奈良学ナイトレッスン 平成26年度 第6夜 ~叡尊ゆかりの寺々を歩く ~

奈良学ナイトレッスン 平成26年度 第6夜
~ 叡尊ゆかりの寺々を歩く ~
日時:平成 26 年 9 月 24 日(水) 19:00~20:30
会場:奈良まほろば館 2 階
講師:西山厚(にしやま あつし)帝塚山大学教授
内容:
1.聖武天皇の本当の願い
2.後に東大寺になる小さなお堂
3.光明皇后はこんな人
4.阿修羅像は、誰が何のために造ったのか
5.聖武天皇がとても大切にした教え
6.光明皇后の悲しみから生まれたもの
7.「知る」とは他人事にしないこと
1.叡尊が掲げた人生の目標
今回は、鎌倉時代のお坊さん、叡尊(えいそん)の関連の話をしてみたいと
思っています。叡尊は、日本の長い歴史の中でも私が最も素晴らしい人だと思
っているお坊さんです。一般の知名度はさほどないのですが、こんな人が昔、
奈良にいたんだなあとしみじみよく思います。
叡尊の肖像彫刻については、後半でもまたお話させていただくのですが、奈
良の西大寺にあるとてもいい像です。日本の長い歴史を通してたくさんある肖
像彫刻のなかで、私はベストスリーに入ると思っています。唐招提寺の鑑真和
上像、東大寺の重源像、そして西大寺の叡尊像、これが私の中ではベストスリ
ーです。
叡尊は1201年に生まれて1290年に亡くなっています。90歳まで長
生きをされました。鎌倉時代に奈良の西大寺を復興した人です。
東京から奈良に行こうと思うと新幹線で京都まで行き、そこから多くの方は、
近鉄特急に乗って西大寺経由で奈良に来る。西大寺駅は知っていても、西大寺
には行ったことがないという人は結構多いのですが、その西大寺を鎌倉時代に
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復興したお坊さんが叡尊です。
奈良時代の後半、奈良の都で一番大きなお寺は東大寺でした。2位は西大寺
です。漢字の通り、東大寺と西大寺が東西の両横綱。東大寺は平安時代になっ
てもどんどん大きくなっていくのですが、西大寺は平安時代、鎌倉時代と進む
につれて、だんだん衰退していってしまう。鎌倉時代になるともう、ほとんど、
つぶれているような状態にまでなってしまうのです。それを鎌倉時代に復興し
たのが今回の主人公、叡尊ということです。
叡尊は今の奈良県大和郡山市で生まれました。白土町(しらつちちょう)が
生誕の地で、昭和30年代に造られた石碑が建っていて「興正菩薩誕生之地」
と書いてあります。叡尊ではなく、興正菩薩(こうしょうぼさつ)と書いてあ
るのは、叡尊が亡くなって10年後に当時の天皇から頂戴した名前だからです。
興正菩薩は、「正しい仏教を興隆させたとても素晴らしい人」という意味です。
叡尊は、真言律宗の開祖だということになっています。
浄土真宗は親鸞上人、
浄土宗は法然上人だと誰でも知っているし、教科書にも大きく出ている。しか
し真言律宗は小さな宗派で、その宗派も開祖の叡尊の名も知られていませんで
した。教科書にも載っていないので、昭和30年代くらいまでは、ほとんど誰
も知らなかった。
当時の奈良・薬師寺の住職であった橋本凝胤(はしもとりょういん)さんが
叡尊のことを知って、「鎌倉時代、奈良にはこんな素晴らしい人がいたのか」
。
薬師寺は法相宗で宗派は違うのですが、こんな立派な人のことはもっと皆が知
らなければいけない、継承しなければならないと、生誕の地に石碑を建てた。
昭和30年代のことです。
その後、徐々に叡尊の名前は知られるようになり、昔に比べればはるかに知
る人が増えてきたのですが、それでも多くの人が今でも知らない。
叡尊本人が書いた『感身学正記(かんじんがくしょうき)』という伝記があり
ます。叡尊は90歳まで長生きされましたが、85歳の時に自分の人生を振り
かえって、伝記を書いています。これが叡尊のことを知る最も信頼できる資料
になります。
それを見ると、7歳の時にお母さんが亡くなった。これが叡尊の人生を決定
づけることになるのです。
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この日記では、「七歳九月十日悲母(ひぼ)、三人小児(さんにんのしょうじ
を)、置懐内(ふところのうちにおきて)逝去(せいきょしおわんぬ)吾七歳次
五歳次三歳也」、お母さんは3人の小さな子を懐の内において亡くなった。私は
7歳、次は5歳、次は3歳だと書いてある。叡尊は数えの7歳、満だと5歳か
6歳。今でいうと幼稚園の年長さんの時にお母さんが亡くなった。3人の小さ
な子どもをお母さんは、たぶん、抱きしめながら死んだのですね。
叡尊の上にも兄弟がいます。しかしこの時は、上の子はその場にいなかった
のか、あるいはお母さんは小さな子どもたちに思いが残って3人だけを抱きし
めたのか、あるいは、小さな3人の子ども達がお母さんにしがみついて泣いた
のか、そこはよく分かりません。しかし、小さな子ども達がお母さんに取りす
がって泣き、そしてお母さんも3人の子どもを抱きしめながら死んだ様子が目
に見えてくるようです。短い文章で、しかも85歳になってから書いています
が、心に染みてくる文章です。
自分のことですが、私も数えで4歳の時に母がたいへんな病気になってしま
って、即入院、即手術になりました。幸いに母は助かったのですが、私は4人
兄弟の末っ子で、他人事とは思えない。この文章を読むといつも、自分もまた
このようになっていたかもしれないと思うのです。
叡尊は翌年、家が貧しくてお父さんが面倒を見られないので、よその家に預
けられます。ところが、行ったお家の人もすぐ死んでしまって、また次の家に
やられる。次に行った家がたまたま、京都の醍醐寺にご縁がある家だったので、
叡尊は醍醐寺のお坊さんになるのです。
里心がついてはいけないというので、醍醐寺の人からはお父さんももう死ん
だと言われてしまう。そんな少年時代を過ごすのです。
そのあともなかなか大変だった。大きくなるにつれてやらねばならない修行
がある。それにはお金が必要なのです。お坊さんたちはみな、実家からの支援
で修行を積んで、寺院世界の中で昇進していく。ところが叡尊は実家がないわ
けですから、修行をしたいと思ってもできない。応援してくれる人を探してあ
