自由民主党史 概論 (2012/4/5) 文責・加藤 一・戦前の政党政治(戦前~戦中) 日本の政党の起源は、征韓論争によって下野した、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、 福島種臣によって創設された愛国公党が始め。その後、板垣は立志社を組織し、愛国社が 初めて全国的な党として広がった。 明治14年に憲法政党と議会開設が約束されると、本格的な政党として自由党が設立さ れ、また大隈重信によって立憲改進党が設立された。 その後、伊藤博文によって立憲政友会が設立され、立憲政友会は戦前の政治の主役とな った。しかし、政友会のライバルとして大正期には立憲同志会、憲政会、また昭和に入っ て立憲民政党が現れた。 戦前政治の特徴として、ドイツ型の政治制度が採用された為、例え政党が衆議院を支配 しても、首相の地位は元老や重臣の推薦に基づいて、天皇が任命し政権が取れる保障はな かった。衆議院の過半数を持ち、政権を持っていても、まだ貴族院という難物があり、貴 族院の政治家達と妥協・取引しなければ、政治の運営は難しかった。その後にも、まだ枢 密院という厄介な存在があり、さらに陸軍と海軍が頑固な独立性を持つ大きな壁があった。 軍人ほどではなくても、官僚も、また一筋縄ではいかない存在であった。 戦中は、次々と党が解党し、左翼政党は消滅、また多くの党が大政翼賛会に流れ込んだ。 二・吉田学校の登用(吉田茂~保守合同) 米軍による占領から一か月後、すべての党は解散され、戦後の秩序建設の為、新しく党 が結党されていった。 まず始めに共産党を除く、旧無産政党を中心に、日本社会党が設立。続いて、鳩山一郎 を中心として、日本自由党が設立された。その後、翼賛政治会系の政治家を中心に、日本 進歩党が、また保守の最左派を中心に、日本協同党が設立、また日本共産党が再建された。 しかし、1946年1月にGHQにより公職追放が行われ、進歩党(260/274 人) 、自由 党(30/45 人) 、協同党(21/23 人) 、社会党(10/17 人)が追放される。 第1回総選挙で第一党になった自由党によって、鳩山一郎内閣が構想されたが、GHQ により、鳩山は追放されてしまう。そこで、白羽の矢が当たったのが、吉田茂である。 吉田は政党政治の経験はなかったが、戦後選挙で選ばれた政権として、第一次吉田内閣 が組閣される。吉田の特徴として、他の政治家の意向を考慮に入れないワンマン政治を行 い、既存の政治家を嫌い、学者や若手官僚を多く登用した。 しかし次の選挙では、社会党が第一党になり、民主党、国民協同党と共に、政権運営が 行われ、片山哲、芦田均の短命政権が続いた。 その後、冷戦の激化により、第二次吉田内閣が組閣され、また吉田学校の生徒達が中心 となり、第24回総選挙が行われ、第三次吉田内閣が組閣され、吉田政治は頂点を向える。 三・自民党政治の確立(鳩山内閣~岸信介) 吉田内閣は、サンフランシスコ講和条約締結後、頂点を迎える。その後公職追放から解 除された鳩山一郎を中心に、党内で吉田対立。戦前からの政治家で、再軍備・憲法改正を 目指す、岸信介や鳩山一郎が自由党を離脱し、日本民主党を設立。 日本民主党が政権を取り、鳩山内閣が成立し、自主憲法の制定やソビエトとの国交回復 を目指すが、この頃、社会党などの左派勢力が次第に強くなる。 左派勢力を牽制し、衆議院の3分の2の議席を目指し、憲法を改正させる為に、反左派 勢力連合として、保守合同が実施され、自由民主党が結党される。 鳩山一郎により、日ソ国交が回復され、憲法改正の為に小選挙区制を導入しようとする が世論の反発に合い断念。その後、政権は石橋湛山に移行される。 石橋内閣のころ、自民党内において、自由党系の4派閥(佐藤派、池田派、大野派、石 井派)、民主党系の3派閥(岸派、石橋派、河野派)、民主党の旧改進党系の三木・松村派 が形成される。 