無線LANにおける実時間通信のためのハンドオーバ管理手法 Handover

社団法人 電子情報通信学会
THE INSTITUTE OF ELECTRONICS,
INFORMATION AND COMMUNICATION ENGINEERS
信学技報
TECHNICAL REPORT OF IEICE.
無線 LAN における実時間通信のためのハンドオーバ管理手法
樫原
茂†
尾家祐二 ††
九州工業大学 情報工学部 電子情報学科 † †† 〒 820—8502 福岡県飯塚市川津 680—4
E-mail: †[email protected], ††[email protected]
あらまし
モバイル端末がリアルタイム通信中に異なるドメインの無線 LAN 間を移動するとき,ハンドオーバ時のパ
ケットロスにより瞬断や通信品質の劣化が生じる.本論文では,ハンドオーバ時のパケットロスを防ぐために,ハン
ドオーバ処理時間の削減と移動中の良好な無線 LAN の選択を行うハンドオーバ管理手法を提案する.まず,リンク
レイヤハンドオフ処理時間を削減するため,モバイル端末に複数の無線 LAN インタフェースを搭載する.次に,移
動中の良好な無線 LAN の選択を行うための指標として,MAC 層のフレーム再送回数に着目する.モバイル端末はフ
レーム再送回数から,パケットロスが発生する前に無線リンクの状態の悪化を検知することが可能となる.提案方式
では,Handover Manager(HM) は各無線 LAN インタフェースからデータフレーム再送回数を取得し,これらの情報
を元にハンドオーバ時のパケットロスを防ぐネットワーク選択を行う.
キーワード 無線 LAN,実時間通信,ハンドオーバ,再送回数,ネットワーク選択,クロスレイヤ
Handover Management for Real-time Communications
in Wireless Local Area Networks
Shigeru KASHIHARA† and Yuji OIE††
Faculty of Computer Science & Electronics, Kyushu Institute of Technology Kawazu 680—4, Iizuka,
Fukuoka, 820—8502 Japan
E-mail: †[email protected], ††[email protected]
Abstract The mobile capability for real-time communications during handover between WLANs, which is administrated by different organization and hotspot operators, requires prevention of packet loss. In order to minimize
packet loss during handover, reduction of handover duration and selection better WLAN during movement is required. First, a mobile node has two WLAN interfaces to dispense with link-layer handover duration. Then, to
select better WLAN during handover, we aim at the number of times of frame retransmission on MAC Layer. The
frame retransmission times can be used as an index indicating the communication quality of WLAN. In this paper,
we propose handover management on a transport layer to prevent packet loss during handover. In our proposed
method using cross-layer design, MAC layer for each WLAN interface informs handover manager (HM) the frame
retransmission times, and HM controls handover selecting better WLAN based on the information so that packet
loss is reduced.
Key words WLAN, real-time communications, handover, retry, network selection, cross-layer
1. は じ め に
広帯域なインターネットへの接続環境を簡単かつ安価に提供
できる無線 LAN を使用したネットワークが急速に普及してい
スポットとして急速に普及しつつある.今後,これらのホット
スポットが更に普及しオーバラップすることで,ユーザがいつ
でもインターネットにアクセスできるユビキタス環境が実現さ
れると予測できる.
る.それに伴いノート PC や PDA などモバイル端末への無線
こ れ か ら の ユ ビ キ タ ス 環 境 で は ,近 年 の 携 帯 電 話 や
LAN インタフェースの搭載比率も高まっている.その結果,無
VoIP(Voice over IP) の普及からも予測できるように,リア
線 LAN は企業や大学など使用者が限られた空間だけでなく,
ルタイム通信が最も顕著な利用形態となる.リアルタイム通信
不特定多数の人が集まる空港・駅構内や喫茶店などにもホット
としては IP 電話 (VoIP) やテレビ会議などが挙げられる.しか
–1–
し,このようなリアルタイム通信は,インタラクティブな通信
(1,2) と Mobile IP ハンドオーバ処理 (3,4) の 2 つに分けること
を行うため,パケットロスや遅延などの影響を受けやすく,移
ができる.[3] より,リンクレイヤハンドオーバ処理に 50ms∼
動中の通信品質を維持することが非常に困難である.
