2005 年 度 卒 業 論 文 「ボランティア精神と は何か」 学籍番号 経営学部経営学科 1710020485 4 年 15 組 50 番 小関ゼミ 渡邊 高亮 は じ め に ..................................................................................... 2 第 1 章 「 ボ ラ ン テ ィ ア 」 の 定 義 ....................................................... 4 第 2 章 宗 教 的 観 点 か ら 見 る ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 ..................................... 6 第 1 節 キ リ ス ト 教 に お け る ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 ................................... 7 第 2 節 仏 教 に お け る ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 .......................................... 12 第 3 節 イ ス ラ ム に お け る ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 .................................... 13 第 3 章 ボ ラ ン テ ィ ア 教 育 .............................................................. 15 第 1 節 ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 と 奉 仕 活 動 の 違 い .................................... 16 第 2 節 ボ ラ ン テ ィ ア 教 育 の 意 義 ................................................... 17 第 3 節 現 代 の ボ ラ ン テ ィ ア 教 育 ................................................... 19 第 4 節 考 察 .............................................................................. 22 第 4 章 偽 善 ................................................................................ 23 第 1 節 「 善 」 と 「 偽 善 」 ............................................................ 23 第 2 節 ボ ラ ン テ ィ ア は 偽 善 者 な の か ............................................. 25 第 5 章 終 章 − ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 と は 何 か ー ...................................... 28 お わ り に ................................................................................. 30 はじめに -2- 筆 者 は ボ ラ ン テ ィ ア や NPO の 分 野 を 扱 う ゼ ミ に 所 属 し て い る 。 筆 者 が な ぜ こ の よ う な ゼ ミ を 選 ん だ か と い う と 、 ボ ラ ン テ ィ ア や NPO の 活 動 に 興 味 を 示 し た か ら で は な い 。あ る 授 業 に お い て N P O の 活 動 に つ い て 初 め て 学 ん だ と き 、 やっていることに賛同したのではなく、理解できなかったからだ。なぜボラン ティアをするのか、筆者には理解できなかった。それまで、筆者自身ボランテ ィアについてまったくといっていいほど考えたことも興味をもったこともなか っ た 。 こ れ を 契 機 と し て 筆 者 は ボ ラ ン テ ィ ア や NPO の 活 動 内 容 よ り も 、 ボ ラ ン テ ィ ア や NPO に 携 わ る 「人 」の 考 え に 興 味 を も つ よ う に な っ た 。 筆 者 と そ う い っ た 人 々 は ど こ が 違 う の か ? ど う い う こ と を す れ ば ボ ラ ン テ ィ ア や NPO に 興味をもつのか疑問を抱いた。そして、卒業論文においてボランティア精神と いうテーマを選んだ理由は、大学生活の集大成として今まで疑問に思っていた ものに対して何か自分なりに曲がりなりにも結論を出したいとも思ったからで ある。 日 本 は 財 政 難 に 陥 っ て い る の は 周 知 の と お り で あ る 。1 7 年 度 末 に は 日 本 の 公 債 残 高 は 538 兆 円 程 度 に な る と 見 込 ま れ 、 国 お よ び 地 方 の 長 期 債 務 残 高 ( 公 債 残 高 、借 入 金 残 高 等 の 国 の 長 期 債 務 と 地 方 の 債 務 残 高 と を 合 計 し た も の )は 7 7 4 兆 円 程 度 に 上 る と 見 込 ま れ て い る 。1 ま た 財 政 赤 字 を 反 映 し て 、日 本 の 公 債 依 存 度 は 飛 び 抜 け て 高 く な っ て い る 。日 本 が 4 4 . 6 % に 対 し 、ア メ リ カ 1 7 . 0 % 、イ ギ リ ス 8 . 1 % 、ド イ ツ 1 6 . 8 % 、フ ラ ン ス は 1 6 . 7 % 2 と な っ て い る 。こ の よ う な 状 況 で国に従来どおりの社会保障を期待するのはもはや不可能といえる。また国や 地 方 自 治 体 が ボ ラ ン テ ィ ア や NPO と い っ た 公 共 性 の 高 い 第 三 セ ク タ ー に 期 待 を す る の は 必 然 と い え る 。 私 も 今 ま で 以 上 に 、 ボ ラ ン テ ィ ア や NPO が 重 要 性 な役割を担い、社会的にも不可欠な存在となることに異論はない。つまり、筆 者 は ボ ラ ン テ ィ ア や NPO の 活 動 自 体 に は 社 会 的 な 価 値 が あ る と 認 め て い る 。 しかし、これは筆者のわがままだと思うが、やりたいという興味が湧かな 1 h t t p : / / w w w. m o f . g o . j p / j o u h o u / s y u k e i / s y 0 1 4 / s y 0 1 4 d . h t m 2 * 日 本 は 2004 年 度 、 イ ギ リ ス は 2002 年 度 、 そ の 他 は 2003 年 度 の デ ー タ 資格試験研究会 公務員試験『速攻の時事』 実務教育出版 2005 年 p .87 -3- いのである。なぜならどの非営利組織にも共通し、その根底にある考えである ボランティア精神が、筆者には欠如しているからだ。ボランティアに興味がな いと宣言することは私自身、非常に勇気が必要であった。なぜなら、筆者はボ ラ ン テ ィ ア や NPO を 主 に 扱 う ゼ ミ に 所 属 し て い る し 、 ボ ラ ン テ ィ ア を や っ て い る 人 た ち に 対 し て 劣 等 感 や 引 き 目 を 感 じ て い た か ら で あ る 。日 本 に は 、「 本 音 」 と 「建 前 」と い う 言 葉 が あ る が 、 今 ま で 私 は 「本 音 」を 隠 し 、 「建 前 」と 捉 え ら れ る ような振る舞いをしていたと思う。そのほうが身を縮めるよう思いをする必要 がなく、楽だったからである。筆者はこの論文を通じてなぜボランティア活動 に 興 味 が な い の か と い う 筆 者 自 身 の 「本 音 」の 部 分 に 焦 点 を 当 て 、 ボ ラ ン テ ィ ア 精神について考えたいと思う。 筆 者 は ボ ラ ン テ ィ ア や NPO の 活 動 を 批 判 す る 気 は な い 。 ボ ラ ン テ ィ ア や NPO に 興 味 を 持 っ て い る 側 か ら の ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 の 考 え 方 や 捉 え 方 と そ れ ら に 興 味 が な い 側 つ ま り 、自 分 の 考 え を 比 較 す る よ う な 手 法 を 一 部 用 い て い る 。 そ の た め 、 ボ ラ ン テ ィ ア や NPO の 活 動 に 携 わ っ て い る 方 に と っ て 不 愉 快 な 表 現や考えがあると思うがご了承願いたい。