ILO 創立 90 周年・日本 ILO 協会創立 60 周年記念特別シンポジウム

ILO 創立 90 周年・日本 ILO 協会創立 60 周年記念特別シンポジウム
2009 年 4 月 27 日
【長谷川】 ただいまより ILO 創立 90 周年・日本 ILO 協会創立 60 周年記念シンポジウム
を開催いたします。本日はこのように多くの皆様にご参加をいただき、心より御礼を申し
上げます。本日の進行役を務めます ILO 駐日事務所の代表をしております長谷川でござい
ます。どうぞよろしくお願いいたします。
ILO は 90 年前、1919 年 4 月 28 日、パリ平和条約に基づき、パリ平和会議で設置が決
定されました。90 周年にあたります今年、4 月 21 日から 28 日までの 1 週間に世界の 100
ヶ国以上で記念のイベントが行われております。我が国におきましても、日本の政労使の
三者、そして日本 ILO 協会と ILO 駐日事務所の五者が共同してこのシンポジウムを開催で
きましたことを大変嬉しく思っております。
簡単にプログラムの説明をさせていただきます。本日のプログラムは三部構成となって
おります。第1部では、まず政労使の代表より挨拶をいただいて、来賓の方のご挨拶の後、
我が国でのディーセント・ワーク周知のための取組みにつきまして日本 ILO 協会の中村会
長のほうから報告をいただきます。第2部ではお2人の講師から基調講演をいただきます。
その後コーヒー・ブレークを挟みまして、第3部では政労使の代表をパネリストにお迎え
し、パネルディスカッションを行うという予定にしております。
本日は、シンポジウム及び ILO に関係します各種資料に併せまして、ILO 創立 90 周年
及び日本 ILO 協会設立 60 周年を記念して編纂されました2冊の冊子をお配りしておりま
す。1つは、日本 ILO 協会が発行しております月刊誌「世界の労働」の4月号でして、ILO
創立 90 周年・日本 ILO 協会創立 60 周年の特集の記念号になっております。もう1冊はや
はり ILO90 周年を記念して編纂いたしました「ILO と私」というタイトルの随筆集になっ
ております。政労使を初めとして各界で ILO に深く関わりのあった方々23 名から寄稿をい
ただいておりますので是非目を通していただければと思います。
第3部では、パネルディスカッションを行いますが、できるだけ皆様の関心に沿ったパ
ネルディスカッションにしたいということで、机上の青い用紙によりご要望をお伺いいた
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します。これだけ多くの方にご参加いただきましたので、時間的制約もあり、むしろ皆様
からリクエストいただいて、それをパネルディスカッションの中で消化するというやりか
たをとりたいと思っております。
-第 1 部-
【長谷川】
それでは、これよりシンポジウムの第1部を始めさせていただきます。最初
に本日の共同開催者であります厚生労働省よりご挨拶をいただきます。桝添厚生労働大臣
からご挨拶をいただく予定でございましたが、補正予算の関係で本日1時から参議院の本
会議が開かれるということになりまして、残念ながらご来場が叶わなくなりました。代わ
って江利川毅事務次官にご挨拶をいただきます。
それでは江利川次官、よろしくお願いします。
【江利川】
ただいまお話がありましたが、今日のシンポジウムには舛添厚生労働大臣自
らご挨拶を申し上げる予定でしたが、国会の関係で出席ができなくなりました。私が大臣
のメッセージを預かってまいりましたので代読させていただきます。
本年、ILO が創立 90 周年を、また日本 ILO 協会が創立 60 周年を迎えられたことを心よ
りお祝い申し上げます。この記念シンポジウムにおいて挨拶する機会を与えていただいた
ことを光栄に思います。ILO は労働条件の改善を通じて社会正義を基礎とする世界の恒久
平和の確立に寄与することを目的として 1919 年に創立されました。その重要な活動であ
る国際労働基準の設定の分野において ILO 条約数は 188、勧告数は 199 に及び、これらの
批准適用状況の監視機構は国連システム全体の中でも実効性が高いものと評価されていま
す。これに加え、労働条件の向上や、雇用機会の増進のための国際的な政策・計画の策定
や、国際的な技術協力の推進等の活動を行う ILO の重要性は従来より一貫して高いもので
あると考えます。1999 年には現在、その職についているソマビア事務局長により「ディー
セント・ワーク」、すなわち「働きがいのある人間らしい仕事」という概念が提唱され、そ
の実現が今日における ILO の使命達成のための主目標と位置づけられることになりました。
このディーセント・ワークは非常に幅広い概念を持った言葉であり、労働における基本的
な原理と権利、雇用の機会、社会保護、社会的対話を伴った就労環境のことを意味します。
我が国政府はこのディーセント・ワークについて雇用機会と十分な収入が確保されること、
労働三権などの権利が保障され、職場で発言が行いやすく、それが認められやすいこと、
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家庭生活と職業生活が両立できること、男女平等などの公正な扱いを受けることといった、
人々が働きながら生活している間に抱く願望の集大成であると整理しており、その実現は
我が国にとっても大きな課題であると受け止め、政労使一丸となって取り組んでいるとこ
ろです。
またこの度、創立 60 周年を迎えられる日本 ILO 協会は、第二次大戦前後の混乱期に一
時 ILO を脱退していた我が国を ILO に復帰させることを目的に設立され、我が国が ILO 復
帰を果たした後も ILO 精神の普及などを目的としたさまざまな活動を行ってきたと聞いて
おります。例えば日本 ILO 協会の機関誌である「世界の労働」は発刊 58 年に及び、ILO
活動の周知広報に努めてこられました。また一昨年より全国各地において労使関係者を初
めとする多くの方々を対象にディーセント・ワークについての啓発を図るセミナーを開催
するなど、我が国におけるディーセント・ワークの実現にとって重要な活動を行っており、
このことについて我が国政府として感謝と敬意を表する次第であります。
現在、我が国を含む多くの国々は米国の金融危機に端を発した世界同時不況の中で景気
が急速に悪化しております。大幅な減産などにより、雇用失業情勢は深刻の度を増し、雇
用不安が拡大するといった非常に厳しい状況に置かれております。このような状況下にお
いて雇用と労働条件の確保のため、労使間、または政労使三者の間で対話と協力を行うこ
との重要性は一層増しております。こうした考えの下、先月 23 日に政労使の三者は「雇
用安定創出の実現に向けた政労使合意」を行い、今後一致協力して取り組むことといたし
ました。このように、引き続き我が国における政労使三者の協力関係を推進し、共に困難
に立ち向かおうと考えております。
ILO は国連システムの中で唯一の政労使三者構成の機関であり、三者の対話を世界的に
促進すること等により経済危機から脱却するための重要な役割を果たすことが求められて
おります。ILO とその活動を支援する日本 ILO 協会の今後のご活躍に大いに期待いたしま
す。我が国は ILO 創立以来の加盟国として、そして常任理事国の一国としてこれまで ILO
に積極的に貢献してきたものと自負しております。このように長い時間をかけて我が国と
ILO との間に培われた良好なパートナーシップと経験に基づき、我が国政府としては ILO
のディーセント・ワークの実現に向けた活動に今後とも協力を惜しまない所存であります。
終わりに ILO と日本 ILO 協会のますますのご発展を祈念いたしましてご挨拶といたしま
す。
平成 21 年4月 27 日、厚生労働大臣、舛添要一。
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代読、厚生労働事務次官、江利川毅。どうも失礼いたしました。
【長谷川】
江利川次官、どうもありがとうございました。続きまして本日の共同開催者
であります日本労働組合総連合会の髙木剛会長よりご挨拶をいただきます。髙木会長、よ
ろしくお願いいたします。
【髙木】
ご紹介をいただきました連合の髙木剛でございます。本日は ILO の創設 90 周
年、そして日本 ILO 協会の創設 60 周年を記念して、このシンポジウムが開催されますこ
とを、主催者の一員に加えていただきました連合を代表して心からお慶び申し上げたいと
存じます。またこのように多数の方にご来会いただきましたこと、御礼申し上げます。
いま世界中で経済の状態が悪化しており、ILO の予測によりますと世界で約 5000 万人
の労働者が新たに失業の憂き目に遭うであろうというようなことも報じられております。
また世界の全就業者は大体 30 億人ぐらいと言われておりますが、そのうちの 45%程度に
相当する約 14 億人が1日の賃金が2ドルに満たない貧困状態で働いているということも
伝えられ、その状態がさらに悪化するのではないかともいわれております。翻って、私ど
も日本の状況はどうかと申し上げれば、まだ2月の数字しかありませんが、失業率 4.4%、
有効求人倍率 0.59%、正規雇用労働者が 1800 万人に近づきつつある。また 1000 万人を
超える方たちがワーキング・プアと言われる所得の状況にある。さらに、シングルマザー
の皆さんを初め、生活を成り立たせていけない、そんな窮状を訴える人たちも日に日に増
えているという状況にございます。
そういう状況の中で、いま日本の労使はどのような役割を担っていかなければならない
かということにつきまして、私ども連合でも色々な議論をし、様々な運動に取り組んでき
ております。その一環といたしまして、本年 1 月 15 日、ちょうど春の交渉のスタートと
も言うべき日本経団連との意見交換の場があり、そこで日本経団連に「労使で色々な方々
に他力本願で何とかしてくれというだけではなくて、我々がお互いに知恵を絞り、汗をか
いて、こういった状況に共同して取り組むことが何かないのか」、と問題提起をさせていた
だきました。日本経団連にも私どもの思いを受けていただくことができ、協議を続けてま
いりました。その結果、3 月 23 日、政府も含めた政労使にて、我が国の雇用労働の抱えて
いる問題について政労使力を合わせてその課題の解決のために力を注ごうではないかとい
う合意に達したことは、皆様方、ご承知の通りでございます。本日、舛添厚生労働大臣は
ここにいらっしゃっておりませんが、本年度の補正予算が、ちょうど今国会に提出されて
いるところかと思います。その補正予算にも政労使合意の中身をある程度汲んでいただい
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て、案をつくっていただいておると聞いております。
いま ILO の大きなテーマがディーセント・ワークとなっているのは、皆さんご高唱の通
りでございます。ではディーセント・ワークとは何か。どういうことをすれば、その定義
にかなう状態が実現されたと言えるのか。これについても色々な議論がございますが、平
たく申し上げれば、真面目にきちんと働けば労働を通じての自己実現といいますか、それ
ぞれの労働者の満足が得られ、そこそこ暮らすことができ、子どももきちんと育てられる、
そして老後もそれなりの老後が待っていると。そんな状態のことをディーセント・ワーク
と言うのではないかなと勝手に思ったりしております。しかし、このディーセント・ワー
クは言うに易く、なかなか具体的に実現していくには難しい課題。とりわけ近年の日本で
はますますディーセント・ワークから遠ざかる、そんな国になっているのではないかなと
の思いを強めているところでございます。
現在、麻生内閣の下で安心社会実現会議という会議が設けられております。安心社会を
実現することを目標にして議論しようということでございますが、なぜいまごろこのよう
な名前を付けた会議が持たれるのか。裏を返せば、いまの日本は多くの国民の皆さんが不
安を感じている、あるいは不信感を高めている状況にあるという認識からスタートしてい
ると思わざるを得ない。明日の夜にも2回目の会議が持たれます。いま日本の社会が膠着
しておりますが、雇用に関わる課題、非常に多岐に及んでおります。安定した雇用なくし
て福祉はありません。社会保障も雇用の状況が悪くなれば、その中身が劣化いたします。
また失業率と平時犯罪の件数のグラフを重ねてみますと、ぴったりとグラフが重なります。
失業率が高まりますと世の中荒れ、犯罪も増えると。そんな社会に日本がなぜなってしま
ったのか、そういう状態を脱するにはどんなことをお互いに認識し合い、そのためにどの
ような努力を重ねていかなければならないのか、そのようなことが明日議論されればよい
と思っています。
4 月の初めにロンドンで G20 のサミットが開催され、経済危機の克服について様々な議
論が行われました。金融制度の不備、あるいは問題点の解決といったこともございました
し、各国が共同して財政出動をし、それぞれの国での需要を増やそうという、そんな議論
も行われました。しかし、このロンドンサミットでもうひとつ注目すべき点は、雇用問題
が正面から G20 にて議論されたことでございます。もう皆さん、ご承知の方も多いと思い
ますが、この G20 サミットでは ILO が世界の雇用状況に関してどんな議論をし、どんな対
応をしていくのかということについての議論も行われ、ILO に対する世界の雇用状況に関
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するマンデートが与えられたと、そんな側面もあったと認識をいたしております。本年6
月の ILO 総会では、会期中の何日かを取って雇用問題に関する ILO の役割等について議論
がされる予定だと伺っております。この6月の総会の雇用問題に関します ILO の議論に心
から期待を申し上げる次第です。
ILO が結成されて、今年で 90 年、もう 10 年で 100 周年となります。実は私ども連合は、
3 日後にアメリカのワシントンに出かけ、AFL-CIO との定期協議を行うこととしておりま
す。その定期協議に参加する日本側代表団の一部の方々が、ILO のフィラデルフィア宣言
の名残がどんな形でいまのフィラデルフィアに残っているのか、その辺を見てきたいとい
うので、フィラデルフィア訪問の計画をいたしているようでございます。聞くところによ
れば、フィラデルフィアでも ILO の 100 周年を目指してセレモニアルな何かをということ
で議論が行われていると聞いております。
日本 ILO 協会には日本の労働界は、長い間色々な意味でお世話になってまいりました。
今後も日本 ILO 協会の皆さんに何かとお世話になることと存じます。ご関係の皆さまの今
日までのご労苦に心から敬意を表させていただきますと共に、今後ともどうぞよろしくと
お願い申し上げる次第でございます。
ILO が 100 周年を目指して、世界の労働の守り手としてますます発展をし、すばらしい
活動で世界を守ってくださるよう、そのことを心から祈念するものでございます。本日は
60 周年、あるいは 90 周年、心からおめでとうと申し上げさせていただき、連合を代表し
てのご挨拶とさせていただきます。どうぞ皆さん、よろしくお願いいたします。ありがと
うございました。
【長谷川】
髙木会長、どうもありがとうございました。本日の共同開催者の1つであり
ます日本経済団体連合会からは御手洗富士夫会長のご挨拶をいただく予定でございました
が、御手洗会長は国際会議出席のため、現在イタリアへご出張中でございます。御手洗会
長からはビデオでご挨拶をいただくことといたします。どうぞご覧ください。
【御手洗】 本日、ここに ILO の創立 90 周年、並びに日本 ILO 協会の創立 60 周年を記念
して、両者の特別シンポジウムが開催されることを心よりお祝い申し上げます。シンポジ
ウムのテーマに関連して一言ご挨拶を申し上げます。
現下の世界同時不況は各国の雇用にも深刻な影響を与えており、日本も例外ではありま
せん。しかし日本はこれまで政労使が一致協力することでオイルショックや平成不況など
の幾多の危機を乗り越えてまいりました。今回の難局に対処するためにも三者が経済状況
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や企業実態に対する危機感を共有し、国際競争力強化に向けて努力することが重要です。
日本経団連では 3 月 23 日、連合や政府と共に、雇用安定創出の実現に向けた政労使合意
を取りまとめ、政労使が一丸となって雇用問題に取り組むという強いメッセージを発信い
たしました。現在、この合意に基づき、会員企業に対して雇用の面のさらなる取組み強化
を呼びかけているところであります。
また社会の経済環境の変化に応じて、ILO も柔軟に対応していくことが重要であると思
っております。昨年の ILO 総会では加盟国におけるディーセント・ワーク促進のために ILO
が果たすべき役割などを示す「公正なグローバル化のための社会正義に関する ILO 宣言」
が採択され、現在、加盟国支援のための具体的な活動を検討していると伺っております。
資金、人員など資源の制約がある中、特に現下の経済情勢を踏まえて ILO は何を優先すべ
きかを考え、選択と集中に基づいて活動を重点化する必要があると存じます。
ILO 同様、社会開発に関わる国際機関は数多く存在しており、ILO が使命を達成するた
めには他の機関との役割分担と連携を図ることも重要であります。日本は ILO に対し、長
年にわたり政労使とも理事を送ってまいりました。ILO には各国の政労使と共に経済環境
の変化に応じた新たな努力をお願いしたいと思います。また日本 ILO 協会には、ILO に新
たに期待される、このような役割を果たすための支援を行い、ILO の精神の普及に向けて
今後ますます発展されることを祈念しております。本日の記念特別シンポジウムでの活発
な討議を通じて新たな時代を迎えた ILO と日本 ILO 協会が引き続き十分に機能を発揮され
ることを期待して、私からの挨拶とさせていただきます。
【長谷川】 どうもありがとうございました。次に ILO のファン・ソマビア事務局長より
やはりビデオメッセージでご挨拶を申し上げます。言語は英語でございますけれども、本
日のメッセージの日本語訳が資料として配布しておりますので、それをご覧いただければ
と思います。
【ソマビア】
2009 年 4 月 21 日、ILO は創立 90 周年を世界的に祝う記念イベントを開
始します。世界中で行われるイベントには、ILO の三者構成である政府・労働者・使用者
とともに、すべての人にディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)を実現
することを支持する人々が参加します。これらの地域での対話が、世界的な重要性をもち、
影響を与えることになるでしょう。イベントでは、ILO の過去の歴史から力が引き出され
ます。今日の課題に取り組み、より良い未来を築くために、ILO の長い経験、知識、ネ