400ms の処理時間が発生することが明らかになっている.さら
現在の技術では,モバイル端末はリアルタイム通信中に異な
に,Mobile IP ハンドオーバ処理において DHCP による新し
る管理ドメインで構成された無線 LAN 間をシームレスに移動
い IP アドレスの取得 (300ms [4]) とバインディングアップデー
することができない.異なるドメイン間を移動する場合,モバ
ト (片道遅延) を考慮すると,これらのハンドオーバ処理時間が
イル端末の IP アドレスが変更されるため通信は切断されてし
リアルタイム通信の通信品質の劣化を引き起こすことは明らか
まう.そこで,このようなモバイル端末のモビリティを実現す
である.
るための方式として,これまで Mobile IP [1], [2] を用いた研究
が数多く提案されている.
Mobile IP は IP に移動透過性を持たせることができ,モバ
イル端末は IP アドレスの変更により通信を切断されることな
く,異なるドメイン間を移動することが可能となる.しかし,
Mobile IP では,このハンドオーバ処理時間を改善するため
に,FMIPv6 [5] や HMIPv6 [6] が提案されている.しかし,こ
れらの方式は,我々が想定している異なる管理ドメインのネッ
トワークへの適用が難しい.
異なるドメインの無線 LAN 間のハンドオーバ時のパケット
異なるドメインの無線 LAN 間のハンドオーバ時には,レイヤ
ロスを防ぐためには,ハンドオーバ処理時間の削減だけでな
2 およびレイヤ 3 のハンドオーバ処理時間が発生するため,モ
く,パケットロスの発生を事前に予測し,通信品質が良好な無
バイル端末が通信できない期間が生じる.その結果,この間送
線 LAN を選択することも重要である.現在は,使用する無線
信されたパケットはパケットロスとなるため,パケットの再送
LAN の選択指標として電波強度が用いられているが,電波強
を行わないリアルタイム通信では瞬断などの通信品質の劣化が
度はアクセスポイントとの距離や壁などの遮蔽物といった様々
生じる.
な原因により急激に変化するため,電波強度からパケットロス
また,無線 LAN の通信品質は時間的に変化し,アクセスポ
イントとの接続の予期せぬ切断や,バースト的なパケットロス
の発生を事前に予測することは難しい.
そこで本研究では,無線 LAN の通信品質の劣化によるパケッ
が発生する.モバイル端末が異なるドメインの無線 LAN 間を
トロスの発生を予測するための指標として MAC 層のデータフ
移動する際には,このような予期せぬ通信品質の劣化によるパ
レームの再送回数に着目する.データフレームの再送は,電波
ケットロスを防ぐ必要がある.現在,無線 LAN の通信品質を
強度の減衰やフレームの衝突によりデータフレームが正しく相
検知する方法として電波強度が使用されているが,電波強度は
手に届かなかったときに発生し,予め決められた再送回数に達
アクセスポイントまでの距離や壁などの遮蔽物といった様々な
するまで再送を繰り返す.したがって,再送回数はパケットロ
原因により急激に変化するため,パケットロスの発生を事前に
スに直接関係するため,無線 LAN の通信品質の劣化によるパ
予測することは難しい.
ケットロスの発生を予測するための指標として用いることがで
そこで本論文では,異なるドメインの無線 LAN 間のハンド
オーバ時におけるリアルタイム通信のパケットロスを防ぐため
のハンドオーバ管理手法の提案を行う.提案方式では,モバイ
きると考えられる.
