東北学院大学オープンリサーチセンター公開講演会 「ヨーロピアン・グローバリゼーションと イスラーム圏ディアスポラ・コミュニティ」 (2010 年 12 月 11 日 東北学院大学) ※無断転載を禁じます。 ハラーリー事件 ―あるユダヤ系オスマン臣民の「越境」― 大河原知樹(東北大学大学院国際文化研究科) 1. 報告の目的 2. ハラーリー事件(1850~99 年)の展開 3. ハラーリー家の「越境」と家系生存戦略 4. 事件と国際関係:オスマン帝国、大英帝国、そしてユダヤ・ディアスポラ・コミュニティ ~まとめにかえて 1.報告の目的 1-1. イスラーム圏のユダヤ・ディアスポラ・コミュニティの近代 ヨーロピアン・グローバリゼーションとユダヤ・ディアスポラ・コミュニティ ユダヤ・ディアスポラ・コミュニティの重層性・相互接触 スファラディーム、アシュケナジーム、ミズラヒーム (文字通りには「スペイン系」 「ドイツ系」 「東方系」 ) 1-2. 近代におけるヨーロピアン・グローバリゼーションとイスラーム圏との接触 オスマン帝国-ヨーロッパ関係の展開 オスマン帝国成立~17 世紀末 18 世紀 19 世紀以降 「東方問題」 2.ハラーリー事件(1850 年代~99 年)の展開 2-1. ラファエル・ハラーリーとアイザック・ハラーリー事件(エジプト 1850 年代後半) 1855 年 カイロの英国領事館に「カイロの」ユダヤ系4家族 12 人が英国国籍を申請し、却下される 1857 年 12 月 ロンドン在住のユダヤ人代理人が英国外務省に本件を申請 1858 年 12 月 Green エジプト総領事(アレクサンドリア) :申請を最終的に却下 理由:添付書類(エジプトのラビ法廷文書、ロンドンの宣誓書)の不備 2-2. ソロモン・ハラーリー事件(ダマスカス 1886~87 年) -1- 1886 年 2 月 ダマスカスから電信: 「英国臣民(sujet anglais)」ジョゼフ・ハラーリー(8) が救援を要請 息子のソロモン・ハラーリー (13) をオスマン帝国地方政府が逮捕・収監 ダマスカス英国領事 Dickson と地方政府の交渉 ハーツレット卿の覚書 [資料 1] a. 1841 年 英国ユダヤ人代表ロンドン委員会(The London Committee of Deputies of the British Jews)の尽力でハラーリー3 兄弟(ハールーン(4), イスハク(5), ダーウード(6))に英国保護付与 b. アバディーン卿の指示: 「保護は個人的。家族には拡大せず」英国保護実施の抑制を示唆 c. 40 年代に同家への保護が拡大したことを確認 同年 11 月 Wrench 領事の覚書(翌 87 年 2 月に別の覚書) :1840 年ダマスカス事件と多数の宣誓書偽造発覚 1887 年 3 月 ソロモンの英国国籍放棄宣言および彼の釈放 2-3. エズラ・ハラーリー事件(ダマスカス 1887~93 年) 1887 年 11 月 エズラ・ハラーリー (10)の英国国籍問題が発生 1888 年 8 月 ハーツレット卿の覚書 [資料 2] 1889 年 9 月 オスマン帝国外務省の通牒で反証提示:英国政府の手詰まり 同 年 エズラ・ハラーリー死去 1893 年 9 月頃 英国政府はハラーリー家全員の保護を取消 2-4. ネシーム・アラーリー事件(アレッポ 1897 年) 1897 年 3 月 アレッポのネシーム・J. アラーリーの英国国籍請求・却下 2-5. マイヤー・エズラ・ハラーリー事件(ダマスカス 1899 年) 1898 年 8 月 ダマスカスのメイヤー・エズラ・ハラーリー(14) の英国保護請求 1899 年 2 月 メイヤーの保護請求が却下 3.ハラーリー家の「越境」と家系生存戦略 3-1. ハラーリー家 スファラディー系 18 世紀頃にシリアに定住? 初期戦略:ヨーロッパ諸国の保護権/国籍の取得 エジプトへの移住(1830 年代頃?) 家名の由来:サムエル記下 23 章 11, 33 節 ハラリ人? 名目的な「越境」 選択肢:英墺 仏との距離 実質的な「越境」 M. アリー政権 後期戦略:エジプトから欧州、豪州へ 3-2. ヨーロッパのユダヤ・コミュニティとの関係 英国ユダヤ人代表委員会:1760 年設立。代表的人物モーゼス・モンテフィオーレ(1784-1885) アングロ・ユダヤ協会:1871 年設立 ‘promotion of social, moral, and intellectual progress among the Jews’ 世界イスラエル同盟:1860 年にパリで設立。