石橋が病気で倒れた後、岸信介内閣が組閣され、吉田の対米協調、鳩山の独立回復路線 の両立を目指し、岸・佐藤・池田の三派(保守本流)が中心となり、安保改定が行われる。 四・自民党の黄金時代(池田勇人~佐藤栄作) 安保条約改定により、岸内閣が総辞職し、池田勇人内閣が組閣される。池田内閣では、 「所 得倍増計画」を発表し、日本は経済大国としての道を歩むこととなる。またこの頃から、 党内での派閥抗争が激化することとなる。 池田政権後は、池田の盟友である、佐藤が政権を担当することとなる。池田内閣~佐藤 内閣の頃は、自民党の黄金期と呼ばれ、各派閥同士の均衡と抗争を繰り広げながら、安定 した長期政権運営を行う。佐藤時代には、沖縄返還も行われる。 自民党のこの頃の特徴として、派閥の当選回数主義が定着し始め、選挙戦での有利と若 くして政治家になれることから、自民党内において、2世議員が急増する。 五・自民党政治の動揺(田中角栄~大平正芳) 第二次ニクソン・ショック以後、佐藤内閣の支持は低迷し、日中関係の正常化を目指し、 派閥抗争を勝ち抜いた、田中角栄が政権を担当するようになる。 田中は、 「日本列島改造論」を掲げ、また日中の国交正常化を成功させる。しかし、イン フレとオイルショックにより、日本の高度経済成長は終わりを継げ、田中はそれ以後のビ ジョンを提示できず、また政治資金のスキャンダルにより、田中は失脚する。 田中角栄は、資金を大量に調達し、派閥を拡大して、権力を拡大する、自民党政治を象 徴するようなものであった。 反田中勢力として、反主流派の三木武夫政権が出来たが、党内を刷新することが出来ず 退陣する。 三木政権の後は、福田赳夫が総裁に指名され、東南アジア外交などを積極的に行う。人 徳による政治を目指し、金権政治・長老政治を廃し、派閥政治を無くそうと尽力したが、 党内の反発をくらい、福田は失脚する。 その後、政権を奪った大平は、派閥政治は人間の本質だと認め、その価値を認めた上で、 様々な政策研究会なども立ち上げて、ポスト産業社会の構想を練るが、世論を味方にする ことは出来ずに、解散総選挙中に急死。 六・自民党政治の再生(鈴木善行~中曽根康弘) 大平の死後、自民党の政治史で初めて、派閥の長ではない鈴木善行が総裁となる。これ は、派閥間の緩衝材として、鈴木は総裁に選らばれ、鈴木自身も「和の政治」をスローガ ンに掲げる。しかし、鈴木自身は調整役でしかなく、特に主義主張や、成果・問題もなく、 鈴木は総裁選を辞退し、政権は中曽根康弘に移行される。 中曽根康弘は、米国のレーガン大統領との「ロン・ヤス関係」などに言われるように、 日米関係を重視し、様々な外交上の課題などを解決し、経済自由主義の立場から、様々な 行政改革に取り組み、長期政権を築いた。 しかし、派閥政治は続き、特に田中角栄がロッキード事件で失脚した後も、「闇将軍」と して政権の裏で、力を持ち続けた。 七・自民党政治の崩壊(竹下登~宮沢喜一) 中曽根政権を引き継いだ、竹下登は税制改革に挑むが、リクルート事件で失脚。この頃、 金権政治体質に対する、国民からの批判が高まる。宇野内閣が成立するも、参議院議員選 挙での大敗により退陣し、海部内閣が組閣される。 海部内閣では、小沢一郎が幹事長に就任し、日米構造協議などが行われる。ところが、 海部政権時に、湾岸戦争が起き、国際的に日本は評価を受けず、自民党は衝撃を受ける。 小沢を中心に政治改革に取り組まれ、小選挙区制度の採用の際には、自民党内でのYK Kなどの反発もくらう。 宮沢喜一政権では、政治改革とPKO派遣法を成立させることを目標に運営が行われる が、自民党内にて、各派閥が分裂し、内閣不信任案が成立し、解散総選挙に。 そしてこの総選挙において、自民党から羽田・小沢派が脱党した上、新生党を結党し、 新党さきがけもできる。 