9-708-J02 REV: JANUARY 5, 2009 MICHAEL G. RUKSTAD DAVID COLLIS ウォルト・ディズニー・カンパニー: エンタテイメントの王様 このことはずっと見失わないで欲しい――すべては 1 匹のネズミから始まったということを。 ―― ウォルト・ディズニー マイケル・アイズナーによるウォルト・ディズニー・カンパニー(Walt Disney Company)の再生は、20 世 紀後半の偉大な経営再建ストーリーの 1 つとして広く認められている。アイズナーが入社した 1984 年当 時、ディズニーは勢いを失い、買収や分割をぎりぎりのところで回避していた。ところが、2000 年末には、 アイズナーの下で収益は 16 億 5,000 万ドルから 250 億ドルへと増大し、純利益は 1 億ドルから 12 億ド ルへと上昇していた(資料 1 参照)。アイズナーが来てから最初の 15 年間に、ディズニーは株主に対し て 27%の年間総利益率を生み出した。1 アナリストは、ディズニーの復活はほとんどアイズナーの功績だと評価した。「マザー・テレサより実践 家」と言われるアイズナーは、そのタフさでよく知られている。2 彼は言う。「タフでなければ卓越できない。 うちのキャラクターたちみたいに温和でぼうっとしていると、浜辺のガリガリの男の子[訳者注] になってしまう。 この業界の連中は砂を蹴って顔にかけるくらい何とも思わない。」3 最近のディズニーの業績は、アイズナーの目標である 20%成長を大きく下回っていた。株主資本利 益率はアイズナー時代の最初の 10 年を通じて平均 20%だったが、1996 年の ABC 合併後に下降し始 め、1999 年には 10%未満に落ち込んでいた。アナリストたちはこの下降の原因を、新企業への多額の 投資(クルーズ船やアナハイムのテーマパークなど)と、ABC テレビジョン・ネットワークが 3 位の成績に 終わったことにあるとした。2000 年には 1999 年の 28%の下落から利益が回復したが、この伸びは主に ABC の業績の好転によるもので、この好転自体、1 つの番組――『フー・ウォンツ・トゥ・ビー・ア・ミリオネ ア?』の成功のおかげだった。アナリストたちは問い始めた――ディズニーの魔法は薄れ始めたのだろう か? [訳者注] 有名なボディー・ビルの広告 Case # 708-J02 は、HBS Case # 701-035 を日本語に翻訳したものである。HBS Case # 701-035 は、Michael G. Rukstad 教授、David Collis 教授(Yale School of Management)と Tyrrell Levine リサーチ・アソシエイトが作成した。HBS のケースはクラスでの討議資料とする目的の みを以って作成される。ケースは当該企業に関する保証や情報の出所ではない。また、経営管理の適否の例示を目的としたものでもな い。翻訳はハーバード・ビジネス・スクールの許諾に基づいて慶應義塾大学ビジネス・スクールが行った(監修: 和田賢治教授)。なお、そ の一部を、ハーバード・ビジネス・スクール・パブリッシングの委託により、日本ケースセンター© (財団法人貿易研修センター内)が改訂し た。(2009 年 9 月) Copyright © 2001 by the President and Fellows of Harvard College. ハーバード・ビジネス・スクール・パブリッシングの許可なく、このケース のいずれの部分も、デジタルあるいは機械的な手法に拘わらずいずれの形式によっても、複製、転送、配布してはならない。 Sample : DO NOT PRINT 708-J02 ウォルト・ディズニー・カンパニー:エンタテイメントの王様 ウォルト・ディズニーの時代、1923~1966 年 ミズーリの農家の少年ウォルター・イライアス・ディズニーは、第 1 次世界大戦中の 16 歳の時、赤十字 で働けるようにするためにパスポートの年齢を偽った。終戦により 17 歳で帰郷したディズニーは、アーテ ィストになろうと決心した。