ットワークが活用されるでしょう。
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この記念すべき年を、我々は深刻な経済的・社会的激変の中で迎えます。しかし、ILO に
とって危機は、これまでの歴史の中で、変化のための試練を与えてきました。第一次世界
大戦の惨禍を経て、国際労働機関は、世界の永続する平和は社会正義を基礎としてのみ確
立することができる、との基本的信念に基づいて創立されました。
戦時にも平和な時にも、不況期にも経済成長期にも、政労使三者は我々の共通の価値観:
「仕
事は尊厳の源でなければならない」「労働は商品ではない」「一部の貧困は全体の繁栄にと
って危険である」のもと、対話の場に集まり続けました。これらの価値観や活動は、1969
年のノーベル平和賞により認められました。これらの価値観は、今日もなお、我々の活動
を規定し、導き続けています。
我々は過去の歴史を祝っているだけではありません。これは、今日、人々に差し迫ってい
る優先課題-仕事、社会的保護、労働における権利の必要性-に焦点をあて、対話を通し
て解決を見出すための戦略的な機会でもあるのです。失業と不完全就業の増加、企業の閉
鎖、労働条件の悪化、労働における権利の尊重が弱まる中で、また、不平等、貧困、不安
定性の増大を背景として、各国元首や政府首脳、国会議員、学識者、市民社会を形成する
個人、活動家たちが一堂に会し、社会正義と人間の価値に基づく仕事の世界に向けて針路
をとる、という ILO の使命を再確認することでしょう。
我々の価値観と活動は、結社の自由と団体交渉権、機会均等と非差別、強制労働と児童労
働からの解放、安全で健康な仕事など、すべての男女労働者の処遇と福利のための模範を
築いてきました。これらの価値観と活動はーどこに暮らしていても、誰であろうともーす
べての人のために仕事を生み出し、技能を開発する持続可能な企業の創出を助け、企業の
社会的責任への動きを促進することに役立ってきました。これらの価値観と活動は、公正
で持続可能なグローバル化を創り出すために、これまで以上に必要とされています。これ
らの価値観と活動は、世界の人々に声を与え、希望を与えるために必要とされています。
ILO はディーセント・ワークを実現するための取組みに欠かせない要素を提供します。す
なわち、持続可能な企業を通してグリーン・ジョブを含む雇用創出を行うこと、社会的保
護の形をとる連帯、国際労働基準や労働における基本的原則及び権利を守ること、最良の
解決策を見出すために対話と団体交渉のもつ創造力を活用すること、です。これらの要素
は、危機の時でも、復興の途上でも、そして未来においても、すべての男女が自由、尊厳、
保障、平等の条件の下で、仕事に就くことを可能にするための必要条件です。
ILO の三者構成の歴史は、我々の未来の礎です。とりわけ、21 世紀に向けた取組みは、人
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間の精神、活力、回復力といった再生可能なエネルギーと、あらゆる場所でディーセント
な仕事への公正な機会を求めるというまっとうな要求につき動かされた人々から生まれて
きます。この正当な要求に対し、共に応えましょう。ディーセント・ワークの目標を持続
させる政策を選択しましょう。社会正義と公正なグローバル化のためにディーセント・ワ
ークを前進させましょう。それが ILO の使命であり、任務であり、責任なのです。
【長谷川】 本日は ILO 活動推進議員連盟会長であります森山真弓先生にご来賓としてお
いでいただいております。ILO 活動推進議員連盟は、ILO 活動をサポートしていただきま
す日本の国会議員の皆様による連盟でございます。森山会長は長く会長を務めていただい
て、ILO の活動をサポートしていただいております。森山会長からもご来賓としてご挨拶
をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
【森山】 皆様、こんにちは。ILO が創立 90 周年、また ILO 協会が 60 周年、誠におめで
とうございます。いまそれぞれのお立場から立派な祝辞が行われましたが、私も ILO には
浅からぬご縁がございまして、ILO と一緒に歩いてきたと言ってもいいかなと思います。
と申しますのも、昭和 35 年ですからずっと前ですが、このとき私は労働省の国際労働課
の課長補佐でした。そのころの国際労働課の仕事の多くは ILO と関係があり、そのときが
ILO との初めてのご縁でした。翌々年の昭和 37 年に ILO から援助をいただき、ヨーロッ
パの各国へ行きまして半年近く色々なことを勉強いたしました。そのころの日本はまだ被
援助国でした。戦争直後すっかり何もなくなって、ひどい途上国になってしまっていたん
です。そのために当時若い人たちが外国へ留学するというのは国際機関の援助ぐらいしか
ございませんでした。私はたまたま申請をいたしましたら、うまくそれに合格し、ILO の
おかげで最初の国際的な舞台を踏むことができたわけでございます。
そしてそれがちょうど終わったころに ILO の総会がありましたので、手が空いているな
らば手伝えと言われまして、ILO 総会の日本代表団の小間使いをさせていただきました。
そのおかげで ILO の会議というものがどういうものかというのをそのとき初めて知ったわ
けです。その後日本へ戻って国際労働課長になりましたけれども、その経験はそのときに
大変役に立ちました。私もそのようなことで ILO のおかげで勉強もしたし、ILO のおかげ
で色々な経験をさせていただきました。大変感謝しております。
最近の ILO はディーセント・ワークということに集中いたしまして、様々な仕事をやっ
ております。私が国際労働課長のときには想像もできなかったような内容でございますが、
それだけ世の中が大いに変わったのだと思っております。私が国会議員になりましてから
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ILO について大変ご熱心な中西珠子さんが同僚の議員としておいでになり、ILO の問題に
もっと国会で関心を持つ人を増やそうじゃないかというお話でした。
「それはその通りだ」
と言って私もその仲間に入りましたところ「会長になれ」というお話で、それ以来会長を
務めております。そして ILO に関するさまざまな活動を、特にアジア太平洋地域の色々な
活動を実際に見せていただいて、それなりに勉強いたしております。
そのようなわけで昭和 35 年という最初のときから考えますともう 40 数年になりますが、
創立 90 周年の ILO の半分ぐらいに私はお付き合いしてきたなという気がいたします。こ
れからも ILO が新しいテーマに取り組んで、そして 100 年、120 年、150 年と末永くそれ
ぞれの仕事に活発に活動していただいて、世界の働く人々のために頑張ってくださるよう
に心から祈っております。おめでとうございました。
【長谷川】
森山会長、ありがとうございました。
さて、ディーセント・ワークの普及を目指して、日本 ILO 協会と ILO 駐日事務所は日本
の政労使の協力もいただき、一昨年よりディーセント・ワークセミナーを地方の各都市で
開催いたしております。中村正・日本 ILO 協会会長より、そのセミナーの報告を中心にお
話をいただきます。では中村会長、よろしくお願いいたします。
【中村】 初めに、私ども日本 ILO 協会創立 60 周年、そして ILO 創立 90 周年を記念いた
しまして、このようなシンポジウムを開催いたしましたところ、皆様においでいただきま
したことを心から御礼申し上げます。そして私の前のいろいろなスピーカーから ILO、そ
して日本 ILO 協会に対して色々なお誉めの言葉をいただき、ありがたく思っております。
御礼を申し上げます。
司会者からご紹介がありましたように、日本 ILO 協会は、ディーセント・ワークについ
てのいろいろなセミナーをやってまいりました。その経過を報告させていただきます。
まず第1に日本 ILO 協会というのはなぜできたか。これはすでに他のスピーカーからも
お話がございましたように、戦争に先立ち一旦は ILO を脱退した日本が、敗戦を迎えた。
そして国際社会に復帰する、その1つとして ILO に復帰したい、こういう動きがありまし
た。それを推進しようということで生まれたのが日本 ILO 協会です。政府、そして労使の
ご支援をいただいてこの運動が始まった。そういう歴史を持っております。そして、日本
は国連に復帰する前に ILO に復帰したという歴史を持っております。
復帰した後は、日本 ILO 協会は何をやっていたか。すでにお話がありましたが、ILO の
原則、理念について日本の国内にそれを普及しようということで今日に至っております。
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その普及もかなり進んできたところ、やはりこれはただ日本で普及するだけではなく、ア
ジアにもその ILO の精神、理念を普及することも必要ではないかということで、微力では
ありますが、アジア等を中心とする途上国に対する ILO の理念の普及ということもやって
おります。
今日では、ディーセント・ワークという概念が ILO の活動の中心として取り上げられて
おります。日本 ILO 協会といたしましても、このディーセント・ワークという概念を広く
日本に広めようということで活動を展開しております。ディーセント・ワーク、言葉はき
れいです。しかし、それ本当は何なの?と聞いたときに、実は非常にわかりにくい概念で
す。だからこそ、そのディーセント・ワークという概念について地方を含め、広くこれを
普及していくということが必要だということで、貧乏ではありますけれども、数カ所でい
ままでセミナーを開催してまいりました。2007 年、まず北海道で、ついで神戸で行いまし
た。2008 年には金沢、そして福岡で実施いたしました。札幌では約 240 名、その他の3
地域でも 100 名を超える方の参加をいただき、熱心なご質問も受けて、それなりにディー
セント・ワークって何かということについてのご理解をいただいたかと思っております。
本日のこのシンポジウムも私どもといたしましては、ディーセント・ワークに関するセ
ミナーの一環であると思っております。中央で開催することができたことを非常に嬉しく
思っております。引き続き、日本 ILO 協会といたしましては、他の地域、例えば広島だと
か、あるいは大阪だとか、適当な都市でこのようなディーセント・ワークの概念の浸透の
ためのセミナーをやっていきたいと思っております。もちろん協会だけでできるわけでは
ありません。セミナーは ILO 本体、すなわち ILO 駐日事務所の協力をいただいております
が、それ以上に積極的なご参加を政府、労働組合、それから使用者からいただいておりま
す。引き続き、三者プラス1、ILO 駐日事務所の積極的なご支援を期待しております。
と、ここまでがご報告でありますが、一体ソマビア事務局長が言っているからやってい
るのか?お前はゴマをすっているのか?というように思われてもこれははしたない話でご
ざいます。なぜやっているのかということについて残りの時間、わすがではありますけれ
ども、ご説明をさせていただきたいと思います。
私は長いこと政府の労働省におりましたが、1988 年から 8 年ばかり ILO のアジア太平
洋総局の総局長として楽しませていただきました。しかし楽しんだとはいえ、非常に色々
な問題がありました。ご承知の通り、1989 年の天安門事件、そしてベルリンの壁の崩壊と
いう大変化があったときであります。その天安門事件が起こったときに、ILO の中で、労
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働者の基本的権利が否定されているのに何故技術協力で中国のお手伝いするの?という批
判が起き、大論争になりました。しかし技術協力と労働基準の遵守についてはその昔から、
どちらを優先すべきか、どういう関係にあるべきかという議論がありました。天安門事件
を契機にそれがもう一度盛り上がってきたというわけです。基本的権利を守らない、ILO
基準を守らない、そういう国については技術協力をやるべきではない、それは矛盾じゃな
いか、という意見が強く沸き上がってきたのです。基準を守れないからそれを助けるため
に技術協力をやっているのに、守らないからやらないと言ったら矛盾だというような反対
意見も出ました。また、特にアジアの勢いのいい国でありますが、ILO というのは西欧の
価値観、概念で出来上がっていて、東洋は違った価値観を持っている。だから押しつけら
れるのは反対だという意見もありました。そして極端な例は、我々は植民地時代を経験し
ており、基本的人権は植民地時代に否定されている。それを放っておいて、いまになって
「お前らは基本的人権を守らないからけしからん」なんて言われる筋合いはない、という
ような感情論も出ました。そうこうしているうちに WTO の発足になったわけであります。
そこでアメリカが AFL-CIO の支援を受けながら、WTO に参加しました。そして、自由貿
易のメリットを享受するには国際労働基準を守るということを条件とすべきだ、その条件
を守らないのには制裁を加えるべきだと、こういう意見が出て、てんやわんやの議論にな
ったのであります。開発途上国、特にアジアの主たる国々からは、我々は守りたいけど守
る力がない、あるいは国際労働基準が非常に高すぎて守れない、あるいは守る基盤である
雇用がそもそもない、という意見が出されました。あるいはひっくり返ったような意見に
なりますが、我々の唯一の比較優位、国際競争における比較優位は残念ながら労働しかな
い。安い労働力しかないんだと。しかるに高い国際労働基準を守れ、それでなければ自由
貿易のメリットは享受できないと言うなら、我々に死ねと言うのか、これは新たな保護主
義じゃないかというような意見でワーッと盛り上がりました。いずれもアジアを中心に起
こってきた議論であります。
そのような中で、労働組合は、いや、やはり基準を守らせるべきだと主張する。先進国
の一部もきちんと基準を守らせるべきだというのに対して、アジアがこのように抵抗する。
そこにだんだんと他の途上国も加わっていきました。そのうちに、本当は労働組合の中で
も、そして経営者の中でも、途上国の経営者は、うーん、そう基準ばっかりではないな…
というようなムードになってきた。本当にてんやわんやでした。このまま推移したらかえ
って ILO の権威が損なわれるということで、1998 年の宣言、すなわち中核的労働基準を
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守っていきましょうという宣言に結実したわけであります。労働基準と言っても中核的な、
特に人権を中心とした基準だけを対象にしたわけです。賃金、労働時間、そこは問わない。
まず、権利だと。そして制裁はしないということで落ち着いた。さらに、もし開発途上国
側に問題があるならば、それは技術協力をしましょう、ということでうまくまとめたのが
1998 年の宣言です。そして、その年に事務局長の選挙があり、ソマビア現事務局長が当選
します。彼は当選後、これからの ILO はディーセント・ワークという新たなスローガンの
下に活動を強化していきますと、こう訴えたわけであります。
内容はもうご承知の通りです。1998 年宣言の中核的労働基準を守る、それは残しておい
て、あと適切な雇用、適切な社会的保護のある、そういう状態をつくる。それをどう具体
的につくるか。それは関係者の社会対話でお決めなさい、こういう概念です。規制に対す
る積極派からみれば、労働条件もと思ったらそれは消えちゃった。制裁も消えちゃった。
もちろん、これらについてはいつか何かやらなきゃいけないなという気持ちは確かにあり
ます。一方、開発途上国側には、これはトロイの木馬かもしれないと思っている人もいま
す。今は中核的労働基準、人権だけだと言っているのが、いつ労働条件、賃金だ、時間だ
と言ってくるかわからない。トロイの木馬には気をつけろというような意見もありました。
そういう中でグローバリゼーションがどんどん進んでいったわけです。そして繁栄はしま
した。しかし一部では貧困は残っておりました。そして格差は広がる。こういう中で新し
い概念でどう労働の世界を引っぱっていくかということで出てきたのがディーセント・ワ
ークの概念です。
そういうわけで、ディーセント・ワークという概念には、ある種の真実があります。だ
からこそ国連や他の機関でディーセント・ワークという概念が徐々に認知されてきました。
これからも認知されていくでしょう。とすると我が国としても、ディーセント・ワークに
応じた活動をしなきゃならない。しかしそれ以上に開発途上国との相互依存関係が非常に
膨らんでいる中、その開発途上国が持続的、安定的に成長する必要がある。そのときに何
を核にするかというときにディーセント・ワークという概念は非常に役に立つ。だから日
本としてもディーセント・ワークを守ろう、それを開発途上国に伝達していくというのが
非常に我が国にとってもプラスじゃないかと思います。そのためには日本の国内でディー
セント・ワークが理解され、実践される必要があるということから、日本 ILO 協会はディ
ーセント・ワークについてのセミナーを開催してきましたし、これからもやっていこうと
思います。
13
本日はお集まりの皆様方にもディーセント・ワークという概念について深い理解を持っ
ていただいて、そしてこれからのディーセント・ワークの実現にご参加していただいて、
これから我々のディーセント・ワーク普及の活動にご協力をいただけることを切に期待い
たしまして、ご挨拶とします。ありがとうございました。
【長谷川】
どうも中村会長、ありがとうございました。以上をもちまして、第1部を終
了いたします。
-第 2 部-
【長谷川】
それでは第2部を始めさせていただきます。第2部では基調講演といたしま
して、お2人よりお話をいただきます。最初は赤尾信敏様であります。赤尾様は長年外務
省にて外交官としてご活躍され、在ジュネーブ日本政府代表部大使及び在タイ大使などを
歴任されております。またご著書に「地球は訴える-体験的環境外交論」がございます。
赤尾様は在ジュネーブ日本政府代表部大使の折、1998 年 6 月から1年間 ILO 理事会の議
長を務められました。本日、皆様にお配りをしました「ILO と私」という記念の随筆集に
もそのときの思い出が綴られております。
本日は「ILO の役割とディーセント・ワーク推進における我が国の国際的な役割・貢献」
と題してお話を伺います。では赤尾様、よろしくお願いいたします。
【赤尾】
赤尾でございます。外務省に勤めておりましたが、外務省を辞めてから去年の
12 月末まで日本 ASEAN センターの事務総長をやっており、特に東南アジア諸国との経済
関係の関係で何度も東南アジアを訪れてきました。したがって、本日は「ILO の役割とデ
ィーセント・ワーク推進における国際的な役割・貢献」という非常に広いテーマをいただ
いておりますが、20 分という限られた時間ですので、日本とアジアとの関係における日本