ちこち行く青年時代を送るのです。やがて応援してくれる人も出て、やりたか
った修行もできた、そういう人生を送っていくのですね。
叡尊はそういう中で、「興法利生(こうぼうりしょう)」という四文字を自分
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の人生の目標に掲げるようになります。
「興法」は、興正菩薩の「興正」と同じ
く、
「正しい仏教を盛んにする」という意味です。
「利生」は、
「皆を幸せにする」。
21世紀の今もいろいろな人がいて、幸せな人もいるけれど、そうでない人
もたくさんいる。幸せな人でも、いろいろな悩みを抱えている。どうやったら
皆を幸せにすることができるのでしょう。
きれいごとではなく、本当に皆が幸せになったらいいなと思うことがあるの
ですが、どうしたらいいか、私にはまったく分からない。
叡尊は、正しい仏教を盛んにすることによって、皆を幸せにしようと考える
のです。10代の後半からそう思っている人なのですね。
2.周りは全部敵
34歳の時に、人生の転機がやってくる。あることをきっかけに、叡尊は戒
の大切さに気がついた。仏教には戒がある。仏教だけではなくてキリスト教で
もどんな宗教でも、戒のない宗教はないと思いますが、叡尊は戒の大切さに3
4歳の時に気づくのです。
仏教では、正式なお坊さんになるには、受戒をしなければならない。受戒は、
戒を守ることを誓うこと。戒の一つ一つを、私はこの戒をきちんと守りますと
先生に誓って、全部誓い終わった時に正式なお坊さんになれる。それが受戒。
叡尊は受戒が終わっています。お坊さんは全員、受戒をしている。しかし、そ
の頃のお坊さんは受戒をして正式なお坊さんになって、そして誰も戒を守らな
いのです。参考までに、21世紀の今の日本で、戒を全部守っているお坊さん
はゼロです。1人もいません。
先生に戒を守ることを誓うのは「受戒」で、先生側から言うと、戒を授(さ
ず)ける「授戒」になります。
仏教で一番大事な戒は、
生き物を殺さない、殺生をしないという根本の戒で、
そのほか様々な戒があります。仏教の戒は個人が自分で守ることを誓っている
だけなので、破っても罰則がない。これは珍しいです。世界の宗教で戒を破っ
ても罰則がないのは仏教だけだと思います。仏教の場合は、自分で「戒を守る
ぞ」と決めるのです。「ああ、守れなかった」となっても、罰則はない。
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よく、戒律という言葉を耳にすると思うのですが、戒と律は別物で、律は、
仏教教団の決まりで、律を破ると罰則があります。律を分かりやすくいうと、
学校の校則のようなものです。校則は破ると一番重い場合は退学処分、もう少
し手前だと停学・休学、あるいは先生からきつい注意を受けるなどの段階があ
ると思うのです。戒は個人で誓っているだけなので、破っても罰則がない。だ
から、鎌倉時代のお坊さんのほとんどが誰も守っていないという状況だった。
叡尊も、それに近い日々があったと思うのですが、34歳の時に、それでは
駄目だということに気づくのです。
それは、弘法大師空海の遺言を読んだからです。弘法大師空海の遺言に、戒
というのは絶対に大事だ、戒なくして仏教は成り立たないと書いてあり、叡尊は
34歳の時にそれを読んで、やはりそうなのだとつくづく思うのですね。
戒には小乗戒と大乗戒の2つがあります。小乗戒は、本当にお坊さんになる
人だけが守ったらいい戒。大乗戒は出家・在家関係なく誰でも、守ろうと思う
人が守ったらいい戒。
叡尊は、小乗戒、大乗戒、両方守っていくことになります。34歳の時に、
「戒がなければ悟りを開けない、戒がなければ皆を幸せにできない、戒がなけ
れば仏教は存在できない」と思うようになるのです。
人生というのは不思議なもので、叡尊がそう思うようになったその絶妙のタ
イミングで、戒を守るお坊さんの大募集があった(笑)。こんなことってあるの
ですね。鎌倉時代に戒を守るお坊さんの大募集がありました。
尊円(そんえん)という東大寺のお坊さん。とても立派な人です。今の日本
で尊円を知っている人は、仏教の研究をしている人以外にはいないと思うので
すが、この尊円がいなければ叡尊も存在し得なかった。その尊円が西大寺に戒
を守るお坊さん6人を置こうとしていた。
尊円も戒は大事だと、いま日本の仏教が駄目になっているのは、戒を守って
いないからだと思っていたのですね。自分はかなりの年齢になってしまってい
るので、若手や中堅のお坊さんに戒を守ってもらい、本当のお坊さん、本当の
寺を造りたいと思ったのでしょう。戒を守るお坊さん大募集が行われて、それ
に叡尊が手を上げて、西大寺に入ることになります。35歳の時でした。だか
ら叡尊は本来、西大寺とは何の関係もない人です。ただし、尊円さんは6人置
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こうとしたのですが、手を上げたのは叡尊だけだった。叡尊だけが西大寺に入
ります。
西大寺は、奈良時代にはとても大きなお寺だった。建物もたくさんあった。
しかし叡尊が入った時には、3つが残っているだけでした。東塔、四王堂、食
堂(じきどう)だけが残って、あとは田んぼになってしまっていた。叡尊は東
塔の近くに住むようになります。
ちなみに、叡尊によって西大寺は大復興するのですが、叡尊が亡くなったあ
と、また小さくなっていきます。今では近鉄大和西大寺駅のほうが、圧倒的に
知名度が高いのです。
これは西大寺のお坊さんに直接聞いた話で、私は半信半疑なのですが、夜の
11時を過ぎると、よく電話がかかってくるらしいのです。
「京都行きの最終は
何分ですか?(笑)」。どうも作り話のような気がするのですが、それを聞いた
時には、
「なるほど」と思わず言ってしまったくらい、駅名の知名度のほうが高
いのですね。西大寺の近くに作った駅だから大和西大寺駅なのですが。
叡尊が入った時にはあった東塔は、今は残っていません。東塔跡。でも、四
王堂が今もある。
叡尊が西大寺に入ってしばらくして、
「自誓受戒」ということを行います。叡
尊は、受戒は終わっているわけです。先生に戒を守ることを誓って、正式なお
坊さんになった。しかし考えてみたら、戒を守りますと誓っている相手の先生
