全文 - 長岡大学

生涯学習研究年報
第5号(通巻第14号)
目 次
〔論 文〕
レーガン政権の対ソ連外交とアメリカ国際政治戦略のワンオプションの確立 -1981年・1982年・1983年のアメリカの対ソ連外交を中心に-… ……………………… 広田 秀樹………… 1
新潟県地域の高齢女性の「死」に対する意識 ――自殺予防を見据えて――… …… 菊池いづみ………… 11
〔教育実践〕
「学生による地域活性化提案プログラム」の3年間を振り返って……………… 岡野 宏昭………… 27
小学校における金融教育……………………………………………………………… 鈴木 桃子………… 39
〔資料紹介〕
外山脩造の企業者活動に関する資料(2)
… ……………………………………… 松本 和明………… 43
長岡における産業クラスター形成にかかわる広井一の役割 「廣井一傳」箕輪 義門/編 北越新報社 昭和17年……………………………………… 綿引 宣道………… 51
〔地域の知的交流拠点の紹介〕
新たな「学び」と「交流」の施設 まちなかキャンパス長岡が目指すもの ………………………………………………………………… 長岡市市民協働部生涯学習文化課………… 59
〔海外研修の記録〕
グローバルスタディで体験したアメリカ…………………………………………… 吉原 義和………… 73
〔私の生涯学習〕
「知る喜び」
… ………………………………………………………………………… 井口 公………… 89
平成22年度実施プログラム案内………………………………………………………………………………… 91
編集後記…………………………………………………………………………………………………………… 94
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
〔論 文〕
レーガン政権の対ソ連外交と
アメリカ国際政治戦略のワンオプションの確立
―1981年・1982年・1983年のアメリカの対ソ連外交を中心に―
広 田 秀 樹
(長岡大学教授)
目次
はじめに
1. レーガンのパーソナルヒストリーと政治思想形成
2. レーガン政権の対ソ連外交
2.1. 対ソ連強硬路線の系譜
2.2. レーガン政権の対ソ連強硬戦略(1981 ~ 1983年)
2.2.1. ―1981年―
2.2.2. ―1982年―
2.2.3. ―1983年―
2.3. 限定的軍事行動
2.4. 非軍事的圧力
おわりに
註
主要参考文献
はじめに
アメリカという国家はその変化の影響力を自国内だけにとどめない。アメリカは一貫して国際政治全体を変える
動きをもってきた。そして、1980年代のアメリカは、冷戦を終結させ世界を変えたアメリカであった。近年、1980
年代のレーガン政権の国際政治戦略に対する評価が高まっている(1)。レーガン政権は硬軟の見事な使い分けによる
外交戦略で、第2次世界大戦後40年以上続いた冷戦体制を終わらせ、世界を劇的に変えた政権であった。
1981年 に 誕 生 し た レ ー ガ ン 政 権 は、 デ タ ン ト 路 線 を 真 っ 向 か ら 否 定 し、
「力による平和」
(Peace through
Strength)を基本戦略においた。そして、
当時のソビエト社会主義共和国連邦(以下、
ソ連)を中心とした社会主義・
共産主義陣営と鋭く対峙し、世界各地の反共産主義勢力を積極的に支援するというレーガンドクトリンを打ち出し
た。
レーガン政権の強硬な国際政治戦略は大規模戦争をも引き起こすのではないかという危惧すら持たれ、当初、賛
否両論の衝撃を世界に与えた。しかし、卓越したレーガンの国際政治戦略は、同時代の多くの人々が半永久的に固
定された世界体制とも考えていた冷戦体制にピリオドを打ち、それまで地球上の約3分の1を占有していた社会主
義・共産主義体制の大半を一挙に消滅させ、世界を自由主義・資本主義・市場主義体制に全面的に移行させる契機
を創造することに成功した。長期の歴史的視点からすれば、レーガン政権は本格的に世界が一体化しゆくグローバ
ル化(Globalization)への突破口を開いたと言ってよい。
レーガンは圧倒的な軍事力・国力を背景に外交対象国と対峙し、場合によっては軍事行動を躊躇しないというス
タンスをとりつつ、米国の国際政治戦略課題を達成した成功事例である。その後のアメリカの国際政治戦略の一つ
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のモデルになっていく。
米国の国際政治関連、国家安全保障関連の情報等は、後になって公開されるものが大半である。近年、レーガン
政権時代の国際政治関連、国家安全保障関連の機密情報等が機密解除され公開されるようになった。本稿では特に、
政権の誕生した1981年から力による攻勢を強めていった1983年までを中心にして、レーガン時代の国際政治対応を
多角的に分析する中で、国際政治の現在・未来を考える上でのヒントを考察していきたい。
1.レーガンのパーソナルヒストリーと政治思想形成
最初にレーガンのパーソナルヒストリーとその政治思想形成を確認したい。ロナルド=ウィルソン=レーガンは、
1911年2月6日、イリノイ州タンピコで生まれた。2人息子の2番目であった。レーガン・ファミリーはアイルラ
ンド系の家系であった。1920年レーガン・ファミリーは、イリノイ州ディクソンに移動する。おそらくレーガン自
身の記憶は、このディクソンへの移動後から鮮明になっていくものと思われる。
1924年にレーガンはディクソン高校に入学した。1928年には、イリノイ州のユーリカ大学に進学している。ユー
リカ大学では経済学・社会学を中心に学んだ。レーガンは高校生・大学生時代に、地域のロックリバーでライフガ
ードの仕事をしていた。本人によれば7年間の夏季勤務中77人を救助したという。1932年にユーリカ大学を卒業す
る。
大学卒業後、話術・演技の能力の高かったレーガンは、最初ラジオアナウンサーになった。ラジオアナウンサー
での経験をベースに、カリフォルニア州ハリウッドに移り俳優に転身した。レーガンの出演した映画には、Love is
On the Air(1937)
、Knute Rockne All American(1940)などがある。1940年には女優のジェーン・ワイマンと結
婚し、長女モーリーンをもうけた。又養子としてマイケルを迎えた。1948年に離婚し、1952年には女優のナンシー・
デイビスと再婚し、次女パトリシア・アン、次男ロンをもうけた。
政治家としてのレーガンは、1930年代、フランクリン・ルーズベルトのニューディール政策に傾倒する民主党支
持のリベラル派としてスタートした。しかし、レーガンの政治思想は、1950年代レーガン30歳代の頃、米ソ冷戦が
激化していく中で、次第にコンサーバティブにシフトしていった。レーガンは、上院議員ジョセフ・マッカーシー
やリチャード・ニクソンが進める下院非米活動委員会に協力するようになっていく。1964年の大統領選挙では、
「小
さな政府」を主張する共和党のアリゾナ州選出上院議員バリー・ゴールドウォーターを支持した。1966年に、レー
ガンはカリフォルニア州知事選挙に当選し、1966 ~ 74年の2期、州知事をつとめた。
レーガン自身が出馬した大統領選挙については、1968年に初出馬したが、共和党予備選でニクソンらに敗退した。
1976年に2度目の大統領選挙に出馬したが、現職のフォード大統領に共和党予備選で敗退した。3度目が、1980年
の大統領選挙だった。当時の民主党カーター政権は、内政外政とも深刻な課題に直面していた。
カーター政権下、経済は石油危機による景気悪化、二桁のハイパーインフレーションに直面し、国民生活は劣化
していた。また、国際政治では、カーターは人権外交をスローガンに、国際的平和協調路線を遂行していた。しかし、
現実の国際政治は冷厳であった。カーターが強硬な外交オプションをとらないことを見透かしたかのように米国の
覇権に抗することが起きた。1979年11月にイランテヘランの米国大使館が過激派に占拠され、52人が人質となって
しまった(2)。この時カーターは政権誕生後初めての対外軍事行動に踏み切ったが、人質奪還の軍事行動は失敗に終
わってしまった(3)。1979年12月には、ソ連のアフガニスタン侵攻を許し、国際政治における米国の覇権、威信は急
速に劣化した。1980年9月時点でのカーターの支持率は、19%まで下落した。
レーガンはカーターと対決した大統領選挙で、
「独立心・国家・家族・コミュニティ・隣人・自助努力・自立」
といったアメリカの伝統的価値観の重要性を強調した。レーガンは選挙戦で次第に、対外強硬派、保守派、宗教右
派といった伝統的な共和党支持層を確実に固め、さらに、旧来の民主党支持層の中からレーガン支持に転身する「レ
ーガン・デモクラッツ」と呼ばれたグループの創出にも成功した。1980年11月4日、レーガンは第40代アメリカ合
衆国大統領に当選した(4)。
2.レーガン政権の対ソ連外交
レーガン政権の対ソ連外交は、圧倒的な軍事力を背景に外交対象国に圧力をかけ、対象国を交渉のテーブルにつ
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かせ交渉し、長期的に自国に有利な方向でランディングさせるという、戦略性の高い米国国際政治戦略の成功事例
となって行く。
2.
1.対ソ連強硬路線の系譜
対ソ連強硬路線は、レーガン政権誕生以前の段階1970年代から、その潮流が形成されていった。共和党政権のフ
ォード大統領が結成を支持した「チームB」というプロジェクトが対ソ強硬路線の下地をつくった。チームBはソ
連への強硬策を研究し、特に以下の調査を進めた。
①ソ連の核や軍事的膨張の実態調査
②ソ連の強制収容所などの人権弾圧の調査
③対米弱体化のための諸工作の調査
④米国内及び日本等同盟国内における赤化工作の調査
チームBには、後のレーガン政権の副大統領となるCIA長官ジョージ・H・W・ブッシュが所属していた。さら
に、後にレーガン政権の東アジア・太平洋担当国務次官補になるポール・D・ウォルフォウィッツもチームBのメ
ンバーであった(5)。フォード政権の国防長官だったラムズフェルド(後のブッシュジュニア政権でも国防長官に就
任する)も、チームBを支持していた。チームBは、CPD(The Committee on the Present Danger:現在の危機
に関する委員会)という共和党系シンクタンクに発展し、対ソ連強硬策の研究や国民への宣伝活動を展開していっ
た。レーガンはCPDに所属していた。CPDの思想が後のレーガンドクトリンになっていく。
CPDの理論的支柱を担ったのが、アルバート=ウォルステッター(Albert Wohlstetter、1913 ~ 1997)であった。
ウォルステッターは、ランド研究所研究員、カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授、シカゴ大学教授を歴任した
国際政治学者であった。1950年代ソ連が人工衛星打ち上げに成功したスプートニクショックやミサイルギャップ論
争の中で、
『Foreign Affairs』に「際どい恐怖の均衡」という論文を発表し、アイゼンハワー政権の国防政策を批判
した(6)。1970年代ニクソン政権が、ソ連へのデタントにシフトしていった際にも、いかなる軍縮協定も妥協もすべ
きでないと反対を表明した。CPDを本拠に論陣をはり、その一貫した強硬策は党派を超えた支持を得た。ウォルス
テッターの国際政治戦略は、レーガン政権の国際政治戦略に多くが採用されていった。さらにウォルステッターは、
ポール=ウォルフォウィッツ、リチャード=パールといった後に「ネオコン」と呼ばれる理論家を育てた。
2.
2.レーガン政権の対ソ連強硬戦略(1981 ~ 1983年)
レーガン政権以前の政権が進めていた1970年代のデタント国際政治戦略は、1975年のヘルシンキ宣言を頂点に一
定の成果を出した。しかし一方で、現実には、ソ連の覇権、軍事的影響力は世界に拡大していた。即ち、1975年に
ソ連はヨーロッパ東部に、SS-4・SS-5の代替として、新型のSS-20の配備を開始した。SS-20はそれまでのSS-4・ SS-5
より、射程距離の長さ、命中精度、威力、機動性の点で、格段に優れたものであり、西ヨーロッパ諸国は安全保障
上の脅威と考えるようになっていく。
さらに1970年代末から1980年にかけて、ソ連は、アフガニスタン・イラク・シリア・南イエメン・リビア・キューバ・
ベトナム・マリ・モーリタニア等の諸国に、兵員を派遣するようになっていた。そして、1979年12月にはソ連のア
フガニスタン侵攻が勃発した。
一方、米ソ間の超大規模破壊兵器に関する最重要な外交交渉としての戦略兵器制限交渉は、長期的に展開されて
いた。即ち、1972年調印の第1次戦略兵器制限交渉(SALTⅠ: Strategic Arms Limitation Talks 1)では、米ソの
弾道ミサイル保有数の上限が定められた。第2次戦略兵器制限交渉(SALTⅡ: Strategic Arms Limitation Talks 2)
では、1次の合意内容に加えて、ICBM・SLBM・戦略爆撃機等の核運搬手段の数量制限、複数弾頭化(MIRV)の
制限が設定されていった。SALTⅡは1979年6月にウィーンで調印された。しかし、1979年12月のソ連のアフガニ
スタン侵攻を受け、アメリカ議会がSALTⅡの批准を否決した。よって、SALTⅡは正式には発効しないことにな
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る(7)。
2.
2.
1.―1981年―
1981年1月に大統領に就任したレーガンは、政権の第1期で「強いアメリカ」を掲げ、大規模軍事拡大を徹底し
て断行した。レーガンは、対ソ連外交の基本スタンスについて次のように述べている。
「私は、アメリカが過去にときとしてやらざるを得なかったようなこと、すなわちソ連側がより良いカードを持
っている軍備管理交渉の席に臨み、彼らの善性に訴えて真剣に交渉してくれるよう頼まねばならぬといった事態を、
再び繰り返すことは望んではいなかった。だから"力を通じた平和" は、わが政権のモットーの一つとなった。さ
らに私は、もしわれわれがソ連との軍備管理交渉に臨むなら、われわれの目標は、過去の核軍備管理協定がやった
ように、単に核兵器の増加率を制限するだけではなく、核兵器を削減することでなければならないという方針を打
ち出した。軍備管理協定は、自動的に軍備削減を生み出すという神話がある。ところが、戦略兵器制限交渉(SALT)
が始まった69年から80年代半ばまでの間に、ソ連はその戦略核兵器の数を数千も増やしたし、SALTⅠ、SALTⅡ(第
1次、第2次戦略兵器制限条約)の下でさらに数千の増加があったと見られる。
」
(わがアメリカンドリーム、710
~ 711p)
・
「核戦争で勝つことはできないし、絶対にそんな戦争に乗り出してはならない。しかし引き金から指を
離すようソ連を説得する前に、われわれはまず、自由世界として他国による犯罪的行動を容認できなくする一線が
存在することを、彼らに理解させなければならない。そうするためには、われわれがソ連に対し力の立場から交渉
できることが必要である。
「われわれの軍事力は、
平和への前提条件なのだ」
と私はイギリス議会メンバーに話した。
」
(わがアメリカンドリーム、717p)と、レーガンは力を通じた平和の重要性を訴え、基本スタンスを明確にしている。
レーガンは大統領就任後直ちに、戦略爆撃機B1の開発を開始し、
「600隻艦隊」を目指す海軍増強計画、高命中
精度のMXミサイルの製造と配備、潜水艦発射型トライデント・ミサイルの製造、その他巡航ミサイルの製造を進
めた。そして、パーシングⅡ型・巡航ミサイルのイギリス・西ドイツ・イタリア等、同盟国への配備を計画した。
レーガン政権は、1982年度以降の軍事予算として、1982 ~ 86年で、1,460億ドルの国防予算の増額を計画した。
レーガン政権で国防長官に就任したのは、キャスパー=ワインバーガーであった。ワインバーガーは、国防総省
内で、迅速、維持能力、近代化をスローガンに、国防予算を拡大していった。ワインバーガーは、巨額の国防予算
を軍に注ぐという意味で、
「キャップ・ザ・レードル(Cap the Ladle)
:ひしゃくのキャップ」と呼ばれた。
レーガンには、その政権を強くサポートする人物・グループが数多く存在した(8)。チャーリー=ウィルソン下院
議員もその一人だった。チャーリー=ウィルソンは、1980年代の下院の国防歳出委員会のメンバーであったが、ア
フガニスタン侵攻のソ連に対するCIAの極秘作戦遂行のための予算を大幅に増額するために尽力した(9)。数十億ド
ルという多額の資金を調達し、ソ連軍と交戦していたイスラム武装勢力に武器を供給する等の支援を実現した(10)。
一方、レーガン政権には対外強硬派が多数を占めていたが、その中で、アレクサンダー=ヘイグ国務長官は、対
外バランス派、デタント派であった。ヘイグは、かつてヘンリー=キッシンジャーの側近として、勢力均衡による
安定ないし平和の実現を、現実の外交交渉、国際政治で目の当たりにした経験からか、キッシンジャー流の勢力均
衡戦略に類似した米中ソの戦略的三角関係を模索し、中国の役割を重視していた。当初、未批准であったSALTⅡ
が定めていた戦略兵器の上限に関しては、ヘイグの助言もありレーガンはそれを遵守した。しかし後に、ヘイグは
更迭されることになる。
レーガンは同盟国との関係強化にも力を入れた。1981年の政権発足後、直ちに、カーター政権の在韓米軍撤退計
画を取りやめた。これにより、ニクソン政権以降始まったアジアからの米軍撤退の流れが止まることになる。1981
年1月末レーガンは、軍事クーデターで政権をとった韓国のチョンドハン(全斗煥)大統領を、政権後初の国賓と
して米国に招いた。これは、西側同盟結束強化・対共産圏対決姿勢の表明でもあった。
ヨーロッパのINF(Intermediate-range Nuclear Force:中距離核戦力)に関する米ソ間交渉は、既に1980年に、
予備的な交渉がジュネーブにおいて開始されていた(11)。正式な米ソ間交渉は、レーガン政権発足後の1981年9月か
ら開始された。アメリカ側は、zero-zero offer(0-0提案、ゼロ・ゼロ・プラン、ゼロ・オプション)を出した。ゼ
ロオプションとは、全てのSS-20・SS-4・ SS-5・ GLCM ・パーシングⅡの完全撤去、欧州における中距離核戦力配備
の撤収を提案したものである。1981年11月ジュネーブにて、ヨーロッパにおけるINFに関する米ソ代表団による交
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渉が行われた。
INFに関して、レーガン政権は、ソ連がSS-20を撤去するならばアメリカのINF配備を見合わせるという「ゼロ・
オプション」を強く主張して引かなかった。ソ連もゼロ・オプション提案に強硬に反発し、応じる姿勢を示さなか
った。ソ連側は、イギリス・フランス等の核戦力を含めれば、ヨーロッパの核は均衡していると強く主張した。一方、
アメリカ側はソ連側の主張を受けず、ヨーロッパにおけるINF配備を主張し、交渉は難航した。
1981年の対ソ連交渉について、レーガンは次のように述べている。
「私はワシントン生活の最初の年に、われわ
れはソ連との核戦力交渉をジュネーブで再開したが、事実上、何の進展もみられなかった。ソ連が民主的諸政府に
対する破壊工作の中止を拒んだことやアフガニスタン侵略の継続、ポーランドでの野蛮な抑圧、そして81年11月に、
欧州から中距離ミサイルをなくすため私が提案したゼロ・ゼロ・プランに対する彼らの抵抗が行き詰まりの原因で
ある。私がゼロ・ゼロ提案を、地球からのすべての核兵器の究極的排除への第一歩と見ていたのに対し、ソ連側は
これを、欧州核ミサイル戦力におけるソ連側の大幅な優越を減らそうとするわれわれの試み―実際にその面もあっ
た―と考えていた。
」
(わがアメリカンドリーム、712 ~ 713p)
。
2.
2.
2.―1982年―
1982年度の国防予算は2,229億ドルの予算案が提示された。米国史上初めての年間2,000億ドル台の国防予算であ
った。1982年11月、レーガンは、開発段階でもあったMXピースキーパー長距離大陸間弾道ミサイル(ICBM)の、
ワイオミング州ウォ―レン空軍基地地下サイロへの配備を決定した。
一方で、全般的にソ連に対して強硬な対応をとったレーガンは、戦略兵器関連の交渉に関しては、早期の段階か
ら比較的前向きな態度を示した。レーガンは、次のように述べている。
「82年春、ユーレカ大学で私のクラスの卒
業50周年を祝う式典で、私は改めてソ連に戦略兵器削減交渉(START)を始動させるよう呼びかけた。これはソ
連がポーランドに戒厳令を敷かせたのち、われわれが一時棚上げしていたものである。
」
(わがアメリカンドリーム、
714p)
。実際1982年中に、戦略兵器削減交渉(START:Strategic Arms Reduction Talks)が、米ソ間で開始され
ることになった(12)。
1982年11月に、18年間政権の座にあったソ連のブレジネフ書記長が死去した。ブレジネフ死去に際して、レーガ
ンは、ブッシュ副大統領、シュルツ国務長官、ハートマン駐ソ連大使に葬儀出席を指示した。
69歳で書記長になったアンドロポフは、1982年12月、INF交渉について、以下のような提案を行った。
「アメリカ
がINF配備計画を中止すれば、ソ連は、イギリス・フランスの核戦力に匹敵するところまで、ヨーロッパのINFを
削減する」と。この時点でもソ連は、米国のINF配備に強く反発していた。
2.
2.
3.―1983年―
1983年3月8日、レーガンは、フロリダ州オーランドで開催された福音派キリスト教徒の全国集会において、ソ
連を「悪の帝国」
(evil empire)と呼ぶ演説を行った。即ち、
「歴史の事実や悪の帝国の攻撃的な衝動を意に介さず、
軍拡競争は大きな誤解によると割り切ってしまうこと」
・
「正と邪、善と悪との戦いの前線から離脱して、軽々しく
自ら超越的な立場に立つこと」を、レーガンは厳しく批判した。
1983年3月23日、国家安全保障決定指令119号に沿って、レーガンは、SDI構想(Strategic Defense Initiative:戦
略防衛構想)
を発表した。
レーガンは、
全米向けテレビ放送で、
SDIは、
ABM LoADS NNKなどに続く、
BMD(Ballistic
Missile Defense:弾道ミサイル防衛システム)で、レーザー・パワーマイクロウェーブ・粒子ビーム等の軍事技術
を利用して、ソ連の戦略核を宇宙空間で捕捉し、レーザー光線等の兵器で撃ち落とすものであると説明した。SDI
はソ連のミサイルを封じ込め、ソ連の軍事力を圧倒しようというものであった。量的な圧倒というより、質の上で
の圧倒であった。
レーガンはSDIを非常に重視していた。
「もし私がその後の五年間に、平和の探究や対ソ関係改善の面で起きた歴
史的躍進に関する単一の、最も重要な理由をアメリカサイドで選ばねばならぬとしたら、私は米軍事力の全面的近
代化と並んで、SDIがそれだったと答えるだろう。
」
(わがアメリカンドリーム、709p)と言うほどに、SDIを重視
している(13)。
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SDIはそれまでの戦略核大国の安全保障概念の中心にあったMAD(Mutual Assured Destruction:相互確証破壊)
を根底から覆すもので、ソ連は深刻にとらえた。核兵器保有国同士が対立しているとき一方が相手国に戦略核兵器
を使用した場合、相手国はそれを確実に察知し報復を行うことにより一方が核兵器を使用すれば最終的に両者は必
ず破滅することになるので相互に核兵器使用を最大限に躊躇させるというのが、MADの意味することであった。
当時MADは、事実上、米ソ冷戦体制・東西冷戦体制という40年以上継続していた当時の国際政治システムを基底
部から固定し、乗り越えるのが極めて困難な概念体系だったと言える。しかし、レーガンはあえてそれに挑戦しよ
うとした。
レーガン自身が、MADの原理には最初から、強い疑問を有していた。レーガンは次のように述べている。
「私は
核ミサイルに関するソ連との暗黙の合意に対しては、はっきりした先入観を抱いて政権の座に就いた。私が言って
いるのは相互確証破壊(MAD)政策、つまり両国のいずれもが、相手側が第一撃に出た場合に、核ミサイルで相
手側を破壊できる力を持つ限りは安全が保たれるという抑止概念のことである。しかしどうにもこれは、われわれ
がそれで安心して眠りに就けるような種類の考えとは、私には思えなかった。それは酒場で二人の西部の男が、互
いに相手の頭に銃の狙いをつけて、にらみ合いを永遠に続けているようなものだった。何かもっと良いやり方があ
るはずだった。
」
(わがアメリカンドリーム、708p)
1983年5月のウィリアムズバーグサミットは、日米英などによる西側全体でソ連に圧力をかける形となった。ウ
ィリアムズバーグサミットの最大の検討事項は、ソ連が配備した中距離核ミサイルSS20を撤去させるために、ヨー
ロッパにパーシングⅡミサイルを配備するレーガン政権への対応にあった。日本の中曽根首相・イギリスのサッチ
ャー首相がレーガンのパーシングⅡミサイル配備を積極支持した。
ウィリアムズバーグサミットのステートメントの中で、
「実効ある軍備管理取り極めは、平等の原則に基づき、
かつ検証可能なものでなくてはならない。我々は種々の国際交渉において積極的な成果を達成するために戦略兵器
(START交渉)
、
中距離核ミサイル(INF交渉)
、
化学兵器、
中欧における兵力削減(MBFR)及び欧州軍縮会議(CDE)
等について諸提案を行ってきている」
・
「我々は、これらの交渉を、はずみを緊急性をもって引き続き推進しなけれ
ばならないと信ずる。特に中距離核戦力(INF)の分野において、我々はソ連に対し、交渉の成功のために建設的
に貢献するよう呼びかけるものである。フランスやイギリスのような第三国の抑止力を算入することを提案するこ
とにより、西側の分断を図ろうとする試みは失敗するであろう。これらの兵器体系はINF交渉においていかなる考
慮の対象ともされるべきではない。
」と訴えた。ソ連との間で、INF削減交渉が合意に達しない場合は、1983年末ま
でに、西ヨーロッパにパーシングⅡを配備することになった。ウィリアムズバーグサミットは、米国が同盟国と共
に毅然たる姿勢を国際社会に示したかたちとなった。
同時期、1983年9月、ソ連軍用機による大韓航空機撃墜事件が発生し、国際世論がソ連を厳しく非難する中、米
ソ関係は極度に高い緊張関係に直面した。
そしてついに、1983年11月、アメリカはイギリスのグリーナムコモン基地に、中距離核と巡航ミサイルを搬入した。
また、同じ11月に、西ドイツ議会が米国のミサイルを受け入れることを決議した。1984年1月、西ドイツに、パー
シングⅡが最初に配備された。パーシングⅡは1985年後半までに108機がヨーロッパに配備されることになる。これ
に対してソ連はジュネーブでのINF交渉打ち切りを宣言し、東ドイツとチェコスロバキアに、SS20を前進配備した。
レーガン政権は1983年中に、INF削減交渉や、1982年に開始されていた戦略兵器削減交渉(START)等、ソ連と
の一連の軍事的交渉を、無期限休会とし、対話に応じない強硬な姿勢を示した。1983年は、米ソ関係、東西関係が、
史上最も高い緊張関係に達した年であった。
2.
3.限定的軍事行動
レーガン政権は、1981年のレバノン派兵、1982年ニカラグア軍事介入、1983年グレナダ侵攻、1984年リビア爆撃
と、アメリカの軍事力が単なる飾りではないことを、限定的な軍事力行使によって世界に見せつけた。特に、対リ
ビア作戦、対グレナダ作戦は、米国に脅威を与える傾向にある国ないしグループやそれらを支援する国家やグルー
プ等が、実際に攻撃を始める可能性を排除することを目的とした軍事行動であった。これは、
「将来の脅威の可能性」
を排除する先制攻撃(Preemptive Attack or Preemptive Strike)
、予防戦争(Preventive War)のリーディングケ
−6−
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ースをつくったと言える。
2.