の役割を中心にお話ししたいと思います。特に ILO の役割につきましては、先ほどご来賓
の挨拶を初め、皆様のご挨拶の中でディーセント・ワークの経緯等も含めて詳しくご説明
がありましたので、できるだけ重複しないようにしたいと思います。
まず、ILO の目的、活動分野の変遷に関して一点指摘しておきます。ILO にとって国際
労働基準の設定は引き続き重要な役割でございますけれども、最近、特に 1998 年宣言の
採択以降、技術協力等を通じていかにそれを促進するかという方向に優先分野が変わって
きているという点です。特にその関連でディーセント・ワークが非常に重視されていると
14
いうことだと思います。
ディーセント・ワークそのものにつきましてもこれまで大分お話がありましたので、私
からは1つだけ追加的に申し上げます。ソマビア事務局長の挨拶の中にもありましたグリ
ーンジョブ・イニシアティブについてです。もともとディーセント・ワークの戦略目標は、
仕事の創出、仕事における権利の保証、社会的保護の拡充、社会対話の促進と紛争解決の
4つ、プラス4つの戦略目標に横断的な目標としてのジェンダー平等となっています。し
かるに、最近になって、地球温暖化、生物の多様性保護・保全とか色々と環境問題が重視
されてくる。それにつれて経済のあり方も変わってきます。雇用についても、ある部門で
はだんだん衰退し、新しい分野で雇用がどんどん増える。そういう状況に対応した仕事を
ILO としてもやっていかなければいけないというのがこのグリーンジョブ・イニシアティ
ブだと思います。
ディーセント・ワークを理解するには、ディーセント・ワークの欠如とはどのような状
況かをみるとよいと思います。これについては、ILO が、失業や不完全就業、質の低い非
生産的な仕事、危険な仕事、不安定な所得、権利が認められない仕事、男女不平等などを
特にディーセント・ワークの欠如の例として挙げております。
ソマビア事務局長が 1999 年 3 月に就任し、その 3 ヶ月後の 6 月の ILO 総会にディーセ
ント・ワークの概念を提出して、承認を受けました。当時はまだその概念があまりはっき
りしませんでした。したがって G8 を初め、国際機関においても、国際会議の場において
も、これをどのように扱い、認知していいのかよくわかりませんでした。しかし、2000
年を過ぎて、2005 年の国連世界サミットとか、経済社会理事会の閣僚会合などでだんだん
認知され始め、G8 サミットにおいても 2 年前のハイリゲンダムサミットにおいてディー
セント・ワーク・アジェンダを支持するという文言が入りましたし、昨年の新潟における
G8 労働大臣会合においてもその点が確認されました。
ASEAN 諸国は、今 2015 年までに共同体を樹立するということで着々と準備を進めてお
ります。安全保障共同体、経済共同体、社会文化共同体という 3 つの柱から成る ASEAN
共同体の樹立を目指しています。その共同体の青写真(ブループリント)の中にも ASEAN
の労働文化や職場の安全衛生にディーセント・ワークの原則を組み入れるという点が明記
されております。
国連が 2000 年に採択した、国連ミレニアム開発目標(MDG’s)がありますが、当時は
その中にディーセント・ワークという語は出てこなかったと記憶しています。しかし、最
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近では、MDG’s の進展状況を点検するプロクレスレポートの中にも生産的かつ適切な雇用
という語が入るようになったということで、国際的に認知も広がり、いわゆるメインスト
リーミング化されてきたと言えると思います。
それではアジアと日本との関係を中心にお話し申し上げたいと思います。よく新聞など
でも報道されますように、アジアは 97~98 年の経済危機を克服し、経済成長も順調で「世
界経済の成長センター」
、「21 世紀はアジアの世紀」と言われています。2015 年までには
世界の労働者の 60%がアジア地域にいて、もしもこの経済成長とディーセント・ワークの
達成がうまくいけば、これは世界に対するモデルになるのではないかとも期待されている
わけです。他方、アジアというのはそんなにバラ色の地域ではなく、グローバル化の下で
国家間、国内での格差が拡大してきていることも指摘されてきました。日本でもよく言わ
れるように、経済成長は確かに高いが、雇用弾力性は1以下でギャップが生じている。特
に若年失業者の問題は深刻化してきている。これはヨーロッパでも深刻ですけれども、ア
ジアに世界の若年失業者の半分近くが集まっています。また、2005 年の段階で世界の 3
分の 2 の、収入が 1 日 2 ドル以下というワーキング・プアがいます。
ILO の資料によれば、南アジアにおいては労働者の 84%が、東南アジアで 58%、東ア
ジアで 47%がワーキング・プアであるということです。そのほかにも、ジェンダーギャッ
プの問題、不完全就業の問題もあります。特にディーセント・ワークとの関係でいえばイ
ンフォーマル経済の比重が非常に大きいことが問題です。国家公務員とか賃金労働者のよ
うにきちんと社会保障制度を適用できるような環境下で働く人々ではなくて、インフォー
マルな経済、農業等も含め社会保障制度もなかなか適用できない分野で雇用されている人
が非常に多い。これもアジアの特徴になっております。国によっては雇用の 80%以上がイ
ンフォーマル経済に従事している国もあり、中でもインドは 94%に相当すると、ILO の資
料には出てまいります。
以上のような状況を踏まえて、アジアの優先課題は何か。2 年前に釜山で開かれました
ILO のアジア地域会議で「アジアにおけるディーセント・ワーク実現のための 10 年」とい
う文書が採択されました。そこには、優先課題として雇用の量と質、量だけでなくて質
(more and better jobs)も大事だということが強調されています。職場での権利保護、特
に中核的労働基準とされる条約の批准が、世界で最も遅れた地域であり、なかでも第 87
号条約と第 98 号条約、これは労働団結権とか団体交渉権に関するものですが、これらの
条約の批准を促進する必要があり、それに合わせて国内の労働関連法令を整備する必要が
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あるということが特に強調されております。同時に社会保障制度、特にアジアの国々では
日本や韓国を除いて、非常に整備が遅れております。年金制度も整備された国は少なく、
整備されても法律の発足自身が新しいものですから、例えばタイだと 2014 年までは年金
の支給が開始されないということで、その間どうするのかという問題があります。失業保
険制度についてはまだ導入されていない国がほとんどです。社会福祉の問題、公衆衛生、
労働安全の問題、これらは今やっとアジアにおいてはフォーマル経済で働く人たちに対し
ては適用が始まりつつあるところです。しかし、大多数が働いているインフォーマル経済
ではほとんど適用されていない。これをいかにインフォーマル経済部門へ拡大していくか
というのが非常に重要な課題です。同時に、フォーマルな経済部門も含めて、アジアの後
発途上国と言われるカンボジア、ラオス、ミャンマー等では、そういう分野はもっと遅れ
ているということが言えると思います。
私もカンボジアのある大きな繊維工場に視察に行ったことがありますが、
「ここの労働賃
金はいくらですか」と尋ねると、「月給 85 ドルだ」と言うんです。「それでは社会保障と
か医療保障はどうなっているのですか」と聞くと「いや、それは全く制度としてはないか
らそれだけ払えばいいんだ」というような話でした。それが一部のアジア諸国の現状であ
ると言えます。
もう1つ、アジアでは国境を接した国が多いことから、移住労働者の問題が重要な問題
になってきております。彼らは社会的弱者で、十分社会保障制度が行き渡っていないとい
うことで、その管理・待遇の問題が重要になってきています。
では、以上のアジアの実情を踏まえて、日本は ILO を通じてどういうことができるかと
いうことを考えてみます。最初に申し上げたいことは、やや性質が違いますけれども、ま
ず ILO 本部のあるジュネーブでの役割からお話します。中村日本 ILO 協会会長から先ほど
詳しく説明がありました、1998 年宣言の採択における日本の役割を例として挙げてみたい
と思います。これは ILO に限ったことではなく国際機関一般において、特に国連のグルー
プでは同様ですが、地域グループでまずいろいろと議論をして、それを集約して全体のコ
ンセンサスを醸成していくというのが一般的な審議のやり方です。そして、ILO では、日
本は西側先進国のグループとアジア・太平洋地域グループの両方に入っています。1998
年の宣言の採択のとき、たまたま日本はアジア・太平洋地域グループのコーディネーター
をやっておりました。その際非常に苦労したのは、二つのグループでの意見の相違です。
特にアジアのインドとかパキスタンとか英語の達者な国々が強く主張したのですが、批准
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していない条約についても責務を負うことになるという懸念から、こういう社会条項を将
来さらに強化されていくのではないかという懸念や、あるいは人権問題についはこれらの
国々がしばしばとる態度ではありますが、非常に強硬な意見を述べて、このようなものを
支持することはできないという意見が非常に強かったわけです。ですから、日本はコーデ
ィネーターとして、アジア諸国の反対のためにこの宣言がつぶれたら大変だということで、
西側先進国とアジア諸国との意見を聞きながら折衷案をうまく模索して採択にこぎつけま
した。このことは、西側グループだけでなく、アジアグループからも大変評価してもらい
ました。三者構成の ILO では、労働側は労働者グループとして一体となって活動していま
すが、当然彼らは宣言については支持しています。使用者側も支持していました。事務局
ももちろん一生懸命作業をしたわけで、彼らからもそれぞれ高く評価されました。このよ
うに日本は先進国とアジア諸国との懸け橋となりうる立場にある貴重な存在なのです。
普通はこの地域グループのコーディネーターというのは1年任期ですが、非常によくや
ったというので2年目もやってくれと頼まれ、例外的に2年間務めました。さらに3期目
もやってくれと言われましたが、それをやっていたら大変だというので断ったという経緯
があります。この実績が買われて、2004~05 年に再びコーディネーターを引き受け、さ
らに現在、2008~09 年もコーディネーターを務めています。このように、ジュネーブに
おいては日本の活動は大変評価されているといえると思います。
1998 年宣言をめぐる日本の動きについては、ILO 協会の「ILO と私」という皆さんのお
手元にお配りしてあります随筆集に、当時私の下で活躍してくれました伊澤参事官(当時)
が書いておりますので、時間のあるときにご参照いただければ幸いです。
それではアジアにおける役割として日本はこれまで何をやってきたのか。私はたまたま
1999 年から 2001 年まで大使としてバンコクに駐在しました。そのときにタイの政府から
高い評価を受けましたのは、
「新宮澤構想」と呼ばれたものです。1997 年~98 年のアジア
通貨危機で多くの企業が破産し、失業者は増えて、特に労働者が大変困った状況に陥りま
した。当時は社会保障制度も完備されておらず、失業すれば収入はゼロという状況でした。
そのときに新宮澤構想の下で日本は 300 億ドルのアジア諸国への資金還流策を実施しまし
た。タイだけで総額約 18 億ドルの資金を提供しましたが、それによりタイ政府は特にソ
ーシャルセーフティネットの整備を始めたのです。日本の支援のおかげで非常に助かった
と言ってタイの首相以下、閣僚その他から評価していただいた経験があります。あのとき、
本当に日本こそは A Friend in Need Is a Friend Indeed(「困ったときの友こそ真の友」
)と
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いう諺を実際に行動で示してくれた国だと言って評価されました。
2番目は、ILO への任意的拠出です。日本は ILO への義務的分担金は全体の 16%あまり
で、加盟国中米国に次ぐ大きなウエイトを占め、年間 65 億円ぐらい出していますが、そ
れとは別に、ディーセント・ワークなどに絡んだ具体的プロジェクトを実施するために ILO
に自発的拠出金を出しております。日本の自発的拠出金は約1億 6300 万円、およそ160
万米ドルで、様々なプロジェクトを実施してきています。
JICA も ILO の様々なプロジェクトと協力をしております。具体的には、アフリカにお
ける一村一品運動への協力や、フィジーでの廃棄物プロジェクトに ILO から協力を仰ぐと
いう例があります。
また、日本が国連に設置した信託基金である「人間の安全保障基金」を活用して、例え
ばタジキスタンにおける人身売買防止のためのプロジェクトとか、フィリピンやタイにお
いて、帰国した人身売買被害者の経済社会復帰訓練をなどを ILO と協力して行っています。
政府関係以外でも、連合、NTT 労組といった労働組合関係、生協、イオンなどが ILO に
資金提供してくださっています。しかし、残念ながら日本の自発的拠出金の総額は国際的
に見ても非常に少ないというのが現状です。
日本政府の ILO へ出している任意拠出金の推移をみますと、ピーク時は 1990 年代中頃
から後半ですが、年間3億円あまり出していました。しかし、日本の ODA 予算の減少に
つれて、いまや半減してドルベースで約 160 万米ドルしか出していない。ILO のこの任意
拠出金の全体規模1億 3000 万米ドルに占める 160 万ドルというのは1%ちょっとにしか
すぎません。日本の経済規模からみて余りにも少ないと言えます。分担金は全体の 16%あ
まり出していますが、任意拠出のほうは1%あまりというわけです。もしも本当にディー
セント・ワークに日本が賛同して、これを一生懸命支援しようというのであれば、できる
だけこの分野の活動経費も増やしていただけると非常にありがたいと思います。
では、具体的に日本はどのような貢献ができるか、大雑把な項目を挙げてみましょう。
まず第1に、
「ディーセント・ワークの推進への寄与」です。具体的には、社会保障制度の
整備、職業安定行政、高齢化への対応など日本の経験・ノウハウを伝播させることが中心
となります。
第2に、
「グリーンジョブ・イニシアティブへの貢献」です。日本は環境先進国でもあり
ますので、日本の技術、経験を広めていく。特にアジアで広めていく余地が非常にあると
言えます。ただし、ILO との関係ではまだあまりやっておりません。オランダの例を1つ
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紹介しますと、オランダはバングラディッシュの農村で女性たちの協力を得て、各コミュ
ニティにソーラーパネルを設置するプロジェクトに資金を出しています。これは非常にマ
イクロファイナンシング的で、1件につき 250 ドルで何百というソーラーパネルを設置し
て電力を得、販売する。これは、コミュニティ活動に、あるいはコミュニティ経済に大変
寄与しているというお話を伺いました。日本としてもこうした分野で得意の技術を使って
大いに貢献できるのではないかと思う次第です。
第3に、
「アジアに対する ODA の増額」です。4月中旬の日本 ASEAN 首脳会議はデモ
で流れてしまいましたが、あのときに麻生総理がパタヤで、アジアに対して今後5年間で
2兆円、約 200 億米ドルの ODA を出す、これは相当な増額となるということを発表しま
した。その中には、影響を受けやすい分野・人々への支援、セーフティネットの整備、保
健医療などが謳ってありますが、これはディーセント・ワークに関連した活動かと思いま
す。是非ともこのような分野でさらに積極的な協力をしていただきたいと思います。また、
この ODA 増額の中では、エネルギー安全保障も大きな柱の1つになっております。特に
日本の省エネ技術、その他、環境技術を使った、いわゆるグリーンジョブ・イニシアティ
ブへの協力を推進してほしいと思います。加えて、麻生総理の発表の中にはインフラ整備
も強調されております。特にいまの世界的な経済危機の下で、ASEAN 諸国もインフラを
大いに整備し、それによって雇用創出をも目指しております。これまでも日本は ASEAN
を始めとするアジア諸国の道路、鉄道、港湾、空港、橋、その他のインフラには相当たく
さんの ODA をつぎ込んでおりますけれども、現在なおインフラ整備の必要性は高く、今
後とも麻生総理発表のラインで大いに実施し、併せて雇用創出に貢献してほしいと思いま
す。
最後に「EPA、アジア諸国との経済連携協定の締結」です。我が国は過去数年間、ASEAN
諸国を中心に二国間の経済連携協定を着々と整備してまいりました。このような協定は我
が国と ASEAN 諸国、あるいはアジア諸国との貿易投資、観光などの促進のための環境整
備に役に立ちます。そうすれば我が国の民間企業活動、民間投資等を通じて雇用増、ある
いは社会保障制度の推進につながるのではないかと思います。
次に、ディーセント・ワークとの関係で、特に社会保障制度の整備の面で我が国に何が
できるかを考えてみたいと思います。アジアにおいては、韓国が日本の制度を参考にして
今日のように整備が進んだと理解しておりますが、この分野での経験が豊富な日本として
は、アジア諸国の社会保障制度の企画立案、法制度、数理計算、行政手続き、電算化等の
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分野で大いに技術提供をできると思います。その改善の方向について、ILO 本部の山端(や
まばな)さんという社会保障の専門家の方のお知恵を拝借しました。アジアの各国では、
インフォーマル経済部分も含めて社会保障制度が非常に遅れています。ですから、保険制
度ではなく、まず全国民を対象とした税財源による最低限の社会保障を推進するべきだと
いうことです。もう1つは、その上乗せとして、賃金労働者を対象にした社会保障制度、
具体的には賃金労働者に特化した雇用保険とか労災保険等の制度の向上を図るべきだとい
うことです。このあたりを重点的にやるべきであるということです。これらは JICA ベー
スの二国間協力でもいいですが、我が国にそのような専門家がどの程度いるかわかりませ
ん。できるだけ ILO の専門性も活用しながらやっていくのがいいのではないか、と考えま
す。
先ほど申しましたように、我が国は道路、港湾といったインフラなどハード面の整備に
は非常に強いのですが、こういう制度整備等のソフト面では必ずしも強いとは言えない。
語学面のハンディキャップもあります。そういう意味で ILO を活用して実施するのが賢明
ではないかと思います。その一環としてセミナーを開催して、この地域の先進国、中進国、
後発途上国の代表を集めて色々と経験を分かち合って活用していくことも有益です。
最後に、日本企業の CSR とディーセント・ワークについてお話をしたいと思います。