また、このような考えもあるのかと いうような、広い心を持ってこの本文を読んで頂けたらで幸いである。 第1章 「ボランティア」の定義 -4- 近年、誰もが「ボランティア」という単語を耳にしたことがあるだろう。し かし、 「 ボ ラ ン テ ィ ア 」の 意 味 を 説 明 で き る だ ろ う か 。筆 者 は 説 明 で き な い 。な ぜなら、ボランティアという概念そのものが人の価値観に依存しているからで あ る 。つ ま り 、 「 ボ ラ ン テ ィ ア 」の 概 念 が 抽 象 的 で 、人 に よ っ て「 ボ ラ ン テ ィ ア 」 の 定 義 が 異 な る の で あ る 。そ こ で 筆 者 は 、 「 ボ ラ ン テ ィ ア 」と い う 単 語 を 自 分 な りに定義しようと思う。 一般的に「ボランティア」とは、英語における原義で、名詞としては、①志 願 者 、 有 志 者 、 篤 志 家 。 広 く 、 自 発 的 に 物 事 を 行 う 人 。( 専 門 家 に 対 し て 、 「 ア マ チ ュ ア = 素 人 」 と い う 意 味 も あ る 。) ② Vo l u n t e e r 志願兵。③法律用語では、 無 償 労 務 提 供 者 。 と い う 意 味 も あ る 。 動 詞 で は 、 1)自 ら 進 ん で / 自 発 的 に 、 申 し 出 る 。 2 )兵 役 に 志 願 す る 。 志 願 兵 と な る 。 日 本 語 で は (広 辞 苑 で の 説 明 例 )① 義 勇 兵 、自 ら 社 会 事 業 な ど に 参 加 す る 人 。「 奉 仕 者 」 や 「 奉 仕 す る 」 3 と い う よ う に 定義されている。 しかし、これだけの説明で「ボランティア」の定義について理解できるだろ う か 。「 ボ ラ ン テ ィ ア 」 と い う の は 我 々 に と っ て 曖 昧 な 概 念 で は な い だ ろ う か 。 それは「ボランティア」とは外来語であって、言葉の奥にある微妙なニュアン スが伝わりにくいし、人によってそのニュアンスも違ってくるからである。 「 ボ ラ ン テ ィ ア は 見 返 り を 求 め て は い け な い 」と あ る 人 は 主 張 す る 。こ れ は 「 ボ ラ ン テ ィ ア 」 は 無 償 な も の で あ る と い う 意 識 が 反 映 さ れ て い る か ら で あ ろ う 。有 償・無償を金銭的な枠組みで捉えれば、無償でなければならないという主張は 理 解 で き る 。し か し 、現 に 「 有 償 ボ ラ ン テ ィ ア 」 が 存 在 す る 。「 有 償 ボ ラ ン テ ィ ア 」 は ボ ラ ン テ ィ ア で は な い の だ ろ う か 。難 し い 問 題 で あ る 。筆 者 自 身 、「 ボ ラ ン テ ィ ア 」 は 無 償 な も の と い う イ メ ー ジ が 強 い 。な お か つ 、私 は 有 償 ボ ラ ン テ ィ ア と ア ル バ イ ト の 違 い を 説 明 で き な い 。そ の た め 、本 論 文 に お い て 、「 有 償 ボ ラ ン テ ィ ア は 「ボ ラ ン テ ィ ア 」の 定 義 か ら は ず す こ と と す る 。 話 を 元 に 戻 す と 、 「ボ ラ ン テ ィ ア 」が 見 返 り を 求 め な い と い う の は 可 能 な の で 3 編者・遠藤克弥 『現代国際ボランティア教育論』 -5- 勉誠出版 2004 年 p .105 あ ろ う か 。私 は 不 可 能 で あ る と 思 う 。見 返 り に は 、金 銭 的 な も の ば か り で な く 、 精神的なものつまり、自己満足などといったものも含まれるからである。 こ の 論 文 に お け る 「ボ ラ ン テ ィ ア 」の 定 義 づ け を ま と め る と 、 ボ ラ ン テ ィ ア と は ま ず 、本 人 の 意 思 が 尊 重 さ れ る の が 前 提 で あ る 。そ の う え で 、自 発 的 か つ ( 金 銭 面 に お い て ) 無 償 で 社 会 に 貢 献 す る 人 、あ る い は 行 為 そ の も の を さ す こ と と す る 。 賛 否 両 論 あ る と 思 う が こ の 論 文 に お い て 「ボ ラ ン テ ィ ア 」を 以 上 の よ う に 用 いて、ボランティア精神とは何かを探索しようと思う。 第2章 宗教的観点から見るボランティア精神 -6- 筆 者 は 宗 教 の 考 え 方 の 中 に は 今 日 お け る 、 「ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 」と 共 通 す る 概 念が含まれているのではないかと仮定している。そのため、この章では世界三 大宗教と呼ばれている、キリスト教、仏教、イスラムを取り上げ、それぞれの 宗教においてボランティア精神とはどういうものなのか、またどうあるべきな のかを考察する。 第1節 キリスト教におけるボランティア精神 古 代 キ リ ス ト 教 に お け る 「隣 人 愛 」 キ リ ス ト 教 に お け る ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 の 理 念 に 当 て は ま る も の は 、や は り 「 隣 人 愛 」 で は な い だ ろ う か 。「 隣 人 愛 と は 、 困 難 に あ っ て い る 人 の こ と で 、 そ れ が 知人であるかどうかは関係がない。その人に無条件に助けの手を差し伸べるこ と が 、 隣 人 を 愛 す る と い う こ と で あ る 。」 4 こ の 隣 人 愛 と い う 概 念 が キ リ ス ト 教 を普及させる上で重要な役割を果たしたのは歴史的観点から明らかである。古 代西洋社会にユリアノスという皇帝がいた。彼はいったんキリスト教帝国にな ったこの世界の全体をもう一度ひっくり返し、いわば歴史を逆行させて、非キ リスト教的ギリシャの伝統に立ち戻ろうとした、それも、最高権力者たる皇帝 の 権 力 を 持 っ て 、何 と か こ の 世 界 全 体 を も と に も ど そ う と し た 5 。し か し 、彼 は 皇帝になって二年間、むきになって、古典ギリシャ文明の復興に努めたが、そ れがまったくむなしい努力だということ嫌というほど思い知らされた。いまや 人口の多数を占めるキリスト教徒の側からの反対、反抗はあまりにも根強く、 も は や 肯 定 の 力 を も っ て し て も ど う に も な ら な か っ た 6 。ま た 、ユ リ ア ノ ス は キ リ ス ト 教 に 拮 抗 す る た め に 、正 直 に キ リ ス ト 教 の 現 実 を 見 、評 価 し よ う と し た 7 。 そして、ユリアノスが当時のキリスト教の長所をどの点に見たかというと、他 4 中田豊一『ボランティア未来論』 5 田川建三『キリスト教思想への招待』 6 田川建三 前掲書 p.130 7 田川建三 前掲書 p.129 参加型開発研究所 勁草書房 -7- 2000 年 2004 年 p.141 p.127-128 社に対する人間愛の実践としての救護事業、死者の弔いの丁重さ、真面目な生 活 倫 理 8 の 3 つ を 挙 げ て い る 。そ の 3 つ の 中 で 、ユ リ ア ノ ス が 重 要 視 し て い る の が 、 「人 間 愛 」で あ る 。 古 代 社 会 の キ リ ス ト 教 の 救 護 事 業 に は 、 旅 人 や 亡 命 者 な ど の 「よ そ 者 」に 一 宿 一 飯 を 提 供 す る こ と が 含 ま れ る 。 古 代 に お い て 、 一 般 人 に とってそれらを確保することは重要であった。田川建三はおそらくこの時代の キリスト教は、相手がクリスチャンでなくても、困っている人を助けることを し た だ ろ う 9と 推 測 す る 。 な ぜ な ら 、 ユ リ ア ノ ス が そ れ を 真 似 し て 自 ら も 「救 護 所 」 を つ く ろ う と し た か ら で あ る 。ユ リ ア ノ ス 自 身 が そ れ を キ リ ス ト 教 の 活 動 の 目立つ特色として捉えていたに違いない。また、田川は古代キリスト教の救護 事業が、たまたま困っている人を見て、クリスチャンが個人的な善意で助けて あ げ ま し た 、 と い う よ う な 水 準 で は な い 10と 主 張 す る 。 こ こ で い わ れ て い る の は、いわば教会の組織、事業として作られ、しっかり運営されている場所、機 能 で あ る 11。 キ リ ス ト 教 会 と は こ う い う こ と を す る 場 所 な の だ 、 と い う 目 的 意 識 が あ っ て 、積 極 的 に 取 り 組 む の で な い と 、運 営 不 可 能 で あ る 1 2 。そ し て ま た 、 こういうものは、単に制度として維持していきましょう、というだけでは維持 できない。