教育活動 ※東と西のユダヤ・コミュニティの出会い:1840 年ダマスカス事件[資料 4] -2- 前史としてのシャブタイ運動? 4.オスマン帝国、大英帝国、そしてユダヤ・ディアスポラ・コミュニティ:まとめにかえて 4-1. オスマン帝国と大英帝国の関係 1580 年以降のカピチュレーションの授与、更新 大使館や領事館に雇用される通訳や使用人数の増加:在外公館業務と交易活動の拡大・複雑化 1722 年以降 オスマン帝国側からの庇護民抑制の試み ※政府による商人への特権の付与と登録の試みも 1809 年の条約第 10 項 「英国の保護権(English Patents of Protection)はオスマン臣民の従属民あるいは商人に付与されてはならないし、このような人物 に対して、事前に政府から許可を得ることなくして大使または領事の側から、いかなるパスポートも発給されてはならない。 」 1838 年 イギリス=オスマン通商条約 経済的従属化へ 4-2. 両国での国籍・移民関係法整備 13 世紀 イギリスがユダヤ人追放を決定 ※儀式殺人 15 世紀末 スペインのユダヤ人追放: 「大追放」 スファラディーのオスマン帝国およびオランダへの移住 17 世紀 イギリスがユダヤ人の再受け入れを決定 1753 年 イギリスのユダヤ人帰化法(失敗) 1844 年 イギリスの帰化法 1869 年 オスマン国籍法 [資料 1] 1870 年 イギリスで帰化法成立 [資料 3] 1905 年 イギリスで外国人法成立 ➥ それぞれの国を取り巻く情勢の変化を反映 ※反セム主義 4-3. ユダヤ・ディアスポラ・コミュニティ ユダヤ解放 (Emancipation) ユダヤ啓蒙運動 (Haskala) 反セム主義 (Anti-Semitism) ユダヤ人迫害 (ポグロム)と東欧ユダヤ人の移住運動 シオニズム ➥ ハラーリー家の「越境」戦略との相関 4-4. ヨーロピアン・グローバリゼーションとユダヤ・ディアスポラ・コミュニティ -3- [参考史料] ・一次史料 a. 文書史料 Istanbul, Başbakanlık Osmanlı Arşivi(BOA) Hatt-ı Hümayun(HH) Maliye Nezareti, Varidat Muhasebesi Cizye Kalemi(ML. VRD. CMH) London, Public Record Office(PRO) Foreign Office(FO) b. 刊行史料 Hiyamson, A. M., The British consulate in Jerusalem in relation to the Jews of Palestine, 1838-1914, part 2, 1975, New York (rep. of 1941). Montefiore, M. and L., Diaries of Sir Moses and Lady Montefiore, edited by L. Loewe, Oxford, 1983. Stillman, N. A., The Jews of Arab Lands, A history and source book, Philadelphia, 1979. “Papers relative to the jurisdiction of Her Majesty’s consuls in the Levant,” in Parliamentary Papers, 1845, vol.52. ・主な研究・参考文献 大河原知樹「オスマン帝国の改革とユダヤ教徒―1822 年シリア事件再考―」 『イスラム世界』48 (1997), 1-18 頁. 黒木英充「オスマン期アレッポにおけるヨーロッパ諸国領事通訳」 『一橋論叢』110-4 (1993), 556-568 頁. ロビン・コーエン(著), 駒井洋(監訳), 角谷多佳子(訳)『グローバル・ディアスポラ』明石書店, 2001 年. 