4月にバンコクへ行った際に日本商工会議所の関係者の方々と意見交換をしてまいりまし
た。OECD の多国籍企業の行動指針があり、同指針にはできるだけディーセント・ワーク
的な内容の社会保障制度などを整備するようにということが書いてあります。その一環と
して、日本企業の CSR の一つとして、このディーセント・ワークに沿ったラインで色々
な制度を導入していくことが望ましいと考えます。日本企業の現状を見ますと、ASEAN
諸国、アジア諸国の法令の範囲内のことはきちんと遵守されているようです。そして、こ
れらにプラスしていろいろとやっておられる会社も多々あります。このあたり、いちいち
申し上げる時間がありませんので割愛しますが、健康診断の実施や医療保険もありますが、
医療保険に加えて、上乗せの医療保障をやっている企業が非常に多いということをお聞き
しました。また、自社退職制度の上に、またプロビデントファンドを設置している企業が
非常に多くなっています。労働組合ももちろん国内法に沿って認めている。無論、労働争
議もあります。そういうのがバンコックにおける日系企業の現状だというように承知しま
した。
今話に出しましたプロビデントファンドですが、これは貯蓄制度みたいなものです。イ
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ギリスの元植民地であったマレーシアとかシンガポールなどアジアで非常に進んだ国でも
必ずしも年金制度は発達しておらず、プロビデントファンドが広く設けられています。し
かし、職員が退職するときには全額引き出してしまって、年金化できないというような状
況のようです。まだまだアジア諸国においては日本が制度設計、その他において助言した
り、協力したりする余地は非常に大きいという気がしております。
本日の ILO90 周年記念のシンポジウムを通じまして、ILO の活動に対する皆様のご理解
を深めていただくと同時に、ILO の今後の活動に対して引き続きご支援、ご協力いただき
ますよう祈念いたしまして、私のご挨拶といたします。どうもありがとうございました。
【長谷川】
赤尾様、どうもありがとうございました。
それでは続きまして、東京理科大学総合科学技術系研究科長を務めておられます伊丹敬
之(ひろゆき)様からお話を賜りたく存じます。伊丹教授は一橋大学に長く勤められて、
一橋大学の名誉教授でもいらっしゃいます。有名な経営学者でもございまして、長年、
「人
本主義」という言葉を使い、人に着目した経営理念を唱えておられます。多くの著書も発
表されておられ、
「人本主義企業、変わる経営変わらぬ原理」
「経営戦略の論理」
「場の論理
とマネージメント」などの著書がございます。また、さまざまな政府関係審議会の委員を
務められるなど各方面で活躍をしてこられています。
それでは伊丹先生、よろしくお願いいたします。
【伊丹】
ただいまご紹介いただきました東京理科大学の伊丹でございます。やっと「東
京理科大学の伊丹です」という自己紹介をすることに慣れてまいりました。30 数年、一橋
大学に勤めておりましたので、いまでもついうっかりと「一橋大学の伊丹です」と言いそ
うになります。先日、東京理科大学の学長とお会いしたときに「一橋大学の伊丹です」と
言ってしまって大変恥をかきました。(笑)しかし、やっと慣れてまいりました。
本日は私が一橋大学におりますころから、日本の企業の経営の原理というのは、人に着
目した、あるいは人を中心とするような経営のやり方で、
「人本主義経営」とでも言うべき
ものだというような話をしてまいりました。本日は、それを中心に、それが一体ディーセ
ント・ワークという、このシンポジウムの中心のテーマとどうつながるかということをお
話ししたいと思います。
最初に、ディーセント・ワークに関わるこのシンポジウムで、なぜ私が日本の企業のこう
いう経営のあり方について話すことをお引き受けしたかということについてお話しします。
実は私はディーセント・ワークという言葉を存じあげず、依頼を受けた際、ワークがディ
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ーセントであるというような仕事の仕方を自分はしていない、昼も夜も原稿を書いたりし
て本当にインディーセントな仕事の仕方を自分自身がしている、そのような自分にそんな
立派な話はできない、と思いました。なおかつ、きょうのこのシンポジウムが4月 27 日
というゴールデンウィークに既に入っていて、こういうときに働いちゃいけないのではな
いかと。そういうときに仕事をするというのもインディーセントだなと思いながらお断り
しようかと思ったのですが、ご依頼の趣旨をよくお聞きしたところ、私がお話しすること
にも若干の意味があるかと思って参りました。
先ほど赤尾大使からディーセント・ワークという言葉の意味、それに対して日本がどう
いうことをやってきているかという日本の役割についてのご説明がございました。私なり
の解釈を若干付け加えさせていただきますと、ディーセント・ワークでない例として最初
に「失業」という問題が挙がっていました。つまり人が職を失う、雇用がなくなるという
ことがインディーセントな最もいい例だということです。
その点から考えますと、私は日本という国は世界に対して非常に大きな貢献をしている
国だと思います。これだけの経済危機だと騒がれながら、日本の失業率はまだ5%いくか
いかないか。アメリカはもう9%になろうとしています。戦後 60 年の日本の経済発展の
歴史の中で、過去最高の失業率というのが 5.5%という数字だったと思いますが、異常に
低い値です。異常なまでの失業の少なさは、国全体で雇用を守るということがどれぐらい
大きな意味があるかということを政府も労働組合も働く人も、もちろん経営者も企業もよ
く理解している、最も進んだ国だということを示しているのではないでしょうか。その意
味では、日本はディーセント・ワーク最先進国と言ってもいいのではないかと思います。
企業の側からすると、雇用維持の姿勢が強いのは、人間に対するヒューマニズムのレベ
ルが高いということだけではなさそうです。雇用を維持し続ける、あるいは働く人たちが
この仕事はディーセントだと思えるような職場環境をつくるということは、実は企業の発
展にとって極めて経済合理性が高いことだと私は思います。職場における人のつながりを
大切にする経営をし、当然のことながら雇用というものをできる限り維持したいという経
営の姿勢を持つことは、経済合理性が高いと同時に、働く人たちにインディーセントな思
いをさせないという意味でも極めて大きな貢献があります。そういう経営を戦後 60 年に
わたって多くの企業がやってきた。日本の企業はすべてがそうやってきたとは決して思い
ません。日本の国の中にもとんでもない出来事もたくさんありますし。
「とんでもない」で思い出しましたけど、都心の公園で夜中の3時に真っ裸になるとテ
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レビで大騒ぎする国というのは幸せな、平和な国ですね。あれがなぜ公然わいせつ罪にな
るのか。誰も見ていないじゃないかと。まあちょっと冗談ですが、それぐらい平和な国で、
こういうことをやってきたということが日本の最大の貢献です。しかもアジアやアフリカ
といった日本以外の国々に対する国際的貢献として、企業がディーセント・ワークという
観点でできる最大の貢献は日本における雇用慣行、雇用の維持の姿勢、職場のつくり方な
どです。そういったものを日本の企業が日本以外の土地でもかなりの程度実践をしていく。
無論、その国の労働市場に合わせなければいけませんが、それこそが最大の国際貢献では
ないかと思うわけです。
このように私が思う、その背景になっている日本企業の経営の原理、それを私自身はど
う考えているのか。人々が働くということの極めて基本的な問題と、仕事の場を企業の側
がつくるという、これまたごくごく当たり前に見える話とどのようにつながっているのか、
そのようなことをお話ししてみたいと思います。
私は「人本主義」という言葉の定義を非常にシンプルに書きました。
「人と人とのつなが
りを職場できちんとつくり、あるいは職場を超えてつくり、それを維持していくことを大
切と考える経済組織の編成の原理だ」と。あくまで経済組織の編成の原理です。ここで「経
済組織」という言葉で私が意味しておりますのは、もちろん典型的には企業組織のことで
す。しかし、それ以外にも企業と企業の間の市場関係、取引の関係も一種の経済組織体で、
それのつくり方においても人と人とのつながりを重んじる。したがって簡単に取引関係を
切ったりしない。苦しいときにも一緒にやる。なぜなら、人のつながりを大切にすると、
実はとってもいいことがたくさんあるからです。
人本主義というのは私の造語で、資本主義という言葉に対応させて思いついたものです。
資を本にすると書いてあるように、資本主義経済の一番の原則は市場経済の一番根幹にな
っている貨幣、金というもののつながりをきちんと経済組織体の中でつくる、それが非常
に経済合理性が高い、とする原理だと理解すればいいと思います。それと対応させますと、
人のつながりを非常に大切にするということと、金のつながりを非常に大切にするという
こと、どちらも経済原理としてはあり得ます。
資本主義という経済の形態がいつ世界に登場したかというのはいろいろ議論があるとこ
ろですが、例えば中世のヨーロッパにそういう仕組みがかなり大きくなってきたときに、
それまでキリスト教の教会を中心とした経済生活を送ってこられたような中世ヨーロッパ
の方々は新鮮な驚きだったのではないかと思います。ずっと神を通じて人のつなりが大切
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だと思っていたら、金のつながりでやると世の中うまくいくんだよと言われたわけです。
これは何か意外な原理でございます。アダム=スミスという有名なスコットランドの経済
学者が「神の見えざる手」ということを言って、人々が自分の経済的利益をただひたすら
に追及すると、不思議なことに社会全体で調和の取れた経済発展が起きるという原理を述
べた。これは実に逆説に満ちた原理です。このように、資本主義が世の中に登場したころ
には、その当時では逆説的な原理だったのではないかと思います。それが世界中席巻いた
しました。もちろん日本にもまいりました。
日本の人本主義という原理が比較的まっとうな形を取って、経済の中で息づき始めたの
は第2次大戦後だと思います。その歴史的事情を本日お話しする時間的余裕はありません
が、市場経済というものは、最後の最後には金がものを言う世界です。そういう世界をベ
ースとして、人のつながりを大切にするという原理を企業組織や市場のつくる際に注入し
たら一体どうなるか。そういう壮大な実験を日本はやったという気がしております。だか
らこそ日本の経済はうまくいったのだと思います。具体的なイメージを描いていただくた
めに、この辺のお話を少しだけいたします。そのために、まず3つの問いを設定いたしま
す。
「企業は誰のものか」
、
「企業組織内の権力、カネ、情報の分配をどうすべきか」
、
「市場
取引(企業間関係)はどうすべきか」の3つです。
人本主義の企業システムでは、「企業は誰のものか」と問われたら、「従業員のもの」と
答え、株主はあくまでサブの存在に過ぎないと考える。ただし、会社の社長がはっきりこ
う言うとアナリストに責められ、株主総会で責められるので、これは言ってはならない。
言ってはならないが、考える。私は学者ですから、言っても誰にも責められません。もっ
ともこういうことを言っていたら、
「伊丹敬之というのは法治国家である日本を紊乱する不
逞の輩」というコメントを書かれたことがあります。商法で規定されている株主の権利を
否定する男だと。私は、
「それは商法が間違っていると思うからそういうことを言っている
のです」と反論します。商法は人間がつくった法律で、神様が下さった原理原則ではない
のですから、具合が悪いと思ったら変えたらいいと。実際に変えようとした国がドイツと
いう国です。なかなかうまくいかないところもありますが、このように皆考えています。
だから株主の配当は削減しても、従業員の雇用は守ろうとする経営者が日本には多いので
す。もちろん日本でも「絶対に雇用は切りません」と言う経営者ばかりではありません。
しかし、アメリカなどと比べれば、株主と従業員に対する対応の仕方は明確に異なります。
では、2番目の問いです。企業組織の中で働いている多くの人たちは何を求めているの
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か。賃金という意味での所得、お金が欲しい、あるいは人によっては人を指図する権力み
たいなものを欲しがる人もいる。あるいは色々なことをたくさん知りたい、情報を持って
いることが権力の源泉だと思い、情報を持ちたいという人もいる。そういうときに、権力
や金や情報を誰にどれぐらい分配するかというのは企業組織の設計の仕方としては根本中
の根本です。この設計において、人と人とのつながりを安定的に育てていくことが大切だ
という考え方をベースに置いて考えていきます。権力や金や情報の分配を特定の人に全部
集中するようにしたら、そこでの人間関係は大体壊れます。安定的にならない。だから分
散的、平等的にやるようにする。ただし、これが行き過ぎると悪平等という言葉になるわ
けです。ちなみに、この悪平等という言葉も便利な言葉です。悪平等だというから悪いの
ですが、どこから平等が過ぎると悪になるか一言も言ってない。
3番目は市場取引です。経済の中における人間と人間の関係というのは決して1つの企
業で働いている、その働いている職場の中の人間関係だけではありません。企業は他の企
業と取引をしています。自動車メーカーは部品メーカーから部品を買い、あるいはディー
ラーさんに車を売っていただいている。そういうさまざまな取引関係が企業と企業を超え
てある。これは全部市場取引です。市場取引ですが、そうやって決めているのは人間です。
Aという会社でBという会社から何かを買っている、売っている。その人たちの間の関係
はどのようにつくればよいか、というのがこの問題です。そして、その一つの答えが長期
継続取引です。これを別の言葉で言うと、「系列」という言葉になる。「系列は経済合理性
が高い」ということを私の恩師である今井賢一先生と国際的にも日本国内でも言いだした
のが 1980 年代の初めでした。皆、最初はびっくりしました。系列というのは下請けいじ
めの温床であり、経済的搾取の象徴的言語だったのですが、それが経済合理性が高い、だ
から日本の自動車産業は強いのだと言いだしたのですから。長期継続取引をやると、なぜ
経済合理性が高いかということについては、後ほどお話しいたします。
いま申しましたような人と人とのつながりということを中心的に考えるという考え方が
なぜいいのかということを説明するためには、そもそも人はなぜ働くのか、働くというこ
とはどういうことか、仕事の現場では一体何が起きていると考えるべきか、といった原理
原則の問題にさかのぼって話したほうがわかりやすいと思いますので、これを次にお話し
いたします。
人はなぜ働くのか。私は二つあると思います。「稼ぎ」
、すなわち所得が欲しいからとい
うのと、やること、仕事そのもの、すなわち「勤め」が欲しいからというものです。よく
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定年退職された方が病気になられ、お亡くなりになる確率が高いといわれます。それは人
が人生に意義を感じて長生きするためには、金と年金があればいいのではなく、働いてい
るということが大切なのだということの良い例のように思います。したがって働くという
ことは「稼ぎ」と「勤め」と二面性を持っている。そのように考えますと、自然に企業組
織も二面性を持っているということになります。
「働く」ということを労働経済学の方たちが定義すると、労働サービスと引き換えに賃
金を受け取る市場契約の一種だとおっしゃる。本当にそれだけか。確かに企業というもの
は経済組織体です。市場経済の中で働く人々にその企業の経済活動に参加していただいて、
その方たちには賃金を差し上げて、さらにその上に利益を出そうとする経済体であること
は間違いありませんから、働くということは稼ぎの側面を持ち、それはすなわち労働サー
ビスと引き換えに賃金を渡すというのが労働の本質的内容だと。これは間違いではありま
せん。でもそれだけかと言いたい。
そういう経済組織体ができて、人が働き始めますと、否応なしにその経済組織体の中に
職場共同体、社会が生まれてくる。それは2番目の「勤め」であり、仕事の内容そのもの
と人と交わる場という2つのうち、この人と交わる場のほうが機能するわけで、これは切
り離すわけにはいかないのです。みんながみんな在宅勤務で1億 2000 万の人間がみな家
で誰とも話をせずに仕事をするような社会だったら稼ぎだけなのですが、みな集まってし
まっており、しかもその集まっている時間は結構長い。1年 365 日、1日 24 時間ある。
これは時間を計算しますと、8670 時間になる。この 8670 時間のうち、人間が食事をした
り、寝たり、動物としての機能を維持するためにどうしても割かざるを得ない時間が3割
や4割あるでしょう。そういうのを引きますと、大体 5000 時間ぐらいが動物としての機
能を維持する以外に使える時間。よく年間労働時間が 2000 時間とか 1800 時間とか申しま
す。仮に 2000 時間だといたしますと、5000 時間のうちの 2000 時間というのは4割。つ
まり真っ当に起きている時間の4割を職場で使うのです。通勤時間は入れていません。す
なわち人生の4割を多くの人々が大なり小なり色々な職場で過ごすということになる。そ
うすると人間の社会生活の4割は企業組織の中で行われるということになる。職場共同体
が生まれて当たり前で、これは別に日本に特殊な話ではなく、どこの国でも生まれます。
ただし、国によって文化的伝統、歴史的伝統、社会慣習等様々な理由で職場共同体のあり
方が若干変わるということはあります。
したがって雇用維持を大切だと考えるのはある意味で非常に真っ当な考え方で、雇用を
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断たれるということは、経済組織体への「参加」のみならず職場共同体という社会生活へ
の「所属」も拒否されるという二重の阻害となります。このように、経済共同体へは「参
加」をし、職場共同体には「所属」するというような言い方ができるような気がいたしま
す。ある特定の共同体であれ、組織体であれ、それにある人間が「参加する」か、
「所属す
る」か、という言葉のニュアンスの違い、これは結構大きいように思います。
「参加」では、
関係する期間は短くても構わんという意識になるし、意図的に意思を持って参加するとい
うこともある。ところが「所属」ということになると、意思を持たずに所属するというこ
とはたくさんあります。例えば私は日本国の国民ですが、自分の意思で日本国民を選んだ
のではない。いつのまにか生まれちゃっただけで、所属しているのです。
このように「参加する」と「所属する」という2つの言葉を使い分けようとしますと、
