架空生物を用いた新たな生物教育教材の開発

日本科学教育学会研究会研究報告 Vol. 29 No. 5(2015)
架空生物を用いた新たな生物教育教材の開発
Development of new teaching materials for biology using fictitious organisms.
○佐藤祐太朗・武村政春
SATO, Yutaro・TAKEMURA, Masaharu
東京理科大学大学院・科学教育研究科
Graduate School of Mathematics and Science Education, Tokyo University of Science.
[要約] 現行の理科に関する学習指導要領では、小・中・高のいずれにおいても、思考力・表現力の育成
を図ることが目標とされており、これらの育成のために、言語活動を充実させることが重要であるとさ
れている。そこで本研究では、思考力や表現力を育成する方法として、モデリング活動に注目し、
「生物
の進化」分野で架空生物を用いたモデリング活動を開発した。大学院生と高校生を対象に本教材の実践
を行い、活動前後で質問紙調査を行った結果、生物の進化に関するイメージや意識の改善が見られた。
本研究会では開発したモデリング活動の紹介とともに、教材完成を目指した展望を述べる。
[キーワード] 生物教育、進化、ミス・コンセプション、モデリング、架空生物、授業実践、質問紙調査
1.はじめに
平成 26 年度現在、小・中・高等学校学習指導要
リングは、モデルに対して、①予測②比較③洗練
領―理科編のいずれにおいても、学生の思考力・
という一連のプロセスをディスカッションを中
表現力の育成を図ることが目標とされており、こ
心とした言語活動の中で複数回行うことで、考え
れらの育成のために、言語活動を充実させること
や意見、アイデアを整理し、導く活動である
が重要とされている。また、中学校理科生物分野
(Hoskinson et al., 2014)
。
や高等学校生物において、論理的な思考と表現力
生物分野の中でも「生物の進化」分野は、長期
の育成は共通する重要な課題であるとされている
的な変化の結果生ずる現象であるため、実験的な
(石井ら, 2012)
。石井らは、このような課題を解
検証が不可能な分野であり(佐藤ら, 2005)
、観察
決するには、
論理的な思考や表現力が必要であり、
を行うにしても時間的・空間的なコストが掛かり
これに基づく問題解決能力が必要であるとしてい
(Royer & Schultheis, 2014)
、実感を伴った実験や
る(石井ら, 2012)
。しかし、理科に関する思考力
観察が行われていない。山野井らが高等学校教員
や表現力については、様々な定義づけがされてお
を対象に行った Web アンケート調査でも進化に
り、確立した一義的見解があるわけではない。そ
関する実験はほとんど行われていないことが分か
こで本研究では、生物分野における思考力や表現
っている(山野井ら, 2013)
。また「生物の進化」
力のことを「生物の現象や用語を正しく理解し、
分野は、アメリカや日本を中心にして多くの間違
ある現象や図・表を客観的に捉えて、出合ったこ
った概念理解(ミス・コンセプション)が報告さ
とのない現象に対しても、自分なりの考えとその
れている分野でもある(Bardapurkar, 2008;山野井
根拠を表現すること」と定義した。
ら, 2011)
。
思考力と表現力を育成する方法として、モデル
アメリカやイギリスでは生物の進化を学ぶため
(図・イラストや表のこと)を用いたモデリング
にコンピュータ上で操作を加えるシミュレーショ
活動(Schwarz et al., 2009)が知られている。モデ
ンソフトウェアなどが主流であるのに対し、日本
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では実物を対象にした観察や実験が主体のために、
よる生息地の予測を行った上で、班内で言語活動
生物材料に制限があり、かえって教材の自由度が
を行いながら予測を行う。これと同時に予測した
制限されている(佐藤 & 大鹿, 2005:武村 & 山
生息地に生息する実在の生物や、ツチノコの形質
野井, 2012)
。
が部分的に似ている実在の生物の特徴や写真との
一方、これまでに生物の学習方法として「地球
「比較」を行う。そして班内と教室全体でディス
上に存在しない架空の生物」を用いた教材がいく
カッションを行い、自らの予測の「洗練」を行う。
つか開発され、実践されている。これらの生物は
これらを繰り返し行うことで、思考力と表現力を
生命が存在しないために、生体材料とは異なり、
育成する活動とした。
教員が様々な工夫を自由に施すことができ、教材
4.教材の実践
利用の目的ごとにカスタマイズできる上、学生の
4-1.大学院生を対象にした実践
興味・関心を惹きつけやすいという特徴をもって
私立 T 大学大学院教育系研究科の大学院生を対
いるとされる(武村 & 山野井, 2012)
。
象に、
予備的な活動実践を行った。
実践の目的は、
2.研究の目的
活動に必要な時間の調査と、比較段階で提示する
本研究では、架空生物のことを「現在の地球上
実在生物の例を知るためである。従って大学院を
に存在しない生物で、主に人間が自らの創造力で
対象とした実践では具体的な実在生物との比較は
作り出した生物」と定義し、架空生物を用いて思
行わなかった。また、活動前後で質問紙調査を行
考力と表現力を育成することのできるモデリング
うことでモデリング活動の教育効果について検証