柳井健一『イギリス近代国籍法史研究 : 憲法学・国民国家・帝国』日本評論社, 2004 年. シーセル・ロス(著), 長谷川真, 安積鋭二(訳)『ユダヤ人の歴史』みすず書房, 1995 年(新装第 5 刷) Barda, R. M., The migration experience of the Jews of Egypt to Australia, 1948-1967, A model of acculturation (Ph. D. Thesis), University of Sydney (March 2006). Encyclopedia Judaica, CD-Rom edition, Jerusalem, 1997. Endelman, T. M., The Jews of Britain, 1656 to 2000, Berkeley, Los Angeles, London, 2002. Farhi Organization, “Les Fleurs de L’Orient, The Farhi genealogy site,” http://www.farhi.org/(accessed on 8 Dec. 2010) Frankle, J., The Damascus affair, Cambridge, 1997. Galante, A., Histoire des Juifs de Turquie, 9vols, Istanbul, n.d.. Issawi, C., “The transformation of the economic position of the millets in the nineteenth century,” in Christians and Jews in the Ottoman empire, vol.1, edited by B. Braude and B. Lewis, New York, London, 1982, pp.261-285. Josling, J. F., Naturalisation and other methods of acquiring British nationality, London, 1960. Juss, S. S., Immigration, nationality and citizenship , London, 1994 (rep. of 1993). Lipman, S. and V. D. Lipman (eds.), The century of Moses Montefiore, Oxford, 1985. Masters, B. Christians and Jews in the Ottoman Arab world, Cambridge, 2001. Rodrigue, A., French Jews, Turkish Jews, Bloomington, c1990. Roth, C., A history of the Jews in England, Oxford, 1978 (rep. of 1964). Rubinstein, W. D., A history of the Jews in the English-speaking world: Great Britain, London, 1996. Shaw, S., The Jews of the Ottoman empire and the Turkish repblic, London, 1991. -4- [資料 1] ソロモン・ハラーリーの国籍に関する覚書 (極秘) ソロモン・ハラーリー氏は故ハールーン・ハラーリー氏の孫である;そしてソロモンがトルコ[訳注:オスマン帝国]当局によって逮 捕される前に家宅捜索されたジョゼフ・ハラーリー氏は故ハールーン・ハラーリー氏の子である。 以下はハールーン・ハラーリー氏が在ダマスカス英国領事館にイギリス国民として登録されるにいたった経緯である:- 1841 年 5 月、英国ユダヤ代表ロンドン委員会はM.モンテフィオーレ卿を介して、パーマストン卿にダマスカスのハラーリー家の3 兄弟イザーク(またはエス・ハク) 、ハールーン(またはアーロン) 、そしてダーウード(またはデイヴィッド)の署名入りの書簡一通 を提出した。その中で彼らは自分たちが被ったと主張する一連の迫害を逃れるために英国の保護下におかれるよう懇願した。 書簡の中で、彼らはまた、英国政府の命令で当時シリアに軍人として滞在していたチャーチル大佐に示した書類(Documents)から、彼 らが英国の出身であることを確信させたと主張した;しかし、当局[外務省]宛ての書簡にはその類の何の書類も同封されていなかっ た。それら(書類)はまだ存在するらしい。… M.