むしろ、キリスト教とはこういうことをするものなのだ、という基 本 的 な 了 解 が 、 信 者 た ち の 間 に 常 に 生 き て い な い と 、 で き る こ と で は な い 13。 キリスト教会のあらゆる側面、ここの信者の生活の様々な局面において、それ に つ な が る 姿 勢 が 通 っ て い な い と 、 こ う い う こ と は で き な い 14の で あ る 。 つ ま り 、 古 代 キ リ ス ト 教 の 「隣 人 愛 」と い う 概 念 が 、 民 衆 に 受 け 入 れ ら れ 、 そ れ 自 体 がキリスト教の核となっていたといえる。 中 世 に お け る 「隣 人 愛 」 8 田川建三 前掲書 p.125 9 田川建三 前掲書 p.126 10 田川建三 前掲書 p.127 11 田川建三 前掲書 p.127 12 田川建三 前掲書 p.127 13 田川建三 前掲書 p.127 14 田川建三 前掲書 p.127 -8- 中 世 に お い て も 、 「隣 人 愛 」の 精 神 が 人 々 を 動 か し た 。 シ ュ ヴ ァ ー ベ ン の 十 二 個条である。その第二条は十分の一税について記されている。旧約聖書のユダ ヤ教社会で確立していた制度で、全収穫物の十分の一は税金として納めなけれ ばならないという、神の事柄のための税金である。シュヴァーベンの農民たち は 、 こ れ に つ い て 、 ま ず 宣 言 す る 、 「こ れ は 神 に 対 し て さ さ げ ら れ る べ き も の 、 ま た 、神 の 者 た ち に 対 し て 分 け 与 え ら れ る べ き も の で あ る 。」「 神 の 者 た ち に 対 して分け与えられる」というのは、つまり、特定の支配者の利益ではなく、す べ て の 住 民 に 還 元 さ れ ね ば な ら な い 15と い う こ と を 言 っ て い る の で あ る 。 こ れ は、十分の一税は宗教税であるから、キリスト教が昔から言ってきたことのた めに使おう、ということになる。彼らはキリスト教が伝統的に言ってきたこと のうちで最重要なことは、この社会の中に見出される貧しい者、乏しい者を支 え る こ と だ 、 と 理 解 し て い た の で あ る 16。 また、中世後半全体にわたって、都市市民の自治自由を求める運動の基本理 念 は 「共 通 の 利 益 」で あ っ た 、と 言 わ れ る 17。「共 通 の 利 益 」と は 、日 本 語 で は 「社 会 福 祉 」 と 訳 さ れ る 。特 定 の 支 配 層 に 利 益 が 集 中 す る こ と は 許 さ れ な い の で 、都 市市民の自治とは、ここに生きるすべての人間の役に立つように都市が運営さ れ な い と い け な い 18と い う 基 本 理 念 が 確 立 し た の で あ る 。 出 発 点 に お い て は 、 「教 会 」と い う 小 さ な 信 者 の 集 団 の 中 で し か あ て は ま ら な い 倫 理 的 目 標 と し て 考 えられていたことが、こうして、中世のキリスト教社会を通じて、社会全体の 目 標 と な っ て い っ た 19の で あ る 。 シュピタール キ リ ス ト 教 社 会 に お い て は 、 オ ス ピ ス が 発 達 し た 。 オ ス ピ ス と は 、「 救 護 所 」 15 田川建三 前掲書 p.158 16 田川建三 前掲書 p.160 17 田川建三 前掲書 p.160 18 田川建三 前掲書 p.161 19 田川建三 前掲書 p.161 -9- のことである。ユリアノスの古代だけでなく、特に中世キリスト教社会におい て発達した。この段階になると、キリスト教は異教世界の中の少数者の場所で な く な り 、 社 会 全 体 が キ リ ス ト 教 に な っ た 。 20シ ュ ピ タ ー ル は オ ス ピ ス の ド イ ツ 語 訳 で あ る 。で は 、シ ュ ピ タ ー ル を つ く っ た の は 誰 か と い う と 、支 配 権 力 者 、 封建領主の中で、比較的良心的な人々であった。シュピタールを寄進した例と して、大ブルジョアのアウグスブルクのフッガー家やニュルンベルクのグロス 家などが挙げられる。寄進する人たちは、建物だけでなく自分たちの不動産、 具体的には農地を寄進した。なぜそうするのかというと、シュピタールがそう いう土地などの不動産を所有することになれば、そこからあがる収益で経常経 費 を ま か な う こ と が で き る 2 1 か ら で あ る 。シ ュ ピ タ ー ル の 存 在 意 義 と い う の は 、 困窮している人々の役に立つことである。そのため、シュピタールは存続しな ければならないのである。 なぜ、経済的に成功したものが社会貢献しようとするのかというと、ある程 度以上豊かになると、その豊かさを社会に還元しないのは罪だ、という意識に か ら れ る か ら で あ る 22。 な ぜ そ の よ う な 意 識 に か ら れ る の だ ろ う か 。 そ の 理 由 の 一 つ と し て 、イ エ ス が 語 っ た 譬 え 話 、 「 貧 乏 人 ラ ザ ロ 」の 話 が 挙 げ ら れ る 。登 場人物は一人の金持ちと貧乏人ラザロである。話の内容を端的に示すと、金持 ちは有り余るお金を持っていたにもかかわらず、目の前に飢えていた貧乏人ラ ザロに何もしなかったため、金持ちは死んだとき地獄に堕とされ、ラザロは神 の憐れみにより天国へ導かれたという話である。中世キリスト教では、この感 覚 が 強 く 支 配 し て い た 。 2 3 田 川 は こ の よ う に 主 張 す る 。「 自 分 の 構 成 を 心 配 す る から寄進した、というだけでのことではあるまい。それらの金持自身もまた、 同 じ 価 値 観 を 共 有 し て い た の で あ る 。あ る 程 度 以 上 多 く の 収 入 が あ り す ぎ た ら 、 それはもう、本当は自分のものであってはならない。自分のものであってはな ら な い の で あ れ ば 、 「み ん な の 役 に 立 つ こ と 」に 寄 進 し よ う と い う こ と に な る 。 20 田川建三 前掲書 p.165− p.166 21 田川建三 前掲書 p.173 22 田川建三 前掲書 p.168 23 田川建三 前掲書 p.184 - 10 - 中 世 キ リ ス ト 教 社 会 は 、 そ う い う 価 値 観 を 人 々 の 間 に 育 て て い た 24。 」確 か に 、 中世キリスト教社会において、人々の価値観にキリスト教の価値観が反映され ていたということができる。 現 代 の キ リ ス ト 教 の 「隣 人 愛 」 筆 者 は 、 「隣 人 愛 」は 現 代 に お い て ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 の 一 部 、 も し く は そ の も の に 置 き 換 え ら れ て い る と 考 え る 。「 隣 人 愛 」 に つ い て 、田 川 は 「 現 代 ヨ ー ロ ッ パ 社 会 に お い て も 、 非 常 に し ば し ば 、 も は や 「キ リ ス ト 教 」の 名 前 と は ま っ た く 関 係のないところでも、この姿勢と精神が生きているのを多く見出すことができ る 」25と 述 べ 、 中 田 豊 一 も 自 ら の 著 書 テ ィ ア 未 来 論 」 の 中 で 、 「欧 米 社 会 に お い て NGO の 誕 生 の 母 体 と な り 、 現 在 も 理 念 と 活 動 を 下 支 え し て い る の と 基 本 的 には同じもの、すなわちキリスト教の精神文化であると考えても差支えなかろ う 。」26と 述 べ て い る 。つ ま り 、「隣 人 愛 」と い う キ リ ス ト 教 の 教 義 は 現 代 も 西 欧 人の考え方の基盤となり、ボランティアをする人々の支えとなっていると捉え ることができる。中田は日本のボランティアもキリスト教の影響を受けている と 主 張 す る 。「 日 本 に お い て も 近 代 的 な 社 会 事 業 の 多 く が キ リ ス ト 教 に よ っ て 起 こ さ れ 、 な お か つ 、 戦 後 の 日 本 の ボ ラ ン テ ィ ア 的 な 福 祉 事 業 お よ び NGO 活 動 も キ リ ス ト 教 関 係 者 に リ ー ド さ れ て き た 。」 2 7 ま た 、 同 氏 は 「 海 外 援 助 の 世 界 だ けに限れば、おそらく半数近くが、キリスト教関係者にちがいない。私の場合 も、カトリックの宣教師との出会いが、この世界に足を踏み入れる最大のきっ かけだった。阪神大震災における組織的なボランティア活動を主導し支えてい た中にも、キリスト教関係者のなんと多かったことか。全ボランティアグルー プ の 三 分 の 一 や 四 分 の 一 を 占 め て い た の で は な い だ ろ う か 」2 8 と も 語 っ て い る 。 