3. 無線 LAN 環境における VoIP 通信
ル端末に複数の無線 LAN インタフェースを搭載し,ハンドオー
再送回数が無線 LAN の通信品質の劣化によるパケットロス
バ時に複数の異なるドメインの無線 LAN と予め接続しておく
を予測するための指標として用いることができるかを調べるた
ことでハンドオーバ処理時間の削減を行う.さらに,パケット
めに,無線 LAN 環境において VoIP 通信を行った際のパケット
ロスの発生を予測する指標として MAC 層におけるデータフ
ロスと再送回数の関係を調べる.再送が発生する原因としては,
レームの再送回数から通信品質の劣化を検知し,通信品質の良
電波強度の減衰によるフレームエラーとフレーム送信時にお
い無線 LAN を選択することでロスレスなハンドオーバを実現
ける衝突がある.これら 2 つの影響を調べるために,Network
する.また,提案方式の有効性を示すためにシミュレーション
Simulator 2(ver.2.27) [7] を用いて 2 種類のシミュレーションを
による評価を行う.
行う.1 つ目のシミュレーションでは電波強度の減衰によるパ
2. ハンドオーバ処理における問題点
モバイル端末の異なるドメイン間の移動をサポートする方式
ケットロスと再送回数を,2 つ目のシミュレーションではデー
タフレームの衝突によるパケットロスと再送回数をそれぞれ調
べる.
として,Mobile IP を用いた研究が数多く行われている.しか
本論文で想定している無線 LAN 環境について説明する.無
し,Mobile IP を使用しても異なるドメインの無線 LAN 間の
線 LAN は 802.11b のインフラストラクチャーモードで構成さ
ハンドオーバ時には通信できない期間が生じてしまう.以下に
れており,隠れ端末問題は考慮しない.モバイル端末は 11Mb/s
Mobile IP を使用したハンドオーバ処理を簡単に示す.
でのみ通信を行いフォールバックは行わないと仮定する.VoIP
( 1 ) 次に接続するアクセスポイントを探すためのチャネル
スキャン
( 2 ) 新しいアクセスポイントとのアソシエーション
( 3 ) 新しい IP アドレスの取得
( 4 ) ホームエージェント,通信相手に対するバインディン
グアップデート
上記のハンドオーバ処理は,リンクレイヤハンドオーバ処理
通信は G.711 のコーデックを使用し,モバイル端末は音声デー
タを含んだ 200 バイトの IP パケットを 20ms 毎に相手端末に
送信する.つまり,一方向の通信で 80kb/s の帯域を使用する.
次に無線 LAN の再送について簡単に説明する.IEEE802.11
の仕様ではロングフレーム再送回数とショートフレーム再送回
数の 2 つの再送回数がある.ロングフレーム再送回数は,RTS
閾値 (デフォルト:2347 バイト) より長いフレームに適用され,
–2–
図 1 シミュレーションモデル (電波強度の減衰)
図3
図 2 MN と AP 間の距離におけるパケットロス率
デフォルトでは 4 に設定されている.一方,ショートフレーム
MN と AP 間の距離における再送回数の割合
図 4 シミュレーションモデル (フレーム衝突)
3. 2 フレーム衝突によるパケットロスと再送回数
再送回数は RTS 閾値より短いフレームに適用され,デフォル
複数のモバイル端末が 1 つの無線 LAN 内で VoIP 通信を行っ
トは 7 に設定されている.今回のシミュレーションでは,VoIP
た際のフレーム衝突によるパケットロス率と再送回数について
通信のデータフレームは RTS 閾値より短いため,再送回数は
調査する.図 4 にシミュレーションモデルを示す.MN と CN
7 回となる.この場合,モバイル端末は送信したデータフレー
が VoIP 通信を行い,MN と CN の台数をそれぞれ 1 台から 20
ムに対する ACK フレームを受信するまで同じデータフレーム
台まで増加させる.このとき電波強度の減衰によるフレームエ
を最大 7 回送信 (初送信+再送 6 回) する.そして,7 回目の送
ラーは発生しないと仮定する.
信が行われても正しく ACK フレームを受信できなかった場合,
再送回数のカウンタが 7 となりデータフレームは破棄される.