も戒を守っていない。そんな人に誓って、正式なお坊さんになることができる
のだろうか。私は本当に正式なお坊さんなのだろうか、と考え出すのです。
そして、先ほどの「自誓受戒」というやり方があったわけです。人間に誓う
のではなく、仏様に誓うというやり方。叡尊はそれを知って、やりたいと考え、
興福寺の先輩3人と4人で自誓受戒をすることになります。叡尊が一番若いの
です。
ちなみに、その時の先輩の1人、覚盛(かくじょう)という人は、後に唐招
提寺の復興をすることになる人です。4人で自誓受戒をして、本当の受戒をし
て、本当のお坊さんになって、本当の仏教を盛んにして、皆を幸せにしたいと
いう活動をやり始めます。
ちょうどその頃、奈良はたいへんなことになっていました。鎌倉幕府ができ
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て、全国に守護・地頭というポストを作った。地頭というのは、それぞれの国、
今でいう都道府県なのですが、そこの県知事のような人です。鎌倉幕府の人間
が、県知事のような守護・地頭になるのです。しかし、大和国だけには守護・
地頭が置かれていませんでした。なぜかというと、興福寺があったからです。
この時代は宗教世界のみならず、大和国のすべてを興福寺が仕切っているので
す。興福寺があるからさすがの鎌倉幕府も大和国だけには守護・地頭を置くこ
とができなかった。それぐらい、宗教世界でも世俗世界でもダントツの力を持
っていました。
ところがこの時に、鎌倉幕府が大和国にも強制的に守護・地頭を置いたので
す。それで大和国は騒然となり、西大寺も地頭の狼藉にあって、西大寺の資財
を奪い取られるような状態になった。叡尊も西大寺にいると危険だということ
で、いったん海龍王寺に避難します。
そして、叡尊の下に若いお坊さんが集まりだすのです。やはり、本当の仏教、
本当の僧侶、本当の寺のあり方、それを求めている若い人も存在していたので
すね。叡尊の弟子の名簿があります。出身地も書いてあって、最初のほうは大
和国の人です。地元の人がお弟子さんになるのですが、後のほうになればなる
ほど日本全国からお坊さんたちが集まって、叡尊の弟子になっていくのです。
まだ海龍王寺時代は地元の人たちなのですが、若いお坊さんが集まり始めてい
たのですね。
ところが、海龍王寺の門前に落書(らくしょ)され、僧坊に矢を放たれると
いうことがありました。落書とは、落書きとは違って、批判揶揄の目的で、人々
の目につく場所に掲示・配布される文書のこと。叡尊批判の文章が海龍王寺の
門前に掲示されたり、叡尊がいる建物に向かって矢が射られたり、そんなこと
が次々に起きたのです。非難されるのですね。
本当の正しい仏教を頑張って盛んにしようとする叡尊は、なぜ非難されるの
でしょうか。
考えてみれば当然なのです。叡尊は、奈良のお寺のお坊さんのほとんどを敵
に回したからです。つまり、誰も戒を守らなくても、みんなそれでやっている
のです。ところが、叡尊が出てきて、そういう戒は本当の戒ではない。戒はき
ちんと守らなければならない。しかし誰も守っていないのだから、人間に誓っ
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ても本当の受戒にならない。と言って、自誓受戒をして、活動を始めたわけで
すね。いってみれば、周りは全部敵です。そだから叡尊は非難を受ける。
のちに唐招提寺の復興をする覚盛さんは、自分が自誓受戒をしたことをずっ
と隠していたのです。やがて叡尊に共感する人が増えてきて、そういう雰囲気
になった時に、実は私もあのとき自誓受戒をやっていたのです(笑)、と言った
のです、覚盛さん。
それはそれで、覚盛さんに対して親近感を持ってしまうところもあるのです
が、叡尊という人は、信念の人なのでしょうね。
そして、西大寺も静まってきたので、西大寺に戻り、今後はどこかに避難す
ることはもうない。ここで「身命(しんみょう)を惜しまず、当寺に止住し、
正法(しょうぼう)を興隆し、有情(うじょう)を利益(りやく)せん」、もう
これからは私の命がどうなろうとも、そんなことはどうでもいい。この西大寺
でとことん、本当の仏教、正しい仏教を盛んにして皆を幸せにするのだ、とい
う決意表明をするのですね。
そして、西大寺の寺地を結界する。結界とは、そこを聖域にすること。西大
寺の境内を聖地として、そこで初めて布薩(ふさつ)を行いました。
布薩とは、反省会です。インドの本来の仏教では、月に2回、反省会をする。
戒、律を今月ちゃんと守っていたかどうか。もし、守れなかった場合には、皆
の前で正直に言わなければいけない。やってしまった過ちの重い軽いによって、
場合によれば教団追放もあるのです。
日本仏教には、布薩がなかった。叡尊が初めて布薩を西大寺で行ったその時
に、やがて唐招提寺中興の祖となる覚盛さんは、
「本当に日本で布薩が行われる
ようになるとは」と言って、最初から最後までずっと泣いていた。覚盛さんも
いい人なのですよ(笑)、すごく。この人も興福寺で戒律を学んできた人なので
すが、学んでも実践はできなかった。まさか、本当にこんなことになっていく
とは、と言って、最初から最後まで涙を流していたと記録に残っています。
叡尊は、小乗と大乗と両方やっているので、翌日は大乗の布薩も行う。そう
こうしているうちに叡尊は、忍性(にんしょう)というお坊さんに出会った。
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3.忍性との出会い
忍性もすごい人で、忍性と出会ったこと、これはもう叡尊にも大きな影響を
与えることになります。叡尊は39歳、そして忍性さんは16歳年下の23歳
でした。忍性も、16歳の時にお母さんを亡くしていて、そのことが忍性の人
生を決定づけるのです。
お母さんの臨終の時にこんなことがあった。お母さん、自分が亡くなるその
直前に、
「お前が出家してお坊さんになった姿を見たい」と言う。お母さんも信
仰のあつい人で、自分の息子をお坊さんにしたいと思っていたのですね。しか
しまだ忍性は出家していなかった。
「生きているうちに、最後にお前がお坊さん
になった姿を見たいものだ」とお母さんが言った。忍性さんもとても親孝行の