24 田川建三 前掲書 p.185 25 田川建三 前掲書 p.186 26 中田豊一 前掲書 p.130 27 中田豊一 前掲書 p.136 28 中田豊一 前掲書 p.136 - 11 - ボランティアをする人にとってキリスト教には求心力や、魅力があるのかも し れ な い 。中 田 は 「 社 会 活 動 に 長 く 携 わ る 中 で 、キ リ ス ト 教 に エ ネ ル ギ ー の 供 給 源 を 見 出 し た も の も 私 の 周 り に は 少 な か ら ず い る 」 2 9 と 言 う 。そ し て 同 氏 は「 社 会のために働きたいと言う希望を持つ若者がその精神的よりどころとしてキリ スト教を選び、そこを活動の足場にして、意義のある仕事をした。その結果と して、信徒人口からすれば考えられないような影響力を、キリスト教が持つよ う に な っ た 30」 と キ リ ス ト 教 の 求 心 力 、 魅 力 を 分 析 す る 。 現 代 の 「隣 人 愛 」の 対 象 と な る 範 囲 は 以 前 に 比 べ 、 拡 大 し て い る 。 エ ル サ レ ム の 原 始 キ リ ス ト 教 団 の 、 多 分 、 ほ ぼ ま っ た く 実 現 し て い な か っ た 「理 想 」か ら 話 が 始 ま っ て 、 徐 々 に 、 実 際 に 実 行 す る も の と な り 、 そ の 「自 分 た ち 」の 範 囲 も 、 小さな宗教集団から、周りの人々へ、そして、町村の地域共同体へ、都市自治 へ 、 と 広 が っ て い っ た 31の で あ る 。 そ し て 、 そ の 意 識 は さ ら に 、 世 界 中 に 広 が ろうとする。世界のどこかに、食えずに困っている人がいたら、私は安心して 眠 る こ と が で き な い 、 と い う 意 識 へ と 32範 囲 が 拡 大 し て い る の で あ る 。 そ れ ゆ え 、 現 代 に お い て 「隣 人 愛 」が 困 難 に 陥 っ て い る 人 を 助 け る と い う 定 義 が 成 立 す るのである。 第2節 仏教におけるボランティア精神 仏 教 に お け る ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 と 捉 え る が 概 念 は 、 や は り 「慈 悲 」以 外 に な い だ ろ う 。 慈 悲 は あ ら ゆ る 生 き と し 生 け る も の を あ わ れ む 思 想 33で あ る 。 慈 と 悲 がどう違うのかというと、慈は積極的に利益と安楽を増すこと、それに対して 悲 は 、 不 利 益 と 苦 を 除 去 す る こ と 34を 意 味 す る 。 梅 原 は 、 著 書 「仏 教 の 思 想 」の 中で、 「 慈 悲 と い う も の は 、釈 迦 を 襲 っ た 根 本 的 勘 定 で あ る と よ い か も し れ ま せ 29 中田豊一 前掲書 p.137 30 中田豊一 前掲書 p.137 31 田川建三 前掲書 p.186 32 田川建三 前掲書 p.186 33 増谷文雄 梅原猛 『仏教の思想 34 増谷文雄 梅原猛 前掲書 知 恵 と 慈 悲 <ブ ッ ダ > 』 p.258 - 12 - 角川書店 1968 年 p.274 ん。何ゆえ釈迦は出家したか。それは生とは何か、死とは何かという形而上学 的問題ゆえでもありましょう。しかし、出家の動機はそれと同時に、衆生への 哀れみであります。多くの生きているものが苦しんでいる、その苦しみから衆 正 を ど う し た ら 救 え る か と い う こ と で す 3 5 。」 そ し て ま た 、 同 氏 は 「 釈 迦 が 、 彼 のさとりを自分だけにとどめずに民衆のもとにもたらそうとしたのは、彼の慈 悲ゆえでありました。苦悩に呻吟する民衆を、その苦悩から救ってやる、それ が 釈 迦 の 悲 願 で あ り ま し た 36。 と も 述 べ 、 慈 悲 に お い て 仏 教 の 本 質 を 見 出 す こ とができるのではないだろうか。 慈悲には主体と客体という構造がある。つまり、慈悲を与える側と与えられ る 側 に 分 け ら れ る の で あ る 。 慈 悲 の 主 体 は 人 間 、 そ し て 客 体 は 衆 生 37で あ る 。 衆生とは人間を含めたすべての動植物のことである。客体、つまり受け手が衆 生 で あ る こ と 異 論 が な い だ ろ う 。主 体 の 側 は 、単 な る 人 間 で あ っ て は な ら な い 。 すでに苦を超えた境地に達していなければならないのである。苦を克服したも の が 、苦 境 に た た さ れ て い る も の を 、あ わ れ み 悲 し み 、そ れ を 苦 か ら 救 い 出 し 、 楽 を 与 え よ う と す る 38。 つ ま り 、 慈 悲 の 主 体 と な る 人 間 が 、 客 体 と な る 、 す べ ての動植物を思いやり、助けてあげるというのが慈悲の本質であり、ボランテ ィア精神と共通している部分なのではないだろうか。 第3節 イスラムにおけるボランティア精神 筆者にはイスラムとは、仏教やキリスト教といった他宗教と比べ、特殊な世 界観をもつ宗教というイメージがある。イスラムは、諸宗教間に原理的対立を 認 め な い 日 本 の 風 土 と は 異 質 の 一 神 教 の 原 理 を 貫 い て 39い て 、 日 本 の 宗 教 的 風 35 増谷文雄 梅原猛 前掲書 p.258 36 増谷文雄 梅原猛 前掲書 p.258 37 増谷文雄 梅原猛 前掲書 p.260 38 増谷文雄 梅原猛 前掲書 p.260 39 加賀谷寛 『イスラム思想』 大阪書籍 1986 年 - 13 - p.13 土 は 仏 教 も 含 め て ど ち ら か と い う と 「人 間 」中 心 主 義 的 で あ る 40の に 対 し 、 イ ス ラ ム は 明 確 な 「神 」中 心 主 義 の 宗 教 41で あ る 。 ま た 、 宗 教 を 個 人 の 良 心 の 問 題 に 限定して、国家や公共機関から切り離す近代の世俗主義の考えもイスラムには な じ 42ま な い 。 政 治 と 宗 教 を 切 り 離 す わ が 国 の 基 本 的 立 場 も 、 イ ス ラ ム の こ の 立 場 と 相 容 れ な い と 解 釈 43で き る 。 こ の よ う に 、 根 本 的 に イ ス ラ ム は 日 本 の 構 造とまったく異なるため、筆者自身イスラムに対し、違和感というような戸惑 いを覚える。 イスラム思想では宗教とは心で振興するだけでなく、生活で実践しなければ 正 し い 救 い に 至 る こ と が で き な い と 考 え ら れ て 44い る た め 、 コ ー ラ ン や イ ス ラ ム法に基づき、イスラム教徒は行動する。つまり、他宗教には本人の意思にゆ だねるというような曖昧なものが存在するが、イスラムにはそれらの規則の遵 守が絶対であり、それらは人々の生活に大きな影響を与えている。そのため、 ボランティア精神に共通するイスラムの概念が見当たらない。しかし、概念で はないが、制度として、ボランティアがイスラムには存在する。 イスラムにはザカートという制度が存在する。ザカートは喜捨を意味する。 イスラム法では最も基本的な実践の礼拝と並んでザカートの実行が重視されて 45い る。我々が獲得する財産や所得は、個人の所得に属する限り不浄であり、 財 や 所 得 は 本 来 、 神 に よ る 委 託 と 考 え な け れ ば な ら な い と い う 考 え 46に 基 づ い ているためである。 イスラム法ではザカートが課せられる財は現金収入、家畜、果樹、穀物、商 品 な ど 47で 、 ザ カ ー ト の 収 入 を 配 分 さ れ 受 給 さ れ る も の は 、 コ ー ラ ン に 記 さ れ て い る よ う に 「両 親 と 親 類 縁 者 、 弧 独 と 貧 し い も の 、 旅 行 者 」48と な っ て い る 。 40 加賀谷寛 前掲書 p.13 41 加賀谷寛 前掲書 p.13 42 加賀谷寛 前掲書 p.17 43 加賀谷寛 前掲書 p.17 44 加賀谷寛 前掲書 p.40 45 加賀谷寛 前掲書 p.58 46 加賀谷寛 前掲書 p.58 47 加賀谷寛 前掲書 p.59 48 加賀谷寛 前掲書 p.59 - 14 - ザカートの用途はこのようにはっきりと定められているのである。イスラム法 ではザカートは義務的行為である。これに対し、サダカートという喜捨を自発 的に行うものを表す言葉がある。このようにイスラムは、コーランやイスラム 法によって喜捨が義務付けられている。そのため、人々は喜捨をすることは当 たり前であるから、人々は人助けを意識せずに、結果的に人助けしている。お そらく、このような形が理想なのかもしれない。イスラム社会においてボラン ティアは社会のシステムの一部として組み込まれ、機能していると捉えること ができる。サダカートが、イスラム社会におけるボランティアのひとつの形と いえるのではないだろうか。 第3章 ボランティア教育 近年、日本においてボランティア教育の重要性が叫ばれている。