MN におけるパケットロス率と再送回数を図 5,図 6 に示す.
図 5 から,MN の台数が 20 台になるとパケットロスが発生し
3. 1 電波強度の減衰によるパケットロスと再送回数
ていることがわかる.図 6 を見ると,このとき発生したパケッ
図 1 に電波強度の減衰によるパケットロスと再送回数の調査
トロスは,フレーム衝突により発生したパケットロスではない
のためのシミュレーションモデルを示す.シミュレーションで
ことが分かる.ここで発生したパケットロスについて説明する.
は,モバイル端末 (MN) と相手端末 (CN) との間で VoIP 通信
MN が増加することで各 MN の送信権の獲得機会が減少する.
を行い,MN とアクセスポイント (AP) 間の距離を 1m ずつ離
この送信権の獲得機会の減少により,データフレームの送信が
し,各地点におけるパケットロス率と再送回数の割合を調べる.
完了するよりも早くアプリケーションからデータが届くように
図 2,図 3 に MN と AP 間の距離におけるパケットロス率と
なる.このため,送信キューでは徐々にパケットが溜まり始め,
再送回数の割合を示す.図 2 より,AP との距離が 17m 辺りか
最終的には送信キューにバッファ溢れが起こりパケットロスが
らパケットロスが発生し,20m を超える急激にパケットロス率
発生する.一方,図 6 における MN の再送回数の割合では,送
が増加していることがわかる.このグラフからも分かるように,
信キューでのパケット廃棄が起こる 20 台において,初めて再
VoIP 通信の通信品質を維持するためにはパケットロスが発生
送回数 3,4 の割合が 1 %以上になる.この結果から,複数台
する前に,他の通信品質が良好な無線 LAN に切り替える必要
の MN による VoIP 通信を行った場合,フレーム衝突による再
がある.
送回数の増加から送信キューで発生するパケットロスを予測で
図 3 では,8m 付近で再送回数 1 回目 (Retry1) が発生し,AP
きると考えられる.以上の結果より,再送回数は電波強度の減
との距離が長くなるにつれて,Retry0 以外の再送回数の割合が
衰やフレーム衝突が原因となって発生するパケットロスを事前
増加していることがわかる.また,図 2 でのパケットロス率の
に予測する指標として用いることができる.
グラフと同様に,17m 付近で再送回数のカウンタ値が 7(Retry
7) に達したためデータフレームが廃棄されパケットロスが発生
4. 提 案 方 式
していることが確認できる.これら 2 つのグラフから,再送回
VoIP 通信のようなリアルタイム通信では,パケットの再送
数により電波強度の減衰によるパケットロスの発生を事前に予
を行わないため,パケットロスが通信品質に与える影響は大き
測できると考えられる.
い.特に無線 LAN を使用した通信では,モバイル端末・アク
セスポイント間が最も通信品質が不安定な区間となる.そのた
–3–
図7
図5
アーキテクチャー概略図
MN の増加によるパケットロス率
ため,Mobile IP のようにハンドオーバ時のバインディングアッ
プデート期間は発生しない.また,この提案方式では mobile
Streaming Control Transmission Protocol(mSCTP) [9] のよ
うに IP アドレスの追加・削除を相手端末に通知する仕組み [10]
が必要となるが,本論文の焦点から外れるためここでは割愛
する.
4. 2 クロスレイヤアプローチ
図 7 に提案方式のアーキテクチャーの概略図を示す.図 7 に示
すように,各無線 LAN インタフェース (WLAN IF1,WLAN
IF2) の MAC 層はデータフレームの送信完了時またはデータ
図6
MN の増加による再送回数の割合
め,モバイル端末はリアルタイム通信中に異なるドメインの無
線 LAN 間を移動する際には,パケットロスが発生する前に通
信品質の良い無線 LAN を適切に選択しながらハンドオーバを
行う必要がある.本論文では,無線 LAN の通信品質の劣化を
検知するために,MAC 層におけるデータフレームの再送回数
をトランスポート層に通知するクロスレイヤ [8] のアプローチ
を用いる.そして,提案方式によりトランスポート層において
データフレーム再送回数からパケットロスの発生を事前に予測
し,ハンドオーバ時のパケットロスを防ぐ.