人なので、すぐに自分で髪の毛を剃って、どこかに行って衣を借用してきて、
お母さんの前でお坊さんの格好になった。そして、お母さんはそれで満足する
かと思ったら逆で、その姿を見ていよいよ、忍性の将来を悲しんだ。
先程言ったように、坊さんになってからでも実家の支援は必要です。しかし、
自分が死んでしまったら忍性1人残って、これから息子はどうなっていくのか、
それを思うと、余計に胸がいっぱいになって、そしてお母さんは、
「穢土(えど)
を厭(いと)わず、浄土を欣(よろこ)ばす」、どんな穢れた汚れた世界でも、
自分は構わない。浄土にも行きたくもない、ただお前のことだけが心配だと言
いながら死んだのです。こんなふうにお母さんに死なれると、困りますね。ど
うしたらいいのでしょうか。
そして、その話を叡尊にするのですね。まだその時に忍性はお坊さんになっ
ていないのです。そこで叡尊が出家したらどうかと言ったら、忍性は涙を流し
ながら、
「いや、まだ出家はしません。お母さんの13回忌までに7幅の文殊菩
薩像を制作したい。それを大和国の7カ所にある非人宿に安置するまでは」。
当時、非人と言われていた人たちがいた。例えば、ハンセン病(らい病)に
なると、社会の中で生きることができなくなって、社会からドロップアウトせ
ざるを得ない。そういう人が非人宿で集団生活をする。奈良に7カ所あったと
いうのですね。そこに文殊菩薩像を安置したい。そうして、その功徳を亡くな
ったお母さんに差し上げたい。
昔は、死んだら終わりではなくて、六道輪廻すると考えられていた。お母さ
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んは死んで今どこに行ったのだろうか。お母さんのところに自分の積んだ功徳
を送って、お母さんが地獄や餓鬼に落ちていた場合には、もっといいところに
行けますように、そうするまでは出家しませんと、涙を流しながら言ったとい
うのですね。
その翌年、叡尊40、忍性24ですが、また忍性さんがやってきました。7
幅はまだできていないが、1つだけ文殊菩薩像ができた。
「それを額安寺の近く
にある非人宿に安置するので、先生、開眼供養をしてください」。仏像でも彫刻
でも絵画でも、作っただけでは駄目。魂を入れなければいけない。それを開眼
というのですが、偉いお坊さんでなければ魂を入れられないと考えられていた。
叡尊は行くわけです。そして開眼供養が終わってから、400人の非人に八斎
戒(はっさいかい)を授けることを行いました。
八斎戒というのは、たくさんの戒の中で8つの戒だけを守ること。しかも毎
日守らない。1カ月に6日だけ、8、14、15、23、29、30日だけ守
ることを言います。殺生をしないと言ったって、殺生を仕事としている人もい
るし、肉を食べない、魚を食べない、それを坊さんでない人まで徹底してそれ
を守る必要はない。月に6日間だけ、清らかな生活をするのはどうか、という
のが八斎戒の考え方なのです。
400人の非人にこの八斎戒を授けた。昔は、ハンセン病は前世でとても悪
いことをしたから、生まれ変わって病気になったと考えられていた。叡尊や忍
性でさえ、そう考えているのです。死んで終わりではなく、また生まれ変わる
わけだから、今いいことをしていたら、次の世では幸せな人生を送ることがで
きる。だから、今、八斎戒を守れば来世には幸せになれる、という考え方なの
ですね。それを実践していく。
まだ7分の1ではあるが、忍性さんは自分の中で決着が付いたのでしょうか、
叡尊の弟子になる。叡尊から正式な戒を受けて、お坊さんになり、西大寺に住
むようになりました。忍性さんは、叡尊の12番目のお弟子さんです。
ちなみに忍性さんは、やがて関東に来ます。最後に拠点としたのは鎌倉です。
鎌倉に極楽寺というお寺が現在もありますが、ここが忍性さんのお寺です。鎌
倉時代の後半、ここで大活躍するのです。
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4.最低最悪の世界に生まれ変わりたい
さて、叡尊は45歳の時に、誓いを立てました。
「五濁悪世(ごじょくあくせ)
において最も苦しんでいる人たちを救おう」、五濁悪世は、やがて来ると言われ
る最低最悪の世界のことです。
叡尊は、自分が死んで次に生まれ変わる時に、最低最悪の世界に行きたいと
考えている。生まれ変わる時には、次は五濁悪世の世界に行きたいというのが
叡尊の希望なのです。そこの世界は皆苦しんでいるのですが、そこに行って、
その中でも特に苦しんでいる人を救いたい、そのためなら、地獄の苦しみにも
耐えよう、浄土へは行かない。これが叡尊の45歳の誓いです。
「五濁悪世において最も苦しんでいる人たちを救おう。そのためなら、地獄
の苦しみにも耐えよう。浄土へは行かない」。こんなことを考えている人なので
すね。
そしてその功徳(くどく)は、亡き母に廻向(えこう)する。忍性さんも一
緒ですが、亡くなったお母さんのことを叡尊は思い続けているのですね。7つ
の時に自分を抱きしめながら死んだお母さんのことをずっと考えていて、45
歳の時に誓いを立てる。自分がよい行いをするとよい報いがあるわけです。そ
の報いはお母さんにあげるということです。いいことは私がする、その結果、
報いはお母さんのところに行きますように、という誓いです。
叡尊も忍性も、女の人の影響力というのは本当に強いですね。女の人の存在
はとても大事。日本の仏教を作った立派なお坊さんたちは、たいてい、お母さ
んの存在がとても大事なのです。お母さんあってこそ叡尊あり、お母さんあっ
てこそ忍性あり、ですね。
西大寺の本尊は釈迦如来、つまり、お釈迦様のことです。西大寺の修理が行
われた時に、解体修理といって、いったんバラバラにするのですが、体の中が
空洞になっていて、いろいろな物が入っていた。特にお顔の中に、袋がぶら下
がっていたのです。中には、巻物が入っていた。お経でした。
「悲華経(ひけき
ょう)」という、あまり聞いたことのないお経ですが、叡尊がとても大事にして
いるお経です。
「悲華経」は、お釈迦様だけが浄土へ行かず、苦しんでいる人々
を救おうとした、ということが書かれているお経なのです。