例えばアメリカでは企業組織へも「参加する」という意識が日本よりは相当強そうです。
日本では企業組織以外のさまざまな組織体であっても、そこにも参加だけではなくて所属
まで求めようとする傾向が強くなる。この理由はよくわかりませんが、そういう傾向があ
るようです。そういう違いをまざまざと思い知らされましたのは、私が一橋大学に勤めて
おりますころの同僚の一人である佐藤郁哉さんという社会人類学者のリサーチです。商学
部にいらっしゃったのですが、大変ユニークなリサーチをなさる方で、暴走族の中に入っ
て観察をされ、
「暴走族のエスノグラフィ」という大変おもしろい本もあります。この方は
本当は硬い方です。その方が演劇活動についてもエスノグラフィ、すなわち民俗学的な観
察研究手法にて、小さな劇団の手伝いをしながら日本の演劇活動とアメリカの演劇活動を
比べるという大変おもしろいリサーチをされた。そのリサーチの中で彼がこう言った。ア
メリカでは演劇をやるというときには、基本的には一つの公演に俳優さんたちが参加する
ためにオーディションを自分の意思で受けるのです。一方、日本では、文学座、劇団「雲」、
あるいは劇団「四季」、みんな劇団に所属するのです。俳優さんの世界ですら日本とアメリ
カで全く違う。ましてや企業組織だったらもっと違って当たり前でしょう。このように「参
加」と「所属」ということを考えますと、日本企業の経営のあり方が、人と人とのつなが
りを大切にするという所属のにおい、共同体のにおいが強い経営の原理になるのは、古い
江戸時代の封建制度の村落共同体の名残であるなどという問題では全くないように私には
思えます。
いったん人間が仕事を始めて仕事の現場に行く。どこの国でも、大抵仕事は集団でやる
ものが多いわけですが、その仕事の現場に一体何が流れるかということを考えてみますと、
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非常に色々なことが、特にディーセント・ワークに関して色々なことが見えてくるような
気がいたします。人と人とが1つの仕事の現場で共同して仕事をやっております。そこで
は必ず金と情報と感情の3つのものが同時に、全く不可避的に流れています。1つだけな
くすなどということは絶対できません。私の甥はいま大工の見習いをやっておりますが、
家を建てる現場に棟梁がいて、親方がいて、現場の職人さんがいて、さらに見習いがいる。
そこで仕事をやっていると金、すなわち賃金が流れます。しかし同時に見習いは親方の仕
事を一生懸命見て、盗んでいるんです。すなわち、情報が流れている。仕事をすることに
よって仕事に関わる情報を獲得しようとしている。そして、誰かが教えてくれるわけでは
ないので、獲得しようとする意思が強い人と弱い人ではまるで違ってきます。そして、最
後に感情が流れます。立派な親方と一緒に仕事をやれば嬉しくなるし、建前のときは何と
なく気分が高揚するでしょう、お酒も入りますから。このように感情が流れる。これは皆
さんの職場でも一緒だと思います。
仕事のディーセンシー、質というようなことを問うときには、この3つの流れそれぞれ
の質を問う必要があると思います。金の質、情報の質、感情の質、いずれも大切だと思い
ます。日本は市場経済の国ですし、大半の国が市場経済の国です。市場経済では貨幣とい
うものを交換の手段と富の蓄積の手段に使いますので、まず金がベースとなります。これ
は結構です。しかしそれにしては仕事のディーセンシーを考えるときに、金の問題に注意
が行きすぎてはいないかという気がしています。もっと情報や感情の流れがどのようにな
るのか、仕事のやり方、組み立て方でそれらがどのようになるのかという問題も考えたほ
うが良いと思っています。それなのに、なぜ金ばかりが中心になるのか。
1つの理由は、それが人間の経済生活の一番のベースだからだという一番真っ当なもの
です。2番目の理由は、どうも色々なものが同時に不可避的に流れているということを考
える枠組みがないということではないかと思います。別の言葉で言えば、経済学者にお金
の流れだけで議論する人が多すぎるのではないかと。経済学者ではない人が議論したほう
が良いのではないかという気がします。
こういうことを考えますと、これからお話しいたします人本主義の良さみたいなことは
さらに原理のレベルにさかのぼっておわかりいただけるのではないかと思います。例えば、
雇用維持の姿勢を企業の側、経営の側が持つということにどのような意義があるかという
ことをこの3つの流れで考えてみます。お金が働いている人のところに大量に流れるとい
うのは、企業の利益という観点からはマイナスです。したがって、これでは雇用を維持す
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る理由にはなりません。しかし、情報の流れがあるということを考えると、それは先輩が
後輩に教えるようにしておいたほうが流れる情報の量は多く、したがってスキルの向上に
なって人が育って、結局いいことがあるということになる。あるいは感情の流れというこ
とを考えますと、みんなが気持ち良く仕事をするように、安心して仕事ができるような職
場をつくれば、その職場に対する人々のコミットメントが増すというのがごく普通の現象
です。これは国を問いません。いつクビを切られるかわからない、いつバラバラにされる
かわからないと思っている人間関係の中で仕事をする人が、仕事にしっかりコミットメン
トし、感情も豊かに流れるということがあるだろうか。ないと考えるほうが普通でしょう。
となるとコミットメント高く働いていただき、相互に教え合うという情報の流れが活発に
起ききてもらうためには、金の流れを多少犠牲にしてでも雇用を維持するということが経
済原則として正しいという結論が出てきて何ら不思議ではありません。
人本主義という考え方では、このような原理原則が背後にあるとして、次のように考え
ます。企業というものは、金を出している株主のものではなくて、従業員の知恵やエネル
ギーこそがその発展の源泉と考える。したがって、従業員の権力がメインであるほうが良
いということになる。雇用については長期的な部分を多くしたほうが有利ということにな
る。また、組織内のさまざまな所得格差等はそれほど大きくしないほうが職場共同体の安
定的維持のためには望ましいということになる。さらに、取引相手の企業とのお付き合い
の仕方にしても、単にその時々に価格の安いところから次々と相手を変えて買うという経
済原則一辺倒のようなやり方よりも、苦しいときにはお互いに長期的な貸し借りの関係で
人間関係を維持するというほうがかえって長期的に効率が高いと考える。加えて、職場で
働いておられる人たちはそこで情報も流れているのだから、その人たちが育つように現場
の工夫、教育投資の工夫をする。こういうことがごく自然に当たり前になってまいります。
こう考える一方で、企業は非常に厳しい市場経済の原則にさらされてもいます。利益が出
なくなれば倒産いたします。したがってそちらとの兼ね合いを当然考えなければいけませ
んから、こんないい話ばかりではありません。
こうした原理に基づく経営のやり方を多くの企業が採り始めたのが第2次世界大戦終了
後の日本だったと思います。大きく分けるとその理由は2つあります。まず第1に、そも
そも江戸時代以降、日本の社会の中にはこの種の原理を受け入れる歴史的土壌があったよ
うに思います。2番目は占領軍です。第2次世界大戦前の日本というのは財閥を中心に本
当に資本主義の権化みたいな国になっていました。それではだめだというので、経済民主
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化をアメリカの占領軍が大規模にやりました。この大規模にやった占領軍の人たちの中に
セブンサムライという方たちがおられたそうで、アメリカでニューディールのときに共産
主義的思想を持って、そういう政策をアメリカでやろうと思ったができなかった。だから
日本でやった。そういうことが歴史的にあったようです。そういうようなことが重なり、
その結果、人本主義的な考え方が大衆を草の根で経済活動に巻き込めるような経営の原理
として機能した。だからこそみんなが一生懸命働くのです。
「株主の富を大きくするためにこの会社は存在しております」と経営者が言っているな
らば、例えば残業を厭わないとか、一生懸命職場の将来を考えて提案を出すとかいうよう
なことを、皆はやる気になるだろうか。自分たちの仲間が将来もきちっと安定して発展し
た生活をしていけるようにするために、自分もその一部として貢献すると言うのであった
ら多くの人がやるでしょう。しかし、
「株主の富を最大にするための道具として私は懸命に
頑張ります」というのは、人間としては信じがたい行為で、だったら俺にもちゃんとたく
さんよこせということに自然となってくる。
私は、日本の経営の原理というのは産業民主主義の一大成功例だったと思います。だか
らこそ第2次世界大戦後の日本の奇跡とも言えるような発展があったのだと思っています。
そこで、人本主義という言葉を用いて、こういう日本の経営の原理についての本を最初に
書きましたのは 1987 年、いまから 22 年前のことです。それ以来私の基本的な考え方は一
切変わっておりません。バブルは崩壊しました。失われた 10 年も経験しました。IT バブ
ルも崩壊しました。いままたリーマンショックで世界が揺れています。その間ずっと私の
意見は全く変わっていません。こうした経営の原理を、新しい厳しい経済の現実に対応し
てどういうふうに適用していくかを考えるのが経営者の仕事であると言っています。
では、人本主義の難しさというところに話を移したいと思います。実は、この人本主義
の経営というのは結構難しい。特に経営者に大変な能力が必要とされる、大変負荷がかか
る経営のような気がいたします。先ほども説明しましたが、日本も市場経済の国で、その
根本の原理はやはり貨幣の原理、金の原理です。その金の原理が経済システムの一番の基
盤となっているところに人のつながりという原理を上乗せすると言うのですから、どこか
矛盾のにおいがある。そういうものを何とかねじ伏せていかなければいけない。市場原理
というのは「参加の原理」です。参加して儲かるとなれば参加し、儲からなければ参加を
打ち切る。非常に単純明快な論理です。ですからわかりやすいと言えばわかりやすい。人
の原理というのは「所属の原理」ですから、これはぬるま湯にもなりやすい。何故ここで
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働いていきたいのかは分からないけれど、どうしても働きたいのです、というような者が
出てきたりして、簡単明瞭にはいかない。整理をすると、次の2つの問題が出てきます。
1つは参加と所属の両立の矛盾です。所属の安定を求めるあまりに組織がぬるま湯にな
り、しがらみばかりが増えて経済合理性の極めて低いことが温存され続けるというマイナ
スが当然あります。もう1つは、原理の二重重ねをやっていますのでどこか不透明、どこ
かでねじれが起きます。典型的な例は経営者のチェック機構です。日本も株式会社制度の
国ですから、経営者のクビを飛ばせるのは株主総会しかない。その株主を徹底的にサイレ
ントにすることで人本主義を実践してきたのが実は日本という国であったと思います。そ
うしますと、経営者が立派な人である限りは、それ自体は構わない。しかし、経営者が暴
走を始めたり、能力のない人がたまたま経営者になったりした場合に、これを動かす、退
いていただくためのメカニズムを失ってしまったようなものです。株主をサイレント化す
る過程で何が起こってきたのか。例えば、株主総会は 10 分を過ぎると総務部長が責任を
取るとか、とにかく質問の出ないことがいい株主総会という世間の常識ができたり、取締
役会というのは内部出身の人がほとんど全部を占めるのが当然であるとか、様々なことを
通して、結果として経営者のチェックメカニズムがなくなってしまった。これは大問題で、
何とかしなければならない。ただし、それが最近流行りのコーポレートガバナンスの仕組
みだとは決して思いません。委員会等設置会社とか社外取締役というのがソリューション
になるのだったらソニーや日立は現在の低迷にはなってないと思います。
しかしそうは言いましても、こういう人本主義の考え方が、ディーセント・ワークとい
う考え方からだけでなく、世界全体の潮流からもますます必要とされるような時代が来て
いるように思います。これには2つの意味があります。一つはデジタル的な人本主義です。
何とか不透明さとかしがらみとかぬるま湯ということを緩和できるような仕掛けを人本主
義の内部につくるような、という意味でデジタル的という時代が来たということです。も
う1つは世の中全体の技術とかグローバリゼーションがデジタル的になってきたからこそ、
デジタル時代だからこそ、人本主義が必要だということ、その2つが重要なメッセージの
ように思います。
グローバル資本主義の危機がいま我々の目の前にありますが、だからこそ人本主義の貢
献が大きいと思います。デジタル時代に、経済を切り刻んで小さな単位にして、そこで市
場原理を働かせるという考え方がもたらす社会の不安定化に対する対抗策として人本主義
は意味があるのではないかと思います。その内容として2つが挙げられると思います。一
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つは、金の卵をつぶしかねない市場原理主義的危機への緩和剤としての人本主義です。市
場経済発展の一番の原動力は、企業です。企業が社会全体のために金の卵を生んでくれる
のです。企業は株主の富の増殖のための機械だとは決してとらえていません。しかし、金
の卵を案外簡単につぶしかねない傾向をグローバル資本主義下の市場原理は持っている。
例えばフィナンシャル・エンジニアリングを使って、結構真っ当にやっている企業でも、
これを切り刻んで資産を売却すれば、それで金が余分に手に入るというような考え方です。
もう1つはデジタル時代だからこそ人のネットワークを大切にして共同体感覚を持つ必要
があるということです。共同体感覚持たないと人間の社会というのはどこか崩壊するので
はないかと思います。
以上の2つは、今言い出したことではありません。2000 年に日本経済新聞社から出版さ
れた本の中で私が書いたことでございます。この本が、日本経済新聞のビジネス人文庫と
してこの3月に復刻されました。9年ぶりに厚い本が文庫として蘇ったのですが、結局グ
ローバル資本主義の危機が、10 年近く前に書いた私の本の命をよみがえらせたということ
になるかと思います。極めて象徴的なのが、今日最後にご紹介したいと思っておりますジ
ョージ・ソロスの話でございます。これもこの 2000 年に書いた本で紹介した話です。
ジョージ・ソロスというのは今でこそあまり有名ではなくなりましたが、10 年前には極
めて有名なヘッジファンドの主宰者で、世界を変にしたと言われているヘッジファンドの
元祖みたいな方です。大変な大儲けをしましたが、しかし極めて透徹した哲学家でもある
方で、鋭い洞察をしています。彼は、10 年以上前の 1998 年に出した本の中で、
「合理主
義が一種の社会規範になれば、社会が不安定になるから、何かの公共の利益を考えるよう
な共同体をつくらなければいけない」ということを言っています。悲しいことに彼の予言
通りになりました。私は先ほどから、安定的な人間関係のネットワークが、情報の流れ、
スキルの向上、人々の経済生活の安定のために必要だと言ってきましたが、安定的な人間
関係というのがもたらす精神的な安定度が社会全体の安定の鍵になるということも非常に
大切に思います。そういうことを深く考えることが、実はディーセント・ワークを日本で
いかに実践したらいいか、あるいは世界的にどうやって広めていくかということを考える
ときの一番基本的で、大切なことではないかと思っています。
ご清聴ありがとうございました。
【長谷川】 伊丹先生、どうもありがとうございました。以上で第2部を終了いたします。
33
(コーヒー・ブレーク)
【長谷川】 第3部を開始いたします。
「現下の雇用情勢を踏まえたディーセント・ワーク
実現のための政策的対応と労使の役割」と題しまして、政労使からお1人ずつパネリスト
としてご参加いただき、パネルディスカッションを行いたいと思います。
まずご参加の皆様をご紹介いたします。政府側より村木太郎厚生労働省総括審議官でご
ざいます。労働側より古賀伸明日本労働組合総連合会事務局長でございます。使用者側よ
り川本裕康日本経済団体連合会常務理事でございます。進行役のコーディネーターには、
先ほど基調講演をいただきました伊丹教授に引き続きお願いいたします。
では伊丹教授、よろしくお願いいたします。
【伊丹】
本日は、今司会者から紹介のありました「現下の雇用情勢を踏まえたディーセ
ント・ワーク実現のための政策的対応と労使の役割」というタイトルの下、具体的な2つ
のテーマを掲げ、1つのテーマごとに 35 分から 40 分程度のパネルディスカッションを行
っていきたいと思います。
≪第1サブテーマ
「雇用安定創出への取組みに関する政労使合意の意義とディーセン
ト・ワークに向けてのさらなる課題」≫
最初のテーマは「雇用安定創出への取組みに関する政労使合意の意義とディーセント・
ワークに向けてのさらなる課題」です。政労使合意については会場の皆様の多くはご存知
のことと思います。この後、村木さんからも若干ご紹介があると思いますが、雇用安定創
出のために3月に政労使の間で画期的な合意がなされました。それが一体どんな意義を持
つか、さらにその合意をベースにディーセント・ワークをさらに充実していくためにどの
ような課題があるか、というようなことをディスカッションしたいと思います。最初に5
分ずつ3人のパネラーの方に、政労使という順序でお話をいただき、その後パネラー相互
の意見交換、最後には会場からいただきました質問でこのサブテーマに関連いたしますも
のをみんなで議論するというような形にしたいと思います。では村木さん、よろしくお願
いします。
【村木】
それでは口火を切る意味で、私から本日のシンポジウムの全体のテーマであり
ますディーセント・ワークと、このパネルディスカッションのサブテーマである政労使合
意をどのように結びつけて考えているのかということを中心にお話ししたいと思います。
ディーセント・ワークというのをどのように考えるのかという点に関連しますが、最初
34
にどのように日本語に訳すのかについて政労使の間で色々な議論がありました。結果とし
て「働きがいのある人間らしい仕事」をディーセント・ワークの訳語としています。この
意味合いについては後ほど少し説明をいたします。ではこの「働きがいのある人間らしい
仕事」を実現していく上で、日本においていま何が重要かと考えたときに、3つあろうか
と思います。まず1つは、ご承知のとおり現下の雇用危機への対応。先ほど伊丹先生のお
話にもありましたが、そもそも仕事がなければ、ディーセント・ワークは始まらないわけ
です。では仕事があればそれでいいのかというと、そうではない。その仕事の内容、質、
環境などが重要なわけで、その意味で、より長い目で見た場合に、2 番目となりますが、
中長期を見据えた仕事の質の向上こそが日本におけるディーセント・ワークという意味で