4. 1 ハンドオーバ処理時間の削減
2. で述べたように,異なるドメインの無線 LAN 間を移動す
る場合,ハンドオーバ処理時間が発生する.このハンドオーバ
処理時間を削減するために,提案方式ではモバイル端末に複
数の無線 LAN インタフェースを搭載する.モバイル端末は 1
つの無線 LAN インタフェースで通信を行っているときに,別
の無線 LAN を発見した場合は,もう 1 つの無線 LAN インタ
フェースを使用して新しいアクセスポイントと予め接続してお
く.そうすることで,リンクレイヤハンドオーバ時間と IP ア
ドレスの取得時間を削減できる.
提案方式では Mobile IP を用いないため,バインディング
アップデートによるハンドオーバ時間は発生しない.我々はモ
バイル端末をマルチホーミング化することで End-to-End によ
るモバイル端末の移動をサポートすることを目標としている.
この場合においても,新しい IP アドレスの取得すると相手端
末に通知する必要がある.しかし,提案方式はマルチホーミン
グに対応しているため,Mobile IP のようにハンドオーバ時の
みに新しい IP アドレスを相手端末に通知するのではなく,新し
い IP アドレスを取得するとすぐに相手端末に通知でき,ハンド
オーバ時には新しい IP アドレスを使用できる状態にある.その
フレーム廃棄時に再送回数のカウンタ値をトランスポート層の
Handover Manager (HM) に通知する.HM は各無線 LAN イ
ンタフェースにおけるデータフレームの再送回数をそれぞれ記
録するためのパラメタ (Ret IF1,Ret IF2) を保持する.そし
て,HM が Ret IF1,Ret IF2 の値から各無線 LAN の通信品
質を判断し,使用する無線 LAN の選択を行う.
4. 3 ハンドオーバ管理
ハンドオーバ時の HM の無線 LAN の選択方法について説明
する.提案方式では使用している無線 LAN の通信品質が劣化
(再送回数が増加) し始めると,もう 1 つの無線 LAN も使用し,
両方の無線 LAN に対して同じパケットを送信する (マルチパ
ス転送).提案方式では,無線 LAN の通信品質を再送回数によ
り判断するため,パケットを送信して初めて無線 LAN の通信
品質を知ることができる.たとえば,使用している無線 LAN
の再送回数が増加したため,マルチパス転送を行わずにもう 1
つの無線 LAN に切り替えた場合,切り替えた先の無線 LAN
の通信品質が必ずしも良好であるかどうかは分からない.その
ため,提案方式では使用中の無線 LAN での再送回数が増加し
始めると,マルチパス転送を行い,2 つの無線 LAN の通信品
質を調べる.そして,HM がどちらか一方の無線 LAN が安定
していると判断するとシングルパス転送に戻す.