行政が主体 となり、積極的にボランティア教育に力を入れている。なぜそのようなことを - 15 - するのか、ボランティア教育は意味があるのか、本章ではそのようなことを考 えたいと思う。 第1節 ボランティア活動と奉仕活動の違い まず、ボランティア活動と奉仕活動が同じ意味として用いられることが多い と い う 現 状 が あ る 。 ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 を 、 日 本 で は 過 去 に 「奉 仕 活 動 」と 訳 し た こ と も あ っ た 。 こ の た め 、 現 在 も 依 然 と し て 「奉 仕 活 動 」の ニ ュ ア ン ス が 根 強 く 残 っ て い る 。 学 校 教 育 に お い て も ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 と 「奉 仕 活 動 」の 混 合 が 見 ら れる。ボランティア活動と称して全生徒を半強制的に動員して、校内清掃や河 川 の 清 掃 に 学 校 行 事 と し て 取 り 組 ん で い る ケ ー ス も 多 く み ら れ る 。こ の よ う に 、 自発性を伴わない公益活動をボランティア活動と混同している事例も少なくな い 4 9 。要 す る に 、ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 に は 自 発 性 が 伴 わ な け れ ば な ら な い 。一 方 、 奉仕活動においては、自発性はもちろん半強制的にやらせることも了承される のである。 筆者も小・中学生時代、学校周辺のごみ拾いや廃品回収の手伝いといった奉 仕活動を体験したことがある。正直、強制的なものという感覚があった。勉強 が嫌いだったため、教室で国語や数学など机に向かって勉強するよりはましで はあったが、苦痛を伴うつまらないものであった。しかし、学ぶことは少なく ともあった。ごみ拾いをした際、他人が捨てたごみをなぜ自分が拾わなくては いけないのだろうと自問しながらも、 「ごみのポイ捨ては人に迷惑をかけること になる。ごみのポイ捨てはやめよう」と思った記憶がある。しかし、奉仕活動 を体験したからといってボランティアに興味をもつことはなかった。 学校でボランティア活動を導入することは難しいことではないだろうか。な ぜなら、学校における教育は集団行動を求めるため、教育そのものが画一化せ ざるを得ない。生徒の自発性に委ね、行動させることは、高校生であればある 49 監修・岡本栄一 『ボランティアのすすめ』 - 16 - ミネルヴァ書房 2005 年 p.24 程度大丈夫だと思うが、小・中学生に関してはいささか不安である。また、生 徒の自発性に委ね、行動させることは、現場の教師の負担が増え、従来の教育 ができなくなる可能性がある。なぜ、教師の負担が増えるかというと、ボラン ティア教育は生徒の自発性を尊重するわけだから、生徒がやりたいボランティ アをやらせることがまず優先される。つまり、各々の生徒が、それぞれ異なる 分野のボランティアに興味もつと、教師はそれぞれの生徒にあった対応をする 必要性が出てくるからである。 仮にボランティア活動を導入するのであれば、教育そのものを抜本的に見直 す必要がある。従来の教育というのは画一的な色合いが強かったが、ボランテ ィ ア 活 動 を 重 要 な も の と 位 置 づ け る の で あ れ ば 、教 え る 側 の 人 数 を 増 や し た り 、 生徒のさまざまな要望にこたえるのは実質不可能なため、教師が前もって生徒 にやってもらうボランティアをいくつか選んでおき、その中から生徒に自分の やりたいボランティアを選ばせるといったことを行う必要がある。 しかし、ボランティア活動の学習スタイルに、大きな問題が生じる。この学 習スタイルはボランティアに興味のない生徒が淘汰される危険性をはらんでい る。ボランティア活動の学習スタイルは、生徒の自発性を尊重するにもかかわ らず、ボランティアに興味のない生徒には強制を強いるという側面を持ち合わ せているからである。ボランティアに学生全員が興味をもつということはあり 得ない。周囲の人間がいくらボランティア活動に力を入れようとしても、それ をやる当事者、すなわち生徒が、強制を強いられていると感じたら、それは奉 仕活動なのである。 第2節 ボランティア教育の意義 市民社会の形成過程においてボランティア人口を増加させるために、国を挙 げてボランティア教育に力を入れるのは重要なことである。これはボランティ - 17 - アに賛同する側の主張であろう。しかし筆者は立場が異なり、日本のボランテ ィア教育に抵抗を感じている。財政難に陥っている行政は、現状の社会保障制 度では、多様なニーズにこたえることができないと判断し、行政では補充でき な い 福 祉 サ ー ビ ス を ボ ラ ン テ ィ ア や NPO と い っ た 第 3 セ ク タ ー に 期 待 を 寄 せ ているという側面がある。そのため、ボランティアに携わる人口を増やすため に 、 「ボ ラ ン テ ィ ア 」と い う 言 葉 を 発 し て 、 ア ピ ー ル し て い る の で は な い か と 思 ってしまう。行政側の他力本願とでもいうべき考えが見え隠れするのである。 筆者にはボランティア教育というのが、大人社会のつけを子供たちに払わせよ うとしているように思える。大人は、人間関係が適切に維持できない、集団行 動 が 苦 手 、 親 友 が い な い 、 自 己 中 心 的 、 そ し て 現 実 回 避 的 で あ る な ど 50と 若 者 を批判しているようだが、果たして若者だけにいえることだろうか、ここで挙 げられている集団行動が苦手とか、親友がいないなどは今の若者に当てはまる 共通の事項ではなくて、大人にも当てはまるものなのではないだろうか。若者 を批判するとき、このような批判の仕方はナンセンスである。例えば、電車の 中でお年寄りや赤ちゃんを抱きか抱えている女性に席を譲るのは女性が多い (特 に 若 い 人 )。 逆 に 、 そ う い っ た 人 た ち に サ ラ リ ー マ ン が 席 を 譲 る 姿 を 私 は 見 たことがない。要するに、身勝手だとか思いやりがないといったものは個人の 問題である。若者だから身勝手だとはならない。他人を思いやる若者が少ない からボランティア教育をすべきだという主張が仮になされているのであれば、 理にかなっていない、おかしな考えと言わざるを得ない。 筆者の見解は、ボランティア教育はすべきであると思う。ボランティア教育 は 、 子 供 た ち に さ ま ざ ま な 「き っ か け 」を 与 え る ひ と つ の 手 段 で あ る か ら だ 。 あ る人はボランティア教育がきっかけとなってボランティアに参加するようにな るかもしれない。またある人にとって、ボランティア教育は何も感じることも なく、ボランティアに興味を示す「きっかけ」とならないかもしれない。それ でいいのではないだろうか。ボランティア教育を受けた子供たち全員がボラン 50 編者・遠藤克弥 『現代国際ボランティア教育論』 - 18 - 勉誠出版 2004 年 p.130 ティアに興味を持つというのは、あり得ない。ボランティア教育をする目的と いうのは、人がボランティアに興味を示すための機会を提供することである。 ボランティア教育は人がボランティアに興味を示す確率を高める作業といえる。 第3節 現代のボランティア教育 学校におけるボランティア教育 ボランティアは、第1章で述べたように、本人の意思が尊重され、自発的か つ (金 銭 面 に お い て )無 償 で 社 会 に 貢 献 す る 人 あ る い は 行 為 そ の も の と 定 義 し た 。 そして、ボランティア教育とはそのようなものを学習するものとなる。 ボランティア教育は、学校、あるいは家庭や社会で実施することが可能であ る 。( こ こ で は 、家 庭 や 社 会 で の ボ ラ ン テ ィ ア 教 育 に つ い て は 触 れ ず 学 校 に お け るボランティア教育について論じる。) 学校でのボランティア教育はいわゆる総合学習によって成り立つ。総合学習 と は 、体 験 学 習 を メ イ ン と し て 複 数 の 科 目 を 組 み 合 わ せ て 行 う 学 習 活 動 で あ る 。 筆 者 は 、 学 校 の ボ ラ ン テ ィ ア 教 育 に お い て 、「 道 徳 」 と 「 体 験 学 習 」 が 中 で も 重要なものだと考える。道徳は、ボランティア、つまり社会貢献をする際、何 が「善」で、何が「悪」かを判断できなければならない。その判断する能力を 養う必要があるからである。また、体験学習は天野貞祐が著書「今日に生きる 倫理」の中で述べるように「道徳性は暗誦だけでは養われない。実践に媒介さ れてのみそれが心身に染みこんで状態となり徳となることができるのである 51 。」 あ る い は 「 水 に 入 ら ず し て は 泳 ぎ が 学 べ ぬ と 同 じ く 実 践 な く し て 道 徳 性 が 身 に つ く 道 理 は な い 52」 と 主 張 す る 論 理 に 当 て は ま る の で は な い だ ろ う か 。 