カンザスシティを拠点とするアニメ会社がわずか 1 年で失敗すると、4 ウォルト は 1923 年にハリウッドに引っ越し、兄のロイとディズニー・ブラザーズ・スタジオ5 を設立した(資料 2 参 照)。ウォルトが創作面を担当し、ロイが金銭面を扱った。しかしすぐに自分にアニメーターとして大成す る見込みがないと判断したウォルトは、ストーリー作りの監督に集中することにした。6 1927 年には、「しあわせウサギのオズワルド」を主役とする短編シリーズがディズニー・ブラザーズ最 初の大ヒットになった。しかしそれから 1 年以内に、ウォルトは配給会社に裏をかかれる。この業者はディ ズニーをオズワルドのフランチャイズから締め出すことをもくろんで、ディズニーのアニメーターのほとんど を引き抜いたのである。7 当初ウォルトは新しいアニメーターと新しい配給業者でオズワルドの短編を作 り続けられると考えたが、契約書の但し書きを読み、前の配給業者が著作権を所有していることを知って 打ちのめされた。 新しいキャラクターを必死で創り出そうとしたウォルトは、オズワルドの耳を少し変え、ウサギの風貌に いくつか小さな変更を加えた。その結果できたのがミッキーマウスである。ミッキーがあまり関心を集めら れなかったため、ウォルトは動きに同調させた音を加える――それまでアニメでは一度も試みられたこと がなかった――ことによって、配給業者を引きつけようとした。8, 9 このいちかばちかの賭けは見事成功し、 1928 年の『蒸気船ウィリー』の公開につながった。10 一夜にしてミッキーマウスは世界にセンセーション を巻き起こし、「トポリーノ」(Topolino、イタリア)、「ラトン・ミッキー」(Raton Mickey、スペイン)、「ムッセ・ピ ッグ」(Musse Pigg、スウェーデン)などさまざまな名前で知られるようになった。しかし、会社はまだ火の車 だったため、ミッキーマウスをライセンス化してメモ帳の表紙への使用を認めた――その後数多く生まれ るライセンス契約第 1 号となった。やがて短期的な金欠状態がおさまると、ディズニーはブランド・エクイ ティを心配し始め、ディズニーの名称の使用許可を「最良の企業」に限定した。11 ディズニー兄弟は自分たちの会社を平らで非階層的な組織として運営し、そこではウォルトを含めて 誰もがファーストネームで呼び合い、肩書きを持つ者はいなかった。ウォルトによれば、「肩書きは必要な い。自分が会社にとって大切な人間であれば、自ずとわかるはずだ。」12 独創性と高い質を実現せざる を得ない親方ではありながら、ウォルトはチームワーク、コミュニケーション、協調を重視した。彼は自分と スタッフにあまりに無理を強いたため、1931 年には神経衰弱になってしまった。13 しかし、多くの従業員 は会社に献身を尽くした。 6 つのアカデミー賞を受賞し、グーフィーやドナルドダックなどの新しいキャラクターの売り出しにも成 功したにもかかわらず、ウォルトは短編アニメ映画で撮影所をずっと維持し続けることはできないと悟った。 本当にもうける機会は長編の主要映画にあると彼は考えた。 14 1937 年、ディズニーは世界初の長編フ ルカラー・アニメ映画『白雪姫』を公開し、アニメ映画として史上最高の興行収入を上げた。15 公開初日 には、数種類の『白雪姫』商品がシアーズとウールワースの商品棚に置かれたが、このやり方は後にディ ズニーのトレードマークとなった。 『白雪姫』の成功により、会社は 1 年に 2 本の長編映画と多数の短編映画を公開するという目標を立 てた。次に、会社はスケールアップした。従業員数は 7 倍に増え、新しい撮影所がバーバンクに建設さ れ、1940 年にはこの戦略の資金を得るために株式公開した。 ディズニーは、政府向けに『How Disease Travels』〔病気の伝染のしかた〕などの訓練・教育アニメを 制作することにより、第二次世界大戦による不況の時期と、『ファンタジア』(1940)などの多額の費用をか 2 Sample : DO NOT PRINT
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