モンテフィオーレ卿からのこの情報にもとづいて、パーマストン卿はダマスカス駐在英国領事[ウッド]に、 「ハラーリー3兄弟 に英国の保護を与えるよう指令を出した;そしてこの領事はそのように処置し、彼らを英国領事館に登録したと後に報告してきた。 1842 年 2 月、ウッド領事の報告は、ダマスカス地方政府が外国保護を享受している非ムスリム(Rayah)リストの提供を要求したので、 資格のない非ムスリムとオスマン臣民への外国の保護を撤回するよう求める通牒がトルコ[訳注:オスマン帝国]政府(Porte)から各大 使館に送付されていると述べている。 … 加えて、卿は一般原則としてオスマン臣民(the Rayahs of the Porte)への英国保護のパテント付与の実施を拡大するよりはむしろ抑 制し、この特権を特別な立場や雇用によって明確に理由のある資格を保持する人物に限るように希望した。 … ハラーリー3 兄弟が 1841 年に持っていると言われた書類がなく、 (ウッド領事, no.22; 1842 年 2 月 24 日)1842 年にウッド領事が送 った報告によれば、彼らの国籍はオスマンであり、彼らはいずれもダマスカスで生まれたようであるから、彼らがそもそもなぜ英国の 保護下に置かれるようになったのかを説明することは難しい。 ;同様にこの 3 兄弟が英国臣民となることを認められたのだとすると、そ の時点で彼らの子供たちへの保護特権が否定された理由を説明するのが難しい。 ( 「交易に関する条約」 :トルコ[訳注:オスマン帝国]p.39)この件にかんする唯一の条約事項は 1809 年条約の第 10 項であり、い わく:― 「英国の保護特権(パテント)はオスマン臣民の従属民あるいは商人に付与されてはならないし、このような人物に対して、事前に政 」 府から許可を得ることなくして大使または領事の側から、いかなるパスポートも発給されてはならない。 … E.ハーツレット 外務省 1886 年 3 月 15 日 添付書類 トルコ[訳注:オスマン帝国]の国籍に関する法律―1869 年 1 月 19 日 第 1 条.父母ともオスマン人である、あるいは父のみオスマン人である全ての者はオスマン臣民である。 第 2 条.オスマン領内で外国人の両親から生まれた全ての者は、成人後3年以内はオスマン臣民の資格を申請することができる。 第 3 条.オスマン帝国に継続して 5 年間滞在した成人の外国人は全て、直接あるいは代理人を介して外務省に申し出ることにより、オ スマン国籍を取得することができる。 第 4 条.前記の条項の条件に該当しない外国人に対して、特例に値すると判断される場合には、帝国政府は特別にオスマン国籍を付与 することができる。 第 5 条.帝国政府の認可をえて外国籍を取得したオスマン臣民は外国国民と同様とみなされ、扱われる;もし反対に、帝国政府の事前 の認可なしに帰化すれば、その帰化は無効、故なしとみなされ、引き続きあらゆる面でオスマン臣民とみなされ、扱われる。 -5- いかなるオスマン臣民も、勅令(Iradé Imperial)による認可証書を取得することなしに、外国に帰化することはできない。 第 6 条.帝国政府は、国家の認可なしに外国に帰化した、あるいはある政府の軍務を引き受けた全てのオスマン臣民に対して、そのオ スマン臣民の資格喪失を言いたてることができる。 オスマン臣民が資格を喪失した場合は、オスマン帝国への帰化を禁止される。 第 7 条.外国人と結婚したオスマン女性は、夫と死別した場合に、夫の死後 3 年以内に宣言をすることでオスマン臣民の資格を回復す ることができる。この措置はその個人の財産には適用できない;その財産は登記された一般的な法や規則に服するものとする。 第 8 条.外国に帰化した、あるいは国籍を放棄したオスマン臣民の未成年の子供自身については、父の状態とはならず、オスマン臣民 のままである。オスマン人に帰化した外国人の未成年の子供自身については、父の状態とはならず、外国人のままである。 第 9 条.オスマン領内に居住する全ての人は、その外国人資格が常態的に不動となるまで、オスマン臣民とみなされ、そう扱われる。 [資料 2] ハラーリー家のトルコ[訳注:オスマン帝国]における英国保護権要求に関するE.ハーツレット卿のさらなる覚書(極秘) …今まで本件に関して新見解を示せなかったが、ついにトルコ[訳注:オスマン帝国]のハラーリー家の英国保護権の全問題に重大な 意味をもつ事実を発見した。 