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極楽浄土と言いますが、浄土はどこにあるのかというと、私たちのこの世界
には浄土はない。浄土に行きたいと思って、この世界の隅々まで探しても、浄
土はありません。行くことはできない。浄土は別世界にあるからです。
例えば、阿弥陀如来は極楽浄土に住んでいる。ということは、私たちの世界
には住んでいないということです。時々、来迎(らいごう)といってお迎えに
来てくれるらしいのですが、いつもはこの世界にはいません。
浄土というのは幸せの世界です。そこは幸せしかないのです。苦しみや悲し
みはないのです。阿弥陀様はいつもそこにおられて、時々こちらに来てくれる。
「悲華経」によりますと、お釈迦様にも別世界に浄土が用意されていたとい
うのですね。ところがお釈迦様は、
「嫌だ、私は浄土に行くのは嫌だ。そこはみ
んな幸せだから、そこには行きたくない。私は苦しんでいる人のいるところに
いたい」と言って、私たちの世界に来てくれたと書いてある。幸せな人しかい
ないところではなく、苦しんでいる人、悲しんでいる人がたくさんいる世界に
いて、その人たちを救いたいと言って、私たちの世界に来てくれたということ
が書いてあるのです。
その「悲華経」を西大寺の本尊の釈迦如来像は、お顔の中に持っている。あ
のお像は叡尊が造ったのですが、45歳の時の誓い、
「生まれ変わったら最低最
悪の世界に行って、そこで一番苦しんでいる人を救いたい」という誓いは、ま
さにこのお経から来ているわけです。叡尊は、
「悲華経」を読んで感動して、自
分もそうでありたい、と。だからもし、自分が次に生まれ変わる時には、一番
悪い世界に行きたい。そんな考えの人なのですね。
叡尊が最初に造らせた仏像は、愛染明王。今も西大寺にあります。愛染明王
を47歳の時に造っているのですが、この中には、やはり文書などが入ってい
たのですが、その中に叡尊の仲間の書いた文章があります。
範恩(はんおん)という人が、
「末世の凡夫、誠心有り難きゆえ、所願また成
り難し。秘密威力を仰ぐにしかず」と書きました。今は末世だ。末世の人たち
は、誠の心を持っている人はほとんどいない。だから私たちが正しい仏教を盛
んにして皆を幸せにしようと私たちは思っているが、それはなかなか成就しな
い、達成できない。批判されることはあっても、実現させることは困難だ。私
たちのがんばりだけでは無理だということが書いてあるのです。だから、この
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愛染明王像を造ります、ということが書かれていて、これも心にくるものがあ
ります。叡尊たちは、自分たちの行く道が非常に困難な道であることを知って
いるのです。でも、その道を行く、この道しか行かないという誓いを皆で立て
合っている。そういう人たちです。
5.正式な比丘尼の誕生
叡尊は、半年間だけ鎌倉に行ったことがあります。その時の年齢は62歳。
今だったらまだとても若いのですが、当時の62歳は結構な年齢なので、叡尊
自身、鎌倉に行って戻って来られるのだろうかという不安があったのですが、
鎌倉幕府の有力者から何度も鎌倉に来てほしいという依頼があって、ついに思
い立って鎌倉に行くことになります。叡尊の活動が徐々に世間に知られてくる。
遠く鎌倉幕府の有力者も奈良に叡尊という素晴らしい人がいる、鎌倉に来ても
らおうということになったわけです。
半年間奈良を留守にするのですが、その半年間、叡尊は当時の法華寺のトッ
プ、慈善(じぜん)という方と文通しています。法華寺は、奈良時代に光明皇
后が造った女性のための寺。法華寺の慈善という人と叡尊は仲良しなのですね。
この手紙の中に、
「興法利生」という言葉があり、正しい仏教を盛んにして皆
を幸せにする、修行する時にいつも「興法利生」ということを考えてやらなけ
ればいけませんよ、というようなことが書いてある。その中に、和合という言
葉があって、叡尊は皆で仲良く力を合わせて一つのことをやる、という考えの
人だと分かります。
法華寺は実は、元々奈良時代に尼寺として光明皇后が造ったのですが、平安
時代には男性の坊さんもいる寺になっていた。鎌倉時代に叡尊が尼寺として復
興して今日に至っています。
授戒をする場所を戒壇といいます。叡尊は、女性のための戒壇を法華寺に造
って、そして女性に授戒をし、正式な比丘尼(びくに)を誕生させた。
平安時代にも女性が出家して尼になることはよくあるけれども、それはただ、
髪をちょっと切る程度。完全に剃ったりはしない。平安時代の女性は髪が長い
ですから、それを肩まで切るだけでも大変なことなのです。平安時代の人にと
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っては、長い髪を切って肩までにするのは、今の女性が頭を剃ってしまうのと
同じくらいの感覚です。そういう尼たちは幾らもいたのですが、正式に受戒し
た尼は、日本には存在しませんでした。それを叡尊が、初めて法華寺に女性の
ための戒壇を作り、女性に授戒し、本当の比丘尼を誕生させたのです。
奈良時代は違いましたけれど、平安時代は男尊女卑の時代で、女性は男性が
いなければ存在し得ない。女性の苦しみ、女性の悲しみは男性の坊さんが救っ
てくれる。男性からしか救われないのです。ところが叡尊によって、女性が救
済される側ではなく、救済する側へと立場が反転したのです。これはものすご
く重要なことだと思います。
鎌倉時代においては、浄土宗や浄土真宗で女性の信者も増えていくのですが、
正式な受戒をして正式な尼になるというのは、叡尊のところでだけ行われたこ
となのです。
叡尊と文通していた復興法華寺の第一世長老の慈善は、元々は京都の朝廷に
仕えていた女房でした。後鳥羽上皇の皇女の春華門院に仕えていたのです。春
華門院は絶世の美女だったらしいのですが、17歳で死んだ。それがあまりに
悲しくて出家するのですね。
やがて叡尊と出会って、仲良くなり、そして法華寺の第一世長老となり、法
華寺の復興と発展に貢献した人です。そして叡尊が亡くなると、冥福を祈って
叡尊からの手紙は貼り継がれ、裏にお経が刷られた。だから、その当時はお経
の側がメインだったのですが、明治・大正・昭和ごろになってまたそれを裏返
