシダの弁です・・・。あしからず、お許しください。お二
人のミスター(ズ)に心底伏して尊敬とエールをお送りします。良き新年をお送りくださいませ。
No.1(1-300) No.2(301-400) No.3(401-500) No.4(501-700) No.5(701-900)