4.非軍事的圧力
対ソ連への非軍事的圧力としては、1981年末、天然ガスパイプライン等の石油・天然ガス開発関連機器の対ソ連
禁輸の実施、1982年にココム(対共産圏輸出制限の非公式組織)を強化し(ココムはそれまで休眠状態だったが、
25年ぶりにココム高級レベル協議を再開した)
、さらに対ソ連経済制裁強化(1983年解除)を実施した。
しかし、国際政治では基本的に経済の主体は民間企業であるゆえに限界があった。レーガンは、対ソ連経済圧力
の限界に言及して、次のように述べている。
「82年の大部分を通じ、私は西欧同盟諸国に、ソ連への借款を制限し、われわれとともにシベリア横断天然ガス・
パイプライン建設阻止を狙うその他の制裁措置実施に加わるよう説得に努めた。究極的に多少の成果は得られたも
のの、共産主義の死を早めるためにわれわれがやってしかるべきだと私が考えていたほどの経済的圧力をソ連にか
けるよう同盟諸国を説得することはできなかった。西欧同盟諸国の多くは、ソ連の首の縄を絞めつけることよりも、
東欧との経済関係の方を大事にした。
」
(わがアメリカンドリーム、723p)
。
おわりに
レーガンは1981年の政権就任後、1982年、1983年と3年間に渡って、軍事拡大路線を強行しソ連への攻勢を強め
ていった。同時に、イギリス・日本・西ドイツ等の同盟国との関係強化を中心に西側同盟の結束を固め、ソ連への
圧力をかけた。さらに、レバノン派兵、ニカラグア軍事介入、グレナダ侵攻と、限定的な軍事行動を断行した。
ソ連は軍事拡大で強硬な反発姿勢をとり米国に対抗しつつ、国際世論の緊張をあおり、米欧分断、国民の政府へ
の反発(反核反戦平和運動)を通じ、米国の譲歩を引き出す戦術もとった。
しかし、1984年6月のロンドンサミットでも、西側諸国の結束が示され、さらにその前後、ソ連を訪問した西ド
イツのゲンシャー外相、フランスのミッテラン大統領、英国のハウ外相はいずれも、米国のINF配備を強く擁護した。
1984年前半時点でも、西側の固い結束が不動のものと示された。
レーガンの強硬路線に対抗しきれなくなっていくソ連は、1984年以降次第に、柔軟な姿勢に転化していくことに
なる。そして、1985年ジュネーブ、1986年レイキャビック、1987年ワシントン、1988年モスクワで、歴史的な米ソ
首脳会談が開催され、INF全廃条約が成立し、レーガン政権の当初の戦略的外交目標は達成された。
さらに、1991年にはソ連自体が崩壊し、世界の社会主義体制が消滅していくことになり、グローバル化への突破
口が開かれていくことになる。
レーガンの対ソ連外交は、力の重要性、同盟の重要性、諜報戦の重要性、そして、リーダーのソフトパワーの重
要性を教えた。そして、
「力による平和(Peace through Strength)
」という、アメリカの国際政治戦略の最重要か
つ有効なオプションの代表的な成功事例となっていく。
註
⑴ 2009年6月、アメリカ合衆国連邦議会議事堂(Capitol Hill)に、レーガンの像が設置された。
⑵ イラン米国大使館の人質は444日間拘束されることになる。
⑶ カーター政権初のこの軍事行動に対してすら、当時のサイラス・R・バンス国務長官は反対し、国務長官を辞
任した。
⑷ 1984年のⅡ期目を目指した大統領選挙においても、レーガンは、民主党のモンデールに勝利した。レーガンは、
50州の内、49州で勝利した。モンデールの地元ミネソタ州、ワシントンD.C.を除く、全てで勝利した。選挙人投
票数で、レーガン525票、モンデール13票という、レーガンの歴史的な圧勝だった。1985年1月より、レーガン
政権のⅡ期目が開始された。
⑸ ポール・D・ウォルフォウィッツは、さらに後に、インドネシア大使、ブッシュジュニア政権の国防副長官を
歴任する。
⑹ 米国の外交問題評議会(CFR)が発行する『Foreign Affairs』は米国外交政策に絶大な影響力を有する理論誌
−7−
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
である。
⑺ レーガン政権は複数の局面で、SALTⅡの内容を、部分的に遵守していくことになる。
⑻ 米ソ首脳間の調整、特に、1985年の第1回の米ソ首脳会談実現に尽力したアーマンド=ハマー氏(オキシデン
タル石油会長)も、レーガンの個人的な友人でサポーターだった。
⑼ 外交戦成功の底流として、レーガン政権では、諜報機関の能力を強化し、諜報機関を最大限有効に活用した点
が重要である。副大統領ジョージ・ブッシュ自身がCIA長官の経験を有していた。
⑽ CIAはチャーリー=ウィルソンに功労賞を送っている。
⑾ INF(Intermediate-range Nuclear Force:中距離核戦力)は、一般的に、核弾頭を装備した中距離弾道ミサイル・
巡航ミサイルを意味する。
⑿ 米ソ間の戦略兵器関係の交渉には、以下のようなものがある。
SALT(Strategic Arms Limitation Talks:戦略兵器制限交渉)-1が、1969 ~ 72年に行われた。
SALT-Ⅱは、1973 ~ 1979年に行われた。
START(STrategic Arms Reduction Talks:戦略兵器削減交渉)は、レーガン政権時代の1982年に始まり、
START-Ⅰは1991年調印。
START-Ⅱは1993年調印。
START-Ⅲは存在せず、モスクワ条約が、2002年に調印された。
START-Ⅳが、2010年に調印された。
⒀ SDIは、1993年まで開発が進められ、その後クリントン政権でのTMD構想に発展していった。
主要参考文献
秋野豊『ゴルバチョフの2500日』講談社現代新書 1992年
五十嵐武士『政策革新の政治学―レーガン政権下のアメリカ政治』東京大学出版会 1992年
五百旗頭真編『日米関係史』有斐閣ブックス 2008年
石井修著『国際政治史としての20世紀』有信堂 2000年
伊藤孝之・林忠行編『ポスト冷戦時代のロシア外交』有信堂 1999年
下斗米伸夫『ゴルバチョフの時代』岩波新書 1988年
アーマンド=ハマー『ドクター・ハマー~私はなぜ米ソ首脳を動かすのか』ダイヤモンド社 1987年
キャスパー=ワインバーガー『平和への闘い』
(Fighting for Peace)ぎょうせい 1995年
キャスパー=ワインバーガー『次なる戦争』
(The Next War)二見書房 1998年
コリン=パウエル『マイ・アメリカン・ジャーニー:コリン・パウエル自伝』
(ワシントン時代編 1977-1989)
(鈴
木主税訳)角川文庫 2001年
ジョセフ=ナイ『国際紛争―理論と歴史』
(田中明彦・村田晃嗣訳)有斐閣 2002年
ロナルド=レーガン著『わがアメリカンドリーム-レーガン回想録』
(尾崎浩訳)読売新聞社 1993年
中曽根康弘『中曽根内閣史』世界平和研究所 1995 〜 1997年
三浦元博・山崎博康『東欧革命』岩波新書 1992年
村田晃嗣『アメリカ外交』講談社現代新書 2005年
藤本一美編『アメリカ政治の新方向―レーガンの時代』勁草書房 1990年
和田春樹『ペレストロイカ 成果と危機』岩波新書 1990年
Gaddis, John Lewis., The United States and the End of the Cold War: Implications, Reconsiderations , Provocations.,
New York and Oxford: Oxford University Press, 1992
George P. Shultz, Turmoil and Triumph : My Years As Secretary of State , NY : Scribner , 1993
Ronald Reagan An American Life , Simon & Schuster, 1990
Margaret Thatcher , Statecraft : Strategies for a Changing World, NY : Harper Collins, 2002
−8−
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
Nancy Reagan My turn , Random House, 1989
University Publications of America, National Security Decision Directives(NSDD:国家安全保障決定指令)
(レ
ーガン政権・ブッシュ政権において国家安全保障政策を実施するために大統領
の決定を公布したもの)
−9−
− 10 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
〔論 文〕
新潟県地域の高齢女性の「死」に対する意識
——自殺予防を見据えて——
菊
池
いづみ
(長岡大学准教授)
1 問題の背景
新潟県の自殺死亡率は全国でも高い。自殺死亡率とは、人口10万人あたりの自殺者数のことである。住居地でみ
た2009年の都道府県別自殺死亡率の上位は、青森県と秋田県がともに38.5、岩手県36.4、高知県32.8、島根県32.2、
新潟県31.3、宮崎県30.0であった(内閣府 2011c)1)。新潟県は1994年、95年の連続ワースト1位から年々改善され、
2008年には11位まで順位を下げたが、2009年は再び6位に逆戻りした(新潟県 2009)
。また、自殺死亡者に占める60
歳以上の割合の全国平均を算出すると、男性は33.6%、女性は44.1%となっている2)。女性において60歳以上の占め
る割合の高さに気づかされる。そして、新潟県ではこの割合が53.1%にのぼっている3)。都道府県別にみると11番目
に高い。新潟県における女性の自殺者に占める高齢者の割合の高さは、
「死」をめぐる高齢女性の問題と、新潟県
地域における特性とが重なっていることが推察される。
県では、厚生労働省に指定統計調査票の目的外使用を申請し、自殺に関する人口動態調査死亡票情報を入手し、
(出所)新潟県ホームページ「自殺対策関連情報」
(新潟県 2009)
。
図1 市町村別自殺者数・バブルグラフ
− 11 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
精神保健福祉センターが県内の自殺の現状について分析した結果を紹介している4)。図1は、1995年から2006年ま
での12年間について、市町村別ならびに県内5区分別の自殺者数を円の面積で、また、前半(1995年から2000年まで)
の自殺者数に対する後半(2001年から2006年まで)6年間の増加率(①120%以上、②110%以上、③100%以上、④
減少)を円の色で表したものである。縦軸は自殺死亡率で、円が上方に位置するほど高いことになる。これによる
と地区別の増加率は、佐渡地区で減少したが、その他の地区はいずれも増加している。増加率は魚沼地区と中越地
区は100%以上、上越地区と下越地区は110%以上であった。市町村別の増加率は、注のとおりである。
また、2004年には、石上和男(新潟県福祉保健部健康対策課長)ほかが、
「老年期における自殺予防対策のあり方
に関する精神保健的研究」に取り組んだ(石上ほか 2011)
。これによれば、新潟県における自殺予防対策は、1985
年から2年間、松之山町(旧東頸城郡、現在は十日町市)ほかの市町村で実施した「精神衛生事故防止対策事業」が
始まりとされる。1988年度からは「老年期の心の健康づくり事業」を通して、
高齢者を対象に「うつスクリーニング」
と保健指導等を実施し、
「松之山方式」
として確立され発展した。これは、
高齢者自殺予防対策手法であったといえる。
「うつスクリーニング」
その後、2000年度からは、壮年期も対象に予防対策に取り組んでいる5)。2004年の研究では、
を実施しているA村と、自殺率が低率なB町において「高齢者生活・健康意識調査」を実施し、
「生きがい・社会参加」
施策の自殺予防策としての有用性を検証している。
こうした新潟県の実情、特に高齢者の自殺死亡率の高さを背景に、財団法人新潟県老人クラブ連合会では、自殺
対策の普及啓発事業ならびに独自事業(県内高齢者を対象とするアンケート調査)を企画し、
「平成22年度新潟県
地域自殺対策緊急強化事業」として泉田裕彦知事に申請した。この事業が採択され、補助金の交付を受けて実施さ
れることになった。全国的には、中高年の自殺率増加についての問題が大きく取り上げられるなかで、従来より深
刻な問題であった高齢者の自殺(高橋 2006: 14)を対象とする取組として位置付けられる。
2 本稿の分析視覚と目的
「死」を社会的行為のひとつとしてとらえ、社会学的考察を試みた副田義也(2001: ⅴ)は、
「ひとは他者との関
連において死ぬ」と表現した。自殺による死が通常の死より深刻な意味をもつのは、あとに遺された人への影響が
大きいことによる(デーケン 1996)
。また、薄井明(2002: 160-2)は、死に対する周囲の人の受けとめ方によって、
死の形を「惜しまれる死」
、
「納得される死」
、
「安堵される死」の3通りに分けて検討を加えている。そこでは、長
期の在宅介護におよんだ高齢者の死が、
ときに「安堵される死」として受けとめられる現状の問題点を指摘している。
この3類型に対して岡村清子・天沼理恵(2007: 73)は、受けとめ方が死者との生存時の関係性によっても異なるこ
とを強調している。こうしてみてくると、人が死にたいという思いを抱く背景には、個人を取り巻く環境が大きく
関与しているものといえる。 では、
「死にたいと思う」ことと「自殺」とはどのように関連するだろうか。自殺は突然に起きるのではなく、
自殺にいたるまでにサインをだしているといわれる。うつ病が自殺の引き金になることは知られるようになったが、
秋田県の自殺予防対策にかかわった本橋豊(2006: 49)は、うつ病の症状のひとつに「死にたいと思うようになる」
(希死念慮)をあげ、この症状がうつ病によるものであれば、周囲には真剣な対応が求められると注意喚起している。
したがって、
「死にたいと思う」ことが、すべて自殺につながるわけではないが、看過できない予兆といえる。見
方を変えれば、早い段階での対応につながるともいえる。本稿では、高齢女性が「死にたいと思う」のはいかなる
要因によるのか、この点に着目する。本稿の目的は次のとおりまとめられる。
新潟県地域の高齢女性の「死」に対する意識を質問紙調査によって明らかにするとともに、
「死にたい」という
思いを規定する要因を探り、自殺予防の手がかりをみつける。分析検討にあたっては、
「死」を社会的行為として
とらえ、個人を取り巻く社会関係に着目する。
3 方法
3.1 分析データ
本稿の分析に用いたデータは、前述のとおり、財団法人新潟県老人クラブ連合会が「平成22年度新潟県地域自殺
対策緊急強化事業補助金」の交付をうけて、2010年6月1日から21日にかけて実施した「高齢者の死に対する意識調
− 12 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
査」に基づいている。この調査は、新潟県において高齢者の自殺率が全国平均と比較して高いことから、県内の高
齢者を対象に、
生活実態や死に対する意識を明らかにし、
高齢者の自殺予防策を探ることを目的とした。調査項目は、
①日常生活、②死に対する思い、③自殺に対する考え、④生きがい、⑤基本属性・老人クラブ活動について、から
なっている。調査は、新潟県内の満60歳以上の高齢者2,000人を対象とし、老人クラブのネットワークを活用して配
布(新潟市を除く県内76地区の老人クラブより手渡し)し、回収は郵送により実施された。有効回収数は1,331票、
有効回収率は66.5%であった6)。このうち、性別が女性の標本415ケースを分析対象としている。
3.2 回答者の特性
分析対象となる回答者の基本属性は、表1のとおりである。
平成22年10月1日現在の新潟県推計人口(新潟 2010)によると、県内の女性60歳以上人口に占める年齢別人口の
割合は、
「60 ~ 64歳」20.8%、
「65 ~ 69歳」16.7%、
「70 ~ 74歳」16.5%、
「75歳以上」46.0%である。これと比較する
と分析対象者は「70 ~ 74歳」の割合(30.6%)が高いといえる。
世帯構成、健康状態、住宅構造、暮らし向きについては、全国調査の結果と比較して、分析対象者の特性をみてみる。
世帯構成は、
「夫婦のみ」と「三世代同居」がともに29.6%で最も高い。
「子との同居」が24.6%、
「一人暮らし」は
「夫婦二人世帯」
(38.3%)と、
「本人と子と孫の世帯」
12.0%である。平成21年に内閣府が実施した全国調査7)をみると、
(16.2%)となっており、両者について差がみられる。分析対象者は、三世代同居の割合が高く、夫婦のみ世帯の割
合が低いといえる。健康状態は、
「良い」
(27.5%)と「まあ良い」
(56.4%)を合計すると83.9%にのぼる。全国調査8)
と比較した場合、健康状態はやや良好といってよい。また、住宅は、
「持家の一戸建て」が97.6%を占めており、同
様の全国調査(87.8%)と比較すると、10ポイントほど上回っている。暮らし向きは、
「普通だと思う」
(65.3%)が
最も高く、
「ゆとりがある」
(8.0%)と「すこしゆとりがある」
(14.7%)の合計22.7%に対して、
「少し苦しい」
(9.6%)
と「苦しい」
(1.2%)の合計は10.8%である。平成20年に内閣府が実施した全国調査9)と比較すると、分析対象者は、
ゆとりのある層が15ポイントほど上回っている。その分だけ苦しい層の割合は低くなっている。
居住地域は、
「下越地区」
(27.2%)
、
「中越地区」
(40.5%)
、
「魚沼地区」
(9.6%)
、
「上越地区」
(19.8%)
、
「佐渡地区」
(2.9%)であった。
最後に、老人クラブ会員の状況をみておくと、会員65.1%、非会員34.5%であった。なお、老人クラブ会員(n=270)
表1 分析対象者の基本属性
暮らし向き
クラブ
老人
健康状態
居住地域
世帯構成
実数
構成比(%)
415
100.0
64
15.4
73
17.6
127
30.6
96
23.1
43
10.4
11
2.7
1
0.2
50
12.0
123
29.6
102
24.6
123
29.6
10
2.4
5
1.2
2
0.5
114
27.5
234
56.4
5
1.2
46
11.1
12
2.9
4
1.0
住宅構造
年齢
全体
60 ~ 64 歳
65 ~ 69 歳
70 ~ 74 歳
75 ~ 79 歳
80 ~ 84 歳
85 歳以上
不明・無回答
一人暮らし
夫婦のみ
子との同居
三世代(子・孫との)同居
親との同居
その他
不明・無回答
良い
まあ良い
どちらともいえない
あまり良くない
良くない
不明・無回答
− 13 −
全体
持家の一戸建て
持家の集合住宅
賃貸の一戸建て
その他
不明・無回答
ゆとりがある
少しゆとりがある
普通だと思う
少し苦しい
苦しい
不明・無回答
下越地区
中越地区
魚沼地区
上越地区
佐渡地区
会員
非会員
不明・無回答
実数
構成比(%)
415
100.0
405
97.6
2
0.5
3
0.7
2
0.5
3
0.7
33
8.0
61
14.7
271
65.3
40
9.6
5
1.2
5
1.2
113
27.2
168
40.5
40
9.6
82
19.8
12
2.9
270
65.1
143
34.5
2
0.5
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
に活動状況をたずねたところ、
「積極的に活動している」49.3%、
「時々活動している」37.4%、
「あまり活動していな
い」6.3%、
「ほとんど活動していない」6.3%、
「不明・無回答」0.7%であった。
3.3 「死にたいと思ったこと」との関連と規定要因
高齢女性が死にたいと思うのは、どのような要因によるのか。
はじめに、
「最近1年以内に死にたいと思ったこと」
(以下、略記は「死にたいと思ったこと」
)があるかないかと
関連のある変数を探ることにする。そこで、質問項目ごとにクロス集計し、統計的に有意差の認められた変数10)に
ついて、
「地域社会とのかかわり」
「悩みや不安」
「
『死』への準備」
「生きる喜び」
「基本属性・老人クラブの活動状況」
の観点から、
「死にたいと思ったこと」との関連をみていく。ここでは、単に統計的に有意な差がみられたか否か
ということだけでなく、調査結果の概観をも兼ねて、少し丁寧に「死にたいと思ったこと」との関連をみていくこ
とにする。
また、
「死にたいと思ったこと」は、
「自殺したいと思ったこと」と強い相関があるという仮説をもとに、
「自殺
したいと思ったこと」との関連も検討する。
次に、クロス集計の結果、関連の認められた変数を独立変数とし、
「死にたいと思ったこと」を従属変数とする
カテゴリカル回帰分析によって、
「死にたいと思ったこと」を規定する要因を探る。
4 結果
4.1 「死にたいと思ったこと」との関連
「最近1年以内に死にたいと思ったことがありますか」
(n=415)に対する回答は、
「ある」9.2%、
「ない」87.7%、
「不
明・無回答」3.1%であった11)。各質問項目のクロス集計の結果、表2 ~表7のとおり24項目について統計的に有意な
差がみられた。以下、
「地域社会とのつながり」
「悩みや不安」
「
『死』への準備」
「生きる喜び」
「基本属性・老人ク
ラブの活動状況」
「自殺したいと思ったこと」の順にみていく。
4.1.1 地域社会とのつながり(表2)
①日常生活に関する質問として、地域社会とのつながりについて、外出頻度、訪問者の頻度、住んでいる地域で
負担に思っていることをたずねている。外出頻度と訪問者の頻度は、4月から11月までと、降雪期間にあたる12月
から3月までとに分けている。また、住んでいる地域で負担に思っていることは複数回答により、用意された選択
肢は次のとおりである。
「農地・山林の管理(高齢で手入れができない)
」
「女性の地位を認めてもらえない」
「遊ぶ
ことや自分の楽しみを持つことを受け入れてもらえない」
「高齢者が多い」
「交通の便が悪い」
「経済的負担が多い」
「雪
の処理(屋根の雪下ろし・道付け等)
」
「地域の行事の維持」
「その他」
「負担に思っていることはない」
。
これらのなかで「死にたいと思ったこと」との関連は、外出頻度が4月~ 11月までの期間について、訪問者の頻
度は4月~ 11月までと12月~ 3月までの両期間について、いずれも10%水準で有意な差がみられた。また、住んでい
る地域で負担に思っていることのうち、
「女性の地位を認めてもらえない」
(10%水準)
「
、交通の便が悪い」
(5%水準)
、
「経済的負担が多い」
(1%水準)について差が認められた。以下、死にたいと思ったことが「ある」という回答に焦
点を絞ってみていく。
(1)外出頻度(4月~ 11月まで)
(p<.10)
4月~ 11月の期間の外出頻度について、
「ほとんどしない」と回答した人のうち、死にたいと思ったことが「ある」
割合は5割にのぼる。基数の少ない「月に1 ~ 2日」と「ほとんどしない」を「週1回未満」として、それ以外の「ほ
ぼ毎日」
「週3 ~ 5日」
「週1~ 2日」を「週1回以上」として比較すると、
4月~ 11月の期間の外出頻度が「週1回未満」
になると、死にたいと思ったことの割合が高くなるといえる。
(2)訪問者の頻度(4月~ 11月まで)
(p<.10)
4月~ 11月の期間の訪問者が「ほぼ毎日」
「週3 ~ 5日」では、
死にたいと思ったことが「ある」割合は相対的に低く、
− 14 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
表2 地域社会とのつながりと死にたいと思ったこととの関連
表 2 地域社会とのつながりと死にたいと思ったこととの関連
1年以内に
死にたいと思ったこと
ある
外出頻度(4月~11月まで)
8.8%
ほぼ毎日
7.5%
週3~5日
10.8%
週1~2日
0.0%
月に1~2日
50.0%
ほとんどしない
9.0%
全体
訪問者の頻度(4月~11月まで)
8.2%
ほぼ毎日
8.1%
週3~5日
9.6%
週1~2日
9.3%
月に1~2日
33.3%
ほとんどこない
9.6%
全体
訪問者の頻度(12月~3月まで)
6.7%
ほぼ毎日
5.6%
週3~5日
7.1%
週1~2日
17.2%
月に1~2日
18.2%
ほとんどこない
9.3%
全体
住んでいる地域で負担に思っていること
25.0%
女性の地位を認 選択
9.0%
めてもらえない 非選択
9.5%
全体
15.2%
交通の便が悪 選択
7.7%
非選択
い
9.5%
全体
20.7%
経済的負担が 選択
7.6%
多い
非選択
9.5%
全体
+
*
(注) p<.10, p<.05,
合計
ない
χ2 検定:
正確有意確率
(両側)
(n)
91.2%
92.5%
89.2%
100.0%
50.0%
91.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
(249)
(106)
(37)
(2)
(4)
(5)
+
91.8%
91.9%
90.4%
90.7%
66.7%
90.4%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
(49)
(135)
(135)
(54)
(12)
(385)
+
93.3%
94.4%
92.9%
82.8%
81.8%
90.7%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
(30)
(90)
(126)
(64)
(22)
(332)
+
75.0%
91.0%
90.5%
84.8%
92.3%
90.5%
79.3%
92.4%
90.5%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
(12)
(390)
(402)
(92)
(310)
(402)
(58)
(344)
(402)
+
*
**
**
p<.01
一方、
「ほとんどこない」と回答した人では、3人に1人が死にたいと思ったことが「ある」と回答している。
(3)訪問者の頻度(12月~ 3月まで)
(p<.10)
新潟県では降雪期間となる12月~ 3月の期間の訪問者の頻度との関連をみると、⑴外出頻度で差のあった「週1回
以上」と「週1回未満」とする分け方で比べてみると、
「週1回以上」では、死にたいと思ったことが「ある」割合
は相対的に低い。一方、
「週1回未満」では、死にたいと思ったことが「ある」割合は、全体の回答の約2倍にあたる。
外出頻度と訪問者の頻度に共通していえることは、
「ほとんどしない」
「ほとんどこない」と回答した人が、死に
たいと思ったことが「ある」割合が最も高い。
(4)住んでいる地域で負担に思っていること
(4-1)女性の地位を認めてもらえない(p<.10)
住んでいる地域で負担に思っていることとして、
「女性の地位を認めてもらえない」を選択した人は、4人に1人
が死にたいと思ったことが「ある」と回答している。
(4-2)交通の便が悪い(p<.05)
「交通の便が悪い」を選択した人のうち、死にたいと思ったことが「ある」割合は15.2%で、
「女性の地位を認めて
もらえない」より相対的に低いが、回答者全体の割合より高くなっている。
− 15 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
(4-3)経済的負担が多い(p<.01)
「経済的負担が多い」は、有意水準1%で差がみられ、およそ5人に1人が死にたいと思ったことが「ある」と回答
している。
4.1.2 悩みや不安(表3)
①日常生活に関する質問として、地域社会とのつながりのほかに、悩みや不安について、次のとおりたずねている。
悩みや心配ごとがあったときに相談できる人が「いる」か「いない」か。
「いる」場合、
それはどのような人か、
「い
ない」場合、どのような人に相談したいか(複数回答)
。選択肢は、
「配偶者」
「家族(配偶者を除く)
・親族」
「友人・
知人」
「医師・看護師」
「民生委員」
「カウンセラー」
「地域包括支援センターの相談員」
「その他」である。
また、
悩みやストレスを解消するためによく行うことをたずねている(複数回答)
。選択肢は、
「買い物」
「音楽(カ
ラオケを含む)
」
「スポーツ」
「テレビや映画を見たり、
ラジオを聞いたりする」
「食べる」
「寝る」
「人と話をする」
「お
酒を飲む」
「たばこを吸う」
「ギャンブル・勝負ごとをする」
「旅行やドライブ」
「その他」
「特になし」である。
そして、現在、最も不安に思っていることを、ひとつだけたずねている(選択肢は表3のとおり)
。
これらのなかで「死にたいと思ったこと」との関連は、悩みや心配ごとを相談できる人の有無が1%水準で有意な
差がみられ、
そのうち相談相手として「家族(配偶者を除く)
・親族」を選択したか否かに差が認められた(10%水準)
。
また、
悩みやストレスの解消法のなかでは、
「人と話をする」
(5%水準)
「
、たばこを吸う」
(5%水準)
「
、旅行やドライブ」
(10%水準)を選択したか否かに差が認められた。そして、不安に思っていることは、1%水準で有意な差がみられた。
各項目の関連は、次のとおりである。
(1)悩みや心配ごとを相談できる人(p<.01)
悩みや心配ごとを相談できる人が「いない」と回答した人は、3人に1人が、死にたいと思ったことが「ある」と
回答している。
(2)悩みや心配ごとの相談相手
(2-1)家族(配偶者を除く)
・親族(p<.10)
悩みや心配ごとを相談できる人が「いる」と回答した人(n=386)のうち、
相談相手として「家族(配偶者を除く)
・
親族」をあげた人は、死にたいと思ったことが「ある」割合(6.8%)が相対的に低い。
(3)悩みやストレスの解消法
(3-1)人と話をする(p<.05)
悩みやストレスの解消法として、
「人と話をする」をあげた人は、死にたいと思ったことが「ある」割合(7.4%)
が相対的に低い。
(3-2)たばこを吸う(p<.05)
一方、
「たばこを吸う」をあげた人は、死にたいと思ったことが「ある」割合は半数にのぼる。
(3-3)旅行やドライブ(p<.10)
「旅行やドライブ」をあげた人では、死にたいと思ったことが「ある」割合は6.0%で、
「人と話をする」より、相
対的に低くなっている。
(4)不安に思っていること(p<.01)
不安に思っていることでは、死にたいと思ったことが「ある」割合の高かった回答は、
「借金がある」
(66.7%)
、
「生
活が苦しい」
(50.0%)
、
「病気が長引いている」
(16.7%)であった。一方、
「不安に思っていることはない」と回答し
た人では、死にたいと思ったことが「ある」割合は3.0%と低い。
− 16 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
表 3 悩みや不安と死にたいと思ったこととの関連
表3 悩みや不安と死にたいと思ったこととの関連
1年以内に
死にたいと思ったこと
ある
悩みや心配ごとを相談できる人
いる
いない
全体
悩みや心配ごとの相談相手
家族(配偶者を 選択
非選択
除く)・親族
全体
悩みやストレスの解消法
選択
人と話をする
非選択
全体
たばこを吸う
選択
非選択
全体
旅行やドライブ 選択
非選択
全体
不安に思っていること
加齢に伴う体力の低下
病気が長引いている
生活が苦しい
家族の健康
地域の人とうまくいかない
家族に介護を期待できない
身近な人との死別
借金がある
その他
不安に思っていることはない
全体
+
*
(注) p<.10, p<.05,
合計
ない
χ2 検定:
正確有意確率
(両側)
(n)
8.3%
33.3%
9.2%
91.7%
66.7%
90.8%
100.0%
100.0%
100.0%
(386)
(15)
(401)
**
6.8%
12.4%
8.3%
93.2%
87.6%
91.7%
100.0%
100.0%
100.0%
(281)
(105)
(386)
+
7.4%
16.1%
9.5%
50.0%
9.0%
9.5%
6.0%
11.5%
9.5%
92.6%
83.9%