して叡尊の手紙のほうが表になっている。そんなふうにして叡尊の手紙は残っ
たのです。
叡尊は法華寺に戒壇を設け、まず1249年に最初の授戒を12人の女性に
しました。正式な比丘尼の誕生。これ以後、どんどん尼さんが増えて、文永9
(1272)年には、119人も法華寺にいたのです。
法華寺の本尊は、十一面観音。この観音様は光明皇后の姿を写したと言われ
ているお像で、不思議な出来事がたくさんあった観音様です。
鎌倉時代の後半、法華寺の尼さんたちがこの前で法要を行っていたら、十一
面観音なので、頭の上に小さなお顔がたくさん載っていますけれど、またもう
一つ顔が出てきた。顔だけではなく、体全体の10分の9くらいが出てきたの
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です。尼さんたち、驚いたのですが、みんなでそれに触った。このあたりが男
性と女性の違いだなという気がします(笑)。「わあっ」と言いながら、近づい
て行って、皆で触りまくったのですね。そうしているうちにそれはまた、頭の
中に入っていってしまう。不思議なことがよくある観音様なのです。
ちなみに、この観音様は右足が蓮台の外に少しはみ出てしまっている。最初
は真ん中に立っていたはずなのですが、知らない間に右に向かって進み出した
ようなのです。そういう不思議な観音様。
その前で、叡尊が法華寺の尼さんたちに『四分律行事鈔(しぶんりつぎょう
じしょう)』という戒律の大事な本で、叡尊も西大寺に入って最初によく勉強し
た本について、講義をしていたら、行窮(ぎょうきゅう)というお坊さんが持
ってきた舎利が数え切れないほどに分散した。
舎利というのは、お釈迦様の骨で、お釈迦様が亡くなって、火葬にされて、
その骨のことをいうのです。白い粒、ご飯粒みたいな感じで、だから、お米の
ことをシャリというのですが、行窮が持ってきた舎利がうわーっと一杯になっ
た。
舎利はお釈迦様の骨というばかりではなく、不思議な力があるのです。舎利
は増えたり減ったりする。何か素晴らしいことがあると、突然、何もないとこ
ろから舎利が出てくる。偉いお坊さんがそこで何かいいことをしたら、ハッと
気づいたら、さっきまで1個だったのが3つになったりして、どんどん増えた
り逆に減ってなくなったりするらしいのですよ。らしいのです(笑)。この時は、
叡尊の目の前で舎利が分散した。尼さんたちも興奮して、皆でその舎利を拾っ
たということが書いてある。1251年、そういうことがあったのです。
ちなみに、行窮は尼さんではなく、西大寺から来た人ですが、法華寺第三世
長老釈念(しゃくねん)のお兄さんです。
西大寺と言えば、大茶盛(おおちゃもり)という有名な行事があります。そ
れは、大きな茶碗でお茶を飲むものです。自分ひとりでは持ち上がらず、周り
から手を添えてもらって順番に皆で飲んでいく行事で、実はこれも叡尊がやり
出したと言われています。まさに、皆で力合わせて仲良く何かをするというの
が叡尊のやり方で、大茶盛というのは、なるほど叡尊的だなという行事。西大
寺で今も行われている行事です。
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叡尊は、1264年、64歳の時に、光明真言会(こうみょうしんごんえ)
という行事を始めました。これは今も続いていて、西大寺の一番大きな行事に
なっています。旧暦の9月で、今は新暦換算して1カ月遅らせて、10月にや
ります。また今年も10月4日に西大寺で行うその行事は1264年に叡尊が
始めた。光明真言は、
「おんあぼきゃべいろしゃのうまかぼだらまにはんどまじ
んばらはらばりたやうん」というものですが、この真言にはスーパーパワーが
あって、それを唱えると、すべての罪障、すべての罪を消し去ることができる
と信仰されている真言です。
きれいな土をすくってきて、その土に向かって真言を唱えると、その土がま
たスーパーパワーを持つ。亡くなった人の上やお墓にその土をまくのですね。
その人が生前にやってしまった罪が全部なくなって、来世で幸せを得られると
いう行事。
それから70歳の時に金銅法塔を造った。叡尊の周りには、仏像を造ったり
絵を描いたり工芸品を造ったりする人たちがたくさんいて、それが皆、いいも
のばかりを造る工人たちで、これは国宝になっていますが、この中にも舎利が
入っていて、舎利の力で皆を救うというお祈りが塔の前で行われる。
もう一つ、如意宝珠が入っていて、舎利と如意宝珠はよく似たものなのです
が、そこでもいろいろなお祈りが行われる。元々真言宗、密教のお坊さんなの
で、密教のお祈りもたくさんやっている人なのですね。
77歳になった時には、仁王会(にんのうえ)という行事も始めて、これは
世の中が平和で仏教が盛んになって、みんなが幸せになりますようにというこ
とを願って行われる行事です。
いろいろな行事を次々に始めていきます。
叡尊の周りには続々と人が集まってきていて、そういう人たちと新しい法会、
新しい行事も始めていく。その中でも光明真言会というのが一番メインで、そ
れは21世紀までずっと続けられてきています。
叡尊は、新しく建てた寺、修理した寺、全部カウントすると、およそ700。
700というのはちょっと驚きですね。1つ寺を造るだけでも大変ですよ。1
つ修理するだけでも大変です。700とはまた、なんという数なのでしょうか。
叡尊はよほど大金持ちになったかといえば、もちろんそうではなく、元々貧乏
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な人で、鎌倉幕府の有力者が荘園という広い土地を西大寺にあげようというの
に、いらんと言うのですよ。そういう人なのです。
では、どうやったのでしょう。たくさんの人が、叡尊に共鳴、共感する人た
ちがどんどん増えてくるわけですね。そういう人たちがほんのわずかな田畑や
ほんのわずかなお金を寄付してくれるのです。それが積もり積もっていくと、
ついには700ものお寺を復興したり新たに造ったりする力になったのです。
すごいですね。
とても自分ではできないけれど、本当は、私もこういうことがしたい。叡尊
は本当にすごい人だなとつくづく思っているのです。
6.「叡尊さんは人間ではない」