1855 年 12 月 3 日にジョゼフ・リーチとジョン・ネイザンがマンション・ハウスにおいて、ジョゼフ・ハラーリーはロンドン生まれで あったことと、彼が 1810 年にイングランドを発って東インドに向かい、その後ダマスカスに定住したこと、という趣旨の宣誓(a Declaration)を行なったことが、彼らの強調している点である。 … これは重要である。なぜなら、ダマスカスのジョゼフ・ハラーリーとカイロのジョゼフ・アラーリーは同一人物ということになるから である。 エジプトと連絡をとった結果、1856 年から 1858 年の間にラファエル・アラーリー氏とイザーク・アラーリー氏が、英国臣民の子供 ということを根拠に、カイロの英国領事館へ登録申請をしたことに関して、一連の長い通信がなされたことが今判明した;… …ラファエル・アラーリー氏の申し立てではエジプトでの英国臣民と認められるに十分だとは思わないと回答した;送付された紙類の 中で唯一の実質的な書類は、…サイアン(Scien)・アラーリーがイングランド生まれであるという趣旨の 1856 年 4 月 24 日付ロンドンの ジョゼフ・リーチとジョゼフ・ウルフの宣誓書だけである。 この件にかんしてカイロとアレクサンドリアの英国領事館がやっていることは、あるべき姿とはかけ離れていることが私には残念でな らない;しかし、グリーン氏は、この状況下では「家系の問題にかんして自身に提出された書類証拠に限定するべき」ではないし「エ ジプトのユダヤ家系のような、ほとんど考慮するに値しない(問題)については、特に他の証拠で補強されるべきである。 」 …カイロ領事からエジプト総領事へのその後の書簡で、領事館台帳には英国国籍の権利を申請している人々の先祖も、そう考えられる ような人の痕跡も何もないと(カイロ領事は)述べる;ちょうどその時トスカーナ副領事から、アラーリー兄弟は数年間にわたりトス カーナ副領事館でトスカーナ国民として登録されていたことを知らされた、と加えた。… したがって、この家族の数名がジョゼフ・ハラーリー氏とラファエル・ハラーリー(またはアラーリー)氏が自身の英国民への認定申 し立てを裏づけるために提出し、クイーンズ・アドボケイトが申し立ての有効性を確立するには不十分であると繰り返し述べた、その 宣誓書よりも、もっと信頼するにたる書類を提出しないかぎりは、1841 年に個人的に英国保護下におかれたイザーク(エスハク) 、ハ ールーン(アーロン)とデイビッド(ダーウード)の子孫が、常に…トルコ[訳注:オスマン帝国]で英国庇護民とみなされるべきで あるとの要求を、オスマン当局に主張しつづけるのはフェアではないと私は考えます。 E.ハーツレット 外務省 1888 年 8 月 3 日 -6- [資料 3] オスマン領内における英国の保護 外務省 1890 年 1 月 23 日 外務省からボーグ領事へ 拝啓 カイロの英国領事館で登録された全ての人の報告を同封した 9 月 21 日付 no.15 書簡を受領しました。 … さて、あなたが指示を要求した問題いついての取り扱いに移りましょう。 1.カイロでは帰化した英国臣民の子弟は、未成年の間は英国の保護の資格があると認められ、それに従って彼らを保護するのが慣行 であったとあなたは述べる;その人物が21歳に達した場合、 申請すれば帰化英国臣民として登録されるかどうかと問い合わせています。 返答として、そのような申請者は、どんな場合でも次の情報を提出する必要がある、と述べねばなりません。 (1.) 彼らの出生年月日、および[出生が]その父親の帰化の前なのか後なのか (2.) 彼らの出生地が英国領内なのか、外国なのか (3.) 未成年期に、この子弟が、英国臣民に帰化した父親、または(その帰化英国臣民の寡婦、または寡婦の間に自らも帰化した)母親 とともに英国(the United Kingdom)の住民だったか (4.) 父親が英国で帰化したのか、あるいは英国植民地(a British Colony)でか、というのは英国植民地での帰化の効力は当該植民地の領 域を越えられないからである。 帰化英国臣民の子弟で、英国領内(Her Majesty’s dominions)で出生した者は、[出生が]両親の帰化の前でも後でも、未成年期に英国臣 民に帰化した父親、またはその帰化英国臣民の寡婦、または寡婦の間に自らも帰化した母親とともに英国の住民となっていれば、英国 帰化国民と認められる。