90.5%
50.0%
91.0%
90.5%
94.0%
88.5%
90.5%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
(309)
(93)
(402)
(4)
(398)
(402)
(149)
(253)
(402)
9.6%
16.7%
50.0%
4.3%
0.0%
7.4%
0.0%
66.7%
0.0%
3.0%
8.6%
90.4%
83.3%
50.0%
95.7%
100.0%
92.6%
100.0%
33.3%
100.0%
97.0%
91.4%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
(167)
(6)
(8)
(47)
(1)
(27)
(8)
(3)
(4)
(67)
(338)
*
*
+
**
**
p<.01
4.1.3 「死」への準備(表4)
調査項目の②死に対する思いとして、最近1年以内に死にたいと思ったことをたずねたうえで、
「ある」と回答し
た人にどんなときかをたずねている(注11のとおり)
。
また、
「死」への準備で心がけていることが「ある」か「ない」か「わからない」かをたずね、
「ある」と回答し
た人に、それはどのようなことかをたずねている(複数回答)
。選択肢は「財産や預金などを整理している」
「介護
が必要になったときのことを考えている」
「遺言書を作った(予定している)
」
「墓を作った(予定している)
」
「友
達を大切にしている」
「地域とのつながりを大切にしている」
「健康に気をつけている」
「食事に気をつけている」
「お
寺参りをしている」
「身の回り品の整理をしている」
「ペットの引取先などを考えている」
「その他」である。
このうち、
「死」への準備で心がけていることの有無と、心がけていることについて、死にたいと思ったことと
クロス集計した結果、
「死」への準備で心がけていることの有無は、5%水準で有意な差があった。また、心がけて
いることのなかでは、
「介護が必要になったときのことを考えている」
(10%水準)
、
「健康に気をつけている」
(0.1%
水準)
、
「食事に気をつけている」
(1%水準)
、
「お寺参りをしている」
(10%水準)で差がみられた。各項目の関連は
次のとおりである。
(1)
「死」への準備で心がけていること(p<.05)
「死」への準備で心がけていることが「ある」と回答した人は、
死にたいと思ったことが「ある」割合(13.0%)が高く、
心がけていることが「ない」と回答した人は、死にたいと思ったことが「ある」割合(4.9%)が低い。
− 17 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
表4 「死」への準備と死にたいと思ったこととの関連
表 4 「死」への準備と死にたいと思ったこととの関連
1年以内に
死にたいと思ったこと
ある
「死」への準備で心がけていること
13.0%
ある
4.9%
ない
8.0%
わからない
9.2%
全体
「死」への準備でどんなことを心がけているか
8.0%
介護が必要に 選択
17.3%
なったときのこと 非選択
13.0%
全体
を考えている
8.3%
健康に気をつけ 選択
34.3%
非選択
ている
13.0%
全体
6.3%
食事に気をつけ 選択
22.2%
ている
非選択
13.0%
全体
27.8%
お寺参りをして 選択
11.5%
いる
非選択
13.0%
全体
+
*
(注) p<.10, p<.05,
**
p<.01,
2
合計
ない
χ 検定:
正確有意確率
(両側)
(n)
87.0%
95.1%
92.0%
90.8%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
(192)
(164)
(25)
(381)
92.0%
82.7%
87.0%
91.7%
65.7%
87.0%
93.7%
77.8%
87.0%
72.2%
88.5%
87.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
(88)
(104)
(192)
(157)
(35)
(192)
(111)
(81)
(192)
(18)
(174)
(192)
*
+
***
**
+
***
p<.001
(2)
「死」への準備でどんなことを心がけているか
(2-1)介護が必要になったときのことを考えている(p<.10)
「死」への準備で心がけていることが「ある」と回答した人で、
「介護が必要になったときのこのことを考えている」
表 5 生きる喜びと死にたいと思ったこととの関連
を選択した人は、死にたいと思ったことが「ある」割合(8.0%)が相対的に低い。
1年以内に
死にたいと思ったこと
合計
2
χ 検定:
正確有意確率
(両側)
(n)
ある
ない
生きる喜びを感じるとき
6.0%
94.0%
100.0%
また、
「健康に気をつけている」を選択した人も、死にたいと思ったことが「ある」割合(8.3%)が低い。
人に頼られてい 選択
(217)
13.5%
86.5%
100.0%
*
(185)
ると感じたとき 非選択
9.5%
90.5%
100.0%
(402)
全体
7.1%
92.9%
100.0%
(241)
やることがある 選択
(2-3)食事に気をつけている(p<.01)
13.0%
87.0%
100.0%
*
(161)
非選択
とき
死にたいと思ったことが「ある」割合が最も低かったのは、
「食事に気をつけている」を選択した人で、6.3%で
9.5%
90.5%
100.0%
全体
(402)
7.8%
92.2%
100.0%
(321)
健康でいられる 選択
あった。
16.0%
84.0%
100.0%
*
(81)
非選択
と思うとき
9.5%
90.5%
100.0%
(402)
全体
(2-2)健康に気をつけている(p<.001)
(注) p<.05
(2-4)お寺参りをしている(p<.10)
*
これに対して、
「お寺参りをしている」を選択した人は、死にたいと思ったことが「ある」割合が、27.8%と高い。
4.1.4 生きる喜び(表5)
調査項目④生きがいについてとして、どんなときに生きる喜びを感じるかをたずねている(複数回答)
。選択肢
は、
「人に頼られていると感じたとき」
「感謝されたとき」
「やることがあるとき」
「健康でいられると思うとき」
「家
族が仲良く元気で暮らしていられるとき」
「経済的に豊かであるとき」
「ペットと一緒にいるとき」
「その他」
「生き
る喜びを感じることはない」である。このうち、
「人に頼られていると感じたとき」
「やることがあるとき」
「健康
でいられると思うとき」が、いずれも5%水準で有意な差がみられた。各項目の関連は次のとおりである。
(1)生きる喜びを感じるとき
(1-1)人に頼られていると感じたとき(p<.05)
どんなときに生きる喜びを感じるかという質問に対して、
「人に頼られていると感じたとき」を選択した人は、死
にたいと思ったことが「ある」割合(6.0%)が低い。
− 18 −
いる
非選択
全体
+
*
(注) p<.10, p<.05,
**
p<.01,
13.0%
87.0%
100.0%
+
(174)
(192)
***
p<.001
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
表5 生きる喜びと死にたいと思ったこととの関連
表 5 生きる喜びと死にたいと思ったこととの関連
1年以内に
死にたいと思ったこと
ある
生きる喜びを感じるとき
人に頼られてい 選択
ると感じたとき 非選択
全体
やることがある 選択
非選択
とき
全体
健康でいられる 選択
非選択
と思うとき
全体
2
合計
ない
6.0%
13.5%
9.5%
7.1%
13.0%
9.5%
7.8%
16.0%
9.5%
94.0%
86.5%
90.5%
92.9%
87.0%
90.5%
92.2%
84.0%
90.5%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
χ 検定:
正確有意確率
(両側)
(n)
(217)
(185)
(402)
(241)
(161)
(402)
(321)
(81)
(402)
*
*
*
*
(注) p<.05
(1-2)やることがあるとき(p<.05)
「やることがあるとき」を選択した人も、死にたいと思ったことが「ある」割合(7.1%)が低い。
(1-3)健康でいられると思うとき(p<.05)
「健康でいられると思うとき」は、有意差の認められた3項目のなかでは、死にたいと思ったことが「ある」割合
(7.8%)が一番高いが、
「健康でいられると思うとき」を選択しなかった人が死にたいと思ったことが「ある」割合
(16.0%)と比較すると、低い結果となっている。
4.1.5 基本属性・老人クラブの活動状況(表6)
調査項目⑤基本属性は、
表1のとおり、
「年齢」
「世帯構成」
「健康状態」
「住宅構造」
「暮らし向き」
「居住地域」
「老
人クラブ会員」をたずねている。また、老人クラブ会員(n=270)に対して、
「老人クラブの活動状況」について、
4件法(
「積極的に活動している」から「ほとんど活動していない」
)でたずねている。
このうち、死にたいと思ったこととの関連で有意な差がみられたのは、
「健康状態」
(1%水準)
、
「暮らし向き」
(5%
水準)
、
「老人クラブ会員」
(5%水準)
、
「老人クラブの活動状況」
(0.1%水準)であった。
以下、各項目の関連をみていく。
(1)健康状態(p<.01)
健康状態は、
「良い」と回答した人は、死にたいと思ったことが「ある」割合は3.6%と低く、状態が悪くなるに
つれて
「ある」
の割合が高くなっている。
「良くない」
と回答した人では27.3%と高い。
ただし、
「どちらともいえない」
は、
健康状態の程度として「良い」と「良くない」の中間に位置すると考えると、例外となる。基数は少ないが、死に
たいと思ったことが「ある」割合が40.0%と最も高くなっている。
(2)暮らし向き(p<.05)
暮らし向きは、
「少しゆとりがある」層が、死にたいと思ったことが「ある」割合が3.4%と低い。
「ゆとりがある」
層も相対的に低い。一方、
「少し苦しい」と回答した人は5人に1人が、
「苦しい」と回答した人は3人に1人が、死に
たいと思ったことが「ある」と回答している。
(3)老人クラブ会員(p<.05)
老人クラブの会員(会員かどうかをたずねたところ、
「はい」と回答した人)は、
非会員(
「いいえ」と回答した人)
に比べて、死にたいと思ったことが「ある」割合(7.3%)が低い。
(4)老人クラブの活動状況(p<.001)
− 19 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
表6 基本属性・老人クラブの活動状況と死にたいと思ったこととの関連
表
6 基本属性・老人クラブの活動状況と死にたいと思ったこととの関連
1年以内に
死にたいと思ったこと
ある
健康状態
良い
まあ良い
あまり良くない
良くない
どちらともいえない
全体
暮らし向き
ゆとりがある
少しゆとりがある
普通
少し苦しい
苦しい
全体
老人クラブ会員
はい
いいえ
全体
老人クラブ会員の活動状況
積極的に活動している
時々活動している
あまり活動していない
ほとんど活動していない
全体
*
(注) p<.05,
**
p<.01,
2
合計
ない
χ 検定:
正確有意確率
(両側)
(n)
3.6%
9.2%
16.3%
27.3%
40.0%
9.3%
96.4%
90.8%
83.7%
72.7%
60.0%
90.8%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
(112)
(229)
(43)
(11)
(5)
(400)
**
6.1%
3.4%
9.2%
20.0%
33.3%
9.3%
93.9%
96.6%
90.8%
80.0%
66.7%
90.7%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
(33)
(59)
(262)
(40)
(3)
(397)
*
7.3%
13.6%
9.5%
92.7%
86.4%
90.5%
100.0%
100.0%
100.0%
(260)
(140)
(400)
*
2.3%
10.3%
28.6%
5.9%
7.0%
97.7%
89.7%
71.4%
94.1%
93.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
100.0%
(130)
(97)
(14)
(17)
(258)
***
***
p<.001
老人クラブ会員(n=270)にたずねた活動状況では、
「積極的に活動している」層の死にたいと思ったことが「ある」
割合が2.3%と最も低い。
「時々活動している」層はやや高く、
「あまり活動していない」層で28.6%と高い。そして、
「ほ
とんど活動していない」層では逆に5.9%と低い結果となっている。
表 7 自殺したいと思ったことと死にたいと思ったこととの関連
4.1.6 自殺したいと思ったこと(表7)
1年以内に
死にたいと思ったこと
χ2 検定:
正確有意確率
ある
ない
(両側)
(n)
調査項目③自殺に対する考えについてとして、最近1年以内に自殺をしたいと思ったことが「ある」か「ない」か
1年以内に自殺したいと思ったこと
76.5%
23.5%
100.0%
をたずねたうえで、
「ある」と回答した人に、どのようなときかをたずねている。そして、新潟県の高齢者の自殺
ある
(17)
5.1%
94.9%
100.0%
***
ない
(356)
率が高いことを「知っている」か「知らない」か、その理由は何だと考えるか。また、
「うつ病」についてどのよ
8.3%
91.7%
100.0%
全体
(373)
最後に、
「自殺したいと思ったこと」との関連をみておく。
合計
***
うなイメージをもっているか、高齢者の自殺予防対策として大切だと思うことは何かをたずねている(複数回答)
。
(注) p<.001
このなかで、死にたいと思ったこととの関連で有意な差がみられたのは、1年以内に自殺したいと思ったことの
有無であった(0.1%水準)
。
(1)自殺したいと思ったこと(p<.001)
1年以内に自殺したいと思ったことが「ある」と回答した人は、死にたいと思ったことが「ある」とおよそ4人の
うち3人が回答している。自殺を自死ととらえると、自殺したいと思ったことが「ある」と回答した人は、全員、死
にたいと思ったことが「ある」と考えてもいい。しかし、自殺したいと思ったことを死にたいと思ったこととして
回答しなかった人は、23.5%であった。そうなると、なかには回答の間違いも含まれるかもしれないが、1年以内に
死にたいと思ったことが「ない」と回答した23.5%ほどの人は、自殺と死にたいと思うことと、別次元でとらえて
いるということになる。自殺したいと思ったことと死にたいと思ったことと、他の質問項目同様にクロス集計した
結果明らかになった。
− 20 −
7.0%
全体
*
(注) p<.05,
**
p<.01,
93.0%
100.0%
(258)
***
p<.001
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
表7 自殺したいと思ったことと死にたいと思ったこととの関連
表
7 自殺したいと思ったことと死にたいと思ったこととの関連
1年以内に
死にたいと思ったこと
ある
1年以内に自殺したいと思ったこと
ある
ない
全体
(注)
***
合計
ない
76.5%
5.1%
8.3%
23.5%
94.9%
91.7%
100.0%
100.0%
100.0%
χ2 検定:
正確有意確率
(両側)
(n)
(17)
(356)
(373)
***
p<.001
4.2 「死にたいと思ったこと」を規定する要因
高齢女性が死にたいと思うことに影響を与えている要因は何か。
「死にたいと思ったこと」を従属変数、
前節で「死
にたいと思ったこと」との関連について統計的に有意な差(10%水準まで生かした)の認められた変数を独立変数
としてカテゴリカル回帰分析を行った。
分析にあたっては、必要な数値変換と、
「不安に思っていること」は「ある」と「ない」に吸収し、
「老人クラブ
会員の活動状況」は「老人クラブの活動状況」として、
「まったく活動していない(非会員)
」を加えた。また、
「死」
への準備で心がけていることで「健康に気をつけている」は、共線性の統計量として求めた許容度が0.232と低かっ
たため、分析から除外した。そして、
「自殺したいと思ったこと」を投入すると決定係数の値はだいぶ高くなったが、
「死にたいと思ったこと」を規定する要因として「自殺したいと思ったこと」を独立変数とするモデルは適当では
ないと考え、分析から除外した。以上より、分析にあたって投入した独立変数は、図2に
で示した23変数で
ある。使用したケースは、欠損値のあるケースを除いたところ303ケースであった。分析結果は表8のとおりである。
なお、表8は、投入した独立変数のうち有意な関連が認められた変数のみ記載している。
有意水準1%で最も強い影響がみられたのは、
「死」への準備で心がけていることの有無であった(β=.247)
。心
がけていることが「ある」人ほど、
「ない」人より、
死にたいと思ったことがあった。また、
老人クラブの活動状況(β
=.152)は、
「積極的に活動している」人では死にたいと思ったことが「ない」との関連がみられたが、活動が不活
発な人ほど、死にたいと思ったことがあるという結果であった。
次に、有意水準5%で最も強い影響がみられたのは、
「死」への準備で心がけていることで「食事に気をつけている」
を選択した人であった(β=-.177)
。負の相関であったから、
「食事に気をつけている」を選択しなかった人をみると、
より死にたいと思ったことがあるという結果になる。同じく「死」への準備で心がけていることで「お寺参りをし
ている」人ほど、死にたいと思ったことがあった(β=.130)
。
最後に、有意水準10%で関連をみておくと、以下のとおりであった。
「死」への準備で心がけていることで「介護
が必要になったときのことを考えている」
(β=-.131)
、
「悩みや相談ごとをできる人」
(β=.111)
、住んでいる地域で
負担に思っていることのうち「経済的負担が多い」
(β=.107)
、
「外出頻度(4月~ 11月)
」
(β=.105)であった。
5 考察
本稿では、新潟県地域において、高齢女性が死にたいと思うのはいかなる要因によるのか、県内の60歳以上高齢
者を対象とする意識調査をもとに探った。その結果を表すと図2のとおりとなる。ここでは、ケース数が十分とは
いえないため、有意水準10%で関連のみられたものまで考察に生かすことにする。
まず、
「死」への準備との関連が深いことがわかる。
「死」への準備で心がけていることがある人ほど、1年以内に
死にたいと思ったことがあった。死を意識するからこそ、準備という行動につながっているとみれば、図の矢印と
は反対に意識から行動を説明する方が自然であるが、準備行動が意識に影響を与えている可能性を示唆することが
できる。もちろん、死を身近なものとして感じる高齢者にとって死への準備は重要な意味をもつものであり、準備
が悪影響だというつもりはない。死への準備とは、よりよく生きたいとする意識の表れともみることができる。そ
の場合、現実との乖離が、死にたいという思いを強めるかもしれない。
こうした前提を踏まえて、具体的な準備行動をみてみると、
「お寺参りをしている」人ほど死にたいと思ったこ
− 21 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
表8 死にたいと思ったことを規定する要因(カテゴリカル回帰分析の結果)
とがあった。社会的行為としての死は、他者との関係性によってとらえられる。その他者とは、すでに死んでいる
人でもある。副田(2001: ⅴ)は、
「死にかんする伝統的観念として、死者への仲間入り、あの世で会うこと、殉死
などがある」としている。
一方、
「食事に気をつけている」人と「介護が必要になったときのことを考えている」人ほど、死にたいと思っ
たことがなかった。準備行動のなかでも、食生活に留意し、また、要介護状態に対して備えた方がいいということ
になる。
次に、高齢女性の死を規定する地域社会とのかかわりをみると、4月から11月の期間の外出頻度が死にたいと思
ったことに影響を与えていた。いくらかでも外出をしていればいいが、
「ほとんどしない」人に、死にたいと思っ
たこととの関連がみられた。
「閉じこもり」という状態は、避けなければならないことが立証された。閉じこもり
の背景として、健康状態も配慮すべきことはいうまでもないが、地域社会で孤立しないようなサポートが必要とい
える。
では、住んでいる地域で負担に思っていることとの関連はどうであろうか。
「経済的負担が多い」と感じている
人ほど、死にたいと思ったことがあった。個人属性としての「暮らし向き」は、影響要因として有意な関連がみら
れなかった点に着目すると、暮らし向きが苦しいか否かということではなく、地域社会における出費を負担に感じ
ているか否かが、死にたいという思いをいだかせる要因となることがわかる。公的な社会制度においては負担の公
平性を追求することが不可欠であり、応能負担の仕組みもあるが、地域社会において、関係性を損なわないために
− 22 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
地域社会とのかかわり
訪問者の頻度(4 月~11 月)
外出頻度(4 月~11 月)
訪問者の頻度(12 月~3 月)
住んでいる地域の負担感:
女性の地位を認めてもらえない
住んでいる地域の負担感:
経済的負担が多い
.105+
.107+
住んでいる地域の負担感:
交通の便が悪い
悩みや不安
悩みや心配ごとの相談相手:
家族(配偶者を除く)
・親族
悩みやストレスの解消法:
人と話をする
悩みやストレスの解消法:
たばこを吸う
悩みやストレスの解消法:
旅行やドライブ
不安に思っていること
悩みや心配ごとを
相談できる人
.111+
1 年以内に
「死」への準備
「死」への準備で心がけていること
「死」への準備で心がけていること:
介護が必要になったときのことを考えている
「死」への準備で心がけていること:
食事に気をつけている
「死」への準備で心がけていること:
お寺参りをしている
.247**
死にたいと
-.131+
思ったこと
誤差
-.177*
.130*
生きる喜び
生きる喜びを感じるとき:人に頼られていると感じたとき
生きる喜びを感じるとき:やることがあるとき
生きる喜びを感じるとき:健康でいられると思うとき
基本属性
健康状態
.152**
暮らし向き
老人クラブ会員
老人クラブ活動状況
(注) →上の数値は、表 8 の分析結果に基づく標準化係数。
+p<.10, *p<.05, **p<.01.
図 2 高齢女性の「死にたいと思ったこと」を規定する要因
図2 新潟県地域の高齢女性の「死にたいと思ったこと」を規定する要因
能力を超えた出費を強いられる場合は、経済的のみならず精神的な負担におよぶことが推察される。経済的弱者が
多い高齢女性をめぐる死の問題を考えるとき、地域社会の経済的負担のあり方を見直す必要がある。
次に、
悩みや不安との関連をみると、
ほとんどの人が「悩みや心配ごとを相談できる人」が「いる」なかで、
「いない」
人ほど死にたいと思ったことがあった。相談相手によって影響を与えているという関連はみられなかったことから、
極論すれば、相談できるのであればその相手は誰でもいいということである。
分析にあたっては、生きる喜びとして、
「人に頼られていると感じたとき」
「やることがあるとき」
「健康でいら
れると思うとき」との関連もみたが、いずれも影響要因としては検出されなかった。これらは、高齢期において喪
失していることが特別なことではないなかで、幸福感を高めるかもしれないが、喜びを感じなかったとしても、死
にたいという思いには直接つながらないといえそうである。
最後に、基本属性ならびに老人クラブ活動との関連をみてみる。健康状態と暮らし向きは、死にたいと思ったこ
との影響要因とはなっていなかった。このことは、高齢女性の死に対する意識は、個人属性より個人を取り巻く
環境によって変えられることを意味する。社会的相互作用のなかにある「死」を探究することが求められる。個人
− 23 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
のライフサイクルを社会的文脈のなかで説明したE. H. エリクソンは、老年期に関する生きた理念を文化として持
つことの重要性を主張した。老年期の最終段階(第9段階)の課題を提起した J. M. エリクソンは、これを引用し
て、老人たちが英智を生み出す者でなく、社会から無視され、そのことがまた老人のかかえる困難を悪化させると
して、老人と社会の間の相互作用のきめ細かな検討の必要性を説いている(E. H. エリクソン & J. M. エリクソン
1997=2001)
。そうした観点からみると、老人クラブ活動について示唆的な結果が得られた。老人クラブの会員であ
るか否かは、影響がみられなかったが、活動状況が重要であることがわかった。
「積極的に活動している」人ほど、
死にたいと思ったことはなかった。
6 自殺予防を見据えて
本稿は、新潟県老人クラブ連合会の実施した「高齢者の死に対する意識調査」をきっかけにしている。この調査
の最終目的は、自殺予防対策を探ることであった。そこで、本稿においても自殺予防を視野に収めた。しかし、
「自
殺」に正面からアプローチする方法はとらなかった。
「2 本稿の分析視覚と目的」で述べたとおり、
「死にたいと
思ったこと」との関連において検討することにした。この点は本稿の限界といってよい。それは、筆者の力不足に
よるところが大きいが、自殺予防策を究明するには調査設計上の課題が多かったことも理由としてあげられる。
自殺予防のための調査研究を進めてきた国では目下のところ、
高齢期の自殺については次のように結論づけた(内
閣府 2011b)
。
「高齢者の自殺の背景には、慢性疾患による継続的な身体的苦痛や将来への不安、身体機能の低下に
伴う社会や家庭での役割の喪失感、近親者の喪失体験、介護疲れ等によるうつ病が多い。高齢者は、身体的不調に
より医療機関を受診する機会も多く、かかりつけの医師等のうつ病等の精神疾患の診断技術の向上、健康診査等を
活用したうつ病の早期発見、早期治療とともに、高齢者の生きがいづくり対策が重要である。また、在宅介護者に
対する支援の充実も重要である」
。こうしてみると、老人クラブ活動の役割に期待するところは大きい。本稿によっ
て立証したとおり、積極的に活動しているクラブ員は、死に対する意識においてプラスの影響が認められた12)。また、
友愛活動に象徴されるように、地域で支援を必要とする高齢者等へのサービス提供者として期待される。高齢女性
の地域社会における連帯という観点から、長い歴史を有する老人クラブ活動を活性化することは、自殺予防に資す
るものといえる。
注
1) 警
察庁「自殺統計」および総務省「人口推計」より内閣府が作成したデータによる(内閣府 2011c)
。自殺死亡
率(住居地)の全国平均は25.8で、30を超えているのは本文中の7県であった。
2) デ
ータの出所は、注1と同じ。
3) データの出所は、注1と同じ。なお、新潟県精神保健福祉センターのまとめ(新潟県 2009)によれば、中長期
的にみると、65歳以上の自殺死亡率は1976年に100を超えていたが年々減少してきている。また、女性の自殺
死亡者数という観点からいうと、年間200 ~ 300人前後の間で動いており大きな変化はなく、近年増加してい
るのは男性である。たとえば、2007年の自殺者男性545人(率47)
、女性222人(率18)であり、男性が女性の
約2.5倍となっている。
4) 1 997年から2006年の人口動態調査死亡票、男性5,351人、女性2,491人、計7,842人の情報をもとに住所地市町村名、
性別、死亡時の年齢、死亡年月日、時刻、配偶関係(配偶者有り、未婚、離別、死別)
、死亡場所(自宅、病院など)
、
外因の状況符号(縊死、ガスなど)などをまとめている。また、2000年の職業産業別調査個人票、男性570人、
女性275人、計845人の情報をもとに、住所地市町村名、性別、外因の状況符号(縊死、ガスなど)
、死亡場所(自
宅、病院など)
、死亡時の年齢、職業、産業などをまとめている(新潟県 2009)
。
5) 石上ほか(2011)によれば、新潟県では、2000年度から「心の健康づくり推進事業」として、高齢者に加えて
壮年期の自殺予防対策にも取り組んでいる。国では、
「健康日本21」
(2000年)のなかで、30,000人を超えた自
殺死亡者数を2010年までに22,000人に減少させるという目標をたて、以降、自殺対策に本格的に取り組みはじ
めた(本橋編 2007: 8)
。
− 24 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
6) 調査設計上は、地区ごとの老人クラブに会員と非会員と同数配票する予定であったが、回収結果は老人クラブ
会員が1,037票、非会員266票となっている。一般に老人クラブ会員の回収率は高いことがいわれているが、会
員の回収数が1,000票を超えていることから、会員に予定を上回って配票されたことがうかがえる結果となって
いる。
7) 全
国60歳以上の男女5,000人を対象として、平成21年に内閣府が実施した「高齢者の日常生活に関する意識調査」
(内閣府 2011a)によると、同居形態(世帯構成)は、
「単身世帯」11.8%、
「夫婦二人世帯」38.3%、
「本人と親
の世帯」6.2%、
「本人と子の世帯」25.0%、
「本人と子と孫の世帯」16.2%、
「その他」2.4%となっている。
8) 前
掲調査(内閣府 2011a)によると、
「良い」
(28.9%)と「まあ良い」
(24.1%)を合計すると53.0%となっている。
これに「普通」
(26.7%)を加えると約8割となる。一方、
「あまり良くない」と「良くない」の合計は、分析対
象者が6ポイントほど低い。
9) 全国60歳以上の男女を対象として、平成20年に内閣府が実施した「生活実態に関する調査」をもとに作成され
た「高齢者の暮らし向き」
(内閣府 2011b)によると、
「普通」
(65.2%)は、
分析対象者とほぼ同じ割合であったが、
「大変ゆとりがある」
(1.1%)と「ややゆとりがある」
(7.4%)の合計8.5%に対して、
「苦しい」
(19.2%)と「大
変苦しい」
(7.2%)の合計は26.4%となっている。
10) 本稿の分析に用いた統計ソフトはSPSS 14.0Jである。カイ二乗検定は、正確有意確率(両側)により、有意水
準10%で差の認められた結果も取り上げている。
11) 調
査では、
「ある」と回答した38人に対して、それはどのようなときかを複数回答でたずねている。その結果は、
上位のものから次のとおりである。
「健康が思わしくないとき」
(42.1%)
、
「眠れないとき」
(34.2%)
、
「孤独を
感じたとき」
(28.9%)
、
「身近な人がなくなったとき」
(26.3%)
、
「生活が苦しく将来の生活が不安になったとき」
(23.7%)
「
、自分が役に立たなくなったと思ったとき」
(18.4%)
「
、介護に疲れたとき」
(5.3%)
「
、何となく」
(18.4%)
、
「その他」
(2.6%)
、
「無回答」
(2.6%)
。
12) 老人クラブの創設とその後の発展にかかわってきた村田松男(1987: 231)は、消極型の会員がクラブの仲間と
のふれあいをとおして積極型に変化していく傾向を次のように述べている。
「これは加齢に伴う心身の衰えに、
活動により活力がよみがえってくるからである。既に喪ったと諦めていた能力や、自分がもっていることを知
らないで過ごして来た心の働き、これらの残存能力や未見の自分といったものを、クラブで趣味・スポーツ・
学習・交流等の諸活動に加わっている過程のなかで、みずから発見していくのである。すべての会員の心に温