西大寺の本堂には釈迦如来が中央にいて、かたわらに文殊菩薩が祀られてい
ます。この文殊菩薩は叡尊が亡くなってから、十三回忌にお弟子さんたちが造
ったのです。先生の十三回忌に皆で文殊菩薩を造るということは、叡尊が文殊
信仰を持っていたからですね。そうでなかったら造らないと思うのです。
文殊菩薩は、私たちはよく「三人寄れば文殊の知恵」と言って、智慧の仏様
だと思っています。そうではあるのですが、ただそれだけが専門ではない。い
ろいろなことができるのです。お経にはこんなことが書いてある。
「文殊菩薩は
貧窮・苦悩・孤独の人になって現れる」
。例えば、道ばたに汚い格好の人が倒れ
ていて、病気らしいのですが、なんか汚らしい。横を通るのも嫌だなと思って
いると、その人が実は文殊菩薩だったりするのです。だから、気をつけていな
いといけないのです。誰が文殊菩薩であるかわからないので。貧しい、あるい
は苦しんでいる、あるいは身寄りがなくて、自分一人で生活できないような人
は、文殊菩薩だったりしたのです、昔は。そういう信仰があったのですね。
叡尊は、まさに貧窮・苦悩・孤独の人たちの救済活動を熱心にやっていくの
ですが、それは文殊菩薩でもあるのです。特に叡尊たちは、ハンセン病の人た
ちの救済活動を熱心にやります。
以前はらい病と言いましたが、ハンセン病は全世界で、あらゆる時代で差別
されていた病気です。日本はもちろんそうですが、日本だけではありません。
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全世界で、あらゆる時代に差別されてきた病気。しかし叡尊たちは、ハンセン
病の人たちの救済活動を熱心にやっていた。それは文殊信仰に基づくものでし
た。
奈良に般若寺というお寺があります。十三重塔が建っていて、秋にはコスモ
スがとてもきれいなお寺なのですが、この般若寺の周りにハンセン病の人や非
人と呼ばれる人たちがかつてはたくさん住んでいた。般若寺のすぐ裏にらい病
の人たちを収容する北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんこ)というのが今
も残っています。その横に説明板がついていて、叡尊の弟子になった忍性さん
が造ったと書かれてありました。叡尊グループがハンセン病患者の救済活動を
していく中で、病人たちが住むことのできるような長屋を造ったり、いろいろ
なことをしていたのです。
その般若寺で叡尊は大きな文殊菩薩像を造ります。現在の般若寺の本尊は小
さなもので、残念ながら叡尊が造った大きな文殊菩薩像は焼けてしまいました。
そして、般若寺の近くに6000人の非人を集めて、大法会を行った。この
無遮大会(むしゃだいえ)というのは、どんな人でも、身分の違い、あるいは
出家・在家関係ない、男女の違いも関係ない、参加した人には皆、いろいろな
プレゼントをする行事なのです。
6000人の非人を集めて、彼らに食べ物や生活していく上で必要な物を支
給した。それは現実に役に立つことなのですが、叡尊は、この当時のことです
から、現世と来世のことも考えている。つまり、文殊菩薩の力による滅罪を行
うことにより、来世では必ず幸せになると。らい病そのものが治ることはない
のですが、今、現世で生きるために必要な道具や食料を支給するのみならず、
来世では必ず幸せになる。
病気の人がいて、その人にとっての救いとは何なのか。病気が治ったらそれ
は救いでしょうね。しかし病気は治らないのです。そうしたらその人には救い
がないのだろうか。いや、そんなはずはない。病気が治らなくても救いはある。
仏教というものは、その救いを病気の人に与えられる宗教であるはずであり、
そうでなければならないと私も思っています。叡尊もまた、病気自体を治すこ
とはできないが、まず現世において食べ物がある、生きるための道具がある、
それは救いになりますし、そして来世には必ず幸せになると考えた。その確信
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を病気の人たちに与えることができれば、それは大きな救いであると私は思っ
ています。
20年ぐらい前までは、叡尊の研究をしている人でも、結局叡尊のやったこ
とは何なのだ、彼らを叡尊は救済できていないと論文で書いている研究者がた
くさんいました。こんなことをしても社会は変わらないと。非人という存在が
なくなるような世の中を叡尊は目指していないではないか、と。そんなことを
書いている論文もありましたけれどね。アホかと思いますね。
救いというのは、確かに社会を変える、世の中を変える、それももちろん、
一つの道だと思いますが、ただそれだけが道ではないと私は思っています。
現世においては食べ物がある、生きるための役に立つ道具がある、そして来
世では必ず幸せになるという確信を持つことができれば、それは本当に大きな
救いだと私は思っています。
叡尊を慕って全国から西大寺にぞくぞくとお坊さんが集まってくるのです。
関東からもたくさん来る、九州からも来る。どうやってみな、叡尊のことを知
ったのでしょうね、750年も昔に。ぞくぞくと集まってくるのです。
叡尊が80歳の時に、肖像彫刻が造られます。生前にそっくりな像が造られ
たのです。眉毛がとても長いです。眉毛の長いのは長命の相だと言われます。
そして、たいへん申し訳ないのですが、誠に心苦しいのですが、ちょっと首を
引っこ抜いてみると、中にぎっしりと巻物が詰まっていた。出してみると、そ
のほとんどがお経でした。そして名簿。叡尊の弟子の名簿が入っていたのです。
数えてみると1548人いました。
叡尊は、自分1人で始めた。本当は6人入るはずだった西大寺に、他に誰も
手をあげなかったから、叡尊、たった1人で入ったのですよ。そして45年が
過ぎたのですが、そうしたらお弟子さんが1548人になっていた。男女別で
いうと、男915人、女633人、女性の比率が41%で、こんな人誰もいな
いですよ。叡尊の周りには女性がたくさんいたのですね。
皆さんは、仏像には白毫(びゃくごう)というものがあるのをご存じでしょ
うか。仏様は額に白い長い毛がくるくると巻いてついています。それを白毫と
いいます。この白毫こそ、仏様である印です。
もちろん、叡尊は人間ですから、白毫はついていませんが、実は、このお像