もし彼らが住民となっていなければ、外国人のままである。 英国帰化国民の子弟は、英国領内で出生すれば、帰化の前でも後でも、生来の(natural-born)英国臣民の子弟と同様であり、その身分 はどこでも維持される。ただし(1) 出生時に、いずれかの外国法の下に置かれ、その国の国民となり、結果、英国国籍の点で「1870 年 帰化法」第 4 項適用により外国人と宣言される場合、または(2) 同法第 6 項の条項により、彼らが外国に「自主的に帰化した」場合はそ の限りではない。 どちらの場合も、彼らは英国臣民ではなくなる。 女性の国籍身分については、英国法にしたがい、婚姻せし女性は夫がその時点で所属している国家の国民となると判断される; (p.2)その夫の死に際して、生来の英国臣民だったが、婚姻の結果として外国人となった寡婦は、引き続き外国人でありつづける;し かし、1870 年帰化法第 10(2)項と第 8 項により、彼女は寡婦期間のいつでも英国国籍の再許可をえることができる。 2.この報告に含まれる英国庇護民にかんして、保護を継続すべきか、もしそうならば、どんな条件でかとあなたは質問している。 この点にかんして、あなたの手引きとして次の一般的指示を与えるべきでしょう。そして、この受領後に、もしもあなたが特別なケー スで判断に迷う場合に、当局へ参照するのはご自由に。 英国領内で出生せし全ての人は、生来の英国臣民である。彼または彼女が英国臣民であるかぎり、外国でも英国の保護をうける資格が ある。 生来の英国臣民が英国臣民でなくなりうるのは、(1) 1870 年(帰化)法第 4 項にみられる状況下で外国人となる宣言をする;あるいは (2) 同法第 6 項に記載されている「自発的に外国に帰化すること」による。 しかしながら、外国籍の両親の子弟は、たとえ英国領内で出生しても、父親に由来する国籍が彼らから法的に剥奪されるまでは、その 両親の国籍国において英国の保護をうけることはできない;しかしながら、彼らが英国臣民でありつづけるかぎり、彼らはどこでも保 護されるであろう(elsewhere)。 イオニア諸島の住民(Natives)はもはや英国の保護をうける資格がない。そのような保護は 1864 年 6 月 2 日の回状によって、同島がギ リシアに割譲されて以後、取り下げられたからである。 英国保護領の住民は英国の庇護民であり、そのかぎり英国の保護をうける資格がある。 オスマン領内で実施されている慣行にしたがえば、保護は英国領事館に勤務している外国人やトルコ[訳注:オスマン帝国]臣民に限 -7- 定して拡大されることも可能だろう;しかし、原則として、そのような保護は、何によって[保護が]享受されてきたかという観点から、 勤務終了をもって終了する。そして、英国臣民ではない者への英国の保護の付与は、できるかぎり避けられる(discouraged)のが望まし いと考えられる。 英国領事館に勤務するという理由で英国の保護下にある人物の妻子も、夫か父が保護をうけているという観点から、勤務が継続する間 は英国の保護をうける資格がある;しかし、彼の死や他による、そのような勤務の終了をもって彼らは保護をうける資格を喪失する。 英領インド国民や庇護民の保護に関していうと、1869 年 1 月 19 日のトルコ[訳注:オスマン帝国][国籍]法によって、トルコ[訳注: オスマン帝国]臣民の子弟は今や、オスマン領内で出生しようが外で[出生]しようが、トルコ[訳注:オスマン帝国]臣民であると判断 されることを、あなたは心に留めておくべきでしょう;そして、1869 年 3 月 26 日のトルコ[訳注:オスマン帝国]回状は、上述の法 が遡及的効力をもちはしないと明言しているので、同法可決までにオスマン領内の英国領事館に登録されたトルコ[訳注:オスマン帝 国]出身の英領インド国民や庇護民は、その日以降に登録された者とは、オスマン領内において異なる足場に立っているので、英国の 保護をうける資格がある。 [1869 年以前に登録された人]について言うと、トルコ[訳注:オスマン帝国]政府の態度に鑑みて、疑わしき国籍の問題すべてについ て全体的な調査をするのは見送って、起こりうる個々のケースだけをとり扱うのが得策(better)であると 1887 年に決定された。 3.シリアや他の場所の英国領事館から付与された証明書を根拠として、英国の庇護民として登録されるよう申請をするかもしれない 人々(parties)に保護が拡大適用されるべきかどうか、あなたは尋ねている。 