何 が「善」で何が「悪」かを知識として学ぶだけでは意味がなく、実際にそれら を 判 断 す る 経 験 を す る こ と で 「 善 」「 悪 」 の 判 断 が で き る よ う に な る の で あ る 。 51 天野貞祐 『今日に生きる倫理』 52 天野貞祐 前掲書 栗田出版会 p.41 - 19 - 昭 和 45 年 p.40 し か し 、筆 者 は 道 徳 と い う 授 業 に は 少 々 問 題 が あ る と 考 え て い る 。な ぜ な ら 、 生徒たちの思考能力を訓練する授業にもかかわらず、最初から答えの方向性が 見えていると思うからである。道徳という科目は、筆者の経験からして、先生 が生徒たちにどのような答えを求めているのかを生徒たちはそれとなく察知で きる科目なのである。道徳という授業は、生徒自身が自ら考え、よりよく問題 を解決する資質や能力を育てることを目的としているにもかかわらず、方向性 が見えているため、少し考えれば答えが導き出せてしまうのだ。このような道 徳の授業で生徒が思考能力を向上させることは可能なのであろうか。このよう な 授 業 は 意 味 が あ る の だ ろ う か 。し か し 、こ の よ う な 問 題 点 が 含 ま れ て い る が 、 それでもそれは必要不可欠なのである。それは、生徒たちに社会規範を刷り込 むという機能を有しているからである。 ボランティア教育は有効なのか 表Ⅰ (原 出 所 )角 田 禮 三 編 学 校 で ボ ラ ン テ ィ ア の 勉 強 を し た い (% ) 『ボランティア教育のすすめ』 明治図書 2000 年 p.99 ボランティア教育について、政治家や学者などのインテリ層が、熱心に議論 している昨今だが、ボランティア教育を受ける側、つまり子供たちは、ボラン ティア教育についてどう思っているのであろうか。ここに興味深い資料を提示 する。 上の表Ⅰについて説明すると、学校でボランティア活動について勉強してみ たいと思いますか?という生徒の学習意欲に関する調査において、小学生では - 20 - 「どちらかといえば勉強してみたいと思う」の合計が7割を占め、肯定的な答 が 多 く 、中 高 生 で は 、 「 ど ち ら か と い え ば 勉 強 し た い と 思 わ な い 」と「 全 く 勉 強 し て み た い と 思 わ な い 」 の 合 計 が 6 割 弱 と 否 定 的 な 回 答 が 多 く 53な っ た 。 ボ ラ ンティア活動の経験がある群とない群との比較では、肯定的な回答では経験の あ る 群 が 高 く 、 否 定 的 な 回 答 で は 経 験 の な い 群 が 高 い 傾 向 が 54あ っ た 。 この調査結果をどう解釈するかは人により異なるだろう。例えば、単純に小 学生の大半がボランティアに興味をもっていることは喜ばしいとか、中・高校 生に否定的な回答が多いのは、小学生に比べ受験などで時間に余裕ないからだ という解釈も可能である。この調査結果を筆者は次のように解釈する。ボラン ティアの経験がある・なし、どちらも各層とも年齢が上がるにつれ、肯定的な 回答より、否定的な回答が増加する傾向があるということがいえる。このこと は、小学生が他の世代に比べ、ボランティアに関する学習意欲が高いのは、ボ ランティアをすることはいいことであり、した方がいいという「善」の観点か ら肯定的な意見を示しているからである。つまり、先生や親といった大人の影 響を強く受けているためである。一人前の大人たちの言葉はその一つ一つが幼 児 に と っ て は 、 神 秘 的 な ま で に 内 容 豊 富 な も の に 思 え る 55か ら で あ る 。 自 分 の 意思ではなく、一般的な道徳観念が反映され、それがそのまま小学生の調査結 果としてこのように表れたのである。逆に、中・高校生で否定的な意見が多か ったのは、反抗期や自我の目覚めといったものが現れるのがこの時期で、大人 に対する反発や疑念を抱き、自分の意思というのを表明できるようになったた めではないだろうか。つまり、小学生のころは、意思決定や行動する際、無意 識に大人の価値基準に依存し、 「 善 」・ 「 悪 」と い っ た 一 般 的 な 道 徳 観 念 に と ら わ れる決定する傾向が強かったのに対し、中・高校生になると自分の考えに基づ き意思決定や行動を起こす傾向が強まり、ボランティアに関心がないという認 識に気づくのではないかと思う。そのため、中・高校生では否定的な意見が多 53 角田禮三編 『ボランティア教育のすすめ』 54 角田禮三編 前掲書 55 シェストフ 上野修司訳 明治図書 2000 年 p.99 p.99 『善の哲学 トルストイとニーチェ』 - 21 - 1967 年 p.28 いのではないだろうか。しかし、このような結果が出たからといって、全面的 にボランティア教育が否定されるというわけではない。なぜなら中学生合計、 高校生合計において調査結果が示すように肯定的な回答率と否定的な回答率と の間にはそんなに大きな差がないからである。従って、ボランティア教育は有 効であるといえる。 第4節 考察 近年、ボランティアの重要性が高まっている。国連もボランティアを推進し て お り 「 ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 推 進 国 際 協 議 会 」 ( I AV E ) は 二 度 に わ た り 、「 世 界 ボ ラ ン テ ィ ア 宣 言 」 を 行 っ て い て 、 1990 年 宣 言 で は 、 ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 の 定 義 、 行 動 原 則 、行 動 目 的 を 明 ら か に し 、2 0 0 1 年 宣 言 で は 、以 上 に 加 え て ボ ラ ン テ ィ ア活動の意義を唱え、各国政府、企業、マスメディアなどの指導者に協力を要 請 し て い る 56。 ボ ラ ン テ ィ ア の 推 進 は 国 際 的 な 風 潮 と い え る 。 ボ ラ ン テ ィ ア を 広く普及させるために、ボランティア教育は重要な位置を占めているといって もいいだろう。 では、ボランティアを普及させる、すなわちボランティア人口を増加させる ためには、ボランティア教育はどうあるべきなのであろうか。学校におけるボ ランティア教育も第 2 節で述べたように 、人がボランティアに興味をもつ契機 を設けるために必要なものである。また第 3 節では触れなかったが、家庭や社 会におけるボランティア教育もまた重要なものである。なぜなら、学校のボラ ンティア教育だけだとどうしても時間や取り扱う分野が限られてしまうため、 限界がある。そのため、それを補填する受け皿が必要であり、それが家庭や社 会といったものである。 ボランティア教育は本などの論調を拝見する限り、子供が対象とされている と い う 印 象 を 受 け る 。し か し 、ボ ラ ン テ ィ ア を 国 を 挙 げ て 推 進 す る の で あ れ ば 、 56 遠藤克弥編 前掲書 p.38 - 22 - 子供だけでなく大人もその対象とされなければならない。なぜなら、大人つま り、家庭における親がボランティアに関する意識が高くなければ、子供がボラ ンティアに興味を示す可能性も低いものとなるからである。家庭において親が 子供に与える影響というのは計り知れないものであり、親の価値観がそのまま 子供に反映されるものである。親がボランティアに理解を示していれば、子供 がボランティアに興味を示す可能性も自ずと高められる。ボランティア教育に おいて仮定における親の役割はきわめて重要なものなのである。また、家庭だ けでなく社会全体がボランティアを支持する風潮を作る必要があるだろう。 つまり、ボランティア教育とは、学校・家庭・社会が相互に連携することが 必要不可欠といえる。これは理想論である。まず、大人がボランティアを支持 しなければならない。つまり、ボランティア精神を持っていることが前提とな る。つまり、筆者自身もボランティア教育を推進するとするならば、ボランテ ィア精神を持たなければならないということになる。 筆者自身、ボランティア教育とはどうあるべきか考えてみたが、以上のよう に理想論は語れたと思うが、現実味のある論理を考え出すことは現時点では不 可能である。 第4章 偽善 この章では、なぜボランティアに対し、偽善的なイメージを持つのか。そも そも善とは何なのか、偽善者とはどのようなものなのかを考える。 第1節 「善」と「偽善」 - 23 - 「善 」と い う 言 葉 を な ん と な く 使 っ て い る 人 は 多 い の で は な い だ ろ う か 。 「善 」 とはどういうものなのか人に説明する際、説明できる人はどのくらいいるのだ ろ う か 。「 善 」 と い う の は き わ め て 、抽 象 的 で わ か り づ ら い 概 念 の ひ と つ で あ る 。 な ぜ な ら そ れ は 時 と し て 、 「善 」と い う も の の 中 に 、 さ ま ざ ま な も の が 含 ま れ る か ら で あ る 。 