存されていた積極性が、意欲的態度となって芽を吹き出すわけだ」
。
【引用文献】
石上和男・野口晃・本間寛子・細野純子、2011、
「老年期における自殺予防対策のあり方に関する精神保健的研究」
(平成16年度厚生労働科学研究費補助金(こころの健康科学研究事業)
:自殺の実態に基づく予防対策の推進に
関する研究 主任研究者 上田茂)
。
(http://ikiru.ncnp.go.jp/ikiru-hp/report/ueda16/ueda16-9.pdf, 2011.2)
。
薄井明、2002、
「老いと孤独と在宅ケア」竹田純郎・森秀樹・伊坂青司編『死と生の現在――家庭・学校・地域の
なかのデス・エデュケーション』ナカニシヤ出版、pp. 149-69。
岡村清子・天沼理恵、2007、
「家族員との死別体験とその意味」袖井孝子編『お茶の水女子大学21世紀COEプログ
ラム 誕生から死までの人間発達科学 第6巻 死の人間学』金子書房、pp. 71-105。
副田義也編、2001、
『死の社会学』岩波書店。
高橋祥友、2006、
『自殺予防』岩波書店。
デーケン, アルフォンス、1996、
『死とどう向き合うか』日本放送出版協会。
内閣府、2011a、
「平成21年度高齢者の日常生活に関する意識調査結果(全体版)
」
(http://www8.cao.go.jp/kourei/ishiki/h21/sougou/zentai/index.html, 2011.2)
。
内閣府、2011b、
「平成22年版 高齢社会白書」
(http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2010/zenbun/22index.html, 2011.2)
。
− 25 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
内閣府、2011c、
「平成22年版 自殺対策白書」
(http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2010/html/index.html, 2011.2)
。
新潟県、2009、
「自殺対策関連情報」
(http://www.pref.niigata.lg.jp/seishin/1219860086902.html, 2011.2)
。
新潟県、2010、
「統計データハンドブック(平成22年)統計表 県勢編 第2章 人口・世帯」
(http://www.pref.niigata.lg.jp/tokei/1287694821895.html, 2011.2)
。
本橋豊、2006、
『自殺が減ったまち――秋田県の挑戦』岩波書店。
本橋豊編、2007、
『自殺対策ハンドブックQ&A――基本法の解説と効果的な連携の手法』ぎょうせい。
村田松男、1987、
『老人クラブを見直す――その活性化のために』ミネルヴァ書房。
Erikson, Erik H. & Erikson, Joan M., 1997, The Life Cycle Completed: Extended Version , New York: W. W. Norton
& Company.(=2001、村瀬孝雄・近藤邦夫訳『ライフサイクル、その完結〈増補版〉
』みすず書房。
)
− 26 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
〔教育実践〕
「学生による地域活性化提案プログラム」の3年間を振り返って
岡
野
宏
昭
(長岡大学教授)
はじめに
岡野ゼミでは平成19年度から平成21年度にかけての3年間「学生による地域活性化提案プログラム-政策対応型
専門人材の育成-」に取り組み、観光、なかでも「長岡まつり大花火大会」をテーマに調査研究をおこなった。こ
の調査研究は学生の社会人基礎力を向上させ、人間力を培うと共に、地域活性化への貢献を目指すものである。
3年間調査研究を続けることにより学生は多くのことを学んだようだし、研究の成果も上がったと考えるが、実
際に学生がどれだけのことを学び、どれだけの研究成果が生まれたのだろうか。3年間の調査研究が終わり、1年
が経過したいま、この3年間を振り返ってその成果を検証することは無駄なことではなかろう。
そこで本論の目標を二つのことにおいた。一つは3年間の調査研究の成果の紹介である。二つはこのプロジェク
トに参加した学生の学習効果である。まず最初に3年間の調査研究の成果を紹介し、その後に学生の学習効果につ
いて検討することとしよう。
(1)一年目の研究成果「『“ながおか”らしさ』の提案」
①調査の目的
初年度(平成19年度)の研究調査では長岡市総合計画が唱う「“ながおか”らしさを感じる観光のまち」を取り上
げ「“ながおか”らしさ」とは何かの調査研究を行うことにした。学生の多くが「“ながおか”らしさ」とは何かが判ら
ないとの感想を持ったからである。
「“ながおか”らしさ」といってもその範囲は広い。歴史、文化、食、まつり、自然など様々な分野に“ながおか”ら
しさが存在する。広い範囲から
「“ながおか”らしさ」
を分析することが望ましいが、
その分析は複雑で学生の手に余る。
そこで本調査では「“ながおか”らしさ」の分析の対象を観光資源に絞り込み、
その分析を通して「“ながおか”らしさ」
を明らかにすることとした。
②調査の方法
1)「“ながおか”らしさ」を知るために長岡市の代表的な16の観光資源を取り上げ、“ながおか”らしい観光資源
は何かを問うこととした。
2)“ながおか”らしい観光資源は何かを問うために、調査の方法としてアンケート調査を行うこととした。
3)調査の対象は長岡市民、長岡市観光関連事業所、長岡市への観光客の3対象とした。3対象を選んだのは、
市民の考える「“ながおか”らしさ」と長岡市観光関連事業所や長岡市への観光客が考える「“ながおか”らし
さ」に違いがあるのではないかと考えたためである。
4)またアンケート調査を長岡市以外の2地域でも行った。長岡市以外のアンケート調査対象地域として、湯沢
町、村上市とした。長岡市以外の地域を選んでアンケート調査を行ったのは、他地域から見た「“ながおか”
らしさ」を知る必要があると判断したためである。また湯沢町、村上市を選んだのは湯沢町は関東からの入
り口に位置し多くの観光客を誘致しているためであり、村上市を選んだのは関東から遠く離れた地にあり、
またまちづくりの観点から観光に取り組んでいるためである。
5)アンケート調査は3地域3対象、計9タイプの調査を行った。各タイプはサンプル数100票を目標とし、面
接調査を行った。下表はアンケート調査の有効回答数である。なお長岡市への観光客で有効回答数が他に較
− 27 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
べて大幅に少なくなったのは、観光客の中には長岡市民も存在し、それを除いたためである。ちなみに長岡
市民を含めた長岡市観光客の有効回答数は95票であった。
アンケート調査の有効回答票数
市民アンケート調査
観光客アンケート調査
観光業者アンケート調査
長岡市
114 票
58 票
93 票
村上市
117 票
128 票
98 票
湯沢町
92 票
119 票
101 票
6)短期間の内に我々が全調査を行うことができないので、調査実施に当たっては、各自治体にご協力を仰い
だ。学生が行ったアンケート調査は長岡市民、村上市観光客、湯沢町観光客の3タイプであった。いずれも
調査は面接調査であった。
③調査の成果
1)観光資源から見た「“ながおか”らしさ」とは「長岡まつり大花火大会」のこと
アンケート調査により「“ながおか”らしさ」を分析すると、
明らかになったことは、
長岡を代表する観光資源は「長
岡まつり大花火大会」であるということだった。
「長岡まつり大花火大会」は圧倒的な知名度を持っている。長岡市民の99.1%が「長岡花火まつり」を知っている。
新潟県内の住民(この中には長岡市民は含まれていない)の95.2%が「長岡花火まつり」を知っている。新潟県内
ではほとんどの人が「長岡まつり大花火大会」を知っていることになる。
関東に住所を持つ観光客の内71.1%の人が「長岡まつり大花火大会」のことを知っている。新潟県に観光に来た
客だからその分、割り引いて考えなければならいが、それでも関東に住んでいる人の70%以上が「長岡まつり大花
火大会」のことを知っているのである。関東で70%の知名度を誇ることは、そう簡単なことではない。
「長岡まつ
り大花火大会」の知名度は極めて高いことが明らかになった。
居住地別「長岡まつり大花火大会」の知名度
知名度
長岡市民
99.1%
村上市民
93.2%
湯沢町民
94.6%
その他新潟県内
95.2%
71.6% (注)その他新潟県内は長岡市を除いた新潟県民のことである。
関東住民
長岡らしい観光資源について聞いてみると、やはり圧倒的に「長岡まつり大花火大会」に答が集中した。長岡市
民は74.6%の人が長岡らしい観光資源は「長岡まつり大花火大会」であるとしているし、村上市民や湯沢町民もそ
れぞれ56.3%、70.7%の人が長岡らしい観光資源は「長岡まつり大花火大会」であると答えている。また長岡市以外
の新潟県民は59.1%の人が長岡らしい観光資源は「長岡まつり大花火大会」で答えている。関東住民も44.7%の人が
「長岡まつり大花火大会」が長岡らしい観光資源であると答えている。
居住地別長岡らしい観光資源
1位の項目
2位の項目
長岡市民
「長岡花火まつり」74.6%
「日本一の大河信濃川の風景」5.3%
村上市民
「長岡花火まつり」51.3%
「国営越後丘陵公園」3.4%
湯沢町民
「長岡花火まつり」70.7%
「魚の市場通り」3.3%
その他新潟県内
「長岡花火まつり」59.1%
「国営越後丘陵公園」3.1%
関東住民
「長岡花火まつり」44.7%
「魚の市場通り」5.3%
(注)その他新潟県内は長岡市を除いた新潟県民のことである。
− 28 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
こうした全国的な知名度を持ち、長岡市民も新潟県民も、そして関東の人びとさえも長岡らしいと考える「長岡
まつり大花火大会」を生かした観光地づくりに励むことが、
「“ながおか”らしさを感じる観光のまち」につながると
いえよう。
2)アンケート調査から見た長岡市民と観光
1.長岡市民は「観光のまち」とは考えていない。
長岡市民は自分たちのまちを「観光のまち」とは考えていない。長岡市のイメージを長岡市民に聞くと「中越地
域の中心都市」
(59.6%)として自分たちのまちを捉えており、
「観光のまち」と答えた人は1.8%に過ぎない。こう
した市民の認識は長岡市を観光のまちとして発展させるには大きな障害となるだろう。今後は観光について市民た
ちがどのように考えているのかを知る必要があろう。長岡市民の観光意識調査がこれからの課題である。
居住地別長岡市のイメージ
中越地域の中心都市
観光のまち
中越地震のまち
長岡市民
59.6%
1.8%
25.4%
村上市民
87.2%
2.6%
6.8%
湯沢町民
88.0%
2.2%
5.4%
その他新潟県内
78.7%
3.6%
11.1%
関東住民
35.5%
9.2%
37.5%
2.長岡市民は自分たちのまちを観光地として優れているとは考えていない。
新潟県で最も優れている観光地はどこかを聞くと、長岡市民は1位湯沢町、2位弥彦村、3位新潟市、4位村上市、
5位妙高市、6位長岡市(8.8%)となっており、自分のまちを最も優れている観光地とは考えていない。ところが
同じ質問をすると村上市は1位が村上市(30.8%)となっており、市民は最も優れた観光地は自分たちの住んでい
るまちだと考えている。同じように湯沢町民も新潟県内で最も優れている観光地は湯沢町(64.1%)だと答えており、
自分たちのまちが観光地として優れていると判断している。村上市は長岡市に較べると観光客数は少ない。そうで
あるにもかかわらず村上市民が自分たちのまちは観光地として優れていると答えたのは、村上市では市の方針とし
て観光によるまちづくりを掲げており、また市民の手で積極的に観光地づくりが進められているためだろう。もし
長岡市が積極的に観光に取り組むつもりがあるのなら、市民の意識の改革と自分たちのまちへの愛着を生み出す努
力と工夫が必要となろう。
3.長岡市民は長岡市の観光にあまり魅力を感じていない。
長岡市民の内、長岡市の観光に魅力を感じると答えた人は「大いに感じる」
(5.3%)と「まあ感じる」
(48.3%)
を合わせると53.5%となっている。約半数の市民が長岡市の観光に魅力を感じると思っていることが判る。しかし
他に住んでいる住民の長岡市の観光についての意向を見ると、村上市民は長岡市の観光に魅力を感じると答えた人
が47.8%と長岡市民よりも低くなっているものの、湯沢町民は55.5%と長岡市民よりも高くなっている。またその他
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
新潟県内の住民も57.1%と高く、関東の住民はさらに高く64.5%となっている。しかも「大いに感じる」だけを見る
と、長岡市民は5.3%に止まっており、他のどの地域よりも自分たちのまちの観光に魅力を感じていないことが判る。
地元のことをよく知っているがゆえに自分たちのまちの観光に魅力を感じることができないのだろうが、外部の人
達は長岡市の観光を魅力あると評価しているのであり、市民はもっと前向きに観光を評価してもいいのではないだ
ろうか。
居住地別長岡の観光に魅力を感じるか
大いに感じる
まあ感じる
合計
長岡市民
5.3%
48.2%
53.5%
村上市民
6.8%
41.0%
47.8%
湯沢町民
12.0%
43.5%
55.5%
その他新潟県内
8.3%
48.8%
57.1%
関東住民
8.6%
55.9%
64.5%
長岡事業所
2.2%
37.6%
39.8%
長岡観光客
15.5%
56.9%
72.4%
(2)二年目の研究成果「長岡市民観光意識調査と長岡まつり大花火大会による観光振興戦略」
①調査の目的
平成19年度(初年度)の調査では長岡観光の二つの課題が明かとなった。一つは長岡市民が観光にそれほど強い
関心を持っていないこと。二つは「長岡まつり大花火大会」が全国ブランドとなっているにもかかわらず、
この「長
岡まつり大花火大会」が観光振興のために有効に活用されていないことであった。そこで平成20年度(二年度)は
その二つの課題に答えるべく、長岡市民観光意識調査と長岡まつり大花火大会による観光振興の戦略を検討するこ
ととした。
②調査の方法
長岡市民観光意識調査については長岡市民を対象にアンケート調査を行うことで、市民が観光についてどのよう
な意識を持っているかを明らかにすることとした。
1)アンケート調査のタイトルは「長岡の観光に関する市民意識調査」とした。
2)アンケート調査対象者は長岡市民とした。
3)サンプル数は3,000票とした。
4)対象者のサンプリングは長岡市の協力により、住民基本台帳よりランダムサンプリングとした。
5)アンケート調査票配布・回収の方法は郵送配布、郵送回収とした。
6)調査のスケジュールは平成20年11月4日発送、11月17日返送締め切りとした。
7)回収結果は有効回答数875票で、回収率は29.1%となった。
8)なお現代GPのもう一つのテーマである長岡まつり大花火大会の分析のために、岡野ゼミでは長岡と柏崎の
花火大会の会場で来場者に面接によるアンケート調査を実施した。本報告書では一部その成果を利用してい
る。その調査は以下の通りである。
長岡まつり大花火大会
柏崎海の大花火大会
回収票数:149 票
回収票数:162 票
平成 20 年8月2日(土)
平成 20 年7月 26 日(土)
③調査の成果
1)長岡市民は観光開発は大切と思っている
平成20年度の市民意識調査で明らかになったことは市民は長岡市の観光に魅力を感じてはいないが、長岡市の発
展にとって観光は重要だと考えている市民(73%)が多いことである。長岡市民にとって長岡の観光振興は重要な
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
施策の一つなのである。
①現在の長岡市の観光の魅力度 ②観光開発の重要性
2)長岡市観光の課題は「魅力的な観光資源がない」と「市内の観光がバラバラ」
長岡市観光の課題は「魅力的な観光資源がない」ことと
長岡市観光の課題
「市内の観光がバラバラ」であることだと市民は思っている。
しかし長岡市には魅力的な観光資源はある。それは長岡ま
つり大花火大会である。長岡まつり大花火大会は関東の住
民の71.1%の人が知っているほど全国ブランドの花火大会で
ある。長岡市に魅力的な観光資源がないどころか全国ブラ
ンドの観光資源が存在するのだ。
3)長 岡まつり大花火大会を観光の中心にすること
にほとんどの市民が賛成
この全国ブランドの長岡まつり大花火大会を長岡観光振
興の中心とすることに市民のほとんどが賛成(89%)して 長岡まつり大花火大会を観光振興の中心にすること
おり、市民は長岡まつり大花火大会を中心とした観光振興
を望んでいる。また長岡まつり大花火大会を市民のための
花火大会にとどめるか、あるいは観光客も楽しむことがで
きる花火大会にするのかの質問に対して、市民の61%が観
光客も楽しめる花火大会にするのがいいと答えている。長
岡まつり大花火大会を観光客に開かれた花火大会にするこ
とを望んでいるのだ。
4)長岡花火は日本一の花火大会
長岡まつり大花火大会は大曲全国競技花火大会、土浦全国競技花火大会と並んで日本三大花火大会の一つといわ
れている。しかしその内容を比較すると来場者数でも、打ち上げ数でも、打ち上げ花火の大きさでも、また花火本
体の予算でも長岡花火は他の大会を上回っており、長岡まつり大花火大会は日本でトップの花火大会といえる。
日本三大花火の比較
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
5)長岡花火は世界一の花火大会
また「ヤフーみんなの花火ランキング人気度」でもダントツの1位であり、
国民からも最も高い評価を受けている。
このことからも長岡まつり大花火大会は日本一の花火大会だといえる。
日本の花火大会と世界の花火大会を比較すると、日本の花火大会の方が優れているといわれる。日本の花火が世
界80カ国に輸出されていること、世界の花火大会で20%日本の花火が混じっていると優れた花火大会だといわれる
こと、大曲で世界の花火を打ち上げたが(H4年)
、その時に日本の花火が最高だと評価されたことなどの理由によ
り日本の花火大会は世界一と評価することができる。
日本一の花火大会である長岡花火は従って世界一の花火大会であるといえよう。
長岡まつり大花火大会を世界一の花火大会にすることに長岡市民の67%は賛同しており、市民は長岡まつり大花
火大会を世界一の花火大会にすることを望んでいる。
長岡まつり大花火大会を世界一の花火大会にすることの意義は1)市民に夢を与えることができる、2)市町村
合併した新長岡市はバラバラだから、共通の夢を持つことで新市としてのまとまりができる、3)観光イメージも
バラバラだから統一したイメージで長岡観光をPRできる などである。
そこで本調査では長岡花火を世界一花火にというビジョンを提言した。
6)市民は観光開発に積極的に協力するし、少しなら金も出す
こうした夢を実現することに市民の66%が協力すると答えており、市民が積極的に観光開発に協力するつもりが
あることが判る。協力の仕方も少しなら金を出すが市民の1/4を占めており、市民の積極的な姿勢が目立つ。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
①長岡市の観光を発展させるための協力 行ってもよい協力内容
世界一花火大会に向けて大切なことは行政が長岡花火のPRや世界一花火大会の仕組み作り、あるいは市民に納
得してもらう工夫を担当し、民間企業が資金の提供を担い、市民が金も出し(寄付金や有料観覧席増大の容認)
、協
力もする(ボランタリー)など行政と民間企業と市民が三位一体のパートナーシップを組むことである。そうした
パートナーシップを組むことができれば、長岡まつり大花火大会を世界一の花火大会にすることができるだろう。
(3)三年目の研究成果「長岡まつり大花火大会による地域活性化方策」
①調査の目的
平成20年度(二年度目)の調査では長岡市民観光意識調査と長岡まつり大花火大会による観光振興の戦略を検討
した。その調査で明かになったことは長岡市民は長岡観光と長岡花火に高い関心を持っており、長岡花火を核とし
た観光振興の推進を期待しているということであった。また長岡まつり大花火大会による観光振興戦略の方向とし
て世界一花火大会へというビジョンを提言した。
これに対してプロジェクトアドバイザーの委員(長岡まつり実行委員長)から他の花火大会も見て比較したらど
うかという提案があり、学生と大曲全国花火競技大会、土浦全国花火競技大会を見に行った。花火大会を現地視察
してみると競技花火とお祭り花火では性格が大きく違っており、ショーとしての花火では競技花火にはとても敵わ
ないという認識が学生の間に生まれた。そこで最後の年の調査研究は、もう一度全国花火競技大会の歩むべき方向
性について検討することとした。お祭り花火にするか、それとも競技花火にするかを検討することも大切だが、長
岡花火をこれからも守って行くには花火の財源をしっかりと確立することが重要である。そこで花火の財源につい
ても検討することとした。また長岡花火が地域経済に波及効果をもたらすための仕組みを考えることも花火の地域
貢献という面から大切であると判断し、長岡花火の波及効果分析もおこなうことにした。
【調査の構成】
②調査の方法
長岡花火の今後の方向性を検討するためには二つの方法を取った。一つは大曲全国花火競技大会と土浦全国花火
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
競技大会の日本三大花火大会と呼ばれる他の二つの全国花火競技大会を見学し、長岡花火と比較することによって
長岡花火の今後のあり方を検討した。二つは大曲花火の主催者である大曲商工会議所や長岡市役所、花火師、まつ
り協議会などでヒアリングをすることにより、長岡花火の特色を洗い出し、その特色を生かした今後の方向を検討
した。
長岡花火の財源については、協賛金を提供している企業約1000社を対象にアンケート調査を行い、そのアンケー
ト調査を分析することにより協賛金のあり方と今後の展望について検討した。アンケート調査の有効回答数は532
票、有効回収率は53.2%であった。
長岡花火の地域経済への波及効果については長岡市役所でのヒアリングと、文献調査により長岡花火の地域経済
への波及効果の姿を解明すると共に、長岡花火が地域経済に大きな波及効果をもたらすための望ましいあり方を明
らかにした。
③調査の成果 1)長岡まつり大花火大会の今後の方向性
1.長岡花火大会はショー化した花火競技大会ではなく、これからもお祭り花火大会として存続するこ
とが望ましい。
魅力という点ではショー化した競技大会には敵わない。その理由は1)花火競技大会は全国の花火師の競争によ
る花火大会であり、切磋琢磨して花火の技術や演出を向上させるため、仲間内で打ち上げるお祭り花火とは技術&
演出の面で大きな差が付く。2)花火競技大会は音楽に合わせて花火を打ち上げるからショーとしての魅力に溢れ
ており、楽しませるという点では花火競技大会がすぐれている。
まつり花火を花火競技大会にするに当たっても、1)花火師の協力(地元花火師と全国花火師の協力)
、2)市
民の理解(戦災復興祈念のお祭りから観光花火へ)
、
3)協賛金の確保(長岡花火は企業の協賛金で成り立ってきた)
などの障害がある。花火競技大会に姿を変えるとしても、それは容易なことではない。
また来場者数は3日間、花火打ち上げ数は2日間の値であり、一日平均に直すと大曲花火や土浦花火を上回るも
のではない。
こうしたことから長岡まつり大花火大会は長岡の市民を中心としたお祭りの花火大会と位置づけることが望まし
いと判断した。長岡まつり大花火大会の今後の方向は競技大会にはないお祭りとしての花火の魅力を打ち出すこと
にある。
2.お祭り花火は市民が主体の参加型花火大会とする。
市民が汗を流し、知恵を出し、そして金も出す市民主体の魅力あるお祭り花火になることができれば長岡花火は
花火競技大会に負けない魅力的な花火になるだろう。そのときこそ長岡花火は
「世界一の花火」
になることができる。
2)長岡花火の財源のこれから(企業協賛金、市民協賛金、有料観覧席料の三本柱)
長岡花火はこれまで民間協賛金で成り立ってきたが、不景気や大手企業の意識の変化によりこれまで通りの協賛
金を期待することは難しくなりつつある。
三大花火大会の財源比較
協賛金提供企業へのアンケート調査では協賛金をこれまで通り続けるが75%を占めており、さし当たり心配はな
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
いが、協賛金額が多い規模の大きな企業はその45%までが何らかの形でこれまで通りではないと答えており、企業
協賛金だけに頼るのは危険である。
協賛金提供の今後 企業規模別協賛金提供の今後
以上のことを踏まえて長岡花火の財源を三本柱とすることが望ましい。
1)企業協賛金(これまで通り)
2)市民協賛金(新しい協賛金)
3)有料観覧席料(拡大)
有料観覧席の拡大については構造改革特区を活用して対応することが望ましい。
3)長岡花火の地域波及効果拡大の方策
長岡花火の地域経済への波及効果は、開催日が3日ということもあり短期的な波及効果しか発生しない。従って
その効果は限定的にならざるをえない。そこで花火大会当日の短期的な波及効果と、花火の知名度を生かした長期
的な波及効果の二つに分けて波及効果を考える必要がある。
短期的な波及効果拡大の戦略と長期的な波及効果拡大の戦略に分けて整理すると以下のような戦略が考えられ
る。
1.長期的戦略
1)長岡市の知名度アップとイメージアップ効果を狙う
2)観光客の通年化(長岡花火博物館の建設)
2.短期的戦略
1)花火大会をアフターコンベンションとする見本市の開催
2)長岡花火から周辺観光地への観光流動ネットワークの形成
(4)3年間の成果の総括
①初年度(H19年度)は村上市、湯沢町と長岡市とを比較することで、長岡市民が観光にあまり関心を持ってい
ないのではないかという結論が出た。しかし翌年(H20年度)の3,000票もの市民アンケート調査によれば長岡市民
は観光に大いに関心を持っており、観光開発を重要と見なしていることが判った。もっと重要なことは長岡市民が
観光の中心に長岡花火を持ってくることに賛同していることである。長岡の観光は商工会議所が考えている「越後
長岡物語」のような方向ではなく、長岡花火を核とした観光を考えていくことが望ましいことが判った。
②長岡には観光資源はないと市民の多くは考えているが「長岡花火」という全国ブランドの観光資源があり、こ
れを生かし切れていないことが長岡市観光の大きな問題であることが判った。この長岡花火を如何に地域の発展に
生かしていくかが大きな課題であることも明かとなった。
③二年次に当たる平成20年度の調査では、長岡花火を生かした観光振興と地域振興を図るために「世界一花火」
に向けてのアクションが必要と提言したが、競技花火を見学することで、その提言に疑問符が付いた。ショーとし
ての魅力は競技花火大会には敵わないことが明らかになったからである。そこで平成21年度はその反省に立ち、お
祭り花火について再度考察し、競技花火にはないお祭り花火の魅力を作り上げることが長岡花火の今後の方向であ
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
ると指摘した。そしてお祭り花火を市民参加型の花火大会として魅力を高めることが望ましいと提言できたことは
大きな成果である。
④長岡花火がこれからも市民に夢をもたらし、心の支えになるためにも、花火の維持発展は必要不可欠である。
そのためにはなんといっても財源が必要だが、その財源について一つの答を出すことができたことも大きな成果と
いえよう。長岡花火は長らく企業協賛金を中心に財源を確保してきた。しかしその企業協賛金も長引く不景気でこ
れまで通り提供できるかどうかが危ぶまれている。企業協賛金だけに頼らず、市民協賛金や有料観覧席を合わせた
三本柱で財源を確保すべきだとの提言ができたことは評価できよう。また新しい財源である市民協賛金のあり方や
有料観覧席料の拡大の方法についても触れることができたことは行政の参考になったと考えている。
⑤地域への波及を長期的波及と短期的波及に分け、長期的波及については花火を通して長岡の知名度上昇やイメ
ージアップの向上を図り、間接的に長岡市の発展と振興に資するようにすること、また花火客の通年化を図るため
に花火博物館を提言できたことは、どこまで実現できるかは別として、夢を語ることができたといえるだろう。短
期的には花火に集まった80万人の活用がポイントだと指摘し、工業については同じ時期に見本市を開催し、花火大
会をアフターコンベンションとして使うことを提言し、観光については花火客の広域的流動について提言できたこ
とは価値あることだと考える。
⑥3年間の調査研究で、ある程度行政にとって価値ある提言ができたのではなかろうか。少なくとも市民意識ア
ンケート調査(3,000票)
、協賛金提供企業アンケート調査(1,000票)は新しい情報の作成であり、行政にとっては
価値ある情報提供になったに違いないと自負している。
(5)学生の学習効果
①アンケート調査における学習効果
岡野ゼミでは初年度(H19年度)と2年度(H20年度)に面接によるアンケート調査をおこなった。この面接ア
ンケート調査の学習効果は大きいものであった。面接によるアンケート調査は、学生にとって最初は大変な苦痛で
あったようだ。見知らぬ人に声を掛けて、
アンケート調査に協力してもらうのだから、
人見知りする学生だけでなく、
ほとんどの学生が恥ずかしがって尻込みしていた。しかしやらざるを得ないのだから、やるっきゃないと決めてや
ることにしたのだろう。彼らはしぶしぶとではあるがやり始めた。一人当たりのノルマを決めたから、やらざるを
えない立場に立たされたのだ。しかしやっている内に馴れてきてアンケートを取るための創意工夫までできるよう
になった。アンケート調査をやることで1)コミュニケーション能力の向上、
2)
「やるっきゃない」精神の学習、
3)
創意工夫の修得ができたと考える。
1)コミュニケーション能力の向上
アンケート調査では市民や観光客を対象に面接調査を行った。面接調査を行うことで知らない人とのコミュ
ニケーションを恐れなくなった。
2)
「やるっきゃない」精神の学習
世の中には不満や不平があっても、やるしかないものがある。ノルマを与えたから必要なサンプル数を得る
ためにはやるしかなく、
「やるっきゃない」精神でやることを学生は学んだ。
3)創意工夫の習得
ノルマであるサンプル数を獲得するためには創意工夫しなければならなかった。そのため創意工夫の大切さ
を彼らは学んだ。たとえば観光客の多そうなところに人を配置する、答えてくれそうな人に声を掛ける、答え
てくれそうな人は中年の夫婦などであることを知った。また時間ありますかと聞くといけない、時間はないと
答える人がいるからであるという。まず調査の趣旨を述べ、学生の調査であることを説明した方がいい、など
あれこれ工夫することの大切さを学生は学んだ。
実際、その成果は明かである。第一回目の調査ではほとんどの学生が、一ケタの回収しかできなかったが、
二回目の調査になるといずれの学生も回収数が二ケタになった。さらに三回目となるとわずか3時間の短かい
時間の内に、ほとんどの学生が二ケタの回収に成功した。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
アンケート調査回収結果
アンケート調査など現場に出ることで学生たちは社会で通用する人間になるために必要な多くのことを学んだと
いう。
②ヒアリング調査における学習効果
1)市役所、長岡商工会議所、花火師、大曲商工会議所など多くのところでヒアリング調査をおこなった。ヒア
リング調査ではメモを要領よく取ることや必要な質問をすることの大切さを学んだようだ。
2)ヒアリング調査で大切なことは前もってヒアリングに関連した知識を蓄えておくことである。そのことの大