ハンドオーバ時の動作について説明する.モバイル端末が
2 つの無線 LAN インタフェース (IF1,IF2) を搭載し,最初,
IF1 を使用して通信していると仮定する.モバイル端末は移動
中に IF1 が接続している無線 LAN とは異なるドメインの無線
LAN を発見すると,IF2 を使って予め接続を完了する.このと
き,モバイル端末は 2 つのアクティブな無線 LAN インタフェー
スを保持していることになる.電波強度の減衰またはフレーム
の衝突による無線 LAN の通信品質の劣化に伴い,IF1 の再送
回数が増加し,HM の Ret IF1 の値が Multi-Path Threshold
(MPT) を超えた場合,HM は IF1 における無線 LAN の通信
品質が低下し始めていると判断する.そして,パケットロス
–4–
表1
VoIP 通信の要求通信品質
Quality
Good
Average
Poor
Round trip delay < 150ms 150-400ms > 400ms
図8
Jitter
< 20ms
20-50ms
> 50ms
Packet loss
< 1%
1-3%
> 3%
シミュレーションモデル (提案方式)
を防ぐために,パケットロスが発生する前に IF2 も使用して
マルチパス転送を行う.しかし,マルチパス転送期間中は 2
つの無線 LAN を使用して同じデータを送信するため,ネット
ワークに通常の 2 倍の負荷を与えることになる.このため,シ
ングルパス転送に戻すための指標が必要となる.マルチパス
転送時には,各無線 LAN の安定度を測定するための指標と
して,HM は各無線 LAN インタフェースに対する Stability
図 9 ハンドオーバ時におけるパケットロス率
Counter (SC-IF1,SC-IF2) を作動させる.SC から無線 LAN
の安定度を判断するために,Stability Retry Threshold(SRT)
と Single-Path Threshold(SPT) の 2 つの閾値も導入する.再
送回数が SRT 以下の場合,HM は通信品質が安定していると判
断し SC を 1 増加し,SRT より大きい場合はネットワークの通
信品質は不安定であると判断し SC を 0 にリセットする.しか
し,SRT だけでは 1 個のパケットに対する再送回数の値から使
用する無線 LAN を選択することになり,誤判断による選択が
行われる可能性がある.そこで,SPT を用いて連続する複数個
のパケットによって通信品質の確認を行う.マルチパス転送時
において,HM における IF2 に対する SC-IF2 が Single-Path
図 10
ハンドオーバ時におけるネットワークへの負荷
Threshold(SPT) を超えた場合,HM は IF2 の無線 LAN は安
定していると判断し,IF2 を使用したシングルパス転送となり
に,Multi-Path Threshold(MPT),Stability Retry Thresh-
ハンドオーバ処理が終了する.
old(SRT),Single-Path Threshold(SPT) の 3 つの閾値を使用
5. シミュレーション評価
提案方式では,異なるドメインの無線 LAN 間をハンドオー
する.本節では,表 1 に示す VoIP の要求通信品質を満たすよ
うに,シミュレーション結果からこれらのパラメタ調整を行う.
5. 2. 1 パケットロス
バするために,複数の無線 LAN インタフェースを搭載したモ
図 9 に SRT=0 に設定した場合のパケットロス率を示す.SRT
バイル端末を用いる.そして,各無線 LAN インタフェースにお
はマルチパス転送時に安定した無線 LAN を選択するための再送
ける MAC 層のデータフレームの再送回数をトランスポート層
回数の閾値である.SRT が 0 に設定された場合,マルチパス転
の HM に通知することで,無線 LAN の通信品質の劣化による
送時において HM に通知された再送回数が 0 のとき,Stability
パケットロスの発生を予測し,通信品質が良好な無線 LAN の
Counter(SC) の値は 1 増加され,1 以上の場合は 0 にリセット
選択を行う.本節では,提案方式の有効性を示すためにシミュ
される.したがって,SRT=0 は再送回数から無線 LAN の安定
レーション実験を行う.
度を判断する基準としては最も厳しい値である.以降のシミュ
5. 1 シミュレーションモデル
レーション結果はすべて SRT=0 を用いる.図 9 より,提案方
図 8 に示すように、モバイル端末 (MN) が異なるドメイン
式は VoIP 通信が要求する通信品質の中で最も良いとされるパ
の無線 LAN 間 (WLAN(A),WLAN(B)) を移動する環境にお
ケットロス率 (1 %未満) を満たしていることがわかる.