重要です。そして、3番目に世界のディーセント・ワークにどう貢献していくかというこ
とも重要です。これも先ほど赤尾先生から詳しいお話があったところです。
それでは 1 番目の現下の雇用危機への対応で何をしているのか。昨年の秋以降、3度に
わたり緊急対策を政府として行ってきましたが、これに加えてさらに政労使合意が3月に
行われております。この政労使合意の内容について概要を申しますと、雇用維持を進めて
いく必要があること、雇用についてのセーフティネットを拡充すること、特に就職が困難
な人、長期失業者に対する生活の安定や就職の実現が大切であるとされています。そして、
雇用創出もしていかなければなりません。従来ですと、こうした事柄について「政府は何
とかしろ」と労使が要求するというのが通常のスタイルでしたが、今回まさに画期的なの
は、政労使で協議して合意したという点です。内閣総理大臣・麻生太郎、使用者側からは
日本経団連の御手洗会長、日本商工会議所の岡村会頭、中小企業団体中央会の佐伯会長と
いうお三方、それと先ほどご挨拶された連合の髙木会長。まさに日本の政労使のトップが
一堂に会して、この合意を決めたのです。雇用維持やセーフティネットの拡充等々が大切
で、そのために経営側は何をするのか、労働組合は何をするのか、政府は何をするのか、
一方的に要求をしたり、お前のところが悪いというのではなくて、共通の目的に向けてそ
れぞれがすべきことを約束したという意味で大変重要なものであると思っております。フ
ランスでもやはり政労使の会議でこのようなことをやっているようです。
この政労使の合意を踏まえて、政府としてやるべきことを定めたのが新たな対策です。
ちょうど本日、この対策を実現するための補正予算を国会に提出しているはずです。具体
的には、雇用を維持するために、いわば日本型ワークシェアリングを進めるための雇用調
整助成金の拡充、あるいはセーフティネットの充実のための訓練生活支援給付、その他職
35
業訓練やハローワークの強化、さらに雇用創出を進めていくこととしています。雇用創出
については企業・経営側からも、あるいは労働組合側からも基金に拠出できるような仕組
みとなる予定です。その他派遣労働者、あるいは内定取り消し対策等々を新たに定めたと
ころであります。
では中長期的には何をしていくのか。先ほど申しましたように、ディーセント・ワーク
とは「働きがいのある人間らしい仕事」です。すなわち雇用の量だけではダメで、質、あ
るいは環境をどう整えていくかということが大切になります。そのためには先ほど申し上
げた緊急対策を中長期的対策につなげていくという視点が大事ではないかと思っておりま
す。その意味で特に3つの中長期対策、具体的には、
「若年等の非正規労働者対策、就職困
難者対策」、
「生涯をつうじたワークライフバランス」、「働きがいのある仕事の創出」の3
つですが、これらを現在の緊急対策とつなげていくことが大事であると考えます。そのた
めには政労使三者の対応と協力が大変重要な鍵を握ると考えております。
最後に、ディーセント・ワークという場合、日本国内だけではなくて、世界のディーセ
ント・ワークに我々がどのように貢献していくかということも重要だと思っております。
博愛の精神でこの分野での貢献が重要というわけではなく、日本にとって実際的な意味が
あるということをご理解いただきたいと思います。1つは日本だけが景気回復をする、あ
るいは日本だけがディーセント・ワークを実現するというのはいまのグローバル化社会で
はありえないということがあります。全体の景気回復、そしてディーセント・ワークの実
現が重要なのです。もう1つは、もっと実利的に考えた場合に、日本企業が、あるいは日
本の労働者が世界で活躍するために世界でディーセント・ワークを普及するということで
す。例えば労使関係とか労働安全衛生とか、そういう分野での環境を整備していくことが
重要であるという意味です。この観点から先ほど赤尾先生が詳しくご説明されました。ま
た、日本政府の拠出にて ILO 日本マルチバイ事業というものを行っております。さらに ILO
などの議論にも積極的に参加することとしております。ちなみに今年の6月の ILO 総会で
は世界的な雇用危機への対応について集中的に議論することになっており、我が国として
もこれに参加したいと思っています。以上です。
【伊丹】
ありがとうございました。それでは続きまして古賀さん、お願いいたします。
【古賀】 ILO が創立されて 90 周年、日本 ILO 協会も創立 60 周年ということですが、私
も日本 ILO 協会の副会長を仰せつかっております。このような時期に世界全体が非常に大
きな転換期に来ているということは、まさに働き方とか暮し方とか生き方そのものを考え
36
る本当に絶好の機会ではないかと思っております。
私ごとで恐縮ですが、実はもう 30 年間も労働組合の役員をやっております。ちょうど
30 年ぐらい前に初めて労働組合の役員をやったときに、新しく役員となった人間を集めて
研修があります。そのときに ILO という国際労働機関があること、そしてその歴史の勉強
の中で、1944 年のフィラデルフィア宣言を、すなわち、「労働は商品ではない」、「一部の
貧困は全体の繁栄にとって危機である」ということを習いました。そのときには、昔はこ
んなことが課題だったのかと思ったのですが、いままさに私たちもディーセント・ワーク
の実現、あるいは労働、働くことに対する価値観をもう一度つくり直さなければならない、
そんな時期に来ているのではないかと思っているところでございます。
さて政労使合意ですが、後ほど川本さんからも解説があるかもしれませんけれども、そ
の経緯についてお話しします。私ども連合は、日本経団連の皆さん方と毎年1月の初めに
その年の春季生活闘争について意見交換をする場を持っております。日本経団連、連合と
の首脳懇と呼んでおります。そのときの意見交換の中では、残念ながら賃金、あるいは賃
金引き上げについては互いに交わるところはありませんでした。しかし雇用の問題という
のは非常に重要だということで、そのときに労使がお互いに雇用安定・創出に向けた共同
の宣言をいたしました。それ以降実務的に協議を重ねながら提言を作成し、3月3日に共
同提言を行い、それをもとに3月 23 日にこの政労使合意に至ったわけでございます。
私はその前文に書いてありますとおり「雇用の安定は社会の安定の基盤である」と考え
ており、この合意は非常に重いものだと思っております。ご案内の通り、日本というのは
五千五百数十万人が雇用されて働く社会でございます。日本の人口が一億二千数百万とい
うことを考えれば、まさに日本が世界に冠たる雇用社会と呼ばれているゆえんです。した
がって、もちろん世界各国そうですが、日本は特に雇用社会で雇用されて生活している比
率が高い国であり、雇用の現場や労働の現場が不安定になれば、それはただ単に企業が不
安定になるということではなくて、日本の社会全体が不安定になるということです。した
がって雇用の安定が社会の安定につながると考えております。その社会の安定の基盤であ
るということを前文に政労使が合意の上書き込み、加えてそのあとに、我が国における長
期雇用システムが人材の育成及び労使関係の安定を図り、企業経済の成長、発展を支えて
きたことを再認識しようとするこの前文の意味は非常に重いのです。2番目のサブテーマ
として人材育成も扱われることとなっていますが、日本の企業の長期雇用システムそのも
のが人材育成に極めて大きな役割を果たしていると私は思っております。
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個別課題については、2つ触れます。まず、第2のセーフティネットについてです。私
どもは、日本の雇用に関するセーフティネットでは、失業給付が切れれば一気に生活保護
に陥ってしまう。このシステムが本当にいいのだろうかということでここ数年検討し、む
しろ失業給付と生活保護の間に第2のセーフティネット、私どものつけた名称として「就
労生活支援給付制度」と呼んでおりますが、そういうものの必要性を訴えてきました。雇
用保険に残念ながら入ることができず失業給付がもらえない人についても、一気に生活保
護ではなく、職業訓練や能力開発をしながらきちっと生活もできるような第2のネットが
必要だと主張してきました。これはヨーロッパ各国ではすでに取り入れられていますが、
そのようなものが、当然ながら名称は違いますが、今回の政労使合意の中に入り、そして
それがこれから具現化するということ、その意義は非常に大きいと考えています。これら
の制度の具体的な良さをこれからどうやって発揮していくかが重要だと思います。
2つ目は、雇用調整助成金を使いながら雇用維持を徹底的にやっていこうという仕組み
です。今回、そこに非正規労働者も入れようじゃないかということが合意されました。こ
の意義も大きいのではないかと思っているところでございます。
個別の課題になりますとまだまだたくさんございますけれども、一応全体を通じて私ど
もの考える政労使合意の意義、意味についてご報告をさせていただきました。以上です。
【伊丹】
ありがとうございました。それでは最後に川本さん、お願いいたします。
【川本】
私は3番目ということで、他の方と少し重複するかもしれませんが、お許しい
ただきたいと思います。先ほどからお話に出ておりましたとおり、
「雇用の安定、創出の実
現に向けた政労使合意」が3月 23 日に取りまとめられました。本日は使用者側からは私
が参加しておりますが、この文書については、日本経団連だけではなく、日本商工会議所、
全国中小企業団体中央会、すなわち大手企業から中小企業まで含めた使用者の合意の結果
であるということを強調したいと思います。
この合意において一番大事なポイントは、現在の非常に厳しい雇用不安の問題を払拭す
るために、政労使が一体となってこの難局に立ち向かうという共通認識に立って、内容が
取りまとめられたということです。具体的には5項目から成っておりますが、政労使でこ
のような合意に至ったことは非常に強いメッセージになり、雇用問題についての今後の解
決の道筋がつくのではないかと思っています。また雇用の安定、創出というのは政労使の
社会的責任でもあります。日本経団連といたしましては、この合意に基づき、会員企業に
対してさらなる取組み等を呼びかけているところです。
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さて今回、政労使合意に至ったわけですが、その前段階から色々な取組みがありました。
先ほど古賀事務局長からお話があった通りですが、具体的に申しますと、労使で雇用の共
同宣言を取りまとめて、1月 15 日に発表いたしました。さらに具体的に深掘りをしよう
ということで、3月3日に労使で共同提言を発表いたしました。この共同提言では、雇用
の維持、セーフティネット強化、さらに新しい雇用を生む産業の創出にまで言及しており
ます。企業に関しては、雇用調整助成金等をより使いやすくしていただいて、非正規も含
めて雇用の維持に頑張っていこうという考え方になっております。しかし、それでも雇用
を守りきれない産業や企業があるわけで、それらについては、現在のハローワーク等の相
談機能などを一層充実させる。併せて公的職業訓練も強化することによって、新しい産業
を育てつつ、そこに産業教育を施した上で労働移動をスムーズに行っていく。こういう考
え方で取りまとめました。また先ほど古賀事務局長からご指摘があった通り、
「就労支援給
付」という仮称をつけましたが、失業給付の対象にならない方についても、訓練を受けて
いるのであれば、一定の給付を行っていくという考え方も提示しました。
また私ども日本経団連としては、
「日本版ニューディールの推進を求める」という提言を
2月に発表しております。この中で、雇用問題に言及しておりますが、一番のポイントは、
どのように今後の成長産業をつくっていくかに触れており、35 の具体的な国家的プロジェ
クトを提示している点です。これらに対して国家的に取り組み、官民が協力して産業を育
てていくことで、短期的に雇用の解決に結びつけ、中長期的にも新たな産業基盤が築かれ、
そこで新たな雇用が創出されるのではないかと思っております。
最後になりますが、さらなる課題としては、ディーセント・ワーク課題の1つである、
ワークライフバランスの推進を挙げたいと思います。今回の政労使合意でも、最後の部分
でワークライフバランスの推進について触れておりますが、これをいかに進めていくかが
重要課題であると思っております。個々人のモラルやモチベーションを高めるとともに、
組織の生産性向上にもつなげていくことで、日本人の新たな働き方を創造する。こういう
考え方を追求することが重要になってくると思います。
持ち時間も過ぎたと思いますので、この辺で私のご報告を終わらせていただきますが、
後ほど時間があれば、ワークライフバランスについてさらにお話ししたいと思います。
【伊丹】 今日のように政労使の合意が成った後でそれぞれの代表の方に来ていただいて、
こういうパネルディスカッションをすると、コーディネーターは困るのは当然ですね。合
意された後ですからとってもいいことをやったという意見の一致ばかりになって、どうも
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チャンチャンバラバラが起きそうもない。そこで平時に乱を起こす作業をちょっとやりた
いと思います。このパネルディスカッションでは、政労使合意そのものについて議論する
というよりは、それとディーセント・ワークとの関係をできれば議論したいと思いますの
で、今回3月 23 日に結ばれた政労使の合意が日本のディーセント・ワークにどのような
大きなインパクトをもたらすか、それを一言で言っていただけませんでしょうか。そこで
違いが出てくると議論となるかもしれません。どうぞ、村木さんから。
【村木】 最初の私の発言の繰り返しになりますが、これが第一歩であるということです。
つまり雇用の安定というのは第一歩であるけれども、それだけでは質まで配慮した、まさ
にディーセントなワークにならない。そのためには中長期的なことをさらに見据えてつな
げていく必要があるだろうと。その意味で先ほど川本さんがおっしゃいましたけれども、
この政労使合意の最後のところに「仕事と生活の調和」を、これは直接、雇用安定創出と
は関係ないにもかかわらず、これを政労使合意の内容として入れたということは大きな意
味があると思っています。
【伊丹】
なるほど、ワークライフバランスがまた出てきた。それでは労使のお2人どち
らでも結構です。一言でお願いします。
【古賀】
私は今回の政労使合意は「ディーセント・ワークのための基盤」だと思ってい
ます。したがって雇用をまず意識する。ワークライフバランスもいま出ていますが、やは
り雇用創出をどう考えるかというのも非常に重要なことだと思います。
【伊丹】
川本さん、どうぞ。
【川本】
まず第1に、今回盛り込まれたワークライフバランスをどう推進していくかが
ディーセント・ワークへのステップとして大事なポイントであると思っています。そして
第2には、その「働きがいのある人間らしい仕事」の実現のために、我が国に新しい雇用
分野をつくっていく必要性があります。例えば、人手不足が指摘されている介護などの福
祉の分野、あるいは農業、水産等の分野であります。こういう分野で雇用を創出し、また
公的訓練も行いながら人材をそのような分野に誘導していくこと、一方働く皆さんのニー
ズもあると思いますので、それらをうまく結び付けていくことが大事なことではないかと
思います。そういう意味でも今回の政労使合意が1つのきっかけになるのではないかと思
っております。
【伊丹】
いまのお三方のお答えを聞いておりますと、現在雇用の危機がある。それへの
対応で雇用の維持をすることがまず原点だと。これは三者、三人とも変わらないと思いま
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す。しかし、会場からの質問でこういうものがございます。日本の雇用では従業員、特に
正社員を守る体制が強い。したがって不景気のときでも何とか正社員を守ろうとする。し
かし非正社員は不景気になるとすぐ切られてしまう。今後どのように非正規社員の雇用を
守り、創出していくのか。これが質問です。この問題に絞って言うと、政労使合意でどの
ようなことがこの問題について言えるのか。あるいはさらにそれぞれのお立場からのお考
えとして非正規社員の問題をどういうふうに考えるかということについて議論せざるを得
ないと思います。どなたからでも結構ですが。
【古賀】
現在、ご存じの通り非正規社員は被用者の 30 数%、統計によれば 40%弱ぐら
いまで広がりました。5500~6000 万人の中の 1700 万人から 1800 万人が非正規と呼ばれ
る人たちです。現在、派遣労働の問題が非常にクローズアップされています。もちろんこ
れらも非常に重要な課題ですが、現実には、1700~1800 万人のうちの 1200~1300 万人
がいわゆる短時間のパートタイム労働者や有期契約の方々です。我々サイドがやはり課題
として強く感じているのは、労働市場が完全に二極化していくような実態に陥ったことで
す。日本の非正規労働者は総じて賃金を初め、労働条件がかなり低い。低労働条件の非正
規か、あるいは長時間労働の正社員か、こういった二極化がこの 10 数年で進行していっ
たわけです。
これについては労働組合も従犯かもしれません。しかし、これは企業が人件費を投資と
か、あるいは先ほどの先生の人本主義というお考えに基づいた対応をせず、単なるコスト
と見たからです。したがって安いコストの働き手が増えていくという状況が起きたことが
根底にある課題だと思っています。そういう意味からすれば、これらの課題解決は多方面
から行わなければなりません。例えば底上げを図るという意味では最低賃金を上げなけれ
ばならないでしょう。そして均等待遇を目指していかなければならないでしょう。一方、
私は短時間とか、そういう多様な働き方をすべて否定するつもりはありません。本人、働
き手の意思が最大限尊重されるような、そんな社会をつくらなければならないでしょう。
そういう意味からすれば、私は多様就業型のワークシェアリング的なものは、日本では
やはりワークライフバランスではないかと思います。ものすごく端的な言い方をすれば、
働くということは9時~5時に働くということ、それ以外の時間については様々な自分の
時間として使うことがむしろ働く効率を良くする。そうなれば働き方自体も業務の効率と
いう観点から見直していく。そういう形でワークシェアリングが実現できるのではないか
と思います。村木さんが言われたいわゆる中期的な部分に我々も今のうちに目線を合わせ
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ておく必要があるのではないかと思います。
【伊丹】
会場からの質問はもっと深刻で、非正規の人たちがいま困っていると。それに
対してどうするのだという、もっと短期的な問題ですが。
【古賀】
それは、今回、雇用維持策の中で、正規、非正規を問わず、いわゆる日本型ワ
ークシェアリングへの取組みということで盛り込んでいます。短期的対策としては。
【伊丹】
それが一番大きな今回のポイント?