切さを学生は学んだ。準備していかないと聞くことが的を射て居らず、帰ってきてあのことを聞いておくべ
きだった、このことも聞かなかったと臍を噛むことになる。そうならないために前もって聞くことを準備す
る必要があることを学生は学んだようだ。
3)ヒアリング調査で学生は人の話をよく聞くことの大切さを学んだようだ。ヒアリング相手がなにを言おうと
しているのかを、耳を傾けてよく聞くことの大切さを学ぶことができたようだ。言葉面だけを捉えるのでは
なく、相手がいいたいことをきちんと理解するには、相手の立場に立ってよく聞くことが大切であることを
学生は知った。そのことは就職の面接に生かされたという。
4)ヒアリング調査を上手にやるには、相手がいいたいことを聞いてやることだと教えた。相手が話したいこと
を聞けば相手は乗ってきて話してくれる。それがヒアリングの要諦だと教えたが、なかなかそこまではでき
なかったようだ。しかし友達との会話はそうなのだと思い至って、徐々に相手がいいたいことが何かを考え
るようになった。
③プレゼンテーションにおける学習効果
1)プレゼンテーションは代表者だけではなく、全員に練習をさせた。そのことを通して自分たちの考えを人に
伝えることの難しさを学んだ。
2)優れたプレゼンテーションをするには、分析したレポートから重要な情報だけを抜き出さなければならな
い。伝えるべき情報は何かを考える大切さを学生は学んだ。
3)プレゼンテーションでは自分が判っているだけでは不十分である。相手が判るように話さなければいいたい
ことを十分に理解してもらえない。相手に理解してもらうにはどういった話し方をすればいいかを学生は学
び、就職活動に活かせたという。
終わりにあたって
3年間の「学生による地域活性化提案プログラム-政策対応型専門人材の育成-」は学生にとって学ぶことが多
かっただろうが、教員の私の方にとっても学ぶところが多かった。
私が学んだことの第一は学生は苦境に立つとなんとか自分なりに答を出すということだ。面接アンケート調査が
そのいい例で、ノルマを決められると不平を言いながらでも致し方なくノルマをこなした。彼らはやるっきゃない
ときにはやるという心意気をみせた。
第二は学生はいざとなると相互に協力し合うということだ。面接アンケート調査でノルマが達成できない学生が
いると、条件のいい場所を教えたり、答えてくれやすい来街者のタイプを教えたりしあっていた。相互協力の姿勢
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
を見せたことは私には嬉しいことだった。
第三は勉強ができるタイプの学生と現場で創意工夫ができるタイプの学生とは別だということだ。勉強ができる
タイプの学生は現場では案外と弱く、アンケート調査の成果を上げることができなかったが、一方勉強はあまりで
きないが現場に強い学生は着々と成果を上げていた。勉強は得意ではないが現場には強く、段取りよく作業を進め
ることができる学生がいたことは私には新しい発見だった。こうした学生は大学を出てから、職場で活躍するよう
になるだろうし、また社会に出て、社会から多くのことを学ぶようになるのだろう。大学でも勉強に秀でた学生だ
けでなく、こうした能力を持つ学生の才能を引き出す教育が必要なのではないかと考えさせられた。
3年間のプロジェクト参加はかなりの労苦を伴った。教師としては持ち出しという感じがなきにしもあらずであ
る。しかしその間楽しかったことも間違いない。学生と共に考え、行動し、苦労し、成果を作り上げる楽しさは、
彼らの成長を見届ける楽しさでもあった。その楽しさを味わうことができたのだから、教師冥利に尽きる経験がで
きたといっていいだろう。
「学生による地域活性化提案プログラム-政策対応型専門人材の育成-」に参加した3年間は大変ではあったが、
学生の成長を見ることができたし、地域に貢献できる成果を上げることもできたから、楽しく有意義な3年間であ
ったというのが私の総括である。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
〔教育実践〕
小学校における金融教育
鈴
木
桃
子
[1]
(長岡大学3年、松崎ゼミナール所属)
1.はじめに
私たちが生活していく上でお金はなくてはならないものである。現在の子どもたちは、カードやインターネット、
携帯電話が普及し、欲しいものが安易に手に入る生活をしている。また、親の働く姿を見る機会や自ら働く機会が
減少し、働いて生計を立てる自覚や現実に即した職業観が持ちにくくなっているといわれる。お金の価値に関する
実感や生活感が薄れ、安易な購買行動や借入態度が広がっていけば、将来、生活力の乏しい大人や多重債務者にな
りかねない。そうならないためにも、小学生の頃からお金や金融の様々なはたらきを理解する必要があり、それを
養うのが金融教育である
2.小学校における金銭教育
全国の小学校でどのような金融教育が行われているのかを調査[2]した。その中のいくつかの実践例をあげる。
新潟県関川村立女川小学校では、
4年生の授業で実践した。テーマは『お祝いで1万円をもらったらどう使うか』
。
1万円を得る大切さを実感させる目的として、20分働いて10円を得る内職体験や、家計の様々な支出(1か月の電
気代や食事代等)にどれだけお金がかかっているかなどを事前に学ぶ。それを踏まえて「お金の大切さ」や「大切
なお金をどのように使ったらよいか」をみんなで話し合うというものだ。
東京都東村山市野火止小学校では6年生の授業で実践した。移動教室の中で、家庭科の学習の一環として3000円
を限度におみやげを購入するというものだ。この授業から、商品の計画的な買い方を学ぶことができる。また、金
融教育を効果的に行うには児童たちを同じ条件下において取り組みを行うことが重要であるが日々の生活でそれを
行うのは難しい。移動教室やおみやげ購入という機会を利用して共通の条件の中で、買い物体験を含めた金融教育
を行うことができる。さらに、児童たちの持っている知識を授業中に意見交換することで、児童たちは様々な意見、
知識を獲得・共有できる。
福岡県久留米市立小森野小学校では6年生を対象に実施した。
「お小遣いは必要か?」をテーマに学級討論会を
行う。金銭の使い方を考え自らを価値判断する姿勢を育てることがねらいである。
このように、様々な方法で金融教育に取り組んでいるということがわかる。
3.栖吉小学校における金融教育
全国の小学校での金融教育を参考に、栖吉小学校の6年生への金融教育の授業を行った。授業内容を決める前に、
現在の栖吉小学校での金融教育の実態を知るため、学校を訪問し、校長先生と家庭科の先生に話を伺った。
この論稿は本学松崎陽子准教授の指導の下で行われた。学生による小学生を対象とした金融教育の実践報告である。こ
の機会を御提供いただいた、長岡市立栖吉小学校に感謝致します。
[2]
新
潟県金融広報委員会
http://www3.boj.or.jp/niigata/kinkoui/kinkoui.html
知るぽると
http://www.shiruporuto.jp/teach/school/hajimete/hajimete210.html
http://www.shiruporuto.jp/teach/school/guide/guide201.html
[1]
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
現在、栖吉小学校では、金融教育は家庭科の授業で行っており、内容は主に買い物でのお金の使い方というもの
であった。話を伺うと、バスや電車に乗ることも少なく、銀行や郵便局に行ったことがない生徒もいるのではない
かということだった。現在の小学生はお金に触れる機会が少ないということが推測できる。
これらの話を参考に私たちは、ゲームを通じてお金を使う・得る・預ける、の3つを体験できる、すごろく形式
のオリジナルゲームを作成した。5名ずつの6グループと銀行家2名に分かれ、資産1000ドルを元にゲームを始め
る。与えられた情報の中でお金を上手に活用し、資産を増やすにはどうするべきかをグループで話し合い、考えて
進めていくゲームである。
ゲーム開始前に各グループにお店や施設の権利書が1枚渡され、無料で自分たちの資産になる。そして2つサイ
コロを振り、出た目の合計の数だけコマを進めることができる。止まったマスが他のグループが権利書を持ってい
る場所だった場合は、商品代金・利用代金として持ち主にお金を払う。スタートして1周すると誰も所有していな
いお店や施設の購入ができ、銀行にお金を預けることもできるようになる。また、1周するごとに生活費として100
ドルが貰える。というルールである。
このゲームから学ぶ内容は、①お金や金融の動き、②貸借関係、③お店の権利購入で利益を上げる、④資産管理
である。①お金や金融の動きは、銀行の基本的機能について理解してもらうということだ。ただお金を預けること
だけでなく、出し入れができ、一定時に利子がついて返ってくる。②貸借関係は、お金を使う・得ることを体験し
てもらうことである。すごろくのマス目にはお店があり、持ち主がいるお店にコマが止まった場合、買い物代金と
して相手方に料金を支払うルールを取り、金銭の流れを知る。③お店の権利購入で利益をあげるは、いくつかの情
報の中からより良いものを選択する意思決定を養うというものだ。より収益性の高いお店や施設を購入し資金の増
加に繋げていく。④資金管理は、限られた予算のもとで、資産を増やす楽しさ、難しさを体得してもらうことである。
各グループに配布される金銭出納帳と資金管理簿を活用し、計画を立てながらゲームを進めていく。
金融教育の実施は栖吉小学校6年生の2クラス、全2回行った。1回目を実施し、利子について詳しく知りたい
ということや、役割を明確にするなどと、改善点や反省点がいくつかあがった。それらを改善し、2回目を実施し
た。改善した点として、ルールを明記したプリントを各班に配る、5名6グループ銀行家2名を、7名4グループ、
銀行家2名、金庫番2名とする、利子について詳しく説明するなどがあった。ルールを明記したプリントは、1回
目に実施した際、ルールを把握していない生徒が多く、また、黒板にルールを表示しても誰も見ないということか
ら用意した。また、銀行家が2人では足りなかったということから新たに金庫番を増やした。利子については模造
紙に図を描いたものを新たに使い、詳しく利子について説明できるようにした。
2回目の金融教育に私は参加した。生徒たちは想像以上に積極的にゲームに参加してくれた。やはり利子につい
ては知らなかったので1回目の反省を生かして作った模造紙の図が大変役立った。なじみのあるすごろく形式とい
うこともあり、ゲームが始まると生徒たちは次々にコマを進めていった。実践してみて、気になった点は、ゾロ目
が出るともう1度サイコロが振れるというルールだ。サイコロが手作りなので、あまり転がらないせいか、ゾロ目
を狙って置くようにサイコロを投げる生徒もおり、連続して何回もゾロ目が出るということがおきた。ここは、ゾ
ロ目は連続〇回までと決めるか、サイコロの性能を上げるかなど改善が必要であった。また、前回銀行家の人手が
足りなかったということで、新たに金庫番2名を追加したが、今度は銀行家の仕事がなくなるという事態に陥った。
銀行家は預金と権利書が担当だったので、ゲームがスタートして1周しないと仕事がこないのだ。その点を考えて
いなかったので今後は、銀行家・金庫番のあり方も改善が必要である。また、預金について、ゲーム終了時に銀行
に預けているお金に利子がつくというルールがある。それによって、ゲーム最後の1周で各グループが手元のお金
全額を預金して利子を得るという形になってしまった。これにも問題があったのではないかと考える。たとえば時
間で、何分以上預金していた人に利子がつくであったり、ラスト何週では預金はできないようにしたりするなどと、
なにか決まりがあるとよい。預金制度も見直しができると考えた。
4.課題と提言
金融教育を実施して事前調査の必要性を大きく感じた。今回は金融教育を終えた後の事後アンケートのみであっ
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
たが、それだけでは、小学生がこの金融教育の授業を通してどれだけ金融の知識が増えたかがわからない。また、
事前調査として先生方から生徒たちの金融に対する理解の度合いを伺い、それを元にゲームを作成した。しかしそ
れらの意見は先生方の推測にすぎず、よりリアルな生徒の意見を聞くには直接生徒にアンケートをとることが必要
であったと考える。
また、小学校と金融教育の関わり方について、金融教育は家庭科の一部や、生活科の一部などと、金融教育に対
して充分な時間が確保されていない。私たちは生活をしていく上で、お金とは切っても切れない関係にあるにも関
わらず充分な金融教育がされていないのが現状である。やはり金融教育の重要性をもっと理解し、子供の頃から金
融に関する充分な教育をしていくべきである。金融教育の方法を工夫し、今回実施したゲーム形式で行うなどと、
楽しみながら理解するということが子供たちには必要であると考える。また、小学校の教員だけでなく、専門家な
ども交えて全体でサポートしていくべきである。
【参考文献】
知るぽると http://www.shiruporuto.jp/
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
〔資料紹介〕
外山脩造の企業者活動に関する資料(2)
松
本
和
明
(長岡大学准教授)
はしがき
筆者は先に、長岡大学地域研究センター『地域研究』第10号(2010年11月刊行、以下「前稿」とする)において、
外山脩造の企業者活動に関する史料を紹介した。
その後も、国立国会図書館や神戸大学附属社会科学系図書館および明治大学附属中央図書館等で、外山の足跡や
企業家としての活動に関する史料調査を継続している。
本稿では、これらに所蔵されている史料を中心に、新たに収集したものの一端を紹介し、若干の解説を付したい。
特に、外山がその設立と運営に大いに主体的かつ積極的に取り組んだ商業興信所についての史料を複数入手するこ
とができたので、紙幅を広く割いて取り上げることとする。
なお、史料中の漢字は原則として常用漢字を用いたが、常用漢字にないものについては、原本の字体のままとした。
また、読み易さを考慮して、適宜読点・句点を付した。
Ⅰ 『実業家人物評論』における外山についての論評
<解説>
『実業家人物評論』
(国立国会図書館所蔵)は、
1901(明治34)年3月に実業之日本社から刊行された。同書は、
『実
業之日本』に連載された企業家ついての評論を纏めたものである。
『実業之日本』は、1897年6月に光岡威一郎と
読売新聞社経済部記者の増田義一(現在の新潟県上越市域にあたる中頸城郡板倉村出身で現在の早稲田大学の前身
の東京専門学校邦語政治科を卒業)が中心となって立ち上げた大日本実業学会から発行された。1900年5月に光岡
が健康上の理由から同学会の運営を退き、これを受けて増田が読売新聞社を退職して改めて実業之日本社を立ち上
げ、増田が社長兼主筆として運営を主導した。その結果、
『実業之日本』は、当時において『東洋経済新報』や『東
京経済雑誌』とともに国内を代表する経済・ビジネス雑誌となった(増田の足跡や活動については、梅山糺編『増
田義一追懐録』実業之日本社、1950年4月を参照されたい)
。増田が読売新聞社経済部記者として、渋沢栄一・岩
崎弥之助・安田善次郎・大倉喜八郎・森村市左衛門などの当時の代表的な企業家と知遇を得ていたために、このよ
うな連載が可能になったと考えられる。
同稿の著者である「岳淵生」が誰かは明らかではない(雅号から増田ではなさそうである)
。一部事実関係の齟
齬がみられるものの、外山が「勤倹貯蓄」の精神を以って、第三十二国立銀行(後の浪速銀行)や大阪貯蓄銀行を
率い、堅実経営を貫いて成功を収めている点を認め、国内を代表する企業家の1人として高く評価すべきと論じて
いるのは的確である。一方で、外山があまりに「謹厳実直」であるがため、銀行家としてはふさわしいものの、必
ずしも実業界には向かないとの見解も注目すべきである。掲載の時点では、外山は商業興信所はもとより、大阪麦
酒や阪神電気鉄道および大阪倉庫などの設立と経営に深く関わっていたものの、これらが論評されていないのは、
実業界で高いポジションを得るに至っていないことを示すものといえる。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
外山脩造を論ず
岳淵生
岳淵生人の是非善悪能不能を評判し、以て其の中れや否やを世に問はんとするは、吾人年来の固癖なるが故に、
無中に有を探り、深淵の底潑溂復び網し来らんとを企つ、而して其の先づ第一打を罹りたるは、大阪に於ける一
方の雄鎭外山脩造其人なりとす。思ふに大倉喜八郎の如き、雨宮敬次郎の如き、松本重太郎の如き、今村清之助
の如き、安田善次郎の如き、藤田伝三郎の如き、皆是れ当代第一流の実業家虚業家として、世人の膽視する所、
其名亦市井陋□の話抦に上り、盛んに其活歴史を伝唱せらゝと雖も、一の『外山脩造』に至りては、斯道社会若
くは斯道を注視する一輩の外は、畿んど其名を知るものなく、吾人と雖も彼れが大阪に於ける一実業家なりとい
ふを聞きたるの外、未だ嘗て左程の重きを有する勢力者たるを認めざりし、是れ彼れが最も人の耳目を惹き易き、
中央首府に力を注がざるるに因ると亦一原因なるべしと雖も、主として彼れの性格、経営せる事業、身辺の事情
之をして然らしむるものある也。
玆に於てか吾人は彼れの小伝的記述を為すの、極めて必要なるを認めざるを得ず、彼れは越後栃尾の出身にして、
河井継之助の門下生なり、中途学に依つて身を立つるの意を擲ち、商工業の中心たる大阪に出でたるも、□中無
一物にして勢援の以て依るべきなく、若し其志を成さんと欲せば、唯だ自己の両腕を以て自己の田園を開拓する
の外途なく、所謂空拳を揮つて業を成すとは、最大難事に属するとは知ると雖も、亦堅守奪ふべからざるものな
くんばあらず、彼れは波濤激怒の大阪を以て其成功の地盤たりと信じ、漸次其階段を築き始めたり、彼れが如何
にして無中より有を作り、赤手よりして今日の富と力とを養い得たるかは、人の万事の秘密あるが如く彼れにも
亦其成功の秘訣ありしなるべし、而も其秘訣中の一として、否主なるものとして、彼れの全体を表彰するものは、
蓋し勤倹貯蓄の四文字に存せるは、疑ふべからざる事実なりとす。
此の勤倹貯蓄の四文字、如何に常套の語なるとよ、如何に平凡なる教訓よ、八兵衛も其必要を知り、権助も其至
極尤もなるとを知る、而かも昔より之れが実行を勉むるもの少なく、困却敢て顧みざるものあるは何ぞや、蓋し
勤倹貯蓄の行ひ難きに非らず、之を行ふの意思の強固なると難きなり、即ち之を実行すべき意思の強固なると否
とは、千里懸隔を来す分岐線にして、成功と失敗との決勝点なり、故に吾人は右四文字には主として重きを置かず、
唯だ此の四文字を実行すべき意思、語を更ゆれば普通人の実行し得ざる此の四文字を、平々坦々些の凝滞なく躬
踐する精神の尋常ならざるに向て、幾多の尊敬を呈せざるを得ず、此故に貯蓄家を以て「ケチン坊」の冷殺語に
没了するとなかれ、彼等は此性格を須ゐて、或る他の方面に普通人以上の成功を築き得るなり、思ふに外山脩造
の如きは、亦其一人たるを失はざるなり。
彼れは第一期帝国議会の際、一たび衆議院議員として大阪府より選出せられたるも、彼れが性格は、縦横馳突、
時に合同時に分離、紛糾錯乱、寔に風雲児をして機を得て飛躍跳梁せしむるが如き、政界の生活に対しては、余
りに秩序的に、余りに保守的に、余りに慎重的なりき、況んや第一期議会当時は、積年民党の公憤一時に迸発し
たる時にして、其意気旺盛なると、今日の腐敗堕落亦収拾すべからざるの此に非らず、従つて光景の活潑々地な
りしは、坐ろに彼をして『有志家社会』の、余りに長安遊俠児たるに過ぎたるを観じ、遂に此騒乱圏裏より脱却
して、復た出づるとを為さず、一に其倉廩の損せざらんとを冀いしもの、誠に性格上余儀なきといふべく、又一
方より観察すれば、利害上達見と云ふべからざらんや。
是を以て彼れは到底雨雲際会的の事業を好まず、一攫千金的の活劇を演ずるを為さず、所謂株式の戦争、事業界
の奔馳に一身を傾けざるを知るべし、聞説く彼れが其富を成せる第三第四の階段は銀行会社創設の際より所有せ
る株券の騰貴に依りて利する所多かりしに因ると雖、而かも其は経済界自然の趨勢より来りたる結果にして、彼
の株屋なるものが、定期を専務とし、器械的、術数的に市場を動揺せしめ、以て奇利を制したるものと同日にし
て談ずべきにあらずと、故に彼れは企業家側の実業家に非ずして、之れに資本を供する銀行的実業家なりと謂は
ざるべからず、見るべし彼れが年来経営せる事業は、概ね銀行業にして、其以外の企業としては、近時藤島正健
等と共に智利人に結び、日本舎密工業会社を創立せんとするに過ぎざることを、請ふ吾人をして銀行家たる彼れ
の正面を見せしめよ。
彼れが大蔵省官吏を辞して、第三十二国立銀行(大阪)顧問となりしは、蓋し彼れが本然の任務を果すに於て、
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
其基を開きたるもの全く此処に存せりと謂はざるべからず、彼の三十二銀行とは今の即ち浪速銀行にして、其改
称の必要ありし丈け其当時如何に同行が困難の事情を有したりしかを知るべし、而して彼れが入つて此難局に当
るや、□理其宜しきを得、頽勢玆に挽回の緒に就き、今日の状況に依れば、其積立金は資本よりも多く、信用頓
に関西の金融界を壓せんとするに非すや、是れ全く彼れが起死回生の手腕を揮ひたるに外ならずして、名声一時
隆々を極めたるもの決して故なきに非らざるなり、次で横浜正金銀行に入り、又転じて日本銀行大阪支店長にな
りしが、時の総裁富田鉄之助と衝突の事ありて職を辞し去つて海外に遊ぶに至れり。
然れども、彼れの外遊は矢張り主として銀行制度視察の為めなりき、帰来企てたる所のものは、大阪貯蓄銀行、
積善同盟銀行等にして、零碎なる資金を集聚するに勗め、外に商業興信所を起す等、大阪を益す彼れの地盤となり、
大阪自身も亦彼れに依りて経営されつゝあり、見よ大阪貯蓄銀行の如きは、其資本金額十万円にして払込五万円
なるに係らず、其積立は二十余万円に上れるに非ずや、一外山と大阪との関係如何に密接なるかを推知すべきな
り。
然り而して、彼れが銀行業に対する方針に就ては、甚だ聞くべきものあり、凡そ株式たると合資たるとを問はず、
苟くも集合資本を以て組織する以上は、其出資者は勢ひ其利益配当の多からんとを希望するが故に、之れが役員
たるもの、勗めて其歓心を買はんとを図るは斯界の常態にして、殊に大阪の実業界には、最も多く此の風習行は
ると雖も、彼れは全く正反対の方針を執り、先づ其純益は積立に注ぐを主として、無配当となるも敢て顧みず、
又設令配当を為すに至るも、未だ嘗て一割以上に及びたるを聞かず、是を以て前例大阪貯蓄銀行の如き、其積立
金比較的多く、其信用や銀行の基礎と共に重き、断じて偶然に非ざるを知るべきなり、宜なる哉彼れが大阪に於
ける勢力は、他の方面に於ては兎も角、銀行社会に於ては、其第一流に位するとを断言するに憚らざるなり、之
を要するに彼れは大阪に於ける着実分子を代表すると共に銀行界に於ける大阪を代表するといふも、敢て過言に
非ざるべし。
然れども彼れが勤倹貯蓄、万事銀行的に出来上りたる性格は又一面の観察に於て、其短所たるを免れざるなり、
即ち彼れは着実、緻密、ヂミなる丈けに、其胸量も亦天空海濶を欠き、人を容るゝ広からずして、自信力非常に
強きが故に、往々にして其身辺の人物、事情を相杆格する所なくんばあらす、加ふるに自己の責任は、何処まで
も責任として、決して之を遁避する如きなきが故に、適ま自任度に過ぎ、却て人をして峻巖楊枝を以て重箱の隅
を啄くの憾ありとの謗を為さしむ、蓋し非耶、彼の昨年堂島米穀取引所の不始末事件発生に当り之に関係したる
岡山銀行支店等に対し、銀行集会所が事実調査の上同盟銀行中に於て処分すべしとの発議するものありたるに対
し、彼れは独力之に反対し、其委員に選ばれたるも之を辞したるが如き、以て如何に自信力に富み、一飛既に剛
復の境に転じ居るが如く想はしめたるにあらずや、而して彼は頗る学識あり膽力に富むと雖も、惜むべし血と涙
に乏しく、愛嬌の如きは毫末存ぜざるとを、冷眼以て世上を視、他人の破産失敗に向ては一点の同情を表せざる
を豈に瑕瑾ならずとせんや。
若夫れ彼れが今後の事業に於ては、果して如何なる歴史を編出するに至るや、彼れが近時の企業として、既に世
間に発表せられたる内外共同の舎密会社は、彼れが銀行家以外の職務として為さんとする所、吾人は其事業の成
否如何を予言するの能力なしとせるも、彼れは到底銀行業者として終るべきの極めて天職を全ふするの道なるを
一言し置かんとす。
(明治三十三年六月)
Ⅱ 商業興信所の設立過程
<解説>
前稿において、外山が銀行による手形割引業務と企業および企業家間の信用取引の拡大を図るために、企業およ
び企業家の経営動向や資産・信用状況を調査する機関の立ち上げに渋沢栄一とともに取り組んだことを紹介した。
商業興信所の設立過程については、同所が1904(明治37)年3月に刊行した『商業興信所事業案内』
(神戸大学社
会科学系図書館所蔵)に取り上げられている。
外山は、1887年9月から1年間の欧米諸国の視察および横浜正金銀行の一井保・山川勇木などからの助言をふま
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
えて、信用調査機関の設置の意を強くした。そして、自らの関係銀行からの協力をとりつけたうえで、1891年7月
22日に大阪市内の金融関係者を集め、機関の立ち上げ計画を説明した(杉山正一編『株式会社商業興信所五十年誌』
1942年3月発行の3頁によると、
「堺卯楼」にてと記録されている)
。
外山は、商業通信所(この時点では「商業興信所」という名称は用いていない)の必要性と有用性を強調したが、
その際、出席者から様々な疑問点や問題点が指摘されることを予想し、それらに力点をおいて説明をおこなったの
は、外山の通信所設置に対する並々ならぬ熱意と決意を読み取ることができる。
これに対し、関係者からの反応は芳しいものではなかった。しかし、外山にとってはこの結果をある程度想定し
ていた可能性が高い。というのは、外山は直ちにかつて理事兼初代大阪支店長を務めていた日本銀行との交渉に着
手し、91年10月に同行大阪支店から補助金を受けることに成功した。これが奏功し、大阪市内の主たる銀行も協力
するところとなり、翌92年4月に商業興信所の設立をなし遂げるに至ったのである。信用調査機関立ち上げへの熱
意とともに、本来の冷静沈着さも併せて、外山の企業家としての面目躍如といえよう。
補遺の史料は、
『商業興信所事業案内』等に掲載されている同所の事業方針ないしスタンスというべきものである。
事業の有益性ばかりでなく経営および資産状況の正確な情報提供による信用の向上に対し虚偽情報による信用の失
墜が高らかに提示されているのである。
なお、商業興信所の設立過程の詳細については、別稿を予定している。
外山氏は去る明治十七年日本銀行理事兼大阪支店長在職の砌り、一己の資格を以て阪地銀行者を集めて手形割引
に関する奨励的談話をなせしことあり。当時既に氏は、手形割引をなすには各商業者営業の模様及資産信用の如
何を調査するの必要を感ぜしと雖も、興信所の如き専門機関をして之に当らしめんとは夢想だも起らず、唯だ銀
行員をして自ら是等の調査を為さしめれば自家の用を弁じ得べしと考へたる位なりしが、明治二十年より二十一
年に渉り欧米を漫遊するに及び始めて興信所なるものあるを知り、銀行の手形割引は勿論将来我国一般の信用取
引をして益々発達増進せしめんには之が機関たる興信所を設けざるべからずと感じたり(氏が此の感を起せしは、
米国にして当時紐育在勤の正金銀行員一井保氏の談話に由ると云ふ)
。氏は此新知識を齎らして帰朝せしと雖も、
興信所設置のことたる当時の国情に問ひ容易に成功し難しと思ふのみならず、他の計画の事業ありし為め暫く之
を他日に譲りたりしに、其後外山氏の親友たる正金銀行の山川勇木氏倫敦より帰り早々興信所設立の急要を唱へ、
外山氏に対し熱心に其決心を促し且つ企業上の参考となるべき書類を送付し来りしかば、外山氏も遂に多少の困
難障害を覚悟して興信所を設立することを決心し、先づ自己の管理せる大阪貯蓄銀行を首唱者とし、尋で同行の
組合銀行とも云ふべき十三、三十二、百四十八の三国立銀行に協議して其承諾を得、以上四銀行を発起者とし
て年々参千円の経費を負担支出することゝ定め、更に二十四年七月二十二日を以て、大阪市内重もなる銀行業者
三十名を招待し興信所設立に賛成を求むると同時に、斯業の必要なる所以及反対予防談話をなし、滔々数千言を
費したり。此談話こそ氏が斯業に対する抱懐を述べたるものにして、興信所の沿革中特筆すべき価値あるものと
信ず。依て左に其の要領を記載すべし。
『今日諸君の御来臨を煩したるは他の義にあらず、一の新事業を企てんと欲し、諸君へ御相談を願ふ為めなり。
其の新事業は各商業者諸会社等の資産信用営業の状況等を取調べ、資金の運転及び商業家の参考に供する秘密
通信を専業とする所のものなり。其の名号は先づ商業通信所と名くる考へなり。
扨右通信所の業は、西洋諸国に於て盛に行るゝ所の営業にして、一社にして往々数千の人を使用する所一市内
にも幾箇もある由、以て其の事業の盛大なることも之を利用する人の沢山なることも、其の事業の商業社会に
必要なることも推知するに足るべし。
此の通信所は内地の各商業家は申すに及ばず、外国の日本と取引する商業者の為め双方の便利となり、一般商
業の発達を助くるの効能あるべきは勿論、就中我々銀行者に取り最も緊要のものと信ずるなり。
何となれば銀行者は広く商業者諸会社の身代状況を探知し、夫々之に応じて適宜の処置をなすにあらざれば其
の事業を拡張する能はず且つ損失を招き易きを以てなり。又各銀行に於て銘々之を取調べんとし三五名の手代
を専ら其の事に掛け置とも到底取調の行届くべきことにあらず。頭取支配人が何程鋭敏にても繁務の余暇に之
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を取調べんとすること実際なし能はざることならん。旁此の取調を以て専業とする通信所は極めて必要なもの
と信ずるなり。併し至て新事業の事故種々の疑惑もあらん。依て仮に問答を設けて、之を説明すべし。
或問て曰く、西洋は一般に信用を重んずる習慣あり、銀行の営業も十の八九は割引にして、其の割引も多くは
信用に出づと斯の如き国柄に於ては通信所の必要あるべしと雖も、今日の有様を見るに各銀行の八九は抵当貸
にあり、偶割引をなすも大概担保品付の割引にして、信用割引の如きは実に寥々たり。一般商業者も亦信用を
重んずるもの甚だ少しして見ると、我国に於ては目下格別の必要なきに似たり。通信所の設立は猶早きことな
からんか。
対て曰く、成程今日本の有様にては、通信所を設くるも之を利用するもの西洋に比すれば甚だ少かるべし。然
れども、我国の銀行は大概抵当貸を以て営業となし、信用割引甚だ少きか故に格別通信所の必要なしと云ふに
至ては大なる誤見なるべし。
其の訳は、従前我大阪両替屋の営業振りは西洋諸銀行の営業振りと殆んど同一なりと雖も、暫く置て論ぜす。
今日各銀行の営業振に就て之を論ぜんに、貸付と曰ひ当座貸越と云ひ割引と曰ひ大概抵当とか根抵当とか担保
品とかの付きたるものにして、表面上信用の取引は甚だ稀なるに似たりと雖も、其の実は信用否情実の取引頗
る多し。而して其の情実取引の内には幾分か信用を含蓄するものなりして見ると、表面上は抵当取引なれど内
実は信用取引も亦不少と云ふべし。
最初より信用取引の覚悟にて取引すれば、却て過ちも少かるべきも、表面は抵当内実は情実、情実半分信用半
分の混合取引なるを以て、却て損失を招くこと意外に多きに似たり。
他 方のことは暫く置き、我大阪市に就て十年来著名の出来事を挙ぐれば、銀行にては丸三銀行の事あり、
二十六銀行の事あり、百二十六銀行のことあり、硝子会社の事あり、鹿児島砂糖会社のことあり、其の他一己
人の出来事は枚挙に暇あらず。是れ等出来事の顛末は諸君の熟知せらるゝ事にして小生の喋々を待たず。而し
て此の席にある銀行者諸君は往々夫れが為めに許多の損失を受け、或は容易ならざる心配せしことあらん。又
十年以来阪地各銀行の滞貨準備として積立てたる金額は幾許ぞ、已に消却したる金額は幾許ぞ、今日猶積立て
つゝある金額は幾許ぞ。今日小生が之を詳細に弁ぜざるも、大抵は諸君の胸算にて分るべし。是等損失の高に
よりて考ふるも、取引の実況によりて考ふるも、日本の銀行に於ては格別通信所の必要なしとの説は、大なる