返答として、証明書が適正に得られたのかどうか、一旦付与された保護が取り下げられなかったかどうかが、できるかぎり確かめられ さえすれば、そのような経過には何の支障もないと言わねばならない。 英国領事館での勤務を通じて保護を得たのでないなら―というのは、既に指摘されているように、彼と彼の直の家族に付与された保護 は、そのような勤務の終了とともに終了するから―、居住地の単なる変更は庇護民の身分に何の効力も及ぼさない。 本件に関連して、1849 年にシリアの英国領事館官吏の保護下におかれたロシア系ユダヤ人たちの子孫に保護が付与されたことに際し て作成された 1885 年の規則(the Regulations)にあなたの注意を促したい。 (p.3)これらの規則の指示は「1849 年以前にもともと家長として登録され、それ以来英国庇護民として登録されつづけているロシア系 ユダヤ人の全ては生涯にわたって英国の保護を享受しつづける;」とする。この保護は、その寡婦と 20 歳に達するまでの息子、婚姻す るまでの娘にも拡大適用されるべきである。同様の特権は「1885 年 1 月 1 日の時点で 50 歳以上となり、1880 年 1 月 1 日まで英国の保 護をうけていた、証明書保持者全てに」拡大適用されるべきである。 「1849 年までに登録されたが、その時点では家長ではなかった人 物は全て―男女を問わず―、また 1850 年 1 月から 1880 年 1 月 1 日までの間に登録され、1885 年 1 月 1 日の時点で 45 歳以上となる 人物は全て、生涯にわたって英国の保護を享受しつづける。上述の範疇に入らないロシア系ユダヤ人は全て、1885 年 1 月 1 日から 5 年 の後に保護が取り下げられる知らせを受け取る。将来的には、今までに保護をうけていない何人も、それが監査領事(? the Superintending Consul)による申請をうけるようにという事前の英国大使の認可を得ることなしには、英国の保護を認められないこと になる。 「英国臣民」報告にも名前があり、1886 年 1 月 28 日にダマスカスで付与された証明書にもとづいてカイロで登録されたとの記述の あるユーセフ・メーイル・ハラーリーの件について今、私はあなたに注意を促したい。 オスマン領内のいろいろな場所に居住するハラーリー家のさまざまなメンバーに以前は証明書が付与されていたが、その国籍の問題が、 そして後には保護が[ありえるとすれば]オスマン領内において同家にどのくらいまで付与されるべきなのか[という問題]が相当量の通信 をともなう案件となったことがあった;そして、昨年末にソールズベリ卿は、法務官(the Law Officers of the Crown)から、英国政府 がハラーリー家のさまざまな成員の英国国籍要求を認定し、トルコ[訳注:オスマン帝国]政府にそれを強く求める(pressing)ことはエ ズラ・ハラーリーの件を除いては正当化されないとアドバイスをうけたのです。ユースフ・マイヤー・ハラーリー氏の名前は、それゆ え、彼またはその父が英領内のどこかで出生したという積極的な証拠を提出することができないかぎり、 「英国臣民」リストから削除さ れなければなりません。 (そして、いずれにせよ「英国庇護民」リストからも) 。しかしながら、第 3 者からなされるその旨の宣言も、 その事実の十分な証拠とは見なされえないでしょう。 -8- 「英国庇護国民」と題された(しかしながら、これはより正確には「英国庇護民」と書かれるべきであり、英国の保護下にあるトルコ [訳注:オスマン帝国]や外国国民と区別されるものとして、英国臣民の名前は含まれないべきである)報告には、ミシャーカ家の 3 人のメンバーの名前がみえます。 イオニアの出身である同家によってなされた英国保護の申し立ては、少し前に検討されたことであり、彼らは保護されえないと判断さ れる。* (* 覚書,9 月 14 日;メシャーカ家へ,1889 年 9 月 25 日) 本件はカイロの英国政庁に知らされます。あなたはそこで詳細を得ることができるでしょう。 台帳記載の4名の帰化英国臣民に関しては、1 人はフェズ、2 人はギリシア、4 番目の者はコンスタンティノープル生まれのようであ る。 彼らがどこで帰化したかについては記載がない。 英国植民地で帰化したのであれば、その英国国籍はその植民地の範囲をこえて拡大されることはない。 