【古賀】
今回の政労使合意においてはそうです。
【伊丹】
他のお2人はいかがでしょう。
【川本】
今回の合意にこだわらずということでよろしいですね。
【伊丹】
結構です。ただ中長期の問題にまで広げすぎないでいただきたいと思います。
【川本】
非正規の方々の雇用問題等のご指摘がありましたが、まずお断りしなければな
らないのは、私ども日本経団連では正規、非正規という言葉遣いはやめようとしているこ
とです。これは、一昨年来「経営労働政策委員会報告」等の報告書で述べていることです。
正規と非正規の区別が明確ではないということ、また、正と非という言葉遣いでは、非正
規が否定的で、下に見られる感じになります。そのため、私どもでは「期間の定めのない
雇用」、あるいは「長期雇用従業員」という言葉と、「有期雇用契約」、
「派遣労働者」とい
う言葉を使っております。
雇用契約期間ということで言えば、
「無期契約型」と「有期契約型」ということになりま
す。多くの問題はこの有期契約で発生しております。すなわち、有期契約の契約期間内で
の途中解除が頻発していると、新聞紙上等で報道されている問題です。
「有期契約」は双務
契約の性格が強いとされ、その解除には一般的な解雇よりも強い合理的な理由が求められ
ます。この点につきましては、私たちの様々な報告書、あるいは講演等でも遵法を呼びか
けているところです。
一方で、働き方に対する様々なニーズがあるというのも事実であると思います。したが
って、いかに有期契約を適正に結んでいくか。あるいは更新についてもどういう契約にて
更新していくのか、という点も整理していくことが課題であると認識しています。
併せて、先ほど古賀事務局長から処遇に関する指摘もありましたが、処遇については、
現在パート労働法が施行されており、この中で、仕事の内容が同一なのか、責任の範囲が
同一なのか、そして仕事の時間軸で見てキャリア形成が同じなのか、こういう切り口で社
員間の仕事の価値を比較し、均等待遇、あるいは均衡処遇について定めております。私ど
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もは「公正処遇」という考え方を提唱しており、
「公正」という切り口から判断していかな
ければならないと思っています。毎年 12 月末に「経営労働政策委員会報告」を発表して
おりますが、この中でもパート労働法を紹介しつつ、
「公正処遇」が今後重要になるという
ことを申し上げております。
この「公正処遇」の考え方を進めていきますと、それぞれの企業の中で働いている従業
員の皆さんの仕事の価値と、その処遇との間の整合性がとれているかが問われてくると思
います。つまり、処遇の公正さをどうやって確保していくのかということです。そうなり
ますと、多くの長期雇用従業員の方に適用されている、年功型雇用処遇制度、年功賃金、
といったものを今後どう改めていくのか、ということが企業の労使にとっては重要な課題
になってくると思います。その上で申せば、仕事の価値と処遇というものの整合性がとれ
てくれば、逆に誰でも挑戦の機会を得ることができ、同時に公正な処遇を確保することに
なるのではないかと考えております。
【伊丹】
公正な処遇がされても、公正な処遇の下で雇用が断たれてしまう人たちはどう
するんだというのがもっと頭の痛い問題ですが。村木さん、どうぞ。
【村木】
私からは2つ、お話ししたいと思います。1つはまさに伊丹先生の問題意識で
あります短期の非正規の雇用の安定についてどうするのかということと、もう1つは伊丹
先生のお言葉ではありますが、やはりこの問題を議論するときに短期の問題だけではなく
て、そもそも非正規ということをどう考えるのかということにやはり少し触れざるを得な
いという点です。
まず短期の非正規労働者の雇用の安定についてですが、これは昨年の3つの緊急雇用対
策、それから今回の政労使合意を受けた対策の、いわば4回の対策においてすべて1丁目
1番目の一番重要視している雇用対策だと言って構わないと思います。おそらく日本の雇
用対策史上、ここまで非正規の雇用対策に力を入れたというのは初めてではないかと思っ
ています。具体的には、まず非正規の方々が仕事の相談に来られたときの職業相談を手厚
くする。特に若い人の場合にはアルバイト、あるいは派遣で単純な仕事の経験しかないと
いう方たちが多いので、そういう方々がどういう仕事をしたいのか、できるのか、実際に
はどういう求人があるのか、といったことを1人ひとり綿密に親身になって対応しなけれ
ばなかなか就職に結びついていきません。さらに、こういう仕事に就くためにはこの職業
訓練を受けなさい、あるいは企業に行って少し実習をしてみたらどうか、という形で手に
職をつける、すなわち職業能力開発を進めていくための手厚い仕組みを用意いたしました。
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加えて、最近よく言われているいわゆる派遣切りなどに遭って、住宅もなくなりホームレ
スになってしまった方々に何とか手当てしようということで住宅対策も随分力を入れて行
います。これらにより、住宅を確保し、ある程度手に職がついた方々に実際に企業に就職
してもらうために、企業に対してもそういう人たちを雇ったときの助成金を出す。そして
最後に、先ほどお二方からも詳しくお話がありましたが、非正規の方々というのはなかな
か失業給付、要するに雇用保険の範疇にも入らないことが多いので、そういう方々のため
の新しい訓練生活支援給付というものを創設します。このように、もちろん財源上の制約
等はありますけれども、私たちとしては考えられる限りの様々な対策、かなり手厚い対策
を打ったつもりです。以上が短期的な問題についての対応です。
ここで、中長期的な観点からも一言だけ言わせていただきたいと思います。1つは非正
規雇用の働き方が多くの方々にとってまさにディーセントではないということは確かだろ
うと思います。特に今の若年非正規雇用者の働き方は、我が国全体にとってあまりいいこ
ととは思えません。すなわち我が国ではこれまで新規学卒で企業に入って、そこでキャリ
アを積み重ね、職業訓練をし、能力開発をして、一人前になっていく。それに応じて給料
も上がっていくという仕組みが主流だったわけです。しかし、それが若いうちに断ち切ら
れてしまって、キャリアを蓄積していく場もない。こういう状況は、将来の日本にとって、
日本の経済という意味でも、それから高齢化する中での社会保障等を負担するという意味
でも非常に大きな問題を抱えかねないと思います。したがって少し長い目で中長期的に見
たときも、この非正規雇用対策、特に若年者の非正規雇用対策というのは大変重要なポイ
ントであると思っております。
ただし、一方で現実も見なくてはならない。経済の論理もきちんと踏まえなければなり
ません。例えば「多様化」と言いますが、若い人たちの間の中に、企業に縛られたくない、
自分は自由に仕事をしたいときに仕事をしたいという人たちは確実に多くなっています。
私は昨年の夏まで東京労働局長という現場の仕事をしていましたが、そこでも若年対策担
当のハローワークの職員の一番の悩みは、いくら正社員を紹介しても彼らは就かないこと
でした。就きたくない、縛られたくない、と言われることが一番の悩みだと言っておりま
した。その後1年経って、確かに随分状況は変わってきています。今の雇用状況の中で、
安定した職を持ちたいという人は増えているでしょう。しかし、こういった傾向が長期的
な傾向として存在するのは厳然たる事実です。
一方、企業の方もそうした人たちを使うモチベーションがあり、需要と供給がある程度
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マッチしている部分があることも事実だと思います。そこがマッチしているからこそ実際
にそういう人たちにとっての仕事の場があるわけです。今、非正規雇用が増えていますが、
そういう現象がもしなかった場合、その人たちが本当に正規労働者として雇われていたか
というと、これはかなり疑問です。その分だけ失業者が増えていたかもしれない。そうい
う意味での現実的な意味での仕事の場というのはやはり考えていくべきであろうと思いま
す。実際問題として非正規労働者が適しているような仕事は随分増えています。その背景
にはサービス産業化やグローバル化が進んできているということがあるのだと思います。
例えば、社会のあり方として、皆さんがコンビニエンスストアは一切要らない、18 時で
すべての商店は閉める、あるいはヨーロッパのように日曜日はレストランも商店もスーパ
ーも閉めてよい、労働者のために開くべきではない、色々なサービスについても土日に対
応してくれるようなサービスは要らない、平日だけでいい、その不便は忍び、甘受する、
だからすべての人を安定した正規雇用者にすべき、という選択を社会全体がするのであっ
たら、それは1つのあり方だろうと思います。しかし、今の日本は残念ながら違う方向に
行っている。これは残念ながらかどうかわかりませんが、そこまで考えてこの議論は中長
期的にも行うべきだと思います。
【伊丹】
時間が限られておりますので、次のサブテーマに行かなければいけませんが、
大変大切なテーマが今出たと思います。次のサブテーマに移る前に私の感想を一言だけ述
べさせていただいて、次の人材育成に移りたいと思います。
この非正規社員が現在のような雇用危機の状況下で問題化してくるというのは、日本に
とってかなり新しい経験のんで、皆さん対応に苦慮しているというのが正直な私の感想で
す。2つの意味で非常に本質的な新しい問題だといえます。
1つはいま村木さんがおっしゃったように、企業の側の需要と働く人の要求がマッチし
て短期労働、パートタイム、派遣、さまざまな意味での非正規的な働き方が成立してしま
っている。そこで今回のような経済危機が起きたときに、そういう方たちの雇用が失われ
ていくことをどう考えるか。自己責任原則で処理するという考え方も私はあってもいいと
思います。冷たく切って捨てるというのではありませんが、自分の自由を享受したいとい
うメリットを得たい反面にはそういうリスクもあるということは考えなければならない。
しかしこれはなかなか人情として忍びない。これまでは雇用を失うということは、自分は
欲するのだけれど、それをもらえないという問題だったが、今度は自ら若干リスクの高い
働き方をしたら、そのリスクにぶちあたってしまったというケースではないかと思います。
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だから日本社会としては新しく、難しい問題だと思います。
もう1つは、正規・非正規について川本さんが一生懸命その定義や用語について細かく
言っておられたのが非常に象徴的なことだと思いますが、正規労働者が、制度ないしは企
業の側の意思によって一種守られている、そして労働組合の正規のメンバーである。一方
そうでない非正規という形との間での労々問題です。労使問題ではなくて。これは、労々
問題が大規模化しているという問題なのだなと感じました。したがって、この解決は本当
に原理的にきちっと考えないといけない、なし崩しの解決はいけないと思いました。それ
はディーセント・ワークという問題にも直接関係してくる問題だと思います。
≪第2サブテーマ 「ディーセント・ワーク実現に向けた人材育成のあり方について」≫
それではサブテーマの2で「ディーセント・ワーク実現に向けた人材育成のあり方につ
いて」です。ここでは、人材育成に焦点を当てていただきますが、ひょっとしたら今の非
正規の問題が再び登場するかもわかりませんし、ワークライフバランスの問題が登場する
かもわかりませんが、お三方からそれぞれ5分ずつお話をいただいて、先ほどと同じよう
な手順で議論していきたいと思います。今度は順序を逆にさせていただいて、川本さんか
らどうぞ。
【川本】
それでは「ディーセント・ワーク実現に向けた人材育成のあり方」という観点
から2点ほど申し上げたいと思います。
1点目は若年者への教育訓練の重要性です。
「失われた 10 年」と言われた時期から引き
続き若年者の就職状況の厳しさが問題になっています。その原因の1つとして、社会人と
して必要な技術や技能が若年者に備わっていないということが挙げられています。どのよ
うにしてそれらを身につける機会を与えるのか、訓練カリキュラムをどのように充実させ
ていくのか、ということがポイントになってくると思います。この公的訓練という観点か
ら言えば、雇用能力開発機構のポリテクセンター等で、現在様々な公的訓練が行われてい
ますが、その公的訓練だけでは不十分ということで、昨年の4月からジョブカード制度が
スタートしています。これは企業の OJT と教育機関の OFF-JT を組み合わせた実践的な教
育訓練機会を意図した制度です。ただし、今回の不況の影響でジョブカード制度の適用は
まだ大きくは拡大しておりません。今後この制度について、私ども企業、それから労働組
合、そして政府が、周知していくと同時に、賛同企業を増やしていくことが求められると
思っております。また、ジョブカードの普及には、その利便性を高めることが必須である
との認識から、日本経団連では様々な機会、あるいは報告書等において、現在の紙のカー
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ドを IC カード化すべしと主張しております。いずれにしても、企業に雇用されながら訓練
を受けるというジョブカード制度を充実、普及していくことが、人材育成の1つのきっか
けになっていくのではないかと思っております。
2つ目はいわゆる「現場力」の維持、向上の問題です。これまで、日本の企業競争力の
源泉は現場にあると言われてきました。これは製造業、非製造業にかかわらず、あてはま
ることです。その意味では、現場で仕事をしながら課題を発見して、問題を解決していく、
この現場力の維持、向上は極めて重要です。具体的には、ソフト・ハード両面で創造力を
発揮できる人材や、変革を求めて改善力を発揮できる人材、または顧客の要望に適切に配
慮ができる人材、そういう様々な人材を現場において育てることです。そういう意味にお
いても、やはり OJT が基本になると思います。近年、特に中小企業において、人材力の低
下が懸念されておりますが、中小企業は日本の産業を下支えしているのであり、中小企業
における人材育成は大きな意味を持ちます。そのためには、企業も労働組合も人材育成が
非常に重要であると再認識すること、そして政府も人材育成をこれまで以上に支援するこ
とが求められると思っております。
昨年、雇用能力開発機構を縮小すべし、あるいは廃止すべしという議論がありました。
古賀事務局長も私もその関係委員だったのですが、私はこの機構はとても重要であるとい
うことを主張いたしました。その結果、機構自体は他の独立法人と統合することになりま
したが、公的職業訓練を担っているポリテクセンター等は維持されることになり、大変喜
ばしく思っているところです。
【伊丹】
では古賀さん、お願いいたします。
【古賀】
ちょっと幾つか違う切り口になるかもしれませんが、人材育成についてご報告
させていただきたいと思います。
1つは先ほど私も申しましたが、長期雇用システムは人材育成の機能を有すると思いま
す。したがって、まず、長期雇用システムが人材育成、能力開発の機能を同時に有すると
いうことを再認識すべきではないかと思います。それは先ほど伊丹先生が講演でおっしゃ
った通りだと思います。
2つ目はそのことと少し相反するかもしれませんが、国の役割がますます重要になって
くるのではないかと考えています。日本の社会はどちらかと言えば職業訓練や能力開発、
人材育成を企業に任せてきました。それは日本社会全体の発展と産業の発展の流れからそ
うなってきたのだと思いますが、90 年代以降、グローバル競争の激化等々で企業がかなり
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この種のことを絞り込み、一方では労働者が自己の投資による能力開発というものの比重
が高まったりするということになりました。
村木さんから紹介はないかもしれませんが、日本の労働市場政策への財政支出は GDP
比でみると、やはり OECD 各諸国に比べかなり低い。特に、いわゆる積極的労働市場政策
と呼んでいるものについては、直近の私どもが調べた OECD の統計では GDP 比 0.2%ぐ
らいだと認識しております。また、先ほど議論された非正規労働者の問題も含めて、非正
規の方たちの中には、すべてとは言いませんが、この人材育成や能力開発、キャリア形成
から除外されている人たちもいます。そういうことを考えれば、これからの日本社会全体
にとっても、国の職業訓練や能力開発による人材育成の果たす役割はますます大きくなっ
ていくのではないかと思います。大きくしていく必要があるのではないかと思います。
3つ目はディーセント・ワークという観点や働く側という観点からは、少し切り口は違
ってしまうと思いますが、労働者教育とでもいうものの必要性をお話したいと思います。
昨年 11 月以降、特にアメリカの金融危機に端を発した世界同時不況の中で、我々自身も
電話による相談ダイヤルであるとか、あるいはそれらに関する集会や対話集会を持ってい
る中で感じましたが、働く人についての権利を知らない方があまりにも多すぎる。むろん、
権利だけでなく義務についても理解が必要なのはいうまでもありません。したがって、私
はその権利のみならず、働くことの意味とか、働くことを通じて社会に関わることとか、
そういうことも含めて国の教育の中で教えていくことが非常に重要だと思います。もちろ
ん NPO や NGO との連携も含めてです。その種の教育は、働くことに対する自分自身のイ
ンセンティブ、あるいは意義付けということにつながりますし、働く喜びとか苦しみの中
で人間は成長するわけですから、それらも含めて教えていく必要があると思っています。
人材育成、能力開発ということと直結しないかもしれませんが、これが3点目です。
最後に、これは先ほどの議論の中でも少し申し上げましたが、人材育成、能力開発をし
た次が働く場ということになりますから、雇用創出とか新たな分野とか、働く分野を明確
にしながら、一方ではそこに働く能力というものも、きちっとした産業ビジョン、あるい
は雇用ビジョンとして明確にする中で、能力開発や人材育成を推進していくことが必要で
はないかと申し上げておきたいと思います。以上です。
【伊丹】
国の役割が強調された後に、最後に村木さんが登場されるというのはいい順序
になりました。どうぞ。
【村木】
ありがとうございます。私からは今回の全体のテーマであるディーセント・ワ
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ークと人材育成はどういう切り口で考えるのかということと、いま伊丹先生からお話があ