八・五五年体制の終焉 1993年の夏、日本新党の細川をリーダーに、社会党・新生党・日本新党・公明党・ 民社党・社民連・さきがけが加わって、細川内閣が成立し、自民党による38年に渡る長 期政権は、終焉することとなる。 吉田学校 メンバー一覧 第24回衆議院議員選挙初当選組 官界 佐藤栄作(運輸次官)→第 61・62・61 代内閣総理大臣 ※岸信介の弟、安倍晋三の叔父 池田勇人(大蔵次官)→第 58・59・60 代内閣総理大臣 ※池田行彦(元外務相)の父 岡崎勝男(外務次官)→内閣官房長官、外務相 ※伊奈恭子(フィギアスケート銅メダリスト)の祖父 吉武恵市(労働次官)→労働相、厚生相、自治相、自民党幹事長 坂田英一(農林次官)→農林相 福田篤泰(文書課長、外相前秘書官)→郵政相、北海道開拓庁、防衛庁、総理府長官 北沢直吉(参事官、首相秘書)→内閣官房副長官 前尾繁三郎(主税、造幣局長)→自民党幹事長、衆議院議長、法務相、通産相など 橋本龍伍(経済安定本部課長)→文部相、厚生相 ※橋本龍太郎(元総理)の実父 南好雄(東京燃料局長)→運輸相 中村幸八(元課長)→衆議院議員 小金義照(燃料局長)→郵政相 西村英一(鉄道総局電気局長)→厚生相、自治相、自民党副総裁 岡田五郎(大阪鉄道局長)→衆議院議員 満尾君亮(元鉄道局長)→衆議院議員 福井勇(科学官)→衆議院運輸委員長 遠藤三郎(畜産、総務局長)→建設相 西村直己(高知県知事)→農林相、防衛庁長官、政調会長 青柳一郎(山口県知事)→衆議院議員 藤枝泉介(群馬県副知事)→自治相、運輸相、防衛庁、総理府長官 福永健司(埼玉県副知事)→運輸相、厚生相、内閣官房長官、労働相など 田中啓一(岐阜県副知事)→衆議院議員、参議院議員 中村清(三重県副知事)→衆議院議員 大橋武夫(戦災復興院次長)→運輸相、法務相、法務総裁 塚原俊郎(世論調査課長)→労働相、総理府長官 玉木実 →衆議院議員 中村純一 →衆議院議員 司法界 瀬戸山三男(地裁検事、都城市長)→文部相、法務相、建設相 児玉治行(地裁判事)→衆議院議員 財界 岡野清豪(三和銀行頭取)→文部相、通産相、行政管理庁、自治庁、経済審議庁長官 小山長規 →建設相、環境庁長官 小川平次 →衆議院議員 小峰柳多(理科学映画専務)→衆議院議員 鹿野彦吉 →衆議院議員 ※鹿野道彦(現農水相)の実父 学界 青木孝義(日本大学教授)→国務相、中央経済調査庁、物価長長官 マスコミ界 橋本登美三郎(朝日新聞東亜部長)→運輸相、建設相、内閣官房長官 青木正(中外商業新報論説委員)→自治庁長官、国家公安委員長 佐々木盛雄 →衆議院議員 本間俊一(読売新聞記者)→衆議院議員 ※本間俊太郎(宮崎県元知事)の実父 篠田弘作(東京朝日新聞千葉支局長)→自治相、国家公安委員長 天野公義(同盟通信社記者)→自治相、国家公安委員長、北海道開拓庁長官 第24回衆議院議員選挙以前に当選していたメンバー 増田甲子七(北海道庁長官)→北海道開拓庁長官、内閣官房長官、労働相、運輸相 田中角栄(民主党より合流)→第 64・65 代内閣総理大臣 ※田中真紀子の実父、田中直紀(現防衛相)の義父 根本龍太郎(民主党より合流)→建設、農林相、内閣官房長官 二階堂進(改進党より合流)→内閣官房長官、科学技術庁長官、 坂田道太(日本自由党)→法務相、文部相、防衛庁長官 牧野寛索 →衆議院議員 守島伍郎(元外交官・弁護士)→衆議院議員 亘四郎(日本自由党)→衆議院議員 平井義一 →衆議院議員 松野頼三(日本自由党)→農林相、労働相など ※松野頼久(元内閣官房副長官)の実父 吉田学校の決定的特徴 ・政治家出身がほとんどいない、そして高学歴、実力・実績主義。 ・吉田学校のメンバー自体が、2世議員をほとんど輩出していない(約50名中5名のみ) ・何よりも、吉田を含め、官界からの出身者が多い 参考文献 北岡伸一「自民党 政権党の38年」 (中公文庫)
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