いてシミュレーション実験を行う.モバイル端末は,2 つの無
5. 2. 2 ネットワークへの負荷
線 LAN のアクセスポイント (AP) 間の 30m を WLAN(A) か
提案方式では再送回数が MPT を超えたとき,HM は通信中
ら WLAN(B) へ歩く速度 (4km/h) で移動する.今回のシミュ
の無線 LAN の通信品質が劣化し始めていると判断しマルチパ
レーションでは,提案方式は送信側におけるハンドオーバ時の
ス転送を行う.マルチパス転送では同一データを 2 つの無線
ネットワーク選択に焦点を当てているため,通信は MN から
LAN を使用して相手端末に送信するため,ネットワークに与
CN のー方向の通信とする.また,送信するデータは VoIP デー
える負荷は通常の通信の 2 倍となる.図 10 にモバイル端末の
タとする.
ハンドオーバ時におけるネットワークへの負荷を示す.
5. 2 シミュレーション結果
提案方式では,ハンドオーバ時のパケットロスを防ぐため
図 9 と図 10 より,MPT の値が大きいほど,ネットワークへ
の負荷も小さく,さらに VoIP 通信が要求するパケットロス率
–5–
表 2 再送回数によるジッタの増加
Counter
11Mb/s
5.5Mb/s
2Mb/s
1Mb/s
Retry 0
0.72ms
0.90ms
1.50ms
2.44ms
Retry 1
1.98ms
2.33ms
3.57ms
5.51ms
Retry 2
3.88ms
4.41ms
6.28ms
9.23ms
6. お わ り に
本論文では,異なるドメインの無線 LAN 間のハンドオーバ
時における VoIP 通信のパケットロスを防ぐために,ハンドオー
バ処理時間の削減と良好な無線 LAN を選択する手法の提案を
Retry 3
7.05ms
7.77ms
10.28ms 14.22ms
Retry 4
12.79ms
13.69ms
16.83ms 21.78ms
Retry 5
23.64ms
24.72ms
28.51ms 34.45ms
載したモバイル端末は使用中の無線 LAN における再送回数か
行った.提案方式により,複数の無線 LAN インタフェースを搭
Retry 6
34.50ms
35.76ms
40.18ms 47.12ms
らパケットロスの発生を予測し,マルチパス転送とシングルパ
Retry 7
34.71ms
35.98ms
40.44ms 47.44ms
ス転送を使い分けることで,移動中のパケットロスを防ぐ.シ
ミュレーション結果より,モバイル端末は VoIP 通信が要求す
1%未満を満たしていることが分かるため,効率よく無線 LAN
の選択が行えると考えられる.しかし,MPT の値を大きくす
ることで以下ような問題が発生する.今回のシミュレーション
では電波強度の減衰によるフレームエラーによる再送しか発
生していないが,3. 2 で述べたように,フレーム衝突による再
送が 3,4 回発生する割合が 1%を超えると送信キューにおけ
るバッファ溢れによるパケットロスが発生する恐れがある.ま
た,3 つの無線 LAN に接続している場合,使用中の無線 LAN
が不安定と判断され,マルチパス転送を行うと仮定する.この
とき,マルチパス転送のために新たに使用した無線 LAN がす
ぐに切断された場合,MT の値が大きいほどもうひとつの無線
LAN に切り替えるまでに時間がかかり,不安定な無線 LAN を
使用する期間が増加してしまう.一方,再送回数の増加に伴い
ジッタも増加する.表 2 に 802.11b でサポートされている通信
速度 (11Mb/s,5.5Mb/s,2Mb/s,1Mb/s) において VoIP 通
信を行った際の再送回数におけるフレームデータの平均送信処
理時間を示す.ここで求めた送信処理時間は無線 LAN 内に 1
台のモバイル端末からのみ VoIP 通信のデータが送信されてい
る環境を想定している.つまり,他のモバイル端末のトラヒッ
クが全く混入していないと仮定したときの結果である.そのた
め,他のトラヒックが混入した場合は,これらの送信処理時間
に加え送信権獲得回数の減少による待ち時間の増加のためジッ
タはこれよりも大きくなる.表 1 より,VoIP 通信が要求する
最もよい通信品質を維持するためには,ジッタを 20ms 未満に
する必要がある.表 2 より,ジッタを 20ms より小さくするた
めには再送回数は 4 回以下である必要があることが分かる.こ
れらの問題点から VoIP 通信を行う際の MPT の値は 4 回以下
に設定するのが適切である.