わ れ わ れ は 「よ い 」と い う 言 葉 を 様 々 の 意 味 で 用 い て い る 。 わ れ わ れにとって役に立つもの、快いもの、あるいは確立された社会的基準に合致す る 行 為 、 誰 も が 模 倣 す べ き だ と 考 え ら れ る 生 き 方 な ど が 一 様 に 「よ い 」と 呼 ば れ る 57。 と り わ け 、 自 分 が 属 し て い る 社 会 に 置 い て 確 立 さ れ て い る 基 準 や 慣 行 へ の 合 致 を 通 じ て 学 ば れ る 用 法 は 、こ の 言 葉 の 用 法 の 核 心 を な す も の と い え る 5 8 。 つ ま り 、 「善 」と い う も の は 、 国 の 文 化 (常 識 な ど )の 影 響 を 強 く 受 け る も の と い え る 。 し か し そ れ だ け で な く 、 「善 」と い う 概 念 に は 、 暗 黙 の 了 解 と さ れ て い る 考 え が 含 ま れ て い る と 考 え て い る 。そ れ は 、 「 善 」に は 崇 高 さ や 、美 し さ と い っ たものである。例えば、ニーチェは「善とは全能であり、善とは総ての代りを 務 め 、善 と は 神 で あ り 、む し ろ 善 は 神 よ り も 高 い 5 9 」と 捉 え 、ト ル ス ト イ は「 善 は我々の人生の永遠にして最高の目的である。たとえ我々が善を理解していな く て も 、 我 々 の 人 生 は 善 、 即 ち 、 神 へ の 志 向 以 外 の 何 者 で も な い の だ 60」 と 言 っ た 。ま た 、第 1 章 で 触 れ た よ う に 、キ リ ス ト 教 の「 隣 人 愛 」や 仏 教 の「 慈 悲 」 といった宗教的なボランティア精神あるいは「徳」といったものである。人間 は 「善 」そ の も の を 美 化 す る 傾 向 が あ る の で は な い か と 思 う 。 例 え ば 、 善 い も の と は 、 「正 し い と い う 性 格 を も つ と さ れ た 愛 」61と い う よ う な 類 の も の で あ る 。 個人レヴェルにおいて最善であるものが、さらに家族、友人職場、地域社会、 国家、人類へ、さらには遠い将来の人類にまで広がってゆくならば、それはは る か に 善 い こ と 62で あ り 、 こ の 広 大 な 全 体 の 中 で 可 能 な 限 り 善 を 増 大 さ せ る こ と、これこそ明らかに一切の行為がそれに向かって秩序づけられるべき人生の 57 九州大学哲学研究室編 『行為の構造』 58 九州大学哲学研究室編 前掲書 59 シェストフ 上野修司訳 前掲書 60 シェストフ 上野修司訳 前掲書 61 九州大学哲学研究室編 前掲書 p.71 62 九州大学哲学研究室編 前掲書 p.75 勁草書房 p.16 p.168 p.160 - 24 - 1983 年 p.16 目的なのであり、ほかの一切の命令がそれに従属する唯一至上の命令なのであ る 。 献 身 と 、 状 況 に よ っ て は 自 己 犠 牲 も こ れ に よ っ て 義 務 と な る 63。 特 に 、 ボ ラ ン テ ィ ア と い っ た 「善 」の 行 為 に は こ う い っ た 美 意 識 が 付 き ま と う 。 「 善 」に は 、 付加価値がついているのである。 一 方 、 「偽 善 」と い う の は 、 読 ん で 字 の 如 く 「 本 心 か ら で な く 、 み せ か け に す る 善 事 」 ( 広 辞 苑 よ り ) の こ と で あ る 。「 偽 善 」 と い う 言 葉 に た い て い の 人 間 が 嫌 悪 感 を 示 す 。筆 者 は 、「 偽 善 」 と い う 言 葉 こ そ 、人 間 の 本 質 を 突 い て い る と 思 う 。 例えば、子供が親や先生から誉められたいために、お手伝いすることである。 つまり、ある人から好かれたいため、見栄を張りたいためにやる行為である。 こ れ ら の 行 為 は 外 面 的 に は 、「 善 」 の 行 為 と 捉 え ら れ る 。し か し 、内 面 的 に は 「 偽 善 」の 行 為 で あ る 。 例 を 引 用 す る と 、 親 や 先 生 の 立 場 か ら す る と 、 「お 手 伝 い を し て く れ た 」 子 供 の 行 為 を 善 い こ と と 評 価 で き る が 、子 供 の 立 場 か ら 解 釈 す る と 、 子 供 の 行 為 は 「偽 善 」と 捉 え ら れ る 。 つ ま り 、 「善 」か 「偽 善 」か と い う 判 断 す る の は 行 為 の 主 体 、す な わ ち 子 供 な の で あ る 。 「 偽 善 」か ど う か は 、客 観 的 に は 判 断 できず、主観的な判断に委ねるしかないのである。 「偽 善 」に は 、 エ ゴ (利 己 的 な も の )が 付 随 す る 。 そ の エ ゴ イ ス テ ィ ッ ッ ク な 部 分が行動の随所に垣間見られたとき、人は不快な思いをする。なぜなら、それ が人間の持ついやな部分であることを認識していて、自分自身もそのいやなも のを持っているからである。なぜ、人間はエゴの要素を取り除こうとするのだ ろうか。エゴを捨てられる人間など存在するのだろうか。エゴを捨てることは 不可能である。そう簡単にエゴを捨てられるわけがない。エゴはたいていの人 間 が 持 っ て い る も の で あ る 。 だ か ら 、 「偽 善 」と い う も の を 卑 下 し て 捉 え る 必 要 は な い 。 「偽 善 」的 行 為 こ そ 、 人 間 ら し い 行 動 と い え る の で は な い だ ろ う か 。 第2節 63 ボランティアは偽善者なのか 九州大学哲学研究室編 前掲書 p.75ー 76 - 25 - よ く 、 ボ ラ ン テ ィ ア を 批 判 す る と き に 「 偽 善 者 」 と い う 言 葉 を 用 い る 。「 偽 善 」 を用いる例を中田の本から抜粋しようと思う。 「関西のある大学で非常勤講師をしていたとき、学生たちに『私たちは、ボ ランティアとして他者や社会の問題にかかわる必要があると思うか。またその 理 由 は 何 か 』 と い う テ ー マ で レ ポ ー ト を 書 い て も ら っ た 。 提 出 さ れ た 200 通 あ まりのうち、条件つきとやや消極的な肯定意見を含めて『必要あり』と答えた ものは八割以上に上った。しかし、大半の学生が理念的には必要と考えている 反面、現実には何もしていなかった。そのような学生たちをボランティアへの 参加を躊躇させるネガティブなイメージとして最も多かったのが、 『ボランティ ア は 偽 善 的 』 だ っ た 6 4 。」 筆 者 も 用 い た こ と が あ る 。 で は 、 こ の よ う に 批 判 す る 側 は 「偽 善 者 」で は な い の だ ろ う か 。 ボ ラ ン テ ィ ア に 従 事 す る 人 間 が 「偽 善 者 」で 、 ボ ラ ン テ ィ ア を し な い 人 間 が 「善 人 」な の か 。 そ の よ う に な る は ず が な い 。 「偽 善 者 」が や る よ う な こ と が で き な い や つ が 、 「善 人 」で あ る は ず が な い 。 で は 、 ボ ラ ン テ ィ ア を し な い 人 間 は 「悪 人 」な の か 。 い や 、 そ ん な は ず で も な い 。 ボ ラ ン テ ィ ア を し な い だ け で 「悪 人 」呼 ば わ り す る の も ど う か と 思 う 。 結 局 、 ボ ラ ン テ ィ ア を す る 人 も し な い 人 も 「偽 善 者 」な の で は な い か と い う 結 論 に 至 る 。 そ う な る と 、 ボ ラ ン テ ィ ア を 批 判 す る 側 の 批 判 の 仕 方 と し て 、 「偽 善 者 」と い う 批 判 の 仕 方 は 的 を 射 て い な い。 「偽 善 者 」と 非 難 さ れ る こ と に 抵 抗 を 感 じ る の は 、 ボ ラ ン テ ィ ア だ け で な い 。 た い て い の 人 に と っ て 抵 抗 を 感 じ る 。現 に 、筆 者 も そ う だ 。 「お前は偽善者であ る」という指摘が、誰にとっても我慢ならないのは、私たちが、自分は偽善者 で あ る と い う 事 実 か ら 、 お た が い に 目 を そ む け よ う と つ と め る か ら で あ る 65。 こ の 世 に は 、 完 全 な る 善 人 も 完 全 な る 悪 人 も い な い 66。 す べ て の 人 間 は 偽 善 者である。人間は、何が自分にとって有利か不利かを考え行動するものだ。つ 64 中田豊一 前掲書 65 福田定良 『偽善の倫理』 66 中田豊一 前掲書 p.23ー 24 法政大学出版局 p.105 - 26 - 1967 年 p.10 まり、物事に優先順位をつけて行動する。それは時として、自己を他者よりも 優先させることがある。