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の解体修理が行われた時に、思いがけない大発見があったのです。顔の中に白
毫がついていた。お顔の中が空洞になっているのですが、ぐるぐる巻きが付い
ていて、それは銀の針金でした。銀の針金が巻いてあるのです。今は酸化して
黒くなってしまいましたが、元は銀だから真っ白く輝いているのですね。まさ
に白毫、白い毛です。
もちろん、外からは見えないのですが、エックス線で撮影すると、ちょうど
白毫の位置に白い輝く銀のぐるぐる巻が付いている。これは、叡尊本人は知ら
ないはずです。1584人のお弟子さんたちが力を合わせて造ったのですが、
先生は人間ではない、こんな素晴らしい人は人間ではない、だから白毫をつけ
たいのです。でも、叡尊の額に白毫はついていないし、そんなことを叡尊が許
可するはずはない。だから、お弟子さんたちは、こっそり、叡尊に内緒でつけ
たのです。
日本にはたくさん肖像彫刻がありますが、お坊さんの肖像彫刻で顔の中に白
毫のあるのはもちろん、叡尊だけです。しかしこれだけで、叡尊という人がど
れほどの人であったか。お弟子さんたちにどれほど敬愛されていたかというの
がよく分かると思います。
7.校区の大先輩叡尊
1281年、叡尊81歳の時に、日本に大事件が発生します。中国が攻めて
きた、蒙古襲来。中国と朝鮮の連合軍10万人の兵士たちがたくさんの船に乗
ってやってくる。しかし、神風が吹いて助かったということになるのですが、
実は叡尊がお祈りした日に神風は吹いたのです。京都の朝廷から依頼されて7
日間、叡尊はお祈りをします。その初日に吹いた。今とは違って、九州でそん
なことが起きたのは叡尊にわからないから、7日間、予定通り全部やりました。
終わってから帰った時に、
「先生がお祈りした初日に風が吹いて、敵兵全滅しま
した」という知らせが来るのです。
これは日本にとって大ピンチだったわけですから、日本は救われたのですね。
日本中が万々歳状態だったわけですが、実は叡尊だけは、喜ばなかった。どう
してかというと、叡尊はこんなふうにお祈りをしたからです。
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「東風をもって、兵船を本国に吹き送り」、中国から兵船が日本にやってきた。
だから、東風が吹いたら、船はまた中国に戻っていきます。でもそれだけなら
また来る。船そのものがなくなってくれないと困るわけです。船は焼けてほし
い。しかし、今焼けたら乗っている人たちが死んでしまいますから、
「兵船を本
国に吹き送り、乗る人を損なわずして乗るところの船を焼失せしめたまえ」、難
しいですね(笑)。
船が中国に着いた、みな一旦下りた、そのタイミングで船が焼けてほしい、
とお祈りしたのですよ。これは戦争ですよ。戦争の最中に、敵兵の無事を祈る
お祈りをしている。叡尊はそういう人なのです。そして本当に風が吹いた。で
もその風があまりにも強すぎて、本国に吹き送らないでそこに沈めてしまった
のですね。叡尊は、喜ばなかった。むしろ自分を責めた。自分の修行が足りず
にこんなことになってしまったと。そういう人なのですね。
1284年に鉄宝塔を造った。この中には、5447粒の舎利が納められた。
叡尊の周囲ではどんどん舎利が増えるのです。この中に舎利を納めて、今も西
大寺に伝わっています。
90歳で亡くなる。亡くなる日の朝、みんな心配して、いろいろなお寺から
もお坊さんが集まってきているのですが、皆の前で、「ひとりで始めたことが、
ここまで広がるとは思わなかった」と言って、涙を流した。そしてそれを見て
集まった人たちも皆、涙を流して、そして90歳で亡くなった。
叡尊の亡骸は、西大寺から400メートルくらい行ったところで、火葬にさ
れました。
私は一度、校区に西大寺がある奈良市立伏見小学校で叡尊の話をしたことが
あります。1年生から6年生まで全校生徒とそして校長先生以下、先生全員、
そして地域の人たち。体育館に1000人の人が集まりました。
「校区の大先輩叡尊」
(笑)という題です。終わってしばらくしたら、6年生
全員から感想文をもらいました。すごくいい感想文を書いてくれている人たち
がいました。
「叡尊さんは『もっとも苦しんでいる人を救おう!』
『みんなを幸せにしたい』
とすごくえらい方なんだと思いました。
『地獄の苦しみにも耐えよう』という心
の強さにびっくりしました。伏見校区にこんなすごい人がいるなんて、とって
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もうれしいです」
また別の子は、
「私は転校してきたので、叡尊という人を知りませんでした。でも、今日は
たくさんのお話が聞けて、とてもりっぱな人がこの伏見の地にいたんだなあと
思い、うれしく、またほこりに思います」
皆、とってもいいことを書いてくれました。
日本中で、その地域の歴史文化を伝え、子ども達がここに住んでてよかった、
ここに住んでてうれしいと思うような取り組みをやっていくことが、日本の未
来を作ることになると私は思っているのです。こんな感想文をもらって、こち
らもとても嬉しかったことを思い出します。
叡尊が亡くなって、火葬にされてそこにお墓が建てられた。
そして、夜通しずっと叡尊の亡骸を燃やしていたのですが、夜が明けて朝に
なって、西大寺の坊さんがここにやってきたら、不思議なことに、灰の上に赤
い花が咲いていた。翌朝荼毘の場所にやってきたお坊さんがまず見たものは、
深く積もった灰の上に咲いた赤い花だった。その人はそれがすごく印象に残っ
たから、そのことを書き留めてくれて、残っているのです。
叡尊、「興法利生」、正しい仏教を盛んにして皆を幸せにしたい。90年の本
当に素晴らしい人生を送った人が奈良にいた。鎌倉時代にいたのです。
叡尊のことを知る人はまだ今は少ないですが、今回、お話を聞いていただい
た人はぜひ、叡尊のことをずっと覚えていていただき、また何か機会があれば、
西大寺や法華寺、般若寺などの叡尊ゆかりのお寺も回っていただければうれし
く思います。
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