誤見ならんして見ると猶早きにあらずして已に晩しと云ふ方却て適当ならん。況んや近時我国の銀行も漸次信
用割引の業を拡張するの傾きあるに於てをや。
又或問て曰く、我日本に於ては格別通信所の必要なしと思ひしも、君の説明に依り其の必要を知り、猶早しと
考へしも已に其の晩きを知れり。只恐る西洋各国の如く各商業者の身元を鮮明に探知するの難きと、各銀行始
め商業者が之を信じ之を利用せずして徒らに無用の長物たらんことを。何となれば我国一般の人情兎角隠蔽を
好み且つ猜忌の念深ければなり。
対て曰く、誠に然り々々。今日我国の状況にては(仮令商法実施の後にても)
、商業者の身元状況を詳明に探
知するは実に困難なり。然れども各銀行に於て真に此の事業を賛助せらるゝに於ては取調の端緒なきにあらず
(西洋の通信所も各銀行の賛助を得て取調の土台となす由)
。諸会社にもせよ各商業者にもせよ、各銀行の取引
振を調べ、資本高動産不動産等夫々掛りを分ち、夫れのみを専業とし順次取調ぶるときは、仮令十分に行届か
ざるところあるも、所謂中らずと雖も遠からず位の取調は決して出来能はぬことにあらずと信ずるなり。固よ
り最初は粗なるも、歳月を積むに従ひ漸次精密に至るべし。又利用云々のことも、最初の間は至つて少かるべ
しと雖も、本所が追々正確の調べをなし得るに随て、之を利用するものも増加すべきは敢て疑はざるところな
り。一体何事にても最初より充分の効を見るは難し、況んや我国になき新事業に於てをや。夫れ故外国の通信
所は皆営利事業なるも、今企つるところの通信所は、営利目的をやめ三ヶ年を一期として有志組織となしたる
所以なり。畢竟此の事業の商業社会に必要なることを信じ、其の成功の困難なるにも拘らず此の事の端緒を開
かんと欲するにあり。雛鶏に時鳴を促し今直ちに鳴かざれば是れは無用なりと曰ふ如き気短の責をなさず、前
途を慮り気長の御考を願ふ所なり。
又或問て曰く、今通信所を設け諸会社始め各商業家の身元取調をなすときは、事業家の妨げとなることなきや。
対て曰く、決して妨げにならず、却て事業家を助くること多し。今見込みある事業を営み大に之を拡張せんと
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欲するも、資金の乏しさに苦しむものあらん。諸方に奔走して金主を得んと欲するも、債主たるべきもの其の
人の素行も其の事業も身元も能く分からざるときは取合ものなかるべし。斯る時、通信所に依り其の詳細を知
り得るときは、随分金主たるもの出で来るべし。故に助けにこそなれ、決して妨げにならざるなり。併し若そ
の事抦山師流のことにして、世間より金を集むる丈けの目的にて、其の事業は見込なきものならんか。其の時
は山師の妨げとなるべし。大凡何事業にても、多少他の事業の妨げとなることは免るべからず。今鉄道を布設
すれば、其の地方人力車の妨げとなるべし、電話を掛くれは電信の妨げとなるべし、何か器械所を設くれば手
仕事者の妨げとなることあるべし。只其の事抦社会の進歩を助くるの利益ありや否に由て判断すべし。正業者
を助くる為め、山師の妨げとなることあるも、敢て顧慮すべきにあらざるべし。加之、通信所は前途社会経済
の整理上、大なる利益あるべきを信ずるなり。
尚ほ、
発起のことに付一言申述べん。此の通信所の事業は、
各銀行諸君の賛助を得なければならぬ事業なれども、
銀行交換所の如き仕組のものにあらず、又倉庫会社等の如く株式組織にて成立すべきものにもあらず。畢竟組
合組織ならでは行れ難き事業と信ずるなり。
依て貯蓄銀行が首唱者となり、十三、三十二、百四十八の三銀行協議して、共に此の事業の発起を企てたる次
第なり。然しながら、必ず此の四行丈けにて此の事業を行はんとの趣旨にあらず。若し幸にして諸君が共に発
起者となる方便利ならんとの御考あれば、我々は悦で同意を表する考なり。之れは御参考迄に述置なり。
』
氏は、此の如く詳密周到なる演説をなし、出席者の賛成を得んことを勉めたりしも、出席者は容易に賛否の言を
吐かず、何れも未聞の新業なれば篤と勘考して決答すべしと述べ退散したり。其後余程の日子を経て、該出席者
の重立ちたる向きより、我大阪市内に於ける国立私立の各銀行及び一己人にして金貸業を営むもの挙つて賛成す
るならば、我々も賛成すべしと申し来れり。此の答詞たる表面賛成に似たれども、裏面より見れば正しく賛成拒
絶の意味たるを知れり。是に於て、外山氏も到底多数の賛成者を待つて事業を興起するの困難なるを察し、日本
銀行に就き川田総裁、川上理事に特別賛助を乞ひしに、二氏快く之を承諾し、日本銀行大阪支店より年々弐千円
の出金をなして事業の成立を助くることの決答を与へたり。即ち、発起銀行の出金参千円と日本銀行の出金を合
するときは五千円となるを以て、外山氏は愈々之を経費に宛て、事業に着手することに決心せり。是実に明治
二十四年の秋期なり。
*補遺:商業興信所の事業方針
一 商業上ノ取引ヲ安全ニセント欲セバ、先ヅ相手方ノ身元信用ヲ知ルヲ最必要トスル、而シテ之ヲ知ルノ捷径ハ
興信所ニ加盟スルニ如クハナシ
一 興信所ノ加盟者ハ、若干ノ加盟金ヲ支出セバ、随時必要ニ応ジテ商工業者ノ身元信用ヲ審問シ得ルノミナラズ、
商業上ノ有益ナル種々ノ報告ヲ受ケ、損害ヲ未然ニ防グノ利益アリ
一 欧米ノ商人ニテ、興信所ニ加盟セザルモノ稀ナリ、興信所ハ商業界ニ欠ク可カラザル一大機関ニシテ、米国ニ
於テハ商業ノ母ト称セラル
一 我興信所ノ調査区域ハ、内国枢要ノ都会数拾個所ニ亘リ、尚欧米諸国ノ興信所ト連絡ヲ通ゼルニ依リ、海外ニ
対スル審問ニモ応答スルコトヲ得
一 商工業者ハ、自己ノ営業並ニ資産ノ状態ヲ詳細ニ興信所ニ知ラシメ、以テ信用ヲ高ムルヲ得策トス、興信所ニ
向テ虚偽ノ報告ヲナスハ自ラ信用ヲ傷クルモノナリ
Ⅲ 『岸宇吉翁』にみる岸と外山との関係
<解説>
前稿において、今泉鐸次郎の追想から、新潟県内における石油事業をめぐる岸宇吉と外山とのトラブルについて
取り上げた。外山は県内での石油事業の将来性に着目し、欧米視察に旅立つ前に旧知の岸宇吉に採掘権の確保を要
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
請したにもかかわらず、視察中の1881年に、岸が山口権三郎と内藤久寛が中心となって計画された日本石油会社に
直ちにコミットし、帰国後にこれを知った外山が激怒して、周囲の説得も空しく事業上の関係を断絶したというも
のであった。これについては、
「明治二十年と云ふに石油事業の取調に洋行し、越後全体に渡り油田試掘権を計画
を立つるが如き大計画は先見の士に非ざれば為し能はざる処である。氏(=外山:引用者)の取調に就ては大に斯
業に裨益する処あつたらうに、
之を世間に公表することを為さず、
空しく筐底に埋没し去られたのは遺憾の次第」
(広
井一『明治大正北越偉人之片鱗』1929年6月、51頁)と外山に同情的な見解が見受けられる。
この一方で、小畔亀太郎の編纂・発行により1911年10月に刊行された岸の伝記である『岸宇吉翁』にも両者の問
題が叙述されているが、今泉のニュアンスとは若干異なるように思われる。
確かに、外山の視察中に岸が日本石油会社の計画に傾いたのは共通して述べられているものの、よい意味でも悪
い意味でも機敏ないし臨機応変であったと評される岸のスタンスからすると意外なほど、それ相当に逡巡した様子
が同書からは見てとれる。外山との関係を重視しつつも、松方正義によるサジェスチョンや日本石油会社の事業計
画の有用性および地域における必要性等を勘案した結果、最終的に岸は日本石油会社に関わることとなったと理解
するのが妥当であろう。これに対し、外山が岸により信頼関係が反故にされたとはいえ、おそらく松方から石油事
業への早期着手の必要性が予め提起されていたにもかかわらず、視察中に岸および長岡サイドへ情報提供を必ずし
もおこなっておらず、その後に視察中の事態の推移を必ずしも理解することなく、ほぼ一方的に石油事業はもとよ
り長岡とのビジネス上の関係を絶つに至ったのは、外山の企業家としての活動の展開においてマイナスであったの
は言を俟たない。一方で、岸をはじめ長岡地域の産業界が外山との連携を十分にとらなかったために、外山からの
物心両面の協力ないし援助を得ることができなくなったのは、地域の産業発展の将来性を狭めたという点で失敗で
あったと評価せざるをえない。
ところで、同書には、時期は不明であるが、岸が製紙業に進出しようとしたところ、外山がそのリスクを諄々と
諭し、岸が思い止まったと記されている(123-124頁)
。両者の人間関係やそれぞれの性格のコントラストがよくわ
かるエピソードであるが、それに加え、この計画の成否によっては、田村文四郎と覚張治平を中心に1907年4月に
設立された北越製紙(現・北越紀州製紙)の起業計画が左右された可能性があり、興味深いところである。
なお、外山は岸について、
「岸さんに就いて敬服に堪へないのは手紙である、同氏の手紙は何時も極めて簡短で
あつて、それで文章の意味がよく明瞭して居る、誠に感心である」との談話を寄せている(同書、218頁)
。ビジネ
スを超えた両者の深い関係を垣間見ることができよう。
明治十九年、翁(=岸宇吉:引用者、以下同じ)は、渡辺六松、三島億二郎、小林伝作、目黒十郎氏等と上京し、
松方(=正義:引用者)侯爵を其邸に訪れた。其時伯爵より種々の経済談があつた末に、今日の石油事業の基と
なる可き一つの話があつた。侯爵の語らるゝやう、
『近頃亜米利加の有力者は海外発展に全力を傾注して居るが、
現に我政府に向つて一つの相談を持込んで来た。夫れは三十万円を供託するから越後に於ける石油採取の権利を
与へられたいといふ事である。熟々思ふに、外国の手に此の利益を奪はるゝは国家将来の大打撃であるから、是
は是非共邦人の事業とせねばならぬ。就ては諸君に於て之を試みては呉れまいか、実に国家経済上の大問題であ
る』と。
翁は侯爵の談に深く感じ、確く決意する所であつたが、其後間もなく大阪の外山脩造氏が安達仁蔵氏を顧問とし
て、石油事業視察の為に渡米することとなり、之に先ちて来越、翁に面会して、
『今度の渡米は、主として石油事
業を視察する考である、帰朝の上は協力して斯事業を興したいと思ふ、それに就ては、自分が帰つて来るまでの
間に、越後全体の地を石油試掘地として借区権を得て置いて貰ひ度い』と言つて出立された。然るに明治十八年
の交、山口権三郎氏の主唱で、殖産協会なるものが組織され、翁を始め県下の有力者が多数賛同したが、二十一
年一月に長岡で開会された際、石油事業を開催しては如何かといふことが発議された。翁は其議に対して頗る苦
心されたのである。外山氏とは既に約束がある。今又同事業を起さうといふ相談がある。賛成すれば外山氏に対
して義理が済まぬ、去ればといつて賛成せぬにしても山口氏の手で斯事業の成立することは必然である。斯る羽
目に陥つた翁は、千思万考の末、斯事業は松方侯の言の如くに国家事業で、其国家経済上に及ぼす関係の大なる
者あることなれば、外山氏の意嚮の程は今知り難きも、氏が帰朝の上、篤と事の成行を話し、協力経営を請はば
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
氏も諒とせらるるであらう、寧ろ進んで其成立に尽力した方が、自分として今日執るべき最善の手段であらうと
斯く決心されたので、殖産協会の発議に賛成を表し、会社創立の際には進んで地方の有志を勧誘し、別に外山氏
の分として氏に渡すべき株式は翁自ら出資して氏の帰朝を待つて居られた。会社創立と共に、翁は取締役に挙げ
られて数年間就職されたが、創立当時の本社は尼瀬に在つたにも拘はらず、翁は毎月の取締役会には欠かさず出
席して社務の為に尽力された。
其中に外山氏は、視察に一年有余の日数を費し、大抱負を懐いて帰朝された。所が、翁との約束が更に履行して
ないのみならず、新会社が設立されて、然も翁が要路に当つて居らるるので、外山氏は案に相違し、大に憤慨し
て、会社に協力どころか、翁が心尽しの株主たる事も拒絶し、翁に対して詰問の矢を放たれた。翁は事の次第を
具に語つて氏の怒を解かうとせられたけれど、外山氏は仲々承知されない。そこで内藤久寛氏から外山氏に会社
設立の由来を説き、三島氏も亦内藤氏の意を承けて、会社設立の動機は山口、内藤両氏の調査発意に基いたので、
岸氏が故意に約を背いたのではないといふ事情を語られた為め、外山氏も漸く意解けたものゝ、此一事より、外
山氏と翁とが、公然事業上の提携を絶つことゝなつたのは、頗る遺憾とすべき事である。然し流石に外山氏と翁
とである、胸裡光風霽月の若し、私交に於ては何等変りがなかつた。
【付記】
外山脩造の企業者活動の研究にあたり、そのきっかけを与えて頂くとともに、様々な御便宜をはかって頂いてい
る、アサヒビール株式会社上席執行役員吹田工場長金谷高義氏、同社新潟支社長高澤敏夫氏、同支社島村曉氏およ
び株式会社新潟テレビ21長岡支社長今井大介氏、株式会社UXビジョン制作部シニアディレクター村山正人氏をは
じめ、各社の関係者の皆様に謹んで感謝申し上げる次第である。
本稿は、
「平成22年度長岡大学教員研究費B」による成果の一部である。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
〔資料紹介〕
長岡における産業クラスター形成にかかわる広井一の役割
「廣井一傳」箕輪 義門/編 北越新報社 昭和17年
綿
引
宣
道
(長岡技術科学大学経営情報系)
はしがき
長岡での産業クラスターの形成は明治期から見られるが、その背景には今でいうところの異業種交流があった。
その異業種交流は、学校の運営と密接な関係にあった。明治初期には寺子屋や私塾の延長のような形でいくつもの
学校ができたが、特に身分の融合を図り長岡藩最後の藩校である国漢学校から長岡学校に至るまでの過程において
異業種交流会的側面が顕著に出ている。
その学校の生徒であった広井一(1865-1934)は、明治維新後の最初の世代として教育を受けることになる。彼は
平民の子として生まれ15歳で長岡学校に入学、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業し、22歳で存続の危機に
あった長岡学校の教師となる。翌年には越佐毎日新聞の記者と兼任し、25歳で長岡学校を辞職している。26歳で新
聞社を譲り受け、地方の政治活動と長岡銀行(現・北越銀行)の設立、北越鉄道(現・JR信越本線)
、越後鉄道(現・
JR越後線)の設立に関わるなど広範囲な活動をしていた。長岡学校の場合、学校教員でありながら他の職業と兼任
することは珍しくなく、その結果学校自体が異業種交流会となり産業の育成に大きな影響を与えていたと考えられ
る。
またその他の異業種交流会を見ても、明治維新直後にできた長岡を中心として経済活動をしてきたランプ会、信
濃川流域を活動範囲とした地下資源の有効活用を目指した誠之会、新潟全地域を活動領域として政治色が強くなっ
ていった殖産協会は、戊辰戦争に直接関係した世代が動かしてきた。広井一は彼らによって支えられた学校で育っ
た第二世代である。
本稿では、没後5年を記念して発行された『廣井一伝』から、彼らは長岡学校でどのような教育を受け、どのよ
うな異業種交流を展開して長岡の産業クラスター形成に影響を与えたのかを紹介する。
Ⅰ 長岡学校での教育(広井一の学生時代)(21-27ページ)
學科は英語・國漢・數學の三科が主であつた。中々難かしくて豫習・復習を怠りなくやらなくては何がなんだが
分らなくなる。
この正規の學科以外では、和同會に入會して演論・討論・作交などの練習・研究をやつた。この和同會は明治八
學生和互の懇親を厚ふし、
演説の稽古を爲さんとの目的にて組織し「君
年に在學生井上圓了1等有志の人々の發起で、
子は和して而して同ぜず」との意を取つて、和同會といつたもので、毎月土曜日の午後を以て開會し、演説又は討
論の響古をしたが、余り振はなかつた。
明治十年に井上等が上京してから、一時廃滅の形になつてゐたのを、明治十四年三月二十九日に、時の先生田中
春回2・長尾平藏3の提議で再興されたもので、毎月第一・第二土曜日に開會された。この時には生徒は競うて演説
1
2
3
上圓了(1858-1919)は哲学館を創立した仏教哲学者である。その後、哲学館大学を経て現在の東洋大学となる。
井
田中春回(1833-1911)は、長岡藩士で明治維新前の藩校である祟徳館から長岡学校にかけての漢文の教師である。その後
も長岡にできた女学校の教師としても活躍する。
長尾平藏(1858-1908)は、長岡藩士で国漢学校の教師で数学を主担当とし、長岡洋学校、長岡学校の舎監を務めていた。
長岡社の創設者でもある。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
しようとするので、
後には抽籤で演説者の順番を定めるに至つた。君はこゝで、
盛んに演説の響古をしたものである。
この十三・四年頃は、自由民権論の諸國に沸騰した塒代で、長岡でも草間時福4などいふ著名な政論家を聘して北
越新聞を發行し、また船江町の柳月座には、定期の政談演説會が開かるゝといふ有様だつたので、君等もこの頃から、
政治に甚大な興味を覺ゆるに至つた。生徒有志は、報知新聞や大阪の日本立憲政黨新聞を取寄せて、種々な論題を
捉へ、盛んに政治論を戰はした。又東京に遊學する人々へ通信代りとして、政治論説を新聞紙大の紙に書き込んで
送つたこともあつた。
十五年四月、
自由の神と謳はれた板垣退助が、
岐阜で刺客の刃に倒れた、
と聞くや君は廣川廣四郎・川上淳一郎5(後
の代議士)外四・五名の者と急遽和談を纒め、鄭重な見舞状を送つたりした。
自由黨! 自由黨!と紅顔の少年が謳歌して居る内に、黨の幹部かなんぞの氣になつて、同志川上淳一郎の室内に、
看板を高々と掲げたものだ。曰く「北越青年自由黨事務所」そして君等は、
長尾舎監に叱られて、
撤去を命ぜられた。
然し板垣伯への見舞状は、この北越青年自由黨の名で發せられたのである。
投書も盛んにやつた。北越新聞や大橋佐平6の越佐毎日新聞、大平與文次7の長岡日報に君等の名文(?)が掲載
されたのである。
智識に飢えてゐる君は課外の智識を得やうと、北越新聞主筆の草間時福が、定塒の演説會を開けば、必ず傍聴に
行き梛野直8・土屋哲藏(三の誤りか)9・藤野友徳10等が、通俗講演會を毎月表町小學校に開けば、そこへも出席
してゐた。
(中略)
さて長岡學校の科目は、前述の三科目が主であるが、英語は城泉太郎の擔任でミルの代議政体・ギゾウの文明史・
サーゼントのリーダー・ミツチエリの地理書・バーレーの萬國史・クロツケンボスの米國史
等で、漢文は田中春回の教ふるところ「日本外史・十八史略」數學は長尾平藏の受持で、算術・代數・幾何であつた。
組は英・漢・數の三組に分れ、英語の一年生も、三年生も一組の中に交つて居るので、一學科毎に、うち各々生
徒の組が幾つにも分かれた。全生徒を合して五十人程、その中寄宿生は二十五人だつた。
一年二回の試験があり、寄宿生の方が、通學生より一般に成績が良かつた。それは當時寄宿含には、遠方からの
秀才が集つてゐた關係であつたらう。
(中略)
クワツケンボスの小米國史、少し進んでグードリツチの英國史とかビルマン史、ウヱランドの小經濟論、ピネオ
の文典、カツトルの人身窮理書、ロスコウの化學書、更に進んではギゾウの文明史、ホーセツトの經濟論、ミルの
代議政体論、最上級になるとミルの自由論や利學正宗などを讀ましたものだ。漢學の初年には通鑑攬要・皇朝史略・
日本外史などより始め・十八史略・元明清史略・進んでは文章軌範・唐宋八家文・資治通鑑などもあつた。
藪學は算術・代藪・幾何・三角まで教授したが、要するに各科共、随分幼年生徒の頭腦には突飛の詰込み主義で
あつた様に思はれた。
藤野善藏氏の推薦に依り城泉太郎氏が教頭として來任し、專ら英學の教授を擔任して居られ、田中春回氏が漢學
4
5
6
7
8
9
10
草間時福は、松山英学所初代校長で愛媛県下の自由民権運動やマスコミに少なからず影響を与え、自治社、松山公共社の
社員となり『海南新聞』(現『愛媛新聞』の前身)の編集にも当り、民権運動にも積極的に関わった。
川上淳一郎(1865-1931)は庄屋の家系に生まれ、明治16年に栃尾銀行の取締役、
改進党に入党し、
同29年に長岡銀行取締役、
同39年県会議員、同45年衆議院議員当選。養蚕業組合にも貢献した。
大橋佐平(1835-1901)は酒造業の家に生まれ、明治5年に三島億二郎、田中春回らとともに長岡洋学校を創立した。同6
年に長岡郵便局長、同14年には「北越新聞」ついで「越後毎日新聞」を発刊した。また同20年には出版社の「博文館」を
設立、同29年には北越石油の取締役となっている。
大平與文次(1839-1896)は庄屋の家系に生まれ、大橋佐平とともに「越佐毎日新聞」を発行したが、すぐに退社して「長
岡日報」を発刊する。
梛野直(1842-1912)は庄屋の家に生まれるが、藩医の梛野家の養子になる。祟徳館と国漢学校の教師で医学を教えていた。
明治5年の学校令により小学校に変わるときに、陸軍軍医を経て長岡会社病院を設立した。
土屋哲三(1833-1898)は、藩医の家系に生まれ長岡産婆学校を設立、梛野直とともに自由民権運動を行ってきた。
藤野友徳は大橋佐平とともに『北越雑誌』の発行し、雑誌の主筆である。この雑誌は、明治9年から2年間だけ発行され
娯楽と啓蒙を中心としたものであったようだ。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
の主任、長尾平藏氏が數學の主任、外に酒井久三郎11・丹路仲徳・小坂部勇吉12・牧野鈔人13氏などが英學や數學・
漢學の助手14をして居られた。
解説
学校令によって国漢学校は明治4年に小学校として再スタートを切るが、すぐに旧藩校の教員が長岡学校の前身
長岡洋学校を作るにいたった動機は想像に難くない。広井一がこの学校にいたのは15歳(明治12年)から18歳(明
治15年)の間である。長岡洋学校から長岡学校になって3年目、藩校の国漢学校の時代から8年目で、藩校の色彩
を強く残し学問を学ばせる場であったようだ。政治経済を英語の原書で学ばせており、現在の大学かそれ以上に相
当する教育であった。
この当時入学者は15歳であるから、元服するあたりの年齢の学生で、かつ士族階級の子弟が多く在籍し、学生が
自ら社会を動かさなければならないという自覚が強かったようだ。実際に当時学生であった井上圓了が現在で言う
ところの学生自治会に近い和同会を組織し、日本の政府の在り方などについて討論会や演説会を行うなどに現れて
いる。
また、教師も自ら政治活動を行っており、和同会衰退後に当時の教員である城泉太郎15・田中春回・長尾平蔵・
酒井久三郎らが民権運動の演説を行っている。
Ⅱ 長岡学校廃止問題(81-86ページ)
當常時財界不況の爲め、民費はなるべく緊縮すべしとの聲が高くなり、學校の如きも、出來るだけ減じて、町村
の負擔を輕減すべき必要に迫られてゐた。そのため文部省は、明治十九年四月勅令第十五號を以て、中學程度の學
校を町村組合の協議費を以て支辮、設置することを禁じ、若し中等校の必要あらば、地方税を以て一縣一校の割合
にて設置すべし、と規定したのである。當時縣下には、市町村の設立にかゝる中等程度の學校は、長岡・高田・小
千谷・柏崎・新發田・村上の六ヶ所にあつた。即ちこの六ヶ所全部が、右の勅令に依つて、廢止のやむなき蓮命に
陥り、爲めに縣下の中等學校は、此處に全滅せねばならぬ状態に立ち至つた。
高田・新發田・村上・小千谷・柏崎は既に止むを得ずとなして閉鎖を決議した。しかし長岡學校のみはこれを肯ぜず、
田中春回を始め、長尾平藏・小坂部勇吉・石井重吉・川上淳一郎・野本松二郎16・長谷川三男三郎17・高橋牛三郎18
の諸氏及び君等教職員や、事務員は教育上の一大痛恨事として、その存續方を日夜熟議した。その結果町村組合共
立の長岡學校は一旦廢校届を出し、更に名目を私立長岡學校と改めて、以前の内容を攣更せずして、繼續して行つ
たら、どうかと云ふことになつた。そこで君等は明治十九年十二月三日、從來の組合委員の人々に會合を請ひ、
我々は熟磯の結果、かゝる決心を以て、この學校を繼續することにした。どうか資本金と校舎、その他建築物・
機械類等を貸與して頂きたい、貸してさへ貰へれば我々は無給料でも差支ひない、飽までこの學校を維持して行き、
立派に發展せしむる覺悟である。
と次の學稜私議草案を提出し、誠意を披露して諮つたところ、委員側は
11
12
13
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15
16
17
18
酒井久三郎は、元長岡藩士で国漢学校と長岡学校の教員を務めた。
小坂部勇吉(生没不明)は、元長岡藩士で長岡洋学校、長岡学校の教員を務めた。
牧野鈔人は、明治15年『時事』仮編集長であったとき、
東京府会議長から内務卿に宛てた「郡長区長公選を希望するの建議案」
を掲載したことが、新聞紙条例の禁ずる無許可での上書建議の掲載に当たるとして、罰金刑を言い渡されている。
ここでいう助手は、ほとんど学校卒業してすぐの人がなることが多く、今で言うところの助教のような扱いである。年齢
が近いせいもあり、交流が深かったようだ。
城泉太郎(1843-1891)は、藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村遠藤軍平塾を経て、明治3年慶応義塾に入塾した。この間
に戊辰戦争に参加し、会津・仙台に難を避けている。5年秋、慶応義塾の大試験で、4・5・6年の試験を受けて卒業し
ている。その後6年に慶応義塾教師、9年に徳島慶応義塾分校長、11年4月土佐立志学舎教師を歴任した。長岡学校には
11年9月から16年3月までの4年間半在職した。
野本松二郎(1841-没年不明)は、明治25年の頃から同盟石油、越後製油、地獄谷石油、越後製油、古志谷石油、帝國鑛業、
長岡米穀取引所、帝國鉱業、東北石油、竹平石油、榎石油、北平石油、長岡製油、金越石油、長岡二品取引所の取締役を
務めた。改進党に所属し廣井一とともに不平等条約改正の建白書を提出している。
長谷川三男三郎(生没不明)は、幕末庄屋割元格で区長ののち明治13-20年にかけて新潟県議会議員を務めた。
高橋牛三郎(生没不明)は、元長岡藩士で国漢学校と長岡洋学校と長岡学校の教師を務めた。
− 53 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
「校の名義を私立に改むるとも、從來の敢育方針を攣へずに繼續して行くなら、必要なものは貸與しよう」
と賛意を表したので、漸く存續出來得るやうになつたのである。
熱誠溢る學校私議草案
世運日に進み智識藝術の競争唯斯時を盛なりとす、靑年人士小學卒業、直に世務に就んとするも、何ぞ以て世間
に立て、共に馳驅するを得んや、官新に學命を布き、規模大に備れり、然共限あるの學校猶未だ以て、邊陬僻地の
諸生をして遍く其所を得せしむるに足らず、且貧●(ツブレ)にして、學資の充備を欠く者多きを如何せん、側に
聞く官の主旨貧民課賦の負●(ツブレ)弛へ、富有有志者の寄附を以て學事に供せんとするに在り且民間の士、都
會遊學を卒て郷里の教育に熱心なる者亦往々此に注目する所ありと、諸友の報に依れば静岡縣英華學校19の教師は、
定りたる給料なく、皆篤學の有志者にて成立ち、各其得る所の科目を以て業務の餘暇に教授す、實費少數の資額を
以て維持するを得、又廣島縣商業學校20は教師僅少の給料を以て業務の餘暇に教授し、資金闕亡の際に至ては、一
の有志者育て之を補助し、校中一切の事務は悉く教員の兼務する所に成る、其他某學豫備校・私立某校の如き指を
屈するに遑あらず、若し方法其機に適し、紀約其宜を得ば今目此の如き義塾を地方に設るは、最必要有益の擧と爲
すべし、
舊長岡學校は縣令に依て、既に閉校せり、然れ共在來人民より募集する所の資金及書籍器械校含の遺存する者あ
り、固より之を無用に歸せしむ可きに非ず、但其資金僅に七千餘圓の少數なるを以て、亦之を以て完全の維持を望
む可らず、故に在來の資金は固より、在來の名義を儼存し、一二主任者をして之を管理せしめ、之より生ずる所の
利子を以て、原資となし其足らざる所は、更に有志者の寄附を仰で、之を補充し以て新に一の義塾を設畳すべし、
果して然らば一は以て資金を無用に歸せしめず、一は以て地方貧生就學に便し都會遊學の基礎を爲し、從來の日的
を達するを得べし、若しそれ在來の資金を分割還附する者とせんか、是尤下策にして九仞の功を一簣に虧くする者
なり、固より少數なる資金を更に幾數十分に分割すれば殆零細其益を見る無きに至るべし、且其出所の原因参差錯
雑なるを以て、之を平等に分配するは固に爲し得可らざる者なり、若し又資金を保存して其利子の増殖を待つとせ
んか金利低落の今日を以て、之を見れば十數年の久を歴るに非れば以て一の小事業を起すに足らず、是又座して黄
河の清を待に異らず、若し又尋常小學校其他の費額に立用するとせんか、學校其性質を異にするは書籍器械は、過
半其用に適せず、校舎の如きも亦幾分の改築を要すべし、况や此目的に由て、甲地の人民より募集するの資金を移
して、彼目的に於て乙地に施用するは固より其當を失ふに於ておや、但望む所は地方教育に篤志なる其人あつて、
少しく之を補給するの慈仁を得ば、依て以て目的を達するを得べき而己、夫れ此學校明治五年十一月創立にして、
長岡洋學校と稱せしより今茲十九年迄十五年間盛衰攣遷ありと雖も、其間此校の生員にして、出でゝ都會大中學を
卒業する者種々の學稜に在學する者、種々の業務に就く者、無慮百數十名に下らず、是其基礎を此校に得る者なし
と謂ふべかず、然れば此校之を既往に徴して全然益なしと謂ふ可らず此校を保存するの議亦已むを得ざる所以なり、
今此旨趣に由て假に其費目の支出收入の概算を立て、將に附記して以て參考に供す、是を第一の目的とす、雖然財
政困難・民費多端の今日に在て有志其人を得ずして資金を補給する能はざれば意に是目的を達するを得ず、此に於
てか他の補給を仰がず、獨り在來の資金の利子を以て、之を維持するの方案無かる可らず、果斷を以て諸費目を減
少し、百事簡易切實を旨とし、地方學生を勸誘して一社を結び、業務の餘暇を以て、各其得る所の科目を受持たし
めば、亦以て地方教育の一端を補け義務を執るに足る者無きに非ず、猶廢止に勝る事萬々なり、其資金の充備せざ
るを以て後來の衰替を過慮するは際限あらずと雖も今此目的は有志の地方に報る義務を基として、義塾を立るに在
れば、此主義の貫徹する間は、飽迄も貫徹すべし若し一人も之を賛する者無きの時は即此義塾の亡る時なりとあき
らむべき而己、又此旨趣に由て假に此費目支出を概算し、別に之を附記して參考に供す、是を第二の目的とす、其
詳細の條目に至ては筆録に遑あらず一々議員當局者の裁定に任ず、
明治十九年十月
田中春回
長尾平蔵
19
20
倉信武が明治19年に設立した静岡高等英華学校のことと思われる。
佐
現在の広島県立商業学校である。
− 54 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
小坂部勇吉
石井重吉21
川上淳一郎
廣井一
解説
元々藩校であった国漢学校が明治5年に長岡小学校として再出発するのだが、以前に教えていた内容とレベルに
極端な差があり、翌年には旧藩校の教師は長岡洋学校として分離する。その後明治9年に長岡学校に変更するのだ
が、県に1つ以上の中学校を認めない、すなわち県の補助がないことをきっかけに他の地域、例えば小千谷や高田
は学校運営から撤退するのだが、国家の出先機関である県庁と旧長岡藩士の戦いは県立中学校になる明治29年まで
続く。
この私議が出されたときは、新潟県によって中学校化することが認められなかったため学校を維持するための意
見書である。最も困難であったのは運営資金の確保であり、この頃キリスト教系の学校(北越学館)による買収提
案や後の北越鉄道設立で広井と協力するようになる山口権三郎からも買収提案がなされている。北越学館の提案は、
新潟県に仏教の信者が多いこと、急速に欧米の文化を取り入れたことへの反動もあって、感情的な反応もあったよ
うだ(新潟県プロテスタント史研究会編1990)
。山口権三郎の提案を断った理由については定かではないが、山口
は当時実業学校を作ることを訴えており、教育方針の違いが原因となっている可能性が高い。
いずれにせよ、資金のめどが全く立たない状態での断りだったため、すぐに行き詰まるところとなった。結局、
三島郡と古志郡の町村が出資する組合による運営形式をとることとなる。
史料にもあるように、教員は原則無給であったため教員の確保が課題となった。実際に他県出身の教員は数カ月
で抜けていき、特に英語の教師の確保が問題だったようだ。この経緯は「長岡教育史料」に詳しい。
地元出身の教員は、例えば広井一は越佐新聞の記者、川上淳一郎は石油会社などと、他の職業と兼務しながら勤