英国で帰化したのであれば、帰化以前に国民か市民であった国を除けばどこででも、またそのような国の国民や市民としての国籍が法 的に剥奪されていれば、そこでも英国の保護をうける資格がある。 オスマン領内の出生ではない 3 名については、もしも英国で帰化したのならば、それゆえ明らかにカイロにおいて英国臣民としての保 護をうける資格がある。しかしながら、そうでないのであれば、[資格は]ない。 4番目の、コンスタンティノープルの生まれで、オスマンの出身の人物については、もしもオスマン法の適用により、トルコ[訳注: オスマン帝国]臣民ではなくなっているのであれば、カイロでのみ英国臣民としての保護をうける資格がある。 [資料 4] 1870 年当時にダマスカスに在住した英国臣民ならびに庇護民(一部) Charles Malcolm Kennedy からグランヴィル伯へ F.O.195/944 (no.2) ベイルート 1871 年 1 月 11 日 … 追伸 たった今バートン大佐からうけとったばかりの、ダマスカスの英国庇護民の写しを同封いたします。… (no.259 に同封) F.O.195/944 ダマスカスの英国臣民ならびに英国庇護民リスト 名前 家系では いつ英国庇護 どこの国民か 民となったか David Harari どんな権限でか Bidwell 氏から Wood 領事宛書簡 no.3 1841 年 8 月 11 日、ハラーリ ー兄弟は英国出身なので、英国の保護下に置かれうると要請する 1841 Rafael his son 英 国 臣 民 卿が Palmerston 外相に提出)を転送。 1842 年 5 月 28 日の Wood (British 領事書簡への返信である Bidwell 氏の書簡no.2 1842 年7 月18 日、 descent) 英国の保護をハラーリー家にさらに拡大することは得策とは思え Ussef Haroon ず、3 兄弟個人に限定すべきと言うよう、アバディーン伯が彼に指 Harari Ezra Harari Isaac, Haroon と David のハラーリー3 兄弟の手紙(Moses Montefiore 示する。 1856 Wood 領事の 1856 年 4 月 18 日の手紙により、さらなる証拠の提出 までの一時的な英国保護を付与。1855 年 12 月 4 日の Wood 領事 宛の Jas. Sidney 氏(ロンドン St.Mary Axe)の手紙と、Ezra 氏の父親 Meyer his son Ussef-Haroon ハラーリーはロンドンで生まれたとの Joseph Leech -9- Rabbi, John Nathanの宣誓書の写しを同封。この同封物は1863年7 月 11 日に Edmond Hornby 卿に宛てて送付された。 Yakub Stambuly 英国臣民 1856 Wood 領事から Nathan Levy Stambuly, Rafael Levy 氏宛の 1856 年5 月 24 日の手紙。同封物 2 通。No.1 1855 年 5 月 1 日の Wood 領事 宛のJas. Sydney氏(イギリス)の宣言書を転送する手紙。 No.2 英 国臣民である David Levy が 1790 年に 20 歳でイギリスを離れ、ダ マスカスに向かい、そこに定住し、結婚したことを宣誓する 70 歳よ り年上とみられる Joseph Leech と Joseph Wolf 氏の宣誓書の写し (この 2 人の証人はその当時 4 歳だったはずである)。彼には Aaron と Nathan Levy の 2 人の子がおり、前者は Rafael という名前 の存命の子を遺して死去し、後者はダマスカスにいる(ママ)。 こ れら 2 通の同封物は 1863 年 7 月 11 日にエドモンド・ホーンビー卿 宛に送付された。 Rafael は現在ベイルートにおり、Rafael Stambuly ではなく Rafael Levy と名乗っている。 Nathan Levy は死 去。彼は Yacub Stambuly 氏の父親である。 [資料 5] ハラーリー家系図(一部)[太線は Farhi Organization, “Les Fleurs de L’Orient をもとに筆者が作成、細線は FO78/4908 を下に筆者が加筆] - 10 -
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