SPT はマルチパス転送からシングルパス転送へ戻す判断を行
うための SC に対する閾値である.図 10 より,SPT の値が小
さいほどネットワークへの負荷も小さくなるが,その分誤判断
による切り替えが発生しやすくなる.逆に,SPT の値を大きく
することによりネットワークへの負荷は増加するが,誤判断に
よる切り替えを防ぐことができる.ここでは,誤判断による切
り替えの可能性を減らすため SPT=15 とする.SPT=15 は再
送回数が 0 回で連続 15 個のパケットが送信できたことを示す.
最後に,図 10 から MPT=4,SPT=15 に設定したときのネッ
トワークへの負荷について考察する.このとき,ネットワーク
への負荷は通常の通信に比べて 1.035 倍 (80*1.035=82.8kb/s)
るパケットロス率 (1%) 内で異なるドメイン間を移動できるこ
とがわかった.しかし,提案方式ではマルチパス転送を行うた
め,通常の通信に比べてネットワークへの負荷の増大が問題と
なる.このネットワークへの負荷は MPT と SPT のパラメタ
の設定により調整が可能であり,シミュレーション結果からこ
れらのパラメタ設定を行った.その結果,MPT=4,SPT=15
としたときのネットワーク負荷は通常の通信 (80kb/s) の 1.035
倍 (82.8kb/s) となり,パケットロスを防ぐための負荷としては
十分受け入れられる値であると考えられる.以上より,提案方
式が異なるドメインの無線 LAN 間のハンドオーバ時における
VoIP 通信のパケットロスを防ぐための手法として十分効果が
あることを明らかにした.
謝辞
本研究の一部は,日本学術振興会による科学研究費補助金
(課題番号 15200005) 及び総務省の支援を受けている.ここに
記して謝意を表す.
文
献
[1] C. Perkins(Ed.), IP Mobility Support for IPv4, IETF
RFC3344, August 2002.
[2] D. Johnson, et al., IP Mobility Support in IPv6, IETF
RFC3775, June 2004.
[3] A. Mishra, et al., An Empirical Analysis of the IEEE 802.11
MAC Layer Handoff Process, ACM SIGCOMM Computer
Communication Review, Vol.33, Issue 2, April 2003.
[4] A. Dutta, et al., Application Layer Mobility Management
Scheme for Wireless Internet, Proc. of IEEE 3G Wireless
2001, San francisco, 2001.
[5] R. Koodli, Fast Handovers for Mobile IPv6, IETF Internet
Draft, draft-ietf-mobileip-fast-mipv6-08.txt, October 2003.
[6] H. Soliman, et al., Hierarchical Mobile IPv6 mobility
management (HMIPv6), IETF Internet Draft, draft-ietfmipshop-hmipv6-02.txt, June 2004.
[7] The Network Simulator: ns-2, http://www.isi.edu/nsnam/ns/
[8] S. Shakkottai, et al., Cross-Layer Design for Wireless Networks, IEEE Communications Magazine, Volume 41, No.
10, pp.74-80, October 2003.
[9] S. J. Koh, et al., Mobile SCTP for Transport Layer Mobility, IETF Internet Draft, draft-sjkoh-sctp-mobility-04.txt,
June 2004.
[10] R. Stewart, et al., Stream Control Transmission Protocol
(SCTP) Dynamic Address Reconfiguration, IETF Internet
Draft, draft-ietf-tsvwg-addip-sctp-09.txt, June 2004.
[11] A. Schmitter, et al., Analysis of network conformity with
voice over IP specifications, Irish Systems and Signals Conference, Limerick, Ireland, pp. 82-86, July 2003.
となる.しかし,移動中の VoIP 通信のパケットロスを防ぐた
めのネットワーク負荷としては十分受け入れられる値であると
考えられる.
–6–