活動の開発を研究目的として、モデリング活動の
した。
開発と実践、
その教育効果に関する調査を行った。
実施時期:平成 26 年 6 月
3.教材の開発プロセス
授業時間:90 分(質問紙調査を含む)
3-1.架空生物の選択
実践参加者:大学院生 14 名
モデリング活動の題材として、
未確認生物の
「ツ
4-2.比較実在生物ワークシートの作成
チノコ」を用いることとした。ツチノコは最もポ
大学院生を対象にした実践で登場した予測アイ
ピュラーな架空生物の一種である上に、日本各地
デアを参考にして、比較する実在生物の写真とそ
で様々な言い伝えやエピソードを持ち合わせてい
の形質や特徴を書き表したワークシート(WS)
るため、利用しやすいエピソードを教員が選択す
を作成した。
ることで、生物の様々な分野において応用可能で
4-3.高校生を対象にした実践
あると考えたためである。本研究では、生物の進
生物の進化を学習した高校生を対象に茨城県立
化についてツチノコを用いたモデリング活動を扱
M 高等学校で授業実践を行った。この実践の目的
い、自然選択や適応など進化の重要な概念に関す
は、教材の主な対象者となりうる高校生を対象に
る思考力・表現力の育成を目標とした。
高校教員による授業実践を行うことでモデリング
ツチノコに関するエピソードは様々であるが、
活動の改善点を発見すること、作成した WS の検
本研究では
「体長約 30 センチメートルで四肢がな
証を行うことである。また、大学院生対象の実践
く、夜行性で、目が小さい」という形質を選択し
と同様に活動前後で質問紙調査を行い、モデリン
た。
グ活動の教育効果について検証した。
3-2.実践の方法
実施時期:平成 26 年 9 月
生徒(学生)を 4~5 人一組で班分けを行い、
「も
授業時間:55 分(質問紙調査を含む)
しツチノコが存在したのならば」という仮定のも
実践参加者:高校生 9 名
とで、ツチノコのイラストを提示し、その生息地
4-4.質問紙調査
についての「予測」を行う。はじめに学生個人に
質問紙調査の質問項目として、①生物進化に関
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する履修状況(選択肢)、②「進化」という単語に
5-2.高校生を対象とした実践の結果
対するイメージ(自由記述;単語のみも可)
、③学
5-2-1. 高校生の進化履修と実践への評価
生にとっての「進化」の意味(自由記述)
、④意欲
生物の進化に関する授業の後にモデリング活動
的にモデリング活動に参加できたか(5 段階評価)
、
を行ったため、実践に参加した高校生全員が生物
⑤モデリング活動を通して生物の進化に興味を抱
進化について学習したと回答した。モデリング活
いたか(5 段階評価)、⑥生物進化に関する正誤問
動に意欲的に参加できたかという質問には 5 段階
題 11 問(○×で回答)を出題した。②・③・⑥の
評価において平均 4.56 であり、標準偏差は 0.58
項目は活動の前後の両方で評価の比較を行った。
であった。また、活動を通して生物進化に興味を
5.実践の結果
もてたかの質問には 5 段階評価において 4.78 であ
5-1.大学院生を対象とした実践の結果
り、標準偏差は 0.42 であった。
5-1-1.大学院生の進化履修と実践への評価
5-2-2.高校生の進化に対するイメージ
モデリング活動に参加した大学院生のうち高校
「進化」という単語に対するイメージとして、
あるいは大学の授業内で生物進化を学習したこと
ゲームに関する記述は少なく、代わりに人類進化
のある学生は 14 名中 8 名であった。
モデリング活
に関する記述が目立った。例えば「サルからヒト
動に意欲的に参加できたかという質問には 5 段階
に進化した」という間違った記述も見られたが、
評価において平均 4.21 であり、標準偏差は 0.76
人間の進化や文明に関する記述は目立っていた。
であった。また、活動を通して生物進化に興味を
5-2-3.高校生にとっての進化の意味
もてたかの質問には 5 段階評価において 4.14 であ
大学院生に見られたミス・コンセプションを代
り、標準偏差は 0.64 であった。
表する「成長・強化・改良」といった単語の記述
5-1-2.大学院生の進化に対するイメージ
は少なかった。活動の前後を通して「環境」や「適
「進化」という単語に対するイメージとして、
応」という単語の登場が見られたが、やはり文脈
活動前にはポケモンやデジモンといったゲームに
から判断すると、大学院生と同様に目的論的な記
関する記述が多かったが、活動後はゲームに関す
述が目立ち、モデリング活動による具体的な教育
る記述が大幅に減少した。
効果は見られなかった。
5-1-3.大学院生にとっての進化の意味
5-2-4.生物進化に関する正誤問題
活動前の質問紙調査では生物進化のミス・コン
生物進化に関する正誤問題正解数の変化を、活
セプションの代表例である「成長・強化・改良」
動前後で比較した。集団の大きさが N=9 と、大学
を意味する単語を記述した大学院生が多かったが、
院生よりもさらに小さかったため、偏差の正規分
活動後にはこれらを意味する単語は減少し、
「環境」
布を仮定しないノンパラメトリック検定
や
「適応」
といった単語が登場するようになった。
(Mann-Whitney の U 検定)を行ったが、有意性
しかし、文脈的な判断をしてみると「環境に適応
は認められなかった。
するために進化した」という目的論的な記述が多
6.考察と展望
かった。
6-1.考察