めていた。さながら長岡学校が異業種交流会のようになっており、ここでの人脈がその後の北越鉄道や長岡銀行の
創設に大きく影響するところとなる。
これと同時に広井一は長岡社ともかかわっていくことになる。長岡社は、貧窮士族の奨学を目的としていた。広
井は平民階級出身であるが、長岡学校に学生としても教員としても関わっていることから、この構成員として参加
しており、士族階級と太いパイプを持つきっかけとなっている。
Ⅳ 越佐毎日新聞
大橋新太郎22から広井一への手紙(176-178ページ)
拝啓、秋冷の候愈よ御清康の山奉賀上候、過般は保安條例御解禁にて出京、御自由の段御満悦の次第と存じ候、
着京以來塒々御訪問も可致の處、久しく御疎遠に打過ぎ却て過日來爾度、御芳翰を辱ふし、疎慢の程慙謝の至に御
座候。
着京以來、隔月位には一回宛歸省の心意に候處、意外の多忙と相成り、殊に近來は雑誌出版の外に書籍の出版相
始め候處、一層繁劇を加へ、實に寸暇も無之、本月も大日本織物誌・通俗政治演説・大日本用文大全の三冊印刷中
に御座候、來月も歴史・經濟・地理の三書出版の績きにて、目下編纂中に御座候次第にて、彼是御疎遠に相成り候
段不惡御承引下され度候、小宮山・小池其他へも宜敷御鳳聲下され度候。
新聞も、松井氏執筆の際よりは、御盡力にて地方の人情と適切仕り候間、追々紙數も増加仕る事と存じ候、今回
改良意見案御照介相成り、小生に於ても賛成の項目も有之候へども、近日中に拙父歸宅仕り候間、其節確と取極め
可申候、新聞印刷洋紙は本日出帆の汽船にて遞迭仕り候分は、先般の分よりは上等に御座候。
21
22
石井重吉は、長岡藩士で維新後長岡洋学校と長岡学校で教員を務めた。
大橋新太郎は、大橋佐平の息子で東京瓦斯会社取締役、大日本麦酒取締役、衆議院議員、第一生命保険設立、日本書籍設
立した。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
新潟の諸新聞追々改良仕り候間、越佐新聞改良も是非にも實施の場合と和成り候間、小生に於ても改良の考案も
有之候へども、何分前陳の如く小生も時々歸宅仕り候事も出來不申候間、此際断然有志諸君へ譲渡候心得にて、委
細野澤氏へ申上候間、何卒御協議の上、譲受後の組織、其他御考案御申越下され度希上候。
尤も先般拙父より行違ひの爲め彼是申上候へども、別に存意有之候次第にも無之、今般愈よ譲渡と次心仕り候用
相成るべくは、拙父出立前に御見込詳細御打合せ下され候はゞ、至極好都合に御座.候、精々双方便釜の様御相談取
極め申し度候、尤も確定仕る前は他へ御話無之様希上候、左も無之候ては却て故障出來致し不都合に候、右御含み
下され度候。
大橋書店其の他の事につき種々御配慮下され難有奉鳴謝候、右も新聞の一條確定次第、更に改新可仕候、先は右
御回報迄、此の如くに御座候。
明治二十一年十二月十二日
大橋新太郎拜
廣井一様
侍史
(186-187ページ)
前記の如く、清水・大橋両人の資力は最早頼みとするには足らぬ。此處に於て君は、他の有志と圖つて、再興の
道を講ずるより外途は無いと、清水に因果をふくめ、九月十四日有志大會を開いて、其の議決に一任すべく、君の
名を以て同志の會合求めた。然るに當日の來會者は僅かに小林清(君の妹婿)一人だけであつた。此の状態に君は
痛く失望し、君は維持を斷念せんかとも考へたのだつたが、翠十五日莫逆の友、川上淳一郎が來岡したので、君は
飛び立つ如くに喜び、同君と呉服町の青善に會して、これが善後策凝義した。數刻に亘る熟磯議の結果、更に廣く
縣下の同志に訴へてこれを維持すると云ふ方針を定めた。依つて君と川上は翠十六日、久須美秀三郎23(前社長)
を訪ふべく、先づ與板に同志三輪潤太郎24を訪問して、その賛成を求め次いで小島谷に久須美を訪れて來意を告げ
た。久須美老は最の選擧戰に失敗したが、毫の失望の色なく、選擧の勝負は一時の出來事だ、新聞事業は永遠の大
事であるから、失望することなく、初志に向かって邁進すべきだ。自分も進んで一員となり、賛助すると大に君等
を激勵し、尚ほ南蒲原の澁谷初次郎25を初め有力者の勸誘をも引受けてくれた。これに力を得て、君等は古志・三島・
北魚沼・南蒲原・刈羽五郡の有志者に檄を飛ばし、その第一回協議會を常盤樓に開會し、次で十月十三日・十四・
二十・二十一日の數回協議を重ねた結果、長岡日進社を組織し、資金を據出して清水・大崎両人より越佐新聞を譲
り受くる事を決した。この會合に出席した人々は、久須美秀三郎・三輪潤太郎・澁谷初次郎・野本松二郎・二國萬
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須美秀三郎(1850-1928)は、旗本知行所代官の子として生まれ、柏崎県の第二大区副大区長を務めた。日本石油を設立
久
し、長岡銀行、与板銀行、寺泊銀行、北越鉄道の取締役を歴任した。明治12-15年、19-22年に県議会初当選後副議長、同
35年からは衆議員となる。
三輪潤太郎(1865-1940)は、与板町の豪商大坂屋の11代目当主であった。与板銀行を設立、キリスト教系の学校北越学館
を支援し、明治26-31年新潟県議会議員、31-35年衆議院議員を務めた。立憲改進党所属。
渋谷初次郎(1861-1904)は、見附の地主階級に生まれ金融会社広融会設立、北越鉄道の発起人農工銀行の大株主で、明治
26-28年新潟県議会となった。
二國萬次郎(1861-1913)は、帝國鉱業の取締役と明治23-30年新潟県議会議員、北越新報を歴任。
宇宙太は、明治12年村議、戸長、村長、23年長岡学校委員、養蚕業に貢献した。
大塚益郎は山口権三郎の実弟で、酒造業、県議、殖産協会の会員で、小千谷銀行の取締役をしていた。
渡邊萬治(1851-1922)は、公立病院魚沼郡病院設立、製糸改良共同組合設立、明治16年-24年新潟県議会議員を務めたのち、
北海道へ移住した。
大 崎二六郎(1870-1925)は、明治33-39年に新潟県議会議員を務める。後に栃尾町長を務め栃尾鉄道の敷設、電話架設、
織物業の振興に努めた。
土田元郎は、東北石油(監査役)、帝國鉱業(監査役)、越見倉庫(支配人)のあと、織物用機械の製作に乗りだしたが失
敗した。東京日日新聞 1913.9.24-1913.10.7(大正2)
近藤衛(1849-没年不明)は、地主階級の子として生まれ明治30-32年に新潟県議会議員を務める。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
次郎26・小林宇宙太27・大塚益郎28・深井清一郎・渡邊萬治29・大崎二六郎30・土田元郎31・廣川幸四郎・近藤衛32の諸
君と川上淳一郎並びに君とであつた。
解説
広井一は教員時代に勤務していた越佐新聞を買い取ることになる。そのときの手紙である。ここにある保安条例
とあるのは、広井一が教員1年目のときに立憲運動で皇居に陳情書を出したため、東京から追放されたことを指し
ている。川上淳一郎とともに、東京と長岡で政治活動を行い、その活動手段に新聞を選んだ。当時、広井一は22歳
で血気盛んな時期であったとはいえ、現役の教員が起こした事件としてはかなり注目すべきである。この事件を田
中春回に報告しているが、不問にふせられたようだ。
というのも、長岡学校が先に述べたように県の補助が受けられないことをきっかけに反中央政府的側面が強く、
教員も学生も和同会を通じて政治活動を行っていたため、信念を持って言動一致をもって行ったことであるから咎
められるべきではないという風潮だったようである。また、ランプ会の後を追うような形で殖産協会という政治を
中心とするグループが形成され始める。ここでの新聞と学校での活動が表出した感がある。
この後、明治20年ごろにはかなり石油が産出するようになり、その産出量により石油会社の株価は乱高下した。
その情報を伝えるメディアとして長岡新聞は大きく影響を与える存在となる。支局は新潟県内とどまらず、東京・
大阪、前橋、高崎、桐生、沼田と広がった。
しかし、当時の新聞を読むと石油の噴油を知らせる記事があっても、翌日には何も無かったかのように報道され
ないことがあり、当時の石油関連の記事の信憑性は疑わしいものもある。
Ⅴ 長岡銀行設立(231-232ページ)
日清戰役後、日本の經濟状態は頓に勃興し、金融機關の働きを待つ必要を漸く感ずるに至つた。越後でも故山口
權三郎・久須美秀三郎・大塚益郎・澁谷初次郎・澁谷善作33の諸氏が時代の波に乗つて、長岡に一銀行を設立する
の計書を立てゝゐた。
明治二十九年の春、臨時縣會を終り、長岡へ歸つた時、あだかも山口・久須美・大塚の諸氏が銀行創立の相談中で、
君と同じく縣會から歸郡の途次、長岡へ立寄つた三輪潤太郎・廣川莊次(二の間違いか)34・長谷川儀左衛門35・星
名佐藤次(治の誤りか)36・川上淳一郎・鈴木義延37の諸氏にもこれが賛成を求めた。君は常時の經濟社會が潑刺と
して活氣付き、金融機關の設備が益々大切の時機となつて居るのに鑑み、誠に時機を得た計畫であるとして、欣然
設立に向つて、盡力すべきことを誓ひ、他の有志をも勸誘する意志を表明し、發起人の相談會に出席した。かくて
發起人としての持株を申込み、密接なる關係を新銀行設立に向つて結び、その創立に封し盡力することゝなつた。
新銀行は「長岡銀行」と稱し、資本金五十萬圓を以て、設立すべく、先づ定欺の作成、出願の手續き、株式の募
集等、種々の事務あるが故に、發起人中より常務委員を定むるの必要があり、君及び澁谷善作が、この常務委員に
擧げられた。そこで澁谷は登起の事務打合せが大休すむや、銀行事務見習として上京、安田銀行に於て、見學する
ことゝなり、君は長岡に止まつて、川上淳一郎と共に、定欺の基礎、事業目論見書等を作成し、これを大藏大臣に
提出し、訂正等の注意を受くる時は、不都合の箇條を訂正し、且つ同省ようの照會に封して、回答する要務に當る
と共に、發起人の協議會、株式の申込み決定、拂込金通知等の諸務に當つてゐた。
かくて長岡銀行設立の認可があり、明治二十九年十一月十日開業の運びに至つた。君は創立事務擔當者の一人と
33
34
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36
37
谷善作(1864-1931)は、長岡学校を卒業後慶応義塾に進学し、長岡女学校の校長を務め長岡銀行設立にかかわり頭取と
渋
なる。その他、日本石油、北越鉄道、北越製紙の設立にかかわり、長岡市議会議長、長岡商工会議所会頭を歴任する。
廣川莊二(1850-1903)は、地主階級に生まれ副大区長を務め、明治28-30、32-36年新潟県議会議員を務める。
)
長谷川儀左衛門(1851-1925)は、地主階級に生まれ明治26-30年にかけて新潟県議会議員(改進党所属)
、三島郡会議員、
村長を務める。
星名佐藤治(1850-1926)は、地主階級に生まれ十日町銀行の取締役を務めていた。明治24-25年、36-40年県議会議員(進
歩党所属)を務める。
鈴木義延(1862-没年不明)は、長岡学校教員ののち明治28-36年にかけて新潟県議会議員(改進党所属)を務め、後に村
長となる。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
して、又將來實業界に身を投ずるも可なりとの考へから、創立と同時に同行入り常務を執ることとなつた。從つて
越佐新聞社の要務霧を親しく見ることが出來なかつた爲め、明治二十九年の暮から、同新聞の常務を辭するに至つ
た。
解説
これも長岡学校を中心とする人脈の広がりを表したものである。長岡学校は明治32年に県立中学校になるが、こ
の時代まで来ると長岡学校は、教員よりも長岡学校の卒業生によって産業クラスターの広がりが始まる。
ここで注目すべきは、長岡学校が倒産危機にあったときに買い取りを提案した山口権三郎が長岡銀行の設立にか
かわっている。また、山口は初代新潟県議会議長であり、広井一は県議会に初当選している時期でもあり、協力関
係を結びやすい状態であったろう。
当時、中越の中心的な銀行は六十九銀行であるが、これらの運営者は元教員あるいは旧藩士である。これとライ
バル関係となる長岡銀行を明治維新以降に教育を受けた新世代が設立し、これ以降運営していくところとなる。
参考文献
新潟県議会史編さん委員会編(2001)
『新潟縣議會史(明治篇一)
』
,新潟県議会
新潟県議会史編さん委員会編(2002)
『新潟縣議會史(明治篇二)
』
,新潟県議会
新潟県プロテスタント史研究会編(1990)
『新潟女学校と北越学館:明治教育秘史』
,新潟日報事業社
長岡市1998『ふるさと長岡の人びと』長岡市
長岡市史編集委員会近代史部会編集(1991)
『三島億二郎日記』
,長岡市史双書No.17,長岡市
長岡市史編集委員会近世史部会編(1992)
『長岡藩政史料集(4)長尾平蔵収集長岡藩史料』
,長岡市
長岡市立中央図書館古文書資料室編(2004)
『再興長岡藩史料集』長岡市史双書No.43,長岡市
北越新報社編(1917)
『長岡教育史料』
,北越新報社
謝辞
この研究は平成22年より開始した長岡大学松本准教授との共同研究の成果です。本紙面をお借りして発表できる
ことに、心より感謝いたします。
− 58 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
〔地域の知的交流拠点の紹介〕
新たな「学び」と「交流」の施設
まちなかキャンパス長岡が目指すもの
長岡市市民協働部生涯学習文化課
Ⅰ はじめに
長岡市では、平成18年3月に中心市街地における都市再生整備計
画を策定しました。
その中で中越大震災からの復興を図りつつ、郊外分散した都市機
能のまちなか回帰の促進と、防災性、利便性の高い中心市街地を創
造することを目標に掲げました。
シティホールプラザ
アオーレ長岡
この目標を実現する施策のひとつとして、
まちなかに
「学び」
と
「交
流」をキーワードにした地域交流センターを整備することとしまし
た。
これが、
「まちなかキャンパス長岡」です。
長岡はこれまで「米百俵」の精神を脈々と受け継ぎ、様々な分野
で人づくりに積極的に取り組んできました。これからの将来を支え
る人材を育て続けることは、長岡の使命であり、まちづくりの根幹
旧大和
に関わる大切なことです。
また、自らの資質を高めたい、人のために役立ちたい、健康で心豊かな生活を送りたい、こうした市民の想いを
行動に変えるエネルギーの集積は、まちづくりの大きな推進力になっています。
さらに、合併により大きく広がった市内各地域間の文化・学習面の交流が活発になることで一体感の醸成に役立
ち、市内外や海外の人との交流に増加によって、人と人の環が広がり、そこから新たな可能性が生まれます。
まちなかキャンパス長岡は、市民一人ひとりの様々な力の向上と、未来につながる人づくりを推進し、新たな「学
び」と「交流」の拠点となることを目指し、平成23年9月にオープンします。
Ⅱ フロア配置
まちなかキャンパス長岡は、大手通中央東地区再開発ビルの3階、4階及び5階の一部です。様々な学びの形態
に対応できるよう、多様な設えを備えています。
(1)3階・・・学びを広げ、学びの楽しさを体験するフロア
比較的広い大きさの部屋や、体を動かせるフローリング
の部屋、防音機能がついた部屋などを配置し、様々な学び
を体験できるフロアです。
− 59 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
(2)4階・・・出会い、ふれあい、交流するフロア
まちなかキャンパス長岡の玄関にあたるフロアです。
交流広場はオープンフロアで開放感があります。談話コ
ーナーやインターネット利用コーナー、音楽鑑賞コーナー
などの各コーナーがあり、待ち合わせなどにも利用できま
す。
(5)5階・・・学びを深めるフロア
比較的少人数向けの部屋を中心に設け、学びや交流をよ
り深めるフロアです。
Ⅲ まちなかキャンパス構想検討の経過
平成19年度に、まちなかキャンパス(以
下通称「まちキャン」とします。
)がめざ
す姿や特色を示す「基本構想」
、及び取り
組みの方向や運営・利用のあり方、フロ
ア配置を示す「基本計画」の策定を目的
として、市民や高等教育機関関係者から
なる「まちなかキャンパス連携推進会議」
を設置しました。
連携推進会議は、平成19年度から平成20
年度までの2ヵ年に渡り、計8回開催し、
平成21年3月には、まちキャンをどのよ
うな施設にしていくべきか、どのような
機能を備えるべきか、施設の実施設計を
見越した中で、可能性や夢を盛り込んだ
「まちなかキャンパス基本構想・基本計画」
を策定しました。
その中では、まちキャンの特色を、①3
大学1高専等の連携による新たな学びと
交流の場、②各高等教育機関の独自色を
活かす活躍の場、③市民が自発的に学び、
交流する場、④まちなかの他の施設の機能
との複合効果により、便利で新しいサービ
スを提供する場の4つとし、それらの実現
に向けて取り組みの方向を検討しました。
この基本構想及び基本計画を踏まえな
がら、平成21年6月に「まちなかキャンパ
ス事業運営検討委員会」を設置し、具体的な事業や運営形態などについての検討を始めました。
− 60 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
この委員会での検討を続けてい
く中で、柱となるべき事業の姿が
見えてきました。
柱となる事業とは、すなわちま
ちキャンを象徴する事業です。そ
れをまとめたものが「まちなかキ
ャンパス構想図」です。
まちキャンは、市民、NPОなどの市民団体、3大学1高専などの高等教育機関等と連携して、
「市民協働によ
るひとづくり・ものづくり・まちづくり」を担う人材の育成に力を注ぎます。
そのため、
体系的な学びを提供できるしくみを考えました。それが「まちなかカフェ」⇒「まちなか大学」⇒「ま
ちなか大学院」です。
「まちなかカフェ」は、まちキャンの学びの入口です。60分から90分程度の単発講座を年間50回程度開講します。
学ぶことの楽しさを感じていただけるように、オープンスペースで気軽にリラックスした雰囲気を演出します。喫
茶店で、お茶を飲みながらおしゃべりするように学ぶ。今までにない新しいスタイルです。
つづく「まちなか大学」は、4回から5回の連続で、系統だってまとまった知識を得られる講座です。年間10講
座程度実施し、受講者が目的意識を持って自ら考えるきっかけづくりを目的とします。中央公民館が所管していた
「ながおか市民大学」が、
平成23年度からバージョンアップしてまちキャンの「まちなか大学」に生まれ変わります。
そして「まちなか大学院」です。これは、まちなか大学の内容をさらに深めて学ぶ場です。一方的に講義を受け
るのではなく、調査、研究、フィールドワークなど、少人数のゼミ形式で、参加者が自ら課題を見つけ実践的に学
習する場です。
まちなかカフェ、まちなか大学、まちなか大学院のメニューはすべて「ひとづくり」
「ものづくり」
「まちづくり」
というジャンルに分類されています。
まちなか大学では「学科」に、まちなか大学院では「専攻科」に所属することになり、受講者には、学生証が発
行されます。学生証に特典を付与し、まちキャンへの帰属意識の醸成を図ります。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
平成23年度に開講を予定している講座は次のとおりです。
(今後の調整により変更する場合があります。
)
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
施設が9月オープンのため、初年度は約半年間です。そのため、各事業も通年の約半数の実施を予定しています。
なお、
「まちなか大学院」については、平成24年度から開講予定です。
これらの体系的な学びの先には、各高等教育機関が実施している公開講座や科目等履修制度などを受講し、学問
として本格的に学ぶ場があります。
また、
「まちづくり市民研究所」で地域課題の解決策としての政策提言を行うなど、市民がまちづくりについて
考える場づくり、成果を反映できるシステム構築を行い、公私協働の新しいまちづくりの取り組みに参加する人材
の育成を継続的に図ります。
さらに、平成24年1月にオープン予定の市民協働センターと連携し、学びの場と実践の場が循環するプログラム
を組み立てることで、より実践に即した人材育成を行い、市民協働を推進します。
Ⅳ 施設の名称
当初、
「まちなかキャンパス」は、施設の名称ではなく、この施設で展開するソフト事業の名称でした。
そもそも、この施設は、国土交通省の補助金等で整備するものであり、前述したとおりその性格は「地域交流セ
ンター」です。
しかし、
「キャンパス」という言葉が教育施設のように誤解される可能性があるため、その施設名称について議
論がされ、地域交流センターと認知された上で、広く市民に支持された名称にすべく、市民投票により決定するこ
とになりました。
候補となる名称は、まちなかキャンパス事業運営検討委員会委員から募集し、名称審査会で4点に絞り、その4
つの候補について、市民投票を行いました。投票箱を各市有施設等計58箇所に設置し、電子投票も行うなど、積極
的な呼びかけを行った結果、1,274票の投票がありました。
その後第2回目の名称審査会を経て、
「まちなかキャンパス長岡」に正式決定しました。中心市街地に位置する
ことを示す“まちなか”と、市内の大学・高専が関わっていることを示す“キャンパス”を含んでいること、そして何よ
りも市民投票により453票の最高得票数を獲得し、充分に市民の支持を得ていることから、この名称が選ばれました。
Ⅴ ロゴマーク(ロゴタイプとシンボルマーク)
正式名称に続き、まち
キャンを象徴するロゴマ
ーク(ロゴタイプとシン
ボルマーク)が決定しま
した。これが、今後まち
キャンの目印となりま
す。
このロゴタイプとシン
ボルマークは、全国規模
で一般公募を行いまし
た。 公 募 を す る こ と で、
より様々なアイディアが
得られることと、人々の
目に触れる機会を創出す
ることでのPR効果を狙
いました。
平成22年8月1日から
9 月30日 ま で の 期 間 で、
全国から214点(応募者121人)の応募があり、ロゴマーク審査会による審査の結果、ロゴマークが決定しました。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
○作品に込めた思い(作者記載)
シンボルマークは【学び】
【交流】
【伝統】の3つの要素を”米百俵の精神”から米俵の重なりに見立てて表現。
色は日本の伝統色である蒲公英色(たんぽぽいろ)を用いて、”未来”や”希望”の意味がこめられています。また、
ロゴタイプは読みやすく、親しみやすいデザインを目指しました。
”まちなか”でさまざまな人やモノ・情報が出会い交わり、未来につながる「新しいサイクル」が生まれていく
様子をデザインしました。
採用されたのは、新潟市在住のデザイナー 関川卓也さんの作品です。
審査員の意見としては、
・長岡の故事“米百俵”の象徴である米俵を現代的にアレンジしており、「学び」をキーワードとした施設にふさわ
しい。
・シンボルマークとロゴが合っている。
・シンボルマークらしいデザインで、しっかりした組織に見える。
などがポイントでした。まさにまちキャンを表すのにふさわしいロゴマークだと思います。
Ⅵ まちなかキャンパス長岡の運営組織
まちキャンの施設名称、ロゴマーク、事業などが決まっていく中で、この事業を運営していくのは誰なのか、と
いう議論が起こりました。
施設自体は、長岡市が保留床を取得して整備する市有施設です。当然、その中で展開するソフト事業についても
市の事業として長岡市が運営していくことも考えられました。
しかし、市の事業であるがゆえに様々な制約が加えられること、また財政状況からも相当な縮減が見込まれるこ
となどから、広がりを持った自由な事業展開ができないことが想定されます。
特に民間との協賛などのコラボレーションに制約がかかることが、事業の多彩さや独自性に大きく影響します。
そこで、まちキャンのソフト事業の運営を担う任意組織を立ち上げることとしました。この任意団体は、市民、
高等教育機関、企業、行政が関わって、柔軟性を持った組織運営を行うことを使命とします。やってみて、うまく
いかなければより良い方策に変える。こうでなければならないという堅苦しいきまりはないものです。
しかし、まちキャンが目指す信念を損なわないように、相応のチェック体制は必要です。組織運営の柔軟さを心
がけつつ、対外的な信頼を獲得できる組織立てを考えました。
まず、組織の核となる存在である、長岡市と3大学1高専(長岡技術科学大学、長岡造形大学、長岡大学、長岡
工業高等専門学校)の連名による設立趣意書により、その目指す方向を確認しました。
3大学1高専とは、平成19年度に設置した「まちなかキャンパス連携推進会議」
(~ 20年度)において、当初か
らまちキャンの骨組みを一緒に検討してきました。引き続き、21年度設置の「まちなかキャンパス事業運営検討委
員会」
(~ 22年度)においても各校から委員を推薦いただき、まちキャンの特色である、
「3大学1高専等の連携に
よる新たな学びと交流の場」
、
「各高等教育機関の独自色を活かす活躍の場」を創出するために、タッグを組んで事
業の検討を進めています。
さらに、現在郊外に点在している3大学1高専の教員や学生からまちキャンを利用してもらうことで、中心市街
地に新たな賑わいを創出することができます。そこでの様々な出会いが新たな交流を生み、学生が実践を学ぶ地域
貢献の場や、教員と産業界との交流による研究融合の場、そして、3大学1高専の存在をまちなかでPRする場に
なれればと考えています。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
この組織の名称は「まちなかキャンパス長岡運営協議会」です。具体的な組織の姿を、次のように考えています。
「まちなかキャンパス長岡」運営協議会(案)
顧問
学長
名 簿
長岡市長
役員会
顧
問
事務局
長岡技術科学大学 学長
長岡造形大学 学長
長岡大学 学長
長岡工業高等専門学校 校長
運営委員会
学
長
顧問が選任
会長(学長)
広
ェ
報
ま
ち
な
か
カ
フ
ま
ち
な
か
大
学
ま
ち
市
な
民
か
研
大
究
学
所
院
・
学
生
交
流
イ
ベ
ン
ト
産
学
交
流
事
業
共
通
単
位
講
座
事
業
役
員
会
副会長
運営委員会委員長
運営委員会副委員長
監事
運
営
委
員
会
事
務
局
運営委員会委員長
運営委員会副委員長
運営委員
常勤:長岡市
非常勤:3大学1高専
運営財源は、3大学1高専及び長岡市からの負担金等の出資金、そして、受益者負担を原則とした参加料、企業
協賛金等です。原則として、運営にかかる費用を①市民(企業を含む)
、②3大学1高専、③長岡市が3分の1ず
つ負担します。この三者にとってメリットがあるような事業展開をしていこうという考え方によるものです。
組織運営には柔軟さを心がけつつ、バックボーンがしっかりしていることを示すため、顧問に3大学1高専の学
長及び校長、そして長岡市長を据えます。スポンサーとして、ご意見番として、タッグを組んでいくことを表して
います。
そして、組織を構成するもうひとつの大きなファクターとして、市民の姿があります。利用者としてだけでなく、
各分科会のコアなメンバーとなったり、自分が楽しいと思う事業を企画し、運営する事業コーディネーターやボラ
ンティアなど、その関わり方は様々であることが想定されます。
関わる人たちが楽しめる施設であること。その先に、人と人との交流が生まれ、環が広がります。様々な人から、
様々な形で関わっていただくことで、まちキャンが皆さんに愛される施設に育っていけるものと期待しています。
この運営協議会については、平成23年4月設立に向けて今後更に具体的な検討を進めます。
Ⅶ まちキャン事業
まちキャンでは、構想図にある柱となる事業など、各分科会が実施する事業(まちなかカフェ・まちなか大学・
まちなか大学院、学生交流イベント、産学交流事業、共通単位講座事業、広報・PR事業、まちなかキャンパス会
員特典事業、まちづくり市民研究所など)のほかにも、市民や企業、団体からの提案型、提供型の事業を積極的に
行います。
(1)企業提案型冠講座
まちキャンの趣旨に賛同した企業、団体が、まちキャン事業として実施する事業です。一般市民向け公開講座や
公開授業、企業による社会貢献事業などです。
(2)市民プロデュース事業
まちキャンが実施する事業の一環として、地域に根ざした学びを推進することをめざし、NPO、ボランティア
団体、個人などがまちなかキャンパス長岡と協働して行う市民向け講座です。市民の自己実現や目的達成のための
活動を支援します。
これらは、事業の目的、内容、実施形態によって、受け皿となる分科会や実施方法を決定します。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
まちキャンは、意欲と使命に満ちた提案を生かせる仕組みづくりを推進します。
Ⅷ まちなかキャンパスのPR戦略
まちキャンは、長岡市において都市再生整備計画に掲載されている主要事業ではありますが、その概要や具体的
な姿、何が行われる施設なのかがわかりにくく、なかなかその名称が浸透していません。
ただ淡々と事業の検討を進めているだけでは、市民の皆さんに期待してもらうことも、興味を持って関わっても
らうことも出来ないと気付きました。
まちキャンは、大人から子どもまで世代や地域を越えて利用できる「学びと交流の施設」
。多くの人々が集まる
ことに意味がある施設であるといえます。そこで、いかに市民の皆さんにまちキャンのことを知っていただくか、
広報戦略が大変重要になります。
では、今現在まちキャンのことを知らない方々に伝えるにはどうしたら良いか、まず考えたことは「普通に生活
する中で、自然と目に入るような広報」にしなければならないということです。それには、市政だよりや長岡市ホ
ームページ等基本的な広報に加え、もうひと工夫が必須と考えました。
(1)まちキャン通信
まちキャンのオープン前から、準備状況を知らせ、市民の期待を高めていくため、まちキャン独自の広報紙であ
る“まちキャン通信”を発行することにしました。
・・・・・・・・
企 画 に あ た り ま ず 考 え た こ と は、 い わ ゆ る“ 市 役 所 ら し く な い も の に し た い”と い う こ と。 ま ち キ ャ ン
は、中心市街地にできる新しい施設であり、カフェスタイルの講座、3大学・高専が一堂に会したPRコーナー、音
楽鑑賞コーナー等、若々しく洗練された要素を持ちます。また、従来の市民講座には若い世代の参加が少ないのが
現状ですが、このまちキャンは若い世代にも積極的に利用してもらいたいとの思いがありました。そこで、どこか“新
しい”“スタイリッシュ ”と思わせる広報紙にしたいと考えました。
かくして“まちキャン通信編集部”を結成、試作品を数パターン作り、検討を重ねて産声を挙げたのが平成22年10
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
月に発行したA 4両面刷りの準備号1です。必要以上に華美にせず、シンプルかつ遊び心のあるレイアウトとし、
まちキャンの情報を丁寧に伝えるための“読ませる”スタイルとしました。市有施設や市内総合病院、教育機関、主
な書店等、市内の随所に設置したほか、10月23日(土)
、24日(日)に開催された長岡デザインフェアで来場者に配
・・・・・・・・
布しました。狙いどおり、“市役所らしくない”“目を引く”という驚きの反響も寄せられ、満足のいく出来栄えとなり
ました。
まちキャン通信は、平成22年10月、12月、平成23年2月、4月と4回の準備号を発行後、建物竣工に合わせて6
月に創刊号を発行する予定です。まだ始まったばかりのまちキャン通信ですが、内容に工夫を凝らし、次号を楽し
みにしてもらえるような広報紙として定着するよう育てていきたいと思います。
(2)“まちなか”での広報
まちキャンは、通りがかりに気軽に立ち寄れる施設であるため、まさに大手通を通りがかる方々に向けた広報を
考えました。
①フェニックスまちかどビジョン・・・NPO法人復興支援ネットワーク・フェニックス様により平成22年8月大手
通十字路に設置された大型街頭ビジョン。新宿アルタビジョンと同等の大きさを誇り、日本海側最大規模だそうで
す。このまちかどビジョンに平成22年12月、まちキャンのコマーシャル放映を開始しました。
②工事壁の活用・・・平成22年12月より、まちなかキャンパス長岡が入るビル「フェニックス大手イースト」の工事