例えば、自分がとても急いでいるときである。人は特 に、精神的に余裕がないときに自己を他人よりも優先させるのではないだろう か。では、ボランティアは自己を他人より優先させたことがないのだろうか、 見栄を張ったことがないのであろうか。いや、あるはずであろう。つまり、ボ ランティアも偽善者なのである。 前項でも述べたように、完全にエゴを取り除ける人などいない。いたとして も 、限 ら れ た 人 だ け だ ろ う 。何 度 も 言 う が 、す べ て の 人 間 は 偽 善 者 な の で あ る 。 - 27 - 第5章 終章−ボランティア精神とは何かー 各章で考えてきたことをまとめ、筆者にとってボランティア精神というのが どういうものであるか、ここでひとまず答えを出したいと思う。 ま ず 、 宗 教 に も ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 が 見 出 せ た 。「 隣 人 愛 」、「 慈 悲 」、 そ し て イ スラムのサダカート、いずれも、自助の精神というべきものが共通しこの精神 は、現代にも通じるものがあるといえる。 しかし、現代におけるボランティア精神は根底にはこのような宗教的なボラ ンティア精神が内在しているが、さらに複雑なものである。人の価値観が多様 化しているからである。人あるいは、状況によってボランティア精神の中身の バランスが変化する。例えば、ある人は、ボランティア精神を純粋に見返りを 求 め な い も の と 定 義 し 、ま た あ る 人 は そ れ を も っ と 身 近 で 気 軽 な も の と 捉 え る 。 状況によってボランティア精神の中身のバランスが変化するというのは、例え ば、心の傷を持つ子供を自立させるボランティアと環境のボランティアでは根 本的にボランティアに対する捉え方が違うのではないだろうか。また、学校に おけるボランティアの義務化に賛成する人、反対する人で分類される。これが ボランティア精神であるという万人が納得する定義づけが非常に困難なもので ある。 筆者には、ボランティア精神はないと思う。まず人間嫌いである。ボランテ ィアに携わりたいと思ったこともない。そのため、ボランティアに価値を見出 す人がなぜボランティアにそこまで魅せられるのかわからない。その理由は人 によって異なるものだと思う。楽しいから、自分の住んでいる地域を良くした い、人助けができるとか、知らない人と交流がしたい、たまたま環境問題に興 味があったからとか、自己革新したかったからとか、さまざまな理由が考えら れる。 筆 者 は 、ボ ラ ン テ ィ ア を し た こ と が な い と い っ た が 、あ る 友 人 は 、 「電車の中 で、席を譲るのはボランティアなんじゃないか」と言った。筆者も、電車で席 を譲ったことぐらいは経験がある。それがボランティアであるなら、筆者にと - 28 - って、あまり心地いいものではなかった。ありがとうと感謝されるのは理解で き る が 、筆 者 自 身 、感 謝 さ れ る と 案 外 恥 ず か し く 思 っ て し ま う の だ 。 「ありがと う」と言われた後、どのように振る舞えばいいのかわからない。いつも筆者が やる行動は、その場から立ち去ることである。基本的に、筆者は人から褒めら れたいとは思わない、逆に、怒られたいのかというとそれも違う。筆者は、褒 められることにも怒られることにも慣れていない。仮にいいことをしたとして もそっとしてほしいと思うのである。その後の対処の仕方に困るからだ。 いつだか定かではないが、テレビでクイズ番組を見ていたら、福知山線の脱 線 事 故 の 遺 族 の 人 に 獲 得 し た 賞 金 を 寄 付 す る と 言 っ て い る 人 が い た 。そ の 人 は 、 あの福知山線の脱線事故で、事故の当日、あの脱線した列車の乗っていたのだ という。その人が語るには、乗客で幸いたいした怪我を負わなかった人は、ほ とんどの人が現場に残り、救助活動をしていたらしい。この話を聞いて、筆者 は困っている人がいれば、誰しも助けようと思う心はもっているものだと思っ た。ボランティアを積極的に行わなくてもそれはそれでいいのではないだろう か。 ボランティア精神の本質は、相手の立場を理解するということではないだろ うか。ボランティアに従事している人は極めて、受身的だというかもしれない が、自ら、困っている人のもとに駆けつけ、その人の役に立つといった、積極 的 な も の で な く て も い い と 思 う 。自 己 犠 牲 や 美 徳 意 識 な ど と い う 鎧 を 脱 ぎ 捨 て 、 道端を歩いていたら、困っている人がいたらその人が今どういう状況にいるの か理解し、助けられる範囲で助ける、そのような流れに身を任せ、軽いものこ そ、人間的なボランティア精神なのではないだろうか。 - 29 - おわりに 今 ま で 、N P O や ボ ラ ン テ ィ ア は 必 要 だ が 、筆 者 自 身 は そ の よ う な も の に 興 味 がないというわがままな、ダメ人間の戯言に付き合っていただき心から感謝し たい。筆者の主張を聞いてイライラされた方も当然おられると思う。しかし、 筆者は卒業論文にこのテーマを選んでよかったと思う。なぜなら、このテーマ を選ばなければ、ボランティアについて考えようとも思わなかったし、なぜ自 分が興味ないのかという自己分析をする機会もなかったと思うからである。 現 時 点 で は 、ボ ラ ン テ ィ ア 精 神 と は 以 上 の よ う に 筆 者 は 捉 え て い る が 、今 後 、 また考えが変わるかもしれない。また、ボランティアとは、人によって定義が 異なるというのを改めて感じた。すなわち、ボランティアという言葉は、非常 に使い勝手がいい反面、白黒はっきりしている言葉ではないのである。 筆者自身も、いつか何かの縁でボランティアに従事するようになっているか もしれない、そんな可能性がボランティアにはあるような気がした。また、こ れからの日本社会を考えると、それがボランティア活動という形をとるのか、 奉仕活動という形をとるのかわからないが我々は何かしらの形で社会貢献に携 わらざるを得ないのではないかとも思った。 最後に、ゼミの皆様にはさまざまな助言を頂き、非常に助けられた。また小 関 先 生 に は 、最 初 ど の よ う な テ ー マ を 選 ぶ べ き か 相 談 し に 伺 っ た と こ ろ 、 「自分 のやりたいことをやったほうがいい」とおっしゃっていただき、筆者はこのテ ーマを選ぶことを決心した。この論文を書いて行き詰った際、違うテーマに変 えてしまおうとしたことが何度かあった。しかし、先生のあの言葉を支えとし 最後までこのテーマに全うすることができた。また、筆者にはない考えや発想 を提供してくれた友人たちに感謝の意を表しこの論文を締めくくりたいと思う。 ほんとうにありがとうございました。 - 30 - 参考文献 田川建三 増谷文雄 『キリスト教思想への招待』 梅原猛 勁草書房 2004 年 知 恵 と 慈 悲 <ブ ッ ダ > 』 『仏教の思想 角川書店 1968 年 加賀谷寛 『イスラム思想』 1986 年 大阪書籍 監修・岡本栄一 『ボランティアのすすめ』 編者・遠藤克弥 『現代国際ボランティア教育論』 中田豊一『ボランティア未来論』 角田禮三編 天野貞祐 シェストフ 『今日に生きる倫理』 上野修司訳 資格試験研究会編 森口秀志編 昭 和 45 年 勁草書房 1 9 67 年 1983 年 1 9 67 年 法政大学出版局 公務員試験「速攻の時事」 『これがボランティアだ!』 2 0 04 年 2000 年 トルストイとニーチェ』 『行為の構造』 2 0 05 年 2 0 00 年 明治図書 栗田出版会 『善の哲学 『偽善の倫理』 勉誠出版 参加型開発研究所 『ボランティア教育のすすめ』 九州大学哲学研究室編 福田定良 ミネルヴァ書房 実務教育出版 晶文社 2 0 05 年 2001 年 h t t p: / / w ww. o pie f . o r. j p/ 0 55 _ e du ca t io n / b o o k 0 3 . h t m l ( 2 0 0 5 / 11 / 22 ア ク セ ス) h t t p: / / w ww. o s . r im . o r. j p/ ^ n ico la s / g a k k o u k y o u ik u t o b o ra n t ia . h t m l( 2 0 05 / 11 / 2 2 ア ク セ ス ) h t t p: / / w ww. n u is . a c. j p/ ^ h . s a s a k i/ n g o / co lu m n 2 0 0 2 / c - a ra i1 . h t m l( 2 0 0 5 / 11 / 22 ア ク セ ス ) h t t p: / / w ww. in t e rq . o r. j p/ s u n / t a j i/ co lu m n b o ra n t ia . h t m - 31 -
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