5-1-4.生物進化に関する正誤問題
開発したモデリング活動を用いた実践では、意
生物進化に関する正誤問題正解数の変化を、活
欲的に活動に参加する学生が多かった。また、多
動前後で比較した。集団の大きさが N=14 と小さ
くの学生が活動を通して「生物の進化」に強い興
かったため、偏差の正規分布を仮定しないノンパ
味を示した。多くの学校教育では、意欲的に活動
ラメトリック検定(Mann-Whitney の U 検定)を
することや活動に対する興味は学生自身を評価す
行ったが、有意性は認められなかった。
るだけでなく、教育や教材を評価する上で最も重
要な規準の一つである。その点で、モデリング活
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動への意欲や興味は、これが優れた教材と評価で
様にこの場を借りて感謝を申し上げます。
きる点であると言えるだろう。また、大学院生を
対象にした実践では、
モデリング活動を通して
「進
引用及び参考文献
化」に対するゲーム的なイメージからの脱却や、
・Bardapurkar, A : Do Students See the “Selection” in
明らかなミス・コンセプションからの改善が見ら
Organic Evolution? A Critical Review of the
れたが、ミス・コンセプションの完全な改善には
Causal Structure of Student Explanations,
至らなかった。一方で高校生を対象とした実践で
Evo. Edu. Outreach, 1(3), 299-305, 2008.
は、モデリング活動を通して具体的な教育効果は
・Hoskinson, A. M., et al : Bridging physics and
見られなかった。しかしながら、本教材が、学生
biology teaching through modeling. Am. J.
がミス・コンセプションから脱却し、正しい概念
Phys., 82(5), 434-441, 2014.
理解へのイメージや態度の変化のきっかけになる
・石井照久ほか 3 名 : 中学校理科の生物分野と高
ことは示唆された。
校生物で指導上難しさを感じる事項と改
6-2.展望
善方法に関する考察, 秋田大学教育文化
大学院生・高校生を対象に行った 2 度の実践は
学部教育実践紀要, 34,145-156, 2012.
いずれも 14 名、9 名と少人数であったため、本研
・Royer, A. M., & Schultheis, E. H. : Evolving Better
究はあくまでも予備的な実践の域を出ない。その
Cars:
Teaching
Evolution
by
Natural
ため、生物進化に関する正誤問題正解数に関する
Selection with a Digital Inquiry Activity,
活動前後の比較では、比較的母数の小さい集団を
Am. Biol. Teacher, 76(4), 259-264, 2014.
対象としたノンパラメトリック検定を用いても有
・佐藤崇之・大鹿聖公 : 教科書分析と教材研究か
意性の判断ができなかった。また、大学院生は半
ら見た高等学校生物における進化の単元
数近くが生物の進化を学習していない状況であっ
に関する一考察, 広島大学大学院教育学
たが、出身の学部は理学部系が多く、学習してい
研究科紀要第二部, 54, 17-24, 2005.
ないにしても、ある程度の生物学的教養が身に付
・ Schwarz, C. V., et al : Developing a learning
いていると予想できる。また、高校生も「生物」
progression for scientific modeling: Making
(4 単位)で「生物の進化」について学習した直
scientific modeling accessible and meaningful
後にモデリング活動を実践したため、両者にとっ
for learners, J. Res. Sci. Teaching, 46(6),
てある程度の知識がある状態で行われた実践であ
632-654, 2009.
った。今後は、思考力・表現力の育成に繋がった
・武村政春・山野井貴浩 : 架空生物を利用した高
かを評価する評価規準の設定を行った上で、いく
校・大学における生物教育の可能性と展望
つかの実践を本格的に行い、統計分析したいと考
について―いくつかの事例における教育
えている。
効果の分析から-, 科学教育研究, 36(3),
7.まとめ
292-307, 2012.
開発した架空生物を用いたモデリング活動の実
・山野井貴浩ほか 3 名 : 高校生物Ⅱの授業が進化
践は、
「生物の進化」分野において学生のミス・コ
の理解に及ぼす影響 -現行の学習指導要
ンセプションやゲーム的イメージからの脱却のき
領に基づく進化教育の課題を探る-, 生物
っかけになりうることが示唆された。
教育, 54(3), 369-382, 2011.
8.謝辞
・山野井貴浩ほか 2 名 : 高校生物Ⅰ・Ⅱの教科書
高等学校での実践授業を提供して頂いた茨城県
に掲載されている観察・実験の実施状況―
立水戸第一高等学校石川臣紀教諭をはじめ、授業
教員対象 WEB アンケートを用いた調査―,
実践に参加してくださった大学院生、高校生の皆
白鷗大学教育学部論集, 7(2), 373-389, 2013.
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