壁に、中越防災安全推進機構様のご協力によりまちキャンのロゴマークを掲載しました。
↑上が3~5階に入るまちキャン、下が
↑大手通向かい側から見た様子。
2階に入る震災アーカイブス・メモリア
ルセンターの広告です。
このほか、ながおか市民センターの地球広場ショーウィンドウや、旧大和カーネーションプラザのショーウィン
ドウを、まちキャンのPRに活用予定です。
(3)広報ツールのトータルイメージ
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
まちキャンオープンに向けて、まちキャン通信のほか、ホームページ、施設パンフレット、ポスター等々、様々
な広報ツールが今後必要となってきます。それらを縦割り的に別々に考えるのではなく、トータルでデザインし、
統一したイメージを打ち出していく必要があると考えました。まちキャンに合った色や雰囲気、ターゲットを考慮
し、広報ツール全体として最大限の効果を生み出すよう今後検討していきます。
上記のほか、大手通のイベントに合わせてのPR、オープン前の内覧会、オープニングイベント開催を企画してい
ます。
その他、民間情報誌への掲載、新聞・テレビ・ラジオ等報道機関への情報提供を積極的に行うほか、大手通商店街、
協賛企業に向けての周知等も行う予定です。
Ⅸ まちなかキャンパス体験講座
まちキャンで実施する事業の中でも、まちなかカフェ講座は新しいスタイルが特徴的な事業です。そのスタイル
で試験的に講座を開催してみてはどうかと考えました。狙いは、講座を実際に実施してみて、その反響や反省点な
どを、事業を組み立てる際の参考にしたいということ、いわばサンプルです。そして、
「まちなかキャンパス」と
いう言葉をPRする機会にしたいという想いがあります。そのため、できるだけ人が集まるイベントや場所で、参
加者はもちろん、通りがかりの人にも目にしてもらえるような機会を捉えてやってみることにしました。これは、
まちキャンのオープンの日まで何回かの積み重ねが必要です。
そこで、その第一段を、長岡デザインフェア(於:長岡造形大学)の催しのひとつとして開催しました。
まちなかカフェ講座では、お茶を飲みながらリラックスして受講できること、受講者が講師と気軽にコミュニケ
ーションを取れること、通りがかりの方も立ち寄れることをPRポイントとしています。
近年、全国的にも「サイエンスカフェ」が実施され、カフェスタイルの講座が浸透してきてはいますが、長岡に
おいては新しいスタイルの講座といえます。私たち主催者にとっても、カフェスタイルの講座を行うのは初めての
ことであり、試行錯誤しながらの開催となりました。
(1)講座内容の決定
デザインフェアでの催しということで、デザインに関する内容で以下2講座を実施しました。どちらの講座も、
ながおか市民大学の講師経験があり、市民向け講座に定評のある方を講師に選びました。
①「デザインとして考える天気記号の世界」
日時:10月23日(土)午後2時~3時 講師:日本気象予報士会理事・内藤雅孝さん
定員:20名
②「見て触れて感じるプロダクトデザインの世界」
日時:10月24日(日)午前10時~ 11時
講師:長岡造形大学助教・金澤孝和さん
定員:20名
また、まちなかカフェは有料での実施となるため、今回の体験講座ではコーヒー代として各講座200円を頂戴す
ることにしました。
(実際のまちなかキャンパス長岡まちなかカフェでは受講料500円の予定)
(2)ファシリテーターの設置
カフェ講座のPRポイントである「講師と受講者のコミュニケーション」が活発なものになるよう、両者の架け橋
となる“ファシリテーター ”を設けました。講座内容を鑑み、2講座のうち「見て触れて感じるプロダクトデザイン
の世界」において、長岡造形大学の准教授である吉川賢一郎さんにファシリテーターを依頼しました。
(3)会場レイアウトの検討
多くの方の目に留まるよう、長岡造形大学のメインエントランス付近に実施会場を構えました。通行人の邪魔に
ならないよう通路を確保すること、20名の受講者がコーヒーを飲みながら座れること、プロジェクターが照射でき
る照度、マイクの位置等、考慮すべき点が多かったため、事前に現場でシミュレーションを行いました。
(4)飲み物の選定 − 70 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
まちキャンのまちなかカフェでは、飲み物にもこだわり、本格的なものを提供したいと考えています。この体験
講座においても、一流店のおいしい飲み物を出したいと考え、スターバックス様に協力を依頼しました。いれたて
のコーヒーをポットで配達していただき、体験講座会場でスターバックススタッフがカップに注いで提供するとい
うスタイルをとることで、本格的なコーヒーを提供できたことはもちろん、本当にカフェに来ているような空間を
作ることができました。
そして準備万端で迎えた当日。両日とも天候に恵まれ、大きなトラブルもなく講座を始めることができました。
事前申込の方々の出席率は100%!その他、コーヒーのいい香りに誘われて通りがかりに足を止める方も目立ち、用
意した客席は満席になりました。初日の「デザインとして考える天気記号の世界」は、天気記号のうんちくや、様々
な雲の形、気象予報のちょっとした裏話などの後、天気記号を使ったビンゴゲームを行いました。翌日の「見て触
れて感じるプロダクトデザインの世界」では、珍しくて面白いプロダクト製品をテーブルに並べ、そのデザインに
まつわる話を聞きながら、受講者が実際に触れてみることができました。どちらの講座も大盛況となり、確かな手
応えを感じながら終了となりました。
受講者からのアンケート結果では、実に100%の方から“満足した”という回答を得ることができた反面、
「会場が
騒々しかった」
「通行人が多く落ち着かなかった」といった講座環境に関する不満が目立ち、今後の課題となりま
した。また、事前申込者が思いのほか少なかったことも、広報の仕方、講座の見せ方にさらなる工夫が必要である
と痛感させられました。
初めて体験講座を実施してみて、カフェスタイルの講座のイメージや具体的な課題を把握できたことが、大きな
収穫となりました。今後ともまちキャンがオープンするまでに、できる限り多様なパターンの体験講座を実施して
いきたいと考えています。
最後に、体験講座の開催にあたり、9月18日(土)長岡技術科学大学で実施された「てくみゅカフェ」を見学さ
せていただき、大いに参考となりましたことを、この場をお借りしてお礼申し上げます。
10月23日(土)開催
10月24日(日)開催
「デザインとして考える天気記号の世界」
「見て触れて感じるプロダクトデザインの
世界」
スターバックス様にコーヒーを提供してい
ただきました。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
Ⅹ おわりに
まちキャンで行う事業には、すべてに次のエッセンスが組み込まれています。
~「まちなかキャンパス長岡」は、こんなことを考えています。~
1 みんなが「まちなかキャンパス長岡」の学生です
子どもから大人まで、誰でも気軽に受講でき、自由に学べる。
まちなかキャンパス長岡は「みんなの大学」です。
2 「まちなかキャンパス長岡」には卒業がありません
学ぶことで学びたくなる。自らデザインして、自ら学ぶ。
まちなかキャンパス長岡は、ライフワークとしての学びを提案します。
3 「教わる」から「教える」
、
「学ぶ」から「伝える」へ 「教わる」
「学ぶ」が楽しいまちづくり
まちなかキャンパス長岡は、個人が学んだ成果を社会に活かす
「学びの循環型社会」を目指し、地域や社会で活動したり、
まちづくりに生かすことができる人材養成を目指した事業を展開して参ります。
まちなかキャンパス長岡がこれらの想いを実現できる場所になることを信じて、検討を進めて参ります。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
〔海外研修の記録〕
グローバルスタディで体験したアメリカ
吉
原
義
和
(長岡大学2年)
はじめに
今年度、グローバルスタディ(アメリカ研修)を履修した。この授業はグローバルな見識を養うことを目標とし
た科目で、①15回の事前学習の講義、②事前学習関連レポート(6000字以上)
、③設定課題を基軸としたアメリカ現
地研修、④事後学習、⑤公開プレゼンテーション、⑥包括的修了レポート(12000字以上)という、ボリュームの
ある学習内容で構成されていた。現在、全ての学習プロがラムを成して遂げて、最大限学力、能力を伸ばすことが
できたと確信している。
私がグローバルスタディ(アメリカ研修)に参加しようと思ったきっかけは、1年生の時に、チャオニャン部主
催の中国研修旅行に参加したことにあった。この人生初の海外体験で、日本にいるだけでは決して得ることができ
ない「素晴らしい経験、新しい発見」を海外渡航はもたらすことを知った。機会があればまた海外に行ってみたい
と思っていた。2年生になり直ちにグローバルスタディの履修を決意した。
このエッセイでは、グローバルスタディの学習の全体像ではなく、私のアメリカ現地研修での体験をラフなスケ
ッチとして述べることで、現在のアメリカの様子を伝えたいと思う。
1. ボストン
2010年9月12日、日本の成田空港からミネアポリス経由で、ボストンに向かった。ボストンに到着したのは、同
日の現地時間の深夜12時頃だった。
ボストンは、アメリカでもっとも古い歴史を持つ街で、重厚なレンガ造りの建物が多くとても風格があった。
ボストン
到着日の翌日、ハーバード大学を訪問した。ハーバード大学は、ジョン・ハーバードらにより創設され、現在名
実共に世界ナンバーワンの大学になっている超エリート校である。最初に感じたことが、キャンパスの大きさと威
厳だった。圧倒的な広さの敷地に風格のある建物が建っていた。建物の多くがレンガ等石材で建てられていた。学
生寮や講堂など全てが高級な石材造りだった。キャンパス全体は美しい自然に包まれており、愛くるしいリスなど
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
が飛びまわっていた。
ハーバード大学では多くの学生や市民の方に、インタビューを行った。アメリカの過去、現在、未来のことや、
現政権の経済政策や外交政策、アメリカ人の価値観の変化等、さまざまなことについて、現地の方と話をした。
ハーバード大学では現地の人と対話した
ハーバード大学創立者ジョン・ハーバードの像
ハーバード大学キャンパス
大学の建築物
学生掲示板
ボストン美術館を訪問した。ボストン美術館は、ニューヨークのメトロポリタン美術館、シカゴのシカゴ美術館
と共にアメリカ3大美術館と言われるものの一つである。ボストン美術館には、世界中の美術品が展示されていた。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
浮世絵等の日本の美術品等も多く貯蔵されていた。私が最も興味を引いたのがヒマラヤの展示コーナーだった。今
まで見たことがなかったコンセプトの芸術だったので、とても新鮮に感じた。
ボストン美術館
フリーダムトレイルという古都ボストンの中でも、1600年代・1700年代以来の米国草創の歴史を刻むルートを散
策した。州議事堂、コモンパーク、グレナリー墓地など、歴史を実感させる町並みを歩いた。やはりここでもレン
ガ等の石材造りの建物が目立った。古びた建物が多い中でも、街全体はよく整備されとても美しかった。意外に坂
が多いことも発見した。勾配が急な坂から、なだらかな坂まで多くの坂があった。
ボストン州議事堂
コモンパーク
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
集会所
ボストン滞在期間中の後半は、学生だけでチームを組んで行動する研修が行われた。科目担当教員の広田教授か
ら、視察経路を自主的に計画し現地の人にインタビューしながら行動するようにと言われた。自分達の英語力・能
力だけでできるかどうか、最初は正直不安だった。私達は、フェンウェイパークという野球場に行った。ここは松
坂選手や岡島選手などの日本人メジャーリーガーが所属するボストン・レッドソックスの本拠地でアメリカ最古の
野球場として有名だった。野球好きの私としては、是非見てみたい球場だった。中に入ろうと思ったが行った日が
悪く、市民権を持った人たちのイベントがあったようで、多くの人が並んでいた。私達は中に入るのをあきらめざ
るをえなかった。球場の周りを歩いた。町並みにあわせたレンガ造りと赤いチームカラーが目に入った。やはり、
地元に好かれる球場であることを知った。
フェンウェイパーク
フェンウェイパークの外装
クリスチャン・サイエンス・センターを訪問した。クリスチャン・サイエンスは、アメリカの代表的なキリスト教
− 76 −
長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
の宗教団体である。教会の外観は、日本で見る教会とは違いとても神々しい感じがした。教会の中はとても立派で、
ステンドグラスやパイプオルガンなどが、きれいにされており、その美しさに感動した。私達と一緒に教会に入っ
た人達からは、一斉に「きれいだ」
「素晴らしい」という絶賛の声が上がっていた。
クリスチャンサイエンスセンター
教会
サタデースクール
ボストン市内にあるプルーデンシャルセンターというショッピングモールを見学した。規模の大きさに驚いた。
また、日本の場合、郊外にショッピングセンターを建てるが普通だが、ボストンでは違っていた。この巨大ショッ
ピングモールは、ボストン市街のほぼ中心街につくられていた。他にも驚いたことは、テナントを借りずに営業を
する多くの店があったことだ。日本で見る露店のような感じの店だった。そこではどちらかというと食べ物という
より、小物や雑貨を主として売っていたようだ。こういう自由な商売ができるのもアメリカならではと思った。
その他、ジョン=F=ケネディ大統領の生家、MIT(マサチュセッツ工科大学)
、ボストン大学を訪問した。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
ジョン=F=ケネディの生家
マサチュセッツ工科大学
ボストン大学
2. ニューヨーク
ボストンでの研修を終え9月15日に、ボストンのローガン空港からニューヨークに向かった。2001年9月11日の
アメリカ同時多発テロからちょうど9年目の9月ということもあり、ローガン空港の警備員はどこか緊張している
面持ちだった。
ボストンから1時間程のフライトで、ニューヨークに到着した。ニューヨークに到着して最初に実感したのが、
ボストンに比べて「クラウディッド」という印象だった。私は田舎育ちのせいか、排気ガスのスメルも敏感に感じ
た。このスメルは、1年生の時に中国に行ったときのものと同じものだった。すさまじく激変し勢いがあるエリア、
発展するエリアのスメルである。
ニューヨークのジョン=F=ケネディ空港から、市街地マンハッタンに向かっている最中、道路の舗装状態がと
ても悪いことに気づいた。日本と違い道路に金をかけないのだなと思った。
マンハッタンに到着しての皆の第一声は、
「デケェ!」の一言だった。圧倒的な超高層ビルの数々、街にあふれ
かえるクルマと人間、それらが醸し出すエネルギー、パワー。これが世界一の経済大国アメリカ合衆国の心臓部な
のかと、感動した。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
ニューヨークマンハッタンの風景
最初にウォールストリートに向かった。ウォールストリートは、現在進行中の世界同時不況の震源地となった場
所である。ウォールストリートに踏み込んで、最初自分が感じたのは、
「恐怖」だった。高い高層ビルがいくつも
建ち、無数のビジネスパーソン達が足早に移動しているウォールストリートは、現代の世界経済戦争の戦場だった。
人々の目には、
力があり他人を射るような鋭さ、
凄みがあった。戦う「戦士」の目だった。ビジネスパーソン達は皆、
経済の激変と戦っていた。一歩でも二歩でも自分の状況を、企業の状況を良くしようと、前進していた。そのオー
ラに圧倒され自分は最初、恐怖を感じたのだと思う。私達はウォールストリートで、多数の人に、現在のアメリカ
の経済状況、未来の予想、政府の政策などについて、インタビュー活動を行った。ビジネスパーソン達と対話する
うちに、アメリカの強さを感じた。皆、自分のやれる最大限の努力に挑戦し、活路を開こうとしていることがわか
った。一人一人が、前へ前へ前進しようとしていることがわかった。これがアメリカの強さだと実感した。
ウォールストリート
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
ニューヨーク連邦銀行にて
ウォールストリートでのヒアリング活動
マンハッタン南端のバッテリーパ-クに行った。バッテリーパ-クは、ニューヨークでも古い歴史のあるエリア
であった。目の前のニューヨークベイからは、遠方にそびえたつ自由の女神が見えた。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
バッテリーパーク
バッテリーパークから見た自由の女神
ワールドトレードセンターの跡地、グランド・ゼロを視察した。2001年9月11日に倒壊したビルの跡地では、着々
と復興の工事、新しいビルの建設が進んでいた。
9・11テロの跡地
新しいビルの建設風景
ニューヨークでの宿泊場所は、マジソンスクエアーガーデンの近くのペンシルバニアホテルだった。滞在中は毎
日、近くのコンビニや土産屋に行き必要な品を買った。そこで皆、コンビニと土産屋のスタッフの方と、とても仲
良くなった。スタッフの方との交流を通じ、アメリカ人独特のフレンドリーさを教わった。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
コンビニの店長さんと
土産屋の店員さんと
ニューヨーク滞在の後半でも、ボストンと同様、学生だけで複数のチームをつくり現地の人へのインタビューを
中心に自主的に行動するという研修が実施された。
私が中心となったチームは、最初、自由の女神のあるリバティー島に向かった。やはり自由の女神は観光客から
の人気が高いらしく、朝一番の船でリバティー島に向かったが、その船も満員だった。次の船になると自分の乗っ
てきた船の2倍くらい人が乗っているのではないかと思うくらい多かった。さすが自由の女神。着いてまず、そう
思った。テレビでしか見たことのないものを自分の目で見ることに感動した。これほど巨大な物が100年以上もの間、
建ち続けているのはすごいことだと思った。アメリカ不滅のシンボルに大感動した。
リバティー島への移動中の船内
リバティー島から見たマンハッタン
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
自由の女神
タイムズ・スクエアを訪問した。無数に溢れる人混みと、車の数に圧倒された。タイムズ・スクエアは、海外映画
などによく出てくるところだが、自分が思っていた以上に人で溢れかえっていた。よくこんなところで撮影ができ
るなと思った。
タイムズ・スクエア
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
エンパイア・ステート・ビルに行った。エンパイア・ステート・ビルは、なんといっても映画「キング・コング」で
有名なところだ。歩いていたらビルのスタッフらしいお兄さんに話しかけられた。その人は少しだけだが日本語を
話せるのでびっくりした。やはり、日本人観光客が多く訪れているから、スタッフもそれ相応に言葉が話せるよう
になっているのだと思った。自分たちは、最上階まで行かず80階あたりからマンハッタンを眺めた。あいにくの曇
りのせいか見通しが悪く、あまりよい眺めではなかったが、それでも下を見てみるとあれだけ大きかった街が小さ
く見えてしまい、こんな高い建物ばかり建てるアメリカ人はすごいと思った。
遠目から見たエンパイア・ステート・ビル
エンパイア・ステート・ビルから撮った写真
エンパイア・ステート・ビルからホテルに帰る際、突然雷が鳴りゲリラ豪雨にあった。まるで滝のように降ってく
る雨と何回もなる雷に絶句した。日本では体験できないほどすさまじい豪雨だった。ホテルに帰りテレビをつけた
ら豪雨の被害でクイーンズというエリアが、甚大な被害を受けているというニュースが報道されていた。大陸の天
候のすさまじさを体験した。
NY市立図書館を訪問した。図書館の外観はまるでギリシャ神話に出てくるような建物で、とても図書館には見
えなかった。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
NY市立図書館
国連本部を視察した。国連総会の直前で、準備にあわただしかったようだ。世界各国の要人が集まるので、警備
が非常に厳重で常に警察官がパトロールしていた。
国連本部
メトロポリタン美術館(通称メット)に行った。外観だけ見るとNY市立図書館と変わりなかったが、中に入り
マップをもらい驚いた。思っていた3倍くらいの広さだった。とりあえず自分は特に見たい物はなかったので適当
に歩いていた。しかし、展示物を見てみると、どれもこれも自分の興味をそそるような物ばかりだった。また展示
物を見せるのがうまいと思った。見せる物によって明かりを微妙に調整していたりした。見せ方によってこれほど
作品が際立って見えるのか、と思った。本当に素晴らしい美術館だった。
メトロポリタン美術館
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
エジプトの展示物
ギリシャの展示物
セントラルパークにも行ってみた。平日の昼間だったがセントラルパークにはたくさんの人がいて、
それぞれ色々
な楽しみ方をして過ごしていた。その他、カーネギーホールを見たりNY郵便局を見たりして歩いてみた。よく歩
くと、マンハッタンは意外に小さな街だということが分かった。
セントラルパーク
ドラマ撮影の様子
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
カーネギーホール
NY郵便局
おわりに
アメリカ現地研修を終えて私が思ったことは、アメリカという国のスケールの大きさだった。事前学習の講義等
でアメリカはとても広大であらゆる点で圧倒的なパワーのある国だということを聞かされていたが、現地に到着し
て、そのスケールの大きさ、パワー、エネルギーは、予想をはるかに超えるものだった。広大な風景、巨大で大胆
かつ独創的な建築物の設計、多様なビジネスを許容する街の雰囲気、世界中の民族が集中する超多民族社会、すさ
まじい競争と戦いの社会が醸し出すエネルギー、激闘の生活にもかかわらず忘れない人間へのやさしさと気さくさ
等。アメリカ現地で見て体験した全てに、圧倒された。
1年生の時の中国の研修旅行では、留学生が言葉の面等でフォローしてくれたが、今回のアメリカ現地研修では、
基本的に日本人学生の私達が主体的に直接現地の人たちとコミュニケーションをとりながら進めていくスタイルを
とったので、悪戦苦闘の連続だった。その分、能力が伸びたと実感した。
帰国後、私は今回のアメリカ現地研修の経験で得た力をベースに、さらに自分を伸ばしていこうと決意した。世
界はとても広い。海外に行ったことのない学生や、大学に入りまだやりたいことの決まっていない人は、是非海外
へ一度行ってみてほしいと思う。とにかく日本を出るだけで、新しい考え方や発見にめぐりあえると思う。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
〔私の生涯学習〕
「知る喜び」
井 口 公
(平成22年度 科目等履修生)
この度は、長岡大学の科目等履修生として学習させていただき、誠に有難うございました。公開講座では、中国
語(初級)も学習させていただきました。
前期は国際経済学、後期は時事経済という科目を学習させていただきました。経済を学習してみようと思った一
番大きな動機は、2008年秋のリーマンショックでした。日本経済のことなら、連日の報道で何とか知ることが出来
る。しかし、世界の経済と日本経済がどのようにリンクしているのか、経済の基本が全くわかっていない。そして、
年齢も60も過ぎて時間的にも余裕ができ、学習欲が沸いてきたのが一番大きな動機でした。
途中で挫折しないために、いくつかのことを考慮しました。学習するにあたり、過度に負荷を掛けないこと、仕
事に差し支えないようにすること、大学生の邪魔にならないようにすることなどです。幸い、金曜日の1限に学び
たい国際経済があり、早速申し込みしました。
初日で、先生を見たとき驚きました。名前は存じ上げてませんでしたが、同じスポーツクラブに通っている、顔
見知りの先生でした。
出欠席は、厳格にされており授業雰囲気は、とても良いと思いました。そして、集中力を高めるために時々学生
に対し、質問し、回答後に正解者を挙手で確認されるなど、展開に工夫がありとてもわかりやすく興味が持てました。
何よりも一番うれしかったのは、質問が出来ることでした。
そして、その質問に対して、翌週回答があり毎回とても楽しみでした。回答される上で必ず言われることが、他
の学生たちの質問同様、
「とても良い質問です。
」とか、
「すばらしい質問です」とか、どのくらい深いのかわかり
ませんが、
「奥の深い質問です」とか、質問者がまた質問したくなるように配慮されていることでした。
前期は、都合で1回欠席させていただきましたが、予め先生に断りプリントだけお願いしたところ快く、
「わか
りました用意しておきます」とのことで、安心しました。
さらに、板書までされたものをそのままいただき、その親切な配慮に感激しました。後期も1回欠席させていただ
きましたところ、同様の対応をとっていただきました。
先生の授業で、アメリカの強さを思い知らされました。丁度、田中角栄が総理大臣の頃、私は、エンジニアとし
て忙しい日々を送っていましたので、経済のことなど全く関係ない生き方をしていました。石油ショックも当時、
アメリカが主体的に関わっていたことなども、授業により知ることが出来ました。
そして想像するに、これから10年後に世界に起こることも今、布石がうたれているとも考えられます。GDPにつ
いて質問させていただき、回答もいただきましたが、タイムリーにわかるGDPなど、考えてみれば不思議なことだ
らけでした。まだまだ、学習の必要性を感じています。私は、歴史が弱いので日本史、世界史、アジア経済なども
学習してみたいと思っています。その節は又よろしくお願い致します。
一年間どうも有難うございました。
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
平成22年度実施プログラム案内
〔1〕長岡大学公開講座
日商簿記3級講座 本学専任講師 中村大輔
1.簿記の基本原理
2.商品売買
3.現金預金
4.手形取引
5.その他の債権債務1
6.その他の債権債務2
7.有価証券
8.有形固定資産、資本金、訂正仕訳
9.伝票
10.主要簿と補助簿
11.決算1(試算表)
12.決算2(決算整理1)
13.決算3(決算整理2)
14.決算4(精算表と帳簿の締切り)
15.総復習
古文書を読む⑴ 本学教授 小川幸代
1.『越後旅日記』嘉永5年10月16日野尻宿から高田町まで
2.同文書 10月17日高田横町から10月17日柏崎まで
3.同文書 10月17日柏崎から10月18日高田桑名領境まで
4.同文書 10月18日鯨波から10月19日出雲崎まで
5.同文書 10月19日出雲崎
6.同文書 10月20日篠本陣屋より囚人両人受け取る
7.同文書 10月20日出雲崎出立までの諸手続き
8.同文書 10月20日出雲崎出立より寺泊宿まで
9.同文書 10月20日寺泊宿囚人預かり一札 鱈昆布・唐饅頭について考察
10.同文書 3月(10月の誤記)21日寺泊出立より3月(同誤記)22日新潟湊町まで『東講商人鑑』により寺泊・
出雲崎の検討
11.同文書 10月23日新潟出立より10月24日新潟湊諸廻船入津改番所まで『東講商人鑑』により新潟港町考察
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
古文書を読む⑵ 本学教授 小川幸代
1.『越後旅日記』10月24日新潟出立より木崎村まで。
2.同文書 10月24日佐々木村より10月25日赤谷宿入口まで。
3.同文書 10月25日赤谷宿より津川町まで。
4.『東講商人鑑』より「越後国蒲原郡会津領分津川駅ノ図」。『越後旅日記』10月26日津川出立より鳥居峠まで。
5.『越後旅日記』10月26日宝川より野沢まで。
6.同文書 10月27日野沢出立より高瀬新田まで。
7.同文書 10月27日若松城下入口より10月28日滝沢峠まで。
『東講商人鑑』より「奥州会津郡若松城下之図」
。
8.『越後旅日記』10月28日金堀峠より勢至堂まで。
9.同文書 10月29日勢至堂出立より白川宿まで。
中国語初級会話 本学准教授 邱躍
1.中国語発音の基礎
2.中国語の基礎
3.必ず役立つフレーズ(1)
4.必ず役立つフレーズ(2)
5.必ず役立つフレーズ(3)
6.必ず役立つフレーズ(4)
7.必ず役立つフレーズ(5)
8.必ず役立つフレーズ(6)
9.必ず役立つフレーズ(7)
10.必ず役立つフレーズ(8)
11.必ず役立つフレーズ(9)
12.必ず役立つフレーズ(10)
韓国が強いもの 本学准教授 權五景
1.なぜ、韓国のスポーツは強いのか?
2.なぜ、サムスン電子は強いのか?
3.なぜ、韓国の女は強いのか?
4.なぜ、韓国はIT産業が強いのか?
5.訪問先の事前学習
初級Excel講座 本学准教授 吉川宏之
1.簡単な表の作成
2.表とグラフ
3.ワークシートの活用
4.書式と罫線
5.関数の利用⑴
6.関数の利用⑵
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長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
中級Excel講座 本学准教授 村山光博
1.Excelの基礎
2.グラフ
3.データベース
4.関数⑴
5.関数⑵
6.Excelの応用
TOEICと併せて学ぶビジネス英会話 本学非常勤講師 羽賀ローリー
1.Listening Description
2.Questions and Responses
3.Short Conversations
4.Short Talks
5.Incomplete Sentences
6.Incomplete Texts
7.Reading Comprehension
8.Reading Comprehension
〔2〕ながおか市民大学
ジェンダーから考える日本の社会 本学教授 兒嶋俊郎、本学准教授 菊池いづみ ほか
1.働くことを考える
2.家族のあり方を考える
3.メディアの中の性と“ジェンダー ” ?
4.現代恋愛事情-ラブホテルから見えてくるもの
5.共同の討議
進化する銀行と私たちの暮らし 本学准教授 松崎陽子、本学専任講師 井本亨
1.銀行の仕事と私たちの暮らし
2.現代の銀行業と家計の資産運用
3.家計における銀行活用術
4.
「貯蓄から投資へ」の時代の資産運用
5.地方銀行の活動と地域経済の発展
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編 集
後 記
この編集後記は地震・津波、そして原発という三重の災害のさなかで書くことになった。現地で苦労されている
方々のことを考えると、言いようのない気持ちになる。普通の生活を続けるためにも、私達は多くのことを知り、
学び、行動しなければならないのだと、痛切に感じる。
生涯学習はこのような社会を生きる力を持つ市民、そのような社会をより良いものに変えていける市民を作る教
育・研究の一環でなければならないと思う。生涯学習のあり方もこの災害を契機に考えなおしていく必要があるだ
ろう。
生涯学習センター運営委員長 兒嶋俊郎
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長岡大学生涯学習センター
生涯学習研究年報第5号 (通巻第14号)
平成23年3月25日 印 刷
平成23年3月31日 発 行
編集・発行 長岡市御山町80−8
長岡大学生涯学習センター
TEL0258(39)1903
FAX0258(39)9566
印 刷 株式会社 中央印刷