りましたが、政府は何をやっているのかということ、この2つをお話ししたいと思います。
最初のディーセント・ワークと人材育成をどのように考えるのかということについて、
全く個人的な見解ですが、3つの切り口があると考えます。1つは先ほどの議論にもあり
ましたが、仕事に就いていなければそもそもディーセント・ワークにならないわけで、雇
用対策としての、言い換えると仕事に就くための、あるいは仕事を続けていくための能力
開発、職業訓練というものが1つあると思います。
もう1つは、これは最近、政府が人材育成政策を進めていく上で大変力を入れているポ
イントですが、1人ひとりの職業生涯を通じたキャリア開発という視点から考えていく必
要があるということです。これは、先ほどディーセント・ワークを「働きがいのある人間
らしい仕事」と訳した中の、
「働きがいのある」というところに通じるものではないかなと
思っております。
それから3点目。
「人間らしい」という意味では、より質のいい、あるいは環境の整った
労働が実現するためには、当然のことながら企業や産業が持続的に発展していくというこ
とが不可欠です。その意味で企業、産業が発展し、それによって労働条件が向上していく、
それを目指すための職業能力開発というのがディーセント・ワークと人材育成を結びつけ
る3つ目の切り口だと思っております。
では次に、政府が何をやっているのかについてお話します。まず3点、説明いたします。
最初に雇用対策としての人材育成です。これは大きく分けて、3つあります。詳細は先ほ
どもお話しいたしましたし、また川本さんからも説明がありましたので詳しく述べません
が、離職者のための訓練の拡充、それからその訓練中の生活保障、そして経済界、あるい
は労働組合とも協力してジョブカード制度を本格的に実施するということを現在の雇用対
策の中でやっております。
それからあと2つ、職業生涯を通じたキャリアの支援と、産業、企業の持続的発展とい
う意味で、産業構造の変化や技術革新への対応を進めていくことです。ここでも先ほど申
し上げたように、短期の雇用対策としての職業能力開発と、より中長期的な視点でとらえ
た職業生涯を通じたキャリア支援とか、あるいは産業構造の変化への対応、これらの間の
連携を進めていくことが大切だと思っております。職業生涯を通じたキャリア支援では、
先ほども議論になりました若年者対策、ニートとかフリーターなどの非正規労働者の対策、
併せて学生に対する職業教育というものが大事になってくると思います。また、キャリア
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支援という意味では、あまり馴染みのない言葉かもしれませんけれども、キャリアコンサ
ルティングがあります。1人ひとりがどんなキャリアを積んできて、どんなことができる
のか、これから何をしていきたいのかということを相談していくということは非常に重要
なことだと思います。
産業構造の変化等への対応という意味では、これも川本さんがおっしゃいました医療、
福祉、環境等の新たな産業への対応、それから「現場力」の強化というところがポイント
になろうかと思います。
最後に、政府の役割として、人材育成のためのインフラを整備していくということが大
事だと考えております。1つはこれもお2人からお話がありましたが、色々な形で多様な
教育訓練の機会の確保をしていく必要があるわけです。これには、雇用能力開発機構が行
っているもの、あるいは都道府県が行っている公共訓練ももちろんでありますが、併せて
民間の教育訓練機関も支援していく必要があるでしょう。さらに企業の中での教育訓練、
これがまさに古賀さんがおっしゃった一番基本のところになるわけですけれども、これも
支えていくことが重要であろうと思っています。そして、環境整備という意味では、職業
能力の評価制度、様々な職業能力開発に関する情報の提供、あるいはキャリアコンサルテ
ィングをさらに進めていくこと、これらも政府の役割として大変重要になってくると考え
ております。以上です。
【伊丹】
ありがとうございました。これは議論を始めれば際限がない問題ですので、私
のほうから1点だけに絞ってお三方のご意見を聞きたいと思います。古賀さんが強調され
たことに対して、それは本当でしょうかと。国の役割、政府の役割が今後もっと大きくな
るべきだと言ったときに、どのような役割を想定するかによって、答えが違ってくるよう
な気がします。
「もっと金を出してくれ」と「金も口も出してくれ」と「政府自身がやって
くれ」というのでは相当違うのではないでしょうか。私は国に対してあまりやってくれと
言わないほうがいいのではないかと思います。せめて「金を出せ」と言うぐらいではない
かと。通常、国が何かやり始めると、様々な善意が重なってついつい過大装備になったり、
非効率になったりしがちです。
「政府の失敗」と一般によく言われることを申し上げるつも
りはないですが、雇用維持も人材育成も社会としては基本的に企業に押しつけるというス
タンスが国全体の繁栄のためにはいいのではないかと思っています。ただし、押しつける
ときにはコストがかかりますから、その分だけは政府にもってもらうという考えもあるか
と思います。古賀さんが政府の役割をもっともっと大きくとおっしゃるのには、川本さん
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と村木さんはご賛成でしょうか。
【川本】
何が何でも国の役割を大きくすればよいと思っているのではありません。先ほ
ど、企業内で人を育てる、そのために企業が雇用を維持するということ、一方で、今後新
しい雇用創出分野を育てて、そこに向けての公的訓練を施していく必要があるということ、
その2つを指摘いたしました。これらについては政府にも期待をしているところです。ま
た、今後、医療、福祉、農業、水産等の分野を育てていく必要があり、そういう分野につ
いては個々の企業での訓練はなかなか難しいと考えられますので、そのような産業・分野
に公的職業訓練を拡大していく必要性があると思っております。
【伊丹】
実は企業では無理だというその前提をいっぺん考え直したらどうでしょうとい
うのが私の趣旨です。
【川本】 例えば、製造業の企業が農業の訓練まで行うのは難しいだろうということです。
それから、政府には金を出してほしいということなのか、それとも金も口もか、というお
話がありましたが、公的職業訓練について言えば、財源の多くは雇用主が払っている雇用
保険2事業から拠出されており、政労使三者の支出ではありません。この事業は、職業訓
練を行うことによって失業を出さない、あるいは雇用調整助成金を活用することによって
雇用を維持して守る、という趣旨であり、事業主同士がいざというときにお互いを守るた
めに単独で雇用保険を払っているものです。これを拡大して、雇用の維持と新たな教育訓
練のメニューを増やしてもらいたい、というお願いをしているということです。
一方で、非正規と言われている人々につきましては、雇用期間が短いことから雇用保険
の対象とならないという問題があり、これに対しては政労使の拠出によって賄っている失
業給付の対象枠を拡大して対応しようとしているところです。また、雇用保険2事業の職
業訓練の枠も拡大します。それでも対象から外れてしまう方々については、一般財源から
公的な給付を出してもらえないかと要望しております。連合と日本経団連が3月に発表し
た共同提言は、こうした考え方がもとになっていると言えます。
【村木】
人材育成について国が金を出すのか、手を出すのか、口を出すのか、何もしな
いのかというふうに整理して考えた場合に、一番いいのは何もしないことだと思っていま
す。先生がおっしゃるように民間にできるだけ努力をしていただくべきかと。
【伊丹】
私は金ぐらい出したほうがいいのではないかと思ってるのですが。(笑)
【村木】
余計に手を出したり、口を出したりというのはなくなっていくと思いますが、
「金を出す」という点で言うと、これは政府が大金持ちでどこかからお金を出してくるの
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ではなく、企業なり国民の皆さんからお金を集め、それを再分配するときの仕組みとして
訓練に使うということになります。その場合に、川本さんがおっしゃったように中小企業
や非正規労働者は自力では無理だろうから、あるいは戦略的に産業を育成していく、特に
福祉等の産業を育成していくときにはなかなか市場原理だけではできないので、政策とし
て国がお金を出すというのはあるかと思います。
それから「手を出す」というのは最小限にしていくべきですが、それでも川本さんがお
っしゃったように個々の企業、あるいは個々の教育訓練産業ではできないものもあるし、
規模の利益ということを考えれば、大企業である国が新たに試みていくということも一面
では許されるかと思います。
3つ目の「口を出す」というところは公共材の問題だと思います。先ほど力説いたしま
したインフラ整備という意味での職業能力評価制度をつくるとか、情報を提供するとか、
あるいはキャリアコンサルティングの仕組みをつくっていくとか、こういうところはまさ
に公共材として国がやるべき役割があるのだと思っています。ただし、こうしたことを進
めていく上で、説明責任をきちんと果たすということと透明性をできるだけ確保していく
ということは、国の行政、あるいは地方行政も含めて行政を進めていく上では必須である
し、それが先生の問題提起に対する1つの答えにもなり得るのではないかと思っています。
【伊丹】 あまり国にはさせないほうがいいということですか。
(笑)古賀さん、いかがで
すか。
【古賀】私もすべてを国に任すべきかといったら、やはりそうではないと思います。効率
は効率できちんと求めていかなければなりませんから。どういう人材育成や職業訓練をす
るかによって、それが民間の方が効率が良ければ民間に任せればいいし、あるいは NPO
や教育機関もたくさんあるわけですから、それらのベストミックスを追及するべきという
気がします。しかしいずれにしても人材育成に関する国からの支出というのは、いままで
のような比率ではなく、もっと必要となるような時代に入ったのではないでしょうか。そ
のように感じています。
【伊丹】
ここでの議論をこのようなテーマに絞ったほうがいいかと思った理由もご説明
したほうがいいかもしれませんね。歴史を振り返ってみますと、日本で、産業の競争力、
あるいはそこから生まれる雇用の安定、さまざまなことをつくり出す基盤としての人材が
この 50 年、60 年の間でいつごろ育ったという実感があるのかということを考えてみると、
おそらく高度成長期のころだと思われます。あまり国の手助けがない時期に、企業が懸命
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に考えて人を育てようとした時期に人が育ったという事実の重みを考えると、あまり国に
責任を持っていかないほうがいいのではないかという発想での質問だったのです。やはり
ちょっと乱暴すぎる議論でしたかね。村木さん、国の役割を少し小さくしたほうがいいの
ではないか、金だけ出せと言っているようなものですが、いかがでしょう。
【村木】
古賀さんのお考えも私の考えと変わりないと思うのですが、原則は民間です。
【伊丹】
国の役割を大きくしてくれとおっしゃるからつい聞きたくなったんです。
【村木】
民間でできない部分が大きくなるのか、それとももっとギュッと小さくしてい
いのかというところの事実認識の問題であって、基本は民間でやるべきことであるという
点は大体一致しているのだと思います。私が先ほど申し上げたような分野では、全体とし
て大きくなるか、小さくなるかという議論はあるとしても、国の役割というのは確実に存
在していると思います。
【伊丹】
川本さん、何か私の乱暴な整理にご感想、ご発言ございましたらどうぞ。
【川本】
2つの側面があると思います。1つは、中小企業において企業内訓練を行おう
としても設備的に不十分でできない場合、また、民間の教育機関が実施した際にはペイし
ない場合、そういうものについてはどこか別の訓練施設が必要となり、結果的に公的訓練
施設が活用されます。したがって、公的訓練施設では、いわゆる在籍者訓練と、失業した
離職者訓練の両方をやっているのです。やはりこういう機能は今後も維持する必要がある
と思います。
もう1つは、今後新しい産業を伸ばしていくということに関してです。先ほど申しまし
た通り、個々の企業が、例えば農業の訓練をするといったことは無理がありますので、こ
ういうものについては、やはり公的なところでやっていただくか、公的なものを通して民
間でできる団体があれば、そこに任せていくということもあるかと思います。いずれにせ
よ、第三者的なところで人材育成を行う必要性は今後強まっていくのではないか、とみて
おります。
【伊丹】結局は今のようなお答えになるかと思いますし、ベストミックスをつくればいい
というのも正論なのですが、歴史的現象を見ておりますと、国全体が動くためにはもうち
ょっと乱暴な原則が背後になければいけないのではないかという感じがしております。私
は学者であり、責任のない立場の人間は大いにそういうことを言ったほうがいいかと思い、
政府は金を出せ、口を出すな、政府に任せるとロクなことをせん、とわざと耳の痛いこと
を申し上げました。しかし、例えば雇用保険のお金を使って職業訓練をやっている、それ
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はそれで結構なのですが、それは失業給付のために取っといてくれと、それ以外のお金を
ちゃんと回したほうがいいのではないか、政府全体のお金の出所の中でやや弱い厚生労働
省に金を出させる算段をやりすぎてはせんかということは言えるかもしれません。例えば
国土交通省とかもっと金を持っているところがあるのだから、そういうところをつっつく
ような話を国全体でやれるようになると、本当にディーセント・ワークの国になりそうだ
なと思っていますが、これについてはお三方ともご賛同いただけるんじゃないかと思いま
す。年金の問題でも同じです。厚生労働省に金を出させるというのは随分可哀相な話だと
いう感じがしないでもない。そういう意味では村木さん、私は味方ですから。
【村木】
ありがとうございます。
(拍手)
【伊丹】
拍手をいただいたところで終えるのが一番美しい終わり方だと思いますので、
もう1つ質問をとりあげたかったのですが、これはお三方に議論いただくよりは私自身が
お答えをして終わりたいと思います。私が説明しましたような考え方、あるいは皆さんが
ディーセント・ワークのために打つべきだとおっしゃっている政策は、市場原理主義に急
速に傾斜してしまった日本企業の現状でやれるのかという質問です。実は、市場原理主義
はまだそれほど浸透してないというのが私の現場認識でございます。日本経済新聞を見て
いると浸透しているように見える。しかし、それとは違う考え方で懸命に現場を維持し、
あるいは企業を維持し、経営を守ろうとしている現場の方々がたくさんおられると思いま
す。そういう方々にエールを送ることこそが最大のディーセント・ワークへの道ではない
か、そのように思いますという感想を申し上げて、きょうのパネルディスカッションを閉
じたいと思います。ご協力ありがとうございました。
【長谷川】
伊丹先生、またパネリストの皆様、どうもありがとうございました。本日は
長時間にわたりまして本シンポジウムにご参加をいただきましてありがとうございます。
ディーセント・ワークへの挑戦というテーマで様々な重要な論点が取り上げられたと思い
ます。貴重なご指摘も多く、また、もっと議論を深めていただきたい点も数多くありまし
た。時間の関係であまり議論が深まらなかった部分もあろうかと思いますけれども、その
中でも多くの重要なメッセージが発せられ、伝わったかと思います。閉会をするにあたり
まして、幾つか重要なメッセージとして印象に残った点を申し上げたいと思います。
まず、こういったいかなる経済危機や変化に際しましても、人間中心の経済社会を目指
すべきであるということが一番の基本にあろうかと思います。
そして、正規・非正規労働者の議論もありましたが、すべての働く人にとって雇用の場
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の確保をはじめとするディーセント・ワークの実現が大切です。伊丹先生の言葉で、
「稼ぎ」
と「勤め」と言われましたけれども、この雇用の場の重要性ということを皆が認識すべき
ではないかというのが2点目であります。
もちろん短期的な雇用の確保は重要ですが、中長期的視点の大切さも色々な意味で強調
されたかと思います。個人の観点ではキャリア形成、人材育成、そして企業の経営という
観点からも持続可能な経営を考えて対応するという中長期的な視点の大切さが強調された
かと思います。これが3点目です。
それと関連しますが、4番目として、企業なり社会での安定したネットワーク、人間関
係のご発言があり、そういう安定したネットワークの大切さも強調されたかと思います。
そして5番目に、こういったさまざまな問題に取り組む、あるいは問題解決するにあた
って、政労使の建設的な対話による問題解決、これが大切であるということが挙げられる
でしょう。本日は政労使合意についてのお話がありましたが、こういった対話による問題
解決の大切さが確認できたかと思います。
最後に、ディーセント・ワーク、すべての人に働きがいのある人間らしい仕事というこ
とは、日本だけの課題ではなく、世界でも共通に大切であるということを申しておきます。
まだまだ重要な論点を落としているような気もしますけれども、私からの最後のまとめと
いうことでは以上にさせていただきます。
長時間にわたりまして皆様にお付き合いいただいて、色々なお話を聞いていただきまし
たが、これからもディーセント・ワークに向けて皆様ご自身でもいろいろ考えていただけ
れば幸いだと思います。
90 周年ということで、ILO は 100 周年に向けまして新たな 10 年を踏み出します。ディ
ーセント・ワークがすべての人に行き渡るようにこれからも一層努力してまいりたいと思
いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
最後になりますが、もう一度長時間にわたりましてご議論いただきました伊丹先生を初
めとするパネリストの皆さんに拍手をいただきまして、このシンポジウムを終わりにした
いと思います。長時間、ありがとうございました。
─ 終了
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